quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

2011年04月

キリストの変貌の意義


人はキリストの姿を思い浮かべるときに、十字架上に磔にされた長髪で痩せ型の人物を想像するものである。
イエス自身「男が長い髪をしていれば、それは不名誉だ」とも語っていたことからすると、絵画の中で周囲の男性よりも長髪の人物として表されるキリスト像の信憑性はどうなのかという疑問が生じるであろう。

また、このような姿がどのように固定化されていったかについては幾らかの興味をそそられもしよう。

それにしても、我々が思いに留めておくようにと使徒ペテロがその第二の手紙で述べたところのキリストの姿がどのようなものだったのだろう。

ペテロはそこで「夜が明けて明星があなたの心に上るまで、闇に輝く光明として、それに注意を向けているのがよい」としている。(ペテロ第二1:19)
この言葉の中の注意するべき「それ」とは直接には「預言の言葉」のことであるが、文脈を眺めてみると、ペテロ自身が目撃したひとつの異象に読み手の注意を促している。


それは、キリストがペテロたち使徒の三人を伴い「高大な山」と呼ばれる名称が明かされていない山に登ったときのことであった。
この以前にイエスは弟子らの中には「人の子が王国のうちに到来するのを見ないうちは、けっして死を味わうことのない者らがいる」と前置きされている。(マタイ16:28/ルカ9:27)

数日のうちにイエスはペテロのほか使徒ヤコブとヨハネを伴い、その「高大な山」に四人で登るのであった。
その山がタボルであるとか、いやヘルモンだという議論にはここでは関わらず、より注目すべきことに焦点を合わせよう。


さて、その場所が頂上なのか中腹なのかは記述にないが、山中で夜を迎えたときのことであった。
祈っているイエスは輝きを帯び始めたのである。そのとき眠気に襲われていた使徒たちであっても、山の中での暗がりで見るその様はまことに際立ったものであったに違いない。

マルコによれば着衣が輝いて「どんな洗濯人もできないほど白くなった」といい、ルカは「煌くように輝いた」そしてマタイは「光のように眩かった」というのである。

それだけではない、さらに驚くべきことが起こっていた。それはイエスの容貌の変化である。
顔も輝いていたのだが、相貌が変化するというからには、それは単に「モーセの顔が輝いた」という旧約の域をも超えている。

つまり、イエスという肉の人を離れた「イエス」の姿である。
そして天から「これはわたしの子、わたしの愛する者である。わたしはこの者を是認した」との声があった。


その場面には栄光を伴ったふたりの人物が加わる。
輝くモーセの姿、そして煌くエリヤの姿であった。
このふたりはイエスの左右に立ち、会話を始めたが、その内容はイエスの「エルサレムからの旅立ち(或いは「脱出」)」についてであったとルカが明かしている。(ルカ9:31)


ペテロがこの異象を通して『預言の言葉は確かなものとなった』と書いた背景はここにある。
イエスの天への脱出は、モーセとエリヤつまり律法と預言者らを封印することになるのだろうか。それら律法と預言書の意味するところはキリストの身の上に尽く成就し、他の何者にもその栄光が与えられることはなくなったからである。後は、キリストが地上の務めを成し遂げ、エルサレムから生き返って地上を去るばかりであったろう。

このモーセとエリヤと伴う異象は、三使徒の証人を得ることで、バプテストのヨハネの証しを超え、イエスが約束のメシアであることの最大の証しとなったであろう。天での栄光の一端は、こうして使徒たちにだけは示されたのである。

これを目撃した使徒らにとって、その場に現れた二人の人物がモーセとエリヤであるとの認識が異なることはなかった。古代の人が復活したのだろうか?

ヘブライの宗教観からすれば、死者は「眠りに就く」のであって(その人自身の)霊魂がどこかで活動することはない。(伝道9:5.6.10)

それゆえ、これは復活ではない。驚嘆のうちに居ながらもペテロはこの輝かしい場面に臨在することを良いことだと叫びながら、この場面の存続を願ったのか三つの天幕を建てさせるよう願う発言をしたのだが、しかし、これはペテロが霊感を受けて口にした言葉ではなかったようである。

第六世紀*から言われているように、モーセとエリヤが『律法』と『預言者』を代表しているのであろう。確かにパウロは、キリスト・イエスを指して『しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とに証しされて現された。』と述べ、「メシア信仰」という神に関する新たな領域が加えられたことを指摘している。(ローマ3:21-22)*(聖証者マクシモスからとされる)

そうであれば、その二人の人物との語らいのなかでの光芒は、共にキリストが地上の物事を成し遂げて、帰天した後の栄光の様を描き出しており、ペテロは、その光景に圧倒されつつ、その光景が永く続くことを願い、『天幕を』張りたいと言い出したのかも知れない。


やがて白い雲がこの場面全体を覆い、それが晴れてみると、そこにはいつものイエスひとりが佇んでいた。このすべては幻であったのだ。

この恐ろしいほどの場面に打たれたように頽れていた使徒らを、いつのもイエスは手を差し伸べて助け起こした。これらは幻であったが、しかし、意味のない幻視などではない。聖書の神は無駄な奇蹟を起こさない。

そのうえ、この幻視がありがたい霊験あらたかな「奇跡」とされてしまい、効能を求めて巡礼される場所に堕することも避けられた。
つまり、この場所が山もろとも特定されぬことで、却って俗に堕した種々の『巡礼地』などのように祭り上げられないゆえに、その意義を高く保てるよう導かれているのではないか?


イエスはこの変貌の幻を自らが生き返らされるまでは口外せぬよう三人の使徒には固く禁じたが、後年使徒たちを通してこの出来事は共観福音書に記録され、ペテロは第二の手紙の中で、この厳粛な幻の持つ意義を語っているのである。

ペテロはこの「荘厳な栄光」を「父なる神から誉と栄光がイエスにもたらされた」のだと書き、我々三使徒が聖なる山でそれを目撃したのであると証言している。(ペテロ第二1:17)

彼はこれを敷衍して、キリストの力ある臨御は、人が考え出した巧妙な作り話などではけっしてなく、我々が目の当たりにしたように人を超えて真正なものであるという。(ペテロ第二1:16)

そして、ペテロのこの手紙の初めにあるように、イエスの帰還を待つ信徒らが注意をはらって見つめているべきは預言の言葉であると訴えているが、それを証しするものはこの変貌の幻であるという。

また、後にペテロの通訳となって活躍したマルコは、その福音書になかでこの山中の変貌について『ここに居る者になかに、神の王国が力をもってすでに来ているのをまず見るまでは、決して死を味わうことのない者たちがいる』というイエスの事前の言葉を書いている。
この言葉からすれば、変貌とは、キリストが王の権威を持った姿を表しており、地上では磔刑に処されたイエスではあったが、天に於いては輝かしい栄光に包まれているのを、三使徒が目撃したということになる。(マルコ9:1)このマルコの事前の言葉が最も分かりやすい


加えて、モーセはイスラエルに偶像を禁じるにあたり、「あなたがたは(シナイ)山で神の何の形も見なかったのであるから・・」と述べた。(申命記4:15)
では、我々は使徒たちの目撃した変貌のイエスを差し置いて、磔刑に処された姿のキリスト像を作るばかりか、心に置き続けてよい理由があるだろうか?



-◆ヨハネは栄光のイエスを再度見る--------------------------

荘厳な変貌に立ち会ったもうひとりの使徒ヨハネは、再び最晩年に至ってこれに似た経験をしている。
それはドミティアヌス帝(ティトゥスの弟)の迫害を受け、エーゲ海の小島パトモスに島流しにされている現地でのことであった。

それを記した「ヨハネ黙示録」では、彼は霊感によって(将来の)「主の日」に入りラッパのように響き渡る大声を聞く。

その声の主を見ようと振返ると、そこに「人の子のような者」が居た。その髪は雪のように真っ白で、目は燃え上がる火のように輝き、足先は炉の中で白熱する真鍮のようであった。その顔は正午の太陽のように燦然と輝き、その口からは抜き身の諸刃の長剣が突き出している!


この姿を目視したヨハネは、かつての山中のように力を失って倒れたのである。
そして、あの時のように「人の子のような者」は彼を助け起す。
そして言う「恐れるな。わたしは死んだが、こうして永遠に生きている」(黙示録1:9-)

以前、イエスは使徒たちに『もうすぐ、あなたがたはわたしも見なくなり、また、しばらくしてわたしを見る』と語っていたことをヨハネ福音書は述べている。(ヨハネ16:16)

これは、イエスが死によって彼らから分けられ、復活によって霊者となることを表していよう。使徒たちも同じ道を辿って天で再び共になるからである。(ヨハネ第一3:2)

使徒ヨハネは、ペテロたちと共に山中の幻によってそれを垣間見、黙示を与えられるに際し、更にもう一度、栄光のイエスを見たのであった。



-◆イエスを肉の様によって見ない--------------------

イエスについて、パウロは「神は御子を罪深い肉に似た様に成し、(人の)罪に関して遣わして、肉に対して有罪の告発を行った」と述べている。

また一方で、「彼(キリスト)が二度目に現れるのは罪の犠牲を離れてのことであり、むしろ救いを切に待ち望む者らに対してである」と記して二度目の現れが贖いを終えて、次は「救出」するための来臨であり弱い肉体を必要としないことを教えている。(ローマ8:3/ヘブル9:28)

また、イエス自身「世はもはや自分を見ない」と語っており、パウロは天に戻ったイエスを「人はだれも見(直視)たことがなく、また見ることができない」「大能者」を「王の王、主の主」と呼んでいる。(テモテ第一6:15-)

パウロは人であったキリスト・イエスを見ていないし「肉によってキリストを知ってきたとしても、もはやそのような仕方で知ろうとは思わない」と書いている。(コリント第二5:16)

それは、イエスが地上にあった姿がどのようなものであったにせよ、それは既に然したる意味を成さないということであろう。
では、メシアが苦しみの期間をもって見事な栄光を勝ち取った後に、信奉者の見つめるべきは何であろう?



-◆見つめるべきキリストの姿------------------------------

それで我々は、死に至るまで神への忠節を全うし、神と人類への愛を立証した後のキリストをどのように看做すべきかが理解されてくるのである。

それは、イザヤ53章が「その姿に栄光がなく」と書いた「哀しみのメシア」の姿とも、十字架上でうなだれる姿ともおおよそかけ離れたものである。

人として描き出せる範疇をはるかに超え、刑死後40日を過ぎた後のイエスは、もはや人に姿を現さない霊の存在「大能の神」(エル・ギッボール)として人の近づくことのできない光に住んだのである。(イザヤ9:6)


三人の使徒は「聖なる山」でキリストのこの威光ある姿を先がけて目視し、それは将来の「王国の到来」の大いなる期待となった。以後けっしてキリストの姿を見ることはない地上の人間は、ただ使徒を通してこの変貌のイエスを知らされているのである。

即ち、キリスト教徒が辛抱して待つための助けが預言の言葉なら、キリストの帰還の臨御(パルーシア*)は夜の暗闇に一点ひときは強く輝く「光明」であり、やがて人類はその「明けの星」を心の夜空に見ることになる。


では混迷の続く世にあって、人類の真の希望は何であろうか?
それは神が古代から準備し、周到に事を進めてきたメシアという偉大な救済計画か、或いは人間の知恵の編み出す虚しい応急処置か?

冷静に考えるなら、メシアの処刑に使われたとされる十字架や、そのおぞましい刑具上の死せるイエスの姿を眺めて真に喜ぶのはいったい誰なのであろう。(創世記3:15)

生きている方を弔っていてよいだろうか。あるいは生ける大王について、以前の最も弱い処刑された状態やその処刑のための道具を眺めるべきどんな理由があるだろうか?
むしろ復活の後、イエスは強大な霊者として天に在り、今や全地への王権を佩びた人間社会への、その畏怖すべき御厳の大王としての復讐の臨御を待つばかりである。


それゆえあの夜の山中での変貌は、地上に残る者らにキリストの威容を知らせ励ましを与えるものであろう。
では、我々はペテロの言う「明けの星」、強力な大王メシアの臨御(パルーシア*)に希望を置くだろうか?

「明けの明星」は、やがて地平線から現れる圧倒的な正午の太陽の燦然たる光の、そのわずか一点ながら暗きの中での強力な反射、必ずや到来することになる光漲る真昼への確かな予兆である。

これを見るまでは、我々は三使徒の目撃し証した奇跡の神々しい変貌のキリストを思いに留めて、預言の言葉を確かなものと信ずることができるのである。

かつての死せるイエスばかりを弔っている場合ではないではないか。
それは却って不敬であり、且つ危険なことである。
終末において『人の子は天の雲に乗って来る』が、その裁き主はこの世の終局までもけっして『天の雲』から降りるとは記されていない。それが示すものは、キリストの終わりない不可視性ではないだろうか。

もし、初めの現れのような人としてのキリストの姿を期待するのであれば、それは地上に現れる反キリストへと容易に誘われ兼ねない危険があろう。(マタイ24:23-28)

栄光のキリストを目の当たりにし、それを三使徒が証しする意義は、人類一般が二度とイエスを見ないことを補っているといえよう。





                                     林 義平
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*「パルーシア」は現場に在って物事に関わる状態を指す。
キリストは現在は不在(アプーシア)であるが、やがて帰還を果たすことになり、それは徒ならぬ時となるという。
⇒ 「今日のキリストの不在と将来の帰還 ミナの例え



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山上の垂訓における律法の成就


旧約聖書中のはじめの五巻、モーセを通して与えられた見事な条文法である「モーセの律法」は、成立以来ユダヤ人によって精密に写本されて伝承しているので、今日のユダヤ人も「トーラー」と呼ばれるこの律法に含まれるヘブライ文字七万九千八百五十六字をそっくり神に返すことができるという。何と天晴れな事であろう。

だが、その六百近い法律条項で成る「モーセの律法」がキリスト教徒に対してはどのような位置を占めるのかになると、キリスト教界では多くの見方が並存している。

宗派によっては律法は過去のものとなったとされ、過去の遺物を眺めるかのように時折に参照される程度にされている。

他の派では、教えの原則は学べるものであるとされて、似た規定をキリスト教に中に設けているところもある。

また別の宗派では、キリストの「わたしが律法を廃棄しに来たと考えてならない」との言葉から、律法は依然有効であるとされる。

特に多くの人々が従っている見方は、律法の中でも最初の十ヶ条である「十戒」だけは守るべきである、というものであろう。

その理由は、律法の最初の十ヶ条のみが人手によらず書かれて、それらの文字が二枚の石板として切り出されているゆえに、特別なものであるからユダヤ人でなくても信徒は皆従うべしとのことらしい。
それに加えて、先のイエスの「廃棄しない」との発言も十戒の残存を裏付けている、ともされるかも知れない。

その当否を、ここで論ずることはするまい。

だが、キリストが律法について述べた背景や真意を探る試みをしようと思う。

その言葉は、マタイ福音書5章から始まる所謂「山上の垂訓」に含まれている

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「わたしが律法や預言者らを廃棄するために来た、と思うべきではない。廃棄するためではなく成就(満たす)ために来たのだ」。

「真にあなたがたに言うが、律法の一点(ヨッド[י]またはイオータ"i”の下点)一画が消入るよりは天地が消え去る方が先になろう。

れゆえ、その最も小さな条項一つであってもそれを廃して人々に教える者は、「天の王国」のおいて「最も小さい者」と呼ばれよう。

だが、逆に行うように教える者こそは「天の王国」において「大いなるもの」とされるであろう」。

「真にあなたがたに言うが、あなたがたの「義」が書士ら(ソフェーリム*)やパリサイ人に勝らなければだれも「天の王国」に入ることはないのだ」。(マタイ5:17-20)

(*あるいはトーラー筆写の専門家で律法に精通していた「抄経博士」

確かに、イエスは律法を廃止するのではないと述べ、律法は捨て去られるものではなく、以後も残らず存続すると言っている。そして実際ユダヤ人によってトーラーは、確かに地上にも保たれている。


他方、「律法の終わり」を説く一番の論客は何と言っても使徒パウロである。
「キリストは律法の終わりである」と端的述べたのは彼である。(ローマ10:4)
またパウロは「律法はキリストに導く養育係*であったが、・・(イエスへの)信仰が到来し(成長を遂げ)た現在、我々はもはや養育係の世話のもとににはいない」。とまで言っている。(ガラテア3:24-25)(*邸宅の家庭教師、子弟の守役


では、イエスとパウロに「矛盾がある」というべきなのだろうか?

だが、パウロは別の箇所でイエスに近い発言をしている。
「では、我々は自分の信仰によって律法を廃棄するのだろうか?いや、けっしてそうはされないように!むしろ我々は律法を確立するのだ」。(ローマ3:31)


もちろんイエスがギリシア語で話したわけではないのだが、福音書のその言葉では「成就する」(あるいは「満たす」[プレーモゥ])という表現が用いられたのに対し、パウロは「確立する」(あるいは「セットアップする」[ヒステーミ])というように、両者の用いた動詞は異なるものの、「廃棄せず」にそれを仕上げてゆくようなニュアンスで律法を肯定していることを双方に見出すことはできる。


では、パウロの意図するところをもう少し探ろう。
つまり、彼がどのように律法を評価していたのか、という点についてである。



-◆「罪」を知らせる律法------------------------------

使徒パウロはキリストに従う者らが律法に拘束されることを極めて強く指控しているが、一方で、「律法は聖なるものであって、義に適い有益だ」とも述べており、また「律法が聖なるものであるゆえに、自分は肉に属し罪の下にある」というのである。(ローマ7:14)

その肉については「肉は律法に服従しておらず、実際服し得ない」と彼は律法ではなく自らもまとう「肉体」の方を責めている。(ローマ8:7)

したがって、「肉は律法によっては義と宣せられることはない」とも言い「律法によって罪の知識が生じる」という。
パウロは自身について更に語り「自分には善いことを行いたい願いはあるが、肉の傾向がそれをさせず、却って自分の願わない悪へと引いてゆく。・・それゆえ悪を行わせるのはもはや自分ではなく自分の内に宿る「罪」である」という。(ローマ3:20/7:20)


そして「我らはユダヤ人もギリシア人も皆が罪にあるとの告発をした」というのである。
つまり、モーセを介してイスラエルに与えられた律法は、人類の誰にも宿る肉の罪に関する知識を与え、「義人がいない」ことを証したと述べている。(ローマ3:9)

使徒ペテロも律法について『先祖もわたしたちも負いきれなかった軛』 と呼んでいるのであり、誰が律法を全うできたとも見做していないのである。(使徒15:10)


では、罪に関してキリストたるイエスはどうであろう?
ペテロはイエスを指して「罪を犯さず、口に欺きが上らず」と言い、パウロも「罪を知らなかった方をわたしたちのために罪とし、その方によってわたしたちが神の義となるようにしてくださった」と書いており、ヨハネはイエスが贖い代であるゆえに「彼に罪はない」と断言する。(ペテロ第一2:22/コリント第二5:21/ヨハネ第一3:5)

この「罪」というのは、個別の罪を指すのではない。それは我々人類に共通する倫理的欠陥のことであり、それは今このときにも行われている無数の不義、不公正、あらゆる倫理の欠如した事柄の淵源であり、これを絶たない限り、この世が不道徳に支配されている状況は一向に改善しない。聖書によれば、この「罪」(原罪)は人類の始祖から遺伝したもので誰もが避けようのないものである。(ローマ5:12)

それゆえ、その罪を除き去るイエスはアダムの子孫とならない方法で人として世に来る必要があった。

そうなると律法は、我々に罪の存在を教え、そこから逃れ出ることに注意を向けるものであったことになる。
同じ律法には祭祀規定の中に「贖罪」の儀式があったが、それはイスラエルの罪に対して動物の血(魂)の犠牲を要求するものであった。

そのようにして、律法はアダムの子孫である人が皆「贖罪」される必要をも教えていたのである。

しかし、動物の犠牲は人の罪を贖わない。それでいつまでも律法祭祀で動物の犠牲が繰り返されていたのだが、あるいは贖罪の必要のない人が現れて、律法のすべての条項をことごとく超えたとしたら、その者こそ真の贖罪として供される「子羊」となりうる者であろう。(ヘブル10:1-4)

つまり、「律法」が真の贖いの犠牲となる命(魂)を指し示すのである。
律法を超える者であれば、我々生身のアダムの子孫には到底追いつけないほど高い倫理基準をもっていよう。そうでなければ、人類の贖い代とはなり得ない。



-◆書士やパリサイ人に勝る義----------------------------------

さて、「山上の垂訓」のイエスの言葉に戻ってみよう。
『真にあなたがたに言うが、あなたがたの「義」が書士らやパリサイ人に勝らなければだれも「天の王国」に入ることはない』。

「天の王国」が神の傍らに仕えることを意味するのであれば、それは罪ある肉なる者であって良いはずもない。神の倫理基準に達していなければ、天で神の前にただ死を意味するのみである。


したがって「天の王国」に入る者は、あらゆる人間の倫理基準よりも高い位置に居なければならない。
書士やパリサイは律法の墨守、つまり自らの努力によって己を義とする者らであるが、これらの者たちの倫理が見掛け倒しのものであったことはイエスによって暴露された通りである。

イエスの倫理基準は律法主義者より遥かに高いものであったから、彼ら律法主義者が自らの皮相的な義に拘泥する限りイエスと衝突することは避けられなかった。しかし、それは何と無謀な挑戦であったろう。

そして、イエスは律法を引用しつつその真髄ともいうべき意味を知らせて言う--------

「あなたがた(ユダヤ人)は、『汝、殺すなかれ』と(律法で)聴いている。しかし、わたしは言う。自分の同胞に対して怒りを抱き続ける者は皆、法廷で言い開きを求められることになる。また、同胞に言うべきでない侮辱の言葉をかけるものは最高法廷に引き出されるであろう」。「捧げ物のため祭壇まで来ていたとしても、同胞の誰かが自分に反感を抱いていることを思い出したなら、捧げ物をそこに残しておいてでも、まずその仲間と和睦して、しかる後、供え物を捧げよ」。(マタイ5:21-)


こうして、イエスは律法の「人を殺してはならない」の条項一つから、その「殺人」という字面を超えて遥かに「敵意」や「反感」にまでも大きく適用範囲を広げているのである。怒りの感情の中に殺意の萌芽があることはアベルを殺めたカインの時以来、誰にも明らかにされてきたことではないか。

イエスはそうした反感を解消するためならば、イスラエルの聖なる神の前に捧げ物を留め残すことすら不敬とはならないというのである!いや、むしろそうすべきなのであろう。
だが、これは神への聖なる祭祀を非常に重視したユダヤ人には聞いたことのない(あるいは容認しがたい)教えであったろう。彼らは神を祭り上げつつその意志を逸したのである。(マタイ23:16-)


イエスは続けて別の律法についても語る。

「『あなたがたは姦淫を犯してはならない』と(律法で)聴いている。しかし、わたしは言う。女を見続けてこれに情欲を抱く者は、ことごとく既にその女と姦淫を犯している」。

「『妻を離縁する者は離婚証書をこれに与えよ』と言われている。だが、わたしは言う。淫行以外の理由で妻を離縁する者は、彼女を姦淫に曝すのであり、これを娶る者も姦淫を行うのだ。」



「『誓約をして履行しないことがないように』と聴いている。だが、わたしは言う。一切誓うな・・ただ、あなたの是は是を、否は否を意味するようにせよ。・・これ以外の言葉は邪悪な者から出るのだ」。


『目には目、歯には歯を』は同等報復を表す言葉として有名ではあるが、この律法の言葉からイエスの導き出す倫理基準は、まるで正反対ともいえるものである。
自分から外衣を奪おうとする者には内衣をも与えてやるように、と言うのである。
邪悪な者には手向かわず、右の頬を打たれるなら左の頬をも差出し、徴用する者(おそらくは不正な役人)が一里を行かせようとするなら、その者と共に二里を行け、とも言う。


『隣人(同胞)を愛し、敵を憎め』*とユダヤ人たちは聴いていた。
これは自分の仲間を大切にすることが一般的常識に属するものであることを引き合いに出している。

だが、イエスはこうした一般的倫理を超えてゆく。「あなたを愛する者らによくしたからといって、いったい何をしたと言うのか?悪人とて同じことをするではないか」。「あなたを圧迫する者のために祈り、敵を愛せ」。「我が父が完全であるようにあなたがたも完全となれ」。
(*この言葉「敵を憎め」は直接には律法に無いが、「同胞を愛せ」の部分から宗教領袖らによって拡大解釈され、それを民衆は聴いていたらしい

この垂訓の中で、イエスは律法の中の幾つかの掟を挙げたに過ぎないが、これほどの倫理観に誰が間違いなく付いて行けるのだろう?
ここでイエスのしたように律法を再確認してゆくなら、いや、十戒だけであってすらその精髄たる基準を示されれば、我々のような罪ある人間はまったく窒息してしまうであろう。
我々は努力を重ねてすら、まったく嘘をつかないで済むこともできず、神の基準には到底及ばない。まして『天の父のように完全であれ』と言われて、誰がそうできるものだろうか。

本当に、山上の垂訓のようにして律法に込められた精神を追求するのであれば、あらん限りの宗教的情熱を傾けて条文の表面を守ろうとする書士やパリサイ人たちの誇る「義の業」であっても浅薄なもの、いや無駄なあがきとさえ言わざる得ないだろう。


そして、イエスはもちろん自らの述べた言葉、その律法の精神に違わず生きて、律法の要件を充分に成就(満た)し地上の命を終えた。その偉大な生涯は使徒らの深い畏敬の内に福音書に記録されている。

当然のことながら、律法に込めらている神の優れた倫理観が廃棄されるべきものであるはずもない。これらのイエスの指摘の方法に沿って律法を見直すとするなら、確かに一点一画たりとも欠けてよいとは思えないのではないだろうか。



-◆過重な求めからの解放------------------------

それだけではない、律法は肉なる罪ある人間を糾弾し続けるが、その同じ律法は罪から開放されることの大きさをも教えてくれるのである。

こうしてイエスが「成し遂げた」律法は、罪ある人類にはとても手に負えるものでないという真相も明らかにされた。(ローマ3:9)
人が垂訓の教えを守ろうとしても、それはユダヤ人の律法遵守を遥かに越えて難しいのであり、我々はそれを「努力目標」にするのが精精ではないだろうか。

それゆえ、キリストはこのように人が達することのできない律法の要求から人々を救い、自らの罪のない命を犠牲として捧げることで、罪ある人間を律法によらない実現可能な「信仰による救い」へと導いたのであった。

それを可能にしたのが「犠牲の死」である。つまり神と人との仲介者イエスが人類の罪を一身に負って、エルサレムの神殿の捧げ物のような身代わりの死を遂げたのである。


人は自分に「罪」の宿痾のあることを認め、神の前に謙るなら、それを神は許される。
その条件は、「罪の贖い」であるキリストの犠牲に信仰をもつ以外にない。

つまり律法の役割とは、人には罪があり、神の前に犠牲が必要であることを指し示し続けたところにあり、律法の役割は、キリストの犠牲の死を以って終わりを迎えたと言うことができる。(ローマ1:17/ヨハネ14:6)

パウロはそのことが示す事の重大性について人々の注意を促し、「キリストは律法の終わり」と述べたのであり、律法の要求はキリスト・イエスによって一度満たされ、その上で犠牲の死を遂げたゆえに、人々は律法による義を追い求める必要から解かれ、身代わりに死んだイエスを一重に受け入れる「信仰」によってのみ、罪ある人間が「義」(神の倫理基準)に至る方途が一条残されたのである。

つまり、「垂訓」を語るほどの全き義人たるイエスが身代わりの死刑を受けて、律法によって死刑宣告された数え切れぬ罪人を不問にして牢から解き放つというのである。(ヘブル2:15)

これは大変なことである。定められた死刑を牢で待つ囚人が身代わりを立てられて無罪放免される思いとはどのようなものであろうか。
しかも、その罪の許しの先には、神の倫理性に達した人類がある。
パウロはそれを[カリス](「無報酬の賜物」i.e「過分のご親切」)と呼んでいる。(ローマ3:24・・)

キリストひとりだけが果たし得た崇高な「死」の貴重さや、贖われる世の罪の多さ大きさ酷さを考えるなら、その言葉にならないほどの寛大さを前にして、我々は再び罪にまみれたいなどと思えるだろうか?

「山上の垂訓」の中でイエスが律法に示したものは、神の倫理基準が持つ煌くばかりの純粋性と、それが我々には憧憬はできても、到達は不能の圧倒的高みにそれが存在しているということである。

今や律法は、そのようにしてキリストの支払った贖いの値の高さや貴重さを証明しているのである。

加えて『あなたがたの「義」が書士らやパリサイ人に勝らなければだれも「天の王国」に入ることはない』との言葉が、「新しい契約」に預かるべきユダヤ人に語られているところは、まさにその言葉の通りであり、天に召され、天の王国に属し、キリストと共に神の御傍に仕える者となる以上、彼らは「山上の垂訓」に語られたその基準、天界の者の持つ聖なる状態に達することがなければ相応しくない。

「イスラエル」と呼ばれる全人類を祝福することになる「アブラハムの裔」、またYHWHの聖なる什器を担う者が『聖なる者』でなくてはならないと「預言者たち」は繰り返して語ってきたが、メシアの言葉によって、その聖性の如何が垂訓の中で示されたのである。

もちろん、彼らが聖霊注がれた「聖徒」となっても、肉である限りこの高い倫理水準に達することはできなかったに違いない。
だが、彼らが自力でその高みに上ることはできなくても、「キリストへの信仰」が彼らを「新しい契約」へと導き、キリストの犠牲が適用されて、それほどの倫理の高みに達したものと仮承認されたであろうし、その『キリストの丈の高さ』に達することを目標に努めようとすることはできたはずである。

それにしても、契約の下には居ないはずの我々も、キリストのときのユダヤ人と同じ過ちを犯す危険に注意するべきだろう。
つまり、自分の信じる正義や教条に固執して、信仰という神からの無償の「義」を拒むことであり、それはキリストの犠牲の成し遂げた偉業の何たるかをまったく理解も感謝もできてはいないことの露呈である。

モーセの律法の墨守による「義」に固執して、却って「神の義」を得損なったユダヤ人の轍をわざわざ踏むべき理由はないのだが、自らの正義感の赴くままに、他者を裁く人間共通の傾向に注意せねばならない。
確かに人には自ら正しいと思えることがある。だが、それは神の前に誇れるほどのものとはならない。にも拘らず、なお、神は人が何らかの条文規則に従うことを喜ぶだろうか?(ローマ9:31)

もし、『神の義』を求めて『安息』に入らないなら、それは神の贖おうとされている人類全般の「罪」が見えていないのであり、自分は品行方正でキリストの犠牲は要らないと言うに等しいだろう。(ヨハネ第一1:8)
むしろキリスト教徒は、律法主義に後退することなく、「自らの義」を立てることを止め、「安息」に入る機会がキリストにより開かれているのである。(ヘブル3・4章)

つまり、自分の属する「宗派の義」を捨て争いを後にし、「人の義」ではなく「神の義」を求める生活に入り、神の安息に入ることができるであろう。
「宗派の義」を捨てるとは、その派の律法のような戒律に固執せず、キリストの律法たる「愛の掟」だけを負って平和を求めることである。(ローマ13:8/テモテ第二2:24)

それでも、我々は古代の律法の条項のひとつひとつを見るとき、そこにイスラエルに与えられた神の倫理精神を探ることができ、自分の良心をその方向に伸ばすよう努めることはできるであろう。これが律法に学ぶべき副次的事柄であろう。

つまり、イエスなら個別の律法条文から何を導き出しただろうかと自問し、その精神に思いを留めて生活上に努めることである。それは我々の内面の人となりを幾らかは改善し、(帰還する)キリストに備えて、自己に調整された資質を培う一助となろう。また、人に対してではなく、神に対して『清い良心を願い求めること』を示すことにもなろう。(ペテロ第一3:21)


加えて『モーセの律法』はただ空しく終わったわけでない。

確かにパウロが『キリストは律法の終り』と宣言したように、律法は既に終わったものではある。彼が『神は「新しい」と言われることによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。』と予告した通り、パウロを含むキリストの世代と共にエルサレムの神殿は滅んでしまい、以後の律法祭祀の履行は不可能となった。(ローマ10:4/ヘブライ8:13)

では律法はイスラエルに何も成し遂げなかったかと言えばそうではない。
律法によってイスラエルの中からただ一人の義人が生み出され、律法の全体を『成就し』自らの業によって聖なる者であることを証したナザレ人イエスを指し示したことに於いて大成功を収めており、『その一点一画も』朽ちないと確かに言えるのである。

故に、このキリストとなった方は、自らを『聖とした方』であり、その他の者らは『聖とされる』べきなのであり、すべては律法によって自らを義をした方の清さの分け前に預かる以外に『罪』から逃れる術がない。(ヘブライ2:11)

それゆえ、人は神だけでなく、出エジプトのイスラエルたちがモーセに信仰をもったように、この『救いの創始者』に信仰を働かせるべき大きな理由も存することになったのである。(出埃14:31/ヘブライ2:10)

更に終末ともなれば、信仰の対象として『聖霊』に大きな役割も与えられることになろう。
それに対する信仰が世界を裁くことになるからである。(マタイ10:18)

こうしてイスラエルに与えられた律法は、『聖なる国民、王なる祭司の民』を出現させる礎とはなったのであり、民の現れのためには『新しい契約』の補助を要したとはいえ、一人の人物を生み出していたのであった。





          新十四日派   © 林 義平
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パウロはテモテに「律法の条項も無法な者や無規律な者らには、適切に用いれば有益である」と述べている件があり、健全な福音に属さない者には、律法の外面的強制(全てではないにしても)に効果を認めている。
しかし、これは対象となる人々の倫理レベルが「愛の掟」に達しない、相当に低い場合のことを述べており、例外的処置と思われる。(テモテ第一1:8-11)
しかし、このことが彼の「キリストは律法の終わり」と述べたことを覆すとは到底思えない。


⇒ キリストの救いの以前に「律法」の果たした役割


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