quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

2011年05月

価値観への警鐘 「種まき人の例え」


ガリラヤ湖畔で語られた八つの例え話から

以下「種まき人の例え」、「からしの木」と「パン種」は ⇒ ローマ国教化で失われたもの 

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同じ本を読んでも人によって受ける益は同じにはならないようだ。
特に聖書はその差が非常に大きいとキリストは注意を促しているかのようである。

その「種まき人の例え」は、実に簡明な内容であるが、同時に人々への警告ともなっている。
この例えの上辺だけを聞いて通り過ぎるとすれば、まさにこの例え話を聞いた意味そのものを失うであろう。

イエスは当時の中東の農夫のするような撒種を引き合いに出した。
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それは大雑把な撒き方なので、ある種は畑から飛び出し、他の種は表土の下に岩のある地面や野茨の茂みにも落ちてしまう。

畑の外の踏み固められた畦道に落ちた種は地中に入ることなく、踏み付けられ鳥たちの餌となってしまう。

土の下が岩場である地面に落ちた種は根を伸ばすことができず、やがて枯れる。

茨の中に落ちたものは茨が覆ってしまい、実らない。

だが、良い土に撒かれた種は成長して実を結び、三十倍、六十倍、百倍の実を生み出す。

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これだけの話をしただけで「耳のある者は聴くように」と言って、イエスは集まっていた群衆へのこの話を終えてしまう。


この話は共観福音書中にそれぞれ納められているが、マタイとマルコはこれが「海辺」つまりガリラヤ湖畔で、イエスは船に乗って岸辺の群集に話している。それは多くの人々に声が届く効果があったともされている。したがって、聴衆は少なくなかったのである。

だが、その内容の希薄さが気になったのか、近くの使徒や弟子はこの「種まき人の例え」の意味をイエスに尋ねた。

すると、イエスは質問した弟子らにだけはその意味を明かすのであった。
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種は「言葉」であるという。マタイは「王国の言葉」としている。
それが撒かれるのは地面は人々を指している。

道に落ちた種は、「言葉」を聞いても「意味を悟らない」なら、邪悪な者あるいはサタン・悪魔が来て「信じることがないよう」「心に撒かれたものをさらってゆかれる」者である。

岩地の上に落ちたものは、根がないので一時的に成長しても、試練に遭うとつまずいて離れ去ってしまう者を表している。

茨の中に落ちた種とは、世の煩い事や富や快楽への欲望が撒かれた「言葉」を塞がれてしまう者のことである。

そして、良い土に撒かれた種は、「良い心で言葉を聴き」、「その意味を悟り」、「しっかり保って耐え忍び実を結ぶ者」のことであるという。

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イエスの下に集まった群集といえども、その言葉がすべての人に益をもたらす訳ではない。この例えはそう警告していたのである。

イエスは例えの意味を尋ねた弟子らにだけこう言った。
「あなたがたは神の王国の神聖な奥義が与えられているが、外の人たちはすべてが例えで生じる」。
それは、彼らが見ても見えず、聞いても聞こえず、その意味を悟らないためであるという。
(マタイはここでイザヤを引用している)

イエスの下に集まった群集をイエスは弟子らとの対比で「外の者」と呼び、イエスの理解の埒外に置いたのである。

そこには、信者を集めたいキリスト教の指導者らが人々に思い描かせるような、誰にも優しく個人の傍に寄り添うコンパニオンのようなイエスの姿はない。

しかし一方で、意味を尋ねた弟子らは幸いであるという。
なぜなら、「多くの預言者や義人たちは、あなたがたが見ているものを見たいと欲しながら見ることなく、聴きたいと願いながらそれを聴けなかった」。

かつて生存した多くの預言者らはキリストについて預言しながらもキリストを見ず、その語るところも聴くことは叶わなかった。それはアブラハムのような約束を受けながら、その成就をみることなく死の眠りについた義人たちも同様である。

古代の彼らのように神聖な物事に対する鋭い価値観を有した人々ですら受けることのなかった優れた益に与っているのは、今やイエスに例え話の意味を尋ねた弟子たちであった。
群集がユダヤ人であり、彼らが伝統的に「諸国民への光」(オール・ラゴイーム)となることを願うとしても、その資質が問われたのである。


しかし、イエスは続けて弟子らに言う。「あなたがたはどのように聞くかに注意深くあれ」(ルカ
「自分の聞いている事に注意せよ。あなたがたの量り出しているその量りであなたがたも量り出されるだろう」。「持っているものは更に加えられるが、持っていない者は持っているものまで取り去られるのである」。(マルコ

これらの言葉は、例えの上辺だけを聞いて去っていった群衆と、意味を尋ねた弟子らの大きな違いを際立たせるものである。

群集が聞いたイエスの言葉はその意味を成すことなく消えてゆく。それは神やキリストの意図であるよりも、聞く側に問題があることへの鋭い指摘であったのではなかろうか。
もし、このあまりにも単調な例え話を聞いて、この意味は何かを問わないで済むとすれば、それは神聖な物事への関心の低さを露呈していなかっただろうか。「神はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」のは何故であろう?

群集はイエスの行う奇跡を見て、あるいは彼がキリストではなかろうかと思いつつ、イエスの下に集まったのであろう。あるいは興味半分の輩も混じっていたのかもしれない。

だが、いずれにせよ、キリストは神聖な物事への深い関心を求めたのであり、群集は例え話によって試されたのであろう。実にイエスは例えで話さないではいなかったという


--◆言葉の価値を目指し--------------------------

イエスはこの例え話に添えて次のようにも言っている。
灯火をつけてからそれを器で覆ったり、寝台の下に置いたりはしない。むしろそれを燭台の上に掲げ、人が見えるようにする。隠されているもので明らかにならないものはなく、秘められているもので知られずに終わるものはない。(マルコ/ルカ)

あるときイエスは弟子らにこう言っている。「わたしが闇のなかで告げたことを光の中で言え、わたしが耳打ちしたことを屋上から言い広めよ」(マタイ10:27)

今日、イエスの言葉は弟子らによって聖書中に納められている。世界中に最多頒布されたこの書は世界中で入手ができるだろう。社会一般でもイエスのいくつかの言葉は常識のように知られており、幾らか進んで日頃から聖書に親しむ人々も少なくはないだろう。


だが、今でも弟子らと群集の違いは存在し続けていないだろうか?
つまり、例えの上辺だけを聞いても実を結ばない仕方でイエスの言葉に触れているかも知れないということである。その違いは価値観にあるのではないだろうか?


困難や迫害を耐えて「言葉」を保つとすれば、その人はそれらを克服させるだけの価値をその言葉に見出していなくてはなるまい。
マタイ福音書では、この例え話には他の六つの例え話と共に語られているが、その中に「畑に隠した宝」と「価の高い真珠」の話も含まれている。
それらの主人公は「天の王国」を見出すと非常な価値をそこに見出すのである。

それぞれ自分の持つすべてのものを売り払い、「天の王国」を買っている。
しかも、それに十分な満足を示しているのである。

では、聖書を読むときにそこまでの価値観を得ることがあるだろうか?

それは気ままに雑誌を眺めるようなことでは到底無理であろうし、通読するだけでも、あるいは論議のために多くの言葉を覚えることをしてすら、自分のすべての持ち物に勝る価値を見出すことは難しいであろう。

必要なのは継続的研究と熱意だろうが、それを行わせるのも価値観と思える。

したがって、聖書の研読は価値を探し出すようになされる必要があろう。幾らか見出された価値は人を再び研読に向かわせる。こうして次第に神聖な物事の価値を深く知ることができるようになるだろう。

聖書の研読を組織や人任せするべきではない。また、教団の人づての教育に満足していてはいけないだろう。
それは、他の人の研究の成果であり、知識は増えるとしても、我々自身を神に向かせるのは何と言っても本人による神へのアプローチではないだろうか。つまり、神からの書を前に神に向き合うのである。
それが知識の吸収で終わるなら、どれほど自分のものとなろう。信仰するのは自分自身ではないだろうか。

「知識は人を高慢にならせ、愛は人を引き起こす」とパウロは言う。
研読の目的が自派の信仰箇条の擁護や宣教目的であれば、知識を超えた先の価値に到達すること、特に「愛」については相当に難しいであろう。

だが、何が人に価値観を培わせるのかについて説明するのは難しい。
愛や善良さなどの個人の内面が反応する。つまり(筆者の現時点では)価値観が育つというほかない。

ソロモン王は「理解を呼び求め、識別力に思いを向けるなら・・銀を求めるように求め続け、隠された宝を探すように捜し出すなら、あなたはYHWHへの畏れを知り、神の知識を見つけ出すであろう」。と述べイエスは「求め続ければ与えられる」と言っている。(箴言2章/マタイ6:7.8)

我々の誰もが、必要なら聖書の原語を尋ね、言葉の背景や民族の習慣に思いを寄せて観想することも行う熱意を示してよいものと思う。
現代はこの種の研究が非常に容易になった。我々は自宅に居ながらにして様々な聖書写本を調査でき、ヘブライやギリシアの原語の意味も見ることのできる時代に住んでいるのである。

その影には、万人の益を願う大らかな意志を持って公開した人々がいる。こうした原語研究は昔には願っても叶わなかったことである。我々は宗派によらず忌憚無く公平に聖書の研究において互いに助け合える時代に入っていないだろうか?もしそうなら、時代の有利さを生かして、イエスに質問をした弟子たちの精神に倣うことができるのである。

解釈は僧職者のもので、信徒はそれを聞くだけだ、などと中世のような発想をしている時代だろうか?
ソロモンは「人の顔は人の顔を研ぐ」と言ったが、現代の我々は皆で研鑽し合えるのではないだろうか。
千年以上も以前に古代のおぼろげでギリシア哲学との境界線もあやふやであったときの解釈を、後生大事にしていたのは過去のことであろう。一部の人々のよらず、キリスト教徒の皆が聖書を検証し、その実体を明瞭に明かすことができる時代がきていないだろうか?

仮に自らの解釈において何かの思い違いをしているとしても、人間の解釈などはどれもそう大したことも無い。
パウロは見解を異にする仲間に対して泰然と構え『もし、あなたがたがどこかでこれ(パウロの述べる見解)と違う考え方をしていても、神はこれをあなたがたに啓示にしてくださるだろう』。と言っている。
聖霊の賜物は人を啓示し、真正な理解を与えるものであるから、神の語るときに人が争う必要もない。

我々は自分にとってより蓋然性の高いと思われることを得心してさえいれば、いずれにせよ、神が再び聖霊を地に注ぐときには真相が知らされようから、自分の解釈に固執せず、その時に訂正すればよいであろう。(フィリピ3:12-15)

失敗を恐れることはない。ギリシア語の聖書本文を刊行した16世紀の大学者エラスムスですら、習うべき教師がおらずギリシア語はぽつりぽつりと独学で始めたのであり、必ずしもギリシア人のように流暢に話せる必要があるわけではない。しかし、エラスムスのギリシア語本文はルターのドイツ語訳、ティンダルの英語訳などへと結実していったのである。

とりあえず、自分の気になる句をひとつふたつ逐語訳などから見るだけでも、それは本当に有意義で、登場人物に一歩近づいたようにさえ感じられるようなところがあるのではないだろうか。

そのような調査は、接続詞ひとつの訳で意味がまるで違ってしまうことにも気付かされ、それゆえ複数の翻訳を身近に置きたいと思わせることになるだろう。
完全なる翻訳などあり得ないし、それを言うなら、原語においてすらヘブライ語からギリシア語に移されたときに概念を変えられてしまった言葉すらもある。ギリシア語は現在進行形が無く、これは相当な訳の違いを起こさせる原因ともなっている。

このように聖書を深く研究したい人々にとって必要になるのは、人間は間違えることを認め、心をニュートラルにして、様々な可能性に柔軟に対応できる気構えであろう。修正に次ぐ修正、これを拒むべきではない。かび臭い宗派の教理などに拘泥していれば、やがてパリサイのように頑迷な敵意の人になってしまうであろう。それはキリストを葬った精神である。

しかし、柔らかな心で知識を増すことは、人の義を去って神に意志に近づくきっかけとなり、その汲めども尽きぬ価値の実体により引き寄せられることになるだろう。それは知識を超えたところにある。

そうすれば、やがて神との関係はかけがいのないものとなり、その意向に沿って生きるよう努めたいと思うようにもなるであろう。(詩篇63:3)
誰であれ、このような内面の変化を神は見過ごすだろうか?

-◆意味のどれほどかを悟り、価値の大きさを知る--------------------------

一方でそれは、自分に都合のよい神ではないであろう。もしそうなら持ち物すべてを替わりに差し出したりせず、持ち物を増やし、世渡りなどを成功させてくれて、「充実した」生涯をおくらせてくれるような「神」ではないだろうか。それは人生への対症療法であろう。

だが、イエスの救いはそのようなところのものではない。
倫理的欠陥という、人類の逃れられぬ根本問題への根本治療、「神の王国」がその意志である。

ここで、同じ聖書を手にしながらも、人は古代のように再び選別されないと言い切れるだろうか。
我々の抱くものは私心を捨てた神の王国への大志か、あるいは個人の安寧か?

使徒パウロは「人々は健全な教えに耐えられず、耳をくすぐるような事を聞こうと、欲望にあわせた教師をかき集め、真理には耳を背け、作り話へと反れてゆく時節が来る」と語っていたが、現代はまことにその方面と思しき軽い宗教は流行となっている。それを指控はしない。だが、そこに孕む危険は知らせたいとは願う。(テモテ第二4:3)

聖書や他の何にしても、深入りをせずに雰囲気を楽しむのは生き方上手なのかもしれない。

だが、神の言葉に関する限り、最終的に持っているものまでもが失われるとは、まったくの損失であろう。
それは、知りかけたことも意味を持たないという価値の消滅である。それらの言葉に、実は猛烈といえるほどの価値があったとしたら、通り過ぎただけの自分をどんなにか後悔することであろう。


イエスは例え話を終えるに当たってこう言ったものである。
「耳ある者は聴くがよい!」


                                  林 義平
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ブログ内の記事一覧

初期キリスト教徒の様子 第二世紀の小アジア


まず、なぜ小アジアか?といえば・・
そこにキリスト教の完成を見るからである。
(このブログで「小アジア」と称するのはローマ帝国のアシア州とその近隣を意味する)

教父学のジャン・ダニエルーも述べるように、第一世紀後半から第二世紀にかけて、小アジアのキリスト教は「異常なほどの盛隆を見ていた」とされている。

この時期のキリスト教を見回すと、キリストの弟ヤコブが率いたユダヤ、ペテロの影響のあったアナトリア北部や東方、パウロの育てたギリシア本土やローマ、これらの地方はそれぞれの指導者を西暦60年代半ばに相次いで失っている。
したがって70年以降、十二使徒で残っていたのが文書資料に出てくるのは、トマス、アンデレ、タダイ、そしてヨハネとフィリポなどが挙げられるが、分けても使徒ヨハネの存在は大きい。

殊に、ペテロ、ヤコブ、パウロという主軸となって働いた弟子たちの亡き後、西暦70年のユダヤとエルサレムの滅びを免れたヨハネを迎えたアナトリア東部の小アジア地方にキリスト教の最後の発展があった。
それは何と言ってもヨハネの福音書と書簡、そして黙示録という、聖書を締め括るに相応しい見事な著作群にその趨勢が見られる通りである。

使徒ヨハネはイエスの弟ヤコブの率いるユダヤ・キリスト教に以前は属していたであろう。
それはパウロの異邦人キリスト教よりも旧式なユダヤスタイルに甘んじていた。
しかし、西暦70年のユダヤとエルサレムの滅びは「ユダヤ・キリスト教徒」の幾つかの習慣を終わらせるものとなった。
彼らは神殿を失ったので、そこでの祭りも犠牲も意味を失って自分たちがどのような教理に行くべきかを知りたいと願っていたであろう。
そして、黙示録の中のイエスは、神殿の聖所を歩くかのように、小アジアの七つのエクレシアである七つの燭台の間を歩む姿を見せるのであった。それは『エルサレムでもないところで父を崇拝する時』の到来を示唆してもいるであろう。(ヨハネ4:21)

ユダヤのキリスト教徒は西暦66年のローマ軍の一回目の攻囲の前後からユダヤとエルサレムを去って「山地」トランスヨルダン方面に脱出した。
現代に伝えられているのは、当時デカポリス(十城市)に数えられたペッラ市への逃避がある。(ルカ21:20-22)

エルサレムの滅びの後に、使徒ヨハネはイエスの母を伴いおそらくデカポリス地方を経由して、小アジアのエフェソスに落ち着いたであろう。比較的近くのヒエラポリスには使徒フィリポが家族を伴って定住したようである。また、福音書で使徒フィリポと共に行動することの多かった使徒アンデレも小アジアに居たという資料も伝わっている
(AD65年,最晩年のパウロがテモテをエフェソスの監督に任命し、テモテが80歳まで生きたという伝承が正しければ、テモテは当地で生存していることになり、ヨハネたちが宗教的安定性があったこの地を選んだとも考えられる。但し、他の資料ではこの件は明瞭でない)

そうなると、キリスト教揺籃期の柱であったエルサレムのエクレシアの伝統は、ローマの攻囲を避けてデカポリス地方に移り、その後、小アジアに移った観がある。

さて、ユダヤとエルサレムの滅びの以前には、パウロを追い出すほどユダヤ人の先鋭化が進んだエフェソスであったものの、ローマ軍のユダヤ攻撃に前後して、帝国各地のユダヤ人居留地も襲撃や迫害を受けており、エフェソスでも急進的なユダヤ主義は収まっていたであろう。


そのエフェソスに腰を落ち着けた使徒ヨハネではあったが、さらにニ十年以上後の晩年に至って、ティトゥス帝の弟ドミティアヌスの在位中(81-96)の迫害を受け、エフェソスの沖合いのパトモス島に流刑にされる。

しかし、ここで驚くべき且つ極めて重要な啓示を受けた。それは文字に記されて、今日「ヨハネ黙示録」と呼ばれ、今日の新約聖書の最後を占め、許多の謎を含んでこれを封印している。
この書を著した後、ネルウァ帝の時(96-98)に恩赦を受けたヨハネはエフェソスに戻り、周囲に勧められて、あの霊感に溢れる福音書を書き記したという。それに三通のヨハネの書簡も小アジアを通して伝えられている。

時代は西暦第二世紀に入るところであったが、ヨハネはトラヤヌスの治世中(98-117)まで生きたと云わる。

このように、小アジアは使徒ヨハネの声の残響していた場所であり、それは黙示録冒頭の七つのエクレシア名からも充分推察できるところであろう。
つまり、パウロやペテロ、そしてイエスの弟ヤコブ亡き後、唯一小アジアは、教理が聖霊時代の最後まで伸張し続けた地域であって、「聖書の完成」に与った人々がそこに居たと言える。

そのため小アジアのキリスト教は、他の地域のキリスト教と比べはっきりとした特徴をもっていた。
それは年に一度の「主の晩餐」の儀礼と「千年王国」の教えであり、やがて第二次ユダヤ戦役以降にエルサレムのエピスコポスまでも異邦人が任命されるところとなり、パレスチナにあっても失われることになるキリスト教徒のユダヤ性も小アジアにはなお息づく。

聖餐については、イエスとの最期の晩をその懐で過したヨハネにとって、ユダヤ暦ニサン月十四日における年一度の晩餐への思いはゆるぎなく見え、それゆえ彼の影響のあった小アジアのキリスト教徒は主の晩餐の日付から「十四日派」と呼ばれ、また黙示録の「千年期待望」も当初は他の土地に見られないものであった。この点、「ヨハネ黙示録」そのものを受け入れない地域も少なくなかったのである。

しかし、今日の聖書全体を眺めるなら、小アジアにおける最後の使徒ヨハネを以って本来のキリスト教は完成されたと見てよいであろう。聖霊の賜物を通じたキリストの監臨の最後の時である。
(聖霊の去った後は教理の進展はなく、むしろギリシア化など、非ユダヤ人たちによる教えの蹂躙の時となって今日まで続いているように見える)



それでは、二世紀中葉の小アジアのキリスト教徒の様子を想像してみよう。
これは小アジアだけでなく、当時の各地のキリスト教徒に共通に見られた習慣も含むものである。


-◆あつまり-

各都市にはキリスト教徒の会衆(エクレシア)に監督(エピスポコス)が任命され、集まりの運営には長老たち(プレスビュテロイ)が諮り、それを執事ら(ディアコノイ)が行った。選挙は行われなかったようである。
(監督と長老団の関係は地域によって幾らかの違いがあったが、小アジアでは執事らは監督に直属していたと言われる)

エクレシアに、聖霊の賜物を受けた「聖なる者たち」(ハギオイ)が居れば、エクレシアの集会の内容はこれらの人々の聖霊の賜物による異言や預言などが供された。
この点でパウロは生前に、コリントスのエクレシアには「異言」や「預言」ばかりでなく、あらゆる聖霊の賜物が揃っていることを褒めていた。

加えて旧約聖書(ギリシア語訳)や後には福音書、またパウロらの手紙からの朗読があり、文字が流暢に読め、かつ声の通る者が朗読者となっていた。朗読の後にその講釈があり、これは「知識」の賜物を持つ聖徒、あるいはプレスビュテロイ(長老)の務めであったろう。
殉教者ステファノはこの「知識」の賜物を得ていたのであろう。ペンテコステから然程経ていない時期に、「神殿に神は住まず」というユダヤ人にしては驚くほど斬新な理解をみせている。

このように聖霊はすべての弟子らを教えるものであった。
地上に居たときのイエスに会っていないパウロが「主はこのように言う・・」と述べるとき、それは彼に宿る聖霊を通してイエスの言葉を聴いていたのであろう。しかし、ヨハネの頃には偽の霊感が起こるようになってきており、聖霊ではない別の霊の言葉を語る者や、聖徒と装う不道徳な偽聖徒が利得を得ようと現れてきた。
それはパウロも警告していたのだが、ヨハネの晩年にはその圧力は非常に強くなっていたことが窺える。その背景にはハギオイ(聖徒)の減少が明らかである。

それに加えて、グノーシス運動の台頭がある。この創唱者のひとりケリントスなる人物はヨハネと同じ世代のユダヤ人であったという。このユダヤからの教えは、ユダヤとエルサレムを失って自分たちの神を逆恨みするようなところがあり、現実逃避的教理を有していた。つまり、創造物はすべて失敗作であり、造った神も劣った存在者であるという。

キリスト仮現説を唱えるこの派の活動は伸張し始めたが、ヨハネは「キリストが肉体で来たことを告白しない霊感」を強く指弾した。イエスその人を肌で知るようなヨハネにとってそれはまったく受け入れられない教理であったに違いない。

しかし、キリスト教徒には聖霊の降下が続いていて、全体の教理を導き、聖霊の賜物を持つ人が居る間は破壊的分派は成功していない。
殊に使徒ヨハネの影響の残る小アジアは、グノーシス主義の影響から免れた数少ない地域となったという。そのような異なる教えを持ち込もうとする者には「挨拶の言葉もかけてはならない」というヨハネの警告は功を奏したのだろうか。


さて集会では、聖霊の賜物によってあのペンテコステのときのように聖徒たちが一斉に話し出すと集会全体の益にならないからと、一人ずつが数人だけ話すよう、かつて勧告し秩序付けたのはパウロであった。

それは聖霊の賜物が憑依状態に陥るものではないことをも教えている。賜物が臨んでいる間も、それぞれが自分の意識を別に持っており、賜物をコントロールできたことをパウロがはっきりと書いているのである。(コリント第一14章)
しかし、その賜物を持つ人々は減少しており、ヨハネの晩年には小アジアでも次第に背教への危機に瀕してゆくことになる。



集まりは夜間にも行われていたようで、遠くのエクレシアから誰かが訪問すると、話を聞くためにその都度、昼夜を問わず不定期に集まりを催したようである。
ユダヤからの使徒らを受け入れた小アジアのエクレシアでは、旧来通り第七日の安息が行われていたようである。
聖餐(主の晩餐)は、小アジアでは年に一度、ユダヤの除酵祭に日付を合わせていたことをエフェソスのポリュクラテス(c196没)が証言している。
(二世紀初め、シリアのアンティオケイアのイグナティオスがこれらをユダヤ的と批難していたが、それは「パスカ論争」に発展している)

集会場所は大き目の個人の家が用いられた。
古代の家は、よほど貧しいか狭い市街地の家でもなければ、今日の電気や水道、ガスなどの設備がない分、火を扱う場所や井戸などの台所の広さは今日の住宅の比ではない。古代の彼らが近代的住宅を見れば、「ウサギ小屋」のように揶揄されても仕方ないだろう。
加えて奴隷たちや家畜類を用いていたのであちこちに大きなスペースを必要としたから、百人ほどの人々が集まれる部屋をもつ家庭は少なくなかったようだ。

しかし、信徒が増え、エクレシアに余裕ができると皆で資金を集めて集会のための建物を手に入れた。当時のギリシア圏には哲学者たちが多く、自分の学校(私塾)を所有していたが、あちこちの寂れた学校跡は適した集会場所となったであろう。かつてエフェソスでは、シュナゴーグでのユダヤ人一半の反対行動を避けようとしたパウロが、無名な哲学者テュランノス(ツラノ)の講堂の空き時間*を利用したという。*(西方写本のあるものは、パウロが午前11時から午後4時までこの講堂で講話していたと註釈している)

他に、公の集まりではないようだが「愛餐」は互いにもてなす習慣である。
それは人種や貧富や知己の有無といったさまざまな違いを越えて友誼を深め、持てる者が持てない者を歓待する宴であったが、今日の先進国の教会で見られるような飽食者同士の料理を競うような自己満足の「愛餐」とは様子も意義も異なるだろう。
このためキリスト教徒は、見知らぬ土地への旅行においても便宜があった。(これはやがて偽信徒に悪用されることになったが、使徒ヨハネやキリストの弟ユダはこれに警戒するように求めている)

ユダヤ教にはモーセによって年三回の祭りなど(大会)が規定されていたが、ユダヤ人キリスト教徒であっても既に神殿を失っており、キリスト教にはこれ類するものがなく、宗教的理由でどこかに向かうとしても個人的な旅行が多かったように見受けられる。(但し、ユダヤ人キリスト教徒がユダヤの暦を用い続け、今日のユダヤ人がするように家庭でその日を祝わなかったと言い切ることはできない)

集会の方法はそれぞれの地方によって幾らかずつ異なっていたであろうから、旅をして各所で交流することは新鮮さを得る機会にもなったであろう。



-◆ 書 物 -

聖霊が去った後の時代の集会については、聖書からの朗読がなされたという。こう述べる殉教者として著名なユスティヌスの時期(c.165没)には、ローマの彼の周囲では、聖霊が集会の内容を導くことは無くなっていたようである。
しかし、朗読の習慣は、諸国の異教のような偶像に香を焚くことなどの儀式中心の崇拝からすれば、キリストが中心に据えられていても、なお「聴いて学ぶ」というユダヤのシュナゴーグの流れを参入者に感じさせるものであったろう。(ローマ10:17)

もっとも新約聖書が今日の形に編纂され始めるのは第二世紀以後のことで、聖書の朗読に供するべく、パウロの書簡群が各地で筆写されつつあったが、実際には現在新約聖書に収められている以上にパウロが多くの手紙を書いていたことは聖書に収められた手紙文からも知られている。
新約聖書が編纂されるまでの弟子らの必要を満たしていた書物として、「十二使徒の遺訓」(「ディダケー」)が読まれてもいたであろう。この書はハンドブックのような案内書以上のものではなく、「経典」とは云えず、また信徒を縛る修道院の規則のようでもない。

小アジアでは、それらが読まれているほかには旧約のギリシア語訳である七十二人訳*が専ら用いられていた。
*(第五世紀、アウグスティヌスの時代に七十人〈セプチュアギンタ〉と略して呼ばれるようになった)
使徒ヨハネの著作群がやがて加わって新約聖書が綴じられるのは更に多年を要したらしいが、小アジアが護持する「黙示録」についてはシリアなど地方によっては受入れに難色を示したところもあった。

その背景として、使徒たち初代の著名な弟子らが世を去る第二世紀半ばから、あちこちで著名な人物を騙る、程度の低く不自然な内容の疑文書が多数噴出してきており、「ヨハネ黙示録」の際立った難解さにも疑いの目が向けられたためである。しかし、聖霊の導きが預言者らの減少に伴って退潮してゆく中にあっては、かつての使徒らの残した真正な著作をまとめるべき焦眉の急が感じられたに違いない。


他方、集まりでは崇拝に関する歌がまとめられていたようである。それがどのようなものであったかは楽譜らしいものも無い時代のため、残念ながら伝えられていないが、ユダヤの詩篇歌の延長線上にあったのかもしれない。但し、当時は器楽は官能的(或いは俗的)とされ、集まりでは採用されなかったという。今日ビザンティン系のギリシア語の聖歌を聴くことができるが、これは第四世紀以来の伝統を継承しているというが、第二世紀のものは、単声のよりシンプルな読誦に近いものであったのであろう。
(後にヨーロッパ中の教会堂に置かれるオルガンは、この時分にエジプトで水力を利用した「水オルガン」の形で存在するようになっていたというが、まだキリスト教と出会っていない)

それはユダヤ神殿のかつての大合唱と管弦楽による祭日の崇拝とは対照的に、こじんまりしたものであったに違いない。エクレシアでの聖歌は、シュナゴーグでのユダヤ教の賛歌に似ていたようで、音程を定めるための先唱者を司式者が務めたところは共通していたと言われる。(これは後のアカペラによるミサ曲にも痕跡を留めている)

初代キリスト教徒の集まりは礼拝の要素はほとんど無く、主の晩餐やバプテスマ以外は「儀式」ではなく、愛を培い聖霊からの知識を分配するような「集会」というべきであったろう。そこで複雑な合唱があったようには思われない。

それでも、霊の賜物の中にはこの点でのもの(霊の歌)があったかも知れない、おそらく楚々とした音の動きの狭い落ち着いた曲調は、次第にギリシア圏各地のあるいはヘブライの音律によって多様化していったであろう。それは中世期から今日まで伝わる八種類の「教会旋法」に痕跡を残しており、この中にも小アジアの地名を見出すことができるが、当地の音楽の繁栄を垣間見るかのようである。

詩を作り出すことにおいてサルディス市のメリトン(c.180没)は傑出した才能の持ち主であった。彼の講話はそのものが押韻された詩を成しており、ヘブライの聖書の故事をキリスト教の上での意味を与える対型論のはしりであったから、タナハを彼が「旧約」と呼んだのはなるほど頷ける。後のポリュクラテスもメリトンについて「彼はまったく聖霊によって語った」と賛意を記している。



-◆信徒と聖徒の構成 -

それぞれのエクレシアには聖霊が灌がれ、その賜物を持つ人々「聖徒」(聖なる者)と、賜物を持たない「信徒」からエクレシアは構成されていた。初期の「エクレシア」では、ほとんどの成員が聖徒であったが、時の経過と共に信徒が増えていった様が見受けられる。第二世紀に成立したとされる外典「イザヤの昇天」では当時のシリアからエクレシアに預言者が絶えたことが伝えられている。

使徒パウロはその書簡の前後の挨拶で、それぞれの人々に挨拶をしている。
例えれば、エフェソスへの手紙の冒頭では「聖なる者たち、及びキリストと結ばれた忠実な者(「信徒」と同義語)たちへ」とあり、コロサイへの手紙には「キリストと結ばれた聖なる者たち、そして忠実な(「信仰ある」と同義語)兄弟たちへ」となっている。
ヘブル人書簡では、内容にその差が現れるようになっているのが観察される。
エクレシア内の信徒と聖徒

会衆がエクレシア、つまり「召しだされた人々」の意で呼ばれたのも、主には聖徒たちを中心として集まりが構成されていたことを窺わせている。
というのも、聖霊の賜物を保持することは、天でキリストと共になることの事前の証(手形)であるとパウロは書いている。

それは、人の側から働きかけができるものではなく、上からの選びによるのであり、人はその条件をさえ付けることができない。
例えれば、パウロの助手テモテであっても、パウロが按手したときに初めて預言の賜物を得たとあるが、パウロが聖霊の賜物を授けたわけではない。

選ばれた聖なる者「聖徒」は、天でキリストと共に「王」(支配者)また「祭司」(贖罪者)となるよう招かれたのであり、彼らの本来の務めは彼らの死して復活した後にある。
その生前に地上で聖霊の賜物を受けたのは、仲間の聖徒を集め出す目的ばかりでなく、聖書教からキリスト教を完成しそのメシアの王国を地に知らせておくことであったろう。

彼らを通して、王国の良い知らせ、すなわち「福音」が伝えられると同時に、王国の完成に至るどの段階に時代があるかが残りの人類に知らされていたからである。(それは現在、キリストの臨御を待つのみとなっている)


-◆ 宣 教 -

当時のエクレシアの集会は、聖徒らの信仰の発露や友誼と宣教がその主な目的であった。
宣教は本来、アブラハムの相続財産である王国を受け継ぐべきユダヤ人に向けられたが、イエスのときと同じくユダヤ人の反応は芳しいものではなかったから、コルネリオ以来、異邦人からの者も聖徒となることが許されたので、異邦諸国民に向けても宣教が行われてゆくようになった。

それで、パウロたちの宣教方法に見られるように当初はユダヤ人の会堂でユダヤ人が宣教を行ったが、これは今日見られるように異邦人による異邦人への宣教が専らとなってゆく。

だが、異邦人同士の新しい方式の宣教方法がどのようなものであったかは資料に明瞭にないが、長途旅行の困難さに立ち向かったことは間違いない。宣教上の未開地へと、勇んで向かった事例が残されている。

また、聖霊の降下のあった時代には、その奇跡的賜物そのものが人々を招き寄せる働きを果たしており、宣教は集会を中心とするものであったように見える。コリント人への第一の手紙の第14章には、外来者が預言者らにその秘密を暴露されてゆき、エクレシアに平伏するシーンが描かれている。

初期宣教に携わる人々の熱意は、パウロやバルナバばかりでなく福音宣明者のフィリポのように聖霊の裏づけによってますます強められたに違いない。聖霊が各地で注がれることによってエクレシアも増え広がり、更に未踏の地へと聖徒らを旅させたことであろう。

 彼らが第一に伝えるべきは、ナザレのイエスがメシア=キリストとして来られたことを世界に知らせることであった。無名であったその名は、パウロの存命中でさえローマ帝室や親衛隊にも広まったことを彼の書簡が記している。他の十二使徒らも世界宣教に旅立って行き、各地で殉教を遂げたが、イエス・キリストの名とその犠牲の死による救いはローマ帝国の領内を越えて広く知らされてゆく。

 遠く離れた地にあってもバプテスマを施し、按手すると聖霊が降り、その地でもエクレシアの開かれる喜びは何事にも増して達成感を与えたことが想像される。
パウロの最晩年には地中海世界からメソポタミアに至る地域でキリストの福音が伝えられていたが、西暦70年の「火のバプテスマ」を経た後は、生き残っていた使徒たちは東西に旅立って行ったとされている。

 トマスはインド方面に向かい、そこで自分の兄弟マタイの著したヘブライ語写本の福音書を見たという。
アンデレはスキティアに、タダイはオスロエネへ向かったという資料的痕跡もある。
 後に小アジアからは、使徒ではないがヨハネの直弟子ポリュカルポスの知人で、スミルナ市出身の高名なエイレナイオスがルグドゥヌム市(現リヨン)に渡り、苛烈な迫害に耐えたゴール族信徒たちを束ねるエピスコポス(監督)となって、南フランスに小アジアの伝統を移植している。
今日、ユダヤ教の聖典を「旧約」として異邦人キリスト教徒の読むべきものとされたことは彼ら小アジア人に由来するといわれる。


-◆バプテスマ-

新規参入者がキリストとその神に信仰を働かせ始めると、教え手によって教理教育が施され、バプテスマへの準備が行われる。
初期にはその準備は簡素なものであったようだが、時代が下るに従い、受洗への準備は儀式的になっていった。

西暦第二世紀頃には、バプテスマは春先の主の晩餐の前後に行われたようである。
それは教理教育の準備段階を経て、前日(あるいは数日)の断食があり、それまでの個人の犯した罪の告白があり、それが許されるよう祈祷がされる。

バプテスマそのものは神と子と聖霊の名において三回水に沈められる。
これはマタイ福音書の最後に明示されているが、三位一体を信じていたわけではなく、そのギリシア神秘主義哲学との混合物が登場するのに、まだ多くの時間と哲学者らの根回しが必要であって、この時分では無縁であった。また、北イタリアから南フランスを経てスペイン北部の地方では水から上がったあとに足を洗う習慣もあったと伝えられている。

更に、水から上がると「ミロン」と呼ばれる香油の塗布が額などに行われたとも伝えられている。
罪の告白と塗油はヤコブの手紙を彷彿とさせる習慣である。

エクレシア内で指導的立場につくことのない女性ではあるが、バプテスマに関しては新たに信徒となる女性たちの用に仕えるためにも古参の女性信徒が任じられて居たようだ。

彼女らはバプテスマでの世話や、女性同士での世話の必要に有用であったことであろう。(パウロは女奉仕者(デイアコノン)として女性フォイベの名を挙げている)


バプテスマを受けると必ず聖霊を受けるとは限らない。
聖霊の有無は周囲からも観察されうるもので、聖徒とは成らず信徒で留まる人の比率は時代と共に増えてゆき、聖徒は希少となりやがて姿を消していった。

二世紀初頭にシリアの護教家クワドラトス(129没)は自身が預言の霊を持っていたが、彼はイエスに病を癒された人が彼の時代(125年頃)、まだ生存していたと証言しており、この時代には「主の奇跡的力」が残っていたことが窺える。


-◆生活様式-

「クリスティアノイ」と半ば蔑称で呼ばれたキリスト教徒ではあるが、彼らを外見で特定することは難しかった。
ユダヤ教徒なら、同じ民族がかたまって居住し、服にある青糸の房縁、また異邦人と異なる食物や作法でそれと知れたが、キリスト教徒は一般庶民と変わらない服装をし、市民と同じく大衆浴場に行き、おそらくは浴場の付帯施設でスポーツも適度に行い、食物に本来禁じられるものはなかった。

しかし、問題がまるでないわけではない。
その一つが外食である。ヘレニズム世界では多神教の神々の神殿が多くの都市に林立しており、人々は供物として多くの食物をその神々に献じていた。
しかし、そのままでは折角の上等な食物も無駄になってしまうので、それらの食物が奉納された後に市場(アゴラ)で売られ、そこは今日のスーパーマーケットの様相で、商品の中には神殿から下げられた「霊験あらたか」なものも売られていた。

また、神殿内にも食堂を付随しているところも多く、そこでは神前から下げられた食物が調理されて供されていた。
そこは一般庶民にとっての今日のファミレスといってもよいようなところであったらしいが、この会食は一般に、その食物を捧げられた神との交友、また崇拝の一環と位置付けられていた。

そのため、キリスト教徒の良心が鋭敏な者は、これらを避けようとして、一度神前に供された食物を共にする「悪霊の食卓」を伴にはしない決意を固めていたし、神殿から下げられた肉を買うことも避けていた。
しかし、その一方で、弟子としての経験が長く円熟した人々は、「食物はすべて創造の神からのもの」と拒む理由はないと見ていたので、兄弟同士が互いを裁いてしまう危険もあった。

これをパウロは、良心の鋭敏な(弱い)人々に円熟した者らが配慮して「つまづかせる」ことのないようにと調整を図っている。そして彼は「自分の兄弟をつまづかせるのであれば、もう二度と肉を食べない」とまで言っている。
つまり、規則を定めてそれを守ることに腐心したユダヤ教と異なり、キリスト教は自らの愛(アガペー)に基づいて自らを律するという、より高度な「愛の掟」を有していたといえよう。そこには権利を主張してばかりの態度は見られない。



-◆無理解と反対-

エクレシアは世界各地で設立されていったが、反対にも遭遇しなければならなかった。
その多くは故国を失ったユダヤ教徒の先導による嫉妬深く陰険なものであったらしい。帝国がキリスト教徒の迫害に乗り出すときにはユダヤ教徒はせっせと告発に励み、当時のキリスト教徒の強烈なユダヤ嫌いの原因を作ったが、その影響は今日まで続いている。

ユダヤの安息日(シャバット)を嫌った異邦人的キリスト教徒はキリストの生き返ったシャバットの翌日(週の第八日)を主日(キュリアケー ヘメーラ)と呼んで安息するようになる。
それがローマの太陽曜日(ディエス ソリス)であった由来が後にコンスタンティヌス帝の喜ぶところとなってゆくが、ヘブライの色彩を残す小アジアはこの習慣を持たなかったので、後々異邦人的キリスト教徒との間に論争が起き、日曜安息を強要するローマ国教化の進展によって小アジア式は圧迫されやがて消滅することになる。
だが、キリスト教そのものが安息日を命じているわけではない。

また、キリスト教の全体は「世間の常識」のようなものによっても反対を受けた。
それは、ローマ帝国の版図が広く、その統治に益するべく各地の神々とローマ諸神とを同一視する「信仰合同」が進んでいたというところが大きい。

ローマが新しい占領地を得ると、そこの信仰を抹殺せず、却って自分たちの神と同定してしまうことで取り込み、被占領民の前でその同じ神に崇拝を捧げてみせることができたのである。これは民心掌握の一便法である。
こうして広大な国境を持つローマは諸国の神々の入り乱れるところとなったが、宗教合同は次第に諸国民同士の絆を形成していった。

しかし、これを肯じない宗教がひとつあった。ユダヤ教である。
皇帝はこれに手を焼くことを恐れ、帝国はユダヤ教を保護教とするのだが、ユダヤ教から更にイエス派という得体の知れない新興宗教が現れてくる。今日なら「カルト」と呼ばれたであろう。

それはユダヤ教とも異なり、服装や習慣で見分けることもできない。
初期のキリスト教徒に十字架は用いられておらず、イエスの姿を絵に描くことさえ避けて、人型(十字形)をかろうじてイエスの印*としていた初期は、偶像崇拝を強く禁忌しており、まして主殺しの刑具に向かって祈りはしない。第二世紀ではキリスト教徒は社会に希薄で、ときに迫害も起こるのであるから、もし首から表象物などぶら下げていれば、それは「逮捕してください」というに等しい愚行でしかない。 *(カッパドキアに多い、これが十字架に発展したのかも知れない。十字架が崇拝に現れるのは第四世紀以降である。)

ただや鳥の簡単な図柄が仲間であることを素早く知らせるささやかなサインであったから、「踏み絵」のような崇拝物を用いた「宗門検め」も彼らには通用しなかったであろう。
当時は極刑として十字架刑は続いており、十字架を自分たちの表象とすることさえ異様で常識外れなことであった。
五世紀以降に始まる十字架を堂々と頚に下げる風習は、ローマ国教化によりキリストを葬った十字架刑が悪と見做され廃止されたこと、即ちキリスト教が「この世」と妥協したことの明確な証しというべきなのであろう。

第二世紀当時の民衆からすれば、この輩はローマ万神に犠牲も捧げず、一般常識たる皇帝への焚香すらもしない奇怪な存在である。もちろん誰も皇帝が本当に神だと信じているわけではないが*、形だけでもそうすることで帝国民は皆仲間だという心地よい共感を得られるものである。*(自らが神であると称えた皇帝ネロ、カリギュラ、ドミティアヌスは皆、弑殺されている)
このような帝国民の「友愛」(フィランスォローピア)を否定するような秘密結社のような連中は神々を認めない「無神論者」ではないかとされた。

こうして、帝国内のあちこちに僅かずつ生活するキリスト教徒は、民衆一般から多神教でないゆえに「無神論」と、加えて世間的常識の通用しない者「人類憎悪」(ミサンスォローピア)の悪人、あるいは世間に合意することのない強情者として見做され、当局からも罪せられるのであった。
かと云って、社会一般からキリスト教を理解してもらい、ある程度の市民権のようなものを持つに至るのはまだまだ先の先のことであり*、迫害が強まるに従い、信徒たちは社会の片隅に目立たぬように集まりをもつようになってゆく。
しかし、それはますます危険視される原因ともなった。*(ここに護教論が多数著された理由がある)
 

今日でもキリスト教の宣教や宗派によって集会も含めて禁止令を出している国々があるが、そのような国の集まりでは当局の妨害を案じて夜間に灯火を消すことがある。
西暦第二世紀もそのようにしていたようである。
そこで、キリスト教徒は夜に消灯して乱交するとか、聖餐のことであろうが、子供(人の子)の肉を食し、血(契約の表象)を飲んでいるとの噂が世間に恐れを拡大させた。ここでも風評のお先棒を担いだのは嫉妬に狂ったユダヤ教徒とされている。

それでもキリスト教徒は増えてゆく、それは外面的宣教が困難な中で、信徒らの内面の輝きが人々を引き寄せたからであろう。
教勢は静かに拡大し、ローマでは帝室からも殉教者が出るようになる。いや、この点で言えば、帝都ではパウロの到着の前ですら帝室の中からも告発される者が出ていたのである。

小アジアにおいては、使徒ヨハネの直弟子でスミュルナ市のポリュカルポス(c.155没)の殉教も書物となっており、その死をものともしない信仰の崇高さを今でも読むことができる。

また小アジアからの移民が多かった南フランスでは、著名なエウセビオスの「教会史」が採録しているルグドゥヌム周辺での迫害の記録に残る老若男女が、厳めしい裁きの場や苦痛の拷問台の上で「わたしはキリスト教徒です」と告白しつつ次々に殉教してゆく様子は、まことに今日のキリスト教徒の襟を正させるものである。(ヨハネ14:27)

彼ら殉教者たちが闘技場で示す勇敢さや死に面してさえ保つ静穏の見事さには、やがて「世間一般」からも同情と尊敬の声が湧き上がる。
そして、人々はこの気高い崇拝に関心を向けるようにさえなってゆくのであった。

迫害者らがコロッセオで猛獣の餌食にしようと、宴会での燃える巨大な松明の芯にしようと、彼らの主イエスを否認させて征服することは誰にもできなかった。

むしろ、征服したのは殉教した者たちの方であった。
パウロの言葉を借りれば、彼らは崇高な死の勝利を以って「この世をまるごと凱旋行列に捕虜として引っ立てた」のである。
殉教によって世を征服した彼らは、まことに「聖なる者」としての名と、その「外衣」を汚さずに主に続いたのであった。





      新十四日派   © 林 義平 jst
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エイレナイオス ⇒ http://irenaeus.blog.fc2.com/blog-entry-94.html









小アジアキリスト教

歴史書のように読める聖書要約本 



聖書理解の鍵は、まず全体の大枠を把握することに尽きる。


新旧の聖書を一渡りで見回せるよう目指した本!
簡潔ながらユダヤ教とキリストの深い関係性が浮き彫りにされる!


-◆上巻 「アブラハムからユダヤのイエス拒絶まで」 -------

この一冊でアブラハムから始めてキリストまでをコンパクトに収めた。
歴史の上ではエルサレム神殿の滅びまでを扱い、ユダヤ史を聖書全体の観点から俯瞰している。

書中では、読者が聖書をいちいち引かなくてもよいように、聖書中の言葉を出来る限り書き込むようにし、重要な部分や単語には原語や脚注を付した。

聖書の別の場所で関連する箇所や、ヨセフスやクセノフォンなど他の歴史資料を補いつつ、出来事の概要を複数の視点から見られるよう心がけたつもりである。それによって、立体的に聖書歴史を眺めることができるので単なる要約ではない。


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 電子版を発売中¥350 ⇒ amazon
(これらの注文において林義平は何ら個人情報を得ることはない)    

82頁と薄めながら、A5サイズを更に二段に組み、内容を倍程度にすることにより価格を下げるよう努めたつもりではある。

-◆聖書の述べるままに捉えた内容----------------------------

キリスト教の入門書といえば、聖書の陳述に対して「学術的」な説明がなされるものが多いようだ。
現代生活において我々は、確かに専門家の科学的知恵のお世話になるのがごく当然の、そして間違いの無いアプローチとされている。

だが、事が宗教となると、どこまで科学的な物差しが役立つだろう?

科学に掛かれば、聖書中の奇跡はそのように見えただけの錯覚か、象徴的意味があると教えられ、預言の成就も後代の書き加えと語られる。

それは「そんなばかなことが起きるはずは無い」という聖書記述に対する「現代的で洗練されたものの見方」
かも知れず、それらの書物は、こうした「親切」を施して現代人の読者がありのままの聖書記述につまずかぬよう配慮しているかのように見受けられる。そのような「科学的信仰」をどうこう言うセリフもない。

しかし、それでは聖書そのものの言葉に静かに耳を傾けたい人々には、傍らで間断なく鳴り続けるサイレンを聞かされる思いであろう。

そうした人々の数は世の中に少ないのかもしれないが、預言も奇跡も稀釈されずに聖書の語られるままを味わいたいと思う読者にこそ、この「神"YHWH"の経綸」をお読み頂けるなら真に幸いである。

聖書の述べることをそのままに捉えてはじめて、パズルを組み上げるように聖書全巻を貫く企図を汲んでゆくことができ、悠久の時代を貫通する強力な意志が姿を現してくる。

実際、聖書とはこのように只ならぬ本であり、その通りに聖書を単に人の著作とはしない入門書があってもよいであろう。

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「中巻」では、イエス後の使徒の時代にキリスト教が如何に築かれてゆくかを理解する基礎が据えられる。以後キリスト教史を辿って今日の趨勢にまで至る。
(中巻はこちらを)

本書を通して聖書の初心者の方々はもとより、すでにキリスト教徒である方々にも、今一度、聖書全巻からのキリストへの視点を得て頂きたく衷心より願ってやまない。


 



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書中の見出しは以下の通り。

第一章「聖なる国民、王なる祭司」

10 諸国民の父祖           

11 アブラハムの胤          

14 イスラエルの民族移動      

17 律法契約の締結       

18 長男の権による祭司職     

19 律法契約の行方       

20 ダヴィデへの王朝契約    

21 ダヴィデの王都         

22 ソロモンの繁栄        

23 分裂と衰弱           

24 ユダとエルサレムの滅び   

26 イスラエルの回復      

27 巨大城塞都市の油断     

28 神殿と崇拝の復興        

29 苦しみのメシア       

30 新しい契約          

31 最後の預言書         

32 ヘレニズムへ         

35 メシアを待つ民       

 

 

第二章「メシアとエルサレム」

38 長い沈黙の後に        

40 キリストの活動         

40 ユダヤの宗教事情      

42 「ラビ」我が偉大なる師    

43 罪多きもの多くを愛す     

44 宣教の主題         

45 イエスの訓話         

47 キリストの戦い         

48 人々を選り分ける      

50 安息日の奇跡          

52 富者とラザロ         

52 勝利の入城         

54 イスカリオテのユダ      

55 浄められた夜          

56 定められた時に至る    

58 神の子を不法な者が裁く     

59 神の子羊の死         

61 ユダの末路         

61 「大安息日」         

63 イエスとは何者か         

64 エルサレムの二度目の滅び       

66 ウェスパシアヌスとティトゥスの進軍  

67 城下の内乱              

68 ローマ軍の二度目の攻囲       

69 完全なる破壊             

71 失われた祭祀             

71 現れることのないメシア        

 

74 脚 註

 

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「神"YHWH"の経綸」 ⇒ 中巻  ⇒ 下巻

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