quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

2011年06月

キリストの語った終末預言と歴史


イエス自身が死を三日前にした週の第三日にその預言は語られた。

最後にエルサレムに上ったイエスと弟子たちは、この日に神殿を見て周り、弟子がこのヘロデ大王の建立した神殿の見事さを感嘆したことが、その預言が語られるきっかけを作った。

イエスは言った。「あなたがたはこれらのものをよく見極められないのか」「これらの(石組み)の石ひとつとして石の上に残らないだろう」。

この発言に対して弟子らはすぐには反応しなかった。民族の誇りとなっている見事な神殿がまったく崩れ去るという内容は彼らユダヤ人からすれば衝撃が大き過ぎたのかも知れない。

一行は神殿から東の谷を渡って、春先の日差しのなかであったろうか、聖域を見下ろすオリーヴ山を登ってゆく。
その間に使徒の四人が申し合わせたのか、彼らだけがイエスに密かに近づいて、先刻の神殿の石に関する発言の意味をそっと尋ねた。

「どうぞ、お話ください。そのような(すべての)ことは何時起こるのでしょうか?」「〔あなたの臨御とこの世("アイオーン"「時代」)の終わる[以上マタイのみ]  その徴しとしてどんな事があるのですか?」


これに答えてイエスの終末の預言が語り始められる。

では以下に、共観福音書を組み上げてイエスの発言をまとめてみよう
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誰からも惑わされぬように自分に注意せよ。わたしの名を騙って来るものは多い

自分自身に心せよ。あなたがたは王や高官の前に引き出されるが、そのとき何を語るべきか気を揉んだり、練習しようとするな、そのとき聖霊があなたがたにあって証しのために誰も論駁できないことを語らせるからである。そのようにして、王国の福音はあらゆる人々に宣明されるであろう」。

あなたがたは諸国民の憎しみの的となり、家族によってもわたされるだろう」。「多くの者がつまずき、倒れるだろうが、最後まで忍耐したものが救われる」。

あなたがたは戦争や無秩序とその噂を耳にするだろう。国民は国民に敵して決起し、食糧不足と疫病が蔓延し、あちこちで地震が起こるだろうが、これらは苦難のはじまりにすぎない」。

エルサレムが野営する軍勢に囲まれるを見たなら、都に居る者はそこを出よ、外にいる者は都に入ってはならぬ」。「荒廃させる憎むべきものが立ってはならぬ場所(聖所)に立つを見るなら、ユダヤに居る者は山に逃れよ」。「二階に居る者は何かを持ち出そうとして階下におりてはならず、野にいる者は外衣をとろうとして戻るな」。

そのとき、世の初めから今に至るまで起きたことがなく、その後も起きないような大患難がある」。「その日に妊娠している女と赤子に乳を飲ませる女にとっては災いとなる」。「実に、その日が短くされないなら、肉なる者は誰も救われないだろう。しかし、選ばれた者たちのゆえに、その日は短くされる」。

そのとき、自分がキリストだと言って惑わすものがあり、選ばれた者すらにも惑わされる者が出る」。

太陽と月と星に徴しがあり、諸国民は海の動揺から逃れようの無い苦悶がある(ルカ)」。「太陽は闇に月は血に星は天から落ち森羅万象は震い動く」。

そのとき、人の子が雲に乗って(と共に/の内にあって)到来し、すべての者は(刺し通した者も)それを見る」。

彼は、天の四方の風から自分の選んだ者たちを集めるだろう」。


-◆メシア拒絶の代償----------------------------------------

本来はエルサレムの神殿の破壊に関する言葉からの質問であったが、ここでイエスはユダヤの体制の終わりを述べつつ、事はそれだけで済まないことをも言葉の端々に表しているのが分かる。


しかし、ここではまずユダヤ体制の壊滅についてみてみよう。

イエスは刑場に曳かれる際に「エルサレムの娘たちよ、わたしのためではなく、自分のために泣け、孕まなかった胎と含ませなかった乳は幸いだというときが来る」。と言っている。(ルカ23:28)

それは、メシアを退けた後果をユダヤが刈り取らなければならないことを述べたのだろうか?

イエスはその数日前に次のようにも言っている。
エルサレムよ、お前(女性名詞)を取り囲んで先を尖らせた杭をめぐらし攻める日がくる。それは自分の査察されているときを見分けなかったためだ」。(ルカ19:43)

この国民の罪と言えば、神に属する者たちへの殺害であることを示してイエスはこうも言う。
アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この世代がその責任を問われるのだ。そうだ、真にあなたがたに言う、この世代がその責任を問われるであろう。」(ルカ11:50-51)

ユダヤは、キリストが水を与え、周りを掘って肥やしをやりして三年世話をしても実を生らせないイチジクであり、「お前からはもう二度と実がならぬように」と宣言されてもいる。(ルカ13:6-9/マタイ11:19)

こうしてみると、ユダヤ体制の終わりはイエス拒絶の代償であることはゆるぎないようである。*
ユダヤは体制として、ナザレ人イエスに信仰を置かず、その聖霊の奇跡の力と、神からの廉直な言葉を遂に認めなかった。そればかりかローマ総督にわたして処刑させたのである。
*(ヘゲシッポスや史家エウセビオスも同様の見解だが、彼らの言を待たずとも福音書そのものが雄弁に語っている。)

それでなくとも、ユダヤは以前からモーセの律法契約にも違反しており、メシアを退けることにおいて二重の過ちを犯そうとしていたのである。

ユダヤ体制派の策謀によりイエスの処刑が三日後に迫っていたこのときにおいて、神殿というユダヤの崇拝の要をまったく捨て去る神の決意はもはや翻らなかったが、イエスはそれを語っていたのであった。

では、その言葉はどう成就したか?
それを、以下に「ユダヤ戦記」を基に関連性を辿ってみよう。


-◆ その世代における成就 --------------------

イエスを除き去ったユダヤの体制は、その後、ますます愛国心を高めていった。
その先鋒となったのは、パリサイ人のシャンマイ派由来のシカリオイという集団であったという。
そのシカリオイの名は匕首(ナイフ)に由来し、彼らは匕首を忍ばせて雑踏に紛れ込み、自分たちの意に染まない要人を暗殺していたのである。

彼らの主張は、ユダヤをかつてのようにローマや異邦人の頚木から解放し、偉大なメシアの統治によって世界を治める地上の王国とすることにあったという。

確かに、旧約聖書を読むなら、メシアの統治は世々限りなく、神の熱心がそれを行わせるとある。(イザヤ9章)

そして、ユダヤ全体も歴代ローマ総督の悪政のためにむせ返り、とくにギリシア人総督フローロスが敢えてユダヤを煽るかのように振舞ったとき、独立への願望が堰を切らんばかりになっていたユダヤは、遂に引き返すことのない岐途に踏み込んだ。

西暦66年、ユダヤの過激派は死海沿岸のマサダ要塞に詰めるローマ兵を殲滅させ、神殿での皇帝の犠牲を妨害したのであった。これらは、宣戦布告に等しい暴挙となった。
そこで、大祭司アンナス(ハナニヤ)はヘロデ・アグリッパスⅡに暴徒の鎮圧を依頼するが、この王の軍も返り討ちに遭ったうえ、神殿直近のアントニア要塞まで陥落してしまったのである。

ここにイエスの予告に傾聴すべき部分が現われる。
即ち「あなたがたは戦争や無秩序とその噂を耳にするだろう」の言葉である。

現実は、まさに「国民は国民に敵」する事態となってゆく。
帝国各地のディアスポラの民が蜂起し、また、ギリシア人もユダヤ人を攻撃し始めた。
実にアレクサンドレイアのような都市までもが民族対立の危険な都市と化したのである。


ローマのシリア総督ガッルスは、ここにおいてユダヤ体制は反乱したと見做さざるを得ず、ダマスカス駐屯の第十二軍団と共にユダヤに向かって進軍を始める。だが、ユダヤ人の諸都市は抵抗らしいこともせずに制圧されていった。
なぜなら、その時期はユダヤの秋の仮小屋の祭りの最中であって、ほとんどの住民はエルサレムに上っていたからである。

ローマ軍が地中海方面からユダヤの山地を登り、いよいよ祭りを祝うエルサレムに近づくと、ユダヤ人は数を頼んでいっせいにローマ軍にかかっていった。しかもそれは安息日であって、40年ほど前のイエスのときにはあれほど固執し、その以前のセレウコス朝との戦いでは安息日に攻められて敗戦までしたユダヤ人が、安息日を踏みつけて攻めかかったのである。

だが、ローマ軍は秩序だった攻撃によってエルサレムの城壁を崩し始め、大方の住民は降伏するよりほかなしと思っていたのだが、しかし、そこでいったい何が起こったのかは今もって分からない理由のために、ガッルスは一目散に撤退を始めたのである。総督自身も軍を見捨てるようにして逃走し、這う這うの体でカイサレイアにたどりつく。
ローマにとって非常に不名誉なものであったのだろうか。撤退というよりは敗走と云うべき体たらくの真実の理由は歴史から削除されてしまったようだ。

しかし、これはローマ軍の殿軍を追撃し、大いに気勢を上げたユダヤ人に高慢に振舞わせる罠となった。

それからは、各所で若者たちに軍事教練が施され、武器が量産されたが、事を冷静に見ていた人々は、崇拝をないがしろにしながら神頼みの勝利を当てにするユダヤの異常さを察知した。ペルシアのような国ならいざ知らず、小国ユダヤが超大国ローマに抗ったところでどうなるかは見えている。

そして、イエスの言葉「エルサレムが野営する軍勢に囲まれるを見たなら、都に居る者はそこを出よ」の句はイエスの弟子らに意味を持ち始める。

そこで、ローマ軍がいったん退いたあとで、イエスの弟子らや他の賢明な人々は愛国心が崇拝心を上回ってしまったユダヤを見限り去って行った。弟子らはイエスの言葉に従い東方の山地デカポリス地方に身を潜めるが、これは彼らを救うものとなる。(教会史Ⅲ5)

その後、エルサレムは数度ローマ以外の軍勢に囲まれるが、次第に都から脱出することは困難となっていった。

そして遂に、ローマ軍の二度目の攻囲が始まると、父ウェスパシアヌスと共に皇帝と呼ばれた全軍司令官ティトゥスは、エルサレム周辺の木々を伐採し、ユダヤの都を柵で取り巻く作戦をとったのである。

こうしてイエスの「先のとがった杭」の預言が成就し、聖都の周囲はかつての木々の緑成す美しい佇まいを失い、乾いて荒れた土がすっかりむき出しにされてしまったとヨセフスは記す。

もはや、ユダヤ人に逃れる術は無い。慈悲あるティトゥスは都から出ようとするものを許すつもりであったが、粗暴なアラビア兵などが、ユダヤ人が宝石などを呑み込んでいるものと決め付け、貪欲から次々に人を切り裂き腸を調べたのである。しかし、そのような財産を呑み込んだ脱走者はごく少数であったという。

城壁の外でこのように凄惨なことが起こる間に、市内ではシカリオイからゼーロータイ(熱心党)へと発展した過激派と、ユダヤの強盗集団が神殿の聖所を自分たちの要塞としてしまい、血で汚し、奉納物を私物化したのであった。
これは「立ってはならぬところに憎むべき何者かが立った」と見ることができるだろう。彼らはユダヤ史上最悪の役者というほかない。預言者ダニエルが記したようにこの不法な者らの「行く先(翼端)には滅びがある」。(ダニエル9:27)

実際、彼らはエルサレムの荒廃を呼び込んだ。
総勢六万に上る大軍を率い、既に皇帝と呼ばれたティトゥスではあったが、懐深くも神殿と聖都を残すべく再三再四熱心党と強盗集団への説得を繰り返したのである。


だが、ユダヤのならず者らは、まるで勝ち目がないにも関わらず投降を拒み続けたので、市内は物資に窮し、遂に常供の犠牲も絶えてしまい、美麗を讃えられた聖都と神殿も徹底的な破壊に至るのであった。


その過程で、無数の命が塵芥のように掃き捨てられた。
攻囲が始まったときには春先の「過越しの祭り」の時期と重なり、エルサレムはユダヤ人で溢れ、人口が何倍にも増えていた関係で、城内では食糧不足が速やかに進行し、僅かな食料を巡って奪い合いがあちこちで起こり、やがて若者ですら栄養不足から手足は萎え腹部は突出したという。
そして遂にネブガドネザルの攻囲のときと同じく、母親が子供を食らうという事態にまで致る。街路に散乱する死体からは疫病が発生し、それは体力の落ちた人々を容赦なく襲う。

こうして「食糧不足と疫病」を予告したイエスの言葉が重みを増す。
そのような状況下では、確かに「孕まなかった胎と含ませなかった乳は幸いだ」と言われるだろう。

聖都の壊滅、そしてその凄惨さは古代バビロニア軍による攻囲の比ではなかった。
ヨセフスによれば神殿の焼失は、カルデア軍のときと同じ夏のアヴの月の9日となったという。ヨセフスの挙げる数字には相当な誇張があるとされるものの、110万の死者というのは、未曽有のユダヤ人殺害がなされたという表現として読むことができよう。(ティベリウス期の帝国内のユダヤ人の総数が400~450万人と推定する現代の資料がある。そのほとんどがディアスポラであった)

エルサレムの破壊の程度も徹底的なものとなった。城壁を調査できたネヘミヤのときと異なり、此の度はあたかも絨緞爆撃の跡のようにエルサレムは地下施設と路条を残して更地のようにされ、ティトゥスが命じて地上に残ったのはほんの三つの建築物だけであった。そのため、イエスの時代の遺構も不明瞭で、現代でも大祭司の館や総督館、ゴルゴタの位置など不明なものが多い。

やがて帝国は、反乱を繰り返すユダヤ人の当地への定住を禁止するに及び、ローマ属州ユダエアの名称はついに地図から失われる。その後、この地域はパレスティナの名を以って呼ばれるようになり、それが現代に及んでいるのである。

ユダヤの民は、奴隷や剣闘士の需要をまかなわされて帝国の各地に散って行き、大半は流浪の民となった。ユダヤ人には特別な税金が課されるようになり、残った民も135年のバルコクバの乱の終りを経て、エルサレム地区への入域さえ叶わなくなってしまう。

かつて、バビロニアによる神殿の破壊からは百年かからず復興したユダヤ=イスラエルも、ローマ軍攻囲の後は二千年が経過しようとする今なお神殿祭祀の再興を見ず、「彼らのメシア」は依然現われていない。

それを思えば、ユダヤ人にとって「世の初めから今に至るまで起きたことがなく、その後も起きないような大患難」がエルサレムに臨んだと言ってよいであろう。これらすべての患難は、メシアを退けたユダヤ民族の結末となる「邪悪な世代」への処罰として臨んだ。つまりそれは、モーセから千数百年の代々続いたユダヤという偉大な体制の歴史を閉じる「終結」であった。(マルコ13:19/ルカ3:17)

一方ではその以前に、神はキリストを通して「新しい契約」に聖なる人々を招き、「神のイスラエル」を発足させていたのであった。それこそが血統上のユダヤに替わって、律法によらずにアブラハムの約束を受け継ぐ新しい体制の誕生であった。(ガラテア6:16)


-◆その世代に起こらなかった事柄-------------------------

さて、このように神殿の石についての弟子らの質問の答えが、現実となってユダヤ人とエルサレムに降りかかったのだが、イエスの預言にはそのときに当てはまらない部分が残っている。

弟子らは、為政者の前に際立った仕方で立たされておらず、聖霊が反駁のしようもない語りを行うのを誰が聴いただろうか。(マタイ10:17-/マルコ13:11-)
明らかに『雲と共に来る人の子』の姿を世界はまだ見ていない。(マルコ13:26/ルカ21:27)


では、それらの残された部分はどうなるのか?
それはなお将来に成就を控えているのだろうか?

第一世紀に成就した預言の最終的な実現を見るのはまだこれからと言える。
イエスがユダヤの体制の終焉を預言する中に、『起きたこともないような大いなる患難がある』と『この世』の終わりの預言を含んだように、ローマ軍によるエルサレムの滅びは、将来のユダヤ一国の出来事を遥かに超える出来事の予型であったことを教えている。(マタイ24:21)

エルサレムの聖所を汚して、ユダヤの体制の終わりを招じ入れた熱心党や盗賊集団が居たのだが、来るべき時代にも何者か「荒廃をもたらす憎むべきもの」がいるが、未だ確定していない。(マルコ13:14)

将来のそのものは、同様の行動をもって象徴的「聖所」に現われるであろう。その聖所とはキリストと共に神殿を構成する『聖なる者ら』を蹂躙することを意味するのであろう。

だが、その蹂躙とは『二度死んだ木』のように神からまったく打ち捨てられた地上に残るエルサレム市は何ら関わらないものである。

それでも、先の成就と同じく、その象徴的「聖所」は、その者が立つときに神の目には聖所ではなくなり、打ち捨てられた汚れた場所となるとしても、それら『荒廃をもたらす憎むべき者』が原因して諸国民は象徴的「聖所」または「エルサレム」を踏みにじるのであろう。(ダニエル8:13)

我々はそのまったく強情な悪党らの正体を見るのだろうか。
しかし、その前に『聖所』に相当する『聖なる者たち』が、真に聖霊を注がれ、奇跡の賜物をもって現れなくてはならない。(黙示録11:1-3)

だがしかし、将来の悪党どもに相当する者らは、間違いなく地上に関わるであろう。即ち、『一人は連れてゆかれ、一人は残される』というキリストの警告にあるように、地に残されるユダ・イスカリオテのような『滅びの子』であり、『聖なる者たち』の内からの脱落者らが、地上のエルサレム、またはその近郊に関わり、『背教』に関わる何事か不善を為すことは予期されるべきである。(ルカ17:33-35/テサロニケ第二2:1-10)



こうして、共観福音書の後に記され、エルサレムの荒廃を経てなお終末預言を繰り返す預言の書、旧約への許多のリンクを孕んだ聖書全巻の封印にして最も不可解とされる最終巻、「ヨハネ黙示録」へと我々の目は向かう。
その成就するときは、第一世紀の預言のみならず、聖書中の預言がそこに集中する世代となるだろう。




   新十四日派  ©2011  林 義平
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記事一覧

 ⇒「マタイ福音書の終末預言と例え
 ⇒「黙示録の四騎士 時代の印か 絶滅の使者か
 ⇒「エレミヤの七十年の終点から起点を探る

 







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許されざる聖霊への罪


この罪が、許されないものとされることから、多くのキリスト教徒の恐れるものとなっている。だが、いざ実体を問えば一般的にはっきりしない。
しかし 、この重大な「けっして許されることの無い罪」が何であるのかが曖昧では恐れが増すばかりである。


では、キリストの言う「聖霊を冒涜する」とは具体的に何を指すのだろうか?

この解答を得ることにより、「神の裁き」に於いて、神は人の表層を見るのではなく、まさに内面を見て裁くことを知ることになる。
キリストは『人はあらゆる罪を赦される』と語られたのだが、続けて「聖霊に対する冒涜」という『罪』だけが赦しに含まれないと重大な一言を加えられたのである。(マタイ12:31)

この言葉からすれば、品行方正であることがその人を救わず、ましてクリスチャンであるだけで許されているわけはけっしてない。バプテスマを受ければ救われるというのは、契約に入る『聖霊を受ける』選ばれた人々についてのみに語られた言葉である。しかも彼らは、聖霊によるその契約を地上で全うしなければならない。その救いも赦しも不確定であることには変わりなかった。(使徒1:1-5/ペテロ第一1:2/3:6)⇒聖徒」 
 

だが、聖書を探索すると、『聖霊』の無いところにこの罪が生じることは無いことが窺えるのである。
では、『聖霊への冒涜』はいつ、そのような重大事として存在するのだろうか?


まず結論から云えば、『この世』が裁かれる終末のとき、ある人々に『聖霊』が使徒の時代のように再び注ぎ出され、その『聖霊』が引き起こす奇跡に各個人がどう反応するかによって人の裁きが決するということになる。


そこでキリスト教徒であるか否かは関係なく、『聖霊』によって人々がおしなべて試されるのが終末であり、それをマタイ25章31節以降の例え話が具体的に示している。

即ち、到来するキリストによって、世界のあらゆる人々が羊と山羊とに分けられるという、終末の裁きのことである。


マタイ25章の羊と山羊の例えが明らかにする如く、この世の終りに際してキリストが裁きの座に着くと、すべての人々が左右に分けられるのであり、その根拠は「キリストの兄弟らに親切を示すか否か」であると記されている。
聖霊を注がれたキリストの兄弟にこそ、キリストは世の人々との和解の仲介と言葉とを委ねたのである。(ヘブライ2:17/コリント第二5:18-19)

この例えからすれば、人々がキリストの左右に分けられる原因となる「キリストの兄弟ら」が誰かについては聖書中を見てゆくと、パウロがこう言っている。
『神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。』 (ローマ8:29)
では、やはり「キリストの兄弟」と呼ばれる存在があり、その人々に親切を示すかどうかで人々は裁かれるのだろうか?

パウロの記したこのローマ人への書簡の第八章では、特に『キリストと共なる相続人』、また、神に向かって『アッバ!』と語り掛けることの許された『聖霊に導かれる』弟子らについて述べている。
この弟子らは人類に先立って『罪』を許されているので、『神の子』の立場をキリストと共に受けているとも述べられる。即ち「キリストの兄弟」と言えるのである。(ローマ8:1/8:15-17) 

福音書は揃って、終末にも聖霊で語ることになる弟子らの存在を知らせており、彼らは政治家らの前で、何者も論駁できないほどの言葉を聖霊によって語るとされている。(マタイ10:18/マルコ13:10-11/ルカ21:15/ヨハネ16:8・17:20)


そこで終末では、キリストの『兄弟ら』となる『聖なる者ら』の語る聖霊の言葉に信仰を懐き、彼らを支持して親切を示すことを選ぶ者が救われるのであって、単にクリスチャンであるということが、このキリストの終末の裁きに有利である保証は何も無い。(ヘブル12:25-27/ハガイ2:6-7)


ならば、自分はなぜバプテスマを受けクリスチャンとなったのか、と問うなら、その人の「キリスト教」は「ご利益信仰」であると言わざるを得ない。

それでは究極の自己犠牲の精神を表したキリストの追随者と言うには正反対の利己的精神ではないだろうか。 神の御子が犠牲になったのは、自分が救われる為であったと「クリスチャン」は本気で言えるものだろうか。

聖書はむしろこう云う『彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで生き返った方のために、生きるためである。』(コリント第二5:15)

キリストのために生きるとは、キリストの生き方に沿って、共に自己犠牲の精神の延長線上に生きるのであり、ただ救われたと有難がっているのでは、自分を救いの物語の主役に据えて、キリストの自己犠牲の上に胡坐をかくことになってしまう。その人は、キリストの無私の精神から感化を受けてはいないばかりか、自分の救いや安寧を利己的に求めるという正反対の方向に進んでいるのであり、大半の教会員とは、そのような「ご利益信仰」を抱く人々である。


神は洗礼を受けた個人ではなく、人類の救いとなるよう『諸国民の光』を世に与えたのであり、『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』とも記されている。(ヨハネ3:16)

この『信じる者』というのは、今、現にクリスチャンであることを意味しない。 人類は歴使徒時代からこのかた、聖霊の奇跡を未だ目の当たりにはしてはいないからであり、聖霊に信仰を懐く機会は終末に訪れるからである。
これが何を意味するかについては、この稿の結論が近付くにつれ理解されるものと思う。
では、許されることのない『聖霊への冒涜』とは何かを理解するために、まず『聖霊』とは何かを見よう。

さて『聖霊』とは神の奇跡の御力であり、あらゆる反論を封じるほどのもので、そこで人は最終的に試される。
言い訳できない『聖霊』の奇跡を目の当たりにするとき、人は誰であれ逃れられない決定的な選択を神に迫られることになる。

それはキリストの地上への現れの時がそうであったというべきであろう。
イエスはこう言われている。
『わたしが誰も行ったことのない業を彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今、彼らはその業を見た上で、わたしとわたしの父を憎んだのだ。』(ヨハネ15:24)


そこで問われるのは、神との邂逅に於けるその人の決定的な選択、エデンの園に於ける二本の木のような二筋の道の選びとなる。

アダムの場合には、自らの存在の由来、第一の関係を持つべき対象である親のような神に対してどう振る舞うかが試されたのであり、それは最初の倫理問題にして、全ての道徳の基礎の基礎を据えるか否かの選択であったと言える。自分の創造者に忠節に振る舞えないなら、いったい誰に対して忠節であり得るか?

つまり、それを前にして神を認めるか、認めないかという選択であり、アダムに対してそうしたように、神はその選択の一方を強制しない。それは愛が強制されるものでないように、自発性はまったく必要不可欠なものである。
そうして人間の自由意思を保つことが、忠節な愛(ヘセド)を真実に存在させ、『神の象り』である人を尊重することは、即ち神が自らをも尊重することだからである。⇒「自らの象りへの神の愛」


アダムの場合には、まったく原初に創造されたものであるから、必要なのは奇跡ではなく、二本の木とその実による試みであった。
しかし、アダムの子孫についてはそうではない。
既に、神との間には『罪』のもたらす断絶があり、不信仰な『この世』に生きる以上、別の試みが必要になる。
エデンの二本の木に相当する、自発心から忠節な愛を示すか否かを選択させる別のものは何であろうか?


では、改めてキリストの言葉を見よう。

この「聖霊への冒涜」という罪は、キリストが述べた言葉の中にある。
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「人の子らはそのすべての罪も、冒涜も許されるだろうが、聖霊を冒涜する者は永久に許されることはない。」(マルコ13:29)
「人はすべての罪も冒涜も許されるだろう。だが、霊への冒涜は許されることはない。また、[人の子]に敵して語るものすら許されるだろうが、聖霊に敵して語るものは、この世でも、来るべき将来の世においても許されることはない」(マタイ12:31-32)

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多くのキリスト教徒は、これらの言葉にヘブル書の記述に結びつけて教えられることもある。
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「ひとたび啓示を受け、天からの無償の賜物を味わい、聖霊に与る者となり、神の類稀な言葉と来るべき将来の世の力を味わいながら、なお、離れてゆく者は、再度あたらしくされて悔い改めに至ることができない。」(ヘブル6:4-5)
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この言葉は聖霊への冒涜が、キリスト教徒を辞すること、つまり教会を去る「棄教」を意味するとも捉えられているようだ。さらに強い適用は、ヨハネ3章18節の『信仰を持たない者は裁かれている』の句を根拠に、現に信仰の無い者はこの罪の下にあると教えられている人々もいる。
「だから、信じてバプテスマを受けろ」というのが、大方の教会の人集めの手管とさえなっているようだ。

しかし、そうだろうか?

この罪への解説を誤れば、狭量な罪の見方に人を陥れてしまうが、許されない罪とはそんなものだろうか。
しかし、聖書中を探索してゆくと、裁かれないために洗礼を受けよという諸教会の教えとはまるで異なる理解に達することになる。

それは、この頁の結論にあるように実際にイエスの言葉は逆であって、聖霊を介する神の裁定は瑣末で神経質なものではなく、世界の様々な人々を可能な限りに広く受容しようとする大らかな全能者の特質を感じさせるものである。




-◆語られた背景--------------------------

まず、この罪に関しては、「聖霊」というものをよく把握する必要があるだろう。

前出のマルコとマタイの句の文脈を見てみよう。
それらは、共通する場面で語られている。

つまり、悪霊*に憑かれた人々からイエスがそれを追い出し、また病を癒す奇跡の業を行っていると、書士やパリサイ派などの宗教家らが中傷して、イエスは悪霊たちの頭目ベエルゼブブ#を使って悪霊を追い出していると、つまりはイエスの奇跡の業の源は邪悪な霊であると主張してやまなかったという場面である。

だが、イエスの業が真に神からのものであれば、これらの宗教家の主張はイエスよりも神を誹謗していたことになってしまう。

一方で、癒された人々やそれを見守った群集は、これらの宗教家とは正反対にイエスの業に驚愕しつつも大いに歓んだので神を讃えて憚らなかった。それまで病んでいた仲間が癒され、辛苦から開放されることを大いに喜んで、イエスを迎え入れる素地を見せたのである。

しかし、イエスは人々に自分に対する感謝を要求したのではない。むしろ罪の許しと奇跡の業を彼に行わせる自らの父である神に人々の注意を喚起するのであった。

そしてヨハネ10章では、彼が盲人を見えるように癒したあとに、奇跡を行う人イエスについてユダヤ人の間に論争が生じたことを伝えている。

一方は、イエスが悪霊に憑かれていると主張したが、他方では、これは悪霊に憑かれた人の話ではないし、第一に悪霊が盲人の目など見えるようにしないではないか。と認識がふたつの割れたのである。

ユダヤの宗教家らはイエスを取り巻いて『お前がメシアなら、はっきりそう言え。いつまで我々を中途半端なところに置くのか』と迫る。 (ヨハネ10:24/列王第一18:21)

そこでイエスは答える。
『わたしは言ったが、あなたがたは信じない。だが、わたしが父の名によって行っていることがわたしを証ししている』。
『わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じてはならぬ。だが、わたしがそれを行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業は信じよ』。(ヨハネ10:25/10:37-38)

このようなイエスの姿勢は、彼自身が行っている業がどれほど類稀な神の業であるかを強く明かすものである。

これについては、ルカの福音書にも似た場面があり、そこでイエスは奇跡についてこう言っている。

『わたしがベエルゼブブによって悪霊を追い出すのであれば、あなたがたの子らはいったいだれによってそれをするのか?それで、彼らはあなたがたを裁くものとなるだろう。しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出すのなら、確かに神の王国はあなたがたに達したのだ』。(ルカ11:19-20)

『神の指』、それはいにしえのエジプトでモーセがその地に下した災いをエジプトの異教の祭司が真似ることができずに叫んだ言葉であった。

モーセを通してエジプトを十度襲った災厄がモーセ自身に帰されるものでないことは明らかであり、これら奇跡の力を行使する偉大な神に対する信仰が人々の間に湧き上がった。

そして、イエスの奇跡はやはり「神の指」であるという。即ち『御父の業』である。

それが神の御力であることは、心の柔らかな者らにとって疑いようのないことである。
しかし、イエスの前でユダヤ人の認識はふたつに割れたのであった。


-◆神の業に関する認識は分かれる------------------------

ある時イエスは、生まれたときから目が見えずにいた若い男を癒して見えるようにしたことがあった。

この男はイエスに言われるままにシロアムの池まで探って行って、イエスによって目に塗られた泥を洗い落とすとその奇蹟ですっかり見えるようになったのだが、いまだ自分を癒したイエスを見てはいない。

一方で、宗教家らは例によってイエスを蔑んでいるために、この男が癒されたことにつまずきをさえ覚えていたのである。彼らはこの男を呼び出して尋問する。「神を讃えて言え(誓約の要求)。我らはその(癒した)輩が罪人であると承知しているが・・・我らは神がモーセに語られたことは知っている。だが、この輩についてはどこからの者か知れないのだ」

すると癒された男は即座に反論する「これは何とも驚いたことです!わたしの目を開いた方ですのに、あの方をどこからの者とも知れないとは!・・・神からの人でないならあの方は何もできないでしょう!」。(ヨハネ9章)

こうして未だ見てもいない人物イエスを熱烈に擁護したこの若い男は会衆から追い出される(ユダヤ教体制からの排斥、村八分)処分を受けたのであった。これはユダヤ人にとって極めて不名誉なこと、いや、神の会衆から出されるのであり、律法の保護の対象からも外されてしまう。

だが、このイエスを熱く支持した人物が神の目に留まらずにいることはなかった。
イエスは、追放されたこの若い男を探し出して語りかける。「あなたに話している者がそれだ」。
若い男はイエスに敬意を捧げつつ言った「主よ!わたしは信仰を持っています」。
イエスは言う「わたしはこの裁きのために来たのだ、つまり見えない者が見えるようになり、見える者が見えなくなるために」。

さて、宗教家たちはイエスの行う奇跡の業を退け、その言い訳として悪霊の頭目を担ぎ出したのだが、それが本当に「神の指」であったなら、これはどういうことになるのだろうか?彼らの目は「見えなかった」のか。

加えて、彼ら宗教家たちは奇跡によってユダヤ同胞が癒されることに喜ぶことすらできなかった。一般の民を侮蔑していたからである。まして愛してはいなかったであろう。

イエスが右手の萎えた男を安息日の会堂内で癒したときにも、その一派の者らは奇跡の業を見届けるなりイエスを殺す算段をしようと会堂から飛び出していったのである。その理由は、ただ「安息日を守らなかった」という瑣末な「正義」のためであり、神の業をそこに見ようとはしなかったのである。
何と宗教的思い込みに恐ろしく歪んだ性格ではないだろうか。だが、こうしたことはあちこちの宗派の場で往々にして起こってきたことであろう。

今日の様々な宗教に於いて、その崇拝の対象や教理はそれぞれに違えども、本旨では一致しているようなところがある。
それが即ち「これが正しい、だから従え」ということである。

しかし、聖霊の証しを通して人に信仰を呼び起こす神の姿勢はそうではない。
それは各人が自ら選ぶべきものであり、それによって人は自らがどのような者であるのかを示すことになると言えよう。

使徒ヨハネはその書簡の中でこう言っている。
『 わたしたちが人の証しを受け入れるとしても、神の証しは更に優っています。
神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神を偽り者にしてしまっているのです。神が御子についてなさったその証しを信じていないためだからです。』(ヨハネ5:9-10)



-◆「聖霊」に逆らう者-----------------------------

こうして、聖霊に逆らった者らの姿が見えてくる。
それは、まごうことの無い神の力の表明を見ながら、なお反対を唱える確信犯である。

イエスは誰に対しても聖霊の罪を犯したとの明確な指摘してはいない。
ただ、ユダ・イスカリオテについてほのめかされただけである。

しかし、その罪が犯されるときには、その人の内心で重大な倫理的決定が為されるだろう。
そこでは、ふたつの事柄が秤にかけられ、義と不法の何れかの選択が迫られ、何らかの動機によって、ある人々は「不法」を選ぶのであろう。

そこに神の落ち度はないとヤコブの手紙は言う。『人は各々自らの欲望によって誘い出されて試みを受ける。そして欲望を孕んで罪を産み、罪が育って死を産み出す』(1:14-15)

だが、この罪を犯す危険を察知したパリサイ人もいた。ヒレル派の大学者ガマリエルである。
彼は、イエス派も神からのものでないならいずれは潰えようが、だがもし神からのものであったなら、反対者は神と戦うことになってしまうという危険を指摘したのであった。

ガマリエルは、イエスの弟子らの行う奇跡を念頭においたであろう。
そこで、この種の罪を犯す危険を悟り、イエス派憎さの欲望のままに重大な倫理的決断を下したりしないよう説得する賢さを見せた。



-◆「聖霊冒涜」の新たな面----------------------------

だが、その時点でユダヤ体制派の宗教家たちは、すでにイエスをローマの権力に渡して亡き者としていた。

キリスト帰天の後、聖霊の働きはイエスから弟子たちへと移されてゆく。

あのシャブオート(五旬節)以降、明白に聖霊の灌ぎが初期の弟子らに行われると、聖霊への反抗の種類に福音書の範囲にはなかったものが現れてくる。(使徒2章)

つまり、聖霊が灌がれ、その賜物によって異言や預言、癒しなどの奇跡を行うことになった初期の弟子たちには、その賜物に対する責任が生じたのである。

その賜物を有する者らは神の王国の一員「聖なる民」として選ばれたのであるが、それは未だ確定的なものではなく、内定のようなものである。(エフェソス1:14/コリント第二5:5)
キリストの帰還まで、あるいは自らの死までの間、傷なくシミもない忠誠が求められていたのであった。彼ら『聖徒』にとっては、確かに一度限りの聖霊の力に預った以上、棄教は聖霊への冒涜となるに違いない。(ペテロ第一3:6)


しかし、彼らに人間に共通する罪(原罪)が残っているからには、不謬なわけもない。それでもキリストの犠牲の仮の適用を受けて、彼らは神の前に『聖なる者』となり『義』と見做されていた。(ローマ8:1)

そこで使徒言行録には『主の霊を試す』という罪を犯した者らが処罰されている場面がある、即ちアナニアとサッピラの夫婦であった。(使徒5:9)
この二人は、人々からの称賛を願って、自分たちの偽りが誰にも見抜かれないと思い込んだ。しかし、聖霊を注がれた立場とは、『新しい契約』に与り『罪を赦された』状態にある以上、故意の邪悪が容認される余地もないであろう。この夫婦はその日の内に葬られている。


それでも、彼らが肉体に留まる以上はその『義』も仮のものであり、彼らもときに間違いを犯し、様々な倫理的失敗も免れていなかった。そこでヨハネは『死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。』と、当時の聖なる者らのエクレシアに書いている。(ヨハネ第一5:16)
アナニアとサッピラのような『主の霊を試す』ような罪は、あからさまな故意、また邪悪であり、人の弱さや過失とは言えず、ヨハネが言う『死に至らない罪』とはならなかったのであろう。


それでも、聖霊を受けた聖なる者としての優れた立場には、当然に一定の基準を満たすことが求められ、かつてのレヴィ族祭司に求められた清さを、キリスト教に於いてパウロが『聖なる者ら』に関して、不品行や偶像礼拝や姦淫、男色、貪欲、泥酔などとされる者が『神の王国を受け継ぐことはない』と述べたのであり、それは確かに『義』とされた『聖徒』について理に適ったことであろう。確かに文脈もそれを明示しているではないか。(コリント第一6:9-10)


したがって、これを混同して一律にアルコール依存者や同性愛者や姦淫者らが裁かれるべきとしてしまえば、多くの悪行や不品行に捕われ真に救いを必要とする人々が、人類の『祭司』とされるべき『聖徒』からの贖罪を受けられないと宣言してしまうことになり、『罪びとを招く』『病人にこそ医者が必要』と唱えるイエスの意図から逸れてしまうであろう。

罪深さを自覚しつつも自己ではどうにもならない人々はいつも存在してきたに違いなく。その人たちの悔いと神の許しの間に、同じように変わりない罪人たる他の人間が「自分は道徳的だ」と言って立ちはだかる理由もないであろう。(行状を改善できない彼らがキリスト教徒に数えられるか否かは「悪行の容認」に関わる別の問題となろう)


しかし、真に正義持つ人類の支配者として、『多くを委ねられた者には多くが要求される』ことは、この場合、『聖徒ら』に関して得心できることであるし、彼らこそは『悪の容認でなく、聖化によって召された』と言えるのである。(コリント第一6:9-10/ルカ12:48/テサロニケ第一4:7-8)



しかし、使徒ヨハネは『聖徒』であっても間違いを犯しても許されることを述べ、そこで「許されない罪もある」と書いている。それでも、「神から生まれた者(聖徒)は罪を犯し続ける*ことはない」という。*(ギリシア語に現在進行形がないためヨハネ第一3:4.6は「罪を犯さない」と訳されることも多いが、それでは既に原罪を超克していることになり、聖徒の状態をぼかすものとなるだろう)

イエスの弟ヤコブも、罪を犯した者は年長者を自分のところに呼んで、祈ってもらい、また油を塗ってもらうようにと勧めている。

しかし、ヘブル人への手紙には、冒頭で書いたような許されざる罪が記されている。
それについては、初期の弟子の聖霊の賜物に与るという立場を加味するとき、この文章理解の見通しが開けてくるのである。

「ひとたび啓示を受け、天からの無償の賜物を味わい、聖霊に与る者となり、神の類稀な言葉と来るべき将来の世の力を味わいながら、なお、離れてゆく者は、再度あたらしくされて悔い改めに至ることができない。」(ヘブル6:4-5)

これに加え、同じヘブル書の10章26節にはこうある。
「我々がもし、真実の知識を授かった後に、敢えて*罪を犯し続けるなら、罪に対応する犠牲は何も残されず、裁きと、逆らう者らを呑み尽くす劫火を慄きつつ予期するばかりとなる」。(10:26-27)*(エクーシオース 「自発的に」)

ここが、信徒たちをして、その属する宗派や組織から出てしまうことのないようにと、「地獄の火」のように信徒を恐れさせて利用されることの多い句である。しかし、だからといってその句の反対側に、つまり宗派に留まり模範的でありさえすれば、果たして「救い」というようなものがあるのだろうか?
ならば、「神の裁き」とは何と人間臭くて外面的なものなのだろうか!

だが、この10章26節に関しては、少し後の29節を見ると「自分自身を聖なるものとした契約の血」が関連付けられており、これらのヘブル書の言葉が聖徒°に適用されることを明示しているのである。 

さらに、「恵まれた(カリストス)霊を侮る者は」と続くので、上記の6章の言葉と同様に議論の余地無く、この書簡中での「聖霊に対する罪」は、聖霊を受けた者である「聖徒」が、その聖霊に敢えて逆らうことを指して「キリストをもう一度磔に処するようなものだ」と述べていたといえるのである。

また、『あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは偽物として見捨てられる。』という言葉も、当時の聖霊を自らの内に得た聖徒らへの強い警告であり、霊を注がれてすら不信仰であるという、冒涜的な状況が如何に危険であるかを伝えるものとなっている。(コリント第二13:5)

したがって、聖霊の賜物を持たない者や、それを目の当たりにしていない者は聖霊の働きを充分には知らないので、この絶対的罪を犯すことを心配する必要はなさそうである。

では、今日この「聖霊に対する罪」を犯すことがあり得るだろうか?


-◆「聖霊に対する罪」はどう生じるか----------------------

まず初めに、イエスの奇跡の業を見たユダヤ人たちは、「神の指」の働きを見ながらこれを退けた。

そこにどれほどの自覚があったかは分からないが、人の行うことのできない奇跡を侮り、そこに含まれる善意すらも否定したのだが、この場面の反応を指して、イエスは「聖霊に逆らう者に許しがない」と述べていたであろう。

そして後に、聖霊を賜った「聖なる」弟子らにも同様に「敢えて罪を犯し続けるなら許しはない」と述べられていたとみることができる。『聖なる者ら』の行う聖霊の業を冒涜した者もまたそのようであろう。

したがって、この種の罪に関わる双方ともに、「聖霊」とそれに対する確信的抵抗が介在しているといえるだろう。

この理解を通して初めて、ヨハネ3章18節が述べる、『信仰を持たない者は裁かれている』の句も明瞭となるであろう。つまり、『聖霊の業』を見てさえ信仰を持たないという罪であり、その上には『神の憤り』がある。
 

しかし一方で、イエスは『人の子を罵倒する者ですら許されるだろう』とも言っているし、『あらゆる罪』にしてもそうであると言う。そこでは聖霊に対する罪と、そのほかの一切の罪がどれほど異なるかが強調されていないだろうか? (マタイ12:31-32)

総括すれば、「聖霊に対する罪」は聖霊の関わるところでのみ生じるのである。


他方、賜物をもたらす聖霊の降下は第二世紀頃に止んでいる。⇒ 西暦第二世紀のキリスト教徒
その後の聖霊を失ったキリスト教は迷走して様々な教えに分かれ、その枝葉は数え切れないほどになった。

そのだれもが正統をあるいは真理を持つと唱えても、聖霊のあるところならば正統もあり得ようが、今日どこにも聖霊がなく、完くの「正統」はどこにも存在しないので、これらの宗派は相克するよりほかない。

この争論や敵意そのものがそれぞれの聖霊の無さを証明しているであろう。聖霊は強力で曖昧なものではなかったからであり、そこに見間違える余地はない。

この上からの介入、つまり「聖霊」のない状態では、イエスの弟子らが的外れな考えを抱いていたように、皆が部分的知識の誤謬と自己満足の中に在るのであって、現在は絶対の罪を犯す余地がない。却って認識の不十分さゆえに、「聖霊の罪」からは保護されているともいえるだろう。

現代という時代は、バプテストのヨハネやイエスの登場する以前の、数百年間預言者が現れなくなり、神からの音信の途絶えていたユダヤに似ていよう。
ユダヤ人たちが言うように、マラキを最後に「預言者たちはみな眠りに就いてしまった」。
その後、第一世紀にイエスが現われた世代こそが、バプテストのヨハネとメシア・イエスを迎え、聖霊の業を目撃することによって、その罪を問われたのである。

今日も同様に、神からの聖霊は絶えて久しく、その沈黙の日々は千九百年になんなんとしているのである。


-◆再び聖霊の業が行われる時代に----------------

だが、ユダヤにイエスが現われたように、将来に聖霊が再降下するならどうなるのだろうか?

それは、キリストの帰還の時に為されるだろう。即ち、「終末」であり、「裁きの日」のことである。
選ばれた弟子らは為政者の前に引き出され「聖霊によって論駁しようもない言葉を語る」とされている。

それは諸国民への宣布、証しのために起こる奇跡となろう。これは鮮烈な論争を惹起し、イエスの世代のように、将来のその世代もキリストの臨御を巡ってふたつに割れるであろう。(ルカ12:8-12)

支配する王キリストを迎えることに反対する者らがまるで現れないということは、もちろん今でさえ考えられない。
そこでは、やはり古代のように聖霊を拒む者らが出ることは避けられないだろう。

将来の終末にも、同じように反応する人々が存在するのは、誰にも留めようがない。いや、それが『この世の裁き』であるなら、人の最終的裁きには聖霊が関わることになるに違いない。

世界は聖霊を通して「神の声」を聞くが、これは聖霊を注がれた聖徒らの働きであり、これにどう反応するかは極めて重い判断になるだろう。つまり、そこに「聖霊に対する罪」が関わるからである。(ヘブル3:15)
こうして、この罪を巡って人類は裁きの日に臨むことになるだろう。

従って、生きる人々は聖霊を受ける『聖徒』が現れ、この『聖霊を冒涜する機会』は「聖霊の業」を見ない限りは一度も到来しないということになり、それはこの『聖なる者たち』が地上から絶えた第二世紀から今日までそのようである。この間に死に至ったすべての人々は、復活の後に試されることになろう。

イエスはこう言っている。
『このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、

 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』(ヨハネ 5:28-29)


これは生前の行いを基に裁かれることを意味するのだろうか。
もし、そうならこの裁きは『聖霊を冒涜』する罪とは関わりが無い。
しかし、これが永遠の裁きであるなら、単に人が善行者であったか悪行者であったかという一般的な道徳規準で神は死者を復活させて裁くことになる。

だが、終末に聖霊が再び臨み、それが人々を分けるとするなら、死者も同じ基準で裁かれるべき理由が生じることになる。
この世の終わり「終末」において、神が人類を激動させ、そうすることによって『望ましい者らが家(神殿)に入って来る』というハガイの預言からすれば、聖徒らによる聖霊の言葉や証しは人間に由来するものではないので、非常に際立つものとなるのであろう。

そうなると、やはり死者たちに同様の機会が開かれねばならず、パウロが『義者と不義者の復活がある』と言ったことも、復活そのものが裁きとならず、わざわざ不義者を復活させる理由が見えてくる。(使徒24:15) 


ひとつには、死者は聖霊の業を見ていないからであり、また『アダムと同じ罪を犯していない』ゆえにも、彼らの生前の道徳がどのようなものであれ、重罪を犯しイエスの傍らで磔刑に処されながらもキリストに信仰を懐き、権力による処刑の最中にさえ受け入れられた男のように許されるべき者が居るに違いない。(ローマ5:14)

そこでは、人がかつて何を行ったのかはほとんど意味をなさない。自分は模範的だと、一般的な道徳性を誇ったところでそれがどれほどのものとなろう。

聖霊の業を通して問われる究極論点は「神を神と認めるか?」である。これこそがあらゆる倫理の基礎であり、あとはキリストを罵倒していたとしても本質的な罪ではない。まして、人間の法については言うに及ばない。 ⇒ 「終末の裁きで何が問われるか」

もちろん、不法を繰り返して来た者には倫理的欠陥が深く染み付いて、聖霊に対しても罪を犯しやすいのかもしれない。だが、自分の悪に気付く者らには有利であろう。
却って、罪多きものは多くを愛するということがあるだろうからである。許されるものが大きい人は、キリストにために生きることを躊躇わない。


一方で、人間の定めた規則に仔細に従うような道徳的模範者が神に悦ばれるというなら、その神は何と矮小なことであろう。
ある宗派に馴染めず、そこを出た信徒を許されざる者とする神なら、何と了見の狭い神であろう。

我々はそのように小さく偏狭な神を心から尊崇できるだろうか?そのような「神」なら、我々の周囲に幾らでも歩き回っていないだろうか?
また、それらの宗教の教導者は、偉大な神を自分と同じレベルに卑しめてはいないだろうか?

教会を去る信者や、単にキリストの信仰を持たないからとこの罪に断じるのは、貴少な教会員の囲い込みにはなるほど打って付けなのであろう。そのような教えが存在することは致し方ないが、その犠牲となる人々はまことに気の毒なことである。

あるいは、教会や組織に属すところに「救い」のようなものを実感し、愉悦を感じている方々もおられるのであろう。
だが、こうして聖書を見るとき、「所属が救済」との教えに蓋然性があるとは思えない人々もまた居るに違いない。

我々の限界や弱さや罪深さを知り尽くす神が、人間同士の定めや道徳の差を以って裁くだろうか?
大いなる創造の神は、人間はすべて「土」であることを知っているという。
この意味するところは大きい。
この点、聖霊を受ける者ですら、人の罪を許すよう求められてさえいるのである。(ヨハネ20:22-23)


-◆「我々に抗わない者は、我々に味方している」---------

この見方を支持するのは、イエスは聖霊への罪の適用の境界は非常に大らかであることを示唆する発言をしていることである。

聖霊の業を真似ながら自分に付き従ってこない者らをイエスは咎めず「我々に抗わない者は、我々に味方している」と言い、却って使徒らにこれら小さなものたちをつまずかせることが大罪であると叱責し、他方で聖霊の業を誹謗した者を指してのみ「わたしと共に集めず、散らしている」と述べている。⇒「アブラハムの裔を集めるキリストの業」

このように、聖霊の業をどう見るかこそが、人々を大きく分かつことを明らかにしているのである。
そこに瑣末なことで仲間を裁く狭量な宗教家の姿を見つけることはできない。
(マルコ9:38-42/ルカ9:50)(マタイ12:30/ルカ11:23)

それゆえ、我々は互いを裁かず、神が聖霊を通して語る時を待つべきである。
そのときこそ、宗派にも他のあらゆるイデオロギーをも超越し、我々個人の真なる深奥の資質、即ち、神を肯んじることができるか否かを問われることになるのであるから。

神の裁きであれば、そのように個人の内面こそが問われて当然ではないだろうか。
聖霊とは、個人の内奥の如何なるかを見極める為の重要なファクターであり、イエスや聖徒らの時代と同様に、終末の「神の裁き」において人知の到底及ばぬ働きを為すであろう。


試みを経て神との絆を選び取る人々について、聖書はキリストの自己犠牲の愛の許に集められ、『神の子』とされることを知らせている。この意味は、神の創造物として完成され『罪』をまったく去って、神と共に生き続けることであるので、試みの後に『死は火の湖に投げ込まれ』もはや存在しないことを示す。

こうして神は創造の業を完遂し、人に自らの『象り』としてその栄光を与える。人はキリストの犠牲によって『神の子』に復帰し、遂に永生に至ることになる。
 




              新十四日派   © 林 義平

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*「悪霊」:天での立場を保たず、人の女と交わろうと人の形をとって地に降り、罪を犯した堕落天使ら。その頭目には、最初の逸脱者サタンが君臨する。
ノアの洪水以降は拘禁状態に置かれ、人にはっきりと現われることはできないが、今日まで曖昧な仕方で様々な不善を為している。能力は人間を高く超えるが、倫理性は相当に低い。人によっては生活に支障があるほど干渉されることもあり、憑依状態や痙攣、体や夢や発言の操作、様々な無い物を見せたり聞かせたりすることも少なくはない。これらに好奇心を抱くことは非常に危険だ。

#「ベエルゼブブ」:本来はユダヤでの異教神の蔑称。元の言葉は「バアル・ゼブル」と考えられており、カナンの神バアル(「主」)のひとつの形態であったが、ヘブライ語で「ハエの王」をもじってこのように呼ばれたらしい。これが第一世紀までに、ユダヤ人の間で卑しめられ悪霊たちの頭目の名称とされるようになっていた。

○「聖徒」:(ハギオス)キリストの信徒の中でも、イエス刑死後の五旬節から聖霊が灌がれ、奇跡的能力の賜物を得た者らで、イエスと共になるために召された格別な人々。 ⇒  西暦第二世紀のキリスト教徒

キリスト教が復活を教えている以上、キリスト教信仰を持って死んでいようが、持たずに亡くなっていようが関係なく、終末の復活後に、聖霊の奇跡の力がすべての人々に改めて示されることになる。


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関連項目 ⇒ 「終末の裁きで何が問われるか
     ⇒ 「聖霊という第三のもの



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「自らの象り」への神の忠節な愛



「神の愛」と言われても。「愛」の以前に、そもそも神の概念がはっきりしていない。
そこへ愛ということになれば、何かを飛び越した印象があって当然であろうし、得体の知れないものに擦り寄られる不気味さすら感じる人があっても致し方ないことであろう。

そこでまず、神を特定しておく必要がある。

この愛の主たる「神」とは聖書にある創造の神であり、自分以外の一切を在らしめた第一原因者というべきものを指す。
この神は創造を企図したときにどのような動機を持ったのかは分からない。
しかし、神は創造物、殊に理知的意識を持ち自らとの関係性を認識できる者らとは、精神意識上の交友を望んだであろう。

それは創造者と被造物、また被造物同士の相互認識と関係性の交流であり、あたかも家族や友人のような姿であろう。それは奴隷と主人のようなもの、あるいは人間界に見られるような尊大な独裁や格差や差別や上下のあるような関係ですらない。
創造者と被造物においてすら、ある意味においての等質性がある。
それを創世記は「神の象り」と表現している。

つまり、神を認識できる被造物は単なる「物」という次元を超えるのである。
聖書の創世記に描かれる創造者は、自らの創造物である人間、その初めであるアダムを非常に愛したところが観察される、即ち、動物たちを彼の前に連れて来ては、それをアダムが何と呼ぶかによって、すべての動物にその通りの名を与えたというのである。自作の表題を誰かに決めさせるという発明家や芸術家がいるとしても、それは相当に愛情の伴う異例なことではなかろうか。

ここで明らかなように、アダムの思考は神から独立しており、それを神は楽しんでいる。そこに様々なキリスト教派がいうような「服従を望む神」の姿は見当たらない。

また、人は物質の地球上の管理のために作られたと書かれているのだが、単なる管理の下僕ではないようだ。
もちろん、ロボットのようなものでもない。
神との相互認識から意志の交流が生まれるが、互いにその関係性を楽しめるものとするために、それらの被造物は、ある種の神と同様の個別の意志を持ち、自由に決定を下せるものでなくてはならない。

創世記で「神の象りに造られた」という言葉が用いられているのは「人」であり「アダム」である。
アダムは「神の子」であったが、天使らも「神の子たち」と呼ばれている。そのそれぞれが自由意思の持ち主であり、神との意思の交流があったに違いない。(列王一22:21)

それは人間をして他の動物たちと決定的に異ならせるもの、つまり本能だけによらない意思の自由、加えて抽象概念の把握もあろう。これなくしては、見えない神を思考することも意思の疎通を図ることもできないだろう。

一方で、神にとっても自らの「象り」としたからには、神がこれを卑しめることはない。
殊に自由意志決定においてこれを尊重するのは神自らの神性を重んずることでもある。
ここに人間のプライバシーを認める理由がある。即ち、意志決定を妨げないことの必然性の存在である。

アダムが「善悪の知識の樹」から食することを、全能の神であれば強制によって妨げることもできたであろう。だが、それではアダムの意志の方向が見えないし、人を「物」の領域に引き下げてしまう。

善悪の知恵の木と永遠の命の木とが植えられたとき、人の前にふたつの道が選ばれるようにされたのであり、神がそれらを設置したのであれば、その選択は人に任されるべきであったに違いない。
しかも、二本の木々がエデンの園の中央に置かれたということは、人の境遇とその選択が関係を持っていたことを物語っている。

創造された生き物の名を付けることを人に許し、その自由な思考を楽しむ神は、ここに於いて、自由意志を更に保つべき行動に出たと言えるのである。
その自由意志は諸刃の剣と成るものであったからであろう。既に一人のケルヴは自由意志を自らへの強い愛着に向けてしまい、創造界の調和を乱し始めていた。それが誘惑者となった『蛇』であることを黙示録が明らかにしている。(黙示録12:9)

そこでは、神が全知であってあらゆる者は神の知りうるところではあるにも関わらず、アダムもエヴァにもその決定を事前に把握することは避け、監視するようなこともしなかった。そうでなければ、アダムを創造することに不利益があるので、はじめから人を造らなかったであろう。全知全能の神が、禁断の木の実を食べたことで隠れた二人を、「どこにいるのか」と呼んで探しているのである。

このように神と雖も、その全知全能性を抑制することは神自らの「象り」を尊重するゆえであり、その目的とするところは真に自由な意思を在らしめるものである。つまり、人を創造した神は「圧制者」ではなく、本来は監視カメラを置いて強制するようなことをしない。

まさしく、燃えて回転する剣と二人のケルビムをもう一本の木の前に置いて、監視させたのは、アダムらが『罪』に陥った後のことであったのだ。

この観点から神を捉えると、創造の神は主権を翳す圧倒的な上位者であることを望んでいないことになる。
これに調和して、人に屈従を強いることは、人が本来造られた「象り」に反することであり、圧制が人間にとって不自然であることは歴史が永らく証明してきたであろう。



-◆創造の意図を離れた創造物-----------------------------------

さて、神は全創造のはじめにひとつの生命を誕生させた。
もちろん人間の創造を遥かに先立ってのことである。
この最初の創造物は格別のものであり、神の象りという点において最高度のもの、「精密な描写」とも言われている。 ⇒ 「ホクマの謎」

箴言八章によれば、彼は神の創造のはじめであるだけでなく、自ら以外のすべての創造に関わった。
それゆえ、彼は神が直接に手を下して創造したということにおいて唯一であり、それゆえ神の「ひとり子」と新約では呼ばれている。

この創造の業への関与の深さに調和して、彼は「神」(定冠詞無し*)であり、「大能の神」(エル・ギッボール)とも呼ばれている。彼は人の創造に関わっており、箴言では人を深く愛したことが伝えられている。(*ヨハネ1:1/イザヤ9:6⇒テモテ第一6:15)

しかし、人アダムは神との関係、つまり最初の倫理性の発露、自由意志の表明において、蛇の道に従い、創造者を創造者として認めない行動をとった。これは神と「ひとり子」にとってさぞや残念なことであったろう。

この選択が及ぼしたものについて例えを用いて説明するなら、性能に優れたコンピュータに自由意思を付与したと仮定する。
自由な意志がある以上、それはもはや単なる「モノ」ではなくなるだろう。
それはある意味で人間のひとりのようになる。このマシンが自らの作り手を尊重しつつ自由意志を行使するなら、それはなんと良い関係となろう。

しかし、これが作り手である人を無視するようになり、その意図に反する決定を下して行動したり、更には作り手を攻撃し害するようになった場合どうなるか?そこに欠落するものは「愛」である。

我々なら、自らが作り手(当該存在の原因者)である以上、その悪意を持った意志の持ち主の存続をやめさせる当然な権限を行使するであろう。まして、それが周囲にまで悪影響を及ぼしてゆくならそれは権利を越えて、存在させた責任をとらねばなるまい。

おそらく同様に、神もアダムについてそのような処置をとった。それは永久に存在することの停止、寿命の付与である。もちろん、こうした事態が発生しうることを神は知っていたに違いない。しかし、自由な意志の尊重のために敢えて犠牲の危険をとったのであり、それが自らとその「象り」とを尊重するからにほかならない。

即ち、被造物が創造者の意図に反して行動し、永久に存続する場合、創造者の意図はいつまでも達成されないことになり、それは作り手の権限を無に帰さしめることになり、それは被造物全体の益にもならない。

こうしてアダムは永遠の生命から退けられ、神の創造物としての本来の栄光や、『神の子』が持つ神との親しい交友から除外されることになった。
そのゆえに地は呪われ、アダムの耕す地面には雑草が繁茂するようになった。それらが生活の糧を得る労働を非常に辛苦なものにして今日に至っている。(雑草は人間の生活圏と密接に関係するという)

また、様々な大地の災害も始まったであろう。
そして「顔に汗してパンを食し、ついに土に帰る」という言葉は今日なお真実ではないだろうか。
それは、人が地を治めるべく造られたという意図から外れたので、地は人に対して必ずしも協力的では無くなることを意味したのかもしれない。



-◆神のひとり子の贖い-----------------------------

しかし、アダムの子孫については、遺伝によって寿命ある生命を受け継いだのであり、彼らが神を神として認めるか否かは未知数であった。それでもアダムは一度の違犯によって、子孫をまるごと神を認めぬ道に引き入れてしまったのである。(ローマ5:12)

現状で、人間は様々な宗教を奉じていてすら、アダム由来の罪(原罪)を免れることは誰にもできず、地上は様々な悪で満ち、強欲からくる争いを特徴とする「この世」が存在しているのである。(ヤコブ4:1-4)

ここにおいて、神と「ひとり子」はアダムの子孫の救済を企図した。(ヨハネ3:16)
人類の失ったもの、つまりアダムに代わる完全な倫理性を持つ生命(魂*)を犠牲として差し出すこと、その代価によってアダムから連綿と続いた人間の生命(魂)を回復するのである。これは「贖い」と呼ばれる。

このことにおいて最適任者は「ひとり子」である。
なぜなら、彼は神に最も信頼されており、紛うことなく創造者を創造者とするであろう。

さらに、彼の創造物筆頭の地位から創造者を尊重する態度が示されるとき、その第二の地位ゆえに全創造界には創造者が創造者とされ、至高者として尊ばれるべき理由が生じ、それは創造界全体に秩序を与え、この『初子』を要として家族のように親密な関係が回復されることになるからである。(コロサイ1:20)
これこそ神もひとり子も意図する世界であったろう。

しかし、それは神にとっても大きな犠牲を伴うものである。
親になったことのある人なら分かると思うが、自分の子の命を誰かに差し出すということがどれほどのものか。
人は我が子のためになら自分を差し出すことも厭わない。危急のときに親にとって子は自分よりも貴重となる。親は子のために猛火の中に飛び込み、猛獣にも立ち向かうのである。
それは人ばかりではない。動物であってすらそれを示す。

それであれば、貴重な「ひとり子」を愛情に富む親が誰かに差し出すとき、そこに何があるのだろうか。

一般常識からすれば、子を差し出すのは親のすべきことではないともされるだろう。
同様に、神に対してその異論を唱えた者がいるようだ。
「蛇」である。

この主張は、ユダヤ伝承に含まれるおそらくの話だが、人間という不義理な輩に神の貴重なひとり子を与えるなど豚に真珠のようなものだとサタンが語ったとされている。
(蛇自身は自由意志から既に神を退けているので、アダム同様に御子の贖いの埒外にある)

この伝承の由来には、アブラハムへの試練がある。
非常な高齢になってからやっと得たひとり息子イサクを、羊のように丸焼きにして差し出せとの指令は聖書の神ではなく、当時のカナンの地の残虐な偶像の神々の相貌を突然に呈する。

だが、アブラハムは自ら信じる神の善性を疑わず、約束にしたがい自分のひとり子を神は復活させてくれるとの信仰を抱いたので、ひとり息子イサクに刃を向けるところまで進んだ。そこで神は遂に声を発して介入し、アブラハムの手を止めさせたが、後にパウロは「アブラハムはイサクを捧げた(も同然であった)」と書いている。(ヘブライ11:17-19)

ここで示されたのは、アブラハムの神への「従順」ではない。
パウロはこう書いている。『彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力があると信じていたのである』(ヘブライ11:19)
即ち、アブラハムは試されたときに、闇雲に神への従順を全うすることに注力したのではなく、神の善性を疑わず、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』との言葉に深く信頼をおいていたのである。
こうして、アブラハムは人間の中にも神を深く信じて、そのひとり子を差し出す者がいることを立証したのであった。そこでパウロは『信仰によって、アブラハムは試練を受けたときイサクを献じた』と記しているのである。

「従順」は自分の想いを別にして従うことを求めるが、「信仰」はそうではない。自らの想いが自発的行動を起こすものである。そうでなければ、神は知的創造物を「物」として支配することを望んでいることになるであろう。

アブラハムが示したのは、神への信頼で結ばれた絆の強さであったということができる。それは人格的結びつきによる彼の判断であって、機械的、自動的なものではなかったというべきであろう。何が何でも神に従うというのは法則に従う物体であって、思考力のある存在がただ言われたままに動くというのであれば、それは「神の象り」を自ら侮蔑することになる。

アブラハムの信仰を創造の神はどれほど悦んだことであろう。
最も貴重なものを差し出しあう神とアブラハムであったので、神と人という言葉の及ばぬほどかけ離れた存在でありながら、遥かな違いを乗り越えて、神はアブラハムを『我が友』と呼ぶようになったのである。このようにされた者は聖書に例を見ないが、この件を通して、まさしく人は『友』とまでされ得るべき、その「象り」に創られたというべき理由も見えてこよう。(ヤコブ2:23/イザヤ41:8)

こうして、サタンの反論は廃され、神はその「ひとり子」、『創造のはじめ』である『言葉』を世に遣わすことになる。
「ひとり子」も喜んでこれに応じたであろう。彼が人を愛したからだけではない、その父を深く愛するゆえに、父を父とし、創造者としての「神性」を立証することは命をも懸けるに足ることであったに違いない。

パウロは「神は我々が敵であったときに御子を通して和解していた」と書いたが、人々が誤解をもって、また無知であるゆえに神を無視しているその間にも、既に神とその御子の愛は我々に対しても完うされたのである。

このように、人類全般に知られない間に神の愛は遂げられ、これは神の最大の栄光となった。
御子の死に至るまでの忠節を通して、自由意志者の間で神が神とされ、その神性が遂に立証されたのである。(フィリピ2:5-11)

この父子の何という強固な結びつき、そして幸福な関係であろう。
ここに比べるべきもない偉大な、そして究極の愛がある。



-◆一度限り立証された神の神性-------------------

御子の死を通して創造者の神性は余すところ無く立証されたので、もはや神からの独立の道をゆく蛇を初めとする「神のようになろうとする」者の存在価値は、神(創造者)と御子(被造物)の固い愛の絆によってまったく否定された。(ヘブライ2:14)

この愛によって創造界が満たされる日がやがて実現することだろう。
それは、圧倒的主権者と被支配民というような人間に見られた過酷な関係ではない。そこで為政者は民の福祉を省みず、民も従いながらも愛しはしない。

しかし、神と御子は人々が敵のようである状態からこれを愛し、最大の犠牲を払って神の家族に迎え入れようとしているのである。

キリストは自らを指して、(家の)「子」が自由にする者は奴隷身分を解かれると語っている。(ヨハネ8:34-36)
現在の人類は、様々な艱難辛苦と老化と寿命の奴隷であり、不公正な政治や市場経済の圧迫、また強烈な権力を翳す様々な脅しに隷属しているのである。

このようにバランスと秩序を欠いて奪い合いと争いの憎しみ満ち、命儚い世に依然として生きる我々ではあるが、神の子となって迎えられ、創造されたままの愛と栄光への内に帰る道筋が御子によって一条開かれた。(ヨハネ1:12)

こうして、政治的権力という一切の強制の必要の無い、また神も権威を翳す必要の無い、あたかも家族のような姿が神と被造物の間に見られるようになるであろう。
何故ならば、政治というものは、人間の不倫理性に対処するための応急処置に過ぎず、貪欲の調停を行う機関だからである。それは常に人類の貪欲への対症療法であるので、様々な矛盾や難題を抱えたまま、度々に機能不全に陥るのである。

また、宗教も同様に、人間の不倫理性のゆえに神と人の間に断絶があるところの仲介を行うための存在である。しかし、これは神の任命した仲介者を介さない限り、人は神との絆を回復することは無いのであり、実際、現今の宗教はみなそのようである。⇒「人はなぜ、苦しみながら政治と宗教を存続させるのか」

神がキリストを通して与えるものは、これら人間には解決不能な陥穽からの救いであり、隷属を去った自由なのである。
仲介者キリストが人にもたらすものは、不倫理性の除去、即ち「贖罪」であり、それは根本治療である。
隷属から解かれたその「自由」を得るならば、人は他者に語るように神に語りかけ、神はイエスにそうしたように実際に答える。
いや、そのときに神は、人から『問われる前に答え、既に語るときに聴く』とさえ言うのである。(イザヤ65:24)

そこでは所謂「宗教」の必要も無くなってしまい、人は「神の子」に復して「罪」のもたらす神と人の断絶はまったく過去のものとなるだろう。

そこで明らかなことは、人を人として創られた神は、強力な主権を翳して支配し「従順」を求めるのではなく、人ひとりひとりの自発的「信仰」を望まれるということである。それが人の自由意志の選択を担保するのであり、信仰を選ばせることで、神は自らの『象り』を尊重される。
それゆえ聖書には、『信仰ゆえの従順』という言葉はあるが、『従順ゆえの信仰』というものは無い。

そうでなければエデンの園に二本の木々は要らず、終末の裁きに於いても信仰ではなく、ただ従順を求めるはずではないか。
人を救うのは「従順」ではなく、明らかに「信仰」である。もし、神が自ら主権者としての支配を望まれたなら、苦しみ充る世も人々も即座に消滅し、サタン諸共にとうに滅ぼされていたに違いない。

だが、神が創造物に望まれたのは、親子のような関係であり、親が子供の上に主権を行使しようとするなら、その親は悪い見本のようなものではないか。 神はいずれ、聖霊によって自らを明確に示される。その時に信ずるか否か、それがアダムの子孫に与えられた二本の木々になると云えよう。(ヨハネ3:36)

さて、我々はこれにどう応じるだろうか?



 


        新十四日派     林 義平
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*文中「生命」に(魂)を付したが、これは初学者のためである。
正しくは「生命」ではなくヘブライ概念の「魂」(ネフェシュ)とするべきだが、理解の混乱を避けた。

 ネフェシュ(魂)の意については以下が関連
  「ネフェシュとは何か
  「ネフェシュの翻訳
  「ネフェシュ 命に優るもの

関連 ⇒ 「神は主権を追い求めるか」
        ⇒ 「神はなぜ信仰を求めるか



書籍 「神"YHWH"の経綸」中巻 の出版案内




上巻がイスラエル=ユダヤ体制の歴史と、メシアの拒否がもたらした結果までを扱ったが
この中巻では、イエスの死と復活の後に初めて現れたキリスト教の初期の姿を描き
それがどのように変質していったかを、キリスト教の略史として現代までの軌跡を見る。


A5版 112頁 電子版発売中 ¥500 ⇒ amazon 
(これらの注文において林義平は何ら個人情報を得ることはない)     

イエスが地上から去ると、神は初代の弟子たちに聖霊の賜物を与え、それはキリストの指導を地上にもたらした。

彼らはユダヤ体制からの反対や帝国からの迫害を受けつつも、与えられた使命を果たし、最後の使徒ヨハネを以ってキリスト教の完成をもたらした。

その間に、キリストの様々な預言や例えは使徒たちを通して実現してゆくのであった。

それから、聖霊によるキリストの指導が終わると、キリスト教界は迷走を始めることになる。

この本の表紙に、ラファエッロの「アテネの学堂」が用いられているのは、その迷走を象徴する図となっており、それは本文中でも紹介される。
しかし、普遍教会の総本山に、このギリシア東方の哲人らが描かれた絵画が飾られているのはどうしたことか。キリスト教界に何が起こったのだろうか?

そして、16世紀には宗教改革の波が押し寄せる。それはヨーロッパを揺るがすだけでは済まなかった。
だが、宗教改革は原始キリスト教の復元となったのだろうか。
信仰の迷走と血の闘争の歴史を追ううちに読者にはひとつのキーポイントが見えてくるであろう。この大きな変革を簡潔でありながらも多角的視点から記述する。

イエズス会の冒険、清教徒らの大陸進出と革命、キリスト教は世界に向けて広がってゆくが、その先にあるものは何であったのか。本書の一冊に原始キリスト教から現代のそれに至る軌跡の大枠が描かれ、読者は次第にある問題に気付くであろう。

では、キリストの初代の弟子たちが聖霊によって築いたキリスト教と、今日に伝わるキリスト教とを比較して眺めるときに人は何を見るのだろう。

本書は、聖書の概略を知った方々に次の段階として「キリスト教」を見直していただくための試みである。
歴史の流れは事項によって分けられ、並列的に提供することで物事の区分を見やすく設計した。

歴史書としての体裁を持たせつつ根幹を成す教理の変遷をも扱っているので、教理と歴史とが初代から今日までを一続きに書き出し、物語のように平易で読みやすく、且つ多くの知識を得られるように努めた。(但し、中世期を省いている)

この中巻に至ってもイエスの言葉は絶えず、むしろ例えや言葉の意味が一層の深さを帯びて現われる。
それは、聖書の言葉が生きて活動しているようであり、それらの適用には、きっと新鮮さを感じていただけるものと思う。


読み手の便宜を図って、聖書の言葉のほとんどは文中に書き出し、重要と思われる語句には原語と脚注を付してある。

上巻と同様に欄を二段に組み、価格の低廉化を図った。
112頁ながら文字が小さい分、内容は頁数の倍ほどになろう。
著者としては、キリスト教にご関心あらば、購入してもご損にはならない一書であるとの自負はあるので自薦致したく思う。



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この中巻での章と見出しを挙げると

「神"YHWH"の経綸」
中巻 副題 「使徒時代からのキリスト教界略史

第三章「キリスト教への次元上昇」
弾圧者の転向   
異邦人への使徒    
律法はキリストへ導く   
トーラーの呪い 
イエスの生き返り    
新しい契約が効力をもつ 
律法の意義   
自ら義なる者と成り得るか   
イスラエルの不足と補充  
ブドウ園の譬え   
「ほかの羊」    
羊の囲いの譬え 
ステファノの死   
使徒ペテロの働き   
ペテロはコルネリオを訪ねる   
賃金の譬え    
取り払われた壁    
使徒パウロの宣教  
ペテロに授けられた鍵   
鍵を閉める    
相続者たち    
初穂なる者たち    
聖域での祭儀    
律法による祭祀 
祭儀が意味したもの  
王国の王なる祭司たち  



第四章「使徒たちの戦い」
イエスの弟    
エルサレム会議    
ふたつの群れ    
続くユダヤ主義    
その後の宣教旅行   
奥義の家令 
エフェソスのパウロ   
エルサレムでの騒動   
ローマのパウロ  
その後のユダヤ・キリスト教    
背教に曝される   
帝国からの迫害 
最後の使徒ヨハネ  
「愛の掟」  
賜物の消失   
キリストの出立 
 
何を以って正統とするか   
護教論    


第五章「ギリシア・キリスト教の辿った途」
ギリシア・キリスト教 
大迫害と後遺症   
ふたつの論争    
ニカイア会議  
国教化に伴う変化    
アンブロジウス    
アウグスティヌス 
パン種とからしの木 
次元降下したキリスト教 
国民皆信徒    
聖書のみ信仰のみ    
大山鳴動して   
戦い終われば    
英国国教会の出現    
清教徒革命   
大陸に逃れる清教徒    
アメリカのピルグリム   
旧約のスタイル 
宗教聖域国家アメリカ 
コンスタンティヌスからの岐路 

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