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原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

2011年07月

賃金の例え話 後の者は先に、先の者は後に




イエスの「賃金」の例え話はマタイ福音書二十章のはじめから読むことができる。
以前にもぶどう園の悪い耕作人たちの例え話に触れたが、ここでもぶどう園のオーナーと作業する者たちが登場する。

初夏を迎え、ぶどうが取り入れの時期になったので、オーナーは収穫作業のために人々を一日一デナリウスの賃金で雇い入れる。しかし人手不足なので午前九時ころに公共広場に行き、その日に仕事がない男たちをも日雇いにして自分のぶどう園に追加の労働力として送り込んだ。

しかし、相当な豊作だったのか昼頃にも同じように人手を増強して、さらに二回、つまり合計四回人手を送込んだ。そのため、朝からの者らの労働は十二時間にも達していたが、最後にぶどう園に着いた者たちは、わずか一時間働いたのみであった。

こうして夕刻になると、オーナーは最後の者から始めてどの者にも同じく一デナリウスを支払った。そこで収まらないのが最初から働いた者たちである。オーナーに向かって『最後の者たちは一時間働いただけなのに、あなたは日がな一日の炎暑と労苦とを耐えたわたしたちを等しくした』。(マタイ20:12)もっともな主張ではある。

だが、これは適正な労働賃金について説明する話ではない。オーナーの答えは『同胞よ、わたしはあなたに不正をしていない。あなたはわたしと一デナリウスで合意したではないか。自分の分を取って行くがよい。わたしは、この最後の者にもあなたと同じに与えたいのだ。わたしが自分の物をしたいように使うのは当然ではないか。それとも、わたしの気前よさが、あなたの目には悪く見えるのか』。というものであった。

-◆足りない選民「イスラエル」への異邦人の補充---------------------

イスラエルの歴史は非常に長い。
我々は彼らの父祖アブラハムへの約束やモーセの律法が与えられてからのこの民族の歴史をかいつまんでみて来た。彼らの不従順が原因とはいえ、その歴史は苦難の連続であった。
彼らはまる一日の労苦と暑さを辛抱した最初からの労働者のようである。

対照的に、コルネリオのような割礼も受けず正しくユダヤ教に改宗もしていないまったくの異邦人はどうであろう。ユダヤ人がやっとの思いで辿り着いたメシアと聖霊に一足飛びに預かってしまった。いまや彼らは「諸国民の光」となるべきアブラハムの遺産を受け継ごうとまでしているのである。

しかし、ユダヤ人のイエス派信徒の大半はトーラーの教えから脱却するのに手間取り、異邦人信徒のように身軽にイエスの新しい教えに合わせることはできなかった。キリスト後も使徒たちは依然としてエルサレムの神殿を中心に活動しており、エルサレム倒壊以前に新たな見方をはっきりと培っていたのは、異邦人への鍵を開いたペテロと、新たな使徒パウロなどの少人数のように聖書は読める。

西暦60年代に入るころになっても、ユダヤのイエス派信徒は数万いたとあるが、それは全体からすれば僅かな数である。おそらくは十分の一以下はもちろん、ユダヤ人と名の付く人々の百分の一にもならなかったかも知れない。イエスをメシアと認めた少数派の彼らは敬虔なユダヤ教徒でもあった。だが、当時のイエス派ではペテロやパウロの活動に明らかなように、異邦人による選民への補充というイエスの意図は同時進行している最中であった。
しかし、「異邦人は汚れたもの」という律法的思考をユダヤ人はそう易々と変えることはできない。まして現状で律法の規定に従う生活をしていれば、それは無理といっても過言ではないだろう。

だが、こうして我々は、イエスがユダヤの律法体制の『囲い』にはいなかった『この囲いのものでない』羊を連れてくるということ(ヨハネ10章)に関して、この譬えの最後の言葉『後の者は先になり、先の者は後になる。』(マタイ20:16)という例え話を締め括るこの言葉が現実性を帯びるのを見る。

この「賃金の例え」は、直接にはイエスの言葉を聞く使徒たちへ向けた警告となり得た。彼らはユダヤ人であり、彼らがこの例え話を仲間のユダヤ人信徒に言い伝えることで、間接的に同胞のイエス派信徒たちにも遺産相続を異邦人にも許す覚悟を固めさせる効果もあったろう。

つまり、キリスト以後「異邦人の罪人」までもがアブラハムからの相続権を得たとしても、ユダヤ人たちが不公正に受け取ったり、嫉妬しないためである。

これが語られたのはイエスの刑死が近づいた春先で、主を含む一行がエルサレムへの最後の登城をする旅程の中にあった。

すでにユダヤでは、祭司長派によって体制としてナザレのイエスを退ける算段が進んでおり、メシアを信仰の内に捉えるのはユダヤ体制の全体ではなく、僅かな「イスラエルの残りの者」だけであることは確定的であったから、アブラハムの相続財産を受ける『王国』を構成するにはユダヤ人だけでは不足すること、そしてその補充のために異邦人でイエスをメシアとして信じる者らを、その血統によらず信仰によって真のアブラハムの胤として集め出し、『メシアの王国』「神のイスラエル」を実現させる必要はもはや動かしがたい現実として眼前に迫っていたのであった。

後に使徒パウロは、この補充について果樹園のオリーブの樹の接木の例えを用いて説明している。(ローマ11:13-)イスラエルというオリーブの樹に実を結ばせるために本来の枝は折り取られ、異邦人という野生ながら良好な枝が接木されて、イスラエルの樹全体が満たされ「数が揃う」と言っている。(一定数であり無制限ではない⇒「聖霊と聖徒」)

しかし、そこではユダヤ人と異邦人という二つの群れが生じる事態をすべての弟子は乗り越える必要があり、これは後にエルサレム使徒会議を要請し、イエスの弟ヤコブの寛容な裁可を以って、当時には律法に従い続けるユダヤ人イエス派と、律法の頚木を負わない異邦人イエス派とがそれぞれ共栄する道が開かれたのであった。(エルサレム会議のヤコブ

しかし、それでもユダヤ優等主義はエクレシアからは絶えず、使徒パウロは生涯を通してこれと戦い、これによって逮捕投獄され、これのためにローマに送られてもいるのである。

それで、このイエスの「賃金の例え」に見るように、ユダヤ人の永い歴史に亘る神の経綸との関わりが、遺産相続における代価の受け取りに反映されていない、また不公正であると、初めからの労働者たちに相当するユダヤ人らが見做されることは無理からぬものであろう。それゆえにも、イエスはこの例えを話しておくことにしたのであろう。

あのシャヴオートの日には、祭りに登っていたユダヤ人に「聖霊」を通して遺産相続が約束されたのだが、その日から遠からず使徒ペテロの活動を契機にサマレイア、そしてまったくの異邦人たるローマ人へとアブラハムからの相続権が聖霊の降下と共に広げられていったことは、ユダヤのイエス派信徒に少なからぬ動揺をもたらしたであろう。(使徒11:1-2)

ユダヤの優等性を図りたいユダヤ人が異邦人のイエス派信徒に向かって、ユダヤ教への改宗者のように割礼を受けるべきだと主張したとしても想像の難しいことではない。(使徒15:1)
彼らにとってメシアを受け容れるということはユダヤ教の完成を意味したのであり、実質的に「古いぶどう酒は旨い」と言っていたに等しい彼らは、後のキリスト教という世界宗教への脱皮を果たすことなどは概念すらも持たない。(ルカ5:39)

ただ、彼らとて神意である天からの聖霊の導くままに任せるより他無かったが、その聖霊は無割礼のままの異邦人にも向かっていったのである。確かに、賃金の支払い方としては公正とは言えないだろうが、そこでは神の選んだ国民(出埃19:6)の不足が、真のアブラハムの後裔「神のイスラエル」の数を満たす必要をして、ぶどう園のオーナーに「気前のよさ」をもって振舞わせたのである。つまりは、『働き人』の不足がもたらした事態なのである。

明らかに、キリストが去ろうとするこの段階で、ユダヤの不信仰による「人手不足」は深刻なほどであった。
それはつまり、『神の王国』『聖なる民』となるべき都市国家「聖なるエルサレム」を構成するべきユダヤ人が少な過ぎ、当時のユダヤ体制はメシアを拒絶し、招かれていたのに『結婚式には行けない』と言ったのであった。(マタイ22:1-10)

この件がはっきりとした段階での、「賃金の例え」を語っていたイエスの意志は、聖霊の活動によって「神のイスラエル」の信仰ある異邦人を採用しての補充へと動き、民族的国家教から世界宗教への方向性を明示し、それは誰も抗い得ない神の経綸となった。

こうしてアブラハムに語られた、人類全体を祝す手立て『神の王国』、キリストを主要な王また大祭司とする人類救済の『天の王国』が、ユダヤ人の不信仰と失敗を乗り越え実現へと向かう道を進み始めたのである。




                     新十四日派    © 林 義平
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以上は拙著「神YHWHの経綸」中巻からのダイジェスト

関連記事
ユダヤ人と異邦人のイエス派信徒を共栄を目指した
エルサレム会議のヤコブ


契約の箱 アーロン ハ ヴリート


 イスラエルがエジプトを出て二年目、彼らを奴隷状態から請け戻した神、YHWH*を崇拝するための取り決めがシナイ山麓の荒野で確立されようとしていた。
*(【יהוה】今日、この聖なる神名の発音は失われているので相当英字YHWHで記す)

 それは民の罪を贖う祭祀を行うための祭壇や什器と天幕の製作であったが、最も聖なるものであったのが「契約の箱」
アーロン ハ ヴリート【 ארון  הברית  】であった。

 その箱は乾燥地でも生育するアカシアの材木で作られ、それには金が被せられていた。
設置のためのアールが施された脚が四隅にあり、運搬のために二本の担ぎ棒が同じく金を被せられ、脚の上の金の輪を通すように作られた。箱の大きさは長さが1メートルと少し、幅と高さは70センチ足らずであり、そう大きなものではない。しかし、これが天幕での崇拝の中心を成したのである。

 これら聖なる物品を運ぶのを許されたのは、出エジプトの晩の子羊を以って神に買い取られたレヴィ族、それもコハト系の者らだけが祭司とされその任にあった。(民数記3:45/4:4/8:16-19)
 移動の際、彼らは二本の棒を手に持つのではなく、神輿のように肩に担ぐよう命じられたが、衆人が見ることのないようにと、移動時には、安置された天幕部屋の仕切りの青幕をそのまま用いて箱が覆われ、そのうえにジュゴン(アザラシ?)の皮の覆いを重ねられたのである。

 こうして、この箱は移動するときも人目を避けたが、それは人間という罪あるものが神の栄光をうっかり目視して落命しない為である。

この聖なる箱は、安置されるときも人目はおろか祭司らの目にもつくこともなく、明かりも無い天幕の奥の部屋にあった。モ-セがこの神を「暗きに住む方」と呼んだ背景にはこれがあったのであろう。

それは「証しの箱」とも呼ばれる。
何の証しかといえば、イスラエル民族が、モーセを仲介者として神との律法契約を結んだ関係にあることの証拠である。

天地万物を創造した神がイスラエルという一民族に帯同する根拠は契約契約にあり、それを最も端的に証すのが律法の最初の十か条が刻まれた二枚の石板といえるだろう。
石の板は大きさにもよるが重さも軽くはなかったろうから、それを納める箱も頑丈なものであったに違いない。

加えて、荒野でイスラエルが神に日々養われた証しとして「マナ」を入れた金の壷、そして、神に近づき祭祀を行う特権がアロンの家系にあることを証すアーモンドの花が咲いた杖が箱に入れられた。

これらの証拠の品々が箱に入れられ、その箱は神YHWHに過越しの子羊を以って買い取られたレヴィ族の祭司らの肩に担がれて移動し、天幕が張られると奥の至聖所に律法の巻物と共にセットで安置され、それらは「律法と証し」とも呼ばれた。(申命記31:26/イザヤ8:20)
即ち、契約条文と御璽という役割である。

殊に、約束の地で最初に占領することになるエリコ城市に対しては、神がイスラエルに加勢することが明示されるかのように、契約の箱はショーファール(羊角笛)の吹奏される中、七日間その城壁の周囲をレヴィ族の祭司らの肩にあってイスラエルの将兵と伴に周回し、その後、堅固なエリコの城壁も人手によらず崩れ落ちている。(ヨシュア6章)


契約の箱がこのように扱われたのは、神がイスラエルと共にあって戦ったこと、そこに契約があることを印象付けたことであろう。これはモーセの時代にも示されていたことであった。彼は契約の箱が移動を始めるときには『YHWHよ、立ち上がり給え。御身の敵の散らされんため・・』と言い、至聖所に安置されるときには『帰り給え、イスラエルの千万(ちよろず)の元へ』と言った。(民数10:35-36)

しかし、イスラエルへの神の随伴は契約の履行あればこそのものであり、彼らといえど、神の前には罪ある死すべき人間であることには変わりはない。
 そのことを知らしめるのは、その箱を一瞬であっても見た者は死に至ると警告されていたことであろう。例外はモーセであり、従者ヨシュアを帯同して会見の天幕に入り、モーセは箱の前で神と『顔と顔を合わせて話す』のであった。これはシナイ山の結界に入域したモーセという契約の仲介者の役割の偉大さを物語っており、後のメシアに通じるものがある。

 アダムの子らは神の聖さに到底達しないので、人間は神との間に魂(血)の犠牲を挟んではじめて一定の交渉が許されるのみである。そのことを象徴するのが神の要求した動物の犠牲であったことは律法に見る通りである。

また、イスラエルが律法の履行を怠ったり、神YHWHの崇拝の聖さを損なったりしている間はそこに契約の違反があり、この箱を担ぎ出したからとて神は彼らに随伴することはなかったとしてもそこに神の側に責はない。(申命記28章)



-◆「証し」の誤用--------------------

その顕著な例が、士師時代の大祭司エリのときに起こった。
彼のふたりの息子は神の崇拝のための天幕での奉仕において、恣意的で貪欲であった。これを神が悦納されるはずもなく、このふたりの息子が死んで契約の箱も異邦人に奪われることが予告されていたのであるが、地中海の海沿いに住むフィリスティア民族との戦いに難渋していたイスラエルの軍は契約の箱を陣営に招きいれることでエリコのときのような勝利を得ようと考えたのであろう。

だが、「イスラエルの聖なる方」YHWH神の崇拝は大祭司の息子らによって既に汚されており、神の同行は望めない状況にあったのである。
それでも、大祭司の息子ふたりに伴われて契約の箱が陣中に入ると、イスラエル軍はあたかも既に勝利したかのように歓声をあげ、その騒ぎを聞きつけた敵軍は動揺し、却って決死の覚悟を固めたのであった。


 もちろん、神の神聖さを蔑ろにしている民族を契約の神が助けはしない。慢心するイスラエルはフィリスティアの前に打ち破られ、大祭司の息子はふたりとも死に、契約の箱すらも敵の手に渡ったのであった。

 しかし、神YHWHは自らの聖さについて譲ることなどはけっしてない。まことの神は神でなくてはならぬ。(イザヤ48:11)
契約の箱はこの神の臨御を表すものでもあったから、この箱の処遇に対してYHWHは行動する。


 フィリスティアはイスラエルからの分捕り物である箱を喜び、彼らの神ダゴンの神殿に奉納したが、これは大いに後悔することになる。
 朝になって見ると、ダゴン神の偶像はYHWH神の箱の前に倒れており、その翌朝もそうであった。しかも、二度目にはフィリスティアの主神ダゴンの首と手が外れてしまっていたのである。
 ここにおいて、「我が栄光を偶像に与えない」と宣言する神YHWHの優位性が示され、その名はエジプト以来、再び高く挙げられたのである。(イザヤ42:8)

 それだけではない、フィリスティア全土を痔の疾患が襲った。かつてイスラエルの神がエジプトで行ったことを恐れる彼らは、災厄の継続を恐れて契約の箱を返還することにする。
誰にも御されない二頭の牝牛の進むままに箱を載せた車はユダの山地に向かって進み、シェフェラの台地に登って、ついにベトシェメシュの街に着き、箱はそこに留まったが、こうして契約の箱は「自力で」イスラエルへと戻って来たのであった。
しかし、YHWHはその地のイスラエルの民を打って死に至らしめたのである。それは箱を直に見てはならぬという律法の戒めの違反が生じたからであった。戦闘での箱の扱いからすれば、不敬なこともしたのであろう。(以上サムエル第一16章)(ベトシェメシュの住民は、覆いを外して中を見聞したのだろうか?)

 この一連の出来事は、神YHWHの変わらぬひとつの姿勢を明らかにしている。
 即ち、至高の神の持つ聖性さの不可侵である。
 当時のイスラエルは神の臨御を勝利の護符のように利用しようとしたのだが、彼らは明らかに神からの観点を欠いていた。「イスラエルの聖なる方」を自分の益のために用いようと、その聖さを地に引き下ろそうとしたのである。



-◆奇跡のシェキーナー光--------------------

 時は過ぎ、ダヴィデ王朝の時代に契約の箱はモーセ以来の会見の天幕からソロモン建立のエルサレム神殿へと移った。
 神殿内の奥の部屋、「至聖所」(ハ コーデーシュ ハ コダーシム)に覆いを外して安置される。

 そこでは、天幕のときのように箱の上に雲が現われ、臨御を示す奇跡の光が宿り、明り取りの窓も燭台もないその部屋を照らしていたであろう。それゆえ神殿を建立したソロモンは、『YHWHは濃密な暗闇に住まう』と神殿奉献のときに述べている。(列王第一8:12)
 年に一度、贖罪の日(ヨム・キプル)の儀式のために至聖所に入る大祭司は、この臨御光の明かりによらなければ充分な祭祀を行うことはできなかったに違いない。その大祭司も、至聖所を香の煙で満たすことで神の前から生還する道筋をつける必要があった。そのときの大祭司の緊張はどれほどであったことか。(レヴィ16:2・12-13)

 大祭司は年に一度、契約の箱の前に携えた牛の血を指先ではね落とすが、それを以って自分自身と同族レヴィの祭司たち、そして最後にイスラエルの民の贖罪を行うのである。従って、『贖罪』つまり罪を赦されるために、この箱は至聖所と共にモーセの幕屋の時代から必要不可欠であった。 

 その臨御を表す奇跡の光(シェキーナー*)は、箱の蓋の上方に現われたというが、この箱の蓋については格別である。(*שכינה「臨御」を意味するアラム語でユダヤ人にはそう呼ばれたが聖書中には使用されていない)

 箱はアカシアの材木で作られ、金が被せられていたが、その蓋そのものはすべてが金そのもので作られた重いものである。その重さは箱を簡単に開けることのないよう守るものであったろう。

 その蓋が「宥めの蓋い」(ヘブライ語 כפרת 「カッポーレト」の「宥め」と「蓋い」との重なる意をかけた呼び名)と呼ばれたからには、原罪ある人間に対して至聖なる神が怒気を発し滅ぼすことのないよう防ぐ働きがあったであろう。年に一度のヨム・キプルの贖罪の血はこの「宥めの蓋い」の前に振りかけられた。それを以って神は宥めを受け入れたのであったが、後代、この宥めはキリストの血によってまったく満たされることになる。

 箱にはやはり金の翼天使ケルヴが打ち金細工で二体作られており、それぞれは向かい合い、且つ顔を下げて中央に向かって翼を広げていたが、その双方の差し伸べられた翼の先端上方に雲が現われるときは、その中に臨御の光が宿っていたという。


 箱やケルヴィムは人間の作ったものながら、この臨御の光は超自然の現象であり、確かに神YHWHは偶像の神のように背光の彫刻を人間に作ってもらう必要のない「生ける神」である。(レヴィ16:2)

 神YHWHはその雲の光から話しかけ、モーセや大祭司に応じた。(レヴィ7:89)
 ヒゼキヤ王が「ケルヴィムの上に座する方よ」とYHWHに呼びかけたときには、至聖所に入らなかったにせよ、おそらくこの箱に向かって国の危機を訴えていたのであろう。
神はそれに答えて、アッシリアの大軍を一晩で壊滅させている。(列王第二19章/イザヤ49:8)

 こうした全能神の一民族への帯同は、箱の中に在って「証を成す」石板に象徴される「契約」の上にはじめて成り立つ。それは至高の神が特定の民族や人に許した関係であり会見であった。(出エジプト24:11)



-◆「証し」の行方-------------------------

 しばらくして、アブラハムの嫡流は分裂し、北のイスラエルと南のユダの二国家となってしまい、ユダにおいても契約は軽んじられ、神の聖性についても顧みられることはなくなってゆく。

 旧約聖書で最後に箱が言及されるのはユダの最後の善良な王ヨシアの時代であった。
彼の先代の諸王がYHWHへの崇拝を意に介さないばかりか、異教の偶像をさえ神殿に持ち込んでいた時代の後に、このヨシア王が立ってユダ王国をYHWHの崇拝に戻そうと努力を始めたところ、箱と共にされていた筈のモーセの律法の巻物が発見されたのである。

 巻物の内容が明かされると、イスラエルの民が如何に律法を破ってきたかにヨシア王は愕然とする。彼は直ちに祭り(過越し)を国中に布告し、清めた神殿に箱を再び安置するのであった。これが聖書中で箱が地上にあることを確認できる最後となった。(歴代第二34章)

しかし、風雲は急を告げていた。
YHWHはイスラエル民族の律法不履行のゆえに、契約解消の決意はもはや翻ることはなかったのである。
押し寄せる「黒雲」である大王ネブカドネザルと新バビロニアの獰猛な兵士にユダとエルサレムを罰することを固く思い定めていた。だが、それは「イスラエル」と名の付く民をまったく捨て去るものではない。神YHWHはその「友」アブラハムへの約束を血統によらない「イスラエル」を通して果たすであろう。(ガラテア6:16)

 やがて、ユダとエルサレムは攻撃を受けて、聖都も神殿も破壊され、神聖な祭祀に用いられる什器類も民と共にバビロンに移されるのだが、その什器類のリストの中に箱が登場しない。
 バビロンの兵が神殿に張られた金まで剥がしたというなら、金で覆われたこの箱を見逃すはずもないであろう。

 そこで考えるのは、イスラエルに頼らず敵中からでも奇跡を起こしつつ自力で戻ってくるような神秘の箱であれば、人間のように身の処し方に困るようなことはない。
神が契約を潰えたものと見做したので、神殿の荒らされるに任せたとしても、自らの威光を汚させないために神が箱を取り去ったということだったのであろう。確かに、証しの箱は他のあらゆる什器にない神の臨御と栄光を表すという極めて特殊な役割を持っていたからである。

 この聖なる箱の行方について、外典によれば箱はエレミヤが洞窟に隠した*ともファラオ・シシャクが持ち去ったともいうが、どちらもその意義は薄い。(*マカバイ第二 2:4-8/また、以下にあるエレミヤ自身の預言3:16と矛盾する)



-◆「証し」のない時代-----------------------

 契約の箱が単なる人間の所有物であるとするなら、それを探すことに理由もあろう。しかし、YHWHが永遠から永遠に生きるという神であるならそうはならない。(詩篇90:2/ハバクク1:12)
イスラエル民族の律法不履行が神の目に決定的になったとき、人が証書を引き上げるように、神はその契約の証しを処分する権限を有したに違いないからである。

 バビロンから帰還した民が第二の神殿を建立して祭祀を復興させるにあたって、彼らは不思議なことに契約の箱の無いことを聖書中に一言も問題として語らない。エレミヤの予告した『民はもはや箱を造らず』の時代の到来を意識したのだろうか。(エレミヤ3:16)
 それは、最初のものに比べれば威光の劣る新しい神殿と共に、彼らの咎がそこに見え、契約の証しを取り上げられたことに何の異議も唱えることができなかったのであろうか?(エズラ3:12)

 ともあれ、エレミヤを通して「新しい契約」が知らされており、帰還以降の民はこれを待っていた。証しの無い時代は彼らに仲介者モーセの契約に代わるメシア=キリストによる契約の到来をより強く期待させることになったであろう。加えて、モーセのような預言者となるという謎の「メシア」へと思いを集中させる作用もあったことであろう。(申命記18:15)

 おそらくは、ヨシア王の死後から聖都陥落の以前のどこかで、神の意志により箱は人手によらずに移され、人の目からは行方不明となったのであろう。そうであればこの箱が地上で発見されることはない。
もし見つかったとなれば、人間はこれを偶像視したり揶揄したり、好奇心に任せて勝手放題なことをこれに行おうとするだろうが、人の手垢などは到底、至高の生ける神の許すところではないであろう。まして、戻そうとの神の意志があったなら第二神殿に帰ったに違いない。


 キリストの近づいた西暦前63年、ローマ軍を率いた将軍ポンペイウス自身が第二神殿の至聖所に騎乗で乗り込んだが、(汚れた)異教徒の将軍は神に打たれることもなく、そこには律法の巻物は見たものの、やはり証しの箱は見なかったという。もし、そこに聖なる箱と臨御の証しの光があったなら、おそらく彼は至聖所から生還しなかったのであろう。(ネヘミヤ6:11)

 イエスが登場した頃のユダヤ人は、証しの無い律法契約の不完全さに先祖の違反の影を見ていた人々も多かったであろう。そのような人々は祭司ゼカリヤの子ヨハネの施す「悔い改めの」バプテスマを受け入れる素地があったと思われるが、他方、「律法と証し」の内の「証し」に相当する「箱」が失われているにも関わらず律法条項の墨守に血道を上げようとする宗教家らの熱心は、イエスを受け入れる柔軟性を失っていた。



-◆新しい契約の証し------------------------

 さて、聖書中で箱が次に登場するのはヨハネ黙示録の一回のみであり、しかも箱は地上にないことが明かされる。
その場面は、神が人類の反対勢力に対して行動を起こすところ、つまり裁きの日に、天の神殿に箱が見えるのである。天の神殿とは、キリストとその共となる十四万四千の真のイスラエルたち全体のことを指すのであれば、その神殿が黙示録の指し示す将来に天で完成し、そこには契約の箱を収めるべき至聖所も存在していることを示す。(黙示録11:19)

 それはモーセの律法契約ではなく、キリストを仲介者とする「新しい契約」に属する「神のイスラエル」に対して生ける至高の神が帯同し、その勝利が間違いないことを証しする目的でも語られているのであろう。
 この戦いにおいて、新たな証したる「聖なる霊」に抵抗する人類の全軍はまったく敗北することになるので、その戦いは「勝敗の顕著な」という意味で「ハルマゲドンの戦い」とされている。それは古代に、箱がイスラエルにもたらした圧倒的な勝利をも上回るものとなるのだろう。(黙示録16:16)

 それゆえ新しい契約にとって箱の有無は問題ではない。
それは『契約の箱を思いに上らせず、惜しみもせず、作ることもない』イスラエルの回復の時代を述べたエレミヤの預言が示すように、それは過去のものとして黙示録に援用されるばかりとなった。(エレミヤ3:16)
しかし、律法が過去のものとなっても、その一点一画は滅びないとされたように、かつてそれに伴った「証し」としての立場を持つ「契約の箱」も、黙示録に現れるように永遠のものとされているのであろう。(マタイ5:18)

 モーセの仲介によってシナイ山麓で締結された律法契約が地的なものであったゆえに、「契約の箱」も地的なもの具象物であったが、新しい契約は天的なものであり、その証しも抽象物となる。それはキリストの弟子らにあって「聖霊」の降下であったと思われる。(使徒2章)

この点、「新しい契約」の証しは「聖餐」という儀式ではなく、明らかに生ける力たる「聖霊」である。
今日、仮に神の是認し帯同する宗派なり組織なりが存在するとしたら、そこには誰にも明らかな、いや圧倒的で驚嘆すべき「聖霊の賜物」が在り、それを以って神の証印が押されているであろう。 ⇒ 『聖霊の賜物』 パルーシアの標識

 その神からの霊の賜物は、彼らが『神のイスラエル』に選ばれ召されたことの仮の証し(約束手形)であったとパウロは書いている。(エフェソス1:13-14/コリント第二5:5)

 証明するものが存在するのは、未確定な事柄があるからであって、律法契約も新しい契約も、それが成就するまでは証明物の存在価値は大きいが、一度、契約が終了するなら、その証は破棄されても記念物とされてもよい。つまり存在は必ずしも要請されない物となる。

 したがって、我々にとって重要なものは「証し」よりもそれが証す契約の実体である。つまり、そこにどんな契約あったのかということであり、それはあらゆる契約においてもそうであろう。

 それでも、「契約の箱」は人々の好奇心を惹起する、ある人はそれを「歴史のロマン」ともいうかも知れない。
 だが、どれほどの人がこのエレメントが証していた神との契約の方に思いを致すのだろうか。

やがて、「契約の箱」に代わる「聖霊」という証しは「新しい契約」と「神のイスラエル」を指し示すことになろう。
その証しのゆえに、我々は神を神とするべき時期がくるだろう。
そこでは好奇心でもロマンでもない、そのとき神聖四文字から遂に明らかにされる聖なる神名への信仰こそが必要となる裁きの日となるであろう。(使徒2:21)



  ⇒ 神名浄化の至上命題 「シェム ハ メフォラーシュ」



                                                                         



             新十四日派  © 林 義平


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 ブログ内の記事一覧








契約の箱

書籍 「神"YHWH"の経綸」下巻 の出版案内


林 義平の 「神"YHWH"の経綸」は、2011年6月に「中巻」を紹介した。
ここでは結論部分である「下巻」をご案内したい。


この「下巻」では「原初史と黙示録、そのアルファとオメガ」と題して、それまで語られた聖書歴史と神の意志のそもそもの根本と結末に目を向けてゆく。

人類の抱えている最大の問題は何だったのか?
それは古来ギリシア人にもインド人にも、そして近代以降も世界中で示唆され続けてきたひとつの問題であり、それは政治と宗教を生み出してきた原因である。



KS11087a


「神YHWHの経綸」 下巻 
「原初史と黙示録、そのアルファとオメガ」
 A5 118頁 ¥500
電子版発売中 ⇒ amazon
(これらの注文において林義平は何ら個人情報を得ることはない)  



何故アダムは試されたのか?
全知全能の神が介入しなかったのは何故か?

創世記冒頭の三章は、今日の人間の空しい在り様を決定付けたが、同時に一条の希望を残していた。

その道はキリストの到来によって更に啓示され、使徒や弟子らを通して語られてゆく。

遂に最後に残された使徒ヨハネによってキリスト教が完成を見、イエスの語った王国が千年続く現実のものであることが示される。

永い人類史に神はひとつの意志を持ち続け、それは最終的成就に向かって現在もその歩みを止めていない。

キリストのパルーシア(臨御)とそのエピファネイア(顕現)とが意味するものは何か?


アダムとエヴァの起こした問題とその結末。
そして、我々は「エデンの問い」の裁きのときにどう関わるのだろうか?

本書では、これらに加え人類がこの「ひとつの問題」をめぐって苦悩の迷走を続けた様も描かれる。
それは現代人に影響を与え続けており、いまやその問題は容易ならぬ段階に近づいていくように観察される。人はその問題のために苦しみ、奪い、戦って血を流してきたが、その「ひとつの問題」とは人間が誰も避けられない「倫理上の欠陥」である。
しかし、神の意志たる「経綸」も成し遂げられるべき時が刻々と近づいている。

キリストの教えに沿う精神は何か?
また、それが問われるのは何故か?
人類を二分するであろう「問い」はどのようなものになるか?

前二巻で語られなかった原初史とヨハネ黙示録をここに含んで聖書のおおよそが網羅され、神YHWHの経綸を俯瞰する試みも完遂を迎えるのである。こうして聖書全巻の告げる意味が見えてくる。

本書は、前二巻のように「キリスト教にご関心あらばお薦めしたい・・」といえるものとはならなかった。
この内容は、ニカイアに基礎を置く伝統的主要三派の「グレコローマン型キリスト教」を超えてしまっているため、同意しつつ読めば「中世的キリスト教」概念は前二巻に増して覆り、おそらく政治についても読者諸氏の見方が大きく変わることもあり得よう。

この書の目指すところは、ニカイアより二百年以上古い、使徒ヨハネの声の残響していた西暦第二世紀初頭の小アジアのキリスト教への回帰であり、そこでは新旧聖書の語り続けてきた人類の直面していながら、人々の意識が向いていない最重要の問題が提起されている。
それは個人を益するばかりの「ご利益信仰」と化した大半の「キリスト教」とは異質であるため、保守的な人々からは特に禁断の書のように見做されるのかも知れない。

それでも筆者としては、この内容を公にしないわけにはゆかない「意味の重さ」を感じ続けてきたのであり、そう促しているのは自らの価値観である。
それで、この下巻の発刊を以って、着想から数年負ってきたこの重い荷をひとまず降ろせたと感じられ、多くの資料を開示くださった関係各位と執筆の環境を維持頂いた方々に感謝する次第である。

それでも、筆者には霊感があるわけでもなく、誰にもある間違いを免れないし、学習不足の恐れもある。
もとより自分がまったく正しいと唱えるわけでないのだが、書中で展開される「ひとつの見方」に注意を払っていただけさえすれば真に幸いである。

この観点から、社会と聖書とを観察し直すときに見えてくるものがきっとあると思う。それはこれからの将来を神との関係において人として歩む仕方にヒントを与えるだろう。神の次なる行動を示唆しているからである。
(それについては、黙示録一書の全解説を書きあげられるなら、さらに明瞭に書き出すことができると思う)


この巻でも、読み手の便宜を図って、聖書の言葉の多くを文中に書き出し、重要と思われる語句には原語と脚注を付し、前二巻と同様に欄を二段に組み、価格の低廉化を図った。
118頁ながらA5版に文字が小さい分、内容は頁数の倍ほどになるだろう。   



                                              林 義平

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