つまり、命の危険なくイスラーム教徒にキリスト教を伝えることができるという、云わば「暢気」で絶好のチャンスであった。三ヶ月くらい継続したろうか。
相手はパキスタンから来た熱心なイスラームで、母国から毎週のように届く指導者の講話のヴィデオをよく再生していたものだった。そこには、彼の両親が異教徒の国でイスラームから逸脱しないかという心配の大きさが伝わってくるように思えた。つまり、わたしのような悪い虫が付かぬように、である。
聖書を学ぶといっても、まずパキスタンでは家族親戚の反対に遭ってできないことである。
私は最初、彼をキリスト教に招じ入れたいものだと思ったのだが、すぐにそれが現実的な希望ではないことを悟るようになった。
それで、キリスト教が何を言っているのかを知識として伝えるという、一歩下がった目的に切り替えた。というより、そうせざるを得なかった。
聖フランチェスコが失敗しただけのことはある!
というのも、彼は日本に住んでそこで働いてもいたので、日本人とその考えの傾向や生活スタイルにも慣れていたし、日本人を愛好していることは明らかであった。そして日本語も極めて上手かった。
だが、それもやはりムスリムとしてであり、その立ち位置を変えるつもりはなかったのである。
それはヒンズー教徒でも同じと聞くが、他の宗教に宗旨替えでもしようものなら、親子であっても命を狙うという。
ひとりのインドの友人はそう言っていた。況やムスリムをや。
それはまるで「マテオ・ファルコーネ」の義のようだ。私が同じ事をパキスタンでしていれば、どうやら頭と胴はつながっていなかったようである。
(21世紀でもアフガンで韓国の教会員がこれをやって死んでいるし、フィリピンでも伝道者の首が切られた)
もし、彼が改宗でもしていれば、日本に居たとしても二人とも命の危険があったのである。
そんな馬鹿なと思えるなら、あなたは平和慣れし過ぎなのかも知れない。
そこは、暢気で宗教にニュートラルな日本人とは出発点からして大いに違う。
それを言うなら、異なるキリスト教宗派の信者を相手にすることすら遥かに容易に感じられたのである。
私が最初に突き当たった壁は、旧約聖書の創世記の出来事を伝えようとしたのだが、この根本的な部分からして彼には伝わらないのである。
例えれば、アブラハムが捧げようとしたイサクを通しキリストの犠牲を示そうとしても、こんな事ですら彼の中には入っていかない。
というのも、クルアーンではアブラハムが犠牲にしようとしたのはイサクではなく、イシュマエルの方なのである。
彼はアラブ人ではない(アーリア系なので)にせよ、そういえばアラブの父祖はイシュマエル12部族であったことを思い知らされた。
彼にしてみれば、遠く離れた極東の日本人にアブラハムの故事を訂正される謂れもないであろう。
万事につけこのような有様であったから、Give upしたのは私であった。
だが今思うに、これは大切な教訓を受ける機会であった。
私はキリスト教の他教派を論駁*することに慣れていたし、ある程度の仏教信者とも聖書の教えを擁護して論議することもできたのだが、ムスリムの彼は私に、そうした知識が限定的で実際には虚しい教理の上でだけのつまらぬ自信であることを思い知らせてくれたのである。
*(現在はこれを悔い改め、論争はしない。仕掛けられれば負けるのみである)
もっと、人間同士としての「言葉」が求められていたのであり、それは宗教教理の理解という狭い世界にしか通用しない物事を持ち出したところで、まるで通じない人々が世界に沢山いるということだ。
思うに、イスラームはユダヤ教を基礎にしたと解説するのは大きな間違いである。
それは外形も言葉もユダヤ教によく似ていながら、まるで中身は別物なのである。
そしてイエスを預言者イッサーとして認めているからといって、けっしてキリスト教に近いわけでもない。
これまた、異次元の世界なのである。
キリスト教的終末論を持つといってもマフディの出現やらあって、どうも様子が違うし、死後の世界をもつところからしてユダヤ教ともかけ離れている。
いや、似ているゆえに却って遠いのであろう。
したがって、ムスリムにキリスト教からの共通点を辿って、同じ宗教的同意に達することなど到底ムリである。
そのように努力したところで、圧倒的な無力感を味わうだけだろう。
したがって、真の通用する「言葉」を持たなくてはならず、それは人間共通の価値観に訴えるものでなくてはならない。
イスラームが圧制的に見えるかもしれないが、その結束の固さは単に上からの押し付けではないし、イスラームは原理上信徒はすべてすっきりと横一列であって、宗教ヒエラルキーが無いということになっており、実際、ある種のキリスト教のような大仰な位階制などもっていない。
互いに助け合い、持てる者は持たない者に喜捨を定期的に行うので、負担の大きい生活保護の制度無しにも、各人が信仰を実践することだけでもかなりの人々が行き倒れることを防いでいるようだ。
それはそれで、人々の間の一定の秩序と生活とを保全する手段として作用しているのである。
外の世界から見ると、極端なところが確かにあるのだが、それは宗教というものが、歴史の上で足踏みしたまま止まっているようなところがもたらす弊害のようだ。
それなら、仏教やキリスト教にも幾らか残っているものではないか。
キリスト教が幾らか現代生活にマッチしているように見えても、そう誇るいわれもあるまい。
もし、近世にヨーロッパが政教分離を打ち出さなかったら、いまだに異端審問の拷問や魔女裁判の告訴が続いていたかもしれない。
いまでも、キリスト教宗教家が世界の頂点にいて、生殺与奪の権力を自在に用いたらと思うと恐ろしいことではないか。
西欧式現代社会の政治と宗教のバランスは、政治の側から起された公共の無宗教の原則(ライシテ)に助けられた結果であって、伝統的キリスト教が誇れたものではないのだ。
神社仏閣あふれる国に住む私が、耶穌教*を奉じられるのも、フランス革命とライシテに負うところがある。
(明治政府ですら、幕府の耶穌教禁止の高札をしばらく撤去しなかったのである)
ライシテといっても革命と共に俄かに出現したというよりは、百年にも亘るカトリックの神権体制の切り崩しの後に、それも国民の九割がカトリックという状況の中で多大の流血の犠牲を払って成し遂げた政教分離である。
イスラーム圏ではそれが起こらなかった。
彼らはフランス革命とライシテという歴史の事象の向こう側に居るのだが、それを越えた向こう側に行こうとは思っていないようにみえる。
この世界はタウヒードという政教一致の神権体制が地上に敷かれるので、ライシテとは両極端であるから、フランス政府とイスラームの対立はまず避けられないだろう。
そして、ムスリムには政教分離が無い分、また、個人所有が絶対でないところが画期的で、世俗の法律や仕事のルールが通じなかったりもするが、教会に行く人数の低下をみるキリスト教先進国には見られないほど熱心な信仰には今でも健在である。
さて、私のような者が数多の聖書の句を覚え、会話のなかで縦横に用いられるとしても、それは本当の意味で世界に通用するものではない。ありきたりの、平和や人々の安寧を説くだけの宣教は茶番でしかない。その同床異夢は空念仏と化すであろう。
元来、キリスト教の本質もそのようなところにはないのだ。
最近の一般受けするライトでスピリチャルな「キリスト教」などイスラームの重厚な絶対服従の教えの前には呼気にもなるまい。
ではどこにキリスト教の本質的価値があるのか?
自分はそれを「世界語」を使って説き、その価値を共感してもらうことができるだろうか?
これこそ、私の課題となっている。
イスラームにせよヒンドゥにせよ、同じ価値観を以ってキリスト教の真髄を説くことができてこそ、真にキリスト教を知ったことになるのだろうと思えてならない。
自分の教派にあらゆる人を引き込もうなど、了見の狭い限りではないか。
神の創造物たる世界というものは一宗派が納められるほど小さくはない。
キリスト教徒は世界がイスラーム一色でないことを喜び、イスラームはキリスト教が世界を掌握してはいないことを感謝する。そしてノンポリの日本人は一神教で世界が埋め尽くされていないことに安堵する。
だが、それぞれの宗教や思想の持ち主が、世界中が自分たちの信条で満たされることを願っていて良いのだろうか?それは自分の義への過信であり、「一方通行」という意思の交流の拒否である。
特定の宗教や思想からの逃れ場があることは大いに結構ではないか。
人間はそこで窒息を避けることができ、思想の自由、考えることの喜びを謳歌する。
これがあって初めて、人間は精神の歩みを前に進めてきたのではないだろうか。
思想統制のあるところに、人間理性への蔑視と停滞と不幸がなかったか?
人類は、近世に入ってこの野蛮さを脱したと思いきや、マルクス主義で20世紀にもこれを大規模に繰り返したものである。
そして、現在も様々な宗教で、思想統制は健在であり、多くの人々が好んで自分の判断力を教師の前に投げ出している。
それは、見るな、触れるな、味わうな、という古来より繰り返された苦行的教条主義の近代的変形ではないのか?人は思うままに思い、考えるままに考える。その自由を互いに尊重してよいのではないか。
信じたいものを信じ、信じられぬものを信じなければそれでよい。
しかし、信仰に熱心な人々が往々にしてこの陥穽に易々とはまり、自ら考えることに箍(タガ)をはめてしまうものだ。そのように自分の考えの幅を狭くしていたことに気付いたのが、イスラームへの伝道からの収穫だったと思う。
イスラームへの伝道に比べれば、キリスト教同士でなんのかんのと言い争うことなど、まことに容易く、まして「カルト」と叫んでさえ居れば自分の正義が内心に確立されるような安易な状況など、子猫のじゃれるに似たようなものだ。
キリスト教徒はまず、己の小ささに気付かなければ、その先はないのだ。
もう幾らか正確に言うと、「己の正義感の矮小さ」ということか。
あちらにはあちらなりの正義があるものだ。
それが認められないなら、十字軍のように中世に帰ってただ争うことになるだろう。
私がキリスト教に最大の価値を見出すのは、アガペーの原理と「愛の掟」である。
これが、どのような宗教や思想を前にしても真に優れた価値を減じないものであると思う。
だが、それを説く事は容易ではない。
説くよりは実践するべきか?だが、それは更に難しい。
最近思うに、こうした無数の人々を宗教の慣習や旧制から人々の心を手繰り寄せて、神の裁きの自由な選択に委ねることは人間の力では無理のようだ。人々は心に閂を下して「外に出れば危険」と言い合っているからである。
「天地を激動させる」という神の聖霊の再降下がない限り、そうした変化を期待することはできないだろう。逆に言えば、神にしかできそうもないことであるからこそ、人間が伝道しようとカリカリしなくてよい、ということにもなろう。それは何とありがたいことだろう。
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*(清の「キリスト教」の呼び名で耶穌は「耶イエ穌スー(シューに近い)」と発音される)
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