quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

2011年08月

ムスリムへの伝道 似て非なるもの

しばらく前に、日本に居ながらにしてムスリムに聖書を教えるという、めったにない機会を得た。
つまり、命の危険なくイスラーム教徒にキリスト教を伝えることができるという、云わば「暢気」で絶好のチャンスであった。三ヶ月くらい継続したろうか。

相手はパキスタンから来た熱心なイスラームで、母国から毎週のように届く指導者の講話のヴィデオをよく再生していたものだった。そこには、彼の両親が異教徒の国でイスラームから逸脱しないかという心配の大きさが伝わってくるように思えた。つまり、わたしのような悪い虫が付かぬように、である。

聖書を学ぶといっても、まずパキスタンでは家族親戚の反対に遭ってできないことである。
私は最初、彼をキリスト教に招じ入れたいものだと思ったのだが、すぐにそれが現実的な希望ではないことを悟るようになった。

それで、キリスト教が何を言っているのかを知識として伝えるという、一歩下がった目的に切り替えた。というより、そうせざるを得なかった。
聖フランチェスコが失敗しただけのことはある!

というのも、彼は日本に住んでそこで働いてもいたので、日本人とその考えの傾向や生活スタイルにも慣れていたし、日本人を愛好していることは明らかであった。そして日本語も極めて上手かった。
だが、それもやはりムスリムとしてであり、その立ち位置を変えるつもりはなかったのである。

それはヒンズー教徒でも同じと聞くが、他の宗教に宗旨替えでもしようものなら、親子であっても命を狙うという。
ひとりのインドの友人はそう言っていた。況やムスリムをや。
それはまるで「マテオ・ファルコーネ」の義のようだ。私が同じ事をパキスタンでしていれば、どうやら頭と胴はつながっていなかったようである。
(21世紀でもアフガンで韓国の教会員がこれをやって死んでいるし、フィリピンでも伝道者の首が切られた)

もし、彼が改宗でもしていれば、日本に居たとしても二人とも命の危険があったのである。
そんな馬鹿なと思えるなら、あなたは平和慣れし過ぎなのかも知れない。

そこは、暢気で宗教にニュートラルな日本人とは出発点からして大いに違う。
それを言うなら、異なるキリスト教宗派の信者を相手にすることすら遥かに容易に感じられたのである。

私が最初に突き当たった壁は、旧約聖書の創世記の出来事を伝えようとしたのだが、この根本的な部分からして彼には伝わらないのである。

例えれば、アブラハムが捧げようとしたイサクを通しキリストの犠牲を示そうとしても、こんな事ですら彼の中には入っていかない。
というのも、クルアーンではアブラハムが犠牲にしようとしたのはイサクではなく、イシュマエルの方なのである。

彼はアラブ人ではない(アーリア系なので)にせよ、そういえばアラブの父祖はイシュマエル12部族であったことを思い知らされた。
彼にしてみれば、遠く離れた極東の日本人にアブラハムの故事を訂正される謂れもないであろう。

万事につけこのような有様であったから、Give upしたのは私であった。

だが今思うに、これは大切な教訓を受ける機会であった。

私はキリスト教の他教派を論駁*することに慣れていたし、ある程度の仏教信者とも聖書の教えを擁護して論議することもできたのだが、ムスリムの彼は私に、そうした知識が限定的で実際には虚しい教理の上でだけのつまらぬ自信であることを思い知らせてくれたのである。
*(現在はこれを悔い改め、論争はしない。仕掛けられれば負けるのみである)

もっと、人間同士としての「言葉」が求められていたのであり、それは宗教教理の理解という狭い世界にしか通用しない物事を持ち出したところで、まるで通じない人々が世界に沢山いるということだ。

思うに、イスラームはユダヤ教を基礎にしたと解説するのは大きな間違いである。
それは外形も言葉もユダヤ教によく似ていながら、まるで中身は別物なのである。

そしてイエスを預言者イッサーとして認めているからといって、けっしてキリスト教に近いわけでもない。
これまた、異次元の世界なのである。

キリスト教的終末論を持つといってもマフディの出現やらあって、どうも様子が違うし、死後の世界をもつところからしてユダヤ教ともかけ離れている。

いや、似ているゆえに却って遠いのであろう。
したがって、ムスリムにキリスト教からの共通点を辿って、同じ宗教的同意に達することなど到底ムリである。
そのように努力したところで、圧倒的な無力感を味わうだけだろう。

したがって、真の通用する「言葉」を持たなくてはならず、それは人間共通の価値観に訴えるものでなくてはならない。

イスラームが圧制的に見えるかもしれないが、その結束の固さは単に上からの押し付けではないし、イスラームは原理上信徒はすべてすっきりと横一列であって、宗教ヒエラルキーが無いということになっており、実際、ある種のキリスト教のような大仰な位階制などもっていない。

互いに助け合い、持てる者は持たない者に喜捨を定期的に行うので、負担の大きい生活保護の制度無しにも、各人が信仰を実践することだけでもかなりの人々が行き倒れることを防いでいるようだ。
それはそれで、人々の間の一定の秩序と生活とを保全する手段として作用しているのである。

外の世界から見ると、極端なところが確かにあるのだが、それは宗教というものが、歴史の上で足踏みしたまま止まっているようなところがもたらす弊害のようだ。
それなら、仏教やキリスト教にも幾らか残っているものではないか。

キリスト教が幾らか現代生活にマッチしているように見えても、そう誇るいわれもあるまい。
もし、近世にヨーロッパが政教分離を打ち出さなかったら、いまだに異端審問の拷問や魔女裁判の告訴が続いていたかもしれない。
いまでも、キリスト教宗教家が世界の頂点にいて、生殺与奪の権力を自在に用いたらと思うと恐ろしいことではないか。

西欧式現代社会の政治と宗教のバランスは、政治の側から起された公共の無宗教の原則(ライシテ)に助けられた結果であって、伝統的キリスト教が誇れたものではないのだ。
神社仏閣あふれる国に住む私が、耶穌教*を奉じられるのも、フランス革命とライシテに負うところがある。
(明治政府ですら、幕府の耶穌教禁止の高札をしばらく撤去しなかったのである)

ライシテといっても革命と共に俄かに出現したというよりは、百年にも亘るカトリックの神権体制の切り崩しの後に、それも国民の九割がカトリックという状況の中で多大の流血の犠牲を払って成し遂げた政教分離である。

イスラーム圏ではそれが起こらなかった。
彼らはフランス革命とライシテという歴史の事象の向こう側に居るのだが、それを越えた向こう側に行こうとは思っていないようにみえる。

この世界はタウヒードという政教一致の神権体制が地上に敷かれるので、ライシテとは両極端であるから、フランス政府とイスラームの対立はまず避けられないだろう。

そして、ムスリムには政教分離が無い分、また、個人所有が絶対でないところが画期的で、世俗の法律や仕事のルールが通じなかったりもするが、教会に行く人数の低下をみるキリスト教先進国には見られないほど熱心な信仰には今でも健在である。

さて、私のような者が数多の聖書の句を覚え、会話のなかで縦横に用いられるとしても、それは本当の意味で世界に通用するものではない。ありきたりの、平和や人々の安寧を説くだけの宣教は茶番でしかない。その同床異夢は空念仏と化すであろう。

元来、キリスト教の本質もそのようなところにはないのだ。
最近の一般受けするライトでスピリチャルな「キリスト教」などイスラームの重厚な絶対服従の教えの前には呼気にもなるまい。

ではどこにキリスト教の本質的価値があるのか?
自分はそれを「世界語」を使って説き、その価値を共感してもらうことができるだろうか?

これこそ、私の課題となっている。
イスラームにせよヒンドゥにせよ、同じ価値観を以ってキリスト教の真髄を説くことができてこそ、真にキリスト教を知ったことになるのだろうと思えてならない。

自分の教派にあらゆる人を引き込もうなど、了見の狭い限りではないか。
神の創造物たる世界というものは一宗派が納められるほど小さくはない。

キリスト教徒は世界がイスラーム一色でないことを喜び、イスラームはキリスト教が世界を掌握してはいないことを感謝する。そしてノンポリの日本人は一神教で世界が埋め尽くされていないことに安堵する。

だが、それぞれの宗教や思想の持ち主が、世界中が自分たちの信条で満たされることを願っていて良いのだろうか?それは自分の義への過信であり、「一方通行」という意思の交流の拒否である。

特定の宗教や思想からの逃れ場があることは大いに結構ではないか。
人間はそこで窒息を避けることができ、思想の自由、考えることの喜びを謳歌する。
これがあって初めて、人間は精神の歩みを前に進めてきたのではないだろうか。

思想統制のあるところに、人間理性への蔑視と停滞と不幸がなかったか?
人類は、近世に入ってこの野蛮さを脱したと思いきや、マルクス主義で20世紀にもこれを大規模に繰り返したものである。

そして、現在も様々な宗教で、思想統制は健在であり、多くの人々が好んで自分の判断力を教師の前に投げ出している。
それは、見るな、触れるな、味わうな、という古来より繰り返された苦行的教条主義の近代的変形ではないのか?人は思うままに思い、考えるままに考える。その自由を互いに尊重してよいのではないか。
信じたいものを信じ、信じられぬものを信じなければそれでよい

しかし、信仰に熱心な人々が往々にしてこの陥穽に易々とはまり、自ら考えることに箍(タガ)をはめてしまうものだ。そのように自分の考えの幅を狭くしていたことに気付いたのが、イスラームへの伝道からの収穫だったと思う。

イスラームへの伝道に比べれば、キリスト教同士でなんのかんのと言い争うことなど、まことに容易く、まして「カルト」と叫んでさえ居れば自分の正義が内心に確立されるような安易な状況など、子猫のじゃれるに似たようなものだ。

キリスト教徒はまず、己の小ささに気付かなければ、その先はないのだ。
もう幾らか正確に言うと、「己の正義感の矮小さ」ということか。
あちらにはあちらなりの正義があるものだ。
それが認められないなら、十字軍のように中世に帰ってただ争うことになるだろう。

私がキリスト教に最大の価値を見出すのは、アガペーの原理と「愛の掟」である。
これが、どのような宗教や思想を前にしても真に優れた価値を減じないものであると思う。
だが、それを説く事は容易ではない。

説くよりは実践するべきか?だが、それは更に難しい。

最近思うに、こうした無数の人々を宗教の慣習や旧制から人々の心を手繰り寄せて、神の裁きの自由な選択に委ねることは人間の力では無理のようだ。人々は心に閂を下して「外に出れば危険」と言い合っているからである。

「天地を激動させる」という神の聖霊の再降下がない限り、そうした変化を期待することはできないだろう。逆に言えば、神にしかできそうもないことであるからこそ、人間が伝道しようとカリカリしなくてよい、ということにもなろう。それは何とありがたいことだろう。


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*(清の「キリスト教」の呼び名で耶穌は「耶イエ穌スー(シューに近い)」と発音される)






富者とラザロの例え 矯正不能の高慢さ




このルカだけが伝えている例え話は、宗教家らによってイエスを殺す算段の進む時期、キリストがローマの権力に引き渡されるほんのしばらく前に語られている。それはイエスの一行がエルサレムへの最後の旅に入る頃であった。聴衆の中にはパリサイ派の者らも含まれている。

その時にユダヤの体制では、ナザレ人イエスに対する陰険な殺人計画が現に練られており、イエスをメシアと見做さず、却って拒絶する姿勢が彼らのその目論見からして既に明々白々であった。

さて、この例えのなかではユダヤの二種類の人々が描かれる。
一方は体制派の宗教家を中心とするイエスに強硬な者たちであり、他方は体制派から「地の民」(アム ハ アーレツ)と呼ばれ蔑まれつもイエスを支持した民衆である。

実に、『この律法を知らない者らは呪われているのだ』という支配者やパリサイの発言をヨハネ福音書が記している。(ヨハネ7:49)
だが、平民にモーセの条項を知らせる務めがあったのはいったい誰か?
ユダヤ指導者層こそが、知識を占有して自分たちの優位性に悦に入っていたのではなかったか?

しかも彼らのいう律法とはミツヴァ「口頭伝承」と呼ばれる彼らの父祖が作り上げた「人間の規則」をも指しており、それは余計な重荷としてイエスが指弾したものである。

彼らは、そうした自分たちの作った規則を鼓吹し、それに沿える生活に余裕のある者だけを「義」としたのである。それは宗教的に豪奢な生き方である。

それでは民を憐れみ、進んで溶け込むイエスとの衝突はまず避けられないであろう。
特定の宗派が自分の仲間内だけを正しいと主張し、「人間の義」の優越感に浸って憚らないのは、古代も現代も何ら変わらない。

イエスはこの例えが語られる前に、あらゆる類いのユダヤ人が神の王国に殺到していると述べ、その一方で、高みの見物はしても「収税人や罪人、娼婦の友」と社会の底辺の階層にイエスは属すと難癖をつけてメシアとは認めない「高尚な」者らと対比させた発言をしている。
しかし、彼らの深く尊重しているはずのモーセの律法はメシアを証し、指し示す羅針盤であった。

こうして、イエスを殺す算段の進むなか、彼らの性質が拗けていて、どうしようもなく、変わりようのないものであることをひとつの例えで示されることになる。

それが「富者とラザロ」の譬えであり、実によく語られている。

これは、恰も「天国と地獄」という非ヘブライ的な教理を裏付けているように見えるかもしれないが、そのように見做して読んでいれば、ここからの教訓はほとんど得られないであろう。

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ある富んだ者が豪奢な生活を送っていたが、その門のところにはラザロ(ユダヤ人のエレアザル*)という名の乞食が富んだ者の食卓から落ちるものを食べたいと思ってそこにいたが、彼の体は潰瘍だらけという悲惨な有様で、犬が来てはそれを舐めるのであった。

やがてふたりとも死ぬと、ラザロは天のアブラハムの懐*に運ばれていたが、富んだ者がハデス (墓)で見ると自分は燃える火の苦痛のなかにいた。(*宴席で一緒に座した状態)

それでアブラハムにラザロを遣わして僅かの水を指から垂らしてほしいと願う。しかし、両者の間には大きな裂け目があってそちらには行けないとアブラハムに断られる。

それでは、と、富んだ者が願うことは、自分の五人のまだ生きている兄弟らに、自分がいるような責め苦の場所に来ることにならぬよう、徹底的な証をして説得してほしいということであった。

これに対してアブラハムは「彼らにはモーセと預言者たちがある、これに従えばよろしい」というのである。

すると富んだ者は反論して「いいえ、誰か死人の中から行けば(死人が行けば驚いて)悔い改めるでしょう」。しかし、これはモーセや預言者を軽んじた発言である。


したがって、次のアブラハムの一言でこの譬え話は終わることになる。
「モーセと預言者たちに従わないのなら、死人の中から誰が行ったとて彼らは応じまい」。
(ルカ16:19~31)

*(このラザロをヨハネ11章のラザロと同定することはルカ書の位置からすると幾分難しい)
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富んだ者とラザロの差はたいへんに大きいのだが、これはイエスをメシアとして信じることのできた「地の民」が受ける喜ばしい報い、つまりイエス後、聖霊に預かることで真のイスラエルの民の一員として認知を受けたことは、確かにアブラハムの約束の裔と相続人の立場を得たことを表しており、象徴的にその宴席を共にするというのは頷くに易い。

他方、遣わされたメシアを拒絶し殺害まで行う指導者層の受ける後の評価のあまりの低さ酷さは、こちらも象徴的に火の燃えるゲヘナ*に投げ捨てられた犯罪者の屍の如くである。*(硫黄の火が燃え盛ったエルサレムに隣接するゴミ処理場)

両者の間には、確かに深くて越え難い違いがあって当然ではないか。
富んだ者は一生の間、良いものを受けたとあるが、それは単に生前の生活水準の両者の違いにバランスをとる、というような意味の薄いものではけっしてない。

宗教的に「富んだ者」である体制派のサドカイやパリサイ、また祭司長派などの支配者層は、モーセに通じ宗教的に高一等の立場を享受していたのであり、そのゆえにも、この者らのメシア拒否はより一層その罪を重くするであろう。パウロの言うように『律法はキリストに導く養育係』であるなら、律法に通じた彼らはまったくその目的を逸したのである。

イエスは『あなたがたがモーセを信じるなら、わたしを信じるはずである。彼はわたしについて書いたのだから。しかし、彼の書いたものを信じないのなら、どうしてわたしの言うことを信じるだろうか』。と頑ななユダヤ教徒に言っている。(ヨハネ5:46)

つまり、彼らは自分たちが非常に通じており知識が豊富であるまさにその「富んだ」事柄でつまずいたのである。
これが例え話全体の要旨であり、それは「終わりの日」においても銘記すべき警告となるのであろう。

聖書に精通する聖職者や学者であっても、書かれた神聖な事柄を、人間的理解に染まって「科学的」と称するヘーゲル左派の毒舌に迎合し、それを知識と称えて神の言葉を傍観するような観点から見、神の言葉をこそ必要とする人々に、霞をかけたような不明瞭なものにしているとすれば、どういうことになるのであろうか?

他方、ラザロはといえば、富んだ者の僅かな食卓からのこぼれものを渇望するような宗教的状態にあった。しかし、このような蔑まれた平民こそが父祖アブラハムの恵みに預かったのは、その不利な身の上にも関わらずメシアとしてイエスを信じ、喜んで迎え入れたことによって、この例えのような結果の逆転を招かせたのである。


では、宗教指導者層には、死者から誰かが行って警告されれば、あるいは悔いてこの後のひどい評価を避けさせることができるだろうか?

イエスはこの前後の時期に、不信仰で頑なな彼らが預言者の墓を立派に飾りつつ、もし自分たちがその時代に生きていれば預言者を迫害して殺すことなど決してさせなかったものを・・と言う彼らの偽善を暴いている。(マタイ23:30)

むしろ、預言者たちの墓を飾り立てることによって、自分が預言者を大切にしているかのように装いながら、実は預言者にはそこで静かに眠っていてほしいのであり、立派に父祖の犯罪の共犯者なのである。
それならば、確かに墓石は豪勢で預言者が二度と出てこられぬほど大きく重いものがよいであろう。

そうすれば、預言者たちに対する彼らの見栄も張ることが出来、同時に都合の悪い神の音信に封印もできるので、一石二鳥ではないか!
さらに今、「神の義」たる約束のメシアその人をも封殺しようというのであるから、まことに「人の正義」とは恐ろしいものである。傍から見るとロジックが有るようでいてすっぽりと欠落している。

そうして彼らはその父祖にまさる罪人になろうとしていたのである。
イエスは彼らを糾弾し「アベルからザカリヤに至るすべての血」が問われる世代であるという。
まさにそれが、「もし自分がその世代に居たら、父祖たちには預言者たちを殺めることなどけっしてさせなかった」と誇る連中の実態であった。

あるいは目覚しい奇跡を見せるなら彼らにも悔い改めが期待できただろうか?
イエスの言からするに、それはとても無理な様子ではないか。
豚に真珠は与えまい。しるしを見せろという再三の要請に実際イエスは答えなかった。

しかも彼らは、この時期イエスが大いなる奇跡によって生き返らせたベタニヤのラザロという、この例えと同じ名前*の実在の男をも、イエスと共に亡き者にしようとしていたことをヨハネ福音書が暴露している。つまり、類稀な神の奇跡も込みで、無かったことにしようというのである。(ヨハネ12:10)(*イエスは後にラザロ殺害の企図に気付いたであろうから、同じ名前を用いた背景はここにあったのかも知れない)

それなら彼らに対しては、たとえ実際に生き返った者が現われてどれほど説得しようがまるで意味を成すまい。
とにかく不都合な諌言する者がいれば、省みて自分を変えようなぞけっしてせず、それが誰であれさっさと殺して黙らせるような者たちなのであるから。それが預言者であってすら、飾った墓に押し戻されるであろう。
(イエスの殺害後、預言者たちの遺骸が墓から飛び出したが、それは彼らに一斉に語り出したかの意味をもったであろう)

正にイエスが生き返り、墓を出たことを目撃してしまった祭司長派の守備隊員らに金を渡して見なかったことにさせようとしたときに、彼らの傲慢さはこれ以上ない仕方で神に対して発揮された。
いったい、誰が死者の中から行けば聴くというのか。

そうして、奇跡を含めてイエスのすべてを除き去ろうとしているこれらの「富んだ者」らは、彼らの精通するモーセや預言者たちが古来ずっと指し示してきた貴重なメシアを亡き者にし、封じてしまおうとしていたのであり、どうにも矯正不能であることを自ら明らかにしていたのであった。

後日、ラザロで表された「貧しい」人々は、あのシャヴオートの日以来、聖霊に預かる者となってアブラハムの約束の後裔として数えられその懐に至るが、「富んだ者」たちはその世代の内にエルサレムと共に「火のバプテスマ」というユダヤ体制の壊滅を被ることになるのであった。




                          新十四日派  © 林 義平
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「十人の乙女」・「盛大な婚宴」の例え

 
十人の乙女の例えが、キリストの再来に関わるものであることは広く周知されているが、油や乙女に具体的な意味を読むことが難しい。
この理解の鍵は、「乙女たち」とその「宴会」が意味するところにある。それが把握されないかぎり、曖昧で意義の薄いものに終わってしまうであろう。

(以下に予備知識として「聖徒」に関する部分を書いたが、より詳しくは別頁「聖霊と聖徒」をご覧いただきたい。
(この知識は論旨の基礎であり、これがないと以下を理解することはほとんどできないと思われる)


-◆「十人の乙女」の例え--------------------------------

 この例えはマタイ福音書の終末預言にだけ存在し、四人の使徒に話された終末予告の中に含まれている。

 十人の乙女たちは、夜の暗闇に各自がランプを灯して花婿の結婚式からの到着を新郎の自宅で待っている*。しかし、到着は遅れてすっかり時が経って夜も更けてゆき、やがて乙女たちはみな眠り込んでしまう。*(古ユダヤの習慣という)


 さて、真夜中になって花婿の到着が知らされた。
五人は補充の油を用意していたが、残りの五人は用意が無かった。そこで油の無い女らは、油を用意していた五人に向かって油を分けて欲しいと願うが、双方を満たすには足りないので油商人から入手してくるようにと言われる。


 用意の無かった「愚かな」と形容される五人は油を買いに行き、花婿の宴に遅れてしまう。婚宴の行われている場所の扉は既に閉められている。
彼女らは、戸を開けてくれるように
花婿に頼むが、却って「あなたがたを知らない」と言われてしまい、宴を共にすることから疎外されることになってしまう。(マタイ25:1~12)


-◆予備知識としての「聖徒」----------------------------------

 ミナの例えなどを通して知ることができるように、花婿であるキリストは、不定の年月に亘り地上に対して不在(アプーシア〔関わりを持たない状態〕)となるが、その期間が終了すると地に対して監臨あるいは臨御(パルーシア〔物事に介入する状態〕)を始めることによって「地に帰還」する。

 そのときに、すべての信徒ではなく、その中の聖霊が注がれ「新しい契約」に属している弟子ら(「聖なる者」or「聖徒たち」[ハギオイ])だけが、キリストの居る天への召しを受ける。(テサロニケ第一4:13-)

 これもパウロがテサロニケ書簡で述べることだが、かつて初期の時代に在って、聖霊を注がれていた「聖徒」で死んで眠っている者らは終末に天への復活を受け、次いでキリストの臨御のときに生きていて聖霊を受けている者らはそのまま天に挙げられる。
 こうして弟子の中の聖徒はすべて天に召集されてキリストと共になることで、「神の王国」(i.e「天の王国」)が完成し、その後は、神の贖罪の計画に沿って人類の祝福のために機能を始めることになる。(テサロニケ第一4:15-)


-◆キリストと天で共になる限られた者たち---------------------------------------

 その聖徒たちが、天でキリストと共になるということは、聖書中で度々結婚になぞらえられており、聖徒たちは花嫁の立場が与えられている。
 しかし、そのような例えで聖徒を花嫁に準えると、乙女は単数になってしまい、その中の分離を表すことができない。そこで主は、新郎宅で祝う乙女たちを用いて聖徒の立場を明かしているのであろう。

 これはつまり、約束の聖霊を受ける弟子たちがどのようにその責務を果たすかを個々に問うものである。

 この譬えでは、賢い乙女らも含めて十人が眠り込んでしまうというところで、花婿を待つ時間は予想外に長いことが暗示されている。それゆえ聖徒たちの死を連想させるものともいえる。
 それは、キリストを待って時を過ごすうちに、自らの寿命も尽きてしまうかのようである。

 使徒たちをはじめとする初代の弟子たちは、自分たちの世代のうちにキリストの帰還が為されると考えていたことは聖書中に見られる通りであり(テサロニケ第一4:15)、彼らの期待通りにキリストの臨在は起こらず、『生きながらえて主の来臨の時まで残る』と自らのことを西暦55年頃に記していたパウロの認識も、後に変化を見せており、最晩年には『わたしが世を去るべき時はきた』と言っている。(テモテ第二4:6-8)

即ち、覚醒しているうちは待っている間に時がきても、新郎を迎えることを意識しているものだが、眠気はその意識とは関係なく誰にも臨むものである。気持ちを込めて待つにせよ、人間には限界というものがある。


 この見方を裏付けるように思える点は、彼女たちの持つ油の量である。
つまり、眠り込む以前に花婿を待つ時間が、自分たちの予想を越えて長くなってもよいような準備があったか否かを左右する証拠となっている。

そこでの「賢さ」は、時の長さへの用意であったことになり、そのような準備は、眠ってしまってからではどんなにしても行うことはできず、眠る以前にのみ行えることであるから、待つ側の乙女の対型である聖徒たちの寿命の尽きる以前が問われると見ることができるであろう。


 聖徒たちが復活するのが天であれば、復活という目覚め以後にそこで忠誠の試みに遭う機会は既に無く、身分を明かすような業や信仰を、活動できる生前に衰えさせ、あるいは失っていたなら、天界に復活することすらも場違いなことになってしまうことであろう。

この点で、パウロは自らの死を悟りつつ『わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守り通した。』 ということができた。つまり、目覚めの後への備えができていたと言えよう。『今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。』とも言っている。(テモテ第二4:6-8)

確かに、パウロは西暦55年頃には自ら主を迎えると考えていたことを記していたのであるから、彼をこの例えの観点で言えば、余分の油はしっかりと確保されていたと言うべきであろう。

だが、『この世を愛して』パウロを見捨てたという、テサロニケのデマースのような人物はどうなるのであろうか。(テモテ第二4:10)
 




-◆「婚礼の例え」---------------------------------------

 この観点を後押しするのが、同じマタイ福音書の22章にある「婚礼の例え」である。
この婚礼では、ある国の王子の婚礼に予め招いておいた客に、いざ婚礼を催すに際し、改めて出席を呼びかける通知を行った。

しかし、以前から招いておいた客たちは様々な理由をつけて、皆が揃って断ってきたのである。その挙句、呼びに行った家来まで殺されてしまった。


この内容は、イスラエル=ユダヤの民が預言者やメシアを排斥してきた歴史を彷彿とさせる。
神はアブラハムのゆえに、イスラエル=ユダヤの血統上の民に「聖なる国民、王なる祭司」となる道を開いてきたのだが、彼らは不信仰のためにそれには値しないことをメシアのときに明確に示したのである。

結局、この民族は律法契約を守らず、その上ナザレのイエスを退け、キリストを基に構成されるべき「神の王国」への招きに確かに応じなかった。(出埃19:5.6)


その結果、血統上のイスラエルから聖霊に預かる者となったのは「僅かな残りの者」と預言された通り、ナザレのイエスをメシアと認めた民族のごく一部に留まった。(ローマ11:7)


その後のイスラエル史は、ユダヤとエルサレムの滅びに向かう。
つまり、血統によるユダヤがメシアを拒絶した為にエルサレムは徹底的に破壊され、灰燼に帰したのである。
以後、ユダヤは流浪を始め、今日まで神殿もメシアも得ていない。

盛大な宴会の例えにおいては、父王が怒り、軍隊を送って人殺しどもを除き去り、街を焼いたことがこれに相当している。

更に、婚宴の席を満たすため、誰でも目に付いた人々を差し招くよう家臣に命じ、やがて宴席はいっぱいになった。

 この部分の対型はメシアを受け入れたユダヤ人の不足のため、信仰に篤い異邦人からも「新しい契約」に与る人々が選民「神のイスラエル」に迎えられた歴史の明瞭な比喩になっている。

 イエス自身、この事態を『多くの人が東から西から来ては、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり歯がみをしたりする』と予告しており。
パウロは異邦人によるイスラエルへの補充を『接木』として例えてもいる。


 つまり、ローマ人コルネリオにも聖霊が注がれ、まったくの異邦人もその血統に関わらず「神のイスラエル」の中に加わることを許されたところから、この宴会への召しが始まったとみることができる。(ローマ10:20)


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 しかし、ここで更に注目すべきはその後にある。
つまり、招かれた人々の中に華燭の宴に相応しからぬ服装をした人物が混じっていたことに主催者の王が気付く。おそらくは普段着のままで席に着いたのであろう。

 それを咎められると、その者は何も言えなくなり、王は家臣にその者を捕縛し外の闇に放り出すように命じる。やはり、その者はそこで泣き悲しみ、歯軋りするだろうとされている。

 そして最後に、この語り手であるイエスは「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」と結論付けている。(マタイ22:1-14)



-◆外に出される者ら---------------------------------------

 この婚礼の例えと同様に、乙女の例え(またミナやタラントの例え等)も話の結末には「外に出され、泣き悲しみ、歯軋りする」という状況が共通しているがどういうことだろうか。

それらのたとえは何か共通したものを教えていないだろうか。
婚礼の例えの場合、「異邦人」という初めから招待されていない者で十分な準備ができなかったような酌量されそうな理由があったにせよ、結婚式の服装の相応しくない出席者は、やはり除外されることになるのだろう。

その理由は、その場への認識を欠いているからである。それでは、出席そのものを断ってきた本来の招待客であるユダヤ人の不敬と大差ない。

 これらの例えは共に、本来は神の恵みに入るはずであった人々がその立場を失うことの警告であり、こうした戒めは、イエスの言葉の中で何度も繰り返されている。


 そして、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」という法則は、一方で、異邦人から聖徒に招かれた者らにも、また、乙女の例えが示すように、聖徒の肉の寿命の尽きた後にも適用されるであろう。

 生ける者にも死して眠る者にも、一度聖霊を注がれた「聖徒」となったなら、その裁きは同じように臨む。
 テモテ第二4:1の『生ける者と死せる者を裁くために定められた』キリストの姿はここに見出される。

 実に聖徒たちは『キリストに属する者ら』であり、共に「生ける神殿」となる以上、キリストの吟味を受けるのは当然であろう。

 即ち、一度聖霊を受け、その賜物に与りながら生涯を聖徒に相応しく過ごさなかった者らは、天に招かれようとも、資質がそこで問われるということである。

 これは「十人の乙女」そして「宴会」の双方の例えに共通する主題であり、聖霊を注がれる聖徒たちにとっては重大事であり、軽視されてよい訓戒ではない。



-◆「多くを委ねた者には多くが求められる」----------------------------------

 「婚宴」はまた、将来に乙女らが花婿キリストと共になる祝いの時である。

 もし、寿命の尽きる前にキリストを待ちきれず聖徒としての行いや認識を欠いていたなら、復活して後の聖徒らの持ち物、つまりキリストの臨御(パルーシア)が起こり花婿が到着して乙女らが夜半に起こされる時、祝うべきその時に手持ちの油は不足していることであろう。灯火の光明は消えかけており、主の来臨を明るく照らし出して迎えることは叶わないのである。


 その「油」を聖徒としての必要な認識や練り浄めと解するなら、愚かとされる五人は復活してから花婿であるキリストを迎えるだけの認識や態度をもう一度培わなければならないし、練り浄めも必要であろうが、試練もない天界においてそれは無理である。
 また、この「油」が聖霊そのものであるなら、個々の聖徒のうちで相応しく歩まない者がいれば、その者から「油」に相当する聖霊の賜物は、夜半に起きるとき既に尽きている、ともとれる。

 まさに、キリストと共になるとは、恐るべく聖なる立場の責を負うことに違いない。(ヨハネ6:65)


 そのように考える場合、死に至る前に、あるいは天に挙げられる以前にどのような生き方をしたか、つまりたとえ死に至るとも「主」を待ち続けたか否かによって、聖徒らが天に召されたときの境遇に反映されるであろう。 


しかし、それは時間の上で間に合わないだけでなく、復活があってから認識を培うようではキリストと共になる者に相応しい信頼性もない。それまで何をしていたのかが問われても仕方の無いことである。

 では、油の足りなくなった乙女らは、具体的にどう復活するのだろうか。
天界に復活するとしても、その後はすぐに悪霊らと同じような境遇に置かれるのかも知れず、あるいは、天界への復活に意味がなくなっているならば、それも起こらずに「千年期」の後の諸世紀のすべての人々の復活に含まれるとすれば、そこで確かに、天界でキリストと共になることからは閉め出されたことを痛感することになろう。

 その落ち度といえば、やはり聖徒としての立場に相応しい生涯を送らなかった為に、召され復活してすぐにキリストを直ちに迎えるべき準備ができていないところにある。
 



-◆終わりの日に眠りから起こされる者たち---------------------------------

 この「十人の乙女」の例えの解釈を支持するように見做せるのはダニエル書である。
その12章では、天使長ミカエルが終わりの日に立ち上がるが、そのとき地の塵の中に眠る者が多く起こされ、彼らはあるいは栄光に、あるいは定めないときに至る恥辱へと出てくると書かれているのである。(ダニエル12:2-)

 この預言の記述を吟味すると、この内容はミカエルの戦うべき現今の政治勢力の影が残っている時代であり、黙示録と照らし合わせると千年期以前に相当するため、初期教父エイレナイオスの理解に従っても、全人類の死者の復活を述べているのではない。

 この復活は、その前のパウロが「早い復活」と記し、黙示録が「第一の復活」と呼んだものであり、キリストと共になる「初穂」の人々が人類から買い取られて天に召されるパルーシアの時のことを記していよう。彼らはそのようにして聖徒に相応しいかを見定められ、彼らの吟味される「裁き」に立つであろう。
(フィリピ3:11/黙示録20:5.6/ローマ8:23/ヤコブ1:18)


 ペテロが「各々行った業によって裁かれる」と述べたのは、行状に表れるところの、この聖徒としての愛に基づく行動がどれほど行われていたかが判断されることを指していたのであろう。そこに、キリストの追随者としての認識が証しされるからである。

 ヨハネ福音書にある「良いことを行った者は命の復活、忌むべきことを行った者は裁きの復活」というこの言葉も、聖徒に関してのみ当てはまるものであり、その他の死人は「死の報い」である死を経ていれば、死の眠りに就いた時点で、既に罪は過去のものである。(ヨハネ5:25-/ローマ6:23)

(したがって、ほとんどの死者が受ける後の復活では、そのすべての人々が「新しい契約」に無い以上、生前の応報を受けることはない。黙示録20:12)

 しかし、聖霊を受けた者は肉であったときから既に贖罪を受けており、「新しく生まれた」状態にあったので状況は異なる。彼らは霊による命を味わい知っているという。

 それは永遠の命が既に地上で始まっているとも言い得る状態であったろう。したがって、彼らにとって肉体の死はまさに眠りに近いものになる。(ヨハネ3章/ローマ8:1/コリント第二5:17/ヘブライ10:20)



-◆起き上がる聖徒-----------------------------

 死の眠りについた聖徒について、西暦第二世紀小アジアのポリュクラテスは書簡で次のように書いている。
『祝福されたパピアスと去勢したメリトン、彼はまったくの聖霊の賜物により話をしたが、今はサルディスに眠り天からの(指示)を待っているが、そのときには彼は死から起き上がるであろう』。(教会史V24)


 このように、初期の純正なキリスト教徒、しかも聖霊の賜物に預かった人々の希望は、死後に至福の楽園のような「天国」に行くことなどではない。死という象徴的「眠り」の内に時を「待つ」のである。

 そこに非ヘブライ的かつ異教的な死後の命などは無く、キリストのパルーシアを待ち、そのとき天に復活することこそが彼らの願いであった。(ヨハネ6:54)
 もちろん、信仰のうちに人生を全うした聖徒には、主イエスに対して忠節を尽くした生涯の歩みに関する充実感もあるだろう。殉教者に至っては、パウロの語った如く、復活は大勝利の凱旋のようであろう。(コリント第二2:14)


 だが、聖霊を与りながら、そのように充足した喜びのうちに入れない者が居ないとも限らない。
それゆえ、ペテロは手紙を書いて、聖徒らが行状に注意し、「肉体の残りの日々を人の欲望に沿って生きるのではなく」「自分の召しを確固たるものとする」よう訓戒している。(ペテロ第一2:11-21/第二1:10)

 パウロも「貞潔な処女」として聖徒たちを夫キリストに差し出す務めが自分にあると言っている。それゆえ、彼らはシミもキズもない者としてキリストの前に立てるよう励むべき理由があったのである。(コリント第二11:2)

 彼らが聖霊に預かる者となり、「聖なる者」と呼ばれ、聖霊の賜物を使いこなし「大いなる業」を行なおうとも、それは彼らの「約束手形」にすぎず、アダムの罪ある肉体にあって、その「義」も信用貸しされたものなのであり、「新しい契約」をどう保つかは本人次第であった。(エフェソス1:14/コリント第二5:5)(契約とは不確定のものに対してとられる措置である)

 そこで聖徒らに重要なのは、自分たちが受けたものに対する価値観を失わぬことである。
さもなければ、強力な業を行い悪霊を追い出す活動をしてもなお、主イエスから「不法を働く者よ」と退けられるであろう。(マタイ7:21-23)⇒ 小麦と毒麦の例え 「不法の人」の現われる時



 したがって、彼ら初代キリスト教徒には、イエスの再来が自分たちの世代に起こると信じていた人々も多く、パウロさえテサロニケへの手紙を書いていた55年頃には、迫害に遭いながらも自分は死ぬことなく天に召されるグループにあるとの認識を示している。

だが、晩年のテモテへの手紙ではこれが大きく変化し、「自分は走路を走りきった。今から後、自分には冠がある」とイストミアードの競技者になぞらえて、はっきりと死を覚悟しているのである。ここにも待ち時間の予想外の長さが窺えるが、実際二千年後の今日なお臨御の徴はないようだ。


 そうした中にあって、キリストの臨御が思うような時期に来なかったからと、人類の初穂としてキリストに贖われたはずの聖徒がその道を捨ててしまったり、放蕩して堕落を見せたりして生涯を送ったとすれば、天への復活にあってはあまりにも似つかわしくない姿をさらすことになろう。(エフェソス3:12/ローマ6:6)

(この悔い改めの許容範囲には、当然一般信徒と聖徒の違いがあるだろう。コリント第一6:9-10)


-◆見張り続けよ------------------------------------------------

そしてイエスは「十人の乙女」の例え話の結びに、弟子たちはキリスト到来の時を知らないゆえに、「ずっと見張っているように」と付け加え、それからタラントの例えに移っている。

 この「時を待つ」姿は、シナイ山麓でYHWHの会見の天幕で祭司として仕えるアロンと子らが、任命の灌油を受けても、さらに七日を待たされたのに似ていることも指摘できよう。(レヴィ8:33-)

聖徒たちはキリストと共に「王なる祭司」となるので、律法契約の下での祭司の先例が予型としての意味を持っていたと考えることは不適切ではないだろう。

モーセはその日々を待つことの意味するところを「力を満たす必要があり」また「自分を見張り」「死ぬようなことのない」ためであると語った。
イエスと共に王また祭司となる聖徒らも、同様に「死ぬことのないように」自らの生涯という「七日」の相当する期間を心して「見張る」必要があるのだろう。

つまり、その「八日目」に相当するキリストの到来と聖徒たちの権能の満たされる日が、自分たちの思うより遅くなり、生涯が終わってしまうことも念頭に置くようにと、この「十人の乙女」の例えを用いて諭していることになる。

 聖徒の受けるものが大きい分、「多くを委ねた者には多くが求められる」ものである。
彼らは人類の『初穂』であり『神の子』であり『新たな祭司職』を受ける『聖なる者』なのであるから。(ルカ12:48)

(後に、アロンの子らのうち二人は不適切に振る舞い、祭司から取除かれて死んでいる)


 全世界の民は、彼ら聖徒たちが間違いなくキリストの花嫁となって神の王国の完成されることを願うべきである。そこに我ら諸国民の光というべき「救い」があり、その王国は人類を神の創造物へと復帰させるからである。

 我ら諸国民は将来の聖徒の現われを祝し、聖霊を注がれ重い責務を負うことになる彼らを全く支持するべきであるといえる。(ゼカリヤ8:23/ローマ8:19-)

 新しい契約は効力を果たし、天に聖徒の全員が揃ってキリストと共になり、神の千年王国が完成して機能は始めることで、地の人々から倫理上の欠陥除かれ、社会は輝くように変化するという。

 人は皆、「神の子」となって創造された通りの姿を取り戻すのである。そこでは、今日この時にも行われているであろう、あらゆる不義や不公正、様々な悪行も存在しなくなる。神との関係の回復の結果として、死や老化も過ぎ去り、地の呪いも解かれるであろう。

 それは人間の努力の及ばない栄光、神の属性を持つ人類の誕生となる。
『創造物は切なる願いを抱いて神の子らの顕し示されることを待ち焦がれている』とパウロが語ったように、人類の最初にキリストの贖いを適用され、先立って「神の子」となる「聖徒たち」は、我々「諸国民の光」であり、真のアブラハムの子孫「神のイスラエル」、「神の所有に帰する民」となる。

 では、その礎となるべく、より多くを委ねられる「聖徒たち」に、より多くが求められたとしても、神の意志と人類にとってそれは喜ばしいことではないか。


                ©2011  林 義平
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小麦と毒麦の例え 「不法の人」の現われる時

長文15000字超 <難易度 ☆☆☆☆☆☆☆ 特高>

-予備知識-
「聖徒 聖霊が指し示す者」、「大いなるバビロンの滅び」、「神の家から始まる裁き」、「マタイ福音書の終末預言と例え」、「オイコノミアと七つの頭」




◆終末に撒かれる毒麦

 マタイ13章24節を以って始まる「小麦と毒麦の例え」はマタイ福音書にだけ存在し、「種まき人の例え」の解釈を述べた後に、イエスの身近に居た弟子らに話されており、おそらく群集はこれを聞いていない。

 つまり、「種まき人の例え」の四種類の種の中でも、実を結ぶ「良い種」に相当する人々すらも更に選別を受けることを警告しているように読めるのである。

 ユダヤ人を念頭に置いたマタイの福音書は神の王国をほとんどの箇所で「天の王国」と呼んでいるが、この「小麦と毒麦の例え話」の主題もやはり「天の王国」である。

では、その例え話に耳を傾けてみよう。
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 「天の王国は、このような例えのようだ。
 人は自分の畑の中に良い種を撒いた。

しかし、人々の眠っている間に、この人に敵対する者が来て、小麦の間に毒麦(ジザニオン)の種を撒いて去っていった。

草が芽生えて、実ると、そのとき毒麦も現われた。

家の僕らが主人に近づき「ご主人さまが畑にお撒きになったのは良い種ではありませんでしたか?どうして毒麦があるのでしょう?」と訊く。

主人曰く「それは敵対する者がしたことだ」。すると僕らは「私共が行って抜きましょうか?」と言うと
「いや、毒麦を引き抜く際に、小麦も一緒に抜きかねない」。「収穫まで両方とも成長させておき、その時になったら刈る者には、まず毒麦を集め焼くために束ねさせ、次いで小麦を収穫の蔵に納めるために集めさせよう」。

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 以上が例え話であり、群集を解散させた後で、これらについてイエスは弟子たちの要請にしたがって、その意味するところを語っている。
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良い種を撒くのは人の子、つまりキリストである。
畑とは世界であり、良い種は王国の子らであり、毒麦とは邪悪な者の子らであり、それらを撒いたのは悪魔で、収穫は世の秩序の終わる時で、刈る者は天使である。

それで、毒麦が取り集められて火で焼き尽くされるように、世の秩序[アイオーン]の終わり(終焉[シュンテレイア])もそうなる。
人の子は、天使らを遣わして、人をつまずかせる者と不法[テーン アノミアン]を行わせる者らを自らの王国から集め出し、炉の火に投げ込ませるであろう。そこで泣き悲しみ歯軋りするのである。

それから、義なる者たちは彼らの父の王国で太陽のように輝きわたるであろう。

耳のある者は聴くがよい。
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敵対者が畑に別の種を撒いたような、いやがらせの行為が実際、古代に行われていたとも言われている。(ローマ法では処罰の対象であったという)

この毒麦を食すと死亡に至ることもあるというからには、その分別は命に関わるものである。

食すことのできないこの中東の毒麦は、実を結んで穂が出るようになるまでは小麦によく似ており、そればかりか共に根を伸ばして絡み合えば、毒麦だけを選んで抜き去ることは難しいと言われている。
それが撒いた悪人の狙いでもあろう。畑全体の予定していた収穫を阻害してしまえるからである。

だが、この例え話の主人の判断は合理的である。
成長する間、農夫であっても小麦か毒麦かの区別がつかなかったし、多少養分を毒麦に吸い取られていたとしても、収穫の時期になってしまえば、遠慮なくどちらをもバッサリと刈り取ろうが引き抜こうが支障はなくなる。

しかも、穫り入れの時期になれば穂の外見から双方の見分けがつくので、小麦は蔵に納め、食料にならない毒麦の方は竈で煮炊きの火にでも供すればよいであろう。

さて、イエスは良い小麦の収穫を期待したが、それは「天の王国」に集められる人々のことを語っているのであり、単に「クリスチャン」の中に区別が生じるなどと考えていれば、この例えの本旨には到達しない。

これを結論から言えば、「新しい契約」に参与することよって、イエスと共に王また祭司となるはずの「聖なる者たち」の中の分離を表している。⇒ 聖霊と聖徒


即ち、奇跡を行う聖霊を注がれた『聖なる者』となった者には、『多くを委ねられた者は多くが求められ』『狭い門から入るよう励み』『自分の魂を救おうとするものはそれを失う』ほどの試練が待っているのであり、そこで脱落する『聖なる者』が出ることは、「ミナ」や「タラント」の例えをはじめ、「婚礼の服装」「引き網」「一人は残される」など多くの警告が与えられている。

また、「小麦は倉へ納める」という新約聖書で繰り返される言葉が、ユダヤ人の中から「聖霊のバプテスマ」を受けた者と「籾殻」とされ「火のバプテスマ」を受けた者の相違の中でも語られており、それがイエスをメシアと信じた側と信じなかった側のユダヤ人の結末を語っているところからも明らかである。⇒ 聖霊と火のバプテスマの異なり

この倉に納める「小麦」とはキリストがその宣教を通してパレスチナで集め始めた『聖霊によって油注がれた』『アブラハムの裔』『聖なる国民、王なる祭司』を表しており、もちろん単なる「クリスチャン」などではけっしてない。⇒アブラハムの裔を集めるキリストの業
即ちキリストと共に天の神殿を構成する格別で少数の弟子たちである。

だが、「小麦が倉へ納められる」ことを喜ばない者がいる。それは悪魔であり、「小麦」に相当する『アブラハムの裔』また『王国の子ら』が集められ、神の王国が実現することは悪魔の立場を危うくし、天に居られなくするものである。そこで彼は「ディアボロス」(中傷者)の特性を発揮して、「聖徒」たちを誘惑し、本来「小麦」であった者を「毒麦」と変じさせることを目論む。その意味に於いて『毒麦』の種を撒くのは『敵である』悪魔である。(黙示録12:7-)

そこでこの「小麦と毒麦の例え」は、キリストと共になる聖なる『召された者』らの中に悪魔が自分の種である邪悪な者らを混ぜようとして、「偽の聖なる者」を撒き足すということであろう。そうすれば、『聖なる者』また「キリストに与えられた者」『神のイスラエル』の数を満たさぬように影響でき、王国の実現を阻むことになるかも知れない。(コリント第一1:2/ヨハネ17:6/ガラテア6:16)


では、すぐに悪魔の撒いたものを抜き去ることが良いかと言えば、実際の毒麦のように見分けがつかなかったり根が絡んだりして、大切な聖徒である『小麦』まで損なう危険があり、それは敵対者の大いに喜ぶところとなるだろう。悪魔が妨害したいのはキリストの民『神の子ら』が『収穫』されて揃い、『天の王国』の実現することを阻むことである。(ルカ11:23・13:34)


そこでキリストの側で必要になるのは、『額に証印を押される』『神のイスラエル』の十二部族を『四方の風から集める』という『裁き』であり、それに適う者たちが見極められるのが終末の聖徒の裁きとなるのである。(マタイ24:31)

彼らが天界の神殿の石となるからには、彼らの主と同様に『試された石』となるべき必要があり、その試みの場がこの毒麦の例えで言うところの『世界』という『畑』であって、それは聖霊の種の撒かれる地上以外にない。

この小麦と毒麦との処置の過程から、もうひとつの裁きも進行してゆく。
それが『キリストの兄弟たち』である聖徒らに寄り添い親切を示すか否かという、その時に生ける人類の残りに対するより大規模な裁きであるが、その前に、どうしても『小麦』となる人々が試され集め出されなければ何も進まない。そこでイエスは使徒らへの教訓を通して、その試みに備えさせている。


まさにこれを指して、イエスがこの例えの終わりに『世の終わりも(小麦と毒麦の例えのように)そうなる』と語ったと言えよう。
では、『小麦』と『毒麦』をはっきりと区別させるのは何であろうか。
 


さて、初代のエクレシアにおいて、信徒の中でも聖なる者たちには聖霊が注がれていたのだが、最後の使徒ヨハネの時代(第一世紀末)には偽の霊感が混入し始めていた様がその書簡に窺える。(ヨハネ第一4:1-6)⇒ 西暦二世紀のキリスト教

これは人類全体を二分する事柄「世の裁き」ではなく、繰り返しになるが、一般のキリスト教徒の良し悪しを述べるような単純で浅薄なものでもなく「どのクリスチャンが正しいか」などと云う観点からこの小麦と毒麦の例えを見ていれば、その奥深い意味にはいつまでも到達しないであろう。

これこそは「世の裁き」に先行する、聖霊を受ける人々が試練の中にあって起きる分離を意味しているのであり、まだ将来の「主の日」、即ち終末に起きることである。


だが、その人々「聖徒たち」にとっては重大な関心事となるに違いない。その選別キーワードに「不法」[アノミアス]が挙げられる。この「小麦と雑草の例え」の解き明かしでイエスが語った『不法を行わせる者らを』集め出すと言われたからには、雑草また毒麦とは「不法」を行う者である。⇒神の家から始まる裁き


即ち、「雑草」と「不法」は聖書中で「聖なる者たち」(ハギオイ)と呼ばれるイエスの約束した聖霊を受ける人々の中から起こる「背教」が関係している。即ち、「脱落する聖徒ら」のことであり、パウロがテサロニケのエクレシアに『まず背教が起こり、不法の人が現されてからでなくては(主の日は来ない)』と言っていたところの『背教』(アポスタシア)がこれである。(テサロニケ第二2:3)

『毒麦』また『背教』は、キリスト教の外側で起こる事象ではなく、まさしく内部から、それも聖霊注がれ、不定の将来に『回復』を果たす「浄められたキリスト教」の中枢での逸脱を指し示している。『聖なる者ら』が担う責任は非常に重いものであり、命を掛けて聖霊の言葉を語り、為政者とこの世に対峙せねばならず、『自分の魂を見出そうとする者はそれを失う』ほどであるという。(マタイ10:32-39)


そこで恐れ慄いてしまい、その果たすべき責務を離れてこの世と妥協してしまう者は、当然に「新しい契約」に相応しくないばかりか、仲間であった聖徒たちの敵と変ずるとしても不思議はない。もう、その者たちにキリストとも神の王国とも関わりはないのである。これは『背教』というべきであろう。 ミナやタラントの恐怖のために財産(聖霊)を隠してしまった奴隷の例えはこの警告となっている。

そこでは堕落させようとのサタンの誘惑が働くことで『小麦』となるか『毒麦』なるかの分かれ目となるのであり、その結末については『聖なる者』らの個人の忠節に関わる問題であるので、エデンの二本の木の試みと同じく、神はこれを予見しない。そこで毒麦を『小麦も共に抜いてしまわないように』する必要が生じると言える。それは即ち、聖徒らに臨む試練の結果として初めて両者の違いが現れるのであり、その間は『聖なる者ら』の裁きにキリストは手を付けることはないことになる。(フィリピ1:10/ペテロ第二3:12/ダニエル11:35/マラキ3:2)


そして、『収穫まで両方とも成長させ』るという時間の流れは、あのペンテコステからずっと現代まで続いてきたとは言えない。
なぜなら、真に聖霊を注がれた『聖なる者』は初期(第二世紀)に一度途絶えており、次に現れるのは「終末」という将来の『主の日』だからである。即ち、キリストは終末に至って弟子らの中に聖霊の注ぎを許し、そこで再び倉に納められるべき「小麦を撒く」ことになるであろう。⇒「ダニエルの七十週」

もし、初代から種は撒かれたままであると主張しようにも、それではローマ国教化以後の『畑』という世界は雑草だらけになっていることになり、この例えとは大いに様相を異にする。この例えに語られる『毒麦』とは、今日のキリスト教界の逸脱を遥かに凌ぎ、『聖霊を冒涜する』ほどの恐るべき『背教』というべきものとなろう。それは使徒パウロが書いたように、その『背教』(アポスタシア)が来なければ『主の日』も来ないからである。(テサロニケ第二2:1-17)


さて、古代には第二世紀までの初期の『聖なる者』たちも試練に遭っており、ユダ・イスカリオテの存在が示すように脱落した者が居たであろう。西暦60年代に入ると迫害が各地で起こるようになり、ペテロが警告する『神の家から裁きの始まる』時期が到来している。⇒神の家から始まる裁き
他の脱落者の例を挙げれば、アナニアとサフィラもそれに当たるように見える。この二人の場合はそのまま抜き取られたことになるが、これは聖霊降下からそう日を経ていない事例なので、言わば「芽を摘んだ」のであろう。

初期の『聖なる者』たちの選別は、死に至るまで忠節であったか否かによって分けられるものであり、それは復活において、『命の復活』となるか『裁きの復活』となるか*を左右するものとなるであろう。これは「十人の乙女」の例えに表わされている。⇒十人の乙女の例え 


*(これは『第一の復活』と呼ばれる(Rev20:6)ところの、キリストによる聖徒らを裁くための『千年期』直前の復活であり、キリストの声に呼び出される者ら復活(Joh5:28-29)を指している。従って、神による『義者も不義者も生き返る』(Act24:15)という、ユダヤ人が広く信じたところの諸世紀に生きた全人類の復活とは明らかに異なっている)



そこで、この小麦と雑草の例えは、初代キリスト教徒のように聖霊を受ける人々が再び現れる終末期の二度目事態を我々に指し示すもので、現状では、この例えから、将来に起こるであろうその実態を推察する以上のことにはならない。つまり、誰が『小麦』で誰が『毒麦』かを『主の日』に入ってもいない今の時代に決め付けるのは不毛な論議なのである。

そして現在は、奇跡を行う『聖霊』が地上の誰の身の上にも注がれていない以上、種の撒かれてもいない今日、『聖徒』からの『毒麦』も『背教』も芽吹いても始まってもおらず、小麦も雑草も生育さえしていない


背教というなら、すべてのキリスト教には初代のようには聖霊が無いことにおいて、どんな宗派も本来のキリスト教から逸脱している最中にあり、現在はそれ以上に「背教」のしようもない。
イエスの『毒麦』の例えも、パウロの言う『背教』も、キリスト教界の原状の逸脱ように「生易しい背教」では済みそうになく、それこそは、終末期における世界を惑わすサタンの猛り狂った反キリストの大暴れとなろう。



-◆「不法の人」--------------------------------

パウロの時代(西暦60年代まで)にも、彼によって「不法[アノミアス]の秘事」は既に始まっており、(聖霊という)抑制力が除かれるときが来れば、それははっきりと姿を現すと述べており、その「不法の人+」は、また「滅びの子×」とも呼ばれている。(テサロニケ第二2:1-12)

(+ [ホ アンスローポス テース アノミアス]=不法「重大な不正/法律を超える/無法な」)
(× [ホ ヒュイオス]=「子/子孫」 ・ [テース アポーレイアス]= 滅び「破滅/破壊」)


このように、使徒たちは当時から「聖なる者たち」の間から異なった分子の現われることを警告していたのだが、それは内部から現われることにおいて見分けがつき
難いことは容易に想像できる。しかし、単にクリスチャンの中にも悪い輩がいるということではない。(悪い輩はどこにでも居る)

それらの事は使徒たちの時代に成就していて、もう既に過ぎ去ったことなのだろうか?
だが、イエスの例えの内容は、それがずっと将来に起こることを示している。


というのも、イエスは『畑』を『世界』[コスモス]と述べ、『収穫』の時期を『この世の秩序の終わり[シュンテレイア]』と語っているが、これは小麦の最終的な収穫と倉に納めるところの、即ち、『神の王国』への『聖徒』たちの終末の集め出しの時期を指していよう。


なぜなら、初期の『聖なる者』らも使徒時代の『世界』の至る所から集め出されたが、終末に至って初めて『収穫され』『倉に納められる』からである。(黙示録7:1-3)

幾つかの古代資料は、使徒時代が終わり、初代の人々がまったく眠りに就いた第二世紀半ばまでに、消え去る聖霊の賜物について知らせているのだが、確かに、その聖霊の時代が去った後に、歴史はローマ国教化や以後今日まで主要なキリスト教に影を落とす教義の変更が酵母(パン種)のように作用して、イエスの伝えた教えを本質的に入れ替え、宗教上の封建的圧制者を登場させている。⇒ ローマ国教化で失われたもの


では、16世紀のプロテスタントが唱えたように、ローマ教皇が「不法の人」かと言えば、当時から歴史は今日までも流れ続けており、未だ『世の秩序の終わり[シュンテレイア]』を迎えておらず、事はそう簡単ではない。

イエスの言う通り、「世の秩序の終わり」に至るのであれば、時の経過を待つ以外にこの秘儀が具体的に誰を指すかは知ることができないだろう。

パウロはキリストが口の息で「不法の人」(アノモス「無法者」)を殺し、「その臨御(パルーシア)の顕現(エピファネイア)によって絶つ」と書いている。それは将来起こるキリストの臨御の開始から、さらに幾らか経った時点での地上への介入を意味する。(テサロニケ第二2:8)
 

したがって、誰が不法を行う「毒麦」か、また誰が「不法の人」であるかについて現在まで様々な推測がされてきているにしても、小麦と毒麦が『撒かれ』てもおらず、共に生育している段階にさえ達していない現在、即ち、正しく聖霊を注がれた「聖なる者たち」も存在さえしていない状態で「不法の人」の実体を見極めることには無理がある。

これについてエイレナイオスは、使徒ヨハネの言う反キリストについて「その者の名をはっきり告げる必要があったなら、その黙示を見た者自身がそれを告げていたであろう。なぜならそれが見られたのは然程昔ではなく、ドミティアヌスの治世の終わりで、ほとんど我々の世代のことであったからである」と第二世紀に自著"異端反駁"に書いている。

将来の「収穫の時」。それが何時であるかについては、ある物事の進展がない限りそれを判断することは人にはできないに違いない。それはパウロの云う『背教』の起こる時期を指しており、それにはサタンの誘惑によって脱落する「元聖徒」が関わるもので、『抑制力となっているもの』*である『聖霊』が『聖徒』と共に地上を去るという、終末期も進んだ後のことである。(テサロニケ第二2:1-12)
*(パウロがテサロニケ第二2:6-7に於いて『抑制力となっているもの』を『者』とも書いていることについては、前者を聖霊、後者を聖徒と見做すことができるように思える)


それゆえ、地上に聖霊が無い以上、イエスの語った毒麦の例えと不法の人に関する記述は現在までも変わらずに「秘儀」であり、時限ファイルの様相を呈しているのである。

将来、徴として進展し始めるこのパウロの警告は、約束の聖霊を受けていながら「背教」に至る「不法の人」が「すべての神々や崇拝の対象の上に己を高め、神殿に座して自分を神だと宣する」という事態の発生を伴うとされるが、これはイザヤやダニエルの預言でも語られている。(イザヤ14:3- /ダニエル11:36-)

様々な研究熱心な人々が聖書を詳細に調べ、この傲慢な「不法の人」の実体に迫ろうとして今現在も努めているのだが、いずれにせよ、世界は、この尊大で強烈な指導者に対してどう振舞うかによってふたつに分かれるであろう。

以下に、その理由と思えるところを述べよう。
 


-◆「不法の人」をめぐる事態の進展-----------------------

この「不法の人」が「滅びの子」ともされる理由は、キリストによって除き去られることが定められているからであろう。
しかし、その末期には大いに増長し、その傲慢さは神をも超えてゆこうとするが、その時点となれば「不法の人」が誰であるかは疑いなく明らかになるであろう。


その尊大さは、おそらく新教徒がかつて批難した独裁的なローマ教皇の比でもなく、全世界に崇拝を要求して「神の王国」とその王権を得るべきキリストにあからさまに逆らう人類の(照りつける太陽のような)独裁者であり、その姿は4000年以上前の底知れぬ深みから歴史の新たな舞台に登って来るであろう大王の姿に『像』のように重なるものであろう。(黙示録17:8)⇒「誤解されてきたバベルの塔」


ダニエル書では、この大王は聖徒の中のある者たちをも滑らかな言葉で誘い背教させ、また、聖徒を攻撃して成功し、優勢となるとすら予告されている。(ダニエル7:21/11:32-35)
これは『北の王』から起こされる『腕』(権力)であり、『北の王』が『人手によらずに砕かれ』た後も偶像化されて存続することが黙示録に示唆されている。(ダニエル8:25/黙示録13:15)⇒「二度救われるシオン」

パウロが「抑制する者が居なくなったとき」に、それが姿を現すと言っていたのは、将来、再び聖霊が聖徒に注がれて後のことを意味しているのであろう。パウロはまた同時の状況について『その不法の策略は既に働いている』とも述べていた。これは『不法の人』として当事者が顕現するのが聖霊の注ぎが終わり、悪霊の力に入れ替わった後のことを指して云うのであろう。つまり聖徒らが殉教し、或いは選ばれて天に召されると、以前は聖霊を受けた聖徒であった筈なのに、依然として地に『残されて』いる者らがいる。即ち、『ひとりは連れて行かれ、ひとりは捨てられる』の言葉の成就でもある。(マタイ24:40-42)

彼らはタラントの例えの中で、外に放り出されてしまう者に相当し、その持てる聖霊も取り上げられる。
しかし、彼らには「別の霊」を与える親玉が現れている、それはサタン崇拝の偽宗教であるが、『大いなるバビロン』は既に滅んでおり、今日見るような類いの宗教ではないであろう。

それこそは、諸宗教を葬り去った『七つ頭の野獣』の『偶像』による、その時まで存在したことの無いような「まったく新たな装いの宗教」の教祖的存在者なのである。


この教祖自身も「元聖徒」であり、聖霊は失っても引き続きサタンの霊力を受けて奇跡を行う者、『聖なる神殿を汚す者』、世の滅びを招く者となるであろう。そのすり替わりは巧妙で、『聖なる者の中からさえ躓く者が出る』。
ならば、その現れは聖徒らの天への召集に先立ち、『四十二ヶ月存在する』『七つ頭の野獣』と時間的に重なるとも言える。


そのように捉えると、以下のように黙示録13章と合致するかのようにして、その後の見通しが開ける。

つまり、聖徒たちが四十二ヶ月の期間、聖霊の賜物によって預言者の業を行った後、彼らは「新たな角」の攻撃を受けて倒れ、彼らの主がそうであったように、彼らが死すべき肉なる人であるうちはけっしてこれに勝利することはない。敵らは彼らに打ち勝ったことを喜ぶさまが黙示録にある。(11:10)つまり、『女の裔』はここでも主のように『踵を砕かれる』ことであろう。(創世記3:15)


その攻撃によって聖徒たちの中からさえつまずいて抜け落ち、「不法」に加担する者も出る。
その点、『滅びの子』(ホ ヒュイオス テース アポーレイアス)が当てはめられている例が、聖書中でユダ・イスカリオテだけであることは非常に示唆に富む。


即ち、「十二使徒」という最高度の聖なる立場にある者らの中からですら、『滅びの子』が現れたのであれば、『聖なる者ら』からどうして落伍者が出ないといえようか。
実にキリストの福音書中では、脱落についての類似した「例え」が他にも多数存在し、これを警告しているのである。


マタイの福音の第七章では「良い実を生み出せない木」についてイエスは語り、次いで、『その日、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言う』者らのことを予告している。

これら預言したり、払魔したりする権限を持つのは、まさしく聖霊の賜物を得た『聖徒』に他ならない。

そして、終末において、彼らは聖霊を得てすら「背教」に至り、本来の仲間である『聖徒』を排撃しておきながらキリストの顕現(エピファネイア)の段階になってからキリストに寄り添うことが許されるわけもない。⇒黙示録の四騎士

この「背教」による「聖徒」からの離開が生じることを教えるイエスの例えには、毒麦やミナの他に「引き網」や「選別される二人」、また「荒らす憎むべき者」、パウロが言う「不法の人」また黙示録の「偽預言者」などがあり、それらの中でも最たるものがこの「毒麦」の例えということができる。

初期の『聖徒』たちのように、将来の聖なる者らにも「キリストの杯」を飲み干して自分たちの主に続く覚悟が要ることはイエスの再三語ったところである。
 

こうなると、誰が真に聖なる者となるのかは、こうした事態の進展して来るまでは分からないことになり、やはりダニエル書はそれが聖徒を『練り清め、白くする』ためであるという。(ダニエル11:35)

そこから出る『灰汁』は聖徒の背教という、終末の著しい事態を表すものであろうことが明らかではないか。

「神の家から始まる裁き 試みと背教のとき」


その試練の後に小麦と毒麦の相違が明らかになるに違いない。

『小麦』として蔵に納められるべき聖徒が、来るべき『王国』において人類を統治し裁く役割を担うからには、自分の命を惜しんでなどいればキリストと共になる資格に適わず、そこで選別が起こるのであろう。(マタイ10:32-)




-◆悪魔の手段、脱落聖徒から現れる「不法の人」---------

例え話に戻れば、小麦も毒麦も実際の種は最初からどちらかなのだが、将来においては、試練の時の経過が無いなら分からない。だが、双方を収穫という終わりのときまで生育させ続ける理由に相当するところがこうして幾らか見えてくる。

つまり、これらの植物が実を結んだ最後の時期になるまで、人の目には小麦か毒麦かが分からないように、将来のある時点で、聖霊の注ぎをはっきりと受けた人々が存在するようになったとしても、なお試みがあるという事であり、聖徒の試みを経なければ例え話の「小麦」が誰で、「毒麦」が誰なのかは分からないということである。


ミナの例えのように、主人の帰還した後で清算される弟子の中にも、「外の闇に投げ出されそこで歯噛みする」者がいるとイエスは語っていたが、この区別の類似にも「時」が共に重要な要素となっている。⇒ ミナの例え

そうなると、生育中の小麦と毒麦が外見上似ているように、もちろん我々も将来「聖霊の賜物」を持ってその業を行う聖徒を眺めても初めから誰が小麦で誰が毒麦と断ずることはできないのであろう。


しかし、今から「不法」が何であるかを推論しておくことには大きな価値があるようだ。
それは、キリストの王権に関わる帰還への反対行動であろう。

しかもそれはあからさまな反対ではなく、「アンチ・クリスト」の語が示すように、キリストに「代替」するという詐騙であって、「終末」において天に臨御するキリストを偽り、自らがキリストであると主張し、恰もキリストが地上にいるかのように横暴に振る舞うものである。

キリストを詐称する者が多く現れるにせよ、『不法の人』は格別であるようだ。
彼は自らを高め、様々な宗教を倒させて、『あらゆる神とされるものの上に座す』のであろう。それはサタンのような悔いる余地なき「自己愛者」の典型、その象徴像のような人物なのであろう。(ダニエル11:36/テサロニケ第二2:4)


即ち、「聖なる霊」が聖徒らを通して語るその言葉と、「アンチ・クリスト」のいずれの言葉に従うかに関わる個々の人々がそれにどう応じるかという問いであり、ある人は『誰も反駁できない』聖霊の言葉に信仰を働かせ、またある人は何らかの理由でそれを退けることであろうし、そこに誘惑を仕掛けるのがサタンの腕の見せ所となろう。


「アンチ・クリスト」である『不法の人』に従う「脱落聖徒」は『毒麦』となるが、それは聖霊を与えられた人々の変質を言うのであり、聖徒が各地から現れる意味で『畑は世界』と雖も、元々「聖霊」を撒かれていない大多数の信仰持つばかりの人々『信徒』がそのようになることは無いことだろう。
 

しかし、「アンチ・クリスト」である『不法の人』に従ってしまう危険は「聖徒」にも「信徒」にも同等にあって、それは『天の雲と共に』に臨御して見えない真なるキリストを否み退ける結果を覚悟しなければならない。「不法の人」は、自分を神よりも高めるほどの自己崇拝を強要するだろうからである。(ダニエル11:31-35)

即ち、ユダ・イスカリオテが現れたように、『聖なる者たち』の中から脱落する者が生じ、多くが忠節を保って天に召される中、試練に脱落した彼らは地上に『残される』が、サタンは彼らを利用して『偽預言者』とする。特にその頭目が『不法の人』であり、神に勝ったものとして自分を示し『神の神殿に座す』ことになるというが、これはパウロが注意を促し『常々語っていたこと』であったというのである。(テサロニケ第二2:3-4)



-◆不法の人を招く諸宗教の教理-----

そこで恐ろしい効果を発揮してしまい兼ねない教理が既に地上のキリスト教界に現存している。
その第一が「三位一体説」であり、第三世紀頃にキリスト教に混入してきたものであるにも関わらず、我々の時代を飛び越えて、終末にまったく尋常ならざる効果をもたらし兼ねないものである。
その恐るべき効果をもたらし兼ねない教理の第二は、キリストの見える「地上再臨」 があると信じさせる教えである。

これらによって、サタンの霊力を帯びた脱落聖徒は、地上に置いてゆかれ、天への召しに与れないだけのことでは済まず、キリストが終末預言に於いて再三警告した、「地上にメシアが現れた」という偽りを推動し、そこに三位一体説が加わって、更にその者を「神」の座に祭り上げ兼ねないのである。

もし、そうなるのであれば、「三位一体説」も主の「地上再臨説」も終末の裁きの時にまで、『大いなるバビロン』の滅びを通過して存在し続けることになる。組織宗教としてのキリスト教が去ったとしても、確かに人の信仰心というものは簡単に変えられるものではない。

もし、終末に地上のエルサレムに実際に神殿が再建されるようなことが起こるなら、その『座』までも提供し兼ねないことになる。もしそうなれば、それはキリスト教だけでなくユダヤ教の宗教信条も刺激するものとなるのであろう。そこで、キリストの再臨時にユダヤ教徒が大量改宗するなどと信じているキリスト教徒から見れば、自分たちの預言が成就したかに思え、大いに目出度いことに思われるであろう。

そして、イスラム教も終末にイーサー(イエス)の現れを教えてはいなかったろうか。 しかも、終末で誰が本当のマーシー(メシア)であるかの戦いで圧勝するとされてはいないか。
こうなると、いまでこそ異なる三大宗教が、終末に波長が揃って『不法の人』に向かう事態も考えねばならなくなる。 


その時には、旧来の諸宗教組織を中心にした『大いなるバビロン』が去っているとはいえ、『羊のような二本の角を持った獣』が新たなイデオロギーを推進するのであれば、それはキリスト教の影響の色濃いものである危険性も拭えない。 その大国は極めてキリスト教的であって、その起こす行動や思想の潮流は圧倒的影響力を持つのであろう。

そこで『神の神殿に座し、自分を神として示す』者『不法の人』の現れを推動するものは、現に今キリスト教徒の多くが既に信じ込んで保持しているその教えそものではないか! そうともなれば、『不法の人』とは、キリスト教の逸脱の集大成のような存在となるのであろう。


終末では、世界という畑において、我々人間の狭い観点からではなく、天上からの判断により、天使らを通して真の聖なる者たちが選ばれるだろう。そこで悪魔の撒いたものである「偽の聖なる者」も出る。「アンチ・クリスト」に屈従し「不法」[アノミアス]に関与しているからであり、その行いは大多数の人々をつまずかせるものともなるに違いない。
 

 このように終末とは、「この世の裁きの日」という以外にない、「バプテスマを受ければ救われる」などと教えていたものはその信者らへの責を負えたものではない。例え、この世の現状の諸宗教が「聖なる霊の言葉」を聖徒共々葬り去らせることに成功して、しばし喜んでも、その次に倍した滅びを被るのが『大いなるバビロン』である。 ⇒ 「大いなるバビロンの滅び」 


たとえ、これらの「地上再臨」や「三位一体」を信じていない宗派がキリスト教にあるとしても、「聖霊の賜物」を否定していれば、奇跡が起こるときにそれが想定外となってしまい、真実の奇跡の賜物も偽りの霊による奇跡も判断をつけることさえ難しいのではないだろうか?その前に、終末に次々に起こる事柄についてゆくことさえ覚束ないであろう。

そして、あらゆる旧来の宗教組織を除き去って登場する、まったく新しい強制宗教が世界を覆う。
そのために、地上に残されてしまった脱落聖徒にサタンの霊力は臨む。それが『カエル』止まりの奇跡を見せることである。それこそ信じることが『偽預言者』の唱導する『七頭の野獣の像』への崇拝なのであろう。(黙示録16:13-16)

その虚偽の崇拝とは、『聖徒』と『大いなるバビロン』を滅ぼすと、時を経ずに聖霊の声に信仰を働かせ「信徒」となった人々の集団『シオン』を攻撃するように諸国家の公権力を糾合するだろうが、それが『ハルマゲドン』という場所に象徴的に集められていることを意識する人々がその人類連合軍の中にいるだろうか。



それで、我々が聖霊を注がれた聖なる者とはならなくても、「不法」[アノミアス]の側に組しその崇拝方式を受け容れることなどけっしてしない覚悟を思い定めることが、その時には誰にあっても最重要な事になる。


その崇拝方式とは「神の王国」の意義を否定し、人間が倫理上の欠陥(「罪」)を持っている事実と聖霊の言葉とを無視し(ここに聖霊への冒涜がある)、人類の能力と可能性に信仰を置く人間賛美の崇拝であろう。

 例えるならば、今日人々が信頼して止まない科学によって、人類の永生が可能となり老化や病気を食い止める希望が現実ともなれば、人々はそれでも神の側につくだろうか? あるいは強力な世界政府が登場し、紛争のない世界の希望が具体化するときに、人々はそれに熱狂しないだろうか?だが、それは不完全な代替品、いやまったくの偽物であり『666』なのであろう。その6という数字は『人間の数字』とされるが、罪ある人が肉的であるなら、それは聖なるものにはならず、神の第七日の聖なる安息、即ち『神の王国』にはどうあっても達することのない人間のユートピアに過ぎない。(黙示録13:18)


多くの人々がその数字に伴う人間のに期待する空しい夢を、洗脳されるように「額」の思いに置かされ、「手」の具体的行動に表すよう圧制によって強要される日が来るのだろう。(黙示録13:11-)
これを先導する者は、初めは神の聖霊を有していたのに、やがてサタンの魔力によって不思議を行う脱落した「元聖徒」と「七つ頭の野獣の像」を崇拝させようとする「偽預言者」の勢力であろう。


-◆不法の人という究極の偶像崇拝------------

以上の文章が幾分難解であることは承知しているが、結論は極めて簡潔な二択に収斂する。
それは創造者と人間とのどちらを神とするかという、エデンの問いへの回帰となるだろう。

聖書の述べるところを渉猟して推察するに、将来、人類に神の側を取らせまいと『不法の人』が猛烈な活動を展開し、世界はそれに巻き込まれ、相当数の人々は無頓着な故にその罠に易々とはまり、聖霊の業を行って大いなる業を見せた聖徒であってすらも、そしてごく普通の人々に至ってはまったく容易に、その欺きの陥穽に落ち込み、不法の側に立ってしまい兼ねないのである。(マタイ7:22-23)


『蛇』については、まず、間違いなくその始めからその終わりに至るまで『蛇』であり、ディアボロス(中傷者)としての姿勢を変えないに違いない。(黙示録12:9)
サタンが『終わりの日』ともなれば、誰であろうと神を中傷し、エデンの時のようにあらゆる人々を誘惑せずにはいないであろう。むしろ、『自分の時の短いことを知り』その持てる力の限りに 、創造神からあらゆる者を引き離しにかかることは目に見えている。それは『裁きの日』でもあるからである。


その『背教』は、「終末」におけるサタンの誘惑の最高傑作となり、エデンでエヴァにしたように、できうる限り人々を誑かして多くの犠牲者を吸い寄せようとすることであろう。この世が全体としてその道に入ってしまうことは、『聖徒』が『世』と敵対していることを述べる聖書中の多くの句に示されている。
 

『不法の人』は、その『背教』によって神をも凌ぐ名誉を唱え、あらゆるものの上に自らの権威の座を設えて、その玉座に就き、世界を神と対立させたうえで、結局は世界から集め尽くした追随者共々遂にキリストの顕現のときに滅びに至る。

パウロが聖徒らに対し『あなたがたの思いが腐らされ、サタンがエヴァを誑かしたように、キリストに対して示すべき誠実や貞潔さから離れはしないか』と心配したことはまことに適切であったことになる。(コリント第二11:3)
それこそが、真の「背教」であろう。それに比べれば、キリスト教の宗派同士が「背教だ」と批難しあうことなど他愛の無いものである。「不法の人」は擬似(反<アンチ>)キリストであり、『神の王国』の劣った代替物を提唱することであろう。


この以前に、その意味はいまだ不明瞭ながら、サタンは、最後の野獣の「新たな角」通して聖徒を攻撃し、神を冒涜して憚らない。さらにキリスト教を含む旧来の諸宗教たる『大いなるバビロン』をも完膚無きまでに滅ぼし尽くすことになろう。(ダニエル7:20-26)

それを使嗾する最たる者が『不法の人』また「アンチ・クリスト」であり、「背教」によってサタンの際立った人類誘惑の器「偶像」となって、キリストは(地上の)「ここに居る」と唱え、大半の人々を騙し、聖徒の中からさえ離脱者を得る、ということであろう。
『どこであれ、死骸のあるところには鷲が集まっているものである』。しかし、わざわざ鷲の餌になる必要などはなく、そのようなところから離れるべきではないか。(マタイ24:24-28)



いずれにせよ、この考察も含めて聖書記述に対する人の予想はそれ以上のものにならないが、より重要な事を考えるに、我々はキリストのような熱意を以って創造神を神とする立場を取るだろうか。それとも「蛇」の道を行こうとするだろうか。人間が神のようになって良いものだろうか?これが焦眉の問題となるだろう。


蛇と不法の人の目的は、創造物に創造者を離れ独立した自己の道を行かせることであり、アダムの子孫は既にそうしてあらゆる倫理の基礎を失って罪の内にいるが、仲介者キリストを通して善人も悪人も信者も不信者も関係なく人類のすべてに「神の子」の認知を受ける道は残されている。

その道とは、将来聖霊が再降下し、ある人々が聖徒として為政者と対峙し、反駁できない聖霊の言葉をもって語るときに、それを支持することである。(マタイ10:18)

その言葉が世界を揺り動かす程のものになるというからには、我々は聖徒が誰かを見紛うことはない。(ハガイ2:7)

『蛇』はその一条残された神への道を断つべくあらん限りの手段を用いるに違いない。(黙示録12:9)


それはこれから聖霊の驚くべき言葉が臨んで後、先鋭化する争点となるからであり、「アンチ・クリスト」という、おそらくは聖徒からの著しい大背教者、十二使徒から現れたユダ・イスカリオテ同様に『滅びの子』と呼ばれる者の登場によって、そこで、人はそれぞれに自己の内奥が問われることになろう。(マルコ13:9-10)

『大いなるバビロン』の亡き後、「最後の究極的偶像崇拝」が登場するなら、象徴的『聖所に立つ』『荒らす憎むべきもの』の到来はその時に聖霊を信じた者らの中で紛うことなく明瞭となるのであろう。(マタイ24:15)

中傷者としての「蛇」の本性を知る者であるなら、聖徒であろうとなかろうと、その欺きにのってはならず、神とキリストを擁護して、エヴァやアダムのようにもならないことを決意せねばなるまい。




               新十四日派  ©  林 義平



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「背教」と「不法の人」 

神の家から始まる裁き

黙示録の四騎士

携挙と誤解される聖なる者の召し

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新旧の聖書の記述を精査総合し
この世の終りに進行する事柄の数々をおおよそに時間の流れに沿って説く
(研究対象が宗教であるため主観による考察)

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