エルサレム神殿の破壊のために
その後の世代で謎となった神の御名
聖なる四文字”YHWH”
ShM3stl

上に掲げたこれらの四つの文字が
ユダヤ人によって「ハ シェム ハ メフォラーシュ」[השֵׁם המְפֹרָשׁ](以下ShM)と呼ばれるところの、聖書に刻まれたイスラエルの神の聖なる名を表している。
(上から、フェニキア式、北セム式、アラム式)
右から左に読み、それぞれの文字名は「ヨド・ヘー・ヴ・ヘー」であり、すべて子音字である。

それは四文字で構成されるのでギリシア語式に「テトラグラマトン」とも呼ばれる。
だが不思議なことに、この四つの子音字にそれぞれどんな母音が補われ、何と発音されるかを知る者はキリストの世代までは間違いなく居たのだが、今となってはこの世に誰ひとり読める者がいなくなってしまった。

古、旧約聖書においてモーセに示され、十戒の初めに自らを明かすこの名を有する対象こそ、アブラハム、イサク、ヤコヴの神であるとされ、律法契約の当事者としても特定されてきた יהוה[YHWH]神である。

新約においても、「主の祈り」の冒頭で「御名が崇められますように」と祈りの初めに掲げられ、この名はキリスト教徒にも第一の関心事となるべき祈りの場所を占めてきたのではある。

しかし、このイエスの教えた祈りの筆頭を成す「御名が崇められますように」の意味するところを、どれほどの人が意義ある認識を以って祈っているかとなれば、薄ら寒いものを感じる。

クリスチャンが、「ハレルヤー」[הללו־ יה]と歓呼の声を上げるときの最後の「ヤー」 [יה] という発音が何を意味しているかといえば、YHWHの略称*「ヤハ」であり、実にその名を「ハッレル」(賛美せよ)と叫んでいることになる。(*この音が本来の神名に含まれるものかは不明)

しかし、神名がキリスト教徒の意識に上がらない理由は、ローマ国教化と共に嫌ユダヤ的に変質した教理にあり、既に変わってしまったものが古来、政治的権力を後ろ盾に「正統」の地位を占めてきたからであるので個々のクリスチャンに責はない。また、新興の宗派がこの代替名を強調してあまりに頻繁に使用することが、逆に忌避させるものとなってしまっているようだ。

キリスト教の指導者の中には、聖書に散見される「神名」とは「神の特質」のことであると教える方もあると聞く。
だが、イザヤ42章8節でこの神は『我はYHWHなり。是は我が名なり。我は、我が栄光をほかの者に与えず』。と宣言する。
この神自身の言葉に不明瞭なところがあろうか?
[יהוה]"YHWH"こそが聖書の神の固有名であり、創造の神が自らの名乗りをしたというイスラエル民族に明示された事実は、何を以っても覆すことはできないほど聖書に刻み込まれているのである。もちろん、これほどの回数ほど現れる名も他にない。

しかも、それは単なる名称というに留まらず、このシェム ハ メフォラーシュに神の恐るべき至上命題が孕まれているというのは、以下に述べるようにけっして誇張ではない。

旧約聖書の詩篇には
神に向かって『あなたを知らない異邦人と、あなたの名を呼ばない国々の上にあなたの怒りを注ぎ給え。』と願う祈りがある。(詩篇第79:6)

また、新約聖書には
『主(YHWH)の名を呼び求める者は、皆救われるであろう。』と旧約の預言を引用して更に語っている以上、これは未だ成就しておらず、『この世』の終りに向けた予告であろうことはまず間違いがない。(使徒2:21)
これらは、共に人々の裁きに関わっている。

この聖なる名に込められたもの、それは神の啓示された目的の中で最も優越されるべきものであり、人間の救いに勝り、キリストの王国が成就する事柄をも超えるもので、創造神の『生けるものと死したるもの』のすべての生殺与奪の権限が込められたものである。即ち、その名に「裁き」と「救い」、「死」と「命」がある。
しかも、この選別は最終的にこの名の持ち主である神自らが成し遂げるというのである。(創世26:3/黙示20:11-15)

この記事では、神名が今日どのような状態にあるか、そのいと聖なる御名の由来と、そこに込められた至上の目的を書き出すことにしよう。



-◆失われた音--------------------


これは聖書の神の名、つまりアブラハムら父祖に現われた神であり、モーセの時以来の創造の根源者の固有名とされてきた*。(出埃6:3)
また、律法契約などの旧契約とキリストを仲介者とする「新しい契約」でも当事者を特定する名でもある。(エレミヤ31:31)*(創世記にもShMが存在するのは、モーセ以降の後代に再編纂されたためである)

この神名を表すその四文字は、ヘブライ語の聖書古写本に七千回近く用いられ保存されている。そのSHMは、英字で”YHWH”と置き換えられることが多い。

モーセのとき以来、イスラエル民族に示され発音されてきたこの神名であったが、今日では、これを古のように読むことは誰にもできなくなってしまった。あろうことか、忘れ去られたのである。

その具体的な原因は、捕囚帰還後のユダヤ人が神の御名を神聖視して、その名を神殿以外の場所での発音を禁じ、それも年に一度の『贖罪の日』に限定したことが挙げられるが、この禁令が無かったなら、神の御名が今日まで知られたのかも知れない。
加えて、この捕囚に至る時期にイスラエル民族は契約の箱『アーロン ハ ヴリート』と聖籤『ウリム ヴェ  トンミム』も失って以後戻っていない。これらが示すところは、捕囚以後のシナイ契約の不確かさともいえよう。


パレスチナ帰還後のSHMの神聖視は聖書翻訳にも及び、ヘブライ語から離れて外地で暮らすギリシア語を話したイスラエル人や異邦人の改宗者のために作られた「セプチュアギンタ」と呼ばれるギリシア語聖書のごく初期写本の中で、神の名を音訳はせず、そこだけヘブライ語で記したので、外地のユダヤ教徒はそこを発音せず「主」や「神」と読むよう促され、すぐにSHMも記されなくなっていた。原因はヘブライ語を読めないディアスポラの民が、そこをギリシア文字に似ているという理由で「ピピ」と読む体たらくで、これには至聖の御名を崇めるユダヤ教徒の激しい怒りを買うところにあったとされる。

こうして御名を神聖視する過程で、YHWHは「シェム・ハ メフォラーシュ」、つまり「あるがまま(固有)の名前」と呼ばれ、他方「アドナーイ」(「主」[複])や「エロヒーム」(「神」[複])は「シェモート」(〈仮の〉「名」[複])とされ、神名はシェム[単]とシェモート[複]に分けられるに至った。

セプチュアギンタの殆どがシェモートで記される聖書写本によれば、紀元前3~2世紀にこの分離が現れ、また完成されたようである。

 

だが、YHWHの痕跡はイスラエル内外の各地から出土する碑文にも刻まれており、より古代にはヘブライ人ばかりでなく、周辺の諸民族の間でも平素一般に会話の中で発音されたイスラエルの神の名であったことが覗える。

しかし、今やこれがユダヤ教やキリスト教の聖なる神の固有名であるのに、これを何と発音すべきか分からない事態に陥っているのである。 


しかもこの事態をもたらした発音制限の掟は、捕囚後の特定の期間に至って始められたものであり、メシアの現れが近付くまでに完了していたという事ができる。以後、ユダヤ人にとってYHWHを神殿聖域以外でそのままに発音することが『恐るべき』冒涜を意味するまでになっていたことはヨセフスの著作からも覗い知れる。(ユダヤ戦記V:X:3)

即ち、キリストが現れる頃までに、口頭伝承の確立に努めた律法学者らの教えに従って、この禁令はユダヤにすっかり浸透していたのである。
その習慣の背後には、単にユダヤ人が神名を至聖のものとして崇め奉るばかりでなく、帰還後のユダヤのYHWH崇拝に関わろうとした割礼の民サマリアやモアブに対するユダヤの優勢を誇ろうとの意図があったのかも知れない。この時期のユダヤ人のサマリア人排撃には強硬なものであったことが知られているからである。⇒「アリヤー・ツィオンの残りの者」

サマリア人は聖域に入ることをユダヤ人に阻止されていたので、無割礼の諸国民と共に数百年間神名を聴く機会から遠ざけられており、ヘロデ神殿の消滅後ユダヤ人が失った神名の発音を保存することは、やはりサマリアも出来なかったのである。

対して、メソポタミアのシュメルの神々の名は、マルドゥク、その妻のザルパニトゥ、その子ナブー。また、聖書の神に対抗したカナンの神の名バアル、その妹にして妻であるアナト。時代が下ると、モアブ人の神ケモシュ、アンモン人の神モロク、フィリスティア人の神ダゴンなども我々は知っている。しかし、いずれも考古学上の神々であり、信仰の対象であった時代はとうに過ぎ去った歴史の遺物である。

そこで今日までも広く崇拝されるヘブライの神YHWHに関しては、特別な経緯を辿ったことになる。
つまり、多くの古代神は名を知られながら崇拝されていないが、YHWHは名も知られずに崇拝されているのである。

やはり、母音字を持たなかったエジプト人の神々の元の名は失われたが、それでも今日ではオシリスやイシスなどギリシア名で通用しているではないか。

では、数千年の経綸を聖書に教え続け、今なお世界に信者を無数に持っているイスラエルの聖なる神はこれら異神に劣るのだろうか?

無神論的な人々は、そのことを以って聖書の神など所詮そのようなものだ、あるいは初めから居ないのだと揶揄する材料とするかも知れない。


しかし、碑文ばかりかヘブライ語の旧約聖書(以下「タナハ」[TANAKH])には今日までもこの四文字がそれぞれの文中に保存され確かに伝承しているのである。

では、現代ユダヤ人はSHMをどう扱うかというと、その至聖なる四文字を畏れかしこんで読まず、また今日は実際読めないので、SHMの場所にくると「アードナーイ」(主)や「エロヒーム」(神)とシェモートに読み替える。

だが、ユダヤ人はその四文字が神の個有名であることは認識しているので、彼らはこれを「特有のその名」(ハ シェム  ハ メフォラシュ )と呼んでこの上なく神聖視しているのである。


だが、それは奇観ではないか!
あのように聖典を委ねられ、トーラー(律法五書)だけでもヘブライ文字七万九千八百五十六字を、数千年後の今日まで、気の遠くなるような長期間に亘って見事に警護し、ただの一字も漏らさず保存してきた、かのユダヤ人たちが、一方で自分たちの神の名は読めぬというのである。

あれほど古代から、何かと周囲に影響を与え続けてきたイスラエルの神が、その崇拝を続けさせながらも名前は知られていないとは、いったいどうしたことか? 

果たして全能の神に、自らの名の発音を人々の間に保存させることが出来なかったということがあるのだろうか?
 



-◆神は自らの名に栄光を付す---------------


 現TANAKH(申命記第5章)Jewish Publication Society:筆者SHM位置に下線
  SHMにはマソラに基づいてか以下アドナーイと読ませるためのニクード(ルビ)が付され[יְהֹוָה]「イェフーワー」とも読めるがそれは誤読で、ユダヤ人はけっしてそうは読まない

  
Shema_redほかならぬ神は自身の名についてどう見做しているのか?
それについてはタナハ中で実に多く言及されており、しかも重大な意味があることを伝えているのである。

モーセによって神名が知らされ、律法の最初の十ヶ条である「十戒」が授けられたとき、早くも第一戒で『汝らYHWHの名を徒に扱うべからず』とある。

レヴィ族による祭儀が示されるレヴィ記の中では、神は再三神名を汚すことを戒令しており、それを罵った者が処刑される事態も発生している。(Lev24:16)

加えて、イスラエルが異教の神に自分たちの子らを犠牲とするなら、それは神名を汚すことであるとも書かれているが、この点で、後年背いたイスラエルはカナン土着の神「バアルと姦淫を犯した」と預言者に糾弾された。

それは『バアルの名によって我(YHWH)を忘れようとすることである』とも告げられている。(Jer23:25)

したがって、神名はイスラエルにおいてまったく聖なるものとなされるべきであるとされてきた。

そして更に進んだ将来、最終的に神名は世界中で永遠に賛美されるものとなると預言されている。(Mal1:11)

ではあるが現在のところ、この名を発音することは恰も封印により禁じられたかのようですらある。
それゆえ、神名が世界で崇められるには、人類に対して著しい仕方で開示される時が間違いなく必要である。
そのときに至れば、この神名は輝かしい栄光と共に知らされることになろう。

というのも、神はその名の誉れを人に求めるだけでなく、自らその栄光を顧慮し行動してきた記録がタナハ中に再三にわたって見られるからである。


まず、神はモーセに自ら『YHWH』を名乗り、出エジプトの際には神はファラオの傲慢な心を助長して更に頑なにし、イスラエルの去ることを認めさせず事を見守るあらゆる人々に対して、自らの力を明示し、モーセに知らせたYHWHとの名を高めたのであった。

出エジプト記に、『わたしがもし、手をさし伸べ、疫病をもって、あなたと、あなたの民を打っていたならば、あなたは地から断ち滅ぼされていたであろう。しかし、わたしがあなたをながらえさせたのは、あなたにわたしの力を見させるため、そして、わたしの名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない。』と記されているように、出エジプトに偉業そのものに神名の高揚が意図されていたのであり、これは将来に繰り返されるということになる。(Ex9:15-16)


これはエジプトの地を十度打った災厄による神名の高揚であって、エジプトの神々はこれに対抗することができず、YHWHの優越性が見るものすべてに明らかにされている。
その結果、イスラエル人の信仰を呼び起こしたに留まらず、エジプト人の中にもYHWHの名が高められ、イスラエルと行動を共にしようとする者たちまでが現れている。
こうした反響はそれに留まらず、紅海での救出を含め、周辺の異邦諸国民までがその噂を聞きYHWHに畏れを抱いたことも伝えられている。(Jos2:10)


また、背いたイスラエル民族を度々救い、彼らをバビロン捕囚からすらも解放した神ではあったが、それを彼らの為に行ったとはけっして言っていない。

エゼキエルの捕囚解放の預言では『いまこそヤコブの囚われ人を連れ戻し、イスラエルの家を憐れむ、そうして、わたしは自らの聖なる名を専らに顧みる』(Ez39:25)


また、イスラエルの聖なる神は、その民の反逆に対しても自らの栄光のために自らを制したとさえ言うのである。
『我は汝が全く不信実なること、母の胎より反逆者なることを知れり。然れど、我は我が名のゆえに、我は自らを制す。我が賛美のゆえに我は怒りを抑え、汝を断ち滅ぼすことをせず』。(Isa48:8-9)


こうして、律法で神名を汚さぬよう要求した神は、自らもその名を汚す行動を避けてこられ、その栄光を深く顧慮されていることは明白である。



一方、イスラエルに敵対した異邦人はこの神名をどう扱っただろうか。
イスラエルが囚われた状態についてイザヤ書にはこう記されている。

『YHWHは云われる「我が民は徒に捕われた」。YHWHは云われる、「彼らを使役する者らはわめき散らし、終日我が名はあしざまに侮られる。」(Isa52:5)

敵らは確かに神名を『誹り、不敬に扱う』のであり、『敵意ある者どもはその名を徒に取り上げる』のであった。(Ps74:10/139:20)


しかし、自らの名の栄誉を顧みる神が、このような状況をいつまでも容認するとはけっして思えない。
そして確かにイスラエルの聖なる神が将来、諸国民に対して立ち上がるとき自らを高めると宣しているのであるが、それは恐るべき日となるのだろう。(Isa33:10)



-◆信仰を呼び起こす神名 ---------------


今後、その名が提示されるとすれば、それは神が聖霊を以って聖なる者らを介して語る日であり、世の裁かれるときであろう。すなわち、メシア=キリストの帰還と臨在(パルーシア)のときである。
かつてはイスラエル人ばかりか、近隣の異邦諸国民もが口にした神名ではあったが、そのような時代が過去のものとなって既に二千年に近い。
それでもこの世が終末を迎えるときに、その名の発音は非常に重い意味を持つのであり、御名は至高の座に就く時を迎えるのであるから、 今や神名を発音できないという事態に陥っているところにこそ、人間を遥かに超える企図が込められていると見做す方が、無理に発音を試み卑近化するよりも、よほどその御名を恐れ畏むことになろう。(Isa29:23/52:6)


出エジプトのときから推して、人類史のクライマックスとなる終末の於いて、当然ながら神名の通知が重要な要素となる。つまり人類が固有名によってその神を特定する必要があるのは言うまでもない。(Ex3:13)

また、出エジプトのとき、その名に信仰を抱いたエジプト人までもがイスラエルに加わったように、将来にも夥しい諸国民が神の名に信仰を抱くであろう。ゼカリヤの預言は、ひとりのイスラエル(聖徒の予型)の袖を十人の異邦人が引き、「我らも共に行く」と言う回復の日の様を伝えている。(Zec8:23)

詩篇やヨエルの預言には『YHWHの名を呼び求める者は皆、安全に逃れ出る』とあり、これをペテロが使徒言行録の中の聖霊降下の場面で再び預言的に語っているので、それは更なる将来に成就されることを表していよう。(Act2:21)

神が聖霊を通して人類に自らの存在をその名と共に証すとき、キリスト教を含む現存している宗教は一気に色あせ、存在理由をも失ってしまうだろう。それらはエジプトの万神がそうなったように神YHWHの前に無力であることがさらけ出され大半の信者を失ってしまうが、そうしてYHWHに帰依し『その名を呼び求める者は救われる』。


このように、神名の至高位への登壇は人類の救いに関わるものであり、一方でそれが聖霊を通して知らされるのなら、この名を無視する者や冒涜する者には許されざる「聖霊に対する罪」に抵触することになり、それは公生涯中にイエスが行った聖霊に業を誹謗したユダヤ指導者層と同様な傾向をしめして断罪されるべきものとなるに違いない。

それゆえ神名の明かされる時代は裁きの日ともなろう。
終末に御名が至聖とされ、高く挙げられるゆえにこそ、今日まで神名は隠されていると見ることは間違いだろうか?

すなわち、イエスを葬ったのと同じ精神を示す者ら、つまり政治家と宗教家の連合が、将来に聖霊を受けて神名を担う大使となる聖徒らを葬り去ろうとするその行動が、モーセから神名を聞かされたファラオの時代と同じの意味をもつのである。
諸国の為政者らは、聖霊で語る聖徒らから神名を聞くが、神は彼らの反抗を容認され、その間にその名に信仰を働かせる人々の到来を待つことになろう。その結果、出エジプトの古代に同じく、どのような神の追随も許さぬほどに神名は挙げられ、反抗者らの努力は尽く無に帰する。そうなれば、最終的な「紅海の奇跡」の再現とは神と人との戦いである『ハルマゲドン』に結実すると観ることができる。そこでは、どちらも信仰懐く人々の救出が関わっている。


キリストが地を裁くために顕現するときには、邪悪な者らがイエスへの仕打ちを神名を慕う者らに繰り返すその手を止め、起こる意外な事態の中にイエスの報復の予兆を見るであろう。
こうした意味でイエスを「刺し通した者」も不可視の「雲に乗った」イエスを恰も見ざるを得なくなるだろう。

それは世にあって神名の高く挙げられる日となり、世に臨在(パルーシア)するイエスは、父に「対抗するものを何一つ容認せず」(Ex20:5 [エルカナ])、世界を裁いて神名の浄めを全うする。




-◆天に去った神名の音------------


このように神自身とキリストが神名の誉れの顧慮するゆえにこそ、現在人類が神名の発音を失った理由があるようだ。

すなわち、神殿がエルサレムに存在している間、ユダヤ人は聖域でその名を聞くことができた。そこで新約聖書を書いたキリストの初代の弟子らは、イスラエル人であったので神名の発音を知っていたに違いない。

しかし、当時地上で唯一SHMの音を聞けた場所であった神殿は、西暦七十年にローマ軍の攻撃を受けて、エルサレム共々、まったく破壊されるに至った。こうして、その発音を許された場所を失ったユダヤ教徒は、その極端なまでの忠実さによって、二度とSHMを語れず聞けず、遂に神名の発音は地上を去った。

キリスト教もこの事情は変わらない。
イスラエルに属するキリストの使徒や初期の弟子らも、当時のユダヤ人の習慣に倣い、公けにSHMの発音はしなかった。もしそうでなければ、神名発音の問題で周囲のユダヤ教徒と激しい争いを起こしていたに違いないのだが、新約聖書中にそのような場面を一つも見ることはなく、どんな新約聖書写本にもSHMが登場したケースが一つも無いこともそれを物語っている。

例え、マタイが福音書をヘブライ語で書いたとしても、メシアを知らせようとしている相手が受け入れ難いことを敢えてしただろうか。その原本にSHMが在ったか否かを問題にすることは不毛な議論であろう。たとえそこにSHMが在ったにせよ、ギリシア語に訳されたときには当時のセプチュアギンタに倣って神名を扱ったに違いないからである。新約の筆者らが旧約をギリシア語で引用するときには必ずセプチュアギンタを用い自分で直訳はしなかったからである。

仮にマタイが旧約を引用した箇所でShMを記したにせよ、それを発音しなかった蓋然性はほとんど否定のしようが無い。周囲のユダヤ人がそれを許さないに違いなく、初期ナザレ派としてユダヤ教に従ったマタイ本人であってさえ御名に対して同じ良心を抱いていたからこそ使徒らもこの件でユダヤ教徒と論争を起こした記録が見当たらないに違いない。

新約の筆者が旧約中のSHMを引用の際に記載したかどうかという議論は、当時のセプチュアギンタの趨勢から原本においても記載していなかったと見るのがまったく順当である。
なぜなら、彼らが宣明するべき名はナザレ村の大工の息子エシュアであり、今日でこそ、その名イエスは世界で最も有名であるが、その基礎を据えたのも初期の弟子らの努力の賜物であり、その間、神YHWHは御子の名を上げるために自らを制した観さえある。(Act10:42/Rom10:9/1Cor1:2)

イスラエル人である使徒らも、ShMを発音していなかった様は、ヘブライ語への還訳された新約聖書においても現れている。例えれば、ギンズブルクによるヘブライ語訳の新約聖書では、旧約聖書からの引用箇所だけでなく、独自の判断によってShMが在ったと想定した箇所に神名を「復元した」にも関わらず、パウロがアテナイの評議所に連れ出され『知られていない神に』というところから宣教を始めていながら、神名を挙げていないところにも、またリュカオニアでのゼウスやヘルメスと自分たちが混同された場面でも『神』というだけで、その固有名を用いていないところにも表れている。汚れにあると見做す全く無割礼の異邦人に神名を発音することさえユダヤ人の習慣や良心からすれば常識外れであったに違いない。ShMはユダヤ教徒同士によって保たれるべきものであったからであり、フィロンもヘレニズムの読者にShMの発音は明かしていないばかりか、超越性に満ちる神に固有名は付けられないと諸国民に言うのである。(Act14:17/17:31)

やがて時代を経て、聖霊によるイエスの監臨も地上を去って聖霊も引き上げられ、聖徒らが地上から姿を消した西暦第二世紀以後になっても、神名だけが諸国民の誹謗中傷の汚れに渡されるような状態に残り置かれるようなことは、上記に見た神の見地からして考えられないであろう。

発音喪失に様々な現実要因が重なったにせよ、結果的に人類はその名を発音して神名を口汚く罵ることは不可能となったのである。

真の名の発音を避ける習慣は、漢字文化圏では「諱」(いみな)として存在していたが、その真の名を発音することは親や君主のみに許されたことであり、それ以外の者がそれを発音して呼ぶ事は非常な無礼であるとされていた。
同様の習慣が古代世界の各地に存在していたことが突き止められていると言われる。⇒「実名敬避俗」
ユダヤ人の御名を至聖のものとして尊ぶことを望んで生じた実名(SHM)不発音の習慣も、人類史から見ればそう特異なことでもないとも言える。これは以下のように単なる迷信として片付けられない面がある。

さて、SHMはモーセのとき知らされて以来、常に契約と共に在った。(Num6:24-27)
契約を証しする聖なる箱の上にはYHWHの臨御が在り、奇跡のシェキーナー光が宿ったという。
その箱の置かれる場所は『「御名」を置く処』と呼ばれており、神殿も『(神の)名のために』建てられたとされている。(Deu12:11/2Sam7:13)

その神殿といえば、イエス後にエルサレムと共に破壊されて以後、今日に至るまで再建されていない。
つまり、「御名を置く処」は今日地上に存在していないのである。

それゆえ、地にSHMの音が聞かれないこと、そして聖霊を受け「生ける神殿」となる人々が到来するときに再び神名が発音されると信じる整合性があると言える。(1Pet2:4-5)

詩篇は「捕囚の回復」を予見してこう書かれている
『(神は)捕われ人の嘆きを聞き、死に定められた者を解き放たれる。
人々がシオンでYHWHの御名を知らせ[לספר(レサフェル)*]、エルサレムでその誉れを言い表すために。』(Ps 102:20-21)*[to tell ] KJV[To declare]
もちろん、帰還民がSHMを知らなかった筈もないので、これは更なる将来を予告したものに違いない。
即ち、対型的な「回復」であり、それが終末での聖霊の再降下ではないと誰が言い切れよう。 (Mt10:19-20)

 エゼキエルは、ゴグとマゴグに関連して、紛うことなく終末への預言の中でこう記している。
『わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。諸国民は、わたしがYHWHであり、イスラエルの聖なる者であることを知ることになる。』 (Ezc39:7)

終末に神名が知らされるとは、それまでは知られていないと云う以外にない。
では、なぜ神名は地上を去ったのであろうか。 


人間であってすら、自らの恥となるようなものをわざわざ公にするようなことはしない。
神自身『いったい誰が自分を汚させることなどするだろうか』とイザヤ書48章11節で明快に語る通り、我々人間さえ、自分の誉れを不必要に下げるべき理由はどこにもあるまい。まして、全能者が大切に栄光を保ってきた自らの名をわざわざ汚れさせることなどあるだろうか。

もし、それを残そうとの御旨があったなら、全能の神が自らの威光ある名の発音を地上に残せないわけもない。
そこで考えられることはひとつ。むしろ神自ら顧慮して止まない神聖な名の発音を地上から取り去ることで、それを栄光のうちに保ったのではないだろうか。

イスラエルですら聖なるものとそうでないものとの区別を失い譴責されたことがあるが、果たして罪ある人類が、律法の保護も無しに神名を汚さずにいるだろうか?(Ps139:20)
それがまず無理であることは、誹謗中傷満ちる世相を幾らか思い起こすだけで明らかではないか。

そして、聖書の神は必要のないことを行わないことを我々は知っている。況や、自らの栄光を汚してまでそうするわけもない。(Ezk22:26)

ゆえに、名の栄光の保持が神の意志であって、イエス不在の今日、神名を口に出来ないようにしたところに神の御力を感じとることができるではないか。
 




-◆イエスは弟子たちに神名を知らせる -----------


したがって、今日それをヨーロッパ古式の「エホヴァ」1と読もうと、近代ドイツからの「ヤハウェ」2と読もうと、神名はおそらくどちらでもあるまい。(1.マソラのニクードは元々アドナーイと読ませる為のものであり、そこからイェホワーが派生した。2.チュービンゲン学派が19世紀に案出)

このように至聖の事柄で、死すべき人が「見よ、わたしは知っていた」と誇ることが許されるものだろうか。(Isa48:7/Rom3:27)

ただ、それらのように何らかの発音することに幾らかの益があるかも知れない。つまり固有名を持つ神であることを認識し、且つ身近に感じる助けにはなるだろう。あるいは、わずかに残された省略形の音「ヤハ」を用いるなら祈るときには負担も少ない。だが、それとて神名が何なのかを人は誰もが等しく知らないという現実は変わらない。

しかし、一度付いてしまった口癖を治すのは至難の業であるから、将来、新たに神名が明かされるとき、その発音を直ちに習慣とできるようにするため、現時点で中立的に「YHWH」と敢えて読み慣わすのも良いのではないだろうか。

更にこのYHWHの利点は、単に「主」と一般名詞に置き換えるようにではなく、恰もユダヤ人のように、その都度そこに確かにSHMが在るという徒ならぬ事情を意識するので畏敬を保つことができ、また、これをあまりに頻繁に、あるいはいたずらに取り上げるような気をも削ぐであろう。

そうすれば、我々は聖霊によってその神名の顕されるのを待つ態度を示すことができ、同時に『神の子たちの顕されることを切に待ち望んでいる』ことをも表すことができる。(Rom8:19)

すなわち、彼ら「神の子たち」とは聖霊を受ける「聖徒」たちであり、彼らこそ神名の通知を担うであろうから、彼らこそがまさしく『御名の民』『YHWHの証人』と云える。(Act15:14/Isa43:10)
イエスの受難を予告している詩篇22篇に、『わたしは兄弟らに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美する。』とあるように、イエスは自らの兄弟たちである『養子縁組の霊』を受けた『聖なる者ら』に御名を知らせると信じる理由は十分にあると言える。


前述のように、ユダヤ人は西暦起源が近付くに従い、神名を発音することを神聖視して神殿内に限定するようになっていったのだが、聖霊を注がれる聖なる者らは、キリストと共に生ける石の神殿となる人々であるゆえに、そこに「御名」が置かれることには整合性があり、且つ、モーセ以来の律法契約にSHMが伴ったように「新しい契約」にも「御名」が随伴するであろう。(Deu12:11/2Chr2:1)

それゆえイエスが、当時のユダヤの習慣によらず『彼らに御名を知らせた』のはまことに納得がゆく。それはイエスの父である『あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるため』であるという。つまり、聖徒たちは「新しい契約」の一方の当事者でもあるので、律法契約に入った民族がモーセを介して神名を知らされたように、『新しい契約』に与る聖徒らも、契約の相手である神の個有名を知っているべき理由があり、「約束の聖霊」を注がれた彼らは神と仲介者キリストによって深く結ばれているからであり、少なくともマタイが「収税人の罪人」であれば、聖域への出入りを禁じられていた可能性性があり、その名を聞けない一人であったかもしれない。そのような弟子らにイエスが父の名を知らせたことは考えられることである。(Joh17:26)


キリストの去って後、神の『名を置く処』である神殿が無くなってユダヤ人から発音の機会が奪われ、初期にはユダヤ教からの弟子らも含まれたキリスト教においても聖霊を受けた聖徒が絶えるにしたがい、ユダヤ教からの習慣と新約聖書がギリシア語で書かれたために、SHMの発音はキリスト教界をも去ったであろう。即ち「契約の民」がユダヤ人にも異邦人にも不在の時代が始ったのである。
その後、キリスト教はまったく異邦人の所有に帰して今日に及んでおり、神名を畏敬するような趨勢には到底無い。

今日、こうして地上に発音がないことは、また神名を知らせるべき「新しい契約」の当事者がやはり絶えて存在していないことも明示していよう。しかし、神名の知らせが再びあることを述べる言葉は詩編ばかりではなく、イエス自身も『わたしはあなたの御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます*。』と、その日に刑死するにも関わらず祈りの中で語っているのだが、『これからも』とはいつのことだろうか?*(未来形「グノーリソー」)

イエスが天に去った後、聖霊の賜物は無割礼で神殿に入らなかった異邦人の弟子らにも御名を示したのかも知れない。だが、実際に発音したかについてはその痕跡を見ない。エジプトのユスティノスなど初期の教父らが神名の発音を細々と書いてはいたが、それらの発音は一致していないのである。

やがて霊の賜物ある人々が去って後、今日まで御名の発音がユダヤ教徒もキリスト教徒も含めて地上に無いということが示している現実に対して、イエスが『これからも知らせる』という未来形動詞を繰り返したところで、御名の告知が我々の更なる将来に関わるものであることを教えていないだろうか。

この句での同じイエスの続く言葉が、『わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。』として、神とイエスとの格別な関係ある者たちに父の名をイエスは知らせることも明らかにしている通りである。(Joh17:26)

この点で、キリストの御身に成就した詩篇22番を見れば、疑いを残さない。
『わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。』(Ps22:22)
そして、終末にも現れるキリストの『兄弟たち』については、マタイにある終末預言にも存在が確認できる。即ち、パウロが言うところの『キリストと共同の相続者たち』のことである。(Mt25:40/Rm8:17)


やはり詩篇102番の『YHWHの名は、シオンで告げ知らされる』の句は、このキリストの『これからも知らせる』という言葉と共に、再び成就の時を迎えることを指しているに違いない。

シオンが目覚めるときについて、イザヤもこのように述べている。
『わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。』 (Isa52:6)





-◆普通名詞への置き換えの危険-----------


他方で、ユダヤ人のように「主」と置き換えることには様々な支障が出ている。
ユダヤ人はアドナーイがシェモートであり、そこにSHMがあると文字を通して意識するが、翻訳された聖書を読むキリスト教徒にとっては、まず理解が妨げられる。

例として、"Dixit Dominus"として教会音楽でよく知られるところの、『主はわが主に言われる』などと訳される詩篇110編の冒頭を比較してみよう。

ここのヘブライ語は"  נאם יהוה לאגנ  "となっており、そこにはSHM が確かに存在しているので、ここは『YHWHは我が主に仰せになる』とされるなら、神とメシアの関係が明瞭で意味もよく理解できるだろう。
しかし、『主はわが主に言われる』では、読者を理解の蚊帳の外に置くことになりはしないだろうか。

このようにSHMが旧約聖書中で七千回近くも存在するとなれば、固有名詞を一般的普通名詞に置き換えることが、読者の理解に及ぼす影響はけっして小さくはないだろう。

古代イスラエルの中からは『バアルの名を以って神を忘れようとする』不埒な輩への警告があったことが聖書に記録されているが、カナン人の神「バアル」が意味するところは「主」であったという。(Jer23:25-)

そして、『もし、我ら(イスラエル)がその神の名を忘れるなら、あるいは異教の神に手を差し出す(崇拝の所作)なら、神はそれを探り知る』(Ps44:20)とも言う。

それであれば、聖なる固有の神名を「主」と一般名詞に置き換えて『唯一の神YHWH』の理解を曖昧にし、異質な神に変質させかねないことが、聖書の神に是認されると果たして言えようか?
それは神名に関して、古代イスラエルが陥ったバアル崇拝と同じ不利益をもたらさないだろうか。





-◆YHWHの聖なる名をもつ方こそが神である ------------


神名はその神自身が語るように、世界の果てまでも高められ、永遠に及ぶ。(Ps113:3/Ps135:13/Mal1:11)

その名を呼び求める者は皆、救い出され、その名を求めない諸国民には怒りが臨む。(Act2:21/Ps79)

人々は神がYHWHであることを知らなければならなくなる。(Jer16:21)

神自身、その名の栄光を誰にも与えないと断言する。(Isa42:8)

イエス(イェホシュア)・キリストにさえその名が「置かれて」おり、彼は父の神性を擁護して止まない姿勢を公生涯において見せ続けたものであるが、そのイエスによって『神たるものは誰か』が明らかにされ、『神でないのに神のようになろうとする者』すべては沈黙に降ることになる。
この聖化はキリストの犠牲に密接に関わりながらも人類の救済に勝り、他のどんな目的も従属する最重要命題である。

神名浄化は出エジプトのときを遥かに優る世界的注目の中において、将来、誰の目にも明らかな聖霊の奇跡的働きを通して神の名への諸国民の信仰が湧き起こされる。(Mic7:15)
まさに先に挙げた詩編の句の続きはこれを告げている。世の終末に至れば、『その名YHWHはシオンで布告され、エルサレムで賛美される。そのとき諸国民がその王国に向かって集められ、YHWHに仕えようとする。』というのである。(Ps102:21-22)

一方で、聖霊を認めぬ敵たちには、神が否認できぬ程の圧倒的な力を示して勝利を納めることにより、YHWHの固有名を持つ「神の神たること」が立証されるのである。それは「ハルマゲドン」も「千年王国」さえも超えた先にある最終目的、至上命題となっている。

人類は依然として神に敬意も顧慮も払わずにいるが、やがてすべての裁きを迎えるときにはアダムがエデンで直面した最重要の問題が先鋭化し神名が至高の座を占める時、エデン以来の不調和は終わりを迎えるのである。

自由意志を保ちつつ、生殺与奪の裁きを以って最終的に神の名が至上の立場に昇るなら、すべての争いは収束し、全創造界に創造者の意志が行き届き、すべてが「神の子」としての安寧を享受する。

だが、神名が至高の座に就くという至上命題には、究極的でかつてない怖るべき力の行使の必要がある。
すなわち裁き、神を離れたサタンをはじめとする幾多の創造物の処置であり、それらの「魂」(ネフェシュ)の消滅、永遠の死を伴わなくてはならない。

千年王国後の裁きは、あらゆる「魂」を存在させた創造者ゆえの生殺与奪の権限行使であり最終審判となるだろう。
消え去る「罪を犯す魂」のすべては、神名浄化に伴い流れ出る穢れとなって処理場(ゲヘナ)の象徴たる「火の湖」に投げ込まれるのである。

なればこそ、人が望むべきは自己の保身や願望であってよいわけもない。
それこそ自愛というサタンの岐途ではないだろうか。
「裁き」とは、自分の命運を一度は脇に置き、一心に至聖の御名を高め讃える機会となるだろう。それこそが真実の賛美だろうからである。


御名についての以上のような事情があったとはいえ、極めて重大な意義が込められたSHMを、キリスト教界をはじめ人間は何と疎かにしてきたものであろう。


だが、いま我々が神名を発音できないとしても、それを畏れ敬うことに不自由することはない。
世界の激動の起こるその以前から、神が神とされることを願う人々は幸いであろう。(Isa64:2/Hag2:6-7/Zep2:3)


即ち、シェム ハ メフォラーシュ*「その固有*の名」の包含する命題は「YHWHは神であるか否か」この究極の問いである。 *(メフォラーシュ[מְפֹרָשׁ]="explicit" これに「隠された」の意があるというのはカバラの敷衍された解釈によるらしい)

あなたはこれにどう答えるだろうか?

今現在、その答えに窮するとしても、いずれはYHWHが自らその全能性を行動によって余すところ無く示すので、そのときには何の疑問もなく答えることができるに違いなく、もし否むとすれば、どのような動機があるにせよ、それは自己の非を確信しつつそうしなければならなくなるのだろう。その分かれ目が人類の裁きとなろう。

人類すべてが直面するであろうこの「エデンの問い」の裁きの中に、創造界全体の安定と幸福が依存しているばかりか、神名の浄化こそがすべての存在に理由を与えるものであり、創造の企図が遂に完遂するという究極の命題となっているのである。

末の日に、すべての創造物は創造者との決定的な異なりを味わい知るであろう。
創造者が如何に偉大であるかを弁え知るとき、神の御名が高く挙げられるに至るのである。






                              新十四日派    © 林 義平
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