西暦96年は大きな変化の年となった。
カエサル・ドミティアヌスは自ら神を称して圧制を敷き、クリスト教徒を弾圧していたが、この年の九月になると暴政に耐えかねた身近な者らによって暗殺されたのである。

彼の悪政に苦しんだ人々の怨嗟の声は大きかったので、元老院は帝国各所に残された彼の痕跡を尽く引き剥がしていった。即ち、痕跡削除の刑である。
こうしてパレスティナ平定で功を挙げたウェスパシアヌス以来のフラウィウス朝は三人目の人望のない人物を以って敢無く収束してしまう。

代わって即位したネルウァと次のトラヤヌスも、ドミティアヌスの行き過ぎた政策の是正を決意し、域内に出されていたクリスト教徒への迫害を一度中止させ流刑者には恩赦を与えた。
その恩恵に与った人々の中に、多島海に浮かぶ小島パトモスへの流刑から解かれ、小アジアの中心都市エフェソスに帰る八十歳ほどの風采の老人がいた。

この人物こそ六十年以上前、クリスト最後の晩餐の席で主イエスの懐にあって横になっていたという「主に愛された青年」、ガリラヤの漁師ゼベダイの息子である十二使徒のヨハネその人であった。

ヨハネのエフェソス居住や帰還については複数の資料が合致しており、西暦70年のウェスパシアヌスとティトゥスによるユダヤとエルサレムの攻撃を山地に逃れて生き延びた使徒のヨハネは、イエスの母マリアを伴ってその後エフェソスに渡り、彼女の死を看取って後、ドミティアヌスの迫害を受け、イエスについて証しした為にパトモスに流刑にされたことは信憑性の高いことである。

流刑から帰るヨハネは手ぶらではなかった。むしろ、とてつもない土産を持った帰還であり、霊的な意味からすれば凱旋という言葉も的外れにはならないだろう。

彼、ヨハネは紺碧の多島海に灰褐色に浮かぶ岩地で奇怪な形をした小島パトモスに留められている数年の間に、大いなる霊感を受け、一巻の書物を著した。その霊感は神がクリストに与え、クリストが天使を通してパトモス島にいたヨハネに与えたものであるという。それはアプカリュプシス[Ἀποκάλυψις]つまり、「開示」と呼ばれる名を持つ書物となる。(黙示録1:1)

この書のはじめの場面から筆者のヨハネに語りかける者がある。
聖霊によって『主の日』(キュリアケー ヘメーラ)の幻に入ったヨハネの目撃したその者の姿は常ならず、太陽のように眩く輝いているばかりか、両眼は赤く爛々と燃えあがり、その口からは鋭利に煌めく諸刃の長剣が突き出していた。

その恐るべき姿を一目見たヨハネは失神して倒れ、その特異な人物は彼を助けて音信を伝えはじめるのだが、そのときヨハネは若き青年であったの日の記憶、イエスの山中での変貌を目撃したのときにもイエスに助け起されたことが想いによぎったであろう。

その記憶は空しくならない。
その人物は言う。
『わたしは一度死んだが、見よ、世々限りなく生きており、死とハデスの鍵を持っている』

こうして、彼に語ろうとするこの人物が霊に復活したイエスであることは、その語るところから明らかになるのであった。

 


-◆最後の牙城小アジア--------------

イエスはアジア州にある七つのエクレシアに自分からの音信を伝えるようにとヨハネに命じる。
それらのエクレシアはアジアの州都エフェソスを拠点に活動していたヨハネの監督する範囲であったろう。

すなわちエフェソスから始めて、右回りにスミュルナ、サルディス、ペルガモン、テュアティラ、フィラデルフィア、ラオディケイアの七つの城市にあるエクレシアを導く使いたちへの、彼らの主である天のクリストからの便りである。

これらのエクレシアは、徒歩でもそれぞれ2~3日の行程で行ける距離にあり、ヨハネを流刑によって失う以前には、この使徒の薫陶を受けていたであろうから、ヨハネの流刑後は彼の音信を受けることは真に強められる機会を得たであろうし、実際、その差し迫った必要も生じていたのである。

というのも、ヨハネが教導していたこれら地域のエクレシア内には、幾多の困難に見舞われており、外部からの攻撃にも曝されていたことをそのクリストの便りそのものが述べているのである。そこには悪霊の教えや内部からの背教、偽兄弟の罠、肉の欲望への堕落など、聖霊を受けた『聖なる者たちのエクレシア』に立ち向かうべきものは多かった。

加えて、直接的な迫害と殉教には、使徒ヨハネも流刑にされている身の上であるから、共に患難を忍ぶ彼からの便りには一際実質の伴う教えと励ましがあったに違いない。

この黙示が与えられようとする小アジアのクリスト教徒たちこそは、今やヨハネを通してエルサレムのエクレシアを正統に継承する者たちとなっており、それはイエスの右手に握られた七つの星と七つの燭台に象徴されている。

既にペテロもパウロも、そしてイエスの弟ヤコヴをも失っていたクリスト教の最後の牙城が使徒ヨハネの小アジアであったが、ヨハネ晩年の著作群をもってそれは確定的となる。クリストの聖霊の導きの残る「純粋な日々」の最後の場面であり、終末黙示の与えられるに相応しい時期である。

この最後の時節、聖霊を注がれた賜物を有する聖徒たちにあって、その数は徐々に減少しつつあり、エクレシアの中は聖霊のない人々が多くを占める趨勢の中で、彼らが自分たちの清い立場を守ることは日々油断の出来ない真剣な戦いとなっていた。

そして、天の霊者となり地上の生涯中のものとはまったく異なった威光の厳貌をもつクリスト・イエスは、小アジアの聖徒らも自らに続く者として世の『征服を遂げる』よう何度も促す。

それは世に対する彼ら聖徒の殉教を含む不動の信仰の勝利であり、『新しい契約』を守って、クリストと共に王また祭司となって『神の王国』の一員として数えられるに至るためである。

ここで黙示録が直接に語った人々を見出すことになる。
即ち、小アジアのエクレシアイであり、第四章以降が極めて難解である神からのこの音信をヨハネはその弟子らに委ねたのであり、実際、小アジアはこの書を擁護したので今日に新約聖書に含まれる礎を築いたと言えよう。



-◆次々に示される終末の幻----------

そうして当時の聖徒たちを励ましの音信を伝えて後、使徒ヨハネは幻のうちに天界に上げられ、いよいよ『主の日』と呼ばれる終末に起こる事柄を次々に見ることになる。

すなわち、初代の聖徒たちが去って、再び聖徒たちが現れる終末の時節の予告である。

しかし、それらの出来事が起こるためにはどうしても『子羊』の征服が不可欠であった。
そしてクリストが死に至るまでの試練に打克ったので、この黙示の封印は遂に解かれ、将来への予告が開示され始める。

七つの封印が解かれるに従い、様々な苦難が示される。
封印の開示は、初めから恐るべき人類社会の終局の有様が三つの災いに示される。即ち大戦争と飢饉と疫病とである。
しかし、そこに至る過程についての更なる詳細が語られ、地の深みから蝗害が放たれる。その鍵を開けるのは滅びの使いたる『天から降る星』クリストであり、聖霊が再降下すると、初代のように聖霊注がれる『聖なる者ら』が、キリスト後の二千年に及ぶ歴史の深みである『底知れぬ奈落』から竃の煙を成すほどの蝗となって現れ、この世を断罪するのでこの世の空は暗くなってしまう。

やがて、『蝗』で表された『聖なる者ら』の発言に信仰を表す人々が現れると、その群衆は二億もの騎兵となってこの世を追い詰め、これらの騎兵は人類の三分の一を殺すに至る。
彼らの胸当ては、赤、紫、黄というゲヘナの裁きへの耐性を示す色に塗られている。赤は炎を、紫は煙りを、黄色は硫黄を表すからであり、それはヒンノムの谷の象徴であり、彼らはその裁きを免れる希望を懐いているのであろう。
そして、蝗に似た活動をより大規模に行い、その攻撃は宗教界に痛撃を与え、大河ユーフラテスの水の枯れる原因を作ることになろう。 


最後の第七の封印は、七つのラッパへと展開して人類への宣告の様相を呈する。
そこでは、人類の三分の一を占める世界への糾弾が続く。
これがキリスト教界ではないと断言できるだろうか。

聖霊が聖徒らに語らせるとき、そこに真のキリスト教が表されるので、この人類の三分の一は打撃を受けて光を失い、最初に暗くなってしまう部分となる。
彼らの音信は次に三分の一を越えて、全人類の咎の暴露に向かうことになる。全天は竃から立ち上るかのような漆黒の煙、即ち、異形の蝗という姿を変えた聖徒らの世界を覆う糾弾に、人類は五カ月の蝗の寿命を耐えなくてはならない。

しかし、聖徒たちは迫害を受けて倒れるに至り、四方の風から集められ最終的に天に召され「神の王国」の実現するに至るのであった。
だが、黙示録の内容は終末期の時間軸を輪切りにして並列させ、多層的な視野を与えて何度も繰り返し示される。

聖なる者たちは旧約に存在した三つの二人組によって存在意義が示される。即ち重ねられた証人である。

彼らは新たな「生ける神殿」となって旧約の様々な「回復の預言」を成就させ、教えは浄化されクリスト教は回復を果たし、「神の王国」が人類の争点とされる。
彼らは『幾度も地を打ち』多くの徴を以って世に警告する。もはや時は然程残っていない。

しかし、人類はこの王国の宣告に従うを潔しとせず、抗う「手段」を提出する。
それはディアボロスを表す『七つ頭を持つ赤い龍』の意志である。
その「手段」とは、赤龍に似た『七つ頭を持つ野獣』であり、将来の聖徒たちを攻撃し、勝利し、これを殺す。
聖徒たちが為政者と対峙し、その実体を暴露したからである。

『七つ頭の野獣』は遥かな古代に一度存在したことのある政治上の「人類連合」のようなものらしい。
その頭のひとつは超古代に一度打ち砕かれているが、その障害は克服され、今や誰も抗い得ない存在として奈落の果てから再び姿を現す。これは聖徒を滅ぼすために造られた武具であり、人間を神に逆らわさせるための器である。だが、この異様な獣は、その後直ちにその寿命を迎えてしまうらしい。

だが有力な政治体制は、聖徒を亡き者にした『七つ頭の野獣』の存在意義を称揚し、その『偶像』を造らせるが、それで飽き足らず、その偶像を話すことができるようにし、その『七頭の野獣の像』は『大仰なことを語り冒涜する』。

この『七つ頭の野獣』とその『像』は、『神の王国』のもたらすものの代替品の希望を唱道するが、『偽預言者たち』の唱えるそれは、実は粗悪品に過ぎない。
その劣った様は悪魔の限界を表す『カエル』、また『人間を指す数字』である『666』に示される。しかし、多くの人々は倫理性のない肉の欲望のままにその新たな教えを受け入れる。



-◆聖なる者の血に酔う娼婦--------

さて、聖徒たちを滅ぼすに当たって太鼓持ちが現れることになろう。
それは娼婦たちの母なる『大娼婦』であって、その秘儀の名は『大いなるバビロン』という。即ち清潔な処女エルサレムに対する大淫婦バビロンである。

多くの水、ユーフラテスの膨大な水の上に座すバビロンは宗教都市であった。
この娼婦にとってクリストに貞潔な聖徒らは猛烈に嫉妬すべきライヴァルである。
聖霊によって聖徒らが語り始めると、真の神、創造者からの義が示され、キリスト教が彼らの下に回復され、すべての宗教は一気に色あせてしまう。

そこで卜占を行う宗教的娼婦バビロンは、自己の存在価値を根本から否定されるところの神からの聖霊の発言を封じることを切に願うであろう。この娼婦の象徴するものは「死後の命」、つまりエデンで『あなたがたは死ぬことは無い』と言った「蛇」の教え、それを唱えるシュメールの古代から今日までの宗教の趨勢を占める「霊魂不滅」を教える多種多様な宗教の全体であろう。 ⇒「誤解されてきたバベルの塔」
 

この娼婦は、『七つ頭の野獣』が聖徒たちを攻撃して殉教に至らしめたことに大きな責任を負っている。なぜなら、この女はその野獣の上に座し、『聖なる者たちの血に酔う』からである。⇒「大いなるバビロンの滅び」

それは、この宗教勢力が売淫によって『七つ頭の野獣』という最強の政治勢力を慫慂し、卑劣にも聖徒らを、その聖霊の発言共々葬り去らせることを表していよう。
かつて聖都エルサレムを滅ぼし、その民を流刑に処したバビロンは将来においてもその汚名のままである。

この悪辣な娼婦には復讐が為されねばならないが、それは意外なところから、つまり女の座する『七つ頭の野獣』の側から攻撃が起される。その十本の角が一斉に襲い掛かるそれは公権力を象徴しているのであろう。

この女の拠り頼む大河の膨大な水量は、古代のように王たちの攻撃を前にして一時の内に失われる。そのきっかけをつくることになるユーフラテス河畔の使いらが解かれるのは、狙い済まされた一時に為されると言う。

豊かな水量を失った旧い宗教城市バビロンから多くの人々の支持が無くなり、諸国の権力の前に滅ぼし尽くされる。つまり、自分たちが聖徒にした事の二倍の応報を受け、急速に姿を消す。そのあまりに早い消滅に世俗の周囲は悲嘆する。

天界では『多くの水のような声』がこの大娼婦の滅びを喜び、『聖徒への復讐』の遂げられたことが歓呼される。

地上でも大いなるバビロンの滅びを歓呼に和する『大群衆』とは、聖徒への攻撃を肯じなかった聖徒の支持者であり、そのときまではバビロンを支えるユーフラテスの水の一滴であった人々かも知れない。というのも、天からの声は『わたしの民よ・・彼女(大いなるバビロン)の災厄を共にすることを望まないなら、そこ出よ』。と宣告していたからである。

大娼婦はキリストとの関係をも自分のものであると主張する部分もあろうが、この女の情夫は『王たち』であり、つまりは『この世』と結託し、その一部ともなり、またその存続を願うものであるから、『この世』に対して『神の王国』を掲げて対決姿勢を鮮明にする『聖徒ら』とはまるで異なっている。

その一方で、天ではこの娼婦と対極を成す純潔なる『子羊の妻』となる乙女が、花嫁の仕度を整え子羊との結婚の晩餐が始まろうとするのであった。
彼らは、『七つの頭を持つ野獣』の攻撃によって倒され、人々はそれを喜ぶのだが、三日半後に聖徒らは命の霊を受け天界への召しに預かっている。そこで、当局者が生き残っている聖徒らを捜せども居ない。即ち、『雲の内に』昇天した彼らの名(オノマ)は地から消滅し(殺され)たのである。そのようにして『敵らはそれを見る』が、そこには驚愕がある。

つまり、試みを経て貞潔を守った聖徒たちには天への召集が行われ、初代の聖徒らも『第一の復活』により『塵から目覚める』ときがくる。すなわち小麦の収穫の時期であり、死せる聖なる者は「早い復活」へ、生ける聖徒は「天に召され、中空で主にまみえる」。


こうして人類祝福のアブラハムの子孫『神のイスラエル』が揃い、『ダヴィデの王国』の全容が整うときは『王の王、主の主』であるメシアが立ち上がるときであり、遂に『神の怒りの葡萄搾り場』が踏まれることになる。地の『女』に災いが迫っているからである。




-◆ハルマゲドンの戦いを経て神の王国へ--------

七つのラッパの宣告が過ぎ去った後、野獣とそれに従う者らには『神の怒りを満たした七つの鉢』から憤りが注がれる。それらは、彼らの希望が偽りであり、人間の政治特有の苦難を免れないことを実際の苦しみを以って知らしめるものであり、出エジプトの災厄の事例に相似していることからすれば、この害の及ぶ時点でもなお人々に信仰を起させる働きをもつようだ。

それらの神の憤りは、人間の支配には血の罪があり、圧政があり、希望の光と見えたものも実は暗黒であることを示す。だが、彼らはその苦痛に対して却って神を呪う。

こうして『ハルマゲドン』の戦いへと舞台が整う。

そこで『大いなるバビロン』が滅び去ったとはいえ、神に逆らう偽宗教の一切が過ぎ去ったというわけではない。
むしろ、究極的な偶像崇拝が『大いなるバビロン』と入れ替わるようにして興される。それは権力と深く結託し、額と手、即ち思考と行動とを制御し、従わぬ者の自由を奪う。
これは旧来の宗教よりも強力であり、それを主導するのは『子羊のような二本の角を持つ野獣』である。

それは国家権力であり、その時には、もはや寿命がきて存在しなくなっている『七つ頭の野獣』という強大で特殊な権力の継承をその偶像を通して唱えるのであろう。その協力者は、おそらくは地上に残される脱落聖徒である『偽預言者ら』 であり、『蛙』で象徴されるある程度の悪霊のしるしを行うであろう。しかし、その圧制の宗教の希望は不完全な人間のものに過ぎない。
そのために、諸国は神との戦いに集まってくることになる。 


それは人と神の戦いであって、勝敗は火を見るより明らかではあるのだが、それまで不可視を表す『雲』の内に居たイエスを視認できぬ人々は勝利を確信していよう。

だが、遂に王権を拝受したクリストが顕現(エピファネイア)を為し、人類の連合軍は凶兆に慄くことになる。

軍や政府の高官は岩山の穴に身を潜めさえするが無駄である。
そこでは誰もがクリストの臨御を認めざるを得ない。そうして彼らも「雲の中」のイエスを「見る」。


こうして、天への望ましい小麦を収穫した後には、初夏の『葡萄の収穫』の時期となり、地に流れ出る夥しい血は『馬のくつわに届き千六百スタディオンに広がる』。
そして、無数の屍によって中天のあらゆる鳥たちが壮大な『神の晩餐』に与り、その腹を満たす。 ⇒「黙示録の四騎士」

次いで、地上を飢饉、それから疫病が疾走し、その後を膨大な屍の墓となる地の野獣が追ってゆく。
もはや、以前の天地は過ぎ去って行く。

こうして後、『神の王国』は『新しいエルサレム』から地を千年に亘って治め、生ける人の罪(倫理上の欠陥)を贖うであろう。人類は愛の原理に基づく煌くような社会を受けることになろう。

そこでは旧来の『天地』は過ぎ去り、新しい体制に入れ替わる。
人類の貪欲が推動する不公平で動揺して止まない『海』のような市場経済も過去のものとなる。

地に生き残る人々は、聖徒たちの聖霊の言葉を通して信仰を抱き『王国』を支持した。
神に従う彼らには、もはや無情な政治権力は君臨せず、彼らの「罪」も生きたまま贖われるが、そこには、かつてのあらゆる宗教は存在しないに至ることになる。 ⇒「人はなぜ政治と宗教を存続させるか」

人類は経験したことのない輝かしい浄化と建設の時代に入るであろう。


-◆最後の裁きと回復-------

一方、ディアボロスは千年の拘禁に処されるが、「千年王国」が終了すると再び活動を始め、このときに復活する諸世紀の無数の死人たちを惑わして「神の王国」の成し遂げた世界を攻撃しようとするが、これはその中傷の業を行う最後の機会となり、人類の皆が最後の試練を受けるためである。
しかし、このたびの裁きは、クリストによらず、神自ら裁くところとなる。
 

そこで復活する一般の『死人』は死によって既に『罪の報い』を受けており、神の完き業たる『復活』にあたり「罪」の不完全さは既に無く、完全な決定を下すことにおいてはアダムや『龍』と変わりはない。
諸世紀の人々は、様々な世代を越えて『共に立ち上がり』同じ時期に生きることになる。即ち、裁かれるためである。

その状態でもし創造者を否み、アダムの途を選ぶなら言い逃れの余地はないが、むしろ頑迷固陋のゆえに、弁解の必要もないと思うであろう。こうして彼らも『その行いによって』裁かれる。それは最終審判である。

龍に率いられ、神に逆らう『海の砂粒のような』復活者の大集団は地の四方から『愛される都市』へと攻めかかる。この群集にとってはかつての争い満ちる世界こそ願わしいのであろう。
ハルマゲドンの戦いを見ていないこれらの者らにとって、勝利は確実に思えるだろう。
だが、『天からの火』が下って大集団は消滅し、龍は遂に『火の湖』に投げ込まれ、ハルマゲドンの戦いで既に処置されていた『野獣』や『偽預言者』と同じく永遠の裁きにわたされ、二度と存在することはない。


この裁きを過ぎれば、神とされるのは唯一創造の神のみとなり、全創造界に安定と神の創造の意図が行き渡る。王国の成し遂げた社会は守られ、復活して後に神への信仰を働かせ忠節を選んだ一般の人々の残りも加わるだろう。
神は自ら人々の間に住むので、人はアダムがそうであったように神と自由に意志を通わせる。
いや、そのとき神YHWHは、『彼らが呼びかけるより先にわたしは答え、まだ語っているあいだに聞く。』というのである。それはエデンで人への深い善意を示したかの創造者ではないか。(Isa65:24)


加えて、神を愛し、神の愛のうちに入る者は『生命の木から食し』老化も寿命も過去のものとなる。
彼らは皆が創造された本来の輝かしい状態、『神の子』となるであろう。

それゆえ、霊と花嫁は『来たれ!』と言い続ける。人々が命の泉から飲んで永世に至るためである。

そして、すべて聴く者も『来たれ!』と言うように促される。


こうして、エデンで始まった事柄はまったく創造者の意図に沿う仕方で永久に処理される。
人類史を通じ展開したこの究極問題による苦難は、「神の象り」を宿すものが避けられない自由意志の代償である。
こうして、神は自らの「象り」を尊重したのであった。 ⇒「「神の象り」に込められた神の愛」


ヨハネは、最後に『この巻物の言葉を行う者は幸いである』という。
こうして概観すると、それは王権を佩びるべきクリストの再来のときに『神の王国』に逆らうことなく、「聖霊の言葉」に心を頑なにせず、神とクリストに信仰を抱いて人間主義のまやかしの希望である「最後の偶像崇拝」になびかぬようにすることを意味するのであろう。

それは、心の柔らかな者には受け入れやすくても、心の何処かが頑迷で利己的な者には何故か非常に難しいことなのであろう。彼らは神を選ばず、人間主義の虚しい可能性を選ぶであろう。(ゼファニア2:3/ヘブル4:7)

しかし、その『幸い』を得る者は、誰であってもその以前を問われることなく、「聖霊の罪」を逃れ、「神の休み」に入る。 ⇒ 「安息日の意味するところ」


黙示録の教訓に学ぶためには、人間の「罪」(倫理上の欠陥)を認め、創造の神を離れては、人は自らを幸福にできないことを肝に銘じるべきであろう。
いや、益あるゆえではなく、本来、創造の神こそすべての父であるべきなのだ!
その思いがあれば、様々な終わりの日の苦難を乗り越える覚悟を持って、長子クリストに対し『マラナスゥア!』(来たりませ)と願い出ることができる。

クリストは答えて言う『わたしは速やかに来る』。





           新十四日派    © 林 義平

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*相当に割愛してあるが、全体を簡潔に俯瞰できるよう重要部分の流れを追って書き出してみた。
ハルマゲドン後に地上に残る『大群衆』に関するより詳細な情報は、旧約の「預言者たち」に散りばめられているが、この頁では黙示録にできるだけ集中した。


  ⇒「黙示録の四騎士 時代の印か 絶滅の使者か


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