「聖霊」がどのようなものであるかをイメージすることは我ら日本人には少々難しいことである。
まず、「霊」という漢字の意味からすれば「英霊」や「怨霊」など、死んだ人間の肉体から離れる精神的部分、またはその作用のように見做されるだろう。

日本人にとって「霊魂」という言葉のほうが「聖霊」よりは余程理解し易い。
そもそも、訳すに際してヘブライ語やギリシア語から様々な言語、また漢字などに相当する語を捜し当てて翻訳しているのであるから、それぞれの訳語が本来持っている原語の「霊」との意味の違いが生じて、幾らか「衝突」が起こっているのを覚悟の上で「聖霊」という言葉に当たらねばならない。

さて、聖書でいうところの「聖霊」は、神の聖なる霊であり、日本語で「霊魂」というときの概念とは相当に異なるものである。
聖書中、ヘブライ語では「ルーアハ」*1、ギリシア語では「プネウマ」*1という単語に漢字の「霊」が当てられてはいるが、これらの本来の意味を幾らか思い描いておくことで理解の準備をせねばならない。

それらは人間の精神というよりは、人間の外から影響を及ぼすものであり、元来ヘブライの教えでは、死んだ人間を装う「霊」の存在者「悪霊」はあっても、死者の「霊」という概念は皆無である。つまり、「亡霊」という発想はなく、それは人間ではない異様な存在者が見せている偽の幻視ということになる。⇒誤解されてきたバベルの塔

さて「神の霊」については、創世記をみると、天地創造の地球の原初には、形ない水の表を神の霊が行き巡っており、創造にも関わったことは明らかである。また、アダムの鼻孔に吹き入れられ、彼を『生きたもの(魂)』にしたのがやはり「ルーアハ」(霊)であり、それが我々人間に息吹を与えて身体を生かしている一要素であるようだ。

そのほか、預言者たちに語る内容を伝える霊感をもたらし、幻や夢を与えて人を導き、また人の行いを譴責する、そうして神の意思を伝達するそれらも「霊」の働きであり、かつて伝えられた神の意思の多くが聖書に納められている。

新約で『聖霊』は、イエスを通して驚嘆すべき数々の奇跡を行い、イエスはそれを『父の業』また『神の指』とも呼んだ。その後、大風のような音と共に120人ほどの弟子たちは天からの「聖なる霊」(プネウマトゥス ハギオー)で満たされたのであった。(使徒2:2-4)
共に、「風」のような実体のはっきりしないものであるがゆえにもそれは「霊」なのであろう。(ヨハネ3章)

それは、ときに鳩の形や火の舌のような形を以って可視化されることもあったが、多くの場合に聖霊そのものは不可視で、キリストに奇跡の業を行わせて神のキリストであることを証しし、弟子を導いたり、声を聞かせたりもする。(使徒2:43/18:10)
ペテロは自分が尋ねるべき異邦人を示され、迫害者のパウロは回心させられ、また使徒に召されて宣教旅行において進むべき方向を教えられたが、ルカはそれを「イエスの霊」とも呼んでいる。(使徒16:7)

イエスの弟ヤコブはエルサレム会議の議事を通達する手紙において『聖霊と我々は・・』と書いて、聖霊の働きが議決に影響したことを明らかにしている。(使徒15:28)


-◆イエス後の『聖霊の賜物』の特殊性------

こうして様々な仕方で働いた聖霊であるが、イエス後の聖霊の働きには一定の型があるようだ。

例えれば、バプテストのヨハネは、イエスが聖霊でバプテスマを施すことを予告していたのだが、イエスは、その公生涯の終わりに、弟子たちには「助け手」(パラクレートス)が与えられると予告していた。それは『真理の霊』であり、『世が決して受けることのできないものである』とも言われた。(ヨハネ14:17)

そして、イエスが帰天して十日後の五旬節の日に、その『約束の聖霊』が神から初めて下賜されたのであった。これが一般に「聖霊の賜物」と称される外国語を話すという特殊な『聖霊』の働きである。(使徒2:33)

これについては、イエスは以前から度々に弟子らが特別な聖霊を受けることを語り、実際、幾らかの奇跡を行うことが徐々に弟子らにも可能となっていた。しかし、これが明確な形をとるのはイエスの死後50日目の五旬節(シャブオート)の日以降のことである。その後の使徒たちは、周囲を恐れさせるほどの奇跡の業を行うようになり、イエスのように病を癒し、死者をも蘇生させるのであった。(使徒9:40/20:9-12)

なぜ、「聖霊の賜物」という恩賜の始まりがイエスの帰天後であるかといえば、それは彼がキリストとして自らの犠牲を捧げ、神に受け入れられてから、その犠牲の最初の適用を与えたのが、地上に残った弟子たちからとなる理由によるのである。やはりキリストはこう語っている。『もし、わたしが去って行かなければ助け手は来ない』(ヨハネ16:7)

その霊は自動的に与えられるものではなく、旧約の時代に働いていた聖霊とも異なるものであるから、ヨハネは福音書の中でイエスの死、つまりその栄光を受ける以前について『彼らが受けるはずの霊はまだ無かった』と書いている。(ヨハネ7:39)

そこでキリストの犠牲のゆえに、パウロは再三に聖霊を受ける『聖なる者ら』について『罪』が許されていることを知らせているのであり、それゆえペテロも口を揃えて、彼らに聖なる行状が求められることを諭したのである。(ローマ8:28-30/コリント第一6:19-20/ペテロ第一1:15/ペテロ第二3:11-12)

「聖霊の賜物」は、彼らが真のイスラエルとして天に迎えられる「新しい契約」の発効に則したものであり、それが、彼らがキリストの犠牲の上に立って初めて下賜を認められた格別のものであることを教える。
つまり、彼らは義認を得て初めてキリストと奇蹟の業を共にしたのである。(ローマ8:1-2)

それでイエスは言っているのである。『わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに「助け手」(パラクレートス)は来ないであろう。もし去れば、それをあなたがたに遣わそう。』(ヨハネ16:7)

『聖霊』を受ける彼らはキリストの犠牲の贖いに第一に預かるので、原罪ある肉体で居ながらも(ローマ8:10)、神の前には『義とされ』『有罪宣告はない』状態に入ることになる。ペテロはこれを『霊の浄め』を受けたともしている。(ペテロ第一1:2)

このように、仮の状態ではあっても神の前での「義認」が、彼らの『助け手』つまり「聖霊の賜物」を受ける条件となっていたのであったことは、パウロばかりでなく新約聖書全体の示すところである。(ローマ8:32-33/ヨハネ第一3:2-3)

それは、以前の様々な聖霊の働きとの違いにおいて、その意義がある。
つまり、イエスの行っていた癒しなどの奇跡を継承することにおいて、彼らもキリストのような扱いを神から受けるのである。(ヨハネ15:26-27/16:26-28)

彼らは『キリストと共に神殿となる石』であり、それゆえ聖なる者でなくてはならない。
しかし、原罪ある者への義認を赦す聖霊の注ぎは異例中の異例であって、彼らも道を踏み外す危険がなくはない。(ペテロ第一1:15-16/2:4)

つまり、原罪は依然彼らの肉に宿るので、罪を犯さないわけではない。
それゆえ、使徒ヨハネは『許されない罪』のほかは『互いに許しあう』よう勧告していたのである。
その許されない罪とは、自分たちが持つ『聖霊を冒涜する』罪であり、ヘブル書の著者はそれを『主をあらためて磔にする』という故意の罪であるという。(ヨハネ第一2:2・5:16/ヘブル6:6)


-◆イエスの弟子たちに働いた賜物-------

初めに与えられた賜物はグロソラリアと呼ばれる「異言」であり、弟子たちは様々な言語で「神の壮大なことがら」を口々に話し始めたのであった。(使徒2:11)

その後、「聖霊の賜物」は「異言」のみならず多様な働きを見せるようになる。
「異言」そのものを「翻訳」する霊。将来起こることを知らせたり、人の隠された過去を告げたりする「預言」の霊。教義を伝える「知識」の霊など、パウロはコリント人への第一の手紙の第12章中で、賜物は様々にあるが働く「霊」は同じであると語りつつ、幾つかの賜物の種類を挙げている。

パウロの手紙からは、イスラエル初期の先見者(ローエー)の型である没我のトランス状態に入るものではなく、聖霊が臨んでいるときにも自らの意識を保つことができ、個人が制御できるものであったことがはっきりと読み取れる。(コリント第一14:27-33)

といって、その人のうちにあるのかないのか曖昧なものではないようだ。パウロは聖霊の奇跡的な働きが発現することを「ファネローシス」と呼んでおり、それは「マニュフェスト」とも英訳されるギリシア語であって、不明瞭なものを指すことはない。それは外部の人々から観察され得るものであったことは彼の文章から見て取れる。(コリント第一12:7)

パウロは、それらの賜物がエクレシア全体に対して「益することを目的」に与えられていると指摘したが、それは当時の集まる人々全体の信仰を助けて鼓舞し、また指導するものであった。(コリント第一14:7.12)
特に異言は、キリストの教えがユダヤに留まらず世界に向けて広げられるべきことを促したが、聖霊のほかの現れは宣教に向かう方向を示し、異邦人にも門戸を開かせ、癒しを行い、教義の知識を与え続けた。実に多様で有意義な活動を行う霊であり、これなくしてイエス派は弱小であった間に、ユダヤ教や諸国の教えに押しつぶされていたであろう。

聖霊の絆は、まさにイエスの指導の継続でもあり、主が去っていったことで、恰も死んだようにエルサレムの片隅で戸口に閂を下ろし、迫害を恐れて為す術もなくひっそりとしていた「小さな群れ」の弟子たちが、五旬節の日の出来事を境に再び立ち上がり、消えかけたキリストの業は回復し、しかも世界という広野に向かって力強い第一歩を踏み出したのである。(ヨハネ20:19/使徒2:14)

そのはじめの一日のうちに何千もの人々が加えられたが、その後も続く圧倒的な勢いについてはこの「聖霊」の働きなくしては考えようもない。(使徒第二章/イザヤ60:22)
ユダヤ人からの強い迫害に面して、イエスの弟子らが更なる印となる業と奇跡が起こるように祈り求めると、その場が揺れ動き、『皆が聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。』という。それはキリストに与えられていた神の証しがいまや弟子らに移ったこと、また、彼らも神から証しされる立場に就いたことを知らせるものであった。(使徒4:30-31)

それゆえイエスは『わたしを信じる者は、またわたしの行っている業をするであろう。そればかりか、より大きい業を行うだろう。わたしが父のみもとに行くからである』。と励ました理由はここにある。
彼らの業には何と大きな助けが随伴したことか。(ヨハネ14:12)

それゆえ、キリスト教とは元来は「教義の宗教」ではなかったと言い得る理由がある。
ヘゲシッポスのような初代のユダヤ系のキリスト教徒は、異邦人がキリスト教に入ってきて、それが趨勢となるとエクレシアは哲学の理屈に満ちるようになってしまったと述べている*2

それについては使徒ペテロも『キリストの力と臨御とは、巧みな作り話などではない』(ペテロ第二2:16)といい、パウロは自分の宣教は『説得のための(巧妙な)知恵の言葉ではなく、霊の力の証明を持つもの』であったと書いている。(コリント第一2:4)

おおよそ使徒たちは言葉において朴訥であり、パウロですら手紙はともかく話の仕方においては然して良い評判を得ていないようである。(コリント第二10:10)
しかし、彼らの行う奇跡は彼らの宗教の最大の特徴であり、使徒らの訥弁を補って余りあるものとなったに違いない。そこにあっては、教義の知識も「聖霊の賜物」のひとつの側面であり従属の地位にあったことが覗える。(コリント第一12:8/ヨハネ14:26)

しかし、「聖霊の賜物」が次第に引き上げられ、聖徒が減少してゆき、遂に絶えると、残されたキリスト教界は『霊と力の証明』を失い、呪術的要素と神秘的ギリシア哲学で構成される「教義の宗教」へと向かったのである。そこでは『言葉を巡る争い』に終始し、『精神的に病んで』『敵意と闘争』の傾向を強くした。(テモテ第一6:3-5)
それらの「腐った果実」は、聖霊を失った症状を呈するかのようである。

今日のキリスト教には依然この自己義認と相克の傾向がみられ、教理上に「真理」を持ったと誤認して不確かな人間の知恵を誇り、かつて明らかに存在した「聖霊」という神の側からの働きかけを軽視するか、聖霊に代わる何かの別の霊の作用での忘我の喜びに浸るかしているようである。つまり、聖霊を失ったキリスト教界は、今日まで聖霊の無いことに喘いで来たといえる。(ヘブル2:1-4/ヤコブ1:26-27/ヨハネ第一4:1)

しかし「聖霊の賜物」こそが、イエスが弟子たちを動かして導いた経路であり、イエスの指導の証拠でもあった。(ヨハネ14:26)

しかし、それだけではない。この「聖霊の賜物」には格別の意味があるとパウロは言う。


-◆「証し」としての「賜物」--------

すなわち『約束の霊』を受ける事は、肉体を離れてキリストと共に霊の体に新しくされることの事前の仮承認であり、聖霊の賜物を受けた当人が「新しい契約」に入ったことの事前の証しであるとパウロが記しているのである。(コリント第二5:5)

それは律法契約の下でイスラエル民族に約束されていながら、彼らが遂に得損なった『祭司の王国、聖なる国民』となる誉れ、真のイスラエルの一員と内定したことを意味した。(エフェソス1:13-14)

それは、新しい契約に参与する者らこそが、『神の王国』を構成する『王なる祭司』となって生ける人類を「罪」から贖い、その間人類社会を統治することを意味する。(黙示録20:6)

元来、その選びの器はイスラエル民族であったのだが、この民族は律法契約に反するばかりか、キリストを退けて刑死に追いやっただけでなく、その弟子らまでもを迫害して退けたことを通し、アブラハムの子孫らしからぬ者、選ばれた種族に価しないことを自ら明白にした。その結果、『王なる祭司』となる『選ばれた種族』にはイスラエル以外の、アブラハムのような信仰を表す異邦人が含まれることになっていった。(使徒13:46/ローマ11:25-26)

イエスは霊を介してペテロに命じ、まったくの異邦人ながら信仰厚いコルネリウスとその仲間たちに聖霊が注がれる道を備えさせたが、これが『神のイスラエル』への無割礼の異邦人受容の嚆矢となった。つまり『肉のイスラエルが真のイスラエルではない』ということは、イスラエル民族の律法への結果的不受容を通して証明されてしまったのである。(使徒10章)

使徒ペテロは、諸国の聖らに向かって「あなたがたはサラの子となった」と語り掛け、聖霊を注がれた『聖なる者たち』が、霊によって生み出されたアブラハムの真の末裔であることを示しつつ、『それも、どんな恐ろしいことも恐れずにいるならばのことではある』と付け加えており、それは契約を守るべき、彼らの置かれた立場をよくよく表している。(ペテロ第一3:6)

そこでやはり「聖霊」こそが、契約を捉えた真のイスラエルを指し示すべく、初代キリスト教徒の中で縦横に働き、イエスの企図を弟子らに行わせ導き続けたのであって、それはまさに『世が受けることができないもの』であったといえよう。(ヨハネ14:17)

また、その意味するところには別の側面もある。
それは、「聖なる箱」が神の崇拝の中心地に置かれ、そこに奇跡の臨御(シェキーナー)の光が宿って神とイスラエルの律法契約の証しとなっていたように、聖霊の賜物は、それを与えられた人々が「生ける神殿」となってそこに「新しい契約」の印として存在していたということがいえる。(出埃31:21/レヴィ16:2/コリント第二1:22)

このことは、今日この賜物が地上にない理由も窺わせるものとなっている。
ひとつには、キリストの臨御(再臨)がなされていないことの証拠であり、もうひとつが、「新しい契約」の当事者が地上にいないということである。

それゆえ契約の一方の当事者である聖なる神の御名の発音も知られなくなって地上から絶えている。相手の名を知るべき契約のもう一方の当事者が居ないからである。(十歩譲っても「臨御」も「聖徒」の存在も現在のところ不明である)

今日のキリスト教徒の中には、聖霊が注がれるというこの類稀な希望を我が物としたい人々があって、自分の中にイエスが聖霊と共に居ると信じているようだが、それを断じまい。そう信じる人々は、イエスとの親密さを自己の内に感じることで幸福感を得てもいるのであろう。また、こうした人々の中には実際、何か怪異な超自然の力を発出するケースもあると聞く。

それを望むのなら、この人々をそっとしておいて良いようであるし、態々イエスの弟子らしからぬ敵意を買う必要もあるまい。
それでも、聖霊の声を聞くときには事の真相が彼らにも知らされるであろう。

人は不思議なものや現象を崇めてしまう癖があるのだが、初代キリスト教徒の時代にも『すべての霊感を信じてはいけない』という使徒らの警告があって、神からのものでない別の何者かの霊に憑かれていながら、自分に聖霊があると唱える人々がいたという。(ヨハネ第一4:1)

だが、実は聖霊によるのではない不思議を行うそれらの者が、真正の「聖霊の賜物」をもつ人々の中に入ると、聖なる者らと一致して語ることはおろか、その人に在った霊は出ていってしまい、何も話せなくなる様子が「ヘルマスの牧者」に見える。*3

そうであれば、明確な賜物の発現のない今の時代には、そのような霊が大手を振ってまかり通ろうとしないものだろうか。(テサロニケ第二2:6)

この種の霊が、キリスト教に限らずある程度の支持を受けるのは現状で許されたことであり、終末に至って更に重要な悪役を演じる大切な役者でもある以上、どうすることもできない。それでなくても、霊者の力は人間の能力を超えている。(黙示録16:14)

ともあれ、今日あの五旬節のような衆目の注視を奪うような仕方で発現する「聖霊の賜物」を人類は未だ見ていない。(マタイ10:18)
では、「聖霊の賜物」の発現が人類に隠されることなく、際立った様で現れると言える理由があるだろうか。


-◆為政者と対峙する聖霊--------

イエスの終末預言は一度西暦70年にユダヤと神殿を含むエルサレムの上に成就したが、その預言の言葉の中にはいくつか当時には当てはまらなかったものがある。

その中に、『あなたがた(弟子)は王や総督の前に引き出される』というものがある。(ルカ21:12-15)

たしかに初期の使徒やパウロの生涯にはこれに似たことが幾らかあったのを使徒言行録は伝えてはいるのだが、いずれも小規模な上、画期的なものにはならずしっくり整合するものがない。ステファノスの決死の弁明も為政者に対するものというよりはサンヘドリン、つまり宗教家に対するものであったというべきだろう。

イエスは、終末について告げるにあたり『ノアのとき以来なかったような大変災』『森羅万象震い動く』と述べるなど、ユダヤだけのことを語っているのではなく、将来の世界にまたがる成就をオーヴァーラップさせて語っている。(マタイ24:37.29)

さて、弟子らが為政者の面前に引き出されるときには『何を語ろうかと思い悩』まなくてよいとイエスは言った。つまり、その時になれば『聖霊があなたがたによって語る』というのである。この成就は歴史上に見ていないと言ってよいであろう。とすれば、これらの言葉の成就は「終末」というべきであり、実際マルコとルカはイエスの終末の預言の中にこれを含めているのである。(マルコ13:11/ルカ21:12-15)

更に黙示録を見れば、彼らは語るだけでなく、モーセやエリヤのように「地を何度も打つ」権威を持つという。ならば、霊の対決は言葉だけではなく、奇跡の力の表明が考えられるのである。(黙示録11:6)
古代のような奇跡は今後は起こらないというなら、それは神の力を知らぬ「教理の宗教」に堕した、実質的に不信仰なキリスト教とはならないものだろうか。(マルコ12:24)

将来キリストの臨御は『王の王』となるための帰還となる。この大王登壇への権利保持者が支配や覇権の争いに関わる仕方で再び地(人類)に臨むことになる以上、おおよそ聖霊の関わる事柄でこれ以上に重要な発現(ファネローシス)があり得るだろうか。(コリント第一12:7)

イエスが一度目の到来で、死を経験すべき弱い肉の様で地に現れたようにではなく、将来の二度目の到来は変貌を遂げた強力な霊者となっての帰還、真っ赤に輝く両眼と、その口から鋭利な諸刃の長剣の突き出したと描写される御稜厳の大王と変じての復讐を込めた恐るべき臨御である。(黙示録1:14-17/ヨハネ12:48/ヘブライ9:28)

そこで諸国民と支配について関わらないわけもない。ダニエルによれば、神の王国の到来は世界覇権を打ち砕く時を招くのである。
終末において、聖霊を受ける弟子らはこの主の大使のように彼らの主要な王となるべき方の宣告を伝えるであろう。
それはまた、為政者たちの抗いによって聖徒らには苦難と試みの時期ともなる。(ルカ21:12-)

神の権威者の臨御(パルーシア)の標識としてはこれ以上のものはあるまい。かつてユダヤに示された聖霊の強力な「徴」が世界規模で示される必要があるだろう。
そして実際に、聖霊の言葉が語られ始めれば、どうみても世に対してキリストが臨御しているとしか言いようもない。これこそがまさしく「パルーシア」(再臨)の指標となるのであろう。(ヘブル2:1-4)


聖霊を受ける弟子たちが、その迫害を受ける時を以って初めて聖霊の言葉を受けるのか否かは聖書からは明確とはいえないが、彼らの母体となる集合体が形成されているように聖書は読める。(イザヤ49:21-22)

それはおそらく旧約中で繰り返し『シオン』と呼ばれる彼ら『聖なる者』の母親のようなものであり、初代でいうところの召出された人々との集まりである『エクレシア』(招会)、つまりは信者の集合体であろう。(イザヤ52:1-2)

現時点で筆者は、彼らが為政者と対峙する以前から聖霊を受けるように思えるが、そうなれば、将来再度『エクレシア』が存在することになるのであろう。(ローマ11:29/ペテロ第一1:2)
その中から聖霊を受ける人々が現れ、再び『聖徒』たちと呼ばれるのだろうか。(ローマ15:16)

彼らは政治家と対決することにおいて「新しい契約」の当事者として出現するので、当然ながら契約相手である神の名を知り、その名において為政者に語るべきであり、そのようにして『神の名はシオンで知らされる』といえる理由がある。こうして彼ら『聖なる者』らは神名の証人となり、神の御名は人々を救うものとなると聖書は再三告げている。(詩篇102:21/ヨエル2:32/使徒2:21)


-◆諸国民の信仰を巻き起こす聖霊-------

さて、聖霊の働きが為政者に語らせることは『何者も反駁のできない』ものであるという。(ルカ21:15)
そのように完全な言葉を前に為政者は自己の非を悟るであろう。
但し、それは必ずしも『王の王』に対して服する態度をもたらすわけではない。(黙示録17:14)

その状態を、第一世紀にヘロデ王家の息子たちが、自らの王権を得る前にローマに旅し、そこでカエサルの認可を得て帰還するという習わしに即して言えば、キリストの帰還は領土に入る前に大使を遣わして、カエサルの信任状を見せ、支配権を渡すよう求める段階に例えられよう。

未だ、信任状を持ってはいても、支配権は得ていない。
王として即位するに際し、抵抗勢力があるなら、あらゆるものを打ち砕く必要がある。古代の王権獲得に同じく、その戦いに勝利してのちに王権は実質的なものとなるのである。

同様に、キリストの帰還において、王権保持者の到着と支配権の移行を求める大使らは、聖霊を注がれた『聖なる者たち』となり、彼らは為政者に『聖霊の言葉』を伝える必要がある。
そのときについてイザヤはこう書いている。
『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)

だが、キリストは雲の内に「臨御」を始めても未だ「顕現」はしておらず、為政者の前には人間である聖徒らがいるだけである。(ルカ21:27)
そうなれば、自分こそが「現実の」支配者であり、聖徒たちは単に理想のようなものを語っているなどと主張して、『王の王』の頚木を払い捨てることはいかにも容易に見えるだろう。(詩篇2篇)
しかし、こうした「抵抗勢力」は排除されねば『神の王国』は一向に実現しない。そこで神とこの世との『ハルマゲドン』の戦いが不可避となってくる。(ゼパニヤ3:8/黙示録16:16)

他方、ある人々にとって、聖霊の言葉の音信は心から願い信ずるものとなるであろう。
聖霊の音信を聴いたときに『心を頑なにしない』からである。(ヘブル4章)
反駁しようもない言葉に同意できるなら、聖霊を受け入れるのであり、その人の以前のあらゆる罪が許されるというのである。(マタイ12:31)

しかし、聖霊の言葉に従わないのであれば、そこに故意の悪が生じ、「聖霊への冒涜」の罪が犯されよう。キリストの業を『ベエルゼブブが行っている』と言い張ったような、すなわち『許されることのない罪』である。(マタイ12:32)
こうして、「聖霊」は終末に於ける人類の裁きを行う上で欠くことのできない重要なマターとなるのに違いない。(ヨハネ16:8)

黙示録を見ると、開示、宣告、災いが起こる様が、封印、ラッパ、鉢に描き出されているが、将来の具体的な発生の詳細は分からないが、そこに出エジプトの十の災いが敷衍されている。

終末においても災いの降るにしたがい、イスラエルのみならずエジプトの神々を崇拝していた当地の人の中からもその神への信仰が引き出され、イスラエルの荒野への旅に同行までしたように、キリストの臨御のときにも聖徒たちの発する言葉に信仰を起される許多の諸国民がいるであろう。((出埃12:38/ハガイ2:7)

ゼカリヤの預言はそのことを『末の日に、十人の諸国民がひとりのイスラエル人の裾を掴んで、「我々もあなたと共に行く。神があなたと共にあることを聞いた」という』様を描き出している。(ゼカリヤ8:23)

かつて、エジプトの人々がそれまでのエジプトの諸々の神々を捨ててまで、イスラエルに同行したのはよほどのことであろう。
その、よほどのことを神は再び、しかも世界に対して見せる。(マタイ10:18)
つまり、「神の指」のように人間を遥かに超えた物事を生じさせるのである。(ルカ11:20)

なぜなら、神もイエスも眼前に顕現「エピファネイア」している状態であれば見ての通りであって、今更信仰の生じるいわれもない。人々は御厳の大王に恐れ、竦み上がってしまうであろう。そこでキリストの不可視を示す『雲と共にある』臨御(パルーシア)の、そして「聖徒」という代弁者の存在意義があろう。(マルコ14:62/コリント第二5:20)

こうして「聖霊」の存在の極めて重要な意味が見えてくる。
「聖霊」がイエス自身でも神自身でもないゆえに、「聖霊」こそが人類の神に対する自発心を保護し、「聖霊」こそが「信仰」という神の目にも願わしく貴重な宝を人々の内に起こす触媒として作用するのである。(ヨハネ10:37-38)

ここに「父」と「子」と共に「聖霊」の欠かせぬ信仰への働きがある。もし聖霊の働きを過小評価したり、悪霊のものと混同して見誤るとすれば、終末においてその教えは意味を成さないだろう。(ヨハネ16:8-11)



-◆賜物は何時廃されるか--------

このように優れたエレメントたる「聖霊の賜物」について、キリスト教徒は随分と曖昧な理解の中にいたものである。

太古から聖霊の働きはあったのだが、時代と共に、神の経綸の進むに応じてそれは多様に働くようになり、神の意志に従ってそれぞれに作用してきたが、特にキリストの帰天後の弟子らの中で「聖霊の賜物」という最上級の形態をとった。

確かにパウロは、「聖霊の賜物」の廃されることを述べているが、その時期については明示していない。(コリント第一13:8)
将来を展望すれば、確かに聖徒が天に召集されたなら「賜物」の存在し続ける意味もないに違いない。

しかし、『助け手』となる霊は弟子らに『永久に存するものとなる』ともイエスは語っているのである。(ヨハネ14:16)
つまり聖霊は聖徒たちの証しとしての役割を終えても、その後も彼らが用いることのできる力となるのであろう。

それもあって、パウロがアガペーを強調する文脈で「能力」(賜物)の『廃される(廃れる)』と述べたのは、時間的要素の強調ではなく、いずれは印としての賜物も無くなることを意味したのであり、必ずしも初代聖徒と共に賜物が引き上げられた時期を指すと考えねばならぬ理由はあるまい。

福音書も明示するように、賜物が聖徒と共に地を去ったにせよ、それが「廃された」にしては、未だ聖徒に任せられた聖霊を要する業が残されていることが告げられていることは確かである。(ルカ21:12-15)

筆者には、「聖霊の賜物」以外の神の聖霊が現下にどうなっているかは分からないが、我々が生きてゆくにも神の霊は必須であるとされている。(ヨブ34:14)いずれにせよ、霊にどのような作用があるとしても、この聖徒らに働くであろう「賜物」「約束の聖霊」に優る重要な働きを為すものは他にない貴重なものなのであろう。(ヨハネ14:17/7:39)

それは初代弟子たちの時代から、我らの時代の頭上を越えて不定の将来に、イエスの臨御と共に再び現れるものであると言い得る理由は以上のように少なくないのである。

これほど意味ある聖霊が、個人の意識中だけの「証し」や幸福な「救われた」心理状態のもので終わってはなるまい。いや、まったく次元が異なるだろう。それは恐るべき「神の御力」であって、はっきりと全人類にキリストの臨御を宣告するものでなければ意味を成さない。

それゆえもし、「聖霊」の声を聖徒らから聞くならば、紛うことなくイエスは臨御しており、現今の非情な『この世』の終わりという喜ばしい門口に立つことを意味するのである。(ヘブル3:15)

キリストの来たるを待ち焦がれる信徒にとって、聖霊の発言を聴くに勝ることがあろうか。(黙示録22:20)


                                  
              新十四日派   © 林 義平
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*1.ヘブライ語「ルーアハ」もギリシア語「プネウマ」も、「風」また「息」の意を含むことでは共通している。
「ルーアハ」は特に、砂漠に吹く激しい風の音写から来ているという。

*2.エウセビオスはヘゲシッポスの言として次のように伝える
『使徒たちの聖なる合唱隊がそれぞれ絶え、神的な知恵を自分の耳で聴くことを許された世代が過ぎ去ると、神を信じない血迷った一団が、単なる教義を教える者たちの瞞着によって根を下ろした。 彼らは、使徒たちが一人も生き残っていないことを知ると、それからは素顔のまま真実の教えに対抗し偽って知識(グノーシス)と呼ばれたものを宣べ伝えようと企てた』。
(教会史Ⅲ32)

*3.ローマのヘルマスは自著の中で当時の偽聖徒について以下のように言う。
『偽の預言者は自分を実際以上に見せかけようとする。最上の席に座ろうとし、自分の預言に対して報酬を要求する。・・神の霊に満たされた者らの中に彼が足を踏み入れ、人々が祈り始めると、たちまち彼はからっぽになってしまう。この世の霊は恐怖にとらわれて彼から逃げ去り、この男は黙して一言も発することができなくなってしまう』。
(牧者XI,13)

 

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