『神の王国ではだれが一番(偉いの)ですか?』と弟子らがイエスに尋ねたとき、彼らが王国が実現して自分たちの主が王となって君臨するときに、誰がそれに次ぐ者となるのかを尋ねたかったであろう。人の上に立つことを望むのは世の一般的で、誉められさえする欲望である。

だが、この欲望は争いを呼び、人を傷つけるものである。
この頁では、人間につきものである不和とその周辺にスポットを当てたマタイ18章を追ってみよう。

弟子らが「誰が偉い」と問う背後に、彼らの諍いがあったことは、彼らの主が磔刑に臨もうという最後の晩餐にあってすら、誰が偉いかについて言い争った事例が明かしている。

彼らの内面で、自分が他から抜きん出て高一等の権威を得たいという欲望がなかったわけもない。
それは地位を追求し、他人を陥れ、より多くを所有し、不要な規則で人を縛り、不遜に人々に命じ、物事を仕切りたがるものである。

思うまま甘やかされて育つ少年は見事に「暴君」また「独裁者」に成長するというからには、やはりこれは「肉の傾向」であろう。しかし、この肉の性質はどこから来たものだろうか。
人は、偉いと呼ばれることが好きな生き物であるが、実に聖書は、この傾向が上からの知恵ではなく動物的、また悪霊のものであるとまで云っている。(ヤコブ3:15)


-◆模範者は幼子---

さて、仲間内で「偉い」(メガス「最も」)とは、資質や能力、また威風を備えた優秀者の地位を意味したのであれば、彼らの質問に答えるために師が幼子を自分の許に寄せたことは非常に意外であったろう。

何と師は、誰が偉いかと息巻く男らの只中に幼子を立たせたのである。そうして彼らの「模範者」をそこに示す。
曰く『誰でも身を転じて(ストレフォー「戻す・返る」)この幼子のようにならなければ、あなたがたは天の王国に入れない。この幼子のように謙遜(パテイノーシウス「低める」)になる者が天の王国において最も偉大な者である』。

ここにおいて、師はより高い地位を巡って争う弟子らから、その精神とは対極のところに王国があることを示す。
元来、幼児は自分の地位を求めないが、これが成長するに従って、地位を求めたり人の上に立って命じる権限に欲望を募らせるようになってゆく。

イエスに質問しようとその周りに群がった弟子らは、痛烈な訓戒を授かった。
彼らの模範者は、いたいけな幼子であったのだ。しかし、やがて彼らはそれも忘れてしまった。

王国の基本的精神また原理は、世に蔓延る他人よりも上を行こうとするものとは正反対である。

それゆえ『わたしの名によってこれら最も小さな者のひとりを迎える者はわたしを迎えるのであり。わたしに信仰を持つこれらの小さな者のひとりを躓かせる者は、誰であれロバの回すような(大きな)臼石を首にかけられて大海に沈められる方がまだ良い』と師は云われた。

誰が一番偉いかと諍う男たちのなかで幼子は容易に埋もれ、踏みつけられるであろう。
だが、そのように「小さな者」を躓かせるような輩には、二度と浮かび上がらぬ重しを付けて海に沈めた方がよいというのである。

それから師の言葉は、他以上の地位を求めるこの欲望の由来を暗示する。
『ああ、世からの躓きは避けられない。躓かせる者が来るからだ。しかし、その経路となる者は災いである』。

「王国の子ら」を脱落させようと身構える者がいる。
それは王国が実現することを阻もうとする元凶、サタンという以外ない。

サタンにしてみればキリストに従う聖なる者を、その忠節な歩みから引き離し、ひとりであれその成員が欠けるなら王国の妨害に成功するであろう。
このディアボロス(中傷者)が用いる極めて有効な手段が、イエスの弟子同士の衝突や軋轢である。
『その経路となる』とは、悪魔の持つ性質を現わして他の弟子を躓かせる者を指すであろう。

なかでも、偉くなりたいという欲望の根源者は他ならぬサタンであった。この霊者の貪欲が目指したのは「神の位」であったが、それはイエスにすら自分を崇拝させようとしたことにおいて十二分に証明されている。

こうして、弟子らに求められたのは、こうした願望から『身を転じる』ことであったのだ。
それゆえ師は続けて『もしあなたの手か足があなたを躓かせるのなら、それを切り離して捨て去れ。・・不具または足の不自由なまま命に入る方があなたには良い』。と言う。

これは先の海に沈められる方が良いという強調と共に、サタンの精神をもって行動することへの激しい警告となっている。
人は、自分を愛して他を蹴落す内にとてつもない間違いを犯す。すなわちサタンの共犯である。

師は『天にいる彼ら(小さな者)のみ使いたちは、天におわす我が父のみ顔にいつも近づいているのだ』とも言われるが、これは人々のひとりひとりには守護天使が居るというユダヤの伝承を敷衍して、どんなに立場の低い者であっても軽んじることを戒めているのである。

『ある人が百匹の羊を持つことになり、そのうちの一匹が迷い出てしまうなら、その人は九十九匹を山に残してでも、迷い出ているものを捜しに出かけないことがあろうか』
古代オリエントの羊飼いが財産である羊を一匹であっても大切にしないでいれば、百匹の羊が居たとはいえ、管理の悪さから次第に減ってしまうだろう。
「王国の子ら」と呼ばれるイエスの弟子も同じように、その一人も欠かすことのできないもの*である。

したがって、「小さな者のひとり」が躓かされて脱落しても、再び見出され拾われることは大きな善歓となる。
『もしも、見つけることになるなら、その人は迷い出なかった九十九匹以上にそれを真に歓ぶ。 このように、これら小さな者の一人が滅びることは、天のあなたがたの父の意ではない』

こうして、躓かされた神の王国の最も小さいひとりとはいえ、神の目に貴重であり、離れ落ちた状態から回復されることがいかに喜ばしいことがが例えられる。


-◆躓きへの対処法--

さて、イエスは次に訓戒の対象を躓かせる者から、躓いた者へと換えて話を続ける。
つまり、その要旨は躓きの「対処」へと移る

『しかし、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もしあなたに同意してくれたなら、あなたの兄弟を得たことになる。』

王国の子らが義に宣せられたとはいえ、アダムの命にある間は依然「罪」ある肉体に生きており、倫理上の失敗を免れないから、仲間を躓かせるとこが無いとは言い切れない。
 
では、もし誰かに躓きを覚えるようなことをされたならどのようにすべきか?
躓されるままに忍耐し続けるのが良い、と師は言わなかった。
エクレシア外部については忍耐し続けることも良かろう。

しかし、愛に枯れる状態に放置すれば、躓いた本人はエクレシアに居ることも放棄しかねないであろう。それこそは、中傷者ディアボロスの思う壺ではないか。
 
師は山上の垂訓で次のようにも話されている。
『祭壇に供え物をささげようとする場合、もし誰か兄弟が自分に対して何か恨み事を抱いていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、行ってその兄弟とまず和解し、それから戻ってきて、供え物を捧げるようにせよ。』
 
これは神殿崇拝の背景で述べられた訓話であるが、その内容はエクレシア内でも同様に適用できるものである。

イスラエルの聖なる神の前に奉納物を残して「お預け」食らわせるような、一見して不敬な事柄でもこの場合には却ってそうすべきと言うのである。
これをユダヤの宗教領袖が聞いたなら、彼らの外面的で紋切り型の浅い判断は、もってのほかとこれを批難したであろう。

しかし、御子イエスは、不和の解決が崇拝行為に優先されるべきこと、それこそが聖にして真実な神の御前では相応しいことを説いているのである。

聖書中には、心に憤懣を宿したままにした例が幾つかある。
まず、カインがそうであった。
彼は神から供え物を受け入れられなかったときに『非常な怒りに燃え、その顔色は沈んでいった』。

神は彼に語り、この件を放置しようとはされなかった。
『「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。お前が正しいことをしているなら、顔を上げられるではないか。正しいことをしていないなら、罪は戸口で待ち伏せており、それはお前を慕い求めている。お前はそれを制御せねばならない。」』

カインには平素から問題があったようである。神が彼の捧げ物を受けなかったには理由があり、パウロが指摘するように、その捧げ物に誠意が幾らか欠けたところにそれが表れていたかも知れないが、それが単に血を伴わなかった犠牲であったからとするなら、神を不公平だというに等しいであろう。

むしろ、カインには行状に問題があり、それが供物にも表れていた。総じて、カインの抱く心が神をしてその捧げ物を拒ませたのであろう。つまり差し出す以前に解決が求められる事柄があったのだろう。

そこで、神はカインに話しかけた。彼の怒りは嫉妬となって弟アベルに向かっており、しかもその憤りを正しく解くつとめ、つまり「正しいことを行う」ことを諭されたが、彼はその怒りを解こうとはせず内に秘め続け、遂に凶行に至る。


ダヴィデ王の子アブサロムもまた内心の恨みを隠して自らと周囲に悲劇をもたらした人物となってしまった。
妹タマルを腹違いの兄弟アムノンに陵辱されて以来、アムノンの愚行の良し悪しを一切語らなかったアブサロムは、その心中に激しい憤りを宿したまま過ごし、やがて安心しきった状態のアムノンを弑する。
許されて後も、彼は野望を秘め続けて、やがて父王をエルサレムから追いだした。
それはダヴィデの治世中で特に大きな痛手となったのである。

モーセの律法は、このような不和に対して条項を設けており、それが神の注目するところであることをこう示している。
『あなたは心の中に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人を丁寧に諌めよ。彼のゆえに罪を身に負ってはならない。
  あなたは仇を返してはならない。あなたの民の同胞に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしはYHWHである。』(レヴィ19:17-18)

イスラエルの同胞を愛し、心中にこれに恨みを宿すことがどれほど破壊的かは、旧約のその後の記述からも知れる通りである。

それは新約の王国の民の間にあっても変わらない。いや、「神のイスラエル」に関わる以上、より重大であろう。
それゆえ、イエスはこの律法の規定を更に丁寧に進めた対処法を示す。すなわち、当事者同士が直に話して事を正すという仕方である。

だが、相手が同意しないということも考えられよう、そこには思い違いがあったかも知れず、ふたりには冷静さが必要な場合もあるだろう。
そこで師は進むべき次の段階を示し、それは民事裁判へと発展する。つまり、和解しようと近づいても相手が聞く耳をもたない場合にはどうすべきか?

『 もし聞いてくれないなら、他のひとりかふたりを、一緒に連れて行くように。それは、二人または三人の証人の口によって、すべてが確認されるためである』。
 
これは、律法中で重要な審判に際して、ひとりの証人だけで裁いてしまわぬよう求められていたことを敷衍したものであろうが、このキリストの手順においては証人というよりは「立会人」の意義があるようだ。
これらの参加者は、二人の話し合いの経過を聴き、訊ね、それぞれの意見を述べて、譴責するなり仲裁するなりするであろう。

ここで、当事者らが、あるいは非が認められ、また許しが為されるなら和解が成立することになり、『兄弟を得る』、つまり関係が修復されることになろう。
だが、それでも紛糾する場合には、もうひとつの方法を行って兄弟を見出す努力を続けるようにと師は言われる。

『もし、それでも彼らの言うことを聞かないなら、エクレシアに申し出よ。もしエクレシアの言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人*同様に扱うように。』(*文末註)

召しだされた聖なる者で成るエクレシアの中で告発された躓きの元である者が最終的に自らの落ち度を認めないということも無いとは言い切れない。

エクレシアが率直に話しても被告が落ち度を認めず強情さを見せるときには、相当の裁定を下さざるを得ないが、その処置は世の法廷が下す刑罰とは異なるものであり、聖なる者の集団がその被告をかつてのユダヤ体制での「異邦人や取税人」に相当する仕方で扱う、すなわち、公の活動は別にしても、親しい交わりからは排除するのである。和解を肯んじなかった者は兄弟(同胞)としての扱いから除外されるであろう。

それは、かつてのユダヤ人が異邦人や取税人と食事を共にすることはもちろん、同じ屋根の下に入ることによってさえ汚れると見なされたように、個人的で親密な交わりを忌避される立場に置かれることを意味する。
但し、これは個人に対して犯される罪、またはそう思われた事柄の扱いについて述べているのであり、異端審問や、道徳律を守らせるためのものではない。
文脈から明らかなことは、むしろ、個人間の平和が如何に重視されるかを示すものである。

そして、この辱めから当事者があるいは思いを改めるかも知れないと使徒たちは書いている。

それは、不和や軋轢が兄弟として愛し合うべき王国の聖なる民の中ではまことに相応しからざるものであることを強調するものとなっている。この目的は誰が正しいのかということに優る。

しかし、この地上の肉なる人々による審判の当否は信頼に値いするものとなるのだろうか?
そこでイエスはこの保証を与える。

『真に。何であれあなたがたが地上で縛ることは、天でも縛られ、何であれあなたがたが地上で解くことは、天でも解かれたものである。』

すなわち、いまだ地上に居る聖徒たちではあるが、躓きをもたらす経路となり、エクレシアの絆を壊してなお頑迷に悔いぬ人物については天のイエスも地上のその断罪を承認するというのである。

しかし、当事者のふたりが願うことで心をひとつして祈れるのであれば、神も和解を認めてそのようにするであろう。

それから師は、次の有名にして誤解されることの多い一言を加える。
『二人か三人が集まるところには、わたし(イエス)もそこに居る』

すなわち、聖なる者の資格に関わる事柄にイエスも天から関わり、あるいは両者の和解を受け入れ、あるいは躓かせる経路となった者を天でも否認するということである。

この句だけ取り出して自分たちの集まりにイエスが同伴してくれると思い込むのは自由ながら、互いに相容れないほとんどの宗派がそれぞれこの句を自らに適用するのは奇観ではある。


さて今日、聖徒でない者たちに上記の処置法がどこまで、その通り機能するかは分からないが、コミュニティを構成する場合、何らかの不和解決法は必要になろう。

そこで、この方式に準拠することが無益であるとは思えない。むしろ最初に個人間で話して問題を大きくしてしまわないところには多くの益があるように思われる。

また、自分の正義を確立しようと同調者を求めて回ることは人々を巻き込むばかりか、聖書的でもない。
『あなたは中傷するために民の中を行き巡ってはならない』はレヴィ記の律法の条文であるが、もちろん愛の掟に背くものでもある。



-◆許さなかった僕の例え-----

ここでペテロが口を挟み『わたしは兄弟(同胞)を何回まで許すべきでしょうか。七回まででしょうか?』と言い出し、話の行方は「許す」という事柄に向かって更に舵を切る。

こうしてイエスは許さなかった借財人の譬えを話すことになる。
『天の王国は、王がその僕と清算を行うのに譬えられる。決算が始まると、一万タラント*もの負債のある者が、王のところに連れ出された。
 しかし、この者は返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
この僕はひれ伏して哀願した、「何卒ご猶予ください。全部お返しいたしますから」。
僕の主人は哀れに思って、彼を許して、その負債も帳消しにしてやった。』
 
一万タラントもの借財とは一般商取引のレベルを遥かに越えた額*である。イエスは負債のその巨額さを通して人と神の関係を描いたであろう。
すなわち、アダム由来の「罪」の重さ、そしてその許しの大きさである。その対価は神の御子の犠牲であり、それは一万タラントといえども誇張にもならない。
*(ソロモン王に毎年納められた金塊の額は666タラント(約23トン)であった)


それほどの許しを得る人類ではあるが、その大きさをどれほど味わい知るだろうか?
この対価は既に支払われ、人類は現在も買い戻されている状態に入っているのである。
 
 しかし、この譬えの許された僕の場合は、主人の許しから重要な要点を学ばなかった。
許されて出てゆくと、自分に負債のある別の僕を見つけるなり『貸しているものをすべて返せ』と首を締め上げたのである。

この僕も彼と同じように猶予を懇願したのだが、許されたばかりの僕は哀れみも示さず許そうとはしなかった。
そして、負債ある僕を牢に入れたのであったが、そのことが主人の耳に入ると、主人は彼を邪悪な僕と呼び『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と言うのであった。
 
つまり、地上に贖いの価値を見出せないほど貴重な対価によって「罪」を許されながら、同じ人間の、しかも『仲間の僕』である同胞を許せないとは、このように邪悪なことであるという訓話である。
 
この譬え話が語られた背景には聖徒同士の関係があったが、 先の不和の対処法にしても、我々聖徒でない者であってもその精神を敷衍することができ、ここでは更に、すべての弟子にも適用されるべき貴重な教えとなっている。

つまり、誰かが自らの非を認めるときには、それを許す務めがすべてのキリストに従う者にあるだろう。
キリストによって許されようとする者はすべて、罪を犯した者が悔いているときに、これを打ち砕く理由はまったくない。

このように許すときに不和は憤りの跡を引かずに終息し、それが互いの関係を壊すことは防がれるであろう。それは人に属する数少ない美である。
あるいは、相手の悔いに疑念があり、再犯が恐れられるにしても『七十七回』また『七の七十倍』も許せというイエスには、この方自らが「世の罪」を負う方であるからして、これに何の反論ができようか。

信仰の関わるコミュニティにあっても、人に「罪」が宿痾のようにある以上、躓きが生じるのはまず避けられまい。
それゆえ、悪行者に悔いる道を是非とも戒めによって拓くべきであり、もし誰かが悪行を続けるを傍観するは共犯ではないか?

また、悔いる者に許しの道をも保つべきであり、そうしないならそれも躓きを与えることになりはしないか?それらは共に問題解決の拒否であり、共に自らの「罪」を否定するようものであろう。

それらの不適用が神の目からも相応しくないことを自覚するなら、まずは勇気を振るい、あるいは祈り求め直接に話すよう努める。
先のレヴィ記はこの行為と同胞への愛を関連付けている。


-◆適用の実態-----

だが、キリスト教団体における筆者の見聞から言えば、聴く耳の無い相手の方が多いであろう。

内心で自己正当化し罪に凝り固まる者の方が事後も厄介であり、これら表面では悔いを見せても裏表様々に悪意をちらつかせるような、芯まで邪悪と思える輩はどこにでも居り、問題はこれらの者らによって引き起こされることが大半であろう。

たとえ、聖徒でなくとも、宗派に関わらずイエスの名において平和が試されるとき、躓かせる者が神の目に留まらぬことはないに違いない。このようなとき、イエスの言葉『二人か三人の集まるところにわたしも居る』の句は慰めとなるであろうし、キリストの手順を踏む謂われともなろう。(現在、聖徒はいない)


その相手が高一等の役職ある者であり、引き続きその立場に留まる場合、問題は却って忌々しい方向に進んでしまうこともあるだろう。
弟子らの間で誰が偉いかで言い争ったように、サタン的な特質は様々な宗教組織の上へ上へと登ろうとしないではいられない。
メシアがユダヤ宗教体制の頂点はおろか上方でもなく、「地の民」と蔑まれた底辺から現れたことはその辺りを如実に語っていよう。

それゆえ、特権意識を煽って幹部を確保しようという宗教組織の教導者の企図は、聖書にあからさまに反しており、とても感心できたものではない。そんなことをしていれば、上層部はどんな人格を持つだろうか?
しかし、彼ら幹部は実のところ『躓かせる経路』となるものであるのかも知れず、もしそうなら神の悦納は彼らにはけっして無い。

問題を起こした人物を役職から外さない集団全体も責なしとは言えまい。彼らはイエスの対処法にどれほど理解を示し、且つその通りに行うだろうか。
それが行われない、あるいは表面だけのものであれば、その集団は容易に、善良の仮面をつけた獄吏の居る牢屋、「正しい」と主張するゆえにより無慈悲な監獄と化してしまうだろう。

その場合には、信徒がそこに何ら留まる必要もないであろう。教団が如何に「正統」や「神の経路」を自認しようと実際には『躓かせる経路』、『海辺の隠れた岩』、『水のない雲』サディスティックなサタンの隠された罠だからである。

一方、憤りを宿した状態が心身に与える破壊的な影響は、何を持っても逃れるに値する。
人間には様々な限界があり、無理を続ければそれだけ多くを失わないだろうか?
そのためにも神に創られた世界は広く、様々な逃れ道があろう。

また逃れた後も、以前に居た宗教団体に憤りや被害者意識を引きずる人々は少なくないが、そこにまだストレスを残している限り、その人々は依然として、その教団組織の影響下に留まっているのだろう。
『怒り立ったまま日が沈むことのないように』という山上の垂訓は、キリスト教徒に限らず誰でも魂を安んじるためのまことに優れた方策である。また、信徒に怒り立つことを長引かせて放置するような教派は、必ずキリスト教としては間違っているに違いない。
 

しかし、人が圧制的宗教教団からどれほど被害を受けたと主張しようと、世人からすればそこにルサンチマンを見る以上は期待できそうにない。

そのような害をもたらした教団は保身には走っても、けっして元信者のためにイエスの示した不和の処理法に則って公正に解決しようとはしないであろうし、そこに正体も現れてもいる。

そこが、九十九匹という大多数の確保を目指す宗教団体の民主政治というものなのであろう。官僚に特権があるように幹部にも特に保護も与えねば要員の確保に支障も出よう。

ならば、今日キリストが現れるとすれば、けっしてそのようなところからで無いのは誰にも分かりそうなものである。そこは明らかにイエスよりはパリサイやサドカイの性格を芬芬と匂わせており、真のエクレシアではないと結論されるとしても仕方なかろう。

しかし、『あなたがたの髪の毛まで数えられている』という神にあって、人の作った教団を離れたからとてその人が神の視界から消え去るわけがあろうか?

孤立を推奨しないが、致し方なく一頭の羊となったなら一層の顧慮があるとのイエスの言葉があり、その人が神に近づくのは妨げられず、いや、より自由で快活な思いの中でそのようにできるであろう。できるところから研鑽を積めば信仰はより確固たるものとなり、自分と神の間には人を入れず、ただ仲介者キリストを置くので、それこそはキリスト教徒の基本の姿となるであろう。

あるいはその教団の中にまだ親しい人々が残されているかも知れない。
しかし、人は誰かに代わって信仰という倫理的決定を下すことはできないし、現今の法もその自由を認めている以上、人間的に抗うことは最初から大きな無理がある。

ある教団に躓いて、まったくキリスト教を離れたのならともかく、いまだ主に従う意識があるのなら、かつての古巣を攻撃して「自分にされた通りに返そう」とせず、その人自身がキリストの教えに従い、忘れることで許してしまうことこそが神の前での勝利となるのだろう。
それは何もその教団を是認するわけではない。人間共通の「罪」の誤りを憐れむのである。

全く忘れ去ることは無理にしても、過去にはこだわらず神への信仰と感謝のうちに泰然としている姿こそが人々を引き寄せ、古巣にとっての痛撃となるのではないか。少なくともそうする人はこの点でキリストに従っており、そのエウセベイア(敬虔な行い)が天に受け入れられないことはないと言えるだろう。


結論として、イエスの示した躓きへの対処法と許すことの肝要さは、共に我々の倫理上の不完全さを天が気遣っていることの表れである。

それが、ときに非常に厄介なものを人にもたらし、深く傷つけ兼ねないことはもちろん天に知られており、どこであろうと起こったすべての事柄は神の目に映ってもいよう。

ともあれ、「一万タラント」の巨額の負債を許された幸福の喜びを味わうことは、他のつまらぬ事柄を忘れさせ、我々をよりキリストに教えられる者とするに違いない。





      新十四日派   林 義平 jst

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*取税人:ローマ帝国と従属の王国は支配下であるユダヤ人の土地からも徴税を行っていた。
 その取立てを生業としたユダヤ人は一般のユダヤ人からすれば異邦権力の犬のようになった裏切り者であり、律法が汚れていると看做す無割礼の異邦人と接触も多いため、良識的ユダヤ人は取税人を娼婦や罪人と共に忌避し、交友を持とうとしなかった。イエスが宗教領袖らに『取税人や娼婦たちの友』と称えられた背景にはこの痛烈な蔑視観があってのことである。

 一般人からの蔑みに復讐心も働いたか、取税人は税率以上を徴収し私腹を肥やすことが通例で、それはユダヤ人一般から余計に疎まれることになった。取税人ザアカイは『強請り取ったものを四倍にして返す』とイエスに懺悔した背景にはこうした不当利益がある。

 これらの理由から取税人はどうしても交友範囲が狭くなり、付き合える仲間といえば同業者など社会からはじかれたような者らだけであった。こうした底辺へと低められた階層に溶け込むイエスの姿は、一層その慈愛を際立たせたであろう。



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