この相続はけっしてお目出度いことではない。
新しい契約が終わって真のアブラハムの子孫を相続のために天に召集するまでに起こる事は精錬である。

それはキリストと共になる者たち、聖霊を注がれ神のイスラエルへと選ばれた者たちに襲い掛かる強烈な誘惑と試練を意味する。
これを予め覚悟するようにと、イエスは再三にわたって当時の弟子たちを訓戒したのであった。

『「誰でもわたしに付いて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の刑柱を背負って、日々わたしの後に従ってきなさい。』
この言葉に違わず十二使徒らのほとんど、そしてキリストに次いで死に就いたステファノスを初めとする忠節を尽くした多くの弟子たちがそれぞれに主に倣い、つぎつぎに殉教の死を遂げていった。

彼らの目指したものは、主と共になることの賞であり、神と人への偉大なる善を求めて死に至るまで信頼に足る者となることの栄冠(ステファノス)であった。

この厳しさこそは、その立場を授かることのこの上ない栄光と誉れを知らせるものでもある。
聖霊を注がれるというその事が意味したのは、アブラハムからの相続権の内定であり、その財産は『諸国民の光』となる『神の王国』の属する者となり、それを父なる神からキリストと共に受けることであった。(マタイ5:14/イザヤ42:6)

彼らの行う各種の奇跡の業は、彼らがキリストの業の後継者であり、義認においては仮のものとはいえ、キリストに同じく『有罪宣告のない』立場を許されていた。(ローマ8:1.33)
つまり、引き続きアダムの肉の命にあっても『水と霊とによって新たに産み出され』既に地上あってキリストの命に生きるという奇跡を通し、人類に先立って「罪」を贖われた『初穂』に数えられる者のひとりとなっていたのである。(ヤコブ1:18)

彼らが依然として肉体に在りながらも、霊者キリストと共なる義なる者に看做されたのは契約、即ち「新しい契約」に参与していたからである。だが、やはり契約であって果たすべき務めがそこにはあった。

それはキリストの如くに、終わりまで忠節を保って見せ、傷なくシミのない、恰も処女なる花嫁のように清さを保つことである。

そして、この立場は凡そ神の創造したものの中でも極めて稀なるものとなる。
それは御子が唯一のひとり子で在られるのと同じように、高く輝かしい新たな創造物である。(コリント第二5:17)


-◆ふたりの女 --------

本来、この稀なる特権は血統上のアブラハムの裔に対して開かれたものであった。
予告された裔は、モーセの時に民として神との契約にのぼり、神の選民イスラエルとして遂に歴史に現れ出たのある。

この契約は彼らをして『聖なる国民、王なる祭司』と成るに導き、人類全体が祝福を受ける謂れとならせるはずのもの、また全体の指導者メシアを彼らが受け入れるよう導くものであった。これが即ち「律法契約」である。

これは予備的段階を彼らに踏ませるものであり、律法によって人に巣食う宿痾であるアダムからの「罪」を糾弾し、メシアへの信仰による義と救いに導くという貴重な特権を彼らに与えることを目的としていた。(出埃19:5-6
/ペテロ第一2:9)

しかし、アブラハムや族長たちの血統に属する子孫らは必ずしもその父祖らのような優れた特質を見せることはなく、却って心を頑なにして律法に従わなかったので、契約の一方の当事者たる神は、この契約を終わらせ「新しい契約」を布告するのであった。(エレミヤ31:31-33) 

この契約は律法条項によらず、人を内面から変化させる「愛の掟」という著しい価値の上昇を伴う真に優れた教えを伴うものであり、これこそはメシアの教えるところとなったのである。(ヨハネ13:34)

にも関わらず、ユダヤ人たちは律法に従わないばかりか、遂にこのメシアまでをも退けて亡き者としてしまった。

メシアをそこに遣わされながら、既に廃されかけた律法契約に固執して自己の義に酔うこのユダヤ人たちが真に「アブラハムの裔」と呼べるだろうか。最後の旧約型の預言者としてのバプテストのヨハネから警告されたにも関わらず、彼らはメシアを殺害させるばかりか、イエスをメシアと信じた同胞ユダヤ人までをも迫害し、聖霊注がれたステファノスを初めとして弟子の命までをも次々に奪ってゆき、やがて異邦人にまで毒牙にかけ、ローマ国教化に至るに及んで、遂にユダヤ教の保護が帝国側から取り去られるまでの長きにわたり、繰り返し陰湿な迫害の手先となったことは少なくない歴史資料に刻まれている。

しかし一方で、メシア・イエスは刑死後、弟子たちに神からの聖霊が送られるよう天で取り計らい、イエスの奇跡の業はそれら聖霊の賜物を宿した弟子らに継承させたのであった。つまり、新しい契約への移行が為されたのである。
水のバプテスマを受けていた彼ら弟子らは、次いで「聖霊の賜物」を受け「新しい契約」に与り、真の「アブラハムの裔」として新たに歴史の舞台に産み出されたのであった。

彼らは聖餐においてイエスの体を表象する一枚の無酵母パンを食し、将来は彼と共に霊の体を受け継ぎ永生を得ることを、また一杯のぶどう酒に与って契約参入の許可となる血の注ぎを賜ったのである。


イスラエルの民の上に結ばれたこれら新旧のふたつの契約を二人の女に例えたのは使徒パウロであった。即ち、ガラテア書の中で描かれた不妊の妻サラとその若い女奴隷ハガルである。
ハガルはすぐに主人の子を産んだが、不妊のサラはようやくに神によって子を授かった。

さて、古いモーセの「律法契約」は多くの律法条項で人々を縛り、それに従う人々は外からの命令に従う『奴隷身分』の相貌を呈していた。

それに対して後に登場した「新しい契約」に基づく精神は、教条という外から命令を与えるのではなく、人の内面からの自発心によって己を規制するのであり、それを司るのは各人の「愛」であり、そこには闊達な『自由人』らしさがある。

時の経過が明らかにしたもの、それはモーセの律法契約は遂にアブラハムの裔を産み出すことがなかったのであり、ファリサイ派のように旧契約にどれほど固執しようとも、そのようなユダヤ人たちは遂にアブラハムの嫡子とはならなかった。

そこでパウロは、アブラハムの家の子を遂に産まなかった旧契約をハガルと呼び、聖霊を受けて義認され「神の子」と看做される人々を産み出すに至った新契約をサラと呼ぶ。
つまり、奴隷に生まれた奴隷の子イシュマエルが遂に相続者にならなかったように、律法に固執したユダヤ人はいつまでも隷属身分のままである。

そればかりか、ハガル母子がアブラハムの宿営から追い出されたように、メシアを拒絶し新しい契約に入らなかったユダヤ人は皆、神の経綸から除外されるに至ったのであり、それは西暦七十年のユダヤとエルサレムの滅び、そして続く二千年に及ぶ程の約束の地を離れた流浪生活が神の前での彼らの立場を表していよう。

パウロがガラテア書で指摘したように、血統上のイスラエル人、つまりハガルの子イシュマエルが現実的な肉の方法によって生まれながら、相続権を失い嫡出子を迫害して却って追い出されたように、地上の具象の城市エルサレムはメシアの弟子らを迫害し神の前から放逐されたのである。(創世記21:9-10/マタイ22:33-36)

他方、キリストを通し聖霊によって生まれたイスラエル人つまり、サラの子イサクが神の約束によって奇跡的に生まれたように、霊によって産み出されたキリストの弟子たちは、大いなるサラ、またの名を肉なる人間によらない象徴の城市『上なるエルサレム』、これが聖徒たちの母祖となったのであり、この次元の高い城市エルサレムは地上のどこか一地点を占めるものではない。また天に在るわけでもない。(ガラテア4:23/黙示録12:13)

したがって、中東に現実に残る城市イェルシャライムは、かつてを偲ばせ、また発掘する場所という以上のものではない。また、今日のイスラエル共和国を建てたユダヤ人に、今後将来の神の経綸に関わる何らかの意義を見出そうとする事も、人が真に注意するべきことから逸らさせることでしかないであろう。

今日、彼らから学べることには、その古来の言語の解釈や崇拝に関わる習慣の歴史などが残ってはいるが、畢竟そうしたことばかりであり、この民族が神の御旨の中に居た時代はメシア拒絶と共に二千年前に終わっていたのである。(ルカ11:49-51)

血統上のイスラエル民族の歴史の示すところは、出エジプト以来、神への信仰を保つことはなく常々心の頑なさを表し、律法を無視する時代の方がよほど長かったが、それはやがてバビロン捕囚という契約の破綻を刈り取ることなったのである。

つまり、モーセの律法契約という教条に従わせる崇拝方式は、イスラエルにアブラハムの嫡出子を産み出させることには遂に関わらなかった。これはまったく明白である。それゆえにもバプテストのヨハネが『神は、石からでもアブラハムの裔は興され得る』と、また『籾殻は焼き払われる』と警告していたのではなかったか。(マタイ3:9-12)

イザヤはそれを評してこのように言っている『女の出産の時が近づき、陣痛の重き苦しみに叫ぶ如く。YHWHよ、我らも同じく成りたり。我らも孕み陣痛を覚えたれど、恰も風を産むに似たり。我らはこの地に救いをもたらすことなく、この地に民の生まれ出ることも無し。』(イザヤ26:17-18)

そして後の世代のメシアの到来に際しても、イスラエルの体制は遂に真の意味での「アブラハムの裔」を産み出すことはなく、むしろユダヤ人のメシア拒絶は決定的にモーセの制度を終わらせた。(ルカ13:34)

しかし、ユダヤ人の少数の人々だけはイエスをメシアとして受け入れ『新しい契約』に与り、『水と霊から』新たな誕生を得て、キリストを通し『神の子』として遂に産み出されたのであった。彼らこそはアブラハムに約束された『諸国民の光』、『神の特別な所有に帰する民』となる人々であった。(ヨハネ3:5)

使徒パウロは、神の約束によりアブラハムの正妻サラの産んだひとり子イサクが真のアブラハムの裔であり、またローマ書では、これに相当する聖霊の賜物を受けたキリストの弟子ら、即ち『聖徒』たちもイサクのような隷属にない『家の子』となったと云うのである。まさに彼らの母はサラと言える。(ローマ8:14-15)

イエスは弟子たちにこう語ったものである。『奴隷はいつまでも家にいるわけではないが*。しかし、息子はいつまでも(家に)留まる。それでもし、(家の)息子があなたがたを(奴隷身分から請戻し)自由にするなら、あなたがたはまことに自由人となれるのだ。』(ヨハネ8:35-36)*(律法での奴隷の年季は最長七年)

つまり神から見て、人々は何時かは寿命を迎え去ってゆく奴隷状態のようである。しかし、神の御子は家の子であって奴隷のように去るべき理由をもたない。そのキリストが自身の血をもって彼らを奴隷状態から請け戻して解放し、自由人の身分を与えるなら、奴隷であった彼らも家の子の立場を得て『神の子』とされ、家から去る必要のない永生に入ることができる。

まさしく、キリストの犠牲によって買取られ、パンとぶどう酒に与る聖なる者たちは、神の選民となって人類の初穂として刈り取られ、人類に先立って『神の子』となるのである。(ローマ8章)

これは大きな転換であり、聖霊の賜物の下賜という奇跡の産みだした真のアブラハムの裔をパウロは『神のイスラエル』と呼ぶのであった。(ガラテア6:18)
こうして奴隷ではない家の女、象徴的正妻サラは多くの子らに恵まれることになる。それはアブラハムに約された星の数のように多いその裔の誕生である。

そこで使徒ペテロも、新しい契約を守る当時の『聖なる者』らに向かってこう言うのであった。
『あなたがたも、サラの子ら(テクナ)となるのである。何事にも恐れて怯えることなく善を行うならば。』(ペテロ第一3:6)



-◆終わりの日の聖霊--------
 

シュメール王朝期という人類史の初期からアブラハムとその裔に啓示され、神の力によって推し進められたきた偉大な経綸は何と息の永い生命力を持つものであろうか。
それはまさしく『とこしえからとこしえに亘る』という神の足取り、『死ぬことのない』神の息吹を感じさせる。

この神の御旨を蔑ろにしてよいわけもないし、神も新しい契約によって人々から『聖なる国民、王なる祭司』を買取り『神の王国』に入れる格別な民とすることには慎重であっても当然ではないか。

実際、血統上のイスラエル民族の多くはメシアに信仰を示さず、ユダヤ体制としてはイエスを刑死に追い込むことにおいて、はっきりとメシア拒絶を提示したのである。
一方、信仰を示してアブラハムの真の裔であることを示したユダヤ人は、イエスを紛うことないメシアとして信仰を示した僅かな数の弟子たちだけであり、神は彼らに聖霊を注いで信仰深いアブラハムに相応しい真の裔としたのである。(ローマ9:27-28)

これら『神のイスラエル』とも呼ばれるアブラハムの真の裔はメシア=キリストとの関係において、神から聖なる者となるよう選ばれた。したがって、それは神の選びであってもイエスがこれらの聖なる者たちを召し出すことにおいては、選ぶ権限を受けたことになるだろう。イエス自身が集めた者らについて『あなたが与えて下さった者ら』と呼んでいる。(ヨハネ10:27-29/エフェソス1:4/テサロニケ第一1:4)

帰天後の主イエスは、使徒らや初代の弟子たちに次々に神からの聖霊を注いで任命を施していった。
しかし、ひとつの世代が過ぎ行くほどの年月が経過すると、最後の使徒ヨハネも高齢に達して眠りに就き、初代の弟子たちもが墓に埋葬されるに従い、この初代の弟子らがまったく去ると、もはや地上に聖霊を注がれた者「聖なる者」は残されなかった。つまりキリスト自身が『王権を得るための旅に出立し』不在となった以上、そのとき以降、今日まで聖霊によるキリストの指導も中断されている。(ルカ19:12)


聖霊の奇跡の賜物を持つ者たちの数は、第二世紀の半ばにはほとんど絶え果てたように複数の資料が指し示している。また、第五世紀のアウグスティヌスすらもが、聖霊を持つ「聖人」とされる人々がこの時期に居なくなったことを認めている。

しかし、キリストが天から聖なる者たちを指導する聖霊の時代が終わる前に、イエスは使徒ヨハネに聖書巻末の預言の書「黙示録」の霊感を与え、永い不在の時代を一気に飛び越して終わりの日に関する啓示を記させた。それは十二使徒の中で最後に残ったヨハネに、自らの帰還に際して起こる事柄を伝えるという意義があり、再び聖霊を受ける弟子が現れることを知らせるものとなっている。

イエスは常々、ある者らが王や高官の前に引っ立てられるが、そこで彼らは聖霊によって語り、その言葉には誰も論駁ができないという事態が起こることを教えていた。それは為政者たちへの証しとなるだけでなく、広く諸国民もそれを聞いて同じく証しを得るためであるという。

キリストを罵倒する者でさえ許されるとイエスは言うのだが、他方で聖霊を冒涜する者にはけっして許しが無いと警告する。つまり聖霊を受けた「聖なる者」らによって世界に伝えられる聖霊の言葉にすら冒涜を加えるなら、それは永遠の裁きを被るのであり、その時は、即ち人類の「裁きの日」となるのである。

今の時点では、聖霊を注がれる者が誰なのかは分からない。しかしこれら聖霊を注がれた者らは、ひとりふたりと徐々に現れるのではなく、イエス刑死後の五旬節で弟子らに一期に聖霊が注がれ、エルサレムの街角に隠れ棲んでいた彼らが、一転して敢然とユダヤ人への宣教へと向かっていったように、将来も一時に聖なる民が現れるのであろう。

イザヤはこう言う。『地が一日のうちに陣痛と共に産み出されるだろうか。国民が一時に生まれるだろうか。というのもシオンに陣痛が起こって、子らを出産したのである。』(イザヤ66:8)

それゆえ、将来のそのときに至れば、聖霊が新しい契約を根拠に『聖なる国民、王なる祭司』の民を再び地上に産み出すことになり、その聖なる者たち即ち「聖徒」について、彼らを世が受け入れるか否かが次いで問われることになるだろう。
聖徒らの語る事柄は『神の王国』がその王となるべき方の臨在と共に到来していること、そこでこの王国に支配を明け渡すべく、為政者がその支配権を終えるように要求することになるだろう。つまり現実の支配権を争うことであるに相違ない。

それは、『神の王国』が人の心の中に在ると教えられてきた信者たち、また、信徒の努力によってこの世を改善して王国が達成されると考えてきた人々にとっては、衝撃を与えることになるだろうが、それでも聖霊の発言を信じて思いを改める機会は開かれている。誰でも謙虚に聖霊の声を聞き、心を頑なにせず、人の義を去って神を義を求め柔和になれるならけっして遅くはないであろう。

預言者ゼファニアはこう語っている。『神の定めを行うこの地のすべての謙遜なる者よ!YHWHを尋ね求め、義を求め、柔和を求めよ。そうすれば、あるいはYHWHの怒りの日に隠されるであろう。』(ゼファニア2:3)
また、使徒パウロは詩篇95篇から引用し『きょう、もしその方の御声を聞くなら、御怒りを惹き起こした時のように、心を頑なにしてはならない。』と言う。(ヘブル4:7)

将来に聖霊が語るとき、それを我々個人はどのように受け取るだろうか。イスラエル民族は神の言葉に逆らい続けたので神から『うなじの硬い民』と呼ばれたが、その心の頑なさは遂にメシアを拒絶するところまで進んでいったではないか。(出埃33:3)

そこには様々な動機があったろうが、イエスが多くの奇跡を行い、多くの抗弁不能の言葉を語るほどに、彼らは反発を強め敵意を募らせた。そこでは彼らの内心にあるものが焙り出されたと言ってよいであろう。つまり聖霊への態度によって裁かれたのである。イエスはこう語っている。

『わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。

誰も行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。』(ヨハネ 15:22-24)


同様にして、将来の裁きの日においてキリストの弟子の幾らかに注がれる聖霊が、人々を分かつ働きを為すであろう。その裁きは人の内心にあるものを焙り出し、かつてのように一人一人の行いによって自らの内面を明らかにするものとなるのだろう。



-◆将来のサラの出産-----
 

しかし、これらの事柄は本当に起こると言える理由があるだろうか。
「聖霊の賜物」を見ることが無くなって既に千九百年になろうとしている今日、ほとんどの人々は「聖徒」の概念すら霞んでしまっており、世を激震させるとまで云われる彼らの重要性はまず理解されていない。

キリスト教界は救世主としてキリストを看做すよりは、いつでも寄り添ってくれるコンパニオンのような慰め手、あるいはありがたい成功をもたらす個人の人生の導き主、また自分と親しい者の救いを確約してくれる神としていないだろうか。

このように自分に都合よく信じようとする如き、まるで公共善の大志を理解しない人々にとっては、聖書中に見られる人類救済の神の手段であるキリストとその王国の民「アブラハムの裔」は云わば余計なものとすら感じられるかもしれない。それもまた、信仰というその人の倫理上の決定であるから仕方のないことではある。

しかし、聖書を見るなら旧約の「預言者たち」、とくにイザヤには、自分たちの神に一心に聴かず、信仰を持たず、御旨を理解しないで心を頑なにしたイスラエルの民がバビロン捕囚という契約破局の結末に陥ることを警告していたのである。

そして、捕囚後には、その惨めな状態から神のみ力によって呼び出され、約束の地に戻って崇拝を回復するという事態の進展を預言され、それが女による出産と例えられてもいる。これは具体的には何を意味するのだろうか。

この件を預言者イザヤはこう語る。『「子を産まなかった不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らなかった女よ。歓喜の歌声をあげて喜び叫べ。夫なき女の子らは、夫ある女の子らより多いからだ」とYHWHは仰せられる。』(イザヤ54:1)

サラが不妊であったにも関わらず神の約束によって奇跡的にひとり子イサクを授かったが、天の星の数のようになってゆくと約束されていたが、実に象徴のサラの子らは聖霊の奇跡によって生み出されたのである。

そしてバビロン捕囚期にはエルサレム(女性名詞)は荒れ果て、神殿も失って恰も『夫のような所有者』を失ったかのようであった。これはキリストが不在となり聖霊の賜物も引き上げられた今日のキリスト教界に似てはいないだろうか。

しかし、新バビロニア帝国がペルシアに倒されると、荒れ果てたエルサレムのあるシオンの山は捕囚から帰還した人々を迎えて、ひと時に自分の民を得ることになった。

その回復の時についてイザヤは次のようにも語るのである
『その時あなた(シオン[女性名詞])は心のうちに言う、「誰がわたしのためにこれらの子らの父となってくれたのか。わたしは子を亡くした不妊の女。わたしは流刑にされ、捕われた者となった。誰がこれらの子らを育ててくれたのか。見よ、わたしはひとり残されていたのに。これらの子らはどこから来たのか」と。』(イザヤ49:21)

これは許された民の帰還であり、彼らは神殿を再建して崇拝を復興し、エルサレムの城壁を建て直してシオンの山上には再び神殿を戴く城市エルサレムが築かれることの預言であった。

この変化について神はこう述べている『「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その懲役は終わり、その咎は支払われた。彼女のすべての罪と引き替えに二倍(充分)のものをYHWHの手から受けたと。」』(イザヤ40:1-2)

『漲る怒りによって、しばらくの間はわたしの顔をあなたから覆い隠した。しかし、永遠に変わらぬ忠節をもって、あなたを慰める」とあなたを買い戻す方YHWHは仰せられる。』(イザヤ54:8)

また、このようにも告げられる『イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。わたしはあなたの違犯を霧によるかのように、あなたの罪を雲によるかのように洗い去る。わたしの許へ帰れ、わたしはあなたを買い戻すからである。』(イザヤ44:21)

こうしてバビロン捕囚という懲役を果たした神の民は、一転して神の祝福に入るというのである。
バビロンばかりではなく、地の四方に散らされた十二部族とレヴィ族がエルサレムまたシオンという地所に集まって来るのである。それは象徴的エルサレムを戴くシオン山『上なるエルサレム』であって、地上のどこかを意味しないであろう。

『御厳の主、大いなるYHWHはこう言われる、「見よ、わたしは手を諸々の国に向かって挙げ、旗印を諸々の民にむかって立てる。彼らはその懐にあなたの子らを携え、その肩にあなたの娘たちを載せて来る。』(49:22)

『恐れてはならない。わたしはあなた(シオン)と共に居る。わたしは日の昇る方角からあなたの裔を連れ登る。日の沈む方角からあなたを集める。北に向かって「引き渡せ!」と命じ、南に向かっては「留めるな!わたしの息子らを遠くから、娘らを地の果てから連れ登れ」と宣する。』

これらのシオンの息子や娘とは何者を指すのであろうか。
『わたしの選んだイスラエルよ!・・恐れてはならない・・わたしはあなたの裔にわたしの霊を、あなたの末孫にわたしの祝福を注ぎ出すからである。彼らは青草の中から出るかのように、用水路の畔にあるポプラのように生え出るからである』(イザヤ44:1-5)
神の霊により祝福を受ける者ら、それは聖霊を受けたキリストの弟子たち、つまり聖徒以外の誰に適用すべきだろう。

こうして、我々はバビロン捕囚からの帰還と崇拝の復興に関する預言が、単にその時代を一度限り予告したものではないことを知ることができる。

それは即ち、イエスの刑死後の五旬節の日に初めて聖霊を受け、神の子として義の内に受け入れられた弟子たちが、「新しい契約」によって水と霊から産み出されたその時をも含んでおり、更には我々の将来に起こる聖霊の再降下の日に生ずる「回復」をも指し示していると言えるのである。


今日のキリスト教界は「回復」を必要とはしていないだろうか。
初代と共に、聖霊の降下が終息して以降、キリストは王権拝受の旅に出立し、キリスト教は上からの指導のない状態に入っているが、教えは異教や哲学や無神論と混濁しており、信徒は信仰を要するこうした神の企図の大構造に関心も持たないように見える。

それは恰も神が『み顔を覆い隠した』かのようではないだろうか。

だが、こうしたキリスト教の現状に聖霊が再び注がれて聖徒たちが現れるなら、それはアブラハムの正妻サラに象徴される「新しい契約」が再び子を産み始めることであり、またその子らがこぞって捕囚から帰還するかのように一斉にエルサレムに姿を現すかのようになろう。「シオンの子ら」には奇跡の賜物が備わり、それが誰かを疑わせることはない。

もちろん、その聖なる子らがもはや汚れに塗れることはない。かつて捕囚から帰還するユダヤ人に神殿の祭具が返還され、バビロンから約束の地への帰途に就くときに関して預言された次の言葉は、未だに最終的な成就を待っていよう。
『去れ、去れ、そこを出よ、汚れた物に一切触れるな。その中を出よ、YHWHの聖具を担う者らよ、自らを清く保つべく留意せよ。』(イザヤ52:11)

聖霊を受ける者たちには神の教えの全体が啓示され、もはや異教的で蒙昧なキリスト教に留まる必要は何もないに違いない。そこには聖霊の教えがある以上、キリストを求める様々な者たちが一心に願ってきた神の是認の元にある間違いなく真実な教え、それが再び存在することになるであろう。

このキリスト教の「回復」またシオンの「慰め」(ナハムー)を主導するのは、エキュメニカル運動でもメシアニック・ジューでも、どんな人間の努力でもなく、聖霊を与えて諸国民にその合図の手を挙げ旗印を掲げる神ご自身である。

キリスト教徒は、誰もが利己心の芥の付着し、異教の汚れに塗れた「キリスト教界」を去って、捕囚の隷属から買い戻された民のように、新鮮な思いの下に浄められたこの崇拝に入ることを将来に期待できるのである。
サラの象徴である「上なるエルサレム」に向かっては街道が造られ、その道は平らにされ、そこを呼び戻されるシオンの子らが通ると云うのである。

彼ら真実な「聖なる者ら」『神のイスラエル』が聖霊によって生み出されて初めて、我ら諸国民が『神の民と共に喜ぶ』ことができるのである。 (申命記32:43)
それがもたらされるには、将来に聖霊を自在に与えるキリストの臨御を待つ必要がある。

これが具体的にどのように為されるかは未だ分からないが、イザヤ書などの「回復の預言」が既に充分にユダヤに起こったとは言い難い。
サラの子らの出産が、サラ自身にとっても意外な事態の進展であることが示唆されていることからすると、それを観察するすべての人にとっても驚くべき現れとなるのであろう。

この「子らの出産」また「回復」は、確かなアブラハムの裔である真のイスラエル、水と霊から産み出された象徴的正妻サラの子らを迎えることであり、遥かな歴史を越えて悠然と進む超越者の足取りを感じさせずにはおかない偉大にして絶えることのない生ける神の御旨である。






          新十四日派    © 林 義平
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