-◆「名を造って」地の表に散るを免れる----

現トルコ東部のアララト山に漂着した箱舟からノアの家族が出て、その付近で暮らし始めた後のこと
『人々』と呼ばれる集団が東に向かって旅を始めたという。(創世記11:2)

それが『地に満てよ』という神の命によるものかは創世記には書かれていない。

人数も増え始め、十分な食料を求める必要もあったのなら、当時、麦が自生していたというザクロス山脈の高地に沿って進んだのだろうか。
そこでは古代には野生のヤギや羊も確認されており、ときおり見かける渓流では魚も採れたことだろう。或いは、この人々が狩猟者であると共に、遊牧生活者であった可能性も高い。


だが、どちらにせよ非定住の生活は楽なものではない。不安定な食料確保を追ってあちこち移動を繰り返せば、持ち物は限定され、天候の寒暖や雨風雪の影響も受けやすい。
彼らが、麦と動物の自生していたという「レヴァント地方」と後に呼ばれる地域からザクロス山脈に沿って進んだとすれば、進路は高原砂漠を避けてしだいに南に向かい始め、やがてはメソポタミア平原を見ることになった蓋然性は低くないように思える。ザクロス山脈からメソポタミアにかけての気候風土は、文明黎明期もほぼ同様であったろうと考古学者は推測している。

彼らの眼前には、突然に見渡す限りの沖積平野が現れ、それは毎日に目にしてきた山岳の風景とはまったく対照的であっただろう。つまり『シナルの地に低地平原を見つけた』のである。(創世記11:2)
つまり、彼らはアララト方面からそのまま二本の大河を辿って移動してはいなかったからこそ、『低地平原を見つけた』と言えることになり、新たな光景を見る驚きがあっただろう。

この低地平野が、今日のように乾燥地帯であったとしても、二本の大河チグリスとユーフラテスの膨大な水量は、灌漑農業の大きな可能性を見せており、その水の中には豊富な魚という蛋白源も備えられている。
しかし、この地にはめぼしい産物は無い、樹木は少なく鉱石も採れない。だが、アスファルト(瀝青)と無尽蔵の良質の粘土だけはあった。

創世記は、この人々がこの土地『シナルの平野』に定着することを述べる。

考古学は、これらの土地で起こった「都市革命」について語るが、それは灌漑農耕がもたらした余剰食糧に起因するという。実に、南メソポタミアの穀物収穫率はアッシリア方面に数倍するという。
移動生活では、働き手のすべてが食料確保に従事し、常に周囲に気を配り、狩猟を行い、穀物や果物の自生しているのに目ざとくある必要があったろう。
だが、畑に種を撒き、収穫を待つ農耕は、定住することで家屋を大きくし、持ち物を増やすことができるし、子育てもずっと容易であろうから、人口の急激な増加による都市発生の要件ともなる。それも、河川から潤沢な水が供給されるなら灌漑農耕の効果は、ますます人口に十分な食料と備蓄をもたらす。

そうなると、すべてが農業従事者である必要は無い。余剰な麦からはビールの醸造も始まっており、人々の労働の後の大きな楽しみともなっていたであろう。この現代でも人気あるこの飲物を得るに移動生活はまず無理である。
手の器用な者は、生活上の便利品を作るゆとりが生まれ、それらの商品を食料と交換することで、人々は互いに益を広げることができる。シュメールは史上初めて文字と数字を使用し始めたが、そのため、当時の文学までもがこの21世紀に知られているほどである。そこには神話ばかりか、今日の生活と然程変わらない人々の様子も語られている。

ここまでくれば、人々はより快適で刺激的な交換社会のために互いを必要としており、もはや移動生活に魅力はなく、都市生活が実現することになる。そうして人間社会の二つの種類が明確に存在するようになった。即ち、狩猟・牧畜を主にする非定住生活社会と、農耕を主にする定住生活社会である。

後にギリシア人は城市(ポリス)を地中海世界の各地で発達させたが、かのアリストテレスは、人はポリスに住むことにより、その能力や才気を十二分に活かせるのであるから、人間はポリスで生きるように出来ている、と唱えたというが、闊達とした分業体制の機会を人類はメソポタミアで初めて得たのであろう。都市文明の黎明である。


最初の文明を通しても、人々の間での財やサーヴィスの交換には公平性が要請されるようになり、レートのような交換価値が必要とされ始めることは今日見る通り世の常である。
それは貨幣の登場前の麦のような普遍的流通性のある「通貨」という、人類史のごく初期から人間に寄り添ってきた交換価値の代替物の素地を生み出したであろう。前三千年紀にはメソポタミアで大麦の重さを表わしたであろう単位「シェケル」が登場しており、それは今日の共和国イスラエルの通貨の名称として依然残されている。

単位があったなら算数や帳簿も必要になってくる。そこで帳簿を書き付けるパピルス紙はないが、尖筆で記入するに良く、書き直しに適したきめ細かい粘土はいくらでもあったのである。
そのレートを保障するために、有無を言わさぬ公の権威や権力が存在しなければならない。権力の裾野の広さは、通貨やレートを行き渡らせるのに手っ取り早いに違いない。
 

「シュメール」と呼ばれる、ごく初期にメソポタミア南部で灌漑を始めた人々は、種族的にはっきりしないという。
自分たちのことを「入り混じった者ら」(ウンサンギガ)と呼び、頭骨はモンゴロイドのような短頭形であるのに、鼻や額は現極東人よりはっきり高い。
そして、このセムともハムともコーカソイドともつかない人々がどこから来て、どこに去ったかは考古学の謎となっているそうである。

ともあれ、この人々はシナルの平野に灌漑農耕をもたらし、家畜を飼い、轆轤を使った土器製作の家内工業からおそらく鍛冶冶金をも行ったのであろう。また運搬にはエジプトに先駆けて車輪を開発し、ロバの引く車両までも作っていたという。旧約聖書で彼らが来た方向とされるザクロス山脈からは、青銅など鉱石の採取がなされた証拠も挙がっている。

こうして、人々の創意工夫が集まり、最初期の都市文明を起こす条件は整ったのであった。

あるいは彼らが、アララト方面から『東に向かった』という創世記に描かれた人々であるとすれば、その後の記述にもいきおい関心が向く。
その創世記は、確かにこの人々が都市の建設を始め、そこに権力者が現れたことも記しているのである。それに調和するかのように、シュメール人は定着した土地を「君主らの地」(キエンギ)と呼ぶ。集合生活を送る彼らの権力の到達範囲を意味したのであろうが、同時に非定住社会との区別を指した背景も見える。集約的権力は各都市の王に委ねられてそれぞれに秩序を得たが、その一方で非定住の民族はその影響を受けながらも自治を有していたのであろう。古代から都市生活者と遊牧民の間に物資の交換があった痕跡が残されているが、双方の産物の違いが当然に交易をもたらしている。

 

ノアの大洪水の後に現れた都市圏の権力者の名は聖書では『ニムロデ』とされている。この人物について創世記は『クシュ』というノアの孫でエチオピアの先祖の子であると云う。
創世記はハムの子クシュがセバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカの父となったことを告げ、それから改めて、ニムロデの父ともなったと語る。するとニムロデはクシュの末息子であっただろうか。(創世記10:7-9)

だが、このニムロデは、まずその通りの名ではなかったであろうと言われる。というもの、ユダヤ人の伝承はこの人物を善くは述べていないし、このニムロデというヘブライ語の意味は「反抗しよう」というものである。
民の頭たる権力者が反抗する必要があるとすれば、その相手は人間以上のもの、つまりは「神」であろう。つまり聖書によれば、超古代の権力者ニムロデとは神への反抗者であったことになる。

また、創世記は彼が猟師であったと明かす。それも神『YHWH*の前に力ある狩人ニムロデのようだ』という慣用句まであったというのである。*(発音不明の聖書の神名)
狩猟者は、農耕者のように季節に従い、共同作業に従事する必要はない。遊牧民のように草原の状態によって移動するでもなし、様々な事柄からの自由がある反面、生産的でなく従順さに遠く野放図なところもあろうし、奪うことが本質のところに野心の萌芽があったのかもしれない。この者らが都市権力を簒奪して王に君臨し、持ち前の暴力によって強力な秩序を都市に与えた蓋然性もあろう。

そのうえ、『力ある狩人』とは、単なる猟師以上の者「権力を持つ狩人」である。それは「人間をも狩る」すなわち武人であり、前六世紀の軍人でもあった史家クセノフォンは『戦争に有って、狩猟に無いものを見出すことは容易でない』と記している。
そのような相似は、ドイツ語で「歩兵」を「ヤーガー」(猟師)とも呼んだところにも見える。
こうして、ニムロデの政治の性質が見えてこよう。つまり軍事政権であり、まずは独裁的色彩があったものと想像されるところである。

メソポタミアの古文書には、「最初に王権はエリドゥにあった」と記されるが、あるいはニムロデは海辺に近かったそこの城市の出身だったろうか。やはり、ニムロデは元は狩猟の移動生活者であったのが、初めは豊かな都市エリドゥを襲撃し、僭主となったのかも知れない。

創世記の中で彼は、まずメソポタミア南部に都市を興す。『その王国の始まりはバベル、エレク、アッカド、カルネであり、彼はそこからアッシリアに出て、ニネベ、レホボト・イル、カラハ、そしてニネベとカラハとの間のレセンの建設に取りかかった。これは大きな都市である。』
これらの都市は城壁を持つ「城市」であり、当時までには水害対策だけでなく、人々の争いのゆえにそれぞれの集まりを防御する必要が生じていたことは、ニムロデ自身が軍人であったことからも明らかであろう。
出土する粘土の資料は、シュメールの人々が大盾と長槍で密集隊列を構成する戦法(後のファランクス)を既に会得していたことを示してもいるし、ロバの曳く戦車も描かれている。 人類はいつの時代にも権力なくして生きてゆけないのである。
都市定住生活の生み出した特徴のひとつには、この支配の強さというものがある。そこでは権力が強くなり、圧制が可能となるのである。 
ここに於いて、神の地に広がるようにという命令には、単なる生活圏の問題ではないニュアンスが加わる。 



-◆バベルの塔の誤解------------
 

絵画や映画での「バベルの塔」は魅力的な題材ではある。
『その頂を天まで届かせよう』という建設の目的は壮大で、しかもそれが超古代に行われていたという意外性も、人々の関心を捉えて離さない。
無数の労働者が群がり、建設途中ながら雲間に霞む程の高さにまで仕上がりつつある巨大な建造物がこれまでに何度画家の題材とされてきたことか。その傍らには、その大号令を下したとされる権力者ニムロデも描かれたものである。

そのようにロマンを追う方々には残念だが、これは聖書そのものの語るところからの脱線である。
実に、聖書中に「バベルの塔」なる言葉は一度も出てこない。
そこで、聖書記述に意義を見出そうとする向きは、もう一度創世記の当該部分を見直して整理する必要があるだろう。
 

まず、シナルの平原に住み着いた人々が塔を建てようとする場面を見よう。
『東に向かって旅をしているうちに、人々はやがてシナルの地に谷あいの平原を見つけて、そこに住むようになった。そして、彼らは各々互いにこう言いだした。
「さあ、れんがを造り、焼いてそれを焼き固めよう」。それで、彼らにとってはれんがが石の代わりとなり、歴青がモルタルの代わりとなった。
そうして彼らは言った、「さあ、我々のために都市を、そして塔を建てその頂を天に届かせよう。そして大いに我々の名を揚げて、地の全面に散らされることのないようにしよう」。
それからYHWHは、人の子らの建てた都市と塔とを見るために下って来られた。
その後YHWHは言われた「見よ、彼らは一つの民で、彼らのすべてにとって言語もただ一つである。そして、このようなことを彼らは行ない始めるのだ(これらはしようとする事の発端に過ぎないのだ)。
今や彼らが行なおうとすることでそのなし得ないものはないではないか。(何であれ彼らが企てることを妨げることができなくなる)』(創世記11:2-6)
 ここで人の子らが何事も、つまり永遠の生命さえ手に入れ兼ねないことを神が心配しているのではなく、人々が神に逆らってある目的を達成しかけていることを神は憂慮している。
それは、人々を地の全面に散って住まわせるということを直接には意味しているが、それには敷衍されるべきより重要な意味があろう。

また、ここに見る「塔」は「都市」とセットにされている。それは各都市にそれぞれ建てられる塔なのであり、聖書では超絶的なひとつの塔を描いてはいない。
もちろん、彼らが「塔」を建てる理由というのが『地の全面に散らされることのないように』ということであり、これは『地に満てよ』という神のノアの家族に対する命令とは反対である。

やはり都市集合生活の便利さ快適さ、個人の特技や個性の生かせる分業体制を一度味わった人々が、そこを離れて再び移動生活の困苦を忍ぶのを厭うのは自然な感情であったことだろう。
この時代のものと思われる多種多様な彩色土器、アクセサリーは都市生活の便利さ快適さ闊達さを現代の我々にも伝えるものとなっている。

幾らか時代も下ると、そこには今日の観点でも見事な金細工品や、宝石やラピスラズリを用いた装身具も出土しており、アブラムの頃のウルともなると簡単に調理できるインスタント食品まであったというのである。都市の住人は寝食もそこそこに、様々な魅力ある事柄に打ち込む楽しさを謳歌したのであろう。しかし、アブラムら遊牧民は異なった文化を有していたことは用いた食器の様式などの違いにも表れており、今日にまでもその差が偲ばれるという。アブラムの父テラハの家系が遊牧民であったことはほぼ間違いないとされているが、彼ら遊牧民の目に都市生活はどのように映っていたのであろうか。

だが、都市生活はともあれ、一箇所に留まる事は神の命に背くことである。

そこで彼らの思いついた対策は『塔を建て、その頂を天に届かせ、そして、大いに我々の名を揚げて』という方法であったと創世記は記す。
しかし、現代人にはこの言葉には首を傾げさせるようなところがある。即ち『大いに我々の名を揚げる』ことがどうして『地の全面に散らされること』を防ぐのか?ということである。

実に、この名を『揚げる』のヘブライ語[נעשה](ナーセー)にはもうひとつの意味も含まれており、そちらを追ってゆくとより現実的な理由が見えてくるのである。
つまり名を造る』の意味である。


これは『名を揚げる』が「有名になる」という概念を含むのに対して、さらに具体的な解釈への道を開くのである。
我々東洋人が『大義名分に適う』あるいは『大義名分を造る』という言葉によって慣れ親しんでいる概念をこの『大いに我々の名を揚げて、地の全面に散らされることのないように』の文章に当てはめて推論すると次のようになる。
都市を建ててそこに住むことは、神の「地に満てよ」の意に逆らうことであり、神はそれを肯じないだろう。それならば、都市を建てることを許されるように「名を造ろう」つまり大義名分を造ってしまおう。
そのためには、頂が天に届く塔を建て、神に会って宥め、その同意を取り付けよう。

この推論の場合、人間たちが一箇所に集まっているのに、いったい誰に対して名を挙げたり「有名になる」べき理由があるのか、という疑問をまず払拭することができる。確かに名を挙げたところで誰がそれを評価してくれるというのだろう?
次いで、都市を建てる度にそこに塔がセットされる理由が見えてくる、即ち神からの都市の存在許可と延いては都市守護神の登場である。

したがって、教会員が教えられてきたような「バベルの塔」、つまり、神に挑戦する都市文明という見方で、このジッグラトを捉えると的を外すことになる。 聖書ばかりでなく、当地から出土する粘土板にも記されたこの「頂きを天に届かせる」の句の意味は、神への挑戦ではなく、むしろ宥めと見ることができるのである。



-◆ジッグラトの構造と神----------------
 

メソポタミアでの都市遺跡と共に発見される塔「ジッグラト」には普遍的特徴があるという。
それには階段が設けられ、頂上まで人が昇降し易く作られていること、また麓に神を祀る「祠」または「社」が設けられていることである。
これは基本的に神格化されたファラオの墳墓であるエジプトのピラミッドと異なるものである。

メソポタミアからの出土品には、『その頂を天に』という文言が出、またジッグラトの内面は焼いたレンガが用いられている点も創世記記述に合致する。繋ぎ目の瀝青の使用もまたそうである。
そして、なぜ「頂を天に届かせるべきか」というこのことは、これまではノアのときのような大洪水への退避塔であるとか、天界に登りつめ、大洪水を起こした神に挑戦するためとするユダヤの歴史家ヨセフスのようにも解釈されてきた。
だが、麓に社が設けられるというこのことの意味はそこからは見えてこない。

ひとつ、理解し易い解答には
天の神を地に招き、人間の都市生活に安堵を見出してもらうという意図があったということがある。

麓に在ったその社の存在は小さいながら、そこから塔の全体の意味を見直すと見えて来るものがある。
ヘブライ語「バベル」(混乱「バラル」を含意)の本来のアッカド語「バブイリ」の意は「神(イリ)の門(バブ)」であり、本来のシュメール語では「カディンギルラ」と言ったが、これもやはり「ディンギル」(神)「カン」(門)であるから、アッカド語はそのままの意味に発音を変えていたことになり、ヘブライ語の「バベル」は、言語の混乱をもじっていたことになる。

ともあれ、神の領域である天まで届く塔が、その神をお迎えするためのものとすれば、「神の門」という名は塔の存在によって意義を得る。神がそこに降るからである。それは一種「神の階段」「昇降口」のようなものであり、宗教、それも相当に「神」との接近を含意しているモニュメントといえるのである。


神が「降る」という概念は、創世記からも見られるものであり、『YHWHが降りて来る』の句はヤハウェスト資料に度々現れる。(創世記18:21/出埃19:11等)
また、ヤハウェストでなくとも、神は人に語った後には『上って行った』とも記されている。(創世記17:21)
神は人と意思を通わせる場面でこのように昇降する概念を創世記そのものが有しており、それは古代人に共通の神観念であったと言えるであろう。

シュメールでは天から降り立ったものはアヌンナキと呼ばれ、神々の集団であり知恵を授けたという。彼らの宗教は多神教であった。
シュメール人は文字の発明と活用においてその以前の歴史を持たないので、真の意味で「文明」を発祥させた民族である。また暦を持ち、月の朔望に合わせ年間を12の月に分けたのも史上初のことであったうえ、信じ難いことながら天文に関する異常なまでに高度な知識は、近代文明に匹敵するほどに優れていたと言われる。また青銅の製造加工方法を最初に知ったのも彼らとされるが、おそらくシュメール人は、何らかの仕方で上からの知恵を得ていたと言うべきなのであろう。西暦前3500年の過去に文明が創始された背後にはプロメテウスのような存在があってのことであろう。


実にアッシリアなど後に続く文明はシュメールに学んで次の文明を起こしていることが発掘から明らかにされている。人類最初のシュメール文明の突然の現れには謎が多い。

今日の考古学によれば、前3300年頃からの千年以内に、文字を使い始めるだけでなく、暦に従って灌漑農法を始めて麦から酒を醸造し、度量衡を定めて計算を行って商取引や貿易を行い、さらに金属を溶かして加工するばかりか宝飾さえ楽しみ、車輪のある移動や搬送の機材を作り、武器を量産して軍隊を編成し戦法を考え出すなど、今日に見られる社会の有様が一度に噴出しているかのようであり、これは当時の人々よりも高度な知識を持つ何者かの存在を明らかに要請している。


人類文明とは、原始的断片から徐々に高度化したのではなく、最初からいきなりに現代社会に見られる原型が突如として現れているのである。即ち、『この世』の有様、貪欲が推動し機能する社会の諸要素が既に現れており、我々の時代にまで特に変わった事と言えば、その程度と規模だけである。

しかし、知恵を授けたというアヌンナキなる彼らの「神々」は、創造の神でもノアを救った神でもない。そうであればこそ、人々が地の全面に広がらない都市文明の知恵を授けたといえる。
当時の僧職者は単なる宗教家を超え、天文を読み人々が何を為すべき時期に来ているかを教えるなど、今日の科学者の役割も兼ねていた。
勿論、統治という領域にも「神々」は知恵を与えたことであろう。王は祭司を優遇することで、政治に宗教が関わった。そこで「神権制」を通して霊の領域が人間を支配することになり、宗教が法となる。それこそが霊の存在者の望むところであったに違いない。

それら都市文明の知恵の源こそは、唯一神をしてノアの洪水をもたらさせた張本人たちであるところの、本来あるべき天の場所を離れた堕天使らであると言うべき理由がある。(創世記6:4/ユダ6) 

箱舟の漂着地から東に向かった人々の神概念は早くも曖昧になっており、シナル定住のころにはすっかりノアの神を離れていたであろう。
彼らに『地に満てよ』と命じている創造神も、都市を作って人間が集合して一箇所に住むことに同意を与える「神」も、彼らには区別が付かなかったのであろう。
それは、後にバビロンがヘブライの宗教概念の正反対の異教の坩堝となった事からして蓋然性は低くない。

死後の地下世界、死者に問う習慣、偶像の使用、占星術などの故郷がここにある。
悪霊となった堕天使らが、この地を創造の神とは異なる宗教の中心地に据えたことには、多数のジッグラトを城市毎に建設したという、この地方での人々の大々的な「神々」の呼び込みあってのことではなかったか。
 

後に、ネブカドネッツァルの父王ナボポラッサルは、バビロンの巨大ジッグラトをも再建したが、八層に及ぶその頂上には何の偶像も祭壇もなく、ただ寝台があり、選ばれた美女がそこで一晩を過ごすだけであった*というからには、その神はまぎれも無くノアの大洪水前に女性目当てに持ち場を離れて地上に来たと創世記が暴露する堕天使らに違いない。(創世記6:1-2/*ヘロドトス「ヒストリア」Ⅰ:181)

一方、各都市の塔の麓では、社に供え物がなされたことが分かっており、後には偶像も登場することになる。崇拝の場であった社は、次第に神の住まいとしての神殿へと発展されてゆく過程が発掘されている。

その貢物に伴う祈りは、やがて『地の全面に散らされること』なども忘れ去られ、都市の繁栄や保護に変えられていったであろう。メソポタミアでは偶像の中に神が宿っていると信じられるので、その扱いには注意を要したという。扱いの次第によっては不興を買い、不作や疫病など、都市に不利益を被ることになるからである。



-◆真の神が妨げた企図------------
 

そして、ついに創造の神は『人の子らの建てた都市と塔とを見る』。
そしてこう言った。『見よ、彼らは一つの民で、彼らのすべてにとって言語もただ一つだ』『今や彼らが行なおうとすることでその為し得ないものはないではないか』

これはもちろん人間が全能になったと言うのではない。彼らにはその目的を遂げられることが明白だったということであろう。
彼らは創造の神の意志であるところの、人が地に広がってゆくべきことを実現させないことになり、且つ、彼らは悪霊、延いてはサタンの影響力の下にひとつに束ねられるのである。ニムロデはそれに用いられる器となろう。

だが、それは何を意味しようか。祭政一致という圧政ではないのか。
単に都市生活が俗的で神の不興を買っているという事柄では済まないものがそこにある。即ち「支配」と「崇拝」がそこに関わっている。
サタンの支配する人類支配の大帝国の萌芽がそこにあり、今や悪魔は『わたしは天に上る。わたしは神の星の上にわたしの王座を上げ、北の最果ての会見の山に座すのだ。わたしは雲の高き所の上に上り、自分を至高者に似せる』という、人類に対する最高主権を手にしようとしていたと言えるのである。(イザヤ14:13-14)

その『至高者に似せる』という言葉の通りに、サタンは人類を統べ治める地上の絶対主権者の座を手に入れることになろう。したがって、彼らが城市を建てることよりも問題であったのは、一に集合して住むことからくるところの人類統一主権の樹立であったと見做すことができる。これがサタンの野望が狙うところであることは聖書が再三記すところである。

その傍らで、創造の神と人類の間には「罪」による断絶があり、神は直接には全人類の権力者とはなり得ないのであり、もしそうなっていると云うならこの世の酷さは説明が付かないし、そもそも「塔」の問題も出てはこない。神は人類に罪ある間にあっては仲介者キリストに「神の王国」という条件下で人類支配の大権を委ねる筈であったのだ。そのキリストは、神が『この世の支配者』ではないことを明言しているのである。(ヨハネ16:11)

そこで、神に挑戦したのは、この人類統治の権限についてであって、神が許すことをしなかったのはバベルの塔の完成ではなく、悪霊らの頭たるサタン(「反抗者」の意)による全人類への支配権であったとみることができる。
もし、これを許すなら、イスラエルのような創造神による神権統治国家は邪魔され、存在も難しくなったであろう。つまり、神の経綸の道を遮るものである。
 

他方、サタンと人間は罪あるもの同士、サタンが主権を得れば直接統治を遮るものがあろうか。
だが、これを許すこ
せいきとは創造の神にはできないことである、そんな支配が生じれば、神を崇拝する民族の場は地上から失われ、聖書も書かれることは無かったほどになる。そのうえに思考の自由も無い圧制が人類全体を締め付けることになったであろう。
したがって、少なくとも地上支配の権威の頭を分割することで、この世界帝国の出現を押さえ込むことはできるだろう。
そこで神の採った手段は創造者に相応しいものであった。

ひとつであった人間の言語が、ここで幾つにも分けられ互いの理解を隔ててしまう。それは人類の諸言語発生の由来を語る単なる創世説話とはならない。
その効果と言えば、『彼らは全地に散って行き、都市を建てることから次第に離れていった』のであった。


ここで、彼らが建てることから離れたのは『都市』また「塔」であったとされるが、もちろん、都市文明は絶えることなく広がり継続しているので、神の原語分割の効果は、むしろ言語毎の人々の分離を意味しよう。
前述のように、ヘブライ語「バラル」は「乱れ」を意味するが、アッカド語訛りでの「バビル」(神の門)と掛けあわせて「バベル」という言葉が現れる創世記はこう記されている。
『それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。YHWHが全地のことばをそこで混乱(バラル)させたから、すなわち、YHWHが人々をそこから地の全面に散らしたからである。』(創世記11:9)

19世紀になって、ようやくシュメール語はアッカド語から解読が始められたが、この言語は他と異なり、どの言語とも関連をもっていない特殊な言語であることが分かってきたとのことであり、最も古い部類に属するセム系言語のアッカド語からも独自性を持っているとされる。
ただ、アッカド人は北からシュメール人の地域に入り、自分たちの文字を持たなかったので、シュメールの楔形文字をそのまま用いて、系統も文法も異なるアッカド語を記したという、以後、楔形文字は長く用いられ、アッシリアによっても、メディア・ペルシアに至るまでも併用されていたとのことである。

しかし、言語が分けられたからといって、シナルの地での都市建設が無くなったというわけでもなかった。
はっきりしているのは、シュメールと呼ばれる民族が一度退潮し、前2400年頃からアッカド語を話すセム族がこの地の主人となったことである。

では「入り混じった」民であったシュメールはどうしたのか。
百数十年の雌伏の後、再び勢力を盛り返し、当時は海に近かった都市ウルで第三の王朝を興したという。それはアブラムの頃であったのかも知れない。

やがて東隣りに位置するエラムが強勢となって南メソポタミアを征服すると、それからのシュメール人の足取りはつかめていないという。


シナルでの都市と塔を建てる習慣はその後しばらくは維持されたが、それはもはや創造の神の敗北ではなかったであろう。
なぜなら、人々は世界の各地に見られるようになっただけでなく、人類支配の統一の興る危険はその後、今日まで回避され続けたからである。実際、歴史が全人類を一つに統治した支配権を指摘することはない。⇒「オイコノミアと七つの頭」

そこでは、諸言語創出の神の目的が、単に人間の都市や塔の建設阻止ではなかったことも明らかである。それは人々を地の全面に広げ散らすことであり、人類統一支配をも分散させるところにあったと見ることができる。

確かに多くの主権国家が存在することで、国家間の戦争が勃発することは避けられない。それが悲惨な事態を招いたことは今日までの事実である。国家主権という「最強の我が儘」がどれほど世界を乱し、人々に苦難を与えるかは歴史の教える通りであり、現代に至っては、国際連合という機関がその調停を図る場となりつつも、やはり「最強の我が儘」によってしばしば機能不全に陥るほどである。

だが、サタンの支配する人類統一国家というものは、まったく逃げ場の無い、更に破壊的作用を及ぼすもので、殊に思想面での自由を恐ろしく奪ったであろう。そこでは唯一の政府を牽制する他の政府が存在しなくなり、その暴走を抑えるものは何もなくなってしまう。我々はヒトラーやスターリンの過酷で悲惨だった人間の独裁体制の例にその片鱗を窺うのみである。それ以上酷い人類統制下では律法契約下のイスラエルのような神権国家は信条的にも存在することさえ許されなかったことであろう。人類はむしろ、聖書が描くサタンの象徴である『龍』の頭が七つに分かたれたことに益をさえ見出すべきであろう。(黙示録12:3)

言語分割により主権は分散され、ニムロデに象徴される恐ろしいまでのサタンの世界統一権力は実現不可能となったばかりか、人類には文化や人種の多様性を得ることになったのである。
こうして、サタンの国家政治力の頭は分割され、この処置によって聖書巻末にある黙示録の中での国家権力の集合体を表す「七頭の獣」の『第一の頭は屠られたかのようにされた』であろう。(黙示録13:3)
即ち、世界覇権の試みの第一の部分、最初の覇王ニムロデの画策したシュメール帝国である。

では、聖書巻頭の創世記から、一足飛びに最終巻のヨハネ黙示録、人類社会の終末へと目を移すなら、そこにはどのような結論が待ち受けているだろうか。 



-◆第一の頭の癒えるとき------------
 
ダニエル書では、歴史上の様々な覇権国家を野獣に例えているのだが、黙示録では、堕天使の長であるサタンが七つの頭を持つ龍として描写されるように、ニムロデのような支配権を狙う終末の世界覇権を『七つの頭を持つ野獣』に象徴させて幻視している。(黙示13:1-4)
その頭のひとつは『その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。』とある。

この治癒は恐ろしい作用を覚悟せねばなるまい。
即ち、ニムロデ以来の世界圧制の恐怖であり、神を離れた「人間主義」という一種の宗教の押しつけとなろう。
『いったいだれがこれと戦いうるか』と言って全地が感服するのは、その頭が分かたれていながらも人間の権力を集中したその七つの頭をそろえた姿のゆえである。
第一の頭が癒されるからと言って、人々が英語なりの世界的言語を話すようになって言語分割が克服されるという意味よりも重いものがあろう。
それは、言語分割という神の一撃を受けて一度挫折した世界主権への野望が、言語分割をそのままにしつつ(頭は依然分かれていて)もその狙いにおいて復活することである。

かつて、「名を造る」ことで人々が神の御旨から離れようとしたように、将来、人々は人間主義思想、つまり神に頼らず、人間の能力によって将来を切り拓いてゆけるという尤もらしいが神の人類への意志もキリストの犠牲も無視した蛇の教えに従うだろうか。
その時点では『神の王国』を受け入れるかどうかが人類に喫緊の課題となっている。なぜなら、創造を行った真実の神に任命された全地を統べ治めるべき王キリストがいよいよ王権を佩びて人類に臨む裁きの時が到来するからである。

サタンは自分の時の残りが短いのを知って、猛烈に暴れまわり、ディアボロス(中傷者)の本性を最大限に発揮して人類を神から背かせ、今まで通り、人類に創造神への無頓着なこの世の態度を維持させようと全力をあげることになるのであろう。


そのための器が黙示録第十三章の「七つの頭を持つ野獣」と云える。その異様な獣は『今は居ないが、やがて底知れぬ深みから上ってくることになる』とも云われる、永い間忘れられ封印されてきた、あの世界支配の野望を遂げるためのサタンの武具であろう。それが七つすべての頭を備えて眼前に現れるときに、人類の驚きはどれほどのものになるのだろうか。(黙示録17:8)

それはニムロデの超古代、言語を分けるという神の一撃によって落下した奈落の果てから甦り、『あらゆる部族と民と国語と国民に対する権威がそれに与えられ』神の王国の聖なる者たち、つまり「聖なる国民、王なる祭司」、聖霊を注がれて語る人々を滅ぼして、徹頭徹尾人類を神の王国とその王に逆らわせるために造られる全人類的武具となって、現実の世界に這い上がって来る恐るべきものであり、ある意味で大王ニムロデの復活であろう。そのために、人々はその獣を見て怖れ、栄光を帰してしまうという。

これこそはサタンの『わたしは天に上る。わたしは神の星の上にわたしの王座を上げ、北の最果ての会見の山に座すのだ』という野望の極まるときであろう。
だが、その崩壊は天において始まっており、そのゆえにもサタンは既に地に落とされているのである。それは将来の天界における裁きによって権威を得た天使長ミカエルと戦い、そこで敗れ去ったからこそ彼は地に居るのではなかったか。⇒「黙示録の四騎士」

そのときにも、信仰持たぬ人々は便利な生活の為に『名を造る』ようなことをして悪霊を呼び込んだり、ニムロデのような強権を支持したりするのだろうか。
人類の能力によって神無くしても幸福な将来を築けると。
例えれば、人間は自らのあらゆる細胞を初期化できることが可能となり、人の意志によって永遠の命も視界に入るとしたら、何も人の倫理や罪を問う神など無くても良いと思うだろうか? それは世の大多数の人々にとって魅惑的な偽預言となり得るものではないだろうか。

そこで、あの『歳経た蛇』は相変わらず『蛇』ではないか?
「あなたがたは死ぬことはない」と言いつつ、次に狙うのは終末に生きる人類の全体である。
そこで論議は先鋭化する。即ち、創造者を創造者として敬うかという「エデンの問い」である。

新たな「善悪の知識の木の実」となるのは何であろうか?
それはおそらく、神からの独立した道を行かせようとする人間主義であろう。それはけっして目的を達することのない数字6を三回繰り返した粗悪な代替品であり、言い訳をして真実の王キリストを拒むことであろう。
そして『偽キリスト』たる新たな生ける偶像、『不法の人』の不吉な予告も忘れるわけにはゆかない。

偽預言者らの行う奇跡は、かつてモーセの日にエジプトの異神の祭司らがカエルを出すところまでで止まったように、付き従う者らをいずれは失望させよう。それゆえ、龍、野獣、偽預言者から出る霊感の言葉はカエルで留まるのである。それに釣られて付いて行けば、神と人との戦いに身を置くことになりかねない。(黙示録16:14)

飛ぶ鳥落とすようなサタンの全地を覆うニムロデの復活の如き大王の支配権に人は平和の到来を夢見るのだろうか? そして、古代都市の生活にも似た科学信仰からくる永生をすら約束するような理想社会テクニカル・ユートピアの将来像。人々はそこに留まることを願い、再び悪霊を味方につけるのだろうか?

だが、キリストの到来によりサタン支配に残される時は無い。
こうして、この世は大王に率いられて、神との戦い、ハルマゲドンの場、エホシャファトの谷へと向かうことになるのであろう。そこで人間たちが『一か所に集まって住む』という真の意味での目論見は最終的に打ち砕かれるであろう。

それらの偽りの預言への思い込みを人々に留まらせるものがあるとすれば、人類の贖罪と創造者との和解を成し遂げさせる「神の王国」の王キリストの言葉、その聖なる者たちが聖霊を通して語る言葉に対する信仰のみであり、創造主に感謝と誉れを帰するべしという倫理の基礎を堅く据えることである。(マタイ10:18)





           新十四日派   © 林 義平  
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 大いなるバビロンの滅び

 オイコノミアと七つの頭 






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