西暦第二世紀、小アジアのキリスト教は「活況を呈していた」とJ.ダニエルーもその著書で紹介している*。
小アジアのその活況とは、エルサレムの瓦解から逃れ、主の母と共にエフェソスに移った使徒ヨハネ、またヒエラポリスに家族と共に住んだ使徒フィリポの薫陶あってのことに違いない。

エルサレムのエクレシアの流れを汲むこのキリスト教は、パウロの推し進めた異邦人型の教えからは遅れを取っていたが、晩年のヨハネに臨んだ聖霊の啓示は、この地域を一気にキリスト教の最先端に押し上げ、新約聖書の完成へと向かわせた。

使徒ヨハネ没後、殉教者として有名なスミュルナのポリュカルポスやヒエラポリスのパピアスは、この最後の使徒を直に知っていたといわれる。


そのポリュカルポスが殉教する幾らか以前(AD150年代)に、彼がローマを訪れた際、ローマのエピスコポス(教皇制はずっと後のことであった)のアニケトゥスは敬愛を以ってこれを迎え入れた。

このときにアニケトゥスはポリュカルポスに小アジアの伝統であるニサン14日の「主の晩餐」(パスカ)を止めさせ、翌日曜に復活に関連して行うように説得を試みた。これは未だニケアー会議の75年も前のことであり、帝国の法によりパスカが復活祭に変じる以前で、キリスト教界には「主の晩餐」を多様に行っていたのであった。

ポリュカルポスにしてみれば、十四日遵守は直接に知る使徒ヨハネたちからの伝統であり、これを変更することなど考えもつかないことであった。主の晩餐はユダヤの過越しの中で開始されたことであり、それは無酵母パンを用いるところに表れているだけでなく、主イエスは過越しと無酵母パンの祭りに関わる中で、死と復活を遂げられているのである。

この時期の小アジアのキリスト教は、千年紀説でも特徴を備えており、それはヨハネ黙示録を戴く七つのエクレシアを擁する小アジアの誇りでもあったことであろう。

千年王国が実際に地上にその支配をもたらす期待は、第四世紀にアウグスティヌスによって揉み消される以前には、小アジア出身の卓越したルグドゥヌム(現リヨン)の教父にして、第二世紀に使徒伝承を擁護して活躍したエイレナイオスによって伝承されていたことは今日も揺るぎないことである。

それに対して周囲のキリスト教は、使徒ヨハネにより、小アジアに発現していた最後の聖霊の栄光を受け入れることに困難を感じていた。
シリアはそのペシタ訳から黙示録を除外し六世紀にまで及び、アレクサンドレイアでもディオニュシオスらが正典に黙示録を含めることを認めていない。

第二世紀にはユダヤ発のグノーシス主義が盛隆を見ており、このユダヤ神秘主義に黙示録が転用されることを嫌ったともされている。しかし、却って黙示録を有した小アジアこそは、逆にこのグノーシスの影響を跳ね返したほとんど唯一の地域であったといわれているのである。

使徒ヨハネの『イエスが肉体で来られたことを告白しない者たち・・には挨拶の言葉さえかけてはならない』という訓戒が功を奏したのであろう。(ヨハネ第二7-10)
キリストの最後の晩にその懐にあったこの最年少の使徒にとって、イエスが肉体でこの世に来なかったなどという仮現説の教えを容認する隙など微塵もなかったことであろう。それゆえ、この時代の小アジアが使徒ヨハネの教えの下にあった蓋然性はいよいよ高まるのである。

その浄められた晩のキリストの発言は、ヨハネ福音書の五つもの章を占めており、ヨハネの老境に至ってなお、その若き日に聴いたそれらの言葉のひとつひとつに思いを究めていた姿が彷彿とされるほどである。
それらの言葉には、イエスの聖徒らに対する慈愛と教えに満ちており、更に将来についても告げている。

イエスは三年半の公生涯を終えるに当たり、特に十二使徒らと最後に過ごす時を『心待ちにしていた』という。
それはイエスの地上における最後の晩餐であり、彼らとの惜別の数時間であった。
およそ千五百年を遡る前に、イスラエルがエジプトで最後の晩餐を行ったその同じ夜、キリストは新たな食事儀礼を創始する。

即ち、一枚の無酵母パンと一杯のぶどう酒による儀礼であり、キリストの記念として行い続けるようにと使徒たちに申し付けた。
そして彼らは一枚のパンから食し、一杯のぶどう酒を飲み合うのであった。

彼らは、キリストの罪の無い体を表す無酵母のパンに与ることによって、キリストと体を共にして天界の永生に入ることを、ぶどう酒を飲むことは使徒らが『新しい契約』に参入するための、仲介者の『契約の血』の注ぎを意味した。
これらのふたつの事柄が彼らの上に成就する日まで、キリストは『この葡萄の木の産物を口にしない』と言われた。それは天界に彼らが揃う時、即ちキリストの帰還の後のこととなる。


その陰暦の同日、日が昇って後には『神の子羊』として屠られるという、その前の夜の時間を用いて、イエスは彼らに聖霊を送ることを約束する。それは『真理の霊であって、世が受けることのできない』格別のものであるという。

復活したキリストが天に去ってから十日後、あの五旬節の日の朝にそれは到来する。
(使徒2章/ヨエル2章)
聖霊の降下は即ち、キリストの犠牲の適用によって初めて贖われ『有罪宣告のない』人々の『水と霊からの誕生』となった。

聖霊を下賜された彼らは、アダムの命に生きる間から「罪」を贖われているゆえにも『聖なる者』また『聖徒』(ハギオス)と呼ばれたのである。

それはいにしえアブラハムに語られた『すべての家族が自らを祝福する』という真の「アブラハムの裔」の登場であり、遂に象徴的サラは、人類を救う奇跡の子らを生み出し始めたのである。

それはモーセを通して約束された『祭司の王国、聖なる国民』の最初の人々であり、彼らには『契約の箱』に相当する契約の証し「聖霊の賜物」が下賜されていた。血統にはよらず、キリストへの信仰によって、この人々がアブラハムの遺産を相続することになったのである。

これらの事柄が実現するための礎となったのが、キリスト・イエスの死であり、この忠節な死なくしては人類救済の民を導き出すという神の経綸は進まなかったのであり、『すべての預言に証印を押す』『アーメンなる方』、また創造神の座を至上のものに高めるのは、この死よりほかなく、この死によってサタンに組する者すべての反論はまったく封じられたゆえに、この崇高なる死こそが『世の征服』を成し遂げたといえるのである。(ヘブライ2:14)

これほどに記念されるべきことが他にあるだろうか。
使徒パウロは、この儀礼「主の晩餐」が『主の死を宣明すること』であるとはっきりと記している。(コリント第一11:26)

それを復活の慶事に置き換えたのは、事情に疎い異邦人に他ならず、そのユダヤ嫌いが手伝って、的外れにも目出度い復活祝いの祭りに模様替えしたのであった。これがローマ帝国の権威によって世に普遍化して今日に及んでいる。

あまつさえ、これらギリシア=ローマ型キリスト教界では信者がみなパンとぶどう酒に与るものとされてしまったので、アルコールの提供に問題のある子供や中毒者を憚り、ぶどう酒はジュースに変更され、カトリックではパンだけの一種陪餐にまで貶められた。

これらの原因は、『約束の聖霊』とそれを受けた人々である『聖なる者』に関する神の御旨が忘れ去られたところにある。その御意志は数千年に亘る神の歩みに表されており、「エデン」以来の聖書を貫通する主題を成している。⇒聖霊

小アジアはヘブライの知識に無遠慮な異邦人型キリスト教に周囲をかこまれてはいたが、確固としてニサン十四日の「主の晩餐」(パスカ)を守り続けた。それは最後の使徒ヨハネからの伝統であり、黙示録同様、けっして違えることのできないものであった。
彼らは「十四日派」と呼ばれたが、やがて周囲の世俗化の波の呑まれ、中世期のどこかで姿を消してしまった。


さて、通年のように新十四日派と銘打って2013年も「主の晩餐」を挙行したが、これは久しく絶えた十四日派の回復の試みである。

今日、「約束の聖霊」も「聖霊の賜物」も天から下賜されていない『臨御』(パルーシア)以前の状況であるので、パンとぶどう酒という表象物(エレメント)に与る人はいないが、使徒パウロの書いたように『切なる願いを抱いて神の子らが顕し示されることを待ち望んでいる』ことを示すことができる。(ローマ8:19)

『神の子ら』とは、初代に同じく聖霊によって生み出される者であり、そこに「聖霊の賜物」が『身分の証し』として伴う人々、「聖なる者たち」(ハギオイ[ οἱ ἅγιοι ])のことである。(エフェソス1:13/ローマ8:16-17/コロサイ1:12)

もし、真にエレメントに与るべき聖霊を持つ人々が現れるとすれば、キリストの『臨御』が始まった証しとなり、世界は「終末」に入ったことを意味する。

彼ら聖徒はキリストの『兄弟』たちであり、主と同じ歩みを遂げて共に神殿を構成する『石』となる。彼らを巡って人類は終末の裁きに試されるという。(マタイ25:31~)

この行事(パスカ)は、このようにキリストと聖徒たちとの関係に濃密に由来するものであるが
パスカの挙行日については、第二世紀エフェソスのポリュクラテスの言葉に従い、パスカの日付けを天文によらずユダヤ人に寄り添うものとしたい。従って、ユダヤ人がブディカット・ハメツ(ペサハ準備の日)を行う現行ユダヤ暦のニサン14陰暦日に相当する、2013年3月24日の日曜日の午後六時を以って集まり、この儀礼を挙行した。

本年より、ディダケーの中に残り、さらに古いとされるパスカに関わる文言とされる句をエレメントの整えの後に唱えたが、これは内容にも次第にもしっくりと調和しているように感ぜられるものであった。いや、エレメントに密接に関わる必要な言葉とさえ思えるので、今後も継続的に用いるべきものと判断できた。

東京では文京区で挙行され、上記意義に賛同なさるのであれば宗教・立場を問わず、どなたでも参加できるものとしたところ、ふたつのプロテスタント教会からおひとりずつの参加を頂いた。
全国では、こちらに連絡いただいた範囲で、東京で三名、埼玉で二名、富山で二名ということになる。
七名という僅かな人数ではあるが、昨年までと比べればこれでも驚かされるほどである。
もし、他にも行われた方がお在りなら、ご連絡賜れれば幸いである。

2015年度は4月5日(日)を予定している。

引き続き来年も、遠隔地の方は各地でこの儀礼を行うことをお勧めしたい。
細かい式次第は残されておらず、無酵母パンとぶどう酒を用意できるなら執り行うことができる。

日没を待ち、パンとぶどう酒を置き、「聖霊の賜物」が無いなら、誰もこれに与らないが
祈りのうちに観想の時を過ごす。
この目的は、主の死を記念するところにあり、聖霊を受ける人々とキリストの帰還を願い待つ姿勢を表すものともなる。
更には、ヨハネ福音書13-17章に思いを馳せることは適切と思われる。

                                            © 林 義平

無酵母パンの製法についてはこちらを
 http://irenaeus.blog.fc2.com/blog-date-201203.html

イスラエルからの輸入品も活用できる(↓ミルトス社HPへ)
 http://myrtos.shop-pro.jp/?pid=12809559


パスカ参考資料
 http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51868461.html



* 脚注 ジャン・ダニエルー Jean Danielou  「キリスト教史Ⅰ」p107 上智大学中世思想研究会 平凡社















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