人は必ず死ぬ。この冷厳な現実に動揺するのが人である。

そこで、死というものをすべての人は考えねばならない。
やはり、人が死を楽観的に受け容れることは本来は難しい。

古来、人は死を嫌って様々な宗教を作ってきたとも言える。
ひとつには死後の世界があって、人の意識はそこで存続するものともされた。
また、輪廻転生という方法で生命は絶たれずに新たな生涯に連なってゆくともされる。

これらのいずれの教えもが、人の存在が失われ、その意識や人格、思考や感情などが消滅してしまうことを何とか回避する願いからきたものなのだろう。
葬儀を行い、故人をどれほどの人数や盛大さで偲ぶかは、その故人の価値のメーターのように捉えられるような風潮も、人としての存在の重さを感じてのことに違いない。
人は多くを語りたがらないにせよ、それぞれ死についてどう向き合っているのだろうか。

恒常的に死と直面する病院や救急隊、また警察や消防のようなところでは人間の死という冷厳な事象に数多く向き合わねばならない。
老人施設、そして寺院や火葬場もまた、日常に人の死を目にしてゆかねばならない社会の一角である。
そこで人の死んでゆくことがどれほど常態化しようとも、人々は故人を重んじ、丁重に扱おうと努めるものである。

一方で、戦場のように死が量産されてしまう過酷な環境では、人の死は目的のための犠牲という必要悪とされ、多数の死者はその目的の重さを表すかのようにもされる。その死にゆく現場で戦闘が続いていれば、死者を悼む余裕もないことであろう。戦場に赴くからには初めからその死も覚悟の上であろう。だが、その目的というものがそれらの死に価したかどうかは、政治というぐらぐらとした価値の不安定さの上に成り立つものであるから、いきおい戦死者には余程の戦争犯罪でもない限り、その犠牲に人々は尊厳と慰めを添えようとするものである。

また、一般の生活の中では病気や衰弱ばかりでなく、突然の死を免れないことがある。事故現場には花が手向けられ、そこで亡くなった人が思い起こされる。
死は万人にいづれは避けられぬものであるので、社会では常に一定数の死の到来が起こっており、訃報は絶えることがない。

人の死に接する仕方を見ると、凡そ人は互いの存在を重視しているということが改めて理解されてくる。
そのつながりが求められ、その人の死は生ける者の損失と受け止められるのである。
だが、死んだ人を取り返すことはできないので、生き残った人々は抽象的な故人に言葉をかけ、儀式を行い、花を手向ける。

人間は科学の知識と高度に発達させた技術で、いつの日か故人を取り戻すことが可能となるのだろうか。
だが、この自力本願の仮定には倫理問題が含まれ、場合によっては恐るべき結果をもたらし兼ねないものである。
倫理をまるで持たない極悪人が人為的に再生され、ヒトラーやスターリンのような暴君がその狂信的支持者によって死から呼び戻され再び権力を掌握するような危険も無いとは言えなくなるだろう。
その前に、神が定めた人の寿命と必ず迎える死という壁を破壊して乗り越えることができるほど、人類は倫理的に賢いのだろうかという問題も考えられる。科学や技術が本当に神の定めを超えてよいものだろうか?それは科学の壁というよりは倫理という人間にはより根源的な問いの壁となる。

死者の復活の可能性についての推論を読んだことがあるが、そこでは人ゲノムに記された遺伝情報を活用し、故人の残された細胞のひとつからクローンを造り、その脳に故人の記憶を植えつければそれで同じ人ができるという。
だが、この説明に納得できる人がどれほどいるだろう。

ゲノムにその人の情報が記されているからと、胚細胞を用いるなどして複製し、仮に生前の記憶をそっくり脳に移せたとしても、それはやはり「その人」ではなく別人である。
故人は、死によって「何か」が途切れており、遺伝情報を再生したところで、「その故人」を呼び戻したことにはならないのである。
これは、一卵性双生児によっても容易に想像がつくことであろう。ゲノム情報が同じであってさえ、まったく同じ人は存在しない。

では、あなたがわたしではなく、わたしがあなたではないとも言えるような、決定的個人とは何だろうか?
そして、まさしく「復活」と呼ぶべき、その決定的個人を呼び戻すために必要な何らかの「途切れたもの」とは何だろうか?



霊魂不滅にまつわる誤解

アブラハム以来、ユダヤ人は復活を信じてきた。
その宗教思想には本来、死後に霊魂だけが行く「霊界」にようなものはない。
王ソロモンの著したとされる「伝道の書」には次のようにある。

『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。
その愛も、憎しみも、妬みも、すでに消えうせ、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、定めない時に至るまで関わることはない。』(伝道の書9:5-6)

さて、聖書には「地獄」と訳すべきものが存在していないことをご存じだろうか。
古代のエルサレムでは、南西側の谷がゴミ焼却場となっていた時代、そこには重罪人の死体も捨てられた。
一般の人々が復活を期して、丁寧に墓に土葬されたことと比べたら、これは大きな違いである。その場所がゴミ捨て場とされたのは、かつてそこが幼児を火炎の中に投じる異教の崇拝の場所であったのをヨシヤ王が忌み嫌ったからと云われる。


この「ヒンノムの谷」と呼ばれる、硫黄が撒き散らされ火が絶えないゴミ処理場には、投棄される罪人に対するイスラエル人の思いが重なる、即ち、そのような罪人には復活もして欲しくはないという評価であったろう。
そこはエルサレム市の城壁の外で、「ヒンノムの谷」(ゲーヒンノム)と呼ばれ、新約聖書では「ゲヘナ」という名で登場しているが、これもやはりゴミ処理場の意であって「地獄」と訳されるべきものではない。(cf.新改訳のマタイ5:22と口語訳や新共同訳の同箇所を参照/直訳「ゲエンナ[γέεννα]の火に向かうことが免れない」)

一方で、ヘブライ人には他の民族に見られない霊魂への捉え方があり、それは彼らがモーセの律法を通し永らく交渉を持ち指導を受けた父祖伝来の神YHWHの影響の下に醸成され厳格に保たれてきたものである。
この点では、周囲の諸国民一般と彼らヘブライ人の大きくふたつの概念があるだけのようにさえ見える。

人類諸族の霊魂の概念といえば、肉体の死後に遊離する「意識」であり、それが天国であろうと地獄であろうと環境の差を問わず「霊界」のようなところで生き続けるということであろう。
人々は自然と、どこかしら霊界のようなものを信じて故人に語りかけ、儀式を行う。もちろんユダヤ人が弔いも故人の記念も行わないわけではなく盛大なほどだが、この民族の伝統的な死後のヴィジョンというものは「霊界」にはなく古来、別のところにある。

それをイエスの当時の一般的な人物が語っている場面をヨハネ福音書に読むことができる。そこで兄弟を亡くした一女性はその墓の前でこう言っている。
『マルタは彼(イエス)に言った、「終わりの日の復活の時に彼(兄弟ラザロ)が復活することは存じております」。』(ヨハネ11:24)
この前後の文章に、故人が冥界に行ったようなニュアンスも汲み取ることもできない。
しかも、この後でキリストは、この女の亡くなったラザロという兄弟を生き返らせているが、この人物が冥府に居たというようなこともほのめかされてもいない。
ただ、イエスは彼の亡くなっている状態を『眠っている』と表現しただけである。(ヨハネ11:11)

つまり、人が眠っているように死者には意識なく、目覚めるとその間の意識が無かったので、生ける世界に関わることも、霊界に行っていたということもない。
むしろ、キリストがこの死者を生き返らせる奇跡を通して、墓から呼び戻され、永生をも受けるであろう将来の「復活」を指し示したと云えよう。これこそが聖書の死後のヴィジョンなのである。

その「復活」では『義者も不義者も』生き返るとパウロは言っている。(使徒24:15)
黙示録では『死もハデスも死人を出し』『大なる者も小なる者も』生き返る。(黙示録20:12-)
つまり、人は死んで後、意識を持たず、復活する「終末」と呼ばれる将来の時をひたすら待つことになる。しかし、待つと云っても意識が無いのであるから、死んで後、人は復活の時には恰も時間経過が無かったかのように意識を回復することになるのであろう。


諸国民に広く行き渡った概念では「霊魂は不滅」で、肉体は滅んでもその人の意識を代表するかのような「霊魂」はどこかに存在し、生ける者の言葉や行動に喜んだり悲しんだりするものとされてはいる。
しかし、本気でそれを具体的に信じているかと云えば、大半の人々はそうでもないようだ。
それでも、聖書が述べるように人の死後には何の意識も無いと言われれば、実際に即した見方と評価もされ、また他方では味気のない教えとも云われることと思われる。
これはふたつしてある真実を含んでいるのではあるまいか。
つまり、実際に即した見方とは、人は死後に意識など残りはしない、という現実を直視した合理性を感じつつ、しかしそれでは余りにも即物的で感情や価値観のやり場に困るのである。
そこで復活という聖書が示す死後の希望は、これらふたつの事柄を収めるにこれ以上ない解決となるであろう。

では、本来ユダヤ=ヘブライの「霊魂」とはどんなものなのだろうか?
これが実は、「霊」と「魂」とはまるで別の物なのである。

まず「霊」は「ルーアハ」と呼ばれ、それは諸国民が考えているような人間の死後に残る意識ではない。
創世記の第一章で、人間が創られるずっと以前から『神の霊』が創造に関わっている。(創世記1:2)

そして「霊」は人体の内部で働いてその肉体を生かしているという。
それゆえに「霊」は、人が死ぬと肉体から抜けてしまう。そればかりか、その霊は神の許に象徴的に『戻る』という。(ヨブ記34:14/伝道12:7)
ヨブ記はこう述べている『その人の霊と息をご自分に集められるなら、すべての肉なるものは共々に息絶え、地の人(ヴェ アーダーム)も塵に返る。』

しかも、その場合の「霊」というのものに個人そのもの要素が与えられているような記述は聖書に見当たらない。
強いて挙げれば、「霊がはやる」や「砕かれた霊」、また、その人(たち)の精神的傾向について『あなたがたの霊』という言い方がなされてはいる。つまり、人々の示す一般的な精神の動き、また想いの傾向のことである。(フィリピ4:23)
このように「霊」は人というものの中で働き、その身体を生かしている電流のようなものと言えるだろう。その働き方に傾向があるとしても、普遍的にその霊の持ち主である個人に従うものである。そしていつの日にか、その「霊」も神の許に戻ってゆくことになる。

しかし、「魂」(ネフェシュ)はそうではなく、その持ち主に固有のものとして述べられる。

創世記のアダムの創造の場面で「霊」と「魂」の関係が次のように書かれている。
『神は地の塵で人を作り、命の息(ルーアハ「霊」)を、鼻孔から吹き込んだ。そうすると人は生きた魂(ネフェシュ)となった』。(創世記2:7)

つまり、「霊」を吹き込まれた人型が命あるものとなったのである。「霊」は生命の媒介として語られるが、それを受けた人は『魂』となったのである。
即ち、「アダム」という主体(魂)の創造である。
「アダム」という人物について「生きた個体」また「個人」とも言えるが、それだけでは言い尽くせないニュアンスがアダムと呼ばれた「生きた魂」にあると云える。
この場合、『魂』の語を一般人に理解し易くするために「命」に入れ替え「生きた命になった」とすれば、これはトートロジーで文が無意味化するように、聖書中で「魂」を「命」と置き換えることには本来無理がある。

この点、多くの翻訳聖書がヘブライ語の魂「ネフェシュ」[נפש]やギリシア語のプシュケー[ψυχή]を、ほとんどの箇所で「命」と意訳していることは驚愕するほどである。これは読者を考慮してのことであろうけれども、それでは聖書独自の深い理解に人々を誘うことにはならない。

一方で、魂「ネフェシュ」とは、「その人の体そのもののこと」であるとするアドヴェンティスト派の解釈については、旧約聖書をヘブライ語以外の言語感覚で探ってゆくと確かにそうなるようには見える。だが、これはヘブライ語の特殊な用法に原因があり、そのような見かけ上の解釈を生み出してしまうところがある。

例えれば、『(祭司の)足が立つ』[מַצַּב֙ רַגְלֵ֣י הַכֹּהֲנִ֔ים]や『足が踏む』[דָּרְכָ֤ה רַגְלְךָ֙]という言い回しは足を主語にしているが、こうしたヘブライ語独特の擬人表現から魂「ネフェシュ」の用法を勘案する必要がどうしても生じている。(ヨシュア4:9・14:9)

そこで、『魂が肉を食することを望む』[נַפְשְׁ ךָ֖לֶאֱכֹ֣ל בָּשָׂ֑ר]も魂が主語とされているが、上記の「足」がその人の一部とはいえ、言葉の上では別ものであるように、「魂」も擬人化されていることを考慮に入れなくてはならない。(申命12:20)まして、「ネフェシュ」は本来「喉」の意があるので、『魂が食べる』などを読むときには、このヘブライ語の擬人化を注意する必要がある。そうしないと、確かに「ネフェシュ」とは「その人そのもの」という解釈に至り兼ねない。
そうなると、魂「ネフェシュ」は人と共に死んで消滅することになるが、他ならぬキリストが、『体を殺しても、魂を滅ぼすことのできない人間を恐れるな』と、肉体の死と魂の滅びとを分けて語っているのである。(出埃12:16/マタイ10:28)

この点では、旧来のキリスト教界の持つ、所謂「霊魂不滅説」との混乱を避けるために、アドヴェンティスト派が敢えて「魂は体と共に死ぬ」と主張したかったように思える。
確かに、聖書全体を眺めると「霊魂不滅説」は余りに単純過ぎて、死後の霊界を含意するその捉え方で、聖書の指し示す「魂」概念を掴むことは無理である。前述のようにヘブライ概念での死後には「復活」があり、その間の意識は存在しない。(伝道9:5-6)そこにヘブライ語の擬人化が加わると、「魂」の実体を探るには相当な慎重さを要するものとなってくるのである。

そこで、『魂は死ぬ』また『魂を死に至るまで注ぎ出す』というような表現に対しても、即断することを控える理由が生じているのである。やはり聖書中で『魂は死ぬ』からと言っても『魂が滅ぼされる』とは異なる扱いを受けている。その背景には『復活』という概念が見えるのである。(詩篇22:29/ヨブ27:7-9)
また、そこには文学的象徴表現という要素を無視することができない。例えればキリストの『魂は墓に捨て置かれない』とも記されていた。(エゼキエル18:4/イザヤ53:12/詩篇16:10)



さて、西暦前の数世紀、聖書のギリシア語への聖書訳本「セプチュアギンタ」を監修したユダヤ人が「ネフェシュ」の存在する箇所に注意深く逐一「プシュケー」を置いた以上、そこには常に「魂」の語が在るべきではないか。この点で、今日の翻訳聖書には大いに問題がある。

ヘブライの死生観に調和して聖書の理解を辿ると、「魂」は「命」に優り、命の有無を乗り越えるほどの価値を持って異なるのである。

では、「死んだ魂」もあるのか、といえば、それが聖書中に何度も登場するのである。
だが、「生きた魂」となる以前の人型を「死んだ魂」ということはできない。それは生まれる以前には一度も存在しなかったからである。それは人間に皆共通することであろう。誰も胎内に生まれる前に別の場所に「魂」があったのではない。誕生はその人のはじまりであり、個人の創造でもある。

そして、ヘブライの教えでは死後の意識が無いのであれば、「死んだ魂」といえども死後の意識は持ち得ないし、実際聖書中では象徴表現としてだけ意識者として出てくるのみで(黙示録6:9-11)、具体的な事例としては、おおよそ「死んだ魂」は、人の死体とほぼ同義語の扱いで書かれている。

例外のように読めるのが、サムエル記での霊媒が呼び出したところの死んだはずの預言者サムエルである。
しかし、モーセの律法は心霊術や霊媒との接触を禁じ、これを死罪に値するものとしているのであり、死んだ人間が意識を持たないのなら、これは「人の霊」ではなく「別の霊」なのであり、また「魂」とは呼ばれていない。実に心霊術や占いの世界は人のものでないこの種の「霊」の発現で満ちている。
即ち、堕天使らであって、ノアの洪水後に人との直接的な接触を禁じられ「拘束」されたかのようになっている『獄にある霊たち』のことである。(ペテロ第二2:4)

この者らは、今日でも曖昧な仕方で人に接触しようとし、はっきりしない方法で様々な影響を及ぼしている。その主な目的は人間の死の真相を覆い隠すことにあるようだ。(創世記3:4)
つまり、人は死後も意識を持ち続けるかのように、霊媒が呼び出したり、生きている者に影響を与えたりするかのように振る舞っているのであるが、元々が亡くなった本人を装っているだけのことである。それゆえ聖書はこれら『悪霊』と接することを戒めている。⇒「誤解されてきたバベルの塔」


さて、聖書に『死んだ魂』という言葉は確かにあるのだが、それが「魂」という漢字の作りの部分である「鬼」の意味のように「死体」を意味するのかというとそうではない。
「魂」(ネフェシュ)は『血の中に在る』とも書かれているのである。しかも、「魂」は人間だけのものではなく、血の通う動物たちにも「魂」があるという。

それでは、血を抜いた動物の死体は『死んだ魂』ではなくなるのかと云えば、そうらしいのである。聖書中で、血抜きされた後の動物が「魂」と呼ばれている箇所を見つけることができない。

このことは、モーセの律法が指示した神へ捧げる動物の犠牲について血を抜くことが求められており、残った体は祭壇上で焼かれ、祭司らに食されても、血液だけは祭壇の下に注ぎ出されねばならなかったところに表れている。

それは、日常の食事にも及び、肉を食すにはその血を地面に注ぎ出して後、許された。
血抜き処置されれば、その動物は「死んだ魂」ではなく食用肉である。
なぜならば、聖書は血の中の「魂」(ネフェシュ)は『神のものである』からという。
どんな動物も人間もその血の中に「魂」があり、それは「神の所有するもの」であるから、地面に注ぐことで神に返さねばならない。

そればかりか、その『魂は血の中に在って、贖罪をする』とまで書かれている。(レヴィ記17:11口語訳)

「贖罪」となれば、人類のために犠牲を捧げたキリストの贖罪も、その『血の中の魂』によるのかと云えば、その通りであると聖書は言う。
『人の子が来たのも、仕えてもらうためではなく、むしろ仕えるためであり、また多くの人の贖いとして自分の魂(ギリシア語本文「プシュケー」)を与えるために来たことのようにである」。』(マタイ20:28)

このように、イエス・キリストが人々に「魂」を与える贖罪の理由というものを、使徒パウロは、『ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされる』。としたうえで
『それは、罪が死によって(人々を)支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠の生命を得させるため』であるという。(ローマ5:19.21)

つまりキリストの魂による贖罪は、人々に永遠の生命をもたらすというのである。
それでは『血の中の魂』とは何を表しているのだろうか。


ネフェシュの唯一性

聖書の「魂」の用法を追ってゆくと、「魂」は生きる上での様々な渇望を持つものとして描かれている。
本来「ネフェシュ」が「喉」を意味する言葉であるといわれるように、「魂」は飢えや渇きを覚え、愛や憎しみを抱くし、感情を持つとされる。
したがって「魂」は、人が生きている間には、その人と共にあって意識を持つものであるようだ。
それは、その人そのものの意識であり、他の人の意識とは異なるものであろう。

我々の意識というものは、脳内のシナプスという具象物の連携によって生じる抽象存在と言われるが、では「魂」は意識そのものか、といえばそうでもない。
その場合、死者に意識が無いのであれば「魂」は死後に無くなってしまうはずだが、聖書の用法を探ると必ずしもそうではないのである。

マタイ10章28節でイエスが『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、体も魂もゲヘナで滅ぼす力のあるかたを恐れよ』と弟子らの注意を促したとき、そこで肉体の死と魂の死を分けている。
この意味は、迫害者が弟子らの命を奪うことはできても、「魂」を滅ぼすには至らないの意であり、「魂」に対する力を持つのは人ではなく神ということになる。

これは次の句の深い理解を誘うものとなる。

『見よ、すべての魂(ネフェシュ)はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。罪を犯せる魂は必ず死ぬ。』(エゼキエル18:4[cf.口語訳と新改訳、新共同訳])
誰かが、人の体から命を奪うことができるとしても、ネフェシュを奪うには至らない。神がネフェシュに関する生殺与奪の権限を持ち、罪を犯すネフェシュについては存続を許さないということになろう。

他方で「霊」ルーアハはそうではない。
それが体から出て行ってしまうと、人は生きる力を失い、体は生命を無くしてしまう。
霊は、体の命を支えているもののようであり、「命の息」ネシャマーとも関連が深い。(ヨブ記34:14-15)
しかし、「魂を失うと死ぬ」というように聖書は語らないのである。

他方で聖書には、人を殺めることを指して『魂を滅ぼす』というように書かれている箇所もあるが、これは「その存在をまったく絶やそうとする」という意味で用いられているのであろう。
そのように解するとカナン入植に際して、イスラエルが信仰を示さないカナン人をまったく殲滅するに当たり、『それらの魂を滅びのために捧げた』という繰り返される言い回しの背景が見えるのである。それは後代の、ゲヘナに罪人を投げ捨てるような「非埋葬」の意味であろう。(ヨシュア10:28~/エレミヤ40:14[ヘブライ語本文])

『魂』についてのこうした言葉の用法は、創造者が存在させたあらゆる血の流れる動物についても同様であることが律法による祭儀で屠られる犠牲の動物の扱いからも明らかである。
人にせよ、動物にせよ、その魂(ネフェシュ)はその血にあり、魂が贖罪を為す価値ゆえに血を地面に注ぎ出すことで「魂を神に返した」ということができるだろう。

『血を食してはならない』という律法の規制が、肉食が最初に認められたというノアの時以来のものであることも、ひとつの結論を導くものとなる。

それは、創造において、元々食物として与えられていなかった動物を食するときに、そこに創造者の創造物に対する権利を尊重するべきことが示されたのであろう。

肉を食するときに血を抜き去ることによって、人は神のこの権利を尊重するのであり、それは「魂」や「贖罪」について人を教化するものでもあるだろう。けっして血液の何かの成分が「魂」であるというわけではない。全血が「魂」か、あるいはどの要素が「魂」かと問うなら、それは果てしのない無意味な議論をすることになろう。

自然界に吸血生物が存在することからすれば、これは神と意思を通わせ得る高度な理知を持った人間にのみ求められる倫理上の儀礼である。その重要な意味は、おおよそ魂と呼ばれる生物を殺して食用にするとしても、血は食さないことによって、その創造物の「魂」(≒「本質的生命存在」)という重さ、創造者以外の何者も犯してはならない創造物への所有権を尊重することであろう。

『血はわたしのものである』と言われ、人に『血は食してはならない』と命じ、『血が贖罪をする』ともされた神は、自らの創造物への所有権を尊重するよう人に促したであろう。なぜなら、人は『魂』というその実体そのものを扱うことができない、そこで『血』という具体物をどう扱うかによって『魂』という実体である神の所有権を尊重したと言える。

こうして旧約に規定された血の扱いを通し、人はキリストの贖いの価値を悟るよう促されていたであろう。罪を負った人は罪のない人の代価によってのみ赦され、再び神の創造物の立場に戻る道が拓かれるからである。液体の血は、この『贖い』の道理を明かし、敬うための媒介物とされたのである。



魂の存続性

総じて「魂」(ネフェシュ)とは、血の通う個体が生命を持っている状態では、その体と共にあるが、死んで体も血も朽ちるときに、それは創造者の権利の許に象徴的に置かれるのであろう。
一度生を受けた『魂』の存在がけっして肉体の死によって抹消されてしまうほど不確かなものではないことは、死を数日後に控えたイエスがイスラエルの父祖らの名を挙げて『神は死んだ者の神ではない、神の観点では彼らは生きている』(ルカ20:38)とはっきり言い切ったところに表れている。
即ち、復活を行うことの神の全き確かさを通して死者でさえ恰も『生きている』のである。

それはゲノム情報云々というレベルを遥かに凌駕する「ネフェシュ」を介した命の回復であり、天地生命の創造者のみが主張し得る個々の創造物に関する権利であって、神は『御手の業を慕われる』のであり、我々ひとりひとりもそのようにされるのであろう。(ヨブ14:15)

所謂「霊魂不滅」ではないが、上記の意味からすると「魂」が死後も存続するということは間違いとは言えないし、象徴的に神の完全なる記憶と創造力による再生の可能性の許に置かれるとも言える。
だが、死によって意識は途絶え、体から命を支える霊は抜けてしまい、生命個体の維持はひとたびそこで終わってしまう。

死では意識が無いために、その人は「眠り」に例えられる状態に入るが、しかし、神はその人の根本的存在である「魂」を保持して、その『魂を捨て置かれず』キリストに行なわれたように、体を与え、息を再開させ「霊」の通う生きたものとされる。

その過程についてパウロは『種』に例えて語っている。
そこでは復活というものを信じない人々が、死んだ人間がいったいどのように現れるのかとの問いに答えて、キリストが自らの『魂を投げ打った』事を『一粒の小麦』に例えたように

『愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ[再び]命を得ないではないか』と言い。
『 あなたが蒔くものは、後で与えられるような体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒だ。それに神は御心のままに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる』と述べている。

これは即ち、人は死んでも『種』のように再生の機会を保持し、時が至れば神がそれに体をまとわせることを言うのであり、その点でこの記述のあるコリント第一の第15章の残る記述を読めば、そこには『霊の体』を与えられる『聖徒』と、『肉の体』を与えられる『信徒』の異なりについても説いているパウロの言葉を見出すのである。(コリント第一15:35-41/ヨハネ第一3:2)


このように「魂」を元に行われる「復活」は、人が眠りから覚めるように復活させ同じ意識を取り戻せるのである。そこでは時間経過の感覚も無いであろう。
それはけっしてクローンではなく、まさに「一続きの意識」である「その人そのもの」の再生であって、わたしとあなたを決定的に異ならせる「魂」によるものであろう。それは神だけが取り扱う権利と能力を有するに違いない。なぜなら創造者だからである。

そこでイエス・キリストが人類のために犠牲として差し出した「魂」が意味を持つ。アダムが恒久的に失なった「罪のない魂」に、「魂」を扱う権限をもつ創造者がキリストの魂を代わるものとされたのである。

もし、アダムが「罪なき魂」を失うことにならなければ、その代替として、地上でイエスが人としての「罪なき魂」を犠牲とする必要はなかったに違いない。
この「贖い」によって、アダムの「罪ある」魂を通して人類に流れ込んだ汚れは、アダムの座に就くキリストの魂によって全体が浄められ、メシアは実質的に人類の『とこしえの父』となる。(イザヤ9:6)
人類は『罪を犯している魂』ではなくなり、神が創造の当初に企図したそのものの人間の姿を得る道が拓かれるだろう。



ネフェシュがもたらす死


こうしてネフェシュと呼ばれる「魂」を考え直すと、我々の死生観も影響を受けることになる。

頭書のように、今日では人は必ず死ぬものであり、それは現実として受け入れなければならない。だが、それが永遠の消滅であるとすることには、我々のどこかが受け入れようとしないのである。
人は故人を偲び、死別を惜しむ。また、自分の名を残そうとして功績を上げ、子孫を繁栄させようとする。

それでも、人は苦悩満ちる世界に産み落とされ、様々な困難と戦いつつ、やがて老化に衰えを感じつつ一生を終えなければならない。それがアダムが堕罪によって子孫に与えた定めであり、『顔に汗してパンを食べ、遂に地面に帰る』という宣告は、冷厳な現実以外の何ものでもない。
一方で、人間の頭脳の能力の多くが使われることもなく死を迎えるためか、人は老境に至ってもなお進歩するところが残されてさえいるという。例えれば、理論家や芸術家たちがそうだろう。彼らがさらに健康を保ってゆけるとしたら、どれほどの高みに昇り続けることだろうか。

現在の寿命に関するこの理不尽とも言えるようなこの短さ、儚さにだれも抗うことはできないが、それは奴隷の一生のようであり、パウロはそれを『滅びへの隷属』と呼んでいる。

しかし、同じ文脈でこうも言っている。
『被造物自身に、滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている。』(ローマ8:21)
それこそが、キリストの魂による贖いである。

したがって、ヘブライ語の「魂」(ネフェシュ)には諸国語と同じ「たましい」という言葉の概念では計り知れないほどの意味の重みがあり、それは創造者と我々個人を結ぶ、死をも乗り越える強力な絆ということができるのである。

我々個々の人間は、「魂」として神の存在させたものとして覚えられるばかりでなく、存在させた神の不可侵の権利の内に存在し続けるのであり、まさに「魂」は生きていようと死んでいようと問題ではないのである。創造の全能者にとっては、これまで存在した皆が「魂」であり、生きているのに等しいのである。
復活を信じぬ者らを前にしたキリスト・イエスの『神は死んだ者の神ではない、神によれば彼ら(父祖たち)は皆生きている』との言葉、ご自分の死を直前にしてさえ、このことを高らかに宣された言葉の何と力強く頼もしいことか!(ルカ20:38)


「終わりの日」の復活において人は皆『義者も不義者も』復活を遂げ、創造者との関係を愛の内に認めるのであれば、神はその魂を「慕われる」のであろう。まさしく神は「愛」であり、生きる理由を与えて下さる。
誰とも詠み手の分からぬ詩篇119篇の中にはこのようにある。
『あなたの御手がわたしを造りました』73節
また、キリストはこう言われた。
『あなたがたの髪の毛までが数えられている』と

そして、このことは「なぜ人が生きるのか」そして「なぜ人が死ぬのか」という難問に答えをもたらすものともなるであろう。それは究極的に、神の創造の企図を無視しては答えに至らない。

我々は死んでも「魂」は滅ばない。これは我々の死生観を存在の原因者にまで辿らせ、それゆえにも、死のもたらす害を一時的なものとさせるのである。

我々は『神の子』となるべく存在し、アダムの命にあってさえ、依然『神の象り』を幾らか宿している。

それゆえ親が子にするように、偉大な創造者の揺るぎ無い愛と権利の内に、どんな人も常に「魂」として保たれているのであるから、たとえ死んでも、その「魂」が命の霊を再び受けて復活されることは、キリストの犠牲の死、そして人々の『罪』を清める大祭司となっての復活を既に果たした今、間違いのなく全能者の為されるところとなっているのである。


ゆえに、ある人がどれほどこの世で悲惨な生涯を送ったとしても、それではけっして終わらない、神がそのような人をその空しさのままに終わらせることはない。
栄光と祝福、絶えざる生命とこのうえない健康、そして罪無きアガペーの世界を受ける希望は、キリストの仲介を通し神と愛で結ばれる限り、必ずや成し遂げられる全能の創造者の強固な意志と反駁の余地のない権利の中に存在し続けているのである。


それゆえ、その人の価値とは、人間自身ではなく神の所有権のなかに全うされている。




        新十四日派  © 林 義平
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