前提記事⇒「誤解されてきたバベルの塔」




黙示録の中には『大いなるバビロン』という秘儀がある。
これは『大娼婦』であって、神に敵対する何者かであるが、栄華を極めたのち、終末に在って『一日の内に』滅ぼされてしまう。

古来、聖書を探求する人々によって、この『秘儀』が何を意味するかについて様々に論じられてきた。
ルネサンス期を経て、新教プロテスタントが現れる16世紀には、彼らが対抗するべきローマ教皇庁こそが『大いなるバビロン』であるとされ、敵意の表象とされてきた。

しかし、ローマ教皇もカトリックも今日まで大きな勢力を保ったまま続き、むしろ新旧の教派の融和さえ試みられる時代を迎えて、当時のこの『秘儀』への理解も今ではほとんど意味を持たない。

それでも、この『大いなるバビロン』が何であり、終末にどんな意味を持つのかとの問いは、依然として定説を持ってはいないままである。

この頁では、この『秘儀』について聖書の各所に記されるバビロンをたずね、黙示録に向かってそれらを集束させる試みを行ってみたい。それはどんな像を結ぶだろうか?


◆創造神に対抗するもの

「バビロン」という中東にかつて存在した城市の名は、聖書中では早くも創世記、それも大洪水後の世界を描く原初史から描き出され、聖書全巻では三百回近くその名が記されている。

殊に後代、イスラエルの神の崇拝を中断させ、その選民を襲って捕囚に処したこともあって、その城市「バビロン」の名は、その後は聖書にあって更にシンボリックな扱いを受ける。確かに、この城市バビロンは徒ならぬものとされている。


考古学が明かすように、最古の都市文明の黎明期から存在し、「頂を天に届かせよう」と意図された塔(ジッグラト)を併設する城市群の中心的存在でもあった。
大洪水後、全人類統治を画策し、それを成し遂げかけた軍人ニムロデとの関係もあってか、統治権についてもバビロンはダニエル書などでも聖書中に何度か顔を出す。
 

そして、この原初史から聖書中を貫流し、積み重ねられた諸々のアレゴリーが、遂に聖書巻末の書「ヨハネ黙示録」において、「バビロン」と呼ばれる存在の究極的な意味を表すことになり、そこではもはや単なる城市バビロンではなく「大いなるバビロン」として出現しているのである。だが、この『大娼婦』ともされる『大いなるバビロン』の秘儀を解くためには、まず、創世記の原初史から、その理解の土台を据えておく必要がある。


 

「バビロン」が、なぜ聖書中に敵対的に叙述されるかの原因と看做せるものは、「バビロン捕囚」を待つまでもなく、すでにこの城市の創建当初に存在しているのであり、それは城市に伴う宗教的な「塔」(ジッグラト)の建造に関わっている。
それは『その頂を天に届かせよう』という企図が神に対する挑戦であった、と云うことではなく、その建設を始めた住民の企図は、彼らが集まって定住することの許可を神から得るところにあったであろう。⇒「誤解されてきたバベルの塔」
 

では、そのように神との関係を求めた当時の人々が、なぜ却って神との関係を悪化させたかと云えば、それらのジッグラトの麓に設けられていた祠や社がその原因を物語っている。
即ち、彼らが定住許可を交渉した「神」とは、明らかに創造の神ではなかった。

それらの「神」とは、神を装うもの、即ちサタンというよりも、その誘惑によって堕落した天使らのことであり(黙示録12:4)、大洪水以前には人間男性の姿をまとって人間の女性を娶り、「神」と称して地上を自由に闊歩していたであろう記述がまさに創世記にある。(創世記6)

彼らと関係を持った多くの女性たちの話はギリシア神話にも多くの痕跡を残しており、また巨人族についても述べているが、ヘブライ人による聖書では、堕天使と人間との混血によって生まれた巨人たちを「ネフィリム」と呼んで、ギリシアとは別に存在を暴露している。また、外典ながらエノク書の記述はさらに克明に巨人の恐るべき害を訴えている。
発掘によって、その巨人族の一端が知られつつあるが、その恐竜のような余りの大きさには、骨だけでも恐怖を覚えるほどである。まったく創造者の意図しない世界と成り果てたであろう恐るべき太古の世を想像するに、「大洪水」も今日からすれば恵みの雨のようでさえある。(Nephilim)

一部の比較的に背の低い3mほどの骨格は博物館に展示されていることもあるようだが、これらが広く知らされないには、今日の科学、特に生物進化論で説明が難しく、また発掘現場近くの人々に要らぬ恐怖を与えるからなのらしい、エチオピアでの発掘現場など秘匿されているとも聞く。


ともあれ、創造の神は堕天使や巨人による地上の悪環境を、また、その影響に染まった人類の悪行を終わらせるべく「大洪水」を起こされ、ノアの家族八人を除いた人類を裁かれた。
堕天使らもその裁きを通して、その後は人間界に人間を装って自由に出入りすることはできなくなった。聖書は、その状態の彼らを『獄にある霊』と呼んでいる。(ユダ6/ペテロ第一3:20)


しかし、それでも彼らの影響力がまるで人間に届かなくなったわけではない。その後も多様で、しかも非常に曖昧な仕方で関わろうとしているのである。
その目的は、自分たちを通して人間により高い次元からの影響力が行使されているかのように装うこと、また、超自然の現象を起こして見せては驚かせ、怖れ奉らせるところにあるようだ。しかし、それらの現れは人の好奇心を刺激はしてもその価値は極めて低い。それでも卑しめられた堕天使が「神」を装うことは十分に考えられ、またそれに迎合する価値観の低い人々も世に絶えず、そのため堕天使らは俗な人々を動かす能力をいまだに残し持っている。


さて、メソポタミアのシナル平原に定住し城市を建設することが、創造の神の『地に広がるように』との下命にそぐわないことを知って怖れた人々は、神を宥める方法として各城市に「頂が天に届く」塔の建設を計画する。

それは本当に雲を突き抜けてゆくような塔である必要はない。建設している者らも東にあるザクロス山脈が遥かに高いことを知っていたであろうし、実際、発掘の結果からは高さ100mを超えるような規模のジッグラトの遺構は見出されていないという。
要は、神々の領域に通じればそれでよいのである。その領域とは創造の神に属するものではなく、彼らが「神々」として畏れ敬う者らの幾らか低い領域である。霊媒師たちのいう「霊界」とはこの世界を指すのだろうか。

すでに大洪水の後で、堕天使らは人間界を追われてはいたが、ジッグラトを介した招きに応じて、制限付きながらも再び人間たちに関わる機会をこうして得ることになる。
 

それであるから、人々が創造者の命令を無視して一箇所に定住し、灌漑農耕による都市革命の生活の便利さの享受することを神になり代わり許すことなどは、この霊者らにすれば願ったり叶ったりであったろう。
堕天使らが神の知識に疎い人間どもに幾らかの不思議を見せて「神」と崇めさせることなど難しいことでもあるまい。

そこでジッグラトは(必要不可欠ではないが)重要な役割を果たすことになる。それが大洪水の裁きで分かたれた人間と堕天使の出会う所、即ち「神の門」(バビル)となったといえるのである。
それは「神々」と称する者らの霊界と人間界との昇降口であり、それゆえにもジッグラトを降った麓に社が設けられ、やがてそこには「神々」が地上を自由に往来した大洪水以前には必要もなかったと思われる「偶像」が登場してきたであろう。
 

こうして両者は結託し、それぞれ欲望のままに邁進し始める。
人々は、神々を崇拝することで都市生活を良心の咎めなく謳歌したであろうし、気ままな願い事をそれぞれに聞いてくれる神の数を増やしていったであろう。
慶事や弔事などの人間が生活上で願う儀礼の背後で、その重要さの箔付けを担ってやり、その都度「神々」も高められる。

戦いには戦勝祈願を聞いてやり、幾らか介入することもあったかも知れない。⇒「指名されたメシア」
こうして堕天使らはそれぞれ「神」として崇められる心地よさに傲慢となり、供物や人身貢犠までを求めるようになってゆく。支配する者の愉悦は、人を規則で縛り付け、自分は叶う限り恣意的で理不尽に振る舞うところにある。
その宗教は人を支配するためにご利益と死後を説き、創造神を雑音でかき消し忘れさせるものとなる。

崇拝の儀式が大仰になればなるほど「神々」の権威も向上していったことも考えられる。実際のジッグラトの麓の社は、やがて規模を増してゆき神殿(神の家)へと発展してゆく様が発掘からも明らかにされている。その祭司らは、「神」の権威にあやかり地位を上げ、生計の糧を得るばかりか、人々の上に権勢を誇ったであろうことは、今日までどんな宗教にも普遍的に見られることである。シュメール時代の神官は王族に次ぐ地位を得ていたとされている。

こうしてメソポタミアの城市毎に造られたジッグラトの意味合いがフォーカスされてゆく。つまり、それは「神」への挑戦ではなく、まして大洪水回避の避難塔でもない。
これは交霊術のための巨大モニュメントであり、地上の一箇所に住み続けることへの宥めを求め、その「名を作る(上げる)」つまり大義名分を得て、全地に散らされるのを免じてもらうための方策であったと見做すことができるのである。⇒「誤解されてきたバベルの塔」

このように尊崇された「神々」にも実は頭目がいる。
それは、彼らを誘惑し、本来なら天使として『あるべき居所を捨て』るよう誘惑した親玉であり、つまり聖書が「サタン」と呼ぶ者である。(ユダ6/黙示録12:4)
実は、サタンは堕天使らを用いて主張させたい事があり、それは現在に至るまでそのようである。

それは、エデンの園でエヴァに『あなたがたはけっして死ぬようなことは無い』と語った偽りの上塗りである。

「善悪を知るの木」から採って食したことの結果と云えば、エヴァもアダムも死んで存在を終えることであった。
聖書の伝道の書が述べるように、人は死んでしまえば意識も無いし、まして罪を犯した者らがそのまま天に召される謂れも無いばかりか、死後の世界なども存在しない。人があると誤認するのは堕天使らの「霊界」ばかりであろう。

そこでモーセの律法は、『死者に問い尋ねる』ことを重罪に定め、心霊術や占いによってサタンとその配下の堕天使らとの交流を禁じている。その問う相手は死者などではなく『獄の霊』なのである。(申命記18:9-12)
もちろん、創造の神、イスラエルの聖なる神YHWH以外の崇拝は、即ち堕天使を崇めることに他ならない。(コリント第一10:20)

しかし、それが知れてはサタンの主張はまったく虚偽であり、死にゆく人間は騙されたことが明らかになってしまう。

そのうえ創造の神は、再び永遠の命を与えて人類を救うことを意図しているからには、そのことを知られたり、信じられたりしてはサタン自身が実際通りに悪の淵源で、すべての死に責任ある者であることが世に広く暴かれてしまう。
これを何としても防ぐために、「人は死んでも霊魂は生きる」と世の大多数に主張することがサタンには不可欠となっているし、人間も無に帰するという死の真相を避けたい願望もそこで一致する。


そこで、こうした「神々」の教えは、広く人間の死後について語るものであり、元々からして霊者である堕天使らにとって死んだ人間を装うことは難しいことでもない。
死者を装って幻視を見せ、意向を伝えたり、死後の世界の様子を語り、あるいは人の前世や転生を捏造するくらいのことはお手の物に違いない。そこで人間の浅はかな好奇心や信仰好きと相俟って、このサタンの企ては、バビロンの教えが世の宗教の趨勢となるほどに大成功を収めてきた。天国や地獄、霊界や輪廻など死後の世界を教えない宗教がどれほどあるだろうか。

それにしてもノアの日の大洪水も、彼らによって乱された当時の地上の極悪な事態を一掃するためのものであったほど、彼らの影響は人に良いものではないはずなのだが、人の好奇心は創造の聖なる神よりは、気ままで低次元の「神」を好むようだ。スピリチャルも流行するはずであろう。
大洪水の後には獄に繋がれ、もはや地上で自由に振舞うことのできなくなったこれらの堕天使は、聖書中で「悪霊」と呼ばれるようになる。

そこに、メソポタミアの南部シナルの平野に都市文明を興した人々がジッグラトを設けてこれらの悪霊らを呼び込んだものであるから、当地が創造の神からすっかり離れ、サタンという神への反抗者の思想を吹き込まれるのは当然の帰結であり、創造者に敵する死者の宗教や占いやまじない、オカルトの源泉であり中心地がバビロンとなったと言えるのである。
 

悪霊らは未だ死を経験しておらず、人間とは比べ物にならないほどの寿命を持ってはいるが、彼らの最期には神の裁きによる永遠の消滅が既に定められている。(ペテロ第二2:4)
したがって、神から離れてしまったその影響も本質的に健全なものとなろうはずもないので、一種独特の「暗さ」や有害な「憑依」が伴うのはそのためであろう。消え去るべき将来しか持たない彼らに比べれば、よほど人間の方に希望がある。キリストの犠牲は人々のためのものであるからである。

メソポタミアでは、大洪水説話が残ると共に、その後は「神々」が直接現われることが制限されたために「偶像」が登場し、人間が死後に行く地下の場所が語られるようになり、堕天使らが死者を装って語り、まじないや占いが盛んに用いられる。

人は死んで存在を終えるという「死の真相」、即ち『顔に汗してパンを食し、ついには土に帰る』という神の宣告をを偽る宗教は実に多い。それだけ人の死への恐れが大きいということであろう。

その現実の空虚に対し、死後の世界を捏造することで安直に恐怖を回避することの方が、創造神が自らの意図に反した創造物の存在制限を定めた結果としての人間の死を直視し、そこからの救いをメシアに見出すことよりも安楽な善良さを選んで、死後も生き延びるというまやかしを人類は渇望してきたということであろう。これはあらゆる宗教に広がっており、『あなたがたは死ぬことはない』とのエデンの蛇、即ち悪魔の主張は諸宗教を通して、この世を覆っている次第である。

大半を占める人類に普遍的な宗教の特徴は、このメソポタミアの悪霊的な「死後に人が行く地下世界」の宗教教理から始まり、その最初の都市文明を築いた人々が全能の神に『言語を分けられて』四散するに及び、世界に広まったという仮説の蓋然性も低いものではあるまい。


ともあれ、今日の人間社会にどこにでも見られる様々な宗教上の慣行や、心霊術や占いの絶えざる大衆流行は、多少の模様替えはあっても「あなたは死ぬことは無い」という最初の古代文明の相貌のままである。そこに創造の神の必要もないところは、双方に都合も良いであろう。

つまり人類というものは、この21世紀に至ってもなお宗教的にはメソポタミア文明の継承者であり、堕天使崇拝を連綿と続けてきたその子孫であると言って過言でない。



◆バビロンに敵する創造の神
 

しかし、世に広く見られるこれらの宗教観を持たない民族も存在してきたのであり、創造の神との交渉の歴史もメソポタミア文明に比べてもそう新しいものではない。現代からみれば、ほぼ同時にスタートしたかのようにさえ見える。
むしろ、上記のバビロン的な「死後霊界」の教えが人類に蔓延していることを考えれば、その対極的に異なる「復活」という宗教観が、今日まで存在していることさえ驚くべきことではないだろうか。(ヘブライ11:19/ヨハネ11:24)

「復活」とは、逆説的に人の「死」というものが生命はもちろん意識も存在も終わるとの宗教観を必要とするが、「死後の存在」などという命の代替物のまやかしを暴き、人が人であることこそに希望を与えるものである。その担い手がメソポタミア文明シュメール時代の一人の人物アブラハムを祖とするヘブライ民族となった。(伝道9:5)

アブラハムが未だアブラムと呼ばれていた頃から、彼はメソポタミアの偶像崇拝を避けて、自らに語りかける天地創造の神に専心する意向を固めており、それは「約束の地」へと向かう旅立ちの決意を為さしめた。

後に、この神は預言者モーセを召して自らの名「YHWH」を明らかにし、アブラハムの子孫であるイスラエル民族と律法契約を取り結ぶが、その律法には、偶像崇拝、交霊術、卜占などへの厳しい禁止項目が含まれており、そこではバベル以来普遍化してきた世界的なものとまったく異なる宗教観が展開されていたのである。

その教えの一部は、おそらく先にノアを通して十二代後のアブラムにもたらされてもいたのであろう。後の「律法」の要求と相まって、イスラエル民族の生死観は異民族とは異なっており、死者の世界を本来的に持たない。
人の死後については世の終わりに「復活」があり、そこで裁かれてある者は永遠の命へ、ある者は永遠の切断に入る。まさに「復活」とは、生かすべき者を生かし、絶やすべき者を絶やすという創造者にしてこそ為し得ることであり、創造の企図を成し遂げる全能性を訴えるものでもある。

この違いは、単に教理が違うというに留まらず、崇拝の対象がまるで異なるのである。
創造の神は人間を創り、地上を委ねるものとして置いたのであり、天界に生きるようにということが初めからの企図であったわけではないし、まして地獄は、創造の神をして永遠に許さない残虐性の持ち主と誤解させるものである。

あるいは、この世の苦しみは人に与えられた試練であって、これを首尾よく通過するものが天に召されるということでもない。もしそうなら、この物質界を創造し終えた神は『甚だ良かりき』と言って満足の安息に入ったものだろうか。
 

したがって、イスラエル民族はバビロンに源を発する様々な宗教とは対極に当たる教えの担い手となってきた。また、そうなるはずであった。
だが、実際には「律法」は守られなくなり、偶像礼拝をはじめとして様々なバビロンの慣行がイスラエルに横行し、王から平民までが異教にどっぷりと浸かってしまうようになると、その神YHWHはイスラエルをアッシリアへ、ユダをバビロンへと捕囚に処すのであった。
 

こうして城市「バビロン」という名には、異教の源流であるに加えて、更に「神の民を攻めて囚われにする」というニュアンスが加わった。

それに対して、イスラエルの崇拝の中心を成した、神YHWHの神殿を戴いた城市「エルサレム」の名は、一度罪せされながらも悔い改め許されたユダヤ人の帰還を以って、再び「聖都」の位に就くことが旧約聖書に繰り返されており、それは「回復の預言」と呼ばれている。


しかし実際には、捕囚となっていたユダヤ人に新バビロニア帝国の覇権の喪失と、新興ペルシア帝国の庇護により帰郷の機会が訪れても、大多数のユダヤ人は美しく洗練された大都会バビロンとその周辺に住み続けることを選んだ。彼らにとってバビロンとはその後も同胞が多く住むディアスポラの一大中心地であり、エルサレムとバビロンの間の対照的な観点は無い。

一方で、聖書中ではエルサレムとバビロンは著しい対極に位置するものとして一貫して語られる。
その理由について聖書は、新バビロニア帝国のネブカドネッツァルによるユダ王国の征服、それに伴うエルサレムと神殿の破壊による神への祭祀の中断を挙げ、それ以前ではバビロンについてほとんど触れていない。

イザヤやエレミヤの預言では、律法を守らず異神を崇拝するようになったイスラエルを罰するものとしてのバビロンの役割を予告する一方で、神殿を擁するエルサレムを滅ぼしたことへの復讐をも述べている。

その復讐のひとつはメディアやペルシアの連合軍を率いたキュロス大王によるバビロン征服となって成就し、そこでは予告にしたがってユーフラテスの流れを迂回させる作戦が採られた。(エレミヤ50:38)⇒「指名されたメシア」
また、預言書はバビロンに逆境が突如として臨むが、彼女にはこれに効くまじないが無い(イザヤ47:11-)、荒れ廃れた処となり(イザヤ13:19-)、その名も子孫も残さず、『諸国の女主人』と呼ばれることも絶えて無く、ヤコブはこれに神の望むところを行い、その腕をその上に振り下ろす。(イザヤ47~48)
 

これらは実際の歴史に照らすと、西暦前539年に起こったキュロス軍によるバビロン征服そのものについては整合するが、それ以外の細かな事柄では預言書の述べるところは、オリエント史でも資料の豊富なこの時代の解明された史実とそう合致するものではない。むしろ、多くの点で一致せず、実際のユダヤ人らが預言書に記されたほどの敵意をバビロンに示したことは無かったと云ってよいであろう。
 

ユダヤ人の実際を別にした聖書に語られるバビロンへの猛烈な敵意には尋常ならざるものがある。エレミヤに繰り返し記されるその理由は、やはり『神殿の復讐』つまり、神の崇拝を中断させたことへの酬いである。
『「例え、バビロンが天に上り、高いやぐらの守りを固めても、わたしのもとから滅ぼす者が向かう」とYHWHは言われる。聞け!バビロンから叫び声が上がり、カルデア人の地から大いなる崩壊の音がする。・・バビロンの城壁は厚くとも無残に崩され、城門は高くともは火で焼かれる。今や、多くの民の労苦はむなしく消え、諸国民の辛苦は火中に帰し、人々は力尽きる。』(エレミヤ50-51)

しかし、これはキュロスのバビロン征服で起こったことではなく、大河の水を抜く作戦によってバビロン市内に入ったペルシア側の兵士は、城壁も市内も破壊することなく王宮を目指して進み、ほとんど抵抗を受けることなくその尖兵が、ただ剣を抜いて立ち尽くすばかりの敵王ベルシャッツァルを事も無げに倒しており、ナボニドス年代記は『キュロスは戦うことなくバビロンを落とした』と記している。
その覇権が一晩で過ぎ去ったことは、エレミヤが預言を記した書を石に括り付け、ユーフラテスに投げ込んだように、あっという間に沈んで二度と浮かんではこないとも表された通りながら、だからとてバビロン城市は荒廃しなかった。(エレミヤ51:63)


実際にはその後もバビロンは重要な城市であり続け、中世期にもその存在は確固たるものであった。
今日のバビロンはイラク政府が観光目的に一部を再建しかけてはいるが、確かに荒野に打ち捨てられた状態にある。しかし、その荒廃は『ヤコブ』つまりイスラエルの関わるところではなかったに違いない。この点では、考古学はバビロンが正確に何時、今日のように荒廃したのかを知らない。おそらくはユーフラテスの流れが自然に移動したのではないかとも言われるのだが。

では、聖書に記されるバビロンの徹底的な滅びは何を指し示すものなのであろうか。



◆黙示録の描く大いなるバビロン
 

黙示録によって語られる時代は『主の日』つまり終末へと移される。
そこでは実際のバビロンと異なり、その城市『大いなるバビロン』は健在であり、古代の最盛期のように『女主人』として座し、その強大な影響力を保持した状態にある。
したがって、それは現実に地上に存在する遺跡のバビロンはもちろん、もはや歴史の彼方に遠ざかったローマ帝国の権勢を表すものでもあり得ない。
 

この『大いなるバビロン』は娼婦らの母であり『大娼婦』とも呼ばれ、『地の王たちと淫行を犯す』。
それであるから、この女が政治的権力のそのものであるという理解は除外され、古代の預言者たちの語ったように『まじない』を行うその実体は「宗教」を示唆するものである。
 

諸国の人々はこの女の『淫行の怒りのぶどう酒で酔わされた』(黙示録17:2)のであるが、その意味は、宗教が権力に影響を及ぼすときに起こる人間社会の異常な行動、特に戦争を起こさせる影響力のことであろう。
預言者ナホムは『呪術の女王、その淫売によって諸国民を、そのまじないによって諸族を罠に掛ける者』について城市ニネベを指弾したが、その都の国家アッシリアは周辺諸国を蹂躙して暴れまわったその背後には、自らの凶暴な宗教への帰依と優越感があった。


今日まで、超古代のバビルに由来する宗教の特徴は、政治権力への影響、聖書が云うところの『淫売』である。
国家権力が自国の益を図って他国と争うだけであれば、人間お互いそこそこの悪党同士であるから、取り分の駆け引きも可能であり、ある程度の成果を得られる以上のことは望まずに済ますことで妥協も諮れるが、これが宗教絡みとなるとその妥協ない争いは俄然熾烈で無慈悲なものと変じる。

つまり、相手が間違っており、自分たちが正しいので、悪と決め付けた相手を殲滅することが正義となってしまう。しかし、その宗教が本当に正しいのかと云えば、それを客観的に判定することはまずできない。
こうして、バビルに由来する宗教は、歴史の上にその淫売の許多の結果を克明に残し続けてきたであろう。無数の人々が否応無く、その影響に呑まれ、命を散らしてきたのであり、テロの横行する今日も変わるところがない。その背後には「正義の戦いで死ねば、その功績で良い世界に行ける」との利己心をくすぐる殺人と破壊の欺瞞の教えが存在してきたであろう。


しかし、その黙示録の中の『大いなるバビロン』として具体的に特定されるものは、過去からずっと存在してきたものというよりは、終末に現れる象徴であるようだ。歴史上で、宗教は確かに『あらゆる国民を・・酔わせた』と言える。その教えによって人々が狂ったような行動をとってきた。

しかし、この女の淫売が最高潮を迎えることについては終末に起こる。それこそが黙示録において

 『この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれ』ているその姿に告発されている。(黙示録17:6)
 

その場面でこの女は、将来に現われる七つ頭の野獣の上に座しているからには、これは終末期における場面に違いなく、その上に座すとは、この権力の集合、強権の中の強権に対して『聖なる者ら』を亡き者とするよう慫慂なり使嗾なりを行い得る立場を表していよう。この女の最後にして最高の栄華の時である。

この女には前科も多く、許多の血の罪をも負っていることを黙示録はこうも暴露する。
『預言者らと聖なる者たちの血、また地の上で虐殺された*あらゆる者らの血がこの女に見出された(アオ)』というのである。*(エスファグメノーン:処刑を含意)(黙示録18:24)
宗教上の正義感が如何に人々に苛酷であったかを思い巡らせば、神の前にとても罪無しとは言い難い。

この女の乗る七つ頭の野獣は『聖なる者たち』を攻撃し、これを制圧することが許されており、この野獣が表すであろう十全な公権力が実際に聖徒たちに攻撃を加える。(黙示録13:7)

この『聖なる者たち』とは、『粗布を着て』つまり目出度くはない滅びの音信を『1260日の間』布告する者らであり、彼らにはモーセのように『地を何度でも打つ権威』が与えられている。これは格別な人々であるに違いなく、終末に為政者らと対峙することになり『聖霊が語らせる』という初代キリスト教徒に同じく『約束の聖霊』を注がれる少数の弟子を表しているであろう。

これについて福音書は、彼らの音信はキリストの臨在によって『神の王国』が近づいたこと、またキリストの支配に道を開けるべきことを知らせるものとなるであろうことを知らせている。この聖霊による彼らの発言が世界の注視するところとなると他ならぬキリストによって明言されているのである。(マタイ10:18)

だが、『雲と共に在る』キリストの姿を見ることがない為政者たちは、彼ら聖徒が如何に奇跡を見せ、反駁できない言葉を語ろうと、キリストの支配を肯じることはないようだ。まして支配への欲求を募らせ、権力の座への闘争を続けるような暴君であれば、聖霊で語る聖徒は目障りでしかないに違いない。
 

こうして、世俗権力と宗教組織には共通の焦眉の課題が生じることになる。それは即ち、聖霊を持つ『聖なる者ら』を亡き者とすることに他ならない。これがこの大娼婦とその娘らの淫売の総仕上げとなるであろう。
ダニエルなどの預言によれば、『聖なる者』はこうして公権力からの迫害のうちに多くが殉教するらしい。しかし、それは彼らを練り清め『精錬され、漂白される』ことを意味するのであり、まったく滅ばされてしまうわけではない。しかし、彼らを取り除いたことを喜ぶ俗なる者らは少なくないようだ。(ダニエル11:35/黙示録11:10)


『大いなるバビロン』の実体はここに於いて疑問の余地は残さない。つまり、終末に聖霊を注がれる『聖なる者』の存在を喜ばず、政治権力に影響力を行使してそれを取り除こうとする勢力であり、『まじない』を用い、それによって許多の人々を聖徒に反抗させる行動に駆り立てるのである。

それは超古代から悪霊らの影響の下に創造の神に対抗し、ほとんど世の趨勢を得てきたバベルの宗教的特徴を有するすべての宗教を包含することになるであろう。なぜなら、神の聖霊が注がれるとき、それを認めて神に服すか反抗するかのいずれかだからである。



◆大いなるバビロンの旅商人
 

王たちへの娼婦の淫売についてもうひとつの役者が居る。それについて黙示録はこう語っている。
『すべての国民は、彼女の姦淫の激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の旅商人たちは、彼女の豪奢な贅沢によって富を得たからである。』(黙示録18:3)

この新手の登場者、『地の旅商人』とは何か。

宗派によっては、文字通りに商業体制と解しているが、確かに宗教的慣行は商業の益に多大の貢献をしていることは間違いがない。

しかし、聖書中を探索してゆくと『地の旅商人』は単に「商業」を表すものではないようだ。まず、『王たち』に比べて述べられる内容が多いだけでなく詳細なのである。

黙示録が語るところでは『お前の旅商人たちが、地で高官となったからであり、また、お前の魔術によってすべての国の民が惑わされ』とある。(黙示録18:23)

また、黙示録18:11のように、単に「商人」とではなく『地の旅商人』(ホイ エンポロイ  テース ゲース[οἱ ἔμποροι τῆς γῆς ])としているコイネー・ギリシア語の辞書からすると、「エンポロイ」は個人商店主や小規模な商業と対比した意味での商人、つまり「豪商」を指すことがあり、それはつまり長大なキャラバンや船団を組むような大商人を指している。

ヘレニズム期の地中海都市の港湾の埠頭には、「エンポリウム」と呼ばれる交易市場があり、そこで活躍する商人が「エンポロイ」であり、彼らは対外貿易商である。一方、市内の一般客を相手にする小売市場は「アゴラ」であり、そこに居住する商人は「カペーロイ」と呼ばれた。
元来「ポエイア」[ποεια]には旅や移動の意味があった。これに「エン」[εν](「上に」の意)が付いて「エンポエイア」は旅の上に成り立つ商売、つまり交易を表すという。

更に『王たち』同様に、交易商人にも『地の』[τῆς γῆς]と付け加えられることで、この意味は強調されていると見てよいだろうから、『旅商人』と訳した翻訳はその意をよく表していよう。このような大商人といえば、聖書の歴史中であれば、ダヴィデとソロモンに寄り添って必要物を供したフェニキア豪商にして王のヒラムが思い起こされる。


しかも上記の句によれば、この『旅商人』は大娼婦に属しているばかりか、政治に手腕を振るう『高官』でもあるというのであるが、古代世界では実際に大商人が経済的権勢によって王宮で高官のように振舞うことは異例なことでなかったようだ。

中世でも、経済力満ちるヴェネツィア共和国のエンリコ・ダンドロのような半商人の宰相が、十字軍の行き先までを左右していることも財力の権力への影響力の大きさが侮れないことを例証していよう。その十字軍をヨーロッパ諸侯に要めたのはローマ教皇であった。そして人々は『酔った』ように殺戮に向かい、イスラームもこれを迎え撃ち、『あらゆる国民が犠牲にされる』ことになった。


『地の旅商人』が単なる商人を意味しないという理解に追認を与えるのが、バビロンの突然の滅びを予告する中でのイザヤの記述である。
『お前(バビロン)が勤めて行ったものと、お前が若い時から売買した者とは、ついにこのようになる。彼らはそれぞれ自分の場所にさまよい行き、誰もお前を救う者はない。』(イザヤ47:15)

この句の中で『売買した者』の語は「商人」の意であり、且つ、ヘブライ語の読みを変えると「まじない師」とも訳せ、そうしている聖書翻訳も存在し、この文章は「売買した者」と「まじないをした者」とを入れ替えても意味は通じるのである。(この単語の意味は確定されていない)


黙示録に目を戻すなら、大いなるバビロンの突然の滅びは『王たち』を嘆かせるだけでなく『地の旅商人』はバビロンの屍から遠く離れて嘆いている。つまり『それぞれ自分の場所にさまよい行き、誰もお前を救う者はない。』という言葉がしっくりとする。となれば、この商人とは、いくらでも一般の顧客が居て「さまよう」必要も無いような単なる小売業者だろうか。

こうして『地の旅商人』を見直すと、それは単に商業という要素を意味する以上のことを示唆しようとしていることに気付くであろう。それは黙示録の述べる通りに娼婦そのものの一部であり、権力者の傍らに位置する官僚のような者。キリスト教史であれば、自ら貴族であり権力者に影響力のあった大司教や枢機卿などが思い当たる。

これは即ち、娼婦の淫売を具体的に行う高位の僧職者、またはその影響を権力の傍にあって行使できる彼女の手先というべきではないか。

その数多の商品を、彼らは手を変え品を変え娼婦ではなく王たちに売りつけていたという理解が可能である。それは一般相手の小売業ではないのである。
そのために、大娼婦が滅ぼされた後に彼らの「商品を買ってくれる(ひとりの)者が(滅んで)居なくなった」とではなく『もはや彼らの商品を買う者が誰もいない』(ウーデイス アゴラゼーイ ウケティ)(18:11)とあり、商品を買い上げていたのは大娼婦ではなく王たちであって、その王たちですら『彼女の責め苦を恐れて遠くに立つ』という言葉に込められた、姦淫に関わることへの社会的責めがあり、『旅商人』も販路も行き場も失ったということであろう。


その仕入れた膨大な商品が売れなくなり、それを元手に富を得ることができなくなったとは、やはり娼婦に属していた以上『旅商人』の顧客は娼婦ではなく『王たち』であり、『王たちは富を得た』とは、その民を酔わせて自分の思いのままに操ることではなかったか。『旅商人』らの商品は多様な教理であり、まことに豊富な品揃えであったから、その国民に適ったものを何なりと権力者の下に取り揃えることができたであろう。そうして彼ら自身も幅を利かせ、文字通り富も得た。

それであれば、この『地の旅商人』とは僧職者らであり、それも末端の教師ではなく、権力への押し出しの強い宗教的政治家たちの実体を暴露するものであるだろう。
即ち、半ば、或いは外面は政治家であり、内面は宗教家か、深く帰依した信者のようなものではなかろうか。彼らが諸宗教組織の意向へと政治を導く、重要な役割を果たすとすれば、今日のように政教分離が定められている国の少なくない現状では、必要な媒介者と成り得る。

中世には教皇は十字軍で参加することに贖宥を与えて天国行きを請合ったが、その手先としてベルナール・ド・クレルヴォーのような僧職者が神憑りにさえなり、王侯に近づき「正戦」への参加を使嗾した。そして現代も多くの宗教が様々な仕方で政治に参加しており、これらの宗教的政治家らが娼婦に属すものであればこそ「聖徒」について黙っているとは思えない。将来の「豪商ら」も「聖徒」への「正戦」に諸政府を駆り立てないと言えるだろうか。

しかし、彼ら高官がバビロンの滅びを免れるのは権力への影響力からであろうか。だが、もはや身の安全のために仲間の「殉教」には目をつぶり、以後宗教との関わりからは『離れて立つ』必要が生じる。「聖徒」を攻撃させても娼婦が攻められると、手の平を返したように「自分はただの政治家である」と言い出すのであれば、見苦しいことではある。

それに対して海を行く『船乗りたち』は、その下請けであり、おそらくは末端の宗教教師らであろう。彼らも富の分け前に与ってきたのだが、大娼婦が焼かれて立ち上る煙を遠方から眺めて悲嘆にくれる。この者らは生計の方法を再考しなければならなくなるのだろうか。



◆大いなるバビロンの滅ぶとき
 

神の正式な代弁者である聖徒たちが聖霊を以って語るときに、神の声の前に宗教界は一気に色あせてしまう。『大娼婦』に属する許多の宗教が権力を利用して聖徒らを亡き者にできたとしても、宗教の褪色そのものはもう手遅れになるようだ。真実の神が聖霊によって聖徒らを通して優れた言葉を語られる以上、悪霊崇拝者らの低劣な発言に人々はさすがに背を向け始めるのであろう。

価値の高い言葉を聖霊によって語る『聖なる者ら』は象徴的に「神殿」となる者らであり、象徴の聖都エルサレムに座すことになるという。奇跡を起こす聖霊がシオンに、『見よ!ここを』と叫ぶかのようにして、神が彼らと共にあることを明らかにするであろう。(イザヤ41:27新改訳)

一方で大淫婦の都バビロンは清らかな処女のようなエルサレムの登場に猛烈な嫉妬を燃やす以外にない。自分たちの存在意義さえ否定されてしまうからである。その結果『それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣窟、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣窟となった』という言葉も成就することになろう。つまり、そこには神が居ないということがまったく明らかにされるからである。

そこで、娼婦バビロンは顧客であり情夫でもある王たちに働きかけて、清純なる処女エルサレムに猛攻を浴びせさせる。しかし、それはエルサレムをますます浄めることになってしまい、自分たちは決定的に断罪される穢れの淵へと堕ちてゆく。
これこそが大娼婦の最後の杯をもたらし、それは神から与えられると黙示録は言う。
その杯とは、キリストと共に神殿を構成する聖なる者らへの復讐、即ち『神殿への復讐』であり、この女の仕出かしたあらゆることの二倍がなみなみと注がれるのである。(エレミヤ50:28/黙示録18:6/19:2)

野獣の角で表される公権力は、このたびは神から影響され、各国同時に聖徒を亡き者とするよう唆した宗教の大集団バビロンに矛先を向けることになる。そこでは古代城市バビロンが一夜で『女主人』の地位から転落したように、石が海に沈み込む速さでこの宗教都市の没落が突然に起こるというのである。(黙示録17:15-18)

この大娼婦は世の宗教の全体を包含するであろう。それが単にバビロンではなく「大いなるバビロン」であることには、キリスト教はもちろん、メソポタミア文明の初めから創造者に逆らい悪霊を拝したその傾向を持つあらゆる宗教が、こぞって神の聖霊によって語る『聖なる者』にも対抗することを黙示していると見ることができよう。

したがって、この期に及んでバビルを淵源とし、永きに亘って人類の上に君臨してきた「旧来の宗教」という娼婦がいよいよ終滅を迎えることになる。それは『神の裁き』であり、自分が『聖なる者』を攻撃させた、その同じ世俗権力が『荒廃し、裸にし、その肉を食い、火で焼き尽く』ことをヨハネは黙示する。(17:16)


このような全世界的処置が本当に起こり得るというのは、今の時点から見れば奇異ではある。宗教に熱心な人は少なくなりつつあるとはいえ、そう易々と無くなるようにも見えない。
ならば、やはり、その以前に生じる聖徒の出現が、相当に世を揺さぶるようなことになるのだろうか。

それはおそらく、古代バビロンを保護していたユーフラテスの膨大量の水がバイパスされ、流れが変わってしまったように、非常な短期間にこの城市が表していた宗教の信者の大半を失うことを指しているのであろう。それこそは、「大いなるキュロス」であるキリストの聖霊を用いた驚異の業となろう。(黙示録16:12)
黙示録では、狙い澄ました一時にユーフラテスの四人の使いが解かれると、三分の一というおそらくはキリスト教界の断罪が起こることを記しているが、これも無関係ではないように読める。(黙示録9:14-15)⇒ 「ヨエルの蝗害の意味を黙示録は語る」

それであれば、その事象の成就とは、聖徒の現れと聖霊の発言により、膨大な数の人々がキリスト教やほかの多様な宗教に躓きを覚え、信仰を失って旧来の諸宗派から一気に離れてしまうことを云うのではないか。

大半の信者を失った宗教世界とはどんなものであろう?
その痩せ衰えた姿に公権力の実力行使を留める力が何か残っているだろうか。

そして「大いなるバビロン」の滅びは、王や旅商人、また船乗りらにとって不本意な結果とはなるが、世の大多数にとって、魅力も魔力も失ったかび臭い宗教など、結構な厄介払いとされるのだろう。

それが為政者や宗教家にとっては、有無を言わされぬほどの世論を形成されてしまうので、彼らは喪失感を隠さねばならず、「離れて立つ」以外にない。つまり、彼ら以外の大多数がバビロン的な「伝統宗教反対」を叫ぶような情勢変化が起こり、それは人類を揺るがし振り分ける作用を及ぼすのであろう。

即ち「裁きの日」の到来である。
であるから、宗教に反対する大多数の人々の皆が皆、聖徒による聖霊の声に信仰を持つとはまず限らない。何か別の「野獣崇拝」のようなムーヴメントに向かうのではなかろうか。(イザヤ14:12-14)
おそらく、多くの人々は宗教組織を無くしはしても、その信仰そのものをまったく無くすことは、その性質上できないことではなかろうか。

そこで、組織宗教は去っても、以前の信仰の概念を残しつつ、新たな信仰心の発露を求め、その必要を賄う者が現れるなら、一気にその新たな宗教は古い組織宗教の消滅で行き場を失った信仰心をかき集めることにならないものだろうか。
(それが具体化するならば、それこそは究極の偽宗教となり、最後に残る政祭一致的な恐るべき神への抗いの器となるのであろう)

だが黙示録は、大娼婦の滅尽を聖徒への復讐として喜ぶ一群の人々も居ることを描いている。
大群衆が『ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。淫行で地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、あの女になさったからだ。』という雷雨のような大声を聞いたとヨハネは言う。

これこそが、創造の神への信仰を持つ人々の反応であろう。
聖なるエルサレムを支持し、大娼婦バビロンに裁きの鉄槌が振り下ろされたことに歓呼の声を上げている。
この人々の救いは間近である。なぜなら、『聖なる民が打ち砕かれると、すべてのことは直ちに終局に至る』からであり、バビロンへの報復が為された今、『エルサレムの神殿』を構成する処女らが天に揃うからである。そこで子羊の花嫁としての準備に入ることができるのである。(ダニエル12:7)

この処女らは、大娼婦バビロンによって窮地に追い込まれたゆえに、却ってその忠節な死を以って清くされてしまった。それは他ならぬイエス・キリストの死に続く清めであり、その罪は一日の内に『カルデアの在るべき場所へと運ばれる』。即ち、聖霊で語った聖徒らの罪は忠節な忍耐によって清められ、バビロンは却って拭いようのない重罪を負って、その淫行の罪科のゆえに完膚無きまでの滅びの処刑を待つ身となるばかりである。


それゆえ「大いなるバビロン」の滅びに際して、人はどのように振舞うことがよいのかについては神自身が黙示録の中でこう呼びかけている。『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ』。(黙示録18:4)


さてさて事の結論はこうなるであろう。
「死後、信者は天に召される」と云うのと「極楽往生を果たす」と云うのに決定的違いがあるだろうか。
キリスト教といえども、バベルに源を持つ教えに従っていれば、聖霊を注がれる『聖なる者』に逆らう側に立つことが避けられない状態にまず身を置いている。

加えて死後の世界を教えない宗教であっても、聖霊の声に心を開かず、信仰を懐かないのであれば、それは即ち『聖霊を冒涜する罪』となり兼ねず、それはけっして許されることのないという決定的な罪であり、いずれも裁かれるに違いない。
キリストの前に世の人々が左右に分けられるというマタイの終末預言の部分が、これに深く関わるとすれば、理解の視界も一気に開かれる。


それであるから、できうる限り早いうちに、人はこの世の宗教の大多数を占めるバビロン由来の教えを振り捨てるべきであろうし、聖霊の到来に心を向けない、特にキリスト教の教えを後にしなければ危ういことになろう。キリスト教界は最もキリスト教から隔たっているとさえ言うべきであるからである。宗教信条や慣行は恐ろしいもので、人を捕らえて易々とは放さない。⇒「聖霊によるキリスト教の回復」

しかし、人々が大娼婦と共に害を受けないばかりでなく、聖霊の声に従い、子羊と聖徒の婚宴に招かれる幸いを得るように。




            新十四日派    © 林 義平




さて、最後に、ひとこと付け加えておきたいことがある。
それは、この『大いなるバビロンの滅び』が一切の偽宗教の終わりを意味するのではないと考えられることであり、その後には、より醜く強力な究極的偶像崇拝の宗教が現れることになるように思われるのである。

それが地に残される「脱落聖徒」の起こす『背教』であり、それが背教である以上、キリスト教の変形らしい。その『背教』については使徒パウロの警告するところであった。(テサロニケ第二2:3) 宗教の教えとは人の心を容易に去るものではないのだが、最後の反抗宗教においても現在の諸教会員の基本的教理を引きずるものらしく、その旧来の教えがそのまま持続し、ある人物を神格化、偶像化させてしまうらしい。(テサロニケ第二2:4/イザヤ14:12-14)
これを招来させ兼ねない教理は既にキリスト教界に存在し、依然として強い作用を保持している。即ち、「キリストの地上再臨」と「三位一体説」である。これらは終末まで存在し続け、終末にあってはユダ・イスカリオテのように重要な悪役を司るのであろうか。
 (これについては改めて頁を設けたく思う⇒「不法の人」)

サタンも悪霊も、バビロンの去った時点であっても依然として活動を続けているからである。しかし、その「新たな宗教」の存続期間は、キリストの臨御の顕現までの僅かな期間だけであろう。ダニエル書も黙示録も、聖徒が攻撃を受けた後の時が非常に短いことを告げている。それでも、その背教は国家規模の後押しを背景に強圧的なものになるらしい。(ダニエル12:7/黙示録12:12/13:11-18)




(関連⇒ 「小麦と毒麦の例え」 「マタイ福音書の終末預言と例え」)



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