似て非なるもの

中国古典の孟子、その著「盡心」(じんしん)の「下」に「悪似而非者」(似て非なるものは憎まれる)という知られた言葉がある。
これは元は孔子の述べたところであり、孔子はこれを解して「悪莠 恐其乱苗也」(莠〈ゆう〉と云う草が憎まれるのは、それが苗と混同され兼ねないから)であると言い添えている。

つまり、似てはいるが、実は異なるものは紛らわしくて厄介な存在である、ということから、そこには憎しみが生じる道理があると云うのである。

それはまるで、新約聖書の小麦と毒麦の例えに援用することこそが相応しそうではあるが、この「似たもの」に対するキリストの教えには、この中国古典の精神とは実に対照的で特異なところが見られるのである。

そこでこのたびは、世界標準的な格言をも超えてゆくイエスの教えに注目せんがために、むしろ様々な世界で共通する「似ているゆえに憎まれる」事柄の内でも激しい憎悪の原因となってきたもの、つまり似た宗派同士の異なりについてキリストの言葉から再考してみたい。この中心を成すのは「サマリア人」である。


善きサマリア人の譬え

マタイやマルコの福音ではイエスにパリサイ人が「どのおきてが第一か?」と尋ねており、そこでイエスは申命記第六章を引用して『聴け!イスラエルよ・・心をこめ、魂をこめ、思いをこめ、力をこめてあなたの神を愛さねばならない。』
そして、第二としてレヴィ記19章から『あなたの同朋を自分自身のように愛さねばならない』と答えているが、これは「善きサマリア人の例え」の語られるルカ10章よりは後の時期で、イエスの公生涯の終わり間近の一行が最後のエルサレム登城する時期のものである。

この神と人を愛せという、二つの掟は有名ではあるのだが、実際に行おうとするとそれはけっして生易しいものではない。
特に、隣人を愛する事が難しい状況をイエスはその譬えで示すことになるのであった。
それは単にユダヤの同朋を愛するばそれでよいという教条の単なる表層を、「山上の垂訓」のようにキリストらしく遥かに超えてゆく。


さて、ルカ書の善きサマリア人の例えに至る部分に目を向けると
ある律法に通じた人が立ち上がって「師よ!」とイエスに尋ねた。
「立ち上がる」という書き方からすると、これはユダヤ教の会堂の中でのことであったのだろう。
『わたしはどうしたら永遠の命を受け継げるのでしょうか?』これが、この例え話を紡ぎだすきっかけの問いであった。

神殿破壊以前のこの時代、ユダヤ人はいまだ神との関係を享受していたので、彼らは選ばれた選民の一人となる権限を有していたのであるから、彼らに与えられた律法にどう対処するかによっては祝福に預かり、「新しい契約」へと移行することができたであろう。
そうするなら、彼らはアブラハムの嫡流の裔として、そのまま「諸国民の光」である「王なる祭司の国民」に数えられ、真のイスラエルとして「神の王国」での永遠の命に入ることができるはずであった。(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9-10)⇒「神の王国

しかし、イエスは彼の問いに直接的には答えずに、その律法に通じた人を試して、『あなたはどう読むか?』と尋ねられた。

すると、この人は『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」と答える。
イエスはそれを肯定し『あなたの答は正しい。その通り行いなさい。そうすれば、命を得る』と言われる。

しかし、ここで話は終わらなかった。
その人は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、誰のことですか?」

この「律法に通じた人」(モニコス)[μονικός]また「律法学者」とは、当時活躍していたタナイームと呼ばれる律法からその当時の適用法を教える学識ある者、また口頭伝承(ミシュナー)の編纂の当たっていた「大ヒレル」からの流れを汲むヒレル派の学者か学徒のひとりであったのだろう。

この人々はモーセの掟の適用と遵守に熱心であり、ここで「師」と呼んだからには、イエスに一定の律法適用の権威を認めての問いであったことであろう。
彼はイエスを試そうというよりは、自分の何かを正当化する動機があったことをルカは伝えている。
それであるから、「わたしの隣人とはだれか?」という問いには、自分の正しさを示そうとした以上、彼なりに答えは出ていたに違いない。

即ち、律法そのものが述べるように、その「隣人」とはイスラエルの同朋であって、互いに「自分のように愛する」ことが神から求められたことである、と考えていたことであろう。
この人物はおそらく箴言27章10節の『あなたの友、あなたの父の友を捨てるな、あなたが悩みにあう日には兄弟の家に行くな、近い隣り人は遠くにいる兄弟にまさる。』を引き合いに出して、親族よりも近くにいる隣人が助け合うことの大切さを唱えたかったのかも知れない。だが、それもユダヤ同朋の中でのことである。

イエスの答えを得てから、彼がこれらについていよいよ述べようとしていたのであれば、続いて話されるイエスの例え話によって、彼はそのように自分の正しさを表明する機会を失なったばかりか、より重い訓戒を与えられてしまったことになる。

そこでここで語られることになる「サマリア人の例え」を非凡なものにしているもの、また、語られた状況で巧みに際立った教訓を引き出しているのが、これから話される親切を施した善良な人物が、実に「サマリア人であった」という設定にあることを見落とすわけにはゆかない。

サマリアの民族は、大半のユダヤ人の軽蔑の対象であり、彼らからは特に汚れたものと見做されていた。
そのサマリア人をメシアはユダヤ人への講話の中の主人公としたので、質問を投げかけた「律法に通じた」という当の人物の思惑は打ち砕かれ、話があまりに意外な方向に進んだことに当惑したに違いない。

ユダヤ人のサマリア嫌いは徹底したもので、まるで異邦人の宗教ならば却って割り切れたのか、サマリアの宗教にだけは猛烈な拒否反応があった。その理由といえば「似て非なる」からである。

そこで「善きサマリア人のたとえ」には、見知らぬ人への慈愛を説くばかりでない訓戒が込められている。
追剥ぎに遭って身包み盗られたうえ、殴打され傷を負った人の世話をするであろう人も、世に居ないわけではない。ごく自然にそうしようと心が動く人も存在することは人間社会で頻繁ではないとしても、まま見られることであろう。

例え話の中の慈愛ある人の場合には、その同情からくる親切は徹底したもので、自分の去った後の費用までも工面しているのだが、確かに、これはなかなか難しい。

だが、筆者自身、キリスト教徒でもない人がそのようにするのを見たことがある。
他人でありながら、急性疾患のその人に身寄りがないのを知って、病院側に保証人を引き受け、約二十日後の退院当日に現に大枚を持って来られたという奇特な御仁であられる。しかも、その方は患者の帰宅に際して社会的地位から忙しい身で在りながらも休暇をとって同行し、途中で買い物をして食物を整え、家に着いては細い体で重い荷物を二階まで運んでやったのであった。(これはまったくの実話である)

それであるから、ここでサマリア人が登場しなかったなら、このイエスの例え話はユダヤ人の良識の範囲内に留まり、彼らをユダヤ教の次元から引き上げるような内容にはならなかったに違いない。


サマリア人の由来

サマリア人とは、ソロモン王の後の世代、イスラエルが二つに分裂した北王国の主要な土地で、元来はマナセ族の相続領にあったひとつの山に由来し、所有者はシェメルであった。これをイスラエル王オムリが100万円ほどで買い取り、ここをシェメルの名を以てショムロン(サマリア)と呼んで、城市を建設したことに由来する。

以後は北の王国の首都となって繁栄し、エルサレムとは犬猿の仲となった。
イスラエルは北のシリアばかりでなく、同朋であるはずのユダヤとも何度も干戈を交え、互いに糧食や物資を奪い合う間柄となっていった。これは南北の深い敵対感情を醸造してゆくこととなる。

神YHWHはエリヤのような預言者たちを遣わし、何度も譴責を繰り返したが、異教を奉じることも含めて、遂にその罪は重なって、北のイスラエル王国の諸部族は獰猛な帝国アッシリアの手に渡されたのであった。

そうして独立を失って後、イスラエルの多くの民はアッシリアのユーフラテスの北やパルティアに強制移住させられ、アッシリア王エサル=ハドンの時からシナルの人々が入植を始めたと云われる。つまりは強制的「交換移住」である。(列王第二17:24/エズラ4:2)
しかし、その間に荒れてサバンナ化した土地に神がライオンを増やしたので、その獣害に困った入植者は、土地の宗教と見做したYHWHの宗教を取り入れて、この害悪を除こうとする。

それが発端となり、移住させられていたイスラエル流刑囚の中から一人の祭司の帰国が許され、この祭司を通してこの土地の以前の宗教を教えるようにとアッシリア王は取り計らった。
その宗教がどのようなものになったかの詳細は伝えられていないが、彼らはイスラエル同様に生後八日で割礼を施し、アラム語にされたトーラー(タルグム)を読んだ。彼らの過ぎ越しの祭りは21世紀の今でも行われている。

しかし、神殿を有するユダヤから見ると、この土地に幾らか残されたイスラエル人と入植者の雑婚もあってか、この崇拝は同じ神YHWHを奉じながらもメソポタミアの祭式が混じり合い、ユダヤ人からすれば異様であったようで、異教と混成したような宗教は特に嫌悪されたようである。(列王第二17章)
しかし、彼らの中にはイスラエル王国を失った北の部族の残留者の血統が含まれたことには違いなく、以前には同じくイスラエル民族であった彼らには不可抗力的事態であったというべきだろうか。

時代が幾らか降ると、ユダヤもバビロン捕囚を経験し、その後キュロス大王のバビロン征服を期に、神殿祭祀再興の為にユダヤ人の残りの者らがバビロンから上って来て、エルサレム跡地に神殿を再建しようとした。そのときサマリアの人々は、その中途半端な崇拝方式をユダヤ人の正統なものと合流できる機会とすることを目論んだ。(エズラ4:1-3)

だが、これは真正なYHWHの崇拝を汚しかねないことであり、ユダヤ側はこれを謝絶してきたのであった。
アッシリア帝国は既になく、キュロス大王の勅令はユーフラテスの北に強制移住された北のイスラエル王国の民にも届いたのであろう。彼らの中で帰還に応じた人々があったとすれば、その目的地はユダヤではなく、ガリラヤやサマリアなどであったろうから、神殿再興の業への協力を申し出た背景に、あるいは聖書には書かれていないものの、これら十部族の末裔の存在もあったのかも知れない。

しかし、ユダヤ側からの拒否の返答に遭い、サマリアは憤激し、エルサレム神殿再建の妨害を始めたのだが、これは再び両者の交流を阻害するものとなってしまうのであった。(エズラ4:8-10)⇒アリヤーツィオンの残りの者

以後、サマリア人はエルサレム神殿再興への関わりは叶わなくなったばかりか、ユダヤ人はサマリア人を嫌って神殿域への進入さえ拒絶するようになる。
それでも神YHWHへの崇拝を続けようと願うサマリアは、ヘレニズム期の前300年頃なると自分たちの神殿を建立する。

その場所は、更なる古にカナン入植を前にしたエホシュアの時代の全イスラエルが集合し、また更に古くは「約束の地」に入ったアブラハムが天幕を張ったというほど由来の深いエバルとゲリジムの山からゲリジムの峰を選び、ここに自分たちのYHWHに奉じる神殿を建てるのであった。

ここにおいて、ふたつの民族の崇拝の方式がひとりの神に捧げられていたことになる。

預言者たちの言葉によれば、神YHWH自身から観て、北も南も律法契約を踏み越えたことには変わりなく、どちらも罪無しというわけではない。第二神殿に契約の証しの箱は戻らず、その崇拝は昔日のものからは後退しており、律法契約は不安定で、エレミヤの伝えた「新しい契約」が何を意味するかもキリストの公生涯中であってさえ民には未だに謎であった。

しかし、サマリアといえば、北王国の処罰の後に登場してきた派生民族であるから、南北の律法の違反に直接関わってはいなかったし、神に直に処罰されたわけでもない。その後に現れ、律法を戴いてそれを自分たちなりに守ろうとしてきたのである。
その状況で、ユダヤ、サマリアの双方とも正統を主張して譲らず、それぞれの民は宗教的対抗心と敵意を持つようになる。

一方で、連れ去られた北の部族が大手を振ってユダヤに合流する場面を歴史は知らない。
おそらくは、ペルシア帝国期からヘレニズム化してゆく過程で徐々に北の諸部族からの帰還があったのだろう。

(余談ながら、北の部族が日本に渡来した可能性を云々する向きもあるが、確かに神道はエルサレム神殿祭祀に似ており、日本語とヘブライ語に共通するような単語の多さも異様ではあるが、この件を掘ってもそう価値のあることを見つけられそうもない)


さて、イスラエルの「回復の預言」は、どの十二支族も差別するものとはなっていないし、現にルカの福音書にはキリストの時代に北に属するアシェル族のパヌエルの娘アンナがエルサレム神殿から離れずに居たことを伝えている。これはアッシリアによって遠方に移住させられた人々の幾らかが戻っていることを示しており、それらの人々がこうしてイスラエルの一族、ユダヤの同朋として神殿崇拝に受け入れられているのを確認できる。(ルカ2:36)

他方、北の地域に残され混血したサマリア人の方はと云えば、かつてのゲリジム山の神殿での崇拝がどのようなものであったのかは分からないにせよ、今日も行われている彼らの「過ぎ越し」からすると、日付が異なったり、羊が燻製にされたりと「似て非なるもの」である。それは彼らが、ゲリジム山上でアブラハムがイサクを焼燔の犠牲として捧げようとしたと主張しているところからくるものだろうか。(それでもサマリアは伝承や律法の定式に従う点で現イスラエルより正確である部分も残っている)

しかし、彼らが第一次ユダヤ戦役でローマ軍の一部隊とゲリジムで戦闘を行ったことはあっても、西暦七十年のユダヤの破局を共にしなかったので、彼らのタルグムは生き残り、ヘブライ語ではないにせよ、それに近いセム系のアラム語でモーセ五書が保管されており、世界で最も古いこれは「サマリア五書」と呼ばれ、古さに於いてイスラエルに優るテキストとして研究されている次第であるが、ヘブライ語でないゆえにイスラエル側はこれを最も古いトーラーとは見做していない。

さて時代を遡る前2世紀のこと、ハスモン朝ユダヤ王国時代、サマリア人のゲリジム神殿は、セレウコス朝の弱体化に乗じて北に勢力を伸張してきたハスモン朝のユダス・マカバイオスの甥ヨハナーン・ヒュルカノスⅠ世率いるユダヤ軍によって破壊されてしまった。(B.C182)

ユダヤ人としては、これを間違った崇拝を覆す正しい行いと思ったことであろう。だが、神はこれをどう観たのであろうか。
その恨みは間違いなくサマリアに残っていた。それでもサマリア人は、廃墟とされた神殿跡地で変わらずにアブラハムの神への崇拝を続けていたのである。

それであるから、後にイエスがゲリジム山麓のシェカルの井戸で話しかけたサマリア女が、『わたしたちは父祖の代からこの山で崇拝してきたのに、あなたがた(ユダヤ人)は崇拝する場所はエルサレムだと言います』と語った言葉の背後には、この深い恨みが込められていたことであろう。

しかし、それに対してイエスは普通のユダヤ人なら到底言わないような返答をするのであった。
『あなたがたがこの山でもエルサレムでもないところで父を崇拝するときが来ようとしている・・真の崇拝者が霊と真実とを以って父を崇拝する時が来る。そうだ。今来ているのだ。』(ヨハネ4:21-23)

この言葉は西暦七十年のエルサレム神殿の亡失と、その以前に聖霊降下がイエスの弟子らの上に起こったことによって現実のものとなったのを我々は知っている。

この女との会話の数年後、福音宣明者フィリッポスによってキリストの信仰が再びサマリアに及ぶと、この地の人々がこの新たな教えにこぞって転向してきたことも使徒言行録の伝えるところであり、そこで使徒ペテロが派遣され、「神の王国の鍵」を用いたので、サマリアの人々も聖霊が注がれることにより『新しい契約』に招じ入れられ、こうして彼らもユダヤ人と共に聖霊が注がれ「アブラハムの遺産」に預ることになったのである。

キリストの契約の下では、今更エルサレムやらゲリジムやらの崇拝の中央を云々する意味もなく、天界のキリストの許に聖霊を通してひとつに結ばれる希望が双方の民のものになったのであるから、それは不和と敵意の収束されるべき時の到来となったに違いない。そこでは、聖霊によって生み出されるに及び、遂に両者の平和がもたらされることになったといえよう。



イエスを高揚させたもの

しかし、イエスの現れた時代のユダヤ人のサマリア人への蔑視にはかなりのものがある。
ユダヤ教徒は会堂や神殿で、公然とサマリアを呪い、永遠の命を与えぬよう神に祈ったともいう。
ユダヤ人はサマリア人を「クスィム」と蔑称で呼んだが、それは彼らがイスラエル十部族との交換移住に際してサマリアに来る以前に住んでいたメソポタミアの「クタ」の地名によるそうであるが、それはサマリア居住であることさえ認めないという趣旨が込められている。だが、ヘブライ人も元はといえばその近くのメソポタミアのウル近郊の出ではないだろうか。

それであるから、イエスと論争していたユダヤ人らがイエスを指して『あなたはサマリア人で悪霊に憑かれているというのが真相ではないか?』と言い放ったときには相当な侮蔑を込めていたことになる。(ヨハネ8:48)
つまりは、他ならぬメシアに向かって「怪しく似てはいるが間違った悪魔の教えを説いている」と云っていたことになるのである。

ではその一方で、キリストの想いの中で「サマリア人」はどんな位置を占めていたのだろうか。
確かに、公生涯中のイエスは確かにサマリアへの伝道を弟子らに禁じており、サマリアの女にも「救いはユダヤ人から起こる」と明言してもいる。イエスは公生涯においては、まず第一にイスラエルの失われた羊を集める業に着手していたからである。

しかし、新約聖書中では度々サマリア人が登場してくるが、悪い人物として表れるのは魔術師シモン*くらいのもので、イエスに癒された十人のらい病人の内で感謝を述べるために戻ってきたのはサマリア人だけであった、と正直に伝える福音書を書いたルカの精神は、やはりユダヤ人一般の見方を超えている。(ルカ17章) *(このシモンはサマリア人でない可能性も知られる)

また、イエスはサマリア人の女に「シェカルの井戸」で話しかけたとき、まずユダヤ人にはしないことであったが、その女には自分がメシアであることをはっきりと明かしたのである。

旅の食物を確保してその井戸に戻って来た弟子らは、主がサマリア人(ごとき)の女と話していることが解せなかった。
その傍らで、イエスの語る言葉に驚愕した女が、町の皆に知らせようと水瓶も忘れて走り去って行くと、イエスはこう言われる。
『収穫までまだ四か月あると言うだろうが、目を上げて見よ!土地は既に白く見え収穫を待っている』

そこでは、井戸端の一人の女を通してサマリアという畑がメシア信仰に色付き、もう刈り取られるのを待っているように広がる麦穂の波打つ予見の光景がイエスにはまことに喜ばしく見通せたのであろう。

それであるから、弟子らが「主よ、食べてください」と、しきりにパンを差し出しても、イエスの心は高揚し、旅に疲れ果ててシェカルの井戸端にどっしりと腰を下ろした先刻とはまるで様子が異なっていた。
サマリアの収穫、それは同行しているその弟子らが数年後に穫り入れることになるサマリアの人々である。

それは七百年もの遠い昔に神がライオンを送って以来の収穫であり、弟子らは自分たちの蒔いていないものを刈り取ることになる。まだ弟子らは何も知らないが、キリストであるイエスには数年後のサマリアが予見され、すっかり爽快になったのであろう。

『わたしにはあなたがたの知らない食物がある』と言われ弟子たちが訝ると、その食物が何であるかを主は明かして、『それは私を遣わした方のみ旨を行い、成し遂げること』がその食物であると言われるのであった。

ユダヤ人全般の見方をよそに、古代にサマリアに蒔かれた種はみごとに成育し、現れたメシアを信仰の内に受け入れる用意が整っていたのであった。それは思えばまことに長い道のりであった。
しかし今や、イエスは収穫を行う刈り取り手たちが既に賃金を受け取って作業を始めたとまで言われるのである。

あと数年。そうすればサマリアに福音が到達してペテロが鍵を開け、聖霊がこの地にも到達するであろう。
それは「アブラハムの裔」を小麦として倉に集める業であり、ユダヤがメシアに良い反応を一向に見せない中で、サマリア人にはその機会が差し伸べられたことを意味している。
そうして『蒔く者と刈り取る者とは共に喜ぶことになる』であろう。

弟子らは労せずにその収穫に預るが、かつて与えられた一人の祭司から蒔かれ始め、「似て非なるゆえに」ユダヤとは仲たがいの年月が久しく続いてきたのだが、今やメシアが現れたので、いずれ聖霊が到来するなら、すべての労苦の報われるときとなる。このヤコヴの井戸の一件は、イエスの内にあったサマリアへの喜びの大きさの伝わる場面である。

このとき、その町の住民たちはイエスをその通りにメシアとして受け容れ、一行に留まるように願うのであった。
そして一行は、メシアへの信仰を表したサマリアの町に二日留まったが、それは異邦人に対する扱いとしては異例であったろう。宿には更に多くのサマリア人が集まって来たとヨハネは記しているが、普段なら交友することのないユダヤ人とサマリア人らのメシアを巡る交歓の声が聞こえてきそうである。イエスは彼らの間に何かの奇跡を行ったとは書かれていないにも関わらず、このサマリア人たちはその言葉だけで信じたのであった。

イエスは確かにイスラエルの羊を尋ねるべくガリラヤとユダヤを往来し、サマリアといえば中間の「半異邦人地帯」で、通り掛かりという程度のものではあった。しかし、サマリアの特殊な事情をこれほどの共感を以ってイエスは見ていたのである。(マタイ10:5)

そして、この「善きサマリア人」の例え話がある。


誰が本当に隣人であるか?

では、メシアの語る「善きサマリア人の例え」に入ってゆこう。

さて、エリコに下る街道は岩のごろごろとする死角の多い通行人には危険地帯であった。
当時、追いはぎ強盗など出没しやすい道であったのだろう。

例えの中で、そこに倒れていた人はおそらく所持品も多かったのだろうが、いまや裸で殴打のため意識も無い。
そのような光景に出合ったなら、我々はどうしようか?

一人の祭司が通りかかった、当時には祭司の都市であったレヴィに属する町エリコに帰る途中であったように語られる。
すると、この祭司は半殺しの目に遭った同朋を見ると、道の反対端に寄ってその場面を避けて行ってしまった。

次に通りかかったのはレヴィ人で、やはり神殿祭祀の勤めを果たして帰るところであったようだ。
彼も倒れた人を見かける。するとやはり反対の端を通ってその人を避けて去っていった。

彼らは倒れている人が既に死んでいるなら、『死体に触れて汚れを身に受ける』という律法の定めを犯さないようにしなければならないと思ったのかも知れない。
そうであれば、自分の清さを保つことが同朋を救うことに優先されたのである。つまりは、宗教上の「清い勤め」が人間味ある振る舞いを差し止めたというところか。

あるいは、内心ではまったく他人事であったという、それ以下の理由であったのかも知れない。
確かに、身包み剥がれた被害者がどの人種であるかを特定するすべは無かったかも知れないが、それはこの例えの主旨に関わるものではない。(ユダヤとサマリアとは共に割礼の民である)


そして、三人目にサマリア人が通りかかる。
彼は、そこに半殺しの目に遭い、持ち物をすっかり剥がされた人を見た。

宗教的に対立し、軽蔑されているか否かに関わらず、このサマリア人は倒れている人を見ると『哀れに思う』。
そこで初めての、そして貴重な助け手として倒れたユダヤ人の傍らにサマリア人が近づいてゆく。

彼は傷口に油(オリーブか)を塗って(汚れを除き)、さらにブドウ酒を注いで(消毒した)。
それから包帯を巻いて(止血して)やったが、そのままにすることはとてもできないと思ったのであろう。自分の家畜(ロバか)にのせて(エリコの)宿屋まで運び、世話を続ける。

翌朝、自分は出立するものの、回復しておらず、おそらくまだ眠っている被害者のために二日分の日当に当たる額を宿屋の主人に差し出し、世話の継続を頼んだのであった。
それだけではない。その後いくらの費用が掛かろうとそれを自分が戻って払うとまでいうのである。

この例え話を聴いていた人々は、その内容に引き込まれていたであろう。
今日聖書で読む我々もそのようである。
だが、その場で聴いていたユダヤ人にとって、親切を示したのが実にサマリア人であったというところに大きな動揺があったことであろう。

そこでイエスは問う。
『さて、これら三人のうち誰が本当に隣人であることを示したか?』

これに答えるのはユダヤ人にはさぞや辛いことであったろう。
殊に、宗教に熱心であればこそ尋ねられたくない問いである。
聴衆の皆がイエスに問いかけられた者の答えに耳を欹てたことだろう。

先の「律法に通じた人」は、やはりイエスの問いに戸惑いがあったようだ。
それは「そのサマリア人です」とは答えなかったところに表れていよう。

彼の答えは「その人に親切にした者です」であった。
サマリアの名は出したくもなかったようだ。
彼にしてみれば、親切を施したのがサマリア人でなくユダヤ人であればどれほどよかったか。それならば、まだ格好もついたであろうに。
だが、それではこの例えも、窮した人への親切を奨励するだけの凡庸なものに終わったに違いない。

そしてイエスの言葉は結論に至る
『あなたも同じようにせよ』。

つまり彼にはいかがわしい宗教の徒であるサマリア人を範とせよということになる。

もし、サマリア人が困るようなことがあれば勿論のこと助けを差し伸べなくてはなるまい。これもまた大いに難題であったことだろう。

原因は、もちろん彼らの内に有る敵愾心や蔑視であり、イエスは隣人愛を示す前に、それらの差別意識が親切を阻害するものであることをサマリア人を通して教えられたのである。

「律法に通じた人」もこれにはぐうの音も出でず、自分の義も示せずに終わったに違いない。隣人愛を語る前提となる土台を突かれてしまったか、彼の返答は何も書かれていない。

それでも、まだ「サマリア人などは人ではない」などと暴言を吐かなかったところは、この問い掛けた人物に見るべきところがあったというべきか。


「崇拝方式」という「部分」

この例えは、単に深い親切を誰にでも示すようにとの教訓で終わるものではない。
イエスは隣人愛を示そうとするときに、宗教上の対立、偏見、差別、蔑視、敵意などを超えてゆくように求めていたのである。これこそは人間同士を隔てる心の壁ではないか。

それは、敷衍すれば宗教だけでなく民族や政治や思想の対立も含むであろう。

21世紀の今日、前世紀の二度の世界大戦が過ぎ去り、その激痛に学ぶところがまことに多かったにも関わらず、人類は民族主義や愛国心を衰えさせず、人を人種や国籍毎に判断する傾向は減ることなく、むしろ増えてさえいるようである。

人は確かに隣人とうまく生きてゆくのが難しい。
その原因は「罪」からくる「貪欲」にあることだろうし、そこから多くの敵対心や憎しみや怨みが連鎖的に湧いて出るものである。

しかし、その「罪」の相殺のためにこそキリストは世に来られ、その余りにも貴重な犠牲を捧げる必要があったのだ。

このキリストが贖いを捧げた自己犠牲の精神を以って世を眺めるなら、人々が争い憎む原因をわざわざ作り、それを煽って対立の火を燃やすのは何と愚かなことなのだろう。
それは政治然り、愛国心や民族の対立然り、そして宗教の宗派毎の正義感もその責めを逃れられないのである。

それらはキリストの愛の教えからすれば偏狭で、偏執的であろう。人はキリストの犠牲によってどれほど多額の負債を許されるのだろうか。

だが、一歩引いて眺める冷静さがなく、それぞれのドグマの近くに立てば立つほどその視野は近視眼となり、古代のユダヤ人のようになってしまう。

当時、確かにエルサレム神殿での祭祀が続けられており、イエスもまたその祭祀に従うユダヤ教徒であった。
しかし、その神のみ旨はその崇拝方式のそのものの厳格な履行にあったのではないことを度々イエスは語っている。

それは神の意志を成し遂げる過程の一部に過ぎず、崇拝の方式が永続する神の御旨の全てであるかのように見做していれば、却って神の意図するところから外れるという愚を犯す危険がある。

それは今日のキリスト教諸宗派とて何の変わるところがあるだろうか。
まるで異なる宗教よりも、同じキリスト教に拒否感が強いのも、やはり「似て非なるもの」だからではないか。
ある教会で温和そうな牧師に挨拶したところで、彼らの肯んじない宗派の信徒であると明かした瞬間に怒鳴り出したという話、21世紀の今日でも道を一本挟んで旧教と新教とが示威的対立を続ける北アイルランドの話など、キリストの名を冠する宗教での現実である。

「どこの宗派はキリスト教とは言えない」また「彼らの用いているものは聖書とは言えない」、他方で、「古いキリスト教は異教のもので悪霊崇拝である」など互いに異端視して軽蔑し合っているところは昔日のユダヤとサマリアのような対立の構図はそのままに見えるかのようである。 確かに我々は、隣人ばかりでなく近い宗教の人々を尊重し、うまく共に生きてゆくことも難しい。

しかし、ユダヤとサマリアという当事者たちからすれば決定的に見えた違いも、あのシャブオートの日以来、聖霊の降下によるキリスト教の出現して以降、両者が聖霊を受けるに従いその違いも正義も意味を失ったのであった。

ユダヤ教は過去のものとなり、「新しい契約」に属する崇拝の方式は、地上に崇拝の中央を必要とせず、聖霊を通してゲリジムでもエルサレムでもない天にその崇拝の中央を得たので、両者の軋轢も無用で的外れなものとなった。
あまつさえ聖霊は更に進んで、まったくの異邦人に向かって拡げられてゆき、奇跡の印を行う聖霊がメシア信仰を誘い、なおユダヤ教に留まっていた人々にも門戸を開いて受入れ続けてもいたのであるから、それは拘りや遺恨を越えて、誰であっても神を敬おうとする人を世界をひとつキリストの下に結びつけ始めたのである。

では将来、再び聖霊が到来するときにはどうなるのであろうか?
つまり、真にキリスト教が回復されるであろう時に、現今の宗派の義が何の意義を保ち得るか。
いや、どのような宗派に属していようと、聖霊への信仰を通して再びキリストの下に合一すべきであるに違いない。

もちろん、邪悪を憎むゆえに義憤を覚えることは自然なことではある。
しかし、今日まで人間社会は、様々な主張の異なり、ドグマや教理の違い、そのうえ人種や民族性の差異に、憎しみの隔ての壁を打ち立て、容易に敵意を煽ってきたのだが、その原因と言えば、それぞれの持つ「自分の義」ではなかろうか。であれば、それは『神の義』の前に道を譲らなければならないものではないだろうか。

確かに、律法契約は神からのものであり、キリストも言うように『一点一画も朽ちるものでない』。そこには絶対的正義もあり、イスラエルに生まれたからには有無を言わさず守る義務が生じた。
だが、キリストの現れによって、その硬直的で絶対の正統性は大きな局面を迎えていた。
即ち、生まれによらず、個人の信仰による相対的な義の到来であり、それは自分の子供に強制できるものではなくなる。

だが、キリスト教の宗派でも、建前はともかくも実質的に子供に信仰を強要するケースが無くもない。
それは言わばユダヤ教的で絶対的な正統を唱える場合に避け難い傾向である。
しかし、それはキリスト教の唱える「神の義」とは別物の「人間の義」というべきものである。キリスト教の神髄は個人の信仰にあり、それは強制できるものではないからである。
キリストのような精神を反映しようとする以前に、これらの「余分な義」が邪魔をしていたのでは、その「キリスト教」に意味は無いであろう。キリストの名を騙る「宗派の義」などは特に厄介なものである。

イエスは使徒らにこう語ったものである。
『聖霊が到来するときにあなたがたは力を受け、ユダヤとサマリアのすべて、そして地の絶え果てるところまでもが、わたしを証しする者らとなるのである』。(使徒1:8)

「終末」と呼ばれる将来に再び聖霊が注がれるとき、宗派という崇拝の方式に何の意味が残るだろうか。







             2014   © 林 義平    
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