アンブロジウス 俗世との岐路に立った男
(短編並長文二万三千字超)
 

ナザレ村のイエスとローマ総督ポンティウス・ピラトゥスという、まるで異なる世界の二人が出会い、実際に言葉を交わした場面があったということは、神に属する人と世俗の権威との象徴的な邂逅であったといえよう。
このふたりの会話は、周囲の敵意に満ちた怒号や喧噪をよそに、静かで平和的なものであり、そこでは少ない言葉の内にキリスト教の本質について話されていたのであった。

これがユダヤの大祭司とローマ総督の会合であれば喧嘩腰という以上に余り意味も無い。それは「この世」を挟んで仲も良くない似た者同士の権勢を巡る駆け引きだからである。
 
だが、ピラトゥスは民に奇跡の癒しを行う人との噂に違わないイエスという人物に徒ならぬものを感じる。そこに妻からの不思議な知らせも届き、その気持ちは増したに違いない。
そこで『その義人』を釈放しようと何度も試みるのだが、イエスの同朋であるはずの宗教勢力はこれを頑として退け続けた。それは当時のユダヤ体制派の不信仰と頑なさが、もはや拭えぬほどに染みついていることを証しするものでもあった。

だが、その渦中にあって、キリストと総督の間に交わされた会話から、キリスト教というものが世俗権力とどのような立ち位置にあるのかが、そこに示唆されていたのである。そしてそれは小さな問題ではなく、キリスト教というものの本質を明示するものであった。

まずイエスが宣明してきた『神の王国』が総督の審問で問題とされた。
これはローマ総督にイエスを訴え出たカヤファやアンナスらの祭司長派が、ローマ帝国に抗う『別の王』を僭称したという罪状を述べ立てたからであった。

当時のユダヤはローマの直轄領であり、ガリラヤはヘロデ・アンテパス王の領土であった。
しかし、ユダヤは「預言者たち」が予告を続けてきたメシアを待望しており、時折にメシアを自称する輩が現れては騒動を起こしていたので、イエスを裁いた祭司長派は、このナザレ人をそれらの偽メシアとして処罰するよう総督に願い出たのであった。

つまり、イエスは王を僭称して新たな政治権力を持とうとしているが、これはローマへの謀反であり、『総督よ、この者を処罰しないなら、あなたはカエサルの友では無い』とユダヤ人は、自分たちに関係も薄いカエサルへの忠義立てなどまで持ち出してピラトゥスを脅しにかかる。

だが、総督はイエスに具体的罪を認めない。なぜならイエスはローマ帝国に何らの敵意もなく、実際に武力闘争を行ったわけでもない。誰も殺めず傷つけず、却って多くの奇跡を以って人々を癒して回ったという宗教的清さの漂う人であるのに、宗教領袖と群衆はまるで反対に重罪の訴えを起こして憚るどころか固執しているのである。

そこにピラトゥスは宗教家らのイエスへの嫉妬を見抜き、ますます擁護しようと努めるのであった。
総督にとってまず第一の問題は、イエスが「王」を僭称するようなユダヤ主義武装集団の頭目であるか否かである。
ピラトゥスに向かって、イエスは自らが王であることは否定せずに、その「王」がどのようなものかを明解に語る。
『わたしの王国はこの世のものではない。もし、そのようなものであったなら、弟子らはユダヤ人と闘ったであろう。しかし、わたしの王国は実にこの世のものではない』。

そこで総督であるピラトゥスは、イエスが王であるか否かに意を向けており
『それではお前はやはり王なのだな』。と念を押す。

イエスは答えて、この異邦人の支配者にメシアとしての別の側面に言及する。
『わたしが王だとは、あなたが言う通りだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』

さらにピラトゥスは『真理とは何か?』と訊くのだが、既に『わたしの王国はこの世のものではない』と述べるイエスが危険分子ではないことに得心がいったようで、この問いに答えを求めるでもなくそのまま群衆の方に出て行き、『わたしはこの者に何の罪も見出さない!』と叫ぶ。

しかし、この支配権に限定された会話を通して、イエスがこの以前に多くの例えで語った『神の王国』の本質が、ここでは比喩によらず明らかにされている。それこそは、ローマ帝国の権威との素のままの語らいであったと言ってもよいであろう。
帝国の代理者ピラトゥスは、王イエスが治めるという「王国」に一切の脅威を感じることは無かったし、イエスが民を煽動して騒動を焚き付けるような「メシア武装活動家」ではないことがはっきりしたが、これはイエスに殺意を抱く祭司長派からすれば大いに不満であったに違いない。

イエスを訴えた者らは、俗世の権力との衝突を焚き付けて煽ったのだが、イエスの唱える「王国」についてピラトゥスが幾らか聴取したところで、祭司長派の画策した「権力を衝突させる」という思惑はまるで当てが外れたのである。

確かに、イエスの弟子らはユダヤ人とも闘わなかったといってよいであろう。
この前の晩には、彼らがイエス捕縛のために差し向けた武装集団にペテロが剣を振って一人の耳を切り落とすという事はあったが、イエスは即座にその耳を癒して、ペテロに『剣を納めよ!剣を執る者は剣によって滅びるのだ。』と諭している。それは却って弟子らの武力行使を印象深く戒めるための場面となった。そして弟子らはといえば、十二使徒も含めて逃げ散っていったのである。

このようなキリストの態度に比べ、ユダヤの教えは軍事をも含むのである。本来ユダヤ教はイスラエルの国家宗教である以上、モーセの律法には軍法も含まれざるを得ない。
古代イスラエルはパレスチナ入植に際して軍事力を行使し、信仰を変えない異教徒を殲滅するよう神から求められていたし、異教諸国との争いはその後も断続的に行われてきていた。ユダヤ教とは戦う国家宗教であったのだ。

ダヴィデの王朝を失って以降では、ハスモン朝期の軍事行動が歴史上に目立っているが、その後はポンペイウスやヘロデ王統に降り、イエスの時代にはローマ直轄領であったその時代、ユダヤは正規軍を擁していなかったものの、サンヘドリンには守備隊が付属しており、ヘロデ・アンテパスⅡ世の下には支配地域の軍勢があった。あのイエスに茨の冠をかぶせて軽蔑した兵士らがその一部である。

このように歴史を通じて宗教国家として軍事力を擁してきたイスラエル=ユダヤを見ると、イエスの教えの革新性が明らかになる。
それは「権力に関わりを持たない宗教」、「世俗から離れた王国」という、それまでにない宗教概念の現れと言えるのである。

キリスト教というものが、権力の原資である軍事力や警察力を持たないものとするなら、そのキリスト教というものは、まさに虫が蝶になるように、ユダヤ国教を脱皮してあたかも別のまったく美しい生き物であるかに羽化したように、ユダヤ教とは異なる姿形を得たことを意味しないだろうか。

つまり、ユダヤ教のような政治と結びついた宗教を後にし、暴力という本質を有するあらゆる権力から解かれ、新たなるアガペーという愛を説く美しい姿を見せるものがキリスト教と言えるであろう。

しかし、大半の歴史に刻まれたキリスト教の姿と言えば、けっしてそのように美しいとは言い難い。例えれば、中世欧州の野蛮さをキリスト教が浄化したかといえば、けっしてそうは言えない。
 
教皇が参加者に全贖宥を与え天国行きを請け負った十字軍の兵士や民衆は、却って良心の咎めという轡を外してしまい、行く先々で暴虐三昧を繰り広げ、イスラム教徒だけでなく多くのユダヤ人も「主殺しの民」との罪状を根拠に殺害していったが、それも単なる殺人ではなく、ほとんどが生きながら焼き殺すなどの惨殺であった。それも二度や三度で終わるものではなかったのである。その悪行殺戮軍団の派遣は、正規のものだけで九度に及んでいる。

宗教改革期もまた流血の時代を招来してしまい、ドイツの農民、チェコのフス派教徒への弾圧の流血だけでは収まらず、新旧の勢力が自派の正義を信じ込んで南欧や北欧から参戦し、中部ヨーロッパを各国の新旧宗派の諸侯の軍隊が入り乱れて駆け回った。そのため主戦場となったドイツは著しく疲弊し、そこに飢饉とペストが蔓延したものであるから、その進歩を百年遅らせたとまで言われている。

銃砲の兵器が一般化したのもこの時期で、砲弾内に火薬の詰められた榴弾が「開発」され、戦いはいよいよ近代戦に近付いて損害をますます大きくした。榴弾砲が「ホヴィッツェル」[Howitzer]と呼ばれたのは、痛ましくも、これがまずフス教徒弾圧に使用されたからであるというのである。
これらの武器はすぐに日本にも輸入されている。16世紀のキリスト教伝播の時期に銃も伝わっており、戦国期の必要から自国生産され、17世紀初頭には世界の三分の一以上の銃が日本に在ったという。それをキリスト教国から学んだのであるが、その後、泰平の時代が訪れると銃は強い規制を受けている。

こうした武器の非常な発達は、キリスト教界に於いて起こった。
宗教改革期の動乱に乗じて、狂信的千年王国を樹立(1534-35)したドイツ北部の都市ミュンスターに対する司教侯側の攻囲で用いられた射程の長い「蛇砲」(カルバリン砲)も徳川家によって輸入され大阪城攻撃に用いられているが、それらはキリスト教徒同士の戦争に明け暮れた西欧で発達した最新兵器であり、その後、西欧の植民地征服においてこれら宗教の戦いで開発した新兵器が用いられ、「キリスト教徒」は武器の優位性から現地人を奴隷として屈服させていったのである。

日本では、その後にキリスト教の方は禁令に付され、多くのカトリック信徒が過酷な迫害に命を落としている。
幕府側はキリスト教の政治的影響を懸念したであろう。つまり、ヴァチカンの政治的影響が国内に入ることを阻止したのであり、キリスト教を禁令に付すのも西欧の植民地化されることを警戒してのことであった。明治以降に日本が「和魂洋才」の姿勢をとったのも、西欧の植民地支配を食い止める必要に促され、明治維新の二世紀も前から採用されていた日本人の自然な立ち位置であった。

即ち、日本においてキリスト教とは、西欧人の諸国への横暴と強く関連付けられて今日に及んでいるというべきで、キリシタンの殉教も宗教的争いというよりは、よほど西欧権力への牽制の犠牲であったのである。

ヨーロッパではドイツ諸侯がアウグスブルクの和議を結ぶが、それは宗教と権力の入り混じった闘争にすっかり疲れ果ててのことである。その条約によって新たな体制が造られてゆく中で、独立主権と内政不干渉の原則、そしてドイツ領邦教会(Landeskirche)が姿を現す。領民の宗派を決めるのは領主であり、それを肯んじることのできない領民は生業を後にして他の領邦に移動するほかに方途はなかった。

やがて教会は国家の中に経済的に接収され、聖職碌は教会税を資源とするようになって、今日でもそうされているように、ドイツでは国家が国民から徴収した税の一部を教会に支給するものとなっていった。そこには相変わらずの政治と宗教の慣れ合いが観える。

その後も、西欧列強の植民地争奪戦の最中で「布教」も行われるが、その時代は強制や拷問さえ用いるものが見られたうえ、各宗派が相互に勢力争いを繰り返してもいたのである。
その過程で異端審問があり、それは「異端」の名の下に宗教家の都合で多くの犠牲を強いた。正面からキリスト教を究めようと真剣に努める者、また翻訳者、出版業者までが数知れず命を落としている。

こうして西欧は宗教の絡んだ植民地争奪戦を行いつつ、やがて産業革命を迎え、それは社会構造を変革し、搾取を挟んで労働者と実業家の争いに転換し始める。
同時に科学崇拝が姿を現す過程で、フランスは遂に共和政の下で「公共の無宗教」(laïcité)に着手し、流血まで見ながら百年をかけてカトリックの政治に及ぼす影響を振り払う。

ドイツでは、キリスト教信仰そのものに矛先を向ける「ヘーゲル左派」や「牧師の息子たち」と呼ばれる「チュービンゲン学派」が台頭し、宗教を科学的に分析する「高等批評」によって、「自由主義神学」を興して、実際にはキリスト教信仰を「科学」の名の下に内部崩壊させたが、ベルリンの学派は、遂に「宗教はアヘン」とまでする新しい「赤い宗教」に至るのであった。その好戦的精神は21世紀の今日なお動かし難く存在し続けている。

これらは、キリスト教が行政に影響を及ぼすことからの反対行動や回避とみることができるが、逆説的に、これらの運動は宗教が政治にもたらす影響が小さくないことを表しており、人々の大半は依然「クリスチャン」であったのである。

後の二十世紀の世界大戦は人類に激痛を与えるものであったが、これらもやはりキリスト教国から始まっており、それも二度までも行って、キリスト教国が新開発した核兵器を二度使用して後、その巨大な暴力によってもはや国家間の総力戦が人類の存亡や地球環境の癒し難い破壊を意味することを悟るようになって初めて「恐怖の均衡」というネガティヴな抑止力から強国同士の戦争を躊躇するようにはなったのだが、その後の局地戦の頻発は21世紀の今日、愛国主義や宗教対立を強まりを表しており、人間というものは戦いを止めることのできない宿痾に冒され続けて、その歴史を刻んで来たかのようであり、もう十二分に苦痛を味わったであろう。


さて、その連綿と続く歴史の中にあって、キリスト教社会はイエス最期の日のピラトゥスとの静謐な会話の中で語られた『この世のものではない』という言葉に即してきたと言えるだろうか。
だが今日、国民の大半が「キリスト教徒」である国家に軍事力を捨てよ、と命じることは超え難い矛盾を孕んでおり、到底無理である。

その矛盾をきたらせる原因こそが、イエスの言われた『この世のものではない』はずのキリストの教えが、いつの間にか「この世」の政治権力と合体し、ユダヤ教のような「国家の宗教」に戻ってしまっているところに問題がある。いや、現在のキリスト教の国々が、例え他のどんな宗教を奉じていたとしても結果は似たようなものになるに違いない。

何故なら、暴力を必要とするものが「この世」というものであり、本来の「キリスト教」と「この世」とはまったく異質なものであって、けっして相容れないからである。それこそがイエスの『わたしの王国は実にこの世のものではない』とローマ総督に語った言葉の真意であろう。

「この世」が権力を手放すことは絶対的にできない。
その理由は、人間の不倫理性、またその根源としての「アダムからの罪」という貪欲にある。イエスの弟ヤコブはこの点を端的な言葉で見事に指摘しており、その教訓を人類は一向に学んでは来なかったし、今後も世が終わってしまうまで、そのようなそぶりさえ見せないであろう。

『あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。
それはほかでもない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
あなたがたは、貪るが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い、戦い続ける。
だが、あなたがたは、求めないから得られないのだ。
つまり、求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからなのだ。』

それゆえヤコブは世についてこうも言うのである。
『不貞の輩よ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするものなのだ
。』(ヤコブ4:1-3.4)


それでは、いったい何時、どのようにキリスト教の弟子らがこの世の友となり、争う主体者と成り果てたのだろうか?

そこで歴史のゲージを引き下げて見てゆくと、第四世紀という百年間に行き当たる。
この百年の前と後とではキリスト教の姿がはっきりと異なっているのである。

第四世紀の初頭、西暦303年にローマ帝国史上最も過酷であったとされるディオクレティアヌス帝によるキリスト教迫害が始まっている。
この時期のキリスト教は依然として迫害される少数派の宗教であった。

しかし、百年後に目を向けると、そこではローマ帝国は権力が東西にはっきり二分割されており、しかも度重なる蛮族の侵入によって西ローマ帝国の権勢は風前の灯となっている一方で、キリスト教は異教も異端も迫害する強権的国家宗教となっているのである。即ち、ローマ帝国の国教となったキリスト教の姿がそこに在る。

当時の皇帝たちは蛮族に擁立される程に西方帝国の権勢は地に堕ち、国庫は空となっていた。それは恰も、歳経て老境に達し、大国としての足取りも覚束ないかのようである。
こうした中で、ローマ司教座は、最高位を唱える絢爛豪華な教皇の御座所となっており、やがて第五世紀に現れるローマ教皇レオⅠ世(440-461)は、ローマを包囲したヴァンダル族を宥めてローマを強奪や破壊から守り、異教フン族のアッティラ大王を宥めてイタリアとフランスを守っている。それはまるで西欧の皇帝のようではないか。

こうして、西の帝国の衰退は、西欧地域の民にローマという精神的中心をカトリックのローマ司教座に求めさせる強力な誘因ともなっていた。帝国の消失は西欧に癒されるべきカオスをもたらしていたのだったが、いまや新たな主人が現れていたのである。それがローマ司教座の就く「教皇」という、名目上は政治家でない西欧地域一帯を治める主人である。
 
この状況をその百年前と比較すると、キリスト教の変わりように目を見張る。
帝国による迫害の嵐に翻弄されていた少数派のキリスト教が、次の世紀にはローマを代表して蛮族の狼藉からかつての帝国領内を守るまでに権力上の力をつけているのである。

では、第四世紀というその百年間にいったい何がキリスト教に起こっていたのだろうか?

イエスはローマ帝国にせよ、ヘロデ家の支配にせよ、一言もその支配に口出しをしたことはなかった。政治に関わらないイエスはまったく宗教の人であったのだ。それゆえ、ピラトゥスもイエスに何の脅威も見なかったのである。
その使徒たちも同様であり、為政者に何かを進言するようなキリスト教の嚆矢は、キリスト教徒への迫害を思い留まらせる目的で書かれた多くの教父たちによる護教論ではあったが、それは請願ではあっても政策に意見するものとは言い難い。

だが、為政者に意見し、政策を補佐することさえ踏み越え、譴責し指導までするというキリスト教指導者の姿を第四世紀の後半にはっきりと見出すのである。
その人物は政治家から司教となって、皇帝をさえ自らの指導するべき信徒とすることに遂に成功した稀なるキリスト教の「信奉者」であり、それまでのキリスト教とその人物後のキリスト教は、権勢を帯びたことにおいても、ヘブライの原始的教理を捨てさせてヘレニズム式のものを採用させ帝国に公認させたことによっても、キリスト教を大きく変質させたのである。

その人物の名前は、アンブロジウスという姓だけが知られているだけで、兄サテュルスや姉マルケッリーナのようには個人名は知られていない。「聖アンブロジウス」として余りに有名になった代償というべきか。父アウレリウスの名から、アウレリウスを冠して呼ばれてもいる。

「第三のローマ」とも呼ばれたアウグスタ・トレヴェロールム(現トリアー)に地方長官の息子として生まれたが、この城市が西帝の本拠地とされることが多かったことを考えても、彼の父アウレリウス・アムブロジウスの地位は低くはなく、家系は由緒あるローマ貴族の流れである。

他方で、キリスト教の趨勢については、当時このような「外地」では多くの異教徒の中にキリスト教徒が増え始める途上にあり、その大半が三位一体説ではないところのケルト人による一神論のキリスト教徒が当地には多かった。実際、今日のオランダからドイツにかけての地域では、このころアイルランドからブリテンに勢力を持っていたケルト教会の布教が強く、彼らが異教欧州にキリスト教を教えている最中であり、ローマが力をつけるのはまだまだ先のことであった。
北イタリアの状況も同じく、未だ三一派はエジプトで産声を上げているような状況を脱したばかりの幼児のようであり、アンブロジウスの世代の後にローマ帝国が分裂してからも、ゴート族、ブルグンド族、ロンゴバルト族、ヴァンダル族なとのイタリアに南下してきたゲルマン諸族は揃って一神論のキリスト教徒のままであった。

さてアンブロジウスについては、成長して16歳でローマに移り勉学に励んだ後、リグリアとエミーリアの長官としてメディオラヌム(現ミラノ)赴任する。それは西暦356年、およそ26歳のことである。現代なら新卒採用で知事の地位であるから、相当に恵まれた家庭環境であった。

おそらくは父親の働きかけもあってのことであろう、メディオラヌムといえば、宮廷の所在地であり、この時代の皇帝は北方からの蛮族との戦いに明け暮れ、宮廷の御座所とはいえ、皇帝は前線に出ていて不在であることがほとんどであった。その皇帝の前線基地のひとつが彼の誕生の地であり父が長官を勤めたアウグスタ・トレヴェロールムであったのである。

それでもメディオラヌムは宮廷の置かれるに相応しく整えられ洗練された城市であり、多くの地位の高い文官や宮廷の人々との交渉の多い機会に恵まれるという出世に非常に有利な場所であったと言われる。

さて、当時の宗教事情からすればキリスト教は少数派であり、大多数の昔ながらのヘレニズムやローマの神々の崇拝者の中に、キリスト教徒が羊の群れのようにあちこちに点在している様子が窺える。
いまだ、キリスト教徒は次第に教勢を増しつつある過程で、少しづつ高官の中でもキリスト教徒らしい者らが増えつつあった。

その原因の大きな部分は皇帝がキリスト教に一際助力していたからであり、その趨勢はコンスタンティヌス大帝の登壇に由来するもので、アンブロジウスが赴任する43年前の同じくメディオラヌムで出された勅令によって、それまで専ら迫害を受けるばかりであったキリスト教徒に財産や集会場所が返還されて以来の流れであった。

そこで、出世を願う人々は進んでキリスト教徒に宗旨替えをするという、奇妙な変化が起こりはじめていたのであった。
しかし、アンブロジウスは宗教に然程の関心があったようには見えない。それゆえにも、後に数日での宗旨替えも可能となったのであろう。

アンブロジウスがメディオラヌムに赴任したその同じ356年には、三位一体派が如何に少数派で弱体であったかを象徴するようなことが起こっていた。⇒三位一体説の来歴と影響
それがフランス中部のピクタヴィウム(現ポワティエ)で三位一体を擁護していた司教ヒラリウスのフリュギア(トルコ)への追放であった。⇒ ポワティエのヒラリウス

時の皇帝コンスタンティウスⅡ世は、ニカイア会議の議決を翻した先帝に倣い、古来の一神論派(「単性派」は「単性説」との混同が生じ兼ねないので「一神論派」とする)
を支持しており、この年に皇帝は南仏のベジエで宗教会議を開催し、その議決として、三一派のヒラリウスを、つまり策略を以って各地の一神論派司教らの排除、追い落としにかかっていたピクタヴィウムの一党を、南仏の三一派共々退けたのである。

三一派の敗北はこればかりではない、三位一体説そのものが現れたのが、諸国の宗教の交差点「世界の結び目」とも称された「宗教と哲学の坩堝」エジプトのアレクサンドレイアであったが、そこの司教であったアタナシオスも、アンブロジウスのメディオラヌム赴任の前年に第三回目の追放に遭い、自らエジプト南端の砂漠に逃避し、そこの隠修士らのところに身を隠していた。

このようなキリスト教の状況は、今日の大半が三位一体を信じてやまない所謂「クリスチャン」方からすれば真に意外に思うことであろうが、当時まで、三位一体派は新参の少数派に過ぎず、今日に多く目にする「大多数を占めていた正統的三位一体派の中から少数のアリウス派という異端が現れた」というような「解説」は不適切な政治的意図を匂わせるまったくの誤謬と云う他ない。

歴史を紐解けば、そこに見るのは逆であって、ユダヤ教以来の一神論であった普遍的(カトリカムな)キリスト教の中から三神一体のエジプトやインドの異教信仰の手を借りて、キリストを唯一神の座に祭り上げようとする新らたなムーヴメントが「三位一体説」の姿であり、もちろん聖書にもないこの概念の担い手は、第四世紀の当初はエジプトのアレクサンドレイアの司祭団以外に見るべき人物も教派もなく、それは三一説の誕生地がエジプトであったことを物語っていよう。

そこに宗教化していたギリシア哲学が絡む。当時のギリシア哲学の中心は既にアテナイを離れ、アレクサンドレイアとなっていた。そのエジプトは多くの三神崇拝で溢れていたのである。プラトンの「国家」に見られる「聖三角形」、オシリスの三神柱、三つの顔を持つ女神ヘカテー崇拝の流行など、当時の垢抜けたヘレニズム神秘主義の流行は、ユダヤ的に純粋な一神教を野暮に見せる。しかも、キリスト教にはイエスという大きな存在があり、人間として身近に感じさせ、しかもキリスト教徒とユダヤ教徒の仲は非常に悪かった。その地で「三一派キリスト教」の登場する素地は十分に整っていたと言えよう。
 
しかし、キリスト教界から唐突に三一派を唱えようとすることには、当然反発があり、アレクサンドレイアの地元の経験豊かな助祭アレイオスからさえ指弾されてしまっていた。
一神論者を表す「アリウス派」は、当時の司教アレクサンドロスの横暴な三位一体への歪曲に抵抗した同じエクレシアの助祭アレイオスにちなむ名を蔑称とされたのであって、助祭アレイオスが何かの新説を唱道などしたわけではない。これは大いに誤解されているというべきである。

そこで当時、アンブロジウスがメディオラヌムに赴任したときにも、その地の趨勢はやはり旧来の一神論派にあった。
当時のメディオラヌムの司教(エピスコプス)はアウクセンティウスと云い、一神論を奉じるギリシア人であってラテン語はできなかったと云われている。

彼の前任者ディオニュシオスが三一派であったが、355年に皇帝によって開かれたメディオラヌムの会議で追放されていた。 そしてヒラリウスの追放はその翌年である。したがって、この355年のメディオラヌムの皇帝会議は一神論派にとっての凱歌のようであった。
この三一派のヒラリウスが、このメディオラヌム司教アウクセンティウスを何とかその地位から引き摺り下ろせないものかと画策するその標的としていたのだが、それが今や、逆にヒラリウスの方がフリュギアに流されてしまっていたのである。この一件から、却ってアウクセンティウスは皇帝の庇護を受けるのであった。

さて、当時の「ローマ教皇」の方は、未だローマ司教ではあってもローマのキリスト教首位権はまだ存在せず、後の「教皇」という超絶的権威には程遠い。殊にアンブロジウスのメディオラヌム赴任の頃のローマ司教リベリウスと言えば、今日まで連綿と続く教皇の中で珍しく列聖されていないのである。

その理由といえば、どうやら一神論派と三一派の勢力争いの渦中で、皇帝に流刑に処されては一神派となり、後にローマに帰還しては三一派に戻り、と日和見的に振る舞っていた件が災いしたという。この頃、かのアタナシオスがローマに「追放」されていたこともあったのだが、ローマのキリスト教徒は彼を厚遇し、その教えを尊重さえし始めていたのである。

このようにアンブロジウスがメディオラヌムに赴任した370年という年のローマ帝国のキリスト教環境を見ると、ニカイアで決着をつけた筈のキリスト教論争も、アレイオスと同門のニコメディア司教エウセビオスの慫慂によって、またまた「キリスト教擁護者」のコンスタンティヌス大帝の心変わりで議決が覆され、振り出しに戻っていたというべきであろう。相変わらずキリスト教徒は旧来の一神論か新たな三一かで分かれ、大いに揺れ動いていたのである。皇帝は相変わらずキリスト教の守護者であったが、コンスタンティヌス大帝の息子たちからユリアヌスに至る前までの皇帝は皆が一神論派の擁護者であり、三一派は肩身が狭かった。
 
そして、皇帝の庇護を受けメディオラヌムでは三一派から一神論派が司教座を取り戻していた。これを地方長官として異教徒アンブロジウスはどのように見ていたのであろうか。

だが、アンブロジウスがこれに関わらざるを得なくなる事態がメディオラヌム赴任から5年後に訪れた。一神派のメディオラヌム司教アウクセンティウスが逝去したのである。

それまでメディオラヌムでは一神論派と三一派の勢力が、司教の交代もあって押し合い圧し合いしていたが、ここ18年は一神論派の司教であったので、三一派にしてみれば大きなチャンスであり、ここで劣勢を挽回し、広いバジリカを占有して教勢を盛り返したかったことは明らかである。

両派は鎬を削って渡り合い、共に一歩も引かぬ覚悟で、次の司教を自派から擁立しようと争ったが、それは時にキリスト教徒らしからぬ騒擾にまでなってしまい、大半が異教徒やマニ教徒らで構成されるメディオラヌムの一般市民までをも巻き込んでの粗暴で危険な街としてしまいつつあった。

前述のように、メディオラヌムは帝国西方の要衝。多くの皇帝が宮廷を置いてきたことではローマやコンスタンティノープルと比肩するほどの帝国の要となる城市である。
そこの長官がこの騒擾を無為に眺めることなど許されようはずもないであろう。

アンブロジウスは男盛り44歳になっていた。
この辺りの話は、彼の近侍でもあった伝記作者パウリヌスが伝えるが、アンブロジウスが十五の奇跡を行ったという霊験灼かなありがたい物語に創作脚色されているという評価が専らではあるが、幾らか伝えられるところを書き出すと

両派への調停に乗り出し、和解を探っている最中に一少年が『アンブロジウス司教さま!』と叫んだところ、それは衆人の喝采を浴びるところとなってしまったが、それは一笑に付すエピソードで終わらなかった。その後、三一派が本気でこの異教の長官を司教にしようと動き出したという。
一神論派は名高い宣教者ウルフィラスの養子でアレクサンドレイアでディアコノスを経験していたこともある前任者と同名のアウクセンテイウスを準備していたが、おそらくは、三一派は人材に事欠いてもいたのであろう。 

アンブロジウスの雄弁は有名であったというが、確かに残された彼の説教集を読んでも、言葉の荘重さや論理の提出の周到さに驚かされるところが多い。
後に、ヒッポの司教となる、かのアウグスティヌスがその弁舌に学ぼうと彼の講話するバジリカに足を運んで来たほどのものである。
これほどの弁士であれば、是非とも我が宗派にと思ったであろうことは、想像に難くない。

しかし、彼はこの司教叙階の話を拒む。 これは当然であろう。
行政に当たるべき長官が、そのまま司教にスライドするなどということは、今日に置き換えて考えても到底適当には思えない。しかも、その人物はキリスト教徒ではないのである。
仏教徒の東京都知事が、突然に洗礼を受けたかと思えば、わずか八日すると東京教区司教として目白のカテドラルでキリスト教の説教を始めるようなものである。

しかし、三一派は容赦なく叙階を迫ってくるのであったもので、独身の彼は娼婦を二人雇い入れ、自分の家に住まわせて見せ、これなら叙階もされまいと安堵したというのである。彼自身は女性の化粧をひどく嫌っていたといわれるが、ここでは相当に我慢をしていたことであろう。しかし、その苦労も報われずに終わってしまう。

「キリスト教徒」は「そんなこと」で怯みもしなかったからである。
さあ、司教に叙階をとばかりに責め立てられたものだから、とうとう夜逃げを決行するに至ったという。雌の「ベッタ」という名のロバに乗って、「走れベッタ!」と喝を入れて逃げ出したが、しかし、そこは「神さまがアンブロジウスに道を間違えさせ」サン・シーロと呼ばれる区域を出るところで、気の毒な夜逃げの長官は、それと気付いた群衆に捕まえられてしまったという。(ミラノ市内の「コルベッタ」の地名は「それ(行け)!ベッタ」から来ているという)

だが、この辞退も逃避も地方長官としては適切なことであったに違いない。また、立場は違えどキリスト・イエスが自分を王にしようとする群衆を逃れて山に祈りに籠ったところを彷彿とさせるところもある。(ヨハネ6:15)
また彼は、司教を引き受けるにしても皇帝の裁可を仰がねばならないと言った。これも「キリスト教徒」には彼の時間稼ぎのように見えたかも知れないが、良識的な判断であろう。あるいは一神派を推進する皇帝ウァレンティアヌスが彼を「窮地」から救い出してくれたかも知れない。
しかし、三一派キリスト教徒はそれも待たなかった。
彼はバプテスマから八日で叙階されたとも伝えられるが、どうやらバプテスマが先か否かも怪しいらしい。

ともあれ、根負けした彼は三一派に担がれて本当に「アンブロジウス司教さま」となっていた。政治家が突然その意によらず、メディオラヌムのキリスト教指導者となってしまったのであった。
この一種お祭り騒ぎのうちに、ピラトゥスとイエスの会話はどうやらかき消されていたようであり、それはたいへんな「パン種」を撒いていたのであった。


そしてその頃、ローマではキリスト教が一神論から三一派へと流れが変わる動きが既に起きていた。前述のようにアタナシオスはローマにも流刑にされており、その間に三一論をローマで吹聴していたので、素地は形成されていたというべきであろう。そこでさらに、転向の鍵を握る人物がダマススであった。

この人物は、ローマ教皇ダマススⅠ世(位366-384)として知られるが、そのローマ司教の座を手に入れるのに対立するウルシヌスの側の擁護者を殺してゆくことを躊躇しなかった。酷いときには一日で137の他殺死体がキリスト教の会合の行われていたはずのシシニヌスのバジリカから発見されたこともあると、マルケリヌス*はその「ヒストリア」(Res Gestae)に述べている。そればかりか、366年に司教座に就いてからも、殺人を止めなかったと伝えられる恐るべき「権力者」であった。*(Ammianus Marcellinus

ダマススはローマ司教座を指して「使徒の座」と称し、ローマ司教のキリスト教の首位権を主張し続けた。これが後の「ローマ教皇」へと変貌を遂げてゆくことになる。
その点では、ダマススはその実態を先取りしたかのようにキリスト教徒らしからぬ貴族のように贅を尽くした生活を送り、輝く黄金や珍しい大理石で飾られたバジリカで多くの貴婦人を魅了しつつ仰々しく振る舞い、女性との浮名を流してもいる。

そのバジリカの光輝あるさまは、ユダヤ人が金銀レバノン杉を用いて神に対して専らに栄光帰したのとは異なり、ローマの司教座を飾りたて、他よりも抜きん出ようとしたのであって、詰まる所、ダマススが自分に栄光を帰したかったのである。

しかし、帝国内外では相変わらず、一神論のキリスト教徒が優勢であり、東方ばかりか、西方に於いてもローマの首位権を認めようとしない司教たちも存在していたのが実情であった。この点、三一派のアンブロジウスでさえもこのローマ司教には遠慮会釈もなく行動していたというべきであろう。

それでも、キリスト教に地上の中央を設けるという誘惑に乗る場合、その名もローマという万人が納得し易い場所に、それに見合う贅沢で輝かしい場所と大仰な人物が備えられたということでもあった。

アンブロジウスは、日本語で言うところの「郷に入らば郷に従え」に相当する「ローマではローマの方法で」の格言でも知られてはいるのだが、実体は、地元のメディオラヌムの司教座にあって、ローマとは幾分張り合うようなところがあった。
メディオラヌムでは、アンブロジウスの叙階以前にメディオラヌム式の崇拝を持っており、それはローマのものとも異なったものであった。例えれば、メディオラヌムではバプテスマの儀礼を受けた者には続いて洗足の儀式が行われたが、これはイエスの最後の晩におけるペテロへの『水浴びをした者は足を洗ってもらうほかは清い』との言葉にちなむものであるが、これは北イタリアから南フランスにかけて広がっていた風習であったという。

アンブロジウスは、これを行わないローマ典礼に苦言を呈したことがあったが、それもローマに対するメディオラヌムの対等性、あるいは優位を印象付ける目論見からのことであったろう。つまりは教理も政治的に利用する口実であったのである。
ともあれ、この時代のローマ司教の権勢はダマススをもってしても、アンブロジウスには対抗できなかった姿がそこに窺える。しかし、ダマススはその贅沢を以ってローマをキリスト教の頂点とする下地を作りつつあり、やがて後述するように、エジプト式キリスト教が政治状況から君臨することになるのである。

さて、アンブロジウスが司教に叙階されてまず行ったことは、財産の処分であり、役職柄から相当な蓄財があったが、これをまったく捨てて困窮者たちに与えた。
これは、富んでいて財産を惜しんだためにキリストの弟子とならなかった聖書中の例を意識したものに違いない。そうして自らの司教職の上での経験の無さを補い、衆目に得心を与えることができたであろう。何しろ、彼はバプテスマを受けて八日で叙階されたというのだが、確かに、この財産処分の潔さをダマススに観ることはまずない。

それから彼は聖書の知識の習得に励むが、彼はギリシア語に通じてもいたので、セプチュアギンタばかりでなく東方の多くの著作に直に触れることができた。
聖書の他の資料で初期に学んだものは、フィロンの「アブラハム論」であったとされているが、それは彼に大きな影響を明らかに及ぼしている。その旧約の事跡にちなむ対型論の方式をアンブロジウスは盛んに援用することになってゆく。

また、雅歌に関する比喩が多いのには、カッパドキア派の影響が見える。大バシレイオスをはじめとするこの派閥は、この時期にアタナシオスを介してエジプト式キリスト教に近付き、連合を組み始めていた。(三一派の十字架崇拝は、おそらくこの派から混入してきたように思われる) 

そこでアンブロジウスを評すれば「旧約の人」と言ってよいようにさえ見える。
旧約から話す傾向が強いというに留まらず、思考法も旧約的なのである。
これは以後のキリスト教界に決定的な方向付けを与えることになる。

本人はまったく意図せずに、教理教育も信仰も関係なく、いきなりに三一派の指導者となったアンブロジウスであったが、彼は自分の時代におけるキリスト教の有様を、教理を優先する宗教家としてではなく、政治家の観点から見たことはまず間違いない。

そこでは、大帝コンスタンティヌス以来、皇帝が関わることによって教勢は一神論派にも三位一体派のどちらにも傾いてきたのである。
彼はピクタヴィウム(現ポワティエ)のヒラリウスや、三位一体説の急先鋒であったアレクサンドレイアのアタナシオスが皇帝の一神論支持により追放の憂き目に遭ってきたことを知っていた。

殊にヒラリウスは、アンブロジウスの前任者に当たるメディオラヌム司教アウクセンティウスが一神論派でラテン語ができないところを攻撃し、何とかその司教座から追い落とそうと画策していて、却って自分の方が追放の憂き目に遭ったことを知っていたであろう。
それも皇帝コンスタンティアヌスⅡ世が一神論を擁護したためであった。
ヒラリウスはアウクセンティウスを論難するために” Contra Arianos vel Auxentium Mediolanensem”「メディオラヌムのアリウス派アウクセンティウスを駁す」を著してはいるが、それも皇帝の威光の前には効力を持たなかった。

アレクサンドレイアに発する、三位一体説の唱道者のひとりであり最大の権威者と目されるアタナシオスはヒラリウスよりはずっと政治的人物であり、学者肌ではなかったらしい。
彼は皇帝に反抗して帝国の穀倉、北アフリカからの穀物がヨーロッパに渡るのさえ阻止しようとし、賄賂を受けることも常態化していたという。
しかし、この「聖アタナシウス」はそのキリスト教徒らしからぬ政治的行状が災いして、皇帝の更なる不興を買い、生涯に五度も追放を宣告され、アンブロジウスが叙階される前の年に、その破天荒な生涯を閉じていた。(今日まで「クリスチャン」が三位一体の根拠としてありがたく崇める「アタナシウス信経」は5世紀南仏由来の偽物と言われる)

このように皇帝から度々介入を受け、そのために思うような進展を見ない三位一体派をアンブロジウスは背負い込んだのである。しかも、世界的な信徒の総数でも新参の三位一体派は相当な劣勢にあった。だが、この劣勢をアンブロジウスは「政治手腕」によって一気に覆すことになるのである。

まずそこで、行政のプロであったアンブロジウスが、三一派の伸張のためにはまず皇帝を抑えることがどれほど重要かを弁え、そして皇帝に接近するのにメディオラヌムの優位を生かさずにおくことはなかった。
即ち、帝国西方の要であり、多くの皇帝がその宮廷を置いてきたメディオラヌムという御座所の優位性である。

そこへ、彼が仕えた西の皇帝、即ち西方で一神論派を支えてきたウァレンテイアヌス帝が崩御する。それは何ともアンブロジウスには都合よいことに、彼が叙階された翌年のことであった。
そして皇太子グラティアヌスが16歳で西帝の跡目を継いだが、その際にこの新帝は、ブリタンニアと北アフリカで戦功著しく先帝を支えてきた剛腕の将軍テオドシウスを亡き者とさせ、自分の4歳に過ぎない弟をウァレンテイアヌスⅡ世として共治帝に即位させ、東方の叔父ウァレンスと共にウァレンテイアヌス朝の安泰を図った。
この新たな青年西帝グラティアヌスがアンブロジウスの最初の標的となってゆく。

さて、その同じ375年に帝国は新たな脅威に見舞われた。
それがウラル方面からフン族が押し出してきたことによるゲルマン民族の帝国内への圧力であった。

帝国の境であるドナウ川の北側に逃れて来たウィシ・ゴート族は、フン族の西進に耐えられず、東帝のウァレンスに帝国内への居住と服属を求めてきた。
そこでウァレンスはこれを許可したのだが、それがどれほど難しい問題であるかは悟っていなかった。必要物の供給が不十分な上、官吏の腐敗も逆作用し、ゴート族は当てにしたような扱いを受けられなかったので、他のゲルマン諸族と組んでドナウを渡った帝国内の新天地のはずの場所でも略奪を始めたのであった。

ウァレンス帝は鎮圧に赴くが、甥のグラティアヌスの援軍を待たずに戦端を開いてしまい、コンスタンティノープルに近いハドリアノポリスでゴート=ゲルマン連合軍相手に軍を壊滅させるまでの大敗を喫したうえ、戦死を遂げたのであった。それが376年のことであった。

そこで西帝のグラティアヌスは、この東帝の空席を埋めさせる必要が生じたが、そこで彼が即位を要請したのは、なんと、かつて処刑した有能な将軍テオドシウスの同名の息子であった。
この息子テオドシウスの武勇をグラティアヌスは知っていたに違いない。それゆえにも恐れて遠ざけていたということもあろう。
しかし眼前の脅威に対して、かつての遺恨などもかかずってなどいられないほどの帝国の危機からの要請をふたりは受けていたのであろう。

こうしてゲルマン民族の大移動が始まり、ローマ帝国は明らかな衰退に向かう中、アンブロジウスはこの歴史の転換期にキリスト教界の方での転換を成そうと虎視眈々としていたに違いない。
ゲルマン諸族の信仰はウルフィラスのような献身的な人々の宣教により従来の一神論キリスト教となっており、アイルランドからオランダ、北ドイツではケルト系教会が布教に努めていた。この点で三一派は飛び石のように点在するばかりであったので、アンブロジウスの目指した転換は趨勢をひっくり返すほどのものであった。

さて、アンブロジウスが叙階されてから四年目の378年の春のこと、グラティアヌス帝はゲルマン民族のレンティエンシス族との戦いにアルゲントヴァリア(現アルザス)に向けて出陣するに当たり、メディオラヌムでその司教(アンブロジウス)の祝福を所望したらしい、その件についてアンブロジウスはこう書いている。
「まさに戦場に赴かんとする信心深い皇帝が、私に信仰の小冊子を熱望されている。兵士の力より、皇帝の信仰によって勝利を得ることはもはや習慣になっており、それはアブラハムが家僕318人を率いて、無数の敵から戦利品を持ち帰ったように。」
やはりここでも「旧約の人」が顔を出している。

さて、このアルゲントヴァリアの戦でグラティアヌスは鮮やかな大勝を収めた。
グラテティアヌスは蛮族の将プリアリウス共々四万の蛮族軍を打ち破ったのである。
この戦勝からグラティアヌスは「アレマンニクス マキシムス」の称号を元老院から贈られている。(レンティエンシスはアレマンニの支族、アレマンニは度々北イタリアに侵入し、帝国の悩みの種であったから、この称号の威光は高い)

さて、戦勝を得て帰るアブラハムを出迎え祝福したかのように、翌379年、アンブロジウスはメディオラヌムに凱旋帰還するグラティアヌスを迎えるが、この皇帝がキリスト教に帰依したのはこのときとされている。その時グラティアヌスは二十歳にも満たない若さであったが、老獪なアンブロジウスはどうやって籠絡したのだろうか。その後のグラティアヌスはすっかり変わってしまい、民の宗教に不寛容さを見せ始める。

しかも、それまでの皇帝が一神論派支持であったが、三一派としての信仰を授けることにアンブロジウスは成功したのである。こうして一人目の三一派皇帝を確保したがこの意味するところは大きい。

彼はすぐにこのメリットを活用し始めた。
グラティアヌス帝への最初に書いた信仰のための小冊子に加え、陣中に届けられた第二の小冊子ともども、彼は一巻の書物とするべく続編を著してゆく。その続編の内容は、一神論への容赦ない反駁であった。
つまり、彼はグラティアヌス帝に対して、次に行うべき「一神論派の駆逐方法」を続けて書き記したのである。

その書は、当時の優勢を誇る一神論派の論客の一人、ラティアリア[Ratiaria](ドナウ南岸、現スロヴェニア)の司教パラディウス[Palladius]に反論を加えるもので、三巻が記されて以前の二つの小冊子に合わせて五巻本にまとめられグラティアヌス帝に献上された。

しかし、それですんなりと三一派が優勢に変わったわけではない。それは教理面でも俗権でもである。

それでも、続々とアンブロジウスにとって喜ばしい便りが入る
それは、ドナウを渡河して帝国内を略奪していた西ゴート族を鎮圧した新たな東帝テオドシウスが、そのまま大病をして自ら死を意識し、テサロニケで洗礼を受けてしまったことであった。

当時は、コンスタンティヌス以来、皇帝が洗礼を受けるとしても死の間際まで延ばすのが常であった。
そうすることにより、生涯で犯したすべての罪が許されるという迷信、また、キリスト教の大僧正に従わずに済み、帝権をその前に屈服させずに済んだのである。
ところが死を覚悟したテオドシウスは、すっかり回復してしまったのであった。
アンブロジウスが平信徒となった皇帝を活用しないことが考えられようか。彼からすれば、東西の皇帝を三一派のために奉仕させる扉が開かれたようなものである。

彼は自分の生まれ故郷のトレヴェロールムに西帝のグラティアヌスを訪ねるばかりか、勝手知ったるかつての赴任先、ドナウ南岸のシルミウムにも通い、東帝テオドシウスを訪ねる。おそらくは大病の治癒も神の思し召しなどと恩を着せたのであろう。

しかし、このメディオラヌム司教の訪問は二人の皇帝にとって有り難い側面もあったことは残された文書から知れるところである。
というのも、当時のローマ政体では武官と文官ははっきりと分けられ、武官上りの皇帝の場合、高度なオフィス事務を自分ではほとんど行えなかったと言われる。
アンブロジウスはローマで十年の政治家としての素養を充分に学んだれっきとした地方長官であったので、交渉に有利な文言や大仰に修飾されかつ論理的な手紙を書くこと、そつのない書類の作成に打って付けであるばかりか、いまやローマ政界とも関わらない僧職という云わば中立の立場で蛮族とも話がし易く、調停役としてもまことに都合がよい希少な存在であったことはまず間違いない。

それは日本の戦国時代の大名が特定の高僧を外交交渉に用いたところに共通するものである。
しかも便利なことに、皇帝たちに呼ばれるまでもなくアンブロジウスの方から(何故か)出向いてくるのである。
だが、この時期、様々な都市にそれぞれ司教がいたし、ローマのダマススが権勢を望んでしゃしゃり出て来なかったのはどうしてであろう。

このヒントは、例えればダマススの教養の程度を慮るときに見えるものがある。
ダマススはアンブロジウスのような仕事に向いた人ではなかったと言えるのである。
貴族のように豪奢な生活を送ってはいたのだが、彼もやはりデスクワークが苦手であった。

そこで中東の砂漠からローマにやってきた研究者のヒエロニュモスをこれ幸いと秘書に使ったのである。このダルマティア出身の求道者は、聖典と教史のキリスト教側からの極めて強力な探索者であった。(聖ジェロームで知られる)

この大学者を秘書に据えるとは何と贅沢なことであろうと思えるところだが、ヒエロニュモスの方もダマススに仕えたローマの三年間は居心地が良かったようであり、ラテン語ウルガタ訳聖書を製作するように命じられるなどは願ったり叶ったりであったに違いない。その聖書がルネサンス期までのカトリック公認聖書ウルガタ訳(Biblia Sacra Vulgata)となってゆく。(だが、この学者の徹底的な研究により、その完成は405まで待たされる。
ダマススにしても、ローマ中心の教会ヒエラルキアを構築してゆく上で、乱造され意訳で不一致の酷かったラテン語訳聖書に代えて、普遍的ラテン語訳聖書を制定しておけるなら、それは大いにローマの権威を高める助けになることだったろうが、その点で東方の諸言語に通じる理想的な人物をそこに見出したのである。ヒエロニュモスが目にしたラテン語訳聖書類の酷さと言えば、彼をして「翻訳の数だけ原典がある」と言わしめるほどであった。ともあれ、以後は煌びやかなローマのバジリカ聖堂の中を歩く、ホームレス然たるヒエロニュモスの不釣り合いな光景が見られたという。

そのほかの地方の司教たちも、前歴が地方長官などという奇特な人物を見出すことはできない。人々はキリスト教徒としての経歴を持ち安定した信仰を示してきた男性を司教に頂くことは至極当然であり、一重に信徒としての経歴の長い者がほとんどである。
確かに、この時期には哲学者や高官のキリスト教徒も増えつつあったが、司教のほとんどは、平民や解放奴隷上りの信者で、この時期までのローマ司教の流れを見ても、前任の司教の近侍などを経てから司教の名跡を継いだ例がほとんどである。そこでアンブロジウスのように有能な地方長官ほど世事に長ける人材がキリスト教の中に取り込まれる事態の発生は、当然ながら変革を呼び込まずには済まなかった。それは本人も承知の上で、自らだけが為し得る事柄の広がるフロンティアを眼前にしていたことであろう。

他方で旧来のキリスト教指導者らは、キリスト教には通じていても政治的デスクワークとはまず無縁であった。アンブロジウスの前任者のようにラテン語すら話せない司教もいたのであり、著作を残すほどの素養を備えた司教は多くは無い。
まして、前職が地方長官であったというか、信仰の無かった地方長官を無理やり司教にしたというアンブロジウスの存在はまったく異例中の異例というべきであった。

しかし、著作の点で云えば、アンブロジウスはそう魅力あるものを残してはいない。それを埋め合わせるには、彼の許に居た女信徒モニカの息子、アウグスティヌスの神秘的キリスト教著書の数々が世に出るのを待つことになるが、それがカトリックの方向を決定的にするのであった。

アンブロジウスの著作についてはユダヤ人ヘレニズム哲学者のフィロンに似ていると言われるが、彼の叙階された初期に学習したのは「アブラハム論」などのフィロンのヘレニズム折衷ユダヤ教であったので、やはりその得意なところは旧約のちなみを示すところにあり、キリスト教が如何にユダヤ教に勝るかは、予型と対型の類比で留まってしまった。

例えれば、エデンの園に水源を発する四つの川を、比喩的に東西南北に分け、それぞれが表していたものが、美徳、知恵、節制、勇気と正義であるという。
もちろん、これはヘレニズム哲学風のこじつけであり、人々が価値あるものと見做すものに強引に関連付けることで創世記も「有り難いお経」となったであろう。

また彼は、雅歌に描かれる娘をエクレシアに例えることを常とした。
また、シリアの将軍ナアマンがヨルダン川に浸かってらい病を癒されたことがバプテスマの予表であったとも言い、預言者エリシャの居ることを教えたユダヤ少女がこれまたエクレシアを指していたとも言う。

確かに旧約の出来事の意味をキリスト教に置き換えることにその大半の内容が終始するのは、話がいつも同じところに留まるようで、本質的に新鮮ではなく、ヘレニズム風の信仰合同的ではあってもキリスト教らしい革新性は感じられない。また、ディダケーのように初期に近い文書との内容の乖離も大きく、使徒伝承は彼の解釈によって更に断ち切られ、大きく傷ついていることも明らかなのである。

しかし、彼のキリスト教のユダヤ性は、彼自身の権威にも、三一派がこの世で地歩を得るにも、大いに役立ったのである。
何故ならば、キリスト教は本来『この世のものではない』が、ユダヤ教はイスラエル民族のための「国家宗教」であったからであり、政治をも含むからである。

そこでは、生まれて来る者はすべて信仰共同体に所属し、「律法契約」の下に置かれ、その道徳と言えば、律法の条項を守るか否かにかかっていたのであり、この宗教モデルの方が、純粋なキリスト教の教条の無いような「愛の掟」など「不確かなもの」に頼る必要もなく、皇帝の統治の下に戒律を定めてしまえるし、どのような「キリスト教」であれ崇拝すべき「正統」と仕立て強制できるのである。
そしてアンブロジウスの底力の見せ所は、それを実現させてしまったところにあると言ってよいであろう。

既に、キリスト教は皇帝の擁護するところとなっていたので、出世を考えるとキリスト教徒を名乗れるメリットが次第に大きくなりつつあった。
それまでは、官僚や兵士にキリスト教徒はほとんど無く、キリスト教徒が社会から疑問視された理由こそは、キリスト教らしさの発露であったと言える。
即ち、出世欲が無くて私利に疎く、話相手にも付き合いも悪く、大酒や卑猥な冗談もやらず、神々の神殿に詣でない「無神論者」で、この世で幅を利かせられる政治や軍事に関わらないのであった。

それが、皇帝がキリスト教を贔屓するに及んで、官僚も兵士もキリスト教徒であるメリットが生じてくるという矛盾を孕み始めたのであった。
そこにはキリスト教というものが変質してゆく過程が観察されるのである。
 
この点で、「聖セバスティアヌス」はアンブロジウスにとって格好の軍人勧誘と、都市メディオラヌムのキリスト教の象徴とするに相応しい人物であった。
この聖人は、アンブロジウスの百年も経たない以前の軍人で、自身はキリスト教徒でありながら皇帝の親衛隊に隊長として所属していた。
時は第三世紀後半でディオクレティアヌス帝の大迫害が行われており、獄につながれていたキリスト教徒の助祭の兄弟を励まし、彼らの棄教を迫ったその両親をそのセバスティアヌスは回心させ信仰に導いたが、ほかに彼は十六人も信仰に導いた。

しかし、彼がキリスト教徒であることが発覚するに及び、ディオクレティアヌス帝は彼を野原に立てられた杭に縛り付け、弓兵らにハリネズミのようになるほど射抜かせた。
セバスティアヌスを埋葬するべく近づいた殉教者の未亡人イレーネは彼に息があることに気付き、自宅のある建物で介抱し続け、彼は命を取り留める。
その後、彼は皇帝の前に立ち熱弁を振ってキリスト教を擁護するや、怒り立ったディオクレティアヌスに死ぬまで殴打され、遂に息絶え死を迎えるに至った。

以上が、セバスティアヌスの聖人伝のあらましであるが、アンブロジウスが特にこの聖人を称揚した理由には、セバスティアヌスが同じ南フランスの出身で、ヌグドゥヌムで教育を受けた人物であることから、キリスト教界でのヌグドゥヌムの地位を高めようとの算段もあった。しかも、それはそれほど昔の事ではなかったのであり、当時にはリアリティも感じさせる環境も残っていたに違いない。

だが、
アンブロジウスが画策していたことは、セバスティアヌスの側からキリスト教を見ていたとは言い難い。その聖人を除き去った皇帝の方をキリスト教の支配下に置いてしまうことだったのである。


また「聖マルティヌス」と今日までカトリックで崇められている人物は、さらにアンブロジウスと同じ世紀に生きていた軍人であってガリアの戦闘に携わっていた護民官の息子であった。
軍隊の花形である騎兵それも「重装騎兵隊」に属したらしいのである。
 
だが334年頃、アウグスタ・トレヴェロールムの東150kmにあるライン左岸のボルベトマグス(現ウォルムス)での蛮族との戦闘の前に自分はキリスト教徒であるから戦いに参加はできないと宣言したのであった。それは騎兵になって三年目の18歳ことであった。彼の親はエクレシアでの教理教育を10歳から彼に受けさせていたのである。(それがコンスタンティヌス大帝のキリスト教贔屓を見越した出世教育であったのかは不明)

彼はゴール族の矢面に武装せずにひとり立つことを釈放条件とされたが、戦闘が始まる以前にゴール族の方から和平提案があり、戦闘が起きずに彼も釈放されたという。
つまり、当時のキリスト教徒の中には戦闘に参加できないとする者と、出世目当ての者とが混在していたようである。
しかし、キリスト教がローマ国教となれば、マルティヌスのような兵士は、却って「キリスト教信仰」を否定した背教の逃亡兵として処刑されることになるのである。

そして実際、アンブロジウスの行ったことの先には、ローマ皇帝によるキリスト教を帝国の国教とさせ、それもわざわざ少数派である三位一体説の方の「キリスト教」を民のすべてに強制し、生まれる者すべてがユダヤ教徒となるように、以後はローマ帝国民が自動的に三一派キリスト教徒とされ、三一派が揺るぎないものとされることであったのである。そこではユダヤの「割礼」のように「幼児洗礼」が要請されてくる必然がある。これはキリスト教という宗教の本質を入れ替えてしまうほどの大変化と言わずして何であろうか。

さて、それまでユリウス・カエサルに始まり皇帝たちが兼任してきたローマの神々への祭祀を司る最高責任者としてのポンティフィクス・マキシムスの地位がグラティアヌスにも歴代皇帝のように備わるべきであった。
当時の帝国内は、依然として多様な宗教が大らかに共存しており、その中で他の神々を肯じないユダヤ教という一神教は異例であったのだが、そこにキリスト教という、同じく一神教が混在した状態にあった。皇帝は、それらのすべての頭となるようこの「ポンティフィクス・マキシムス」つまり最高神祇官職が付帯したのであった。

そこでアンブロジウスは、まずグラティアヌス帝にこの異教に関わる名の地位に就かないようキリスト教の教師として「皇帝という名の平信徒」を指導する。
こうして、皇帝がはじめてポンティフィクス・マキシムスの称号を受けないという事態の発生を見た。しかし、この称号が後の「ローマ教皇権」の礎とされようとは皇帝もアンブロジウスも思いもよらなかったことであろう。

そしてアンブロジウスは、東の皇帝テオドシウスに対してもポンティフィクス・マキシムスの称号を捨てさせて抜け目なく行動し、自らの地方長官らしい「政治力」を発揮する。つまり、皇帝たちと自分のどちらが偉いのかをはっきりさせるための布石であった。
それは380年のことであり、この重要な年に帝国に対するキリスト教の立場が政治的に優勢となり、三一派が中枢部で実権を握った年として見てよいであろう。

アンブロジウスは、そこから更に踏み込み、遂に皇帝が一神論派に加担するという体制をまったく覆すことに成功してゆく。
それは早くも、テオドシウスがテサロニケで大病をしてキリスト教徒に「なってしまった」翌年のことであった。これには傍目にも強引さを感じるところであるが、「カトリックについて」という勅令を発布させ、以後、「普遍的」(カトリカム)なキリスト教とは三位一体説を教えるものだけを指し、それ以外を異端とすると宣告させた。所謂「カトリック教令」である。しかし、これは本来、使徒伝承的で普遍的とされるべき一神論派を政治権力でその座から強引に引き摺り下ろし、エジプトから来た怪しい新参者をカトリックにしてしまうという恐るべき入れ替えであった。

これが西暦380年2月のことであったが、それはコンスタンティヌス大帝が一神論派を退けたニカエアの議決を、ニコメディアの司教エウセビオスの勧めでひっくり返して三一派が誤りとされて以来の(ユリアヌス帝の三年の空白を除いて)大逆点であった。

この「カトリック教令」に基づいた行動が早速にテオドシウス帝に求められ、帝は翌年にローマの親衛隊長エウトロピウスに命じて市内での一切の異端の集会を禁止させ、市外に追放するようにと命じている。
そればかりか、三一派以外は異教だけでなく一神論派の一切の集会も禁じ、崇拝場所の提供者までも告発させたのであった。三一派は依然少数派ではあったが、帝国の権力を以って宗教全体の独占を命じ、これが現在まで続くキリスト教界の趨勢を決したのであって、政治権力の介入が無かったなら、三位一体派が今日まで存続していたかも危ういのである。

しかしこの勅令は、ローマに居たテオドシウスに血筋で勝るウァレンティアヌス朝の若き皇帝ウァレンティアヌスⅡ世の存在を随分と無視した下命であった。
確かに相手が皇帝とはいえわずか10歳であれば、テオドシウスが補佐であったとも言い訳できそうではあるが、ウァレンティアヌスⅡ世の母、つまり皇太后ユスティナは一神論キリスト教徒であり、その息子もその影響下にあった。しかもユスティナの一神論支持は熱心なもので、ドロストルムのアウクセンティオスと共にアンブロジウスを責め、メディオラヌムの一神論派のために市外の大バジリカ Bolziana fuori le mura を勝手に占有していると訴え、後にはゴート兵による皇帝の軍を遣わしてもいるほどである。

アンブロジウス率いる三一派はこれに籠城して抵抗したが、日々、ビザンツ様式の聖歌(アンティフォナ)を歌って士気を高めたというが、その中にはアウグスティヌスの母モニカの姿もあったという。そしてこの粘りでバジリカを皇太后のゴート兵から守り通したというが、そこを占拠していたアンブロジウスは軍に向かって「神のものは神から貰え」と言い放ったと言われる。 これは後の385年から翌年のことであり、アウグスティヌスの帰依の前年のことであった。アウグスティヌスの時代のキリスト教界とは斯くも不安定であったのである。
 
こうした皇太后との対立もあって、アンブロジウスはイタリアだけを治めるこの少年皇帝に近付くことは無かったが、他の皇帝ほどの影響力は無いと見切ってのことでもあったろう。
それにしても、皇帝たちにせよアンブロジウスにせよ、彼らがキリスト教に正面から向き合っていたようにはとても見えないのである。彼らが専らにしたのは政治的な権力闘争であろう。

さて話しを380年に戻すと、三一派司教アンブロジウスの皇帝を操り始めたその動きは、当然一神論派の警戒するところとなる。
この点で一神論派の強力な論客として、前述のダキアのドナウ南岸の城市ラティアリアの司教パラディウスが挙げられる。
この教理に通じた司教が公会議での討論に出よと、アンブロジウスに挑戦してきたのである。もちろん、アンブロジウスが講話に長けているとはいえ、実際の教理面での僅か四年の知識の蓄積では自信がなかったところがここに露見する。

そこで、教理論争で勝てないであろうアンブロジウスは、彼の最強の武器である政治力で勝負に出るのであった。
即ち、皇帝グラティアヌスに働きかけて、アクイレイア(ヴェネツィアの約80km東の港町)での公会議に東方の司教が参加しないよう計らわせ、自分は西方ラテン圏の司教たちに根回しを行い三一派が集まるように仕向けたのである。
そして、この謀略は成功し、一神論派の仕掛け人パラディウスらは身の危険を感じて出席できず、自分たちの場所から議決に投票する有様となったのである。
結果パラディウスらはアナテマ(呪い)の下に置かれ、形の上では三一派が大勝利したとこにはなるのだが、出席した司教は西側から32名が集まっただけのことであった。これはカトリック教令発布の翌381年のことであった。こうしてアンブロジウスは皇帝の権威を利用して一神論派に勝利を重ねるが、それはキリスト教の内容がどうということではない政治の土俵に敵方を引っ張り出してのことである。

翌382年、東方に旅してギリシアのキリスト教とヘブライ語に通暁した学者ヒエロニュモスがローマを訪れている。彼は若いころローマで修辞学を修めており、ローマはよく知るところではあったが、この度はシリアのアンティオケイアの司教パウリノスを伴っての旅であり、それは彼が支持したこのパウリノスをダマススがローマ司教の肩書でアンティオケイア司教座に就けるよう擁護してくれたことへの返礼も兼ねてのことである。

当時のキリスト教界は五つの大司教座があった。即ち、エルサレム、コンスタンティノープル、アレクサンドレイア、ローマ、そしてシリアのアンティオケイアであった。この頃は、ローマの首位権は未だ存在しておらず、ローマの座に強大な権力が負加されるのは、西の帝国が崩壊して後のことである。

しかし、前述のようにダマススはこの多国語に通じ、聖書理解に明るい論客ヒエロニュモスを自分の秘書として、以後ダマススの死まで三年ローマに留め置き、カトリック(普遍)に相応しいラテン語訳聖書の製作に当たらせたのであるが、その背後には、自分とまるで異なるこの質素きわまる修行者の中に自分にはまったくない能力を見込んでのことであったに違いない。

そして、グラティアヌスもテオドシウスも捨て去ったポンティフィクス・マキシムスの称号を、このダマススが使い始めたのもこの頃のことであったろう。
テオドシウスのカトリック教令も三一派のダマススをまったく喜ばせたものかは分からない。
というのも、その教令では「ローマ帝国に住む者はすべて、使徒ペテロからローマのキリスト教徒に伝えられた信条をキリスト教とする。それは現在ローマ司教ダマススとアレクサンドレイア司教ペトロスが受け継いでいるものである。」とされた。

ここで、キリスト教唯一の最高位の扱いにはローマは一歩及ばなかった。 この文言の背後には三位一体の発生源であるアレクサンドレイア式キリスト教とローマは道を同じくするという宣告の意味が込められていたことであろう。即ち、東方では依然として一神論派が強く、アレクサンドレイアが三一派発祥の地としてぽつんと東方に在ったからこそ、それを帝国の威信あるローマが援護するということの表明であろう。

また、この当時にはアタナシオスがカッパドキアに撒いておいた種が芽を吹き始めてもいた。
大バシレイオスをはじめとする哲学的教理を唱えるカッパドキア派が三一派に傾いており、時代の風は三一派を後押ししつつあったのである。

一方でローマを見ると、アンブロジウスからすればローマに主導権を渡してしまわないことにおいてこれで上首尾であったろうが、ダマススはどうであったろうか。 
そこで、ダマススにとってはポンティフィクス・マキシムスの称号の方が「ローマ教皇」としての箔付けに大いに役立ったに違いなく、ローマの異教を征服したかのように感じられたのかも知れない。つまりアンブロジウスとダマススの駆け引きをここに見るかのようである。アンブロジウスが皇帝たちから捨てさせた称号をダマススが持って行ってしまったのであった。このローマ帝国の最高宗教責任者の称号佩帯が、今日的「教皇」の始まりをこのローマ司教ダマススⅠ世にあるとも言わしめる一因となったであろう。
 
確かに、カトリック教令によって異教も法の上では存在してはならないことになり、この教令で元老院も議会での焚香が禁じられていったのだが、しかし、本来は異教の称号であるポンティフィクス・マキシムスを、それもキリスト教徒の皇帝には相応しからずと捨てたものであるのに、当のキリスト教の司教が用いたとは、権力者然とした本人はともかく、当時の人々は矛盾を感じなかったのであろうか。だが、ダマススにはローマ司教座の首位権を認めさせる器の大きさは足りなかったようで、まだ、ローマだけの「お山の大将」を叫んでいただけのようである。その辺りではアンブロジウスの政治手腕の前に見るべきものもない。

さて、三一派をカトリックとさせる道筋をつけたアンブロジウスであったが、いまだ皇帝をまったく平信徒として下命できる立場には至っていない。それこそは前人未到の領域であったが、彼にはまことに都合のよい事件が起こるのであった。

カトリック教令から10年目の390年、テサロニケで暴動が起こった。
人気ある戦車競技の選手が些細なことで当局に捕縛され、選手のファンである民衆が釈放を要求して暴動となり、地方長官を含む役人たちまでが殺されてしまった。
テオドシウスは軍を派遣してこれを鎮圧したが、軍は民衆を競技場に閉じ込めた上でこれを無差別に殺害させた。

以前の皇帝ならば、そう問題にされることでもなかったことかも知れないが、アンブロジウスはこれを見て機敏に反応する。
アンブロシウスは皇帝を単に諌めるのではなく、ひとりの平信徒として譴責したのであった。これは司教と皇帝を天秤にかけることであり、キリスト教の恐るべき世俗化を決定づける転換点となるに違いない。
それも西帝のグラティアヌスは383年にブリタンニアの司令官の反乱で世を去っており、ローマのウァレンティアヌスⅡ世は未だ12歳でユスティナ皇太后の影響下にあったから、36歳のテオドシウス帝は実質的に帝国全域を治める唯一の皇帝となっていた。

さて、ここでローマ帝国が一都市の司教に政治問題で膝を屈してしまうのであろうか。
それは、キリスト教が皇帝の庇護を受けるという段階を超え、キリスト教が皇帝を指導譴責するという、新たな構図を描くことであり、史上はじめて発生する事態となるのである。 

初めはこの譴責を無視していた皇帝であったが、実はこの手のアンブロジウスの譴責は初めてのことではなかった。テサロニケの暴動の起こる前年にテオドシウスはメディオラヌムに行幸した際にも別件で責められていた。
それは、熱心さを通し越した「キリスト教徒」の集団がユダヤ教の集会所(シュナゴーグ)を襲い、破壊した件につき、テオドシウス帝がユダヤ教徒に補償をしたことにアンブロジウスが抗議していたのである。そこではユリアヌス帝期の事例を持ち出して、ユダヤ人もガザ地区のバジリカを焼打ちしたではないか、とまくしたてるが、これがキリスト教の論理であるわけもない。旧約の「目には目を」の表層的理解である。

こうした宗教熱心の行き過ぎを収めるのは皇帝行政としては理に適ったことであることはアンブロジウスも地方長官であった以上、百も承知していたであろうが、司教のアンブロジウスとしては、帝国権威に対するカトリックの優位を確立するに至るチャンスとして利用する価値を見てとったに違いない。しかも、皇帝は前年のシュナゴーグの件で一度折れているのであった。そこでアンブロジウスは公的に謝罪するまでキリスト教の典礼に参加させないと強硬に打って出た。即ち破門宣告である。

アンブロジウスの目論見は、テオドシウスと組んで帝国民の面前で寸劇を演ずることである。
そこで皇帝が司教に一度頭を下げればそれでよいのである。
政治家が、自分の施策は間違っておりましたと、宗教家に懺悔すればそれだけで事足りる。 
そうすれば帝国全域は誰が最高権威者かを知ることになるのである

アンブロジウスには勝算があってのことに違いない。テオドシウスにはポンティフィクス・マキシムスの称号も捨てさせてあり、カトリック教令で帝国がキリスト教に舵を切っていた以上、皇帝には逃げ道がない。 
細工は流々、ここで一気に勝負をつける潮時を読んだに違いない。これはまさしく政治の手法ではないか。 

ここでキリスト教徒であれば、サタンがイエスにこの世の栄華を見せたうえで、『このわたしに一度ひれ伏して崇拝するなら、これらのすべてを与えよう』と誘惑した場面が思い浮かぶことであろう。
キリスト・イエスはこれを拒絶して『サタンよ、失せよ!「主なる神を崇拝しなければならず、この方だけに仕えなければならない」とあるのだ』と言う場面である。

そして今や、その逆が起ころうとしていた。
アンブロジウスの望んだものとは、三一派に諸国の栄華を与えることであり、純粋にキリストに従おうとする者であれば、誰であろうと畏れ多いことで、主に倣い拒絶すべきものであった。

皇帝テオドシウスは、平装でメディオラヌムのバジリカの門前にひれ伏し待たされた。やがて門が開かれ、もうひとりの役者が現れる。皇帝の上に立つに相応しい舞台衣装は金銀の刺繍が施された豪奢な司教の礼服に、ミトラと呼ばれる口を開けた二枚貝のようなエジプト由来の帽子*を被り、パストラーレ、即ち司牧丈を手にした大仰な扮装のアンブロジウスである。

そこで平信徒テオドシウスは跪いて悔悛を述べ、アンブロジウスに赦しを乞うのであった。これこそが三一派キリスト教が「この世の栄華」を手に入れた瞬間であった。


この三百五十年ほど前のパレスティナに視点を戻すと、エルサレムではローマ帝国のユダエア総督ピラトゥスは質素な身なりのナザレ村から来たイエスと向き合っている。
ピラトゥスには総督としてこの奇跡を行う人の生殺与奪の権限を持っていた。
 
イエスはこう語っていたのである。『わたしの王国はこの世のものではない。もしそのようなものであったなら、わたしの弟子らはわたしをユダヤ人に渡すまいと闘っていたことであろう。しかし、わたしの王国はそのようなところからのものではない。』(ヨハネ18:36)

そこにおいて総督は、祭司長派が突き出したこの人物に、何ら世俗的な脅威も罪も見出さなかった。むしろ、ユダヤ人の中での宗教上の妬みが関わっていることも見抜いていた。
それゆえ、いよいよイエスが重罪とされるとなると、ローマ総督ピラトゥスは公衆の面前で手を洗ってこう言った『わたしはこの人の血については潔白である。おまえたちが処置するがよい。』(マタイ27:24)
この手を洗う行為を以って、総督はイエスが世の権力に関わりのないことを証ししていたのである。 

しかし、もし皇帝をひれ伏させるような「キリスト教」がそこにあったのであれば、ピラトゥスが脅威を感じなかったろうか。 むしろ、アンブロジウスのような人物であれば、手を洗うどころか正義感の内に即刻に極刑を命じたのではないだろうか。

そして第四世紀以後、「キリスト教」は権力と合体してしまい、戦いを神聖なものと宣し、自ら無数の血を流す汚された宗教となってその歩みを誤ってきたのである。

もし、ピラトゥスがアンブロジウスを裁いていたなら、けっして裁きの場で手を洗うことなど無かったに違いない。その油断のならない希代の政治家だけは何とか処置せねばなるまいと思ったであろう。

だが、アンブロジウスを契機として「キリストの処女」たるべきキリストの弟子らは、はっきりとその純潔を失い、『王たちと淫行を犯す』 ものとなったのであった。(黙示録18:3)
 
元々は、「カトリック」ではなかった三一派キリスト教が自らの普遍性(カトリック)を唱えて、西欧封建制の頂点に立つことになり、 神の名のもとに搾取と流血という政治に加担し、その罪を世界に向けて増し加えつつ歴史を刻んでいったが、そのように道を変えさせた人物として、このアンブロジウスを挙げないわけにゆかない。

その後のヒッポのアウグスティヌスの洗練された文章や、そのキリスト教徒となる過程での長い苦悩の記録には共感されるとしても、アンブロジウスについては、今日キリスト教界にあっても多くを語られるようにはけっして見えない。
彼には、アウグスティヌスのようにはキリスト教帰依に至る心の道程がまるで見えず、その「信仰」というものも彼個人の実際がどのようなものであったか把握し難い。 
むしろ、彼は「官僚」として「政治を用いて」三一派をローマ国教に押し上げるという一大事業を成し遂げたばかりに見えるのである。 つまりは、宗教家というよりはやはり政治家、それも希代の大政治家というべきである。

実際、アウグスティヌスに関する資料は山の様に多いが、キリスト教をこの世へと方向転換させたアンブロジウスについて見出すことはそう容易ではない。アンブロジウスの名がよく知られているにも関わらず、彼の経歴を知ろうとしても、そう簡単に適当な資料は見つからないであろう。
 
その理由というものも、著作の多寡というよりは、上記のように三位一体派がどのように権力によって地歩を得、今日「カトリック」と呼ばれているものが、実にナザレのイエスと正反対のものになっていったその過程を、多くの「クリスチャン方」が正視したくはないからではないのだろうか。
それこそが、「酵母」がパンを膨らませるようにローマ国教化を完成させるべく働き、信者数のインフレーションを起こす直前のきっかけでもあったのだ。(マタイ13:33) ⇒ ローマ国教化で失われたもの

今日の「クリスチャン」がアウグスティヌスの三位一体の哲学的な思索に酔えるのも、元は俗世から登場し、俗世に塗れて三一派を「カトリック」に仕立てたアンブロジウスという人物あればこそである。
即ち、今日のキリスト教界とはアンブロジウスという肥やしの上に咲いた花のようなものであり、所謂「クリスチャン」は、誰もその根元には目を向けたくはないのであろう。

だが、花もいつしか枯れる日を迎えるものである。
『草は枯れ、花はしぼむ。だが、我らの神の言葉は永遠に立つ』(イザヤ40:8)
人の栄華は何時しか空しいものとなる、それが神の言葉によらず、世の汚れに由来するものなら、その終わりは殊に惨めなものであろう。





Francisco_de_Zurbarán
Episcopus
Ambrosius






*(上の絵にあるようなミトラ帽は後代のもので、当時のミトラがこのようなものであったかは分からないと言われる。由来はローマ帝国の要人の被った帽子がミトラと呼ばれたが、二枚貝のようなスタイルは西帝国地域でカトリック高位僧職者に着用されはじめた)

⇒「アムブロジウス人物補足メモ