指名されたメシア キュロス
〈一万八千字超


キュロスⅡ世は古代のペルシア帝国をオリエントの大覇権国に押し上げる偉業を成し遂げた傑出した王である。

現在のイラン高原の山がちな西の一部を領地とするだけの小国ペルシアから、メディア王国の首都エクバタナを制圧し、自国よりよほど大きく、現在のトルコのあるアナトリア半島の中部までをも版図としていた宗主国メディアの全域を併合し、やがて中近東の覇権を彼は手に入れる。

その版図を急激に広げる飛ぶ鳥を落とすような勢いに、オリエントの覇権を継承していた新バビロニアやナイルに抱かれた悠久のエジプト、またアナトリア半島の西部で繁栄を謳歌し始めた新興リュディア王国にも脅威となり、ペルシアといえば他国に精神的圧力を感じさせる新興の大勢力となっていった。

そしてキュロスⅡ世の人物像を追ってゆくと、そこには徒ならぬものがある。
彼の数奇な生まれと危機からの救い、その幼年時代、そして大国メディアを包摂するに有利であった血筋。そして驚くべき仕方で展開した様々な事の成り行きが挙げられる。

そして何よりも、イスラエルの聖なる神YHWHが、預言者イザヤを通して百五十年以上も前からこの人物の到来を名指しで予告していたという事が、そもそも彼を奇跡的な人生を送る存在として、初めから定めていたという理解に到達するのである。(イザヤ45:1-7)

つまり、彼は生まれるずっと以前から、神YHWHの目的を成し遂げるために「任命された者」、即ち神の民イスラエルを救う器として当時の「メシア」となるべく備えられ、またその救出とYHWHの祭祀の再興を成さしめたのである。

この頁では、神YHWHが与えたその役割を果たしてゆく彼の生涯を辿る。
そうすることで、彼の働きが21世紀という我々の時代を越えて、世界が終末を迎える時代に「もうひとりのメシア」、即ち世の終わりに臨御し、その時代の趨勢を左右する王なるイエス・キリストに委ねられる神からの務めを、その相似点から探る材料とする道も拓くであろう。

これが意味するところは、二人のメシアの単なる共通点を論うことでは終わらない。
なぜなら、そこには人の目に映らざる生ける神YHWHの不朽の意志と、それに抗おうとする目に見えぬ勢力との駆け引き、そして困難を排して遂に神の意図が実現されていったこの古代の例を通して、我々は「終末」という将来においても、反対者マゴグを排しメシア=キリストが必ず成し遂げるであろう業への期待を高め、それを信ずるに至るからである。

では、彼の生涯を俯瞰する前に、その出生の以前までのメディア王国と当時のオリエント諸国の趨勢を一瞥することにしよう。


◆覇権国アッシリアの終焉

メディア人とは、現在のイラン西北部の高原に定住する以前には、コーカサス山脈の北、現在のロシア方面いた遊牧民の一支族であったという。系統の近いペルシア人は、メディアの定住地より南方の山地パールサに棲んだところからペルシアの名を得た民族であるという。

この両種族はコーカソイド、つまりメソポタミアを広く占めていたセム系人種とは異なって、ノアの三人の息子のヤペテに発する、今日で云うところのインド=ヨーロッパ語族に含まれる。
メディアやペルシアの人々は、自らを「アーリア」つまり「高貴な者」と呼んでいたが、古代ギリシア系の人々もこの呼称で「アリアナ」と彼らを呼んでいたとされる。
 
この民族は、現在でもアーリアを名乗っており、「イラン」という国名には「アーリア人の国」 の意があるとのことである。
彼らの宗教は、古代においては、現在のイスラームとは異なり、善悪二元論のゾロアスター教を信奉していたのだが、この偶像を持たない拝火教はキュロス大王以降のペルシア帝国で非常な発展を遂げている。その神、アフラ・マツダの由来は古く、早くも古代ヒッタイトやミタンニでヴァルナ神として尊崇されていたという。

それでも、メディア王国の歴史は、ハム系のエジプトやセム系のアッシリアからすれば然程のものではなく、紀元前700年代からエクバタナに都して始められた王朝と云われる。
だが、この王国は当時の覇権国家アッシリアの威勢の前には色褪せ、何度も征服され、属国の地位に甘んじてきた。

強壮なアッシリアは、獰猛で残虐な軍隊を擁し、その主神アッシュールは造られた偶像ではなく、同名の首都の土地そのものであった。それは神道の神体のようでもある。
それゆえ、他の神々と異なり、偶像を毀損されることもなく、その神が永く命脈を保ったところでアッシリアの権力を強靭なものとしていたとも言われる。

この帝国アッシリアの覇権拡大には、青銅器に換えてヒッタイトから学んだ硬い鉄器に、驢馬から速度の速い馬に換えて戦車に用い、円盤状であった重い車輪をスポーク(輻「や」)状にして速度を格段に上げ、その戦車上から弓を射る戦法を用いたところにあると云われる。即ち、戦闘方法のイノヴェーションを起こして、周囲を屈服させていたということである。
 
アッシリアは、その発展の過程で首都をアッシュールからニネヴェに移していたが、この強みを維持し続け、覇権大国として周辺の諸国を征服しては、その地の反乱を防止する目的で、征服民を別の土地に移す強制移住を強要したのである。

その為、イスラエル十部族とされるイスラエル王国もアッシリア王サルゴンⅡ世によって前732年に侵攻されて滅ぼされ、その「十部族」も各地に散らされたが、その移住の割当地のひとつが属国メディアでもあった。
そしてイスラエル王国の領土であったパレスティナ北部にはバビロニアの地域から植民が行われ、当地に幾らか残っていたイスラエル人とやがて混血し、サマリア人と呼ばれるに至る。

アッシリアが占める北メソポタミアは、南に比べて降雨に恵まれ、バビロニアほど膨大な収穫量は獲られないにせよ、灌漑を行わなくても小麦などの収穫が出来、この帝国の繁栄に寄与していた。
他方で、南メソポタミアに位置するバビロニアは世界文明発祥の地であったが、アッシリアに圧迫されて独立を奪われ、属州の地位に貶められていた。それでも、かつての文明の中心地としての威光を忘れずにおり、バビロニアのアッシリアに対する反抗が度々起こっていたので、アッシリアにとってバビロニア支配は常に懸念されるものであったという。
やがて、そのバビロニアの宿願も果たされる時が訪れることになる。

アッシュール・バニパル王の帝国の最盛期には、エジプトからエラムに至るまでがアッシリアの版図であり、周辺には多くの朝貢国が点在しており、メディアやペルシアもそれらの中に数えられた。
しかし、アッシリアの専横で高圧的な支配は周辺国の反乱を度々招く原因を作っていたので、バビロニアに限らず領内の異民族や属州も周辺国もアッシリアが衰退するようなことがあればと、独立や攻撃の機会を虎視眈々と窺っていたのが実情であった。

アッシリア帝国はバビロニア南部のカルデアにも総督を置いていたのだが、その最後の総督はアッシリア人と同じセム系のアラム人で、その名をナボポラッサルといった。
この人物は、平素アッシリアからバビロニアを奪おうと目論んでいたが好機が到来する。自らが仕えるアッシリア王アッシュール・バニパルの治世の末期に混乱が生じたのである。これに乗じて、ナボポラッサルはバビロンに入城し、自らバビロニア王を唱えてアッシリアからの独立を宣した。それは紀元前625年のことであったという。

そして、アッシリアの東方の高原に位置するメディア王国もその好機を逃さず、アッシリア攻撃を始めるのであった。この両国の連携があって覇権国アッシリアの打倒も可能性を高めたであろう。

その時のメディア王はキュアクサレースⅡ世といったが、彼の父フラオルテスの時にメディアは南に位置するアーリア同族の隣国ペルシアを支配下に置くことに成功している。
しかし、このフラオルテス王のときにメディアはアッシリアに抗って乾坤一擲の戦を起こしたのだが、やはり相手は強壮な大国、これには大敗北を喫し、王も殺されてしまった。 爾来28年間、メディアはアッシリアの同盟国スキタイの支配下に置かれ忍従を強いられるが、その間にメディアはスキタイの騎兵術を習得し、軍制を改革し歩兵と弓兵とを分離して、歩兵に長槍を、騎馬兵にも弓を持たせ、それぞれの長所を伸ばすなど、臥薪嘗胆を続けて軍事力の育成に此れ力を注いでいたのであった。

そのフラオルテスの息子であるキュアクサレースは父の意を継ぎ、アッシリアの衰退とバビロニアのクーデターに期を見て呼応し、東側の要衝ダルビッシュから攻略を着手し、北進してくるナボポラッサルのバビロニア軍と共同戦線を張り、アッシリアの首都ニネヴェに向かって西に進軍を続ける。しかし、北に位置するスキタイがアッシリアに加勢するに及んでメディア軍は一度ニネヴェ攻略を断念せざるを得なくなるが、キュアクサレースはスキタイの要人たちを酒宴に招いておいて謀殺し、スキタイに勝利する。

アッシリア討伐に際して、メディアはバビロニアと抜け目なく同盟を結ぶ。メディア王キュアクサレースは娘をバビロニア王ナボポラッサルの王子に娶らせたが、その王子こそ誰あろう、かの大王と成るべきネブカドネッツァルであった。
彼に嫁いだメディア育ちの娘はバビロンの平坦で変化の乏しい風景に、故郷の山々を恋しがるので、この王子が王となって後、多くの建造物をバビロンに建てるに当たり、あの七不思議に数えられた「空中庭園」が誕生することになったという。

かくて、双方の連合軍が遂にアッシリア王の籠るニネヴェを包囲するに及び、エジプトからエラムまでをも支配した空前の大帝国にも、その滅亡の時が迫る。
およそ二か月の攻城戦の後、西暦前612年の7月にニネヴェは陥落し、最後のアッシリア王アッシュール・ウバリトⅡ世となるべき貴族はハラン(現トルコ南東の端)に脱出する。

ナホムの預言では、アッシリアの戦車は焼かれ、彼らがニネヴェから逃げ出してゆく様が描かれている。さらには城壁は隣接する川の増水に耐えらなかった事が防備の決壊ともなったとも示唆されている。増水期と重なったことが、攻囲側に有利に働き、ニネヴェも予想外の短期戦で陥落したのであろう。(ナホム2:13/1:6-8)

さて、先のアッシリア王アッシュール・バニパルに擁立されていたエジプトのファラオ・ネコは、義理立てもあってかハランに逃れた最後のアッシリア王に加勢しようとエジプトを発ったのだが、その途中のメギドの近くでユダ王国のヨシヤ王の思わぬ挑戦を受けることになり、これはハランに赴く足手まといとなった。
結果、エジプト救援軍も甲斐なく、ハランもバビロニア軍に攻撃され、大帝国アッシリアも遂に終焉を迎えたのであった。

しかし、この歴史の大きな大渦の中でユダ王国も巻き込まれてゆく。
エジプトはユダ王国の挑戦を難なく退け、戦死したヨシヤ王に代り傀儡のエホヤキム王をユダに立てて貢納国として、遅ればせながら北進しバビロニア軍との雌雄を決する戦いに赴いていった。

やはりユダもイスラエルも小国であり、この時代の趨勢からして「全能者の主権が表明されていた」という見方をこれらの弱小国にしたのでは、却って神への非礼を免れないのではないだろうか。もちろん、イスラエルは神との契約関係にあったのだが、この関係はイスラエル民族の不実さや怠慢に左右され続けたのであり、そこに神が「主権を置いた」と現代的な評価を下すことは、やはり人間の愚劣によって全能者を卑しめ兼ねないことである。
むしろ、神YHWHは以下に見るように「王たちを教え」、大覇権国家さえも自在に動かす神々の神というべきである。(イザヤ41:2) 

さて、ユダ王国を処置して進軍してくるエジプト軍に対して、バビロニアのナボポラッサルは皇太子であったネブカドネッツァルに軍を託してユーフラテス上流に向かわせる。そして前606年のカルケミシュの戦いでエジプト軍は大敗を喫し、以後エジプトは西アジアの支配権も失い、母なるナイルに抱かれた自国に引き戻されていった。

こうして俯瞰すると、ヨシア王の無益に見えるファラオへの挑戦も、エジプト軍の進軍を遅らせることになっており、新バビロニア帝国という新たな覇権国家を登場させる役割の一端を担ったかの観がある。だが、その新帝国も、結果的にユダ王国の保護とはならないことになる。

預言者イザヤは、ユダ王国が律法を守らず、不信仰で多くの罪を重ねた国民への処罰として、バビロンへの捕囚を再三予告していたのだが、新バビロニア帝国がアッシリアとエジプトに勝利して世界覇権を手にすることにより、その神の企図が成就に向かい進んでゆくさまをそこに見るが、それは、誰がどのように行動しようとも、必ず神の企図に沿った方向に流れる時代の潮流であったということができる。


◆エルサレムの滅び

さて、バビロニアとの雌雄を決する戦いに挑んだエジプトのファラオ・ネコもカルケミシュで大敗すると、勢いに乗ったバビロニアはシリアやヒッタイトを攻めてキリキアまでを得て、エルサレムも一度征服し、最初の捕虜を取るが、その中にダニエル書を著したダニエルと三人の友が含まれていたことであろう。しかし、ここに至って父ナボポラッサルの訃報を受けたので、歴戦の王子もパレスチナからひとたび王都バビロンに戻り、王位を継承してネブカドネッツァルⅡ世としての強大な新バビロニア帝国の建設に名乗りを上げることになる。この即位が前605年とされている。

その後、ネブカドネッツァルという英傑王を得たバビロニア軍は、再び反乱を起こしていたシリア方面に軍を向け、そこから南に転じてフェニキアやパレスティナへと再び侵攻するのであった。

当時のユダ王国はエジプト軍に打って出て戦死したヨシヤ王の亡き後、前述のように、その子エリヤキムが名をエホヤキムと改められ、エジプト傀儡の王として弱々しく何とか国を保っている状態にあった。
エホヤキムはファラオ・ネコに課せられた重い貢納を支払うために自国民には重税を課す一方で、自分は豪勢な暮らしを望んで、民の生活を顧みず、国土は周囲の奪略に喘ぐ有様であった。

このエホヤキムの悪政を糾弾する預言、そして来るべきバビロニアによる滅びを生涯を懸けて宣告したのが、このころに、神YHWHから遣わされた預言者エレミヤである。

しかしエホヤキム王は、却って、自分を責めるエレミヤの預言の書を切り裂いて燃やしまでしたのであった。そのときにはバビロニアの勢力は未だパレスティナに臨んでいなかったため、この愚王にとってはエレミヤの預言に切迫感を持たなかったのであろう。

しかし、バビロニアが新王ネブカドネッツァルⅡ世と共に再びシリア・パレスティナ方面に遠征に乗り出す中、エホヤキムは没し、この悪政を成した王の遺体は、民の怨みを買っていて、まともに葬られることもなかったという。

バビロニア軍がエルサレムを包囲すると、ユダはこれに降り、ネブカドネッツァルはエホヤキムに代って王位にあったエホヤキンを捕虜としてバビロンに連れ帰ることとし、エホヤキンの叔父のマッタニヤをゼデキヤと改称させてユダに傀儡王として据えた。この時期にネブカドネッツァルはユダの有能な人材を集め、約一万人をバビロンに送るが、これが第一次のバビロン捕囚とされている。

その中には後に預言者となるエゼキエルが含まれていたであろう。(列王第二24:15)
こうして傀儡王ゼデキヤによってユダ王国は再び命脈を保ったものの、エジプトの次にはバビロニアの貢納国として従属関係に入ったのであった。しかし、世界情勢は不安定であり、ユダ王室でもその後の対処についての意見は分かれていた。

その後、エレミヤは預言してゼデキヤとユダ王統のためにもバビロンへの恭順を再三促すのだが、王の近臣たちはこれに異を唱えてエジプトを頼るようにと説得を続けた。
そうしてゼデキヤの治世の間にエジプトではファラオがネコⅡ世からプサムティコスⅡ世へと代替わりし、ユダとの仲が親密になってゆく。
しかし、ゼデキヤは治世の第八年に貢納品を携えてバビロンに赴き、服属を誓うのであった。

それにも関わらず、ゼデキヤの近臣はエレミヤを王から遠避けて、エジプトを頼ってバビロンの頸木から脱することを唱え続ける。
エジプトではファラオが更に代り、好戦的な姿勢を見せるアプリエスが即位した。このファラオはバビロニアへの挑戦を見せ、エドム、モアブ、アンモン、テュロス、シドンにバビロニアへの反抗を教唆する。
この影響も受けて、遂にゼデキヤはエレミヤの預言に反して近臣の意見に屈し、遂にバビロニアへの従属関係の破棄を宣言してしまった。

エレミヤの預言では、バビロンに服属している限りユダは国を保てたのであったが、ゼデキヤは越えてはならない一線を踏み越え自国を滅ぼす道を選び取ってしまったのである。
 
翌年、ネブカドネッツァルの軍はエルサレムを包囲し、市内には窮乏が襲う。しかし、一度エジプトが大軍を率いてユダ救援に向かい、一度バビロニア軍の包囲網を解いたのだが、それはゼデキヤとその取り巻きに徹底抗戦を決意させてしまい、エレミヤはいよいよ立場を悪くして捕えられ、空腹感が常に持続する減らされたパンで日々を送らされるのであった。しかし、バビロニア軍は再来し、更に翌年になるとタンムズの月の9日*には遂にエルサレムの城壁が破られ、バビロニア軍が続々と市内に侵攻してくるのであった。ここにダヴィデから四百年続いたエッサイの王朝も遂に途絶えることになる。

次いで翌アヴの月には、神YHWHの神殿も市街と共に破壊されるに至るのであった。こうしてモーセから九百年も続いた律法祭祀制度も一度終りを迎えるのであった。(列王第二25:3-4)

これは前586年の夏の事とされており、このヨシア王以後の騒乱の時期から「契約の箱」が歴史資料から姿を消しているが、他国に捕われてさえ、周囲を動かし自力で戻る奇跡の箱がそれ以来二度と戻らなかったからには、そこに律法契約から後の『新しい契約』への神の意志を見るかのようである。預言者エレミヤは、人々が契約の箱について語らず、もはや作られることもなくなる時期の到来について、依然神殿の至聖所に契約の箱が安置されている時期から予告していたのであり、エルサレム陥落後のバビロニア側にもペルシア側にも、神殿什器の詳細に契約の箱が見当たらない。やはり、神がその名を置く象徴であり、人の命さえ奪うという神秘の臨御光が宿ったという証しの箱の行方は、人の辿り出せるものではなかったのであろう。

他方で、生き残ったユダ国民は多くがバビロンに捕え移され、結果的に僅かに残されたユダの農民らも、エレミアの預言に従わず、バビロニアに任命された同朋の総督を殺してしまい。その報復を恐れて、エジプトに去ってしまった。こうしてユダの地は人が住まず荒れるに任される。
だが、神YHWHは、再三にわたってイザヤやエレミヤのような預言者らを通し、ユダとイスラエルの民の『約束の地』パレスティナへの帰還を予告させていたのであった。

こうした人の目には到底起こり得ないようにみえるイスラエルの帰還とその神YHWHの祭祀の復興という大業を成し遂げる器として任命される者(メシア)を、神はイザヤを通し「キュロス」と名を挙げて指し示していたのであった。
イスラエルの聖なる神YHWHには、ユダ=イスラエルの父祖アブラハムへの約束を反故にすることなど、その全能性が許さなかったであろう。アブラハムの裔イスラエルは人類の祝福となる『諸国民の光』となることが神の意志であったからであり、この民族はこのまま終わってしまってはいけなかったのである。
 


◆小アジアのリュディアの勃興

この時代のオリエント諸国は躍動期に入っており、世界はその趨勢を大きく変えようとしていた。

そしてアナトリア半島西部地域でも、ギリシア系の諸都市を束ねる国家が成立していた。
それが、小アジアのサルディスを王都とするリュディア王国であるが、この国もキュロスの登場を語るに際して欠くことのできない要素を成している。

この地域のギリシア系諸都市は、イオニアやアイオリスなどの民族毎に緩やかな連合を結ぶものの、それぞれが独立した都市国家であった。
しかし、その中からサルディスを首都とするリュディア王国が頭角を現し、優勢なスミュルナを始め周辺のポリスを支配下に置き始めていた。

富裕なことでリュディア王クロイソスは有名となったが、その父王アリュアッテスのときには、それまではリュディアもメディアと同様に、アッシリアが強勢覇権国であった間は雌伏の貢納国であったものを、その衰亡に乗じてメディアがアナトリア半島東部まで勢力を伸ばしてきたところで、リュディア王アリュアッテスはメディア王キュアクサレースⅡ世を相手に、カッパドキアを争って五年も戦っていた。

打ち続く戦の日々が進み、カッパドキアからシノペ方面をに向かって黒海に注ぐハリュス川の近くで双方が激しく戦闘を行っていたところ、突然に昼が夜になってしまい、両軍はそれを不吉な兆しと見るなり、恐れをなして戦うのを止めたのであった。これは前585年5月28日に起こった皆既日食であろうと今日では想定されているものである。

ともあれ、この日蝕をきっかけにして、リュディアとメディアの両国は、バビロニア王となっていたネブカドネッツァルの仲介を得て和睦し、リュディア王アリュアッテスは娘のアリュエニスをメディア王子アステュアゲスに娶らせた。
こうしてメディア王家にはリュディアの血が流れることになるが、やがて、このアリュエニスは娘マンダネを産む。

他方で、リュディア王アリュアッテスが前561年に亡くなるとその王子クロイソスが35歳で即位し、リュディア王国は版図をカッパドキアとキリキアを除くアナトリア半島に広げ、同地からの砂金の産出も得て貨幣を鋳造し、いよいよ富と繁栄を極める。クロイソスと云えば富裕王の代名詞ともなってゆく。
こうして、覇権国家アッシリアの去った後には、メディア、バビロニア、エジプト、そしてこのリュディアの四強が現れた。

この時代についてはヘロドトスやクセノフォンが詳述しているが、それぞれに矛盾もあり、正確さには異議が唱えられているものの、それらを基にして当時の出来事を幾らか描き出してみると、そろそろ、この辺りからがイザヤの預言したキュロスの登場の場面に光が当たるかのように背景が見えて来る。


◆狙われた命

前述のように、ハリュス川での戦いが日蝕によって遮られ、リュディアの王女がメディアの王子アステュアゲスに嫁いだあと、マンダネという娘が生まれたのだが、王位を継いでいたアステュアゲスは不可解な夢を二度見たのであった。
一度目は、娘のマンダネが小水でエクバタナの都を水浸しにしてしまい、それがアジア全体に広がってしまう夢であった。

さて、メディアに知られる六部族の中にギリシア語で「マゴイ族」(アヴェスター語では「マグ」)と呼ばれる支族があり、この部族は他に無い生業によってメディアの民の中で過ごしてきたのであるが、その生業とは祭司であり、様々な卜占を行い王家にも少なからぬ専門家を置いて神々からの吉凶の知恵と恩恵とを与えていたという。(伝道10:14)

ギリシアのマトンなどが日蝕や月食の周期を唱えて、それが知られるようになる以前のこの時代の人々は、天文を読み、後に起こることの吉凶を知ろうとすることに敏感であったればこそ、戦争を仕掛けるにも神に覗いをたて、日蝕に怯えて軍を引き、また同盟を結んで血縁関係にも入ったのである。

さて、自分の夢が気になったアステュアゲスはマゴイに夢解きを依頼したが、その答えというものはこうであった。
即ち、マンダネから生まれる男子が王となれば、メディアを滅ぼし、アジアの全体を手に入れるというのである。
アステュアゲスはマンダネがいずれは産む子供を怖れた。自分の王位を脅かしはしないかという専制君主には共通する恐れというべきであろう。しかもヘロドトスによればアステュアゲスには男子がなかったのである。

そこで、アステュアゲス王はマンダネを自国メディアの高貴な家柄に嫁がせることは避け、属国であった小国ペルシアの王カンビュセスに嫁がせたのであった。
しかし、はたしてマンダネがペルシアに嫁いだその年に、アステュアゲスは二度目にマンダネの夢を見た。やはりマンダネから葡萄の蔓が伸びてゆき、遂にアジアを覆い尽くしてしまうという夢であった。

王はマゴイを呼び、この夢も解かせるのだが、やはり、マンダネから生まれる子はアステュアゲスに代って王となると言うのである。
娘の妊娠を知ったアステュアゲスは、ペルシアからマンダネを呼び出し、厳重な監視下に娘を置いた上で、忠臣で信頼を置くメディア貴族ハルパゴスに命じて、子が生まれたなら直ちに自分の家に連れて行って殺すよう命じたのであった。

しかし、ハルパゴスは無慈悲な殺害を行う気にはなれず、自分に仕える牛飼いに委ねて、この嬰児を野獣の棲む北方の山地に放置して死ぬに任せるようにと命じた。
牛飼いは道々ハルパゴスの召使いから事情を打ち明けられ、その意味するところをすっかり知ってしまったのであった。

しかし、そこでまことに偶然な事ながら、その牛飼いの妻も妊娠していたのが、男児を死産したばかりであったという。
そこで、この牛飼いのスパコと言う名の妻は夫に強くせがんで、その子を生かしてやって欲しい、その代わりに自分が死産した子の方をハルパゴス様にお見せして欲しいと言うのであった。
牛飼いも、それはもっともな事と思い、自分たちの嬰児の亡骸を山中に運び、ハルパゴスの使いにそれを見せておき、マンダネの産んだ王子の方は自分たちで引き取って育てたという。

こうしてこの嬰児は、牛飼い夫婦によって辛くも命の危機を脱することができた。なんとも始まりからして数奇な人生となったのだ。
この嬰児こそ誰あろう、後の大王キュロス(古ペルシア語「クルシュ」)なのである。

この嬰児は生きなければならなかった。この二世紀前のイザヤの預言はこうなっている。

『YHWHが油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。わたしは彼の右の手を導き、国々を彼に従わせ、王たちの武装の帯を解かせる。彼の前に二重の扉は開かれ、どの城門も閉ざされることはない。
わたしはあなたの前を行き、山々を平らにし、青銅の扉を粉砕し、鉄の閂をへし折り、わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。

それであなたは、わたしがYHWHであり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることを知ることになる。
わたしの僕ヤコブ、わたしの選んだイスラエルのために
あなたは知らなかったが、わたしがあなたの名を呼び、栄誉ある名を与えたのだ』。
(イザヤ45:1-5)

ここにはバビロン捕囚を経験することになるユダヤ人と既にアッシリアの各地に散らされているイスラエルを解放させ、パレスティナへの帰還を実現させるための器としての働きが予告されているのである。
それも、この予告が実現する150年以上も前に神YHWHは預言者イザヤによって語り、確かにキュロスを「リ マシホー、レ コレシュ」[לִמְשִׁיחֹו֮ לְכֹ֣ורֶשׁ] 即ち「メシア(任命された者)キュロス」とヘブライ語で名指ししたのであった。 彼自身はそれを意識しなかっただろうが、神はかつてダヴィデ王にそうしたように、生まれる前から彼を予見し、更に名指しで召していたのである。
しかも、上記のように歴史書を紐解くと、王に命を狙われ死にかけ、牛飼い夫婦に救われた嬰児がそのメシアであるというのである。

さて、ここまでくれば、キリスト教に通じた読者諸氏ならば、もう一人の王に命を狙われたメシアとなるべき嬰児が思い浮かぶことであろう。
それこそは、イエス・キリストに他ならない。


◆目に見えぬ世界の戦い

嬰児であったキュロスの上にもたらされた命を奪う策略と、幼子イエスの身の上にも生じた危機とには共通する介在者が居る。
それが卜占を生業とする者、メディアの一支族「マゴイ」(ギリシア語・複数)である。彼らは六百年も後の時代に依然存在していたことを新約聖書から我々は知る。

即ち、『ユダヤ人の王として生まれた方はどちらにおわしますか?』と、権力欲に溢れ、猜疑心と嫉妬心の塊であるかのような晩年のヘロデ大王の許をわざわざ訪れてメシアとなる赤子の所在に注意を向けさせた三人の占星術者らのことであり、マタイ2章では紛れもなく彼らをギリシア語で「マゴイ」[μάγοι]と呼んでいる。
彼らがヘロデを訪ねることが無ければ、幼子イエスは狙われず、ベツレヘム・エフラタの幼子たちの命も奪われなかったであろう。

それこそは、三人のマゴイが悪霊によって『星を観て』、つまり自らの占星術に導かれた結果なのである。
即ち、神のメシアの現れを除くべく、その生み出されるところで命を奪い、そうして神の御旨を阻止しようとする者とは、かの「反抗する者」サタンとその一党に違いない。

イエスの場合には、天使がヨセフに警告を与えて、エジプトに一家を逃れさせてメシアとなる幼児の命は守られたが、その約六百年前にも、やはりマゴイを介してメシアとなる嬰児の命が狙われ、それを牛飼い夫婦が救っていたのであった。
そこでは、人には見えない世界での神とサタンの闘争があることが示されている。

こうした見えない霊界の闘争があることは、ダニエル書中でも示唆されている。
ダニエルの祈りに対して、神から遣わされた有力な天使であってすら、『ペルシアの君』と呼ばれる何者かの霊者に行く手を阻まれて21日に及び、そこで天使長ミカエルの助けを必要としたのである。

その『ペルシアの君』とはおそらくは、サタンもしくは有力な悪霊のひとりなのであろう。ダニエルに現れた有力な天使は、『ペルシアの君』の他に『ギリシアの君』と呼ばれる何者かが居ることも明かしている。(ダニエル9章-10章)
こうしたサタンの霊の勢力に用いられて、メシアの誕生したところを殺してしまうために用いられていたのが、地上の卜占業者らであり、メディアの「マゴイ」であった。

他方、多くのキリスト教徒はマゴイを「マギ」と呼び、イエスの誕生を祝いに来た東方の三博士などとありがたがり、それもイエスが生まれた訳でもないクリスマスの時飾り付けているのだが、それは恐るべき無理解と云う他ない。この「マギ」が「マジック」つまりは「魔術」の語源となってもいる。
実に、マゴイはサタンに遣わされた刺客に等しかったのである。
しかし、その企図は二回とも挫かれ、神の御旨が成就するに至っていることの方がどれほど有り難いことであろう。

そしてキュロス大王となるべき嬰児も、マゴイとその背後に控える霊の勢力からの攻撃をかわして、質素で目立たぬ牛飼いの家で成長を遂げてゆく。それは後にナザレ村の大工の息子として育つことになるダヴィデ王統を引き継ぐもう一人のメシアの先例のようでさえある。
その牛飼いの子には初めからキュロスの名が与えられたのではなく、キュロスと呼ばれるのは後にペルシアの宮廷に戻ってからのことである。 したがって、イザヤのヘブライ語の預言で「コレシュ」に相当する「ペルシア語「クルシュ」と名付けられるに至ったのは十歳を過ぎたころであったろう。

この点、後にキュロス大王が「犬に育てられていた」と噂されたのも、牛飼い夫婦にしてみれば自分たちが大王様の里であったとはまことに畏れ多いと思われたのであろう。
養母となった牛飼いの妻は名をスパコと云ったが、ペルシア語でスパカは犬を意味するところから来たものと謂われているそうである。

確かに、スパコなる女が文字通りの授かりものであるその子に、よくよく愛情を注いだことが窺える。カンビュセスとマンダネの宮廷に戻った少年キュロスは、養母を褒めちぎって憚らなかったとヘロドトスは書いている。しかし、それは宮廷には都合が宜しくもなかったことであろう。その件は表向きでは隠されていたようで、それゆえにも「犬に育てられた」とのローマの建国者ロルムスとレムスのような英雄伝説が語られもしたようである。


しかし、どのようにしてキュロスは王家に戻ることになったのだろうか。


◆頭角を現す少年

キュロスの少年時代からの成長ぶりについては、ギリシア人でペルシアの傭兵にもなっていたことのあるクセノフォンがその著「キュロスの教育」に詳しく書いている。
しかし、クセノフォンがこの書を記した目的は、歴史を忠実に追うことよりも、ペルシアの教育がどれほど廉直で優れているかをギリシア語を話す人々に知らしめるところにあったが為に、史実に忠実ではないとの批判はどうやらその通りらしい。

しかし、クセノフォンの経歴からして、すべてが間違いとは言えず、おそらくは、メディア・ペルシアでの年齢別にグループを作ってそれぞれに指導を受け、正義と困苦を学ぶというところはその通りであったように読める。つまりは、今日の学校、あるいはボーイスカウトや青年団のようなものだったのだろう。年若いキュロスもこの制度に従い、王室に籠って庶民の暮らしぶりも困苦のほども知らずに育ったような軟弱で官僚的な王子とはならなかった。

またヘロドトスもキュロスの少年時代について述べている。そこでは特に、正義感や職務への忠実さについては、キュロスの素性が殺害を命じた当のメディア王アステュアゲスに明らかになる場面で、意味を持ってくる。

それは少年が10歳のときであったという。少年のグループに属して「王様ごっこ」をして遊んでいるときのこと、キュロスが(少年時代の名は分かっていないが)王様に選ばれたので、家臣役の子供が職務を怠ったのを咎め、鞭打ったのだが、それは名士の子であった。

そのアルテムバレスという名の貴族は、遊びの中で為された罰により、自分の息子が傷を負ったことを王に訴えた。
そこでアステュアゲス王は、牛飼いとその息子を呼んでその件を質したところ、牛飼いの息子らしからぬ臆さぬ話しぶりと、その正義を弁明するさまに何やら格別のものを感じたうえ、自分にも似た容貌が非常に気になった。もし、殺害を命じた孫が生きていればこのくらいの年齢にはなっているだろうと思うところもあって、気が動転するほどであったという。

事の真相を知ろうとして、訴えた親子は早々に帰し、牛飼いだけにさせて事の次第を尋ねるが、牛飼いは自分の子だと言う。そこで拷問の用意をさせると、遂に牛飼いも真実を話し出した。
アステュアゲスは、牛飼いはともかくも、忠臣と信じて必ず殺せと託した筈のハルパゴスの方に強い憤懣を抱く。

王はハルパゴスを呼びつけて真相を話したが、自分の懐く怒りは顔に出さずに、孫の生存を喜んでいると言う。
そして、ハルパゴスの息子を自分の孫のところに与えるように、その上で祝いの食事に来るようにとも命じた。
 
ハルパゴスには13歳の一人息子がいたのだが、これを王宮に送り、自分も王の饗宴に与るために喜んで王を訪れた。しかし、これは王の激怒の籠った策略であり、彼に供された料理は、その息子の肉であった。
宴会が終わり、肉のことが明かされてもハルパゴスは表情を変えずに、息子の残った遺体を携えて家に戻ったというが、もちろん、一人息子とその親をこのように過酷で無慈悲に扱ったからには、ハルパゴスの中に主君への怨念の宿ったことは想像するまでもない。そして、この復讐はやがて遂げられることになる。

次いで王は夢解きを行ったマゴイを呼びつけて、死んだと思っていた孫が生きていたがどうするべきかと問う。
すると、マゴイは自分たちへも災難の及ばぬように王の機嫌をとるかのようにして、その子が既に「王様ごっこ」で一度王になっていたのであれば、もう心配はないと言い訳を述べるのであった。
「夢とは他愛もない事の上に成就してしまうこともあるものだ」とも言い立てるマゴイは、ここで明らかに危険な劣勢に立っており、それはやがて訪れる決定的な断罪と彼らの刑死の前兆でもあった。

さて、孫が生きていたことをペルシア宮廷と娘のマンダネに知らせると、キュロスの両親は大いに喜んで少年を引き取った。キュロスの名を得たのはこのときのことであろう。
しかし、その後も少年キュロスは祖父アステュアゲスをメディアの宮廷に尋ね、賢くて活発な上、周囲の人々に身分の隔たりなく優しい性質を見せていた。これが、少年キュロスの培った正義と、身分を越えた親密の情などの誉めるべき特質が、メディア・ペルシアの年齢層別の訓練に由来するとクセノフォンが自著「キュロスの教育」を通して強調したかったところのひとつであろう。
 
そのように優れた彼の特質は無数の兵士を束ねる上でも、敵をさえ心服させる度量の大きさとなっていったことが窺える。だが、イザヤの預言を知る者からすれば、そこに将来の神YHWHに用いられるメシアとしての相応しい優れた資質を感じさせるものである。

彼は、山地が多く騎乗の難しいペルシア*よりは、高原平野のメディアで騎乗を存分に学ぶことを楽しみ、ほどなくして同年輩の誰にも負けない乗り手に成長したという。*(「パールサ」は「辺境」の意であるという)
また、自分の不得手な分野に一層の努力を傾け、あらゆる分野で優れた者に成長を遂げていったともクセノフォンは言う。
メディア・ペルシアでの教育は、正義を学びつつ身体を鍛えるばかりでなく節制も身に着ける、それは、飲食を少なくして困苦にも耐え、睡眠を削ってでも注意を払い続ける忍耐力を培うことであったという。

キュロスを自らの許に得たカンビュセスⅠ世は、さらにキュロスに軍を率いる者の資質について教え、狩りでの実習も積んでいたようであるし、クセノフォンはキュロスが青年期にバビロニア軍との会戦を経験したことを記している。
こうして、生き長らえた命は見事に成長し、その実を結ぶときが近付いていた。


◆キュロスの立つ日

さて、息子を料理されたメディア貴族ハルパゴスは復讐の機会を窺っていたが、アステュアゲス王の暴虐ぶりには、他の多くの貴族も憂慮させ、また恨みを抱かせていた。
そこでハルパゴスは、陰で仲間を増やしつつあったし、利発で活発な少年キュロスも寡黙で思慮深い青年に成長しておりアンシャン分封の王となっていたので、もはや気も熟したようであった。
彼は、キュロスに決起を促そうと、一匹のうさぎを贈った。その中には密書が仕込まれており、もしキュロスが立つなら、メディア貴族はこれを迎えると書き送ったのであった。

キュロスは祖父の悪政ぶりを勘案熟慮の上で、ペルシアの将兵を束ねるために各地に通達を発し、自分はアステュアゲス王からペルシア軍の司令官に任じられたと偽った。
その上で、将兵を集めるに当たり、一日目には鎌を持参させて、一面に刺ある茨の生えた野原を開墾させ、次の日には父カンビュセス王の家畜を集めて屠り、兵を饗応したのであった。
そして、昨日と今日とではどちらが良いか?と尋ねる。もちろん答えは辛い労働よりは肥えた肉を食らうことである。

そこでキュロスは『私の言う通りにすれば、今日のような目にいくらでも遭えるが、その気を起こさねば昨日のように辛い毎日が続くぞ・・自分は神意によってこの世に生を受けこの大業を任されたと思っている。そして皆は戦いでも他の事でもメディア人に引けを取らぬと思っている。・・いまこそアステュアゲスに謀反を起こすべきなのだ』と将兵の心を掴み、決起を促したのであった。

軍は勇み立ちエクバタナに向かって進軍を始めた。
前552年、緒戦はヒルバという城市での戦いとなったが、キュロスの軍は数が少ないので、彼は父カンビュセスに数千の兵を嘆願し、なおそれがメディア王の指令であるかのように装うことも付け加えていた。そこでカンビュセスは可能な限りの兵を息子に託したという。

戦闘が始まると、ハルパゴスは王アステュアゲスを欺いてキュロスの反乱を過少評価させたが、ペルシア軍が迫ると王は、迎え撃つメディア軍をあのハルパゴスに委ねてしまったのであった。
ハルパゴスは軍を率いて進み、ペルシア軍と開戦はしたのだが、ハルパゴスを筆頭に謀反を起こそうとしていた貴族とその軍はペルシア側に寝返ったり、戦闘を放棄したりしてしまいメディアの軍は敵を前に崩壊してしまった。

これを聞いたアステュアゲス王は、「王様ごっこ」で一度王になっていたからもう安心で、「夢など他愛も無い成就もある」と言い訳していたマゴイどもを串刺しにして処刑するや、残りの兵を率いて自らキュロスの軍に立ち向かったが、人望のないメディア王ではもはやキュロスに抗うことは出来ず、敢無くアステュアゲスも囚われの身と相成ったのである。

アステュアゲスはハルパゴスを見て、王権をメディアに保たずペルシアに渡してしまったと罵ったが、キュロスの前に専制君主の陥りがちな暴君でしかないアステュアゲスは、もはや大国を導く器ではなく、この以前から親族やメディアの重臣の信任を得たキュロスに趨勢は決していたというべきであろう。しかし、キュロスは祖父アステュアゲスを殺すことも何の害も加えることもなく、死ぬまで養ったという。

こうしてマゴイの夢解きは実現し、キュロスはエクバタナに迎えられるように入城し、ふたつの国メディア・ペルシアの実質的な主となったのであった。メディアの貴族たちもキュロスを受け入れて従い、こうして双方の血を引くキュロスの下で、メディアとペルシアは断ちがたい二重国家となって更に強固な王国となっていった。これは西暦前550年のことであったと云う。(異説はあるが、このときアステュアゲスには定めた王位継承者がいたらしい。そのためキュロスがメディアとペルシアの名目上でも統治権を得るのは後のことになったらしい)

この結末はといえば、マゴイの裏で糸を引いていたサタンは、マンダネをわざわざペルシアに嫁がさせ、次いで、嬰児殺害にも失敗し、分け隔てなく人を扱う人徳をキュロスに与えてしまい、こうして却って神の預言を成就させることをしてしまったことになる。


◆日の出の勢いのペルシア

さて、アッシリア亡き後に現れた四強国家の中で、小アシアのリュディア王国は、前560年以後、優れた新王クロイソスを戴き、版図を広げつつ領内から産出する砂金もあって、富み栄え意気軒昂であった。
エーゲ海側の小アシア商業港湾都市の数々が手に入ると、クロイソスは東に目を向けてメディア・ペルシアを攻めたものかと思案し、神託に伺いを立てようとしたが、その前に、どの神の託宣が信頼できるのかを試すことにした。
彼は、ギリシア諸国の神々の託宣所に自分が指定した日に何を行っているのかを言い当てさせたのであったが、その結果、特にアカイアのパルナッソス山近くにあるデルフォイのアポロン神殿の託宣の正確性を確認した。

そこで、デルフォイの巫女に伺いを立て、自分がメディアと戦端を開くべきかを問わせたところ、「メディアで騾馬が王になったならば・・ヘルモス川に沿って逃げろ」との託宣を得たが、彼はこれを喜んでしまった。なぜなら、騾馬が王になることなど有り得ないと思えたからであった。また、デルフォイとアンフィアラオスの双方が「クロイソスがペルシアに出兵すれば大国を滅ぼすことになる」と託宣を伝えてきたことも、その滅ぼされる国が自国ではなくペルシアの方だと思い込んで喜んで戦の用意にかかり、ギリシア最強の都市国家スパルタと同盟を結び、キュロスとの戦いに万全に備えたのであった。

クロイソスは、かつて先代が日蝕でメディアと和解した停戦ラインのハリュス川を渡河して侵攻し、カッパドキアのプテリアに着陣し、周囲を占領した。
一方で、キュロスも道々兵を集めて進軍しカッパドキアに入った。前547年秋の事であったという。

両軍はプテリアで激突し、非常に激しい戦いとなったが、一日では形勢は分かれず勝敗が付かなかった。
翌日、クロイソスはペルシア軍が一向に攻撃を仕掛けて来ないので、キュロスは激戦で戦意を失ったと解し、ならばカッパドキア侵攻は、精強なスパルタ軍などの到着を待ってから仕切り直しをしようと思い立ち、戦場を後にして自国に引き上げ、連合軍は各国に返し、サルディスの都でバビロニアにも使いを送り助勢を依頼し、翌年の侵攻の準備をし始めたのであった。

キュロスは、その行動を読んで、クロイソスが一度軍役を解くであろうことを悟り、そこを急襲する作戦を取り、リュディア軍を密かに追うようにしてサルディスを目指したのであった。
やがてペルシア軍が近付いていることを知ったクロイソスは大いに狼狽したが、そこは覚悟を決めて果敢に打って出た。
しかし多勢に無勢。頼みの優秀な騎兵もペルシアの駱駝隊に蹴散らされ*、クロイソスは一族共々ペルシア軍に捕えられてしまった。*(馬は駱駝が大の苦手という)

当初、キュロスはクロイソスとその一族を処刑して神に初穂として捧げようと、薪を積み上げ着火したのだが、それまで黙っていたクロイソスが、富が人を幸福にはしないと彼の運命の不確かさを指摘したアテナイの哲人ソロンや、デルフォイの託宣を得たアポロン神の名を呼ばわり始めたので、キュロスが通訳を介してその意味を聞くと、自分と同じ人間でありながら富み栄えたもうひとりの人間を火刑に処すことの無常さに想い至り、急いで火を消すようにと命じたという。ましてクロイソスは、キュロスの祖母の兄弟の立場にあり、まるで他人ではない。

だが時遅く、火勢はすっかり強くなって人の手には負えない状態になってしまっていた。
しかし、そこに突如として黒雲が現れ沛然たる雷雨が降り注ぐや、その火勢をも消してしまったとヘロドドスは伝えている。
この件もあって、クロイソスは衆人の尊敬されるところとなり、その後、彼は見事な一計を献じて、キュロスにペルシア兵からのサルディスの全き奪略を回避させ、クロイソスは以後、キュロスの下で知略に優れた参謀として従うことになる。

キュロスは、クロイソスを鄭重に扱い、どうしてペルシアと闘おうというつもりになったかを問う。それはもはや敵としてではなく、共感する友としての意識を感じさせる語らいの風情がある。そこでクロイソスはギリシアの神々がそうさせたと答え、「平和より戦争を選ぶ無分別な者がどこにあろうか」と言った。デルフォイの託宣の「王になる騾馬」とは、キュロスのことであり、彼の中にはペルシアだけでなく祖母を通してメディアとリュディアの血も流れている点で騾馬のような混合種ということであったのだろうが、ギリシアの神々はこのように人のどちらともとれる託宣を与える意地の悪さを見せていたのであり、後世、デルフォイの神託所に入る前に巫女の述べた苦情「さてさて、あなたは負けないお方だ」の一言で十分だと引き上げてしまったマケドニアのアレクサンドロスは、ギリシアの神々に惑わされなかった点では賢かったのであろう。

その後、キュロスはハルパゴスを小アジアの総督に任じ、クロイソスを連れてその地を後にした。
こうして、キュロスはエクバタナ占領から三年という短期間のうちに四強のメディアとリュディアを加え、後には南にあるエラムも征して、その勢いは残るエジプトとバビロニアに大きな脅威を与えるまでになったのであった。


◆バビロンの衰退とペルシアの侵攻

新バビロニア帝国というものは、多くをネブカドネッツァルⅡ世に負っているということができる。
彼は皇太子の時期からエジプトを退散させ、ヒッタイトを支配下に収めた。

即位してからの権勢も目覚ましく、シリア方面からパレスティナに侵攻し、エルサレムを神殿諸共に破壊し、民をバビロンに捕囚に処した。
それに加えて、バビロンは遂にエジプトを占領し服属させるまでになった。これはかつてのアッシリアのような世界覇権国家となったことを意味している。
バビロンでは、市の領域を倍に増やし、空中庭園を始め美しく大きな建設を次々に行い、バビロンは当代随一の洗練された都会となったと言われている。

しかし、この大王の死後と言えば見るべき傑出した王を持たなかった。
ネブカドネッツァルⅡ世の王権を前562年に継承したアメル・マルドゥク(エヴィル・メロダク)は、治世僅か二年にして義理の弟のネルガル・シャレゼル(ネリグリッサル)に暗殺されてしまう。
そのネリグリッサルの四年の治世を持つのみで没し、余りにも幼いラバシ・マルドゥクが九か月王座にあったところで、やはり暗殺される。
こうなると、バビロニア王朝の凋落は目に見えている。その背後にはバビロニアの主神マルドゥクの神官らがこの混乱に関わっていたようである。

というのも、その混乱を鎮めて次の王となったナボニドゥスは、神官らを監督し、その人事を掌握してその勢力を削ぐところに注力したからである。そして自身はマルドゥクではなく、月の神シンを崇拝していた。
ナボニドゥスがバビロン王として即位したのは前555年、それはキュロスがエクバタナに迎えられてメディアの王権を手にする5年前のことであった。ナボニドゥスは西方の反乱を鎮めるためにシリアに赴き、バビロニアについては息子のベルシャッツァルに委ね、シリアに十年(ca前553-543)も長期滞在をしていたのであるが、その間にキュロスの方は、前述のようにリュディアを破り(前547)、更に7年後(前540)にはエラムを征服して、着々とバビロニア侵攻の機が熟しつつあった。世界の覇権国家バビロニアには、キュロス大王を戴いたペルシアという好敵手が急速に台頭しつつあった。

さてネブカドネッツァルⅡ世は同盟関係にあった時代からメディアへの備えを怠らず、大河の河口方面からオピス(現バクダッド北80km)まで続く長い壁を構築していた。
そのためキュロスは北方からバビロニアへの侵攻を始め、メディアとペルシアばかりか上下のフリュギア軍などアナトリアの兵までもを加え、チグリス上流のアルベラ方面から侵入したところ、同地ではバビロンへの反乱が起こり、ペルシア軍は戦わず投降した軍勢も加えてそのまま南下し、オピスでナボニドゥス率いるバビロニア軍を会戦する。そこにはティグリス川に架かる橋があったとクセノフォンは云う。(前539年)

しかし、バビロニア軍は敗退しナボニドスはボルシッパに落ち延びたと「ナボニドス年代記」は記す。
こうして勢いを増すキュロスの連合軍は遂にバビロン城市を攻めることとなるのであった。


◆バビロン攻城戦

キュロスが都市バビロンを目にしたのはこのときが初めてのことであったろう。
彼はバビロンの広大さ、隙無く高くて分厚い二重の城壁を眺め、「これを攻略する方策など思い浮かばぬ」と軍議でもらしたとクセノフォンは記している。
バビロン城市は方形でヘロドトスによれば各辺が120スタディオン(21.6km)*もあったという。その中央をユーフラテスが流れ、その両岸に城市が広がっていた。*(ヘロドトスの数字には時に誇張もあるという)

左岸には王宮やマルドゥク神殿の八層ジッグラトが聳える行政区があり、右岸側には広大な耕地があって、この土地の驚異的な小麦の収穫率からしても、兵糧攻めをしたところで攻守どちらが先に干上がるか知れたものではない。城内には20年分の食料の蓄えがあったと云われたが、どんな軍隊であれ、それほど長い攻囲を続けられないことは目に見えており、しかもキュロスの同盟軍の内のカッパドキア、フリュギア、リュディアなどのアナトリア勢が、攻囲が長引きペルシアが劣勢に立った場合には、ペルシア側に投降している自軍も合わせて自分たちに寝返ることも期待できたのであるから、敗退を続けたバビロニア軍と雖も、首都の防備にはけっして負けない自信があった。

しかし、イザヤ書はペルシア軍の採用することになる戦法をも数世代前から予告していたのであった。
『深い淵にむかって「乾け、わたしはあなたのすべての川を干す」。またキュロスについては、「彼はわが牧者、わが目的をことごとくなし遂げる」と言い、エルサレムについては、「ふたたび建てられる」と言い、神殿については、『その基が据えられる」と言う」。』(イザヤ44:27-28)

クセノフォンによる軍議の様子では、キュロスは攻囲を続けることを提案したところ、臣下のペルシア貴族クリュサンタスと同盟メディア軍にいたバビロニアのグティウムのサトラップ(総督)であったゴブリュアスは、バビロンが城壁よりも大河ユーフラテスに守られていると指摘する。
そこでキュロスは、ユーフラテス川の水流を別に造る水路に向けてしまい、市内に向かう水を枯らして、川床から侵入する策を思いついたのであった。それでなくても秋に水位は最も低くなっている。この作戦なら、城壁に妨げられることなく、内部にいきなりに侵攻できる。
キュロスに耳には、バビロニア人が徹夜で乱痴気騒ぎを行うという秋の祭りがあることが入っていたので、水流を別の水路に流してしまう時をその夜とする。

水路掘削の間にバビロニアの兵が出て来ないように、城市の周囲には監視の塔と支城が設けられ、ペルシア軍が何を画策しているかを秘密に保つ。

大河の上流で堰が切られた侵攻の晩、満月に近い月明かりの中、ペルシアの大隊は目立たぬよう二列縦隊で密かにバビロンに向かい、同盟軍もその後に続いた。
近衛兵に川の様子を確かめさせると、二人分の背丈以上あった水位も、腿の半ばまでの深さになっていると報告された。
キュロスは全軍の将を鼓舞し、猶予を置かずに態勢の整っていない敵を捕らえるように指示し、川床を進んでいった。
 
川に面する城壁の扉は、警戒心薄く開け放たれており、侵入したペルシア兵は祭りの騒ぎの中に紛れ込むかのようにして門衛を突き刺し、自分たちも祭りを祝っているかのような大声を上げつつ王宮に向かっていった。こうなると「祭り」もまったくバビロンの敵となってしまう。

キュロスは戸外で出会った者は殺害し、屋内にいる者には外に出ぬように言えとバビロニアの言語を話す騎兵たちに言い含めておいた。それはまさに、ユダの捕囚民の命を救うものとなったに違いない。

さて、この間に王宮で起こっていたことについては、ダニエル書から知ることができる。
その晩、ナボニドゥスの子でバビロンの統治を任されていたベルシャッツァルは、王宮で盛大な宴を催していた。そこに居並ぶ高官らは千人を数えるという、攻囲されている最中とは思えない程の規模の大宴会である。つまりは、まったく油断していたのであった。

ぶどう酒で酔いのまわったベルシャッツァルは、かつて父祖がエルサレム神殿から奪ってきた金銀の聖なる器を持ち出して飲食し、一興としようとした。
それらの器で飲み、自分たちの神々を讃えていたそのとき、空中に手だけが現れ、部屋の壁に文字を記していったのである。しかし、その文字が何を意味するかは分からなかった。

上機嫌のベルシャッツァルの心は一転し戦慄が走った。ダニエル書では『その膝は打ち合った』という。
すぐに卜占師やらが呼ばれるが、誰も書かれた文字を読むことも解き明かすことも出来ずにいた。そこへ妃(皇太后)がそこに入ってきて、かつて父祖ネブカドネッツァルが宗教の長として立てたユダの捕囚民にベルテシャッツァルと呼ばれていた人物、即ち預言者ダニエルを召し出すようにと勧める。王権簒奪者であるナボニドス王は、自らの王位の正当化のためにネブカドネッツッァルの妻をも娶っていたのであり、その妃はかつての宮廷で宗務長官として何者に勝って突出した解き明かしの霊力を示したベルテシャッツァル、即ちダニエルの存在を印象深く覚えていたのであろう。

王統が代って以来忘れられていた智者ダニエルが召しに応じて宴会場に姿を現すと、その謎の文字を読む。即ち『メネ、メネ、テケル、ウ パルシン』。
ダニエルは更にこれらの短文から解き明かして『メネとは、神があなたの治世を数えて、これをその終りに至らせたことを、テケルは、あなたが秤で量られて、その量の足りないことが示されたことを、そしてペレスは、あなたの国が分かたれて、メディアとペルシアの人々に与えられることを意味いたします」。』(ダニエル5:26-28)

ベルシャッツァルは、それを聞くとダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖をその首にかけるように命じ、王国を治める者のうち第三の位を彼に与えるという布告を出した。
しかし、その間にもペルシアの尖兵は王宮に迫っていたであろうから、今更ダニエルに地位を授けたところでベルシャッツァルには何の益も残っていなかった。

こうしてエレミヤの預言も成就する。
『バビロンの勇者らは戦うことをやめた。彼らは砦にただ座りつづけ、その強さは朽ちた。彼らは女になった。建物には火が放たれ、その閂は折られた。斥候は走って他の斥候に会い、伝令は別の伝令に会い、バビロンの王に告げる。「王の都市はあちこちで占拠され、 渡し場は奪い取られてパピルスの舟は燃やされ、兵士らは慄いておりますと」。』(エレミヤ51:30~32)

クセノフォンの記述に戻ると、キュロスの同盟軍のゴブリュアスは王宮の扉を見つけたがそれは閉じられており、その外側で王宮の門衛たちとの戦いになった。
門衛たちの打ち合う音を聞いたベルシャッツァルが何事かと、外の様子を見させに衛兵を遣わし扉が開いたところに勝手知ったるゴブリュアスの手勢と、共にいたキュロス麾下のガダタスとその一隊が共に中になだれ込み、近衛兵をなぎ倒して王のところに迫ると、ベルシャッツァルは抜き身の剣を手に、護衛なくただひとりで立ちつくしていたという。
これがこの王の最期であった。前539年の秋のタシュリツの月16日の深夜*のことであったと云われる。*(ユダヤ人の「ティシュリの月16日」グレゴリオ暦10月5日とされている)

こうして、ペルシア王キュロスは、ユダとイスラエルを流刑に処してけっして手離すことの無かった覇権国バビロニアの首都を、大河ユーフラテスの水を引かせて破ったのであった。
(ダニエル書では、この時にバビロニアを得た王の名をダレイオスとしているが、この人物についてはよく分かっていない。一説にはアステュアゲスの王位継承者がいたが、高齢に達していたのですぐにキュロスに王権が移ったことをクセノフォンやベロッソスは伝えているのだがヘロドトスはそうしていない)

この事のあって後、ダニエルは自らの神YHWHに祈り、イスラエルの咎が許され、約束の地パレスティナに戻って、その崇拝が復興されることを切に願う。
エルサレムの神殿が破壊されてから、47年目となっていた。彼はエレミヤの預言から、エルサレムの荒廃が七十年続くことを知ったが、そのエレミヤ書には『バビロンで七十年が満ちるにつれ、わたしはあなた方に注意を向けるであろう。わたしはあなた方をこの場所に連れ戻して、わたしの良い言葉をあなた方に対して立証する』とも述べており、70年間の途中で行動を起こすことを示唆している。(エレミヤ29:10)
即ち、キュロスのバビロン征服も、エルサレムの荒廃を終わらせるには未だ道半ばであったというべきであろう。

そして、キュロスは全王権を得た第一年に捕囚民に目を向け、諸民族の神々への崇拝に寛容な政策を施行した。
殊に、バビロニアに蹂躙されていたエルサレムの神殿の再建には、奪われていた聖なる什器類を返還し、ユダの地には、エホヤキン王の第四子のシャルティエルの更に子であるゼルバベルを総督に任命し、領域内の該当する民に神殿再建のための帰国を命じたのであった。その勅令は22年後に果たされ、神殿祭祀はエレミヤの予告の通り七十年の中断を経て、西暦前515年に再興した。それは神殿破壊の前586年から71年目のことであった。⇒「アリヤー・ツィオンの残りの者」 


こうしてキュロスは、神YHWHのメシアとしての大事業を成し遂げることができた。
彼自身は、この十年後に北方の戦線で、有能な参謀クロイソスを戦場から下げていた隙を突かれたかのように戦死を遂げてしまったが、既に世界覇権国ペルシアは揺るぎないものとなっており、その寛容な支配の恩恵によってユダヤとその崇拝は復興を見ることができたのである。

まさしく、神YHWHはこの人物の出生と成長を見守り、その進路を揺るぎないものとして、遂にバビロンの支配を降し、囚われのイスラエルへの善意を表明させている。確かに神は、キュロスの『その右手を導き』 その御旨を成し遂げるに至ったのであった。

神YHWHは、メディアのマゴイやギリシアやバビロニアの神々のようではなく、 人を欺くような神託などは与えない。いや、神YHWHは邪悪な者らには預言を正しく理解できないようにさせることがある。
預言の言葉に固執するあまり、後のメシアが必ずベツレヘムから来るものと決め付け、ベツレヘムで生まれたものの、北方の田舎ナザレから来た大工の息子イエスを見誤ったことがそのひとつである。預言の言葉は彼らの信仰を試すものとなったのである。そこでペルシアの名が「パールサ」、即ち「辺境」の意であった事を思い見るなら、ナザレのイエスにはペルシアのキュロスに重なるものが感じられないだろうか。

しかし、神YHWHの預言の言葉は真実であり虚しくはならず、悪霊らの妨害を排し、必ず実現に向かってゆくものである。
イザヤに示された預言はその通りに成就し、ユダとイスラエルとは再び故国を得ることになったのである。 

それであるから、このキュロスというメシア無くしては、神殿祭祀による律法体制は再興できず、後に到来するメシア、即ちキリスト・イエスの舞台も整うことはなかったであろう。したがって、キリスト教も多くをこのキュロスに負っているのである。

イザヤはこう言う。『誰が東から人を興したか。誰がその者を義によって呼び寄せたか』。それはキュロスを予告し、その名を以って生まれる前から呼び続けたイスラエルの神に他ならない。その神への崇拝は万難を排して再興され、その第二の神殿は次なるメシアを迎えることになった。

そして、キュロスの姿が更なる終末において繰り返し意味を持つことをヨハネ黙示録が記している。即ち、象徴の女が産むことになる『男児』を赤龍が貪り食おうと断ち構えるの図である。
それはキリスト教をはじめ、あらゆる宗教、宗派を震撼させるものとなるであろうし、「終末のマゴイ」らは、新たなメシアの来臨を表す聖霊注がれて語る聖徒らの登場を阻止しようと働くことにもなろう。(黙示録12:3-4)

そのうえ「終末のマゴイ」は、最後の『背教』となる究極的な偶像礼拝を興し、臨御するメシアに対しては諸国の権力を慫慂し、『偽預言者』となって神と人との戦いへと人類を誘うことにもなろう。その『偽預言者』とは、聖霊を受けながらも脱落する聖なる者たちを指しているのであろう。(黙示録16:13-14)

だが預言によれば、その最終的で究極的な「超宗教」が栄える前に、旧来の組織宗教で構成されるであろう「国連の宗教版」のような姿で登場してくる『大いなるバビロン』も倒されねばならず、その信者数を表す膨大な大河の水も気付かぬ内にすっかり引いてしまい、行く末は全き滅びとなると予告されている。それがあらゆる王にも神々にも超越する「イスラエルの聖なる神YHWH*」の御旨であるからである。(黙示録17章)*(「神名”シェム ハ メフォラーシュ”」)

終末のメシア、この世界に臨御するイエスは、再び聖霊を注ぎ出すことによって聖徒らを再び世に登場させ、その影響はまさしく世界全体に及び、世の終りには余りにも異例な事柄の起こることを人類は見ると、聖書が知らせているのである。その結果、今日まで栄えるそれぞれの宗教も神の奇跡の前にしてほとんどの信者を失い、遂に公権力の前に解体を余儀なくされるというシナリオが黙示録にある。(黙示録11:3-6・16:12)

即ち、キュロス大王を巡って起こった古代の事跡は、一度限りの歴史の一コマで終わることなく、更なる意義を以って将来に繰り返されることを聖書は予告しているのである。





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パサルダガエにあるキュロスⅡ世の陵墓



⇒ キュロスⅡ世当時に関する追加情報
   「キュロス大王の意義」 

⇒ キュロスの勅令によるユダヤの帰還事業のゆくえ 
   「アリヤー・ツィオンの残りの者

⇒ エレミヤの予告した七十年の終りが前537年ではない理由
   「エレミヤの七十年の終点から起点を探る