ガブリエルから知らされた「七十週」に込められたもの
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-予備知識-
「聖徒 聖霊が指し示す者」「アリヤーツィオンの残りの者」「エレミヤの七十年」「指名されたメシア キュロス」




◆序として

ヨハネ黙示録やダニエル書などの聖書中の黙示の諸書については、その謎の秘儀を解くことへのロマンが醸し出すところあってか、多くの人々が何事かを知ろうと挑戦してきたものである。その解明を得た人々は有利な将来を得ると思えるのかもしれない。 あるいは、自分に見識眼ありと誇りを覚えることもあろう。

だが、知識ある者だけを神が救うのであれば、そもそも「裁き」の必要があるのは何故か?「知らない」という事が人の「罪」なのだろうか?
「教理を信仰するもの」が救われるというなら、ただ救いの知識を得るばかりであっても神の裁きで恵みを得ると言っていることになる。
そのようではどんなキリスト教であれ、どれほど高度な知識を持とうとも、半面で幼稚な動機に留まってはいないものか。

やはり、密儀の探求においても、人々は救いの機会を知ろうとばかりになって教訓を学ばず、何かの起こる時の予知に精力を傾けがちになるのだが、知識に頼り、規則に従い道徳的に振る舞い等、その「敬虔な人」には自分が周囲の人々と大きく違うと思えるのかもしれないが、実は神の精神については味わいもしない。まして何かを「言い当てただけ」なら、何の意味が残るのか。精々がサバイバルであり秘儀を理解して救われるつもりなのであろう。

当然ながら、黙示の探求にはより重要なことがある。
即ち「善なる神の意向」をおぼろげながら垣間見ることであるのだが、宗教家らの解釈では、往々にしてこの世の終りが近いとして、人々に善行への脅迫観念と刹那的生き方を求めてしまう。彼らにとって「神は災難をもたらす恐れの対象」であり、そこから救うのが「秘儀の理解だ」と思うのであろう。だが、これは根本的に歪んだ神の観方なのである。

それは、人々が本能的に感じる人間存在の儚さ、将来に何が待受けているか分からない危うさにつけ込んだ騙りと脅しとなっており、実にカルト宗教は生活を変調させ、多くの家庭から自然な情愛さえ示すことを妨げる事態を惹き起こしている。

やはり天災の予知のように、聖書中の黙示に無人格な世の終りの出来事をただ予告するかのようなアプローチをするなら、そこには聖書全巻の観点が希薄になってゆき、その関心は神の意向や精神には向かわない。
この世では、この手のオカルト的なまでの未来予測が人気を集めるが、それらに共通する事柄は、好奇心の惹起と神の意向や精神への無頓着さである。

しかも、ただ時や出来事の予知に傾いていってしまえば、これは高慢を誘う罠となり兼ねないだけの人間叡智の賞揚に終わる。この手合いが自説の正しさを吹聴するばかりであれば、その意図は自らを恰も教祖のように高めようとするばかりではないか。

だが、自らを単に媒介者とし、教祖のように高めることのないダニエルという廉潔な智者に啓示された『七十週』の主な目的は、メシアの到来の時を知らせるものというだけでなく、更に重大な事柄が関わっているので、現にメシアの到来については69週を数えるところで終わっており、最後の一週にこそ目的が成し遂げられる時期が込められているのである。

メシア到来の時を言い当てる方向からばかり見ていれば、その主なる内容、神の成し遂げようとする事の意図が何かを見落とす危険があり、それは単なる時の予告に終わり、ダニエルへのこの啓示の最重要な事柄に気付かずに終わることになる。しかも、この『七十週』には最終的に時の不明性が込められているのであり、メシア到来の時期を知ることに注目するばかりであれば、「エレミヤの七十年」を敷衍した意味での「ダニエルの七十週」の本旨には気付かずに終わるであろう。

その一方で、時の予告への「信仰」が人気を集めると、その予知者はその集団の中で高められ、或いは崇められさえし、こうして人に従う宗派が形成されてゆくのだが、それが巧妙であると、信者は恰も神に従うかのようにその予知者に従い、没人格的に大衆化して個人の尊厳を、また理性の判断をさえ委ねてしまうところにまで進んでゆく。そこでエレミヤとダニエルのこれら二つの「七十」に関わる預言には、年代解釈や予知に拘る者らへの罠が潜んでいるとさえ言えるものとなっている。彼らが賛美し高めようとしているのは自分であって神ではない。

ここに預言の本意を解こうとする努力の難しさがあり、かつてユダヤの学者らがそうなったように、たとえ正解を得てすらその益に達しないということが起こり得るのであり、オカルト系の新宗教ばかりか、キリスト教の諸宗派までが同じ陥穽に落ちている姿を見るのはまことに痛々しいものである。

それを加味して、以下に述べる事柄は試論であって、当然のことながら神が秘めたものを人は知り得ないし、また聖書は神のすべての意図を語っているわけではない。裁かれる身の上にある人間に、どうしてすべてが語られようか。

であるから、これが間違いのない正解であるとは言わない。まして筆者はただの人間であって、聖霊の導きなどあり得ないからである。秘儀の正解は常に神の御許にある以上、自分の格別な知力や観察眼を用いて終末を言い当てようとする「予想屋」になろうとも筆者は思わない。

ただ、この本意は、神の悠久の歩みに於いて、遠い過去から我々の将来へと、その御旨が継続していることを聖書の言葉におぼろげながら見渡し、神の終末に於ける目的と行動計画の一端に理解を深め、その背後にある意向と精神を把握し、ある程度に心を整えることにあるので、よろしければそのおつもりでお読み頂きたく思うところである。



◆神は捕囚期になお経綸を示される

さて、ユダからのバビロン捕囚民の中でも、預言者ダニエルは非常に知られた人物であったことはエゼキエルの記述にも表れている。(エゼキエル14:20)
ダニエルは帝王ネブカドネッツァルの夢を少なくとも二度解いてその預言的意味を教えている。
王の夢の解き明かしの一度目は、ネブカドネッツァルの統治の第二年(前603年)のことであったという。
それがどのような夢であったかさえ大王自身も忘れてしまっていたのだが、気持ちに強い動揺が残り、その不吉さに怯えたのであろう。カルデアの職業占い師らが集められても夢解きもおろか、その夢をさえ指摘することも尽くできなかった。

そこでダニエルは若年ではあったが、王の夢がどうであったかさえも示したうえで、その解き明かしを行ったものであるから、ダニエルは以後王の信任を得て、宗教上の知恵に関する最高位を拝命することになった。解き明かした夢の内容は巨大な像であり、大王ネブカドネッツァルを驚かせるばかりか、この世の終末に至るまでが示され、人類史を俯瞰するという途方もないものであった。

それは、バビロニアの王国の後にどのような国々が次々に覇権を得るかを神が王に示したものであったが、それはダニエル書を介して、今日の我々にまで知らされており、その結末は神の国の全面的勝利となる。

これを解き明かしたダニエルは、若くしてネブカドネッツァルの信任厚いものとなり、帝王は布告を以ってダニエルを知らせ讃えたものであるから、帝国内でも流刑民の間でも、そしてユダヤ本国でも著名な人物となった。

しばらくして、ネブカドネッツァルは再び不可思議な夢を見たが、それは切り倒される巨木の夢であった。
ダニエル書のその部分は王の布告という形でアラム語で記されている。だが、それがネブカドネッツァルの何時のことであるかは書かれていない。

しかし、既にダニエルが「祭司の長官」と呼ばれる高い地位にあることからして、一度目の夢の後、それから数年後に起こっていた事なのであろう。そこでネブカドネッツァルは一定期間王座から離れ、正気を失って過ごすことが記されているので、それは余程ゆるぎない王権が確立されていた絶頂期のことであったのだろう。


その後、ネブカドネッツァルが崩御し、やがて王統が代ってナボニドスの時代に入ると、ダニエルはしばらく忘れ去られ地位は低められたまま年老いたが、バビロンがメディアとペルシアに占領される正にその夜に、再び神に通じる知恵を晩年に至ってなおダニエルは見せることになる。

即ち、ベルシャッツァル王の宴会の最中に、忽然と手が現れて、壁に文字を記したがこれを誰も読めず、意味を教えることができなかったときに、ダニエルが呼び出されると、それがバビロン王の支配の終りを告げるものであったことを彼が明らかにしたのであった。
バビロニア帝国の後の彼は、メディア人の王ダレイオスの庇護を受け、異教マゴイ族の祭司らを退け、ペルシア帝国の中で再び高位に登る。

ユダからの捕囚民である彼は、故地のある西に向かって開かれた窓辺で祈ることを常としており、それはマゴイらの反対による命の危険があっても続けていたのであった。
その方向にエルサレムが在ったが、彼の祈るを向ける神の家も聖所もそこには当時存在していなかった。ソロモンの建立したエルサレムの神殿は、ネブガドネッツァルによって47年も前に破壊されており、シオン山上は荒涼としていたに違いない。

ダニエルの若き日、エホヤキム王の第三年(前605年)に、バビロンに捕え移されてからメディアとペルシアに占領されるまでが66年、神に任命されたメシアたるキュロス王に彼も顔を合わせたかもしれないその年には、ダニエルも齢八十の頃であったろう。

彼は晩年のこの時期になってから、エレミヤの書を通しエルサレムの荒廃する期間とされた『七十年』を知ったという。即ち、キュロスⅡ世によってバビロンの王朝が倒され、捕囚民の境遇に変化が期待できる事態が起きた紀元前539年の事であったという。

そのとき、西を向いた窓辺であろう場所で、ダニエルは身を低め、その魂を苦しめて真摯な悔いと熱烈な成就の願いを祈り求めた。

彼は、イスラエルの者らが尽く律法を踏み越え、そこに書かれた酬いを刈り取ったこと、神の声に従わず、預言者たちを退け続けてきたことを悔い、赦しを願う。
神に逆らったために離散させられた民が再び集められるとは、イザヤをはじめ多くの預言者の語るところであったが、バビロンが征服されたとはいえ、キュロスの統治前には解放される見通しもなかったのである。

ダニエルはエレミヤ書にある『七十年』を指して言ったのであろう。神に対して『御名のために遅らせないでください』とも願い出た。(ダニエル9:19)

祈りは長い時間をかけて行われたことであろう。
しかし、それに対する神の反応は非常に速いものであった。
神の御前からひとりの天使が遣わされたことをダニエルは次のように記している。

『こうしてわたしが祈りつつ語り、我が民イスラエルの咎を悔いて言い表し、聖なる山のために神YHWHの御前に伏し願っていたときに
 それは夕べの捧げ物の時刻であったが、我が祈りをいまだ申し述べているそのときに、初めの幻の中で見た人であるガブリエルが急いだ様子で飛んで来るやわたしに近づいた。
 
 そして彼は、わたしに悟らせるようにして、わたしに話してこう言った。
 「おお、ダニエルよ!あなたに知恵と悟りを与えようとしてわたしは来た」
 「あなたの嘆願の祈りが始められたときに、言葉が発せられたので、わたしはそれをあなたに伝えに来たのだ。あなたは大いに寵愛されている、この言葉を熟考し、それを悟れ。」』(ダニエル9:20-23)

 即ち、神はダニエルがまさに語っているときに答えていたというのである。(イザヤ65:24)
しかも、その内容は驚くべき事柄が含まれている。

では、天使ガブリエルの語るその言葉を聴こう。

『 「あなたの民と聖なる城市には七十の週が定められている。
 それは咎を止めさせ、罪に終わりをもたらし、邪悪さを償い、永遠の義を来たらせ、幻と預言を確定し、聖の聖なる処に油を灌ぐものとなる。」』(9:24)

これら『七十の週』の持つ目的はいずれも徒ならぬことであり、ガブリエルはダニエルに向かって、エレミヤの『七十年』を超える更に重要な預言を明らかに託しているといえる。
それらはダニエルの民イスラエルと、神殿を置く聖都エルサレムに成し遂げられる事柄であり、イスラエルの罪咎が取り去られ、永遠の義をもたらし、伝えられてきた数々の啓示を成就させ、至聖所の機能を得させるものとなる。

しかし、エレミヤの『七十年』が終了することにより、エルサレムに神殿がもたらされ、再び存在するようになった至聖所にも油注がれ、律法祭祀を完全に機能回復させるものとなったのであり、その七倍もの年月490年も要してはいない。
ダニエルに告げられた『七十の週』が、ゼルバベルの時の神殿再建を指してはいないことは、その起点がネヘミヤの時代の城壁の再建への勅令としていることからも明らかである。

そこで、この『七十週』は、メシアによって成し遂げられるより高大な目的の成就をもたらすに違いなく、エレミヤの『七十年』を超え、天界に成就する新たな目的を示す予告であったのだ。そこではエレミヤの『七十年』さえも、このダニエルの『七十週』の予型また前表するものであったに過ぎないほどである。




◆七十の安息年に関わった七十週年

まず、エレミヤの七十年と、このダニエルの七十週には深い関連がある。
その両者を結ぶものが、律法に定められていた『安息年』(ハ シュミタ)の条項であると云えよう。

この『安息年』とは、六年間耕作して七年目には休み、イスラエルに属するすべてがその一年の間に聖なる事柄に専ら携わることを求めたものである。

イスラエルが荒野に在った四十年間、毎週六日は奇跡の食物であるマナを降らせ、七日目にはそれは降らないものの、六日目に倍の量が与えられたように、イスラエルがパレスチナに定住した後にも、神は六年目には必ず倍の収穫をもたらすと約束していたのである。

だが、それはイスラエルの信仰を試みるものとなった。
安息日であれば、一日労働しないだけのことで済むが、安息年となれば丸一年仕事をしないのである。
その年の10月から翌年の10月まで何もせず、パレスチナの冬は雨季で氷雨や雪の日々となるので、当分種蒔きも難しい。 

そこで、律法をろくに守っていないという意識が加われば、第六年目の倍の収穫で安息年を全き心で信じ切ることは難しい。これは一年間の全面休耕で、無収入はもちろん家畜ない家では八年目以降に飢え死にする危険をさえ顧みずに行う必要があった。

イスラエルでは信仰を要する安息年は行われなくなってゆき、神の奇跡に属する六年目の倍の豊作の記録も聖書に記載が見当たらず、負の相乗効果もあって律法はますます守られなくなっていったのであろう。

本来、安息年は土地に対する休耕だけでなく、人に対しても安息をもたらすものであった。特に、イスラエル人でありながら困窮した為に、同朋に借財をしていた場合、安息年はその人への取り立ては免れ、また別に奴隷身分から七年の経過後は解放するべき時ともされるべきであった。

更に、安息年を七回重ねた次の「ヨベル」の年には、たとえ一度困苦の為に奴隷身分に落ちていたイスラエル人であっても、50年に一度の機会が巡って、家代々の財産を相続した状態に返還され、やり直すことができたのである。
これは弱者救済の優れた神の社会制度であり、この律法条項が機能しているならばイスラエルは貧富の差も少なく、住みよい状態にあったろうが、この時代のこの国民は、こうした神の弱者への憐れみを投げ捨てた。

そして神は、この安息についてユダ王国を糾弾していた。
エジプトから救い出された民でありながら法令に従わず安息の年が休まれなかったそれらの時代、また、同朋を違法に奴隷として酷使し続けたその期間について、その咎を責め、民の全体を異邦人の奴隷とすると神は宣告する。(エレミヤ34:14)

さらにエレミヤの預言では、当時には週毎の安息日さえ汚されていたことが再三糾弾されているのである。
こうして、イスラエルの律法不履行の罪科は重なり加わってゆき、遂に神は彼らをアッシリアとバビロニアの捕囚として渡したのであった。

こうして、七年に一度、土地を耕作せずに安息させることもなく多年を過ごしたので、神は民を捕囚とする一方で、約束の地には安息をまとめて七十年をもたらされた。(歴代第二36:21)

そこで、エレミヤの七十年がユダとエルサレムの安息を満たすものであったなら、ダニエルに示された七十週は、その安息年に関わった全期間に相当する。即ち糾弾された全期間を象徴する年数である。
 
したがい、七十は七倍されることになり、四百九十となり、それにエレミヤの七十年がハ シュミタに敷衍されるとこの数字は年を表すので、七十の安息年に関わる『七十週』、即ち、四百九十年となり、それは単なる七十週間に当たる四百九十日を意味しない。

キュロス大王の勅令による第二神殿の建立を以ってエレミヤの七十年が正確に成し遂げられた様は別の記事に書いたのだが、このダニエルに示された『七十週』は、エレミヤのものを規模でも内容でも上回っており、これは旧約と新約とを分かたずにひとつの理解を要し、オリエント文明期から我々の将来までの人類史上に亘る大構造を描き出すものである。その広大な期間に於いて神は何を成し遂げられるのだろうか。

しかも、これは起点と終点の年代を細かに特定する必要が「七十年」ほどには無く、新約の記述だけで目的とするところの内的な証拠が揃うのである。

では、この『七十週』の目的に注目してみよう。
エレミヤの七十年の終了によって、地上には再び聖所と至聖所が存在する事となり、それは帰還したイスラエルの民に律法による祭祀を滞りなく行わせることを可能としたのであった。神YHWHの祭祀の復興は前515年のニサンを以って成し遂げられ、それは前586年のソロモン神殿の破壊から71年後のことであったとされる。
 
そして、このダニエルの七十の週でも、将来メシア後に於いて『至聖所に油を灌ぐ』と述べているのである。
では、あの第二神殿以外に何か油注がれるべき別の『神殿』があるのだろうか?

ここで神殿の再建までに要した「七十年」と、更なる別の神殿の建立に関わる「七十週」との異なりが見て取れるではないか。 

実に、「エレミヤの七十年」が地上のシオン山上に至聖所をもたらしたのに対して、「ダニエルの七十週」は天界の至聖所に油を注ぐというのである。
この二つの預言は、地上とその対型となる天界のふたつの祭祀を可能ならしめるものなのである。

この観点から見るなら、「エレミヤの七十年」が「ユダヤ人のバビロンからの解放を画する時期」を表していたとすることはできず、それはまことに近視眼的な蒙昧でしかない。⇒ 「エレミヤの七十年の終点から起点を探る」



◆天界の至聖所

ある人々は、エゼキエルの幻に示された神殿が「第三神殿」であるかのように考えるかもしれない。
エゼキエルの神殿が何であるのかは、終末まで分からないが、それは律法体制によって運営されるような構造を持っていること、また、外周の壁を含めると巨大であるためにモリヤ山にもシオン山にも載らないことがよく知られている。

実際にゼルバベルによって再建された第二神殿は、ソロモンによる最初のものを知っている年寄りたちが涙するほどに規模が小さかったという。またハガイもそれを『無に等しい』とまで言っているのであるから、前572年にエゼキエルに示された神殿は、その啓示の下った56年後の前516年に再建された神殿を指してはいなかったというべきである。(エゼキエル40:1)

だが、それでもハガイは『この家の後の栄光は、先のものの栄光よりも勝るものとなる』というのである。(ハガイ2:9)
この言葉はメシアの近付く時代に、ヘロデ大王による改築によって成し遂げられたかというと、その考えを阻むのが更に勝ったエゼキエルの巨大神殿の幻となるのである。つまり、基礎工事から行い谷を埋め立て、巨大な岩石を積み上げた土留め壁を設けて丘を広げ、無数のアーチを設けて岩盤から50メートルの高さに境内を倍ほどに広げたというヘロデの大工事をもってしても、エゼキエルに示されたものにはなお及ばないのである。

そのうえ、エゼキエルの神殿の成し遂げる成果のひとつを表すであろう『水の流れ』は、水量を増して死海に流れ込み、そこを生ける海に変えているのであるから、これは律法制度によっては成し遂げられることの無かった、死にゆく人々への救済の意図が込められている。(ゼカリヤ書では、さらに大海にまで注ぎ込まれる)

そこで、イスラエルの神がエゼキエルに示した幻の神殿は、律法制度の祭祀的構造を持ちながらも、同時に律法祭祀の神殿よりも壮大な何かを教えるものということはできるであろう。

したがって、ハガイが言う第二神殿の勝った栄光とは、壮麗なヘロデ神殿のことをさえ預言していたわけではないと捉えるべきことになろう。エゼキエルの巨大神殿の幻がその捉え方を阻止するのである。
では、ソロモンの建立したものに勝る「神殿」とは何を指しているのであろうか?

そこで、キリスト教徒であれば、キリストを隅石となし、その上に『聖なる者ら』が『石』となって組み上げられ建てられるという『神殿』に思いを致すことができる。

使徒ペテロはこの神殿についてこう述べる。
『主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
あなたがたも、この主の御許に来てそれぞれが生ける石となり、霊の家に築き上げられて、イエス・キリストにより聖なる祭司となって、神の悦ばれる霊の犠牲を捧げよ。』(ペテロ第二2:4-5)

パウロはこう記している。
『あなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅の頭石である。
 このキリストによって建物全体は組み合わされ、主の聖なる家に成長し、そしてあなたがたも共に建てられて、霊を介して神の住まう処となるのである。』(エフェソス2:20-)

即ち、聖霊によって『新しい契約』に預かる者となった『聖なる者ら』は、キリスト・イエスを基礎の石とし、さらに使徒らや聖霊によるエクレシア内の預言者らの上に組み上げられる石となるというのであり、キリストが天にその犠牲を携え入れた以上、神殿の全体が天で造り上げることになると言うべきである。(ヘブライ9:11.24)

ダニエルに知らされたこの語『聖の聖なる』(ハコーデシュ ハコダーシム)は、「至聖所」とも「極めて聖なる者」とも、つまり場所とも人とも解釈できるとのことであるが、人が『生ける石となって・・(神の)家として築かれてゆく』という新約聖書の伝える概念からすれば、どちらであっても然して不都合にならない。(ペテロ第一2:4-6)

そしてダニエルに示された『七十週』は、そこに『油を注ぐ』、即ち、その新たな崇拝の場が機能を始める目的を持つことを教えている。

そのためには、神殿が築かれなくてはならず、当然、それを構成する石が存在し、且つ揃っている必要があるが、この『生ける石』となるのが誰であるかについては使徒ペテロは『それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ』る彼らを『あなたがた』と呼んだうえで、その書簡の受取人について次の様に明言しているのである。(ペテロ第一2:4-5)

『父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ』(ペテロ第一1:2)

これは、聖霊を受け選ばれた者たち、即ち『聖徒ら』に違いなく、パウロが血統上のイスラエル民族と対比して『神のイスラエル』と述べた人々であり、もちろん今日の「クリスチャン」方を意味しない。

また、この神殿があのペンテコステを以って建立されたと見ることにも無理がある。
もちろん、その段階では聖徒は集め始められたばかりで数が足りないだけでなく、石は試みを経てはいないのであり、まして『神の王国』という全人類救済の神殿祭祀の開始はまるで将来のことである。  

したがって、ダニエルに示された『七十週』は、キリストと共なる聖なる者らとが天に於いて『神の家』即ち神殿を築き上げ、それがいよいよ油注ぎを受けて機能を始めるという、聖書全巻を貫通する壮大な神の意図の実現を描き出していると云えるのである。それは第二神殿の建立をもたらしたエレミヤの七十年を踏襲しつつ、天界の神殿の建立という、より遠大な御旨の成就を目指すものといえる。




◆『咎を止めさせ・・永遠の義をもたらし』

さて、神殿の生ける石となる『聖なる者ら』については、使徒パウロがローマ人に宛てた手紙の第八章で強調するように、『聖なる者』となることは『神の子』となり、聖なる神に対して『アッバ』(父よ!)と親密に話しかけることが許される。
 
なぜならば、彼らはキリストを仲立ちに『新しい契約』に預かったので、キリストの犠牲の早い適用を受け、アダム由来の『罪』を許された状態に入ったからである。

そのため、エレミヤは彼らが神と新たな契約を結ぶときに、彼らが神YHWHを知るようになり、その咎について神は『思い出さない』と言われる。(エレミヤ31:34)

パウロはこう記している。
『今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。』(8:1-2)

そして、彼らに注がれた聖霊とその賜物が彼らが『罪』から放免されたことの証しであることをパウロは重ねて述べており『この聖霊は、わたしたちが神の国を継ぐことの保証であって、やがて神につける者が全く贖われ、神の栄光を褒め称えるに至るためである。』とエフェソス人の手紙にも書いている。

しかもこうも言うのである。『わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストに在って予め定められ、神の民として選ばれたのである。』(1:13.11)

そこで、天界の神殿の石となる人々が『聖である』ということは、大祭司キリストの犠牲の早い適用を受け、これら『聖なる者ら』は『祭司』として民に先立って贖罪される必要があったのであり、それは律法の『贖罪の日』の儀式に予表されていたばかりか、『初穂』と呼ばれることにおいても示されていたのである。(ヤコブ1:18)

『聖なる者ら』は人類からの最初に罪を赦された者として『初穂』であり、それゆえにも聖なる神を『父』と憚り無く呼ぶことができたのである。

もちろん、全人類もキリストの全面的な犠牲の適用を受けて神を父とする日が将来に訪れることになるが、それは大祭司キリストとこれら下位の祭司団となる人々の全体が機能して初めて可能となるのであり、その全世界の贖罪を成し遂げるのが『神の王国』なのである。それこそが天界の神殿の存在意義である。

したがって、『聖なる者ら』の受ける『義』はキリストの犠牲に基づくゆえに完全と成り得るものである。
そして、彼らは『神のイスラエル』であるから、血統上のイスラエルが律法に対して犯した諸々に罪と呪いから解かれたので、彼らは『救われた』のである。

それであるから、ナザレのイエスをメシアとして受け入れる信仰を示して水のバプテスマを受けた彼らは、次いで聖霊のバプテスマを施され、こうして『水と霊から』『神の子』として『新たに生まれた』状態に入り、アブラハムの子孫、エデンで語られた『女の裔』として史上初めて存在するようになったのである。

ここでダニエルに示された『咎を止めさせ・・永遠の義をもたらし』とは、メシアへの信仰によって律法契約に対する不履行の呪いを解かれ、神を父とするほどの『義』を得た『聖なる者ら』を描写するに相応しい言葉であることを、新約聖書はよくよく証しを立てていると言える。

だが、彼らはその時点で完全に『罪』から浄められていたのではない。もし、そうなら彼らは死なずに天に挙げられる日まで今日も生き続けていたであろう。律法の呪いから解かれたとはいえ、やはり、彼らも肉体にアダムの血を罪を持って、死に至る必要があることには他の人々と変わらない。(ローマ7:21)

先のエフェソス人への書簡の中に在ったように『やがて神につける者が全く贖われ、神の栄光を褒め称えるに至る』時が後から到来するのであり、彼らの『義』は、『新しい契約』による仮のものであり、彼らが真実の義を拝受するのは、死を経て契約を全うした後のことである。 そうして彼らは主の御許に集められるのであるから、確かに『キリストへの死のバプテスマ』を受ける必要が彼らにはある。 (ヘブライ3:6/ローマ6:3-4)

従って、『咎を止めさせ・・永遠の義をもたらし』とは、真実のイスラエルである『聖なる者ら』の受ける最終的な清い状態を指しており、これは彼らの試みが終了して天界に揃うときに完成されると言える。それが、同じ文脈でダニエルに告げられたように『聖の聖なるところに油注がれる』という最終段階を意味するのである。

最終的には、『聖なる者ら』の試みが『小さな角』また『腕』によって終了するときに、その咎は聖徒攻撃を使嗾するバビロンに移されることになることをゼカリヤ書が示唆している。(ダニエル7:25・8:24/ゼカリヤ5:6-11)

それは『大いなるバビロン』が『聖なる者らの血に酔いしれた』ことの酬いであり、終末に在って、聖徒を地上から殲滅させることを使嗾した咎により、『聖なる者ら』は『選択人の灰汁によるかのように白くされ』、一方で、迫害を唆した旧来の宗教界には、重罪が臨む。(黙示17:6/マラキ3:1-4)




◆メシアの到来の時期への啓示

それにしても、この『七十週』の内の『七週、六十二週』合計69週についてはメシアの到来が目的の最重要な部分である。
まずメシアが地上に到来しなければ、天界の神殿の石である『聖なる者ら』が集まらず、揃わず、イスラエルから咎を終わらせたり、永遠の義をもたらしたりすることのいずれもが不可能となる。

ガブリエルは次のように言葉を続け、メシアの到来についてダニエルにこう語る。
『これを知って、理解せよ。
エルサレムを修復し建てよ、との勅令が下ってからメシアなる王子まで七週、六十二週がある。困難な時期の内に、街路と城壁とが再建される。』

『七十週』全体の成し遂げる意義が示されて後、その要となるメシアの到来の時期が示される。その起点となるのが、『エルサレムを修復し建てよ、との勅令』であるという。これはガブリエルがダニエルに語った三年後に出されるキュロス大王の勅令とは異なっている。キュロスⅡ世は、イスラエルの神YHWHの崇拝の復興を命じたのであり、それは総督ゼルバベルと大祭司エシュアによってダレイオスⅠ世の治世中、即ち前515年には完了されていたが、城市としてのエルサレムの有様といえば、城壁は崩れたままに放置され、住む人々も少なく閑散としていた。

そこで、この『エルサレムを建て直せ』との勅令に関する実現者となるのがハカルヤの子ネヘミヤである。その名には慰め(ナハムー)が込められており、エルサレムの回復に関して彼の働きには、その名の通りにシオンにヤハの慰めを与えるものであったということができよう。(イザヤ40:1)

ネヘミヤはスーサでペルシア王アルタクセルクセスⅠ世、つまり聖書では『アルタシャスタ』と呼ばれるペルシア王に極めて信頼され、直近で献酌侍従として仕えていた。その役割は単に王の飲物の毒見をして差し出すばかりでなく、王の会話の相手であり、王の信任だけでなく寵愛も受ける立場である。

彼は「アルタクセルクセスの第二十年」と呼ばれる年にエルサレムを再建させるために自分を遣わすように願い出て、その勅令を受けたと記している。(ネヘミヤ2:1-8)
この王はダレイオスⅠ世から数えて三代目、孫に当たるのであり、神殿の竣工が前515年であったのに対し、「アルタクセルクセスの第二十年」は前455年とされているから、神殿祭祀の復興からネヘミヤの総督拝命まで60年の年月が過ぎていたことになり、その年はソロモン神殿の破壊からすれば130年が経っていた。それだけ神殿はともかくもエルサレムの街の方の受けた傷跡は深く、癒えてはいなかったことが窺える。
しかし、ダニエルに示されたメシアまでの『六十九週』の起点はこのネヘミヤへの総督任命の年、前455年に当たると見てよいであろう。

そうして聖書を眺めると、アブラハム契約から律法契約へ、そしてメシアによる『新しい契約』へと神の経綸の流れを追って展開されてゆくのが俯瞰できる。エレミヤの七十年が律法契約の再開を意味したのに対して、ダニエルの七十週は『新しい契約』の成し遂げる目的について述べている。そうしてエデンで語られた『女の裔』に関わる預言の全体像がいよいよ成就に向かってその姿を現してくるのである。

まず、ガブリエルの伝えるところでは、七週と六十二週とが分けられているのだが、はじめの七週、つまり49年で『困難な時期の内に、街路と城壁とが再建される。』との言葉が成就したという説明を見ることもあるが、ネヘミヤはユダ総督として初めに12年勤めてから一旦帰国しているが、その以前にエルサレムの城壁は補修を完了しているので、その『七週』を分けた理由ははっきりとはしていない。ネヘミヤは二度目にエルサレムに戻った時にエルサレムの市街の全体が完成したと説く向きもあるが、その辺りに確証になるものは見当たらない。
だが、メシアの到来までが合計で69週、即ち483年の期間になることは分かるので、アルタクセルクセス王の第二十年から483年後にメシアの到来を見ると予告されたことに変わりはないのであろう。
その件を単純に前455年から483年後といえば紀元後29年とはなる。

そこで、69週の終点については新約聖書が証言してこう記している。
『 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティウス・ピラトゥスがユダヤ総督、ヘロデ(アンティパスⅠ)がガリラヤの四分封領主、その兄弟フィリッポスがイツリアとテラコニト地方の四分封領主、リュサニアスがアビレネの四分封領主であり、アンナスとカヤファとが(交代で)大祭司のときに、神の言葉が荒野のゼカリヤの子ヨハネに臨んだ』(ルカ3:1-2)

ここで語られるローマ皇帝ティベリウスの治世の第十五年とは、先代皇帝アウグストゥスが崩御し、ティベリウスが帝位に就いた西暦十四年秋から、数えて15年目の西暦二十八年秋から翌二十九年の秋までを指すのであれば、メシアであるエシュア(イエス)が生まれたのがユダヤ暦ティシュリの月*であることからすると、三十歳を迎えたメシアが、レヴィ族に属するゼカリヤの子エホハナン(ヨハネ)から水のバプテスマを受け、聖霊によって油注ぎを受け、より偉大な神殿の大祭司となるべく任命されたのはバプテストの活動の開始の半年後の時期であったろう。*(ゼカリヤの属するアビヤの祭司組の第8奉仕順からそのように言われている)

神の御傍に侍する天使ガブリエルは、福音書内でバプテストとメシアの双方の誕生を告知するためにゼカリヤとマリアのそれぞれ遣わされてもいるが、その『六十九週』の成就のきっかけに関わる「時」に、この天使の深い関わりを感じさせる。

このダニエルの『七十週』の起点と終点が何時になるかという件については、エレミヤの『七十年』のように正確な年代が主要な要素にはならないであろう。
なぜなら、この『七十週』には、メシアの到来が正確に何時かということよりもよほど重要な事柄があり、それがメシアの到来時期よりもその働きの方だからである。それはこの『七十週』の中にメシア到来の『六十九週』と、もう一つの意義が語られており、それら二つが『七十週』の全体を構成しているからである。

ガブリエルは、メシア到来については確かに69週を予告しているのだが、70週の全体となるとメシア到来以上の目的を語っており、それらは先に挙げたように『咎を終わらせ』『永遠の義をもたらし』との事に加えて、『罪を贖い』『幻と預言を封じ』『至聖所に油を注ぐ』というところにまで言及しているのである。

もし、年代の正確性にばかりに拘っていれば、より重要な事柄を前にしても、それには関心は無いと言っていることにもなり兼ねない。なぜならメシアの初臨は、ガブリエルの語った『七十週』の目的を完遂していないからであり、ガブリエルはメシアの最初の到来がいつになるかではなく、メシアが成し遂げる内容について『七十週』を語っているのである。
ここに於いてこの『七十週』の重さはエレミヤの『七十年』を遥かに超えるものがあり、また『六十九週』をも超えたものがある。それが 即ち、「最後の一週」の謎である。




◆メシアの締結する契約

さて、ガブリエルの言葉はメシアの到来後の事柄に進むが、それはメシアの役割を含む重要な内容である。
この天使はこのように言葉を続ける。
 
『その六十二週の後でメシアは断たれる。しかし、それは彼自身のためではない。』

『六十二週の後』これは69週年の後、即ち第70週に入ってからメシアが断たれると言っている。さらに、この後半の『彼自身のためではない』との本文[ לֹ֑ו וְהָעִ֨יר]については『彼自身には何もない』とも訳される。
つまり、メシアが断たれるときに、「彼は何ら得るべきものを持たない」のか、或いは「彼自身の理由で断たれたのではない」という意味かほどに違いが出るが、このヘブライ語がどちらともとれるので、ここを判断するのは訳者の持つ解釈に左右される。

だが、新約聖書を探ると、キリストは財産こそ得なかったが、『父』から地上で与えられたものを得ているのである。
それについてはキリスト自身がこう言われる、『わたしの父がわたしに下さったものは、すべてのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。』(ヨハネ10:29)
キリストが得たものとは、この文脈が『わたしの羊』であることを明かしている。(10:27)

イエスはこれらの羊について別のところではこう言われる。
『おおよそ女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な人物は起らなかった。しかし、天の王国においては、その最も小さい者であっても彼よりは偉大だ』。(マタイ11:11)

ここでメシアは、その公生涯の間に付き従い、あのペンテコステにおいて油注ぎを受けた追随者のことを語っている。即ち、御父の業に信仰を持った人々、『聖なる者ら』を得たと言える。確かに、天でキリストと共になる『聖なる者ら』は全地を治め、人類の贖罪を為すのであるから、どんな人間にも勝る存在となると言える。
したがって、ガブリエルの言葉の当該の部分をどう捉えるかは、この理解を背景とするか否かで変わってくるであろう。
 
即ち、メシアに全地を治める大王の威光も無かったという意味で、その最期の姿の痛ましさを読むこともできるのかも知れないが、ここで、メシアがこれ以上ない偉大なものを得ていたとするなら、『断たれる』のも『彼自身のためではない』つまり、選ばれた弟子らの贖いのためという意味に読むことができるであろう。即ち、彼に罪はない。
そして、この読み方が、以下に見るようにガブリエルの語ったもうひとつの言葉と深く関連を持つことになる。

それが「契約を扱うメシア」という概念であり、ガブリエルはこう語っている。
 
『彼は一週の間、大いなる者たちとの契約を実効あるものとして結び(保持し)、その週の半ばで犠牲と供え物とを廃させる』。(ダニエル9:27)

この句の中にも意味をどう捉えるかによって違いの出る部分がある。
まずこの27節は、メシアが結ぶ『契約』と『廃させる』『犠牲と供え物』とは別ものというべきであろう。
メシアが到来して結ぶ契約は『新しい契約』にちがいなく、それはなお『一週の間』保たれるのであるが、『その週の半ばで・・廃させる』ところの『犠牲と供え物』とは明らかに古い契約を指している。
この点は、使徒パウロが何度も語っている通り、『キリストは律法の終り』であり、『神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていくものである』。(ローマ10:4/ヘブライ8:13)
メシアがどのように律法契約の犠牲と供え物を廃させたかと云えば、律法祭祀での動物の血は『罪を取り除くことができない』から、『キリストは、罪のための唯一の犠牲を献げた』のであり、ナザレのイエスは三年半の活動を終えたときに、即ち『週の半ば』で律法の犠牲の意義を取り去ったと言えるのである。

またもう一つ捉え方で違いの出る点は、当該句の『大いなる者たち』という言葉[לָרַבִּ֖ים]であるが、これは『多くの者ら』ともとれる。
だがこの点で、上記のように他ならぬキリストが、自らの追随者らを地上の何者にも勝って『偉大』と語られたことを念頭に置くなら、『契約』を『大いなる者ら』と結びつけて読むことに妥当性が生じることになる。

メシアは69週の後に現れ、その後に断たれるにしても、偉大な資産を得ていた。つまり、『偉大な者ら』と契約を結ぶことができたのであり、それこそはエレミヤの語っていた『新しい契約』であったと云うことができる。即ち、文字の律法を超えた霊の民である。(エレミヤ31:33/コリント第二3:6)

この契約は、キリストが『去ってゆくことで到来する』という『約束の聖霊』が実際に降ることを通し、あのペンテコステの日には発効し始めたことが後に示された。

それはそのシャブオートの祭りの日に、小麦の初物で酵母を入れて作られたふたつのパンの捧げ物に象徴された、アダムの罪という『酵母』を残しながらも、それを『新しい契約』により、キリストの犠牲の最初の適用によって仮に赦された状態に入った『聖なる者』、そのユダヤ人と諸国民のそれぞれの出自の人々を表していたであろう。(エフェソス2:15) あるいは、キリストに対してその『兄弟ら』となる人々が複数であることを指しているのかも知れない。(ヘブライ2:11)

そしてガブリエルの言葉では、メシアがこの契約を「大いなる者たちと契約を(保持・管理し)結ぶ」ための期間を『一週の間』としている。即ち、69週の後にメシアが現れ、彼は最後の「第七十週目」という最終の七年間に、その契約を偉大な者らと結ぶということになり、その成果が天界の至聖所に油を注ぎ、その崇拝の準備を完了することにある。ガブリエルは『彼は一週の間、大いなる者たちとの契約を実効あるものとし』と語ることにより、メシア自らが犠牲となって地上を離れ『不在』となるとしても、契約期間として残りの半週を保っていることになる。そうして、『あなたがたはその時を知らない』という時の不明性が形作られることになるが、これはエレミヤの七十年にはなかった要素であり、終末の裁きがその不明性に込められているであろう。

メシアは初臨において、まさしく旧約最後のマラキが預言したように、『契約の使者』となったと言えるのであるがそれは初臨だけではない。(マラキ3:1)
いつになるのか不明にされている再臨の時にも、聖霊注がれる者、契約に与る聖徒らが現れることを、イエス自ら福音書で何度も語っているのである。



◆メシア後のユダヤの荒廃

更にガブリエルは、メシア後に起こることも含めてこのように告げていた。
 
『そのうちに、来るべき君主の民が街と聖所を破壊する。その終わりは洪水のように臨む。最後まで戦争が続き荒廃が定め置かれている。』

これは、他ならぬメシア自身が公生涯の間に重ねて預言していることであり、それはメシアを退けたユダヤ体制の行いへの明らかな酬いであった。
 
『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神の査察の時を知らないでいたためである』(ルカ19:42-44)

『こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラクヤの子ゼカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう』(マタイ23:35)

そして実際、この成就をキリストを処刑させて退けたその世代の過ぎ去る前に、40年も経ずしてユダヤは迎えることとなった。ティトゥス率いるローマとその同盟軍六万のユダヤ攻略を受け、西暦七十年にエルサレム神殿も跡形なく破壊されるに至る。ガリラヤからユダヤまで諸都市が攻略されて無数の命が失われたが、そのような圧倒的な軍事的侵略を聖書は何度か『洪水』と形容している。

例えれば、イザヤは分立していた北のイスラエル王国がアッシリアの大軍に攻められて滅亡してしまう予告の中で『洪水』と形容し、その押し流す力の膨大さを表現しているが、メシア後のエルサレムの攻囲ではその破壊の徹底は『石の上に石を残さない』ほどのもので、倒壊を免れた建築物は意図的に残された三つの塔だけであったとヨセフスは言う。

それはあたかも文明までが押し流されて、故地から行方不明になってしまったかのような完膚無き滅びが描写されている。猛烈な飢餓と疫病が蔓延し、多数の捕虜は奴隷やガレー船、剣闘士や鉱山掘りの需要に当てられた。

その後も、ユダヤの愛国心の高まりを迎えることがあり、特にシモン・ベン・コスィバが自らメシアと称し、それをラビ・アキバが承認してメシアを意味する「バル・コホバ」(星の子)の名を与えたものであるから、勢いに乗ったユダヤ教徒はこのバル・コホバを頭目に担ぎ出し、ハドリアヌス帝期に更なる反抗を重ねて、ついにユダヤ人のエルサレム方面への入域さえ許されない事態となってゆく。

もちろん、ラビの認定したバル・コホバも偽メシアに過ぎなかったのであり、ユダヤは自ら更なる苦境を招き、いよいよ四散して本国を持たない流浪の民となっていったのであった。

そこでメシア後にも、『最後まで戦争が続き荒廃が定め置かれている』と天使ガブリエルの告げたように確かに事態は推移したと言える。
 
父ウェスパシアヌスから軍を委ねられたティトゥスは、当初からエルサレムも神殿も存続させるつもりであったものを、ユダヤの野盗らと熱心党が徒党を組んで聖所を拠点にローマに抗い、死ぬまで抵抗しようとして遂に神殿も街をも完膚無きまでの破壊される事態を招いてしまった。そのうえ後のバル・コホバの乱を経て、遂にユダヤという体制が『約束の地から吐き出され』、その文化までもが根こそぎ洗い流されてしまったかの観がある。(レヴィ18:25)

実際、ユダヤは流浪の民となって以来二千年を経てなお、エレミヤの七十年が意味するような『回復』は遂げられてはいない。

そこでは、待ちわびたはずのメシアを見分けず、神の聖霊の業を否定し、神の子を退けて極悪人の処刑法で除き去った不信仰なアブラハムの血統上の子孫に、もはや神の恩寵は無かったというべきであろう。




◆終わっていない第七十番目の週

しかし、ダニエルに語られた言葉はなお成就を待っている部分が残されている。
それが、ガブリエルの言葉の核心とも言えるメシアの働きについて述べる部分である。

メシアが現れて後、大いなる者らと契約を堅く結んだというところで、並んで述べられていることがある。

『彼は一週の間、大いなる者たちとの契約を大いなる者たちと契約を結び(保持・管理し)、その週の半ばで犠牲と供え物とを廃させる。』(ダニエル9:27)

この『その週の半ばで犠牲と供え物とを廃させる』とは前述のように、メシアが三年半の公生涯の終りに際して、それまでのモーセで求められた動物の犠牲に勝る自らの血による完全な犠牲を捧げたことで、律法祭祀の意義が終わったことを言い表しているとみてよいであろう。
それが第七十週目の三年半の後、つまりメシアの公生涯の終りであり、その『週の半ば』であったことになる。

そこでメシアは地上を去り、契約を結ぶ人々の範囲はディアスポラのユダヤ人、サマリア人、そして諸国民へとメシアの死後も拡げられてゆく。
しかし、それらの人々への契約の拡大は、主の業を委ねられた初代の弟子らによるものであったから、メシアが去って行ったことに変わりはない。

では、メシアが現れて後の第七十週という最後の七年は、メシアが去って後も継続し、イエスの刑死の後の三年半後に『七十週』の全体も終わりを迎えたと言えるのだろうか。

思い返せば、エレミヤの七十年が新たな聖所がもたらされるまでの空白期間であったように、ガブリエルも『聖の聖なる処に油を灌ぐ』期間についての預言であることを明言している。
そうであれば、ダニエルの七十週の終りには、新たな神殿が建立されるべき理由があるではないか。 

この点で、新約聖書が『七十週』の全体の目的であるところの至聖所の再建と準備の完了というような事も、『永遠の義をもたらし、幻と預言を確定』するような事態の発生も、キリスト帰天の三年半後にあったとは言い難い。完全な犠牲が捧げられ律法祭祀から意義は去ってはいても、西暦36年の終わりに至ってもエルサレム神殿はそこに在り、『至聖所に油注ぎ』があったとは言えない。

使徒ペテロが最晩年でも述べていたように、聖なる者らが天でキリストと共に神の家を構成するという定めの時には当時も至っていなかったのである。

パウロは象徴的な意味において、確かに地上に居る状態での聖なる者が『神の神殿である』とは言っている。だが、それは聖霊を宿す者としての自分たちの身体について述べているのであって、天界でキリストと共になることにおいて『神殿となる』ことを言うのではない。(コリント第一3:16-17)
それであるから、地上での身の上に汚れを招かないように勧告しているのである。(コリント第一6:19-20/コリント第二6:16-7:1)

むしろ、パウロは聖なる者が肉体を離れることを通してキリストと共になることを述べている。(フィリピ1:23)
また、聖なる者らは最後まで忠実を保って『神の家』となるとも書いている。(ヘブライ3:6)

それであるから、聖なる者らが神殿を構成し、天界にキリストを礎石として神殿が建てられるのはなお将来のことであることが分かり、『聖の聖なる処に油が注がれる』という輝かしい事柄の成し遂げられるについては、キリストの死後三年半を経過したところに何かを見出すことは出来ないのである。

依然として聖なる者、真のイスラエルを集める業は始まったばかりであり、当時の複数の資料が知らせるように、聖徒らは第二世紀中葉まで聖霊の賜物を有して地上に存在し続けていたのである。

そこでこの『七十週』の最後の第七十週目の残りの一半に当たる三年半を、一続きの時間と見做すことから離れて見ると、それを知らせる部分を新約聖書中に見出すことになる。
即ち、ヨハネ黙示録の中の『42ヶ月』または『1260日』であり、これは一か月を陰暦30日として三年半に相当するのである。

そして、共観福音書は揃って、終末に於いて聖霊の言葉を語ることになる人々を為政者らとの対比、またこの世への宣明者として描いているのである。
もちろん、聖霊によって語る彼らは『聖なる者』であるに違いなく、キリストもそれが自らの臨在の期間に起こることを予告しているのである。(マタイ10:17-20/マルコ13:9-11/ルカ21:12-15)

そうなると第二世紀に一度は途絶えた『聖なる者』が、再び終末の主の臨在に於いて現れなくてはならない。しかも、彼らが『新しい契約』に再び預かる必要があることは明白ではないか。聖霊によって為政者らの前で語らなければならないからである。

そこで、ガブリエルの言葉のその部分をもう一度見ると『彼は一週の間、大いなる者たちと契約を結び(保持・管理し)、その週の半ばで犠牲と供え物とを廃させる。』となっている。
 また、メシアは地上の公生涯の終りに聖徒らと契約を締結し、それによってモーセによる律法の犠牲の意義を終わらせた。『新しい契約』が発効した以上、律法契約は終わらねばならない。そして、『聖なる者ら』とは新たな神殿を構成する『生ける石』でもある。

もし、『聖なる者ら』の残りが終末にも存在するのであれば、『大いなる者たちとの契約を堅く締結』する『一週の間』の一半は、終末にも存在しなければならないことになるではないか。そしてキリストが終末にパルーシアを為すのであれば、当然、それまでの期間はアプーシアであることになる。

更に、第七十週が二分割される理由のひとつには、終末が裁きの時であることが考えられる。
それゆえ、キリストと使徒らの最後の会話の中で、今このときにイスラエルを再興されるかと問われた主は『神が自らの管理される時について知ることは、あなたがたの預かるところではない』と切り捨てていることも関連しているのであろう。もし、その時が分かるとすれば、キリストが弟子らに『常に見張っているように』と命じ、『夜盗が来る時間が分かっていれば、その屋の主人はみすみす盗みに入られはしない』と警告する必要もない。そこに聖徒らへの裁きも関わっているのであれば、これは重い意味がある。

即ち、終末こそが聖徒にとっても他の人々にとっても裁きの時となるゆえに、それがいつであるのかは秘され、人々はそれぞれの性向のままに検分されるのであろう。そうであれば、神の時を探ることは何と虚しいことになろうか。ダニエルに知らされたこの『七十週』が一続きの時間でないとすれば、年代計算もまったく無意味である。最後の半週の不明性には人間の内奥の問題が包摂されているのであり、不明であることに於いては、神が『善悪の知識の木』を監視しなかった「エデンの問い」にも相当するほどに重い裁きとなろう。それゆえにも「終末」とは畏怖すべきものであろう。

即ち、警告を与える事と裁く事とは正反対である。
この点ではキリストが現れた当時も、ユダヤ体制が『査察されている時を弁えなかった』とされていたことが類推される。メシアの現れは警告であり、その後37年でユダヤ体制は滅んでいる。終末も同様にならないものか。
また、七十週は全体が確かに490年ではあっても、天の至聖所を準備するというその役割を果たすのは『神の王国』の設立の時期と不可分の関係にあるに違いない。 

したがって、メシアは定まっていない将来にいつかに臨御されることは、ユダヤを裁く地上への初臨となった公生涯に劣らないほどの、いや、それ以上の世界を裁く意義ある臨在(パルーシア)を意味することになろう。パウロは、肉を超える姿で再度来られるキリストを述べている。(ヘブライ9:28)

即ち、終末のキリストの臨在とは、単に人類世界に注意を向けるということに留まらず、ガブリエルの言葉の通りに『一週の間、大いなる者たちとの契約を堅く締結』するということに於いて、まさしく人類社会との重要な接点を再び持つことになり、それこそが残りの三年半『臨在』することの意義となる。

第七十週の二分割は、まさしく時の不明性のために他ならず、裁きを受ける人類の側からは、それがいつ始まるのかを知ることはまったく隠されるという恐るべき秘儀であろう。
 
その最後の半週は、『大いなる者たちとの契約を締結』することに於いて最終段階であり、神殿の石が集められ吟味され、揃えられる段階でもあり、天界にそのすべてが集められ神殿が建立される直前の時期ともなろう。

これらの過程を通して『聖の聖なる処に油を灌ぐものとなる』との言葉を解することに何か不都合があるだろうか?
黙示録では、第七のラッパの吹奏のときに、『神の奥義は終了する』という。

つまり、エデンで示された『女の裔』の全体像がそこに現れ、全人類の祝福に関わるアブラハムの子孫、聖なる国民、王なる祭司の国民、神のイスラエルの完成を見る事になり、そこで様々に隠されて来た奥義も終了することで『幻と預言を確定し』王国に関わる神の意図が成就を見ることになるのであろう。

第七十週の後半だけが未到来であるという、この解釈の場合、メシアの再臨に重い意味が加わることになる。
そこでは、使徒らがイエスに『あなたの臨在に際して、また世の終りについて』の印に何があるかを尋ねたことにも関連を有することになる。
その時は、メシアの『雲と共に来る』即ち、不可視の臨在と共に、『新しい契約』も関係することになり、『契約を堅く締結する』ことは、終末に残された三年半にも続行されることを意味することになり得るのである。

メシアの二度目の現れが何時かについては、ダニエルに示されたようには具体的に教えられず、使徒らも『父の権限に関わる時については、あなたがたの預かるところではない』と言われているので、残りの半週が何時到来するのかについては、使徒らでさえ秘儀になっていた。もちろん、我々が知れるわけもない。 

さて、エレミヤ七十年の七倍の規模をもつダニエルの七十週であるが、こうして最後の一週の半ばを終末に存在するものと理解することによって、その意義は今日の我々、そして将来へと関わるものとなり、それは旧約時代ばかりか、メシアの直弟子らの時代をも超えて、我々の未来にまで続く巨大な構造を神の経綸が持つことを知らせるのであり、その先にあるものは更なる啓示であるヨハネ黙示録の中に描き出されているのである。 

 エレミヤの『七十年』が導き出した神殿でのモーセの崇拝の回復という「ナハムー」に対して、ダニエルの『七十週』がもたらす「ナハムー」は七倍も偉大であるというべきであろうか。それこそは契約の再開によって「キリスト教の回復」が生じるという以外に何と言うべきか。
 



◆聖なる者からの脱落者の末路

『それから、荒廃させる者が憎むべきものの翼に現れる。そして遂に定まった終わりがその荒廃に横たわる者の上にも注ぎ出されることになる』
 
このガブリエルの最後の言葉が指し示すものは、先のユダヤのメシア拒絶の後果としてユダヤの体制が『洪水』によって押し流されたような、天界の神殿の建立において出てくることになる芥のようなものである。

即ち、西暦七十年で旧体制の地上神殿の破壊を呼び込んだならず者らと熱心党の野合のような存在が終末にも現れるのであろう。
『聖なる者』のすべてが『新しい契約』を全うするというわけではなく、契約という以上、履行が期待されるが不確定なものである。それが証拠に使徒のペテロもパウロもヨハネも、信仰を確固として保ち、聖なる者に相応しい清い行状の内に、迫害に面して忠節を尽くすことを力説するのである。(ペテロ第二3:11/テモテ第一6:11/ヨハネ第一3:23)

この点では、メシア自身が重い教訓として、こう言われていたのである。
『狭い戸口からはいるように努めなさい。実際、入ろうとしても、入れない者が多いのだ』(ルカ13:24)

それゆえ、契約からの脱落者が無いとは言えないのである。
むしろ、メシアの語った例えの多くは、集められていながら、除外されることの危険を教えるものとなっており、そのような例えには、引き網、相応しくない衣装で婚宴に出た者、ミナとタラント、などがある。

終末に聖なる者の全体が天のメシアの許に集められ『神の王国』が完成するときに、その裁きは明らかになることを教えるのが、終末預言の中の『ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される』という訓話と言える。
『残される』とは、『聖霊』を受け、天への召しに預かるはずであった『聖なる者』にとって最悪の事態であり、魂の破滅の絶望を意味するのである。

しかし、どうやら、この「脱落聖徒」はそこで破れかぶれの行動に出るようだ。
ここからは、ヨハネ黙示録や新約聖書の領域に入るので、簡略に書き出すなら。

脱落聖徒らは、地上に残された自分たちは依然として神から任じられた者であると主張し続けるが、それを喜び助長する霊的存在者がいる。
それこそはサタンであり、彼らが失った霊の賜物が依然として彼らに有るかのように不思議を行わせる。
彼らは、世界を惑わし、聖徒に信仰を持った人々を一斉に攻撃させようと『ハルマゲドン』の戦いに駆り立てる。

彼らの中の特に尊大な者は、自らを神と称し、神の座に就く。これは究極の偶像であり『憎むべきもの』と言えよう。
だが、その神殿は偽りの座であり、彼らは世界を神との対立に引き込んでしまうことで、『荒廃させる者』となる。

それは、メシアの死後、エルサレムに起こった事柄の再現であり、熱心党とならず者らの集団が、勝ち目も無いのを知りながら不信仰なユダヤの体制に徹底的な破滅を招いた事態を、世界の規模で繰り返すことになるのであろう。

その『翼の先端』とは*、彼らの急速に進むべき末路を表しているように読め、更に『そして遂に定まった終わりがその荒廃に横たわる者の上にも注ぎ出されることになる』とのガブリエルの言葉も、不信仰な世界を籠絡する「脱落聖徒」諸共の滅びと消滅を語ると解釈することが妥当であるなら、終末というものは、何と壮絶なものとなることであろう。*(或いは、契約の箱の宥めの覆いの上のケルヴィムの翼を含意しているのかも知れない)

だが、神は『火の城壁となってシオンを守る』と言われるのである。(ゼカリヤ2:5)
『シオン』とは、神殿を頂く山を含意し、聖徒らによる聖霊の声に信仰を働かせるであろう、人類一半の人々のことになる。(イザヤ2:2-)




◆『七十週』の意義と目的

こうして全体を眺めると
ダニエルには、この期間が満ちるときに成し遂げられる事柄が何であるかが知らされている。

ここでは、この七十週の始まりと終わりが何時の年代であるかを探る意味は然してない。
69週の終わりをルカが福音書に記し、それが西暦29年であることを知らせているのだが、今日の我々にとってこの七十週の預言について重要な意義は、期間が何時始まり、何時終わるかと云うところにはない。

69週が終わったときにメシアが現れ、三年半後に自らのためでなく他者の罪を負って絶たれたのである。
それからはメシアを退けたユダヤは戦乱の時代を迎え、洪水の如く押し寄せたローマ帝国の軍団が約束の地を蹂躙していることを歴史は明らかにしているのである。

そこで、確かに預言が成就したことを確認できるが、それだけの事であれば、神の預言は信頼がおけると云う事だけが教訓となる。

だが、この七十週において今日の我々に重い意味を持つのは、その最後の七年、即ち「第七十週目」に起こることであり、それはこの七十週の全体が成し遂げる目的なのである。しかも、その第七十週目は未だ終了してはいないといえる理由がこのようにある。

というのも、この七十週を通して『咎を終わらせ、定めない時に至る義を携え、聖の聖なる処に油注ぐ』という事態はメシア後から今に至るまで完全な意味では起こったとは言えないからである。

そこにはガブリエルによって伝えられたこの『70週』が確かに成し遂げる目的があり、それは最終的に天界の神殿の建立に至ることにおいて、エレミヤの七十年を予型、また前表としつつも、より大規模な天界の成就という見事な対型を成しているであろう。

それが意味するところは、天界の至聖所の油注ぎにより、遂に全人類を贖罪する準備が整うことにある。即ち、『聖なる国民、王なる祭司の民』が集められ、いよいよ『神の王国』となって具現するのである。
そのとき、イスラエルの長きに亘る罪科のすべても全く洗い流され、神の選民として、清らかな姿を現すことになるのであろう。それこそが、アブラハムに約された偉大な経綸の実現を荷う裔の到来である。

以上の観点から聖書を見直すと、捕囚に処された民が神への祭祀を復興するというネイヴィームから始まって、エズラやネヘミヤに至る旧約聖書の後半を占める大事業について、神は壮大な対型的企図を有していたことが分かり、それに約束のメシアの到来を記す新約聖書が意義深く関わっている。

それに加えて、ガブリエルの告げるところは、ユダとエルサレムの終りと、この世の終りとを関連付けており、その示すところはヨハネ黙示録に受け継がれるべき内容を含んでいるのであって、それが即ち、この世の終局の有様である。

やはり、ダニエルの七十週には聖書の新旧を貫く巨大な構造が示されており、それは永遠に生ける神YHWHの悠久の足取りを人類史の中に俯瞰させるものと言えるのである。

そして我々の目は、いよいよ大詰めを迎えるヨハネ黙示録へと向かう。
そこには天使ガブリエルをも超える偉大な仲介者からの啓示が存在しているのである。 







  ©2016 林 義平



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新旧の聖書の記述を精査総合し
この世の終りに進行する事柄の数々をおおよそに時間の流れに沿って説く
(研究対象が宗教であるため主観による考察)

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