大いなるキュロスによる解放の時、黙示録のラッパと責められる三分の一

短編並み長文 2万2千字超 <難易度 ☆☆☆☆☆☆☆ 特高>
-予備知識-
・  黙示録第9-11章 ダニエル書第9章
・「聖徒 聖霊が指し示す者」・「聖霊という第三のもの」
・「誤解されてきたバベルの塔」・「大いなるバビロンの滅び」
・「指名されたメシア キュロス」・「イナゴと騎兵隊」
・「エレミヤの七十年」・「ダニエルの七十週」 



◆回復されないキリスト教

キリスト教界の中にあって、歴史上に様々な回復への試みがなされてはきた。
それは特に旧態依然としたカトリックへの様々な抗議となって西欧に現れたが、批判者はルターに至るまで異端者としての処刑を免れなかったし、あるいは山中に籠って、自らの信仰を貫く他なかった。
改革期以前の批判者の大半は苛烈な迫害に追われ、穏やかな死を迎えた僅かな著名人の例としてはイングランドのウィクリフが挙げられるほどに過ぎない。 

その批判圧殺の宗教世界の中で、ルターがどうして処刑や暗殺を免れたかといえば、格別な保護があったからである。即ち、ルターも暗殺されたとの噂の渦中で、神聖ローマ帝国のドイツ貴族、ザクセン選帝侯の庇護があり、その城アイゼナハ近郊のヴァルトブルクに秘匿されたからであり、そこで為政者との利害の一致があったからである。

ルターを嚆矢とする16世紀の宗教改革は、西欧キリスト教界を二分するほどの衝撃をもたらしたが、その影響により非常に多くの血が流されずには済まなかった。

旧教カトリックに異を唱える勢力はルター派に留まらず、スイス各地でもそれぞれに試みが始り、またライン川を下ったシュトラスブルクでもブーツァーを中心とした大きなグループが形成されていたが、その中には後に改革派を興すカルヴァンも含まれていた。

カルヴァンがまだパリに住んで居たころの知人にセルヴェトがいる。
この人物は、三位一体説への痛烈な批判で知られ、当然ながらカトリックの異端審問に追われる身となって、フランス南部のドーフィネからイタリア・ナポリの知人の許への逃避行をする途上でジュネーヴを通ったときに、当地を宗教支配していたカルヴァン派にその素性が知られて逮捕されてしまった。

カルヴァンは反カトリックではあったが、実はセルヴェトを酷く嫌っていたのである。その理由のひとつにはセルヴェトの非三位一体説への激しい反感があった。カルヴァンは平素から、セルヴェトがジュネーヴに現れたなら生かしてはおかないと語っていたほどにその憎悪は強かった。

当時の反カトリックの勢力と雖も、急激なキリスト教の変化を望まない大衆と共にあり、社会に新たな秩序を打ち立てる務めを自負する新教の指導者にとって、四世紀以来、教理の土台となってきた事柄を変更することがどれほど困難であるか、また、そこまでの必要も感じてはいなかった。むしろ、急激な改革は西欧社会をカオスに投げ込むものと見做され、新教指導者には嫌悪の対象でさえあった。その観方は彼ら指導者の見識というよりは、一般大衆の宗旨替えの難しさに起因していたというべきであろう。

チューリヒではツヴィングリによってミサが禁止され、古い「主の晩餐」に置き換えられたときでさえ、大衆は動揺を来たしている。また幼児洗礼の是非を問う「再浸礼派」の登場も大衆には極論を唱えているように感じられていた。永らく習慣にしていた幼児洗礼などの宗教儀式の変更は、探求心に欠ける庶民ほど難しいものであり、大衆で構成される社会を背負い込むなら、宗教は極めて政治的に教理の平衡をとらざるを得ない。それがローマ国教化以来「コニュニティの宗教」であった宿命である。その教理の変更も大衆の常識と静穏さが改革の範囲を規定していたのである。

現に、ルター自身もヴィッテンベルクで95か条の提題を掲げたときには、カトリックの改善を願ってはいたものの、新派の立ち上げを意図してはいなかったという。

この時代に要請されたのは、「カトリックが相応しく調整される」ことであったが、それが成功しなかったのは、カトリックが利権にも態度にも余りに強大で、自ら省みて改善するほど小回りも利かなくなっており、田舎ドイツの一教授の指摘などで方向転換するような精錬潔癖さなど望むべくもなかったからである。

これを見抜いていたのはルターのような宗教家よりは、ザクセン選帝侯フリードリヒのような政治家の方であったというべきであろう。
そこで、この大衆が構成する西欧諸国の大多数派の願うところを新教指導者らが具体化してゆくことになる。それを画策し、ヴァチカンからの頸木を脱することに利用していった選帝侯が、結果的に西欧の北側においてそれを成功させるのであった。

しかし、カトリックという単なる宗派ばかりではなく、西欧のヴァチカン封建体制の圧制が宗教改革によって揺らいだときに、西欧各地から様々な「極論」を唱える指導者らが現れ、中にはドイツ農民戦争のような政治革命の騒擾にまで及んでいたのであり、ルターは諸侯に命じて農民の弾圧に踏み切り、多量の流血を招いていた。改革が極度に進んで無政府状態に及ばないためである。

スイスでは、カルヴァンが恰もカトリックが自派への抗議者を扱ったようにセルヴェトを火刑に処すことで三位一体説反論への酬いとしたのであった。それをルターの片腕であったメランヒトンが書簡を送ってカルヴァンの非道に同意を与えてさえいる。
そのカルヴァンに権力が帯同したればこそ、セルヴェトを五時間に及ぶ火炙りで殺害ができたのであり、セルヴェトに権力の帯同なければこそ処刑されたという以外に何か別の説明ができようか。 ⇒ ミゲル・セルヴェト

だが、「宗教改革」と呼ばれているこの運動が現れ、やがてアングロサクソンや北欧を中心に定着し、それが大英帝国の進展と共にコモンウェルスの国々に移植され、北米大陸のほとんどをも占められるようになったのは、権力者が新教プロテスタントを許し、それを利用、または同化さえしてきたからである。さらに北米に於いては新教宗派そのものが権力を持っていた。

総じてキリスト教界には、コンスタンティヌス大帝以来の権力との結びつきがあり、それによって三位一体説を奉じる「エジプト式のキリスト教」がカトリック(普遍)を名乗るようになり、その正当性を権力によって簒奪したのと同じように、新教各派も為政者との結託においてその教理や立場を固めていたという現実があった。

改革の指導者たちは、単にキリスト教探求を目指すだけでは済まず、王や君侯と共に新たな社会秩序を打ち立てるという政治的側面を配慮する必要に駆られ、またその気概も持っていたことであろう。即ち、当時のキリスト教の改革とは、ヴァチカンの影響を退けるという政治の改革であったのである。

宗教家というものは、人々の信仰をそれぞれの個人に鼓舞するというよりは、帰依する人々が従うべきものを決定し、大衆を導くリーダーたらんとするものであり、そこに自己顕示の野心を自重しているようには見受けられないものがある。即ち、宗教指導者たらんとする者には支配欲の陥穽が大きな口を開けて待っており、ほとんどの指導者がそこに堕ちて行った現実が見える。

そこでキリスト教界は、恰もイエスを神殿の胸壁に立たせたサタンの誘惑のまま、権力を従えるという、ローマ国教化以来のコミュニティの宗教の罠にはまり込んでしまったので抗争と流血を避け得なかった。
今でこそ、宗教は政治の独立によって、イスラム過激派のようでもなければ概して権力を伴うことは禁止されている。まことに結構なことではあるが、権力というものは、長い戦いの末に宗教から取り上げられたのであって、他方で、宗教家の根本的精神の方は変わっているようには思えない。宗教家に権力を与えるなら再び暗黒時代に戻り兼ねないのは、イスラム過激派を見ての通りではないか。

今日の多様な宗派にもそれは透けて見えている。
唯一正統を唱え、他の宗派の信者らを排撃し、迫害には当たらずとも、滅びる人々と認識し、差別、忌避などしていれば、その派が社会の大多数を成したり、権力と関係したときにはどんなことが起こるのか。悍ましい宗教闘争の火種は、その宗派の内に残っているというべきであろう。

やはり16世紀のルターは、北ドイツの諸侯と共にあり、その権力の庇護を得てヴァチカンの圧力を跳ね除けることができた。それであるから、ルターをして「ヴィッテンベルクの教皇」と人が呼んだのも言い得て妙である。

また、カルヴァンがジュネーヴに神権体制を敷いた上でその地に改革派を形作ったのも、やはり権力の助けを得てのことである。堂々と権力を伴わなければ、それぞれにカトリックの苛烈な圧力から逃避して山間部に住んだワルド派のようになっていたに違いない。チューリヒの改革者ツヴィングリに至ってはカトリック地域を経済封鎖したうえ、その戦いで戦死しているのである。

こうして16世紀西欧に起こった宗教改革を一瞥すると、それはカトリックを土台から問い直すものとはならなかった有様が観える。カトリックがローマ帝国以来、封建制という政治の中にあったために、そこに新教が打ち立てられるにも、その空白を埋めるために政治権力の帯同を以ってそれに代わる必要があったと言えよう。そして今日まで、その政治と宗教の癒着の性質はいずれの宗教の内に温存されており、終末に於いて『大いなるバビロン』へと堕する原因を作り兼ねないものである。(黙示18:2-4)

即ち、カルヴァンが権力を使嗾してセルヴェトを屠らせたように、キリスト教界はパリサイのような偏狭な敵意によって、今後も自説を肯んじない人々を屠り兼ねない精神を孕んではいないと言い切れるだろうか。そのような横暴は、権力やこの世の大衆との癒着によってもたらされるものである。
大衆を導く旗手たらんとする者は、コミュニティを指導する者となり、そこで『この世』と迎合せずには済まされない。(ヨハネ第一2:15)

それでも、ある人々は新教派の存在によって聖書が流布するようになり、人々がそれを読めるようになったことを功績として挙げるかもしれない。確かに、旧教では一般人に聖書を読ませなかったところに、新教の影響下で多くの翻訳が出されるようになり、 聖書の言葉が人々の身近になった。その影響は旧教側にも波及し、改善を促している。

だが、16世紀に宗教改革をもたらした人文学の発展は、その以前からのものであって、カトリックの腐敗があったにせよ、宗教改革もエラスムスのような中立的フマニストから触発されたものではなかったろうか。それに印刷技術の登場の時代が重なってもいる。
従って、権力の帯同の有無と、これは別次元の問題ではないか。
いずれは、人々が聖書を広く知る時代が訪れたことであろう。聖書自身にその潜在力が備わっているからである。 

改革史を概観すると、新教側が「聖書主義」を打ち出したことにおいて、従来のカトリック・キリスト教に一石は投じたものの、土台から立て直すことはおろか、部屋の模様替えというところで終わったという以外にない。にも関わらず新旧の戦いで許多の流血を起こしたことは相当する価値ある代償も伴わない犠牲であった。人間とは何と自らの正しさや信義に盲目となるものであろう。

やがて宗教改革の波は、ドーヴァー海峡を越えてブリトゥン島に至る。特にイングランドでの新教の展開には強く王権が関わって開始されている。即ち、ヘンリー8世の離婚問題であった。
このイングランドで、新教は様々な分派がそれぞれに発展を遂げ、結果的に清教徒を乗せたメイフラワー号に象徴される如くに北米にそれは広められていった。

数多くの人々がキリスト教の純化を北米の原野に期待し、J.ウインスロップの言うような「丘の上の町」の希望に触発されてニューイングランド植民地が形成されて以来、アメリカでは無数の宗派が興され、米英では後に覚醒運動のような大衆を巻き込んで熱狂的な流行が生み出されて来た。

その影響を受けた宗派には、自分たちこそが神からの是認を受けていると自認するものも多い。大抵の場合、それは彼らによって純粋なキリスト教が回復されたというプロパガンダを意味するのである。

もちろん、それぞれは人間の誤謬を免れないので、どこかの宗派がとりわけ優れているということでもない。いずれも似たり寄ったりの実情にあり、イエス派がユダヤ教から聖霊の奇跡によって飛び抜けた存在となり、キリストの業を続行して人々をメシア信仰に招いたような事態は歴史上のどこにも再現されてはいない。長年キリスト教徒は「正しいキリスト教」を求めては来たのだが、それを見出すことは一向に出来ていない。

例えれば、自分たちほど聖書に従っている宗派もない、と教理の論理性を誇示するなり、憑依状態のエクスタシーの経験を神やキリストの帯同の証拠である、と神秘の証しを述べたり、或いは、慈善事業やら人格の徳性を訴えたとしても、どれも使徒時代のキリスト教徒らとは決定的に異なるものがある。

その相違が『聖霊』にあると言えば、それぞれの宗派がそろって「自分たちに聖霊はある」と主張するに違いない。
では、その「聖霊」というものはどのようなものであると言うのだろうか。



◆『聖霊』というもの

初代キリスト教徒らに働いていた『聖霊』は、彼らにはっきりとした『霊の賜物』(プネウマティコス)をもたらしていたのであり、それは『霊の顕現』(ファネローシス)と言えるほどの奇跡の業を行わせるものであった。
キリストは、それを『約束の聖霊』と呼び、自身が犠牲の死を介して神の許に行くことを条件に弟子らに下賜されるものであることを明言している。(コリント第一12:7/使徒2:33/ヨハネ16:7)

聖霊が注がれるということは、その弟子がキリストと共に神から相続物を受ける者であることを示す印であるとパウロは言う。彼らが肉体を離れ天界の住まいとなる霊体を受けることになる証拠として聖霊を指し、『神はその保証として霊をわたしたちに賜わった』とも書いている。(コリント第二5:5/ローマ8:16-17/エフェソス1:11-14)

従って、その者らの行う業はキリストの業の延長であり、パレスチナから広がって『より大きな業』を行ったと確かに言える。(ヨハネ14:12/15:26-27)
それは『アブラハムの裔』、即ち『神のイスラエル』を集め出す宣教の業であり、同じく聖霊に与る人々をエクレシアへと集めることを目的としていたのである。これについて使徒のヨハネは、イエスが『ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとして』いたと明らかにしている(ヨハネ11:52)

『神の子ら』とは『聖霊に導かれる者』であり、奇跡を行う賜物を得た弟子らを新約聖書は指し示している。(ローマ8:14.16/テモテ第一4:14)
注がれた聖霊の印はそれを見る人に明らかであり、それぞれの霊の賜物によってエクレシアの集会が導かれ、神からの益に浴していたのである。「エクレシア」とは「教会 (主のもの)」(キュリアコン)ではなく「召し出された者」を意味する。即ち、キリスト教本来の宣教とは単に信者を集めることではなかった。むしろ、主の業が続行されて聖霊を受ける『聖なる者ら』を集め出すことが主要な目的であったのである。(コリント第一12章・14章)
その『霊の顕現』は、人の制御できないものではなく、トランス状態とは無縁で『秩序』を保つことができたのである。(コリント第一14:26-33)

かつて原始キリスト教の時代には、こうした聖霊の賜物により様々に奇跡行う人々がいたことは、当時の資料に記されており、今日でもカトリックで「聖人」に列せられるには、複数の奇跡を起こしたことを条件にしているところに 痕跡を残している。聖書中で、この格別な弟子らは『聖なる者』、あるいは『聖徒』と呼ばれているのである。

だが、このような聖霊の賜物を表すキリスト教の宗派が今日ひとつでも存在するだろうか?
筆者はそのようなものがあると聞いたことがない。

そして、聖書は終末に再び聖霊を注がれる弟子らの存在を示しているのであるが、これをどう捉えるべきだろうか。
例えれば、マタイ福音書10章18節には、『あなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。』とあるばかりか、同様の内容は共観福音書に共通して存在しているのである。

それであるから、コリント第一13章8節の『預言は廃れ、異言はやみ、知識は古びる』とのパウロのアガペーの優越性を強調した句を引用して、キリストから使徒らの時代に有ったような奇跡の賜物は終わったので、二度と無いとするのは間違っているし、終末という人類史のクライマックスで神の劇的な参与を度外視することは極めて危険なことになる。(ミカ7:11-17)

では、再び聖霊が降下する終末において、その聖霊はどこかの既存の宗派が正しいことを証明する仕方で注がれるのだろうか?

ルカ福音書は次のキリストの言葉を伝えている。
『誰でも求める者は受け、捜す者は見い出し、門を敲く者は開かれるからである・・
あなたがたが悪人ではあっても、自分の子供に良い贈り物をすることを知っているのなら、まして天の父が求めて来る者に聖霊を与えて下さらないことがあろうか』(ルカ11:10.13)

これはユダヤ人に語られた言葉ではあるが、聖霊が諸国民にも与えられるようになった後には、『どの国民であれ、神に受け入れられる』時代が到来しており、そうペテロが語った直後に無割礼のローマ人コルネリウスとその近親者らに聖霊が降った以上、確かに『どの国民でも受ける』という事が出来る。(使徒10:35.45)

あのペンテコステの日には、ガリラヤ以来のキリストの直弟子たちの集団に聖霊の賜物が与えられているが、その後は、信仰を条件にガリラヤ、ディアスポラ、サマリア、諸国民へと聖霊降下は広げられている。
したがって、既に広げられた聖霊拝領の範囲は、終末において同様であるに違いない。即ち、求め、捜し、敲く者らであり、既に自分には聖霊があると思う者ではないであろう。「聖霊は自分たちにある」と自己満足に陥っているのなら、どうしてなお聖霊を捜し求めたりするだろうか。

そして、使徒時代に知識を与え、新約聖書を著させ、ユダヤ教の中からキリスト教への脱皮に導いたのもこの『聖霊』であって、これは主イエスが使徒らにその到来を予告していた『助け手』であり、キリストの余りにも貴重なその犠牲の血の贖いを以って『初穂』とされた者らに注ぎ出されたものであるから『約束の聖霊』とも呼ばれる。(ヨハネ14:26/使徒2:33)
即ち、『聖霊』の存在そのものが、キリストの血の犠牲が神の前に捧げられ、受け入れられたことの見える証拠でもあった。(エフェソス1:13/コリント第二5:5)

今日の分裂したキリスト教諸宗派が、「自分たちに聖霊がある」 というほど『聖霊』を無視した話もないであろう。むしろ『聖霊を冒涜』してはいないのだろうか。キリストの内在と称して信徒に安請け合いし、その価値をまったく卑しめているからである。これは、聖霊に導かれていると唱えるあらゆる教派についても言われるべきことである。それこそ失敗の度に人間の不完全さであると弁解しつつも、実に『盲人が盲人を導く』ようなことにはなっていないものか。

キリスト・イエスは『自分からは何も行うことができない』と言われ、『父がすることを子もまた行うばかりである』とも言われたが、 キリスト教の教師の大抵はそうは言わない。
自分が見出した真理を、神からのものと吹聴する。また、聖書に基づいて解釈したものであるから 自分の見解はみ言葉に立脚した正しい教えだともするであろう。あるいは、聖霊が自分を導いたとさえいうかも知れない。
だが、いずれも真実の聖霊が欠けている。即ち、初代の弟子らに注がれた同じ聖霊の姿はそこに無い。
聖霊が無いことの言い訳を専らにするのが今日の「人間のキリスト教」の怪しげな姿ではないか。 



◆終末の契約

メシア=キリストは、ダニエルに示された『七十週』の最後の第七十番目の週の半ばまでを地上で公生涯を過ごされ、人々と『契約を保ち結び』御自らの犠牲を以って『犠牲と供物を終わらせ』ている。即ち、その血の犠牲が捧げられたことによって、律法に要求された動物の犠牲を捧げる神殿崇拝は実質的に終わりを迎えていたのであった。(ダニエル9:27)

だが、メシアは『一週の間、大いなる者たちとの契約を保ち結ぶ』のであれば、『週の半ば』に地上で公生涯を終えられた後の残りの三年半はそのまま続くのだろうか。もし、そうならメシアがもたらす『新しい契約』への新らたな参加への門戸は既に西暦36年頃に閉じられていたことになる。

しかし、キリストの預言は終末に聖霊の大いなる活動を知らせているのであり、例えれば、ルカ福音書がイエスの語った終末預言の一部として次の事柄を含めている。

『こうしたすべてのことの起こる前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すであろう。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。そこでどう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心に思い定めよ。どんな反対者でも、反論もできず、反証もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに与えるからだ。』(ルカ21:12-15)

このような記述は三つの共観福音書に存在しており、ヨハネの福音書も弟子らへの助け手である聖霊についてこのように述べる。
『そのものが到来したなら、この世にその咎を認めさせる、即ち罪と義と裁きとについて』(ヨハネ16:8)

これは聖霊の到来するときに、神と世とが対立関係にあると言えるので、聖霊を注がれた者らは『王や総督の前に引き出される』のである。その論争は政治的な事柄に関するものであることをイザヤもメシアについてこう預言している。
『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)

エレミヤもこのように言う。
『「主は、高い天からほえたけり、聖なる神殿から声をとどろかされる。その牧場に向かってほえたけり、この地のすべての住民に向かって、酒ぶねを踏む者のように叫び声をあげられる。
YHWHが諸国の民と論争をするとき、あらゆる者を裁き、邪悪な者どもを剣に渡すので、その叫びは地の果にまで響きわたる。』(エレミヤ25:31)

これら旧約の預言は、今までに成就したことで過ぎ去ったことだと言えるだろうか。
むしろ、聖書の新旧の記述が揃って終末に何が起こるのか、神と人の争点が何であるのかが繰り返し示されてはいないのだろうか。

ゼパニヤは、終末に神が人類に対して行われることをこのように描写している。
『わたしが証人として立つ日を待て。わたしは諸国の民を集め、諸々の王国を集めて裁定し、わたしの憤怒と燃える怒りを尽く彼らの上に注ぐ。全地はわたしの妬みの劫火によって、まったく焼き尽くされる。』(ゼパニヤ3:8)

ヨエルは、キリストの弟子らがあのペンテコステの日に聖霊を注がれたことを予告していた預言者であるが、こうも述べているのである。
『諸国の民が奮い立ち、エホシャファトの谷に上って来るとわたしはそこに座を設け、周囲のすべての民を裁く。
鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。YHWHの日が裁きの谷に近づく。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。』(ヨエル4:12-15)

これらの預言の言葉は、それぞれに別の事柄を述べていて、それも過ぎ去ったことが記されているに過ぎないのだろうか。キリスト教界は「終末」を然程に重要視もせず、常に自分たちの恵みを求めて過ごしてきた。即ち、まず自らに関心が向いており、神が何を意図されるのかは重視して来なかったのである。

だが、そのような呑気な観方を打ち消すものがある。
それが、ヨハネ黙示録であり、聖書を貫く終末の知識の開示は、大半のキリスト教徒、即ち、ご利益信仰の徒にはいつまで経っても謎であり続けるであろう。



◆裁きの要諦

前述のヨエルの、鎌を入れ、踏み潰し、搾り場の酒ぶねに満ちる様子が黙示録に於いて次のように繰り返されている。つまり、ヨエルの恐るべき言葉の成就を、世界はなお将来に控えているのである。 
では、ヨハネ黙示録の語るところを聴こう。

『「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」
 そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。
 搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオン(288km)にわたって広がった。』(黙示録14:18-20)

そこで、旧約で様々に描き出された神とこの世との対決の場面は、黙示録の描く終末にその舞台を持つことを知らねばならなくなる。
まさしく、この世の全体が神の前に裁かれるようなことなど、人類史に前例がなく、旧約聖書の原初史にノアの日の大洪水が描かれるだけであるからには、それはなお将来のことである。

しかし、神はこの世を裁く前に、この世に対して裁きの理由を告げることを、他ならぬイエス自身が公生涯の終りに際して次のように使徒らに語っていたのである。
『そのもの(助け手)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを知らしめる。
 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。』(ヨハネ16:8-11)

この「助け手」が『約束の聖霊』であることはこの文脈が明かす通りであり、このキリストの言葉を福音書にある、『王や総督の前に引き出され』弟子らが聖霊によって語るという預言とを終末の舞台に重ね合わせることによって、「この世の裁き」の見通しが開かれてくるのである。そこに「コミュニティの宗教」の出る幕などは到底有り得ない。キリスト教とこの世の妥協が考えられるだろうか。

『この世』を裁くに際し、神はそのときの人々を何の予告もなく裁きに渡すことはない。もし、そのようなことをするのであれば、人間に遍在する罪のために人類の存続も危ぶまれるほどになるかも知れず、また、キリストが罪の犠牲を捧げた意味が無いことにされてしまうであろう。それこそは、教会員が願う「信者の救い」であり、自分の益のための「ご利益信仰」でしかない。

そこで神は、人類全体に救いを備えるために『この世』に対して裁きの根拠を示し、キリストの犠牲があってもなお、それを拒む者、それに敢えて信仰を働かせない者を煽り分ける。

それであるから、為政者らと対峙して聖霊を受けて語る者らの言葉は、『この世』にとって衝撃とならざるを得ない。
ハガイの預言では、神は終末に於いてまさしく天地を揺るがすというのである。
『まさしく万軍のYHWHはこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
わたしは、すべての国々を揺り動かす。あらゆる国々からの宝物がもたらされ、わたしはこの神殿を栄光で満たす。万軍のYHWHは仰せられる。』(ハガイ2:6-7)

即ち、神はやがて天地を揺るがすが、そうすると、諸国から宝のようなものが入ってきて、それが神殿に満ちると言われるのである。

キリスト以降には、地上の神殿から、キリストを隅石として聖なる者という石で築かれる天上の神殿が知られるが、聖霊の言葉を語る『聖なる者ら』を通して『この世』は大きく動揺することであろう。その『誰も論駁できない言葉』を聞いた世界の人々の中から分離が生じ、ある人々は信仰を働かせて『聖なる者ら』の側に立ち、ある人々はその言葉に反発して彼らに敵することになる。世界は二つに分かれ、論争は明解な二択を人々に迫るものとなるのであろう。

したがって、今現在その人がどのような宗教に帰依し、信条なり思想なりを奉じているか、あるいはいないか、それは尽く神の裁きの前に意味を成さない。
 
天地が揺り動かされるとは、全人類が終末に聖霊の言葉を聞くことで改めて問われることを意味しよう。
この振動の預言について、パウロはシナイ山の振動をハガイに敷衍してこう言っている。
『あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。あの時には、御声が地を震わせた。

 しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。』(ヘブライ12:25-28)

その激動をもたらす言葉の宣告については、イエスが地上を去る前の晩に語られたように、聖霊を通して、罪とは何か、義とは何か、裁きとは何かが明瞭に示されるとき、人々は裁きの要諦が何であるのかをはっきりと知ることになろう。それは神との関係性をどうするかという人間存在の究極の問い、「エデンの問い」と同じ意味を持つことであろう。人は創造者に対して忠節な愛を選び取るだろうか?

それはご利益を願うようなものではない。滅ぼされるか生き残るかを眼前に置いて選択させるようなものともならないに違いない。それでは「服従」への脅しになってしまい「信仰」という自由意志を見るものとはならないからである。
 
もし、脅迫的選択を神が迫るとしたなら、わざわざキリストを不可視の『雲と共に』この世に到来させ、聖霊を介して言葉を語らせる必要がないのである。
人々に自由意志からの選択を行わせるためにこそ、神は終末に於ける『聖なる者ら』の介在と彼らの犠牲をよしとされたに違いない。

ヨハネ福音書で『御子を信じる者は永遠の命を持つが、御子に聞き従わない者は、命を見ることなく、神の怒りがその上にとどまる。』とは、この意味であり、単に「クリスチャン」が救われるというのではない。むしろ、その属する信仰、宗派によらず、あらゆる人々が改めて検分されることになるに違いない。あらゆる宗教は神の前に正しくはないからである。(ヨハネ3:36/ローマ3:4)



◆神の発言を待たないキリスト教界

キリスト教のどんな宗派もその正統性を失っていることは、内容に於いて突出したものがどこにもないところに表れている。神の前で自分が正しいと云う者はまさしく偽り者である。
初代の弟子らのように、あらゆる論争に終止符を打つような「聖霊の賜物」という神の後ろ盾を得ている宗派は絶えて無い。
 
それぞれに、自分たちには聖霊があると言いたいかもしれないが、宗派同士の正統の奪い合いに既に『霊の果実』の無さが見えている。
自己正当化と闘争性や優越感と蔑視が、キリストの弟子と言うよりは、実質的にキリストに激しく反発し迫害したパリサイ派の後継者であることを自ら示してはいないだろうか。

宗教改革期を通して見られた論争と武力衝突にも、そこにキリストの霊らしきものの介在を感じさせるものが果たしてあったろうか。
個人で宗教を選ぶ自由が、宗教からではなく政治を介して初めてもたらされた現代社会では、キリスト教同士が武器をとって戦う姿は致し方なく影をひそめたものの、二十世紀まで旧教と新教はそうしていたのであり、宗教の正統を巡る貪欲は、内面では中世のままの闘争性を捨てているとは言い難い。時流に乗って他宗派との和やかさを演出し、にこやかに信者を迎える教師と雖も、いざ宗派の確執となれば豹変する姿を見るのは愉快なことではないものだ。

確かに近年ではエキュメニカルのような接近の努力が払われ、首長同士が和睦のポーズをとることができるようにはなっている。それは悪い兆しではないのだが、実質的な意味も無い。
というのも、どの宗派や教理が正しいか、正しくないかという論争が終わったわけではなく、それぞれの宗派が自分たちの正統を唱えるために他を攻撃する機会を窺う姿勢の下地の上でのことに過ぎないからである。つまりは正義を神に帰さず、義の自己所有を主張するからである。
そこに、『神の義』も『神の王国』も求めているといえる風情はない。 

このままでは、誰が正統かを巡って果てしなく争い続けるに違いない。その原因は、キリストのように『神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』(マルコ10:18)という見地には立たず、またキリストのように『自分からは何もできず、ただ父が教えて下さったままを話す』というわけでもなく、人間の推論を真理に置き換えてしまったところにある。
つまりは、神の発言である聖霊を持たず、またそれを待つ態度もとらないゆえに、キリストの教えを人間同士の争いに引きずりおろしてきたというのが実際ではないか。

それぞれが『人間の戒めを教理として教え、意味なく神を崇めている』その原因は神の言葉を待たないからではないか。(マタイ15:9/イザヤ29:13/ヘブライ4:7)
それはやはり、神の発言である聖霊を持たず、またそれを待つ態度もとらないゆえに落ち込んだ罠、単なる人間らしい傲慢また頑迷な「罪の陥穽」というべきではないか。

もちろん、闘争性はキリスト教ばかりのことではないだろうけれども、キリストの名の下にそのようであることが相応しいわけもなく、それこそ背教と言われるべきであろう。自分たちだけが正しいと、あるいは自分たちだけが神の是認の下にあると主張した途端に、紛れもない偽り者、最大の偽善者となるからである。

では、「キリスト教」に回復はいつまでもないのだろうか?
しかし、前述のように、終末には聖霊によって語る人々が現れる以上、そこでキリスト教の回復が興らないとは言い難い。

そして、この観点から終末に関わる聖書の記述を見るなら、バビロン捕囚からの解放の事跡に重ね合わせて描かれているところを見出すのである。

バビロン捕囚からの解放が、人間によらず神の企図によりキュロス大王が指名されたメシアとなってそのきっかけが起こされ、その勅令が履行されることによりシオン山に神殿が再建され、そこに神YHWHが再び御名を置き、律法祭祀のすべてが復興されたという、この一大事業に触れながら黙示録は終末に起こる異例な出来事を予見しているのである。

それは古代の捕囚からの解放と同じく、人間由来のものではなく、また人間の関わる時に起こるものでもないことを明らかにしているのである。



◆厳密に選ばれた時に起こる解放

キリスト教の回復のきっかけについて、やはり黙示録が語っている部分がある。
以下に黙示録の9章14節を見よう。

『「大河ユーフラテスの畔につながれている四人の使うを解くように」。
 すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の使いが、人間の三分の一を殺すために解き放たれた。』(黙示録9:14-15)

この句は、黙示録中の七つのラッパの吹奏のうちの第六の部分に存在している。
黙示録の終末について述べる部分は、『開封』と『ラッパ』と『鉢』を主軸として構成されており、それぞれに呈示、宣明、断罪と要約できるように思える。
 
即ち、七つの封印の開封に於いては、初めからこの世への終末の刑の執行からが描かれ、ついで七つのラッパによる転向を促す神からの告知が行われ、七つの怒りを満たした鉢はこの世の要素への断罪が下されるが、世は大衆と共に一向悔い改めることなく葡萄搾り場の場面へと進むことになる。

上記、大河ユーフラテスの畔に繋がれていた四人の使いが解かれる場面は、ラッパの第六の吹奏に相当している。
ギリシア語の「使いたち」(アンゲロイ)は必ずしも「天使」を常に意味するわけではなく、「遣わされた者」の意であり、聖書中の他の事例で散見されるように、四人であることが『地の四方』を示唆しているなら、その現れ、また働きは世界的なものになると見ることができる。

更に、ここで注目されるべきは、その解放される使いらが『その時、その日、その月、その年』という非常に狙い済ました一時のために備え置かれていたという点にある。
 
これは、エレミヤの七十年の預言を彷彿とさせる。なぜなら、キュロスⅡ世によるバビロン征服が起こり、翌年シオン山上に神殿再建にための定礎が行われたものの、紆余曲折を経てそれから20年の歳月を要して、ようやくに神殿は再建され、律法祭祀の回復を可能としたからである。それはソロモン神殿の破壊による祭祀の中断の期間を七十年とするための絶妙なきっかけを作る時となったのである。⇒「エレミヤの七十年 その終点から起点を探る」
 
ネブカドネッツァルの神殿破壊から神殿祭祀が再び機能を始めたのが、今日のオリエント学が指摘するような前515年であるなら、エレミヤの予告に違わず祭祀の中断が丁度七十年であることからすると、イスラエル・ユダヤの民がバビロニア帝国の頸木を解かれ、神殿再建のキュロスの勅令が下ったのが前537年であったことは、エレミヤの予告した「七十年」を満たすための22年の余裕をもってバビロンが倒れる必要があったのであり、そこに人間の観点を超える先見性が示されていたことになる。

そこで先の黙示録の9章14節を振り返り『その時、その日、その月、その年に備えておかれた』という言葉に、エレミヤの「七十年」を成就する絶妙な時に発布されたキュロスⅡ世の勅令の事跡が蘇る。
 
即ち、その年に大河ユーフラテスの畔に繋がれていたユダの民の中から、神殿再建の勅命に応じる『イスラエルの残りの者ら』が現れ、その五万弱の僅かな人々は、その同じ年の内にシオンに到着してスッコートを祝い、翌年二月には神殿の定礎を行っている。
 
それから、神殿の竣工までには、周辺諸国の反対と目的意識の低下が障碍となったものの、預言者らの現れと熱意の回復を経て、キュロスの勅令発布から22年を要することになるのだが、神殿が破壊された前586年から70年の中断を終えた翌年の前515年正月ニサンに神殿祭祀は復興を遂げている。

それであるから、ヨハネの黙示の言葉も、将来の「大いなるキュロス」が解き放ち、勅令を発するその時は、古代の事跡が物語るように極めて厳密に定められた一時に起こることを指し示しているかのように読めるではないか。但し、終末での『至聖所が油注がれる』のが何時になるのかを人類は知らず、天使らも知らないのであろう。(ダニエル9:24/使徒1:6-7)

ただ、知らされているのは、終末の聖徒の活動が『42ヶ月』また『1260日』であること、そして彼らの『死』の後に、世は直ちに終局に至るということである。(黙示11:3.7/ダニエル12:7)

そうであれば、この黙示の言葉は、キリストを隅石とし、聖徒たちが石となって天界に建てられる神殿と、神の王国の祭祀制度の始まりのその時までに定められた期間を逆算した時点で起こることを示していることになる。だが、人はその解放の時を知り得ないだけである。(ペテロ第一2:4-5)

それは『残りの者』らが、もうひとりのキュロスであるイエスによって旧来のキリスト教から解放され、『ユーフラテスの河畔』即ち異教の象徴のバビロンを発し、王の勅令に従いシオンに向かって歩みを始める『その時』であり、神殿の定礎そのものは、古代のように時を経ずに行われるのであろう。

即ち、仮の崇拝の開始はすぐに行われるが、その時の祭司職らの身分は未だ聖別されておらず、それは地上にいる聖徒らの身分、即ち、『新しい契約』を果たすまでは天界の神殿を構成する石にはならない状態を示しているのであろう。

しかし、その後については、古代の神殿再建の困難な道程があったことからすれば、終末の『四人の使いら』にも多くの試練となる反対運動も予期する必要があることであろう。その対型となるであろう将来の強い反対運動が、聖徒らの練り清めになることが見て取れる。

バビロンに囚われていた民を解放し、殊にシオンに神殿と再建するようにとの勅令を発したキュロスⅡ世に相当する役割を果たすのはイエス・キリストであるという根拠に何があるか?

黙示録第九章の直接の文脈では『黄金の祭壇の角の間から出る声』とされている。それが銅の祭壇ではないところからすれば、それはまさしく『神の御前にある黄金の祭壇』即ち、聖所の中にあった香の祭壇を表すのであろう。それは第八章の初めにある『聖なる者らの祈り』と関連付けられている。(詩篇141:2)

使徒言行録は、ペテロ以下の聖なる者らが迫害に面して、心をひとつにして祈ると『一同の集まっていた場所が揺れ動き、すべての者が聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語り出すのであった。』ことを記録している。(使徒4:31)

従って、黙示録の河畔に囚われていた四人の使いを解くようにとの下命は、将来の『聖なる者らの祈り』に対する回答と観ることができよう。

それに加えて、黙示録第九章には『天から降った*(落ちた)星』が奈落の鍵を持っており、これを開けることによって濃密な『竃のような煙が立ち上り』、その中から『蝗の群れ』が解き放たれる場面を描き出している。*[πίπτω](「墜ちる」「降る」「平伏す」とも<descend>)

これは、地に来られた御子キリストが、終末には星のように『天から降り』奈落の鍵を解くことによって、聖霊を受けて語る者らを解き放ち『この世にその誤りを認めさせる』ことにより、世界が暗くなってしまうことを彷彿とさせるものと言える。(ヨハネ16:8)
聖霊によって語る聖徒らの言葉は、この世の舞台が暗天させられるほどの闇をもたらす。それゆえ、彼らは漆黒の煙のような『無数の蝗』と黙示録は描写するのであろう。(黙示9:1-11)

これは福音書の中で、終末に為政者らと対峙して『誰も論駁できない』言葉を聖なる者らが聖霊によって賜るという予告を言うのであり、預言者も高められたメシアについて、『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』と語るところである。(イザヤ52:15)
それは今日において議会の議事、また証人喚問が中継公開されるような事態に相当するように思われる。
 
これをハガイでは『今一度、天地を揺さぶる』と神が語られることであり、『諸国の民をことごとく揺り動かし、諸国のすべての民から願わしい者をもたらし、この神殿を栄光で満たす』と言われるそのことである。これこそが終末での神の世界宣教であるからこそ、マタイは聖徒らの為政者らへの奇跡の証しを指して、『彼(為政者)らと諸国民への証しのためである』と述べている。(ハガイ2:6-7/マタイ10:18)

さて黙示録の記述は全てが始めから終わりへと時系列を負って並んではおらず、出来事が輪切りにされ多層的また繰り返し同一の事象を述べる傾向があり、このバビロンに囚われた四人の使いと、無数の蝗とは、同じく聖徒の現れを扱っていると見ることができる。

従って、蝗害を解き放ったのがキリストであれば、ユーフラテス河畔の使いを解くのもまた終末のキリストであると言えるのである。

そこで、終末に象徴のバビロンの強権支配を下し、強固な二重扉を打ち開いて囚われていた民を解放し、勅令を発して『残りの者ら』にシオンを目指させるのは他ならぬキリストであると言い得るのである。

キュロスⅡ世が、ユーフラテスの流れを変え、バビロンの強固で高大な城壁を無に帰せしめたように、終末のキリストも不可能に見えたバビロンの攻略に際し、強大に見える宗教世界に対し、その趨勢を逆転させるほどの偉業を成すとみるべき理由は、旧約の預言者らの言葉が実際にメディア・ペルシア帝国によって実現したことであり、これは聖書も歴史も、今日の我々に疑いを残さない。

その『四人』の解放は、大娼婦の座す大河の膨大な水量の向きを変えてしまい、やがて大都バビロンに災いを招くであろう。



◆初期に起こった回復

そうであれば、キリスト教の回復はけっして人間の努力で成し遂げられるものではないことになる。
しかも、そのきっかけをもたらすのも人間ではなく、『その時、その日、その月、その年』という天が満を持して『合図の手を挙げる』時であろう。(イザヤ49:22)
古代の回復の時のアリヤーに予型を見れば、ユダの民にとって、メディア・ペルシアの軍勢を操ることなどできなかったように、それは人間に由来する回復とはならないに違いない。(イザヤ41:2/46:11)

地上から聖霊が去って、キリストも地上への監臨を終えて今日まで千八百年、真の意味でキリスト教の回復を見ることがなかったのも当然のことである。
今日まで聖霊が降ってはいないのであるから、当然ながらキリストは依然として「不在」(アプーシア)であり、弟子らに『また来る』と言われた以上は、必ず主の不在の期間があるはずではないか。

この回復また慰めの時は、一度初代キリスト教徒の上に訪れたことがある。
あのシャヴオートの日に、ペテロはディアスポラのユダヤ人らにこう語っている。
『主のみ前から慰め*の時がきて、あなたがたのために予め定めてられていたキリストであるイエスを神が遣わして下さるように』*([αναψυξεως]「回復」アナプシュクセオース)(使徒3:20)

この時までユダヤ人から預言者らが途絶えて四百年に及び、契約の箱の不在は律法契約を逸したことを彼らに意識させていた。
そこで『約束のメシア』への期待が残っており、荒野にバプテストが現れたときにもそこにメシアを感じ取らせてもいた。

そして、このシャヴオートの日に聖霊降下の奇跡を目の当たりにしたユダヤ人らに向かって、ペテロはナザレのイエスを『約束のメシア』として恐れることなく公示した。
イスラエルの待ち望んだ方の到来は、「回復」の時を招き、古い契約を逸していた民に再び『新しい契約』の希望がもたらされたのである。
 
それが、イスラエルが神との契約を更新するという「回復」の時ともなり、最後の真正な預言者マラキ以後、長く続いた神の沈黙の時代の終りを画する事態の進展とも言える。
即ち、メシアの犠牲によりイスラエルの罪の赦しが到来し、それは『新しい契約』の血の振り掛けとなってメシアを受入れる契約の民に道を拓いたのであった。

それはユダヤ教の回復ではなかった。むしろ、それは当時のユダヤ教徒の多くを躓かせる石となったであろう。
動物の犠牲はメシアの犠牲に置き換えられることによって終息し、律法契約は過去のものとなり、そこに新たな次元が拓かれたのであるからそれはユダヤ教ではなく、それを超えるアブラハムの宗教、あるいは聖書教というより広い括りでの「回復」であったことになり、今日それは「キリスト教」と呼ばれているものに相当している。

しかも、それは自動的なものではなかった。
それが証拠に、イエスを処刑に追い込んだユダヤ体制派にも他のどんな派閥にも聖霊の注ぎ出しは起こらなかったからである。求められていたのは、「神への信仰」ではなく、神がメシアとしてイエスを遣わしたということへの「メシア信仰」であった。
 
ユダヤ体制は、この信仰を持つに至らず、ユダヤ教は今日に至るまでパリサイ系ユダヤ教のままにメシアを待ち続けて空しく過ごしてきた。奇跡を行う人、ナザレのイエスを通して「メシア信仰」に至ったのは僅かな『残りの者』だけとなり、『諸国民の光』となるべき神の民の数を満たすために、『アブラハムの裔』を集める業は使徒や初期の聖徒らによって続行され、パレスチナから諸外国へと広げられていった。

それでも、聖霊降下は今日にはどこにも見られない。
使徒らが没し、初期の弟子らも逝去するに従い、聖徒がみられなくなったのであり、契約に含まれる人々の不在は既に千八百年にも及ぶ。
やはり、今日キリストは明らかに不在(アプーシア)である。それは極論ではない。なぜならイエス自身がパルーシア、即ち再び世界に監臨することを告げていたからであり、それならばそれに不在が先立つのは理の当然ではないか。

では、終末に於けるキリストの帰還において何が起こり得るだろうか。
メシアの現れとその活動の意義を知らせたダニエルの七十週では、メシアが『大いなる者らと一週の間、契約を保ち結ぶ』とあった。(ダニエル9:27)⇒「ダニエルの70週 全能者の描く巨大構造」
ガブリエルによって伝えられたその内容によれば、メシアの到来の時節が予告されており、それは69週が定められ大雑把なものではなかった。

同様に最後の第七十週目の残り半分の三年半が『契約の使者』の不在によって、未だに未成就である。(マラキ3:1-3)⇒「ダニエルの七十週」
つまり、メシアが『契約を保ち結ぶ』という地上の公生涯の半週と、依然残された僅か半週、即ち三年半、黙示録の『42ヶ月』、また『1260日』ではないのだろうか。しかし、その開始が何時かは分からない。それこそが『その時、その日、その月、その年』という、神のみぞ知る時に関わるものとなろう。
 
古代にはマラキの預言にしたがい、『契約の使者』であるメシアに先立ってバプテストが示され、ユダヤの民にナザレのイエスが紹介されている。(ヨハネ1:36)
バプテストは、メシアがユダヤ人に聖霊と火とでバプテスマを施すことを予告したが、メシア信仰に至ったユダヤ人には聖霊が、そうでなかった体制には滅びの火がそれぞれに注がれている。(マタイ3:11-12)

さて、メシアの再来と契約を結ぶ期間の残りが履行されるであろう終末に目を向けるときにどうしても無視できない存在がある。
それが今日二十億を越える信者を擁する世界最大の宗教、「キリスト教界」なのである。



◆『三分の一』と呼ばれる世界への宣告

黙示録の第八章には『三分の一』が12回繰り返される。それはラッパの吹奏の度に災厄を被る部分とされている。
そして第九章の、ユーフラテス河畔の四人の使いたちが解かれるその目的も『三分の一を殺すため』であり、彼らが解かれた後に生じる二億もの『騎兵隊』もその『三分の一』に対する災厄に加担していることが示されている。(黙示録9:15.18)

ここでも黙示録の記述の特徴が表れているが、物事の順を追ってはおらず、ここでラッパの吹奏による災厄の原因のひとつが示されている。
それが即ち、ユーフラテス河畔の四人の使いたちの解放であるというのである。彼らの解放の目的は『三分の一を殺す』ことにあるからである。

では、第一から第四までのラッパの吹奏によって災厄を受ける『三分の一』とは何を意味し、また、どのような害を受けるのであろうか。

まず、そこでは天界で香が焚かれ、半時の沈黙が生じるが、これらは詩篇141篇と65篇が祈りの言葉そのものであることを共に指している。黄金の祭壇は至聖所のすぐ前に置かれていたので、食卓と共に『御前(御顔)の』と呼ばれるべきものであり、黙示録でも『御座(スゥロモス)の前』とされている。
そこで神がその回答を与えずにいるだろうか?(マタイ21:21)
神の御前で香炉を持っていた使いが、香の祭壇の火を香炉に入れるや地に投じる。すると七人の使いがラッパを吹く用意をするという。

これらのラッパの吹奏の始まる場面から見ると、地上での論争が生じることが示唆されており、そのきっかけを作るのは『聖なる者らの祈り』であることが書かれている。(黙示録8:3/ルカ12:49-)
そして、それらが吹奏される度に『三分の一』が災厄を被るのであれば、その『三分の一』とは、聖なる者らとの論争の相手とは言えないだろうか。

しかし、この祈りへの答えとして、聖なる者らへの聖霊の油注ぎが起こるのであるならば、黙示録でラッパの吹奏にこの祈りが先んじるからと言って、必ずしも聖徒の存在が先にあるとは限らないように思える。
即ち、いずれ聖なる者らとなる人々の祈りとも捉えることに無理はないようにも見えるからである。
 
ラッパとは、響き渡るその音によって広く何事かを知らせるものであり、殊に戦闘に於いては武器の打ち合う音や怒号の中にあっても部隊への指令の合図として用いられてきたほどに鋭い伝播性を持っている。

そこで、この場面に於いてのそれは、神の側からの布告であり、その広報がある度毎に『三分の一』が害を受けるのであれば、その『三分の一』は神と激しく対立していることになる。ラッパの音は、抗う彼ら三分の一の騒音をさえ乗り越えて耳に明瞭に届くものとなろう。

その『三分の一』とは『地』の『海』の『川』の『天の光』の『三分の一』であり、第五以降のラッパによって害を受ける『地に住む者ら』の一部であろう。つまり世界の三分の一を構成するものであり、聖なる者らによって不利益を被る領域である。

さて、そこで先の聖なる者らが聖霊によって語ることを通して最も不利益を被る領域をどこに見出すであろうか。
それこそは旧来のキリスト教界ではないだろうか。

第一のラッパが吹かれることにより、モーセのときのエジプトの第七の災厄のように『雹と火』が生じた。雹の中の火は、その雹が単なる自然のものではない証しに違いないが、黙示録ではそれには『血』が混じっている。つまり、終末での証しは命が関わっていることを示すかのようである。

加えて『地の三分の一』という範囲、また木々や草々の三分の一が焼かれてしまう。聖書では木々が指導層を草々が民衆を象徴すると言われるが、神が聖なる者らに聖霊を与え、彼らが神からの言葉を語るとなれば、確かにキリスト教界はたいへんなことになることが見えている。
 
キリスト教界が唱えてきた「キリスト教」は、聖霊の声により根本的に是正されなければならなくなるのだが、果たしてそれに応じるものだろうか。信仰者個人であれば転向ができないこともないであろうけれども、これが有給の聖職者を含む組織となると、その困難さは想像に難くない。彼らはこれまで持ってきた権威も教えも生計の糧をも失ってまで聖霊の言葉に従うだろうか。それがどんなに難しいことかは同情の余地さえあるものである。

だが、やはり真実にキリスト教を求めるのであれば、『人にとって不可能ではあっても、神にあっては可能』であろう。(ルカ18:27)
しかし、黙示録はその『三分の一』が焼かれると述べる以上、それを期待するのは無理なのであろう。

第二のラッパが吹かれると、『火の燃えさかっている大きな山のようなものが海に投げ込まれ』海は血となり『海の中の生き物(魂)の三分の一が死に、船の三分の一が壊された』。

この燃える山を聖書中に捜すと、あのシナイの山が挙げられる。即ち、契約を結ぶべく神YHWHが降って来られ、全山が鳴りどよめき、燃え上って竃の煙に覆われたというあの山である。イスラエルは恐怖に慄き、神の声を聞くことを願わなかった。

そこで、この燃え盛る山が投げ込まれるとは、契約への違背への責めを象徴されると読むことができるであろう。
但し、黙示録の場合には『新しい契約』に対する違背であり、キリストの犠牲によってはじめて下賜されるべき奇跡の聖霊を自分たちは持っていると唱えてきたのであれば、この責めは免れまい。それこそは『聖霊に対する冒涜』ともなり兼ねない重い責めである。
 
海の船とは、大いなるバビロンに属する『旅商人』(エンポロイ)の件でみたように、この世との渉外に当たるキリスト教関係者や聖職者の職なのであろうか。そうであれば、彼らの生業は存続の危機に面することになろう。ならば、聖徒らの発言とはまことに衝撃的であり、且つ、真実性に於いて確固たるものであるに違いない。⇒「大いなるバビロンの滅び」

第三のラッパが吹かれると、前述のように天から灯火のように夜空に輝く星がひとつ降り、それは川の源に下った。
その星の名は「苦蓬」(にがよもぎ)であり、川の水は苦くされてしまい、多くの人々がその水によって死んだ。

まず、この星というのは、第九章で二度目に『一つの星が天から地に落ちて来るのを見た』と語られているが、この『星』が奈落の鍵を開けており、そこから無数の蝗が現れている以上、これはあのシャヴオート以来のヨエル第二章の再現と見做すことができる。即ち、聖霊によって語る聖なる者らの出現である。
そうであるなら、黙示録の第八と第九で語られる『星』は同じものであり、聖徒らを解き放つ権威を持つ者、即ちキリストを指している。

苦蓬と言えば、エレミヤが自国民がYHWHの声を聞かずバアル神に従っていたことを糾弾する行においてこのようにある。
『それゆえ万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、見よ、わたしはこの民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる』(エレミヤ9:14-15)

これは、神と歩むと公言しながら、異教の神の崇拝を続けた古代のユダの民と今日のキリスト教界とを並べる言葉という他ない。なぜなら、メシアを退けたユダヤ教にもはや神の恩寵は無く、そのメシアを認めると公言する宗教界にこそ、その重責が問われるからである。

確かにキリストのパルーシアにより聖霊の発言が行われるなら、いまのキリスト教界に何の意味が残るだろうか。
その指導に浴することは、もはや命を水を飲むことを意味しないことが暴露されてしまうとすれば、確かに、その教えは誰にとっても甘いものではなく、単なる強権的戒めにしかならず、それを飲んでいれば死に致ることになってしまう。そうして、この地の『三分の一』の領域にはまたもや死が強調される。

さて、第四のラッパが吹かれると、太陽、月、星、という天界の光明の三分の一が打たれてその光を失ってしまう。
光については、古代の宗教的に衰退した様を述べるイザヤの預言はこう云う。
『見よ、主の日が来る。残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。
天の星とその星座とはその光を放たず、太陽は出ても暗く、月はその光を輝かさない。』(イザヤ13:9-10)

『正義はわたしたちを遠く離れ、恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。』(イザヤ59:9)

黙示録の描く終末に於いて、『世の光』を自称してきた『三分の一』に対する強い衝撃を表すが、それはどんな人からでもなく、神とキリストの領域からの宣告による打撃であるなら、その結果として主張してきた光は光ではなく『闇であった』ことになる以外にない。それが偽りであったからである。(マタイ6:23/ルカ11:35)

だが、こうして『三分の一』が暗闇に覆われる中で、太陽と月と星をまとう女が黙示録第十二章に表れている。これこそが聖徒の全体を生み出す女、即ち旧約の『シオン』であろう。即ち、ユーフラテス河畔から解かれた使いたちが向かう先であり、そのうえに神殿を再建する地所である。
その対照は、中世の蒙昧のままに歩むキリスト教世界との異なりを表すであろう。 



◆人類全体への宣告

黙示録のラッパの吹奏で『三分の一』について死に至る災厄がもたらされるのはこの第四のものまでであるが、ここでひとつの警告がなされている。

それは中空を飛ぶ一羽の鷲によって宣告される『地上に住む人々』、つまりは『三分の一』だけではない世界規模の災いの到来がその後のラッパの吹奏によってもたらされることが告げられている。
その後の第五と第六のラッパにより、異様な姿をした蝗害と二億もの騎兵隊の襲来を人類は受けることになる。

蝗害とは、ヨエル第二章の成就であるに違いなく、それは既にあのシャヴオートの日からユダヤ体制について成し遂げられたことであったが、聖霊を受けたキリストの弟子らの出現によって、メシアを退けたユダヤ体制は『責苦』を受けている。

ペテロはサンヘドリンに向かってこう宣告している。
「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、ご自身の右に上げられた。我らはこれらの事の証人であり、神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまたその証人である」。そこで『これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。』という。(使徒5:30-32)

イエスの弟子らに聖霊が降らず、いつまでもエルサレムの片隅に隠棲を続けていたなら、サンヘドリンはナザレの大工イエスを除き去って安泰であったろうが、残された弟子ら、そして離散の民に聖霊が注ぎ出されるに及んで形勢は逆転をみたのである。
奇跡の賜物を得たイエスの弟子らが、力強く宣教に乗り出すと、不信仰ゆえにメシアを退けてしまった体制派は弟子らの活動により耐えがたい責苦を受けたのである。

そして、黙示録の描く終末では、天から降った星が奈落の鍵を開け無数の蝗を煙と共に空中に解き放つのである。
それは人類に対する責苦をもたらすのであろう。「額に印のない人々だけを・・・五か月の間苦しめる」とある。即ち、聖霊の声を人類に聴かせるという段階を指しているのであろう。

この蝗の群れには頭がおり、ヘブライ語で「アバドン」ギリシア語では「アポルオン」、これについてパウロは、出エジプトの最後の災いを下したエジプト全土を通過して初子たちを死に至らしめた、その「滅ぼす者」にこの語を当てはめている。(ヘブル11:28)

それは出エジプトの夜、神が自らのために子羊の血で初子たちを買取った事跡を思い起こさせる。したがって、「額に印のない人々だけを・五か月の間苦しめる」とは、聖なる者らが聖霊を持たないすべての者に罪の宣告を下すことを表していよう。⇒「イナゴと騎兵隊 生死を分ける額の印」

しかし、これらの蝗は去ってゆくべきものであるように、聖なる者らはこの世からの迫害、特に『七つの頭を備えた野獣』という特殊な権力によって倒されなくてはならない。

だが、彼らの意志を継ぐ者たちが現れる。それが第六のラッパの吹奏によって現れる二億の騎兵なのである。
彼らは、聖なる者らが聖霊に霊感されて語る言葉に信仰を働かせ、この黙示録の舞台に登場してくる。

なぜ、そう言えるか。
そこで『大河ユーフラテスの畔につながれている四人の使いを解け』というこの言葉に示唆されることが重なってくるのである。

それこそは、蝗の解き放ちにけっかけを与えるものであり、先の四つのラッパの吹奏を導き出す聖徒らの祈りに答えた香炉の投げ落としによる論争の勃発も関わって、それは『その時、その日、その月、その年』という神の秘められた時に起動されることである。

蝗害は聖霊の降下無くして起こり得ず、天から降った星、奈落の使いアポルオン、そして「より偉大なキュロス」としてのキリストが介在することに違いない。

キリストはキュロス二世のように諸国の宗教を封印したバビロンの二枚扉も開かせ、定められた七十年を満了させるべきその時にユーフラテスの膨大な水量の流れをすら変えさせてしまう。

そのために、城市バビロンに相当する宗教界である「大いなるバビロン」は聖霊の現れに色を失い、神殿再建へと向かう『イスラエルの残りの者ら』を手放すばかりか、『残りの者』に触発された二億もの騎兵である人々の襲撃を受け、特に『三分の一』と呼ばれるキリスト教界は、それに先立って四つのラッパの宣告にある指弾を次々に受けることで、神の前に死ぬと見做すことができる。

キリスト教界を『殺す』のは、主にこの二億の騎兵によるものであろう。
というのも、そこににそう記されたというだけでなく(黙示録9:18)、『四人の使い』である聖なる者らは蝗で象徴されたように五か月という一定の寿命を持っており、その終わりが『七つの頭をもつ野獣』の攻撃に倒れることであれば、『聖なる者ら』はキリスト教界の野獣への使嗾によって地上からいなくなることになろう。

そこで、キリスト・イエスの祈りの言葉にあるような、『これらの者の言葉を聞いて信仰を抱く者たち』の存在が意味を持つのである。(ヨハネ17:20-22/歴代第二6:32-33)

彼らは聖霊を注がれることはないが、聖なる者らに宿った聖霊に信仰を働かせ、『三分の一』に敢然と立ち向かい、これを象徴的に『殺す』のである。

『三分の一』が『大いなるバビロン』に含まれるのであれば、その全き滅びは『野獣の十本の角』によってもたらされるのであるが、その以前に『三分の一』は騎兵隊の糾弾の攻撃を浴び、もはや本来もっていたはずの宗教的意義は消えうせてしまうのであろう。 



◆終末のキリスト教界

キリスト教界の歴史を概観すると、聖霊が注がれていた初代の人々が去るに従い、異教と政治の混濁が避けられなくなっていった様は明瞭に見て取れる。
 
コンスタンティヌス大帝の介入を受けて、キリスト教が政治化してコミュニティの宗教となって以降、キリスト教界としては今日まで本来の姿を取り戻すことなく、メシアの、そして聖霊の伝える教えを離れ、異教を継承する凡庸なスピリチャルな宗教に堕し、それはシュメールの古代のバビロン、創造の神に反対し、悪霊の他神と人間主義のご利益信仰と化し、もはや初代の清い姿はどんな改革運動によっても回復することは望めないであろう。

ほとんどの宗派が自派の正統を唱えてはいるが、そのために却って神意は無視されてゆく。初代のような聖霊を待つ態度を見せず、その姿には神の介入さえ頑なに拒むところを予感させるものがある。

黙示録のラッパが次々に吹奏されるとき、その宣告はキリスト教界にとっては痛烈な批判となるに違いない。
然もなければ、『三分の一』は安泰であろう。
だが、黙示録では七つのラッパの四つまでが、ここまで厳しい宣告を下しているからには、ユーフラテス河畔から解かれる使いたちがもたらすものが徹底した告発であることは避けられそうにない。

四人の使いである聖霊が聖なる者たちにより神からの音信を聴かされるときには、キリスト教界の指導層は相当に試されることになるのであろう。
そこで、何を主体に考えるのか。人か?神か?

これまでに、自らの正しさを主張し続けてきたのであれば、神にこそ真理が属することを肯んじることは易しいことではないに違いない。
神の前に「謙虚さ」を示せるとすれば、そのキリスト教指導者は真に見るべき人格の持ち主であろう。
だが、そう多くは望めそうにない。

黙示録が地の『三分の一』が死に至ると記すのであれば、「キリスト教界」としてメシアの帰還を不可視の『雲と共に来る』キリストのゆえに、それを退けることは避けられないのであろう。かつてユダヤ教界がメシアをその廉潔な姿のゆえに退けたように、自分たちの教理の予想と異なる仕方でのメシアを受入れず、姿の見えるキリストの再臨を期待したり、この世と妥協した教えに閉じこもるなどすれば、ユダヤの宗教家らがしたように、自分たちには予想外の『聖なる者ら』を滅ぼさせ、その悪行は顕在することになる。

『聖なる者ら』を排撃することによって見えないキリストをも退けるとき、キリスト教界は聖霊の言葉にも抗うことになるのであるから、そこで『聖霊への冒涜』は避けられない。
他方で、『聖なる者ら』の聖霊の声に信仰を働かせるなら、それは神に善意を示すことになる。
イエスはこう言われている。
『わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる人、まさしくわたしは言うが、その人が報いを受けないことはない。』 (マタイ10:42)
求められるのは、聖霊の声に神を感じ取る価値観であり、それを通して初めてキリストの臨在を知ることができるであろう。
 
『神と子と聖霊の名によってバプテスマを』とはこの信仰を言うのであって、中世の秘術である三位一体を唱え続けていれば、その「玄義」はいつまでも「玄義」に終わり、それは救いに至らず、却って、滅びをもたらす以外にない。キリスト教理解を妨げる暗黒の壁となるからである。

その一方で、バビロンから解かれた聖なる者らには、シオンに向かって街道が引かれ、清くないものがうろつくこともない。神YHWHはその先頭を行き、殿軍ともなられるという。
これこそは、キリスト教徒が待ち望んできた、真のキリスト教の回復となろう。だが、それは大半の「クリスチャン」の望むようなものではなく、ユダヤ民衆が自分たちの望んだようなメシアをナザレのイエスに見なかったようなものとなるのであろう。

こうしてイスラエルの律法契約不順守から始まり、神殿破壊とバビロン捕囚を経て、神殿祭祀の復興に至る旧約聖書後半を占める事象が、ダニエル書とヨハネ黙示録によって終末に意味付けられていることを読み取ることができるのである。
やはり聖書に大きな部分を占めている捕囚と復興には重い意味があり、それは神の経綸の完成部分に示唆を与えているというべきであろう。即ち、「神の王国」の完成であり、奥義の終了するところについて注意を喚起しているのである。

ユダヤ教とキリスト教の不仲のゆえに、これらは双方から理解もされず打ち捨てられてきたことであるが
旧約聖書の預言者たちの言葉は、古代の復興だけに収まり切らない多くの部分を残しており、それらはヨハネ黙示録を補完するというような次元を超えて、むしろ、黙示録の方が触媒のように作用して、ネイヴィームの多くの言葉を生きたものに蘇らせていると云う方がよいほどである。

これらこそ、人類は知るべきことではないか?
どうして、このブログで収まっていてよいだろうか。 
今も、多くの教会堂では蒙昧とご利益信仰が繰り返されているが、これはどうしたことであろう。 回復はなお遠いのだろうか?

更に、古代の神殿祭祀の復興においてだけでは起こらなかった事柄、即ち、メシアが現れて迫害と共に除き去られ復活し、その後にユダヤ体制が空前絶後の滅びに陥るという部分に相当するところがヨハネ黙示録には含まれている。この点は注目に値する。聖霊を信じる者とそうしない者との違いは、終末にあっても明瞭であり峻厳極まりないものである。

それらには、聖徒らの死と復活が対応しており、この点を描き出すことにおいてヨハネ黙示録はネイヴィームに優って詳細であり、それをパウロの書簡が補完している。そして福音書に於けるキリストの弟子らへの多くの教訓も、自らに続く者としての彼らへの教訓を何度も残しているのである。

ここまでの聖書観に至るなら、聖書という書が、真に契約の民に寄り添い、常に彼らに焦点を合わせ、且つ、彼らに向けて書かれたものであることに疑問の余地が無くなる。

それ以外の誰であろうと、神と契約の民の交渉の記録を通して、神の救いの経綸の進展を確認し、彼らについて知り、その現れを待つ以外に無い。この謙虚さこそが、今のキリスト教に求められていることではないか。

この聖書観に達したなら、誰がキリスト教を改革しようとしても、それは無意味であると断言しなければならない。
それは16世紀であろうと、いまこの時代であろうと変わらない。
神ご自身の定めた時に、その合図の手を挙げられることを待つべきなのである。 

キリスト教徒に今できることは、この観点に到達し、虚しく自己の正統を訴えることを止め、ただ聖霊降下を切に願うほかに何があるだろうか。




            ©2016   林 義平
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