黙示録とテサロニケ書簡が示すもの
1万5千字超  黙示録11.13.18章、テサロニケ第一4-5章、テサロニケ第二2章
<難易度 ☆☆☆☆☆☆ 高>



「携挙」とは、新教系のキリスト教宗派の人々がテサロニケ人への第一書簡の第四章に記されるところによって信じられている終末に起きる事象を指している。

つまり、キリストが帰還するときに生きている弟子らが、『雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいることになる』という句を主な根拠として、信仰に篤い信者らが、ある日キリストに迎えられ、突然に空中に挙げられると期待しているその事柄である。

それは、信仰している「クリスチャン」方に起こる昇天というありがたい「奇跡」であり、その後は永遠に天で主と共になるという。 ⇒(テサロニケ第一4:17)

肝心のその時がいつになるかについては、世に臨む患難の前か後かで議論があるものの、それは突然に来るというところはおおむね一致しているらしい。
ある人々は2016年中にこれが起こると待望しているとも聞く。だが、そのような話は毎年出て来ては消えて行くものとなっている。

その期待には、目出度い「携挙」の発生への待ち遠しさが込められているのであろう。確かに、生き辛い世の中からの解放は早く来て欲しいものであるし、至福の天に入れるとは、まことに有難い教えに思えることであろう。


では、この「携挙」という物事の意義は、単なる信者の突然の救いなのだろうか?
それとも、何か別の深い神の意志が込められた秘儀が関わるのだろうか?
そこでパウロの述べた、生ける弟子らがあるとき突然に空中に挙げられるというこの句の背景を探ってみることにしよう。

ついては、旧約聖書や黙示録などの幾つかの角度からの視点を加えて再考してゆくと、この「クリスチャン」と称する方々の待望なさるところとは異なる終末の「携挙」の姿が立ち現われてくる。それを特に以下に書き出してみようと思う。



まずは、「携挙」の根拠とされているテサロニケへの書簡について述べる前に、旧約聖書の後半を占める一大事業、バビロン捕囚からの民の解放について、古代と終末を旧約と黙示録の視点から確認いただきたく、以下しばらくはそちらの内容をご辛抱願いたい。

さて、黙示録の中で、旧約聖書に描かれるバビロンからの解放が回想され、また敷衍されている箇所がある。
バビロンという城市がその大河を跨いで建設されていたユーフラテスの河畔から、黙示で拘禁を解かれる四人の使いが何者であるかは、その解放に続いて『二億の騎兵』が現れるところに示唆されている。(黙示録9章)
この数字は実数であろうか?黙示録が書かれた当時の推定世界人口が二億であるというからには、当時としてこの数字は大きすぎる。だが、それでも今日の世界人口からすると、この騎兵隊の攻撃目標が 『人々の三分の一』であれば、まったく二億と雖も誇張とはならない数であり今日なら三分の一は20億以上にもなる。やはり黙示録という書は当時を超えた内容を湛えているといえる。

そこで『人々の三分の一』という語が指し示している、二十億以上の人々を抱える集団で思い当たるものといえば、地上の最大の宗教となっている「キリスト教界」がある。それを『殺す』ために、『二億』もの多くの参加者が現れる理由があるとなれば、宗教界に大きな動揺が走るかのような人々の意識の変革が必要となるであろう。⇒ 「聖霊によるキリスト教の回復」

『二億』という数字は、人類の三分の一を占める現在のキリスト教界のさらに十分の一とは言え、やはり小さな数ではない。国民が二億人を越える国家がどれほどあるだろう。(黙示録11:13)
そこで黙示録の記述を当てはめて考えると、キリスト教界に属する膨大な数の人々が、その教師らに従って世界各地で信仰生活を送っている現状を鑑みるに、この黙示の『二億』もの数の人々が、キリスト教界が無意味な偽りを教えていることを暴露し、その教えが死のような利己主義であると暴いてしまうことなど、現状では到底考えられないことである。

だが、福音書が揃って予告するように、『聖霊』を注がれる『聖なる者ら』が地の四方から終末に現れ、まさにキリストに予告されたように、支配者らの前でそれぞれに聖霊によって語り『誰も抗うことも、論駁もできないほどの証し』を行うのであれば、当然ながら世界の衆目を集める事態となり、それまでのキリスト教とはいったい何であったのかが問われることは避けられない。(ルカ21:15/ヨハネ16:8)

旧約聖書でも、預言者ハガイはこの件を述べ、神がいつの日にか、天地を揺るがすと予告されているのであるが、そうすると諸国の宝(のような者ら)が入ってきて、神の神殿を満たすと予告しているが、新約聖書でもヘブル書がこのハガイを引用した上で、神が天地を揺り動かすことを再度言及し、終末に神が語ることに注意を促している。(ハガイ2:6-7/ヘブル12:25-27) 

この件とイザヤとミカが揃って予告する終末の一大絵巻の次の光景は無関係であろうか。
ふたりの預言者は、揃って終末のシオンの山に無数の人々の集まることを予告してこう描いている。シオンとは神殿を戴くべき小山でありエルサレムの土台であるのだが、終末には諸国の人々が神の教えの出所と見做して、そこを目指して流れのように参集してくると二人の預言者は預言しているのである。

このように書かれている。
『終りの日に次のことが起る。YHWHの家の山は、諸々の山の筆頭として堅く立ち、諸々の峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れ、多くの民は来て言う、「さあ、我らはYHWHの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道を我らに教えられる、我らはその道を歩もう」と。律法はシオンから出、YHWHの言葉はエルサレムから出るからである。』(イザヤ2:2-3/ミカ4:1-2)

また、これに関連するかのようなゼカリヤの預言もこう告げる。
『その日には、諸国のあらゆる言語から来た十人の者が、ひとりのユダヤ人の裾を捕えて、「我々も共に行く、神があなたがたと共にあることを聞いたからだ」。』(ゼカリヤ8:23)

 そこでキリストの終末預言にあるように、為政者らの前で語られる『聖霊』の神の発言に諸国民の間で衝撃が起るのなら、儀式や典礼で大仰に振る舞ってきた宗教、特にキリスト教界を意義無きもの、黙示の述べるように死んだものとしてしまうと言っても過言ではあるまい。⇒「聖霊によるキリスト教の回復」 

人々が宗教をいうものを再考し、問い直す機会があるとすれば、それは何であろうか。
信者になれば「天国」でそうでなければ「地獄」との幼稚な教えのキリスト教界に対して、キリストが予告したように、為政者らと対峙し聖霊の言葉を語る弟子らとの差は余りにも大きい。しかも、その証しを『諸国の人々』が聴くとも言われるが、それはいつの時代に起こると語られたのか。人類は歴史上にそのように際立った、全地を揺るがすような発言を聞いたとは言えない。(マタイ10:18)

そのように『聖霊』が再び人々に降下される以上は、その時にキリスト教というものがキリストとの結びつきを回復し、今日の蒙昧の内に分裂している状態から回復される必要があるのだが、それは即ち、キリスト教というものが異教の象徴的中心地であるバビロンの捕囚から解放される必要がある。つまり「天国と地獄」のような異教の教理と決別することである。

まさしくユーフラテス両岸に古代バビロンの城市はあった。黙示録の四人の使いが終末に拘束されているとされる場所でもある。
かつてこの城市は世界覇権を手にし、神と律法契約を結んでいた民、至高の神の崇拝を司っていたイスラエル民族を捕え、七十年に亘って神殿祭祀を中断させた新バビロニア帝国の帝都でもあった。

大王ネブカドネッツァルのときにエルサレムが破壊されて以降、シオン山上に聖なる神殿は存在せず、律法に規定されていた祭祀はまったく中断されていたのであるが、ペルシアのキュロスⅡ世がバビロンを征服して後、エルサレムに神殿を再建してその祭祀を復興するように命じた勅令の発布によって、志ある五万弱の帰還民団がユダの地を目指したのであった。⇒「アリヤーツィオンの残りの者」

その後、神YHWHの崇拝の復興に携わった人々は、周辺諸国民からの反対運動に遭遇して多くの年月を無為に過ごしもしたのだが、やがて神は預言者らを遣わして帰還民を激励し、ペルシア王ダレイオスをも動かし、前515年に至り神殿祭祀も遂に復興をみたのであった。それは神殿破壊の起こった前586年から七十一年目の事であった。⇒「エレミヤの七十年」

古代よりバビロンとは創造神崇拝とは異なる崇拝の中心地であり、死後の世界を教え、死者との交霊を説く宗教世界の中心地であったことからすれば、今日までのキリスト教はバビロンの教えに染まって来たことにおいて、恰もバビロン捕囚に遭っているかのようである。⇒「誤解されてきたバベルの塔」

中世から今日まで、キリスト教界には様々な異教が寄生しており、死後にゆく天界の至福や責苦の地獄ばかりでなく、地母神や母子崇拝、冬至の三日後に誕生する太陽神の祝い、三神崇拝や十字形の刑具崇敬なども含め、挙例すると本質的にはキリスト教独自のものをほとんど失って異教化していることに気付かされる。

今日では一般的にキリスト教の勢いに陰りはあるものの、キリスト教界の教理はローマ帝国以来変わらずに観え、『正統』を称して以て回った伝統や、捏ね繰り回した哲学を誇ることで、バビロンの二重の城壁の奥深くにキリスト教はすっかりと囚われの身でいるかのようではないか。古代に東方からキュロス大王が現れたような大きな事態の変化の無い限りには、やはりこの趨勢もまずもって動かし難い。(黙示録16:12/イザヤ41:2)
 
したがって、キリスト教がバビロンの教えに囚われた状態から解き放たれることが起こるとすれば、それは新バビロニア帝国を短期間に征服したキュロスⅡ世のようなメシアを要することであろう。

預言者エレミヤは、メディア・ペルシアによるバビロニアの没落を預言してこう記した。
『滅ぼす者がこれに臨みバビロンに来た。その勇士たちは捕えられその弓は折られる。YHWHは復讐する神であるので必ず酬いられるのだ。 
わたしはバビロンの高官、知者、総督、長官、勇士らを酔わせる。彼らはいつまでも眠り続けて目を覚ますことはない、とその御名を万軍のYHWHという王が言われる。
万軍のYHWHはこう言われる。バビロンの厚い城壁は無残に崩され、高い城門は火で焼かれる。今や、多くの民の労苦はむなしく消え、諸国民の辛苦は火中に帰し、人々は力尽きる。』(エレミヤ51:56-58)

そのうえで、この預言についてエレミヤは神からこのような指示を受けている。
『あなたがこの巻物を読み終ったならば、これに石を結びつけてユーフラテスの川に投げこみ
それから言え、「バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない。わたしがこれに災厄を下すからである」と』(エレミヤ 51:63-64 )

これらバビロンへの災禍の予告はキュロスⅡ世によって征服されたときに成就を見たかといえば、ユダとイスラエルの解放とシオンでの神殿再建の下命によりYHWHへの祭祀の復興が実現したことにおいては、バビロンの没落は明らかではある。
だがしかし、そのときにエレミヤに語られたYHWHの言葉がその通りに成就したかと問えば、そうも言えないのである。

確かに、『わたしはバビロンの海を干上がらせ、泉を涸らす』とユーフラテス川の流れを変えるキュロスⅡ世の戦法を予告しているかのように読める箇所もあるのだが、『バビロンの厚い城壁は無残に崩され、高い城門は火で焼かれる』ようなことはメディア・ペルシアによる征服のときには起こらず、まして『バビロンは、瓦礫の山、ジャッカルの住みかとなり、恐怖と嘲りの的となり、住む者はひとりもいなくなる。』というようなことも起こらなかった。(エレミヤ51:37)

今日ならば、バビロンの跡地を見るときに、荒涼たるその光景にエレミヤの預言の成就を重ね合わせることはできるのだが、それでも預言を追ってゆくと頚を傾げるようなところが多いのである。キュロスⅡ世の攻略で、城壁は崩されず、街が燃え上がったわけでもない。征服戦の最中にユダの捕囚民も守られたその戦法は、城壁に手を付けずにユーフラテスの河の流れを変えたところにあったのである。

考古学は未だバビロンという城市がどのように終わりを迎えたのかを知らず、アケメネス朝ペルシアでも特に洗練された城市として存続を続け、囚われたユダの人々の大半はキュロスの勅書が出されても依然としてバビロンに住むことを選んでおり、この地のユダヤ人コミュニティは中世期にはバビロニアン・タルムードを生み出すほどに成熟している。その地のユダヤ人の比率の高さは現代のニューヨークのようであったであろう。

民は自由を得て捕囚はそのまま離散となり、ユダヤ人種はこの時代からコスモポリタン化を始め、メソポタミアの公用語となるアラム語を用い、その後はヘブライ語もアラム字体で書かれるようになり、暦の月の名称をはじめ生活上の多くの事柄が以前のヘブライ古来の伝統一辺倒から離れ始める。これを今日に例えると、民の皆が英語も話すことができ、母国語もローマ字で記すというような変化と言えよう。

こうしてユダヤ人にとってのバビロンは本国パレスチナに比肩するほどの文化や宗教の中心となっていったのであるから、民はエレミヤの預言に野暮なほどに偏った敵愾心を感じたことであろう。 そこは洗練された愛すべき大都会なのである。

では、神YHWHによるバビロンへの預言にあった『城壁が無残に崩され、高い城門は火で焼かれ』などの言葉の数々はどう成就するのであろうか。
これらを比喩であると言うには『瓦礫の山、ジャッカルの住みか』とは随分に具象的である。

そこでこれらの言葉に示唆を与えるのが、ヨハネ黙示録の存在となってくる。
黙示録が再度バビロンについて言及することにより、激烈なエレミヤの預言の言葉はそこに再び蘇り、将来の終末について新たな意味を帯びて来ることになるからである。



◆バビロンからの解放
 
ヨハネ黙示録が「バビロン」と言及するときに、それは古代城市バビロンという概念を超えておりそこでは『大いなるバビロン』と呼ばれる大娼婦として何度も繰り返し描かれる。
それは、かつてのバビロンの経巡った歴史上の意味を、それもずっと煮詰めたように凝縮された仕方で再呈示しつつ読む者に訴えかけて来るのである。⇒「大いなるバビロンの滅び」

それに加え、かつてバビロン捕囚からの解放に関わった人々が、世の終末を描く黙示録の中にも暗に描き出されている。
即ち、キュロスⅡ世が描かれ、総督ゼルバベルと大祭司エシュアもそこにいる。そしてシオンに神殿を再建するべく出立する「残りの者ら」の姿さえも黙示録には認められるのである。

だが、ヨハネ黙示録は、やはり古代の事跡を繰り返すばかりでなく、終末独特の事象を予告しているところが現代の読み手の思考を強く刺激するものとなっている。

それは古代の事跡を模型のようにして、将来の全世界に関わる出来事を描き出すという驚異の内容が記されているのであり、旧約聖書に記された歴史を読む者に向かって、それらが将来に意味するものが何かを予告しているのである。

だが、黙示録の記述は旧約聖書に描かれた歴史を順に追って書かれてはいない。それは黙示録というこの書の多くの場所がそうであるように、終末の事象も前後関係を切り離されて散らされている。そればかりか、一つの事柄を繰り返し別の角度から述べるような観点の変更も多い。それが却ってこの書の理解を妨げる閂のようでもある。
 
それでも、バビロン捕囚と解放という一つの事象について黙示録を探ると、実に多くの事柄が示唆されていて、旧約聖書の故事を予型とし、その対型である将来の成就を指し示しているのである。

そこで黙示録に散在する旧約のバビロン捕囚と解放に関わる記述を幾らか書き出してみよう。

まず、イザヤ書から予告されたメシアとなったペルシアの王キュロスⅡ世という人物は、捕囚からの解放に於ける発起人ともされるべき重要な役割を果たしている。

もちろん神YHWHが彼を用いて、神殿喪失による祭祀の中断の空白を置き、予告通り七十年後に再建された神殿での祭祀を復興させたのではあるが、キュロスⅡ世がバビロン征服を果たした二年後に、それまでの新バビロニア帝国の政策を正反対に変え、諸民族の崇拝を復興させ、特にエルサレムの神殿再建に勅令を発したことは、この人物の寛容さの発露であり、その功であったに違いない。⇒「指名されたメシア キュロス」

黙示録の中でも、この大王によるバビロン征服のニュアンスが何度か述べられている。
そこで『ユーフラテス河畔に繋がれている四人の使いを解き放つ』という場面をヨハネは描いているのだが、これはその大河の両岸を跨いだ大城市バビロンの陥落と、それを契機としてユダの残りの者らがシオンを目指す姿が不定の将来に投影されている。

しかも、それはエレミヤが預言した七十年が正確に満たされたように、非常に厳密な時が定められてのことである。黙示録はその四人の使いの解放の時期について『その年、その月、その日、その時刻』のために備えられたとまで言う。(黙示録9:15)⇒「エレミヤの七十年」

それらのアリヤーを目指した者らの中にあって総督ゼルバベルと大祭司エシュアがその中心を成したのであるが、ゼカリヤの預言の中では彼らは二本のオリーヴの木として象徴されている。それらの樹液が燭台の火を明るく燃え立たせるというのであるが、これが黙示録では『二人の証人』として再登場し、終末に現れる『聖なる者ら』の働きが『二本のオリーヴの木』として繰り返されている。

その働きは1260日に亘って滅びの預言を宣告することであり、この『二人の証人』に与えられた権威はモーセとアロン、エリヤとエリシャを含む三重のものに達している。(黙示11:1-6)
彼らが『聖なる者ら』であることは、ヨハネが与えられた葦で測る『神殿で崇拝する者ら』に表されている。即ち、終末に為政者らに聖霊の言葉を語る人々のことであり、彼らは『新しい契約』を守ることが求められているので、一定の基準に達する必要がある。(マタイ10:18/ルカ21:15)

これら『聖なる者ら』を表す総督ゼルバベルと大祭司エシュアを含んだ『イスラエルの残りの者ら』が、バビロンを発ってシオンに向かわせることを実現させるためにやはりキュロスⅡ世の存在は欠かせなかった。では、誰が終末におけるキュロスとなるかについては何の議論の余地もない。

より偉大なるメシア、即ち神の右に挙げられたキリスト・イエスであり、その永く待たれた臨在の開始によって初代キリスト教徒のように聖霊注がれる『聖なる者ら』が再び出現し、将来彼らが世界の注目を集める中で聖霊の言葉を告げることを表しているであろう。

彼らがユーフラテス河畔から解かれるその時ついて、厳密に狙い済ました一時となることを黙示録の『その時と日と月と年』という言葉が強調している。(黙示9:15)
キュロスⅡ世の勅令は前537年に出されたとされているが、神殿の再建と祭祀の復興を迎えたのはその22年後の前515年のことであったとされている。

したがって今日のオリエント学に照らすと、神殿の存在していなかった期間は七十年間となり、ネブカドネッツァルによって前586年に神殿が破壊されて以来71年目にYHWHの神殿祭祀が回復したことになる。⇒「エレミヤの七十年」

そこで終末に於ける『四人の使いら』が象徴的バビロンから解放される時、即ち『聖なる者ら』が初代の弟子ら同様に地上に現れるその時も、綿密に練られた格別の時である必要を知らせているのである。これは聖霊を注がれ、為政者と対峙し、聖霊の言葉を語ることになる格別な聖徒らの出現を指すと観ることができる。
また、彼らの解放の目的は、世界と為政者に対する宣告に終わるものではないことも、この選び抜かれた時に象徴されている。
 
即ち、『四人の使いら』の解放される目的は、象徴のシオン山上に神殿を再建することであり、しかもそれは地上のエルサレムを意味しないのである。
『聖なる者ら』が建設を目指す神殿の隅石はキリスト・イエスとなる天のものであり、その最終的な天界の神殿は新約聖書の記述からも明らかである。
 
パウロも繰り返し教えるように、キリスト教徒は律法を後にし、業ではなく信仰によって『義』を得るのであるから、動物の犠牲は何ら人の『罪』を除かず、いまさら地上のエルサレムに神殿を建てモーセの祭祀に後戻りするべき謂われはまるで無い。(ヘブライ10:18)

そしてシオンを目指した『残りの者ら』が周辺諸国、それも同じくサマリアのような割礼の民からの反対に遭い、神殿再建が遅れたように、終末の『聖なる者ら』にも試練の1260日、42ヶ月が存在する。
その間、諸国民は象徴的エルサレムと神殿の中庭を蹂躙すると黙示録は語っている。(黙示11:2)

これは『聖なる者ら』が聖なる崇拝をそれまでの間行えないというのではない。なぜなら、アリヤーの大祭司エシュアはキュロスの勅令の年の内にシオン山上の神殿跡地に祭壇だけは築いて中庭での祭祀の一部を行い始めているからである。それも、周辺諸国の醸し出す不穏な情勢が後押しをしていたとエズラが語っている。(エズラ3:2-3)

だが、この日毎の犠牲も仮のものというべきである。なぜなら、神殿が存在しないために至聖所が無く、スッコートの祭りは行えても当面『贖罪の日』の祭儀が行えなかったのであり、そこで祭司らの贖罪も済んでおらず、その聖性は仮のもので未確定であった。マラキの予告した『レヴィの浄め』は済んでいなかったのである。それで黙示録のヨハネも『崇拝する者らを測れ』と命じられている。(マラキ3:3/黙示11:1)
 
そしてこのことは、終末に現れる『聖なる者ら』の地上の身分と相似関係にあると言える。彼らが天界に挙げられ主を隅石として神殿を構成するか否かは『新しい契約』を生涯に亘って守るかどうかによるのであり、地上に居る限りには試みを経る必要があり、その聖性も未確定なものである。

そのため聖書は、終末のキリストによる聖徒らの検分の後に、なお地上に残される脱落聖徒が存在することを新約の中で繰り返し警告している。それは『ひとりは連れてゆかれ、ひとりは残される』というキリストの終末預言にも警告された選別である。



◆聖なる者らへの試練

さて、『聖なる者ら』の最大の敵が『七つの頭を持つ野獣』であることを黙示録は告げている。
これはサタンが七つの頭を持つ赤い龍に象徴されるところと類似しているが、この分割された頭はサタンの持つ利己心と関係しているであろう。

即ち、神はキリストを通してすべてのものを一つ(のオイコノミア)にまとめ上げ創造物全体に忠節な愛の一致をもたらし得るのに対し、利己心を抱く者らに一致なく、常に分裂と闘争を繰り返すのであり、それはこの世の実相そのものではないか。(フィリピ2:1-11/イザヤ57:20-21) ⇒ 「オイコノミアと七つの頭」

七つという完全数は、それでも何とか全体をまとめ上げた姿を指していると見れば、その見かけ上の一致も非常に脆いものであり、それは最終的にハルマゲドンの同士討ちで露呈することになるのであろう。
だが、分裂気味でもこの世が一つに何とかまとめ上げられることに世人は却って感心してしまい『誰がこれと戦い得るか?』と讃嘆の声を上げるというのである。(黙示13:1-4)

黙示録によれば、この野獣は、サタンとその一党が天界を追われ地に落された後に生じているのだが、このきっかけを作ったものは象徴的サラの出産が終わり、すべての『アブラハムの裔』、『選ばれ、召された者』即ち『聖なる者ら』が『男児』の誕生をもって現れたことに由来することを黙示録12章は暗示している。しかし、これは『新しい契約』に預かる者の全体が地上に現れたということにはなっても、天界でのイスラエル12部族の十四万四千人が選ばれて揃ったということにはならない。(黙示7:4)

『新しい契約』から篩われる脱落聖徒は少なくないことをイエスは『召される者は多くも、選ばれる者は少ない』と語られ、やはり『ひとりは連れて行かれ、ひとりは(地上に)残される』とも予告されたのであるから、聖霊を注がれる人々の総数は十四万四千人を越える相当な人数となるに違いない。(マタイ22:14)

これらの『聖なる者ら』のすべてが終末の主の臨在を以って地上に登場すると、地上のすべての家族の祝福となるというアブラハムの裔がサラによって生み出され尽くしたことになる。(ペテロ第一3:6)
彼らの活動期間は42ヶ月という短期間に定まっている以上、 『聖なる者ら』が長い時期に亘って少しづつ現れるわけもない。一国民が一気に生み出されるのであるに違いない。(イザヤ66:8)
それは『契約を保ち結ぶ』というダニエルの啓示されたメシアの役割が果たし終えられる時とも言える。(ダニエル9:27) 

それによって『神の王国』の権威が実現することになるのであろう。これは天界でのサタンの地位を失わせ、神の前でキリストの兄弟らを終始訴え続けることを不可能にしてしまう。即ち王権を確実にしたキリストは、依然戴冠してはいないものの、王の継承権をその共同相続者全体と共に手中したことになるのであろう。⇒「黙示録の四騎士」

このため地に落された龍であるサタンは、『聖なる者ら』を生み出した母体である女シオンを攻撃するのだが、これは地上の諸権威が許さない。即ち、サタンの放った川の奔流は『地が口を開いて呑み込んでしまう』。これは人権を擁護する世論によるものなのか、それほど『聖なる者ら』への賛同者は多いのだろうか。そればかりか、女シオンは三時半の安全を得るのであった。(黙示12:15-16)<但し、三時半の後は別である>
そこで龍は攻撃目標を『聖なる者ら』に絞り込み、『七つの頭を持つ野獣』を遠い過去から呼び出すことになる。

それは現存の地上の権力を糾合したものであり、疑似的世界統一権力のようなものであろう。即ち、ニムロデの野望の再現である。 ⇒ 「誤解されてきたバベルの塔」
『七つの頭を持つ野獣』は『聖なる者ら』が1260日に亘る預言の期間を終えると、それを攻撃して殺してしまう。地からの日毎の犠牲はそこで絶える。(黙示11:7/ダニエル11:31)

こうして『聖なる者ら』が滅ぼされると、多くの人々はそのことを大いに喜び、贈り物さえ交わすという。それほどまでに『聖なる者ら』の宣告は世の人々を苦しめることになるからである。彼らの宣告が人々に苦しみとなることは、黙示録第九章の五か月に及ぶ蝗害の記述も補足しているが、この世を断罪する聖霊の言葉とは、そこまでも激烈な痛みをこの世にもたらすのであろう。(黙示11:10/9:4-6/ヨハネ16:8-11)
確かに、ヨエルの蝗害の預言は、末の日の人々に聖霊が注がれることと関連付けている。(ヨエル2章) 

一方、野獣によって殺された『聖なる者ら』は侮辱と見せしめのために墓に葬られることなく、その死体は『霊によって、ソドムあるいはエジプトと呼ばれる大いなる(メガレー)城市の大通りに置かれる』という。(黙示11:8)

この『大いなる城市』とは、『大いなる(メガレー)バビロン』のことではないようだ。ソドムは裁きに価するその背徳性を、エジプトは神の民に対する圧制と虐待を言い表しているのであれば、神の民を虐待した世界とはかつてのユダヤ教界と将来のキリスト教界と言わざるを得ない。即ち、自分たちをして正しい崇拝の徒であるとする世界である。ましてここで黙示録の著者は『彼らの主もそこで磔刑にされた』と霊感によって語っているが、それは人間の義を誇り、傲慢な敵意を特徴とする宗教世界であることが示されているように読める。

彼らの死体は三日半の間放置されるが、それは腐臭さえ放っていることであろう。(ヨハネ11:39)
だが、それでもこの者らには『神からの命の霊(息)が彼らに入り込み、その足で立ち上がる』というのである。それゆえ『眺めていた者らにはこの上もない恐怖が襲い掛かる』ことになる。(黙示11:11/エゼキエル37)

『聖なる者ら』は殉教も覚悟せねばならないことは聖書に何度も語られているところであり、主イエスも『自分の魂を守ろうとする者はそれを失う』とまで言われる。(マタイ10:38-39)
終末を描くダニエルの幻でも、第四の獣から生じるところの『小さい角』が『聖なる者を攻めて滅ぼす』ことを告げている。(ダニエル7:21)

そうであれば『聖なる者ら』が受ける『滅ぼし』は権力によるもので徹底的なものになるのであろう。 
しかし、それでも全員が殉教するというわけではないことをパウロがテサロニケへの手紙の中で次のように明かしている。

『主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに・・その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。』(テサロニケ第一4:16-17)

こうして、多くのキリスト教徒に自分たちが天に挙げられて救われるという、ありがたい「携挙」とされている部分に到達することになる。

だが、これを聖霊の理解に照らせば、キリストが信者を迎えに来て天国に招くという単純で安楽な夢想とは異なるものとなるのである。そこで、新教系の「クリスチャン」方が「携挙」によるご自分の幸せを願う前に、神が聖書を通してこの件をどう描いているかを、ここで是非とも別の視座に就いて暫し眺めて頂きたいものである。

それは聖書全体から、つまり旧約から黙示録を貫いてテサロニケ書簡に描かれたこの「携挙」とされる内容を広く俯瞰することであり、その聖書の描く光景を一度ご覧の上でご判断頂きたく思う次第である。

さて、テサロニケへの書簡で、パウロは当時までに死亡した仲間の『聖なる者ら』がキリストの再来を見ずに逝ってしまった人々についての慰めを述べている。そして同時に、キリストの臨在のときに彼らが地上を去る時に起こる事柄をも略述しているのである。

前述のように、終末の裁きには、まず『新しい契約』に属する『聖なる者ら』への裁きがある。これは天でキリストと共になり『神の王国』を相続するところの、聖霊注がれた『神のイスラエル』となる人々の選別が起こり、終末のそのときまでに死んだすべての聖徒の裁き、それからそのときに地上に生き残っている聖徒らの選別が起こる。(ダニエル12:1-2/黙示7:3)
引き続いて、この世のすべてが裁かれることになる。(マタイ25:31-32/黙示11:18)

テサロニケ書簡の書かれた当時の『聖なる者』らは、キリストの再臨は近いと理解していたが、この頃は主の帰天からすでに十五年が経過していたのであり、彼らの早い時期のイエスの帰還の予想は外れてはいたが、キリストは黙示録でこれから四十年後になお『わたしはすみやかに来る』と改めて言われる。

即ち、時の不可知性は彼らの裁きに関わっており、不完全な彼らに在って忠節を保つべき期間は永遠であって、契約の遵守も生涯に及ぶものでなければならない。いつになったら終わるかと、その「時」の予想を立てることは的外れなばかりか、忠節を全うすることから『聖なる者ら』を逸らし兼ねないものであろう。主への忠節とは、時に追い立てられる切迫感とは無縁のものである。

そして、死せる『聖なる者ら』が天に復活するときに、地上に生き残る聖徒らも居ることは、このパウロの書簡からも、また主イエスの『ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される』の言葉にも表れている。終末での『聖なる者ら』の選別はなお地上で行われるからである。

初代の弟子らには聖霊が注がれており、イエスはその霊を通して彼らを導くという「監臨」を終えてはいなかった。それゆえパウロは聖霊によりテサロニケ後書を記して、『背教』が来て後に「主の日」が来ることを教え、『彼(不法の人)が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。』 と述べ、その『阻止しているもの』については『あなたがたが知っている通り』であるとも言い添えている。

その『阻止しているもの』こそは彼らに注がれていた『聖霊』を表していたに違いない。それを「知らない」とは言えるものではないからである。また、『阻止している』とは彼ら自身を指すであろう。(テサロニケ第二2:6-7)

したがって、終末で『聖霊の賜物』また『聖なる者ら』が絶えたところで、『不法の人』の現れと裁きの『主の日』となるということになろう。
それらの事象は初代の弟子らの時代には起こらなかったし、 彼らが世を去って後も『不法の人』をはっきりと認識する出来事には歴史上至っていない。なぜなら、未だそれらは存在していないからであり、『主の日』は現在まで来ていないからである。

他方で、終末の『聖なる者ら』については、ユーフラテス河畔から解放されてその裁きの時を迎えるまでが字句通りに42ヶ月と三日半であるとすれば、『主の日』の裁きは一定の短い期間をもって確実に到来することになる。
三年半程度の期間は長いとは言えず、殉教さえなければ多くの『聖なる者ら』がひとつの世代の間に生き長らえているに違いない。

したがって、テサロニケ書簡の述べる『天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響く』その時に、地上に生きる『聖なる者ら』が少なからず、おそらくは数万の人々が天に挙げられると見ることができる。
それは『死せる者と生ける者を裁く』主が死者に声をかける時であり、『神のイスラエル』の『十二部族に証印を押す』時となろう。その後、地上に惨禍が臨むことになる。(ヨハネ5:28/黙示7:2-3)

したがって、『聖なる者ら』が天に挙げられる時は、世の最終的裁きの『大患難』に先立つが、然りとて彼らが迫害を逃れる訳でもないことになる。
言い換えれば、 天に挙げられるのは、確かに「神の憤り」からは逃れるものの、「世の憤り」の矢面に彼らは立たされ、そこで試みられ、主に続き自己犠牲を体現して『世を征服する者となる』ことが求められているのである。(黙示2-3章)

それは、彼らが為政者らと対決して聖霊の言葉を恐れずに語るか否かによるのであり、所謂「クリスチャン」方がキリストの御傍に救われ大患難を逃れるために保護されるというだけの有り難いご利益とはならない。
むしろイエスは、『聖なる者ら』が恐れに屈して自らに従うことを止めてしまうことのないようにと繰り返し諭しているのである。 

『聖なる者ら』の選びの過程では、主ばかりでなく十二使徒がその裁きに参与することは、あのニサン十四日の『主の晩餐』で約されたことであるから、十二使徒らは死せる『聖なる者ら』より更に早い復活を天界に得ることになろう。(ルカ22:28-29/マタイ19:28)⇒ 「主の晩餐で忘れられてきた二つの事柄」

そうして死した『聖なる者ら』が主と十二使徒によって吟味されて裁かれ。『善いことを行った者は命の復活へ、悪しきことを行った者は裁きの復活へ』と出て来ることになる。(ヨハネ5:29) ⇒ 「十人の乙女・盛大な晩餐の例え」



◆『聖徒』と『信徒』の異なり

だが、『聖なる者ら』の聖霊による発言に信仰を働かせながらも、聖霊を注がれることの無い人々も存在する。
この人々についてイエスは祈りに含めてこう語っていた。
『わたしはこれらの者らだけでなく、彼らの言葉を聞いてわたしに信仰を持つ者らについてもお願い致します。』(ヨハネ17:20)

前者が聖霊を注がれる『聖徒』(ハギオス)であれば、後者は信仰を働かせる『信徒』(ピストス)と言える。なぜなら、その文脈で『これらの者ら』には『聖別される』ことが記され、主イエスは自らを『聖別する』と語られており、これは『清める方も、清められる者たちも、皆ひとりの方(神)から出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない』とのヘブライ人への書簡に彼ら『聖なる者ら』の立場が実によく描かれている。(ヘブライ2:11)
聖化されることにより、彼らは間違いなく「キリストの兄弟」なのである。(マタイ25:40)

この聖徒と信徒の違いが理解されない限り、創世記から黙示録へと連なる神の経綸をつぶさに眺めることは不可能となろう。
なぜなら、アブラハムの子孫に与えられた役割が『聖徒』にあり、彼らは『地上のすべての家族の祝福』に関わる者らであり、『信徒』はその祝福に預かる者らとなるからである。(創世記18:18/出埃19:5-6/ペテロ第一2:9)

それゆえ、イエスはマタイに記された終末預言の中で、この両者の関係を、迫害に遭う者と、それに親切を示す同調者という類比を用いているのである。そしてそのような親切を示す者らとは、即ち聖徒の言葉に信仰を働かせる者らに違いなく、彼らは聖徒らが天に召集された後に、地上の裁きの根拠として「キリストの兄弟らに親切を行った」者を祝福に、そうでない者らを呪いへと分けてゆかれるのである。(マタイ25:31-)

そして黙示録の第九章の中にもこの双方の存在を見る。
例えれば、ユーフラテス河畔から解放される『四人の使い』の登場によって別に導き出される『二億の騎兵』がそうであり、地の底から湧き出る蝗が去った後にこの騎兵が蝗に似た活動を展開するところに表れている。(黙示録9:1-11)

また黙示録の第十二章では、地に落されたサタンの攻撃を受けるところの聖徒を生み出した『女』がいるが、サタンはこの攻撃に失敗し、この『女』は荒野に逃れて『三時半』の安全を得ると書かれている。即ち、聖徒と野獣の活動の間のことである。(黙示録12:14)
だが、その一方で『聖なる者ら』には苛烈な迫害が臨み、遂に死に至るというのである。

それであっても、『聖なる者ら』への強い迫害があるからと言って、このキリスト教理解を恐れてしまう必要はない。聖徒には主イエスから格別の心の平安と、天への召しへの強い願いに満たされることが知らされている。(ヨハネ14:27)

イエスも殉教を前に動揺しなかったわけではないが、ひとたび祈りから身を起こすと敢然と捕縛隊に向き合い、その決意した様に気圧され、後ずさりして転ぶ兵士さえいたというのである。

主イエスの示した神と人への無私の忠節さは、何者も侵し難い崇高さに満ちていたに違いない。
その姿に、やがてステファノス(冠)の殉教を嚆矢として『聖なる者ら』の尊い犠牲の数々が主に続くことになってゆく。(詩篇116:15)

彼らはまさしく『聖なる者ら』であり、それはカトリックの聖人伝説に在って、聖霊の奇跡を行い、見事な殉教を遂げた初期の人々として痕跡を留めているのである。

これらの人々に対して、将来その奇跡と聖なる言葉との信仰を働かせる一人となる機会は今後開かれることになるし、今日でも、聖書の記録を通して、かつての聖霊の言葉に信仰を抱くことができるのである。

それは自分に益を求めるご利益信仰としてではなく、キリストのような神への忠節と自己犠牲を表す人々への深い尊敬の篭った信仰を抱くことであり、聖徒が現れていない現在であっても、その到来を待ち望んで、主イエスの来臨に備えてバプテスマを受け、また『主の晩餐』をしつらえ、その心を整えた民の一員となることはできるのである。

『聖なる者ら』がキリストに続いて迫害に遭い、天での立場を得るために試練に晒されるにしても、信徒については聖書中でシオンという『女』で描かれ、神は自らこれを『火の城壁となって守る』と言われるのである。(ゼカリヤ2:5)

イザヤはこう預言する。
『さあ、わが民よ、あなたの部屋に入り、あなたの後ろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。
見よ!YHWHはその在らせられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。』(イザヤ26:20-21)

サタンはこの女シオンを二度攻撃するように終末預言は読めるが、その攻撃はどちらもまったく効果をあげないことを待望できるのである。⇒ 「二度救われるシオンという女」
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それを思えば、アブラハムの子孫、『神のイスラエル』の一員、『聖なる者』(ハギオス)であるということは、実に崇高な犠牲を備える人々であることがいよいよ明きらかになるではないか。主の自己犠牲に続くこの人々に是非とも親切を施し、その側に共に立って支持を表したいと思えないだろうか? これぞまさしく『国々の民よ、主の民のために喜び歌え』という広く知られた言葉の真意ではないか!(申命記32:43/コリント第二1:8-11)

だが、彼らの直面する試練の厳しさに対して、『信徒』(ピストス)であれば顧客のように振る舞いたいと願うだろうか?もしそうなら、その人には『聖徒』の自己犠牲の精神から益を受けるべき資格など到底無いであろう。(コリント第二5:15)

むしろ、試練に直面する『聖徒ら』を助け、必要を満たし、慰めるなど、あらん限りの善意を示し、その精神に共鳴し、神の経綸に幾らかでも協働したいと願わずにはいられないことであろう。神が是認を与えるのはそのような信仰の持ち主であるに違いない。(マタイ10:42/25:37-40)




◆「携挙」と誤解される天への召し

さて、ご覧の様に、黙示録は『聖なる者ら』の天界への召しを、終末での迫害と殉教の側面から描き出している。

『七つの頭を持つ野獣』が『ふたりの証人』とされる『聖なる者ら』を殺すと、人々は喜び、一方で彼らは蔑視の対象とさせるべく墓に葬ることを許さず大通りに晒し者とされる。
だが、三日半の後に起こる彼らの復活は多くの人々を恐れさせるものになるということである。(黙示録11:7-13・13:1-7)

それでもこれは、死んだ『聖なる者ら』が霊体への復活を遂げることを通して人々を恐れさせることではないようだ。
確かに黙示録は、彼らの死して三日半の後の復活について『その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。』と書いている。(黙示11:12)

これはテサロニケ書簡でパウロが書いたところの『聖なる者ら』の天への召し挙げであろう。テサロニケ第一書簡の宛てられた人々が『聖なる者ら』であることは同じ第四章の中で、彼らが聖霊を賜っている人々であることを述べている。(テサロニケ第一4:8)

だが同時に『聖なる者ら』が天に挙げられることを『わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ』とテサロニケに記しているところは、黙示録の『雲に乗って天へ上った』としているのと同じである。これらは共に彼らの天への召しが人に見えないことを教えていよう。(テサロニケ第一4:17)

これは『雲と共に来る』というキリストの臨在と同様の言い回しであり、キリストの臨在がこの世の裁きに関わるゆえに見えないように、やはり『聖なる者ら』の天界への召しも肉眼では捉えられないということになろう。(マタイ26:64/使徒1:9-11)

では、どのように『敵たちはそれを見た』と言えるのであろうか。(黙示11:12)

確かにパウロも『肉的な人は霊の事柄を理解しない』と言う。(コリント第一2:14)
それゆえ、『敵たち』も肉的な観点からのみこれを見るばかりに違いない。したがって、敵らが見るものは死せる者らの霊体への復活ではなく、生ける『聖なる者ら』の動静であろう。

パウロが記したように、ある時を以って生ける人々が天に挙げられるのであれば、当然ながらある人々が地上から消えることになる。敵が彼らをどれほど捜せども見出すことはない。

黙示録の続く句はこのように言っている。
『この時、大地震が起って街の十分の一が倒れ、その地震で七千人が死に、残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。』(黙示11:13)

まず『七千人』という人々については、エリヤに残された『その膝がバアルに屈まなかった者ら』を示唆しているであろう。(列王第一19:18)

そこでパウロもこれを引用した上で『それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。』と言うのであるから、この『七千人』とは『聖なる者』を異教からの清さの象徴として黙示録で述べていると見て良いであろう。即ち、キリスト教界の異教の汚れを避けた僅かな『残りの者』の人々となるのである。(ローマ11:4-5)

異教からの清さはこの黙示録の文脈で適切と言うべきものがある。殊に大地震が起こった街(ポリス)がキリスト教界を特に表しているのであれば、その約二十億とされる今日の信者数の『十分の一』である黙示録第九章に描き出された『二億の』騎兵の出処にも見えてくるものがある。『十分の一』はキリスト教界とは袂を分かつ以外に無いからである。(黙示録9章)

大地震の変革が臨むとき、キリスト教界から十分の一が『倒れてしまう』が、もはや、その部分はその城市の一部となることは二度と無いであろうし、それが聖徒らへの攻撃の完了を意味するのであれば、これらの聖霊の言葉に信仰を働かせた人々は「キリスト教界」から除名や排斥の処分さえ受けるのかも知れない。いまさら、「死のような」宗教に残りたいなど思いもしないであろう。

しかし、より衝撃的なのは地上の『信徒』の宣教の嵐よりは余程『聖徒』の行方知れずであろう。
これを理解するには、まず、上記黙示録第十一章十三節の句の『その地震で七千人が死に』というところで翻訳上に再考の余地がある。
 
というのも、本文を直訳するとなると『その振動の中で七千の人の名が消された』となり、消され(殺され)たのは人ではなく、その文中で主格をとっている「名」(オノーマタ)の方であって、「人」(アンスゥローポーン)は属格をとっているのである。⇒「キュロス大王の意義」
(これをヘブライ語的表現と言い切るには無理があるであろう。なぜなら、人数を表す場面で名を関連付ける例が新約中に他に無いからである) 

おそらくこれは欽定訳以来の習慣で、人々の理解を促進するためだったのであろう。もちろん、地震で人の命が失われると捉えることが自然であり、「名前」という概念は関係がありそうには思えない。
使徒ヨハネが晩年を過ごした小アシアは特に地震の危険地帯であった。

しかし、この文章はかの「黙示録」なのであり一般常識を通用させようとするのは要注意であろう。ここを聖霊理解から解釈を進める場合、これは本文にある「名」を取り去らずそのままに訳した方が余程に理解し易いというべきか、『この巻物の言葉を取り去る』ことに注意しなければ、この『地震』と聖徒の天への召しとを結ぶ紐帯が取り去られてしまうことになろう。(黙示録22:19)

即ち、『聖なる者ら』の天への召集が起こり、忠節の内に死去した者らも、地上で契約を全うした生きた者らも『雲のうちに』天に昇る。つまりそれは肉の目に見えるところではない。
地上の肉的な『敵ども』は、生ける『聖なる者ら』についてのみ起こった驚嘆すべき事柄に気付くばかりである。
密告を受けた当局者やらが血眼になって捜し求める『聖なる者ら』は誰も見つからず、やがて彼らが揃って地上に存在しないことに気付くのであろう。

『それを見る』とは彼らにとって恐るべき異兆となる。役所は彼らの戸籍を抹消、あるいは警察も所在不明の扱いをせざるを得なくなるのであろうか。彼らの死体さえ主イエスのように見つからないことであろう。迫害するために手配された人々を捜索し、令状を持ってあちこち踏み込んでも、頑なに妥協しなかった『聖なる者ら』の姿がどこにも無い。そこで顔写真を揃えて公衆に協力を依頼するなら、それは意図せずにその不思議な噂を広めてしまうことであろう。そこでキリストの時のような口止め料が払われるのだろうか。(マタイ28:11-15)

即ち、殺されるのは七千の「人」というより、その人々の「名」である方が恐るべきことになる。公権力が彼らを抹殺したのなら捜す必要も無いのだが、死亡診断書も葬儀もないその死はどこにも見つからないので、捜すほどに権力者の殺意はいよいよ明らかとなろう。

おそらくはこのような所在不明により、異教に屈しなかった象徴的『七千人の名』が消去されるが、同じグループに属する聖なる人々の一斉の行方知れずの不思議は人々に様々な衝撃を与えるようである。
捜せば捜すほどその奇妙さは増幅するであろうが、忘れ去られない謎となるのは、彼ら『聖徒ら』の語っていたことに信仰を抱く『信徒』となった多数の人々の存在と、その人数が増えてゆくことであろう。聖徒らの超自然な不在は、信徒らの信仰を更に燃え立たせ、この世に徴を加えることにもなろう。即ち、不信仰な世に対する決定的な『ヨナの印』のようになろう。(マタイ12:39)

そこで『残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した』というところは、多くの人々が『聖なる者ら』の聖霊の言葉の確かさをここで悟っているのか、あるいは一向に反対し続けていて、依然存在している『大いなるバビロン』の自分なりの宗教に崇拝を捧げるよう動かされたのかは本稿の筆者には未だ判然とはしていない。(黙示録11:13)

もし、『天の神に栄光を帰した』という言葉が、福音書に再三見られる、キリストの奇跡を見た群衆の反応を表しているのであれば、また、キリストの死に立ち会い、畏れの内に『「この方は、まことに神の子であった」』と言って『神の栄光を讃えるようになった』ローマの百卒長が投影されているのであれば、捜査を行っている官憲の中からさえ、信仰に向かう者が出ることを述べているのかも知れない。(マタイ27:54/ルカ23:47)

あるいは、殉教した聖徒の墓を暴いてみるようなことでもあれば、おそらくキリストのようにその肉体が消えているという事もあるのかも知れない。そうなれば、これは権力者に恐怖を誘いさえするに違いない。 これは、黙示録での聖徒の屍が野晒しなのであることと関係するのかも知れない。

もし前者であるなら、五か月の蝗害の後の二億の騎兵の件と通じるものがあることにはなろう。残りの者である七千人が『聖なる者ら』を表し、キリスト教界を揺さぶる大変革が起こるときに彼らが皆死んで、そこでキリスト教界の十分の一の数に相当する二億の騎兵がキリスト教界から分離する。

黙示録の『二億』という膨大な人数は、ヨハネの当時の推定世界人口にほぼ匹敵している以上、この数が象徴であるとしても、当時には関わりを持たずに終末の数を表すに違いない。世界人口が揃って騎兵なら、誰を攻撃するのだろうか。
 
そして、この二億もの騎兵は『三分の一』に襲い掛かり、それを『殺す』ことになるのであるが、これら巨万の騎兵を生じさせるきっかけを作ったのは、ユーフラテス河畔の『四人の使い』の解放なのである。彼らが『蝗』であったことはその働きからも、蝗としての五か月の寿命で過ぎ去り、(天に)去るところにも、彼らが『聖なる者ら』であることが表されている。

こうして理解は一巡することになる。やはり黙示録は時系列に沿って語ってはいない。



◆バビロン荒廃の予告の成就する時

『聖なる者ら』にとってこの天への召しはある意味に於いては突然に起こるのではあるが、それまでの42ヶ月の宣教と、何者か現在は分からないながら『七つの頭を持つ野獣』の攻撃の著しい高まりと、権力と妥協してしまう『聖なる者ら』の中からの脱落者の現れ、即ち『背教』が起こり、内部からも裏切り者が生じる事態など、その42ヶ月の間にも様々な事が次々に経る事を通してある程度の時期については分かるに違いなく、その意味ではパウロが言うように、世人に『その日が突如として臨み、逃れられない』ということは彼らにに起こることはなく『不意を打たれるようなことはない』ことであろう。(テサロニケ第一5:3-4)

ダニエル書はこのように言う。『聖なる民の力が打ち砕かれる時に、すべての事は尽く成就する』(ダニエル12:7)
そこで、『聖なる者ら』が『七つの頭を持つ野獣』というこれまでに存在してこなかったような全球的権力の集合体に攻められまったく打ち砕かれる時、そこで『新しい契約』はその役割を果たし終え、天界に『神の王国』を成就することになるといえよう。それは恰も、彼らの主イエスの殉教の死がサタンを無に帰せしめたようにである。

その迫害による殉教は『聖なる者ら』に『レヴィの浄め』をもたらすことになり、天からの声は生死に関わらず彼らを天に召し挙げることになる。したがって、『聖なる者ら』は象徴的に『殺される』としても、そのすべてが殉教によってまったく死に絶えるという事態にまでは進まず、あるところで『ラッパ』が吹かれ残りの者らも天に召されることになる。

既に死んだ聖なる者らの復活には『先んじない』ことをテサロニケへの書簡にパウロが書いており、それゆえにも、終末には忠節の内に死した古代の『聖なる者ら』は、この天への召しよりも早くに霊体への復活を遂げ、天に居ることになろう。

終末の聖なる殉教者らもそのときに召され始めるので『今から後に主に結ばれて死ぬ人は幸いである』との黙示録の言葉は、古代の『聖なる者ら』がこの天への召しよりも早くに復活を得ていること、また、終末の迫害で殉教する将来の『聖なる者ら』も、その天に共に集められることを指すのであろう。(黙示14:13)

しかし、すべての『聖なる者ら』の全体が天に揃うのは、最後まで地上に残った『聖なる者ら』が天に召されるときのことになる。すなわち、聖霊で語った彼らを反対者らが捜しても見つからなくなるときのことである。 
 
そこで脱落しているものが出るとしても、人々は手配中の者らが消えたことに気付く。それはキリスト教界に癒し難い衝撃を与え、二億の騎兵を生じさせることになるのであろう。⇒「黙示録のイナゴ」
 
多くの騎兵がキリスト教界を攻撃し激しく糾弾するので、『大いなるバビロン』が頼みとした無数の信者、つまり膨大量の水も引いて乾いてしまい。それはいよいよ『日の出る方から来る王たちに対し道を備える』ことになる。即ちキュロス大王と同盟軍のバビロン攻略であり、将来には野獣の『十本の角』で表される公権力がその役目を担い、そうして野獣を慫慂して『聖なる者ら』を亡き者としたすべての組織宗教に対する滅びが目前に近付くことになろう。 ⇒ 「大いなるバビロンの滅び」

ここにおいてバビロンは『城壁は無残に崩され、高い城門は火で焼かれ』『瓦礫の山、ジャッカルの住みかとなり、恐怖と嘲りの的となり、住む者はひとりもいなくなる』とエレミヤに言われるべきものとなろう。黙示録に於いて『大いなるバビロン』は『聖なる者ら』を亡き者とした責めを負い、二倍の報復を受けねばならなくなる。それは『聖なる者ら』が迫害に倒れるまで忠節を保って天に召された後、この大娼婦が野獣の角の部分によって徹底的な破滅を被るときに起こることである。(黙示17:16)
 
そして黙示録はエレミヤの預言の水面下に消える石のモチーフを繰り返してこのように言う。
『ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。』(黙示18:21-24)

野獣に『聖なる者ら』を滅ぼすように慫慂した『大いなるバビロン』が石のように水面から消え去って沈むように、急速に過ぎ去って二度と存在しなくなるのは彼らの召しの直後のことであろう。

それに続いて脱落聖徒らによると思われる、テサロニケに予告された『背教』はいよいよ高まりを迎え、神をも超える『不法の人』を招来するが、ここに於いて、キリスト教界の宗教組織は過去のものとなっても、依然としてその教理が後を引くであろうことが見える。人は容易には信仰心を変えないからである。

『不法の人』とは即ち、脱落聖徒の一人であり、サタンの霊力を受けて劣った奇跡を行い、キリストの「地上再臨の教理」を利用してアンチ・クリストとなるであろう何者かのことである。
アンチ・クリストとはキリストに成り代わる者の意であり、衆人にキリストと認められたからには、次いで「三位一体信仰」の抜けない人々を用いて自らを神と宣することができる。

そこで主イエスが繰り返し、地上にキリストが居るとの誘いに応じてはならないと命じられていたその意味が見えて来る。(マタイ24:23-28/マルコ13:21-22/ルカ17:22-24)

『不法の人』はパウロによって『滅びの子』とも呼ばれている。この語は聖書中に二度だけ出てくるが、二度目がこの『不法の人』であれば、一度目はかのユダ・イスカリオテなのである。(ヨハネ17:12)

十二使徒というイエスに従う者の最高の栄誉に輝く立場からさえこのような反逆者が現れたのであれば、どうして終末の『聖なる者ら』の中から『滅びの子』が現れないと言えるだろうか。ユダがイエスを売り渡したように、『不法の人』は仲間の『聖なる者ら』を妨害し、売り渡すことさえ充分に考えられることである。(ダニエル11:31-39)

もし、これにユダヤ教の一部がエルサレム神殿を再建するようなことでもあれば、この権威の亡者は喜んでその『奥の間』の座を占めようとすることであろう。
終末に地上再臨するキリストを見て、ユダヤ教徒が集団改宗すると信じて止まないキリスト教徒の人々は少なくもないらしい。
 
パウロはこう警告を与えている。『まず背教が起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり崇拝されたりするものに対抗して立ち上がり、自ら神の家に座して、自分は神だと宣言する。』(テサロニケ第二2:3-4)

彼の支持者らは、『聖なる者ら』の『名の消滅』を知ったとしても、この誤った道に分け入る危険性は非常に高いと言わざるを得ない。人は思想信条を簡単には変えないからであり、『聖なる者ら』の聖霊の発言を聞いてもその真意を悟らないなら、代替宗教である「新たなスタイルのキリスト教」に容易に呑み込まれてしまうであろうし、それを推進する『子羊のような二本の角を持つ野獣』で表される国家、おそらくはキリスト教的な覇権国家が在るなら、その圧力は否応なく高まることであろう。
それは権力を用いた究極の偶像崇拝となり、祭政合体の宗教を人々に強制を課すらしいのである。(黙示13:11-18)


赤く燃え立つ両眼を光らせる復讐のキリストは、そうしていよいよ世界統治に乗り出し、『聖なる者ら』もそれに続き『諸国民を籾殻のように刷り砕く脱穀橇』と変じ、キリストと反キリストの両者の対立は極限に達するその状況で世は『ハルマゲドン』の最終決戦へと呑み込まれてゆく。(イザヤ41:15/ミカ4:13/黙示17:14)

それは不法の人がキリストの『臨在の顕現によって無に帰せられる』時となるであろう。それはキリストの臨在が起こって三年半に亘って続き、聖霊を注がれる『聖なる者ら』が世に宣告を下す業を為し終えた後のことであるに違いない。(テサロニケ第二2:8/ヨハネ16:8) ⇒「シオンの娘の謎を解く」


それであるから、エレミヤのバビロンに対する預言の言葉は、終末においてすべての成就を迎えることになるというべきであろう。
そこで予告された『七十年』が満ち、古代に神殿祭祀が再興されたように、象徴的ユーフラテス河畔から拘束を解かれた『聖なる者ら』は、天に召される時にいよいよ神殿祭祀の再開を天界に於いて始めるということができる。

それまでは象徴的「日毎の捧げ物」が仮の身分の彼らによって捧げられるが、天界の神殿の建立は、彼らを全く贖って天界に相応しい者とし、律法の神殿祭祀が予型した真の人類贖罪の準備が整うことになる。これが『地上のすべての家族を祝福する』、即ち『神の王国』である。

『聖なる者ら』の天への召し挙げは、キリスト教徒の云うような「携挙」などではなく、また世の裁きとなる大患難から逃すためでもはない。これこそはアブラハムの裔としての『神のイスラエル』、エデンで語られた『女の裔』の観点から見るべきものであり、その精神はご利益信仰とは正反対なもの、自己犠牲を以って主に続き、天に挙げられる『聖徒』のことなのである。(創世記3:15)

さて、「携挙」されて空中でキリストの出迎えを受け、天国でずっと共になる謂われがご利益信仰の「クリスチャン」方にあるものだろうか?あるいは、「クリスチャン」を大患難から保護することが天への招聘の理由なのだろうか?それは余りに利己的願望ではないか。

自分たちは救われ、他の人々はキリスト教徒ではないという理由で恐るべき患難に呑まれることを信仰していると公言するなら、周囲はその宗教をどう見做すだろうか?そこにキリストのような自己犠牲の精神とは反対のものを感じさせないものか?

果たして、自分たちのような信仰を抱かなかった人々が大患難で滅んでゆくのを眺めるだけの理由が「クリスチャン」にあるのだろうか?その高慢な精神に気付けないにも関わらずキリスト教徒と公言できるものか?

それは単なる聖書の解釈の違いを超え、倫理の問題となっている。
つまり、キリスト教を称えつつ、却ってパリサイ派のように独善化し、地上のすべて家族の祝福となろうとする『聖なる者ら』の精紳とは正反対に、自らの「祝福」をばかり願うからである。 

『聖なる者ら』の天への召しこそが『新しい契約』の意味するところであり、その契約を自己犠牲の忠節の内に全うする者が到達する、天でキリストの伴なる王また祭司となって人々の祝福となること、即ち、人間には到底不可能な偉業、『罪』にうめくすべてのアダムの子孫のための『神の王国』が成就することなのである。

これほど優れた神の経綸を知ってすら、キリスト教徒がお目出度い自らの「携挙」を望み続けるなら、その信仰は非常に虚しい後果を買いとることにはならないものだろうか?そこにキリストのような大志や忠節な愛があるだろうか?





           ©2016  林 義平