イサク献供に至るアブラハムの信仰



強い信仰とは、極端な、また危険で無謀な行いをすることを指すのであろうか。

世界を見渡すと宗教への盲信や狂信の恐ろしさはこの21世紀に入っても一向に衰えを知らないかのように、過激な行動や流血にまで人を走らせるものとなっており、そこで信者は、酒に酔うかのように人間らしい理性をかなぐり捨てる。極端な行動に出る方が、普通でないその信仰の強さを表すかのように信者が思えるなら、それは痛々しいことではある。

さて、聖書の創世記には、老齢に至ってから得た、正妻が生んだ愛する独り息子を、動物の焼燔のように差し出すという行動をとった中東の古代人アブラハムの記録を残しているが、その衝撃的行動についても、その供儀を求めた神についても、様々な見解が表明されてきた。それは父としてのアブラハムと子の犠牲を求めた神とを非難するものもあれば、または擁護するものもある。

キリスト教徒の子らであれば、親の信仰表現の犠牲となって殺されては堪ったものではないと感じられるに違いないし、他方で、この創世記の部分を何とか納得しようとの試みも為されて来た。それほどにこの箇所は難題とされる。

19世紀のキェルケゴールも、この件を納得しようと努めた思想家であった。
彼は、神の命を受けたアブラハムがイサク献供に至る場面を何通りにも描いているが、明確な得心を提示しているようには読めない。
しかし、淡々と語られる創世記の文面に様々な補いを試み、懸命に心情の跡を辿ろうとし、独り息子を焼いて捧げようとした寡黙なアブラハムへの理解を追求していたことは明らかに見える。

キェルケゴールその人の父親像という非常にデリケートな背景が、更にイサク献供の父アブラハムの姿に衝撃を与えていたと言われるが、この思想家ならずとも、一般家庭の父親がこのような行動に出るとなれば聞く人々に動揺を与えることは避けられないし、今日なら警察が介入する事案となろう。

では、アブラハムというこの父親の確固たる行動の背後に何があったのか?
それを彼のままに理解も把握もできないのであろう。

だが、この人物の信仰に特徴付けられる個性というものが終始一貫していたものではないことを創世記は告げているのである。
彼は、『全能の神』との交渉の生涯を送りつつ、長い期間を経て変化を遂げていったのであり、生まれながらに「信仰の人」として存在していたわけではないことを知る手掛かりが聖書に残されているのである。

創世記に描かれるアブラハム、即ちメソポタミアに居たアブラムという人物については、天地創造からノアの大洪水を経て、シナル平原での塔と街の建設までを記した所謂「原初史」の部分が終わる第11章末尾から家系が語られ始め、彼の父テラハの三人の息子の一人として登場し、彼についての記述は25章の10節に及んでいるから、創世記のそれ以前の記録に増して、アブラハムがどれほど丁寧に描かれているかが分かる。

彼は聖書全巻に在って、その内容の基礎を成す役割を担うことになったのであり、後述するように、そのなかでもイサク献供は神と人との諸契約に結実してゆくことになった。
実生活的感覚からすれば、息子の供儀などは到底受け入れられるものではないので、親の立場からも、子の立場からも一般的共感を得ることはまず無理である。

カルト宗教などはその異例さを利用して、信者から命を含めて何もかも奪い取ることを正当化しようともするかも知れない。
あるいは、この記述を以って聖書という書物の評判を貶めようとする誹謗者や他の宗教の崇拝者も居ないとも限るまい。

創世記を追うと、アブラハムがアブラムであった頃からの神との交渉が段階的に記されているので、この人物にせよ神にせよ、はじめからイサク献供のような行動が可能であったわけでなく、その事跡がひとつの頂点を形作っていたことが分かるのである。

では、そこでイサク献供に至るまでのアブラハムの変化を追体験することを目指して、その交渉の記録を段階的に観察してみよう。


◆遊牧民の一家族と神の繋がり

その家族は、メソポタミア南部*の城市ウルか、その近郊に住んで居た。
アブラムはテラハの息子として家系の最初に挙げられるところからすると、長男であったように見えるが、そうではないようだ。 *(このウルがアッカド方面の街であったとの研究もあるが、ここでは後述するようにヤハウェスト資料がアブラムの時代よりずっと後代のものであることを踏まえ、伝統的解釈をとる)

まず、テラハには少なくとも二人の妻がいた。
 記された家系を探ると、最初に出産した妻との間に生まれた息子ハランの娘、即ちテラハの孫娘のミルカが、テラハの二人目の妻の生んだ男子ナホルと結婚しており、同じく二人目の妻から生まれたアブラムもテラハの一人目の妻の娘であったサライを娶っている。

まず、テラハの三人の息子の内のハランに着目すると、創世記の当該の記述の前に、おそらくは既にウルで亡くなっていた。このハランがテラハの一人目の妻の子であり、その娘が二人目の妻の生んだ男子ナホルと結婚しているのである。

そして一人目の妻の息子ハランには娘ミルカとイスカのほかに息子もあった。それがアブラムからすれば甥に当たるロトであり、このハランの息子は、後にアブラムと共にユーフラテスを渡って約束の地に足を踏み入れることになる。

アブラハムが後に「ヘブライ」(イブリート)と呼ばれていたその語源からすると、テラハの家族は遊牧民であったことはほぼ間違いないとされている。これを裏付けるように、テラハの名にはセム系語で「野山羊」の意味があり、これは増々その一家の生活環境を物語っている。
 
また、アブラムが異母姉妹と、またナホルが姪を娶っているところは、狭い血統の中での婚姻の習慣があったことを知らせるが、後代のモーセの律法がこれらを禁じていることからしても、これは社会的接触の少ない遊牧民に特徴的である。
 
したがって、テラハの家族は、ウル市内でなくその近くで土地を持たずに放牧生活をしていたのであろう。そうであればこそ、神が彼らに広大な土地を子孫に所有させ、定住地を得させるとの誘いを告げたときに、彼らにはそれが大きな価値を持ったであろう。城壁の中の街の華やかな生活を知りつつも、子孫の繁栄と土地所有という夢は流浪の彼らの必要に深く応えるものであったに違いない。

この一族が城市には住んでいなかったであろう理由が更に挙げられる。
テラハはノアから長男セムを通して十一代目であり、アブラムは十二代目となる。『地に広がるように』という神の意図とは裏腹に、人々がシナル平原に集合して都市文明を開始しても、なお、それに参画しなかった人々があって、遊牧を選び続けたということは充分に考えられる。まさしく有史以来の人類の二つの基本的生活形態が見える。狩猟・遊牧型の移動生活と灌漑革命による農耕型定住生活とである。遊牧民の目には、ニムロデの下に城市建設を行う許多の「入り混じった」人々がどう映ったことであろう。

全能の神が、テラハにせよアブラムにせよ、子孫への土地の所有を約束した背景には、シュメール文明の都市建設の進展と、遊牧生活を続けるイブリの彼らとの対照があったと見ることができる。シュメール語文明の都市生活の繁栄の傍らで、セム語を話し、土地を持たず、垢抜けない移動生活の不自由さの中で暮らすイブリの民に対する神の好意が考えられるのである。
また、古代の城市の遺跡(テル)から出土する陶器と、その周囲からの同時代のものとでは大きな相違が観られるとのことであるから、街の住民と遊牧民との文化の相違、また、その接触が多くはなかったことを物語っていよう。
  

シュメールのそれぞれの城市にはジッグラトが建てられたが、それらの塔は神を宥めて集合生活の名目を作ったにせよ、それを許したのは全能の神ではなく、アヌンナキのような下等の神、即ち悪霊らであったことは、カルデアに偶像崇拝の始まりを見るところに表れていよう。
そこに、地に広がるようにとの神の命に従わなかった都市生活者と、放浪を続けたイブリーの対照が観られる。ヘブライ語の「イブリー」が「一方」また「向こう側」(エベル)から来た言葉であるなら、それは「一方の端」を意味するという説もあり、その場合は「この世の端」、即ち、集合生活の世界とは対極を成す、非定住の野の民を言い表すとされる。それゆえ「ヘブライ人」という呼び名には、古来、俗世を離れ、神命に従う者という気概が込められていたということになろう。 

ノアから六代目のペレグのときに『地が分かたれた』とあり、これがシナル平原での言語の混乱を指しているのであろう。それから、シュメール王朝が一度収束した後、ウルに第三の王朝を興していたころにテラハの家族がその首都の近郊に居たとする事も、今日の考古学の年代からすれば想像も不可能でない。
 
都市生活の定住は耕作による食糧供給の豊富さを必要とするが、その一方で畜類の飼育による蛋白源や羊毛を手に入れることも求められ、城市の外側に定住しない遊牧民との僅かな接点の必要がそこで生じる。そこで仲買商の活躍の場もあったろう。

創世記に在るテラハの系譜(トーレドート)を見ると、アブラムはテラハの息子らの筆頭に挙げられるのだが、テラハ70歳で初子を得たのであれば、その205歳の生涯を終えたときにその長子は135歳に達しているはずであるが、テラハの没後にアブラムが約束の地を目指して出立したとき75歳であったことからすれば、彼自身はテラハの長子では無かったことになる。テラハが川向うへの移動を開始する以前に亡くなって、ロトを忘れ形見として残していたハランがおそらくテラハの長子であったであろう。

前述のように、そのハランは娘ミルカをももうけており、この娘はアブラムの兄弟ナホルの妻となっているので、その年齢差を示唆している。即ち、テラハの息子らは、ハラン、アブラム、ナホルの順であったと見るのが妥当なところのようである。

この長子と思われるハランはアブラムとナホルとは別の母親からの男子であり、その姉妹がアブラムの妻となったサライであって、彼女を加えるとテラハの子らは四人となる。このサライはアブラムの十歳下で、おそらくテラハの名を挙げられている子らにあって三番目の子ではなかったろうか。

古代メソポタミアでは一夫多妻ではなかったが、子宝に対する渇望が非常に強かったことが当時のエシュヌンナ法典やヌジ文書にも明らかで、親にせよ子にせよ、財産を相続できないことは大きな損失であった。子が無いのは神の祝福が無い者と見做され、夫は不妊の妻のために二人目の妻を得ることも、また、余裕のある家庭では多産を願っての一夫二妻が習慣となっていたという。

テラハもふたりの妻を得ており、それはサライの年齢がアブラムより若いためにアブラムの母は「後妻」というのでもなく、父親は同時期にふたりの女と婚姻関係にあったことが分かる。だが、これらのテラハの妻たちについての記述は聖書に無いので、名前も分からず、テラハ一族の出立にも記載がなく、すでに亡くなっていたようにもとれる。
 

テラハについては、後代のヨシュアが語ったように、一族共々『川向うで異なる神々を崇拝していた』痕跡として、当時の一般的な偶像「家の神」(テラフィム)を所有し続けており、これを持つ者が家督を相続するというヌジ文書に記されたようなメソポタミアの習わしが、後の律法体制下のバビロン捕囚期前までテラフィムの存続している様を聖書はその後も再三記している。これは時代によって、本来の偶像として嫌悪されることもあれば、単に家督相続の証しとして所有されてもきたのであろう。(ヨシュア24:2-4/ホセア3:4)

後年、アブラムの孫の族長ヤコブの妻ラケルが実家のテラフィムを盗み出している様も描かれている。その件からすると、アブラムの兄弟ナホルの方がアブラムより年上で、テラハからの相続権をテラフィムの形で保存していたと考えられそうにも見えるが、彼の妻ミルカがハランの娘であったことが、ハランの先立ちと共に年齢的に可能性を否定する。(創世記31章)

おそらくは、テラハやナホルについて、神の土地を目指すアブラムの大志にとっては、テラフィムなど実家に残した仏壇のようでしかなかったのであり、彼には、受けるべき壮大な神の経綸が目の前に在ったというべきであろう。 

このテラハの一族が、ある時を以ってカナンを目指しユーフラテスに沿って北に向かって旅路に就くのだが、その理由を創世記は記していない。
千キロほど北上すると、彼らはその土地ハラン*で逗留することになる。おそらくは老いたテラハの健康が悪化したのであろう。その地は街道が繋がる交易の要衝で、メソポタミアの外れにあり、今日もハッラーンと呼ばれ、トルコの国境沿いの街として存在している。
*(テラハの息子のハランとは「ハ」の音の発音が異なる ローマ人は「カルラエ」と呼んでいた)

新約聖書の後代に、使徒パウロが、『信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないにも関わらず出て行った。』と書いたのは、テラハ一族の移動の開始ではなく、その後にアブラムがメソポタミアを出立したことを言う。 神が彼を『カルデア人のウルから導き出した』という文言は、そのウルをテラハが立った理由として、神がこの一家にどう語っていたかは創世記からは確認ができない。テラハ自身に神が語ったのか、老齢のテラハをアブラムが促したのか、それも明らかではないが、重要なのは、テラハ没後*のアブラムが、ユーフラテスを二度と渡らないという決意の出立をしたことである。*(アブラムを長子とし、75歳の出立のときテラハが存命で145歳であったとの解釈は不自然に見える)

 
やがてテラハはハランで没する。享年205歳であったが、この時代の人々の寿命からすると特に長かったわけでなく、テラハの祖父のセルグは230歳まで生きていたとされている。そしてアブラムは175歳に至ることになる。
現代人からすれば信じ難い寿命の長さではあるが、創世記の年代を観てゆくと、ノアの大洪水後のこの時代は、人間の 寿命は急速に短くなりつつあり、この四百年後の預言者モーセは120歳で没して今日の感覚に近付いている。
古代人の骨の研究から、百歳を超えて生きた人は稀であったと言われるが、おそらくは、老化の速度が今日とは異なっていたのかも知れない。(この点では、アブラムの息子の乳離れが五歳という異様な遅さも関係するのかも知れない) 

さて、一行がテラハを葬って後、アブラムが75歳のとき、全能の神はアブラムに話しかけ、更なる旅を促してこう言った。
『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行け。
わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地のすべての家族は、あなたによって祝福される』(創世記12:1-3)

神のこの申し出に対するアブラムの反応は応諾であったが、創世記の後の記述を辿ると、この段階から彼がイサク献供に見せた確固たる信仰を懐いていたわけではなく、その後の人生に於ける『全能の神』との関わりが創世記12章からイサク献供に至る22章までの記述に在り、そこに読み取れるものがある。即ち、アブラムと『全能の神』との交渉の深まりである。


さて、彼は妻と財産、また家僕らを含めてユーフラテスの川向うへと出立したが、兄ハランの忘れ形見である甥のロトらをも伴っていた。その同伴は、アブラムから子らが大いに増えて国民になるにしては、妻がずっと石女の身で、自分たちからの子孫を期待できないことへの自分なりの対処でもあったことであろう。財産を常に親族に託するのが遊牧民の慣習であったし、現代人の年齢感覚では推し量れないものの、彼は既に75歳に達し、十歳違いの妻と共にもう若くはなかったことを意識していたに違いない。

それであるから、全能の神の言葉に従うにも、自らの状況を省みるに英断であったというべきであろう。
彼らは家畜家財を携え大河ユーフラテスを渡って、いよいよ「川向う」へと足を進めるのであった。
ハランからアレッポに向かって進み、渡河したなら今のユーフラテスの川岸まではおよそ80km、三日ほどの行程の後で、彼らは自分たちの「父の国」を後にして、いよいよ神の導く新たな世界へと足を踏み入れたであろう。

シリアの砂漠を越えて約束のカナンの地に入ったのであれば、導かれた土地はほどよい起伏に富み、湖や川の流れる箱庭のように見えたことであろう。
まず、一行はシェケムに天幕を張ってしばらく留まっている。そこは後に彼の子孫がイスラエル民族となってエジプトから戻って後に、律法の恵みと呪いとを聴いた場所ともなる。

即ち、そこはエバル山とゲリツィム山との谷間であり、肥沃な谷の入り口で薬功のある油の取れるテレビントスの大木が群生していた。この松科に分類される木の陰は強い中東の日差しを遮り、その下はたいへんに爽やかで過ごし易いと言われる。

この谷の西側にはカナン人の城市シェケムがあり、おそらくは大木の群生する『モレ』と呼ばれた場所はカナン人との境界にあるので、一行は街には近づかず、その木陰に留まったのであろう。アブラムは、自分に現れてこの土地に導いた「全能の神」(エル・シャダイ)への祭壇を最初にそこに築いた。(創世記12:6-7)

次いでアブラムのキャラバンは後のエルサレムとなる城市サレムの方向に南下し、ベテルを西にアイを東にして天幕を張る。即ち、不定住者としてカナン人への遠慮をするかのように、移動生活を続けるのである。
神は彼に『これらの土地をあなたの子孫に与える』と約束はしても、彼には生涯『足の幅ほども与えなかった』。ご利益信仰者であれば、既にこの辺りで脱落している事であろう。(使徒7:5)



◆エジプト逃避

そこに追い打ちをかけるかのように、彼らが南部のネゲブの高地で暮らしていると酷い飢饉が襲った。神が約束した土地と雖も飢饉があることを知らされつつも、ナイル川の流れる肥沃なエジプトに逃避することになる。アブラムの約束の地への信仰は試されたことであろう。

エジプトが近付くとアブラムはひとつの心配を懐いていることを妻に明かしつつ、サライに願ってこう言った。
『あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。 エジプト人があなたを見たら、「この女はあの男の妻だ」と言って、わたしを殺してあなたは生かしておくにちがいない。
それでどうか、わたしの妹だ、と言ってもらいたい。そうすれば、わたしはあなたのゆえに無事で、あなたのお陰で魂も助かるだろう。』(創世記12:11-13)

サライは既に65歳を越えていたのだが、このアブラムの懸念は実際のものとなる。
エジプト人はサライの美貌に目をとめ、ファラオの廷臣らまでがサライを後宮に推奨したというのである。
サライはファラオの家に招かれ、アブラムはファラオから鄭重にもてなされ、多くの家畜や奴隷を差し出されるに至る。

自ら謀ったこととは言え、こうなってはアブラムもどうにもできない状況となったであろう。
アブラムはエジプト人の道徳性を信用してはいなかった。
夫を殺害してその妻を得るというこの地方の悪い噂を聞いていたかも知れず、彼らの崇拝では、自分の罪を否定して後に神に近付くことが許されていたことを聞き及んでいたのかも知れない。 つまり、自分の不道徳性を認めない傲慢さを彼が警戒したゆえの妹宣言であったろう。

確かにサライは母親を異にする妹であり、アブラムの子孫を生むことも諦めていたし、後宮に入っても子を生まぬサライは、どのみちファラオの家系を構成するに至らないという背景があったにせよ、夫の身の安全を得て、一方で妻の貞操の危機に直面することになった。

だがそこで「全能の神」が敢然と事態に介入する。
石女サライを守って、神はファラオの家に激しい疫病を臨ませたのであった。
その原因をどのようにファラオが悟ったかは創世記に書かれていないが、ファラオはアブラムに『なぜ妻であると言わなかったのか』と詰め寄るのであった。
ファラオはアブラムに、与えたものも含めてすべての持ち物を持たせてエジプトから去らせたが、その結果といえば、アブラムの資産の増加となっている。

この時点で、アブラムは自分が正妻から子孫を得ることについて理解していないことを示していたのだが、このエジプトでの一件での神の介入を通して、彼自身は約束の地を受けはしないものの、やはり契約の神の恵みが注がれており、また、その妻をも神が助けたことに感謝を持ったことであろう。
 
だが、この妻の件についてアブラムの認識はいまだ明瞭ではなかったし、それはサライ自身にしてもそうであった。後に、同じ問題をゲラル(後のフィリスティア)で繰り返すことになるが、二度も為されるこのカムフラージュは、いずれ彼らの子を得る仕方への未知を照らし出すことになる。



◆ロトとの別離

さて、持ち物の増えた一行には、その為の問題が生じ始めていた。
増えた家畜の群れを管理するのが難しくなってきたのであろう。アブラムの群れとロトの群れとの間で牧童の衝突が起きるようになっていたというのである。

この無数の畜群の問題のゆえに、アブラムはロトの一行と行程を伴にすることを断念しなければならなくなる。
結果的に、ここでロトと別れることは、二度と再び行動を共にはしないことになるのだが、この時点ではそれが両者に意識されていたようには読めない。 

アブラムは甥を慮って、どこへなりと移る方向を選ばせると、ロトは当時は潤ってエデンのようであったという谷をヘブロンの辺りの高台から見下ろし、今日では死海の下に沈んでいるソドムやゴモラの地域であったシディムの谷を選んで東方に向かうのだが、これは非常に悪い選択となる。

アブラムにして見れば、甥のロトを連れ出したのが、自分の子孫が生じなかった場合に備えてのことであったなら、この別れを通して、その思惑も大きく外れる方向に物事は動き始めるのであった。まして、サライの貞潔が守られたことも彼の意識に上ったに違いない。(創世記12:7・13:9)

だが、いまや事態は進み、甥と別れたアブラムに『全能の神』は再び告げる、
『目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡すように。見わたせる土地をすべてを、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。』(創世記13:14-16)

この言葉を受け、アブラムの子孫とはロトではないことが彼の中で次第に明らかになっていったことであろう。
アブラムは、ヘブロン城市の境界にあるアモリ人マムレの所有するテレビントスの木々の間に留まり祭壇を築いている。おそらくは、神の契約への意識を新にしたのであろう。



◆勝利するアブラム

それから戦争が起こった。
創世記はこの部分において文体の変化を見せて異なる出展を暗示する。創世記にまとめ上げられる前にイスラエルの戦記の一部であった可能性も指摘される部分に差し掛かるのである。

さて、メソポタミアの東のエラムを治める王ケドルラオメルは、ソドムやゴモラの地域の領主を十二年に亘って服属させていたのが、十三年目になって反逆された。
十四年目になると、エラムのケドルラオメルはこれを成敗しようとメソポタミアの同盟軍と共にパレスチナに侵攻する。
 
王の道を南下してカナン地域に入ると、レファイム人、スディム人、エミム人、フリ人(ホリ)を打ち破り、どうやら紅海を望むアカバ湾にまで至り、それから北西のパランに向きを転じてカデシュの北に居たアマレク人やエンゲディのアモリ人の村落までを打って、いよいよシディムの谷に迫ってきた。

ここにおいて、シディムのペンタポリス、即ちソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイイム、ツォアルの五王の命運は尽きていたというべきであったようだ。彼らは逃げて行って、その地のあちこちに空いたアスファルトの穴に落ち込んだと創世記は記しているが、穴が深ければ重油のように粘着する油に喉を塞がれ窒息して絶命し兼ねない危険もあったろう。だが、ソドムの王は生き長らえていることがその後の記述に見える。この記述はシディムの五王らの無様な体たらくを強調しているのであろう。

さて、メソポタミアの軍はシディムの谷の街々から奪略を行い、その際にロトとその家の一切をも奪い取った。
シナルの軍の勝利は圧倒的であって、カナンはその前に蹂躙され尽くしたかの観があったに違いない。しかし、遊牧民として希少な身内を大切に想うアブラムのロトへの気遣いは危険を冒させるに充分なものであった。まして、ロトにユーフラテスを渡らせたのは彼であろう。

この事態の報告を聞いたアブラムはケドルラオメルの引き上げる軍を追うという英断を下す。
一家の男たちを集めると318人であったというが、この人数が目的を達するに十分とも思えない。
しかし、アブラムは近隣のカナンの種族と同盟を結んでおり、住まいにしていたテレビントスの林の所有者であったアモリ人マムレと追撃行動を共にする。さらにマムレは自分の兄弟であるエシュコルとアネルの部族の隊をも伴い、彼らの連合集団はシリア方面にシナル軍の追撃に向かった。

他方、ケドルラオメルのシナル軍はカナン遠征の大成功に慢心していたに違いなく、許多の戦利品と捕虜を携えていれば行軍もそう早くもできなかったであろう。
アブラムの連合軍はパレスチナ北方のダンで、ロトらを虜にしたシナル軍に追いつくことができた。
元々、遊牧民は城壁の中に住まない分、自らの身は自らで守るので、いざとなると勇猛で大胆な人々であるという。

創世記ではその戦いの様子は詳しくはないが、夜陰に乗じたアブラムらは隊を分けて急襲したので、不意を打たれたシナル軍は混乱して遁走を始めたようである。
彼らは、これをダマスコからさらに百キロも先のホバまで駆逐して行ったので、追撃の行程はヘブロンから400kmにも及んだが、アブラムらはロトと家族を救出するばかりか、すべての囚われ人と財貨を取り返すことに成功するに至る。
これは傑出した大勝利であって、カナン全域を蹂躙したシナルの覇権を退けたことに於いて、アブラムに注目が集まるのは当然と言えよう。

家財と人々を取りかえして戻ってくるアブラムを、サレムという城市の王が出迎えた。
この人物は、『至高の神(エル エルヨーン)の祭司』と創世記に紹介されているが、このようにアブラムの神の祭司として聖書中には諸国民の中に登場することがある。
例えればモーセの舅となったケニ人のエテロがおり、アラム系の祭司バラムがイスラエルを呪うために呼ばれていながら祝福し、「自分は神の託宣のままに語る以外はできない」と言っている。
 
そして、このサレムの王である祭司メルキゼデクについて創世記はほとんど情報を与えていない。登場する場面もこのアブラムの祝福ばかりとなっている。

祭司なる王メルキゼデクがアブラムの許に携えてきたパンと葡萄酒とは、アブラムの食事の提供のためではなく、それが祭儀であったからこそアブラムを祝したに違いない。しかし、この神に用いられた人物の情報の少なさは異様なほどで、それゆえ、新約聖書で使徒パウロはこう述べている。
 
『その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。
彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。』(ヘブライ7:2-4)
この人物が後のメシア、即ち、聖なる王と祭司を兼ねるキリストの前表であったとパウロは言うのである。 後には、律法で祭祀権はレヴィ族、王権はダヴィドへの約束によりユダ族に相続され、双方を得ることは血統上のイスラエルには無かったからである。

さて、パレスティナの中央山岳地帯では、シェケムと共にこのサレムは非常に古い城市であったとされる。城市サレムの記録は「エブラ文書」の中にもあり、テル・マディク出土のその記録は前2300年頃のものであるという。アブラムの時代をウル第三王朝期の前21世紀としてもさらに三世紀も古い。

アブラムから出た子孫らがイスラエル民族となってエジプトから荒野を経てカナンに戻って来たときに、この城市はエルサレムと呼ばれており、他の五つの城市と連合してイスラエルに立ち向かったが、そのとき太陽が沈まなくなり、天から石が降って大敗したことがヨシュア記に見える。

だが、その戦いの後のエルサレムはイスラエルの占領を免れているが、それはその険阻な地形によるものであったろう。その後ユダ族がこの城市を攻略し、一度は焼き払っている記録があるのだが、その地のエブス人を退けてイスラエルの街とすることはできなかったようである。(士師1:8)

後代ダヴィドによって征服されるエルサレムの住民は『エブス人』と記されているが、この民はヒッタイト系であった可能性もあるという。
遡って、アブラムの頃のエルサレムはカナン人という大きな枠に含まれるにせよ、人種が統一されていたと考えるのは実際的でないようだ。

殊に、このメルキゼデクという『至高の神の祭司』については、ヘブライの伝承を熟知したであろうパウロが強調するように、その不明性のゆえに、またアブラムを祝した以上は、アロンの家系に属する祭司権を超える、より高度な祭司権の保持者であったとされる。(ヘブライ7:3・9)

ともあれ、アブラムの敢然たる行動は、この城市サレムの王なる祭司を通して至高の神からの祝福を授かることとなった。
アブラムは戦利品からの十分の一をメルキゼデクを通して神に捧げ、後のアロン祭司職への献納の型を行っている。おそらくは、勝利に神の助力を感じ取っていたことであろう。

それから戦勝の宴となり、アブラムと同盟者らが祝っているところに、穴に落ちたというソドムの王がやって来てこう言う。
『わたしには魂(人)をお返しください。財物はあなたが取りなさい』つまり、奪われていた人質を自分たちに戻し、勝利したアブラムには家財は与えるというのである。

しかし、アブラムはこれにきっぱりと答えて『天地を所有される至高の神(エル・エルヨーン)、YHWH*に手をあげてわたしは誓い、わたしは糸一本でも、靴ひも一本でも、あなたのものは何も受けません。アブラムを富ませたのはわたしだと、あなたが言わないように。』(創世記14:21-24) *(創世記の大部分はヤハウェスト資料のため、神名が現れる)

アブラムは自分を祝したのが至高の神である以外の名目を拒絶し、その功の一切を人に帰すことを避けたのであるが、既にメルキゼデクからの感化が及んでいたのであろうか。しかし言われた方はどう感じただろうか。そこにあるのは定住を始めたロトとは異なり、低地の街々に暮らす放縦なカナン人との関係性を強く拒絶するアブラムの固い姿勢であった。
 
また、彼がエジプト人の道徳性を信頼していなかったように、カナン人の低地の街々で生活する人々に対しても信頼してはいない。彼のそれはメルキゼデクに対する姿勢とは正反対である。当時の民の道徳性はその神の性質や崇拝方式に表れており、アブラムは自分の神が他の民の神とは大いに異なることを強く意識している様子は創世記に再三表れている。イブリであるアブラムのこの異邦人への観方が、彼の神と共通するものであることはやがて明らかとなってゆく。



◆アブラムに語る神

それからどれくらいの時が経過したのかは書かれていないが、前後関係からすると数年以内のことであろう。
エラムの王に打ち勝ち、神の加護を多くのカナン人に示したアブラムではあったが、満たされないものを感じていたのであろう。
 
創世記の記述としてはいきなりではあるが、神がアブラムを励ます言葉を記録している。
『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。』

アブラムは何を恐れていたのであろうか。この言葉に対して、彼は想いをこう吐露する。
『わが主なる神。わたしに何をくださるというのでしょうか。わたしには子供がありません。家を継ぐのは家令の息子ダマスコのエリエゼルなのです。』(創世記15:2)

即ち、神の言葉に従って約束の地に来たのだが、その土地は相変わらずカナンの諸族のものであり、アブラムの一行はその神に祝された存在であることを認められてはいても、やはり寄留者に過ぎないことは何も変わりなかったのだ。
 
そのうえ、自分の跡を託せるロトも牧童の衝突の一件から離れ、この親しい甥も、いつのまにやらイブリーとしての生き方を後にして、都市居住者となりカナン人の中に入っていた。

そこでアブラムの家督を継ぐ者は、当時の慣習に従い、家令であったダマスコ出身のエリエゼルとなってしまっていた。
さすがに、この情況で約束の地を子孫に与えると言われても、齢八十ほどの身には神の言葉の現実性がまるでない。しかも妻のサライは石女のうえ、既に七十路で現代人よりは著しく長命な古代人とはいえ老齢を意識し続けているのである。

ここに於いて、アブラムの心中はこれらの言葉に明らかである。
だが、神はこう言われる。
『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたの腰から出る者が跡を継ぐことになるのだ。』(創世記15:4)

神はアブラムの落胆とは裏腹に、彼を夜の天幕の外に誘い出す。
夜空には肉眼で五千の星々を半球に確認できると言われるが、神は星降る夜空の下に彼を置き、励ましてこう語るのであった。
『天を仰いで、星を数えることができるものなら、数えてみよ」。それから彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるであろう。』

それは創世記の中にあって、真に美しい神と人の語らいの場面となった。
そこでアブラムを夜空を見上げ、信仰を懐いたと書かれている。
アブラムの状況は何も変わらないのだが、神が彼に語り掛け、自らの創造物である満天のきら星を見せて、彼の子孫もこのように数多くすると全能の神が言われたことに彼の心が動いたのであろう。それを見た神は、それを彼の『義と見做した』のであった。

そのうえで、神の約束はどのように具体的に信じられるかとアブラムは神に問う。
そこで神の答えは、非常に神秘的な方法で与えられる。
神は牛と羊と山羊、また山鳩と家鳩の犠牲を供するようにアブラムを促し、夕刻になると『濃い暗闇』をもたらして彼の意識が遠のくなかで言葉を与えた。

『あなたの子孫は他の国に居留民となって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間悩ます。
しかし、わたしは彼らが仕えたその国民を裁く。その後彼らは多くの財産を携えて出て来る。
あなたは安らかに先祖のもとに逝く。そしてよい齢に達して葬られる。
それから四代目になって民はここに帰って来る。アモリ人の悪がまだ満ちないからである。』(創世記15:13-16)

ここに示された事柄は、約束の地をどのようにアブラムの子孫が受けるのかを詳述したもので、『将来を知り得ない』人間に神の与えた霊の啓示であった。(伝道10:14)

それから夜の闇が到来すると、二つに裂かれた犠牲の間を『燃えるかまどと松明』が通り過ぎて行くのをアブラムは見たのであろう。
これは儀式であり、アブラムと神との間に契約が結ばれ、これらの犠牲を以って発効したことを示している。(エレミヤ34:18)
また、『罪』ある人に、神が格別の啓示を与える条件があったのかも知れない。奥義はキリストに信仰を働かせたほとんどの弟子らにも血の犠牲の上に立つ聖霊を以って与えられている。⇒「ミュステーリオン」 

そしてその契りの内容はこうであった。
『あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を。』(創世記15:18-21)

ここにアブラムは自らの子孫が祝福されることの信仰を呼び起こし、より一層神と結ばれたことであろう。



◆サライの方策

こうしたことの後、次には子の出来ない妻サライが方策を立てる。それは一行がカナンに住んで十年の終りを迎える頃のことであったと記されている。

他ならぬ神の約束によって夫アブラムの子孫が、約束の土地や祝福を受け継ぐのであれば、健気にも自分が何とかしなければと思ったのであろう。神はまたアブラムの『腰から出る者が跡を継ぐ』とは語ったことが記録されているが、この段階で「サライから生まれる者が」とはないのである。

この方策は、当時の中東の法に見られることで、エシュヌンナ法典は子供の出来ない妻は、夫に女奴隷を差し出すよう規定していたのだが、サライはエジプト逃避の際に得たのであろう若いエジプト人の女奴隷ハガルを夫に差し出し、その胎を用いることを決心し申し出た。

これは、アブラムが神の約束の成就に預かるための妻の側の健気な努力であった。
サライはエジプトの宮廷でさえ貞操を守られたことから一縷の希望を抱いていたのかも知れないが、もはや夫と神の関わりから自らを見切り、決然たる判断を夫に示したことであろう。

サライのこの策によってハガルは妊娠し、遂にアブラムも最初の子を得る見込みが立った。
本来ならサライにとっても服する立場なりに喜ばしいことであるはずなのだが、このエジプト女は自分の妊娠を知ると女主人であるサライを侮る態度をとり始めた。

その耐え難い辱めにサライは夫に強く迫って『YHWH*がわたしとあなたとの間を裁かれますように』とまで言っている。(創世記16:5)*(創世記の大部分はヤハウェスト資料のため、神名が現れる)

サライとしては、女奴隷の胎を借りて夫から子を得るためにハガルを差し出したのであるから、ハガルはやはり奴隷であり、生まれて来る子供の親はサライであるはずである。
アブラムがその意識をはっきりと持って奴隷女に接しなければ、ハガルがよほどの人格者でもない限り増長するのは見えている。この点で元々人々に親切に接する性質のアブラムにサライは却って落ち度を見たのであろう。
だが、自分の子を生む女が奴隷であろうとなかろうと、優しく接しないでいることは男全般にわたって難しいことである。
 
アブラムはどう反応したかろうか。
『あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。』
彼は女の戦いに関わるには気が進まなかったに違いない。元々ハガルはサライの奴隷女であるところで、大事な子を宿しているとはいえ、そこは女主人としてのサライの地位を彼は保障する。
 
そこでサライがハガルに具体的に何をしたのかは創世記は書いていないが、サライにとっては親権の行方が、そしてより重要な神の約束の継承が関わっているのであり、たとえハガルをその胎児もろともに失うとしてもけっしてこれは譲れないというほどの強い気概で臨んだことであろう。
サライの処置はハガルに相当なストレスを与え、耐えかねたこの奴隷は遂に宿営から逃亡してしまう。たとえ逃亡奴隷と呼ばれようと、エジプトに戻り、自分の子として育てようとさえ決意していたのかもしれない。

しかし、このアブラムの胤を宿した女の逃避は神の目に留まらずにはいなかった。
エジプトに向かうシュルに至る道の傍らの泉で天使がエジプト女のハガルを見つけると、どこに行こうとするのかと尋ねる。
 
ハガルは自分の女主人から逃れていることを告げると、天使はサライの下に戻って身を低くするようにと言い、更にこう言い加えた。
『わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くする。』『あなたは男の子を産む。名をイシュマエルと名づけなさい。YHWH*があなたの苦しみを聞かれたのだ。』

このイシュマエルが後のアラブ人の祖となったと言われているが、天使はこうも言い添えた。
『彼は野ろば*のような(強情な)人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟の向こうを張って住むだろう。』 *(或いは「シマウマ」)

これはイシュマエルの子孫についての預言であり、これが何時、どのように成就したのか、あるいは成就するのかは分からない。
しかし、この言葉はそう祝福に満ちたものではないようだ。『野ろば』(或いはラバ)であれば強情で人に馴れない性質を表しており、穏やかではない生き方のために周囲全体から反対されつつも、向うを張った生き方を続けるというように読める。

ともあれ、ハガルはこの天使との邂逅を喜んだことがその賛嘆の言葉と共に、その神を「エル・ロイ」(見る神)と呼び始めたところに表れている。つまり、女主人の甚振りに耐えかねて、ひとりエジプトに戻ろうと哀しみの路の途中で呼び止められたことに、自分を見ていてくれる神があったという驚きと喜びの混じった感謝の内にアブラムの神を「エル・ロイ」と呼んだのであった。
エジプトへの途上のその泉の場所は、「ベエル・ラハイ・ロイ」と呼ばれるようになり、その後も聖書中で言及されてゆく。

神に感化され態度を改めてサライの下に戻ったハガルは遂に男児を生み、アブラムは天使の言う通りのイシュマエルと名付けた。もちろんハガルは神からの言葉を伝えたに相違ない。そこでこれらの記述も残っているのであろうから。
 
アブラムはこの男児の出生を大いに喜んだにあろうし、神の介入があって宿営に戻って来たハガルの子こそ、約束を受け継ぐ自らの胤であると信じたことであろう。

しかも与えられた名前がイシュマエル(神は聞き届け給う)という以上、アブラムの願いはこの男児によってめでたく聞き届けられたかに思えたに違いない。 
それはアブラム86歳、カナンの地に入って11年目のことであった。



この続編は以下の出版物から

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