『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日に生き返えらせるであろう。』(ヨハネ6:54)

こう言われたキリスト・イエスは、ここで諸世紀の一般の人々、つまり『義者も不義者も』また『大なる者も小なる者も』誰でも皆が生き返るという千年期後の地上への大いなる復活のことを言う訳では無い。(使徒24:15/黙示20:12)

千年王国の設立のために、それに先立ってキリストの『声を聞き』『命の復活』を受けて墓から出て来るのは、キリストの弟子らであり聖霊注がれた聖なる者らを指している。(ヨハネ5:26-29)
神自らが全ての人の魂を裁き尽くす「最終的裁き」と、このキリストによる人を天上に迎えるための「聖徒の裁き」には大きな違いがある。

キリストの裁きの下に起る復活は『格別な』または『早い』復活であり、千年期を挟んでふたつの復活があることは使徒ヨハネの教えを継承した初期教父エイレナイオスも指摘するところである。黙示録にあるように、イエスの裁きによる復活、即ち、千年期を招く『第一の復活を受けるのは、聖なる者である』。彼らは天に霊なる者となって集められるので、それを肉眼で見届ける者はない。(フィリピ3:11/A.H5:31-35/黙示20:6)

人類の『初穂』となる彼らは、かつて地上に居た間からキリストの犠牲の最初の適用を受け、『新しい契約』に預かり『罪』からの仮赦免を受けて『神の子』の立場を得ていたことをパウロはその書簡に何度か記している。(ローマ8:1・33)

聖なる者らは、キリストの血を飲んでその無辜の魂を分け合うだけでなく、アブラハム、またダヴィドの血統に入り、『キリストに近しい者』ともされている。(エフェソス2:13)



◆天からのパン

加えて、彼らはキリストの肉を食することで永遠に生きるとも語られている。即ち御子は『天からのパン』である。(ヨハネ6:31-40)
このパンは荒野のマナに勝り、『それを食する者は永久に生きる』。(ヨハネ6:58)
だが、同時にイエスは『命を与えるの霊であり、肉は役に立たない』とも言われた。(ヨハネ6:63)

従って、『わたしの肉を食し』との言葉はキリスト・イエスの肉を実際に食することを意味せず、その体を食するとは、抽象的な「肉」の食事を指していたことになる。しかも、イエスは「マナ」の例えから説明を始め、自身が「命を支えるパン」であることに話を進めている。そして最後に「わたしの肉を食し、血を飲む者は、永遠の命を持っている」と続けるが、これはユダヤ人が躓くことを想定してのものであり、集まってきた群衆は奇跡のパンで給食されたことに欲望が向いてしまっていたが、キリストを巡る群衆と僅かな弟子らには動機の違いが大きく異なりつつあった。(ヨハネ6:26)

ユダヤ人群衆の目先の欲得とは関わりなく、キリストをパンとして食すること、キリストの体に預かるとは、人が食事で自分の生涯を長らえることでもなく、また、キリストの血を飲む事とも別の意味を持っているに違いない。
本来ユダヤ人はアブラハムの血統にあり『契約の子ら』である。かつて荒野でイスラエルにマナが与えられたように、彼らこそがそのパンの益に預かる者らであったのだが、当時のユダヤ人の大半はマナの対型としてのイエスの体の意味を悟らないでいた。

結果として、ユダヤ人は遣わされたメシアを刑死させてしまう。 
翌日は、それこそ安息すべき無酵母パンの祭りの初日(聖会日)であったが、イエスの遺体[σωμα](ソーマ)は墓に終日入っており、その御体はニサン十四日の終りに葬られ、翌十五日の大安息日に相応しく墓の中に安置されてのち、十六日の朝に復活を遂げられた。

それでも、キリストの肉体については、復活が起こったのだから、ただ体(ソーマ)が墓から出て行ったという単純な事にはならない。「消えた」とみるべきであろう。

なぜなら、その復活は肉体への復活ではなかったからであり、使徒パウロは『最後のアダムは命を与える霊となった』と記す。(コリント第一15:45)
聖なる弟子らが象徴的に食するキリストの体とは、この霊体であって肉体にはならないであろう。 
また、過ぎ越しの羊はまったく焼却され、残されてはならなかった。

それゆえイエスが最後の晩餐の席で語った『あなたがたはわたしを捜すようになるだろう』とは、使徒らとイエスの親しい見解は以前のようではなく、イエスが肉体ではなくなることを指しているのであろう。実際、復活の主は限定的に出没されたので、使徒らは錯綜する情報にしばらく翻弄されている。

即ち、彼らには『付いて行くことができない』領域にイエスが入るからであり、その後の主の現れも霊者の化肉としての現れであったから、閂を下ろした室内にも主は現れている。(ヨハネ20:19)確かに化肉の主は食事をしているが、アブラハムやロトに現れた化肉の天使らも備えられた食事を摂っている。この天使らは女から生まれはしなかった。

神はキリストの体ではなく『その魂を墓には捨て置かれず』、その魂によって霊の体を与えたのであれば、当然にその肉体は永遠に消え去ったであろう。確かに「肉体を墓に捨て置かず復活させた」とするなら、その後の聖書記述は様々な点が理解できない。魂(プシュケー)は死を超えるもので、明らかに死の影響を受ける体(ソーマ)とは異なっている。
むしろ肉体は、出エジプトの子羊のように、骨は折らずとも体は残さず焼き尽くすべきであったことが予型しているのであろう。(出埃12:10/ヨハネ19:36)

また、モーセの遺体が偶像視されることを避け、人々から隠されたらしきことがユダ書に仄めかされているが、キリスト・イエスの遺体が残されるなら、弟子らはどう行動したであろうか?モーセ以上に偶像化される危険があったに違いない。(ユダ9/申命34:6)
もし、イエスの遺骸が地上に残されていたなら、人間が陥りかねないモラルリスクは計り知れず、サタンへの恰好な崇拝に利用されたことであろう。モーセの遺骸についてさえ許さなかったことを、神がキリストに許すだろうか。

この点は、ヘブライ書の中の論議によっても補強される。
『わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは宿営の外で焼かれてしまうからである。』(ヘブライ13:10-11)
これは大祭司を清める罪の捧げ物について述べており、その牛の肉などは祭壇から離れた民の宿営の外で焼き尽くされるよう命じられている。(出埃29:14)

その上でヘブライ書はこう続ける。
『ゆえに、イエスもまたご自分の血で民を浄めるために、門の外で苦難を受けられた。そこでわたしたちも、彼の辱めを身に負い、宿営の外に出てその御許に行こうではないか。』(ヘブライ13:12-13)

そうであれば、キリストの弟子らが食する『キリストの体』とは永遠に消えた肉体を意味する理由はますますない。ユダヤ人らには、イエスの復活後も依然として無酵母パンを食することを通してその体に預かる道は開かれており『善意の年』は残されていた。(イザヤ61:2/ルカ4:19/コリント第二6:2)
彼らが主の血を飲んで、その血統に預かり、また、契約により『罪の赦し』に入ったなら、その体を食することを通して、不死の霊体を共にすることを象徴したのであろう。(ヨハネ14:19)

ゆえに、使徒ヨハネは書簡にこう述べている。
『彼が現れる時、わたしたちは自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』(ヨハネ第一3:2)(ヨハネ16:19) 
これは単に『罪』が贖われることだけによって可能となるものではない。

『罪の贖い』であれば、最終的にすべての人に向けられるものであり、地での永生をもたらすのである。だが、地の人々がキリストを見ることはもはや無い。(テモテ第一6:16)
しかし、使徒らにイエスはこう言われた。
『もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。』(ヨハネ14:19)

ゆえに、聖徒らの身に大きな回復の変化(パリンゲネア*)が起こり、肉から霊へと創り変えられなくては霊の主を見ることはない。*(Mt19:28<パリング「再び」ゲネア「創る」>=Jh3:5-7)
そこでキリストの体という『このパンを食する者は永久に生きる』とは、主の霊体に預かり、天界の霊者となって復活することを特に意味するものとなる。

そのパンは無酵母のものであり、エジプトを出立する前夜には旅支度のうちにゆっくりと酵母を使った柔らかいパンを作る時間が無かったための「急ぎのパン」であったが、後の過越しのセデルの食事では『罪』という「酵母」の無い聖く稀なるキリストの体を象徴するものとなった。

他方、主の晩餐でこのパンを食する者は、自らの復活に於ける体の更新(パリンゲネア)を受け容れなければならない。
その復活は千年期前の『初穂』となる『早い復活』*(エクスアスタシス)に違いない。なぜなら到来するべき千年王国を構成するのが他ならぬ彼らだからである。*(i.e「格別な復活」Ph3:11)

その復活が何時起こるかについては、ダニエルがその書で天使長ミカエルの登場と『北の王』の突然の権力喪失の時について語ってからこう書いている。
『地の塵の中に眠っている者のうち、多くの者は目を覚ます。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱を受ける者もある』(ダニエル12:2)

キリストは『聖なる者ら』の裁きについて様々な譬えを用いて何度も語っており、その裁きに弟子らを備えさせている。
その訓戒の重さは、生きている聖徒であれば、『ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される』という程に峻厳なものとなるので『狭い戸口から入るよう努め』ないと『入ろうとしながら、入れない者』となり兼ねないところにある。(ルカ17:34/13:24)

他方、死せる聖徒の場合、『初穂』としての『第一の復活』に預かるか、それとも千年期後の地への大いなる復活、一般の(第二の)復活に残されるかの二択になるように思われる。だが、本来、第一のものに与るべきであった元聖徒らの遅い復活は、
栄えあるものとは言えまい。(黙示20:5)
『灯火の油』の用意の足りなかった処女らは、主人の宴席を共にできず、外の闇に置かれるということになろう。その生涯を忠節の内に終えないなら、目覚めたときには既に千年期も終わっていよう。(マタイ25) <終末の脱落聖徒に復活はないであろう 黙示19:20>



◆イエスと共に死に、共に生きる聖徒

さて、使徒パウロはその書簡の中で再三、「キリストの死と復活」が聖なる者らと深い関係にあることを述べている。
『もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。』(テモテ第二2:11-12)

イエスと共に死ぬことについては
『もし私たちがキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きることにもなると私たちは信じている。』
『このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認めるべきである。』(ローマ6:8-11)

これは即ち、キリスト・イエスは『一度は死んだが』既に復活を遂げ、『終わることの無い命』に入っているので、バプテスマを受け象徴的に死んだ地上に残る『聖なる者ら』にとって、生きているのは、復活を遂げたキリストの命によるというのである。そうでなければ聖徒らは我々と変わらずアダムの命の中に生きていることになり、彼らに義認も聖化も有り得ない。(黙示1:18/テモテ第一6:16/ローマ5:21)
 
『もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるであろう。』(ローマ6:5)
即ち、キリストのような殉教の死を含意するだけでなく、肉体の消滅と霊体の獲得を経て、天でキリストと共になるということである。それゆえにも、キリストの再臨は『雲と共に』有って見えないものとなろう。霊者としての到来である。(マタイ24:30/ダニエル7:13)

ここに、最後まで生き残り、そのまま天に召されることになる将来の『聖なる者ら』のソーマも、イエスのソーマのように永遠に消失することが知らせれている。
そして、彼らの全くの所在不明が世人を震撼させるであろうことも黙示録は知らせている。(黙示11:13/出埃29:34/テサロニケ第一4:16-17) ⇒「携挙と誤解される聖徒の召し」

また、パウロは彼らのバプテスマを『キリストの死へのバプテスマ』と呼んでいる。
つまり、聖なる者らが一度は肉体の死を経る必要があることを知らせ、『あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中から復活させた神の力を信じる信仰によって、彼と共に復活された』とも述べている。(ローマ6:3-4/コロサイ2:12)

象徴的にせよ、水に沈んで一度死んだ彼らは、キリストの体であるパンに預かり、肉体では終わってしまう命を霊体となって生き返ることが意味付けられている。 彼らの地上の生涯はキリストの命に在って先取りされ、なお続いているのである。

もはや彼らには、アダムに在って生きる謂われはない。もし、イエスの命に生きなければ、ただ肉体の終りを虚しく迎えるだけの只の人である。 だが、主キリストと結ばれた聖なる者らは、復活した『命の導き手』によって生きているのであり、仮の贖罪を受けて『神の子』であり、天界での栄光を前に『生きるも死ぬも主(イエス*)のもの』となっていた。(使徒3:15/ローマ14:8)*キリストは救いと命の『導き手』(君)である。この称号は神を意味しない Heb2:10

それゆえ、『今、生きているのは、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって生きている』。(ガラテア2:20)

使徒ヨハネも、この『命』についてこう記している。
『神を信じない者は、神が御子についてなさった証しを信じず、神を偽り者としてしまっている。その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えた*こと、そして、その命が御子の内にあるということである。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人に、この命はない。』(ヨハネ第一5:10-12)*<アオ>

即ち、聖なる者らは、水のバプテスマによってキリストの体の死を象徴的に共にして既に葬られており、現実の肉の命にはあるけれども、イエスの復活の命によって今を生きているというのである。
そうして彼らは、主イエスの死と復活を象徴的に共にしているのである。

それゆえに、パウロのような『キリストの兄弟ら』のためにイエスが『ご自身をささげられた』と言い得るのであり、ただの人が「自分のためにキリストは死んだ」などと言うべき理由はまったく無い。
ただの人にはイエスの犠牲は未だ幾らかも適用されてはいないうえ、信仰による裁きは将来の聖徒らを通さなければならず、犠牲の適用による贖罪は「千年王国」を待たねばならないからである。 
むしろ、偉大な神の経綸に畏み、聖徒らへの神の配慮と、イエスと共に非常に高められた立場を尊重しなければならない。 

そこで多くを委ねられる聖なる者らには大きな責務が生じているので、使徒ペテロもこう言うのである。
『キリストは肉(サルクス)において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。・・それは、肉における残りの生涯を、もはや人の欲によらず、神の御旨によって過ごすためである。』(ペテロ第一4:1-2)

バプテスマの水に浸された時に彼らはキリストと共に死に、引き上げられた時に共に復活し、こうしてキリストの生涯に伴うことを事前に象徴する。『彼らは、もはや自分のために生きず、死んで生き返った方のために生きる』という気構えが求められている。(コリント第二5:15)
そこに証しとして加わる聖霊は、彼らがキリストの道に召されたことをその本人と周囲とに知らせ、更なる信仰を惹き起こすものとなった。 

それゆえに、彼らは無酵母であるかのように『罪の奴隷となってはならない』のであり、それゆえ新約聖書には聖徒らの守るべき道徳律が随所に書かれている。
 
例えれば使徒ペテロの言葉
『聖なる者に相応しく、不品行といろいろな汚れや貪欲などが口にのぼることさえあってはならない』とはキリストと死と復活を共にする者にこそ求められる聖さであり、使徒ペテロも律法の祭司らに命じられた『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』のレヴィ記20章26節を引き合いに出して『あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。』と命じているのである。(ペテロ第一1:15-16)

さらにペテロは、『世にいるあなたがたの兄弟らの中で成し遂げられている』事があるとも言う。それは彼ら『聖なる者ら』が悪魔の誘惑に立ち向かい、忠節を全うして主に続いている事であった。即ち、聖徒と選ばれた者らが契約を守って、天への召しを確実にしてゆく姿がそこにあった事を言うのである。これは即ち、神の王国の設立に向けてキリストの兄弟たちの中に着々と前進があるということである。(ペテロ第一5:9)

このように、主の晩餐の無酵母パンを食するとは、実に大きく重い責務を受け入れることである。
『招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない』と主は言われ、実際、彼らの一人一人が天で神の王国を構成しなければ、聖霊を注がれた意味も何もない。 
しかし、聖徒ではない者らからすれば、彼らの成功なくして何の希望も無いのであるから、何とか選ばれて、天への召しを受けてもらいたく、一途に願うほかない。 


◆無酵母パンの共同体

さて、一枚の無酵母パンを分け合った十二使徒を象徴し、聖なる者らの全体も「ひとつの体」に召されていると使徒らは言っている。
やはりパウロも『パンは一つであるから、わたしたち多くの者も一つの体なのである。なぜなら、わたしたち皆が一つのパンに与るからなのだ。この点で肉のイスラエルを見よ。犠牲の供え物に与る人々は、犠牲の祭壇を共にするではないか。』というのである。(コリント第一10:17-18)
 
更にパウロはこうも云う。
『わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分である。』(ローマ12:5)

これは即ち、協働し助け合うべき身体の各部のように、聖霊を注がれた人々の姿を有意義に語っているだけでなく、無酵母パンに預かる事のもう一つの面を表している。(コロサイ3:15)

パウロは書簡の中で『すべての聖なる者』[πάντας τοὺς ἁγίους]という言い回しを度々に用いている。
これは「キリストの肢体を構成する全体」を意味しており、この『共同体・交わり』[κοινωνία](コイノア)とは無酵母パンの食事を介するもの、つまりキリストの体に預かる者の意であるから、『わたしたちが裂くパンは、キリストの体に預かることではないか。』(直訳「我らの分けるパンはキリストの体の共同体(コイノア)ではないか」)とパウロは確かに言っている。(コリント第一10:16)

『共同体・交わり』[κοινωνία](コイノア)とは、ギリシアのポリス(都市国家)についての在り方やその民会(議会*)を指して、多くの哲学者の論じるところであり、パウロの当時まで、その政体の如何が論じらて来ていた。*(エクレシア「市民評議委員会」の意)
従って、パウロの語るコイノニアでは、『聖徒全体』の在り方を方向付けているのである。確かに、彼らはいずれは十四万四千人からなる都市国家『神の王国』、『新しいエルサレム』というポリスを構成することになろう。

おそらくは第一世紀中に使用され始めていたであろう冊子「ディダケー」の主の晩餐の祈りの言葉には、『このパンが山々の上に撒き散らされていたのが、集められてひとつになるように、あなたのエクレシアが地の果てからあなたのエクレシアに集められますように』とあり、これはパンによる共同体(コイノニア)が認識されていることを物語っている。(Did9:4)

従って、キリストの体を表す無酵母パンを会食することが、『聖なる者らの交わり』の共同体、即ち「エクレシア」(召し出された者ら)を生じさせたと言い得る理由がある。それは「教会」でもなければ「会衆」でもない。より高次な聖徒の交わりの共同体(コイノニア)であり、聖霊がその証しを成して導き集めたもの、それがエクレシアである。これは人が作ったものでもない。(ヘブライ12:22-24)

この無酵母パンは、こうして聖徒をキリストの体に一致して在らしめ、その天界への望みをもたらし、個々の聖徒を繋ぎ、キリストとの一体化を与えるばかりか、聖にして超越する神自身とも結びつけて、その『子』として共同体ごと迎え入れるものである。

無酵母パンのひとつの体で結ばれた聖なる者らには、様々に異なった教理や儀礼で分裂するようなキリスト教界の有り様を呈することは在り得ない。地の果からであろうと聖霊がこれらのパンを集め、キリストの身体の全体が組み上げられ、神のポリス『新しいエルサレム』となって、地上にその姿を象徴的に現す時が必ず来よう。それが「エクレシア」(召し出された者ら)であり、キリストの体である「無酵母パンのもたらすコイノニア(共同体)」なのである。

パスカで無酵母パンを食し、キリストの霊体に連なる者らが地の四方から集められ、遂にキリストの体が組み上げられ、神殿が建てられること、これが無酵母パンの奥義というべきであろう。





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このような理解は、「主の晩餐」において無酵母パンという表象物の意義を把握する助けとなる。
それを食す者はキリストの身体に預かり、霊体への復活または昇華を予期する。

また、地上に生きる間にも、キリストの一部として、その復活した命の内を歩んでいることになる。

加えて、それぞれがキリストの肢体の一部を構成し、多くの兄弟らと一致したエクレシアを構成するのである。

これは『新しい契約』によってはじめられたことであり、キリストの死を通してその身体が捧げられ「天からのパン」となったからこそ、聖徒らが受けることのできた神からの格別の賜物である。

弟子らすべてにとって、キリストの御体はまったく「奇跡のパン」という以外にない。
それは聖なる者らに霊に生きる命をもたらし、千年期を越えてはすべての肉なる者にも永生を与えるものとなるのであるから。



 「キリストと共に復活し生きる」



2017年のニサン14日は4月9日の日没と共に始まり10日の夕刻に終わった。

筆者は東京板橋区内にて「主の晩餐」を行った。
ほかに「十四日派」に倣い行われた方は以下に連絡を乞う。

 quartodecimani(a)hotmail.co.jp

 林 義平 宛て 


お知らせを頂戴した結果は以下の通り
 (在4/26)

北海道:2か所(道央/道南)
青森県:1か所
埼玉県:1か所
東京都:1か所
富山県:1か所

合計人数:8人


なお、来年2018年のニサン14日は3月29日(木)の日没を以って始まる。







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