今日の水のバプテスマの意義



今日、キリスト教に帰依しようとする人々が当たり前のように受ける水のバプテスマであるが、その意義には何があるのだろうか?

結論から言えば、キリストの水のバプテスマとは、それを望んで受ける人が、ナザレ人イエスをキリスト=メシアとして認め、そこに救いがあることに信仰を働かせたことの表象である。

しかし、この記事では、マラキの預言にみられる『契約の使者』とそれに先立つ『使者』、即ちバプテストとメシアとが共に施した水の浸礼の異なる意義を探る。その理解の切り口は「契約」である 。

マラキの預言の第三章はこのように書き始められている。

『見よ、わたしはわが使者を遣わす。彼はわたしの前に道を備える。
また、あなたがたが求める主は、突如としてその家(神殿)に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来る。
このように万軍のYHWHは言われる。』


さて、キリストに先立ちヨルダン川で祭司ゼカリヤの子ヨハネが『悔い改めのバプテスマ』を施し始めたのが、水のバプテスマと云うものとして初めて聖書に現れている。

もちろん、祭司らの水の洗いという、聖職に携わる前に義務付けられた潔めや、民の儀式上の浄めなどがこの以前から存在してはいたが、神殿祭司でない預言者から民が授かるような宗教儀礼は初めてのことであった。

即ち、ヨエルの『YHWHの大いなる恐るべき日が来る前に』、『わが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたの息子、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る』というレヴィ族の神殿祭祀を超えてゆく新たな進展への神の布石とも云える。(ヨエル2)

その先には、メルキゼデクの如き天界の大祭司制度が見えている。レヴィ族に依拠しない、イスラエルの全体が担う、まったく新たな祭司職への出立である。
エジプトの奴隷状態から脱したイスラエルは、モーセに率いられて紅海の水から救い出され、シナイ山麓で律法契約に入って以来、レヴィ族による祭司制度を行って来た。

使徒パウロは、紅海を渡ったイスラエルは『モーセへのバプテスマを受けた』と記したのは、旧契約とその祭祀へと民の心を整える役割としての出来事であったことを類比しているようにもとれる。

だが、ヨハネとイエスによるバプテスマは、最終的にレヴィに属さない新たな大祭司だけでなく、新たな祭司団、新たな神殿、新たな至聖所を築き上げるものとなってゆく。それこそは地上のひな型が指し示した天界の事象というべきであろう。やがてヘロデ神殿も去ってゆき、『エルサレムでもないところで』『霊と真理により崇拝』する時節の到来が近付いていたからである。(ヨハネ4)

そこで、バプテストの『荒野の叫び』は、イスラエルの新たな旅立ちを促す預言者の宣告、遥かな荒野の彼方からショーファールを吹き鳴らすその響きであったと言えよう。では、この民族は腰を上げて、新たな祭祀、また約束の地に達するであろうか?

彼の浸礼が表す『悔い』とは、律法契約の不遵守の後果としての第一神殿の破壊とバビロン捕囚を経て、契約の箱と聖籤を失い、イスラエル民族には律法契約に対する罪の意識が広く浸透していた一方で、パリサイ派や書士や学者のような誇り高い支配層では、律法条項を墨守することになお固執するという、別の態度が見られていた。
だが、この気位の高い層は比較的に富裕であり、そうでなければ保てない清めの水準に居ることに慢心があった。

このイスラエル民族の状況下で、野の人「バプテストのヨハネ」が唱導した水のバプテスマは、貧しく清さの基準に達しない庶民層が神に立ち返る道を開くものであり、不安定化していた律法契約について、アブラハムの子孫、即ち『契約の子ら』であるイスラエル、またヘブライ人の原点とも言える「荒野」*から神に向かわせ、その関係を修復するよう『心を整えさせる』ものとなり、預言者エレミヤに予告されていた『新しい契約』の到来に備えて人々を準備させるものであった。
*(「シャッダイ」は荒野を意味するとの説もある。ヘブライの語源「イブル」は定住者との対照としての遊牧民を表す)

即ち、イスラエル民族について律法契約から新しい契約へと、ヨハネとイエスのふたつの水のバプテスマが媒介となって繋いでいるのである。このふたつは、共に人を水に沈めてから起き上がらせるという死と再生を表す見た目は同じでも、その意味は異なっており、一方は律法契約の終点に位置し、もう一方は『新しい契約』の始まりに位置している。これらは共に、律法祭祀とは別に、「荒野」で進んだ神の経綸の展開であり、不安定化していた律法制度を遥かに超える重要な意義があった。

そこで、多くのイスラエルの民がヨハネからの水のバプテスマを受ける中で、ヨハネはパリサイ人ら指導者層への施しは拒絶している記述も聖書にあるが、そこに律法契約に対するパリサイ派らの見方の異なりが裁かれている。(ルカ7:30)

つまり、彼らが律法を遵守するなら、依然として神の前に『義』を得られるものと思い込んで、メシアという救いの手段にも、律法祭祀の以前に想いを振り返らせる「荒野」というイスラエルの原点からのヨハネの声にも耳が塞がれていたのであった。

そこにナザレ村から来られたイエスが、そのヨハネから水のバプテスマを受けられたが、「アダムの罪」も、「律法の呪い」をも負わないイエスが受けた水のバプテスマは、民の一般が受けたものとは性質を異にしていた。

イエスの受けた水のバプテスマでは、水から上がったその場で聖霊の注ぎが起こっており、神の信任の言葉をヨハネは聞いて証しを立てている。そのときを以ってナザレのイエスがキリストの任命を受けるという格別の儀礼となった。

こうして水と霊によって神の子の『初穂』となるべき者(キリスト)が最初に現れた。
更にキリストは、自らが受けた復活を通して『兄弟ら』*の中からの『初穂』ともなってゆく。(ヘブライ2:11/コリント第一15:27)*(真実のイスラエル「アブラハムの裔」を含意)

したがって、ヨハネの水のバプテスマには、民への『悔い』の表象と、メシア叙任の機会と紹介の働きがあったが、そのどちらもが『新しい契約』に向かってゆくべき神の経綸の中で、欠くことの出来ない重要性を帯びていた。


◆主の御前を行くエリヤ

ヨハネのバプテスマが、イスラエルの悔い改めによる『整えられた民』をキリストに対して備えた事により、イエスは、メシア信仰を持った者らから、やがて聖霊を注がれる者らを召し出して、人類に祝福をもたらす真実のアブラハムの裔、『神のイスラエル』を集め出し、『神の王国』を構成させることが、遠くエレミヤの預言した『新しい契約』の意味するところであった。

その過程に於いてバプテストは、マラキが予告したように『契約の使者』の前に使わされる『エリヤ』であった。(ルカ1:17/イザヤ40:3)

マラキは、その『エリヤ』が行う働きを次のように述べている。
『彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、呪いをもってこの地を撃つことのないようにするために』(マラキ4:6)
だが、マラキの預言書には水の洗いについては書かれていない。

ゆえに、キリスト・イエスはバプテストのヨハネについて『エリヤは既に来たのだ。だが人々は彼を認めず、好きなようにあしらった。人の子もそのように人々から苦しめられることになる。』と語り、弟子らはマラキの予告したエリヤの実体がバプテストであったことを悟る。(マタイ17:3)

ユダヤの体制派はバプテストにせよキリストにせよ、その到来の意味も価値も悟るに至らなかった。
彼らの関心は律法墨守によって打ち立てる自らの義であり、神に是認を与えさせることであった。
しかし、それは真逆に作用することになる。神の前で彼らは自己に確信を持っており、その心はニュートラルではなく頑なであったのだ。

バプテストのヨハネは書士やパリサイ人が浸礼を受けることを拒絶し『既に、斧は木の根元に置かれている』と警告したが、まさしく彼らはモーセに固執しヨハネの宣明した『悔い改めのバプテスマ』に価しなかったばかりか、キリストに対して到底『整えられた民』ということもできない。これらの体制派の者らに『新しい契約』は眼中になく、また、紅海のモーセ以前に立ち戻る必要を感じもしなかったに相違ない。それをヨハネへの扱いによって実証してもいるし、この後には他ならぬキリスト自身に対してもそうしたのである。

福音書の中では、ユダヤ人一般の中に、マラキに予告された『エリヤ』を待つ姿勢があったことが何度か描かれる。
バプテストが現れると民は『あなたはエリヤか』と彼に尋ねているうえ、イエスが奇跡の業を行うようになると、次にはそちらがエリヤではないかと言い出している。
使徒らは主に『なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか』と尋ねており、奇跡を行うイエスを、人々はエリヤの蘇りであるとする解釈もあったことが記されている。

また、後には磔刑に処された主が『エリ、エリ』と神に叫ぶと、ユダヤ人らはエリヤを呼んでいると思い、『エリヤが来るか見てみよう』とまで言っている。

つまり、ユダヤ体制に属する人々の多くにとってエリヤは必ず『到来することになっている』のであり、『すべてを回復する』ことに期待も掛けていた。(マタイ17:11)
裏を返せば、律法を行いながらも「ともかくエリヤを待てばそれでよい」という観念に凝り固まって、預言の言葉に込められた精紳に無感覚になっていたというべきであろう。

だが、彼らはその『エリヤ』の到来に気付くことはなかった。
なぜなら、イエスが『人々は彼を見分けなかった』と言われる通り、バプテストの服装にエリヤを見出すことも、彼自身が『自分は荒野で叫ぶ声』であるとイザヤに注意を向けても、それに気付かなかった。原因は、『エリヤ』の意味することへの洞察を怠っていたからである。

イスラエルの悟りの悪さはこのときばかりではなかった。
古代には、バアルの祭司ら450人を相手に勝利した預言者エリヤを、イスラエルは支持せず、却って追いたてたので、彼はユダの荒野に逃れて死を求めたものの、神の慰めを得てホレブの洞窟に身を隠し、カラスの運ぶ食物で飢えをしのぎ、イスラエルには入らず、異邦人のザレファトにあっては、明日の糧も知れぬ極貧にある寡婦の世話を受けねばならなかった。それほどまでにエリヤを冷遇したように、バプテストのヨハネをも扱ったのがこのイスラエルの民であったのだ。

そのうえ、バプテストのヨハネという先駆者を正しく評価もしなかったユダヤ人は、やはり奇跡を行う人であるイエスをも逮捕し総督に処刑させたのであり、そうまでしておきながら、自分たちに遣わされたメシアがいよいよ息を引き取る最期に在っても『エリヤが来るか見てみよう』と言い放ったのである。何と言う無感覚!その麻痺した良心は当然にメシア信仰を見出しはしなかった。


◆『契約の使者』

ヨハネの施した水のバプテスマには、律法の罪と呪いに塗れたイスラエルを、律法契約に代わる新しい契約に備えさせ、マラキの言う神殿に突然に来るという『契約の使者』の先駆者としてアブラハムの子孫に注意を促す役割があったと言える。

そのバプテスマを受けた人々は、もはや律法の遵守による義の獲得に期待を寄せるのではなく、ペテロが言い表しているように、律法が『先祖もわたしたちも負いきれなかった軛』であることを認め、民は契約を破ったと語ったエレミヤが伝えた新契約、即ち『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す』という『この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない』つまり、律法契約のような書かれた条項を守る務めとは異なるものが予告されていたのであった。(使徒15:10/エレミヤ31:31-32)

パウロはこの対比について『文字は人を殺し、霊は人を生かす』、また、律法に従う者を『奴隷』とまで言っている。(コリント第二3:6/ガラテア4:25)

だが、律法契約による『義』を諦めるほどに大きな意識の転換がイスラエル民族にできるだろうか?
そこにこそバプテストの登場の意義があった。
つまり、『新しい契約』の締結は、シナイ山麓で民の皆がモーセの前に集められ、民の全体が山を眺めるような仕方で行われものではなく、血統によらず、密やかに信仰という個人的に選ばれる者とのものとなるべきものであった。

ヨハネが施す水のバプテスマによって、マラキ以来の四百年の預言の沈黙に終止符が打たれ、『わたしの後に来る方は、あなた方に聖霊と火とのバプテスマを施すであろう』と述べてメシアの到来を宣告し、同時に祝福と呪いとをイスラエルの前に置いたのである。

聖霊と火という、この正反対の二種類のバプテスマは、実際にあのシャヴオートの日の聖霊降下と、西暦七十年に起こったエルサレムと神殿の火の滅びとに成就した。即ち、蔵に納められるべき小麦の穀粒と、火で燃やされるしかない籾殻の処置の違いである。
その結果といえば、聖霊の注ぎによって『新しい契約』に含まれた『小麦』は、ユダヤの全体からすれば僅かに数万人という有様であった。(使徒21:20)

こうして、イスラエルへの印となったヨハネの活動は終わった。
そのバプテスマは、律法契約に属していた民の『悔い』の象徴であり、謂わば律法契約からの出口であったので、メシアの仲介する『新しい契約』に入るべく『水と霊から生まれる』ために、まずヨハネの『悔いのパプテスマを受けた後に、イエスの名による水のバプテスマを新たな契約への入り口とする必要があった。⇒ 「羊の囲いの例え」

また、この事には事例を挙げることもできる。それがパウロのエフェソスに於ける活動のひとつで、おそらくはヨハネのバプテスマを唱導するばかりであったところを、後にエフェソスでキリストの名によるバプテスマを受けて聖霊を注がれたアポロという人物を追って、同じくアレクサンドレイアからエフェソスに来ていた、聖霊を知らず、ヨハネのバプテスマだけを受けていた*十二人ほどの人々に、パウロがイエスの名による水のバプテスマを施して後、皆が聖霊を注がれたという出来事に表れている。(使徒19:1-7)
即ち、イエスの名によるバプテスマには、メシア信仰が求められているのである。
*(ヨハネの死後もその弟子らによって、その名による浸礼が継続していたのかもしれない)

他方で、ユダヤ教の外にいた異邦人らはヨハネの名によるバプテスマは必要としておらず、諸国民からの聖徒らはそのままイエスの名による水のバプテスマを受け、その後に聖霊の注ぎを受けた。

また、あのシャヴオートの日に新契約の実体が到来して以来、ヨハネのバプテスマは必要が無くなっていたであろうことは、使徒ペテロの『バプテスマを受けよ、然すれば聖霊を受ける』とディアスポラの民に宣言していた姿に見ることができよう。

イエスは、この水のバプテスマと聖霊領受の件を、サンヘドリン議員のニコデモスに『水と霊から生まれなければ、だれも神の王国に入ることはない』と明言している。
この『神の王国』は所謂「天国」ではなく、アブラハムに約された『地上のすべての種族の祝福』となるべき『選ばれた民』を表すのであるから、この新生に入らなければ誰も救われないということではない。


◆準備のできた民を用意する

では、ヨハネによる水のバプテスマの役割は何であろうか?

福音書によれば、イエスのバプテスマは主の弟子らによって施され、それを見たヨハネの弟子らはこの件を師に報告をしているが、同じユダヤでバプテスマを施しているイエスの弟子らの方に人々が行ってしまうことを危惧していた。

だが、ヨハネは『花嫁を得るのは花婿であり、その友人は花婿の声に喜ぶ』と言い、『あの人は増えてゆき、わたしは減ってゆくべきだ』と言うのであった。

そこでヨハネのバプテスマは、それを受ける者を契約に結び付けるものではなく、恰も新婦を新郎に紹介する仲人の役割を持っている。
(但し、ペンテコステ以前にイエスの水の浸礼を受けた人々にも自動的に聖霊が降るようになったとは思えない)

即ち、旧契約を総括する点で、彼は旧約の最も偉大な意義を持っており、新契約へとイスラエルの民を橋渡しする役割があり、その目的からすれば、イエスの側に律法下の人々が流れてゆくことこそが、彼の存在意義であったと言えるのである。

この点を例示するのが、羊の囲いの例え話であり、律法体制という囲いの壁の中に保たれていたアブラハムの子孫らに対し、囲いの戸口番に相当するヨハネは、戸口に来たイエスをメシアとして紹介する。その良い羊飼いは、自分の羊のすべてを戸口からすべて出してしまうと、羊たちは豊かな牧草地に導かれることになる。(ヨハネ10)

これは即ち、メシアに従うイスラエルの人々には聖霊の注ぎを受け、アブラハムの相続財産である約束の成就に預かることを指していよう。

だが、そうしなかった羊について、このヨハネ10章の例え話には無いのだが、律法体制という囲いそのものの崩落が実際の歴史には待ち受けており、それは西暦七十年に恐ろしい現実となってユダヤのキリストの世代に降り懸る。
以後、ユダヤ民族は神殿祭祀と、そこに『置かれる』という神名の発音を失って二千年が経過しようとしている。明らかに神の契約はこの血統からは去った。

やはりヨハネは『わたしは水であなたがた(ユダヤ人)にバプテスマを施すが、わたしの後から来られる方はあなたがたに聖霊と火とのバプテスマを施すであろう』との言葉の通りに、先駆者の彼のバプテスマは聖霊をも火をもユダヤ人にもたらすものとはならなかったのである。

だが、それでもイザヤの云う『主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。』という荒野で叫ぶ声を聞かせ、『準備のできた民を主のために用意する』との働きは全うしたというべきであろう。『荒野に広い道を通せ』とは、真の意味でのバビロン捕囚からの帰還、律法という『欠けたところのある契約』からの脱却を促していたともとれる。

このヨハネは、『見よ!世の罪を取り去る神の子羊』としてナザレから来られた方を指し示し、水のバプテスマを施したときには、聖霊が鳩の形をとってその方に降り、『わたしはこの者を是認した』との声を聞いたことを証ししているのである。

こうして荒野に現れエリヤの服装をしたヨハネは、イエスをメシア、また『新しい契約』を司る『契約の使者』としてイスラエルに紹介したのであった。それは「羊の囲い」の「戸口番」として、真の牧者が誰かを示したことになる。

当時の状況を俯瞰すると、『主の前を行く』彼のエリヤの役割は、イスラエルの誰にでも益をもたらしはしなかった。かつて、捕囚から帰還する人々が『残りの者』と呼ばれたように、神に立ち返りメシアを見出す人々となる『門は狭められて』おり、そこには淘汰され清めらえるべき条件があった。
マラキはそれを『見よ!あなたがたの喜ぶ契約の使者が突然に神殿に来る。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。』と語る。(マラキ3:1-2)
即ち、次なる契約とはただアブラハムの血統に自動的に与えられるものではなかったのである。そこには厳しい選別が待ち構えていたのであった。


◆終末の『契約の使者』

そしてマラキの預言を見るなら、このエリヤは終末にも介在するであろうことが示唆されていることに気付く。

『見よ。わたしは、YHWHの大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。』とマラキは語っている。(マラキ4:5)

確かに、メシアのユダヤへの到来は、律法体制の終りの日であり、ほとんどのユダヤ人は自分たちが『査察されていることを見分けなかった』のであった。(ルカ19:44)
西暦七十年を見た世代は、ユダヤ人にとっては『大いなる恐るべき日』を体験したのではあるが、マラキが云うような『YHWHの大いなる恐るべき日』が、律法体制の終りの日だけを意味したとは思えない。少なくともキリストの終末預言と黙示録が、それをただ過去の出来事にすることを許さない。
またエレミヤも、神には『諸国民との論争がある』と述べ、また、『地に住む者に尽く臨む剣がある』とも預言している。(エレミア25:29・31-32)

この点で、この世の全体が裁かれるという終末をもたらすのは、やはりキリストの再臨であって、その臨在により『羊と山羊』がその左右に分けられ裁かれるという、この世という体制の終りの日となるのである。(ヨハネ16:8/マタイ25:31-33)

では、この世の終末の前に、あるいはキリストの再臨の前の「エリヤの現れ」に相当する何者かついて聖書はどう語っているだろうか?


その前に、キリストの再来について情報を整理しておくのが良いであろう。

多くのキリスト教徒は、マタイ福音の終りにある『いつの日もあなたがたと共に居る』という主の言葉のままに、使徒らの日以来、変わらずにキリストが信徒と共に居ると信じているからである。

もし、そうなら『わたしは再び来て、あなたがたを迎える』との言葉、またミナやタラントを始め、『自分の主がいつ帰って来られるのか、あなたがたには分からない』とのイエス自身が語られた不在をどう整合させることができよう。

主は、世の者らに対しても、使徒らをはじめとする弟子らに対しても『不在』の時期があることを再三明言されているのである。

それに加えて、主は『誰も働くことのできない夜』が来ることをも告げられたが、そのヨハネ福音書の言葉は、イエスが『父である神の御許から世に来て、世を去って再び御父の御許に戻られる』こと、また、『世はもはやわたしを見ない』ということとが関係していると捉えないわけにはゆかない。

そうでなければ、キリストの再臨も、『再び来る』ことも『戻る』ことも、様々な例えに示された『あなたがたは、その時を知らない』という繰り返された言葉を空虚なものにしてしまうからである。
主の再臨は、最初の現れがダニエルによっておおよその時期を教えられていたのとは対照的に、時の不可知性が他ならぬイエス自身によって繰り返し強調されているのである。

この点を例証するのが、ダニエルに与えられた七十週の最後の一週についての謎である。

ダニエル書の第九章のガブリエルの言葉を追ってゆくと、六十九週を経てメシアが現れると、次の週の半ばで『犠牲と供え物を絶えさせる』という言葉を、メシア自身の血の犠牲による律法祭儀の意味の終了と捉えるなら、確かにイエスの活動期間が三年半であったことに符合し、その間にバプテストのヨハネより『偉大である』という『大いなる者らと契約を結んだ』ということが、マラキの『契約の使者』としての働きであり、あのシャヴオートの日を以って、その契約が発効したことも聖霊の注ぎによって確認できる。

だが、第七十週の半ばまではこのようにメシアの業績を追えるが、残りの三年半はどうなったのか?
そのまま継続していれば、西暦36年の秋に「ダニエルの七十週」は終わりを迎え、第二のメシアであるイエスによる大事業の収穫、即ち『至聖所に油を注ぐ』という意義の重い結末を迎えていることになろうが、その年に何か目立ったことは特にない。

当時には、未だヘロデ神殿はそこに在り、「エレミヤの七十年」を導いた第一のメシア、キュロス大王によって、今日の考古学からも正しく70年間の至聖所の不在の後に再興されたレヴィ族祭司らによる神殿祭祀は、イエス後の西暦36年にも継続していたままであり、そこでどう『至聖所に油を注ぐ』必要があったろうか。

また、『彼は一週の間に大いなる者らと契約を取り結び』とある以上、メシアの死によって断たれた最後の一週の残りの半分がそのまま継続したのなら、西暦36年の秋を以って『大いなる者ら』(ヨハネ10:29)との契約締結は終了したと見做すべきことになる。

だが、イエス自身が終末預言の中で、聖霊を注がれる弟子らがなお将来に存在すること、また、彼らが為政者らの前で論駁できないほどの言葉を語る事、また黙示録では、聖徒らが『地を何度も打つ権威』を持つと明示しているのであるから、人類史のクライマックスを成すに違いないその時に、神が御力を見せないと考えるのは余程無理である。(黙示11:6/ミカ7:15-17)

ならば、終末に存在するであろう新たな弟子らと『新しい契約』を締結する必要が残されており、そのためにダニエルの第七十週目の残りの三年半が、人に知られることのない不定の将来に起る臨在の間を指し示していると捉えるなら、そこに黙示録の中での『二人の証人』の活動期間である『三年半』に相当する『42ヶ月』また『1260日』を見出すことになる。(黙示11:2-3)


さてそこで、イエスの帰天に際してバプテスマを授けるよう命じられた、マタイ福音書の末尾にある『いつの日もあなたがたと共に居る』との言葉の、その『あなたがた』というのが誰であるかが問われなくてはならない。

これが、ヨハネ福音書に中で、主が『父がわたしにくださったものは、他のすべてより偉大』と言われたところの『わたしの羊』と呼ばれる者ら、またダニエル書では、メシアが契約を取り結ぶ相手である『大いなる者ら』、つまり、契約に預かり聖霊を注がれる『聖徒ら』であると見做すことはけっして理に適わないことではない。(ヨハネ10:29)

『いつの日もあなたがたと共に居る』と語りかけられたのは使徒らであったが、『わたしの命じたことを守り行うよう教えよ』ともある。そのように一定の基準を満たすべきなのは、『新しい契約』に預かり、『聖なる行状と敬虔な想い』を保つべき『聖なる者ら』ではないか。(ペテロ第二3:11-)

むしろ、イエスが『いつの日もあなたがたと共に居る』、また『二人か三人がわたしの名に拠って集まるところには』とも言われた相手が誰であったかに見えるものがある。

主が共に居るという『あなたがた』また『二人か三人』に数えられるべき契約に参与している人々が存在しない期間については、当然ながら主もそこには居ない。そこでこれらの言葉を、教会員ら「クリスチャン」らが自分に当てはめ、幸福感に浸るのはまったく的外れなことになり、それぞれが排他的に振る舞う諸宗派にキリストが親しいわけもない。


◆終末のエリヤ

こうして、主の再来、また臨在について考える基礎を据えることができ、ここに於いて我々は、メシア=キリストの終末での活動に先立つ何者かについて推論する準備が整ったことになる。
終末に於いてキリストが再び契約を取り結ぶ42ヶ月、1260日が始まり、『聖なる者ら』が再び世に現れる前に、やはり預言者エリヤに相当する何者かを見出すのであろうか?

先に、黙示録11章の中での『二人の証人』について見たが、この二人はまず『聖なる者ら』であることは、奇跡を行い崇拝を立てるモーセとアロン、エリヤとエリシャ、ゼルバベルとエシュアという三つの二人組によって表象されているところに見えている。

その中にエリヤが含まれていることが、幾らかの混乱を招くかもしれないが、奇跡を行う預言者の姿と、『エリヤの霊を持って歩む』ヨハネに間には異なりがあった。メシアの直前に現れたゼカリヤの子ヨハネがエリヤさながらの奇跡を行う人ではなかったように、終末のメシアの帰還の前に現れる『エリヤ』に相当する者も、エリヤそのものでないに違いなく、終末のときには『ラクダの皮衣』を身に着けている必要もないことであろう。

だが、マラキに予告された『整えられた民』をキリストに向けるという働きを行うであろうことは果たされるに違いない。

その民とは、契約に入る以前に心構えの出来た人々であろうし、当時には律法契約への呪いに深い悔いを見せていたことであろうから、終末に於いては人類全般に宿るアダム由来の『罪』について認識し、それを悔いている人々であることが類推でき、その人々は、自分は既にキリストの犠牲によって赦されているなどとは思わないであろう。

むしろ、旧来のキリスト教の有り様を嘆いてさえいないようならば、あの蒙昧のままでは、終末に再開される契約に対して『整えられた民』とは言い難い。

イエスが聖霊について『真理の霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる』と予告しているように、聖霊が再び注ぎ出されるときにはキリスト教も再生されるに違いないが、キリスト教界の現状では、既に自分たちに聖霊はあるという確信のこもった自己義認的な言い分の中で、聖霊が降下する必要さえ認識されておらず、むしろそれが起こるときに反対し兼ねないほどである。

この情況では聖霊を迎えることも、キリストの帰還を待ち、そのための宴会を用意をしている姿も期待できるものではない。これでは、イエスの語られたような『用意のできている』状態ではない。(マタイ24:44)

その何時とも知れぬキリストの帰還について使徒らに警告した主の言葉の多くは、終末に聖霊の注ぎが起こって聖徒らが現れた後、精錬の期間を経てからの彼らの裁きの確定ともなる『臨在の顕現』の決定的な時をも言い表しているが、ルカ福音書の12章では、ペテロの貴重な発言一言が記録され、その前後で主の語る言葉の『時』が、『臨在の顕現』のその時ではない、その前の『知られざる時』について語ったものであることが明らかになってくる。


◆忠実な思慮深い家令

ではまず、その場面を読んでみよう。

『腰に帯をしめ、灯火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸を敲くとき、すぐ開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは幸いである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。

主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちは幸いである。

このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るか分かっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。
あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。

するとペテロが言った、「主よ、この例えを話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、すべての者のためなのですか」。

そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて*、時に応じて定時の食事を備えさせる忠実な思慮深い家令は、いったい誰であろう。
主人が帰ってきたとき、そのように努めているのを見られる僕は幸いである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて*自分の全財産を管理させるであろう。 *(カタステーセイ/動)[直未来能3単;マタイでは前半にアオリスト時制が用いられている]

しかし、もしその僕が、主人の帰りが遅いと心の中で思い、男女の召使たちを打ちたたき、そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目に遭わせるであろう。
主人の意向を知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多く鞭打たれるであろう。』(ルカ12:35-47)


婚宴から戻る主人を迎える従者という例えはここばかりでなく、マタイ福音の方の終末預言の中に二回あり、ひとつは十人の処女に関するものと、もうひとつが上記のルカとほぼ同じ内容で、家のすべてを司ることになる家僕の例えとなっている。

『主人の家』また『召使たち』が何を意味するのかについて、それがキリスト教会であるとか、信者たちであるとかのそれらしき確証は無い。その辺りもはっきりとはしないのだが、その例えの訓戒は重く厳しいものとなっている。あるいは、広く多様なキリスト教探求者らについての求められる姿勢を説いているのかも知れない。

そこで、ここで言われた『腰に帯を巻き』『灯りを灯して待っている』というのは、聖徒らが天に召されるか否かの決まるキリストの『臨在の顕現』の時を用意して迎えよという事なのだろうか?

ルカ書の中では上記のように、ペテロがその話の対象者が誰なのかについて尋ねているのだが、そこには普段からイエスの例え話の意味するところを聞く事の許された身近な弟子らと、一般の群衆との異なりが背景として在り、使徒らへの言葉は新約聖書に記されたので、今でこそ誰でも読めるのであるが、本来は使徒らへの解き明かしは、彼らが代表して受け取った聖徒らへの言葉となっている箇所が多い。

だが、上記ルカ12章の家令の件についてはペテロの問いの一言の存在によって示唆されている事がある。

つまり、ペテロが、この話は使徒らに語っているのか、それとも聴くすべてに語っているのかを尋ねたのであるが、これが大いなる立場を得る聖徒への訓戒なのか、それとも信者一般であるのかの質問について、イエスは一向に構わず話を続けている。
そこでペテロは答えを得なかったが、それはなぜだろうか?

考えられる解答は、イエスの『いったい誰であろう』の言葉に集約されているからである。これが語られた時点で何者かが分からない。それで答える必要が無いのである。
なぜなら、この『家令』の存在が終末の聖霊の注ぎによる聖徒らの再出現に先立つものであるなら、『家令』が聖徒か信徒かという問いそのものに意味が無い。ペテロの問いは直接には答えられなかったのだが、彼の質問の本質には答えられており、しかも意義深い。

したがって、この『家令』とは、何者か分からないながら、聖徒らが現れるための母体である『シオン』という名の女を養う働きを為し、時経て主の臨在を迎えるなら、聖霊を注がれる者らを整え準備する者のことを言うのであろう。そのように努めているところに主人が帰ってきて、その姿が目に留まるならその家令は幸福な扱いを主人から受けることになるという。

奴隷が畑仕事をしたからといって、食事のときに主人が慰労して給仕することなど有り得ないというイエスの言葉を載せているのもルカ福音書であるが、この例えでの『忠実な思慮深い家令』は、まさにその異例な扱いをうけると云うのである。

だが、もし『主人は遅い』と想い、『仲間を打ち叩き』強制して、勝手な宴会を始めているところを見られるようなら、その者らは厳しい処置を受け、外部の不忠実な者と共に裁かれる。善悪双方の差にはたいへんに大きなものがある。

これが誰にせよ、終末に向けて人々を整え、キリストの帰還に備える者が必ずや存在すること、また、罰を受ける家令についての記述が幾分詳しいところからすると、これらの罰せられる者らも実際に存在することになるのであろう。帰還の主人を迎えることに心を砕かなかったからである。

このように主の不在と、帰還に備える動きがあることは確かであるに違いない。然もなければ、これらの言葉が福音書に複数回記される謂われも無かったであろう。

それはまた、このルカ福音の前にある「夜中に三つのパンを執拗に求める」例えでの『求め続け、探し続けるなら』『聖霊を与えて下さる』というキリストの言葉を彷彿とさせるものでもある。(ルカ11:5-13)
即ち、聖霊とは時が経過すれば自動的に降下するというものではけっしてないということが強調されている。もちろん、年代計算など意味も無く、却って非人格的またオカルト的でしかない。

『求め続け、探し続ける』とは、自分の利益を後に慢心なく神の意図を探る姿勢であり、他方で厳しい処罰を受ける家令の方は、自分の意志を優先して主人の帰還の時期を評価してしまっており、これは自己本位であって忠実とは言い難い。

それに加えて注目すべきは、身勝手な宴会に同調した者らもそれぞれの程度に応じて鞭打たれていることである。知らなかったにせよ幾らかは罰せられるのである。だが、それが主人の意向に沿わないことであるとまったく自覚しない同調者がいるのだろうか。

ともあれ、キリストの帰還の時期をどう過ごすのかという問題は、神の業に協働しようと思うそれぞれの個人にとって軽い問題ではないことがこのように記されている。


次に、この『家令』という主の帰還に先立つ役割を得る者と、かつて地でのキリストの現れに先んじたバプテストのヨハネとの関係を考えてみよう。

ヨハネが『整えられた民』をバプテスマを通して備え、そこにメシアが現れて彼がイスラエルに紹介したのであれば、キリストの再来に先立つ者も、エリヤのような奇跡を行うことはないにしても、ヨハネのように『エリヤの霊と力』を以って努めるのであろう。

バプテストのヨハネから類推すると、その者は、キリストの再来を印付ける『聖霊』の再降下に注意を向け、それを注ぎだされる人々を世に紹介するような役割を負うと見ることができる。

そこで、ヨハネをエリヤの再来とは気付かなかったユダヤの民と同様に、『家令』の働きに気付かない人々がいるとしても不思議はなく、特に聖霊は既に有ると唱えるキリスト教の主流派にとって特に難しいものとなるのであろう。

そこで『家令』とその世話を受ける人々に世からの無理解と困難があるとしても不思議はない。黙示録の12章の女は、子らを生み出すのに難儀しており、サタンはかつてメシアにしたように、生み出されたところを襲おうと身構えている。これはまさしく異教マゴイの業である。メディア人のマゴイ族はキュロスとイエスの誕生の時期に共に殺害する計略に用いられ、共に失敗している。終末に於いて、あるいは異教の何者かが罠を仕掛けるのかもしれない。(黙示12:1-4/マタイ2:1-18)

この辺りが『女』シオンの忍耐のしどころであるようで、シオンがその子らを生み出してしまうと、この女へのサタンの攻撃はうまくゆかず、却って女は安全な『荒野』に自分の場所を見出し、聖徒らの活動期間中は守られている。(黙示12:14-17)

そのときに、『家令』が聖霊を受けた聖徒となっているのか、それとも引き続き信徒として留まり、北の王からの恐喝に立ち向かう『君侯』となるのか、今は何も分からない。(イザヤ66:21/ミカ5:5)

しかし、『家令』が聖霊降下に向けて人々を整えるところでは、バプテストのヨハネと似た限界を有するように思える。
それが即ち、聖霊をもたらさない水のバプテスマの施しである。


◆今日の水のバプテスマ

パウロがエフェソスで遭遇した12人ほどのユダヤ人の集団は、ヨハネのバプテスマを受けてはいたが、聖霊を注がれていなかった。
そこでパウロがイエスの名によって水のバプテスマを施し、按手してゆくと彼らにも聖霊が降り、異言や預言を始めている。(使徒19:1-7)

この事が明らかにしていることは、同じ水のバプテスマであっても、ヨハネの『悔い改めのバプテスマ』では聖霊をもたらすことはないということであり、それは彼自身も『わたしの後から来る方は、あなたがたに聖霊と火とでバプテスマを施すであろう』と言っていた通りのことである。

イエスの水のバプテスマは、メシアとしての血の犠牲の捧げられる以前から弟子らを通して施されてはいたが、実際に聖霊が降り始めたのは、あのシャヴオートの日からのことであった。

その間の両者の水のバプテスマには相違がはっきりとはしていなかったに違いなく、実際、ユダヤ人の清めの問題で、ヨハネの弟子らが報告して、『あの方もバプテスマを施し、民はそちらに行ってしまうのです』と苦情を述べている。それに対するヨハネの答えは『花嫁を持つのは花婿だ、わたしは花婿の友人の声に喜ぶ・・・あの方は増えてゆき、わたしは減ってゆくべきなのだ』というものであった。(ヨハネ3:22-30)

しかし、イエスのバプテスマは始まっていたものの、そこで聖霊は注がれていない。未だキリストは神の御許に上らず、『栄光を受けていなかったからである』(ヨハネ7:39)
だが、キリストが帰天して十日後の五旬節の日には、聖霊がはっきりと公示されつつ弟子らに降り、契約が発効した証しが与えられている。

ここでマラキの預言は再び我々の想いに浮かぶものとなる。曰く『見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。・・あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る』(マラキ3:1)
そしてダニエルの七十週目の間に『契約を取り結ぶ』というメシアの働きは、先を行くヨハネには無いものであった。

そこで、『忠実な思慮深い家令』がバプテスマを施すとしても、それは意義は違えどもやはりヨハネの限界を超えるものとはならないはずである。それがかつてのように、律法に対する『悔いのバプテスマ』となるわけではないとしてものことである。なぜなら、『契約の使者』が不在である以上、水のバプテスマを施しても聖霊が降ることはないからである。

即ち、『神と子と聖霊の名に拠ってバプテスマを施す』ことも、やはり『三年半』が始まっていないうえ『契約の使者』も不在で、実際に聖霊も地上に無い今日、誰にも施すことができないと言い得る理由が生じるのである。

だが、一度メシアが帰還されるなら、その後のバプテスマこそが、人に契約と聖霊とをもたし得る『神と子と聖霊の名による』ものとなるのであろう。

そこで、終末の場合に、誰も聖霊を受けてはいない中から、どのようにそのように高度なものを最初に施せるのかという心配は要らないように思える。

というのも、最初に『水と霊から生まれ』たメシアも、祭司ゼカリヤの子ヨハネという、賜物をもたらす聖霊なく、何の奇跡を行うことのなかった人物から水のバプテスマを受けている。
また、使徒らによって始められたイエスの名によるバプテスマにせよ、そのときには彼らに聖霊は降ってはいなかった。ただひとり、彼らの主だけにそれがあったのである。

やはり、キリストの臨在に至る前の水のバプテスマは、聖霊の降下をもたらすことはないに違いない。
それまでのバプテスマは、受ける人を『新しい契約』に入れるものとならないに違いなく、伝説はともかくも、誰にも正しく聖霊が降ったということを、第三世紀以後の資料に見聞した事が無い。

したがって、今日に水のバプテスマが施されるなら、それはアダムの罪に対する悔いと、キリストを通して救いがもたらさせることへの信仰を表すバプテスマとなるものとなるのであろう。
その意味では、ヨハネの水のバプテスマの意義も、主の臨在まで持続していると見ることができよう。

また、水のバプテスマが献身を表すというのも的外れであろう。神の子と認知されるのは聖なる者だけであり、誰か他の者が献身したと主張しようと、助けが必要なのは人の方であって全能の神ではない。キリストでもなく、裁かれるべき罪人が献身していったい何を為すのか。それはむしろ、自分の是認を求めての代価のつもりではないのか。

しかし、人が押しなべて『罪』を悔いる必要があり、エデンの園で『女の裔』が語られて以降、創造神YHWHが進めて来られた偉大なる経綸の最終部分が使徒後の千八百年の沈黙を経て、不定の将来に『神の王国』として成就する大いなる福音の意義を終末の前に教える者が誰かいるなら

神、子、聖霊という事柄の意味を知らせ、世界の不定の人々の心を整えさせるという、『主の前を先だってゆく』務めを果たすべく、アダムからの『罪』への悔いと、そこからの救いをもたらす神の手立てであるキリストに信仰を表す水のバプテスマを施したとしても、主の臨在の前に在って『家令』が誰であるのかが謎である以上、咎められる謂われはないことであろう。

バプテスマをこのようなキリスト教の大枠から理解し、その者が受浸するか否かの判断は、バプテストの時のユダヤ人と同じく、人々各人の信仰に任されている。かつて『エリヤ』の到来に洞察力を以って悟る必要があったように、終末の先立つ時期にも、その何者かを見分ける価値観は必要となることであろう。

ただ違うことは、ヨハネには神からの各別な任命が為されていたが、終末の主に先立つ者については、現状まで特にその定時の給食を施している行動以外には何も語られていないことである。その者の任命は、キリストの再来の後に為されるのであり、例え話の中では、それ以前の行動の評価が任命をもたらしている。

したがって、キリストの臨在に先立つ者は、任命されたからではなく、自発的に行動を起こしていると言い得る理由があり、それは象徴的糧食を定時に供給することに加え、水のバプテスマを施すことも含まれ得ると見做すのは的外れではないであろう。

そして更に将来、世界の人々がキリストの左右に分けられる終末に、なお水のバプテスマがあるなら、それを受ける人に、神の経綸に対する信仰を表す印となる可能性も開かれているであろう。
その時には、聖徒が天界に揃って『新しい契約』も成就して終わっており、水のバプテスマが新たな段階を迎えるということもあるのかも知れない。
もし、そうなら、それは人を救う信仰の表明となるのであろう。





    新十四日派  ©2017 林 義平