不正な管理人の例え
予備知識
ヨシュア記第2章・第6章、ルカ第16章、マタイ第10章・第25章、黙示録第11章



ルカ第16章でイエスの語られた、解雇される「不正な管理人の例え」の解釈が難しいというのは、ひとつのヴィジョンが欠けているためであり、以下の視点を補って観るなら、非常に鮮明な理解に即座に至れるものである。読者の中には、以下を少しだけ読み進めるだけでそれと気付かれるであろう。
そうでなくとも、その状況について幾らか思い巡らすだけで、そのヴィジョンに於いてこの例えとの整合性があることは理解されると思われる。

この例えは一見すると、金銭の神(マモン)崇拝に堕落するな、少しは宗教的な仲間に持てる財産を使え、という教訓にも見えるのだが、そうではない。例えの中で管理人の扱う財産は他人のものなのである。
また、宗教家が信者の寄付金への金離れの良さを推奨するためのものであるわけもない。

ではこの例えの意味はどうなのか。


◆不義なる善

さて、平時には起らないようなことが、危急の時においては起ることがある。
ルカ16章にある「不正な管理人の例え」は、普段の正邪の判断では転倒を招き混乱するように見えはするが、これは常に道徳的であることに努めるキリスト教徒には分かり難いものながら、この例えは世間一般の人々が普段縁遠いキリストに、また延いては神との関わりを僅かな時間の内に築くためには、まことに得難く貴重な訓戒となっている。ゆえに、この話は、キリスト教の外の人々にとって、それも終末という特殊な時期に於いて無類の救いをもたらすことであろう。

ときに、義が不義になり、不義が義となることがある、と言えば、不正を避け正直に歩もうと日々努めている方々からすれば、首をかしげられるかもしれない。だが、聖なる書物はそれを確かに例示しているのである。そこでまず、旧約聖書の故事から話を起こさせて頂きたい。

旧約聖書もヨシュア記に入ったところ、即ち、『約束の地』を手前にしたイスラエルから、二人のスパイがカナン人の城市であったエリコに入ったときに、その街の一人のカナンの女が示した判断がイエスの例えを理解するための典型的な例であった。

カナン人の諸族は、パレスチナへの入植を窺うイスラエル民族の前に猛烈な恐怖を懐いていた。
イスラエルを率いるヨシュアは、ヨルダンを渡る前から武備を固める城市エリコに二人の間者を放ったのであるが、その二人は平凡な旅行者を装い、危険を避けるために夕刻に娼婦の家に入った。

だが、この二人の偽装は不慣れで上手くはなかったか、或いは迫りくるイスラエルへのカナン人らの警戒心がそれを見抜くまでに高まっていたというべきか。
早くもエリコの住人らに素性を見抜かれていたスパイらの命は、その夜のうちに風前の灯火となっていた。

案の定、エリコの王はこの娼婦ラハブの家に使いを差し向け、その二人はイスラエルの間者であるから差し出すようにと言って来た。
さあ、ここで娼婦ラハブの対応はどうであったか?

『確かにその人たちはわたしの所にきました。しかし、わたしはその人たちがどこからきたのか知りませんでした。黄昏時、門の閉じるころに、その人たちは出て行きました。』と言うばかりか『急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません』と言ってのけたのである。
これは王や城市への裏切りではないか!しかも、この娼婦は念入りにスパイらを屋上の亜麻の茎の中に隠していたのである。これは捨て身の嘘であったに違いない。城市の防衛にピリピリと気が立っている周囲の誰かにラハブの計略が気付かれるなら命があったろうか。

そこで聖書やキリスト教は嘘偽りを禁じてはいないのかと、ただ訝るとすれば、その人は不正の横行する世を渡るには無防備で純粋に過ぎ、人間の不倫理性の本質に蓋をして見ないふりをしているに等しく、その取澄ました観点から「不正な管理人の例え」を理解しようとするのにはかなりの無理があると言うべきか。

また、キリスト以外にいったい誰が嘘をつかずに生きていられよう、聖書の中には族長ヤコブをはじめ、しばしば虚言を弄した例がある。そこで誰でも「自分には嘘が無い」と言えば却って最大の嘘つきではないか。ただ、喜んでそうするのか、仕方なくするのかの違いがあり、貪欲なだけの詐欺師と、重病の告知にたじろぎ、人の益を図って考え込む利他的な人が同列に「嘘つき」とされるべきだろうか。その不正の目的も動機も様々であり、ラハブも居ればアナニヤとサフィラも居るではないか。

そしてラハブはその行動の理由を明かして彼らにこう言っている。
『YHWHがこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたを非常に恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震え慄いていることをわたしは知っています。』『あなたがたの神YHWHこそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。』

だが、この娼婦は抜け目なく、彼らを助けたからには『わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいまYHWHを指して誓い、確かなしるしをください。』と交換条件を提示する。

捨て身の覚悟でここまでされてはスパイであった者らに是非も無い。既に放たれた追手はヨルダンの渡し場に向かい、城門も閉じられている。
そこで密かに彼らを逃すための赤い紐が、城壁の上に位置していた娼屋から下げられた。
そこで二人はYHWHに誓って、この赤い紐を垂らしておくならその屋の中の魂には手を掛けないと請合ったのであった。

二人は、紐をつたって城壁の外に降り、女に言われたように三日の間、ヨルダンとは反対側の荒れた大岩の転がる山地に身をひそめ、遂に生還を果たし、エリコの慄きを指導者ヨシュアに報告する。
ここに於いてラハブは、エリコの王に対する同朋としての情報提供の機会を逆用して、イスラエル民族を新たな友とすることに懸けたのであった。

やがてイスラエルがエリコ城市を囲むとき、ラハブはその赤紐を垂れ、自分と家族とを救うことになる。イスラエルを率いる士師であるヨシュア自ら、その二人の者にその家族の救援を命じていたのであった。

これがオリエントの王国の尊大な文書であれば、遊女に助けられたスパイの話なぞ、とても碑文に刻めたものでもないであろう。しかも、そのスパイの働きが征服を成し遂げるうえで殊更に重要であったようには読めないではないか。むしろ付録のようであり、偽装下手な素人スパイは言わば『小さな者』である。この挿話の主役はまったく異教徒の一娼婦ラハブであり、どう読んでもその内密な行動に焦点を合わせて書かれているのだが、むしろ聖なる書にこれが記述されたからには、カナン人の一娼婦の狡知であった行動に焦点を合わせたなりの意味があるに違いない。

聖なる書によれば、こうして救われたラハブは、その後ユダ族のサルモンと結婚し、イスラエルの血統に連なることになり、神が殲滅を命じたカナン人でありながら、あのルツ記に登場するボアズの母となり、キリストを生み出す家系に組み入れられたのである。しかも、そのキリストの弟ヤコブによって、『ラハブはその行いによって義とされた』と書かれるに及んだのであって、奨励はしないにせよ「嘘はいけません」などとは書いていない。あの「義人ヤコブ」がである。(ヤコブ5:12)

カナン人と言えば、これに加えてギベオンという城市が、街ぐるみでイスラエルに偽りを語ってはその交友を得た。しかし、その不正を知ってもイスラエルは、偽りまでして和を求めた彼らを救うために夜を徹して行軍し、ほかのカナンの軍からギベオン人を保護するために戦っている。彼らカナン人は、イスラエル入植に際し一人残らず滅びに捧げられるべきと定められていたにも関わらずギベオンは城市のまるごとに神の大いなる救いに与っている。

また、聖書中には後代のイスラエル王国の時代、アハブ王のときにカナン系フェニキア人から王妃としてイゼベルを招き、バアル崇拝を導入してしまった王家のために、神YHWHの預言者らが捕らえられ殺害されるという状況にまで追いやられたときに、王家の臣オバデヤは王室に知らせずに百人ものYHWHの預言者らを洞窟に匿い、日々の糧も供していたという事が記録されている。もちろん王に従うべきオバデヤは自分の命の危険を承知の上でのことであった。(列王第一18:3-4)

これらの事跡では、体制の不義による危急の時に世間一般の善悪規準を超える場面が起り得ることを教え、それは神と世とが対立し、どちらをとるかの焦眉の問題がそうであると前表しているのである。(ヤコブ2:25-26)



◆次なる機会

さて、終末のキリストがこの世界に臨御を果たすとき、それは『この世』という不信仰な体制全体の危急の場面であり、そのとき「アダムの罪」が有る人類は皆がカナン人のような立場に居る。例外は『新しい契約』に与り聖霊注がれる者だけである。(エレミヤ25:31)
イエス自身がマタイ福音書の中で明らかにしたように、再臨するキリストは『すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。』と予告されているのである。(マタイ25:31-33)

その分かれ目となるのが、キリストの『兄弟たち』に便宜を図るか否かとされている。
この兄弟たちというのは、パウロは明かすように『キリストと共同の相続人』であり、『新しい契約』に参与することで『聖霊に導かれる神の子』と認められた者らであり、新約聖書を通して『聖なる者たち』と呼ばれている初期の弟子らで、あのペンテコステの日を以って聖霊注がれ、歴史上に初めて登場した者ら『聖徒』である。
確かに彼らが存在したことは、カトリックの聖人伝承に語られるように、原始キリスト教での奇跡を行う殉教者の数々、即ち「聖人」を意味しており、当時のように聖霊で奇跡を行う弟子らの存在は、第二世紀辺りから絶えて久しい。

福音書が揃ってイエスの言葉を記す通りに、聖霊の伝える音信のために終末に於いて再び現れる『聖なる者たち』は、体制からの強い迫害の下に曝されることになるとされている。彼らは会議場の為政者らの前に引き出され、そこで驚嘆すべき聖霊の言葉を語ると福音書は何度も語るのである。
彼らが世からの圧迫に曝される理由といえば、彼らの話す内容が『この世』とは厳しく対立する『神の王国』の支配の到来を知らせるからであろう。(マタイ25:40/ローマ8:14-17/ダニエル2:44)

彼らはキリストから与えられる知恵を語るという。即ち『聖霊が語る』のであるから『だれも論駁できない』宣言を『為政者と諸国民に対する証し』として語るのだが、1260日という三年半の宣教を終えたときに、七つ頭のある野獣、即ち強力な公権力の集合体によって死をも迎えるというのである。(マタイ10章/黙示録第11章)

マタイに含まれる終末預言では、キリストの兄弟たちは『飢え、渇き、逃避行に在り、衣類なく、病気で、獄に繋がれている』。これらの苦しみは『この世』との対立がもたらすことは、彼らが迫害されることになるというイエス自らの語られた訓戒にも、パウロの手紙にも、黙示録にも繰り返し記されており、聖霊の注がれた使徒や初代の弟子たちに対する『この世』からのかつての仕打ちを越えるほどの悪辣な敵意が終末の『聖徒たち』を待ち受けていると予告されている。
(マタイ25章・10:16-36/ローマ8:35-36/コリント第一4:11/黙示録12:10-11)

そこで、それらの『聖徒』のために、自分の持てる何かしらのものを以って、信仰のうちに援助を与えるとすれば、それによってキリストの兄弟たちが益を受け、迫害を耐え忍び、或いは逃げ延びることを助けることが出来、その助けはキリストに対して行ったと見做され、神の是認に至ることにもなるということであろう。

そこは迫害下にある人々を助けるのであるから、一食の提供であるのか、獄を訪れて一着の衣類でも差し入れるのか、移動を助けたり、囮となって拘束を避けさせたり、或いは、自分の管轄下で内密に釈放したり、匿ったり、見逃したりする権威の行使であるのかも知れない。それらは本来なら不正な行いとされるところながら、真に善悪を弁えるべき場面も生じ得るのであり、この世の秩序が崩壊するに及んで人は誰に義理立てすべきだろうか?

それは「命のビザ」をユダヤ人のために外務省の意向に逆らいつつ、職権と個人能力の限界まで査証の発給を続けた杉原千畝、また辞職覚悟で国の外交と異なる英断を下し、万を越える人々を極寒と窮乏のシベリアから救い出した樋口季一郎中将のような働きであるのかも知れない。或いは、ナチスの強権を欺き続け、ガス室に送られるべき千を越える人々を雇用リストに挙げて終戦まで守り切った一人の実業家オスカー・シントラーはどうだろうか。これらの事例は国家という正義に抗うものでありながら、慈愛という人間にわずかに残された「人の美」の金字塔であり、今ではセピア色の時代のものとなったが、その利他的慈愛の美しさではけっして色褪せてはいない。しかも、彼らは「人として当然行うべきことをしたまでだ」と言うことであろう。あれらのヒューマンドキュメンタリーを前にして、信者の寄付金狙いにキリストの例えを利用する宗教家との落差はあまりにも大きい。やはり「信仰」というものは、その人の価値観次第というべきなのであろう。

それら危急の事態での助けがあるためか、終末ではキリストの兄弟のすべてが殉教を遂げるわけではなく、黙示録によれば、これらの聖徒の全体を表す『二人の証人』の死、つまり宣教の業が終わって後、なお僅かな三日半を経ると天への全体召集が行われるとき、地から直接召される「七千の名」があるという。その召しの異変に地上の体制派は気付くことになるという。(黙示録11:7-13/列王第一19:18)

それが黙示録第11章での、七千人の名前の消去(死)であり、官憲がいくら探そうとも聖徒の残りの者らの姿は地上のどこにもない。キリスト・イエスの体が墓から消滅したように、聖徒ら全体の消滅も『世』に対する大いなる不思議な異兆となるであろう。それはハガイの預言をも含意するであろう『大きな地震』ともなるというが、その驚きをもたらすのが即ち、不可視性を表す『雲の内に取り去られる』ことである。しかし、彼らを支持した人々の働きは人類社会を揺るがすまでの奇跡に結実し、特に実際的な助けを与えた人々の善意は、彼らと共に天に達することになろう。

この残った『聖徒』の召しが「携挙」と誤解されているのだが、けっして「クリスチャン」方を終末の患難から保護するために天に挙げるのではなく、むしろ逆であって、迫害に立ち向かい『新しい契約』を地上で全うし終えた人々の天への召しであり、『神の王国』『神のイスラエル』が天界に揃うときとなる。その直前には死せる聖徒らの天への復活が僅かに先んじているとパウロは書いている。(テサロニケ第一4:14-17)
それは聖徒の全体が迫害により証しの宣明を行えなくなって後の事となろう。太古の過去から呼び出された象徴的野獣が『二人の証人を殺す』とある。

さて、キリストの前に裁かれる人類の全体は、これら『二人の証人』に対して各自どう振る舞うであろうか?

これは、そのときに各人に出来る事があるとすれば大きな幸いの門口に立つことになる。そこに永遠に亘る祝福を得る機会が開かれているからである。
主イエスはこうも言われていた。
『あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである』。『まことに言うが、わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人は、けっしてその報いを受けないことがない』。(マタイ10:40-42)

何という幸いな機会に恵まれたことであろう。キリストの弟子への僅かな善意が神からの報いを得るという。
では、そのような義なる行いはどのように行われるだろうか。



◆不義の富による義行

イエスはルカ福音書第十六章に於いて、この義行を描き出す例えを語られている。
それが「不正な管理人の例え」であり、この話は平時には正しくもない行いが、非常時には義なる行いと成り得ることを指しており、聖書中に在って今は難解であっても、その時に至れば極めて明瞭、且つ眼前の危機を分かつ重要な教訓と変じるものである。

この裕福な家の管理を任されていた家令が解雇されるのはつかい込みが告発されたからとなっているが、このきっかけが何かは意味がない。注目すべきは管理人という仕事がなくなる状況の方である。失業したら、その後どう生活を維持できるものか。
それは危急の時であり、一度職を奪われれば彼が管理していた一切の財とも何の関わりもなくなってしまうのである。その解雇を前にした家令の状況は『この世の終り』を迎える世の人々と相似関係にある。今や、この世の秩序は終わろうとしているときに至れば、この世の人々は解雇される管理家令のような状況になるであろう。だが、彼にはまだその手の内に主人の財産を扱う自由が残されている。

そのときには、まだ財産や権威や権力の幾らかが委ねられていたとしても、また、それがどれほど多くも、『この世』が終わりに瀕していては、もはや一時のものでしかない。

この家令の例えを難しくしているのもが、「他人の富を不正に用いて」というところであろう。ラハブの事例では、周囲の社会との対立の中で起こっていたのであり、不義や不正が善になるとは、こうした対立が生じているところでこそ不正も誉めるべき行いと成り得たということである。

そうなれば、その人は最後までこの世の秩序の方に忠実であるべきだろうか。
いや、神が『この世』を裁こうとしているのであれば、世への忠実さにどんな善があるのか?また、その報いに何が残るのか? 何も残りはしない。

そこで、この例えの管理人がし始めたように、まだ残された僅かな間に自分の自由になる財を『友を得るために』用いることこそがまったく賢明なことになる。
もちろん、それは平時であればただの不正、不義な行いでしかないのだが、危急の時であるためにそれは善と変じる。それゆえ『不義の富』を用いて急いで『友』を作るべきであり、この場合には『神』に忠実であろうとすれば『富』に忠実ではいられない。

そこで、この管理人の主人もこの不正を知ったときに誉めた。
こうした類いの不正は『この世』ではごく日常のことであり、多少の不正でもしなければ富も得ないことをこの主人も自ら味わい知っていたという設定であろう。であるから娼婦ラハブのように、この種の巧妙な立ち回りに於いて『この世の子らは、光の子らよりもその世代では賢い』のである。

キリストの『是は是を』という言葉に限らず、山上の垂訓を体現できる人がいれば、その人はキリストであり、血の犠牲で人類を贖えるであろう。
だが、それに準じる人々が居る。即ちキリストと共なる『聖なる者たち』であり、その道徳水準からすると、『この世の子ら』のように狡猾に立ち回れるものかには難しいところがあろう。『キリストの丈の高さを目指し』『誓ってもならない』という正直の極みを目指して地上を歩む人々だからである。元々がそのような奸智の器でない。(マタイ5:33-37)

だが、『この世』が終わろうとするときには『YHWHの怒りの日には、銀も金も彼らを救うことができず』『彼らは銀を外に投げ捨て、金は芥となる。』と言うのであれば、滅びに面した『この世の子ら』の『この世の富』への忠義立てに何の意味が残っていようか。
既に『この世』の方が神から糾弾されている状況で、「自分は不正行為などできない」と言うだろうか?では、その「正しさ」とはどんな「正しさ」なのか!(エゼキエル7:19/ゼパニヤ1:18)

だが、その事情を弁えるなら、平時では『不義の富』であっても、終末には『聖徒』またキリストという『友を作る』ための善なる原資となり、その報いと言えば『永遠の幕屋への招待』となる。これ以上の財の使い方があるだろうか。俗世の儲けの判断からしてこれほど「割のいい」ものもなく、その主人もその「やり口の巧妙さ」を誉める以外にないであろう。

であるから「『不義の富』とは、俗世で稼いだ報酬のことだ」と言う理屈は成り立たない。例えの中での財産の勝手な調整は確かに主人への裏切りであり、身勝手な他人の財産の流用を『不義』と言っているのである。
であるから、それを根拠にこの世で儲けた金は「不義の富」であるから宗教団体に寄付しろといえば、この例えの難解に見える表層を突いた信者への次元の低い詐取ではないか。

だがもし、危急の終末で『不義の富』を窮境にある『光の子ら』のために使える立場に在りながらも使わないなら、その機会の扉は永久に閉ざされることになろう。『不義による富』を用いてすぐに友を作らねば、『この世』と運命を共にすることになるからである。

ゆえに、『もしあなたが不義の富について忠実(ピストス)さを示さないなら、誰があなたに真実のものを託す(ピステウオー)だろうか』とは、忠実を示す相手は財産の持ち主ではなく、『聖徒』のためであり、延いてはキリストであり神と言えることになる。そこに『信仰』(ピストス)が関わると言える。

世人にしてみれば、手許に有って自分の自由にできる世的な財すら神への忠節に用いないなら、『この世の子ら』がいったいどんな霊的なものを差し出せるというのだろうか。しかも、自分の懐を傷めもしない他人の富でさえ使わないのであれば、誰が本当に自分の財産を、後になってその者に託そうなどと思うだろうか。その者には与えても何もしない不誠実が既に見えている。

他方、終末のそのときまで『この世』の者として神から隔てられてきた人々であっても、その人が行政や司法の権威者であろうと、いや、そのように権限があるほどに、直ちに手許にあるもので神の側を支持できる多くのものがあることになる。つい先刻までこの世を代表するような身分であったゆえに、むしろ多大な貢献の機会に恵まれるのである。

他方、非常に乏しく明日をも知れぬ僅かな手持ちといえども、あのザレファトの寡婦のようであってさえ、自分と息子を後にして、イスラエルから迫害の危険を逃れて来た預言者エリヤに、「残された最後の一食」を供したことで、以後三年半に亘る飢饉の間中、不思議にも毎日容器から無くならない油と麦粉の祝福に預かっている。これもまた大きな酬いであった。(列王記第一17:8-16/黙示録12:14)

しかし、この時代のイスラエルの民といえば、エリヤ唯一人さえ受け入れず、この預言者の逃避生活を支えたのは神が用いた一匹のカラスであった。その後も、やっと受け入れたのはイスラエル人ではなく、カナン系シドン人の貧窮に喘いでいたその寡婦であったのだ。ではイスラエルはいったい何をやっていたのかといえば、バアル崇拝と対決して唯一人勝利したエリヤの奇跡を、あれよあれよと眺めはしてもこの預言者を顧みなかった。
当時のイスラエルはエリヤほどの預言者さえ放置し、アハブやイゼベルの脅威から保護しようとする者も皆無であったのだ。アハブの長子アハジヤの代になってもエリヤの命は狙われ続け、遂にエリヤは炎の兵車に乗って天空に去り、人知れない場所へと移され、モーセ同様にその墓も遺骸も知る者はいなかった。

そこでイエスはこう言われた。
『当時のイスラエルには多くの寡婦がいたが、エリヤはその中の誰の許にも遣わされないで、シドン地方のザレファトの寡婦の許にだけ遣わされたのだ』。それをきいたイエスの同郷者らは面子を潰され、大工の息子イエスに向かって激怒したのだが、何という的外れなことか。彼らはエリヤを超える人物を悟らず、イエスに信仰はもちろん何をするでもなく、自分を役立てようともしなかった。それでは偉大な預言者を世話をするのはカラスで良いとしていたようなものであろう。その原因といえば、あのラハブとは正反対に信仰が無かったからである。むしろ、彼らはイエスの殺害を企てたのであった。(マタイ13:58)

ここに、どんな宗派に居るかということを超えた善悪の事例があり、神は契約の選民さえ不信仰のゆえに用いず、部外者を用いるという事が起り得るのである。(ルカ4:25-26)
さて、キリスト教界は聖徒が現れる終末にそれを見分けられるものだろうか。

だが、主はこう言われる。その手に管理が委ねられているものでキリストの兄弟たちの『最も小さい者』に対してたとえ『一杯の水を飲ませる』としても、その報いは必ずや失われないと。

人は一定の善良さに達していれば神の前に善人であるというわけではない。
信仰とはエデンでそうであったように倫理上の選択であって、敢然と何かを選びとって支持し、また何かを退けることである。まして知識がそのまま信仰なのではない。イエスの時のユダヤ人の正確な知識は吉と出たか凶と出たか?

そこで自分は信仰に在ると思いつつ「何事も神の思し召し」とでも言って何もしなければ、神の側を選んだことにもなりはしない。「信仰」に泰然としているようでいて、自分に何かできるところを探す判断に怠慢であり、実は神への協調性や忠節心も欠落しており、『忠節な愛』もアガペーもそこに無い。行動によって信仰を見せよと書いたヤコブは『人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である』と言う。つまりその場合に、知識は災いとなるのである。(ヤコブ4:17)

だが、神の業は様々な人々の自発的忠誠心によって飾られ栄光を受けるに違いない。
聖書とは、神と人の関わりの合作の記録であり、ただ神がその意志を遂げた知らせなのではない。カナンの女ラハブの記述も神と人との関わりを語る一つの価値あるドラマである。

それであるから『ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である』と見做される理由がここにある。自分の用いようとするものが『この世』では『不正の富』とされようと、対立の中で手許にあり自分に使えるはずのその財をさえ使わないとしたら、もはやその人には神の前に用いる物は何も残されてはいないではないか。

その人はそれ以上の選択をしないからであり、『一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』とは、神とこの世の対立が先鋭化する終末の一時に於いて焦眉の問題となり得るのであり、そこに裁きがある。それを逃したら「次」は無い。(マタイ25:45)

だが、世の終末の時期に『聖徒』の奇跡の言葉、『神の王国』の征服が近いことを告げる音信に信仰を懐く人々は少なくないことを新旧の聖書が予告している。
聖徒を予告する黙示録の『蝗』の去った後に現れる『騎兵隊』の数は二億であるという。聖徒に触発され、似た業を行うのであろう、これらの人々の活動は『三分の一』を攻撃し、『大いなるバビロン』の滅びに道を開くものとなる。(黙示録9章)

また『シオン』を目指す人々は水の流れのようであり、公権力に使嗾して『聖徒』即ち『二人の証人』に死をもたらす旧来の組織宗教の群れである『大いなるバビロン』の滅びを喜ぶ人々の声は、膨大量の水の音響のようであるという。その水も、元はバビロンの座すユーフラテス大河の水であったのかも知れない。(黙示録19:1-2)


エリコのラハブが聖なる書を通して我々に示したこの「不正行為」が如何に貴重な報いをもたらしたか、終末にそれがどのような実態となって実現するのかは、その場に面する各個人によって様々に判断されるのであろうが、それが何であるのかは今は具体的には分からない。

だが、自分の手にあるもの、管理を任されたもの、それを危急の状況下で我々は眼前にするかも知れない。それらがその人をして『永遠の天幕』へと導くことになる。即ち、神の側を選び取ってその是認に至るのである。その時になって、今信仰や知識を持つと唱える「クリスチャン」なりは『この世』の義に拘り、自分の行いの正しさを訴えては却って『この世』と運命を共にすることになるつもりだろうか?

だが、神への善意や利他心を行いで示してこそ、それが『信仰』と言えるとキリストの弟ヤコブは言うのである。これは実に大きな教訓となろう。ただ心の中で教理を信じていれば良いわけではないのである。ヤコブが教えるように、出来ることさえ行わない「信仰」というものは見えることがない。存在しないのだから。

神の経綸を知り、それに自分の願望が一致したからと「信じた」としても、ヤコブによれば、その人が「信仰を持った」と言えない。まだ行動を起こして神の側を支持している様子を見せてはいないからである。臨御のイエスの前に裁かれる『山羊』も『わたしがいつ行わなかったでしょうか?』と問うのである。本人の気持の上では、キリストの味方のつもりのようである。だが、行動では敵のように振舞うことになる。

そこで聖霊の無い身であれば、誰もが裁かれるべきアダムの罪人であることを忘れてよいだろうか。いつ神はその人を事前に是認したろうか?その点で人は皆カナン人のようであり、聖霊注がれた真のイスラエルの友となるべきではないか。(マタイ25:44)

そして、この管理人の例えを想いの片隅にでも覚えていた人であるなら、実際にその千載一遇の機会が到来したときに、鮮明に為すべき事が何かを思い起こされるに違いない。イエスは『わたしの弟子であるからと、それらの最も小さい者の一人にただ一杯の水を差しだす者が誰であれ、まさしく、その報いを受けないことはない』と言われる。(マタイ10:42)

聖霊の言葉によって世界が神と人との間に論争が生じるとき、出来ることを行って聖なる者を助けるなら、それはラハブやギベオン人のように神の側に迎え入れられることであろう。

そのときに、人は『この世』と『聖徒ら』との敵対を介して、最終的にどちらかを選ぶことが求められるのである。『永遠の幕屋』に於ける、新しい生活のために新しい友を得よ、これがこの例えに趣旨であろう。(ヨハネ第一5:19)


それにしても、聖なる書がこうまで終末に焦点を合わせているとは、恐ろしいほどではないか。
この例えを聴いていた弟子たちは、その時まず真意の会得に達してはいなかったであろう。その成就する日はずっと先であったからである。

だが、それが近付いているのであれば、人々は意味を知る必要も生じるのであろう。
だが、実際にそうする人がどれほど居るのだろうか? 誰か困った人々が居ても、いずれ「全能の神」が何とかしてくれるだろうと体制べったりで居るなら、ラハブのようではないただのカナン人に同じく、内心で何を信じていようと『友』など出来ないし、『愛』も口先だけのものとなろうから、新しい『永遠の天幕』も諦めることだ。いや、機会に恵まれていながら忠節さを示さないその人には、もとより神にも人にも関心が有るまい。







  新十四日派 ©2018  林 義平