◆「諸国民の光」となる「聖なる民」

聖書中に度々現れる「聖徒」(「聖なる者」)とは何だろうか? それは「信徒」を表すもうひとつの名に過ぎないのではないか?

では、「信じる者」(ピストス)と「聖なる者」(ハギオス)を書き分ける理由が何かあったろうか? 旧約では、イスラエル=ユダヤの民はその神に倣い「聖なる者」であるよう求められた。律法の条項を守ることにより、彼らは「聖なる者」とされるはずであった。(出埃19:1-)

イスラエル民族は、アブラハムに約束された格別な民である。 聖書では早くも創世記からこれが示されており、神はアブラハムに『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』と語られていたのである。(創世記22:18)

また、後にはモーセによって示された『祭司の王国、聖なる国民』、更にイザヤの預言した『諸国民の光』となるべき選民であった。(出埃19:5-6/イザヤ42:6)

しかし、イスラエル民族は神の前に、その律法を踏み外すばかりでなく、捕囚を解かれてなお、遂にはメシア=キリストを刑死にまで追い込んだのである。 では、『聖なる民』出現の希望は一度は選ばれたはずの民族の不行跡によって全く潰えてしまったのだろうか?(エレミヤ11:10/マタイ21:43)

もしそうなら、神の全能性、その「成し遂げる」という宣言もアブラハムへの約束も空しいものとなったであろう。 だが、聖書が旧約から新約へと進むに従い、神の全能性は『聖なる民』を出現させるに於いて、イスラエルの無能さをも補って余りあるものとなった。

というのも、律法不履行の罪あるイスラエルに対し、神はバプテストを遣わしてこの民に『悔い改め』を宣布させ、次いで遣わされたメシア、ナザレのイエスの死は、その尊い犠牲のゆえにこそ、地上に残った弟子らを仮贖罪し、遂に『約束の聖霊』を以って遂に『アブラハムの裔』、キリストの『兄弟』たる『神の子』を出現せしめたのである。(ヘブライ2:11/コロサイ1:12/ローマ8:14)

この件については、ローマ人書簡の第八章が、彼ら『聖なる者ら』の立場が如何に高いかを知らしめるものとなっている。またペテロ第一書簡も、モーセの律法契約が成し遂げるに至らなかった目的がキリストによって達成されたことを証しするものとなっている。

しかし、メシアの到来にあってさえもイスラエルの体制は、奇跡を行う人ナザレのイエスを退けるまでの不信仰を露わにしたため、結果的に『聖なる民』はユダヤ人以外から補充され、アブラハムの血統に属さなくても、アブラハムらしい特質であるその信仰に倣う者らが、そのメシア信仰のゆえにこそ選民とされ、その子孫に連なった。パウロはこれを『接木』に例えてもいる。(ペテロ第一2:10/ローマ11章)

だが、神の承認のないままに異邦人の誰でもが、自分の意のままにアブラハムの子孫たる『諸国民の光』、『聖なる者』に成ることが出来ただろうか? 多くのキリスト教徒は信仰ある自分たちが皆『世の光』であると考え、聖霊を受けてキリストが自分の中に住まうと考えている。

もし、キリスト教徒がそのようなものなら、『聖なる者』には客観的印無く、人目に曖昧なものとなり、「聖徒」であれ「信徒」であれ、どちらでもよいようにされるに違いなく、実際、現状のキリスト教界ではそのようである。

しかし、使徒言行録以降の新約の内容は『聖なる者』が何を意味し、どう選ばれたかが繰り返し記されている。 また、最後の晩餐の夜のキリストの使徒らへの言葉には、自身の去った後の聖霊の働きと彼らの関わりが説かれている。それらの言葉はヨハネ福音書の第13章以降の五つの章にわたって記されるところであり、聖霊が如何に多くの役割を担っているかが明かされている。 この「聖なる者」についての理解は、キリストの言葉と相まって、「アブラハムへの約束」という旧約からの流れの中で知ることのできるものであり、神の長い時代に亘る計画(経綸)に深く関わるものである。

結論から言えば、「聖なる者」らこそが創世記でアブラハムの子孫にもたらされると約束された格別な役割、即ち「地上のすべての家族が自らを祝福する」ための器となる者たちなのである。(創世記18:18/22:18) 神は特別な民を『子羊の血』で買い取り、その所有に帰する特別な民を用いて人類の全体を祝福に入らせようと意図された。それをエデンの園以来、悠久の時に亘り、その実現に向けて歩みを進めて来られたのであり、実に聖書はその神の足跡の記録証拠となっている。

そして、キリストの犠牲により『アブラハムの裔』は、あのペンテコステの日に史上初めて生み出され始めたのであった。(ペテロ第一3:6/エフェソス1:13-14) それは単に、キリストが自分の中に住まい、信者に幸福をもたらすというような「ご利益信仰」、どこにでもあるような凡庸な宗教とはこの点に於いてはっきりと異なっている。それはキリスト的利他心と、御利益を望む利己心程にかけ離れたものではないか。(コリント第二5:15)

即ち、エデンで失われた人類への創造者からの祝福を、生者にも死者にも回復させるための神の用いる真実のアブラハムの子孫である民『神のイスラエル』とは、水と霊によって生み出される者らでなくてはならない。即ちペテロが指摘するように「正妻サラの子ら」である。(ヨハネ3:5/ガラテア4:21-/ペテロ第一3:6)

彼ら「聖なる者」こそが、そのアブラハムへの約束に預かって、世界にキリストと共に人類支配と贖罪をもたらし、今日まで見られる世の「罪」と苦難を終わらせるための「王また祭司たち」である。つまり、「王」は支配を、「祭司」は人類の罪を除き去る贖罪の奉仕を意味しており、それを成し遂げるのが『神の王国』、真実の選民イスラエルである。(黙示録20:6)

今日まで、人類はこの「神の選民イスラエル」から益を受ける前段階にあり、特に誰かが優れて神の是認を受けているわけではない。つまり『イスラエル』の民は未だ天に集められず、『神の王国』も地に到来していないからに他ならない。その召集も到来も、なお不定の将来であることをキリストは語られている。(マタイ24:36/使徒1:7)

その民を構成する『聖なる者』、すなわち『聖徒』とは全人類を益するための器として用いられる人々を表すのであって、主に倣う聖徒には、その高い立場のゆえ、また神との『新しい契約』を守るための、生涯に亘る忠節の実証と、殉教をも辞さないキリストに続く自己犠牲の覚悟が求められるのである。(マタイ10:17-18.32-42) では、すべてのキリストの弟子がそのようにされたのだろうか。


◆天でキリストと共になる民

まず、いくつかの聖書の言葉をみてみよう。 『聖なる者』とは古代にモーセに啓示され、それを使徒ペテロがキリストの信徒の中の人々に適用し、誰であるかを指し示した特定のキリスト教徒たちのことである。 モーセを介して、神はイスラエルに差し伸べられた希望をこう伝える。 『あなたがたが本当に契約を守るなら、あなたがたはわたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる』(出埃19:6)

即ち、『祭司の王国、聖なる国民となる』ことが律法契約の行き着く先であった。 しかし、血統上のイスラエルがメシアを退け、まったく神の契約から外されたことは、西暦七十年の滅びと再建されることの無い神殿の有様に象徴される通りである。

それでも、ペテロは当時のキリスト教徒に向かってこう云っている。 『あなたがたは「選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の特別な所有に帰する民』・・(ペテロ第一2:9) ここにモーセの律法契約の目標である『諸国民の光』となる民が、血統によらない人々、『新しい契約』に属するキリスト後の弟子らの中に現れたことを知ることができる。

更に、彼らが神の所有となるために、最終的に天に召されることを以下の句が明かしている。

「彼(キリスト)が現されるときに、わたしたちも彼のようになり、彼をあるがままに見ることになるのを知っている」(ヨハネ第一3:2)

「わたしたちは彼(キリスト)の復活と似た様で彼と結ばれる」(ローマ6:5)

「わたしたちは塵で作られた様であったように、天のものである様になる」(コリント第一15:49)

「神はあらかじめ、最初に是認した者らをみ子の象りのものとするように定めておられた」(ローマ8:29)

「聖なる兄弟たち、天の召しに預かる人たちよ」(ヘブライ3:1)

「あなた方は近付いた、シオンの山、生ける神の都市なる天のエルサレム、幾万もの天使たち、・・天に登録された初子たちの集まり・・に」(ヘブライ12:22-)

「ダヴィデの家はYHWH*の前の天使のようになる」*<発音不明の神名>(ゼカリヤ12:8)

これらの聖句は、その人々が肉体を離れキリストと同じ様、つまり霊の体をまとってキリストと共になることを述べている。 キリスト教徒が、これを信者のすべてについてこのように霊者となる所謂「天国」を思い描いたとしても無理はなかったのかもしれない。

だが、すべての信徒に関してこれらが適用されて、信仰を抱いた人は皆、安楽な天に集めるのが神の企図なのだろうか。

もし、そうなら、何故に創造の神は地上に人を置いて『甚だ佳かりき』と言い得たのか。 しかも、そのキリスト教の天国への「救い」たるや、信者だけを益する閉鎖的で狭量なものとしてしまい、キリストの教えは信じる者に利己心を培わせるご利益信仰にしかならない。

信者だけの救いは、キリスト教とは神がアブラハムを通して人類全体に与えようとする祝福を独占しようとする貪欲でもあろうし、神を狭量だと宣していることにもなってしまう。そのうえ、キリスト・イエスの示した見事な自己犠牲の精神は「クリスチャン」方のために限定されてしまい、利他心は利己心に捻じ曲げられている。そこにどのようにキリストが感化を与えているのだろうか?


◆アブラハムの子孫である民

もちろん、このように天でキリストと共にされる人々にはそれなりの目的があり務めがあり、それはキリスト教徒の間で信じられている所謂、死後の「天国の至福」という終着段階ではない。
神がキリストの犠牲を以って特定の人々を地上から買い取ったからには、やはり特定の目的あってのことである。(使徒20:28)
即ち、キリストや使徒らの宣教活動は、単に信者を集めていたのではなく、『アブラハムの裔』をキリストの許へと一つに集め出していたのである。彼らこそが『神の王国』を構成し、全人類の祝福をもたらすためであったのだ。

天に行く者たちは、そこでキリストと共にどんな人にも出来ることのない壮大な業に取り掛かるのであり、それは結論から言えば地上に残る人類の罪を除く、即ち「贖罪」であり、また、その間の地上の支配という神と人への壮大な奉仕である。そこに個人の救いや安楽がどうのというのは、まるで場違いである。(ローマ6:3-5)

それゆえ、天に行く者たちは「贖罪」を行う「祭司」の職を、また支配を行う「王」の身分を受けることになる。まさしくモーセと後代のパウロが『あなたがたは王なる祭司、聖なる国民』と契約に入る者らに語ったことは、この神の人類救済を成し遂げる器が『聖なる者ら』であることを示しているのである。 すべての者が祭司や王でないように、その職を授かるのは特定の「聖霊」を地上で注がれ『新しい契約』に入った者らだけとなる。

黙示録20章6節はこう言っている。 『第一の復活に預かる者は幸いな者であり、聖なる者である。・・彼らは神とキリストの祭司となり千年の間キリストと共に王となって支配する』。

この辺りが理解されないと、キリスト教の目的がはっきりとせず、「聖なる者」についてばかりでなく、キリストが多くの例えを用いて語った「神の王国」や「聖霊」に関することも曖昧になってしまう。

今日多くのキリスト教宗派においては、信じれば「聖霊」を受け、自分の中にキリストが宿るようになると教えられている。それがその人を導くというだけのことであれば、創造の神が被造物のすべてをひとつに集め、創造された通りの輝かしい様に回復されるという、聖書に流れる偉大な意志には無頓着になるであろう。つまり、自分と身近な者が救われることを願うからである。(エフェソス1:10)

こうした「ご利益信仰」がキリスト教の「正統」を名乗っている現実は真に嘆かわしいことである。 例えれば、使徒2章38節の『バプテスマを受ければ無償で聖霊を受ける』などの言葉を前後事情も考慮無く、そのまま字面を教えられるようなこともあるのだろう。

しかし、そこでは何故、聖霊を受けたのかの理解が聖書全体を貫流する重要な問題と幾らも関連されない。 ペテロがペンテコステの日に、神との契約にあるユダヤ人に述べた言葉が、どうして自分に向けて語られているなどと捉えてよいだろうか?
彼はこれを語った人々について『 あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である』と言っているのである。

彼らイスラエルの民に約束されたメシアは今や現れていたのであり、この契約の民に属する者らが悔い改めて「新しい契約」へと転向することを、水のバプテスマで示すことにより、『主のみ前から慰め(回復)の時がきて、あなたがたのために予め定められたキリスト・イエスを、神が(聖霊を通して)遣わして下さる』とペテロは云うのである。

 この使徒筆頭が率先して語った宣告は、そこに集まってきたユダヤ人という神の契約に預かる立場の人々に言い広めたのであり、それはイエスという方こそが待望のメシアであったことを告げ知らせ、この方を退けてしまったユダヤ人一般の罪を悔い、そこから転向してイエスの水のバプテスマを受けることによって、聖霊によってメシアが彼らに遣わされることを指して言っていたのである。

であるから、弟子らだけに授けられ、『世が受けることができず、真理の全体を教える』と約束された聖霊が、単に個人の中でキリストを住み込みのコンパニオンのようにする為にあると云うのであれば、それは何と神らしくない少女趣味、また矮小さであろう。
いや、むしろ単なるキリストの内在を遥かに超える意味が「約束の聖霊」にあることは見過ごされるべきではないに違いない。(使徒2:32/ヨハネ14:26)

古来イスラエルにおいて、実際に香油を注がれる事が役職への「任命を受ける」を意味したように、後のキリスト以降の時代では、聖霊を以って油注がれる事、つまりより高次の「聖霊の注ぎ」はキリストと共になる王また祭司の一員としての「任命」を受けることを意味した。(レヴィ16:32/コリント第二5:5)

イスラエルの民にあっても、そのすべてが祭司ではなかったのであり、民のほとんどは、常に祭司たちから贖罪の儀式を受ける必要があったのである。 後のキリスト教徒たちの中にあっても、「聖なる者」あるいは「聖徒」(ハギオス)と呼ばれる者たちは、キリストと同じ体(霊体)をまとうことを象徴するパンを食して永生に入ることを表し、また人類に先立って「罪」(原罪)を許される象徴として聖餐のぶどう酒を飲み、キリストに近い者となって「新しい契約」に参与する限られた人数の人々である。(民数記3:12.13/ローマ8:23)

ゆえに、キリストの肉と血に預かることが、どれほどアブラハムへの約束を相続することになるかが如何にも明らかである。  これを諸教会では、誰にでも与えようとするところで、ぶどう酒が当然アルコールを含むので、幼児やアルコール中毒の信者に供することが憚られ、ぶどうジュースに入れ替えたり、果てはぶどう酒を省略する「一種陪餐」という不条理の横行をキリスト教界は赦してきたのであり、それが正統を唱える教会の実態となってきた。

しかし、この「聖霊の賜物」が、それ以前に働いたあらゆる聖霊よりも高い次元にあることは、キリストが犠牲の死を遂げる前には、『まだ、霊はなく、それはキリストが栄光を受ける前だったからである』とヨハネ福音書に語られているように、それまでには存在していなかったような格別な「霊」の在り方であったのだ。(ヨハネ7:39)

「聖霊の賜物」はそれを有する者に、恰もキリストのような業の一端に預からせ、同時にそれが彼らの身分を証しするものとなった。(エフェソス1:13-14) それはまた、キリストの犠牲によって初めて彼らが神の前に贖われ、罪の無い状態にあると「看做されて」下賜されたものであって、イエス自身も云われた『世が受けることのできないもの』という言葉にもその異例さが表されている。(ヨハネ7:39/ローマ8:1/ヨハネ14:16-17)


◆選びの実証

もちろん、超自然の賜物の下賜は人間のエントリーできるところではない。それゆえにも、聖徒への招命は間違いのない明確な印を伴い、他人に分からないような心理作用でもなく、公に明示されるものであって、けっして個人の内密に属する事柄ではなかったのである。パウロは聖霊の賜物の現れを『霊の顕現(ファネローシス)』と呼んでいる。それは即ち、誰にでも分かる明瞭なものであった。(コリント第一12:7)

もし、この賜物の有無が曖昧なものであれば、その貴重さも価値も危ういものとなるばかりか、偽者の横行を妨ぎ得ない。 それゆえ、人からではなく、神から任命された証拠を持つ人々こそが、アブラハムの子孫、真のイスラエルであり、モーセの契約の先に示された「王なる祭司」の「聖なる国民」であった。(出エジプト19:6)

パウロが時折「我々は王として治める」と述べる背景はこれである。それは、けっして信者の中の種類というような単純な違いではない。彼らの立場は格別な高次のもの、つまりキリストと共になる『兄弟』また『花嫁』である。 それゆえ、彼らも主と共に神を父として『アッバ』と呼びかけることができるのである。(コリント第一4:8/テモテ第二2:12・ローマ8:15-16)

本来は血統上のイスラエル民族に、メシア=キリストと共に諸国を治める「王なる祭司」の一員となる機会が開かれていたが、それは遠く古代のアブラハムに神が約束した民族の特権であったから「アブラハムの相続財産」とも呼ばれた。(ここに選民思想の根拠があった) 実にキリストの宣教の目的は、この「アブラハムの裔」を召し出すことであり、それは使徒をはじめとする初期キリスト教徒の宣教もまたその目的を有していたのである。(ヨハネ11:52/ヘブライ2:16)

しかし、イスラエル=ユダヤは民族全体としては現れたイエスを退け、ユダヤ人の中でイエスをキリストと見做したのは幾らかの「残りの」人々だけであった。(ローマ9:27)
そこで、神は血統上のイスラエルだけではなく、イエスをキリストとして受け入れた信仰のゆえに真の意味で「イスラエル」と呼ぶに相応しい諸国の人々を選んで、キリストを迎えた血統上のイスラエル人に加えたのであった。(ローマ9:24-・11:17-/エフェソス3:6)

イエスはこの事を予告して、こう語っていた。 『多くの人が東から西から来ると、アブラハム、イサク、ヤコブと共に天の王国で宴席に就くが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』 (マタイ8:11-12)
こうして、血統に関わらずキリストと天で共になる真の意味でのイスラエル、即ち「神のイスラエル」に任命を受けた人々が、アブラハムの正式な子孫の民に迎えられたので、その中では、血統上のイスラエルからの者らと異邦人から選ばれた人々によって構成されるようになったのである。パウロはそれを指して『ふたつの民』と呼んでいる。(ガラテア6:15-16/エフェソス2:14-15)⇒「去ってなお弟子を指導したキリスト 「羊の囲い」の例え」

彼らの働きは、王また祭司としてキリストと共に人類を治め贖罪を行うことにあるが、血統上のイスラエル人の目的が「諸国民の光」となることであるとされてきたように、彼らこそが世界にキリストの支配をもたらして、今日まで見られる世の苦難を終わらせる「王また祭司」となる。 キリストがユダヤ人に向かって『あなたがたは世の光』と言ったのには、この背景あってのことであり、「クリスチャン」が皆「世の光」だと言えば、それは大きな間違いである。(黙示録20:4/マタイ5:14)

おおよそ聖書というものは、アブラハムの子孫について書かれ、彼らに向けて語られたものであって、そこに『あなたがた』とあるのを自分だと思うなら、それは傲慢というほかない。 我々は、神と選民である「アブラハムの子孫」との交渉の記録から、神の悠久の御意志の如何を学ぶのであり、聖書は人生の指南書でもなく、個人の救いを求めるべきものでもない。 むしろ『生きる者が、もはや自分のために生きず、死んで生き返った方のために生きる』というのが、その精神、即ち利他的に生きるべきことを教えるのが聖書であって、ご利益信仰の余地はそこにない。(コリント第二5:15)

さて、キリスト刑死の後に聖霊の油注ぎを受け(使徒2章)、任命された聖徒らではあるが、それは確定されたものではない、彼らが集め出されるのはいまなお将来のことであり、その認証がなされるのは世の終わりに際してである。(黙示録7:3) このように、任命を受けてもしばらくは試されることはイエスの「狭い戸口を通って」(ルカ13:24)や弟子らの「終わりまでしっかりと堅く保って」(ヘブ3:6)「守り通して」(黙示2:26)という言葉に言い表されているし、古代アロンと息子らが油灌ぎを受けてから七日を「見張る」ために待たされたことにも象徴されている。(レヴィ8:33)

彼らはアブラハムに示された彼の「真の子孫」であり、地上のすべての諸部族が自らを祝福することの要となる人々である。モーセによれば、彼らは神の特別な所有に帰する、神に買取られた非常に希少な民であるゆえに、特にキリストのような自己犠牲の精神が求められるのである。(ペテロ第一2:21)

では、この「聖徒」はかつてどのように出現したのかを見てゆこう。


◆聖霊は聖徒を内定する

イエスの刑死、生き返り、それから昇天して復活の後、十日を経たシャヴオート(ペンテコステ「五旬節」)の日、以前からキリストが弟子たちに語っていた助け手(パラクレートス)である聖霊がエルサレムに留まっていた弟子ら約120名に灌ぎだされた。(使徒2:1-)

こうして、バプテストのヨハネが「その方は聖霊であなたがたにバプテスマを施すであろう。」と語っていたことが最初に実現することになった。(マタイ3:11) この人々は奇跡的に外国語で神の壮大さを話し始めたが、これ以降は聖霊を授かる人々が急速に増えてゆく。その範囲はやがてユダヤ=イスラエルの血統を越えてゆくことになる。その鍵を開けたのがペテロであった。

使徒ペテロはユダヤ人に、次いでサマリア人に対して「聖なる国民、イスラエル」に加わりイスラエルを補充する道を開いた。そしてローマ人コルネリオにも聖霊を受けるよう「鍵」を解いて、その補填はまったくの異邦人にまで広げられた。また、別の時にはこの「鍵」で閉じても見せた。(マタイ16:19/使徒10:45/使徒8:21)

確かにパウロは異邦人が聖霊に与り聖徒に加えられることについて、「イスラエルの不足を補うため」であると言っている。(ローマ11:7-11) そうして、不信仰を示したイスラエルの不足を補充するために召しだされた人々は、その血統に「接木され」、その一定数を満たすためにイスラエルの父祖アブラハムの財産を受け継ぐ相続人の一員と内定したのである。(ガラテア3:29) なぜ、決定ではなく内定かといえば、彼らは試され、地上で練り浄められ、その身分を生涯の最後まで保って初めてキリストと共なる者、聖なる者(聖徒)のひとりとしての立場を得ることになるからである。(エフェソス1:14)(ルカ13:24-)

霊の灌ぎは、その人の原罪をも仮赦免するものであるが、その理由は彼らが天に召され神の前に出るために必要不可欠であり、地上にあっても主イエスのように聖霊を受けるには、神は御前に「罪」ある肉なる者を容認されない。

そこで、イエスは自らの犠牲の益を最初に弟子たちの適用し、彼らと神との「新しい契約」を仲介することで、神の御前に於ける『義』を信用貸しされた状態に招き入れたのである。 だが、地上に居る『召された者ら』にはアダムの肉体にある以上、実際には『罪』の影響を免れてはおらず、依然として倫理上完全なる『義』には到達していない。(ガラテア5:5)

彼らには契約を保つことが期待される。つまり、主なるキリストに倣い、聖霊の証しを行い、それに命をかけることであろう。(ペテロ第一5:10/黙示録12:11)  

カトリックや正教の歴史には、初期の聖なる者の痕跡が残されており、「聖人」や「聖証者」と呼ばれ、これに列せられるには、複数回の奇跡を行ったことが条件であり、その多くは殉教者であった。

現代の学者J.ダニエルーも、こうした異言などの現象が実際に起こったものと看做している。(キリスト教史1p.26) 初代の彼らの集まり「エックレシア」(召し出された人々)は、こうした聖霊の賜物を持つ特別な人々が中心となって組織され、聖霊が集会の学ぶべき内容が備えられていた。(コリント第一14:26-33)
初代エックレシア内は、ほとんどが聖徒で構成されていたが、初心者や「普通の人」など「新しい契約」に参与しない人々が居たことを幾つかの聖句が伝えている。⇒ 「エクレシア内での信徒と聖徒」

聖霊を持たない人々は、聖徒たちの聖霊の賜物の発現による預言や知識や奇蹟などの益に預かることができたが、彼らはキリストと共に霊体に復活することにはならないので、キリストの体を受け継ぐことを表象するパンと、その契約に参与することを表象するぶどう酒を取り入れることはない。(マタイ26:26-、コリント第一11:21-)

すなわち、聖霊によって灌油された証拠の明瞭でない者は信徒ではあっても聖徒とはなり得ない。それは自他共に判然としたことであった。この賜物は古代の「先見者」のような霊の憑依状態に陥らず、自らの意識をはっきりと保持し、賜物そのものを本人が制御できるものであったことをパウロははっきりと語っている。(コリント第一14:14-15.30)

あるとき、賜物である預言が出来ると偽った者が、本物の聖徒に混じると一致したことが言えずに恥をかくこともあったと「ヘルメスの牧者」などの資料が伝えられている。 こうした、偽の「聖霊」は最後の使徒ヨハネの頃にはあちこちで出回るようになっていたようだ。「霊感の表現はみな試されねばならぬ」と言って、晩年にひとり世に残された十二使徒のヨハネは偽の霊に警戒するように強く促さねばならなかったのである。(ヨハネ第一4:1)


◆聖霊が去るとき

しかし、こうした賜物も何時かは消え去ることをパウロは示唆していた。(コリント第一13:8-)そして古代の資料はこれが二世紀半ばまで存続していたことを指し示している。 ローマのクレメンスは福音書を記した人々のことを「これらの聖徒で、真に聖なる霊を受けた者たち、すなわちキリストの使徒たちは、完全に潔い生活をし、・・(中略)彼らは自分たちと共に働く神の霊と、自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇蹟を行う力だけを使って、神の王国の知識を全世界に述べ伝えた。」*と述べている。

二世紀初頭には護教家のクワドラトゥスが、まだイエスに癒された人々が生存していると述べており、彼自身も預言の霊を持っていた。 150年ころに書かれたと思われる「イザヤの昇天」はシリア方面から預言者が見られなくなったことを嘆いており、ヘゲシッポスは「聖なる使徒たちの合唱隊がそれぞれ絶え、神的なソフィアを自分の耳で聞くことの許された世代が過ぎ去」*った後のキリスト教の混乱を書いている。*(エウセビオス「教会史」 秦 剛平訳)

それまでは、背教に曝されながらもキリスト教界はひとつの形を保つことができ、大規模な離反は起きなかったともいわれている。 パウロは聖霊が各地のエックレシアに教理を教え統一を与えていたことを述べ『神聖な奥義は、かつての世代には今のように聖なる使徒や預言者に霊によって啓示されている程には、人の子らに知らされてはおらず』ゆえに『今や、エックレシアを通して、天界の諸々の支配や権威すらもが神の多様な知恵を得るに至った』。とも言っている。(エフェソス3:5.10)

ペテロも、かつての預言者たちの語った事柄は、当時生きる聖徒のためのものであり『天から遣わされた聖霊を受けてあなたがた(弟子ら)に福音を伝えた人々を通して、今やあなたがたにも知らされている。それを天使らまでもが窺い見たいと願ってさえいる』。とも述べていた。(ペテロ第一1:12)

最後の使徒ヨハネもエフェソスにあって弟子たちを教え、地上に中心地を持たなくても、聖霊は各地の教理に均整をもたらしていた。つまり、キリストは聖霊を通して弟子たちを指導し続け、彼らの中央は天のキリストの許にあったのである。

聖徒の集まりはエックレシアと呼ばれたが、それは「召し出されたもの」を意味しており、実際、集まりのほとんどを構成していたのは聖霊を注がれた聖なる者らであった。 それは黙示録の七つのエックレシアイの間をキリストが歩み、その使いがキリスト自身の右手に把握されていることに象徴されている。当然に、そこでは弟子らを統括するためのエルサレムやヴァチカンのような地上の一点も、代理機関をも必要とはしなかったのである。(黙示録1:20/ヨハネ4:21)

しかし、この聖霊によるキリストの指導体制も終わる時がきた。やがて、聖霊は地上から徐々に引き上げられ、エックレシア内の聖徒の比率は下がってゆき、やがて聖徒は今日に至るまで絶えたのである。 そして、聖霊の降下が終了したことの明瞭な標識となるのが第二世紀後半の聖書疑典の噴出や、異なる預言の霊によるモンタニズムの台頭であったといえる理由がある。

ゆえに、聖霊はキリスト教が揺籃期を脱するまでそれを助けた、と云うことはできない。逆に聖霊降下の終了を第二世紀中葉とみれば、その現実は明らかな混乱と背教の始まりであった。 聖徒たちを失った後のエックレシアは、当然に信徒だけとなり、キリストは「王権を得る為に」旅立って不在となり、キリスト教界への監督は中断されている。

その後のキリスト教はユダヤからまったく離れ、ギリシア人やローマ人などの異邦人によって操られ迷走を始めたとしても不思議はない。聖霊が引き上げられ、ひとたび去ったからである。 ラテン語まで用いられてきた「エックレシア」の名に価しなくなった信徒ばかりの集まりは、やがて中世の間に「主のもの」を意味する「キュリアコン」に由来する「教会」(古英語[cirice])という言葉に置き換えられてゆく。⇒「なぜ教会と呼ばれるか」

その後は信徒も聖徒も曖昧となり、聖書が専ら聖徒に向けて書かれていることもあって、その事情を解さない後代の「クリスチャン」の思いのなかでは、聖書は万人に向けて書かれたことになってしまい、「あなた」と呼びかけられているところは自分にむけた言葉と誰もが思い込み、皆が天にゆくと誤解され始め、或いは、人々に聖霊は今も宿っていると教え始められたのである。

キリスト教徒は、聖書中でわずか三回だけ言及され、しかも外部からの呼称である「クリスチャン」(クリスティアノイ)で自分たちを専ら称するようになると、本来聖書中で多用されている「聖なる者」や「信じる者」の名称を用いなくなってゆく。つまり、「聖徒」が去ったので、その区別の必要が実質的に無くなってしまったのであろう。

そうして皆が只の「クリスチャン」となってしまった。 だからと言って、その「クリスチャン」に「地上のすべての家族が自らを祝福する」ための器となる気概などあるだろうか?ほとんどは、自分の救いに関心を持つだけのご利益信仰者と成り果ててはいないだろうか。


◆聖徒の再来

しかし、キリストの戻られるときこそ再び聖霊が注がれ、「聖なる者」が現れるとき、「聖徒」は非常に大きな意義を持つに違いない。 それは、聖徒たちが為政者と対峙してキリストの代弁者となるときである。 その論争にあって、「新しい契約」は当事者である聖徒らに、もう一方の契約当事者である神の名をはっきりと知らせるであろう。(詩篇22:22/102:21)⇒「シェム ハ メフォラーシュ」

それこそは人類に忘れられた神の名の再出現となり、聖徒たちはその御名の真実の証人、『御名のための民』となるであろう。彼らは対峙することになる為政者らばかりでなく、全世界の民に広く主イエスの帰還を告知し、神の御名を前面に高く掲げなくてはならない。それこそが終末における世界宣教となり、それは『霊と力の論証』によるものとなり『誰も反駁できないもの』となるという。(マタイ10:16-18/コリント第一2:4/ルカ21:15)

神の至聖の御名は人類の救いに不可欠となることを聖書は再三述べるが、これを終末に知らせる者は聖霊を受ける聖徒、即ちキリストの兄弟ら以外にいったい誰がいると言うのだろうか。(ヨエル2:32/使徒2:21/ヘブル2:12)

今日、神の御名が地上から絶えて忘れられ存在しない理由は、まさしく「新しい契約」に預かる者、真に聖霊を注がれた者がひとりも居ないことの証拠なのである。

このように終末に於いて際立った活躍を行い、また、それが為に迫害を受ける聖なる者らに信仰を示す人々も現れることは、マタイ25章の中の羊と山羊の例えの中で語られている。

即ち、キリストの『兄弟たち』とはキリストと共に『神の子』と認知され聖霊を注がれる『聖なる者たち』に他ならず、迫害される彼らに親切を示し、その立場を支持する者らは『羊』として主の右に分けられ、祝福に入るのである。
イエスはこうも予告している。 『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない』(マタイ10:42)

また、このようにゲッセマネで祈られた。 『わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。・・彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。』(ヨハネ17:20-21)

この点は、遠くアブラハムにも語られていた通りである。 『あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上のあらゆる氏族はあなたによって祝福を得るであろう。』(創世記12:3)

創世記の古代にアブラハムの裔として予告され、モーセの律法契約の辿り着くべき目標『世の光』となり、ついにキリストの犠牲によって初めて地上に現れた罪を清められた『聖なる者』について、聖書中を貫通する主題であるのがこれほど明らかであっても、ほとんどのキリスト教徒が気付かない現状はどうしたことであろう。これは異様なことではないだろうか。




 新十四日派  ©2011  林 義平
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聖書中にある「聖徒」が格別である根拠
 エクレシア内の信徒と聖徒