バプテスマ、それは「洗礼」とも「浸礼」とも言われる。
その漢字の一字の違いは、額に水を注ぐのか、人を水に浸すのかに由来する。

バプテスマがギリシア語「バプティゾー」から来ているのなら、その「浸す」という意味からして浸礼が本来であると見なせるし、旧約時代の灌油による王などの役職への任命あるいは、聖霊が火の舌のようになって彼らの頭上に現れたという、あのシャブオート(ペンテコステ)の日の出来事をバプテスマというなら(使徒2章)、水のバプテスマも頭への降り注ぎなのかもしれない。

また、モーセの律法が規定していた「清めの水の洗い」がその前提であれば、やはり体を洗えるほどの水が要ることになる。(ヘブル10:22→レヴィ14:9)

初期キリスト教徒は十分な水の得られない環境では、「浸礼」は施せないとしても頭から水をかける「洗礼」でやむなしとしていたとのことである。
また、「点礼」という寝たきりの人のために数滴を施すものも初期からあったようである。

しかし、これらの事柄を論じても、いずれかの儀式のやりようを考えることであり、バプテスマの本質には然程近づけない論議になりそうである。

では、バプテスマの意義はどこにあるのだろうか?

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ほとんどの場合、バプテスマはこれまで入信儀礼と解されて来た。
近年、アメリカなどで、宗派に関わらないバプテスマが施されるようになってきているそうだが、ほとんどの場合、バプテスマはどこかの教派や組織に一員として加わることの意味合いが強い。

宗派によっては、信仰告白や回心をするもの、また周到な準備期間を設けて、教理や道徳の教育が十分になされているのかを試され、然るのちにバプテスマを初めて許すところもある。

あるいは、バプテスマの直前に宣誓を求め、しかもそれが神やキリストと共に組織への信仰を表すものであることや献身などを要求されるケースもある。
ほかにも、教祖への専心を誓うよう求められるところもあるのかも知れない。

また、バプテスマ前にそれまでに犯した罪の告白をし、それらを洗礼の水が洗い流してくれるという意味づけもあるらしい。

しかし、そのように納得してこられた方々には残念だが、この点はペテロも第一の書簡で述べるように、この水は肉の汚れすら洗い流しはしない。(3:21)そうなると、「洗礼」という言葉は誤解を招きやすい言葉になるようだ。

もし洗礼が罪を洗い流すなら、終末においてすべての者に臨む神の裁きが前倒しされることになってしまい、人がひとりひとり裁かれることに一体何の意味が残るのだろう。
そこでは、バプテスマを受けたか否かという単純な儀式の問題に畏怖すべき裁きからの救いが置き換えられてしまう。

つまり、バプテスマを罪からの浄めのように考えるなら、ただ儀式を済ませたか否かになって、神は人の内面は見ないと主張することにはならないだろうか?

我々の罪を洗い流すのは水ではなく、キリストの血(の中の魂)、つまり贖罪の貴重な代価の方であって、どこにでもあるような水にその力はない。
実に、あの使徒パウロですらバプテスマを受けた後に、自分に罪が宿っていることを認めているのである。(ローマ8:18-)

だが、この罪の浄めという考えのために、四世紀にはバプテスマを死の間際まで延ばす習慣さえあったという。つまり、一度バプテスマによって罪から清められたなら、再び罪を犯すことで自らバプテスマを無効としないためである。

また、生まれたばかりの嬰児が命の危機にあった場合、産婆が慌ててバプテスマを施すという風習が、近世までヨーロッパにあったが、これはバプテスマの儀式によって死の直前にキリスト教徒とすることで、地獄に墜ちることを食い止めると信じ込まれたためである。

今日では、キリスト教への新たな帰依者も少なく、「あなたは信仰を持ちましたね、ではバプテスマを受けましょう」。と信者の自動的乱造があちこちの教会で行われている。だが、当然ながら、それは根の浅く、いつまで続くとも知れない信仰者を作っては失うばかりではないか。

このように、まるで様々に解釈されているようにみえるバプテスマではあるが、キリスト教に帰依する場面で行われるということにおいては何とか共通しているといってよいだろう。

しかし、以下のようにバプテスマの意義を探ってゆくと、罪を消しはしないものの、受ける者の内に宿る「罪」をどう見做すかが関係していることが見えてくる。


では、まずイエスに先立って活動した、バプテストのヨハネから見てみよう。


-◆先駆者バプテストのヨハネ---------------------

さて、聖書中にこの儀礼が重要な意味をもって登場してくるのは、やはりバプテストのヨハネである。
先の記事で既に書いたように、このレヴィ族の祭司の息子に与えられた使命はけっして小さなものではない。

もちろん、それはイエスの彼について述べた「女から生まれた者で彼より偉大な者はいない」の言葉からも知れるが、モーセ以来のユダヤ教1500年間の総決算のような預言者としてエリヤの姿をして律法契約不履行の罪と呪いの内にあるユダヤ民族にメシアの先触れとなって現れた意義は非常に大きなものがあった。

さてここで、ヨハネのバプテスマを理解するべく、少々ユダヤ教の流れについて記すことをお許し願いたい。それはヨハネのバプテスマの「悔い改め」という側面の理解を確認しておくためである。


ソロモン王の建立した第一神殿の破壊されユダヤ国民がバビロン捕囚に陥る以前から、イスラエル民族による律法不履行のために、神の側には律法契約を続行する意志は既に無く、御璽のような律法契約の証しであった「契約の箱」も第一神殿の破壊までには行方が知れなくなっていたようである。

それから、ネブカドネザルの大軍がユダヤとエルサレムを蹂躙し、神の刑執行者の役割を演じて、ユダヤ人を自国への捕囚に処したのであった。

後に、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人らが、第二神殿を以って神聖な祭儀を再開させたものの、「契約の箱」は戻らなかった。(エレミヤ3:16) ⇒ 契約の箱 アーロン ハ ヴェリート

これが物語ることは、神が一度限り律法契約を断念したとき以来、イスラエル=ユダヤ民族は神との関係に大きな問題を抱えていたのである。

第二神殿や祭祀の復活では律法に従う形式を保ったものの、すでに正式な律法契約によるものとはならず、アブラハムへの約束に基づく神の善意ということでしかない。

ただ、時経た後に、神はメシアを介してイスラエルの家と新たな契約を結ぶことを預言者を通して予告していたのであった。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)


ヘブル書はこう記している。
『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』(ヘブル8:7)

そして、律法契約を仲介したモーセも、新たな契約の仲介者キリストを予告して
『あなたの神、YHWHはあなたのうち、あなたの同胞の中から、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』と、既に律法が記されるときから述べていた。(申命記18:15)



-◆ユダヤ人への「悔い改め」のバプテスマ--------------

さて、そこでバプテストのヨハネの登場となる。(ルカ1:77)

ユダヤへの「新しい契約」の近づく時期に現れたゼカリヤの子ヨハネは言う。
だが、それは激しい言葉を含んでいた。
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「自分たちの父祖はアブラハムだ、などと思ってもみるな!神は石からでさえアブラハムの子孫を起こすことができるのだ」。
「斧はすでに木の根元に置かれている。ゆえに良い実をならせない木はみな切り倒されて火に投げ入れられる」。
「わたしは悔い改めのために水でバプテスマを施すが、わたしの後に来る方は、聖霊と火でバプテスマを授けるであろう」。
「その方は手に煽り分ける道具を持ち、脱穀場の隅から隅まで掃いてしまい、麦は蔵へ集め、籾殻の方は消えない火によって焼き捨てるのだ」。
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これらのマタイ3章の言葉は、旧約聖書に予告されたメシアの前を先立って行くエリヤ、また、主の道をまっすぐにせよと荒野で叫ぶ者の声である。その目的は神の前に「整えられた民を準備」するためであった。(ルカ1:17)

それは恰も、「さあ、こちらに来るように。我々の間の事を正そう」「そなたの罪が緋色の布のように赤くとも、それは羊毛のように白くされよう」。といっているかのようである。(イザヤ1:18)

この経綸によって、神はアブラハムの子孫の契約違反の罪と呪いから請戻し、そうしてアブラハムへの「あなたの子孫によって、諸国民は自らを祝福する」という約束を、後裔イスラエル民族に回復することを企図したのである。(創世記12:3)


さて、ここでヨハネのバプテスマという儀式の役割を総括するなら

イスラエル民族はバビロニア帝国によって神の恵みを失う以前から、神との間に道義的に問題を抱え不安定な状態にあった。即ち、律法契約を守らなかった咎を負ったまま過ごし、いまや約束のメシアが近付きつつあった。

その咎は、良心の鋭敏なユダヤ人をして、第二神殿での祭祀の再開をもってしても解消されることはない、と感じさせていたことであろう。その抱くものは「打砕かれた霊」であった。
では、どうすればよいのか?

幸いにしてエレミヤは「新しい契約」を告げていたし、最後の預言者マラキは「契約の使者」とそれに先立つ「使者」エリヤの到来を知らせていた。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)
したがって、メシアはイスラエルにとって律法の罪からの「救い主」であった。(コロサイ2:14)

バプテストのヨハネが現れるときには、民はすでにメシアやエリヤを待っていたので、マラキ以来の神の四百年に亘る沈黙の終了をエリヤのいでたちをしたヨハネに見たであろう。それは預言者の封印と呼ばれたマラキ書の最後の一節をもたらす貴重な人物となった。(マラキ4:5-)
 

さて、自分たちの国民が律法契約を守り行うことが出来なかったことを正直に認める人々にとって、荒野からの人ヨハネの施すバプテスマは、それを受ける者本人が律法契約の不履行の罪を認めて「悔い改め」、新たな神の道、救いの道を受け入れることを表明することを意識させたであろう。(使徒13:39)

それゆえ、彼の施すものは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれ、これはユダヤ人に限るものである。
このバプテスマは、それまでのユダヤの歩みを悔いて、来るべき救い主「メシア」にユダヤ人の心を整えるものであった。

この当時の平民の多くはヨハネからバプテスマを受けたが、宗教家たちは、このヨハネのバプテスマを受けなかった(あるいはヨハネが受けさせなかった)と記されている。(ルカ7:30)

したがって、ヨハネのバプテスマは、それを受けるユダヤ人の意識を律法体制の以外の事に、つまり、それまでバビロン捕囚の中断があったとはいえ、永く続いた動物の犠牲と法律を守ることによる宗教生活の外に向けさせる作用があったに違いなく、またイスラエルにとって『荒野』とは、モーセ以来の信仰の原点を思い起こさせる場所であったに違いない。

だが、ユダヤの宗教家は旧態依然たる宗教体制にこだわり続けることになった。
聖書にも歴史書にも、当時の宗教体制の人々は、既に破綻していた律法の遵守に腐心し、いまだに自分の行状によって義が得られるかのように誇っていた様が伝えられている。(ガラテア2:16)

つまり彼らは、自分たちの行いによる義を求めた思い上がりのために、ナザレのイエスに対して少しも整えられておらず、「新しい契約」に向かうべきその道は、主の前にまっすぐではなかったのであった。(ガラテア3:10)

そうした状況にあって、ヨハネのバプテスマを通じ約束のメシア=キリストが現れる。
神のみ子であるイエスの場合に悔い改めの必要はないが、自らを整えるかのようにユダヤ人としてこれを受け、そうして聖霊を灌がれた最初の人となりった。つまり、そのときに聖霊によって象徴的に「灌油」されメシアの任命を受けたのである。


さて、こうしてヨハネによるユダヤ人への「悔い改めのバプテスマ」をみると、神からの救いの手段を無条件で受け入れてキリストにすべてを委ね、その前に自己の義を放棄するよう促していたことが見えてくる。(ガラテア3:10)
つまりは、罪ゆえの神へのまったき降伏、一切の放棄である。そこに必要であったものがイエスをメシアとして受け入れる「信仰」であった。(ローマ3:20)

それは、既に破綻していた神殿の贖罪の祭祀を含むユダヤ律法体制ではないところ、自分たちの宗教習慣を離れ、未知の領域に新たな崇拝、「メシアへの信仰」を見出すよう促すものであった。そこでは柔軟な心が求められる。(ガラテア3:21-22)

一方で、ヨハネのバプテスマを受けず、イエスに強硬な者ら、とくにパリサイ派はイエスが安息日を守っていないからと、自己の義で頑なに判断を下してしまい、せっかく遣わされたユダヤにとってこのうえなく貴重なメシアと神の救いの道を退けたのである。(ヨハネ9:16)

その先にあるのは、あの西暦70年の恐ろしいユダヤ体制の滅びであった。イエスを退けた世代は、その火に呑まれることになる。(マタイ23:35-36)

その一方で、ナザレ人イエスを約束のメシアとして受け入れたユダヤ人は、まずヨハネのバプテスマによって意識を整えられており、イエスを信仰しその水のバプテスマを受けることで、さらに聖霊を受け、罪あるイスラエルから救われる準備を整えたと言える。(使徒2:38)
その聖霊を受け「新しい契約」に入る他に彼らに「救い」は無かったからであり、これを今日の一般的キリスト教徒と同列に見るべき理由はない。(ローマ4:13-15)

さて、ここまでが「律法契約」に関わるユダヤ人への「悔い改めのバプテスマ」である。



 -◆イエスの「聖霊と火」のバプテスマ-------------------

そして、イエスの施した聖霊によるバプテスマについても一瞥しておく必要がある。
ヨハネはイエスが「聖霊と火でバプテスマを施す」と語っていたわけだが、それは何であろうか?

「聖霊のバプテスマ」はあのシャブオート(五旬節)の日に最初の成就をみた。
その場にいた百二十人ほどの男女に天から聖霊が降下し、様々な言語で「神の壮大な事柄」を話し始めたのである。彼らの頭にはそれぞれ「火の舌」(「舌」は言語の象徴でもある)が配られたようにあった。(だが聖霊と火の「火」の部分はこれに相当していない)⇒聖霊と火のバプテスマ

こうして初めて、聖霊を受けた彼らに「新しい契約」が発効し「聖徒」(神のイスラエル)の一員となる見込みを得て、象徴的に「水と霊から」新しく生まれたといえるのである(ヨハネ3:5)

このように聖霊のバプテスマを受けた人々はその後も増えていったが、直弟子たちだけでなく、ステファノ、テモテ、のようなユダヤ系の外地の人々も与ることになる。(使徒2:38)

しかし、ユダヤ人の中から悔い改めに至る人々の数は多くはならなかったので「神のイスラエル」の国民の数を満たすべく、やがては信仰深い非ユダヤ民族のサマリア人や、ローマ人のようなまったくの異邦人もこのバプテスマに与ることになるのであった。(使徒1:8)

聖霊のバプテスマを受けた人々は、聖霊の賜物を授けられた超自然の(憑依状態ではない)能力を示す限定された人々であって、「聖徒」と呼ばれ、集まりの中心的役割を果たすが、奇跡をもたらす「聖霊の賜物」を持たない人々は当時であっても「聖霊のバプテスマ」を受けたとは見做されてはいない。(ローマ8:9/コリント第一14:16)

一方の「火のバプテスマ」は、キリストを葬ったユダヤの「ねじけた世代」に、ユダヤとエルサレムの滅びとなって臨んだ。⇒ 記事「聖霊と火のバプテスマ




-◆イエスの名による水のバプテスマ------------------

さて、前記の二種類のバプテスマを考慮してのち、本稿の本旨である「水のバプテスマ」に入ることができる。

このイエスの名による水のバプテスマの意義を物語る挿話が使徒言行録19章にある。

エフェソスで使徒パウロはユダヤ人の群れを見出した。彼らはイエスの教えは伝え聞いていながらも、ヨハネの「悔い改めのバプテスマ」を受けただけであった。

彼らは聖霊も賜物も知らず、イエスの名による水のバプテスマも受けていなかったので、パウロがこれを施して按手すると、彼らも聖霊を受けて異言や預言を始めたのであった。(使徒19:1-7)

これらは、ヨハネの「悔い改めの水のバプテスマ」を受けていたユダヤ人が、「イエスの水のバプテスマ」を受けて後のことである。つまりユダヤ人はまず第一に律法契約の違反について悔いる必要があり、次いでイエスをメシアとして受け入れ信じたことをその名による水のバプテスマで示したであろう。
(ヨハネの死後はユダヤ人にこの過程は省略されたであろう)

イエスが地上で活動しているときにも、弟子たちがイエスのバプテスマを民に施していたが、その水のバプテスマを通し「新しい契約」の効力が発揮されて聖霊が灌がれるようになったのは、あのシャヴオートの日からであった。

こうして、ヨハネの「悔い改めの水のバプテスマ」を経た後、イエスをキリストとして認めて「イエスの水のバプテスマ」によって備えられたユダヤ人らは、「新しい契約」に預かり、「聖霊のバプテスマ」を受けるのであった


このヨハネとイエスのふたつの水のバプテスマは、恰も、ユダヤ人を旧契約から新契約へとつないだ掛け橋のようである。ヨハネは終点でありイエスは新たな起点であったと言える。その二つの契約の間に水のバプテスマが存在している。
ひとつは「悔い」のため契約を終わらせ、もうひとつは新たな契約に預からせる「選び」の前に行われていた。

即ち、ユダヤ人はバプテスマを受けることで二度の意識の転換を行っているといえよう。一度目は律法体制による宗教生活に疑問符を打つことであり、第二のものは「新しい契約」に彼らを導くものとなったのである。

こうして彼らユダヤ人は、聖霊を受けることで「罪」ある肉体であるにも関わらず、キリストの血の犠牲の早い(仮の)適用によって「義と宣せられた」。それゆえ、彼らは自分たちを『聖なる者』また『被造物の初穂』と呼んでいる。彼らは罪を許された『神の子』の身分を史上初めて得た人々となった。それを可能としたのがキリストの血の犠牲であった。(ローマ8:1/コリント第一1:2/ヤコブ1:18)

ユダヤの民衆もヨハネのバプテスマによって整えられ、その柔らかくされた心によって、進んでナザレのイエスをメシアとして受け入れようとした。その意識、また決定をキリストのバプテスマによって示したと言える。(ヘブル4:7-8)
彼らは宗教家のように、古来の伝統や律法の「義」に固執しなかったので、イエスがガリラヤ出身であろうと、安息日に癒しを行おうと、彼らにはつまづく理由にはならなかったのである。(ガラテア2:16)

この民衆は、ヨハネのバプテスマからさらに進んでイエスのバプテスマを受け、一層整えられたユダヤ人たちは聖霊のバプテスマを授かり、予告された「新しい契約」に与って、イスラエルへの律法不履行の呪いから「救われた」ばかりか「アダムからの罪」も含めてすべての罪を赦されたのである。(ローマ8:33)
ここにユダヤ人が聖霊を受けなければ「救われない」事情があったガラテア3:13)


一方で、異邦人でこの契約に与った人々には「ヨハネのバプテスマ」の必要はなかった。悔い改めるべき不履行の契約に参与していなかったからである。彼らは、イエスの水のバプテスマによって一足飛びに「聖徒」(神のイスラエル)へ参加するよう心の準備を得ることができた。(カラテア6:15-16)

異邦人には律法を終わらせるために宗教生活から意識を方向転換させる必要はなく、そのままイエスをキリストとして受け入れたことに想いを傾け、その水のバプテスマにより内心の決定を自他に示すことができたであろう。
(コルネリウスの例を考えると、彼らにとってイエスのバプテスマは必ずしも聖霊を受けるまったく絶対の前提条件でもないようではあるが)

こうして見ると、水のバプテスマには、容易には変わることのない人の宗教信条の意識を変化させる効果があったことが窺える。それは天からの召命ではなく、自発的なものである理由もそこにあるのであろう。
ヨハネが荒野で『「主の道筋を直くせよ」と叫ぶ声』となったとき、ユダヤ人には意識の変革が求められたのであり、ヨハネの水のバプテスマを受ける人々は、その変革を意識した。

同じように、イエスの水のバプテスマは、以前の宗教がどうあれ、神の遣わしたキリストに神の救いの道を求め、そこに自らの意識を合わせることへの決意表明と見ることができる。


ではあるが、第二世紀以降、聖霊が人に注がれることは中断しており、今日までかつてのように正しく「聖霊の賜物」という世に対して明瞭な聖霊の注ぎを受けている人を見出すことはできないで来た。(ヨハネ9:4-5)

「使徒後教父」時代の資料は、聖霊の賜物を持つ人々がイエス後の百年ほどの間に現われては減少し、やがて絶えたことを教えている。
⇒ 「モンタヌス運動、最初の「時」の予告者

キリスト自ら「旅に出る」かのように一時期、地を去ることを述べていたが、それ以来、今日まで「聖霊のバプテスマ」はまさに中断している。⇒「今日のキリストの不在

それでも、今日「水のバプテスマ」が施されることは妨げられるべきものではないであろう。(マタイ28:19)
自らの中に、人間に共通する倫理上の欠陥である「罪」を正直に認めることのできる者は、イエスをキリストとして受け入れ、自己の正義をその前に捨て、「罪を悔いる」ことの表明することができる。これこそが「信仰」であり、それゆえのバプテスマは人々をキリストの再来に備えさせるものとなるだろう。(*ガラテア2:15)

従って水のバプテスマを受ける意義は、それが聖霊のものでない以上、自分が救われた状態に入ることではないにせよ、神の意志に対して『整えられた』者となり、神の声に『心を柔らかく』する用意のあることを示すことであろう。

今日の水のバプテスマと聖霊のバプテスマの決定的な違いは、その施す主体者にある。つまり、水のバプテスマを施すのが人間であるのに対し、聖霊は常に上からのものであり、神の許から「選び」また「召し」と共に注がれるものである。(ローマ11:29/テサロニケ第二2:13)

したがって、水のバプテスマは「召し」を証しするものではなく、聖霊を注がれることによって、その人に「召し」が差し伸べられていることを証しするのであって、これは人間の及ぶところではない。
 


-◆今日の水のバプテスマの意義--------------


さて、以上の論議をもってイエスの水のバプテスマの意義を確認すると、ヨハネのバプテスマが「新しい契約へと民を整えた」というところ、また「イエスの到来に備えさせた」というところは今日、依然意義をもっているであろう。

それは将来なお成就を待つことだからである。それは聖霊のバプテスマとは異なり、人が自発的に受けるもので、その観点からすれば「秘跡」と言うには的外れに見える。
今日的に水のバプテスマは、変化の難しい宗教信条の転換を自ら意識する効果に意義があるからである。

実に、人間の陥っている問題の全体は、創造者から離れ、当て所もない放浪者であることに原因しており、神の方からキリストという手が差し伸べられたのであるので、まずキリストを受け入れるよう心を整える必要がある。

更には、「ヨハネのバプテスマ」がユダヤ人の倫理的状況を自覚させる助けであったことから推して「イエスの水のバプテスマ」は、「新しい契約」の当事者に含まれない(聖徒でなく信徒である)我々のような『異邦人』であっても、自らの「罪」(原罪)ある状態を正直に認め、自分の義に固執することを止め、すべてをキリストに委ねるということが浮かび上がってこないだろうか?これこそが、キリストへの信仰であろう。


誰であれ、「人の正義」に固執している限りは、「神の義」にも服せず、キリストに真に従うことはできないであろう。(ヘブル3:7)

人類全体に「倫理的欠陥」という「罪」は残っており、それがこの世に満ちて人類を苦しめているのは明らかなことである。
まさに、すべての人には普遍的な「罪」を悔いる必要が残されており、虚心坦懐に自問すれば、我々の世界は不義から逃れることができないことがはっきりと見えているはずである。

では、我々は罪を認め「自分の義」を立てることを断念し「打砕かれた霊」をもってメシアを迎えるだろうか?


バプテスマそのものは儀式であって、それが罪を洗い流しはしない。救いを確約するものでもけっしてない。
むしろ人は皆が裁きを受けることになるのであるから、バプテスマを神の是認に入った証しと観るのは安直というほかない。
むしろ、それは自らに在る「罪」を認め(ローマ7:15-17)、イエスを罪を取り去るキリストとして受け入れ一途に従う姿勢を表すことである。

つまりバプテスマとは、自分の義を立てることを止め、まったく神とキリストに服する決意の表明であろう。そうして神に対して整えられた人となるのである。

だが、将来の水のバプテスマについては、もうひとつ加えるべき要素があることをキリストが語られている。


-◆神と子と聖霊の名によるバプテスマ----------------

マタイの福音の終わりに一度、地上を去るイエス自身の言葉として記されているのが、この『神と子と聖霊の名によってバプテスマを施せ』という使徒らへの下命である。(マタイ28:19)

この神、子、聖霊の三者の名が連ねられている理由が所謂「三位一体」の証しというのは、余りに事を単純化して思考停止に人を陥らせるものであろう。

この三者に対して人に求められることがある。
それが即ち「信仰」である。

ユダヤ教徒は、当然に神YHWHへの信仰を求められ、加えて出エジプトからモーセにも信仰を持つようになっている。(出埃14:31)
即ち、聖書中での「信仰」とは、神だけでなく、『神が遣わした者を信仰する(ピステウオー)』ことも含んでいるのである。(ヨハネ6:29)

確かにこのイエスの言葉そのものがキリストにも信仰を持つべきを示しているが、キリスト後に神はそれまでにない『援助者』(パラクレートス)としての『聖霊』を使徒や初期の弟子らに注ぎ出し、それは彼らに奇跡の業を委ね、神に関わる知識をもたらした。

一方で、ユダヤ人の大半は遣わされたキリストを信じず、その弟子らが行う『聖霊の業』も無視して彼らを迫害したのであるから、彼らがそのバプテスマに相応しいわけもない。

そこで、弟子らによる水のバプテスマが、ディアスポラの民やサマリア人、そして異邦人に向かって開かれてゆく様が使徒言行録に見えるのである。 その水のバプテスマは聖霊のバプテスマを呼び込んだ。
聖霊のバプテスマは人間の側から行うことは出来ないが、水のバプテスマは人間の側からのアプローチであり、各人の意志によるものであった。

彼らが決意して水のバプテスマに臨み、聖霊のバプテスマに対して整えられたが、その決意の動機はメシア信仰であり、そうでなくてはならなかった。 


そして、地上を去るイエスはこの『神、子、聖霊の名によってバプテスマを施せ』と云われたのである。
これにはそれまでキリストが地上で施していた『イエスの名による水のバプテスマ』を超えるニュアンスがある。

その信仰の対象が、第一にイスラエルの聖なる神であり、その御子にして遣わされたキリスト・イエスであり、イエス後のあのペンテコステ以降は、そこに新たに遣わされた『聖霊』を含むべきであったのである。

従って、今日地上のどこにも『聖霊』が見られないからといって、この三者への信仰無くして水のバプテスマを受ける理由は無い。 『聖霊』だけでなくキリスト自身も地上を去って、今日まで『人は誰も見ない』高められた状態に入っているのである。(テモテ第一6:16/1:17)


そこで今日も、水のバプテスマを受けようとする者にこの三者への信仰が求められることは変わらない。むしろ、神は新たな預言を伝えず、キリストも去っており、聖霊の働きをも見ない今日ほど信仰の求められることもないであろう。

だが、そうであればこそ、その信仰は神とキリストの御前にも貴重と見做されることであろう。
イエスは終末の臨在についてこう言われている。
『しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか』(ルカ18:8)


そして将来に、キリストがこの世に『臨御』(パルーシア)するときに、再び地上に『聖霊』が臨み、ある弟子らを通して『この世』は糾弾を受けることになろう。(マタイ10:17-20/ルカ21:12-15)

その「終末」において大いなる活躍を果たすのは『聖霊』であり、それが示す『神の証し』を信じるか否かを通して世は裁かれるのである。(ヨハネ16:8)
 

従って、今日バプテスマを受ける者には、そのように『神が語られるときに、心を頑なにしない』理由があり、水のバプテスマが救いを確約しないとしても、心を整えるか否かに於いて、裁きの行方を左右するものとなり得るに違いない。(ヘブル4:7-10)




-◆バプテスマは人間や組織への従属ではない----------------

したがって、キリストの水によるバプテスマが、地上の何れかの宗派に従うことの決意表明となるなら、まったく的外れな意味になってしまう

それは、一向に神の義に対して心を柔らかにせず、却って人間の義に凝り固まろうとすることであろう。
特に宗派がそれぞれに他の宗派を敵にして正義感を抱くなら、その証拠は如実ではないか?

人は正しい宗派を捜し、そこに所属することで自らの「正統・正当」を得ようとするものなのだが、いったい人間のもので神の前に「真正さ」を主張できるものなど存在するのだろうか? ⇒「ヨブ記の結論」

律法契約下のイスラエル民族は、「契約関係」のゆえに、確かにある時期に正しく「神の民」であった。
しかし、そこには「契約の証しの箱」が存在し、奇跡のシェキーナー(臨御)の光が宿ったのである。

ならば今日、これに相当する「新しい契約」の証したる「聖霊の賜物」を初代キリストの聖徒と同じように有する人々がそこにいるのだろうか?(エフェ1:14)

歴史は、「聖霊の賜物」がキリスト教徒初代の後に途絶え、イエスは王権を得る旅に出立したことを示していないだろうか。⇒今日のキリストの不在

「正統」を巡るキリスト教の宗派の争いや敵意は、そこに「聖霊」も「賜物」もない証拠であろう。

もし、自分がキリストのバプテスマを受けても教派的敵意や反目からの「休み」を得ず、却って誰かの信仰の隷属に入ってその教条などを擁護してしまっていれば、それは神に対し心を平坦にし、道をまっすぐに整えるという、バプテスマの精神の方を向いてはおらず、却って反対の方向を向いているのではないか?*(ヘブル3:7)

もちろん、自分にとってより正しいと見做せる事柄は誰にでもあるに違いない。
しかし、人間の教えや組織を絶対視し固執していると、神の義が現われるときにもそれに気付かず、神に対してさえ優越感と自己満足を抱きかねないのではないか?

それこそメシアに対してユダヤ人体制派が行ったものであり、パリサイはイエスがベツレヘムから来ていないことや、安息日に奇跡を行ったからという表面的で簡単な理由をもってキリストを退けたが、それは自分の義を放棄するというバプテスマの精神からすればまったく正反対である。

イエスは自ら行った奇跡を「父の業」と呼び、人々はそこに神に任命されたメシアを見るべきだったのだ。
そして信じたならば、「自分の義」を去ってバプテスマを受けるべきであった。

ゆえに、真に優れた案内者は自分も罪あることを認め、信仰する者の人格を無視して「自分の正義」を押し付けたりはせず、むしろバプテスマを通して「神の義」へとその人の心を平坦にするよう導くべきではないか。

バプテスマは信仰の自立であって、神と自分の間に世話役を入れることではない。

むしろ(宦官を導いた宣明者フィリッポスのように)案内者の仕事が終了したなら、バプテスマを受けた者からある意味で「離れ」、真のキリスト教が地上の誰の元にもなく、ただ天のキリストのもとに保たれていることを知らせるべきではないか。(使徒8:39/マタイ23:8-10)

それゆえ、人が何であれ神の企図を受け入れる心構えがあるなら、それをどんな人間でも組織でもなく、真の正義をもつ神にこそ捧げるべきであろう。

さて、マタイ福音書の最後で、キリストは『神と子と聖霊の名による』バプテスマを使徒らに命じた。
そこでは信仰の対象となる三者が宣言されるかのようである。どの名に対する信仰も欠くことはできないし、『神から遣わされた』のではない何者かを介在させるべきでもない。


バプテスマは、ペテロの言うように「清い良心を神に対して願い求めることで」あって、天の意図に対して「心を柔らかにする」よう心を定めることである。(ローマ2:5/ペテロ第一3:21)

水のバプテスマを受ける際に求められる事は、人間の業や義を頼ることから離れることであろう。
紅海を渡ったイスラエル民族は、海水を分かつ神の力にまったく頼っているべきであったが、これがバプテスマに相当するとパウロは言った。(コリント第一10:1-)

そして、バプテスマを受けた人は我を張ることがなくなり、敢えて悪行を為すことからは離れるので、下劣の道からは救われるのである、とはペテロの言うところであるが、バプテスマを受けて後、教祖や教団の言うなりになって、言わば我を張り、醜聞となるような悪行を為すなら、そのバプテスマとは誰の名に対するであったのだろう。(ペテロ第一3章)

つまりは、「罪」を認めて自らを全能の神に自らを委ねる過程で、他の人間、つまり「罪」があり間違いを犯す者に横取りされているのである。


そして、教えられる側も「先生や教団の言う通り」というような姿勢でいるなら、人間に対する従順は見せても、個人としての神に対する無頓着さは覆い隠しようが無い。その人の受けた水のバプテスマには何の意味も残らない。

そのバプテスマが神に誠実な関心を抱くことか?あるいは自分が「救われる」ならそれで充分か?

もし水のバプテスマを受けるのなら、人や教団に自分を献身したり差し出したりすることでなく、信仰するはその本人であるゆえ、直にキリストと向き合うつもりで、人としての尊厳を保っていただきたく思える。

水のバプテスマが、様々な人間の義を捨て、神と結びつこうとする意志の表明であれば、何者であろうと人の奴隷となっては逆の意志表明となってしまうではないか。

水のバプテスマには、かつてヨルダン川でバプテストのヨハネの指し示した精神が今以て共通しているであろう。
即ち『主の御前に、その道筋を直くする』という各個人に問われる精神である。




              林 義平   jst

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 『使者』と『契約の使者』による水のバプテスマ


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