この罪が許されないものとされることから、多くのキリスト教徒の恐れるものとなっている。だが、いざ実体を問えば一般的にはっきりしない。
しかし 、この重大な「けっして許されることの無い罪」が何であるのかが曖昧では恐れが増すばかりである。


では、キリストの言う「聖霊を冒涜する」とは具体的に何を指すのだろうか?

この解答を得ることにより「神の裁き」に於いて、神は人の表層を見るのではなく、まさに内面を見て裁くことを知ることになる。
キリストは『人はあらゆる罪を赦される』と語られたのだが、続けて「聖霊に対する冒涜」という『罪』だけが赦しに含まれないと重大な一言を加えられたのである。(マタイ12:31)

この言葉からすれば、品行方正であることがその人を救わず、ましてクリスチャンであるだけで許されているわけはけっしてない。バプテスマを受ければ救われるというのは、契約に入る『聖霊を受ける』選ばれた人々についてのみに語られた言葉である。しかも彼らは聖霊によるその契約を地上で全うしなければならない。その救いも赦しも不確定であることには変わりなかった。(使徒1:1-5/ペテロ第一1:2/3:6)⇒聖徒」 
 

だが、聖書を探索すると、『聖霊』の無いところにこの罪が生じることは無いことが窺えるのである。
では、『聖霊への冒涜』はいつ、そのような重大事として存在するのだろうか?


まず結論から云えば、『この世』が裁かれる終末のとき、ある人々に『聖霊』が使徒の時代のように再び注ぎ出され、その『聖霊』が引き起こす奇跡に各個人がどう反応するかによって人の裁きが決するということになる。


そこでキリスト教徒であるか否かは関係なく、『聖霊』によって人々がおしなべて試されるのが終末であり、それをマタイ25章31節以降の例え話が具体的に示している。

即ち、到来するキリストによって、世界のあらゆる人々が羊と山羊とに分けられるという終末の裁きのことである。


マタイ25章の羊と山羊の例えが明らかにする如く、この世の終りに際してキリストが裁きの座に着くと、すべての人々が左右に分けられるのであり、その根拠は「キリストの兄弟らに親切を示すか否か」であると記されている。
聖霊を注がれたキリストの兄弟にこそ、キリストは世の人々との和解の仲介と言葉とを委ねたのである。(ヘブライ2:17/コリント第二5:18-19)

この例えからすれば、人々がキリストの左右に分けられる原因となる「キリストの兄弟ら」が誰かについては聖書中を見てゆくと、パウロがこう言っている。
『神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。』 (ローマ8:29)
では、やはり「キリストの兄弟」と呼ばれる存在があり、その人々に親切を示すかどうかで人々は裁かれるのだろうか?

パウロの記したこのローマ人への書簡の第八章では、特に『キリストと共なる相続人』、また、神に向かって『アッバ!』と語り掛けることの許された『聖霊に導かれる』弟子らについて述べている。
この弟子らは人類に先立って『罪』を許されているので、『神の子』の立場をキリストと共に受けているとも述べられる。即ち「キリストの兄弟」と言えるのである。(ローマ8:1/8:15-17) 

福音書は揃って、終末にも聖霊で語ることになる弟子らの存在を知らせており、彼らは政治家らの前で、何者も論駁できないほどの言葉を聖霊によって語るとされている。(マタイ10:18/マルコ13:10-11/ルカ21:15/ヨハネ16:8・17:20)


そこで終末では、キリストの『兄弟ら』となる『聖なる者ら』の語る聖霊の言葉に信仰を懐き、彼らを支持して親切を示すことを選ぶ者が救われるのであって、単にクリスチャンであるということが、このキリストの終末の裁きに有利である保証は何も無い。(ヘブル12:25-27/ハガイ2:6-7)


ならば、自分はなぜバプテスマを受けクリスチャンとなったのか、と問うなら、その人の「キリスト教」は「ご利益信仰」であると言わざるを得ない。

それでは究極の自己犠牲の精神を表したキリストの追随者と言うには正反対の利己的精神ではないだろうか。その目的の第一は自分の救いではないのか。そこにアブラハムに告げられた『地のあらゆる民族の祝福となる』ような気概があるものなら、バプテスマを受けた自分の救いを喜んではいられないはずであろう。 神の御子が犠牲になったのも自分が救われる為であったと「クリスチャン」は本気で言えるものだろうか。

聖書はむしろこう云う『彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで生き返った方のために、生きるためである。』(コリント第二5:15)

キリストのために生きるとは、キリストの生き方に沿って、共に自己犠牲の精神の延長線上に生きるのであり、ただ救われたと有難がっているのでは、自分を救いの物語の主役に据えて、キリストの自己犠牲の上に胡坐をかくことになってしまう。その人は、キリストの無私の精神から感化を受けてはいないばかりか、自分の救いや安寧を利己的に求めるという正反対の方向に進んでいるのであり、大半の教会員とは、そのような「ご利益信仰」を抱く人々である。


神は洗礼を受けた個人ではなく、人類の救いとなるよう『諸国民の光』を世に与えたのであり、『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』とも記されている。(ヨハネ3:16)

この『信じる者』というのは、今、現にクリスチャンであることを意味しない。 人類は使徒時代からこのかた、聖霊の奇跡を未だ目の当たりにはしてはいないからであり、聖霊に信仰を懐く機会は終末に訪れるからである。
これが何を意味するかについては、この稿の結論が近付くにつれ理解されるものと思う。
では、許されることのない『聖霊への冒涜』とは何かを理解するために、まず『聖霊』とは何かを見よう。

さて『聖霊』とは神の奇跡の御力であり、あらゆる反論を封じるほどのもので、そこで人は最終的に試される。
言い訳できない『聖霊』の奇跡を目の当たりにするとき、人は誰であれ逃れられない決定的な選択を神に迫られることになる。

それはキリストの地上への現れの時がそうであったというべきであろう。
イエスはこう言われている。
『わたしが誰も行ったことのない業を彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今、彼らはその業を見た上で、わたしとわたしの父を憎んだのだ。』(ヨハネ15:24)


そこで問われるのは、神との邂逅に於けるその人の決定的な選択、エデンの園に於ける二本の木のような二筋の道の選びとなる。

アダムの場合には、自らの存在の由来、第一の関係を持つべき対象である親のような神に対してどう振る舞うかが試されたのであり、それは最初の倫理問題にして、全ての道徳の基礎の基礎を据えるか否かの選択であったと言える。自分の創造者に忠節に振る舞えないなら、いったい誰に対して忠節であり得るか?

つまり、それを前にして神を認めるか、認めないかという選択であり、アダムに対してそうしたように、神はその選択の一方を強制しない。それは愛が強制されるものでないように、自発性はまったく必要不可欠なものである。
そうして人間の自由意思を保つことが、忠節な愛(ヘセド)を真実に存在させ、『神の象り』である人を尊重することは、即ち神が自らをも尊重することだからである。⇒「自らの象りへの神の愛」


アダムの場合には、まったく原初に創造されたものであるから、必要なのは奇跡ではなく、二本の木とその実による試みであった。
しかし、アダムの子孫についてはそうではない。
既に、神との間には『罪』のもたらす断絶があり、不信仰な『この世』に生きる以上、別の試みが必要になる。
エデンの二本の木に相当する、自発心から忠節な愛を示すか否かを選択させる別のものは何であろうか?


では、改めてキリストの言葉を見よう。

この「聖霊への冒涜」という罪は、キリストが述べた言葉の中にある。
-------------------------------------------------
「人の子らはそのすべての罪も、冒涜も許されるだろうが、聖霊を冒涜する者は永久に許されることはない。」(マルコ13:29)
「人はすべての罪も冒涜も許されるだろう。だが、霊への冒涜は許されることはない。また、[人の子]に敵して語るものすら許されるだろうが、聖霊に敵して語るものは、この世でも、来るべき将来の世においても許されることはない」(マタイ12:31-32)

-------------------------------------------------
多くのキリスト教徒は、これらの言葉にヘブル書の記述に結びつけて教えられることもある。
-------------------------------------------------

「ひとたび啓示を受け、天からの無償の賜物を味わい、聖霊に与る者となり、神の類稀な言葉と来るべき将来の世の力を味わいながら、なお、離れてゆく者は、再度あたらしくされて悔い改めに至ることができない。」(ヘブル6:4-5)
-------------------------------------------------

この言葉は聖霊への冒涜が、キリスト教徒を辞すること、つまり教会を去る「棄教」を意味するとも捉えられているようだ。さらに強い適用は、ヨハネ3章18節の『信仰を持たない者は裁かれている』の句を根拠に、現に信仰の無い者はこの罪の下にあると教えられている人々もいる。
「だから、信じてバプテスマを受けろ」というのが、大方の教会の人集めの手管とさえなっているようだ。

しかし、そうだろうか?

この罪への解説を誤れば、狭量な罪の見方に人を陥れてしまうが、許されない罪とはそんなものだろうか。
しかし、聖書中を探索してゆくと、裁かれないために洗礼を受けよという諸教会の教えとはまるで異なる理解に達することになる。

それは、この頁の結論にあるように実際にイエスの言葉は逆であって、聖霊を介する神の裁定は瑣末で神経質なものではなく、世界の様々な人々を可能な限りに広く受容しようとする大らかな全能者の特質を感じさせるものである。




-◆語られた背景--------------------------

まず、この罪に関しては、「聖霊」というものをよく把握する必要があるだろう。

前出のマルコとマタイの句の文脈を見てみよう。
それらは、共通する場面で語られている。

つまり、悪霊*に憑かれた人々からイエスがそれを追い出し、また病を癒す奇跡の業を行っていると、書士やパリサイ派などの宗教家らが中傷して、イエスは悪霊たちの頭目ベエルゼブブ#を使って悪霊を追い出していると、つまりはイエスの奇跡の業の源は邪悪な霊であると主張してやまなかったという場面である。

だが、イエスの業が真に神からのものであれば、これらの宗教家の主張はイエスよりも神を誹謗していたことになってしまう。

一方で、癒された人々やそれを見守った群集は、これらの宗教家とは正反対にイエスの業に驚愕しつつも大いに歓んだので神を讃えて憚らなかった。それまで病んでいた仲間が癒され、辛苦から開放されることを大いに喜んで、イエスを迎え入れる素地を見せたのである。

しかし、イエスは人々に自分に対する感謝を要求したのではない。むしろ罪の許しと奇跡の業を彼に行わせる自らの父である神に人々の注意を喚起するのであった。

そしてヨハネ10章では、彼が盲人を見えるように癒したあとに、奇跡を行う人イエスについてユダヤ人の間に論争が生じたことを伝えている。

一方は、イエスが悪霊に憑かれていると主張したが、他方では、これは悪霊に憑かれた人の話ではないし、第一に悪霊が盲人の目など見えるようにしないではないか。と認識がふたつの割れたのである。

ユダヤの宗教家らはイエスを取り巻いて『お前がメシアなら、はっきりそう言え。いつまで我々を中途半端なところに置くのか』と迫る。 (ヨハネ10:24/列王第一18:21)

そこでイエスは答える。
『わたしは言ったが、あなたがたは信じない。だが、わたしが父の名によって行っていることがわたしを証ししている』。
『わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じてはならぬ。だが、わたしがそれを行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業は信じよ』。(ヨハネ10:25/10:37-38)

このようなイエスの姿勢は、彼自身が行っている業がどれほど類稀な神の業であるかを強く明かすものである。

これについては、ルカの福音書にも似た場面があり、そこでイエスは奇跡についてこう言っている。

『わたしがベエルゼブブによって悪霊を追い出すのであれば、あなたがたの子らはいったいだれによってそれをするのか?それで、彼らはあなたがたを裁くものとなるだろう。しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出すのなら、確かに神の王国はあなたがたに達したのだ』。(ルカ11:19-20)

『神の指』、それはいにしえのエジプトでモーセがその地に下した災いをエジプトの異教の祭司が真似ることができずに叫んだ言葉であった。

モーセを通してエジプトを十度襲った災厄がモーセ自身に帰されるものでないことは明らかであり、これら奇跡の力を行使する偉大な神に対する信仰が人々の間に湧き上がった。

そして、イエスの奇跡はやはり「神の指」であるという。即ち『御父の業』である。

それが神の御力であることは、心の柔らかな者らにとって疑いようのないことである。
しかし、イエスの前でユダヤ人の認識はふたつに割れたのであった。


-◆神の業に関する認識は分かれる------------------------

ある時イエスは、生まれたときから目が見えずにいた若い男を癒して見えるようにしたことがあった。

この男はイエスに言われるままにシロアムの池まで探って行って、イエスによって目に塗られた泥を洗い落とすとその奇蹟ですっかり見えるようになったのだが、いまだ自分を癒したイエスを見てはいない。

一方で、宗教家らは例によってイエスを蔑んでいるために、この男が癒されたことにつまずきをさえ覚えていたのである。彼らはこの男を呼び出して尋問する。「神を讃えて言え(誓約の要求)。我らはその(癒した)輩が罪人であると承知しているが・・・我らは神がモーセに語られたことは知っている。だが、この輩についてはどこからの者か知れないのだ」

すると癒された男は即座に反論する「これは何とも驚いたことです!わたしの目を開いた方ですのに、あの方をどこからの者とも知れないとは!・・・神からの人でないならあの方は何もできないでしょう!」。(ヨハネ9章)

こうして未だ見てもいない人物イエスを熱烈に擁護したこの若い男は会衆から追い出される(ユダヤ教体制からの排斥、村八分)処分を受けたのであった。これはユダヤ人にとって極めて不名誉なこと、いや、神の会衆から出されるのであり、律法の保護の対象からも外されてしまう。

だが、このイエスを熱く支持した人物が神の目に留まらずにいることはなかった。
イエスは、追放されたこの若い男を探し出して語りかける。「あなたに話している者がそれだ」。
若い男はイエスに敬意を捧げつつ言った「主よ!わたしは信仰を持っています」。
イエスは言う「わたしはこの裁きのために来たのだ、つまり見えない者が見えるようになり、見える者が見えなくなるために」。

さて、宗教家たちはイエスの行う奇跡の業を退け、その言い訳として悪霊の頭目を担ぎ出したのだが、それが本当に「神の指」であったなら、これはどういうことになるのだろうか?彼らの目は「見えなかった」のか。

加えて、彼ら宗教家たちは奇跡によってユダヤ同胞が癒されることに喜ぶことすらできなかった。一般の民を侮蔑していたからである。まして愛してはいなかったであろう。

イエスが右手の萎えた男を安息日の会堂内で癒したときにも、その一派の者らは奇跡の業を見届けるなりイエスを殺す算段をしようと会堂から飛び出していったのである。その理由は、ただ「安息日を守らなかった」という瑣末な「正義」のためであり、神の業をそこに見ようとはしなかったのである。
何と宗教的思い込みに恐ろしく歪んだ性格ではないだろうか。だが、こうしたことはあちこちの宗派の場で往々にして起こってきたことであろう。

今日の様々な宗教に於いて、その崇拝の対象や教理はそれぞれに違えども、本旨では一致しているようなところがある。
それが即ち「これが正しい、だから従え」ということである。

しかし、聖霊の証しを通して人に信仰を呼び起こす神の姿勢はそうではない。
それは各人が自ら選ぶべきものであり、それによって人は自らがどのような者であるのかを示すことになると言えよう。

使徒ヨハネはその書簡の中でこう言っている。
『 わたしたちが人の証しを受け入れるとしても、神の証しは更に優っています。
神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神を偽り者にしてしまっているのです。神が御子についてなさったその証しを信じていないためだからです。』(ヨハネ5:9-10)



-◆「聖霊」に逆らう者-----------------------------

こうして、聖霊に逆らった者らの姿が見えてくる。
それは、まごうことの無い神の力の表明を見ながら、なお反対を唱える確信犯である。

イエスは誰に対しても聖霊の罪を犯したとの明確な指摘してはいない。
ただ、ユダ・イスカリオテについてほのめかされただけである。

しかし、その罪が犯されるときには、その人の内心で重大な倫理的決定が為されるだろう。
そこでは、ふたつの事柄が秤にかけられ、義と不法の何れかの選択が迫られ、何らかの動機によって、ある人々は「不法」を選ぶのであろう。

そこに神の落ち度はないとヤコブの手紙は言う。『人は各々自らの欲望によって誘い出されて試みを受ける。そして欲望を孕んで罪を産み、罪が育って死を産み出す』(1:14-15)

だが、この罪を犯す危険を察知したパリサイ人もいた。ヒレル派の大学者ガマリエルである。
彼は、イエス派も神からのものでないならいずれは潰えようが、だがもし神からのものであったなら、反対者は神と戦うことになってしまうという危険を指摘したのであった。

ガマリエルは、イエスの弟子らの行う奇跡を念頭においたであろう。
そこで、この種の罪を犯す危険を悟り、イエス派憎さの欲望のままに重大な倫理的決断を下したりしないよう説得する賢さを見せた。



-◆「聖霊冒涜」の新たな面----------------------------

だが、その時点でユダヤ体制派の宗教家たちは、すでにイエスをローマの権力に渡して亡き者としていた。

キリスト帰天の後、聖霊の働きはイエスから弟子たちへと移されてゆく。

あのシャブオート(五旬節)以降、明白に聖霊の灌ぎが初期の弟子らに行われると、聖霊への反抗の種類に福音書の範囲にはなかったものが現れてくる。(使徒2章)

つまり、聖霊が灌がれ、その賜物によって異言や預言、癒しなどの奇跡を行うことになった初期の弟子たちには、その賜物に対する責任が生じたのである。

その賜物を有する者らは神の王国の一員「聖なる民」として選ばれたのであるが、それは未だ確定的なものではなく、内定のようなものである。(エフェソス1:14/コリント第二5:5)
キリストの帰還まで、あるいは自らの死までの間、傷なくシミもない忠誠が求められていたのであった。彼ら『聖徒』にとっては、確かに一度限りの聖霊の力に預った以上、棄教は聖霊への冒涜となるに違いない。(ペテロ第一3:6)


しかし、彼らに人間に共通する罪(原罪)が残っているからには、不謬なわけもない。それでもキリストの犠牲の仮の適用を受けて、彼らは神の前に『聖なる者』となり『義』と見做されていた。(ローマ8:1)

そこで使徒言行録には『主の霊を試す』という罪を犯した者らが処罰されている場面がある、即ちアナニアとサッピラの夫婦であった。(使徒5:9)
この二人は、人々からの称賛を願って、自分たちの偽りが誰にも見抜かれないと思い込んだ。しかし、聖霊を注がれた立場とは、『新しい契約』に与り『罪を赦された』状態にある以上、故意の邪悪が容認される余地もないであろう。この夫婦はその日の内に葬られている。


それでも、彼らが肉体に留まる以上はその『義』も仮のものであり、彼らもときに間違いを犯し、様々な倫理的失敗も免れていなかった。そこでヨハネは『死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。』と、当時の聖なる者らのエクレシアに書いている。(ヨハネ第一5:16)
アナニアとサッピラのような『主の霊を試す』ような罪は、あからさまな故意、また邪悪であり、人の弱さや過失とは言えず、ヨハネが言う『死に至らない罪』とはならなかったのであろう。


それでも、聖霊を受けた聖なる者としての優れた立場には、当然に一定の基準を満たすことが求められ、かつてのレヴィ族祭司に求められた清さを、キリスト教に於いてパウロが『聖なる者ら』に関して、不品行や偶像礼拝や姦淫、男色、貪欲、泥酔などとされる者が『神の王国を受け継ぐことはない』と述べたのであり、それは確かに『義』とされた『聖徒』について理に適ったことであろう。確かに文脈もそれを明示しているではないか。(コリント第一6:9-10)


したがって、これを混同して一律にアルコール依存者や同性愛者や姦淫者らが裁かれるべきとしてしまえば、多くの悪行や不品行に捕われ真に救いを必要とする人々が、人類の『祭司』とされるべき『聖徒』からの贖罪を受けられないと宣言してしまうことになり、『罪びとを招く』『病人にこそ医者が必要』と唱えるイエスの意図から逸れてしまうであろう。

罪深さを自覚しつつも自己ではどうにもならない人々はいつも存在してきたに違いなく。その人たちの悔いと神の許しの間に、同じように変わりない罪人たる他の人間が「自分は道徳的だ」と言って立ちはだかる理由もないであろう。(行状を改善できない彼らがキリスト教徒に数えられるか否かは「悪行の容認」に関わる別の問題となろう)


しかし、真に正義持つ人類の支配者として、『多くを委ねられた者には多くが要求される』ことは、この場合、『聖徒ら』に関して得心できることであるし、彼らこそは『悪の容認でなく、聖化によって召された』と言えるのである。(コリント第一6:9-10/ルカ12:48/テサロニケ第一4:7-8)



しかし、使徒ヨハネは『聖徒』であっても間違いを犯しても許されることを述べ、そこで「許されない罪もある」と書いている。それでも、「神から生まれた者(聖徒)は罪を犯し続ける*ことはない」という。*(ギリシア語に現在進行形がないためヨハネ第一3:4.6は「罪を犯さない」と訳されることも多いが、それでは既に原罪を超克していることになり、聖徒の状態をぼかすものとなるだろう)

イエスの弟ヤコブも、罪を犯した者は年長者を自分のところに呼んで、祈ってもらい、また油を塗ってもらうようにと勧めている。

しかし、ヘブル人への手紙には、冒頭で書いたような許されざる罪が記されている。
それについては、初期の弟子の聖霊の賜物に与るという立場を加味するとき、この文章理解の見通しが開けてくるのである。

「ひとたび啓示を受け、天からの無償の賜物を味わい、聖霊に与る者となり、神の類稀な言葉と来るべき将来の世の力を味わいながら、なお、離れてゆく者は、再度あたらしくされて悔い改めに至ることができない。」(ヘブル6:4-5)

これに加え、同じヘブル書の10章26節にはこうある。
「我々がもし、真実の知識を授かった後に、敢えて*罪を犯し続けるなら、罪に対応する犠牲は何も残されず、裁きと、逆らう者らを呑み尽くす劫火を慄きつつ予期するばかりとなる」。(10:26-27)*(エクーシオース 「自発的に」)

ここが、信徒たちをして、その属する宗派や組織から出てしまうことのないようにと、「地獄の火」のように信徒を恐れさせて利用されることの多い句である。しかし、だからといってその句の反対側に、つまり宗派に留まり模範的でありさえすれば、果たして「救い」というようなものがあるのだろうか?
ならば、「神の裁き」とは何と人間臭くて外面的なものなのだろうか!

だが、この10章26節に関しては、少し後の29節を見ると「自分自身を聖なるものとした契約の血」が関連付けられており、これらのヘブル書の言葉が聖徒°に適用されることを明示しているのである。 

さらに、「恵まれた(カリストス)霊を侮る者は」と続くので、上記の6章の言葉と同様に議論の余地無く、この書簡中での「聖霊に対する罪」は、聖霊を受けた者である「聖徒」が、その聖霊に敢えて逆らうことを指して「キリストをもう一度磔に処するようなものだ」と述べていたといえるのである。

また、『あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは偽物として見捨てられる。』という言葉も、当時の聖霊を自らの内に得た聖徒らへの強い警告であり、霊を注がれてすら不信仰であるという、冒涜的な状況が如何に危険であるかを伝えるものとなっている。(コリント第二13:5)

したがって、聖霊の賜物を持たない者や、それを目の当たりにしていない者は聖霊の働きを充分には知らないので、この絶対的罪を犯すことを心配する必要はなさそうである。

では、今日この「聖霊に対する罪」を犯すことがあり得るだろうか?


-◆「聖霊に対する罪」はどう生じるか----------------------

まず初めに、イエスの奇跡の業を見たユダヤ人たちは、「神の指」の働きを見ながらこれを退けた。

そこにどれほどの自覚があったかは分からないが、人の行うことのできない奇跡を侮り、そこに含まれる善意すらも否定したのだが、この場面の反応を指して、イエスは「聖霊に逆らう者に許しがない」と述べていたであろう。

そして後に、聖霊を賜った「聖なる」弟子らにも同様に「敢えて罪を犯し続けるなら許しはない」と述べられていたとみることができる。『聖なる者ら』の行う聖霊の業を冒涜した者もまたそのようであろう。

したがって、この種の罪に関わる双方ともに、「聖霊」とそれに対する確信的抵抗が介在しているといえるだろう。

この理解を通して初めて、ヨハネ3章18節が述べる、『信仰を持たない者は裁かれている』の句も明瞭となるであろう。つまり、『聖霊の業』を見てさえ信仰を持たないという罪であり、その上には『神の憤り』がある。
 

しかし一方で、イエスは『人の子を罵倒する者ですら許されるだろう』とも言っているし、『あらゆる罪』にしてもそうであると言う。そこでは聖霊に対する罪と、そのほかの一切の罪がどれほど異なるかが強調されていないだろうか? (マタイ12:31-32)

総括すれば、「聖霊に対する罪」は聖霊の関わるところでのみ生じるのである。


他方、賜物をもたらす聖霊の降下は第二世紀頃に止んでいる。⇒ 西暦第二世紀のキリスト教徒
その後の聖霊を失ったキリスト教は迷走して様々な教えに分かれ、その枝葉は数え切れないほどになった。

そのだれもが正統をあるいは真理を持つと唱えても、聖霊のあるところならば正統もあり得ようが、今日どこにも聖霊がなく、完くの「正統」はどこにも存在しないので、これらの宗派は相克するよりほかない。

この争論や敵意そのものがそれぞれの聖霊の無さを証明しているであろう。聖霊は強力で曖昧なものではなかったからであり、そこに見間違える余地はない。

この上からの介入、つまり「聖霊」のない状態では、イエスの弟子らが的外れな考えを抱いていたように、皆が部分的知識の誤謬と自己満足の中に在るのであって、現在は絶対の罪を犯す余地がない。却って認識の不十分さゆえに、「聖霊の罪」からは保護されているともいえるだろう。

現代という時代は、バプテストのヨハネやイエスの登場する以前の、数百年間預言者が現れなくなり、神からの音信の途絶えていたユダヤに似ていよう。
ユダヤ人たちが言うように、マラキを最後に「預言者たちはみな眠りに就いてしまった」。
その後、第一世紀にイエスが現われた世代こそが、バプテストのヨハネとメシア・イエスを迎え、聖霊の業を目撃することによって、その罪を問われたのである。

今日も同様に、神からの聖霊は絶えて久しく、その沈黙の日々は千九百年になんなんとしているのである。


-◆再び聖霊の業が行われる時代に----------------

だが、ユダヤにイエスが現われたように、将来に聖霊が再降下するならどうなるのだろうか?

それは、キリストの帰還の時に為されるだろう。即ち、「終末」であり、「裁きの日」のことである。
選ばれた弟子らは為政者の前に引き出され「聖霊によって論駁しようもない言葉を語る」とされている。

それは諸国民への宣布、証しのために起こる奇跡となろう。これは鮮烈な論争を惹起し、イエスの世代のように、将来のその世代もキリストの臨御を巡ってふたつに割れるであろう。(ルカ12:8-12)

支配する王キリストを迎えることに反対する者らがまるで現れないということは、もちろん今でさえ考えられない。
そこでは、やはり古代のように聖霊を拒む者らが出ることは避けられないだろう。

将来の終末にも、同じように反応する人々が存在するのは、誰にも留めようがない。いや、それが『この世の裁き』であるなら、人の最終的裁きには聖霊が関わることになるに違いない。

世界は聖霊を通して「神の声」を聞くが、これは聖霊を注がれた聖徒らの働きであり、これにどう反応するかは極めて重い判断になるだろう。つまり、そこに「聖霊に対する罪」が関わるからである。(ヘブル3:15)
こうして、この罪を巡って人類は裁きの日に臨むことになるだろう。

従って、生きる人々は聖霊を受ける『聖徒』が現れ、この『聖霊を冒涜する機会』は「聖霊の業」を見ない限りは一度も到来しないということになり、それはこの『聖なる者たち』が地上から絶えた第二世紀から今日までそのようである。この間に死に至ったすべての人々は、復活の後に試されることになろう。

イエスはこう言っている。
『このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、

 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』(ヨハネ 5:28-29)


これは生前の行いを基に裁かれることを意味するのだろうか。
もし、そうならこの裁きは『聖霊を冒涜』する罪とは関わりが無い。
しかし、これが永遠の裁きであるなら、単に人が善行者であったか悪行者であったかという一般的な道徳規準で神は死者を復活させて裁くことになる。

だが、終末に聖霊が再び臨み、それが人々を分けるとするなら、死者も同じ基準で裁かれるべき理由が生じることになる。
この世の終わり「終末」において、神が人類を激動させ、そうすることによって『望ましい者らが家(神殿)に入って来る』というハガイの預言からすれば、聖徒らによる聖霊の言葉や証しは人間に由来するものではないので、非常に際立つものとなるのであろう。

そうなると、やはり死者たちに同様の機会が開かれねばならず、パウロが『義者と不義者の復活がある』と言ったことも、復活そのものが裁きとならず、わざわざ不義者を復活させる理由が見えてくる。(使徒24:15) 


ひとつには、死者は聖霊の業を見ていないからであり、また『アダムと同じ罪を犯していない』ゆえにも、彼らの生前の道徳がどのようなものであれ、重罪を犯しイエスの傍らで磔刑に処されながらもキリストに信仰を懐き、権力による処刑の最中にさえ受け入れられた男のように許されるべき者が居るに違いない。(ローマ5:14)

そこでは、人がかつて何を行ったのかはほとんど意味をなさない。自分は模範的だと、一般的な道徳性を誇ったところでそれがどれほどのものとなろう。

聖霊の業を通して問われる究極論点は「神を神と認めるか?」である。これこそがあらゆる倫理の基礎であり、あとはキリストを罵倒していたとしても本質的な罪ではない。まして、人間の法については言うに及ばない。 ⇒ 「終末の裁きで何が問われるか」

もちろん、不法を繰り返して来た者には倫理的欠陥が深く染み付いて、聖霊に対しても罪を犯しやすいのかもしれない。だが、自分の悪に気付く者らには有利であろう。
却って、罪多きものは多くを愛するということがあるだろうからである。許されるものが大きい人は、キリストにために生きることを躊躇わない。


一方で、人間の定めた規則に仔細に従うような道徳的模範者が神に悦ばれるというなら、その神は何と矮小なことであろう。
ある宗派に馴染めず、そこを出た信徒を許されざる者とする神なら、何と了見の狭い神であろう。

我々はそのように小さく偏狭な神を心から尊崇できるだろうか?そのような「神」なら、我々の周囲に幾らでも歩き回っていないだろうか?
また、それらの宗教の教導者は、偉大な神を自分と同じレベルに卑しめてはいないだろうか?

教会を去る信者や、単にキリストの信仰を持たないからとこの罪に断じるのは、貴少な教会員の囲い込みにはなるほど打って付けなのであろう。そのような教えが存在することは致し方ないが、その犠牲となる人々はまことに気の毒なことである。

あるいは、教会や組織に属すところに「救い」のようなものを実感し、愉悦を感じている方々もおられるのであろう。
だが、こうして聖書を見るとき、「所属が救済」との教えに蓋然性があるとは思えない人々もまた居るに違いない。

我々の限界や弱さや罪深さを知り尽くす神が、人間同士の定めや道徳の差を以って裁くだろうか?
大いなる創造の神は、人間はすべて「土」であることを知っているという。
この意味するところは大きい。
この点、聖霊を受ける者ですら、人の罪を許すよう求められてさえいるのである。(ヨハネ20:22-23)


-◆「我々に抗わない者は、我々に味方している」---------

この見方を支持するのは、イエスは聖霊への罪の適用の境界は非常に大らかであることを示唆する発言をしていることである。

聖霊の業を真似ながら自分に付き従ってこない者らをイエスは咎めず「我々に抗わない者は、我々に味方している」と言い、却って使徒らにこれら小さなものたちをつまずかせることが大罪であると叱責し、他方で聖霊の業を誹謗した者を指してのみ「わたしと共に集めず、散らしている」と述べている。⇒「アブラハムの裔を集めるキリストの業」

このように、聖霊の業をどう見るかこそが、人々を大きく分かつことを明らかにしているのである。
そこに瑣末なことで仲間を裁く狭量な宗教家の姿を見つけることはできない。
(マルコ9:38-42/ルカ9:50)(マタイ12:30/ルカ11:23)

それゆえ、我々は互いを裁かず、神が聖霊を通して語る時を待つべきである。
そのときこそ、宗派にも他のあらゆるイデオロギーをも超越し、我々個人の真なる深奥の資質、即ち、神を肯んじることができるか否かを問われることになるのであるから。

神の裁きであれば、そのように個人の内面こそが問われて当然ではないだろうか。
聖霊とは、個人の内奥の如何なるかを見極める為の重要なファクターであり、イエスや聖徒らの時代と同様に、終末の「神の裁き」において人知の到底及ばぬ働きを為すであろう。


試みを経て神との絆を選び取る人々について、聖書はキリストの自己犠牲の愛の許に集められ、『神の子』とされることを知らせている。この意味は、神の創造物として完成され『罪』をまったく去って、神と共に生き続けることであるので、試みの後に『死は火の湖に投げ込まれ』もはや存在しないことを示す。

こうして神は創造の業を完遂し、人に自らの『象り』としてその栄光を与える。人はキリストの犠牲によって『神の子』に復帰し、遂に永生に至ることになる。
 




              新十四日派   © 林 義平

--------------------------------------------------------------



*「悪霊」:天での立場を保たず、人の女と交わろうと人の形をとって地に降り、罪を犯した堕落天使ら。その頭目には、最初の逸脱者サタンが君臨する。
ノアの洪水以降は拘禁状態に置かれ、人にはっきりと現われることはできないが、今日まで曖昧な仕方で様々な不善を為している。能力は人間を高く超えるが、倫理性は相当に低い。人によっては生活に支障があるほど干渉されることもあり、憑依状態や痙攣、体や夢や発言の操作、様々な無い物を見せたり聞かせたりすることも少なくはない。これらに好奇心を抱くことは非常に危険だ。

#「ベエルゼブブ」:本来はユダヤでの異教神の蔑称。元の言葉は「バアル・ゼブル」と考えられており、カナンの神バアル(「主」)のひとつの形態であったが、ヘブライ語で「ハエの王」をもじってこのように呼ばれたらしい。これが第一世紀までに、ユダヤ人の間で卑しめられ悪霊たちの頭目の名称とされるようになっていた。

○「聖徒」:(ハギオス)キリストの信徒の中でも、イエス刑死後の五旬節から聖霊が灌がれ、奇跡的能力の賜物を得た者らで、イエスと共になるために召された格別な人々。 ⇒  西暦第二世紀のキリスト教徒

キリスト教が復活を教えている以上、キリスト教信仰を持って死んでいようが、持たずに亡くなっていようが関係なく、終末の復活後に、聖霊の奇跡の力がすべての人々に改めて示されることになる。


このブログ内の記事一覧


関連項目 ⇒ 「終末の裁きで何が問われるか
     ⇒ 「聖霊という第三のもの



これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。