イエスの「賃金」の例え話はマタイ福音書二十章のはじめから読むことができる。
以前にもぶどう園の悪い耕作人たちの例え話に触れたが、ここでもぶどう園のオーナーと作業する者たちが登場する。

初夏を迎え、ぶどうが取り入れの時期になったので、オーナーは収穫作業のために人々を一日一デナリウスの賃金で雇い入れる。しかし人手不足なので午前九時ころに公共広場に行き、その日に仕事がない男たちをも日雇いにして自分のぶどう園に追加の労働力として送り込んだ。

しかし、相当な豊作だったのか昼頃にも同じように人手を増強して、さらに二回、つまり合計四回人手を送込んだ。そのため、朝からの者らの労働は十二時間にも達していたが、最後にぶどう園に着いた者たちは、わずか一時間働いたのみであった。

こうして夕刻になると、オーナーは最後の者から始めてどの者にも同じく一デナリウスを支払った。そこで収まらないのが最初から働いた者たちである。オーナーに向かって『最後の者たちは一時間働いただけなのに、あなたは日がな一日の炎暑と労苦とを耐えたわたしたちを等しくした』。(マタイ20:12)もっともな主張ではある。

だが、これは適正な労働賃金について説明する話ではない。オーナーの答えは『同胞よ、わたしはあなたに不正をしていない。あなたはわたしと一デナリウスで合意したではないか。自分の分を取って行くがよい。わたしは、この最後の者にもあなたと同じに与えたいのだ。わたしが自分の物をしたいように使うのは当然ではないか。それとも、わたしの気前よさが、あなたの目には悪く見えるのか』。というものであった。

-◆足りない選民「イスラエル」への異邦人の補充---------------------

イスラエルの歴史は非常に長い。
我々は彼らの父祖アブラハムへの約束やモーセの律法が与えられてからのこの民族の歴史をかいつまんでみて来た。彼らの不従順が原因とはいえ、その歴史は苦難の連続であった。
彼らはまる一日の労苦と暑さを辛抱した最初からの労働者のようである。

対照的に、コルネリオのような割礼も受けず正しくユダヤ教に改宗もしていないまったくの異邦人はどうであろう。ユダヤ人がやっとの思いで辿り着いたメシアと聖霊に一足飛びに預かってしまった。いまや彼らは「諸国民の光」となるべきアブラハムの遺産を受け継ごうとまでしているのである。

しかし、ユダヤ人のイエス派信徒の大半はトーラーの教えから脱却するのに手間取り、異邦人信徒のように身軽にイエスの新しい教えに合わせることはできなかった。キリスト後も使徒たちは依然としてエルサレムの神殿を中心に活動しており、エルサレム倒壊以前に新たな見方をはっきりと培っていたのは、異邦人への鍵を開いたペテロと、新たな使徒パウロなどの少人数のように聖書は読める。

西暦60年代に入るころになっても、ユダヤのイエス派信徒は数万いたとあるが、それは全体からすれば僅かな数である。おそらくは十分の一以下はもちろん、ユダヤ人と名の付く人々の百分の一にもならなかったかも知れない。イエスをメシアと認めた少数派の彼らは敬虔なユダヤ教徒でもあった。だが、当時のイエス派ではペテロやパウロの活動に明らかなように、異邦人による選民への補充というイエスの意図は同時進行している最中であった。
しかし、「異邦人は汚れたもの」という律法的思考をユダヤ人はそう易々と変えることはできない。まして現状で律法の規定に従う生活をしていれば、それは無理といっても過言ではないだろう。

だが、こうして我々は、イエスがユダヤの律法体制の『囲い』にはいなかった『この囲いのものでない』羊を連れてくるということ(ヨハネ10章)に関して、この譬えの最後の言葉『後の者は先になり、先の者は後になる。』(マタイ20:16)という例え話を締め括るこの言葉が現実性を帯びるのを見る。

この「賃金の例え」は、直接にはイエスの言葉を聞く使徒たちへ向けた警告となり得た。彼らはユダヤ人であり、彼らがこの例え話を仲間のユダヤ人信徒に言い伝えることで、間接的に同胞のイエス派信徒たちにも遺産相続を異邦人にも許す覚悟を固めさせる効果もあったろう。

つまり、キリスト以後「異邦人の罪人」までもがアブラハムからの相続権を得たとしても、ユダヤ人たちが不公正に受け取ったり、嫉妬しないためである。

これが語られたのはイエスの刑死が近づいた春先で、主を含む一行がエルサレムへの最後の登城をする旅程の中にあった。

すでにユダヤでは、祭司長派によって体制としてナザレのイエスを退ける算段が進んでおり、メシアを信仰の内に捉えるのはユダヤ体制の全体ではなく、僅かな「イスラエルの残りの者」だけであることは確定的であったから、アブラハムの相続財産を受ける『王国』を構成するにはユダヤ人だけでは不足すること、そしてその補充のために異邦人でイエスをメシアとして信じる者らを、その血統によらず信仰によって真のアブラハムの胤として集め出し、『メシアの王国』「神のイスラエル」を実現させる必要はもはや動かしがたい現実として眼前に迫っていたのであった。

後に使徒パウロは、この補充について果樹園のオリーブの樹の接木の例えを用いて説明している。(ローマ11:13-)イスラエルというオリーブの樹に実を結ばせるために本来の枝は折り取られ、異邦人という野生ながら良好な枝が接木されて、イスラエルの樹全体が満たされ「数が揃う」と言っている。(一定数であり無制限ではない⇒「聖霊と聖徒」)

しかし、そこではユダヤ人と異邦人という二つの群れが生じる事態をすべての弟子は乗り越える必要があり、これは後にエルサレム使徒会議を要請し、イエスの弟ヤコブの寛容な裁可を以って、当時には律法に従い続けるユダヤ人イエス派と、律法の頚木を負わない異邦人イエス派とがそれぞれ共栄する道が開かれたのであった。(エルサレム会議のヤコブ

しかし、それでもユダヤ優等主義はエクレシアからは絶えず、使徒パウロは生涯を通してこれと戦い、これによって逮捕投獄され、これのためにローマに送られてもいるのである。

それで、このイエスの「賃金の例え」に見るように、ユダヤ人の永い歴史に亘る神の経綸との関わりが、遺産相続における代価の受け取りに反映されていない、また不公正であると、初めからの労働者たちに相当するユダヤ人らが見做されることは無理からぬものであろう。それゆえにも、イエスはこの例えを話しておくことにしたのであろう。

あのシャヴオートの日には、祭りに登っていたユダヤ人に「聖霊」を通して遺産相続が約束されたのだが、その日から遠からず使徒ペテロの活動を契機にサマレイア、そしてまったくの異邦人たるローマ人へとアブラハムからの相続権が聖霊の降下と共に広げられていったことは、ユダヤのイエス派信徒に少なからぬ動揺をもたらしたであろう。(使徒11:1-2)

ユダヤの優等性を図りたいユダヤ人が異邦人のイエス派信徒に向かって、ユダヤ教への改宗者のように割礼を受けるべきだと主張したとしても想像の難しいことではない。(使徒15:1)
彼らにとってメシアを受け容れるということはユダヤ教の完成を意味したのであり、実質的に「古いぶどう酒は旨い」と言っていたに等しい彼らは、後のキリスト教という世界宗教への脱皮を果たすことなどは概念すらも持たない。(ルカ5:39)

ただ、彼らとて神意である天からの聖霊の導くままに任せるより他無かったが、その聖霊は無割礼のままの異邦人にも向かっていったのである。確かに、賃金の支払い方としては公正とは言えないだろうが、そこでは神の選んだ国民(出埃19:6)の不足が、真のアブラハムの後裔「神のイスラエル」の数を満たす必要をして、ぶどう園のオーナーに「気前のよさ」をもって振舞わせたのである。つまりは、『働き人』の不足がもたらした事態なのである。

明らかに、キリストが去ろうとするこの段階で、ユダヤの不信仰による「人手不足」は深刻なほどであった。
それはつまり、『神の王国』『聖なる民』となるべき都市国家「聖なるエルサレム」を構成するべきユダヤ人が少な過ぎ、当時のユダヤ体制はメシアを拒絶し、招かれていたのに『結婚式には行けない』と言ったのであった。(マタイ22:1-10)

この件がはっきりとした段階での、「賃金の例え」を語っていたイエスの意志は、聖霊の活動によって「神のイスラエル」の信仰ある異邦人を採用しての補充へと動き、民族的国家教から世界宗教への方向性を明示し、それは誰も抗い得ない神の経綸となった。

こうしてアブラハムに語られた、人類全体を祝す手立て『神の王国』、キリストを主要な王また大祭司とする人類救済の『天の王国』が、ユダヤ人の不信仰と失敗を乗り越え実現へと向かう道を進み始めたのである。




                     新十四日派    © 林 義平
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以上は拙著「神YHWHの経綸」中巻からのダイジェスト

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