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-予備知識-
「聖徒 聖霊が指し示す者」、「大いなるバビロンの滅び」、「神の家から始まる裁き」、「マタイ福音書の終末預言と例え」、「オイコノミアと七つの頭」




◆終末に撒かれる毒麦

 マタイ13章24節を以って始まる「小麦と毒麦の例え」はマタイ福音書にだけ存在し、「種まき人の例え」の解釈を述べた後に、イエスの身近に居た弟子らに話されており、おそらく群集はこれを聞いていない。

 つまり、「種まき人の例え」の四種類の種の中でも、実を結ぶ「良い種」に相当する人々すらも更に選別を受けることを警告しているように読めるのである。

 ユダヤ人を念頭に置いたマタイの福音書は神の王国をほとんどの箇所で「天の王国」と呼んでいるが、この「小麦と毒麦の例え話」の主題もやはり「天の王国」である。

では、その例え話に耳を傾けてみよう。
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 「天の王国は、このような例えのようだ。
 人は自分の畑の中に良い種を撒いた。

しかし、人々の眠っている間に、この人に敵対する者が来て、小麦の間に毒麦(ジザニオン)の種を撒いて去っていった。

草が芽生えて、実ると、そのとき毒麦も現われた。

家の僕らが主人に近づき「ご主人さまが畑にお撒きになったのは良い種ではありませんでしたか?どうして毒麦があるのでしょう?」と訊く。

主人曰く「それは敵対する者がしたことだ」。すると僕らは「私共が行って抜きましょうか?」と言うと
「いや、毒麦を引き抜く際に、小麦も一緒に抜きかねない」。「収穫まで両方とも成長させておき、その時になったら刈る者には、まず毒麦を集め焼くために束ねさせ、次いで小麦を収穫の蔵に納めるために集めさせよう」。

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 以上が例え話であり、群集を解散させた後で、これらについてイエスは弟子たちの要請にしたがって、その意味するところを語っている。
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良い種を撒くのは人の子、つまりキリストである。
畑とは世界であり、良い種は王国の子らであり、毒麦とは邪悪な者の子らであり、それらを撒いたのは悪魔で、収穫は世の秩序の終わる時で、刈る者は天使である。

それで、毒麦が取り集められて火で焼き尽くされるように、世の秩序[アイオーン]の終わり(終焉[シュンテレイア])もそうなる。
人の子は、天使らを遣わして、人をつまずかせる者と不法[テーン アノミアン]を行わせる者らを自らの王国から集め出し、炉の火に投げ込ませるであろう。そこで泣き悲しみ歯軋りするのである。

それから、義なる者たちは彼らの父の王国で太陽のように輝きわたるであろう。

耳のある者は聴くがよい。
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敵対者が畑に別の種を撒いたような、いやがらせの行為が実際、古代に行われていたとも言われている。(ローマ法では処罰の対象であったという)

この毒麦を食すと死亡に至ることもあるというからには、その分別は命に関わるものである。

食すことのできないこの中東の毒麦は、実を結んで穂が出るようになるまでは小麦によく似ており、そればかりか共に根を伸ばして絡み合えば、毒麦だけを選んで抜き去ることは難しいと言われている。
それが撒いた悪人の狙いでもあろう。畑全体の予定していた収穫を阻害してしまえるからである。

だが、この例え話の主人の判断は合理的である。
成長する間、農夫であっても小麦か毒麦かの区別がつかなかったし、多少養分を毒麦に吸い取られていたとしても、収穫の時期になってしまえば、遠慮なくどちらをもバッサリと刈り取ろうが引き抜こうが支障はなくなる。

しかも、穫り入れの時期になれば穂の外見から双方の見分けがつくので、小麦は蔵に納め、食料にならない毒麦の方は竈で煮炊きの火にでも供すればよいであろう。

さて、イエスは良い小麦の収穫を期待したが、それは「天の王国」に集められる人々のことを語っているのであり、単に「クリスチャン」の中に区別が生じるなどと考えていれば、この例えの本旨には到達しない。

これを結論から言えば、「新しい契約」に参与することよって、イエスと共に王また祭司となるはずの「聖なる者たち」の中の分離を表している。⇒ 聖霊と聖徒


即ち、奇跡を行う聖霊を注がれた『聖なる者』となった者には、『多くを委ねられた者は多くが求められ』『狭い門から入るよう励み』『自分の魂を救おうとするものはそれを失う』ほどの試練が待っているのであり、そこで脱落する『聖なる者』が出ることは、「ミナ」や「タラント」の例えをはじめ、「婚礼の服装」「引き網」「一人は残される」など多くの警告が与えられている。

また、「小麦は倉へ納める」という新約聖書で繰り返される言葉が、ユダヤ人の中から「聖霊のバプテスマ」を受けた者と「籾殻」とされ「火のバプテスマ」を受けた者の相違の中でも語られており、それがイエスをメシアと信じた側と信じなかった側のユダヤ人の結末を語っているところからも明らかである。⇒ 聖霊と火のバプテスマの異なり

この倉に納める「小麦」とはキリストがその宣教を通してパレスチナで集め始めた『聖霊によって油注がれた』『アブラハムの裔』『聖なる国民、王なる祭司』を表しており、もちろん単なる「クリスチャン」などではけっしてない。⇒アブラハムの裔を集めるキリストの業
即ちキリストと共に天の神殿を構成する格別で少数の弟子たちである。

だが、「小麦が倉へ納められる」ことを喜ばない者がいる。それは悪魔であり、「小麦」に相当する『アブラハムの裔』また『王国の子ら』が集められ、神の王国が実現することは悪魔の立場を危うくし、天に居られなくするものである。そこで彼は「ディアボロス」(中傷者)の特性を発揮して、「聖徒」たちを誘惑し、本来「小麦」であった者を「毒麦」と変じさせることを目論む。その意味に於いて『毒麦』の種を撒くのは『敵である』悪魔である。(黙示録12:7-)

そこでこの「小麦と毒麦の例え」は、キリストと共になる聖なる『召された者』らの中に悪魔が自分の種である邪悪な者らを混ぜようとして、「偽の聖なる者」を撒き足すということであろう。そうすれば、『聖なる者』また「キリストに与えられた者」『神のイスラエル』の数を満たさぬように影響でき、王国の実現を阻むことになるかも知れない。(コリント第一1:2/ヨハネ17:6/ガラテア6:16)


では、すぐに悪魔の撒いたものを抜き去ることが良いかと言えば、実際の毒麦のように見分けがつかなかったり根が絡んだりして、大切な聖徒である『小麦』まで損なう危険があり、それは敵対者の大いに喜ぶところとなるだろう。悪魔が妨害したいのはキリストの民『神の子ら』が『収穫』されて揃い、『天の王国』の実現することを阻むことである。(ルカ11:23・13:34)


そこでキリストの側で必要になるのは、『額に証印を押される』『神のイスラエル』の十二部族を『四方の風から集める』という『裁き』であり、それに適う者たちが見極められるのが終末の聖徒の裁きとなるのである。(マタイ24:31)

彼らが天界の神殿の石となるからには、彼らの主と同様に『試された石』となるべき必要があり、その試みの場がこの毒麦の例えで言うところの『世界』という『畑』であって、それは聖霊の種の撒かれる地上以外にない。

この小麦と毒麦との処置の過程から、もうひとつの裁きも進行してゆく。
それが『キリストの兄弟たち』である聖徒らに寄り添い親切を示すか否かという、その時に生ける人類の残りに対するより大規模な裁きであるが、その前に、どうしても『小麦』となる人々が試され集め出されなければ何も進まない。そこでイエスは使徒らへの教訓を通して、その試みに備えさせている。


まさにこれを指して、イエスがこの例えの終わりに『世の終わりも(小麦と毒麦の例えのように)そうなる』と語ったと言えよう。
では、『小麦』と『毒麦』をはっきりと区別させるのは何であろうか。
 


さて、初代のエクレシアにおいて、信徒の中でも聖なる者たちには聖霊が注がれていたのだが、最後の使徒ヨハネの時代(第一世紀末)には偽の霊感が混入し始めていた様がその書簡に窺える。(ヨハネ第一4:1-6)⇒ 西暦二世紀のキリスト教

これは人類全体を二分する事柄「世の裁き」ではなく、繰り返しになるが、一般のキリスト教徒の良し悪しを述べるような単純で浅薄なものでもなく「どのクリスチャンが正しいか」などと云う観点からこの小麦と毒麦の例えを見ていれば、その奥深い意味にはいつまでも到達しないであろう。

これこそは「世の裁き」に先行する、聖霊を受ける人々が試練の中にあって起きる分離を意味しているのであり、まだ将来の「主の日」、即ち終末に起きることである。


だが、その人々「聖徒たち」にとっては重大な関心事となるに違いない。その選別キーワードに「不法」[アノミアス]が挙げられる。この「小麦と雑草の例え」の解き明かしでイエスが語った『不法を行わせる者らを』集め出すと言われたからには、雑草また毒麦とは「不法」を行う者、また躓きを仲間に与える者である。⇒神の家から始まる裁き


即ち、「雑草」と「不法」は聖書中で「聖なる者たち」(ハギオイ)と呼ばれるイエスの約束した聖霊を受ける人々の中から起こる「背教」が関係している。即ち、「脱落する聖徒ら」のことであり、パウロがテサロニケのエクレシアに『まず背教が起こり、不法の人が現されてからでなくては(主の日は来ない)』と言っていたところの『背教』(アポスタシア)がこれである。(テサロニケ第二2:3)

『毒麦』また『背教』は、キリスト教の外側で起こる事象ではなく、まさしく内部から、それも聖霊注がれ、不定の将来に『回復』を果たす「浄められたキリスト教」の中枢での逸脱を指し示している。『聖なる者ら』が担う責任は非常に重いものであり、命を掛けて聖霊の言葉を語り、為政者とこの世に対峙せねばならず、『自分の魂を見出そうとする者はそれを失う』ほどであるという。(マタイ10:32-39)


そこで恐れ慄いてしまい、その果たすべき責務を離れてこの世と妥協してしまう者は、当然に「新しい契約」に相応しくないばかりか、仲間であった聖徒たちの敵と変ずるとしても不思議はない。もう、その者たちにキリストとも神の王国とも関わりはないのである。これは『背教』というべきであろう。 ミナやタラントの恐怖のために財産(聖霊)を隠してしまった奴隷の例えはこの警告となっている。

そこでは堕落させようとのサタンの誘惑が働くことで『小麦』となるか『毒麦』なるかの分かれ目となるのであり、その結末については『聖なる者』らの個人の忠節に関わる問題であるので、エデンの二本の木の試みと同じく、神はこれを予見しない。そこで毒麦を『小麦も共に抜いてしまわないように』する必要が生じると言える。それは即ち、聖徒らに臨む試練の結果として初めて両者の違いが現れるのであり、その間は『聖なる者ら』の裁きにキリストは手を付けることはないことになる。(フィリピ1:10/ペテロ第二3:12/ダニエル11:35/マラキ3:2)


そして、『収穫まで両方とも成長させ』るという時間の流れは、あのペンテコステからずっと現代まで続いてきたとは言えない。
なぜなら、真に聖霊を注がれた『聖なる者』は初期(第二世紀)に一度途絶えており、次に現れるのは「終末」という将来の『主の日』だからである。即ち、キリストは終末に至って弟子らの中に聖霊の注ぎを許し、そこで再び倉に納められるべき「小麦を撒く」ことになるであろう。⇒「ダニエルの七十週」

もし、初代から種は撒かれたままであると主張しようにも、それではローマ国教化以後の『畑』という世界は雑草だらけになっていることになり、この例えとは大いに様相を異にする。この例えに語られる『毒麦』とは、今日のキリスト教界の逸脱を遥かに凌ぎ、『聖霊を冒涜する』ほどの恐るべき『背教』というべきものとなろう。それは使徒パウロが書いたように、その『背教』(アポスタシア)が来なければ『主の日』も来ないからである。(テサロニケ第二2:1-17)


さて、古代には第二世紀までの初期の『聖なる者』たちも試練に遭っており、ユダ・イスカリオテの存在が示すように脱落した者が居たであろう。西暦60年代に入ると迫害が各地で起こるようになり、ペテロが警告する『神の家から裁きの始まる』時期が到来している。⇒神の家から始まる裁き
他の脱落者の例を挙げれば、アナニアとサフィラもそれに当たるように見える。この二人の場合はそのまま抜き取られたことになるが、これは聖霊降下からそう日を経ていない事例なので、言わば「芽を摘んだ」のであろう。

初期の『聖なる者』たちの選別は、死に至るまで忠節であったか否かによって分けられるものであり、それは復活において、『命の復活』となるか『裁きの復活』となるか*を左右するものとなるであろう。これは「十人の乙女」の例えに表わされている。⇒十人の乙女の例え 


*(これは『第一の復活』と呼ばれる(Rev20:6)ところの、キリストによる聖徒らを裁くための『千年期』直前の復活であり、キリストの声に呼び出される者ら復活(Joh5:28-29)を指している。従って、神による『義者も不義者も生き返る』(Act24:15)という、ユダヤ人が広く信じたところの諸世紀に生きた全人類の復活とは明らかに異なっている)



そこで、この小麦と雑草の例えは、初代キリスト教徒のように聖霊を受ける人々が再び現れる終末期の二度目事態を我々に指し示すもので、現状では、この例えから、将来に起こるであろうその実態を推察する以上のことにはならない。つまり、誰が『小麦』で誰が『毒麦』かを『主の日』に入ってもいない今の時代に決め付けるのは不毛な論議なのである。

そして現在は、奇跡を行う『聖霊』が地上の誰の身の上にも注がれていない以上、種の撒かれてもいない今日、『聖徒』からの『毒麦』も『背教』も芽吹いても始まってもおらず、小麦も雑草も生育さえしていない


背教というなら、すべてのキリスト教には初代のようには聖霊が無いことにおいて、どんな宗派も本来のキリスト教から逸脱している最中にあり、現在はそれ以上に「背教」のしようもない。
イエスの『毒麦』の例えも、パウロの言う『背教』も、キリスト教界の原状の逸脱ように「生易しい背教」では済みそうになく、それこそは、終末期における世界を惑わすサタンの猛り狂った反キリストの大暴れとなろう。



-◆「不法の人」--------------------------------

パウロの時代(西暦60年代まで)にも、彼によって「不法[アノミアス]の秘事」は既に始まっており、(聖霊という)抑制力が除かれるときが来れば、それははっきりと姿を現すと述べており、その「不法の人+」は、また「滅びの子×」とも呼ばれている。(テサロニケ第二2:1-12)

(+ [ホ アンスローポス テース アノミアス]=不法「重大な不正/法律を超える/無法な」)
(× [ホ ヒュイオス]=「子/子孫」 ・ [テース アポーレイアス]= 滅び「破滅/破壊」)


このように、使徒たちは当時から「聖なる者たち」の間から異なった分子の現われることを警告していたのだが、それは内部から現われることにおいて見分けがつき
難いことは容易に想像できる。しかし、単にクリスチャンの中にも悪い輩がいるということではない。(悪い輩はどこにでも居る)

それらの事は使徒たちの時代に成就していて、もう既に過ぎ去ったことなのだろうか?
だが、イエスの例えの内容は、それがずっと将来に起こることを示している。


というのも、イエスは『畑』を『世界』[コスモス]と述べ、『収穫』の時期を『この世の秩序の終わり[シュンテレイア]』と語っているが、これは小麦の最終的な収穫と倉に納めるところの、即ち、『神の王国』への『聖徒』たちの終末の集め出しの時期を指していよう。


なぜなら、初期の『聖なる者』らも使徒時代の『世界』の至る所から集め出されたが、終末に至って初めて『収穫され』『倉に納められる』からである。(黙示録7:1-3)

幾つかの古代資料は、使徒時代が終わり、初代の人々がまったく眠りに就いた第二世紀半ばまでに、消え去る聖霊の賜物について知らせているのだが、確かに、その聖霊の時代が去った後に、歴史はローマ国教化や以後今日まで主要なキリスト教に影を落とす教義の変更が酵母(パン種)のように作用して、イエスの伝えた教えを本質的に入れ替え、宗教上の封建的圧制者を登場させている。⇒ ローマ国教化で失われたもの


では、16世紀のプロテスタントが唱えたように、ローマ教皇が「不法の人」かと言えば、当時から歴史は今日までも流れ続けており、未だ『世の秩序の終わり[シュンテレイア]』を迎えておらず、事はそう簡単ではない。

イエスの言う通り、「世の秩序の終わり」に至るのであれば、時の経過を待つ以外にこの秘儀が具体的に誰を指すかは知ることができないだろう。

パウロはキリストが口の息で「不法の人」(アノモス「無法者」)を殺し、「その臨御(パルーシア)の顕現(エピファネイア)によって絶つ」と書いている。それは将来起こるキリストの臨御の開始から、さらに幾らか経った時点での地上への介入を意味する。(テサロニケ第二2:8)
 

したがって、誰が不法を行う「毒麦」か、また誰が「不法の人」であるかについて現在まで様々な推測がされてきているにしても、小麦と毒麦が『撒かれ』てもおらず、共に生育している段階にさえ達していない現在、即ち、正しく聖霊を注がれた「聖なる者たち」も存在さえしていない状態で「不法の人」の実体を見極めることには無理がある。

これについてエイレナイオスは、使徒ヨハネの言う反キリストについて「その者の名をはっきり告げる必要があったなら、その黙示を見た者自身がそれを告げていたであろう。なぜならそれが見られたのは然程昔ではなく、ドミティアヌスの治世の終わりで、ほとんど我々の世代のことであったからである」と第二世紀に自著"異端反駁"に書いている。

将来の「収穫の時」。それが何時であるかについては、ある物事の進展がない限りそれを判断することは人にはできないに違いない。それはパウロの云う『背教』の起こる時期を指しており、それにはサタンの誘惑によって脱落する「元聖徒」が関わるもので、『抑制力となっているもの』*である『聖霊』が『聖徒』と共に地上を去るという、終末期も進んだ後のことである。(テサロニケ第二2:1-12)
*(パウロがテサロニケ第二2:6-7に於いて『抑制力となっているもの』を『者』とも書いていることについては、前者を聖霊、後者を聖徒と見做すことができるように思える)


それゆえ、地上に聖霊が無い以上、イエスの語った毒麦の例えと不法の人に関する記述は現在までも変わらずに「秘儀」であり、時限ファイルの様相を呈しているのである。

将来、徴として進展し始めるこのパウロの警告は、約束の聖霊を受けていながら「背教」に至る「不法の人」が「すべての神々や崇拝の対象の上に己を高め、神殿に座して自分を神だと宣する」という事態の発生を伴うとされるが、これはイザヤやダニエルの預言でも語られている。(イザヤ14:3- /ダニエル11:36-)

様々な研究熱心な人々が聖書を詳細に調べ、この傲慢な「不法の人」の実体に迫ろうとして今現在も努めているのだが、いずれにせよ、世界は、この尊大で強烈な指導者に対してどう振舞うかによってふたつに分かれるであろう。

以下に、その理由と思えるところを述べよう。
 


-◆「不法の人」をめぐる事態の進展-----------------------

この「不法の人」が「滅びの子」ともされる理由は、キリストによって除き去られることが定められているからであろう。
しかし、その末期には大いに増長し、その傲慢さは神をも超えてゆこうとするが、その時点となれば「不法の人」が誰であるかは疑いなく明らかになるであろう。


その尊大さは、おそらく新教徒がかつて批難した独裁的なローマ教皇の比でもなく、全世界に崇拝を要求して「神の王国」とその王権を得るべきキリストにあからさまに逆らう人類の(照りつける太陽のような)独裁者であり、その姿は4000年以上前の底知れぬ深みから歴史の新たな舞台に登って来るであろう大王の姿に『像』のように重なるものであろう。(黙示録17:8)⇒「誤解されてきたバベルの塔」


ダニエル書では、この大王は聖徒の中のある者たちをも滑らかな言葉で誘い背教させ、また、聖徒を攻撃して成功し、優勢となるとすら予告されている。(ダニエル7:21/11:32-35)
これは『北の王』から起こされる『腕』(権力)であり、『北の王』が『人手によらずに砕かれ』た後も偶像化されて存続することが黙示録に示唆されている。(ダニエル8:25/黙示録13:15)⇒「二度救われるシオン」

パウロが「抑制する者が居なくなったとき」に、それが姿を現すと言っていたのは、将来、再び聖霊が聖徒に注がれて後のことを意味しているのであろう。パウロはまた同時の状況について『その不法の策略は既に働いている』とも述べていた。これは『不法の人』として当事者が顕現するのが聖霊の注ぎが終わり、悪霊の力に入れ替わった後のことを指して云うのであろう。つまり聖徒らが殉教し、或いは選ばれて天に召されると、以前は聖霊を受けた聖徒であった筈なのに、依然として地に『残されて』いる者らがいる。即ち、『ひとりは連れて行かれ、ひとりは捨てられる』の言葉の成就でもある。(マタイ24:40-42)

彼らはタラントの例えの中で、外に放り出されてしまう者に相当し、その持てる聖霊も取り上げられる。
しかし、彼らには「別の霊」を与える親玉が現れている、それはサタン崇拝の偽宗教であるが、『大いなるバビロン』は既に滅んでおり、今日見るような類いの宗教ではないであろう。

それこそは、諸宗教を葬り去った『七つ頭の野獣』の『偶像』による、その時まで存在したことの無いような「まったく新たな装いの宗教」の教祖的存在者なのである。


この教祖自身も「元聖徒」であり、聖霊は失っても引き続きサタンの霊力を受けて奇跡を行う者、『聖なる神殿を汚す者』、世の滅びを招く者となるであろう。そのすり替わりは巧妙で、『聖なる者の中からさえ躓く者が出る』。
ならば、その現れは聖徒らの天への召集に先立ち、『四十二ヶ月存在する』『七つ頭の野獣』と時間的に重なるとも言える。


そのように捉えると、以下のように黙示録13章と合致するかのようにして、その後の見通しが開ける。

つまり、聖徒たちが四十二ヶ月の期間、聖霊の賜物によって預言者の業を行った後、彼らは「新たな角」の攻撃を受けて倒れ、彼らの主がそうであったように、彼らが死すべき肉なる人であるうちはけっしてこれに勝利することはない。敵らは彼らに打ち勝ったことを喜ぶさまが黙示録にある。(11:10)つまり、『女の裔』はここでも主のように『踵を砕かれる』ことであろう。(創世記3:15)


その攻撃によって聖徒たちの中からさえつまずいて抜け落ち、「不法」に加担する者も出る。
その点、『滅びの子』(ホ ヒュイオス テース アポーレイアス)が当てはめられている例が、聖書中でユダ・イスカリオテだけであることは非常に示唆に富む。


即ち、「十二使徒」という最高度の聖なる立場にある者らの中からですら、『滅びの子』が現れたのであれば、『聖なる者ら』からどうして落伍者が出ないといえようか。
実にキリストの福音書中では、脱落についての類似した「例え」が他にも多数存在し、これを警告しているのである。


マタイの福音の第七章では「良い実を生み出せない木」についてイエスは語り、次いで、『その日、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言う』者らのことを予告している。

これら預言したり、払魔したりする権限を持つのは、まさしく聖霊の賜物を得た『聖徒』に他ならない。

そして、終末において、彼らは聖霊を得てすら「背教」に至り、本来の仲間である『聖徒』を排撃しておきながらキリストの顕現(エピファネイア)の段階になってからキリストに寄り添うことが許されるわけもない。⇒黙示録の四騎士

この「背教」による「聖徒」からの離開が生じることを教えるイエスの例えには、毒麦やミナの他に「引き網」や「選別される二人」、また「荒らす憎むべき者」、パウロが言う「不法の人」また黙示録の「偽預言者」などがあり、それらの中でも最たるものがこの「毒麦」の例えということができる。

初期の『聖徒』たちのように、将来の聖なる者らにも「キリストの杯」を飲み干して自分たちの主に続く覚悟が要ることはイエスの再三語ったところである。
 

こうなると、誰が真に聖なる者となるのかは、こうした事態の進展して来るまでは分からないことになり、やはりダニエル書はそれが聖徒を『練り清め、白くする』ためであるという。(ダニエル11:35)

そこから出る『灰汁』は聖徒の背教という、終末の著しい事態を表すものであろうことが明らかではないか。

「神の家から始まる裁き 試みと背教のとき」


その試練の後に小麦と毒麦の相違が明らかになるに違いない。

『小麦』として蔵に納められるべき聖徒が、来るべき『王国』において人類を統治し裁く役割を担うからには、自分の命を惜しんでなどいればキリストと共になる資格に適わず、そこで選別が起こるのであろう。(マタイ10:32-)




-◆悪魔の手段、脱落聖徒から現れる「不法の人」---------

例え話に戻れば、小麦も毒麦も実際の種は最初からどちらかなのだが、将来においては、試練の時の経過が無いなら分からない。だが、双方を収穫という終わりのときまで生育させ続ける理由に相当するところがこうして幾らか見えてくる。

つまり、これらの植物が実を結んだ最後の時期になるまで、人の目には小麦か毒麦かが分からないように、将来のある時点で、聖霊の注ぎをはっきりと受けた人々が存在するようになったとしても、なお試みがあるという事であり、聖徒の試みを経なければ例え話の「小麦」が誰で、「毒麦」が誰なのかは分からないということである。


ミナの例えのように、主人の帰還した後で清算される弟子の中にも、「外の闇に投げ出されそこで歯噛みする」者がいるとイエスは語っていたが、この区別の類似にも「時」が共に重要な要素となっている。⇒ ミナの例え

そうなると、生育中の小麦と毒麦が外見上似ているように、もちろん我々も将来「聖霊の賜物」を持ってその業を行う聖徒を眺めても初めから誰が小麦で誰が毒麦と断ずることはできないのであろう。


しかし、今から「不法」が何であるかを推論しておくことには大きな価値があるようだ。
それは、キリストの王権に関わる帰還への反対行動であろう。

しかもそれはあからさまな反対ではなく、「アンチ・クリスト」の語が示すように、キリストに「代替」するという詐騙であって、「終末」において天に臨御するキリストを偽り、自らがキリストであると主張し、恰もキリストが地上にいるかのように横暴に振る舞うものである。

キリストを詐称する者が多く現れるにせよ、『不法の人』は格別であるようだ。
彼は自らを高め、様々な宗教を倒させて、『あらゆる神とされるものの上に座す』のであろう。それはサタンのような悔いる余地なき「自己愛者」の典型、その象徴像のような人物なのであろう。(ダニエル11:36/テサロニケ第二2:4)


即ち、「聖なる霊」が聖徒らを通して語るその言葉と、「アンチ・クリスト」のいずれの言葉に従うかに関わる個々の人々がそれにどう応じるかという問いであり、ある人は『誰も反駁できない』聖霊の言葉に信仰を働かせ、またある人は何らかの理由でそれを退けることであろうし、そこに誘惑を仕掛けるのがサタンの腕の見せ所となろう。


「アンチ・クリスト」である『不法の人』に従う「脱落聖徒」は『毒麦』となるが、それは聖霊を与えられた人々の変質を言うのであり、聖徒が各地から現れる意味で『畑は世界』と雖も、元々「聖霊」を撒かれていない大多数の信仰持つばかりの人々『信徒』がそのようになることは無いことだろう。
 

しかし、「アンチ・クリスト」である『不法の人』に従ってしまう危険は「聖徒」にも「信徒」にも同等にあって、それは『天の雲と共に』に臨御して見えない真なるキリストを否み退ける結果を覚悟しなければならない。「不法の人」は、自分を神よりも高めるほどの自己崇拝を強要するだろうからである。(ダニエル11:31-35)

即ち、ユダ・イスカリオテが現れたように、『聖なる者たち』の中から脱落する者が生じ、多くが忠節を保って天に召される中、試練に脱落した彼らは地上に『残される』が、サタンは彼らを利用して『偽預言者』とする。特にその頭目が『不法の人』であり、神に勝ったものとして自分を示し『神の神殿に座す』ことになるというが、これはパウロが注意を促し『常々語っていたこと』であったというのである。(テサロニケ第二2:3-4)



-◆不法の人を招く諸宗教の教理-----

そこで恐ろしい効果を発揮してしまい兼ねない教理が既に地上のキリスト教界に現存している。
その第一が「三位一体説」であり、第三世紀頃にキリスト教に混入してきたものであるにも関わらず、我々の時代を飛び越えて、終末にまったく尋常ならざる効果をもたらし兼ねないものである。
その恐るべき効果をもたらし兼ねない教理の第二は、キリストの見える「地上再臨」 があると信じさせる教えである。

これらによって、サタンの霊力を帯びた脱落聖徒は、地上に置いてゆかれ、天への召しに与れないだけのことでは済まず、キリストが終末預言に於いて再三警告した、「地上にメシアが現れた」という偽りを推動し、そこに三位一体説が加わって、更にその者を「神」の座に祭り上げ兼ねないのである。

もし、そうなるのであれば、「三位一体説」も主の「地上再臨説」も終末の裁きの時にまで、『大いなるバビロン』の滅びを通過して存在し続けることになる。組織宗教としてのキリスト教が去ったとしても、確かに人の信仰心というものは簡単に変えられるものではない。

もし、終末に地上のエルサレムに実際に神殿が再建されるようなことが起こるなら、その『座』までも提供し兼ねないことになる。もしそうなれば、それはキリスト教だけでなくユダヤ教の宗教信条も刺激するものとなるのであろう。そこで、キリストの再臨時にユダヤ教徒が大量改宗するなどと信じているキリスト教徒から見れば、自分たちの預言が成就したかに思え、大いに目出度いことに思われるであろう。

そして、イスラム教も終末にイーサー(イエス)の現れを教えてはいなかったろうか。 しかも、終末で誰が本当のマーシー(メシア)であるかの戦いで圧勝するとされてはいないか。
こうなると、いまでこそ異なる三大宗教が、終末に波長が揃って『不法の人』に向かう事態も考えねばならなくなる。 


その時には、旧来の諸宗教組織を中心にした『大いなるバビロン』が去っているとはいえ、『羊のような二本の角を持った獣』が新たなイデオロギーを推進するのであれば、それはキリスト教の影響の色濃いものである危険性も拭えない。 その大国は極めてキリスト教的であって、その起こす行動や思想の潮流は圧倒的影響力を持つのであろう。

そこで『神の神殿に座し、自分を神として示す』者『不法の人』の現れを推動するものは、現に今キリスト教徒の多くが既に信じ込んで保持しているその教えそものではないか! そうともなれば、『不法の人』とは、キリスト教の逸脱の集大成のような存在となるのであろう。


終末では、世界という畑において、我々人間の狭い観点からではなく、天上からの判断により、天使らを通して真の聖なる者たちが選ばれるだろう。そこで悪魔の撒いたものである「偽の聖なる者」も出る。「アンチ・クリスト」に屈従し「不法」[アノミアス]に関与しているからであり、その行いは大多数の人々をつまずかせるものともなるに違いない。
 

 このように終末とは、「この世の裁きの日」という以外にない、「バプテスマを受ければ救われる」などと教えていたものはその信者らへの責を負えたものではない。例え、この世の現状の諸宗教が「聖なる霊の言葉」を聖徒共々葬り去らせることに成功して、しばし喜んでも、その次に倍した滅びを被るのが『大いなるバビロン』である。 ⇒ 「大いなるバビロンの滅び」 


たとえ、これらの「地上再臨」や「三位一体」を信じていない宗派がキリスト教にあるとしても、「聖霊の賜物」を否定していれば、奇跡が起こるときにそれが想定外となってしまい、真実の奇跡の賜物も偽りの霊による奇跡も判断をつけることさえ難しいのではないだろうか?その前に、終末に次々に起こる事柄についてゆくことさえ覚束ないであろう。

そして、あらゆる旧来の宗教組織を除き去って登場する、まったく新しい強制宗教が世界を覆う。
そのために、地上に残されてしまった脱落聖徒にサタンの霊力は臨む。それが『カエル』止まりの奇跡を見せることである。それこそ信じることが『偽預言者』の唱導する『七頭の野獣の像』への崇拝なのであろう。(黙示録16:13-16)

その虚偽の崇拝とは、『聖徒』と『大いなるバビロン』を滅ぼすと、時を経ずに聖霊の声に信仰を働かせ「信徒」となった人々の集団『シオン』を攻撃するように諸国家の公権力を糾合するだろうが、それが『ハルマゲドン』という場所に象徴的に集められていることを意識する人々がその人類連合軍の中にいるだろうか。



それで、我々が聖霊を注がれた聖なる者とはならなくても、「不法」[アノミアス]の側に組しその崇拝方式を受け容れることなどけっしてしない覚悟を思い定めることが、その時には誰にあっても最重要な事になる。


その崇拝方式とは「神の王国」の意義を否定し、人間が倫理上の欠陥(「罪」)を持っている事実と聖霊の言葉とを無視し(ここに聖霊への冒涜がある)、人類の能力と可能性に信仰を置く人間賛美の崇拝であろう。

 例えるならば、今日人々が信頼して止まない科学によって、人類の永生が可能となり老化や病気を食い止める希望が現実ともなれば、人々はそれでも神の側につくだろうか? あるいは強力な世界政府が登場し、紛争のない世界の希望が具体化するときに、人々はそれに熱狂しないだろうか?だが、それは不完全な代替品、いやまったくの偽物であり『666』なのであろう。その6という数字は『人間の数字』とされるが、罪ある人が肉的であるなら、それは聖なるものにはならず、神の第七日の聖なる安息、即ち『神の王国』にはどうあっても達することのない人間のユートピアに過ぎない。(黙示録13:18)


多くの人々がその数字に伴う人間のに期待する空しい夢を、洗脳されるように「額」の思いに置かされ、「手」の具体的行動に表すよう圧制によって強要される日が来るのだろう。(黙示録13:11-)
これを先導する者は、初めは神の聖霊を有していたのに、やがてサタンの魔力によって不思議を行う脱落した「元聖徒」と「七つ頭の野獣の像」を崇拝させようとする「偽預言者」の勢力であろう。


-◆不法の人という究極の偶像崇拝------------

以上の文章が幾分難解であることは承知しているが、結論は極めて簡潔な二択に収斂する。
それは創造者と人間とのどちらを神とするかという、エデンの問いへの回帰となるだろう。

聖書の述べるところを渉猟して推察するに、将来、人類に神の側を取らせまいと『不法の人』が猛烈な活動を展開し、世界はそれに巻き込まれ、相当数の人々は無頓着な故にその罠に易々とはまり、聖霊の業を行って大いなる業を見せた聖徒であってすらも、そしてごく普通の人々に至ってはまったく容易に、その欺きの陥穽に落ち込み、不法の側に立ってしまい兼ねないのである。(マタイ7:22-23)


『蛇』については、まず、間違いなくその始めからその終わりに至るまで『蛇』であり、ディアボロス(中傷者)としての姿勢を変えないに違いない。(黙示録12:9)
サタンが『終わりの日』ともなれば、誰であろうと神を中傷し、エデンの時のようにあらゆる人々を誘惑せずにはいないであろう。むしろ、『自分の時の短いことを知り』その持てる力の限りに 、創造神からあらゆる者を引き離しにかかることは目に見えている。それは『裁きの日』でもあるからである。


その『背教』は、「終末」におけるサタンの誘惑の最高傑作となり、エデンでエヴァにしたように、できうる限り人々を誑かして多くの犠牲者を吸い寄せようとすることであろう。この世が全体としてその道に入ってしまうことは、『聖徒』が『世』と敵対していることを述べる聖書中の多くの句に示されている。
 

『不法の人』は、その『背教』によって神をも凌ぐ名誉を唱え、あらゆるものの上に自らの権威の座を設えて、その玉座に就き、世界を神と対立させたうえで、結局は世界から集め尽くした追随者共々遂にキリストの顕現のときに滅びに至る。

パウロが聖徒らに対し『あなたがたの思いが腐らされ、サタンがエヴァを誑かしたように、キリストに対して示すべき誠実や貞潔さから離れはしないか』と心配したことはまことに適切であったことになる。(コリント第二11:3)
それこそが、真の「背教」であろう。それに比べれば、キリスト教の宗派同士が「背教だ」と批難しあうことなど他愛の無いものである。「不法の人」は擬似(反<アンチ>)キリストであり、『神の王国』の劣った代替物を提唱することであろう。


この以前に、その意味はいまだ不明瞭ながら、サタンは、最後の野獣の「新たな角」通して聖徒を攻撃し、神を冒涜して憚らない。さらにキリスト教を含む旧来の諸宗教たる『大いなるバビロン』をも完膚無きまでに滅ぼし尽くすことになろう。(ダニエル7:20-26)

それを使嗾する最たる者が『不法の人』また「アンチ・クリスト」であり、「背教」によってサタンの際立った人類誘惑の器「偶像」となって、キリストは(地上の)「ここに居る」と唱え、大半の人々を騙し、聖徒の中からさえ離脱者を得る、ということであろう。
『どこであれ、死骸のあるところには鷲が集まっているものである』。しかし、わざわざ鷲の餌になる必要などはなく、そのようなところから離れるべきではないか。(マタイ24:24-28)



いずれにせよ、この考察も含めて聖書記述に対する人の予想はそれ以上のものにならないが、より重要な事を考えるに、我々はキリストのような熱意を以って創造神を神とする立場を取るだろうか。それとも「蛇」の道を行こうとするだろうか。人間が神のようになって良いものだろうか?これが焦眉の問題となるだろう。


蛇と不法の人の目的は、創造物に創造者を離れ独立した自己の道を行かせることであり、アダムの子孫は既にそうしてあらゆる倫理の基礎を失って罪の内にいるが、仲介者キリストを通して善人も悪人も信者も不信者も関係なく人類のすべてに「神の子」の認知を受ける道は残されている。

その道とは、将来聖霊が再降下し、ある人々が聖徒として為政者と対峙し、反駁できない聖霊の言葉をもって語るときに、それを支持することである。(マタイ10:18)

その言葉が世界を揺り動かす程のものになるというからには、我々は聖徒が誰かを見紛うことはない。(ハガイ2:7)

『蛇』はその一条残された神への道を断つべくあらん限りの手段を用いるに違いない。(黙示録12:9)


それはこれから聖霊の驚くべき言葉が臨んで後、先鋭化する争点となるからであり、「アンチ・クリスト」という、おそらくは聖徒からの著しい大背教者、十二使徒から現れたユダ・イスカリオテ同様に『滅びの子』と呼ばれる者の登場によって、そこで、人はそれぞれに自己の内奥が問われることになろう。(マルコ13:9-10)

『大いなるバビロン』の亡き後、「最後の究極的偶像崇拝」が登場するなら、象徴的『聖所に立つ』『荒らす憎むべきもの』の到来はその時に聖霊を信じた者らの中で紛うことなく明瞭となるのであろう。(マタイ24:15)

中傷者としての「蛇」の本性を知る者であるなら、聖徒であろうとなかろうと、その欺きにのってはならず、神とキリストを擁護して、エヴァやアダムのようにもならないことを決意せねばなるまい。




               新十四日派  ©  林 義平



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神の家から始まる裁き

黙示録の四騎士

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新旧の聖書の記述を精査総合し
この世の終りに進行する事柄の数々をおおよそに時間の流れに沿って説く
(研究対象が宗教であるため主観による考察)

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