『神の裁き』とは恐るべき言葉である。
ミケランジェロの大作「最後の審判」に描かれたように、人類はキリストの左右に分けられ、あるいは是認された安寧に入り、或いは地獄での永遠の責め苦に定められるかが決まる裁きを思い浮かべるかもしれない。


信徒はこれに怯えつつあれこれ推測するが、そこで宗教家は人が救いのために特定の教派に属して、言う通りの規則に従い、道徳的に行動していれば「救われる」と教えて信者を集める。だが、これを「本当にそうなのか」と問い直すと、「いや、自分たちだけが救われるとは考えていない」とは言うのではあるが、教理や日頃の言動からすれば言い訳のようにしか聞こえない。
つまりは、「神の裁き」への人の潜在的恐怖心は、宗教家にとって人集めに都合よく、「裁きの脅し」は等閑にできない収入源ともなり得るものである。

教会堂の信徒席がときに「箱舟」(ネーヴ Nave )の語で呼ばれるのはその延長線上にあるのだろう。人は誰もが本能的に「助かりたい」ものであり、相容れぬ多様な宗派にも関わらず、信者に救いを請合う点だけは見事に一致したものである。しかし、信者が救われている実感が湧かないことにはその宗派に留まってくれることを期待もできない。そこで指導者らは「救われる方法」に凝る必要に迫られる。他の宗派との差別化することで、信者にはますます救われる実感も湧こうというものである。


そのせいか、新約聖書のパウロが『キリストは律法の終わり』と宣していても、なお「殺すな、盗むな」などのモーセの律法契約に属する「十戒」などを命じる教会が多いのは、「具体的な救いの感覚」を得て安心したい各派信者の必要に即したものなのかもしれない。

あるいは、達成可能な程度の周囲の人々との差別化も宗教家には良い方策に思えることであろう。
一般社会よりは厳しい道徳水準をを定めて、それに達しているから救われる。あるいは、酒やたばこ、刺激物を避け、菜食主義で神の是認を実感させるという手段もあろうし、制裁を受けてすら兵役を拒否したり、果ては命がけで輸血を謝絶するという差別化までが行われている次第である。

我々は平素、交換社会に生きているので、何かを支払って願うものを手にするのに慣れている。その為か「これをしていれば救われる」という誘惑には正直弱いものである。

或いは改革派のように、人の裁きは永遠の過去から定まったことで、あまりに深遠であり、人がどうこうできるものではないと教えられているかも知れない。それは裁きを卑近なレベルにしないことに利点はあるが、神の精神を無機質な全能性に塗りこめ、恐るべき裁き手とすることにはまるで変わりはない。

しかし、「恐れ」という感情が強いときに、人はそれから逃れようとして事実を都合よく歪めてしまうことがあり、聖書が告げるところの「裁き」の根拠もそのようである。

だが、裁きからの赦しの虚像で安心していて良いのだろうか?
それでも人々は、自らの存在の危うさを忘れさせてくれる宗教家の請合いに安堵したいらしい。
ならば、それが宗教の存在意義なのだろうか。
即ち、恐るべき絶対者を和め、自己存在を容認させるよう宥めるのが宗教ということになる。
 

ではやはり、世の終わりに際して、神はすべてを見通す告発人にして、人の不道徳を糾弾する苛烈な裁き手であるのだろう。それならミケランジェロの描く通りの姿になろう。

もし、そうなら我々は皆、一般的な道徳とされるところに従って何とか「善良な人間」を振舞おうとするであろう。
だが、そうなると「神の裁き」は一般の倫理観に従うところでは、人間の常識や法律と然程変わるところがないことになる。

では、人間がその生涯の間に善良に過ごすようにと、神は勧善懲悪の裁きを為すのだろうか?
つまり、地獄の懲罰などがあって、警察の手も回らなかったところにまで正義が施行されると。

そこでは、殺人、淫行、姦淫、詐欺、盗みなど一般的に謂われる「重い罪」を犯してしまった者らはもちろんのこと、同性愛や小児性愛、薬物耽溺、泥酔などの教義上の禁止令に背いたり、また棄教した者にも不利であり、教団を信じられずに去る者は地獄行きだと教導者は叫ぶかも知れない。なるほどそれは信者の囲い込みにうってつけではないか。多少の脱落者がいる方が救いの実感も増す。

 

だが、聖書を綿密に検証してゆくと、『神の裁き』とは、けっして人間同士が裁くような観点を持たないことが明らかになる。まして死後に行く「天国と地獄」というのも本来ヘブライの概念ではない。

聖書の記述を追うなら、むしろ、そこに神経質で厳めしい裁判官としての神の、或いはキリストの厳貌を見ることの無い記述にさえ出会う。

神は『罪人の死を喜ばず』と言い給い、キリストは『健康な者に医者は要らず、罪人を招くために来た』とも言う。イエスの足を涙で洗った罪深い女や、収税人で税額以上をゆすり取っていたザアカイのような悪評著しい人物さえも、神のこの恩恵に浴すことができたのであるが、この寛大な精神と「最後の審判」の示す世界とは随分と乖離があるものではないか。

しかし聖書中で、同じ神が厳しい裁きをイスラエルや近隣の諸国民に下したこともまた否定すべくもない。そうなると我々は、神が自分に対してどちらの相貌を見せるのかをどう判断したらものだろう。
あるいは、人は何を行うかで神の呪いと祝福のゲージの上をいつも行き来しているのだろうか?

あるいはキリスト教徒は、既に赦されていて何をしようと神の是認の下にあるのだろうか? 


では、終末に行われる「神の裁き」はどのような性質で、何が裁かれるのかを整理してみよう。


-◆裁かれるのは行状か?------------

まず、神に裁かれる「罪」とは、社会規範の、あるいは法律で云う「犯罪」を意味するのだろうか。

ところが、聖書はより根源的な問題に目を向けている。
それは「原罪」とも呼ばれる人間全般に「内在する悪」に対する「裁き」であり、個人の表層に出てきたひとつひとつの悪とされるものを罪するものではない。なぜなら、神の裁きは人間の深奥に対するものなのである。

聖書にある「終末の裁き」を結論から言えば、人間の悪や罪がどれほど多岐に渉っていようとも、一気に本質を突き、その悪の淵源を一事を以って裁きつくす「神の審判」である。
 

一方で、パリサイ派などのユダヤ人は、善人か悪人かという社会的評判を重視した。
彼らによれば、誰かが悪行を為しても、それを上回る善行を積めば再び神の前でも善人に見做されると教えていたという。この平衡的な規準は、人間に一般的な感覚での善悪判断かもしれない。

だが、意外に思われるかもしれないが、終末の「神の裁き」は人の前歴に関係しない。
驚くべきことに、キリストは『人はそのあらゆる罪を許される』と語っているのである。(マタイ12:31)
つまり、人がその以前に何を行ったか、社会の評価がどうであったか、また、その人の立場の良し悪しも問われない。これは画期的な人の見方ではないか?(エゼキエル33:11-16)

「放蕩息子のたとえ」を見れば、この息子の「功績」はただひとつ。即ち「悔い改めた」ことに尽きる。それでもその父は、この放蕩の限りを尽くした下の息子が、ただ悔い改めたゆえにこそ、これ以上ない程の慈愛をもって受け容れたのである。(ルカ15:11-)

旧約にも、こうした神の特質を示唆する事例がある。
例えれば、自分に仕える者を謀殺してその妻を娶ったダヴィデ王がいる。
殺人、姦淫、貪りと律法の十戒の三つをも同時に破っていたこの大罪は、律法を待つまでもなく、人一般の道徳観念で言っても極刑も止む無しか、宗教一般で言えばまず地獄行きではなかろうか。

しかし神は、その報いとなる重い苦難を与えたものの、ダヴィデを『我が意志をすべて行うもの』と言われる。そればかりか彼は、死後になって神から直々に『我が法と掟とを守った』とまで語られているのであることは、行状や品性を誇る「クリスチャン」方を混乱させることであろう。だが、ダヴィデが来るべきメシアの予型となることは揺るがなかったのである。(列王一11:34)

そこで、律法にある如くの悪行は悪行ながら、それだけでその人を判断していない神の姿が描かれている。いずれにせよ、どんな人であれ罪咎の如何に関わらず、何時の日にか裁きのために『義なる者も不義なる者も』復活を受けるとパウロは言うのである。(ヘブル9:27/使徒24:15)⇒「復活」

では、道徳的であるよう日々努めている「クリスチャン」方が納得がゆかず、ダヴィデについて不公平だと神に訴え、何としても処罰させ、正当な応報と思えるものを与えさせ、律法にある通りの重い懲らしめとして死罪を与えるのが正しい神の行いだったとするだろうか。


しかし、アダムの『罪』ある人間に、どうして悪行を為さないことを神が期待するだろうか。

それでも、確かに旧約聖書ばかりでなく新約中にも、恰も律法のように人の行動を規制する条項のようなものが確かに存在してはいる。特にパウロ書簡は、常にだれかを譴責しているかのように書かれており、良心の敏感な人であるほどに、その戒めになんとか従おうと願うことであろう。

しかし、これを以ってキリスト教においてもモーセの律法のような行動基準に従うことが求められていると捉えるなら、大きな誤解を招き、それはキリストの精紳を逸することになる。それはユダヤ教の精紳であって、キリスト教のものとはならないからである。
なぜ、そう言えるだろうか?

新約聖書中での道徳規準については、見落とすことのできない重要な事柄に、『聖なる者』と呼ばれる弟子と単なる信者との異なりがある。
即ち、『新しい契約』に含まれるキリスト教徒と、そうではない大多数の信徒との違いである。

古いカトリックには「聖人伝承」があり、ごく初期のキリスト教徒らは、聖霊によって奇跡を行うことがあったと伝えられている。その多くは殉教者であったからには、「聖人」とはキリスト教もローマ帝国の国教になる以前の時代の人々であった。

この人々には名前の前に「聖」が冠されるが、カトリックでは現在でも人々を「列聖」し、聖人を増やしてはいるのだが、古代の聖人はやはり格別であり、エウセビオスの「教会史」などに見られる第二世紀までの聖人については、『当時はまだ神の賜物によって多くの不思議な業が様々のエックレシアで行われていた』と記している。(教会史V:3)

新約聖書中で聖霊を注がれた弟子らは『聖なる者』(ハギオス)と呼ばれ、『霊の清めに預かった』人々であることも知らされている。(ペテロ第一1:2)
彼らは、『聖なる者』であるゆえの清さを表す務めを負っていたことをパウロはこう記している。
『自分の身体は、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の神殿であって、あなたがたはもはや自分自身のものではないことを知らないのか?あなたがたは代価を払って買い取られたのだ。それだから、自分の身体によって真に神の栄光を表わせ。』(コリント第一6:19-20)

それゆえ、コリント第一の手紙に見られる様々な悪行を為す者が『神の王国を相続しない』と書かれているのも、「聖徒」という契約に与る『より多くを委ねられた者』に要求されるものであり*、一般人がその規準に達していることに自分の「義」を感じるなら、律法遵守のパリサイとそう変わるところが無くなってしまう。
つまり、『王国を相続』する『聖なる者』として選ばれもせず、招かれてもいないのに、自分の業によって自分は清いと言うことになる。(コリント第一6:9-10/ルカ12:48/エフェソス1:13/テトス3:6)


新約聖書中の『聖徒』、或いは『聖なる者』は、聖霊の注ぎという奇跡の賜物を与えられた人々のことであり、原始キリスト教の時代には居たことが史料に明らかなのだが、それ以降の歴史上に存在していない格別の弟子のことを表している。(テサロニケ第一4:7-8)

したがって、その他の大半の信者、今日にキリスト教徒と称える誰もが、『聖徒』ではないので、『新しい契約』に求められる規準からはまったく解かれており、その規準に従ったと誇るべきでもない。それこそは独善的なパリサイ派の優越感にしかならないのである。

ならば、さまざまな悪行を糾弾しないということがどうして「裁き」なのかと問われるかも知れないが、まさにこの一種の寛容さにおいてこそ、神の裁きの優越性がみえるのである。
 

神から観れば、人間は生まれたときから誰もが尽く有罪であり、それゆえキリストの犠牲を要したのであり、今のところは、何時かは死なねばならない寿命に留め置かれているのである。即ち『死は罪の酬い』である。(ローマ6:23)

この意味で人間は神の前に「罪」を負うという。

その「罪」というのは、人が何か行った悪ではなく、自己の内に悪の性質があって、それが事有る毎に現れることを指す。つまり、人間は「倫理上の欠陥」i,e『罪』を持っているというのである。(ローマ7:18-20)

そこで神は全人類の贖罪(しょくざい)を企図し、その「罪」を認める者を赦して、キリストの犠牲を与えることになる。これが「裁き」に相当する。



-◆「聖霊」の役割--------------


しかし、七十億ともいわれる生ける全人類への世の終末の神の裁きとなれば、どのような方法を用いられるのだろうか?


『神は人を偏り見ず、神を敬い義を行う人は、どの国民であれ受け容れられることが分かった』。と言ったのはペテロであり、預言者サムエルは『人は見える処を見るが、YHWH*は、その心を見る』。ことを教えられた。また、スズメの『一羽といえども神の前に忘れられない』また『あなたがたの髪の毛までが数えられている』とイエスは言う。(*至聖なる神名/ルカ12:6)


一人一人をその内面までを見抜いて人類全体を裁くことなど、人の能力など到底及びはしない。
だが、威光充ちる聖なる神、また大王としてのキリストの顕現する前において、人は恐れを抱いてしまい、竦み上がってその心に抱くものを隠すであろう。しかし、「聖霊」の働きを前にしてはそうはしない。

では、「聖霊」が裁きにどう関わるのだろうか?


キリストが地上で多くの奇跡を行ったが、それは『神の指』とも呼ばれる聖霊の働きであった。
それにも関わらず、ユダヤ人たちのナザレのイエスへの評価は分かれたのである。
片や、その業ゆえにイエスを神からの人と認めたが、他方の者らは奇跡の源を悪魔であると断じ、結局イエスを刑死に追い込んだのであった。

キリストとして処刑を受ける前の晩にイエスはこう語られた。
『もし、わたしが他の誰もが行わなかったような業を彼らの間で行っていなかったなら、彼らは罪を犯さないで済んだろう。しかし、彼らはわたしとわたしの父とを実際に見て、その上で憎んだのだ』。(ヨハネ 15:24 )

 

このように、「聖霊」がイエスを巡る人々を分けたが、それは将来の人類の裁きにおいてもそのようであろう。


というのも、聖書は「聖霊への冒涜の罪」こそが「けっして許されることのない」と警告しており、キリストの弟子らが王や高官の前に引き出されるが、その時には「聖霊」が彼らに臨み、誰も反駁できないほどの言葉を語らせるとイエスは再三にわたり語っているのである。マタイはそれが為政者らと『諸国民への証しのためである』と、はっきり記している。(ルカ12:10/マタイ10:18)


これは、支配するべきは人間か、メシアか、という論争を惹起し、世界に広く知らされ『天地に激震を与える』というのである。マルコも『そのようにして(希語[カイ])王国(神の支配)の音信が知らされる』と書いている。(ハガイ2:7/マルコ13:9-10)

つまり、人は誰もが罪人である以上、終末で人を分けるものとなるのは、その人の行状の良し悪しではなく「信仰」にあり、神の奇跡の業の現れに対してどう反応するのかということになる。それは即ち、聖霊の驚くべき業を見て信仰を懐くか、自分の傲慢さに凝り固まるかという分かれ目であり、それはキリストの公生涯の間にユダヤ人の間で模式的に行われていたことである。

それで使徒ヨハネはこう述べる。
『神が御子についてなさった証し、これが神の証しである。 神の子を信じる者は、自分の内にこの証しを持っている。神を信じない者は神を偽り者とする。神が御子について証しせられたその証拠を、信じていないからである。』(ヨハネ第一5:9-10)

 

終末では、聖霊を受けたイエスの弟子は『聖なる者』(聖徒)となり、人類に真の幸福をもたらす『神の王国』のために殉教をも覚悟し、イエスの代弁者となって様々な奇跡を行い、真の神の力を見せるという。(マタイ10:39-42)

その見事な行動は、かつて出エジプトの時のように人々の信仰を奮い立たせ、聖徒たちへの無数の人々からの支持を促すことになる。(ミカ7:15-16)

ゼカリヤの預言では『その日には、諸国のあらゆる言語から来た十人の者が、ひとりのユダヤ人の裾を捕えて、「我々も共に行く、神があなたがたと共にあることを聞いたからだ」。』と言う将来のことを記している。(ゼカリヤ8:23)
 



-◆宗派毎ではなく、個人を裁く----------

マタイ25章は終末の裁きについて非常に重要な情報を含んでおり、そこでは神の裁きに関わる人の行動は何かを知らせているのである。
イエスは、「終わりの日」の預言のその一部で、自らが栄光ある王としてまさに世に到来するときのことを次のように語っている。

『人々を尽く集めて、羊飼いが羊から山羊をより分けるように、人をひとりひとり[アッレローン]分け、羊を右に、山羊を左に置く』。

そこでは、全人類が王なるキリストに是認された右側の羊とそうならなかった左側の山羊とに分けられるのであるから、これはまさに「裁き」という外ない。(マタイ25:31-33)

だが、これはあの「最後の審判」に描かれたところとはどうも様子が異なるのである。
是認を受ける右側の羊らには感謝が述べられる。それはただ善良であったと誉めるのではない。
また、左に分けられるヤギも、ただ邪悪であるというわけではない。
その裁きの分別が何によって生じるかを、キリスト自身が是認された羊たちに、こう説明している。

『あなたがたは、わたしが空腹のときに食事を与えてくれ、わたしが渇いていたときに飲ませてくれ、わたしがよそ者であるときに共にして(宿を与えて)くれた。裸であるときにわたしに衣服をくれ、わたしが病気のときに顧みてくれ、わたしが囚われているときに(世話のために)訪ねてくれた』。(マタイ25:35-36)

しかし、これら羊により分けられた人々はイエスを見てもいない。それゆえこう言う。
「主よ!いつ、私どもはあなた様にそのようなことを致しましたでしょうか?」

この問いに関するイエスの答えは大いに注目すべきものである。
『まことに、これらわたしの兄弟のもっとも小さな者に何事であれ行ったことは、わたしに対して行ったのである』。(同25:40)


それから、山羊として左に分けられたヤギたちには、この逆のことが語られてその立場を変えたものが何であったのかが語られている。

したがって、まず裁きの要となる「キリストの兄弟」とは誰かが一番に問われるであろう。

 


-◆キリストの兄弟とは誰か------------

このことを示唆する言葉をパウロの書簡に見ることができる。それは聖霊が聖なる者たちと協働していることを述べる文脈でこう言っている。

『神はあらかじめ知る者たちを御子に象ったものとするよう事前に決められた。それは[御子]を多くの兄弟たちの間で長子とするためであった』。(ローマ8:29)

では、聖なる者らが御子のようになるとは如何なることか?

実にこれは旧約の時代からほのめかされていたことでもある。
ゼカリヤはこう言っている。
『その日・・ダヴィデの家は神のような者に、彼らの前のYHWHの使いのようになるであろう』(ゼカリヤ12:8)

そして後代、使徒パウロは『我々は塵で造られた者の様相であったように、天の者の様相を帯びるのである』と述べることによって、その預言を当時の「聖なる者」たちに適用し、これを明らかにしている。
(コリント第一15:49)

これはすなわち、遠い昔のアブラハムに約束されたように、聖霊を受ける「聖徒」らが、霊なる者となって天に召され、イエスと共になり「天の王国」で共同の王また祭司となることを意味しているのである。(創世記12:3/出埃19:6)

エゼキエルは、「雲と濃い暗闇の日」という将来の終末の出来事を述べ、ダヴィデ王の対型であるイエスを指してこう言った。
『我YHWHが(イスラエルの)神、また我が僕ダヴィデは彼らの中で長となる。』(エゼキエル34:24)


「聖なる者ら」は『キリストと結ばれた』またアブラハムからの『相続人』となる真の「イスラエル」である。(コロサイ1:2/ローマ8:16-17)
こうして我々はイエスの兄弟というのが、聖徒たち、即ち「神のイスラエル」に含まれる聖霊を受けた人々を指していることを知る。


彼らは、受ける聖霊によって世に対し代弁者となって語ることが福音書で再三知らされている。
王権拝受の近付いたキリストが、将来に臨御して、この地に顔を向けるとき、その王権を得ることになる「神の王国」の近付いたことを現世の為政者に伝えて、彼らと直接に対峙する代表者は「キリストの兄弟たち」である。

彼らこそ、主イエスの王国の『大使』であり、世がこの御厳の大王と和解するように勧めるであろう。即ち、『神の王国』の到来に従い、その道を空けるようにと。(マタイ10:17-20)


しかし、イエスは『雲と共にあって』姿を見せず、地上に居る彼の「兄弟たち」が代弁者となるゆえに、聖霊の論駁できないほどの言葉を聞いたとしても、為政者はもとより世界一般もそう易々とは従いそうに無いことが今でも充分に想像がつく。


そこで、聖徒たちには反対や迫害を免れず、世からの多くの苦難に曝されるに違いない。聖徒たちには『自分の魂を守ろうとすれば、それを失う』と警告されている。
イエスは『人の前でわたしとの結びつきを否認する者は、神の使いたちの前で否認される』。と述べ、聖徒らには挑戦となる苦難が起こることを予期させている。(マタイ10章)

それは『公の集会、政府の役人また権威者の前に引き出されるときである』。という。
このルカ書では、聖徒らの為政者の前での弁明があることを知らせてから、やはり『聖霊を冒涜することには永遠に許しがない』と語ったうえで、聖徒らには『聖霊が言うべきことを教える』ので『弁明のために何をどう言うかと思い煩う必要はない』とも、この一連の文脈で続けて語っているのである。(ルカ12:8-12)


その聖霊の発言は『誰も反駁できないほどの言葉』である以上、『天地を激動させる』に充分なものであろう。その激動によって『あらゆる望ましい者らが入ってくる』とハガイは預言する。(ハガイ2:7)
世界はこの発言に注目せざるを得ず、『神の王国』の王の到来を巡って支配に関わる論争の火が地に投げつけられる。(ルカ12:49/黙示録8:5)


黙示録において、聖徒らはモーセやエリヤのように『地を何度も打つ権限を有する』という。それであれば、彼らに働く聖霊は彼らに発言を行わせるだけに留まらないであろう。(黙示録11:6/ミカ7:15)

出エジプトのときのように、将来に彼らが地を打つときにも、その『神の指』の為す驚嘆すべき業のゆえに、見る人々の信仰を惹き起させるものともなろう。(出埃8:19/ルカ11:20)

それは、イエスが行った業でもあり、『わたしを信じずとも、父の行わせている業は信じよ』という言葉に、聖霊の業に信仰を置くことの重さがよくよく刻まれている。(ヨハネ10:38)

即ち、イエスが『聖霊を冒涜することには永遠に許しがない』と警告していたように、「聖霊の発言」に反抗することは、この冒涜に相当しないだろうか。(マタイ12:31)

こうして、『信じない者には神の憤りが留まっている』の句が理解される。それは単に教会の教えを信じない者は永遠の処罰を受けるという意味ではさらさら無い。

聖霊の働くところに神が示されているのに、なおそれを否む心の頑なさが「信じない」と表現されているのである。(ヨハネ3:36/マルコ16:16/ヘブル2:6)

こうして神の裁きで信仰が問われ、それが聖なる者らへの支持において具体的に示されることを理解できるのである。
それは、攻撃を受けることになる聖徒らへの直接の支援だけでなく、聖徒に対立するものへの拒絶を意味することになろう。(黙示録13章)



-◆ 『聖霊への冒涜』 ----------

このように、世の終末において、人々は聖霊の発言を聞いて、どう反応し行動するかで裁かれるであろう。
それは丁度、第一世紀にイエスの奇跡の業を見てユダヤ人がふたつに分かれ、一方はそこに「神の業」を見、他方はそれを受容れることが出来ず、悪魔の仕業だとまで言い切ったことに相似するであろう。(ヨハネ15:22-23)

彼ら否認する者たちは、本当に神の力を見てもなお疑わしく思うのだろうか?
それは他の人間からは分からぬが、内心にどのような動機があるにせよ、自らにも厳然と神の意図を聖霊の業に見ながら、それを掻き消すために自己の良心に反する結論を強引に下すのであれば、神にはその心の動きが裁き手として注意を要するものとならざるを得ないだろう。(ヨハネ16:8)

それゆえ、聖書は『この方の声を聞くときには・・心を頑なにしてはならない』と警告する。
即ち「聖霊への冒涜」を犯さないためであり、『神の休みに入る』者となるためである。(ヘブル3:7-19)

それは、裁きの前である今、人がどのような思想信条を抱いているかには関わりなく、また今、どのような宗派に属しているか、或いはどの宗教を信じているかすら問題とはなるまい。
「聖霊」を通すことで裁きは「神を認めるか否か」という極めてシンプルな問いに集約されるだろう。これが人間にとっての倫理の基礎だからであり、これをアダムは否認して失ったのである。

しかし、心のどこかが頑なで、利己的な者にはそれに従うことが難しい理由が生じるようである。
それを充分に説明することはできそうにない。これを書いている筆者もその危険がないとはいえない。もし、誘因があるならば尚更である。まして、大いなる業を行う聖徒の中からですらも脱落する者があるとイエスに警告されているのである。(ルカ13:24/ヘブル6:4)

その反抗がどのようにして惹起されるのかは、他の人間からは見えないのであろう。そこにどんな動機が働くかを知るのは『人の内面を見る』神のみが知りうることなのであろう。我々はただ『誘惑に陥ることがないよう』祈るばかりである。とても「箱舟」に乗ったような気分ではない。

ともあれ、こうして人は裁かれるであろう。
その根底にあるのは、「神を神とするか?」というエデンで問われたことである。
聖霊の顕現への信仰を持つゆえに、中傷に面してさえ人は神を擁護しようとするだろうか?

そこに人間の正義感のような偏狭さはない。
イエスは聖霊の業を否定する者にだけ厳しくも『我々に敵するものは散らす』と言い、他方で、聖霊の業を行う者たちすべてについては幅広く『敵せぬ者は味方している』と言うのであった。つまり、奇跡を見て、敢えて頑なに反抗する者が罪せられるのである。むしろ寛容にも、聖霊を信じるこれら小さなものひとりをつまずかせることが無い様にとさえ言うのである。(マルコ9:38-42)

この聖霊に対する人々の反応へのイエスの姿勢には、「自分の宗派以外は邪教だ」というような精神を見ることはできない。むしろ、この聖霊への反応による裁きの示す寛容さこそが、世界のあらゆる人々を分け隔てなく公正に裁可する重要な要素となり得るものである。

逆に、狭い人間の正義感に固執することは、自ら「神の義」からも「王国」からも退くことであり、自分をディアボロスの仲間とし、この中傷者を益するばかりであろう。
或いは、宗派や党派に固執させることそのものが、「中傷者」としての「新たな罠」との危険が考えられる。その誘惑は、終末に於いて異常なほどの高まりを見せることが預言に再三含まれ警告されている。

創造されたにも関わらず創造者を認めず、「蛇」のように神の企図から離れ、独立の道を行こうとする者らが出ることは避けられない。それは神の『象り』である者らが持つ自由意志であり、神は自らを尊重するように、それらの者の自由を尊重するであろう。



-◆自由意志をどう行使するか --------

こうして「神の裁き」を見ると、我々人間が自らの不道徳性ばかりを糾弾されることを恐れてきたことが、いかにも的外れであったことが分かる。その動機は単なる保身ではないか。

人間が不道徳であることは、アダム由来の不可避なものであることを神はよくよく承知しており、それゆえにもキリストは死を以って犠牲を捧げ給うた。その代償は既に充分に満たされ、誰もが恩恵に浴す準備は既に整っているのである。従って、後は我々ひとりひとりが問われる番である。

神が、一般的道徳に従う「模範者」や、ごく普通の常識ある人を悦納するというのであれば、キリストの犠牲は何のためで、アダムとエヴァの陥った根源的問題はいったいどう解決されるのだろうか。

「他人を裁く」のは人間の悪い癖である。
人は、世俗の良識や法律という、外面的な「仮定の正義」以外のものを持ち合わせていない。
もちろん、人は一定の正義感を持たねば秩序を保ち得ないのではあるが、自分の常識や見方に固執して、つい、「人間の義」に凝り固まってしまう。
しかし、神の御前で罪人が罪人を裁いて何になろう。人は人を真実には裁けない。

そこで、自派の正義を唱える様々な派は、周囲の人々との差別化を行おうとする。
その「正義」は何らかの思想や教理を信じ、規則を守ることで、周囲の人々を踏み台にしてはじめて成り立つものであるから、そこに優越感と蔑視が避けられないのであり、それが怒りと争いを生むことになる。何と虚しく害ある「正義」であることか!

にも関わらず、政党も宗派も「人間の義」を声高に主張し争いあっているが、それはアダムの子らの実情を知り尽くす「神の義」の前に何と偏狭なことであることか。それは人間問題の根源に幾らも近付かないであろう。

人類のひとりひとりが、聖霊の発言を通して人種も性別も貴賎も宗教も国籍も、あらゆることに分け隔てなく神を支持する機会を得るとき、そうした「人間の義」から離れた見方ができないとすれば、それは危険なことであるが、その決定は本人以外にはどうにもできないことである。

しかし、聖霊の声を聞き、純粋な心のままにその言葉に神を認められる人は真に幸福である。
宗派や党派に従って「人間の義」を立てようと血道を上げなくても、その人が『聖徒』に差し出す『一杯の水』であっても、神の目にそれは義であり、その報いは大いなるものとなろう。(マタイ10:42)

その僅かな行為でさえ信仰の為せる業ならば、それはキリストの王権を宣明する聖徒たちを各人のできるところに応じて支持する行いであり、聖霊の業を信じる者は、その価値観から人間の政治や宗教から離れ去って、神の政治と宗教をまさしく具現する『神の王国』を歓呼して迎える者となり得るのである。

こうして「終末の裁き」は、人々をその自発心に基づいてふたつにより分けるものとなり、人がどちらに向かうにせよ、その人の深奥での決定がそのまま反映されるであろう。

人の心の秘めた決定に応じて、ものの見事に人類を二つに分けるそれは、「聖霊」を用いる神の裁きこそが行い得るものであって、到底、人間の企図し成し得るような「裁き」など及びもしない。






            新十四日派   © 林 義平
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* 契約にある者とそうでない者に同一の道徳規準があるとして、律法が非イスラエルの寄留者に「同一の法」を求めたことを引き合いに出す向きもあろうが、律法契約は国家宗教の皆信徒体制を作り出すものである性質を考慮しなければならないだろう。

つまり、例外者を出すなら施行される法そのものが損なわれるのであり、個人宗教であるキリスト教と異なり、律法契約者にも寄留者にも同一の法遵守を要求する以外に選択肢がない。