ほとんどがガリラヤ出身者で構成されるイエスの十二使徒や従者団にあって、彼が珍しくユダヤ出身である理由について聖書は語っていない。

その土地は、エルサレムの南に広がる乾燥したユダヤの領域のどこかなのであろう。
出身地を表す「イスカリオテ」のカリオテという地名は「ケリヨト」[קריות]を示すと思われている。
ケリヨトを冠する地名はいくつかあるのだが、このユダの郷里がどこを指すかは未だ同定されていないという。

しかし、それは却ってよいことかも知れない。
イエスは公生涯の終わり近くになると、名指しはせずに彼について『滅びの子』と、また『生まれて来なかった方がよかった』とも語ったのである。このユダという人物はそれほどまでに忌避される役割を演じたものである。

キリスト教信徒からすれば、自分と最も関わりの無い筈の忌まわしい人物であろう。
だが、この元信徒はヘロデ大王のように幼児をはじめとする集団虐殺を行っていないし、イエスの信徒を数多く捕縛して次々に獄吏にわたすなどという大量犯罪にも加担していないところはパウロのようですらない。

むしろ、このユダは他の十一人と共にイエスの身近に仕え、宣教に邁進し、悪霊を追い払うなどの奇跡の業も行ったに相違あるまい。イエスは彼をも含めて十二人を最後まで愛したゆえに、最後の晩餐で、その中に裏切る者が現れることを苦悩のうちに告白したのであった。(ルカ9章/22:21-23)

しかし、キリストの使徒にまで選ばれた者がどこをどう間違えて、自ら仕えた師を売り渡すところまで堕ちたものだろうか?

これを単に、旧約に記された預言の成就で、神はすべてを見通されるなどと感心しておれば、この特異な生涯を過ごした人物に込められた意味に気づくこともあるまい。

ユダ・イスカリオテという、このひとりのユダヤ人の経験が教えることは、誰でも堕落しかねないことに警鐘を打ち鳴らすだけではなく、イエスが弟子をこの種の変節に備えさせるために繰り返し語り続けた重要な警告を、最も如実に表す動かし難い実例となって我々の前に明示されているのである。

その警告が何かを考慮する前に、まず彼がどのように道から逸れていったのかを再考してみよう。


-◆信頼された弟子の堕落------------------

この人物がいつからイエスと行動を共にするようになったかは聖書は語っていない。

しかし、使徒に選ばれたユダは、その以前からイエスをメシアとして認め、その後に従っていたのである。
キリストの使徒となってからは一行の会計を担当しており、寄付金を受け取るような立場からしても周囲からの信頼度は決して低くなかったことが窺がえる。
収税人であった使徒マタイを差し置いて出納を扱ったからにはそれだけの能力もあったのだろうか。いや、収税人がひどく金にいい加減であると一般に知られていたことからすれば、マタイはたとえ頼まれても辞退したかも知れないところではある。⇒「アブラハムの裔を集めるキリストの業」

一方、キリストは『はじめから』だれが自らの裏切りを為すかを知っていた。(ヨハネ6:64)とあるのだが、このユダ自身が十二人に数えられたそのはじめから裏切りを計画していたり、殊に邪悪を隠していたというわけではけっしてあるまい。

さもなければ十二使徒の栄光が失われよう。その『はじめから』とは、ユダの逸脱の「はじめ」とみるべきであろう。後にイエスは裏切られた晩に『その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう』と彼を名指しせずに語っていたが、それはユダの行く末が生まれたときには定められていたというのではなく、神はただ、十二人のうちの一人が背信し、主を銀三十枚で売り渡す場面を予見していたというべきなのであろう。銀三十枚を語るゼカリヤ書もメシアの仲間に裏切りを述べてはいない。(マルコ14:21/ヨハネ13:18/ゼカリヤ11:13)


ともあれ、彼は金箱を携行しており、寄付を預かりつつ一行の必要に応じて出費を行う出納係りとしての役割を果たしてきたのだが、そうするうちに、その職を汚していたことを福音書は暴露している。

その描かれた場面はキリストの死を五日後に控えた夜のこと、エルサレム近郊のベタニア村で信者のマルタの姉妹マリアが三百デナリウス *という高額の香油(インド産のナルド)をイエスの体に施した。これについてユダが異議を唱えたのである。(*今日なら新車のセダンが買える)

その分の金銭で貧しい者たちに『大いに施しができたではないか』とマリアを批難するくだりである。しかしそこでは、彼は施しではなく自分が日頃から着服していて、その高額の代金をわがものにしたかった欲望が暴露されている。

しかもイエスが、彼女の行為は自らの「埋葬の準備」であると言っているにも関わらず、ユダがそちらに注意を向けた様子もないし、マリアにとって兄弟ラザロを生き返らせた人物への感謝を思えば三百デナリウスの大枚といえども不当なことがあろうか。(ヨハネ12:7)

実はこのヨハネ福音者は、ユダについて更に以前から逸脱していたことに注意を向けているのである。

その場面はイエスと十二使徒の活動の半ばに当たる時期のこと、ガリラヤ湖畔のカペルナウムで、イエスが群集に『わたしの血を飲み、肉を食せ』そうして『永遠の命』を得るようにと説得したときのことである。

律法で血を飲むことを固く禁じられ、どのような肉を食すかも厳格に定められていたユダヤの群集は、そのイエスの勧告を聞くなり、気落ちして散り散りに去って行った。(ヨハネ6章)

イエスが使徒らに『あなたがたも去って行くか?』と訊ねると、ペテロはすかさず『どこに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命の言葉をお持ちです!わたしたちはあなたが神の聖なる方であると知り、信じたのです!』と師への愛着ある支持と信仰を決然と言い表したのであった。

ここでイエスは『わたしがあなたがた12人を選んだのだ!』と誇らしく言いつつも『だが、ひとりは中傷するもの(ディアボロス)だ』と言ったことをヨハネ福音書が知らせている。(ヨハネ6:70)

これをユダが聞いていたなら、それは警告ともなっていたであろう。
ひとりが裏切るというイエスの言葉はその後も繰り返されているが、福音書によれば、十二人がはっきりと反応している場面は、イエスの刑死を控えた最後の晩だけのようである。信じ難いことであったのだろう。

このようにヨハネ福音書は、このユダについて注意を向けて書かれており、イエスの死のおよそ一年以上前のこの出来事に注意を払っている。あとに述べるように最後の晩餐の席でもヨハネはそれが誰かを知っていた。

そして、その後もユダの傾向は改善せず、遂に虚しいその終わりを迎えるのであった。



-◆引導を渡す役回り-------------------

 さて、キリストの最期が近づくにつれ、ユダ・イスカリオテは活発に動き始める。
まず、祭司長派がイエスの居所を知らせた者に報酬を取らせることを聞き及んだであろう。

そこで、慌しく過ぎ越しの前々日の夜にイエスの命を狙うサンへドリンの役員たちに近づき、イエスの逮捕を手引きする報酬額を提示させる。
それは銀三十枚 であった。それは三百デナリウスの香油代金を得そこなったことへの、せめてもの慰めにするつもりであったのかも知れない。

しかし、その貨幣単位は書かれていないながら、いずれにせよ銀三十枚はそうたいした価にはならない。(今ならスクーターが買える程度であろうか)(ゼカリヤ11:13)
ベタニヤのマリアがイエスへの香油代に費やした額と比較するなら、ユダの了見の矮小さが滲む。
しかも、よく言われるように、それが奴隷一人の値段であったならユダは祭司長派と共に師を奴隷扱いしていることにもなる。

さて、その間にイエスは、「過ぎ越し」の食事をする場所をユダには知られないように、別の使徒たちを市内に遣わし、ただ『水瓶を運ぶ男』を探させ、関係する最低限の者だけが会食の準備するように取り計らう。

こうして最後の晩餐に暴徒が乱入することが防がれた。ユダもそのときまで知らなかった場所で過ぎ越しの食事の準備は整っていたのであった。

イエスは十二人を最後まで愛し、彼らと特別な仕方で過ぎ越しを祝う機会を長らく待ち望んでいた。それは以前の「過越し」の祭りの席とは異なる意義があった。実にキリスト自身が肉体を出立する「過越し」を意味するからであり、以後、ユダヤ教の「過越し」はキリスト教に於いて別の意義を成したので、パウロはそれを「自分たちの過ぎ越し」と呼んでいる。(コリント第一5:7)

しかし、その重要な晩餐の席で、イエスは『わたしと共に食事をしている者がわたしを裏切る』と『苦悩して』言う。
その場の同じ鉢で手を洗う苦楽を共にした弟子が、すでに祭司長派に師を売り渡す算段をしていたとは。

弟子らは悲嘆して『わたしではないでしょうね?』と口々に言っていたが、ユダも同じことを訊ねると、師は『あなたがそう言った』と肯定する。だが、他の弟子らは気づかなかったようである。

しかし、ペテロは師の懐に居たヨハネに「誰なのか訊け」と合図を送ったので、青年ヨハネは反り返って師に尋ねると、『わたしがひとくちのパンを浸して口に入れる者だ』と答えてから、師はユダ・イスカリオテの口にパンを入れる。そうすると「悪魔が彼に入り」、イエスの『行おうとしているそのことを早くせよ』という言葉に従い夜の外に出て行った。

しかし、弟子らは彼が貧しい者たちへの施しを命じられたのだろうとしか思わなかったという。
この場面に至るまで、イエスは十二人のだれをも疎遠にしなかったのであろう。


晩餐の済んで後、師と十一人はユダヤの過ぎ越しの習慣に従い詩篇を歌ってから、城壁の外側にある庭園に出てゆく。
一行がその場所に出向く習慣を知っていたユダは、祭司長派の武装した物々しい群集を導いてゆき、遂に合図の口づけをして暗がりでイエスを示した。『口づけして裏切るのか?』という師に、彼の答えは記されていない。

それからメシアの苦難が始まり、遂に磔で刑死に至る。
この夜のユダの動行について福音書は何も告げていないが、十一人は逃げ散っており、師の様子が心配なばかりでそれどころではなかったに違いない。ユダはその晩をどんな気持ちで過ごしたのであろうか。



-◆ユダの最期-------------------------

その夜が明けて朝になると、ユダは『自分は義の血を売り渡して罪を犯した』と後悔しはじめた。
それはおそらく自分が思い描いたように事態が進まなかったからであろう。

というのは、それまではイエスの奇跡を目の当たりに見てきているので、イエスは逮捕されたとしても難なく奇跡によって脱出するものと思っていたであろう。(マルコ15:30)
また、それまでにもイエスは何度か群集からの危機を脱しており、ユダもそれを知っていたに違いあるまい。

それならば自分は銀三十枚を手にし、イエスは無事で済んでいるはずであった。
つまりは、メシアの奇跡で一儲けしようという腹である。

しかし、予想に反して朝になっても、イエスが『ほふられる子羊のように』(イザヤ35:7)なされるがままで、今やローマ総督の面前に引き出されようとしている。ユダにもこのままでは処刑されるところにまで進んで行くことが見えてきたのではないか。

確かにイエスは半年ほど前から、使徒たちに自らの刑死を予告していたが、それがユダの内心でも想い起こされはじめたのであろう。

まして、前の晩には自分の企図がイエスには知られており、師の『しようとしていることを早くせよ』という一言は、その行動を是認しているかのように彼には聞こえていたかも知れないが、今となっては別の響きがある。イエスが、すでにユダの裏切りを織り込み済みで犠牲になろうとしていることがユダにも明白となっていったのだろうか。

しかし、彼がどのように後悔しても、自分が偉大なるメシアの供となるべき信仰の栄光ある志からは既に遠く離れていたに違いなく、一年以上横領を繰り返し、挙句に付き従った師を銀三十枚で売ったような認識が、悔いたからとて、たちどころに大志に変ずるとは到底思えない。(ヨハネ2:16) 

こうして信仰から逸れて悪行を常習するうちに、自らはそれと意図することなくも、キリストに引導を渡す役を果たすという大罪を犯すことになってしまった。

 当日の朝になって悔いをみせたように、最期においても彼のなかではイエスへの好意を残していたことが分かる。しかし、それは何ら意味をなさなかった。彼が一度踏み入れたのは戻ることのできない道であったのだ。

銀三十枚を返そうにも祭司長派は受け取らず、イエスが戻される訳も無い。
行われた悪行は元には戻らない。思い余ったかユダは銀を神殿に投げ入れて走り去る。
無感覚な宗教領袖たちは偽善的にも、この銀は血の代価なので神殿には納められないと言うのであった。
では、それを血の価として提供したのはいったい誰か?

ユダは自責の念のうちに自殺を図るが、自らを処断することも許されなかったのか、聖書記述を総合すると、崖の上で首を吊ったが縄は切れ、落下して身が裂けたようである。

となればそれは自殺寸前の事故死であり、最悪の部類の死に方であろう。あるいは、神の裁きとも云えるかもしれない。それらはイエスの臨終の前に終わっていた。


-◆価値観の変化--------------------

彼は悔いていたのか?そうであろう。
サタンが抜けて、正気に戻ったとも言えるかもしれない。

だが、キリストの使徒としての信仰や認識に立ち戻ったとは到底思えない。
つまり、精々が一般人としての情愛や良識の範疇であり、キリスト・イエスの身辺に仕えるに相応しい見事な資質が彼に戻ったとはいえないだろう。選ばれるとは何と重い責を伴うものであろう。

彼はイエス自身に選ばれ、メシアの御傍の立場が許されていたのであり、そのはじめには倫理的にも能力的にもその職責に堪えることを見せたであろう。しかし、彼は資質の土台であるメシアへの信仰が蝕まれるのをどう許したのだろうか。

栄光ある日々には主の奇跡の数々を目の当たりにし、自らもその力に与ったであろう。
十二人が悪霊を祓い、様々な病を癒す権限を受けそれを行使したことをルカが伝えており、続けて男だけでも五千人いる群衆を五つのパンと二匹の魚で養うイエスの奇跡の業を助けて働いたであろうことも記録されている。(ルカ9:1-)

この奇跡はヨハネも記しており、その奇跡に与った群衆のイエスの元に集う動機が、イエスから食物をもらうことに変化してしまったことを知らせている。(ヨハネ6:26)
先のように、イエスが最初に「清くない者」を指摘したのはこのときであった。ユダは奇跡をどう見たのであろうか。そのとき去っていった群衆のように、奇跡を利得の機会と看做したのだろうか。

もしそうなら、彼はユダヤ急進派のようにイスラエルの国情を憂うような同胞意識もなく、その主な関心は自己に向いていたことになるのだろう。

その奇跡の場面で使徒の一人が、五千人に及ぶ人々に食物を供給するには二百デナリウスのパンでも足りそうにないと発言しており、それであれば、香油代三百デナリウスはその奇跡に相当する価値を満たしていたことになろう。その額なら、確かにユダがマリアに言い張ったように「多くの者たちに施しのできた」金額になるが、彼の中でイエスの奇跡の値踏みが行われていたのだろうか。

そのようにしてユダがそれらの神の力の表明に目先の利得の機会を見出し、偉大な公共善の大志を離れ、信仰が働かない状態に陥ったのであれば、イエスの奇跡の力はベエルゼブブから来ていると言い放った宗教領袖たちと変わるところがあったろうか?

そうなると、ユダの罪は許されることのない「聖霊への冒涜」に入っている。

またもし、彼が主に躓くきっかけがあったとしたら、彼がユダヤ出身者であることが関係していたかも知れない。つまり、『ダヴィデの子』が王座に就くならユダは同郷、あるいは同族の誇りに浴して、高一等の有利を期待したこともあり得る。

しかし、彼の仕える師といえば、群集の中でイエスを『ダヴィデの子』とすら認める人々まで出てきていたにも関わらず、イエスは一向に自らを王として示さず、あるときにはイエスを王に据えようとする群衆まであっても、ユダの師は山に身を隠すのであった。

弟子らはイエスが王国を回復することを期待しており、ユダがその点で一層強かったなら、自らの王権に関して明瞭にせず、奇蹟をもたらしたことも話さないことを求める自分の師をもどかしく思い、イエスをメシアとして認め、その王権を期待してせっかく集まった群衆を気落ちさせて去らせるに至って、それ以上ペテロのように固く従うことは彼には難しくなっていたということも考えられよう。

彼には、ユダ族としての王権に寄り添う高い立場への願望があったとすれば、その落胆も相当に大きかったに違いない。他の使徒らもそうであったが、師はすぐにでもイスラエルの王となるものと思い込んでいたことは、記された彼らの言動にも見えている。また、彼らは自分たちの中で誰が偉いかと度々争ってもいた。

その躓きが、ユダにそれまでの価値観を打ち砕いたとき、師の真意を理解しなおし、自らを修正して立て直すことがなければ、それまでの行動が跡を引いて、きっぱりと離れ去ることもできず、そこでは目先の利得だけが残るだろう。

このようにキリスト教を通して、その教えの本来のものでない目先の利得に人が惹かれることは起こり得ることである。
今日、奇跡によって人々が癒され養われるのを目の当たりにすることはないにしても、宗教的により高い立場にある者には確かに種々の誘惑がある。

人々が自分に従うのに快感があり、そのようにして自己の価値を確認し権威を振るう自分に酔うとすれば、それは、キリストの犠牲に自己価値を見出せない倒錯であって、サタン的ではあっても幾らもキリスト教のものではない。(エゼキエル28:12-/ルカ22:25-)

また、信徒らを寄付のつて、利得の手段と看做して自分の益に直結した金脈とするなら、その動機はあちこちに露見するだろう。(ヤコブ2:3)

利己心は自分と身内や、気に入った人々のために公正から逸脱することにも現れるだろうが、これは律法のとき以来、神の譴責の対象ではなかったか。(申命記16:19)

あるいは、信徒の従順さを利用して自己の肉欲の対象とする醜聞の事例も、キリスト教界にまま見受けられるものとなっている。(黙示録2:22)

だが、イスカリオテのユダが、ただ貪欲に目が眩んだとするのはどうだろうか?
彼が主の売り渡しの犯行に及ぶ一年も前から、それを指摘されていたのであれば、単なる貪欲に溺れて犯行に及んだとするには、使徒としての生活の清貧さからして無理がある。

彼は、ひとたびは栄誉ある主の側近に選ばれる資質を見せたが、その後に相応しいメシア信仰を失っていたと見るべきだろう。
信仰こそは、キリスト教の根幹であり、これが変質していたところに貪欲の誘いが起こったという見方が、一連の流れからして、単なる貪欲に屈したというよりは説得力を持つように聖書は読める。



-◆ベオルのバラムとの類似--------------------

このように聖書には、キリストに従う者を自称しながら内面の動機において逸脱した者らへの警告が繰り返されており、その歴史も浅くない。


イスラエル民族の歴史の初期に当たる、エジプトを出たイスラエルが約束の地に入る時期にも、神に仕える身でありながら、利己的願望を募らせて神の意志から離れた預言者が出た。
ユーフラテス上流に住んでいた神YHWHの祭司ベオルのバラムである。

律法契約以前の古代には非イスラエルの祭司があちこちに居たが、バラムもその一人であった。
真の神の経路であったからには、彼の託宣は的中していたに違いない。(民数22章)

それに目をつけたイスラエルに敵するモアブ民族の王バラクは、バラムに多くの報酬を与えてイスラエルを呪わせようとする。しかし、神の意志はイスラエルの祝福であったから、バラムの利己的願望は遂げられない。

そこで、バラムは異国の若い女たちをイスラエルに送り込ませて、堕落させることには成功する。
だが、彼が報酬を手にしたとしてもすべては無駄となった。
ほぼ時を移さず、イスラエルの兵士の手に掛かって死んでいる。

この事例を新約聖書は繰り返し記述しており、それが信徒に混じる肉欲の者に相当することを明らかにしている。彼らは「傷また汚点」であり「海辺の隠れた岩」とも言われる。(ペテロ第二/ユダ/黙示録)
もっともらしくエクレシアに居るのだが、自ら堕落するに留まらず、周囲をも巻き込む者らである。

神に仕えたバラクと同じく、イエスを信じたユダ・イスカリオテであったが、自己の欲望のままに進み、遂に師を裏切って何もかも失ったように、エクレシアの内部に巣食う肉欲の者らも、何も得るものはないのであろう。


-◆聖餐に与る者への警鐘------------------

多くの宗派では、ユダ・イスカリオテは「主の晩餐」のパンと葡萄酒に与っていないことにしているようだ。
しかし、マルコとマタイのその部分の記述では「主の晩餐」の前にユダが外出したかは不明瞭であり、ルカを見るなら、確かにユダはその場面に留まっているのである。(ルカ22:20-)

この特別な食事が意味するところの、イエスの体を共にし、その血によって「新しい契約」に入り多くの人々に先立って神の子とされ、義認を得ることが確かにユダに相応しいわけもない。

しかし後に、新しい契約は弟子らに聖霊の賜物をもたらすのだが、そのようにして「聖徒」となった人々が完全無欠かと言えば、聖書はそうは言っていない。(コリント第二11:3)

イエスは多くの例えを用いて、弟子たちの中から離れる者が出ることを繰り返し警告している。
中には「あなたの名によって預言し、悪霊を追い出し、多くの強力な業を行わなかったでしょうか」と将来の帰還したイエスに申し立てる者らがいることも記しているのである。

この業はまさしく聖霊の賜物を有する「聖徒」のものである。
しかし、イエスの答えは何か?
『あなたがたをまったく知らない。不法を働く者どもよ、去れ!』。(マタイ7章)

それであれば、イスカリオテのユダが聖餐のエレメントに与ったとしても不都合があろうか。
むしろ、彼のその優れた立場が、同時に犯した罪の重さを際立たせる重要さを担うであろう。
後に、十二の座の欠けたひとつにマッテヤが就いたときに、ユダが聖餐に与る立場を占めていたからこそ、それが満たされたと言い得るであろう。(使徒1:16-)

イエスは、十二人が天で十二の座に就くという契約についても語っていたが、イスラエル十二部族に対応するこれも、けっして欠く事ができない数字に相違あるまい。(ルカ22:29-/マタイ19:28)

こうして、ユダ・イスカリオテの逸脱はすべての「聖徒たち」、すなわち初代と将来の聖霊を受け、後の天でキリストの御傍に座する者への警告となり得るのであり、『裁きが神の家から』というのはまことに当を得ている。



-◆価値観、大志を保たせるもの---------------------

利己心とは、常に神の意志に逆らってきたものに見受けられる。
それは、自らの都合を優先させるので、全体の益に然したる関心を持たず損なう。

神は、尊い御子の犠牲を払ってまで創造界全体の幸福を図ったのであるが、そのことに人はそれぞれどう反応するだろうか。

使徒ペテロは『わたしたちはあなたが神の聖なる方であると知り、信じたのです』と、見事にその価値観を言い表した。彼はアブラハムに示され、モーセが予告したメシアの業に参与する意義を感じていたに違いない。しかし、その同じときにユダの中では異なる価値観が支配していたであろう。

そのときのユダにとっては、人類の益のためのメシアの偉業よりは、自己の利得の比重が重くなってしまった。
これを評するなら、「彼は貪欲に屈した」というのは幾らか的外れであろう。最大の問題は信仰の喪失であったというべきであろう。彼にとって利得は副産物であり、それゆえにも翌朝に悔いて返金を試みたのであろう。
だが、これはキリスト教徒を自認するすべてに起こり得ることではないだろうか。

人は様々な動機や理由を持ってキリスト教に集まってくる。
だが、その価値観は何であろう?

他人はともかく、自分が神に優遇され救われること、生涯を幸福にあるいは充実させて過ごすこと、何らかの成功を収めること、死の不安から逃れること・・果ては結婚式の舞台演出というのもあろうか。

これらは、メシアの人類への偉大なる自己犠牲と公共善の精神の上ににあぐらをかくようには見受けられるが、特段その精神に倣うようなものでもあるまい。これらの人々がキリスト教理解に乏しいことは却って保護となるだろう。(ルカ12:48)

イエスに倣った使徒たち、また初期の弟子らの自己を捨て、自らの師のような生涯を過ごしたことは、今日「聖人」と崇められ、却って人々と関係を持たない遠い過去の出来事のように風化されている。
何と大きな価値観の違いであろう。そこには犠牲を捧げる者と、それをただ受けるだけの者がまるで分かれているのである。(ヨハネ第一3:16)

将来の「裁きの日」に、人はその思想信条に関わりなく、この価値観を問われるであろう。
ただ自己の願望や生存を願うとすれば、どれほど神の意志に沿うことができようか。(コリント第二5:15)

あるいはユダの例を考慮するに、自分がキリスト教組織で多くの働きを成して来たことが評価の対象になると安心できるものだろうか?(この点、ヘブル6:10は誤解されやすい)
この点、新約聖書の中で『滅びの子』と呼ばれるのが、このユダとパウロがテサロニケ人への手紙の中で指摘した『不法の者』だけであるのは非常に示唆的である。
そこでは『背教』が終末のしるしとして挙げられており、ユダのような事例は未だに過ぎ去ったものではない。⇒「不法の人の現れる時」

宗派や教団の掲げる目的がどれほど高邁なものであったとしても、裁かれるのは個人であることはまず間違いがない。その点、人の属する教派も立場もすべての垣根を取り払い、あらゆる個人の内奥を量る神の裁きは真に素晴らしく公平である。(マタイ25:32)

イエスの傍らの十二使徒という、これ以上ない集団からすらイスカリオテのユダが出たということは、いかなる宗派や恵まれた立場にあっても、誰もがその価値観を曇らせ、神の意図から反れる危険があることを強く警告するものとなっていないだろうか?

では、キリストの精神に従うとは何を意味するのか?
イエスは『あなたの宝のあるところにあなたの心もある』と一言でその本質を示した。(マタイ6:21)

それは、その人が善きにつけ悪きにつけ何を為すかより「価値観」、つまりその人の心が何処にあるかの問題である。



           新十四日派    林 義平
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 神の全知性の抑制の理由 ⇒ 「神の象り」に込められた神の愛



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