終末の『裁きの谷』に諸国民を集める神の予表





「神の裁き」と聞けば、そこには恐ろしい響きがある。

しかし、ほかの言語ではよく伝わらないながら、ヘブライ語の「裁き」[シャファト]は、ただ審理して人に罪を宣告するだけのものではない。

例えれば、アブラハムの妻サラは下女によって陥った自分の窮境について夫にこう言い迫っている。
『YHWHがわたしとあなたとの間を裁かれ[イ シュファト]ますように』(創世記16:5)
これは、サラがアブラハムの責任範囲の中で苦しんでおり、その問題が解決されることを夫に促しているのである。

また、イスラエルに王が居なかった時代には、士師(あるいは「裁き人」[ショフティーム])が必要に応じて任命され、苦境にある民族を救い、こうして神は問題の解決をはかったのである。
即ち、「裁き」とは、悪を打ち砕いて除き、苦しめられている者を解放することを含んだ「シャファト」なのであり、弱きものへの祝福をも意味していた。

これまでの最も大きな神のシャファトは、ノアの洪水によってカオスに陥っていた世を罰し、地上の生き物を八人の人間と共に救った事跡であろう。
また、紅海を分けてイスラエルを救い、追撃するエジプト軍を海の藻屑とした奇跡も際立ったシャファトであったと言えよう。

だが、将来にノアの日のものに匹敵するほどの壮大なシャファトが聖書中に度々予告されている。
例えれば、エレミヤの預言にはこのようにある。
『地の果てから騒音が起こる。YHWHには諸国民との論争があるからである。あらゆる肉なる者らを裁き、邪悪な者は剣に委ねる。とYHWHは宣う。』(エレミヤ25:31)

聖書には何度も、終末での神のシャファトは全地に及び、人類の裁きになると記されるが、その予型となる出来事が旧約聖書に語られており、以下の事例を通して我々は将来の偉大なる「シャファト」を垣間見ることができるのである。


-◆イェホシャファトの決定の谷

イェホシャファトはユダ王国の王である。
35歳のときに父王アサからユダ王国の王権を引き継いだ。それは前867年とされている。
彼は父と同様にアブラハム伝来の神YHWHを崇拝し、逸れるところがなかった。
その神を畏れるゆえの敬虔さは、エルサレム神殿の祭祀を重んじるばかりでなく、各地を巡回して民をYHWHの崇拝に戻るよう働きかけてもいたほどであった。
そして、父アサが拡大した領土はイェホシャファトの世代にあって安定し、域内に大した戦火も見ず、自らの繁栄に加え他国からの朝貢を受ける立場にあった。
問題と言えることを挙げれば、北のイスラエル王国に接近して縁戚関係まで結んだ為に、北の王国の戦いに関わらざるを得なかったことくらいであり、その生涯は神と共に歩ことにおいて安定したものであったと言えよう。

だが、このように比較的に繁栄を享受していたユダ王国に突然の危難が襲い掛かる
それは彼の治世中で最大の危機であり、それまでの繁栄を試し、この王の器量の真価が問われる事態となり、王も国民も存亡の危機を前にして神を仰ぐばかりとなった。

ユダ王国の東に位置するモアブとアンモンはアブラハムの甥ロトの末裔であり、イスラエルは彼らとの境を侵さず、カナン入植に際してもその領地には踏み込まず格別の配慮を払ってきたのであるが、この度は不当にもこの両国が連合し、それに南方のアラビアの支族までもが加わって一斉にユダに軍事行動を起こしたのである。
その雲霞のような軍勢は百万に達し、自らに倍する*敵を迎えるにユダの王にも民にも策は無かった。*(歴代第二18:14-18を単純に合算せず、ユダ30万、ベニヤミン20万として観る 歴代第二25:5では二部族で30万の歩兵が記録されている)

諸国の連合軍は死海の南端からユダ側に回りこみ、死海の西岸を北上してエルサレムに向かうのであった。
伝令はイェホシャファト王に敵軍が低地との境である死海の沿岸にあるエン・ゲディに迫ったことを伝える。それは直線でおよそ40km、もはや首都を窺う距離であり、エリコのような低地の諸城市は陥落を覚悟していたことであろう。

平素はYHWHを省みず、異神に香を捧げている民もこのときばかりは王と共に神を仰ぐ。YHWHを信奉するイェホシャファトであっても、ここにおいて大いに信仰の試みを受けるのであった。
彼は民に断食を宣告し、危急の迫りくるときに父祖の神を求めるようユダの人々に促した。
ユダ国内の民は慄きつつエルサレムに登り、危難に在ってはじめて王と父祖の神の下に保護を求めた。王はともかく民にしてみれば、苦しいときの神頼みである。
しかし、神YHWHは民が悔いる度に、それが何度目であろうと救いの手を差し伸べるのであった。(詩篇107:19)

神殿に属する広い中庭に民は集い、相共に伏して王の神への嘆願を聴く。
『私たちの父祖の神、YHWHよ。あなたは天におわす神であられ、また、あなたは諸国民の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません。
ところが今、アンモン人とモアブ人、およびセイル山の群集をご覧ください。この者たちは、イスラエルがエジプトの地を出て来たとき、イスラエルがそこに侵入することをあなたがお許しにならなかった者たちです。事実、イスラエルは彼らから離れ去り、これを根絶やしにすることはしませんでした。
 ですが今、彼らが私たちにしようとしていることをご覧ください。彼らは、あなたが私たちに得させて下さったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして出て来たのです。
私たちの神よ。あなたは彼らを裁いてはくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこの夥しい大軍に当たる力が私たちにはありません。私たちはどうしてよいか分かりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」』(歴代第二20:6-12)
 
そのとき、神はこの祈りに答え、託宣をその場に居たレヴィ族の一人に与えられた。その人には明らかに神の霊が臨み、預言を始めて話すのであった。これは後のイザヤのようなタイプの預言者(ナーヴィー)ではなく、憑依状態に入ることで周囲の聴く人々に神の霊による音信であることを確信させる先見者(ローエー)のスタイルの預言であったことだろう。
『「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびイェホシャファト王よ。よく聴くように。YHWHはあなたがたにこう仰せられる。『あなたがたはこの夥しい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
明日、敵軍に攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエイエルの荒野の前の谷の入り口で彼らに相対す。
この戦いはあなたがたの戦いではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたと共にいるYHWHの救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。YHWHはあなたがたと共に行く。」』
 
このように誰にも明らかな憑依で神からの返答を賜ると、王も民も平伏してYHWHを拝した。すると深い感謝に心動かされたレヴィ祭司団のコハトとコラの支族の合唱隊が、彼らの仕える神YHWHへの格別な感謝と賛美を心からほとばしらせるかのように、あらん限りの大声と感動をもって『YHWHに感謝せよ』と歌い出すのであったが、それはかつてないほどの声量となって響き渡った。


翌朝、早く起きた民と王とは昨日の預言を確信しており、異例なことに軍隊の前面に昨日の見事な声を聞かせた合唱隊を置き前衛とするのであったが、それはこの戦いがもはや人のものであれば勝利のないもの、神に寄り頼むものとなることへの信仰の証でもあった。

そうして神への信頼こそを楯とも矛ともしたユダの軍勢は、エルサレムから南に下り、テコアの野に出て行ったのである。そこからは涸れ谷(ワジ)が死海に向かって下っており、その先はエン・ゲディに至る。
軍前衛の合唱隊が『YHWHに感謝せよ。その恵みは永久に及ぶ。』とハレルの詩篇歌の声をあげ始めるや、神のみ使いの伏兵は敵軍を掻き乱しはじめ、アンモン人とモアブ人はセイルの種族を攻撃し、これを殲滅すると次いでアンモンとモアブは互いを攻めはじめたのである。


ユダの軍がその広谷に到着してみると、荒ぶる敵軍の姿などはそこに無く、却って同士討ちによって預言に違わず壊滅していた無数の兵士の物言わぬ屍を見るのであった。
人々はただ、敵兵から物資を剥ぎ取って運ぶばかりであったが、その多さは一方ならず、民が総出で取り掛かっても三日を要するほどであった。
それはまさしく神の戦いであって、人には何の戦功もない。


そして四日目に、ユダの人々はその広谷に集まって神に感謝を捧げるのであった。
神YHWHは、ユダとエルサレムを守って怒涛の連合軍をまったく打ち破られ、却ってユダの人々を無数の戦利品で祝福したのである。
それゆえにこの場所は『ベラカ(祝福)の広谷』と呼ばれることになった。

これは不法な者らを砕き、神に頼る者たちを救う「YHWHの裁き」即ち「イェホシャファト」であり、こうしてイスラエルの聖なる神はシオンを守り、却ってこれを祝福されたのであった。



-◆イェホシャファトの谷への人類の集合

この事があって数十年後のこと、預言者ヨエルはこの事跡を用いて更に後の時代を預言しており、預言の内容は将来の世の国々を巻き込む、恐るべき成就が控えていることを窺わせている。


『見よ、ユダとエルサレムの繁栄を回復するその日、その時、わたしは諸国の民を皆集めてイェホシャファトの谷に連れ行き、そこでわたしは彼らを裁く。わたしの民、わたしの所有であるイスラエルを彼らは諸国の民の中に散らし、わたしの土地を自分たちの間に分配したからだ。』(ヨエル3:1-2)

それは大王ネブカドネザルに一度滅ぼされ、バビロン捕囚の憂き目をみたユダヤ民族の没落を喜び、その混乱に乗じてこの民をよいように扱った諸国民の責を問う日のことである。
ヨエルの後に、ユダを亡ぼし流刑とした新バビロニア帝国も、ついにペルシアに屈し、神YHWHはその民イスラエルを流刑に散った各地から集めだして、かつての崇拝を再興しようとするとき、それまでの間に諸国民が為した神の民への悪行の数々が清算されるというのである。

だが、この成就に相当する事跡を歴史上に見い出すことができない。
それゆえ、このヨエルの預言は、なお我々の将来に成就を待っているに違いない。

「神の民が集め出される」ということは、単に古代の捕囚の終わりの時を印付るに留まるものではない。
これは使徒時代の最後に記されたヨハネ黙示録でも繰り返される出来事であり、即ち、聖なる者たちの天への招集を意味する。(黙示録7:4-8) 聖なる者たちとは、結論から言えば終末に神に選ばれ集められる『神のイスラエル』真実のアブラハムの子孫の事である。
やはり黙示録においてもイスラエルの十二部族が天界に集め出されており、彼らが揃うときには天において『神の王国』、真のイスラエルが実現することになるのである。これこそは、キリスト教界が「天国」と誤認してきた神の地上支配のための『天の王国』なのである。(黙示録20:6)

十二部族が天に揃うというこのことは、キリストを主要な王とする神の国家が現実の権力を振るう準備が整ったことをも意味するので、その後に行われる『征服』は、もはや聖なる者が殉教するということにはならないのである。

むしろ、それまでに聖なる者たちを貶め、殺害してきたこの世の勢力が打ち砕かれる復讐の時が遂に到来することになる。

では、どうして人類の勢力と神の王国が、将来これほどまでに対立しなければならないのだろうか。
その理解の鍵の第一は、「この世」は神の御旨にそぐわないものであり、その理由は神の創造の意図に反する世界となっているからである。

そこは、創造者を否認することにおいて倫理の基礎を損なっており、全人類はアダムからの遺伝によって倫理上の欠陥を受け継いでしまっているからである。後のキリストの使徒パウロは新約聖書に於いてこう指摘する。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ』(ローマ5:12)

アダムからの『罪』ある者が、もしその状態を愛しているなら、創造者の意図など眼中にない。だが、それでは神の御旨に従って創造本来の人間の素晴らしさに復帰したいと願う者らは、いつまでも世の隷属に置かれるばかりか、いよいよ神が人類の救済に乗りだそうというときに、却って妨害され、聖徒たちばかりか神に忠節を尽くそうとする多数の信仰者らまでが攻撃に曝されるのである。

しかし、神はこの状態を放置することはない。神は聖徒たちをして、反抗する諸国民を処理してしまう『脱穀橇』とされ、必ず偉大なる「シャファト」を執行される。
その時には、黙示録中での、祭壇の下に見いだされる殉教した魂がそれ以上に増える時が終わり、その聖徒らの殉教への復讐へと『神の王国』の権力がいよいよ乗り出すときを迎えるのである。(黙示録6:9-11)
その向かう先は黙示録では『怒りのぶどう搾り場』であり、ヨエルの言う『イェホシャファトの谷』また『裁定の谷』である。(黙示録19:13-15/ヨエル3:14)
ヨエルはこうも預言したのである。
『諸々の国民をふるい立たせ、ヨシャパテの谷に上らせよ。わたしはそこに座して周囲のあらゆる国民を裁く。鎌を入れよ、作物は熟した。来て踏め、搾り桶は満ち石瓶は溢れている。彼らの悪が大きいからだ。』(ヨエル3:12-13)


黙示録のぶどうの収穫については、その前に小麦の収穫が終えられている必要がある。それはパレスチナの農事習慣からしてそのようである。
春先の過越しが終わると小麦の収穫が始まり、シヴァンの月の五旬節に至って小麦の取り入れが収束すると、タンムズの月に夏が到来してぶどうの実りを集める時期を迎える。

同様に、聖徒たちがまず収穫された小麦として蔵に収められるように天に召され、その後に再び地上に目が向けられるとそこには「収穫され潰されるべき」ぶどうがすっかり熟しているのである。
これを黙示録は次のように描写している。
『 見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭い鎌を持っていた。

  すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者に向かって大声で叫んだ、「鎌を入れて収穫せよ!地は実り、刈り取るべき時がきたからだ」。
  雲の上に座す方は、その鎌を地に投げ入れた。すると、地の収穫物が刈り取られた。
 
また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭い鎌を持っていた。
 さらにひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が祭壇から出てきて、鋭い鎌を持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭い鎌を地に入れて、地のぶどうの房を採り集めよ。ぶどうの実がすでに熟しているからだ」。

 そこで、その御使は鎌を地に入れて、地のぶどうを採り集め、神の激しい怒りの大きな搾り桶に投げ込んだ。
 そして、その搾り桶は都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から溢れ出て、馬の轡に届く程になり、1600スタディオンにわたって広がった。』(黙示録14:14-20)


ここに二組四人の天使らが居る。
初めの一組には、『人の子のような者が雲の上に座している』というからには、キリストが聖徒を集めるという収穫を行うことを指している。
他方の組の鎌を持つ天使は、聖所ではなく祭壇から現れた使いの声に従うところは示唆的である。つまり邪悪な者の血の犠牲を求めているであろう。祭壇の基部は犠牲の血を注ぎ出す場所であるからである。

一組目の収穫物が倉に集められる小麦であったように、二組目の収穫物はぶどうであってこれは、踏まれ潰されるべきものであり、その赤い果汁は血潮であって、その犠牲の血は1600スタディオン、つまり296kmに広がるという。この1600の数字は「地の四隅」を示す4の倍数16が強調されており、おそらくは地上の各地に至る滅びを表しているのだろう。

この小麦とぶどうの異なりは、王キリストの下に集められる聖徒らと、それに続いて滅ぶべき者らの処置との対照そのものである。

黙示録だけでなく、やはりヨエルの預言もこれに呼応してこう言っていた。
『鎌を入れよ、作物は熟した。来て踏め、搾り桶は満ち石瓶は溢れている。彼らの悪が大きいからだ。群衆また群衆が決定の谷に群がる。YHWHの日が裁きの谷に臨んだからである。
 
日も月も暗くなり、星もその光を失うであろう。
YHWHはシオンから大声で叫び、エルサレムから号令を出される。天も地も激振する。しかしYHWHはその民の避け所、イスラエルの人々の要害である。

そこであなたがたは知るであろう、わたしはあなたがたの神YHWHであって、わが聖なる山シオンに住むことを。エルサレムは聖所となり、異邦人は重ねてその中を通ることがない。』(ヨエル3:13-17)

ヨエルと黙示録の間の関連性はもはや避け難いほどのものがある。

この『群がる大軍』とは諸国連合のもの、即ちイスラエルの聖なる神に挑戦する将来の人類連合軍であろう。

しかし、国家同士の絆などは互いの利己主義のために初めから綻んでいるであろう。
では、人類軍も古代のモアブやアンモンのように同士討ちを演じるのだろうか?


聖書中の預言はこれを否定しないばかりか、それを繰り返して語るのである。
エゼキエルはその38章で、終わりの日に北の最果てから呼び出される軍勢の頭、マゴグの地のゴグについて預言する中で、『御厳なる主は言われる、わたしはゴグに対し、すべての恐れを呼びよせる。すべての人の剣は、その兄弟に向けられる。
わたしは疫病と流血とをもって彼を裁く。わたしは漲る雨と、雹と、火と、硫黄とを、彼とその軍隊および彼と共にいる多くの民の上に降らせる。』と語っている。(エゼキエル38:21-22)
しかも、その軍勢は諸国の軍勢を引き連れたもので、『地を覆う雲のようである』というのである。(38:1-9)
 
また、ゼカリヤもこう預言する。
 『YHWHは、エルサレムに対して軍役を行うあらゆる国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目は眼窩にあって腐り、彼らの舌は口の中で腐る。
その日、YHWHは、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いにつかみ合い、互いに殴る手を挙げる。
ユダもエルサレムで戦いをしかけ、周囲の諸国の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。』(ゼカリヤ14:12-14)
 
エレミヤも終末に諸国民と神YHWHが戦わす論争があると言っている。
 『YHWHは高い所から呼ばわり、その聖なる住まいから声を出し、自分の住処に向かって大いに呼ばわり、地に住むすべての者に向かって、ぶどうを踏む者のように叫ばれる。
 叫びは地の果にまで響きわたる。YHWHが国々と争い、すべての肉なる者を裁き、悪人を剣に渡すからであると、YHWHは言われる。
見よ、国から国へと災いが出て行く。大嵐が地の果から巻き起こる。
その日、YHWHに殺される人々は、地のこの果から彼の果に及ぶ。彼らは悲しまれず、集められず、また葬られずに、地の表に肥やしとなる。』(エレミヤ25:30-33)

これら「預言者たち」の言葉はそれぞれに当時に成就した預言を語りつつも、なお終末に焦点を合わせているのは我々の注目に値することである。
これらに共通することは、雲霞の如き諸国の連合軍がエルサレムまたシオンを攻撃するために大集合することであり、一方で神YHWHはこれらの巨万の軍に決戦を挑み、エルサレムから指揮を執って彼らにまず同士討ちで打撃を与えられるとされていることである。
そして、それは裁き(シャファト)であるとも宣言しているのである。これらはあのイェホシャファトの谷の事跡に描き出されていたのであり、シオンの民は多くの戦利品によって祝福(ベラカ)をも受けるのであろう。



-◆シオンの王は完く勝利する

それにしても人類の連合軍はどんな理由あって、斯くも勝ち目のない戦いに進んで出向くのだろうか。
実は、これら束ねられた権力のそれぞれには共通することがある。
詩篇第2に語られる次の言葉がその動機を指し示している。

『 なにゆえ、諸々の国たみは騒ぎ立ち、諸々の民は空しい事を謀るのか。
 地の諸々の王は立ち構え、諸々の高官は相共に謀り、YHWHとその油そそがれた者とに逆らって言う
「我ら、彼らの枷を砕き、彼らの頚木を解き捨てるであろう」と。
 天に座する方が笑い、神が彼らを嘲る。
そして神は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、「我、我が王を聖なる山シオンに立てたり」と。』(詩篇2:1-6)


ここに、諸国の為政者たちが神とその任命された者らの支配を望まず、これに逆らって、諸国の民が騒ぎ立つ様が描かれる。
しかし、神はシオンに王を立てるが、この結末はどうなるのだろうか。
神は王に宣う。

『汝は鉄の杖をもて彼らを打ち破り、陶器師の作る器のように彼らを打ち砕くであろう」と。
それゆえ、諸々の王よ、賢くあれ、地の高官らよ、戒めを受けよ。
恐れをもってYHWHに仕え、慄きをもって御子の足に口づけせよ。
然なくば神は怒り給い、汝らを道に滅ぼされるであろう、その憤りは速やかに燃え上がるからである。』(2:9-12)

これに先だって、王キリストの臨御の時節には、天からの聖霊が下る弟子らがあり、彼らは為政者の前に引き出され、『神の王国』の王の代理大使として世の支配権をキリストに委ねるよう勧告しているであろう。(マタイ10:17-20)⇒「子に口づけせよ
聖霊によって油注がれた『聖なる者たち』は、誰にも論駁できないほどの言葉が授けられるというからには、それに抗うことは誰にも内心では自己の不条理を承知するであろう。(ルカ21:15)
だが、キリストは天の雲に在って彼らからは見えないために、彼らはその性向を明らかにしてしまう。即ち、不信仰と不法である。

彼らは聖なる者たちを処刑し、更に神の王権を佩帯する『王の王、主の主』に対して実力を以ってその支配を除き去ろうと謀るが、キリストという天界の攻撃対象に手は届かず、また雲中のキリストの王なる『臨御』すらも信じない。
そこで、彼らの攻撃目標は地上のキリストの信徒たち、つまり聖なる者らからの聖霊の声に耳を傾け、神YHWHの名を呼び求める何億という大群衆に照準を合わせることになる。
これらの人々は、神の崇拝を求めて象徴的な『シオン』と呼ばれる地所に流れのように集まってきた人々であり、様々な背景や立場から象徴の神殿に崇拝に訪れた群衆であって、実際には聖徒を支持して世界各地に現れることになろう。

イザヤの良く知られた次の言葉こそ、聖霊の言葉に信仰を働かせ、シオンへと渦を巻いて集う人々の姿を描写したものに違いない。
『終りの日に次のことが起る。YHWHの家の山は、諸々の山のかしらとして堅く立ち、諸々の峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れ、多くの民は来て言う、「さあ、われわれはYHWHの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、YHWHの言葉はエルサレムから出るからである。』(イザヤ2:2-3)


彼らは温順な人々であり、何の武器も持ってはいない。そこで、人類連合軍は間違いのない勝利を期待し、俄か仕立てのアマチュア戦闘員の民兵らまでもが強気になって気勢を上げる。

『諸々の国民の中に宣べ伝えよ。この戦いを正義のものとし、勇士を奮い立たせ、兵士を尽く近づかせ、登らせよ。
汝らの鋤は剣に、汝らの鎌は槍に打ちかえよ。
ひ弱な者にも「我は勇士なり」と言わせよ。
周囲のすべての国々よ。急ぎ来りて加勢せよ。』(ヨエル3:9-11)


その戦いが、彼らの思惑とは逆の意味で勝敗の決定的に分かれるという『ハルマゲドンの戦い』に入ってゆくことを意識せず、疑いさえしない。(黙示録16:16)
こうして、彼らの集合する場所は『イェホシャファトの広谷』となるのであろう。



-◆御名による救い

ここにおいて、神の許『シオン』に集ってきた大群衆に危機が迫る。
彼らはそれまで異教や様々なイデオロギーを信奉していたかも知れないが、イェホシャファトの時のように、為す術なく神殿で聖なる神を仰ぎ見たユダ国民のようであろう。
だが、神は必ずシオンを守られると書かれており、『この戦いは汝らの戦いに非ず。汝らと共にいるYHWHの救いを見よ。』とかつて語られた言葉に信仰を表す者らは、その期待を空しくされることはないだろう。

この裁きの救いにおいて不可欠な要素が「神の名」となることを、ヨエルの預言をはじめとして聖書は何度も繰り返している。
『すべてYHWHの名を呼ぶ者はみな救われる。YHWHが仰せられたように、シオンの山とエルサレムに、逃れる者が居るからだ。』(ヨエル2:32)

これは使徒ペテロやパウロの引用し繰り返すところでもあったが、今日のようにその名の発音が地上から失われている事態にあっては、この救いの要諦は依然隠されているのであり、それは真実に聖霊を受ける者たち『御名による民』が再び現れるまでは秘められることであろう。

しかし、時至れば『人々がシオンでYHWHの御名を、エルサレムでその誉を告げ知らせる*。諸々の民、諸々の国が共に集まって、YHWHに仕えるその時に。』と詩篇102:21-22が述べることが成就するのであろう。
*(原単語[לספר(レサフェル)*]「宣告し知らせる」) 


ゆえにエレミヤも語る。
『あなたを知らない諸国の民の上に、あなたの御名を呼び求めない諸国民の上に、あなたの憤りを注いでください。
彼らはヤコブを食らい、これを食らって、これを絶滅させ、その住まいを荒らしたからです。』(エレミヤ10:25)

その神名が聖徒らによって知らされる時には、もはや[YHWH]と記す必要もない。しかし、その名は信仰と引き換えに知らされることであろう。
救いは、どんな人間にも組織にも無い。ただ真実に神で在られるYHWHに信仰を働かせてその名に頼ることが人を救うというのである。それは、イェホシャファト王が合唱隊を前衛に据え、高らかな賛美を以って信仰の内に前進したようにするとき、信ずる者たちは軍勢の勢いによらず、信仰を前面に掲げて大いなる裁きと救いとを目撃することになるのだろう。

だが、将来のシオンは地上の一か所を指すわけではないに違いなく、信徒が集まって粗暴な大衆行動のようにデモ行進などするのでもないだろう。
むしろ神はこう云われる『「行け、我が民よ、汝の奥の間に入り、後ろ手に扉を閉じよ。憤激が過ぎ行くまで暫くの間身を隠せ。見よ、ご自分に対する地の住民の咎に関して言い開きを求めるためにYHWHはその場所から出て来られるからである。』(イザヤ26:20-21)

この『奥の間に入る』とは、やはり神の御名が関わるのであろう。確かに『YHWHの御名は強固な塔、義なる者は走り込み、高い処に匿われる』との言葉も空しくはなるまい。(箴言18:10)
それは「主」などという普通名詞で置き換えられるようなものでもない。知らされる神名を私心なく高揚する者が、神の側に立って忠節な支持を言い表すのであろう。

だがそれは、信じる者を救う義務を神が負うと云う訳では全くない。人は立場を弁えるべきで、本来、神が御名を揚げられることに人の救いが関わるだけである。
しかし、御名のゆえにこそ、信じる者らがたとえ散らばっていようと、保護の壁はまったく強靭であろう。
それは全能の神が、敢然と至聖の御名にかけて守られる場所、『至高者の秘す処』に匿われるだろうからである。

『 至高者の秘める処に住む者は、全能者の陰に宿る。
私はYHWHに申し上げよう。「わが避け所、わが砦、私の信頼するわが神」と。
神は狩人の罠から、恐ろしい疫病から、汝を救い出されるからである。
神は、ご自分の翼で、汝を覆う。汝はその翼の下に身を避ける。
例え千人が傍らに倒れ、万人が汝の右に伏せようとも、災いは汝に近付かず』(詩編91:1-16)

ゼカリヤも神の保護を預言する。
『おーい、バビロンの娘とともに住む者らよ、シオンに逃げて来い。
神の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍のYHWHはこう仰せられる。「あなたがたに触れる者は、わたしの眼球に触れているのである。
見よ。わたしはこの手を彼らの上に振り上げる。彼らは仕えさせた者たちに仕えることになる」と。』(ゼカリヤ2:7-9)

疑問の余地はないようだ。
聖なる者たちはキリストに倣い、迫害に殉教する覚悟が求められるとしても、他方シオンに集い御名を高める信徒らの人々に諸国が軍勢をどれほど糾合してもこれを害することはない。まったくできないのである。神ご自身が『火の防壁』となられるからである。


そして、イザヤの預言書はこう締め括られている。
『彼らは出て行って、わたしに背いた者たちの屍を見る。その蛆は死なず、その火も消されず、それはすべての者に忌み嫌われるものとなる。』(イザヤ66:24)


だが、神のシャファトは『ハルマゲドンの戦い』だけでは終わらない。






            新十四日派   © 林 義平  
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 二度救われるシオンという女

 示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か





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