黙示の幻に現れる四騎士に示される終末の事象
<難易度 ☆☆☆☆ 中>


衝撃的な四人の騎士の現れ、これらはいったい何を表すものか?
この「四騎士」とそれに従う「墓」の黙示には、「ノアの日の大洪水」に匹敵するほどに、この世にとって恐るべき「神の裁き」の黙示が込められていることが見え、単なる好奇心で接するなら、この秘儀を知る意味は無い。 


さて黙示録の第六章にあって、いよいよ巻物の封印が解かれ、秘められた事柄が啓示される幕開けに位置するのが、それぞれ色の異なった四頭の馬とその乗り手なのだが

第一は白馬であり、その乗り手は弓を持つ、彼には冠が与えられ『勝利の上に勝利を得るために出てゆく』。

次いで赤馬が現れ、『別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。』とある。
即ち、人々が相互に(アッレローン*)虐殺を行い、騎手には巨大な剣が与えられたのは、地上から平和を取り去るためである。(*または「ひとりひとり互いに」)


第三の馬は黒馬であった。その乗り手は計量器を持っているのだが、そこで『小麦は一コイニクス*で一デナリオン#。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな』という声が聞こえる。
これの表すところは、労働者の日当で一人、あるいは少人数の家族を養うのがやっとという糧食の高騰であり、それも主食のパンだけで、他には何の消費も支払もできないという食料不足である。
(*1リットルに幾らか欠ける量で、ローマ兵一人の一日の割り当て分/#当時の労働者の日当に相当するとみられる)

第四の馬は青ざめており、その乗り手は「死」(タナトス「死神」*)と呼ばれ、その馬にはハデース、即ち「墓」(冥府神)*が従走している。この墓は騎士ではないものの、四つの封印を総括する役割を持っていることが後に分かる。*(ギリシア神話の神と同名)

そして、この場面を見守るヨハネが解説を加えて『彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死、地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた』と言っている。

これらの四頭の馬の騎手には、地の四分の一に対する管轄権(エクソーシア)が与えられているが、これは『地の四隅』という聖書の慣用的用法、また、これと似た四頭の馬が描かれるゼカリヤ書を勘案するときに、彼ら四人には地を四分する管轄権が与えられたとみてよいようだ。

つまり、四騎士いずれかの影響を免れるところは地上に無いということであろう。

これらの馬と乗り手らが災いを下すものであることはそのまま読んで理解できるが、第一の白馬は取り立てて地に及ぼす災いは書かれていない。
この白馬の乗り手に「冠が与えられる」ことからして、これを王権を得るキリストであると結論する解釈が初期ギリシア教父時代から定説となってきた。
 

そこからある宗派では、キリストが王権を受ける姿は天の領域のことであるから地上からは見えないが、それに続いて大きな戦争、大飢饉、疫病の大流行が地上に起こると理解していて、そうした事柄は20世紀の初め頃に大々的に起ったのであるから、それ以降キリストは父から冠を戴き、王権を得て支配しているのだと唱えている。

即ち、キリストが20世紀初頭に臨在(パルーシア)したのでその影響として世界大戦や飢饉や疫病が世界的に流行したのだという教えである。また、これら四騎士の行進はローマ帝国と周辺でイエス後に起こった事象と終末の預言を重ねたものだ、とも唱えられてきた。

しかしそこでは、これらの黙示の事象、特にキリストの王権拝受を既に到来したものとして本当に良いのかという問いは避けられない。また、キリストが既に百年も以前から終末に入っているというなら、臨在とは、それほど長い時間を要するものだろうか?
殊に、キリストの王権領受の時期については、以下に書くように聖書の他のメシアの王権拝受の記述が何を明らかにしているかを考慮に加えると、神の権限に関わる「時」の重さが浮かび上がってくるのである。



王権領受のその時

さて、復活後のイエスが『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。』 とかつて告げている。しかしだからといって、今日イエスの王権が実現しているだろうか。(マタイ28:18)
そこでヘブライ書にはこう記されている。
『「万物を彼に服させて下さった」という以上、服さないものを何ひとつ残していないはずである。しかし、今もなお我々は万物が彼に服している事実を見ていない。』 (2:8)

即ち、「この世の有様」は、キリストの死と復活を経ても何も変わらず、ヘブライ書の記された当時から今日まで、キリストの王権の実現について、変わったところが何か観察されただろうか。それは『天においても地においても』 何ら変わっていないのではないだろうか。 相変わらずこの世は人々の醜い貪欲が支配的である以上のものはなく、引き続き悪魔の支配下に在って人々が蠢いているばかりである。

ペテロが、終わりの日には、『約束された彼の臨御はどうした・・すべては創造のはじめからのままを保っているではないか』と揶揄する者がいることを預言し、キリストの王権が、今日はもちろん、終末に入ってさえ実現していないさまを予告しているので、臨御はともかくも、王としての支配の実現は突然に、またはっきりと到来することを予期するべきではないだろうか。


やはり、使徒らをはじめイエスの弟子たちは、メシアである師がイスラエルの王権を樹立することを心待ちにしていたのだが、イエスは一向に自らを王と宣することなく、民衆がイエスを王にしようと群がってきたときに、師がそれを逃れて山中に潜むのを彼らは見た。

イエスは度々に例えを以って自らが王権を受けるまでには相応の期間を経るべきことを教え、ミナやタラントの例えは、イエスの一行がエルサレムに上るとたちどころに王国が実現するものとさえ思っていたことへの訂正を促すものであった。

それは、彼らの師が生き返った後もそうであって、『今このときにイスラエルに王国を再興されるのですか』と問いつつ期待した彼らは、却って『父が権限を持たれる時については、あなたがたの預かるところではない』と諭告されてしまうのであった。 

確かにメシアも神から王権を拝受する側である以上、このように王権領受に関わる事柄には、キリストの権限を超える領分を窺わせる言葉が聖書中に散見されるとしても当然といえる。

例えれば、詩篇の第2にはこう記されている。
『なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、為政者らは相共に集まり、YHWH*とその油注がれた者とに逆らって言う。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を解き捨てよう。」*(終末に明かされる全能の神の聖なる御名)
 天の御座に着いている方は笑い、YHWHはその者どもを嘲られる。怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れ慄かせて仰せになる。「わたしは、わたしの王をわたしの聖なる山シオンに立てた。」と』 


また、神がキリストに征服するよう下令する詩篇第110もそうである。
『YHWHは、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座いて居よ。」 YHWHは、あなたの力強い杖をシオンから差し出し「あなたの敵の只中で勝利せよ。」と言い給う』。


これらどちらの言葉も、メシアが神の側の王として立てられる時期というものが、まさに戦いの最中にあり、即位の目出度い状況でも、長々と続く期間でもないことを示していないだろうか。


そこでは地の王や高官らは明確にメシアに対して敵意を表しており、王キリストは敵中から征服を進めてゆくとされている。

終末となれば、それに加えて地に居る状態の『油注がれた者ら』にその敵対心が既に向けられているのであり、終末に入って以来、世の為政者と『聖なる者ら』とが対立関係にあることは明白である。(マタイ10:17-18)

そして、上記ふたつの詩篇の引用部分には、共に『シオン』と呼ばれる場所が関係しているが、終末預言での神に抵抗する諸国民の連合軍が攻撃目標とするのが、この『シオン』と呼ばれる、即ち「象徴的エルサレム」であろう。(ゼカリヤ14:12)


それはつまり、メシアを退けたがゆえに神の聖霊の注がれることなく、キリストの世代に『火のバプテスマ』を受けた今日の共和国であるイスラエルの都市エルサレムを指すわけではなく(マタイ3:9-12)、これが『末の日』に聖徒を支持し、神に帰依して『流れのように』集まる諸国の信仰示す人々の集団であろうことは以前の記事に書いた通りである。⇒「神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢」


キリストはその再臨の時に、初代の弟子らにしたように将来にも聖霊を注ぐ者たちを選び、その「聖なる者」らは『王や高官らの前に引き出され』『聖霊が語らせる』ままにキリストの王国に世界の支配を譲るよう宣告すると共観福音書にそれぞれ予告されている。

彼らの言葉の完全性や、聖霊の力を見せられる人類には為政者にも大衆にも激震が走るのであろう。旧約のハガイの預言でも、神は『わたしはあらゆる国民を激しく揺さぶる』すると『諸国民の望ましい者らが入ってくる』と言われる。(ハガイ2:7)

また、イザヤもこの聖霊の発言を導くのは神の御子であられることをこう預言している。

『彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)

だが、為政者らは『雲のうちにあって』キリストが見えないゆえに信じず、次元の遥かに高い領域からの勧告に応じる必要も認めない。却って、それら『聖なる者』を迫害して亡き者とするだけでなく、加えては『聖なる者ら』を通して神YHWHに帰依し、キリストが王権を得る『神の王国』を信じ恭順する無数の人々の集まる象徴の場所『シオン』をすらも攻撃しようとするのである。世の大半の人々も同様に神への敵対の反応を見せるのであろう。このゆえに「この世」は裁かれねばならない。(ヨハネ16:8)


そのシオン攻撃は危急の時を招来させ、世にとっては裁きの審問の時となり、同時に信じた者たちには信仰の質が問われる時となるのであろう。
だが、YHWHは全能の神であり、信仰を示してその名を頼る世界中の許多の人々と言えども救えないことなどはけっしてない。

ゼパニヤの預言はこう語る。
『YHWHは言われる、「それゆえ、あなたがたは、わたしが立ち上がる日を待て。わたしの決意は諸国民を寄せ集め、諸々の国を集めて、わが憤り、わが激しい怒りを尽くその上に注ぐことであって、全地はわが怒りの妬みの火に焼き滅ぼされるからである。
 またその時、わたしは諸々の民に清き唇(言語)を与え、すべて彼らにYHWHの名を呼ばせ、心を一つにして仕えさせる。』(3:8-9)

この『シオン』を攻めよう群がるすべての軍勢を裁くという重大な局面で、神は『シオンから号令を下され』『シオンに王を立て』られるというのである。
それが人類連合軍と神YHWHの立てる王キリストとの「ハルマゲドンの戦い」へと展開することになるであろうことも、既に書いたところである。⇒「神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢」


そうであれば、キリストが王権を領受する時とは、この危急な事態が起こるその時であって、神とその王への為政者らの敵意は、聖徒らの聖霊の発言を以って湧き起こされるのであれば、再び聖霊が注がれて『聖徒』らが終末に生み出され、パルーシアが開始される以前にその時を想定できない。
即ち、キリストの王権領受は、諸国民の為政者らが強烈な敵意をはっきりと示すまでは起こらないことになる。(イザヤ52:15)


このように、王権を実際に行使するまでに幾らかの時間を要した例として、ヘロデ大王の息子たちがそれぞれ自分の王位継承を皇帝に承認してもらおうとローマに出向いたが、うまく皇帝の承認を得たとしても、本国に戻ってから他の競合勢力を実力で排除してその王権を確立しなければならなかったのが当時の通例であり、これに相当するものとして、イエスの王権に関する「ミナの例え」でも、帰還した王は、王権に無頓着な家令を処罰し、新王に反対した市民を処刑しているのである。(ルカ19:26-27)


したがって、キリストも『王権を確かなものとするために』世を去って不在となり、『すべての敵を、その足台とするまでは』、神の『右の座して』待たなければならないという意味に於いて、先の詩篇110編をユダヤ人の弟子らは聴いたに違いない。

それはちょうど、ローマ皇帝が従属国の王を正式に任じるまで、手許に滞在させた事例に相当しよう。 使徒らが主からこの例えを聞いたときに、当時のヘロデの息子たちの王権領受の実際を思い起こしていたに違いない。


したがって、キリストが実際に王となる「その時」とは、領民は皇帝に対してその王の登位を望んではいないことを明確に表明している段階、即ち、聖霊によって語る者たちが為政者と敵対状態にある時期も既に進み、聖徒を用いた聖霊による「世界宣教」も終わりを迎え、地上の猛反対の試練に打ち克った聖徒たちも(殉教の有無に関わりなく)地上から尽く姿を消した後のことに限定される。(マタイ10:18/テサロニケ第一4:16-17)


つまり、イスラエルがイエスを望まず退けたように、聖なる者らも世に望まれず、殉教の最期を遂げるなり、天に召されるなりした後に、彼らの伝えた聖霊の声に信仰を懐いて集まってきた相当数の人々がなお地上に居て、「この世」の公権力が自分たちの手に届くこれら地上の信仰を懐いた人々を攻撃対象として狙いを定めている「その時」に「王」が立てられるということである。(ヨエル3:9-16/黙示録16:14.16)

黙示録の第11章の記述において『第七のラッパ』が吹かれ、世の国々が神とメシアのものとなってとされる以前に、聖徒らは天に召されているのであるから、キリストの王権の拝受は聖徒らが天界に揃ってからのことであり、聖徒らは主キリストと共に地上の為政者らとの闘いに臨むことになる。(ゼカリヤ14:5/テサロニケ第一3:13)
また黙示録第12章に於ける『キリストの王権の現れ』についても、その以前に聖徒らの忠節が試された後に起ることであることが分かる。即ち、キリストの臨在がそのまま王権の確立とはならないことは明白と言える。


この点、それは賑々しくも目出度い戴冠式などを祝っているような余裕は無いように聖書は読める。そこでは『聖なる者ら』を苛酷に扱った『この世』への復讐を込め、実力を行使し聖徒らを支持する民を救い、反対勢力をねじ伏せ、実権を手中にし、そうして王が誰であるかを地のすべてに知らしめなくてはならない。 信仰者は、十字架上のうなだれたキリストの姿を感傷的に眺めているような時ではない。(コリント第二13:3)


衆目の注がれる賑々しい中で大群衆に棕櫚の葉(ルーラブ)を振られる中で王座に即くのはそれからであろう。黙示録にハルマゲドンの戦いとして描かれる通り、人々を救うべく任命されたキリストは戦闘中の猛々しい王である。

だが、キリストが至高の権力を用いるにしても、権力とは紛れもない「暴力」であり、権力の行使は必要悪であるに違いなく、神はそれを行使させるぎりぎりを待つのであろう。
 しかも、神YHWHご自身がその時を見計らうのであり、それこそは人々の裁きが確定する時でもあるので、何者もその時を規定したり予告したりはけっしてできないであろう。(伝道10:14)


更なる根拠がゼパニヤ書にある。
『 恥を知ることなき民よ。こぞって集まり、集合せよ。
法令が施行され、その日が吹き散らされる籾殻の如く過ぎ去らぬうちに、YHWHの燃える怒りがあなたがたを襲わぬうちに。YHWHの怒りの日が未だあなたがたを襲わぬうちに。
その定めを行うこの国のすべて謙る者よ。YHWHを尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。然ればYHWHの怒りの日に匿われるやも知れず。』(2:1-3)


やはり、神が王を立て、その号令を発する「その時」とは、人が信仰を懐いて転向する機会の閉じられる瞬間となるとも考えられよう。また、殉教する聖徒の数を満たす秘儀が関わるとも言えるが、それが「神の裁き」という究極の倫理上の決定が下されるその時であり、古代に箱舟の扉を他ならぬ神ご自身が閉じられたような、人々の生死を分ける瞬間ともなるであろう。これはマタイ24章でイエスの云う、『父だけが知り給う』『日と時節』という言葉を重くする。


そこで、キリストがイスラエルの王国の再興のその時について、弟子らに『神がその権限の内に置く時について、あなたがたの預かるところではない』と言い切ったことが思い起こされる。加えて神ご自身は、キリストの王権受領とその進軍については、『わたしの右に座して待て』とも言われていなかったろうか。

やはりキリストは、王権に関わる神の時を待つゆえに『ただ父だけが知り給う』時の存在を認められたのではなかろうか。それが即ち、復活をもはや許されない決定的な人の『魂』の存否に直結する創造者の「裁き」だからである。

したがって、キリストが王権を得る「その時」が到来したならば、神の号令一下、新王は恐るべき三騎を従え、ひたすら敵をねじ伏せ、勝利の進撃を重ねる以外になく、それを人が眺めて時代を悟るなどと云う事態ではない。



四騎士の表すもの

黙示録の四騎士に再び目を戻すと
そこには確かに『勝利の上に勝利を得る』白馬の騎士が描かれている。
これをアンチ・キリストに設定する見方もある。黙示録の災厄に関わるのは、慈悲深いイエスであるわけもないと思うのだろうか。

そこで理解の鍵を成す言葉が『勝利の上に勝利する』と訳された部分だが、この一度目の『勝利』が現在形であるのに対し、二度目の『勝利』について見ると、それは仮定を含むアオリスト動詞である。それから判断しても白馬の騎士は、一度目の勝利と二度目の勝利の間にいることを示している。

これについては、キリストと聖徒らの地上での犠牲の死という第一の勝利と、その復讐に立ちあがり全地の反対勢力をねじ伏せるという後の勝利とを想定することもできるであろう。*文末註

その二度目の勝利のために戦に赴くキリストであれば、この時点ではステファノスという一つの冠であり、黙示録も第19章12節の複数の重厚な冠ディアデーマタに至らない意味もあると言える。つまりは、世界に対し、まず精神に於いて打ち勝ち、次いで、まったく勝利して世界を完全に掌握する王には二重の冠が相応しい。 ⇒小アジアMemo<白馬の騎士>
この辺りは、ローマから従属王として承認された高位者であっても自国を自力で制圧する必要があったことも背景にあるのかも知れない。

他方で、確かにこの白馬の騎士の武具は『弓』であって終末のキリストと言えば「長剣」という表象ではある。しかし、次いで現れる赤馬の乗り手が「長剣」を振うところからすると、この『弓』という武器は二人の騎手の異なりを明瞭にするものではある。

加えて、アンチ・キリストはハルマゲドンの戦いへと人類を慫慂することに関わる以上は、世界的な影響を与えところからすれば、この黙示の『四分の一』(テトルコス)という範囲を越える広範なものとなろう。
黙示録の記述では、この白馬の騎士に『冠が与えられた』とあり、その主体者は、これらの黙示の封印を解くことを許した命令者が与えたものと捉えるべきであろう。それは神の意向であり、アンチ・キリストに冠を授ける行為は、これらの災厄を惹き起こす人間の業となろうし、不法の人がその者であれば、むしろ冠は自ら被るようにもとれる。⇒毒麦の例え 不法の人


したがって『彼に冠が与えられた』とは、遂に王権領受の「その時」を迎え、救われるべき地の象徴的『四分の一』のために立ち上がる姿を描出しているのであろう。
そうであれば、黙示録は終末への開示の始めに、王として立つキリストとこの世との戦いがあるという重大点から説いているのである。

この「白馬の騎士」をキリストと捉える見方は、使徒ヨハネの伝統を受け継ぐ初期ギリシア教父エイレナイオスの見解でもあり、いずれにせよ本稿はこの見解を支持することにする。

だが、そうして見ると、次いで現れる実害をもたらす騎手らのとの違いの意味が見えてくるのである。

即ち、赤馬とその騎士が表すものは、世界大戦などではなく「ハルマゲドンの戦い」そのものである。
なぜなら、この赤馬を駆る騎士に『巨大な剣が与えられた』のは何のためか?『人々が互い(個々)に殺し合いをするため』であり、そのため地は平和を失うというのである。⇒「神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢」



まさしく、人類と神との戦いにおいて、人類連合軍が同士討ちを始め、それによって自壊することは「預言者たち」(ネイヴィーム)の揃って語るところではないか。

第二の騎馬をこのように見ると、続く騎手らの意味も追って明らかになってくる。
それはエルサレムがバビロンやローマの攻囲を受けた日の災禍の世界的再現のようにも読めてくる。即ち、剣に続いて、飢饉と疫病が地のそれぞれ残った部分を覆うであろう。(エレミヤ34:20/エゼキエル14:21)

この人々は、既に赤馬の騎手からの災いにより、つまり必勝のはずであったこの世の連合軍が「エホシャファトの谷」で自滅することで、もはやその内に霊がないほどの落胆に陥っているであろう。(ヨエル3:12-17/ルカ21:26)

生き残った『地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座に座す方の御顔と小羊の怒りとから、私たちを匿ってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。誰がそれに耐えられよう。」』と言う日はこのときであろう。(黙示録6:17)

ルカ書はイエスの終末の預言の中でこう記している。『また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が海と大波との轟きに動揺し、人々は世界に起ろうとする事への恐怖と不安で気絶するであろう。森羅万象が揺り動かされるからである。
そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るを人々は見るであろう。』(21:25-27)

これが即ち「エピファネイア」と呼ばれる王の『顕現』の時となる。しかし、やはりキリストが肉眼で見えるという意味ではない。パルーシアは稲妻の貫くように天空を東西に輝き渡ると主は言われるのである。人としてのイエスを『人の様をとっていたときに、自らを低くした』とパウロは言うが、顕現のイエスはもはやそのような姿では有り得ない。(フィリピ2:8)


人々は恐るべき現実を見聞きするときにそこに御厳の大王の臨御を悟るというべきであろう。即ち『雲』という不可視性にまとわれたキリストが、この世と呼ばれる全地を裁いていることを不敬虔な人々が悟るとき、『人の子が雲に乗って来るのを見る』のである。

だが、裁きの災いはけっして後戻りしない。神の立てた王は『勝利の上に勝利を得る』ために攻撃の手をゆるめることはない。

歴史上、大きな戦争の後には、飢饉がつきものであった。それは農兵の召集と戦死だけでなく、耕作地を戦場として踏み躙ることもある。
だが、今後の時代に起る神と人との大戦争では、別の仕方で飢餓が起り得る。しかも現代は、その点で非常に脆弱なのである。

『赤馬』の疾走の後、未曽有の同士討ちで世界から平和は失われており、政府が機能不全に陥った中で交易や流通が、経済活動や貿易が順調に行われるとはまず思えない。まず諸国の政府が発行し裏付けを与える通貨の価値が成り立つ条件を失っている。しかも基軸通貨が金本位制を離れた状態にあるなら、なおのこと根拠を失った紙幣は単なる紙屑になり、その状況下では前文明的なバーター貿易に辛うじて可能性が残るものの、諸国が相互戦闘を行った後にどんな信用が残るものか甚だ疑問である。


そうして物流が回らなくなると何が起こるだろうか?
今や、世界経済も人々の生活もそれぞれの地域からの物資の交換で成り立っている以上、その停止は必要物供給の輪が断たれることを意味するのである。つまり、食料品、必需物資、燃料などが、国境を越えて互いに供給されているが、それぞれの国家や民族が人類の『同士討ち』という多元的な相互闘争状態に入る時に、物流が問題なく継続されると期待するどんな理由があるだろうか。

即ち、政治と経済のカタストロフという以外無い。
ペテロの言葉はこの辺りを語っているかのように読めないだろうか。
『その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、世界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とその業とは暴き出されてしまう。』(ペテロ第二3:10)

加えて今日、大規模な旱魃と洪水が予告なく世界各所を襲うようになったが、気象変動は今後どうなるのか。更に巨大地震の頻発も加われば最低限のライフラインも危ういことであろう。物資の奪い合いが繰り広げられるなら、その利己的で罪深い様によって、地の『業』を露わにされ、滅びを待つ人々から糧食が途絶えはじめると、黒馬が地の四分の一を疾走し始める。

即ち、手に天秤を持ち『1デナリオンで小麦1コイニクス、1デナリオンで大麦3コイニクス、葡萄酒とオリーブ油を失うな』と言いながら黒馬に乗って疾走する第三の騎士の登場である。

オリーブ油やブドウ酒といった当時の品で表される生活必需物資の枯渇にも喘ぎつつ、人々は食物の窮乏を強いられる。かつてエルサレム攻囲では略奪が横行し、人は遂に人肉を食らうまでに身を窶したのである。
経済活動の停止とは、便利な日用品は生産も流通も止まり、商品棚は空虚になってゆくことを意味しないだろうか。

やがて、シャッターを閉めた小売の店舗から倉庫まで、生きるために人々が奪い合いに曝されるなか、いよいよ金銭価値の崩壊を迎えることにもなろう。
金品財産にあれほど固執した人々が、『銀も金もYHWHの怒りの日には人を救わず』そのため『彼らは銀を外に投げ捨て、金は汚れたものとなる』のは、一切の経済活動が停止したときであろう。(ゼパニヤ1:18/エゼキエル7:18)


飢餓によって体力を奪われ、健康を害し始めると何がそれに続くかは、エルサレム攻囲の結果を重ねて我々に聖書が訴える通りであろう。それが青ざめた馬で表される疫病の蔓延による死である。


今日でも薬の効かない病原菌の感染拡大が起こるたびに、人々は動揺し外出を控えるのだが、飢餓の続く中での疫病のパンデミックがどれほど破滅的であるかは想像したくもないほどである。

神は旧約の時代にも度々疫病を用いて人々の寿命を縮めたことがあったが、ハバククの預言が終末を予告するものなら、疫病は神の御前を進むことになり、この最後の処罰は選択的なものとなることが考えられる。というのも、エジプトを出たイスラエルを38年間という短い期間の内に世代を入れ替えた神にとって、また、エジプトに居た長子を選択的に撃ったYHWHにとって、選択的疫病も不可能とは思えない。それはどこかに逃れるなら安心できるようなものとはなるまい。そのためか?第四の青ざめた馬の乗り手が「死」とも呼ばれるのは、神の一連の裁きの最後を飾り、処刑を完了するということであろう。(アモス9:1-5)

だが、こうして俯瞰すると青ざめた馬の後についてくる『ハデース』の位置づけがはっきりとしてくるのである。

即ち、ハルマゲドンの同士討ち、続く飢餓と疫病によって地の四分の三に累々と横たわる屍の処置である。

これらの死体が葬られることなく地の表に放置されることはやはり「預言者たち」の揃って語るところであるが、この黙示録の二度目の言及では『長い剣と食糧不足と死の災厄をもって、また地の野獣によって殺すためである。』という。
つまり、初めに『ハデース』(墓)(黙示録6:8)とされた死せる人々の行く先が、同じ節の後半で『地の野獣』という言葉に置き換えられ、これらが同じものであることが示されているのである。


この意味するところは、地の野獣らの腹が膨大な屍の「墓」となるであろうことであり、同じく黙示録の章では神と人との戦いの後に天の鳥たちが『神の壮大な晩餐に』集められてもいる。(エレミヤ16:4)
加えて、青ざめた馬が四騎士の最後となり、その後に墓が従うのであれば、青ざめた馬で示される疫病が人類の裁きにおいて決定的な執行となるのであろう。選択的に臨む疫病であれば、現存のインフラの全体を破壊し尽すことなく、また、信仰を懐いて神の名を呼び求める者を恰も『さあ、わが民よ、あなたの奥の間に入り、あなたの後ろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまでしばらく隠れよ。』との句のように保護することができる。それは実際のシェルターのようなものを必要とはしない『奥の間』と成り得る。(イザヤ26:20)


さて、赤、黒、青の騎馬がそれぞれ地の四分の一ずつに影響を及ぼす。そのように読むように促すのはエゼキエルによるかつてのユダヤ民族への処刑の預言であり、古代にアッシリアやバビロニアによってイスラエル民族の国家が滅亡していったように、黙示録の四騎士が表す災いの一つ一つが独立して生起するものではなく『この世』という体制が権力を失って制御を失い、混乱と衰亡の内に、遂には人類世界の終息に至るまでに続く一連の恐るべき過程を表している。
そうであれば、戦争があった、飢饉があった、などと挙げ連ねて時代の印であると思いつくどころのものではなく、身を以って世界を覆う大変災の混乱を目の当たりにして恐怖することであろう。


だが、古代の預言では残される者らがあり、イスラエルは絶滅を免れた。(エゼキエル14:21-22)
将来のこの四騎手の事例ではどうだろう。我々は最初の白馬の騎士の管轄する四分の一は、「この世」という世界一式の制度にカオスをもたらす『大患難』を生き残ると願いたいものである。今日なら20億弱の人々となるのだろうか。



ルカ書の特長

黙示録の巻物も、封印の初めの四つが解かれるところで、我々は既に王の戴冠とそれが意味するところをまざまざと見る。
同士討ちの戦争、世界の飢餓、疫病の蔓延、これらは確かにキリストの王権領受の見える証拠にはなるだろう。
しかし、これを見てから行動を起こしたのでは手遅れであり、畏怖すべき災いに怯えて全能の神に帰依しようにも、その扉は硬く閉ざされてしまっている。

『その日はノアのときのようである』とは、こうしたことなのであろう。人々の多くは自分の日常にかまけてより重大なことを悟らなかった。つまり神というものに関心を払わず、この世の利己心のままに愛や善を省みない。

それはエデンの園で、善悪の木から実をとって食することに等しく、自らを存在させた創造者との関係も愛も感謝も振り捨てることであったろう。それは一切の倫理の礎を放棄したに等しいサタンの道である。

これら四騎手たちの出現が、ノアの日のような絶滅という重大な事柄を表しており、ことにキリストの王権領受のその時が裁きに関わる重さを有していることを了解するなら、マタイが『その時にいたるまでけっして起きたことのないような大患難』と呼んだ事柄にも理解が進むだろう。

それは単なる自然災害ではなく、人間が個々に自らの選択によって峻厳と分かたれ、王権樹立を境にして引き返すことのできない『大患難』への道に入ることを意味していよう。

マタイやマルコの福音書のイエスの終末預言では、その書かれている順序からすれば、確かに戦争、飢饉、疫病などが更に大きな災厄への入り口であるかのように読めるが、ふたつの福音書における終末預言の内容は非常に似ており、同じソースから書かれたものという判断は正しいのだろう。

しかし、ルカ福音書は様相を異にしている。特に終末に起こる災厄と聖徒らへの迫害の前後関係を示す時を表す一単語の違いが全体像を入れ替えるほどのものとなっている。

例えれば、マタイやマルコでは戦争、飢饉、疫病が『苦難の始まり』であり、『その時(トテ)』という言葉を多用し、その後に聖徒らへの迫害や為政者の前での弁明が続くと読める。
対してルカでは、21章12節の『これらすべてのことの前に(プロ)』として、戦争、疫病、飢饉の以前に聖徒らへの迫害が起こることを知らせているのである。

マタイを読むと、戦争、飢饉、疫病また地震などの災厄よりも余程甚大な惨禍「大患難」がその後に臨むように読めるので、その『ノアの日のような』しかも『世の初めから起こったことのないような』災いとはいったい何かを思い巡らさせる。この点はマルコもそう変わらない。
しかし、ルカの前後関係を注意深く読むと、まず迫害と為政者の前での聖霊による弁明があって後、大地震、戦争、飢饉、疫病が臨むとなるのである。

では、この違いの背景は何だろうか。
そこで重要な証言を与えているのが、第二世紀の小アジアのキリスト教徒、ヒエラポリスのパピアスからの情報であり、これはエウセビオスがその著「教会史」に採録している。
それによると「マルコは、ペテロの通訳になったので、主の言行について記憶しているすべてを順序どおりではないが、正確に記した」という。
従って、マルコはイエスの終末預言を聴いた四人のうちのペテロ経由でこの情報を記したであろうし、おそらくマタイも同じ源泉によるのであろう。

後発のルカはその福音書を記すに当たって留意したことを、他ならぬ本人自ら次のように冒頭に書いている。
『私共の間で、確信されております出来事につきましては、事の初めからの目撃者で、み言葉に仕える者となっております者らによって、私共に伝えられましたその通りに、既にその多くの者が書物にまとめようと着手しております。そこで 私も、すべてのことを初めから綿密に順序を追って(アクリボース カスェクセース*)記し、御献上致す所存にてございます。尊敬致しますスェオフィロス閣下。』(ルカ1:1-3)
[*慎重に 順番通りに]

これについてはエウセビオスもこう述べている。「ルカは・・(中略)・・他の多くの人びとは、彼自身が熟知している事柄をいささか性急に語ろうと企てたが、自分はその人びとについて色々言われている疑念から何とかわたしたちを自由にしようとし、そのために、パウロとの交わりや、彼と生活を共にしたこと、他の使徒との友誼などから、自分がその真実性について十分に学んだ出来事を福音書の中で正確に語り伝えた。」(秦剛平訳「教会史」Ⅲ24 )

これら当時の情報を総合し、終末預言を考慮するときに何が言えるだろうか。

それは、マタイ、マルコ両書の『その時』という多用される副詞の曖昧さの理由と、医師らしい慎重さをもったルカの記述の順序の信頼性である。
即ち、前のふたつの福音書ができる限りの情報を伝えようと、云わば内容を羅列したのに対して、ルカはそれらの順を整えていると言える理由がある。

ルカの記述に沿って終末預言の出来事を並べると、弟子らへの迫害や為政者たちへの聖霊による布告が有って後、戦争、飢饉、疫病また地震などの災厄が続き、そのために『人々は、その住む全地を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失う』ことになると記しているのである。

また、『戦争、また戦争の噂』を聞くという部分だけは、三つの福音書に共通するものであるが、これはハルマゲドンの戦いの前に起こる信徒への恫喝という情勢を表しており、以上で考慮した災厄の中の同士討ちの戦争の前のものであって、これについてはどの書も『恐れ慄くことのないように』との訓告を言い添えているし、確かに『終わりはまだ』と言える。 

それは、信徒たちの集団への最初の攻撃計画を意味しているのであろうし、初めて発生する危機であるので相当に信仰を試されることを示唆しているのであろう。

だが、これは脅しばかりで、軍事力の姿さえ信徒らは見ずに終わるらしい。それであるから『恐れ慄かないようにせよ、それは必ず起こるが、終わりはまだ来ない』というイエスの言葉に信頼を置くなら然したることにはならないようである。(ルカ21:9)


だが、これは四騎士の現れの以前の露払いに過ぎず、『大いなるバビロン』を滅ばした勢力による信徒らの集団への脅しだけであり終末はまだ終わらない。
むしろ、四騎士に先立つ軍事的脅しは、いよいよ裁きの時の近付いたことを知らせ、更なる信仰を人々から惹き起こさせるものとなるであろう。その前段階にあたる攻撃の脅しは、北からの王セナケリブの前例の示すように、同士討ちではないところの、あっけない結末を迎えることをイザヤが預言し、ダニエルが繰り返し予告している。 ⇒「二度救われるシオンという女」



サタン放逐の権威

さて、こうして終末預言と黙示録の四騎手の双方を見直すと、マタイの『起きたことのないような大患難』が戦争、飢饉、疫病また地震などの災厄そのものである蓋然性を訴えてくるのである。
それに加えて、王権領受の時の重大性が絡むなら、災厄に関するこの見方を黙示録は雄弁に証しているであろう。
 

即ち、それは生ける人類に対する裁きが、キリストの王権領受の時と共に終了し、人類に対しての刑の執行が戦争、飢饉、疫病と続き、最後に屍を『地の野獣』が処置するということに他ならない。
それは神の側からの一方的で強引な処置とはならないだろう。なぜなら、聖霊の言葉に信仰を抱かなかった諸国の民は、神の支配を受け入れず、却って人類連合の軍を起こし、すんでのところで神に信仰を抱いた人々に手を掛けるところにまで進んで罪を明らかにし、その危急がキリストの戴冠を誘発するという構図が聖書中に見えるからである。神のシャファト(裁き)とは何と偉大で道理に適っていることか。(ヨハネ3:36/ハガイ2:22)
 

さて、キリストの王権領受がこの時点であることに異議を唱える聖書の記述としては、黙示録12章の天での戦いとサタン一党の地への放逐が思い浮かぶ。

黙示録の陳述の前後関係はジグソーパズルのピースが散乱しているかのようであるが、この第12章から第14章に関しては、どうやら一連の動きのままに描かれているようである。
即ち、天の戦いに敗れて地に来たサタンの勢力は、女とその裔に対して攻撃を加え、七つ頭の野獣を呼び出して裔である聖徒らには勝利する。やがて世界は、この後に七つの頭を持つ野獣が『42か月』を過ごした後に、あっけなく過ぎ去ってしまったので、それを惜しんで、記念するための『野獣の像』の崇拝に傾き、その数字を持たない者を圧迫するという。 ⇒ 「二度救われるシオンという女」

 

だが、この天でのサタンと天使長ミカエルの戦いの理由については記述がない。では、サタン一党をして天での立場を失わせるほどのものを誘発したものは何だろうか。
確かに『今や、我らの神の救と力と国と、神のキリストの権威(エクソーシア)とが現れた。我らの兄弟らを訴える者、夜昼我らの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。』という言葉には、確かにキリスト戴冠による王権の実現というピースが当てはめ易くは見える。(黙示録12:10)

しかし、聖書中を注意深く探索すると、キリストが王権を拝受してはいない段階でのサタンの失墜が起こり得ることを示唆している箇所がある。
それもやはりルカの記述する福音書の第十章の中である。

イエスはこれから訪れようとする町々に七十人の弟子を先に派遣したが、そのとき彼らには病気を治す権限が与えられた。

しかし、彼らがイエスの許に帰ってくると、『主よ、あなたの名を使いますと、悪霊たちまでがわたしたちに屈服するのです』と意気揚々と語るのであった。
それに対してイエスは『わたしはサタンが雷光のように天から落ちるのを見た。』また『わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威(エクソーシアン)を授けた。』と云われた。

七十人には、後の聖霊に相当する権威が信用貸しされたと見てよいのであろうか。つまり、聖徒の持つべきキリストと共なる偉大な権威の予告としてである。
イエスは聖霊に満たされ感謝の祈りを捧げてから、こう続ける『真にあなたがたに言う。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。』

これは、彼らに奇跡の業を行わせた権威が只ならぬもの、それまで存在しなかったほどの権威であることを示している。
そこでは、『天使より幾らか低く創られた』人間が、悪霊とはいえ霊の存在に『打ち勝って』いるのである。

ここで、黙示録の第十二章に戻ると、サタンの一党に天での立場を失わせるほどの権威には、キリストの王権だけではないニュアンスが生じてくる。
この理解を擁護するのは、天空の光をまとった女が生み出す赤子の存在であろう。この男児が「神の王国」を表すというのはその通りなのであろう。
従って、この女(旧約の「シオン」)が出産したのは創世記の「女の裔」の全体像であると解することができる。

将来に於いては、初代の弟子らの後、久しぶりに地上に聖霊が注ぎ出されて聖徒が誕生し、「一度に国民を生み出す」ので、この二度目の聖霊の注ぎ出しは聖徒が以後加えられることなく、すべて生み出され尽くすことを意味しよう。(イザヤ66:8)
それでも、亡くなった以前の聖徒らの復活も、地上に現れた聖徒らの試練も裁きも為されてはいないので、この王国は未だ『赤子』の状態である。諸国民を裁き復讐までする姿にはまだ見えない。
それでも、神はこれを受け入れ、そのために『神のイスラエル』の全容が地に現れ、不完全ながらも天にその義なる立場を得ると言えよう。 即ち、大祭司に従う祭司団の全体が世に登場してきたのであり、象徴のサラはアブラハムの子らの出産を終えたのである。(ペテロ第一3:6/黙示録12:1-5)
 

彼らについてパウロは『だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神が彼らを義とされるのである。』と決然と述べ、神も『わたしは邪悪な者を義と宣することはしない』と明言されている。(ローマ8:33/出埃23:7)
それであれば、聖なる国民、真実なイスラエルが神の御前に是認されるとき、中傷者であるサタンらの不義が確定し、御前に於ける立場を失って、もはや『義』を得た主の兄弟たちを日夜訴えることができなくなったばかりか、自分たちの悪が白日の下に曝されてしまったといえるだろう。

そして、この件は天使長ミカエルがキリストでないことをも示唆しているようにも読める、なぜなら、キリストの王権は、シオンに危機が臨むまで授けられない様は、既に詩篇の中に見ている通りだからである。(ヘブライ1:5-13)
 

こうして、天での戦いの発端が理解される。王国は未だ赤子であり、黙示録で天使を率いるのも、ダニエル書で北王の権力崩壊後、続いて聖なる者らの復活の裁きがあることを知らせるが、そこで立ち上がるのもやはり天使長ミカエルとされている。(黙示12:7/ダニエル12:1)

そこでキリストの「地に対する」王権の実現の必要はなく、却って、「天界から」の不義者の放逐、キリストが王権を得て地の支配の必要性を高めるところの、サタンらの地への追放というところで留まったのである。何となれば、それは聖徒らと人類の裁きのためであり、遂に終末も、地での聖徒出現に至って「裁き」の選り分けの段階に入るのである。

即ち、アブラハムの裔が象徴のサラからすべて生み出されるとき、地には人を救い、世を裁く『女の裔』の全体が、いよいよ蛇を砕く権威を手にすることを祝しているように思われる。


それから、地に降ったサタンが聖徒を生み出した『女』シオンを地上で攻撃するが、これはうまくゆかず、七つの頭の野獣を遥かな過去から呼び出して、聖徒を攻撃させこれに勝利を得て聖徒らを滅ぼす。


それから『大いなるバビロン』を滅ぼして後*に七つの頭の野獣は『人手によらずに消え去る』が、最後に現れる『背教』、『アンチ・キリスト』による『獣の像』の崇拝という究極の偶像崇拝が人類を強制し、再び女シオンに襲い掛かるとき、その狙い澄ました誰も知り得ない一時に神の号令がメシアに下り、キリストは民を救うべく遂に戴冠する。*(おそらく「後」)


世界連合軍は「王の王、主の主」を相手にハルマゲドンでの会戦に臨むも、元々一致の緩い連合であり、楽勝ムードの中で利権も絡めば容易に分裂し兼ねず、『エホシャファトの谷』で互いを打ち合って自壊し、次いで多発する地震も加え飢餓と疫病とが猛威を振るうが、これが神の処刑であるのなら誰にも止められるものでない。

そして、終わりに『ハデース』という清掃人が『地の獣』を使って地上を掃除する。


この解釈でゆけば、この黙示はニュース映像のように人間界の終末期のサインを映し出しているのではなく、王キリスト自身の介入する戦いと裁きと見るべきであり、黙示録の四騎士の疾駆は、まさしく『大患難』そのものというべきであろう。

これを、福音書中のイエスの終末預言にせよ、この黙示録の四騎士にせよ、それらの災厄が、終末の近付いた「時代の印」であるとの説明に感心しているなら、却って時を見紛うことになってしまう。余りに早い時期を予想すれば、息切れして期待を維持するにも無理が出ようし、聖霊の声に信仰を懐く機会を逸し兼ねない。

しかし、ダニエル書は、聖徒への攻撃が行われると、『すべては直ちに終局に至る』と結んでいる。(ダニエル12:7)
つまり、「終末」の事象は、時を一気に突き進み、弛緩するような事態は起こらないということであろう。ダニエルと黙示録の最も大きい日数を考慮すれば、おそらくは聖徒の現れから終局までは、十年もかからず、数年という驚くほど短い期間で決着がつくのではなかろうか。

やはり、終末を知らせる明確な兆しは『予兆となるべき人々』、即ち「聖霊」という見紛うことのない神の御印を持つ『聖徒』の出現を置いて他にないであろう。彼らの聖霊による発言こそが神の世界宣教であり裁きの根拠を据えるものである。(ヨハネ16:8-)


神が人類の一部にだけ、それも時代認識の有無を以って人を裁くとすれば不公正の観は否めない。
「時の偶像化」や、情勢の不安定さから緊急感を煽る方法というものが、真実に善なる人格神へと人を正しく導くものとなるだろうか。⇒「モンタヌス運動 最初の時の予告者」
裁きの時を予告し緊急感を煽るなら、神を時計のように無機質で無慈悲な独裁者であると主張することにはならないものだろうか。

神を崇敬したいと願う人々は、時間厳守者ではなく、一人一人の内奥を知り、『神の象り』である「人」に向き合って時を定める方をこそ真実に神とするのではないだろうか。その神とは、すべての魂を存在させ、愛するゆえに、また邪悪な者の死をさえ喜ばず、時に縛られるのではなく、唯一自らの権限の内に「時」を管制し、天使も御子をも計り得ない裁きのその決定的「時」を完全に掌握され定められる、全知全能の裁き主であろう。





         新十四日派    © 林 義平




註:アンチ・クリストであっても、聖徒への勝利に続いて信徒への勝利へと『勝利に勝利を重ねる』と云えるように見えるが、彼が不法の人であれば、聖徒への勝利を遂げたのは彼ではなく野獣という権力であって、彼は裏切りによってそれを誘導する者に過ぎないので、勝利を重ねるとは言い難い。黙示録の当時の王権確立の方式からすれば、すべての敵対勢力を屈服させて始めて実質の王となれたのであるから、この白馬の乗り手は征服を完了する途上にあるキリストと云える。

なお、本文中から長らく存在していた、「神と人の戦いの始まった後には神の側への人の転向は不可能であろう」との論旨の文章は、その後の理解の進展のため削除した。
2022.1.29


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 ⇒ マタイ福音書の終末預言と例え

 ⇒ ヨハネ黙示録の意味するところ

 ⇒ 二度救われるシオンという女

 ⇒ 神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢


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