シオンの娘とは誰を指しているのか

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予備知識⇒「聖徒 聖霊の指し示す者」 関連記事⇒「二度救われるシオンという女」




ダヴィデ王によってイスラエルの首都と定められたエルサレムは小山の上にある。 
「シオン」とは、この聖都の古い部分を戴せる小山の名である。

しかし、イスラエルの父祖アブラハムの時代に、そこは『サレム』とだけ呼ばれ、既にアブラハムの四百年前から存在していた証拠が出土しているという、創世記によれば、その城市では異邦人の祭司が王を務めていたことが記録されており、アブラハム当時の祭司なる王はメルキゼデクという人物であったと創世記は告げている。

アブラハムがいまだアブラムという名であった時分に、彼には子が無く、後のレヴィ族の祭司たちも存在さえしていなかったそのときに、このサレムの王にして祭司なる人物は、エラムの王たちに勝利して帰るアブラムを至高の神によって祝し、その後裔イスラエル民族もその父祖を通して益に預かるところとなっていた。即ち、メルキゼデクはアブラムの世代にあって、後代のモーセの律法祭司とは別に、シオン山上の王を兼ねる祭司であった。

そしてダヴィデの時代、彼がエルサレムを占領する以前には、そこはカナン系*エブス人の城市であった。
(エブス人はヒッタイト系であるとの研究もある) 

イスラエルが『約束の地』パレスティナに入植を始めてから数百年後のダヴィデの時代まで、この城市がヘブライ民族に占領されていなかった理由には、この城市の置かれた山『シオン』の地形がある。

そこは北側を除いて100mほどさらに高い峰々で囲まれていて発見され難く、東側のオリーヴ山は特に高く、その西側斜面に入ってはじめてエルサレムを眺望することができる。
またシオン山の周囲三方には深い谷が刻まれている。エルサレムは、それらの谷からの急斜面に守られた上、水源も幾つかが近くにあって、難攻不落の要害であった。

しかしダヴィデは、この水汲み用の井戸穴から市内に侵攻することに成功し、この城市を得ることができたのである。

やがて、ダヴィデ王はイスラエルの聖なる神YHWH*の崇拝の中心たるべきモーセ以来の『会見の天幕』を、このシオン山上のエルサレムに移し、息子ソロモンの時代に会見の天幕という崇拝の場も、新築されたエルサレム神殿へと移されるに及び、シオンに座する聖都はいよいよ不動のものとされた。 *(発音不明となっている神の至聖なる固有名)

こうして、十二部族の入植地の程よい中央地域に位置するエルサレムは、王の御座所であるばかりか、『神の家』の所在地ともなってイスラエル民族の祭政の中心地へと高められた。
十二の部族の緩やかな同盟で成り立っていた一国民イスラエルは、シオンの山の上に王権と祭祀権を荷う中心たる王都を持つ中央集権国家となったのである。

そこで、『シオン』また『シオンの山』はイスラエルにとって格別な意味を持つようになっていった。
殊に、バビロン捕囚を経験した後には、『シオン』とは単なる山や場所の呼び名を超えて、イスラエルのあるべき崇拝の姿を象徴する言葉となり、より深い意義がこの呼び名に加えられたのであった。

捕囚後の『回復の預言』の中では、特に意義ある名として『シオン』が度々言及されてきた。
また、キリスト後にエルサレム居住を妨げられ流浪の民となってきたユダヤ人にとっては、『シオン』という言葉は更に深い感情を伴うものとなっていった。
近代以降の所謂「シオニズム」は、神からの『約束の地』への帰還の悲願と、かつてシオンの小山に神殿が存在していた時代への憧憬が込められているであろう。

一方で、イザヤなどの「回復の預言」を紐解くユダヤ人らにとって、『シオン』についてはともかくも、聖なる書の中でもうひとつ腑に落ちない名称で呼ばれるものがあるという。
それこそが『シオンの子ら』または『シオンの娘』であり、『シオン』がエルサレムを象徴するとしても、これら「子」や「娘」が何を意味するのかがユダヤの謎の一つとされているという。

『シオンの娘』はイザヤ、エレミヤと哀歌においては、神から裁かれ、以前は美しく装ったものが、神の糾弾を受け零落するものとして描かれる。それらの子らがバビロン捕囚を受けるのである。

これらの言葉を、キリスト教側では、『シオンの子ら』や『シオンの娘』について、いとも単純に「エルサレムの住民を指す」として納得してしまっているような説明を目にするが、この程度のことであれば、何もユダヤ人が謎に思うほどのことがあるだろうか。

そこで、イザヤなどの「回復の預言」を検討してみると、やはり、『シオンの娘』は徒ならぬ扱いを受けている。 

それらの記述のように、王たちが『シオンの子らを懐に抱いて』集めてくるだろうか。そのために街道が造られたりするだろうか。
単なるエルサレムの住民が『諸国民を脱穀する脱穀ソリ』と変じるだろうか。(イザヤ41:15)
いったい誰が、『シオンの子ら』である『ユダを(弓として)張り、エフライムを(矢として)つがえ、ギリシアを攻める』だろうか。(ゼカリヤ9:13)
 
神の怒りを買っていたはずのシオンの娘にこうした描写の転換が起こる点でミカ書の第四章が特に際立っている。そこではバビロンに移されるために苦痛にうめく囚われの姿と『強大な国民となり』『その王国が到来する』こととが並んで記されているからである。 

これらは、何か容易ならぬ事態の発生に『シオンの子ら』が関わることを予告しているに違いない。しかも、それらのすべてが歴史上に成就を見たとも思えない。イスラエルといえば忍従の民として知られはしても、歴史上に世界に冠たる覇権を有する支配者となったとは言い難い。

歴史上のバビロンからの帰還も、イザヤの預言の述べるような輝かしいものとはならなかった、実際には神殿の再建も遅々として進まず、エルサレムが以前の繁栄を取り戻すには百年以上を要していた。帰還当初、シオンを目指す人々はわずかに五万弱、しかもエルサレムに住んだのはその一部である。

その後も万を超える帰還者の記録はネヘミヤの時代に至ってさえ見られない。エルサレムは人々が戻ってすら、廃墟のように閑散としており、ゼカリヤの予告した「公共広場に子らの歓声が響き、老人たちが腰を下ろす」ような回復が実現するのは、随分と時間を要したのであった。

帰還の当時、キュロス大王の肝いりはあったものの、「王たちがシオンの子らを懐にして運んだ」というには大げさに過ぎる。また、彼らのために「街道が造られ」たりしたろうか。これらが単にイザヤの預言が大げさであっただけというなら、聖書預言も高が知れたものになってしまう。
他方で、俗なユダヤ男に聞けば、今日での『シオンの娘』(バット ツィヨン)といえば、ただ「小町のことだ」と嬉しそうに言う。それなら預言されるほどの意味があるだろうか。

人間的な観点から、イザヤも只の人であり希望を言い表しただけである、あるいは、イザヤを騙る何者かによって、全ては事後に書かれた歴史に過ぎないと「高等批評」のように見做すのなら、それで納得できる人も居るかもしれない。だが、それは神を知らぬ者の推論であり、預言の超越性は聖書の随所で既に明らかではないか。

では、預言の『シオンの子ら』の意味するところは何であろうか。
これを検討するに当たり、『シオン』そのものも一人の女として預言が語っているところから観て行かねばならない。
何故なら、『シオン』という女は『シオンの子ら』の母であるからである。



◆不妊の女

エルサレムの町がその上に座するシオンの山は、しばしば擬人化されて語られてきた。
イザヤの預言の中で、イスラエルの聖なる神は「シオン」をひとりの女として呼び掛ける。

それは単に、偉大なダヴィデ王の御座所としての言及に留まるものではなく(列王第一8:1)、神殿の置かれる場所としての神YHWH*の『名を置くところ』であり(列王第二21:7)、また、象徴的に『神の住まわれる』崇拝の聖なる場所(詩編132:13-14)、加えてイスラエル民族の心の中心地を象徴して語られてもきた。(イザヤ30:19/エレミヤ51:10)*(発音不明となっている至聖の神名[יהוה]

『わたしは、あなたの神YHWHであって、海をかき立て、波を轟かせる。その名は万軍のYHWH。わたしは自らの言葉をあなたの口におき、我が手の陰にあなたを隠した。こうして、わたしが天を引き延ばし、地の基を据え、シオンに向かい、あなたは我が民であると言うためである。』(イザヤ51:15-16)

この擬人化された女「シオン」という呼び名の例を挙げれば、以下のようにバビロン捕囚によって、その民を失ったシオンの山、人の住まない廃墟となっていたその有り様を述べる。
加えて『シオン』は、子らを失った女であるばかりか、元々が石女であることさえ暗示されている。

そしてイザヤの預言は明確にこう言う。
『不妊の女よ、喜び歌え!子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも数多くなるとYHWHは言われる。』(イザヤ54:1)

何が起こったのか?
これがシオン、即ち、エルサレムへのイスラエルの民の帰還を予告していたのであった。これは『回復』(ナハムー*)の預言と呼ばれ、旧約預言書にあってバビロン捕囚からの解放と帰還が起こることを指し示す予告であった。*(または「慰め」cf;使徒3:19

抽象的に言えば、ネブカドネッツァルの征服によって神殿を失うことになった『シオン』は、神YHWHという夫に捨てられた妻のようであり、ナハムーの預言には、子らにも恵まれずにひっそりと貧しく過ごしてきた寡婦として描かれている。

したがって、『シオン』はバビロン捕囚の間に子を持っていなかったのである。
その子らとは『アブラハムの裔』であり、律法契約は相続権ある『子』を遂に生み出すことがなかった。その相続物とは、アブラハムの子孫に約束された『地のすべての氏族が自ら祝福する』という『世の光』の立場に就くことである。(創世18:18)
この点で、今日のユダヤ教の目的をユダヤ人に尋ねても「『諸国民の光』となることだ」と答えることであろう。(イザヤ49:6)

それであるから、シオンは象徴としてアブラハムの妻サラを暗喩し、長い間に子を得なかったその憂いを、バビロン捕囚からの子らの帰還を以って喜びに代える理由を得るというのである。

その理由を預言はこう指摘する。
『シオンは産みの苦しみをなす前に産み、その苦しみの来ない前に男子を産んだ。
誰がこのような事を聞いたか、誰がこのような事などを見たか。
 一つの国は一日の苦しみで生れるだろうか。一つの国民はひと時に生れるだろうか。しかし、シオンは産みの苦しみをするや否や、すぐにその子らを産んだのだ。』(イザヤ66:7-8)

この出産は奇跡的である。
陣痛が起こるかどうかというあっという間にシオンは国民を生み出している。
これはイスラエルの短時間での回復、また境遇の大きな変化を指しているのであろう。
それは不妊の女としての境遇を忍んでいたアブラハムの正妻サラに例えられるべきものであると明示される。

『あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったときに召し、彼を祝福してその子孫を増し加えた。

 YHWHはシオンを慰め、またそのすべて荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、その砂漠を主の園のようにされる。こうして、その中に喜びと楽しみとがあり、感謝と歌の声とがある。

 わが民よ、わたしに聞け、わが国びとよ、わたしに耳を傾けよ。律法はわたしから出て、わが道は諸国民の光となるのである。』(イザヤ51:2-4)

確かに、イスラエルはモーセの日に契約を結ぶ民として現れていた。そして、その律法契約の目指すところはイスラエルを『祭司の王国、聖なる国民』とすることであり、その益は人類の全体に及ぶはずであった。(出埃19:5-6/創世記22:18)
しかし、今日でもユダヤ人が自ら成るべきものとして目指すという『諸国民の光』(オール ラゴイーム)となることが、これらの預言でもやはり未達成なものとして描かれているのである。

ここに女シオンについても不思議がある。
つまり、イザヤの預言では、恰もその子らの帰還によって初めて子らを得た、また、奇妙な出産をしたかのように描かれている。

これは即ち、律法契約下での『シオン』は、やはり不妊の女であったということであろう。
律法契約は世界を祝福する『祭司の王国、聖なる国民』を遂に生み出さなかった。
バビロン捕囚は契約不履行の酬いであり、預言が描く通りに、女シオンは夫も子らも失った寡婦となった。その原因はその民族の律法に対する不行跡である。

シオンが夫を失った理由をイザヤは紛うことなく次のように指摘している。
『YHWHはこう言われる。お前たちの母親を追い出したときのわたしの離縁状はどこか。お前たちを売り渡した時の債権者は誰か。お前たちの罪によってお前たちは売り渡され、お前たちの背きのために母親は追い出されたのだ。』(イザヤ50:1)

したがって、母親である『シオン』を寡婦としたのは、その『子ら』の罪科であり、それこそは、その民の律法契約への違反であった。エレミヤは彼らを『背信の子ら』と呼んでいる。(エレミヤ3:14)

イザヤでは、『シオンの娘ら』の傲慢が描写され、『シオンの娘らは高ぶり、首をのばしてあるき、目で媚をおくり、その行くときには気どって歩き、その足飾りをりんりんと鳴り響かす。』と不忠節な罪ある様が描かれる。

これらは、律法契約と神への忠節からの逸脱であり、異国の神々への恋慕の不忠誠を暴露する描写であるので、遂に神はこの傲慢さを戒める。
『芳香はかわって悪臭となり、帯はかわって縄となり、よく編んだ髪はかわって禿となり、華美な衣はかわって粗布の衣となり、美しい顔はかわって焼き印された顔*となる。』(イザヤ3:16.24)*<奴隷の刻印>

こうして、その民はバビロンに捕囚となって消え去り、神殿を失ったエルサレムとユダの土地は、住む民の悪行から逃れて安息に入る一方で、女シオンの許には夫である神も、子らである民もない零落の歳月が経過していった。諸国民は『あれがシオンだ』と言っては、晒し者のようにかつて繁栄を享受した跡地を侮蔑する。(エレミヤ30:17)

しかし、シオンの子らの『刑期が終わり』、神からの「回復の時期」が到来すると、それはまったく人の能力を超えた時代の潮流が起こるのであった。(イザヤ40:2/使徒3:19/エレミヤ30:17)
 
即ち、実際の世界史に登場する二世紀も前から「クルシュ」と神から名指しされたメシア(任命された者)、また『東からの人』とも語られた、新興ペルシアのキュロス大王によってバビロン捕囚も終わりを迎え、『イスラエルの残りの者が戻ってくる』という預言が成就する道が拓かれる。(イザヤ10:21)⇒「アリヤーツィオンの残りの者」

そこに女シオンの『離縁状』はもはや無く、子らを売買した『権利証書』も存在しない。シオンにはいきなりに多くの子らが現れ出るというのである。それであるから、この『シオン』はやはり自ら子を産んではいないことになる。当時、シオンにもユダにも人は住まず、バビロンの流刑民において悔い改めの民が生じ、その『残りの者』が戻ってきたのである。それが、まともな生みの苦しみも無い出産に例えられたのであろう。

『その時あなたは心のうちに言う、「だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか」と。』(イザヤ49:21)

これは、諦めの寡婦の許に、恰も不意に戻ってきた悔い改めの子ら、即ち、捕囚後に帰還したイスラエルの民を得た女シオンを指している。
その子らは、やがて神殿も再建し祭祀を復興することになる。その家に夫たる神YHWHが再び『名を置き』戻るためである。そうして母たるシオンは『ヘフツィヴァ』また『ベエラ』と呼ばれるに至るのであるが、その意は「我が喜びはその女に」また「配偶を得ている女」の意であり、『夫たる主人YHWH』が『シオンを再び選び取る』のである。

ここまでの内容であれば、ユダヤ人が然程の謎を感じることもないであろう。
それは、神のメシア=キュロス大王によってバビロンの『二重の扉が開かれ』悔い改めた民の帰還とシオンに起こる思いがけない回復の喜びを知らせていたのである。 

だが旧約預言は、実際のバビロン捕囚からの帰還を超えて、更なる将来にその子らを得る預言の成就を期待させている。ここに謎が生じる原因がある。
これは、どうしても新約聖書の領域に通じなければ、ユダヤ教徒にこれを理解することは不可能であろう。 だが、ユダヤ教はナザレ人イエスを21世紀の今に至るまでメシアと思わず受け容れず、当然に新約聖書もまったく認めない。



◆『シオンの娘』の特異性

確かに『シオンの娘』に関するネヴィイームの語るところには、バビロンからの帰還に収まり切らないところがあって、それがユダヤ人を悩ませてきた。歴史上の実際からすればシオン帰還ではとても実現したと言えないような「回復の預言」の記述が多いのである。
では、それは大げさな言葉を用いて預言を外したというだけのことだろうか?

例を挙げれば、ミカはこう預言する。
『シオンの娘よ、立って脱穀せよ。わたしはあなたの角を鉄となし、あなたのひずめを青銅としよう。あなたは多くの民を打ち砕き、彼らの分捕り物をYHWHに捧げ、彼らの富を全地の主にささげる。』(ミカ4:13)

また前述のように、イザヤは『虫のような』弱体のヤコブ、即ち『買い戻されるイスラエル』について、こう書いている。
『見よ、わたしはあなたを新しい鋭い刃を付けた打穀そりとする。あなたは山を磨り潰して粉々にし、岡も籾殻のようにしてしまう。』(イザヤ41:15)

これは、ひとつ間違えればイスラエル共和国の対外強硬主義を助長させ兼ねない記述というべきだろうか。
『山』や『岡』とは、地表から飛び出したところ、つまり、政治的な人間の権力や権威を表していよう。
これらの世俗の権力を『シオンの娘』が超克し粉砕するのだろうか?

この点で思い起こされるのは、新約聖書中で、当時のエクレシア内の人々について何度か指摘された事柄である。
使徒パウロはその書簡の中で、彼らが『いずれは王として支配することになる』とナザレ人イエスをメシア=キリストとして信奉するクリスティアノイに向けて書いている。(コリント第一4:8/テモテ第二2:12)

黙示録ではより明解に、『屠られた子羊』がその血によって『諸国から買い取った人々』を『彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったから。彼らは地上を統治』すると知らせている。(黙示録5:9-10)

旧約に翻ってミカの預言を見れば、確かに『シオンの娘に帰する王権』があることも記されている。(ミカ4:8)

これはダニエル書にも見出されるものであり、『国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる。彼らの国は永遠の国であって、諸国の者はみな彼らに仕え、かつ従う』(ダニエル7:27)

また、ネブガドネッツァルの見た夢では歴代世界覇権の象徴たる巨大な像の足、即ち終末の部分を『人手によらず切り出された岩が打ち砕き』世界覇権を完膚なきまでに破壊し尽し、その岩そのものが『山となって全地に満ちる』という夢もまた、キリストと『聖なる者ら』の支配の開始を教えるものである。そこでこの人々が、終末に至って諸国を『脱穀する』ほどの王権を発揮するのである。(ダニエル2章/ゼカリヤ14:5) 

このように「全地を支配する者」となる者がイスラエルの聖なる民として現れることは、もとよりモーセの律法の授けられた目的でもあった。
太古にシナイ山麓でイスラエルと契約を結ぶに際し、神はこう言われたのである。
『もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の王国となり、また聖なる民となるであろう』(出埃19:5-6)

では、イスラエル民族が律法遵守によって、世界支配を行うこの『聖なる民』となったかといえば、律法契約の顛末はそれを表していない。
先にみたように『シオンの娘』は傲慢になり契約を守らなかったので、神はこれを最終的にバビロンに渡し、その後は律法契約を証しする奇跡的な『契約の箱』も、神の意志を測る聖籤「ウリム ヴェ  トンミム」もイスラエル民族の許には二度と戻らなかったのである。

帰還したユダヤ・イスラエルはその後の五百年ほどを契約については不安定な状況で過ごし、やがて荒野のバプテストとナザレ人イエスの到来を受けることになる。
即ち、最後の預言者マラキの語っていた『使者』と『契約の使者』の裁きを伴うユダヤ民族への査察であった。こうしてモーセの律法契約に勝る『新しい契約』がキリストの仲介の下で発効されるに至るのである。(エレミヤ31:31-33)

そこで、使徒ペテロは諸国民の信者が含まれる各地のエクレシアに宛て、モーセを引用してこのように書いている。
『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民、神に属する民である。それは、暗闇から驚くべきみ光に招き入れて下さった方の御業を、あなたがたが語り伝えるためである。』(ペテロ第一2:9/出埃19:5-6)
即ち、ナザレのイエスにメシア信仰を見出した人々の上にかつてシナイ山で語られた律法契約の目的が成就しているというのである。 だが、それはユダヤの体制が自動的に『新しい契約』に移行されるものではなく『聖霊と火との』両極端の裁きをもたらした。

これについてはパウロがこう記す。
『イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならない』またイザヤ書を引用して『たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、戻るのは残りの者だけである』とも書く。(ローマ9:6/9:27)
 
したがって、律法契約によってはイスラエルが体制として聖なる民となることは遂になかったが、キリスト教の時代『新しい契約』に預かったエクレシアの中において、ユダヤ人の一部での『聖なる民』の登場が指摘されているのである。
では、血統に属するイスラエル民族と、ペテロが指摘したエクレシアの人々との違いはどこにあるだろうか。

それこそが、キリストの血の犠牲によって天から下賜された『聖霊』の有無であったと観ることはまず間違いがないであろう。(ヨハネ16:7)
 
即ち、恐るべき神YHWHの御璽とも言える奇跡の臨御光を放つ『契約の箱』と、やはり、神の意志を伝えるウリム ヴェ  トンミムがユダヤ律法体制から失われて後、あの五旬節の日を境に神は新たな「契約の証し」の奇跡を地上にもたらしたと言えるのである。(使徒4:30-31)

キリスト後の、あのシャヴオートの朝から注がれ始めた『約束の聖霊』は、イエスの弟子らへの紛うことのない奇跡の威力による神との関わりの証明であり、『契約の箱』や「聖なる籤」を超える働きを成したのである。
即ち、キリスト・イエスの行った奇跡の業をその弟子らに続行させて、さらに信仰を懐いて『聖霊』が注がれるべき人々を異邦諸国からも集め出したのであった。これは即ち、キリストの死を契機に、アブラハムの裔を集め出す神の計画は大きく諸国に向けて動き始めたというべきであろう。

それこそはアブラハムの裔をユダヤ・パレスチナを越えて異邦諸国からも集め出す一大事業であり、血統上の『肉のイスラエル』はメシアを拒絶して死に渡すほどの不信仰を示したことにより、神の選民への召しは異邦諸国を対象とする『神のイスラエル』へと移行したのであった。(ヨハネ14:12/ガラテア4:21-31)

使徒ペテロは、当時の非イスラエルの諸国民で成るキリスト教徒らに語り掛けてこう云う。
『あなたがたも、何事にも恐れることなく善を行えば、サラの娘たちとなるのだ』(ペテロ第一3:6)

では、血統上のイスラエルはどうなったかと言えば、キリスト後の西暦七十年のローマ軍によるエルサレム神殿の徹底的な破壊を経て、その後の神の座の不在は反駁しようもない目に見える証拠であろう。 (ルカ19:41-48)
メシアを退けた彼らの上に聖霊が降ることは遂に無く、むしろバプテストが予告した『火の浸礼』がユダヤ体制に臨んでいる。 これほど明確なことがあろうか?神の選民は血統のイスラエルを去り、古い契約の制度は廃れたと言う以外にない。(ヘブライ8:13)

この事態はバプテストばかりでなく、最後の預言者マラキも警告していたことである。
即ち、『見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍のYHWHが言われる。
だが、その来る日にだれが耐え得よう。その現れる時には、だれが立ち得よう。』(3.1-2)
これをラビの中には「メシアの害」と呼び、それを避けるまじないのようなミドラシュまで語っている。だが、やはりユダヤ教徒にとってのメシアの来臨は、まったく恐るべき結果をもたらしてしまったのである。(ルカ19:41-44)

一方で、聖霊の降ったキリストの弟子らで構成される『聖なる民』が、イスラエルばかりでなく諸国民からも採られることは、使徒パウロの「接木」の例えだけではなく、旧約の記述によっても予告されている。これが『憐れみの器』と『憤りの器』との分かれ目であったというべきなのであろう。

例えればイザヤはメシアについてこう書いている。
『見よ、あなたは知らない国民を招く、あなたを知らない国民があなたのもとに走ってくる。これはあなたの神YHWH、イスラエルの聖なる方のゆえであり、YHWHがあなたに光栄を与えられたからである。』(イザヤ55:5)

そしてイエス自身もこう言われた。
『多くの人が東から西からきて、天の王国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』(マタイ8:11-12)

これらイスラエルと諸国民の混成の『聖なる者ら』を使徒パウロは『ふたつの(民)』と呼んでおり、『肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。』とも語り、この混成の民全体を『神のイスラエル』と呼んでいる。(エフェソス2:15/ローマ9:8/ガラテア6:16)

『(肉の)イスラエル』の母が「地のエルサレム」なら、『神のイスラエル』の母は『上なるエルサレム』であるとも言うのである。(ガラテア4:21-31) 

このようにパウロが指摘するエクレシアに集め出された人々をペテロが『聖なる国民、王なる祭司』と呼んだように、『シオンの子ら』はキリスト以後になって、神に選別された格別の人々となった。それを生み出したのは、『上なるエルサレム』、これは天界のエルサレムではなく、天から降るという『新しいエルサレム』でもないであろう。

おそらくは『シオンの子ら』の母体となっている女『シオン』とは、即ち、ナザレのイエスにメシア信仰を抱いた信徒の集団ではないのだろうか。

それこそは『上なる』次元ではあっても、地上の女、黙示録で日と月と星の光を纏うとされる『妊娠した女』であることは、旧約の預言が暗示を加えていたところに見えている。(黙示録12:1-2)

イザヤもこう言っている。
『女よ覚めよ、光を放て! ・・・ 見よ!暗きは地を覆い、濃い闇は諸国民に臨まん、なれど、そなたの上にはYHWHが輝き出で給いて、その栄光輝きわたらん。』 (イザヤ60:1-2)

このメシア信仰を抱く『女』から聖霊を得て生み出された『シオンの子ら』とは、格別の存在である。
黙示録第12章の天界の光を着けた女の生む男児は、誕生するなり直ちに神の許へと預けられる。
 
他方、使徒ヨハネの福音では、『水と霊から生まれなければ神の王国には入らない』ことが知らされている。 
そして使徒パウロはローマ8章の全体を用いて指摘するように、生み出された彼らは、奇跡を行わせる『聖霊』によって『神の子』として受け入れられたのである。そのような『神の子』とされた人々は、創造の初め以来キリスト・イエスを除いては堕罪前のアダムとエヴァ以外に存在したことがない。

なぜなら、女が産んだ『子ら』には『新しい契約』を通し、キリストの血の犠牲によって、アダム由来の『罪』までもが仮赦免された状態に入っていたからである。(ローマ8:10)
この点をパウロは『今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにある命の霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからである。』と書いている。(ローマ8:1)(ローマ8:14/8:16)

そうでなければ、彼らが『アッバ!』と父なる神に憚ることなく呼びかけることは叶わない。(ローマ8:15)
神との深い親密さは、彼らが天に召される者である証拠であり、彼らこそが神とキリストに結びついているのであり、その葡萄のつるを成すものが『聖霊』の絆といえよう。 だが、それは『新しい契約』という条件付きのものであり、彼らにはキリストの掟を守ることが生涯にわたって要求されている。(エレミヤ31:33/ヨハネ14章/エゼキエル36:26-27)

この人々が、聖い行状を示して『新しい契約』を全うし、キリストがそうであったように『神の子』としての立場を得、『天の王国』を相続し、地上への人類支配を行うことになるのである。(コリント第一5:11-13)
ここに於いて『アブラハムの裔』また『諸国民の光』、そして『シオンの娘』という言葉の意味に見えるものがある。 

それゆえ、黙示録はこう言う。
『第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。』(黙示録20:6)
祭司となって人類を祝福し、千年支配を行う彼らは、諸世紀の大多数の死者に先立って今の世の終末に復活し、天界のキリストと共になるという。 ヘブライ書が彼らをキリストの『兄弟たち』と呼ぶのはそのためであり、やはりアブラハムの遺産への『共同相続者』なのである。(ヘブライ2:17/ローマ8:17)

これほどの高大な立場を得たからには、律法契約以上の『契約の証し』があって然るべきだが、まさしく、それが神の奇跡の威力たる『聖霊の賜物』であることをパウロはこう書いている。
『この聖霊は、わたしたちが王国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光を讃えることになる』(エフェソス1:14)

そして、確かにキリスト教初期には、奇跡を行い殉教に散った弟子たちの姿が「聖人」として伝承されている。彼らは、キリストの業を継承し、その道を同じくしたのであった。


◆子らの居ない『シオン』

さて、今日『聖なる者』がどこかに存在するだろうか?
キリスト教界のほとんどは、自分たちに聖霊が注がれていると考える。
だが、そこにキリストの奇跡の業を受け継いでいるような人々を見出すことはない。即ちアブラハムの裔を信仰を奮い起こさせて集め出すために、奇跡を確かな印とするキリストから受け継ぐ聖霊の業である。

ある宗派は『愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。』というコリント第一13章8節の言葉を援用して、奇跡的な聖霊の賜物は過去のものとなったと主張するかも知れない。

だが、この聖霊は『聖なる者』に注がれていなければならず、例え奇跡を起こさないとしても、『真理の霊』としてその人々にキリスト教の奥義をあまねく教えているはずであり、それは天からのものであるゆえに、真理であって、訂正の必要のない知識を携えているはずである。(ヨハネ16:13/イザヤ44:26)

つまり、そこではキリスト教の浄化が起こっており、様々な異教にまつわる誤謬から解かれ、しかもイザヤも言ったように『神の栄光』を顕わしているはずなのである。(イザヤ43:21)

福音書によれば、彼らは為政者らの前に引き出されながらも、誰も論駁できない聖霊の言葉を語ると予告されていたが、人類史はそのような誰かの姿を記録していたろうか。 やはり、それは将来の「終末」に起こることであろう。(ルカ21:12-15)

まして奇跡によって『聖霊の顕現』(ファネローシス)を持つような神から召された人、我々は、そのような人々を見てはいない。(コリント第一12:7-9)
そこで、キリスト教界の教師らが「クリスチャン」が『シオンの娘』なのです!と言い張ったにせよ、滑稽なばかりで、預言された事の重大さがそんな暢気を許しはしない。(イザヤ43:9)

キリスト教界は、相変わらず古代から中世にかけて取り込んだ異教という悪霊の汚れの中に耽溺して居り、幾らか原始キリスト教を目指した宗派が起こったからといって、あの五旬節のような明確て画期的な事態の発生と広がりを世界のどこにも見てはいないのである。もちろん、宗教改革も効果はなく、幾つかの教理を変更したばかりで、初代キリスト教の回復とはとても言い難い。 

このような状況は、聖書の歴史においてバビロン捕囚に比すべきものではないだろうか。
悪霊の教えのはびこるバビロンに囚われた契約の民は、崇拝する神殿を失い、もはや律法に定められた規定を行うことは不可能であった。いや、捕囚民は「契約の民」とも言うことも憚られる。律法条項の三分の一は『幕屋』乃至『神殿』を必須としていたからである。

捕囚の間、シオンの山には神殿は無く、城壁は崩され、人影も無かった。
これこそが、今日のキリスト教世界の実情ではないのだろうか。
イエスは『誰も働くことのできない夜が来る』と予告し、ペテロはイエスの再臨が『明けの明星として昇るまで預言の言葉を思いに留めよ』と言っている。(ヨハネ9:4/ペテロ第二1:19)

今日、キリストを親石として神殿となるべき人は絶えて無く、「クリスチャン」は「天国」や「地獄」などのカルデアの教理、異教バビロンの死後の世界を教えられている。
神とキリストの関係も贖いも、聖霊の意義深さも、単なる蒙昧主義でしかない「三位一体の玄義」に阻害され、十字架という刑具に向かって祈りを捧げさせられるというキリストの反対者サタンの喜ぶような崇拝を行ってはいないだろうか。



◆子らの帰還

だが、それは正されねばならない。
「回復の預言」の中でイザヤは言う。『YHWHは必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。YHWHは、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。』(イザヤ4:4-5)

これは何を意味するだろうか?単にかつて起こったバビロン捕囚からの解放を言うのか?
いや、ここに述べるのは『聖なる者』の浄めであり、『聖霊』による回復であろう。その『聖霊』が注がれる人々が現れるとき、それは将来に於けるあのシャブオートの日の聖霊降下の再現であり、対型的バビロン捕囚からの久しく待たれた大いなる解放、『慰めの時』となろう。(使徒3:19)

そこで彼らは、バビロンの汚れを捨て去り、シオンに向かって歩を進めねばならない。その再び聖霊が降る日に、メシアは『新しい契約』を未だ残されている契約の子らと結ばれるために再臨を果たしているであろう。その期間とは、イエスの公生涯の三年半の残りの三年半を残すダニエルの『第七十週』であり、黙示録が告げる『42ヶ月』また『1260日』のことであろう。(ダニエル9:27/黙示11:2-3.7)

黙示録によれば、終末に聖霊を得たその人々は『この世』を糾弾し『荒布をまとって預言する』ので、『王や総督の前に引き出され』『聖霊によって語る』とされている。ヨハネの福音によれば『そのもの(約束の霊)が到来するとき、それはこの世を罪と義と裁きについて問い詰める』という。(ヨハネ16:8)
また、イザヤはメシアについて『それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。』と予告するのである。(イザヤ52:15)

ここに、聖霊は自分たちが既に持っていると唱えるキリスト教界に出番があるものだろうか? 信者だけの救いの「ご利益信仰」に凝り固まる「クリスチャン」に悠久の時に亘る偉大な神の経綸に預かる余地があるものだろうか?

キリスト教界は三位一体説を唱えることで、イスラエルの聖なる方YHWHを神の座から外したが、シオンに神YHWHも再び戻られるとき、それはシオン全体にとって、それ以上ない感動と歓喜をもたらすことであろう。 

イザヤはこう言う。
『聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、YHWHがシオンに帰られるのを、目のあたりに見るからだ。エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。YHWHがその民を慰め、エルサレムを贖われたからだ。YHWHはすべての国々の目の前に、聖なる御腕(の働き)を現した。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。

去れよ。去れよ。そこを出よ。(バビロンの)汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。YHWHの器を荷う者たち。あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。YHWHがあなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。』(イザヤ52:8-12)

これは人間が計画するところのものではないし、その時をさえ知るところとはならない。
『主なる神はこう言われる。見よ、わたしが国々に向かって手を上げ、諸国の民に向かって旗を揚げると、彼らはあなたの息子たちをふところに抱き、あなたの娘たちを肩に背負って連れて来る。』(イザヤ49:22)

即ち、その時に至れば、神は自ら合図をすると言われるのである。
『わたしが、最初にシオンに、「見よ。これを見よ」と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう。』(イザヤ41:27)

これらの句に明らかなように、神自身が『シオンの子ら』の回復を主導されるのであり、そこでは神でなければできない事柄が起きなければならないのである。シオンに「これを見よ」というのは聖霊の奇跡に関わる事柄であろう。それが始まるときに、シオンには大きな喜びがあるに違いない。待ち望んだ神からの印である聖霊の働きを目撃することになるからである。そこではキリスト教は聖霊によって浄められ、真正なものに磨き上げられる。

そして、彼らのシオンへの清い街道がバビロンから整備され確立されるのである。
『そこに街道が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ、汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ、愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず、獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み、主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。』(イザヤ35:8-10)


このシオンへと向かう『街道』は、既に一度拓かれたことがある。
それを教えるのがエレミヤの預言の言葉である。
『 あなたは自分のために標柱を立て、道しるべを置き、あなたの歩んだ街道の大路に心を向けよ。 帰れ!あなたの町々に帰れ。イスラエルの処女らよ。』(エレミヤ31:21)

このエレミヤ31章は、これに続けて『新しい契約』について宣告するのである。
したがって、あのシャブオートの日に聖霊降下が起こったときに、一度イスラエルの処女らは、その街道を通って『帰った』ということができる。(イザヤ10:22/35:10/ローマ9:27)

まさしく、バプテストが自らを指して『道筋を直くせよ』と注意を促した「道筋」とは、この『街道』であり、彼はイザヤの言葉(40:3)に拠って、その『悔い改めのバプテスマ』をユダヤ人に呼びかけていたのであり、(ヨハネ1:23)このヨハネの活動が即ち、あの聖霊の降るシャブオートの日へとユダヤの『民を整え』たのであった。(ルカ1:17)

他方、律法契約は遂に不妊の女であった。それは『真実のアブラハムの子ら』、即ち『王なる祭司、聖なる国民』を生み出さなかったからである。それこそが律法契約の目的であったことはシナイ山麓でイスラエルの聴いた言葉から明らかである。(出埃19:5-6)

しかし、メシアの現れはエレミヤの予告した『新しい契約』を拓き、『イスラエルの残りの者ら』が聖霊降下と共に生み出され、律法の業によらず、メシア信仰によってサラの子らの誕生の始まりを見るに至った。それゆえ使徒ペテロも、当時の聖霊を受けた『聖徒』らに向かって『あなたがたはサラの子となった』と言っている。(ペテロ第一3:6/ダニエル9:27)

この聖霊降下の奇跡が、初代のキリストの弟子らだけでなく、更なる成就を終末に期待すべき理由は、上記のように、未だ成就を満たしてはいない数々の言葉が残されているからである。

まさしく『聖霊』を注がれた『シオンの子ら』が戻る擬人化された山『シオン』とは、終末において、その子らの帰還を待ちわびる人々を指していよう。それは子のない寡婦にいきなりに多くの子らが与えられ、そこに夫たる神も戻られるほどの栄光ある酬いを得ることになるのである。これがキリスト教の回復であり、シオンの山に聖徒が現れることを意味するに違いない。

そして、その子らを見るときの大きな喜びがこう描写されている。
『 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、「ここにわたしがいる」と告げる者がわたしであることを知るようになる。

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。
聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、YHWHがシオンに帰られるのを、目のあたりに見るからだ。』

シオンの神が王となることを知らせる者の足は、重い足取りではなく、『山々の上』を越えてゆくほどに、軽やかな印象を受ける。それは遅々として進まない物事ではなく、短期間に実現するものなのであろう。聖書中の黙示の内容からしても、「この世の終末」は世代に亘るほどに長いものではなく、数年で終わるものであるらしい。

そして『YHWHが帰られる』とは即ち、今日まで神はキリストと共に不在だからであり、世界のどこにも神の正統な崇拝が存在していないからである。⇒「ミナの例え」 
そのときこそ『YHWHはあなたがたの神となった』という知らせに意味がある。その日には、もはや神の名を「YHWH」と記す必要もなくなるのである。(イザヤ40:9/エレミヤ30:12)


だが、再び『聖霊』が注がれるとき、それを喜べる人々がいるだろうか。(ルカ18:8)
その人々こそが『シオン』であろう。その人々は、真理を自分たちが所有しているなどと慢心することなく、『求め続け、敲き続ける』人々であり、それゆえにも、その中の人々に『聖霊を与えられる』ことになろう。(ルカ11:9-13)

その人々は、神とキリストと聖霊への信仰を抱いており、『聖霊』が降る意義も弁えていなければ、それを相応しく喜ぶことはできないに違いない。即ち『シオンのゆえに嘆き悲しむ者ら』でなくてはならず、『彼らはとこしえの廃虚を建て直し、いにしえの荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。』とイザヤは語る。(イザヤ61:3-5)

その女『シオン』には『子ら』や『娘ら』が戻ってくるばかりか、夫である神が、その家をその『シオン』の上に建てるであろう。そこには神YHWHの『御名が置かれる』ので、その人々は回復の時期に神の名を正しく知るに至るであろう。それは地上のエルサレムをもはや意味しない。キリストを隅石として『シオンの子ら』が積み上げられて建立される天界の神殿こそが、神の住まいであり、『彼らの中にわたしは住まう』と神自ら言われるのである。(コリント第二6:16)

詩篇も次のように言う。
神は『捕われ人の嘆きを聞き、死に定められた者を解き放たれる。人々がシオンでYHWHの御名を知らせ[לספר(レサフェル)*]、エルサレムでその誉れを言い表すために。』(詩篇120:20-21)*(「教える」「宣布する」)

その至聖の神名を唱えるものは失望に至ることはない。
神の御名が救いに関わることは、新旧の聖書の繰り返すところである。(詩篇79篇/使徒2:21)

終末について預言された、キリストの『兄弟に親切を示す』とはこのようなことであったのだ。(マタイ25:31-46)
即ち、聖霊を注がれる者らには、大祭司キリストの血の犠牲の価値が適用されて贖われるので、彼らはキリストの兄弟となる。その彼らの語る聖霊の言葉や、知らされる神の名に信仰を働かせる人々は、彼らに親切を施すような支持を与えるであろう。
その親切を『シオンの娘』に示すか否かが人々をキリストの左右に分けるものとなる。
それは即ち、『聖なる者』を迎え、その聖霊の宣教のゆえの苦難の日に『粗布をまとって預言する』彼らを支持することである。(黙示録11:3)

この事が起こる終末の「より大いなる帰還」の時には、特に『聖なる者たち』を生み出す母である『シオン』に栄光がもたらされる。
その『子ら』となる聖徒(ハギオス)は皆、世界の各地から象徴的に『シオン』という信徒(ピストス)の集団に集められて来るからである。この人々は流れのようにシオンの山を目指して進むと預言されている。

イザヤは終末のシオンに人々の集まる様を予告してこう言っている。
『終りの日に次のことが起る。YHWHの家の山は、諸々の山のかしらとして堅く立ち、諸々の峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れ、多くの民は来て言う、「さあ、われわれはYHWHの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、YHWHの言葉はエルサレムから出るからである。』(イザヤ2:2-3)


そこは神の義によって唯一の正統な宗教の場となり、『シオンに救い、イスラエルには美が』与えられる 。(イザヤ46:13)つまり、神の『イスラエル』の聖なる者たちは試みに遭い練り浄められるが、その一方で信じる者たちの『シオン』は、『神の救いを見る』ことになるのである。

これによってイザヤ62章5節の観方も変わるであろう。(新共同訳のような手加減も意味を失う) 
『 若い者が処女をめとるように、あなたの子らはあなたを娶り』という、この近親相姦のような句も間違いではないことになる。
つまり、『神のイスラエル』である『シオンの子ら』は天からその母を支配するものとなるのであって、それは恰も婚姻を結んだかのように天から支配する『シオンの子ら』との強い結びつきをもつことを言うのであろう。(ヨハネ17:20:-22)

その時には『シオン』は地に於いてキリストとその聖なる者らとの支配の中核を成すことであろう。
そして神はこれを『新たな名で呼ばれる』ことになるという。(イザヤ62:2-3) 

そこではシオンそのものも、その子らとの関係により、地上で副次的な誉れに預かるようである。
『シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現すYHWHの植えたものと呼ばれる』(イザヤ61:3)

そして女『シオン』は、『光を放て』と呼びかけられる。(イザヤ60:1) この女は神の栄光をまとうことになり、もはや太陽の光も月の光も必要とはしない。『YHWHが永久に続く光となる』からである。(イザヤ60:20)

その輝きによって寡婦のシオンは『嘆きの日々を終える』ことになり、『子らを産む』ことで、このシオンは『暗きが地を覆う』とも『YHWHが照り輝き』始める。やはり、この女のことを黙示録は『太陽をまとい、月がその足の下にあり、十二の星々でできた冠がある』と述べているのであろう。それゆえ、その女は子を生み出し、その嬰児は神のものとなっている。(イザヤ60:1-3/60:19/黙示録12:1-5)

女『シオン』は黙示録12章に描かれるように、明らかに地上のものであるので地に落ちたサタンの攻撃対象となり、また『地の救助』も受けるのである。

そこで、この母の栄光は地の諸国民にも明らかになる。
『あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来る。あなたを侮った者らも尽く、あなたの足元にひれ伏し、あなたをYHWHの城市、イスラエルの聖なる方のシオンと呼ぶ。』 (イザヤ60:14)

したがって、『シオン』が単なる信者の集団であるというよりは、地上で千年支配を受ける人々の中でも非常に積極的な部分となるようであり、終わりの日に信仰を抱いた諸国民が流れのように向かう先が『シオン』であり、その多数の人々は『律法はシオンから・・出る』ことを認識しているに違いなく、その指導を受けようとする姿が描かれてもいるのである。(イザヤ2:3-) 

即ち、『シオン』の役割は、『娘』である『聖なる者ら』を生み出すだけではなく、聖徒らが天に去った後に、地を受け継ぐ無数の信仰の人々のよりどころとなるところまでもが、イザヤに予告されているかのようである。 (イザヤ2:2-3)
 

 
◆将来のシオンが子らを生む日に

以上のような理解を受け入れられる人は、個人のご利益を望むキリスト教界からは多くは出ないだろうが、それでも諸国民の富がシオンに集まってくるという。つまりは、キリスト教徒ではない人々の方に受け入れやすいものとなるのであろう。そこではユダヤ教徒の大半がメシアを受け入れなかった故事が彷彿とされる。(イザヤ60:5) 

しかし、そこで神の家はかつてないほどに美しくされ、王たちは資産を携えてくるというのである。(イザヤ60:11)
それは『シオンの子ら』が解放されることをきっかけとして、『大いなるバビロン』の水が枯れ、王たちがバビロンを征服する結末を表しているようにも読める。(黙示録16:12)

シオンに栄光が付与され、その女は『太陽と月の必要もない』ほどの輝きを得る。その女シオンが子を「生む」のである。それゆえ十四万四千人の『神のイスラエル』が子羊と共に『シオンの山の上に立つ』のであろう。(イザヤ60:14.19/黙示録12:1-2/14:1)

それはキリスト教が究極の宗教として高められる日であり、『神の義』の内に真理を語り、 どのような宗教も思想もそれを論駁することはできないであろう。新約聖書福音は揃ってシオンの子らが諸権力と対峙し、有罪の宣告を下すさまを描き出している。(イザヤ54:17/ルカ21:15)

そして『子ら』を生み出した『シオン』そのものは天に達しないものの、千年の新しい地の中核を成す部分として高められ、定めない時に至る誉れに預かことになる。(イザヤ60:15) 
 
かつて、ダヴィデが支配権を置いたシオン山は象徴的に再びダヴィデ王朝、即ち『神の王国』の権威の座所となるのであろう。そこは再び聖なる都エルサレムを戴くからである。だが、それは地上の一か所を占めるものではなく、天界のエルサレムの受け台としてのシオン山であるに違いない。(イザヤ60:13)

そこには聖霊によって磨き上げられた純良なキリスト教が存在し、それは神の栄光を繁栄する間違いのないものとなり、今日のどこにも存在していないものである。そこには世界にも明らかな神の栄光が見られることであろう。それがキリストの花嫁、聖なる乙女らで構成される『シオンの娘』なのである。

それこそは、歴史上にキリスト教の純化をもたらす回復を願った人々の理想の姿であり、それはけっして人からはもたらされないのである。

それゆえ、イザヤが呼びかける『シオンよ覚めよ!』の句は、今日に非常に重い意義をもっている。(イザヤ52:1-2)
聖霊によってその娘らを受け入れる前に、黎明の母シオンは薄明りの中、いち早く目覚めているからである。(ルカ11:10-13)

だが、そのように目覚めた人々が現れるのはいつのことだろうか?

それは即ち、聖霊についてキリスト教界が誤解し、それをご利益信仰の聖霊の内在などという惰弱な思い込みに置き換えている中から脱し、世の光として輝く子らの母と成る『シオン』に相当する人々、聖霊の再降下がどれほどの重い価値を持つのかを認識する人々の現れであろう。

この世も終末に入ると、「大いなるキュロス」はバビロン河畔から『シオンの娘』を解き放つことになろう。
その幾らかの人々は自由を得て後、直ちにシオンに向けて旅立ち、シオン山上に神殿の礎石を据え、神殿は無いまでも祭壇を跡地に興し、再び常供の犠牲を捧げ始めるに違いない。それはかつて、キュロスⅡ世の勅令によって実際に起こったことでもあったのだ。⇒ アリアー・ツィオンの残りの者


だが、それはいつか?(黙示録9:14-15)
キリスト・イエスは『つねに目覚めておれ、その時がいつかを知らないのであるから』と言われる。(マタイ25:13)


遠い過去からイザヤは不定の将来に向けてこう呼び掛けている
『シオンよ!醒めよ、醒めよ、そなたの力を衣としてまとえ』

また、こう言う
『囚われのエルサレムよ!その身から塵を掃い捨てよ
 立ち上がれ!囚われのシオンの娘よ、そなたの首の縄を振り捨てよ!』

 

 
           新十四日派   © 林 義平
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「天に建てられる神の王国」

「アブラハムの裔を集めるキリストの業」

「二度救われるシオンという女」

「神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢」

新旧の聖書の記述を精査総合し
この世の終りに進行する事柄の数々をおおよそに時間の流れに沿って説く
(研究対象が宗教であるため主観による考察)

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