<難易度 ☆×5  高 >



この「ミュステーリオン」とは、聖書に記されてはいるものの、神によって隠されたところの奥深いもの、即ち『奥義』、または『秘儀』のことである。

それはアブラハムの子孫であるヘブライ人によって文字とされて永く保存され、聖書の中に現在もそこにある。
新約聖書に至ってはギリシア語で「ミュステーリオン」と呼ばれ、かつて使徒時代にはエクレシアを介して開示され理解されていたのだが、今ではほとんど理解はされことないながら、なおひっそりと聖書中に佇んでいる。

しかし、これこそが聖書全体の教えの根幹、また頂点を成すものであり、その全容が啓示されるまでに、人が棲むようになった太古からキリストの使徒らの時を迎えるまで、どんな反対する者らをも排し、実現に向けて押し進んできた。
それは悠久の時に亘る全能の神YHWHの歩みであり、その不変の意志は現在も絶えてはいない。ただ、人に忘れ去られているだけである。

この『奥義』は今日においては再び秘められてしまっているのである。確かにその奥義を伝える文言は聖書の中に記されたままに読めるのだが、人々はそれを悟らずに幾多の世紀を重ねてきたのである。悟らなかった理由と言えば、心が整えられていなかったという一事に尽きる。
新約聖書を専らに読む所謂「クリスチャン」には、主要な教えは、単にキリストの犠牲によって自分たちが救いを得ることだと、至極簡略されているが、それで自分たちはその『奥義』を知っていると思うらしい。

また、ユダヤ教徒はメシアを退け、旧約から先には進まないために、この『奥義』の全容を知ることを拒み続けて今日に至っているのである。

しかし、「クリスチャン」と雖も、キリスト教に何を願い、何を祈るか、その事柄を通して、彼らは実にその『奥義』を知らないと言っているに等しい。それは人の救いに勝り、キリストさえ導いたものなのである。

そして、その『奥義』が公示されていながら秘められてきた最大の原因は、『イスラエル』と呼ばれるこの『奥義』の無私なる担い手が存在しなくなって千八百年にも及ぶことである。
勿論、イスラエル民族は今日も存在するのだが、彼らは明らかにこの『奥義』の担い手とは言えない。既に契約に無いからであり、神殿も無ければ律法の祭祀は行えていないという以外にない。

しかし、パウロは奥義についてこう云っている。
『わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、予め定めておかれたものである。
 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、一人もいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を磔の木につけはしなかったであろう。』(コリント第一2:7-8)

対して、そうと意識することもなく『奥義』に逆らう者らは常に存在し続けてきたのであり、まさにユダヤ人自らがキリストとその弟子らに反対してそうなった。

またそれは、「知っている」と称える者らが実は知ったと言えるようなものではなく、例え奥義を知ったとしても、その者に利益をもたらさないかも知れないのである。
だが、神の奥義をおぼろげながらでも知るのであれば、協働するにせよ反発するにせよ、その人の行動も思考も相当な変化を遂げているに違いない。



◆隠されていることを語るナザレからの人


さて、紀元29年以降のパレスチナでは、ナザレ村から来られた奇跡を行う人イエスを求めて、ガリラヤだけでなくシリアやヨルダンの川向うからも難病を患う者を伴い、多くの人々がメシアと思われるその人を尋ねてやってきた。

イエスはその大勢の病人を癒して回り、ひとりも癒されない者は無かったとルカがその福音書に記している。

実に、その公生涯の間のさまざまな場面で、ナザレのイエスは癒しを行っている。そのため、イエスの弟子たちを含めた一行には度々群衆が付き従っていた。

その群衆の中には、奇跡を行う人イエスについて『たとえメシアが他に現れたとしても、これほどの奇跡は行わないのではないか』と言う者さえあった。
それであるから、このメシアであろう方に付いて回り、その講話を聴こうとする人々もまた少なくはなかった。

ある時にはガリラヤ湖の近くの丘陵で「山上の垂訓」が語られ、また広やかな野原では「平地の垂訓」が語られる。
また、漁師ペテロの船に乗って湖面の音の反射を用いて大勢の耳に話を届かせ、その許に三日も留まった数千の群衆には奇跡の食事をも供している。

しかし、イエスは多くの話を例えを用いて語り、最後にはきまったように『耳ある者は聴くがよい』と付け加えるのであった。
それでも、彼の身近に常に従う僅かな弟子らだけには、その例えの意味するところを知らせていた。

そして、こうも言うのであった。
『あなたがたには、神の国の奥義(ミュステーリオン)を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないように、譬で話すのである。』(ルカ8:10)

これは何という厳しさか。
庶民の難病を癒すというその慈愛ある姿と、言葉の理解に関しての超然としたその態度との乖離はいったい何を原因としたのだろうか。

イエスはイザヤの預言の第44章を引用し、その厳しさの原因を弟子らにはこう説明している。
 
『イザヤの語った預言が、彼らの上に成就したのである。「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためである」。』(マタイ13:14-15)

これはイザヤの当時のユダ王国の宗教事情をキリストの当時について再指摘するかのような預言の引用であり、このイザヤの言葉は、かつての律法制度に背を向け、「契約の民」であったはずのユダヤがその教条も精神も蔑ろにしていた為に、遂に「バビロン捕囚」という報いを刈り取ることが定まった時期の預言であった。
 
そして、メシアであるイエスが到来する時代、その癒し奇跡に驚きを表して信仰を持ってさえもなお、その群衆の耳は塞がれていたということになる。彼らは内面ではいまだ癒されてはいなかったというべきか。
 
そのイエスの当時といえば、やはりローマによる破滅を前にしていたのであった。
即ち、バビロニア帝国による滅びと捕囚の災厄を越えるほどのユダヤの破滅と民の二千年に及ぶ流浪とをもたらすことになるローマ軍による攻撃を『その世代』の内に控えていたのであった。奇跡によって証しされるメシアを拒絶するに際し、アブラハムの血統上の民族にはもはや「回復の預言」は語られず、不信仰の結末として神の恩寵は彼らから去りゆき、『その実を生み出す国民』とされた異邦人を含む『神のイスラエル』へと、やがて移されていく。

それはナザレ人イエスの語ったように『改めて癒されることがないため』という神の裁きによるものであったことになる。

しかし、イエスに従い付いて回った群衆が『見ても見ず、聞いても聞かず』とされるほど不敬虔であったのだろうか?
彼らは、癒しの奇跡にメシアを見出し、信仰を働かせてはいなかったのだろうか?

おそらくは、その群衆の中にも、いずれは聖霊を受けることになったであろう『数万を数えた』というユダヤのイエス派の『聖徒』となった人々も幾らかはいたことであろう。

だが、少なくともこの時点ではイエスから例え話として以上には聴き取れなかった。
その理由は、その時にその人々には理解することが神に「許されていなかった」からであるとイエスは言われる。

マタイはその隠された内容が徒ならぬものであったことに注意を促してこう言う。

『イエスはこれらのことをすべて譬えで群衆に語られた。譬えによらないでは何事も彼らに語られなかった。
これは預言者によって言われた次の言葉が成就するためである。
わたしは口を開いて譬えを語り、世の基礎が置かれて以来、隠されていることを語り出そう」。』(マタイ 13:34-35 )

これは詩篇78篇2節の引用であるが、「世の基礎が置かれて以来」という文言は、元来のヘブライ語では「いにしえ以来」という言葉であったけれども、ユダヤ人はこれをセプチュアギンタに置き換えるに当たって[世の初めから]との部分を含めるようになったようだ。つまり、ユダヤ人の持つ概念をギリシア語に置き換える場合、単なる「いにしえ」を超える意味があったのであろう。

だが、この「世の基礎が置かれて以来、隠されていること」あるいは「世の初めから隠されていること」とは何か?



◆秘められてきた『奥義』


パウロはこの件について、その書簡の中でこのように言う。

『我らが語るは、隠された奥義(ミュステーリオン)なる神の知恵である。そは神が、我らの受くる栄光のために、世の初め(プロ  トーン  アイオノーン)より、予め定めおかれたるものである。』(コリント第一2:7)

それではイエスが使徒らにだけは例えの意味を明かしたように、パウロの頃には隠されていたこれらの『神の知恵』がエクレシアにあって授けられていたのだろうか。

また、『世の初めから』または『世の基礎が据えられて以来』とあるがそれは何時か?
これについてはヘブライ人の手紙が神の創造の『第七日』についてこう述べる。
『神の御業は、世の基礎が置かれた(カタポレース  コスモー)ときには終わっていた』(ヘブライ4:3)

そうであるなら、『世の初めから』または『世の基礎が置かれた』時とは、創造の業が終わった頃ということになる。即ち、アダムとエヴァがエデンの園に置かれた時期のことであろう。

そして『世の基礎』の『世』(コスモス)であるが、これは単に創造界を指すのか、それとも人間社会を指すのか。
これについては、創造の全般を指すというよりは、苦難満ちる現状の人間社会を指すと見てよいであろう。なぜなら、『隠される』必要が『世』に対して生じているからである。それゆえ『御心が地に為されますように』と祈る必要があるのも、『世』が神の意志からは脱落しており、むしろ敵するところさえあるのであれば、神は何もかもをこの世に曝すだろうか。
 
神は誰に対して「隠した」のであろう。先に見たように、それは探求心の薄い民に対してであった。
そこに見られるのは、まさしく神に無頓着な『この世の』特徴として聖書が再三挙げる『不敬虔』(アセベイア)でもある。(マタイ17:17/マルコ9:19/ヨハネ9:23/エフェソス2:2)

やはりパウロはこう言っていたのである。
『この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は一人もいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を磔の木につけはしなかったであろう。』 (コリント第一2:8)

『この世』とは、多くの「クリスチャン」方が教えられているような、即ち 神の導きや摂理によって治められているはずの場としてではなく、創造した神からすっかり離れてしまっており、その意志の下にはないばかりか、それに抗って今日まで存在し続けてきた人間社会である。

そこで『世の基礎が置かれた』時とは、エデンで人の生き様が寿命ある労苦の生涯と決まり、『罪』に基く『この世の有様』が始まった時のことを言うのであろう。
爾来、『この世』は創造の神の意志から離れ、エデンを後にした人類は、目的地もない流浪の旅に出たと捉えることができる。

『この世』と『神』が対立関係にあることは新約筆者らによって何度も指摘されている。
ひとつ挙げるなら、イエスの弟ヤコブがこう記している。
『世の友となるは、神に敵するなるを知らぬか、たれにても世の友とならんと欲する者は、己を神の敵とするなり』(ヤコブ4:4)

では、イエスが例えで語ったところの『世の基礎が置かれて以来、隠されていること』とは何であろうか?
それは『世』に敵して隠されてきたことであるに違いなく、また、エデンの頃から秘められてきたことである。

これを手掛かりにすると、パウロの語った言葉に見出されるものがある。
曰く『我らが語るは、隠された奥義としての神の知恵である。そは神が、我らの受くる栄光のために、世の基が置かれてより、予め定めおかれたるものである。』(コリント第一2:7)

そして、これをパウロは『隠された奥義としての神の知恵』という。
この『奥義』(ミュステーリオン)という言葉をパウロはそれぞれの書簡の中で何度も用いており、コリント第一の書簡の他に、ローマ、エフェソス、フィリピ、テモテ第一の中に見出す。加えて、パウロ自身がこの『奥義』と深い関係を有していることも語られているのである。
 
『わたしは啓示によって奥義を知らされたのである。』(エフェソス3:2)
『すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの汲めども尽きぬ富を異邦人に宣べ伝え、更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務めがどんなものであるかを、明らかに示すためである。』(エフェソス 3:8-9 )

公生涯中のイエスに会ったことがないパウロが、どうしてキリストの教えの先頭に立って導けたのかといえば、『聖霊の啓示』以外の何があろうか。

 パウロは続けてこうも言っている。
『今や、この奥義は御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たち*とに啓示されているが、以前の時代には、人の子らに対してそれほどには知らされてはいなかった。』(エフェソス3:5)*<新約的な「霊による預言者」の意>

だがしかし、聖霊がイエスの弟子らに注ぎ出されるに及んで永く続いた情況は変わったのである。
『それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、エクレシアを通して、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、我らの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的に沿うものである。』(エフェソス3:10-11)

即ち、最後の晩餐でのイエスの予告の通りに『聖霊』を通して『あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる』というその事が起こったのである。(ヨハネ16:13)
それゆえ、パウロは『奥義』をこうも形容して言う。
『永きに亘り隠されていたが、今や明らかにされ、預言の書を通して、永遠の神の命令に沿って信仰の従順に至らせるために、あらゆる国民に告げ知らされた奥義の啓示』 (ローマ16:25-26)*

ここに、奥義を正しく得る者らが現れている。
聖霊の注ぎ出しがないキリストの公生涯の間のユダヤ人には、これを知ることも、罪からの癒しを得ることも許されていなかった。ただ、使徒らについては、聖霊を受けるであろうことが予期されたので、彼らにはその知恵が語られていたのであろう。

そして、キリストの犠牲が捧げられ聖霊が降下するに及び、それを受けた『聖なる者ら』には『真理の霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導く』という。(ヨハネ16:13) 
 
これはそれまでにずっと秘められ続けてきたことからすれば大きな変化であったが、その変化の理由となったのはやはりキリストの血の犠牲であろう。(ヨハネ16:7)その犠牲が神に受け入れられたので、聖霊を受けた弟子らが『新しい契約』に預かる者となって、『神の子』としての立場を得たからであるに相違ない。(ヘブライ9:15) 即ち、エデンから流れ出た『世』に属する者でない神に属する者らの登場である。(ヨハネ第一5:19)

パウロは彼ら、聖霊を注がれ『聖なる者』となった弟子らについて、『養子縁組の霊を受けた』それゆえ『その霊によって、我らは「アバ、父よ」と呼ぶ』のであり、『その霊が、我らの霊と共に、我らが神の子であることを証しする』とも言うのである。即ち『すべて神の霊に導かれている者は、神の子なのである。』と言う。(ローマ8:14-16)

この神に認知されていないところの「アダムの罪の子」として『世』のものであった弟子たちの元の状態から、『神の子』への立場の変化が起こったのは聖霊の注ぎのあった、あのシャヴオート(五旬節)のシワン6日の朝からであったか、といえば、厳密にはそうではなく、十二使徒たちについてはイエスと過ごした最後の晩からその変化が起こりつつあったことが次のように記載されている。
 
シャヴオートの52日前のニサン14日の夜に、『弟子たちは言った、「今はあからさまにお話しになって、少しも比喩ではお話しになりません」』とその変化について述べ、また、イスカリオテではない方のユダはこう言っている『「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしたことでしょうか」』(ヨハネ16:29/14:22)

この晩の聖餐の後の使徒らとの話合いにおいて、イエスの使徒らへの変化はこればかりではなかった。
その晩餐では彼らを労いつつ、こうも言われたのである。

『あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族を裁かせるであろう。』(ルカ22:28-30)

ここでイスカリオテのユダは除外されるものの、十二の使徒の座は彼らに不動のものとなっている。即ち、キリスト公生涯に添い遂げ、師との最後の晩に忠節な者と評価され判定されたということである。
 
その時から主は彼らに対して、既に聖霊を受けた者のように扱われていると言ってよいであろう。その証拠に彼らだけがキリストの犠牲の捧げられる以前に「主の晩餐」に預かっているのである。それはキリスト共に『座してイスラエルの十二の部族を裁く』という聖徒の選びに関わる格別の権威を得させるほどのものでもあった。

こうして、使徒らを通して『聖なる者たち』も『世のもの』であった状態から『神の子』へと引き上げられ、その立場の変化は『隠されてきた事柄』をそのままに聴く許しを得始めたと言えるのである。

ゆえに、十二使徒ではないものの、後に使徒職に参与してきたヒレル系パリサイ人、タルソスのシャウル、即ち、『聖霊によって取分けられた』後の「異邦人への使徒パウロ」の示した驚異的なまでのキリスト教認識は、弟子ら全体の先頭に立って教え導くものとなったと言える。もはやキリストの霊の介在なしに『神聖な奥義』は誰にも啓示され得ない。もちろん、それはユダヤ教を遥かに超えた次元に至ることなのである。

パウロ自身が明かすには、彼は超自然の経験をしているのである。
例を挙げれば、コリント第二の書簡で『第三の天』にまで引き上げられたと言っている。
そこで彼は格別な事柄を知ったようで、こう言うのである。
 
『パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた』(コリント第二12:4)
 
その『言葉』とは更なる秘儀であるに違いなく、それが何であったかをもちろん語ってはいないが、パウロの先鋭的キリスト教理解の背景がそこに示されていると言えよう。

そして聖霊の注がれている弟子らが、いずれはパウロに教えていることを啓示されるであろうとも言っている。(フィリピ3:15)
それは、彼が他の聖徒たちに先んじて神聖な知識に通じていたからであろう。

そして、彼は自分自身を含めて聖なる者たちは『奥義の家令』であり、そう見做されるべきだとも言うのである。(コリント第一4:1)
即ち、聖なる者たちは神の隠されてきた『奥義』を知り、それを語るに相応しい者とされたのであり、そのようにまで『奥義』が知らしめられることは彼らの登場する以前には無かったことである。

然るに、エフェソス人宛てとされる手紙の中においてパウロは『この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかった』と言うのである。(エフェソス3:5)
そこでナザレのイエスをメシアとして受け入れなかったユダヤ教は、旧約聖書に固執し留まったため、今日までその全体が『奥義』の啓示からは除外されている。

この新たな啓示については、使徒ペテロもキリストについての様々な情報を『天使たちも、うかがい見たいと願っている。』と言う。即ち、天界にあってもこの奥義は充分には知られていなかったのであろう。(ペテロ第一1:11) 
天界には他ならぬサタンもおり、その奥義に対する敵意のゆえに、それは天界に於いても秘められるものであったということか。 

そして、あのシャヴオートの日以来、聖霊が降下するようになり、それを受けた者たちのエクレシアを通して隠されていた『奥義』が語られるに至るのであった。
やはりパウロはこう書いている。
『その言葉の奥義は、代々に亘ってこの世から隠されてきたが、今や神の聖徒たちに明らかにされている。』(コロサイ1:26)
また、こうも言う。『イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を深く知ることができるようにした』(エフェソス1:17-18)
 
このように聖徒らに奥義が明かされたことについては、イエスのひとつの言葉が思い起こされる。
曰く
『覆われたもので明らかにされないものはなく、隠れているもので知らされないものはない。
わたしが暗闇であなたがたに話すことを明るみで言え! 耳打ちされたことを屋上から言いひろめよ!』(マタイ10:26-27)

イエス自身は民に例えで語り、『奥義』を使徒ら以外に知らせることはなかったが、その弟子たちにはいつまでも内密に保てとは言っていないのである。むしろ、知らせて、広めよというのである。

その変化の理由があるとすれば、『奥義』を知る資格ある『神の子ら』がそれまで登場せず、依然『奥義』を隠されるべき『世』に弟子らも属していたことが挙げられよう。(ヨハネ第一5:18-19)
 
『奥義』は『世』そのものを糾弾し終わらせてしまう。そこで『世』は、神の『奥義』に反対せずにはいられないからである。また、その内容を嫌うので、『世』は自ら『奥義』に近付こうとはせずその耳を閉ざす。(ペテロ第二3:7)

だが、仮の贖罪を受けた『神の子ら』が現れることにより、奥義を言い広める者らが登場する。
彼らは『この世のものではない』からである。 (ヨハネ17:16)



◆ その『奥義』に敵対するもの


では、その『奥義』の内容とは、どのようなものであろうか?

パウロはそれが『世の基が置かれて以来隠されて来た』と言う、それは『この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。』また『この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を磔の木につけはしなかったであろう。』とも言うのである。(コリント第一2:6-8)

従って、この奥義を本当の意味で『知る』のであれば、この世の率先的為政者であり続けることは不可能ではないだろうか。
創造の企図に沿った人類、つまり『神の子』に回復された状態こそが人間に真の幸福をもたらすのであり、また、それこそがあるべき姿なのである。
 
『この世』というシステムそのものが、現今の人間社会に一定の秩序を保たせるのに必要であるとしても、それは創造者の観点から見る場合には『罪』に対処するための矛盾に満ちて危うい応急処置でしかない。然るに、根本的解決をもたらす『奥義』に対しては人々に苦難をもたらしてきた『この世』の権力は尽く道を譲るべきなのである。
 
『この世』はアダムの堕罪によって基礎が置かれたが、同時に将来への希望を知らせる一言が神によってエデンの『蛇』に語られている。
『お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。』(創世記3:15)

これは即ち、人類が陥ってしまった『罪』の苦衷から神が如何にして救い出すかを込めた、謎に満ちた最初の言葉であった。
実に、この一言を巡り聖書の記述が展開されてゆくのであり、この一言の中にそのすべてが凝縮されていると言っても過言ではないのである。

『女』とは直接にはエヴァを指し、その子孫から出る者と『蛇』で表されるサタンの子孫であるかのような邪悪な者との間には敵対が生じるのである。

その端的な場面をヨハネ福音書の第八章に見出す。
そこでイエスは彼を殺そうとしているユダヤの反対者との激しい論争の中にある。
イエスは彼らについてこう云うのである。
 
『どうしてあなたがたは、わたしの話すことがわからないのか。あなたがたが、わたしの言葉を悟ることができないからである。
 あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと願っている。』(ヨハネ 8:43-44)

イエスとユダヤの宗教領袖らとの対立はその後も深まってゆき、遂にニサン14日を迎え、ユダヤの体制派はイスカリオテのユダの手引きを得て『神の子羊』を屠るに至るのである。
そうしてエデンで語られた『お前は彼のかかとを砕く』という言葉が成就を見るのであった。

従って、イエス自身が奥義であることを指摘しているコロサイ書はこのことを指しているのであろう。パウロはそれを『真に知る』ようにと当時の聖徒らに促している。 (コロサイ2:2-3)

こうして見ると、神の奥義は常に、誰とも知れぬ『敵』によって推し進められるかの観さえある。
それは裁きのようでもあり、奥義が進展するそれぞれの場面において、新たな敵が現れては、意図もせずに奥義を成就の方向へ動かしてしまう。例えれば、大祭司カヤファがそうであり、ユダ・イスカリオテがそうである。

また一方で、イエスが犠牲になる以前には、イエスが自らをメシアであることを公言せず、信じた者らにも語らせず、自らの犠牲を以って人々を救うということでさえも群衆に対しては『わたしの血を飲み、肉を食せ』と言っては躓かせていたのも理由のないことではなさそうだ。

それはその時にあっては秘められている必要があったのだ。即ち少なくともメシアが殉教の死を遂げるためである。
 
これにペテロは価値を悟れず、良いつもりになって『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』とメシアを諫めたのだが、これはメシアの重大な意義を前にしてまったく的外れなことであったから、イエスは『サタンよ引きさがれ。お前はわたしの邪魔をする者だ。お前は神の思いでなく、人の思いを抱いている』と強い口調でそれに退けるのであった。(マタイ16:22-23)

そして続けて使徒らにこう言われる。
『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の磔刑の木を背負ってわたしに従ってきなさい。
 自分の命を救おうと思う者はそれを失うが、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすだろう。』(マタイ16:25)
 
後に分かることながら、『女の裔』とはメシア一人ではなく、その『兄弟』とされる一群の人々がいるのである。
これをパウロは『神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。』と書いている。(ローマ8:29/ヨハネ第一3:2)

『女の裔』はメシアが共にその道を歩むようにと召した使徒らをはじめとして、聖霊を受ける諸国の『聖なる者ら』へと広げられてゆくのであった。これはユダヤ体制派にはけっして認めることのできない神の恩寵の喪失を意味するのである。
このゆえに、聖霊を注がれた者は、神から観てメシアが御子であったと同様の立場を仮に得ることになる。
やはりパウロはこう言っている『神の霊によって導かれる者は神の子なのだ』(ローマ8:14)

それはアダムが『罪』のゆえに失った立場であるので、パウロはこうも言う『今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない』(ローマ8:1)

彼らの存在そのものも、遠い過去から神の予見するところであったという。イエスも『世の基が置かれる前から予知されており』、聖霊を受ける弟子らも。『世の基が置かれる前からキリストとの結びつきで選ばれていた』というのである。(ペテロ第一1:20/エフェソス1:4)
それゆえキリストも彼らを『父が与えて下さった者ら』と呼んだのであろう。(ヨハネ17:24)


そこで、あのシャヴオート以来、ヨルダン川で水と聖霊のバプテスマを受けた主イエスのように、天からの聖霊を受けることで『油そそがれた』つまり任命を受けた者は、メシアと同じサタンの敵意を受ける道に召されたのである。
こうしてヨハネの書簡にある言葉を読み直すと、その意味するところは一層に鮮明の度を増すのである。
曰く『わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にある』(ヨハネ第一5:19)
即ち、『聖なる者ら』に『奥義』を授けられたことそのものが、彼らが神の側に立ったことを示したと言えよう。

そしてユダヤが体制としてメシアを退けることも『奥義』の中に含まれていたという以外にない。
というのも、パウロは『兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。なぜなら、イスラエル人の中の一部で頑さが起こったのも、それが異邦人が流入して満ちるまでに及ぶのであり、そうしてイスラエルという全体は救われることになるのである。』(ローマ11:25-26)
 
つまり『接木』として非ユダヤ人が『女の裔』に含まれて、メシアに不信仰を示して殺してしまった血統上のイスラエルの不足分を補うという『奥義』である。そうしてメシア殺害に手を染めた『イスラエル』という全体が救われるというのである。それは「血統のイスラエル」から『神のイスラエル』へと神の恩寵が移行したことも意味している。

もちろん、これは「血統のイスラエル」の民に対しては秘められてきたことであったに違いない。そこで譬えで話すメシアの姿には合点がゆく。
そうでなければ、神の子羊は屠られず、信仰による純粋な『神のイスラエル』が登場してくることもなかったからである。(ガラテア6:16)
その新たなイスラエルこそが『その実を生み出す国民』であろう。(マタイ21:43)



◆終了してはいない『奥義』

しかし、キリストの犠牲が捧げられ、いよいよ約束の聖霊が臨む段に進むとなれば、状況も変わる必要が生じる。
イエスは父の御許に『去って行かなければ助け手(聖霊)はけっして来ない』と言われた。つまり、メシアの犠牲によって初めて約束の聖霊が注がれる道が備えられたのであり、それは『新しい契約』による暫定的な罪の赦しが聖なる者らに与えられたからに違いない。(ヨハネ16:7)

この聖霊によって油注がれメシアへの道に召された者らが登場するに当たり、この『奥義』の全体像が明かされねばならない。
彼らは、自分たちの得た立場を知るべきだからである。つまり、『幅と長さと高さと深さがどれほどかを知るため』である。(エフェソス3:18)

エデンで語られた『奥義』はキリストの死を通して今や現実の中で具体化された。それをパウロは「(磔刑の)木の話」(ホ ロゴス ガル ホ トーウ スタウローン)とも呼んでいる。(コリント第一1:18)また、多くの箇所では単に『(刑)木』(スタウロス)と略しているが、これは頚から下げる十字架の救いの効能などを語っているわけではない。(十字架を「キリスト教」が表象としたのは第四世紀以降)
 
それは律法契約下に於いては、キリストの犠牲の実体は未だ示されず、祭儀に規定された動物の犠牲を介してぼんやりと予型されていただけであった。

つまり、奥義の実体を予め指し示していたのは、大祭司を頂点とし、その同族にして出エジプトに際して子羊の血を以って神に買い取られたレヴィ族の祭司団による律法祭祀である。

殊に、「贖罪の日」には大祭司自らが贖罪の儀式を行い、また祭司団の贖罪が行われる。(レヴィ16:6)
そののちに民全体の贖罪が言い表されてのち、すべての贖罪を終了するのであった。(レヴィ16:17)

この律法が規定した祭祀制度にも、後の『世の罪を取り去る神の子羊』の犠牲が示されてはいたが、それがどのように実現するかを知る者、またはそのような後代の対型が存在するかに思いを馳せる者さえ居たのかどうかも知れない。

ただ、神は預言者たちを通して、ゆっくりと、僅かずつ、しかし確実に、それを啓示させ続けていたのである。
 
そしてもちろん、メシアがユダヤの祭司長派によって屠られる仔羊となることは、当然に律法とその体制には伏せられているべきであった。それが伏せらていることによって、当時の宗教家らが実際にはサタンの裔であることを露わにし、エデンで語られた女の裔のかかとが砕かれるという神の預言の一半が彼らを通して成就するに至ったのである。(ヨハネ8:44/創世記3:15)

これが秘儀(ミュステーリオン)の恐るべきところである。
実に、その奥義の言葉を警護してきた民族が悪役の最たるものを演じて、それが実現しているのである。
だが、このようなことは終末におそらく再び起こるのであろう。自分たちに神の是認があると思う者らこそ、その危険に最も鈍感であるからだろうか。(ヨハネ11:49-50)

だがしかし、実は女の裔のかかとが砕かれるということは未だ成就し切れてはいないのだ。
なぜなら、『女の裔』の中には、終末に現れる者らがいることを新旧の聖書が揃って語っており、その者らもイエスのように『打ち砕かれる』ことになっているのである。そうして彼らも主に続いて同じく『女の裔』であることを示さなければならない。

ダニエル書にはそれが繰り返し語られている。
彼らには『精錬が行われ、練り浄められる』という試練が臨むのであり(11:35)終末にも『聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する』(12:7)というのである。ヨハネ黙示録にもこうある。
『彼らがその証しを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。』(11:7)

彼らの『証し』については福音書が終末の場面で繰り返し語っており、彼らは為政者らと対峙して聖霊による論駁不能な奇跡の言葉を語ることになるというのである。(マルコ13:10-11/ルカ21:12-15)

これはやはり、『奥義』の立場に立つ『女の裔』が『この世』とは敵対関係にあることを鮮明にする。
『この世』がイエスの聖霊注がれる弟子らによって完膚なきまでに糾弾され告発されることは主ご自身も語られたところである。

ヨハネは、助け手である聖霊が到来するときについての主の言葉をこう記している。

『それがきたら、罪と義と裁きとについて、世の人の目を開くであろう。
 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。 裁きについてと言ったのは、この世の君が裁かれるからである。』(ヨハネ16:7-11)

こうして、キリストを長子とするその兄弟らには、その忠節を全うし、長子と共に神の子として相応しく歩む務めが生じるのである。

その浄めに相応しく耐えた聖なる者たちも、遂に天への召しに預かる時が来る。
黙示録は、『奥義が終了する』その時は『第七のラッパの吹奏されるときである』と言っている。(黙示録10:7)

そのラッパの吹かれる以前の部分を見ると、そこには『地に住む者たちに責苦を負わせた』『二人の証人』が『殺され』、『三日半』の後、『雲のうちにあって、天に昇る』様が描かれている。(黙示録11:7-13)

こうして後に、『第七のラッパの吹奏される』のであるから、『奥義の終了』とは、天界に聖なる者たちが揃う『神の王国』の実現のときということができよう。そこでサタンの頭の砕かれることはもはや決定的であろう。

聖徒らの打ち砕きも『七つの頭を持つ野獣』という、サタンの側に立つ敵の手によって成し遂げられることを黙示録は明かしている。それはメシアに反対する者らが、神の子羊を屠る役割を負わされたように、御子の兄弟たちも、その敵が迫害し殺すことを通して、その兄弟らを浄め相応しい者を選別させてしまうのである。

したがって、エデンの園で始められた『奥義』の開示は、その敵を用いつつ成就を見計らいながら終始進められてきたことになり、その終りを含む全容は未だ明かされてはおらず、その最終的な成就は少なくとも聖霊を注がれる『聖なる者ら』の再登場を待たねばならないはずなのである。



◆今日再び秘められている『奥義』


これら一式の理解を教えるのが『奥義』であるが、これは現在のキリスト教界に対しても『奥義』となっているかのようである。

第四世紀から第五世紀にかけて、キリスト教はローマ皇帝の宗教となり、帝国の宗教ともなっていったところで、再び『奥義』とならざるを得なかったであろう。キリスト教が『この世』と妥協してしまい、『この世』の一部となってしまったからである。これは黙示録でもヤコブの書簡でも『姦淫』や『淫行』になぞらえられている。
 
ローマ国教化以降は、『神』と『サタン』、『女の裔』と『蛇の裔』の関係はキリスト教の中にあってさえ忘れ去られ、本来、聖なる者らが聖霊によって得た『救い』を、何の関わりもない一般信者に安売りをして請合うのが「キリスト教」の仕事になってしまったのである。

現代のキリスト教が、上記のような『奥義』の実体を知れば、却ってそれを反社会的で不健全なものとさえ見做すかも知れない。
だが、苦難と虚しさ、不公正と汚れ満ちる『この世』とは、果たしてその人々が熱心に擁護するだけの価値あるものだろうか?

いずれにせよ、『聖霊』の到来するときに、この点は明瞭に指摘され問い詰められるに違いない。
『奥義』は、かつて聖霊によって聖徒らに知らされたが、終末に於いて、その真相を知らせるのはやはり聖霊を受ける聖徒であろう。聖霊のないところにこのミュステーリオンの真の解明もないのであろう。
 
この『奥義』が世界に知らされる時、そこで人々は、キリスト教徒であろうとなかろうと、すべてがエデンの問いに直面し、神とサタンのどちらに組する者となるのかを明示しなければならなくなるだろう。即ち、受け入れるのか、敵意を表すのかの二択である。

だが、現在のところ、この終末の裁きも秘められており、今は奥義もこの世に対して秘められているようである。
その原因と言えば、「欲」であるように思われる。即ち、信者は利益を得ようとキリスト教に近付き、教師らは信者を得ようと受けの良い教えを編み出しているように見受けられるからである。

結局は、皆がそろって自分に何が得になるかを考えている。千を越える宗派が在りながら、大聖堂の大司教から、巷の教師気取りに至るまで、自らを捨て利得とは異なる上なる次元を捜そうとしているものにはまず出くわさないし、それは数十億のキリスト教徒の各個人にしても大半がそのようなのであろう。

この人々は話をじっくり聞くよりは、はじめにキリストの教えに於ける自分の取り分は何かを問うのである。それはそれでどうにもならないが、そうして皆が自分の都合を神に優先しているのであれば、『奥義』は確かにもったいがない。彼らは、自分の益が何かを知れば、そこで探求心は萎えるであろう。それは天国の至福か、楽園行きか、あるいは成功を収める人生か。利得以外のことは自分に関わりがないと思うのであろう。

その中でも幾らかの人々が、その断片の理解を得てはきているのだろうが、その事の重大さ、規模の大きさを充分に知るに至っているようにも特に見えない。詰る所、その研究も自分の利益のためではないのか。
しかし、その『奥義』は、これまでの人類史を一変させるものとなり、人々の行動から思考までをすっかり変えることになり得るものである。それは人のためである以上に、創造神の企図の完成と栄光となろう。そこに価値を観る人もいるのだろうか?

それはバプテスマを受ければ救われる、などという幼稚な次元のものではなく、神の創造当初の意図が『この世の有様』を押し退けて具現することを意味するのである。

『奥義』を信ずべき理由は、それがエデン以来隠されていながら、着実に成就を繰り返して前進してきたことにある。神の全能性はここに示されている。その悠久の歩みはいかなる敵意や反対をも排して進み、キリストの犠牲の死を以って、今やこれを留めるものは何もないのである。

『神の王国』の実現し『奥義』が終了する日に、世界を動かす原理は欲から愛に変わり、見るもの聞くものがまるで異なったものとなるのであろう。
『神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいさって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』(黙示録21:3-4)

この事態をもたらすものが『奥義』であり、使徒時代までに書かれた聖書記述を通して、我々は現在でも聖書を行き巡るなら、その概要だけは知ることができるのである。 そして聖霊が再び降る日に、『奥義』は深く永い眠りから覚めたかのように輝き出すのであろう。

だが問題は、いったいそれに価値を見出すか否かであろう。 
人々の我欲は、自分の願望を求めてミュステーリオンに価値を見させず、足蹴にしているというべきか。
そこで『奥義』は人々を分かつものともなるのであろう。『耳あるものは聴け』とは、今日も動かし難い言葉となっているかのようである。

相応しく理解しない者、価値を認めない者はどんなにしても、『奥義』に敵対する者と成るのだろう。
また、単なる好奇心に絆され、ただ知識欲のために神秘を知ろうとする者の非人格性を神は認めないように思えてならない。共感も畏敬もなく、隠された知恵を知って批評するような傲慢な態度が神の御前に許されるものだろうか。

終末に至って、『奥義』は人間が裁き得ないところまで、内面からどのような者であるのかをその人に露わにさせるのであろう。
このような意味で、やはりそれはギリシア語「ミュステーリオン」の名に相応しいのかも知れない。 即ち「神秘」である。終末にそれは近付く者を自ら吟味し、選り分けるので、今日ふたたびに秘められているかの観がある。

『奥義』は、ある人々にとって永遠に隠されるのであろう。 それは今、この『奥義』が聖書中に在って現に明かされていながら、驚くべきことに、なお隠され続けているのと同じように。(ダニエル12:9-10)





             ©2015      林  義平