試みを経たキリストが「完全」を得たことに基礎を置く創造物の統合について
-カトリックの修道とルターの万人祭司を比較-
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◆キリストが栄光を受けた晩

カトリックには「完徳」という言葉がある。
「公教要理」によれば、「完徳」はキリストが山上の垂訓の中で語られた『あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。』との句に由来するという。(マタイ5:48)
聖書のここでの『完全』(テレロス)には、「完成された、それ以上に望まれぬ状態、十分に成熟した」などの意味がある。
パウロは、「成熟した大人となれ」、また『キリストはあなががたが完全な者となることを望んでいる』と、この語を用いて弟子らを訓戒している。(コリント第一14:20/コロサイ4:12)

イエスは山上の垂訓ばかりでなく、この『完全』(テレロス)という事に言及している。そこで公教要理はマタイ第19章21節を挙げている。
『「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい』(マタイ19:21)
それは地方を治めるユダヤ人の富んだ者が、十戒の教えは守ってきたと語ったところに応えたキリストの言葉であった。また、『すべての持ち物に別れを告げなければ、わたしの弟子にはなれない』ともイエスは言われている。(ルカ14:33)

そこで、カトリックに於いては、まず自分の一切の所有権を放棄させ、次いで清貧、貞潔、従順を以って修道生活の要求とする。
即ち、真に「完全」であるためには、俗世を捨て修道僧となることが求められ、「キリストの丈の高さを目指して」修行に励むが、それは一部の者らだけが出来ることとされる。

確かに、新約聖書でのキリストの示す規準は非常に高く、山上の垂訓の中には生身の人間には到達不能なものが多い。
そこで、カトリックは弟子の中から聖俗を分離することでキリストの規準に対応を試みてきたのであり、カトリックでは、イエスの徳に達することが俗人には不可能であることを認めていたのである。それゆえにも『キリストの丈の高さを目指す』ための「修道」なのであろう。

かつて、若きアウグスティヌスはキリスト教に理想の生活を求めて、数人の友らと聖い自給自足の夢幻的で神秘的な印象の善なる生活を始め、そのグループは周囲から尊敬を受けたという。

だが、修道生活に入ったからとて、アダムの罪を逃れることはできない道理があり、現実にに激しい葛藤を覚えたアウグスティノ托鉢修道会の修道士のひとりにマルティン・ルターがいた。
自らに真摯に向き合った彼は、自らの内に聖からぬものを感じ、上長に自らの内心の悩みを告白したが、修道を続けるよう宥められるばかりであったという。

ルター研究者のフランツ・ラウ教授はこのルターの精神的状況を次のように分析している。
『彼が感じていたのは、自分は内的に完全なものではないということであった。というのは神のみまえに根本的な罪とみなしていたもの、すなわち、神のみまえにおける自己主張、高慢、僭越、自己自身のゆがみを自己の内部に感じており、それどころか修道士の生活は、かえってこれらのものを増長させることを知った』 (「ルター論」渡辺茂訳 聖文社刊 p55 )


しかし、やがて彼はローマ書第一章十七節の『信仰によって義人は生きる』との言葉を見出し、それによって想いを転換することができた。

これは即ち、行いによって義とされるというそれまでのユダヤ教の律法遵守の業が、キリストの前に在って相殺され、以後は一重に『信仰によって人は義を得る』ことの発見であった。(ガラテア2:16)
彼は「良心が静められ、開かれた扉から楽園に入ったように感じた。」と卓上語録に書くのであった。所謂「塔の経験」である。
彼は自らの謹厳な修道生活の後にこう書いている『司祭や聖職者が着ているような聖衣を着たところで、それがたましいにとって何の飾りにもならない。』(キリスト者の自由)

そうなると、キリストが弟子らに求めた『完全』(テレロス)とは何であろうか?
修道の清貧、貞潔、従順を以ってしてそれは得られるものなのか?それともルターの鋭敏な良心が彼自身を苛んだように、それはどんな人間にも達成できないものであるのだろうか?
ルターは、何者も完全な徳に達することはないことを見出している。
だが、それでもルターは、聖書の文字に書かれたそのままに、実態に関わらず信徒らの皆が神の前に『義』とされたものと信じていたのである。

それゆえ、新教派はカトリックの聖俗分離に反対し、逆に、全ての信徒が祭司であるという「万人祭司説」を以って修道制に対抗していった。

だがそれでも、聖書の云う『完全』とは、信仰して洗礼を受ければもたらされるような簡単なものなのだろうか。

ではそこで、キリストの弟子らに命じられた『完全』の真意はどこにあったのだろうか?
新約聖書では、イエス・キリスト自身についてこの『完全』という語が用いられているのだが、そこに「完徳」という事を含めての全体を解きほぐす糸口が見えている。
何故なら、他のどんな者の例を見るよりも、まずキリストの示した『完全』というものを知ることが、何よりの範例と成り得るに違いないからである。



◆完全にされたキリスト

まず、フィリピ書簡では、キリストが優越性を得た次第が次のように語られている。
『キリストは、神の象りであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、己を虚しくして僕の形をとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、己を低くして、死に至るまで、しかも木に掛けられ死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名に優る名を彼に賜わった。
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が「イエス・キリストは主である」と唱えて、栄光を父なる神に帰するためである。』(フィリピ2:6-11)

天界での神に次ぐ高い地位を離れて、ナザレ村の大工の子として育ち、メシアの任命を受けてからは試みを受ける毎日であり、人々の苦しみ、貧しさ、病苦を親しく知り、質素に過ごして下層民と共にあり、宗教家らの傲慢さに立ち向かい、弟子を繰り返し丹念に教えて、遂に、命までをも邪悪な者共の身勝手の内に差し出した、奇跡を行う人としての生涯は、終始一貫、『父を崇める』ものであった。これこそ『忠節な愛』であり、民には慈愛(アガペー)を体現されたが、それも山上の垂訓のような、律法の精紳の高みに在ってのことであった。
他に誰を類いすることができるだろうか。

高められたキリストについては、ヘブライ書簡の中に次のようにある。
『彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、完全な者とされた*ので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、称えられたのである。』(ヘブライ5:8-10)*[テレイオスェイス]アオ受主男単 

これは即ち、アロンの子孫による律法祭祀の大祭司を超えるメルキゼデクの様に世代交代のない永遠不変の大祭司職をキリストが受けたこと、また、その任命には、地上での従順な歩みが関わる『全き者とされ』る必要があったことが語られている。

またこのヘブライ書簡はこうも言っている。
『このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、諸々の天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって相応しい方である。
彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々犠牲を捧げる必要はない。なぜなら、自分を捧げて、一度だけそれを行われたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に完全にされた*御子を立てて大祭司としたのである。』(ヘブライ7:26-28)*[テテレイオメーノン]完了受対男単 


以上の句から、キリストが地上での歩みを通して『完全にされ』、そのうえで天に挙げられ『大祭司』となったことは明らかであろう。
そして、その大祭司の務めが成し遂げる働きについては
『 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。』(ヘブライ7:25)

これは即ち、まずキリストが聖められ大祭司職に就いたことにより、神に近付こうとする者を全く救うことができる点で、地上の大祭司とは次元が異なるということである。
律法で規定された『贖罪の日』の手順では、大祭司自らの罪を浄めるために雄牛の血を携えて、神殿の幕の内側に入り、契約の箱の宥めの覆いの前に血を振り掛ける必要があった。
自らの浄めを終えると、次に自分の家に属する下位の祭司たちの贖罪のために、大祭司は再び至聖所に入った。そうして崇拝を捧げる役職を浄めた後に、民の贖罪が行われたのである。

キリストは、まず、地上で自らの死に至るまでもの従順な歩みを通し、その血を携えて神の御前に進み出、自らを『完全なる者』、真に聖なる者とし、その一度限りの犠牲は、神の神たる地位を不動のものとしたことに於いて神にこのうえない栄光を帰し、その後は神の右に座し、神は彼を『 唯一の不滅性*を持ち、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方』となった。(テモテ第一6:16)*[アスァナシア]不滅性、永遠性、不死(この句の文脈は、神自身について述べるのではなく、キリストの称号『王の王、主の主』と共に語られ、「神」の主語を持っていない)

つまり、地上での死に至るまでの従順は、被造物の一切が従うべきは創造者であることを立証して、神から完全に信頼される者、永遠に存在すべき者とされた最初の存在者となったと見ることができるのである。
試みの苦しみを経て、倫理という、他者とどう生きるべきかを『愛』によって完全に会得した最初の存在となり、そうして「御子」は被造物のすべてに永生の命をもたらすことの出来る『救いの創始者』ともなり、他の被造物に対して『一粒の小麦』となった。その一粒が死んで、そこから多くの穂が生え出、多くの穀粒を結ぶことになったからである。(ヘブライ2:10/ヨハネ12:24)

それであれば、キリストがアダムの子孫ではないというだけで、単にアダムの贖いとなったという事柄を超える次元の、超絶的な倫理を達成する最高善の義なる行為、『完全』への栄光ある到達がそこにあったと云えるのである。

そこで、ヘブライ書の次の記述が深い意味を帯びてくることになる。
『ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。』(ヘブライ2:9)

またエフェソス書はこうも言っている。
『神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれた。』

それだけではない。
『それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、尽くキリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさる方の目的の下に、キリストにあって予め定められ、神の民として選ばれたのである。』(エフェソス1:10-11)

このエフェソス書は、ヘブライ書と正反対に異邦人に向けてすべてが書かれている(エフェソス2:19)
従って、ここに云う『神の民』となった『わたしたち』とは血統のイスラエルを意味していない。
では、これはパウロの当時のエクレシアに集う『聖なる者ら』が、大祭司に従う祭司団として選ばれたということを伝えているのだろうか?

その句の続きはこうなっている。
『それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光を誉め讃える者となるためである。あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。』(1:12-13)

これはもはや疑いようが無い。
キリストは天界の大祭司となり、至聖所に入られて自らの血の犠牲を神の前に注ぎ出し、こうして後、聖霊の注ぎを以って従属の祭司団を浄め始めたということである。(使徒2:33/ペテロ第一1:2)

そこで、ヘブライ書に目を戻すとこうもある。
『なぜなら、万物の帰すべき方、万物を造られた方が、多くの子ら、彼らの救いの君を、苦難を通して完全にされたのは、彼に相応しいことであったからである。
実に、聖くしている方も、聖められる者たちも、皆ひとりの方から出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない。』(ヘブライ2:10-11)

万物の創造者であられる神が、『多くの子らを栄光に導くのに』まず、イエス自身を完全にされたのであり、浄めるキリストも、浄められる者らも、共に神から出ているのであるから、キリストの浄めた者は『キリストの兄弟たち』となるのである。

また、ヘブライ書にはこうもある。
『かの方が、神聖にされつつある者らを永久に完全にしたのは、ひとつの捧げ物によるのである』(ヘブライ10:14)
これは、毎年に捧げられる牛の犠牲の血など、無数の動物の捧げ物では達成されることのなかった浄めにキリストの追随者が預かっていることを指している。

これは、イエス自身が祈りの中で述べられたことからすれば、ますます疑いようがない。
『わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。』(ヨハネ17:19)

こうして、様々な聖句の意味が繋がってゆくことになる。
なぜ、聖霊を注がれエクレシアに集められた者らが『キリストと共同の相続人』と呼ばれるのか。
どうして、聖霊を注がれた者たちが『神の子』とされ、神に親しく『アッバ』と呼びかけることが許されるのか。
なぜエクレシアは『キリストの肢体』なのか。
だれが、終末のキリストの前に人々を左右に分ける媒介となる、親切を施すべき『兄弟たち』なのか。


そのすべては、キリストという大祭司が、地上の苦難を通して到達した『完全さ』に負っているということに他ならない。
キリストの完全な聖さは、まず、彼自身に不滅性をもたらし、他の被造物に対して『初穂となった』のであり、それはキリストに復活によって既に実現したことである。(コリント第一15:22-23)

それであるから、パウロが仲間の兄弟らに向かって『もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを知っているからである。』と言った意味は、キリストと同じ『完全』への道を歩むべき『新しい契約』に在ったことを指している。(ローマ6:8-9)

この意味に於いて、キリスト・イエスは『キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、 神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれた』また『万物を造られた方が、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救いの君を、苦難をとおして完全にされたのは、彼にふさわしいことであった』とも書かれているのである。(ヘブライ5:8-10・2:10)

これらの意味するところは、キリストは苦難を経て栄光を放つまでに磨かれた完全性によって、人々の『永遠の救いの源』また、まさしく『救いの君』となり、多くの聖徒らを先頭に立って『栄光に導く』立場に就かれ、聖霊を与えてそれを何遂げたということである。

こうして概観すると、カトリックが言うように、イエスが『わたしはこの岩の上に、エクレシアを築こう』と言われた『岩』とは使徒ペテロである、という主張には相当な無理と価値観の転倒がある。(マタイ16:18)
しかし、カトリックはこの言葉を根拠にペテロの首位権を唱え、その後継としてのローマ教皇権を主張してきたのである。その座は使徒ペテロの継承を超え、ときに三位一体も手伝って「神の代理者」とまで言い放ったのであり、それを認めない東方教会はさておき、ローマこそがキリスト教の総本山とされてきた。

しかし、キリストの『完全さ』は、誰かが清い行状を誇ったところで到底得られるものではない『完全さ』であり、清貧、貞潔、従順の修道生活がその前にどんな意味を持てるだろうか。被造物の『完全さ』とはキリストの許にだけあるのであり、『聖霊』を注がれて『新しい契約』に関わり、その規準を全うしてなお、キリストの完全性を分かち与えられることを聖霊注がれた者らでさえなお待たねばならないのである。
『完全さ』とは、修道士がどれほど行いを謹んで聖人を装うとしても、けっして得られるようなものではないし、まして、信者になっただけでそのまま「義」とされるわけもない。

それでも新教派の「万人祭司説」も、キリストの聖さを一般信徒たちの聖さに認めてしまうところで、キリストの到達した次元を余りに卑近なものとしてしまっていることになる。
やはり、初期のエクレシアと、今日のキリスト教徒とには、キリストに共なる証しである『聖霊の注ぎ』が有るか無いかという決定的な違いが見えている。

新旧両派のキリスト教徒に共に欠けていた概念は、キリストの『完全』であり、原始キリスト教時代には存在した、聖霊を注がれ契約に入った『聖なる者たち』についての認識であったのだ。



◆キリストという隅の親石

さて、イザヤの時代のユダの民は、既に捕囚に至る悪の道筋を歩んでいた。
王たちは必ずしも善を為さず、例え善い王に恵まれたときでも民は岡の「高き処」で異神への祭壇を築いて悪霊を賛美して淫行をなし、また嬰児を生きたまま火で焼きすらしていた。

神殿祭祀を荷う祭司らも、律法の真意に気を配らずに神殿を汚し、崇拝方式を恣意的に変更し、偶像を持ち込むまでに堕落していたことを預言者らに指摘されている。

だが、イザヤは将来の新たな神殿の建設を含意してこう預言している。
『わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。わたしは正義を測り縄とし、恵みの業を分銅とする。雹は欺きという避け所を滅ぼし、水は隠れ家を押し流す。』 (イザヤ28:16-17)

この『シオンに据える』『一つの石』がキリストを表すことは、イエス自身がそこを引用して語った言葉から異論の出ようがない。その言葉をルカが福音書でこう記している。

『そこで、イエスは彼らを見つめて言われた、「それでは、『家造りらの捨てた石が、隅の親石になった』と書いてあるのは、どういうことか。
すべてその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人は粉微塵にされるであろう」。
このとき、律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと思ったが、民衆を恐れた。いまの譬えが自分たちに当てて語られたのだと悟ったからである。』(ルカ20:17-19)

さらにこれはキリストの使徒らの言葉からも重ねて知らされるところであり、使徒パウロもやはりイザヤの同じ預言を引用してこう書簡に書いている。
『しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜか。
 信仰によらないで、行いによって得られるかのように追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。
「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりに』(ローマ9:31-33)

まさしく、そこではイスラエルの不信仰の結末がその『つまずき』であったことは覆すことができない。
『預言者に石を投げる』ことだけでなく、遣わされたキリストを処刑させることで、その不信仰の総仕上げを行い、こうしてシオンに神が据えた石に躓いて彼らは粉々に砕け飛んだ。その後果は西暦七十年に『火のバプテスマ』の惨禍となって臨み、以後、イスラエルは神殿を失い、祭祀の不可能な流浪の民となって今日に及んだのである。今や、血統の民は契約になく、恩寵では諸国民と変わらない。(ルカ2:34-35・19:42-44)

また、イザヤ書のその部分を引用しながら使徒ペテロもイエスという石の価値に弟子たちの注意を向けている。
『主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
この主の御許に来て、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神に喜ばれる霊の犠牲を捧げなさい。』(ペテロ第一2:4-5)

この神によって据えられる『隅の親石』という概念は、明らかに神殿(神の家)を建てるに当たり、建築全体の礎石となる意味を含んでいる。
確かに、ナザレ人イエスは当時の宗教家らによって『捨てられた』のであり、やはりペテロも上記のイザヤ書を引用して更にこう続ける。
『この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造らの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実はそうなるように定められていたのである。』(ペテロ第一2:7-8)



◆神殿の再建

ソロモン王によって建立され壮麗であったとされる神殿も、度重なる諸国の干渉と、自国民の無関心によって荒れていることが多く、遂には新バビロニア帝国の大王ネブカドネッツァルによってエルサレム共々破壊され、その後七十年の間は再建されず、祭祀制度が戻ることが無かった。

しかし、イスラエルの神YHWHは、七十年が過ぎるに従い、ペルシア帝国のキュロス大王を用いてシオンに神殿を再建することを命じさせる。
イスラエルの民に対するその勅令が出されたのが『キュロスの第一年』、西暦前537年のこととされている。
その年の内に、ペルシア総督となったユダ王家の血を引くゼルバベルと大祭司エシュアを中心に、有志ら五万弱の人々がシオンを目指して旅立った。
彼らは秋に到着し、祭りを祝うだけでなく、神殿を再建するべく翌年の春にはその定礎までは行えたのである。

その時、民は大いに喜び、祭祀の復興の始りを期待した。しかし、その礎石は以前のものよりずっと小さかったので、ソロモンの神殿を知っていた年寄りらは、それを見て泣いたという。
しかし、その後に遣わされた預言者ハガイは『この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍のYHWHは言われる。』との神の言葉を伝えているのである。
だがそれは、後にヘロデ大王によって、恰もキリストの到来に備えるかのように美しくされ、アテナイのパルテノンやエフェソスのアルテミス神殿に優る規模にまで拡張されたことを意味するわけではない。

一方で、神殿の建築については、単に実際の建造物を造る以上の意味が旧約聖書の後半に語られることがある。
神が、自らの民イスラエルを裁く様を、建築用の「下げ振り」(アナカ)を持つ神の姿としてアモスの預言書は描いている。
『見よ、わたしはわが民イスラエルの真ん中に下げ振りを下ろす。もはや、(罪を)見過ごしにすることはできない。』(アモス7:7)

下げ振りの使用によって、建築物に垂直性が与えられ、しっかりと石が積み上げられるように、神は歪んだ家の構造を正されるということである。
この道具を用いているもうひとりの人物が旧約聖書にいるが、それがゼルバベルである。
『ゼルバベルの手がこの家の礎石を据えた。彼自身の手がそれを完成するであろう。・・だれでも小さい事の日を卑しめた者は、ゼルバベルの手に下げ振りのあるのを見て喜ぶことになる。これらの七つのもの(燭台の灯火皿)は、あまねく全地を行き来するYHWHの目である』(ゼカリヤ4:9-10)

礎石を置いたゼルバベルは、そのまま神に家を完成させるのであり、その石組みを真っ直ぐにするための下げ振りを手にしているというのである。
確かにゼルバベルの据えた基礎は第一神殿には及ばなかった。だが、それを嘆いた者らもゼルバベルが下げ振りを持って神殿の再建に取り掛かる姿に喜びを見出すことになる。付け加えて『七つの灯火皿』を持つ燭台の秘儀を解いて『神の目』であるとも告げられている。
これは、対型的な天界の神殿の定礎が行われ、建設が始まることと『聖霊』の監臨が結び付けられていると見るべきであろう。

やはりゼカリヤはこう預言している。
『万軍のYHWHは言われる、見よ、エシュアの前にわたしが置いた石の上に、即ち七つの目を持つこの一つの石の上に、わたしは自ら文字を彫り込む。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。』(ゼカリヤ3:9)

もちろん、これはゼルバベルとエシュアの当時に起ったことではない。なぜなら、この預言が語られたのは『ダレイオスの第二年』(前520年)と記されており、実際の第二神殿の定礎から既に16年が経過してしまっている。
従って、神自らが彫り込みを行うこの「礎石」とは、更なる将来の神殿の基礎を言うのであり、第二神殿を指すわけではないし、イエスが登場したときに既に存在していたヘロデ神殿も対象外である。そうでなければローマ軍に破壊されるようなことは無かったに違いないからである。

では、神が御自ら彫り込みを行う礎石を置くのは何時のことか
以上の論旨を踏まえると、まず、キリストが『試みを経た石』となった後に違いない。
即ち、死に至るまで神への従順を通し、神への被造物の在るべき姿が彼によってすべてに明らかにされた後のことである。

復活の後、四十日目に天界に戻るキリストの姿を眺めた使徒らは、それから十日後のペンテコステの日に聖霊を受けている。即ち『わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け手は来ない』、また『わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助けを送って、いつまでもあなたがたと共に在るようにして下さるであろう。』と言われた『助け手』が聖霊であったことは言を待たない。(ヨハネ16:7・14:16)

聖霊を受けた者らはパウロが言うように『今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない』のであり、ゼカリヤの預言にあった『地の罪を、一日の内に取り除く』の言葉がこうして成就しているのであろう。アダムの罪から浄められた『キリストの兄弟ら』『共同相続者ら』の出現である。(ローマ8:1)

そしてゼカリヤに言われた『七つの目』について二度目に語るのは黙示録であり、七つの目を持つ『屠られたような小羊』についてこう明かしている。
『小羊には七つの角と七つの目があった。この七つの目は、全地に遣わされている神の七つの霊である。』(黙示5:6)
これがキリストに与えられた聖霊を表さないとしたらいったい何であろうか。
聖霊は、世に対してキリストを証し、またそれに対する人々の反応を完全に測り見るものでもあると云える。

聖霊が注がれた出した日に、使徒ペテロはこう宣言している。
『イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。今、あなたがたは、このことを見聞きしているのです。』(使徒2:33)

また、使徒ヨハネはイエスの死の以前についてこう記して、聖霊降下がキリストの試みの後であったことを知らせている。
『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである。』(ヨハネ7:38-39)

そしてモーセの故事は、岩から流れ出し渇く民らを潤した水の奇跡を語り、まさしくパウロは、荒野のイスラエルが飲んだ水の源の岩がキリストであると書いている。(コリント第一10:1-4)

従って、その対型的な神殿の礎石として『試みを経た石』『石工の退けた隅の親石』キリストが置かれたのは、あのキリストが復活を遂げてから、遅くとも聖霊が与えられたペンテコステの日であったと云える理由がこのようにある。

聖霊は、聖徒らを監臨し、建築資材としての石として吟味する。
それだけでなく、聖徒らの計測が終わった後には、全地の人々をも測ることになるのであろう。聖霊への信仰が試されるからである。



◆測られるべき数々の石

旧約聖書中の預言者マラキは、神殿に突然に現れる『契約の使者』についてこう語っていた。
『彼の来る日に誰が耐えうるか。彼の現れるとき誰が立ちうるか。彼は金を吹き分けて精錬する者の火のようであり、布を洗う者の灰汁のようだ。
彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レヴィの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らがYHWHに献げ物を正しく献じる者となるためである。』(マラキ3:3-4)

このような契約が何かについて、挙げられるものがあるとすれば、エレミヤの預言した『新しい契約』の他に何を挙げることが出来るだろうか。
それはもはや律法契約のような『律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っている』ユダヤという『契約の子ら』ではないところの、『律法を彼らのうちに置き、その心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる』というこの新たな契約のことであり、使徒パウロが『もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。』と指摘した『契約』であり、また、『 神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。』とも記していた通りに、律法祭祀の体制はキリストの世代の内に神殿を破壊されて消え去っていった。(ヘブライ8:7・13)

ダニエルはメシアと契約についてこう啓示されていた。
『彼は一週の間、大いなる者らと契約を堅持し、半週でいけにえと献げ物を廃止する。』(ダニエル9:27)
この『多くの者』とも訳される『大いなる者ら』(ララビーム)については、イエス自身のこのような言葉が注意を引く。
『およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である』(マタイ11:11)
また、このようにも言われている。
『わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。』(ヨハネ10:29)

こうして聖書を精密に辿り出して行くと、この『新しい契約』が『キリストの兄弟ら』を生み出すものである様が見えてくる。
それは、神の初子の兄弟、キリストと共同の相続人となるほどの高い立場である。

そのゆえに、聖霊によって『油注がれた』これらの『聖なる者ら』には、『新しい契約』を守るべき重い責務があることになる。なぜなら、契約というものは不確定な事柄を前もって約定することだからである。

ゆえに、彼らには『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない者が多いのだから。』というキリストの言葉がその通りに厳しく臨むことになる。(ルカ13:24)
最終的には『ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される』という結末によって、キリストは従属の祭司と成るべき『レヴィの子らを清める』ことになろう。(マタイ24:40)

この『清め』という選びについて、あの「信仰による義認」の論議によってルターを解き放った使徒パウロでさえ『聖なる行状』を強調し『キリストの律法』との言辞を用い、また、イエスの弟ヤコブも、モーセではない『自由をもたらす完全な律法』について行動を促している。
加えて、使徒ペテロも『召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。』と行状の清さを以って、キリストに相応しい者であるべきことを教える。(ヤコブ2:8/ガラテア6:2/ペテロ第一1:15)

他方ルターは、ヤコブ書簡を評価せず、律法の業をキリスト教徒に求める『わらの書』だとまで言った。だが、ヤコブ書にはモーセの割礼はもとより安息日をさえ守れとは言わず、ただ『隣人を自分自身のように愛せ』というレヴィ記の条項を『王たる律法』と呼んでいる。
明らかにこれはモーセを超えたもの、『新しい契約』に属する、キリストの精神の業を語っているのであり、これこそは、パウロがガラテア書簡で『キリストの律法』と呼んだその同じものではないか!そこにヤコブとパウロの不一致は見られない。
もともと「万人祭司説」は、カトリックと戦うルター自身の修道に対する個人的反発が色濃く、聖書全体を見誤る背景が余りにも強すぎたのであろう。



◆求められる世への勝利

そして、これらに使徒ヨハネが付け加えて強調するのは『この世に対する勝利』である。
黙示録を含め、新約聖書中にある五つの使徒ヨハネ文書にはっきりと共通する概念は『勝利』であり、キリストと共に『この世』に『信仰によって』打ち勝つべきであるという。
即ち、キリストが自らの死に至るまでの従順な歩みを経て後の最後の晩に、『この世の支配者が裁かれた』と宣言できるほどにこの世を断罪したように、キリストと共なる者らには同じように歩む務めがあるというのである。(ヨハネ16:8)

パウロは、キリストの共同の相続人である以上『キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける』と聖霊を受けた者らに告げている。(ローマ8:17)
ペテロも迫害に遭うことについて『キリストの苦しみに与れば与かるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。』また、『キリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださる』と励ましている。(ペテロ第一4:13-14)

これらの苦しみはどうして生じるものだろうか?
世の征服を強調するヨハネはこのように断言する。
『世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。』(ヨハネ第一2:15)
ヤコブの世への見方も手厳しい。
『 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。』(ヤコブ4:4)

このような世との対峙があることは、キリストに伴う『聖なる者ら』に、同じく苦しみを通した栄光をもたらされることも、パウロの次のキリストの死の価値についての言葉によっても明らかである。
『(神は)諸々の支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、晒しものとされたのである。』(コロサイ2:15)

そこで『新しい契約』とは、キリストと共に『世を征服する』という、死に至るほどの試練を通過して初めて守ることができるものということができる。

天界の神殿を構成する彼らも『新しい契約』を守ることを通してキリストのように『完全なもの』とされ、礎石となったキリストという岩に相応しく切り出されることになろう。
もし、相応しくない石材を用いるなら、その神殿は歪んでしまうことであろうから、それは許されないことである。
まして、天界の神殿は地上のものに遥かに勝っているに違いない。

地上のエルサレムに在った神殿が、永く続いた律法祭祀体制と共に過ぎ去る時が近付いた西暦六十年代に、ユダヤ教徒とイエス派との緊張が非常に高まっていた。
ローマに反抗しようとする熱狂的な律法主義者と国粋主義者らの結託はいよいよ強まって、イエス派は迫害の対象とされてゆく。

その渦中に在って、使徒ペテロは書簡を書き、各地の聖徒らに『今は、神の家(神殿)から裁きの始まる時期が来た』として、質の試される試みに聖徒らが直面していることに注意を向け、『愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試錬を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむこと』ばないように、むしろ、キリストと同じ苦しみに与ることを喜べとさえ言う。(ペテロ第一4:17・12-13)

使徒ペテロの時代と同じように聖徒らの質の試される時が来るとしても不思議はない。
黙示録には、終末の啓示に入ったヨハネに、長尺の葦が手渡され神殿を測る場面がある。
だが、彼が測るよう求められたのは、神殿の大きさばかりではなく『そこで崇拝している者たち』なのである。(黙示録11:1)
これは、キリストという親石の上に組み上げられる石の数々について、それが設計に準拠したものであるかどうかを判断することのように捉えることは的外れではないであろう。

それを裏付けるのは、黙示録でこれに続いて『荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言する』ふたりの証人について述べ、それはモーセとアロン、エリヤとエリシャ、ゼルバベルとエシュアの三組の二人組が投影されていることであり、そればかりか、迫害を受けて殺される姿までがそこに予告されているのである。それはまさしく試練という他ない。(黙示11章)



◆「新しいエルサレム」の土台石


さて、地上に於けるキリスト最後の夜、イエス自身が栄光の死を遂げるのは夜が明けて後の時間ではあったが、聖餐を済ませユダ・イスカリオテを祭司長派の許に送り出してから、残りの使徒らにこう言われる。
『今や、人の子は栄光を受けた*。神も人の子によって栄光をお受けになった*。』(ヨハネ13:31)*[エドクサスェー]「輝かせた」 アオ

即ち、イエスはユダ・イスカリオテを去らせ、殉教へのスイッチを入れた上で、『今や』(ニュン)と述べ、早くもこの捕縛の前の時点において、神によって初子の犠牲は確定したものと見做されており、キリストが栄光を受けているというのである。これは『主の晩餐』が初めて行われ、続く例年の儀式の型が示されたときに、キリストは刑死に先立って完全化されていたと見てよいのであろう。

そして、その完全さは被造物の間に広げられてゆくべきものであったと云える理由がある。
なぜなら、エフェソス書にこうあるからである。
『神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。』(エフェソス1:10)
キリストの被造物としての完全の意義は、即ち、義なる永遠性の内にあらゆる被造物を集め、創造の目的通りに永生を与えて神のオイコノミア(家計)に含め、すべてを『子』とすることである。

次いで、特に十二使徒には、後の聖徒らを吟味する権威が授けられることを、イエス自ら最後の晩餐で語っているのである。
『あなたがたは、わたしの試錬の間、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで、わたしの父が国の王権をわたしに委ねてくださったように、わたしも王権をあなたがたに委ね、わたしの国でわたしの食卓に就いて飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族を裁かせるであろう。』(ルカ22:28-30)

即ち、この晩の内にキリストの受ける王権の委任は確定しており、十二使徒の内の十一人に、まず、その栄光が分けられ、後から『新しい契約』に参与する残りの人々を吟味すると言われるのである。

もちろん、その後、彼らもキリストと共に患難の一日を過ごすことになったことを言うのであろう。主はシモン・ペテロにこう言われた。
『シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
 しかし、わたしはあなたの信仰が尽きないようにと、あなたのために祈った。それだから、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。』(ルカ22:31-32)

王権の栄光の分け前を約束された十一人ではあっても、『今夜、あなたがたは皆がわたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるから』というゼカリヤの預言に基いて、死を覚悟して剣を振るったペテロでさえ自分の主を否認することになった。他の使徒らも逃げ散ってしまい。キリストは独り屠り場に向かうことになってゆく。(マタイ26:31/ゼカリヤ13:7)

しかし、それであっても彼らの信仰は、彼らの主の祈りによって保護されたのであろう。ユダ・イスカリオテの道を行く者は他に出なかった。

ペテロが独りで剣をふるうほどに主と共に死ぬ気でいたとしても、それは神もキリストも意図するつころではなかった。
彼には生きて行うべき多くの業があり、あのペンテコステの朝には聖霊降下を受けて使徒たちの先頭に立って、ディアスポラの民にキリストとしてのナザレ人イエスを宣言し、世界宣教の第一歩が踏み出されることになる。
その前途には、地の四方から『アブラハムの裔』『神のイスラエル』を集める出すという一大事業があった。

即ち、キリストの分与する栄光に与る人々『聖なる者ら』の聖霊による召し出しであり、ペテロをはじめとして使徒たちは神殿の祭祀制度が終わりに近付くにつれ、世界各地にその足を向けて行くことになる。(使徒1:8)

その最終的な目的は、天界の神殿の建立であり、集められる石のすべても吟味されなくてはならない。(ヨハネ15:20)
十二使徒が、ほかの石の審査をキリストと共に行うからには、彼らはキリストの兄弟たちである『12部族』の土台というべきであろう。

黙示録の終り近くで、天から降る『新しいエルサレム』は城市であり、そこに神殿は無く、神と子羊とが神殿であるとされる。(黙示21:22)
その城壁には十二の土台石が在り、それぞれに『子羊の十二使徒の十二の名があった』。(黙示21:14)

この城市『新しいエルサレム』そのものは、地上を治める新しい支配であり、新しい祭祀による贖罪の制度を指しているのであろう。即ち「千年王国」であり、エデンで語られ、後に聖霊を以って明かされる『奥義』となってきたものである。

ヘブライ書簡でパウロが言うところの、ニムロデが始めたような、この世に属する城市ではないところの、アブラハムのように天幕に住むイブリート、即ち「この世の寄留者」である者らのために備えられる城市、『真の土台を持つ城市』であり、『その城市の建設者は神である』。(ヘブライ11:10-16)
まさしく、キリストの完全性は『隅の親石』として申し分なく、十二使徒もキリストと共に礎石として試みを経た石と云える。そこに十四万四千の石組がされるのであれば、それは確かに『真の土台を持つ城市』ではないか。

こうして、祭祀のための神殿と、支配のためのダヴィドの王座との融合が起る。神殿でもなく、王宮でもない、金銀宝石に輝く巨大な六面体の「城市」であり、これは終末の背教によってもけっして真似のできないものとなろう。
そこで十二の土台の上に建つ城壁は、方正にして汚れた者の侵入を許さない。(黙示22:15)


◆ひとつの完全がもたらす罪なき世界

そして、イエスは地上での最後の夜の祈りの中で、聖なる者らから益を受ける者らについても祈願を捧げて下さった。
『また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世はあなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります。』(ヨハネ17:20-21)

それであるから、『キリストの兄弟ら』の聖霊の証しに信を置くことになる人々、即ち、この聖なる城市の支配と贖罪に与ることになるであろう地上の無数の人々についても、『聖なる者ら』と同じように神と子の内に住まうという恩寵がキリストによって祈られていたのである。

そのことを通して『世はあなたがわたしをお遣わしになったことを信じる』と言われた。
これは、『キリストの兄弟ら』ではなくとも、彼らを信じて援助を行う人々からも、アダム以来、倫理不全に陥ったこの世が、神からの義の回復を受けるという福音の知らせを聞くと捉えることは間違いではない。
なぜなら、黙示録はこのように結論を述べているからである。

『霊も花嫁も共に言った、「来たれ」。また、聞く者も「来たれ」と言うように。渇いている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。』(黙示22:17)

エデンで『女の裔』が語られて以来、その目的はすべての人のための祝福であったのであり、聖書全巻を通して語られてきたことは、その祝福の進展を知らせるところにあったのである。
それであるから、この秘儀がもたらす幸福はあらゆる人に及ぶものである。
そこに真に価値を見出すなら、誰もが知るだけで済ませず、知らせる側に立とうと思えるのではないか。

キリストが直面した苦難も、聖徒らが受ける試みの妥協の無い非常な厳しさも、共に創造界から悪を除き、人類を救出するために味わうべき激しい痛みである。

では、その益を受ける者が、その恩恵のうえに当然のようにしてどっかりと腰を下ろすだけでよいだろうか?
キリストの自己犠牲の精神に感化される者は、『死んで生き返った方のために生きる』謂われが生じるであろう。そこに真なる価値を見出し、利己心を去ろうとするからである。(コリント第二5:15)

終末の再来についてキリスト・イエスはこう言われた。
『 主人が婚礼から帰って来て戸を敲いたなら、すぐに扉を開けようと主人の帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。』(ルカ12:36)
パウロは『主の晩餐』を行うことが『主の死を知らせる』ことになると書いている。(コリント第一11:26)

キリスト教界がするように的外れな「復活祭」を行うのではなく、キリストの最大の偉業であり、自らばかりか父なる神にも栄光をもたらした『その死を宣べ伝える』ことになるのが『主の晩餐』である。

これを初期の使徒伝承に倣った仕方でこの現代に行うこと、それはキリストが語った『しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』との疑問に答えることになろう。(ルカ18:8)
それはまた、聖霊が再び降下するキリストの臨在を待ち『すぐに扉を開け』られるように備えることでもある。


そして、ヨハネは黙示録において聖書巻末に『アーメン、来たりませ、主イエスよ』の言葉を書いている。

それゆえ神の偉大な経綸の達せられる前に、心を整え、聖霊によるイエスの帰還を待つことは、今の時代に於いて、何ものにも勝った最大の意義をもつことであるに違いない。

そこで問題となるのは、個人がそれぞれどのように関わるかである。
人は本来、この余りにも貴重な犠牲で成り立つ『真の土台』を持つ城市を願い求めるべきだからなのである。




   2018 © 林 義平




3月29日の日没からユダヤ人のニサン月14日が始まろうとしており
今年も動機や価値観を同じくする方々と、『主の晩餐』の機会を共にしたく、無酵母パンと赤葡萄酒の儀礼を各地で行われるようお勧めしたい。

『主の晩餐』の意義についてはこちらを⇒「主の晩餐とは何か
無酵母パンの製法についてはこちらを⇒ 「マッツァの作り方



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