黙示録の鉢の災い 長文2万3千字超
難易度 ☆×6  特高  聖霊と聖徒の理解は必須
黙示録の当該の鉢は黄金であり、それは祭祀に於いて液体の捧げ物を注ぎ出すことに用いられていた
他方で銅製の鉢は、香の祭壇の灰を回収するためのものであった⇒Ex25:29鉢の段階の前に聖徒は既に地上の試みを終えて去っている。聖徒という天界の神殿の石へのこの世の仕業への糾弾の段階、人類軍の召集に至るまでにこの世に表れる不吉な表象。





この『七つの黄金の鉢』の災いは、黙示録の中に繰り返される『七つの封印』、『七つのラッパ』に続く第三のものであり、『これら七人は最後の者らである』と紹介されているように、『第七のラッパが吹奏された』段階で、既に『聖徒ら』は天に揃い、『神の王国の奥義』は終了している。 そのために、これらの怒りの鉢が注がれる段階では『神の王国』が世に介入する直前の僅かな期間を描いており、その間に『この世』には鉢から注ぎ出される災厄の数々によって、神に敵対した世界に凶兆が次々に現れてゆく。

それらの災厄は、出エジプトの際のアロンの奇跡のようでもあり、キリストを屠ったユダヤに臨んだ地震と暗闇のように『この世』が神の是認から程遠いことを暗示するものともなろう。 既に、終末に於いて聖徒らを屠った『この世』の重い罪は明白となっており、残された地上の様々な部分が『鉢』の中身を注がれ、罪の宣告を受け、その悪しきところを次々に暴露されてゆく場面に、これらの『神の怒りを満たした七つの黄金の鉢』が注がれるところに黙示されてゆく。だが『この世』は神の糾弾に対し、その罪を認めるだろうか?

さて、黙示録という書は、新約聖書の他のどんな書とも様相を異にしている。
その記述内容は有り難い「天国の至福」のご利益目当ての教会員にしてみれば、まるで異次元の内容が展開されているというべきであろう。そこに描かれるのは、危機的で理解し難い状況、容易ならぬ試練、罪科への糾弾、未曽有の災い、こうした陰鬱な事象の数々の先に、ようやく神の善意が訪れる。

これは聖書の全般にも云えることだが、この黙示録も信者への神の善意に溢れた書という訳ではない。それゆえにも隠された内容がある。
全能の神、何事も為しえないことの無い方が、ただ人への善意と恵みを注いでいると捉えるなら、なぜに『この世』に悪と苦しみが横溢し、人が救いを願うようなことになっているのであろうか。
所謂「クリスチャン」とは、この辺りを考えない人々の集団であるとさえ云えよう。お目出度いご利益信仰であれば黙示録の真意も肯んじない違いない。そのような人々に黙示録はいつまでも謎となるであろう。
それはエレミヤの音信のようであり、多くの偽預言者らが興ってはエレミヤの糾弾の言葉を、神意ではない人受けする柔弱な内容に入れ換えようとしたものである。

確かに、宗教改革の両大師ルターとカルヴァンは揃ってヨハネ黙示録の聖典性に確信あるような発言はしていない。
ルターは「本書が聖霊によって備えられたことを何も証明することができない」と疑問視しており、カルヴァンは「暗黒の書だ」と友人に漏らしたと云われる。

それでも古来からヨハネ黙示録は、第三世紀のものとされるボドメルパピルス(P47)にも含まれており、非常に古くからの存在は裏付けられてきた。その中にはここで取り上げる『黄金の鉢』の災いの部分を含む16章17節から17章2節の句も古代のままに、パピルス上にそれらを記した文字の数々が現存し、今日もその記述を確認できるのである。
たとえその理解は進まないまでも、彼のヒエロニュモスやムラトーリ断片が黙示録の聖典性を認めていたように、謎に満ちた書でありながら、一半の人々は徒ならぬ聖性を感じてきたのである。

さて、「新約」という言葉に込めらる『新しい契約』とは、律法契約が遂に生み出すことのなかった『聖なる国民、王なる祭司』の選民、即ち、アブラハムに『あなたの子孫によって地上のすべての氏族が自らを祝福する』というその「真実のアブラハムの子孫」を、キリストの復活の七週後のペンテコステの日から、聖霊の注ぎを以って登場させた契約なのである。
その『神のイスラエル』への召しは、肉のイスラエルというアブラハムの嫡流の民族にまず開かれた招きがあったが、キリストを退ける『不足を示し』異邦諸国民が接木されている。(使徒13:46/ガラテア4章/ローマ11章)

『この世』の終わる時期とは、それら人類祝福の器とされるべき『アブラハムの裔』、真実の選民『神のイスラエル』が再び現れ、『この世』にとって代わる『神の王国』という、人類の贖罪と支配とを担うべき世界が、いよいよ間近に到来していることを知らせるところの最終的な預言の成就を迎えるという史上前例のない重大な変化の時となる。

黙示録とは、その「終末」に専ら焦点を合わせた一書であり、キリストや使徒らの言葉だけでなく、旧約からの許多の預言者ら、即ち「ネイヴィーム」に記された遥か古代の情報を、後の危急の将来に備えて呼び起こし、まざまざと活写して再び訓戒を与え、理解を与えられる限定された人々の身の上に起こる事柄を予め見せる役割を負ったおり、そこは特定者への映画の試写会のようでもある。これは終末に面する人々にはまことに重大な意味を持つ。

この書は、到底読んで幸福感に浸れるようなものではない。『天』と『地』への「裁きに次ぐ裁き」なのである。しかし、その必要のない時期にも、また必要のない人にも開示されることはないであろう。その為の黙示文ではないか。
これから裁かれようとしている被告人に抜け道を伝授する裁判官がいれば、その裁きが不正となって意味を成さないように、神がキリストと共に終末に起る事柄を通して、天に属する者らをも、地に属する者らをも裁き尽くすのであれば、その内容や裁きの要諦を『世人』に対してすべてあからさまに教えることは有り得ない。

さて、このヨハネ黙示録が書かれた時期は、第二世紀に入ろうという西暦96年頃とされ、この頃には奇怪な神秘教理を造り上げてきていたグノーシス派の勃興が有ったことで、初代キリスト教徒に属する人々にとっても、このヨハネ黙示録の存在については、ほとんど読解が出来ないという著しい困難のゆえに、グノーシス派の文書のように見え、書かれた当初から聖典に含めるべきでないとするシリア系の信徒集団と、使徒ヨハネの最後の活躍の場であった小アジアの人々の擁護との狭間に置かれてきた書であった。

全体はおよそ四つの部分から成っており、これを記したヨハネ自身が復活した恐るべき厳貌のキリストから命じられたように『今あることを、今後起ころうとしていることを書き留め』ている。
『今あること』とは、この書の第一の部分に述べられる、著述当時に見られた小アジアの各エクレシアの状態と、それをキリストが見守り、訓戒を与えている場面を指すのであろう。
そこでは聖霊によって生み出され、『新しい契約』に預かり、『聖なる者』となりながら、その契約から逸脱し兼ねない彼らの行動への譴責と、契約を全うし終えたときに彼らが受ける類い稀な栄光ある立場への励ましが込められている。

次いで、幻の内に天界に挙げられたヨハネは、後の世、それも聖徒らの裁きとこの世の裁きの終末に起る事柄への多くの黙示を見聞することになるが、それらが残りの三つの部分を構成している。
黙示録第二の部分は、解かれる書の『七つの封印』であり、キリストの勝利により、終末の恐るべき世の姿が開示されてゆく。

第七の封印が解かれると、そこから『七つのラッパ』の吹奏により『三分の一』とされるこの世の宗教的部分への不吉な宣告が下されるが、これが第三の部分を成している。

その中の最後に第七のラッパが吹かれるに至って、遂に『神の神聖な奥義は終わりに至る』ことになる。遂に『アブラハムの裔』が生み出され、天界に『キリストの権威が実現する』からである。

また、これらの黙示の合間には、『聖なる者ら』が身に多大の苦難を受けながら『この世』への暗鬱な預言を行うこと、また、彼ら聖徒を生み出す象徴の『女』アブラハムの正妻サラ当たる集団についての知らせも込められている。(ペテロ第一3:6/黙示録12:1/イザヤ60:1)

これらの記述の後、既に『新しい契約』がその役割を果たし終え真実のイスラエル『神の王国』が設立された後について、黙示録は第四の部分を語り始めるのだが、これが『七つの黄金の鉢に満たされた』神の怒りが注ぎ出されるという、聖徒らを屠ったこの世への激しい憤怒が頂点を迎える場面であり、22章ある黙示録は第16章まで進んでおり、なおその先を語るのである。
この『七つの鉢』の記述が終わると、『聖なる者らの血に酔う』大娼婦『大いなるバビロン』への滅びへと進み、以後、黙示録は人類社会への裁きの執行の場面と千年期の後の最終部分を残すのみとなるのである。

この終末三番目の「七つ」である「怒りの鉢」が何を表しているかについて、それは『大患難』の実際の災厄であるとも、また「ハルマゲドンの戦いの様子」であるとも教えられる。
その理由には、黄金の鉢を携えた七人の天使らについて『最後の者たちである』とされており、終末を示す『来るべき事柄』においての三重の七つの段階は、ここで三度目に描かれ、次なる「七つ」はもはや無いことがある。

しかし、「七つの鉢」の黙示そのものは、実は大患難もハルマゲドンも描いていない。大患難であれば、はじめの「四つの封印」が解かれた場面で早くもその恐るべき事態は既に開示されている。⇒「黙示録の四騎士」

「七つの鉢」によって描かれているのは、人々に見える実害によって証拠立てられる「この世の咎の告発」であり罪の宣告であり、七つの段階を進むに従い、『この世』は裁き凶兆によっていよいよ追い詰められてゆくのである。

それは、アダム以来神から離れて存在を続けてきた『この世』という人間製の体制が、どれほど倫理上の欠陥を持ち、争う貪欲が支配し、邪悪さに強情で空しく、人間の栄光を失わせ、如何に存続するに相応しくないのかが暴き出されてゆく。それでも悔いることのない者らの末路は、もはや異議を唱える根拠も残されないであろう。これこそ神の裁きというべきである。(ヨハネ16:8)

さて、黙示録は同一の事象を多面的に語るところがあり、封印もラッパも鉢も、必ずに時間的経過に沿って書かれてはいない。むしろ、終末に起る事態を複数の観点から記しているのであり、その都度、知らされることなく旧約聖書やキリスト・イエスの発言への関連が暗示され、「知る者は悟る」という書き方が終始徹底されている。
それこそは、初臨のキリストが『耳ある者が聴け』と言われ『譬えを用いてでなければ話そうとされなかった』と記されたところを彷彿とさせるものである。

それであるから『黙示』(アポカリプシス)、つまり「覆いを取り去る」という表題の意義は、限定された読者に対するものであり、それは聖書全巻に相当に通じた者のための書と言える。
なによりも大切なことは、『この世』が終わり、社会も人も生活も思いも、日常のすべてが激変するところに差し掛かる「終末」という、歴史上未曽有の事態に面する特定の人々をしてこの書が備えさせていることにある。したがって、「黙示録」は霊感されていない著作でも暗黒の書でもない。これなくして終末の意義を知ることは到底無理であり、黙示録は終末に面する人々への心を整えさせる重大な警告が込められているのである。



◆聖なる者らの召集の完了

この鉢の災いの天使らが『最後の者らである』と述べられているように、これらの災いが始まる以前に終わっている事柄が示唆されている。
それがこれら七人の天使らが現れ出る場所が『聖所』であり、そこは『神の栄光と立ち上る煙のために、誰も中に入れなかった』と描き出されているところである。

このように『聖所』が雲で満たされた場面が旧約聖書にあり、モーセの日に、律法契約に伴う神への祭祀の準備が整い、いよいよ崇拝が幕屋で開始されようとする直前に起ったこと、また、後にソロモン王が神殿を建立し、そこでザドク系の祭司団が奉仕を始めようとした日にも起ったことであり、祭司たちはその栄光と雲が去るまで祭儀を開始できなかった。

そして黙示録のこの『鉢』の場面でも、やはり『七つの災いが終わるまで、聖所には誰も中に入れなかった』とヨハネは記す。
この意味は、既に天界での祭司団の浄めも済み、祭祀の準備ができている段階であることを知らせるものと言える。終末に於いても天界の祭祀の開始は神の『雲』が晴れるのを待たねばならない。 即ち、『七つの鉢』から神の怒りが尽く注がれるまで、天界の神殿は整えられていても、その祭祀が始められることはなく、聖徒らの崇拝はその後の事となるのである。

確かに黙示録は、これら『鉢の災い』の以前に『第七のラッパ』が吹き鳴らされるときに『神の神聖な奥義は終了する』と語っていた。即ち、そのラッパの時点で聖徒の試みも終了し『レヴィの浄め』も達成された。
奥義の満了を通して『新しい契約』はその働きを成し遂げており、大祭司キリストとその祭司団が天に揃い、『女の裔』が現れることにより、聖徒らの長としてのキリストの権威が天に於いて実現していたのである。
だが、これら『七つの鉢の災い』が終わるまでは、天界の神殿祭祀も開始されず、その終了を待つべきであることを黙示は教える。即ち、『この世』への罪状認否の確認である。

これが意味するところは、まったく地の咎が露わにされた状態に入ったことである。
地で試され屠られた『聖なる者ら』は既に天界に去って地上には居らず、『新しい契約』を忠節の内に全うしなかった脱落聖徒たちが、連れ去られずに地に残されている『この世』があるばかりであり、しかも『この世』の全体には『聖なる者ら』を弾圧して滅ぼした重い罪を負って、いよいよ邪悪さを極めた醜態が見えている。そこに於いて『地』は、ただ裁かれるべき、罪科を負うばかりの世界となっているであろう。

だが、この段階では天界に去った『聖徒ら』と雖も、未だキリストと共に神殿を構成するには至っていないらしく、そのためか黙示録で七人の天使らが出て来たのは『神殿』ではなく『幕屋』とされている。
その時点で、天界に新設された祭司団が機能を始める前に為されねばならない一つの段階が残されており、聖所は雲に覆われ祭司らの活動はしばし止められ、為されるべき事のための時間が設けられている。それこそが『七つの鉢』による地への『神の憤り』の注ぎ出しなのである。

七人の天使らは『最後の者ら』であり、彼らの処置によって『この世』の全体が悔いを拒むことにより、モーセとアロンという『二人の証人』に抗したファラオを前表として、『この世』という対型的エジプトに対し、遂に処断の段階を迎えるために判決の申し渡しに相当する行いを為すことになる。

それらの描写は、七つ頭を持つ『野獣』によって死に至った『聖徒』たちも、『王の王、主の主』となられるイエスに追随して『諸国民との戦い』を繰り広げる直前の状態に居ることを教えるものとなっている。
だが、彼らは『野獣』と地上で戦う信仰の試みに於いて最後まで妥協することなく、キリストの道を歩んで遂に契約を全うし、主に付き従う者となったゆえに、それは勝利であり『世を征服した者』となり『キリストの兄弟』『キリストと共同の相続人』であることを自ら立証するのである。

それゆえ、彼らはモーセの時の七十人の長老らが、律法契約の締結を祝してシナイ山に招かれ神の面前で飲食したように、ガラスのように見える光景を足下にして、『モーセの歌と子羊の歌』を詠唱している。即ちそれは紅海での勝利の歌であり、弟子らを励まして『勇気を出せ。わたしは既に世に勝利している』と語り得た子羊の犠牲の死の偉業をも讃える内容であろう。(黙示録15:1-4/出埃24:9-11)

なぜなら彼らは『獣』と『その名の数字』『666』に勝利したと明記されているのであり、既に彼らは天界に召されているのである。
黙示録も、ヨハネの当時の聖徒らに向けて復活のイエスが激励するように『勝利を得る者』には類い稀な多くの報いが用意されているのである。

『新しい契約』を守って忠節を尽くし、『野獣』に屈することなく殉教したその勝利が、彼らをして『王なる祭司、聖なる国民』の立場を確定したのであり、彼らは天界でキリスト・イエスと共に祭儀を行う身分をその生涯を通して獲得したのである。

このように、天では準備が整いつつある中で、地上と云えば『聖なる者ら』を屠り尽くしてその罪悪は極まっている。この情況で神の怒りが表明され始めるのだが、その怒りが液体の注ぎとして描かれるのは、旧約預言からのことであり、それが黙示録でも鉢という容器に入れられている点に整合性がある。同じく古代のイスラエルはその所業により断罪されている。(歴代第二34:25)
終末での罪せらるべきは、『この世』の為政者らと、彼らに聖徒らを売り渡した脱落聖徒どもであり、加えて、キリスト教の偽りなき真理を告げた聖徒、即ち『二人の証人』を死に至らしめるべく、公権力を唆した旧来の宗教の集合体であろう『大いなるバビロン』との名を持つ大娼婦の三者である。

もちろん、『この世』の全体としては、『聖なる者ら』の処刑に賛同したのであり、それゆえにも『野獣の数字』である『666』の強制に喜んで服し、賛同もしたのであろう。その印を『手』と『額』、即ち、古代に律法遵守が「行動」と「思惟」に求められたように、人々の大半は野獣崇拝に従ってしまうのであろう。(申命6:8/黙示13:15-17)

イエス・キリストを屠ったユダヤ宗教体制が、ひとつの世代を過ぎることなく瓦解したように、終末の『この世』も、聖徒殺害を通して引き返すことのない行きどまりの道を突き進む以外にない。それは聖徒らを亡き者としたことで、キリストの共同相続者らを天に揃わせたかつてのユダヤ体制派が行ったような暴虐によってその重罪が重ねて犯され、古代にユダヤ体制が滅びへの袋小路に入り込んだように、終末の『この世』の命運もまったく決したというべきであろう。

今や『この世』には陰鬱な印が次々に起る。それはモーセの日にイスラエルに反抗を続けたエジプトを襲った十度の災い、また、メシア殺害の咎の報いを目前にし、ローマ軍団の足音がひしひしと近付く中での無法な騒擾と、身の毛もよだつほどの凶兆とが渦巻くことになったエルサレムにも比すべき陰鬱な時期の到来となるのであろう。

黙示録の終末に於いては、『神の子ら』への返報の予兆が『七つの鉢』に注がれた神の怒りの災いとされており、それは次々に『この世』を断罪し、出エジプトの時にそうであったように、それらの災いを通して、なお『この世』を離れるよう人々を促すものともなるのであろう。



◆野獣の秘儀

これらの『鉢の災い』を理解するために、把握しておくべき黙示された『野獣』がある。
つまり、聖徒らがキリストの完全性に預かるべく、忠節な生涯を全うさせる最後に、多くの聖徒を殉教へと陥れる『七つの頭を持つ野獣』とは、地上にすべての聖徒が生み出されたことに起因して、天界での立場を失った悪魔とその一党らが地に放逐されて後のこと、地上で聖徒を生み出した『女』を攻撃しようとしても上手くゆかず、そこで攻撃目標を聖徒らに改めるに際し、『底知れぬ深み』から呼び出される異形の『獣』であり、聖徒攻撃のために特化された悪魔の武具である。

『底知れぬ深み』[アビュッソース]の聖書中の用例を見ると、同じ黙示録の中では、悪魔が千年間囚われる場所が『底知れぬ深み』であり、千年の後には、その場所の鍵を持つ天使により、そこから解かれることが知らされている。

同じく黙示録では、『底知れぬ深みの鍵』を持つ『星』が天から地下に降って開錠するや、黒煙のような蝗の群れが放たれている。即ち、地に降ったキリストが解き放った聖徒らの宣教による世への痛撃のことである。初代の聖徒以来、現れることの無かった彼らは、終末の『この世』の空を覆って暗くし、五か月の蝗の寿命の間、世人すべてに『罪』あることを宣告することにより人々を苦しめることになろう。(黙示9章)

また、使徒パウロは『「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。』と述べ、殉教のイエスが確かに死に下ったことを否定しないようにと書いている。(ローマ10:7)

確かにキリスト・イエスは死に服して『地の芯に三日居た』のであるが、その死は出エジプトの晩に屠られ食された子羊と同じく、レヴィ族を買い取り神に仕えさせたように、天の神殿で仕える祭司となる聖なる者たちを召し出している。
聖霊を注がれた彼らは、ヨエルに予告された蝗のように、イエスを殺害に至らせた祭司長派をはじめとする宗教指導層を糾弾し、その悪行を告発される痛みを味あわせたのであった。そして黙示録は、同様の事態が遥かな時を越えて終末に繰り返されることを暗示しているのである。

これらを総合すると『底知れぬ深み』とは、無活動と時間の経過とが関連付けられていると言える。

従って『底知れぬ深み』から上って来る『野獣』とは、かつては存在したものの、永らく無活動の牢獄に居たことが示唆されている。
そして『野獣』という表象については、ダニエル書の再三繰り返される啓示の中で、一貫して王国や帝国という支配機構として示されてきた。

加えて、『七つの頭を持つ』というこのことについては、やはりダニエル書で四つの頭を持つ豹のような獣が現れているのだが、その異象と歴史上の成就とを比較してみると、強大な支配権が樹立されてのち、四人の側近によって分けられ、四つの王国に分離したアレクサンドロス大王のマケドニア・ヘレニズム王国を指していたことは広く知られたところである。

そこで『七つの頭』を推論すると、七つに分かたれたかつての王国を探すことにはなるのだが、そこで『七』というヘブライ文化に於ける数字の特殊性を勘案する必要が出て来るのである。この稿で考慮している『七つの鉢』のように、聖書において『七』は格別な数字であり、同じく黙示録では、人類史上の世界覇権の数をやはり『七』としている。

そして『獣』が支配体制を指すのであれば、『七つの頭を持つ野獣』とは、それら歴代の世界覇権を併せ持つ強大な支配体制であると類推することができる。
やはり、黙示録はこの『七つの頭を持つ野獣』が現れる時、それを見る人々は恐れて『この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか』と言う様を予告しているのである。しかも、この『獣』が『底知れぬ深みから上って来る』のであれば、それはかつて存在していなければならない。

そこでヒントを与えているものが、『その頭の一つが、屠られたかのように死んでいたが、その致命的な打撃から癒えてしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従う』という部分である。
これら七つの頭を世界覇権の一つ一つを表すものと仮定して推論を進める場合、どれか一つの覇権は、かつて致命的な損害を被っていることになる。

だが、損害を被らずに歴史の舞台を去った覇権なぞ無かったし、これからも無いであろうから、この『頭の一つ』は格別な意味での致命傷を負ったと見るべきであろう。
そこでこの謎について想い巡らしてゆくと視界に入ってくるものがある。
文明の黎明において、世界覇権の中で歴史の遥か彼方に、神からの有無を言わせぬ格別な力の行使を受けて、覇権を失った例が創世記の過去に存在しているのである。

それは、世界最古のシュメール文明と共にあり、人類を一か所に集め、統一支配を樹立したに等しいまでに成り上がった『ニムロデ』と呼ばれている何者かの支配覇権であり、それは本来なら神のメシアにのみ認められるはずであった全人類支配の実現の野望であった。
それがどう処置されたかは、創世記の語る通りに、言語が分けられてしまうことにより、人類の統一支配が妨げられて今日に及んでいる次第である。⇒「誤解されてきたバベルの塔」

だが、黙示録の開示する終末の有様の中では、この『一つの頭』も癒えてしまい、言語分割されたままの七つの頭を持った奇怪な姿のまま、再び強大な力を持つことが知らされるのである。
終末の世界が、その再登場を見るときに、『いったい誰がこれと戦うことができようか』と恐れるというのであるから、その支配権は歴史上類を見ないほどに強大であり、歴代の『七つの頭』であるそれぞれの覇権を併せ持つほどの、おおよそ『この世』と呼ばれる支配体制全体の糾合されたような恐るべき強権が終末にその姿を現すのであろう。

それは現存する国際連合のような、評決で平和的行動をやっと決めるようなおとなしいものではなく、むしろ既存の西欧的世界的体制などに満足せず、後発ながら強圧的な軍事集合体を構築し、それまでに存在しなかったような獰猛で野蛮で強大な権力を恣意的に振うという点で歴史的にも稀なものとなろう。それは『神の王国』と鋭く対立することになるが、その最重要な務めは、黙示録によれば聖徒たちを蹂躙することであり、恰も、そのために歴史の舞台に登場するかの観がある。

この地上の諸権力を併せ持つ『七つの頭を持つ野獣』は終末に至って、ダニエル書の『北の王』の提唱と擁護によって設立される権力の糾合される世界的軍事同盟も様相を見せ、それは現在までのところ姿を現してはいないが、その『野獣』としての行動また直接的存在は『42ヶ月』という非常な短命に終わることになる。おそらくは、設立基盤である『北の王』が大国として立ち行かなくなる暗示がダニエル書に描かれているためであろう。この野獣は先の七つから出て、第八の覇権となるとされるのだが、わざわざ『去って滅びに至る』と黙示録に於いても書き添えられている。(黙示13章・17章)

その『七つの頭』には『七つの王冠と十本の角』があり、この『十本の角』は後に『獣』とは独立して行動している節がある。しかし、とりあえず、この『七つの頭を持つ野獣』は、その強権を以って、聖霊の発言により『神の王国』の到来を告げ知らせる聖なる弟子たちを攻撃して死に至らせることが許されていると黙示録は語っているのである。



◆「三分の一」の秘儀

それからもうひとつ、鉢の災いの秘儀を追って行く前提条件として、(他の記事で扱ったが)黙示録中で度々現れる『三分の一』について理解を準備しておかねばならない。

「鉢の災い」の以前に、黙示録第八章に於いて、第二のラッパが吹奏されたことにより『海の三分の一が血になった』とされていた。
この世の三分の一を構成するほどの人々の集合体と言えるものを探そうとすれば、国家には無いのだが、他にそれに匹敵するほどに巨大なものが挙げられはするのだが、それは単なる一括りの集団ではなく、キリスト教に深く関わる大集団が存在している。
それが今日二十億を越える人口を擁する世界最大の宗教、「キリスト教界」であり、これはどんな国家よりも大きい人口と領域を占めている。

この世に聖霊の注ぎが再開され、再び聖徒が現れるとするなら、その世界に対して使徒時代のようなキリスト教、即ち「原始キリスト教」が清い状態で回復されると見ると考えることは妥当なことであろう。

だが、そうなると現状の「キリスト教界」はそれを歓迎するだろうか。
この点で示唆を与える事例は、イエス・キリストの初臨、また使徒たちの活動を、それ以前から存在してきたユダヤ教体制が、それをどう迎えたのかという歴史上の実際であろう。

旧約聖書最後の預言者マラキは、初臨のメシアがユダヤ体制を試すことに於いて『銀を精錬するもの』また『洗濯人の灰汁(洗剤)のようになる』と警告し『その来る日には、だれが耐え得よう。その現れる時には、誰が立ち得よう。』との畏怖の念をもって語っていたのであった。(マラキ3:2)
そこでラビたちの中から「メシアの患難」という言葉さえ造語され、それを避けるためのまじないのような行いさえタルムードに記されるようになったのである。

そして、実際メシアは『ナザレ人イエス』となって来られたにも関わらず、ユダヤ体制はそれを認めずに、その後も二千年も待ち続けたままである。
だが、メシアをローマの権力に渡して処刑させた咎は、その世代の内にユダヤ体制に酬いとなって襲い掛かり、遂に神殿を失い、律法祭祀を行う場所を失い、もはや律法を遵守する希望さえ断たれて今日に及んでいるのである。
メシア自身は、これを『自分たちが査察されていることを見分けなかった』ことが原因であると言われたのである。やはりユダヤ体制は「メシアの患難」を避けられなかったのであった。

では、キリスト教界は再臨のキリストをどう迎えるのであろうか。
多くの宗派で、再臨のキリストは肉眼で見えるとされている。あるいは、地にその姿を現すことで、ユダヤ教徒たちがその見えるメシアに帰依し、「集団改宗」という、即ち、民族を挙げて一気にキリスト教徒となるとさえ信じている人々もキリスト教界には少なくもない。

だが、キリスト教への帰依がそのようなものであるなら、終末に於ける『この世』の裁きとは、各個人の内面の性質がどうであるかが問われるものではなく、その信仰は外面的で、見えたままを受け入れる事になってしまう。それが各個人の倫理性を問いただし、永遠の裁きに分けるような「信仰」と云えるのだろうか。
それほど単純なことであれば、イエスはなぜベツレヘム・エフラタからではなく、ユダヤ教の中央からも離れたガリラヤの片田舎のナザレから来られたのだろうか。

そこには、単に預言のままには来なかったメシアに、神への個人の信仰、また一人一人に倫理的価値観を問う神の姿勢が見えるのである。
確かに、マラキが警告していたように、メシアの現れはユダヤ宗教体制を揺さぶる裁きとなり、『銀を精錬した』結果、ユダヤは裁かれ、メシアを殺害するという最悪の罪を犯し、パウロも言うように『イスラエルには感覚の麻痺が生じて』聖なる国民には異邦人が接木されねばならないほどに不足を見せたのであり、その咎と云えば、バプテストの予告した『火のバプテスマ』を被るという惨憺たる結末に、ひと世代の内に至ったのである。(ローマ11:7-)

そうであれば、メシアの再臨がキリスト教界にとって、単なる祝福になることを期待する理由が何かあるだろうか。
まして、二度目の臨在は、一度目とはまるで異なることを示してパウロはメシアについてこう言うのである。
『ご自身を犠牲として献げて罪を取り去るために、世の終わりにただ一度、現れてくださった』『キリストも多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れる。』(ヘブライ9:26・28)

また、キリストが一度目には肉体でこられた理由については、肉体の死が必要であったことを示してこう述べる。
『子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらを備えられた。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。』(ヘブライ2:14-15)

だが、しかし黙示録のイエスはまるで異なっている。
ヨハネの見た様は、髪は真っ白になっており、両眼は燃え盛る炎であるばかりか、その口からは諸刃の長剣が突き出ているので、それを見るなり彼は気を失ったとある。
教会員の多くは、十字架上にうなだれるキリストを、自分のために命を投げ打ってくださった優しい恩人とばかりに感傷に浸ってそれを眺めているのであろうか。

だが、再臨のキリストは『弱さのゆえに刑木につけられたが、神の力によって生きておられる』とパウロは語り、また復活した復讐に燃える恐るべき姿のキリストは、ヨハネに向かって『わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている』と豪語されているのである。(コリント第二13:4/黙示録1:18)

そして地上に在られたイエス自身が、福音書の終末預言の中で、何度も『彼はそこに居る』と言われてもそれを信じるなと警告を繰り返している。
また、『稲妻が東から西にひらめき渡るように、人の子もそう現れる』と言われるからには、真実のメシアの再臨は、人として地上に来られるのではなく、見えるメシアはむしろ偽物というべきであろう。

そこで黙示録中で度々言及される『三分の一』なのだが、メシアの初臨のときのユダヤ体制に相当し、メシアの再臨に於いて強い試みに曝されるものとしての「キリスト教界」のメシアに対する甘美な期待の脆弱性に注目しないではいられない。

なぜなら、メシアは『この世』を裁き、ご自身と兄弟たちへの報復のために再臨を為し、その時にこそ、敢えて敵対し続ける『この世』の勢力からエリコのラハブや、城市ギデオンのようにメシアの側に着こうとする者らを救出するのであり、そこに求められるのは、柔弱な信者だけの天国願望ではなく、神の公正への「忠節な愛」なのであり、地上は究極の正義と邪悪の戦場とならざるには済まない。



◆鉢から注ぎ出される七つの怒り

聖徒らは、『捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここが聖なる者たちの忍耐と信仰が必要なところである。』と書かれている。
これが人類の裁きに先立つ「聖徒の裁き」であり、キリスト・イエスが『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだ』との厳しさの由来、また『自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを得るであろう。』との言葉の真意がそこにある。(ルカ13:24/マタイ10:39)

キリストの契約を守り、全人類祝福のための選民『神のイスラエル』として数えられるに至るためには、主イエスに続いて命を懸ける決然たる意志と行動とが求められており、それゆえにも彼らはキリストと共に『凱旋行進』を共にすることになるのである。(コリント第二2:14-15)

さて、こうして『新しい契約』がその働きを終え、『聖なる国民』が天に揃った後、地に依然存在している『この世』には、キリストばかりではなくキリストの『兄弟ら』を屠った重大な罪の報いが求められ、その件が有ってこそ決定的に神の憤りが頂点に達するのである。

その怒りを満たした『黄金の鉢』とは、本来の神殿祭儀では葡萄酒の捧げ物を祭壇に注ぐためのものであったとされる。
葡萄酒は後の『主の晩餐』でキリストの犠牲の血を表象するものとされているが、黙示録の黄金の鉢に注がれた葡萄酒は、聖徒らの犠牲の表象なのであろう。
従って、これらの『鉢』の災いの始まる前に、聖徒らへの裁きは完了しており、『この世』への裁きへと終末の段階は進化するのである。


・第一の鉢
その第一の鉢の中身は、地に注がれる。
すると『獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々との身体に、ひどい悪性のでき物ができた』。

このような皮膚病は、出エジプトの時の災いの中に有り、それは人にも家畜にも水腫を伴ったでき物を生じさせ、異教の祭司らもファラオの前に立てなかったとされている。
その災厄はエジプト人に限定されたものであったが、やはり黙示録でも限定された人々についての災厄となっている。
だが、黙示録の明かす終末でのこの災厄は、他の鉢のものを含めて、皮膚病などの実際に起る事柄を述べているのではなく、「黙示」である以上、他の多くの描写に同じく象徴的な何かを教えるものである。

この野獣崇拝に関わる人々に限定された皮膚病とは、その人々が崇める強大な権力への帰依がもたらす過ちの兆候の一つが、皮膚が人の外装であるように明らかに見える事態を指すのであろう。それはその人の行動を抑制し、不自由さを味あわせるほどの何かのように思われる。既に、黙示録十一章では『聖なる者ら』を表す『二人の証人』を直接に死に至らしめた咎がある。

最初の鉢の怒りが注がれた場所である『地』とは、聖書中の『天と地』の語の慣例からすれば、支配される側の民を指すのであれば、地の大衆も『獣』を崇拝する以上は、その行動を是認し、神への敵対を明確にしている「共犯者」となっている。その表層である皮膚に現れた災厄は、その人々同士で認められる神からの不興の印と言えよう。

今日でさえ、人間の生産活動に伴う歪みから、自然界に気象の異常が関わってきているのではないかと論じられている。20世紀の後半から豪雨と旱魃が、気温の異常が、地上の様々な場所を襲うようになってきたとされ、ローマ時代からの橋が流され、ルネサンス期の彫刻像が溶解している様は、やはり人類社会全般がその生き方を省みるべき事を指し示している。

平穏な日常が強大な自然の力の前に打ち砕かれるとしても、人が社会全体の生き方、在り方を反省したりする姿を見ているだろうか。いや、むしろ信仰あるほどに「神が居るならどうして」と思うことであろう。しかし、問題を惹き起こしているのは実に人間なのであり、その倫理上の欠陥は、重い宿痾となって人類に憑りついているのである。それを知っても認めないとすれば、それは快癒を拒絶する病人のようになろう。

だが、人間は貪欲に基づく生活方式を変えることはまったく難しい。そのうえ、異論を唱える人々も居れば、一致した改革も至難の業であることは、現状でさえ様々な国際会議の実態に明らかである。だが、現実は容赦なく人々に襲い掛かりつつあり、なお将来に来る終末の時期に我々は世界を汚染することに於いて何を見るのか、まったく予断を許さない状況にある。


・第二の鉢
さて、二杯目の鉢は、『海』に注ぎ出されることになる。
そのため、『海は死人の血のようになって、その中の生き物のすべてが死んでしまった。』
黙示録に於いて『海』に災いが降るのは二度目になるが、一度目との間には異なりがある。
第八章の第二のラッパの吹奏によって災いが及んだのは、『海の三分の一』であり、先に見たようにこれがキリスト教界への断罪の宣告であった可能性を示唆しているのが、海に投げ込まれた『燃える山』の存在と言える。

『燃える山』と云えば、聖書中に在って最も深い印象を与え、新旧の聖書でその概念が繰り返されている。即ち、シナイ山であり、律法契約の締結のためにその山に降って来られた神の恐ろしさは一方ならず、全山が激動し竃から立ち上るような黒煙と百雷と稲妻が煌めく中、神が火となって降って来られたのであった。

イスラエルの民は肝をひしがれ、神には『わたしたちに直接に話さないようにしてください』と懇願するほどであったが、モーセはこの意味を説いて『神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのだ』と語っている。それは神との契約を取り結んだ民への責の重さを銘記させるための畏怖すべき現れであった。

そして神は、再び山だけでなく天地を激動させるとハガイに預言させただけでなく、使徒パウロがこの件をヘブライ書第十二章で雄弁に語っており『あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか』と警告しているのである。

これは、聖徒らの語るところにキリスト教界がどう反応するのかを暗示して、『新しい契約』に預かるという彼らの主張が、シナイ契約を守らなかったユダヤ体制のように糾弾されることを意味しているのであろう。
それゆえにも、燃えるシナイ山という契約履行への責任の追及の象徴が、世界人類という動揺する海に投げ込まれたときに『三分の一が血になる』謂われがある。キリスト教界が聖霊の声にまずは従わないであろうことを通して、その死が確定するからであり、『血』とはその象徴であろう。

だが、黙示録第十六章での第二の鉢については『燃える山』は出ては来ない。その対象は契約とは関係のない世の全体となっているからであろう。
その災いは、もはや『三分の一』だけに問われる咎では済まず、それと結託して神からの使者、聖霊で語る『聖なる者ら』を亡き者とした『海』で表される人類全てに及ぶのである。

人類社会は貪欲が推動する世界であるので、当て所も無く蠢くばかりで、一致した行動も目的を果たすことも不可能である。それぞれの貪欲がせめぎ合って、あらぬ方向へと常に流されているのがこの世というものであり、イザヤの預言にはこうもある。
『しかし悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができないで、その水はついに泥と汚物とを出す。わが神は言われる、「よこしまな者に平安はない」』(イザヤ57:20-21)


・第三の鉢
そして第三の天使が次なる黄金の鉢の中身を『川と水の源とに傾けた。すると、すべて血となった』とある。
『川と水の源』に関する記述は新旧の聖書中で散見されるもので、これは水源を意味している。(イザヤ48:21)
古来、ユダヤ文化では「水」(マイム)にも幾らか区別があり、流水は「生きた水」(マイムハイイーム)と呼ばれ、溜められた水よりも格段に好ましいものとされてきた。
確かに源を持って流れ出る水は澄んでいるが、貯水は淀み濁ってゆくものである。それであるから、ただ流れ込むばかりのパレスチナの「塩の海」は「死海」とも呼ばれている。

エレミヤ書に『わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った』とあるように、聖書中で「水の源」は、命を与える神自身を表している。
エゼキエルやゼカリヤの預言書には、神殿から水の流れが発して、それが死にゆく者らを救う「生ける水」とされている。黙示録でもこのテーマが繰り返されているのだが、その一方で、旧約の預言書は『毒の水』も対照して語っているのである。エレミヤ書にはこうある。『我々の神、YHWHが我々を黙らせ毒の水を飲ませられる。我々がYHWHに罪を犯したからだ。』(エレミヤ8:14)

これについては、黙示録の鉢の災いの以前の、第三のラッパのところで『水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ』とあるのだが、同じくエレミヤ書にも背教したイスラエルの体たらくを罰する目的で『「彼らは、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、それに歩まず、彼らのかたくなな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルに従って歩んだ。」それゆえ、イスラエルの神、万軍のYHWHは、こう仰せられる。「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。』と書かれている。(エレミヤ9:13-15)
この両者の共通点を通して、古代と終末で共に神の民を自認する者らへの神の不興が表明されていると捉えることは自然なことである。(アモス6:12)

黙示録の前半の第三のラッパでもたらされた水源の汚染も、後半部の第三の鉢によって血とされた流れる水も、共に神の処断であり、本来なら人々を生かすはずの水の流れも、死をもたらすものとされている。
これは、ラッパに於いては、キリスト教という本来人に永生をもたらすべきであったものが、実はそうではなく、その教えと云えばただ死のようなものであったことが、降下した聖霊の発言によって暴かれてしまうようなことであることを、旧約の預言を通して黙示されており、我々はそれを察知すべきなのであろう。

こうして、神に関わる知識の源であるべき『三分の一』の宗教上の理解も教義もまったく無益なものであることが明らかになるとき、かつての神の民を襲った事態は繰り返されないとは限らない。イザヤはこう述べていたのである。
『「この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしてもそれは人間の戒めを覚え込んだからだ。
それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねてこの民を驚かす。賢者の知恵は滅び聡明な者の分別は隠される。」』(イザヤ29:13-14)

従って、第三の鉢の怒りによって、世のすべての『川と水の源』が血に変わるとは、ラッパの災いが限定された『三分の一』に向けられたものであった以上に、この世のあらゆる精紳面での導きを司る指導者らの教えが無意味と化して生気を失い、それがただ死に向かうばかりの、希望のなく、儚い虚構の知恵であることが暴露されることを予期すべきことになる。
その理由を黙示録では、水を司るという天使の言葉としてこう記している。
『「この者どもは、聖なる者たちと預言者たちとの血を流しましたが、あなたは彼らに血をお飲ませになりました。それは当然なことです。」』(黙示16:5-6)
即ち、為政者らをはじめとする『この世』が、体制として聖霊で語る聖徒らを退けるばかりか、キリスト・イエスにしたように、その殺害に手を染めるのであれば、それは『聖霊への冒涜』であり、『けっして赦されることのない罪』となる。(マタイ12:31-32)

そこで、神への祭祀において犠牲を捧げる場である『祭壇』までが、擬人化されこう語るのである。
『「然り、全能者である神なる主よ、あなたの裁きは真実で正しいのです。」』(黙示16:7)
これらの鉢が金製であると描写されていることからすれば、律法の祭祀に於いて、それらは聖所の香の祭壇の灰を処理するための鉢ではなく、飲み物の捧げ物を入れる容器としての鉢であり、その中身は葡萄酒であったことになる。タルムードによれば、神殿での祭壇の下には、排水用の小穴が穿たれており、祭壇に注がれた葡萄酒や、犠牲の動物の血などは祭壇とその前に設けられた溝を通じて神殿域の外側に排出されるようされていたとされる。

このことを併せて考えるなら、キリストに続いた聖徒らの犠牲の血が祭壇に象徴的に注がれていたことになり、そこで『祭壇』はその証人ということもできるのである。
即ち、聖徒殺害に対する神の怒りの表明の正当性を、確かに『祭壇』という、その犠牲を確かに受け取った側として、これは天使の発言に重ねて証しする言葉であり、神の裁きの正当性と共にその犠牲の重さを強調してもいるのであろう。



・第四の鉢
第四の天使は、神の怒りを太陽に注ぎ出した。すると、『太陽には人間を火で焼くことを許された』とある。
この『太陽』が何を意味するのかについては、黙示録がやはり旧約の預言者たち(ネイヴィーム)の過去の多くの発言へのリファレンスの役割を果たしていることに気付く。

この『鉢』の怒りによって引起される炎暑については、回復をもたらす神を讃えたイザヤ第49章でこのように語られている。
『わたしは捕えられた人に「出よ」と言い、暗きに居る者に「現れよ」と言う。彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。
彼らは飢えることがなく、渇くこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らを憐れむ者が彼らを導き、泉の畔に彼らを導かれるからだ。』(イザヤ49:9-10)

同じく第25章では暴虐から民を救う神についてこのように語っている。
『まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは、壁をたたく豪雨、乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように、異邦人の騒ぎを鎮め、暴虐な者たちの歌声を低くされる。』(イザヤ25:4-5)

砂漠の夏での炎暑が殺人的であることは、ベエルシェヴァを彷徨したハガルや、瓢箪の木陰を失った預言者ヨナの記述にも描かれているが、やはり、これらの句での『太陽』も人々を『撃つ』ものであり、それが乾燥した地で彷徨する者らへの炎暑を指すことはもちろんであるが、二つ目の句に於いては、それが『弱き者』が受ける『暴虐』に擬えられている。
そこから類推のできる『人を焼く』ほどの『太陽』とは、上位からの「著しい暴政」ということになろう。

では、その暴政の原因として何が考えられようか。
先の第四のラッパでは、『三分の一』の月、星、そして太陽が打たれて、光明を三分の一だけ失っている。
そのラッパと比較すると、見掛け上、この鉢では正反対の結果に至っているようではある。
だが、それでも太陽が打たれて光明を失うのが三分の一であり、それがキリスト教界、また宗教関連であるなら、その指導力が陰ったとしても、社会全体に与える影響は限定的なもので済むだろうが、これが政治上の指導や支配の仕方そのものが、実は間違っており、被支配者に益をもたらさず有害であることさえ暴露されるとしたらば、為政者は宗教家とは異なり、強権を振ってでも支配を継続しないわけにはゆかない。なぜなら、社会の秩序に支配は必要不可欠であり、一時でさえ休止すれば混乱が避けられないからである。

こうして、支配を表すであろう天の光は人々を焼く圧政の炎暑が避けられないとしても、人々は『これらの災いを支配する権威を持つ神の御名を冒涜し、悔い改めて神に栄光を帰することはしなかった。』と黙示録が予告するのであれば、出エジプトのときのファラオの如き頑迷さを表し、名を知らされた神を讃えるよりは圧政の下に留まることを選んで、その倫理上の選択を変えないのである。



・第五の鉢
次いで第五の天使は、その鉢を『その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみ悶えて自分の舌をかみ、苦痛と腫れ物のゆえに天の神を呪い、その行いを悔い改めようとはしなかった。』(黙示16:10-11)

この『獣』というのは、黙示録の第13章のはじめに『海から現れた』『七つの頭を持つ』あの野獣かといえば、そうはならない。
その理由は、先に述べたように、この鉢の場面そのものが、聖所の雲の中から始められているので、天界の祭祀の始められる直前であり、既に聖徒らは天界の海の岸辺で勝利の歌を詠唱しているのである。彼らが地上で預言した期間は42ヶ月であり、その長さは『七つの頭を持つ』野獣の活動期間と同じであることが黙示録に記されている。(黙示13:5)
従って、聖徒たちを葬り去ったその野獣であっても、はや活動期間も尽きたことは否めない。

そして、黙示録は次なる『子羊のような二本の角』を持つ別の獣が現れ『先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で行使する』とある。では、なぜ先の『七つの頭を持つ』野獣の面前ですべての権力の行使が許されるのか。
やはり、その答えは、先の強大無比の野獣の権力行使が何らかの理由で止まっているからであり、おそらくはその時点で存在もしていない理由さえ聖書には示唆されている。

であるから、新たに表舞台に現れるこの羊の如き獣は、先の『七つの頭を持つ』あの野獣の『像』を造り、それをあらゆる人々に拝ませるという、究極的な偶像崇拝を起こしているのである。その偶像には息が吹き入れられ、遂に生ける魂となる。

その『像』とは、人類の権力の糾合の象徴であり、ニムロデの野望が政治の範疇を超え、いよいよ宗教の領域にまで入り込むであろう。政祭の頂点を極めるその恐るべき生ける偶像によって、今やサタンの願望は絶頂を迎えることになる。この辺りの描写は旧約のネイヴィームに詳しく、またより重大な内容を伝えており、やはり黙示録はそのリファレンスのようでしかないほどである。(イザヤ14:13)

ゆえに、黙示録は第13章以降、一貫してこの『野獣の像』への崇拝を警告し続けており、その数字は完全数「7」に到達することのない『666』、即ち「不完全、不完全、不完全」であろう。これは、黙示録中で終末について繰り返される三度の『七つ』との対照として捉えることも的外れではないように思える。七に到達しない六とは、神の王国に到達することのない、また対型の安息日の聖なる第七日に達しない六日、つまり「千年王国」に入らずに俗なる世が滅び去ることを表しているとも考えられる。即ち「滅びの数字」とも言えよう。

第五の鉢の神の怒りが注ぎ出される先が、この『子羊のような』偽善的にキリスト教的な世界覇権であり、これは、黙示録でヨハネに示された『七人の王』の一人であるなら、先の特殊な『第八』の覇権の『去って滅びに至る』のを目撃した後に、再び権力の座に戻る理由があることになる。

だが、その支配の座としての権威を振う大義名分が、聖徒らの聖霊の言葉と、この第五の鉢の災いによって完膚なきまでに崩されるとすれば、それはその直前の第四鉢から注がれた災いに関係を持つと考えられる。
『羊のような』獣がキリスト教を基盤としてきたものであれば、元から苛酷な独裁制の監視社会ではなかったであろうところが大きく変質することになろう。

だが、世界覇権と成り得る大国が、普段から個人情報などを収集していないわけもなく、監視社会は従来の独裁国家だけが構築するものでもない。民間での情報漏洩が騒がれようといまいと、既に我々の個人情報もネットに関われば、日々国境を越えて各国の巨大データベースに入念に蓄積されつつあり、顔認証なども加われば、無数の監視カメラや位置情報によってあらゆる人を追い詰めることが可能な時代は、現に到来してしまっているのである。

ハックスリーなどのSF作家の描いた牢獄のような世界は、もう空想の出来事ではなく、各種端末や家庭電気製品にさえ滞在位置や購入履歴や本人の嗜好はもちろんのこと、ネット上の電子的書き込み内容も、果ては通話までをも監視されている日常の現実は、人体へのマイクロチップの埋め込みの必要もなく、統治の脅威としての準備は自由主義圏でも整っている。それは実に人に便利なテクニカル・ユートピアの到来などではない。ある意味で「バベルの塔」のような圧政の世界帝国が建設されている途上にあるのである。それこそは『この世』にあらゆる人を引き留めようとの『獣』の野望のためであるに違いない。

そこで終末では、『獣の印』のない人々に対する差別が徹底したものであることを黙示録の第13章が既に『売り買い』さえできないという、生活を支えるべき交換社会からの締め出しさえ示唆されているところに明瞭である。

また、このように捉えることは、これらの鉢の災いが長い時間をかけて下されるものと云うよりは、相互に接密な関係を持って短時間で行われると見ることになるが、それはダニエル書の末尾に『聖なる者らを打ち砕くことが行われるや、あらゆることが終局に至る』と書かれているところと整合している。

このように、『獣の座』であるところの支配の正当性を被支配者らの前に失えば『闇』が覆い、それでなくとも既に人々が味わっている多くの苦しみや、悪性の『腫物』によって自らを省みるべきであるのに、一向悔い改めることもなく、却って神の名を呪うというのである。この繰り返される頑迷さは、ますます出エジプトの対型と言うべきであろう。



・第六の鉢
大河ユーフラテスが第六の怒りの注ぎ出される場所であることを黙示録は告げている。
『すると、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるためにその水は干上がってしまった。』

これは唯一場所が特定され得る記述であると同時に、ユーフラテスに関わるところでは先の第六のラッパによって引き起こされた『四人の使い』の解放という事象とも関連を持っている。
ラッパと鉢の双方にユーフラテスが関わっているのは、やはりその大河に跨って両岸に建てられていた大城市バビロンが黙示されている。
ユダの捕囚民を解放しなかった新バビロニア帝国のこの都が、前539年ティシュリの月の16日のわずか一晩のうちにメディア・ペルシア連合軍に攻め取られたのは、強固な城壁ではなく、十分な兵糧でもなく、ユーフラテスの水を抜いてしまい、川床から侵入するという攻略軍の作戦によるものであったのだ。

その結果としてバビロニアの支配が終わり、捕囚民らは自由を得て、その一部のユダヤ人が帰還して祭祀を回復させ、その後には神殿の再建に至ってもいる。
それであるから、黙示録中の第六のラッパでは、捕囚民が解き放たれる場面が描かれ、第六の鉢では、攻撃される前のバビロン、またその東に位置したメディアやペルシアの王族たちの軍勢の攻撃準備が整う場面が描き出されているのである。

これは、既に黙示録中に登場している『大いなるバビロン』について黙示しているに違いない。
それは第七のラッパの吹奏の後の記述の中、三人の天使が次々に地への布告を為す場面であり、その第一は天地を創った神を崇拝せよと地に住む諸国民に告げ、第三の天使は『野獣とその像』の崇拝者である印を身に受ける者が裁かれ、滅びに至ることを警告している。

それら間に第二の天使が『大いなるバビロンは倒れた』と宣告しているが、これが黙示録中での『バビロン』の初出であり、終末の神の裁きの日の三つの段階の中央に置かれているのである。従って、『大いなるバビロン』への神の処遇は、非常に重要な一つの段階であることが示唆されており、それはこれ以降の黙示録中での『大いなるバビロン』の処罰について語られることが実際にたいへんに多いところにも表れている。

では、この『大いなるバビロン』の咎は何かと云えば、『わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。』と啓示を受けたヨハネは語っている。(黙示17:6)

これは即ち、キリストと共なる『聖なる者ら』の犠牲という以外にない。彼らは天界でキリストを隅石とした神殿を構成するべき者らであり、彼らを死に追いやった『大いなるバビロン』には、古代の新バビロニア帝国がエルサレム神殿を破壊したように、神殿についての咎を負っていると言えるのだが、やはりエレミヤはこう預言している。
『矢を研ぎ澄まし丸盾を用意せよ。YHWHはメディアの王たちの霊を奮い起こさせる。バビロンに対する主の定めは滅ぼすこと。これこそYHWHの復讐、その神殿の復讐だ。』(エレミヤ51:11)

こうして黙示録に記される『大いなるバビロン』というものが、終末に『七つの頭を持つ野獣』の上に座り、聖徒らを攻め滅ぼすことを使嗾する何者かであることを我々は知ることになる。
『大娼婦』ともされる『大いなるバビロン』ついて、『地の王たちはこの女と淫行を行い、地に住む人々はこの女の淫行のぶどう酒に酔いしれている』とも黙示録は指摘する。
『葡萄酒に酔う』という概念は、聖書中で度々『血に酔う』の意味が付され、流血行為また騒擾や暴虐に擬えることがある。(箴言4:17/イザヤ49:26/エレミヤ51:7)
加えて、『淫行』つまり異教への恋慕も葡萄酒の酔いと関連付けられている。(ホセア4:11/イザヤ65:12)

こうして『淫行のぶどう酒に酔いしれる』この大娼婦の実体を探ってゆくと、これは『獣』で表される権力と結びついて諸国民を酔わせ、流血や騒擾を惹き起こすものであり、『七つの頭を持つ野獣』に乗って、聖徒殺害を使嗾するからには、聖徒らに対して最も敵対し、嫌悪する勢力であろうことが見える。
これはが宗教上の勢力であるとすれば、様々な聖書の記述に合致するところが次々に現れてくる。

『地の王たち』に関係を持って諸国の民の理性を失わせたかのように流血に向かわせたのは「宗教」と呼ばれる勢力ではなかったろうか。
宗教そのものが諸国の争いの元となるだけでなく、政治や民族と絡むことによって事態を悪化させる元凶ともなってきた。

それが終末に於いては、聖霊によって語る聖徒撲滅のための最悪の使嗾を諸国民と『十本の角』で表される諸国家の公権力に対して行うとすれば、それはローマの権力を使ってメシアを屠った祭司長派の役回りを、やはり諸宗教が演じることになることがここに警告されているであろう。

黙示録のこの節は、更に加えて『わたしはまた、龍の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。』と語る。(黙示16:13-14)

この場面には大娼婦は出て来ない。『全世界の王たち』という世界の公権力全体を糾合するのに宗教勢力は適当であるように思われるのだが、それを行うのは『龍』であるサタン、キリスト教的な『獣』と『偽預言者』とされている。
大娼婦に属する諸宗教も偽の預言者のように思えもするのだが、この句では別の名称が現れており、しかも黙示録中で、この『偽預言者』は『大いなるバビロン』よりも後まで存続している。そればかりか『野獣』の崇拝を行わせているのは『大いなるバビロン』ではなくてこの『偽預言者』の方なのである。(黙示19:20)

この勢力には、『蛙のような』『しるしを行う悪霊どもの霊』が幾らかの奇跡の業を行って見せはするのだが、出エジプトのときの異教の祭司らがしたように蛙を出すのが精々であり、モーセの真似事程度のものにしかならず、到底、聖徒らの聖霊の印には及ぶまい。

従って、野獣の像を造り、新たな偶像崇拝を強制するのは、「子羊のような獣」と「偽預言者」であって、この新たな崇拝にそれまでの諸宗教の関わりは示唆されていない。
それゆえにも、『大いなるバビロン』を滅ぼすという『十本の角』である諸国家の権力に『同じ思い』を抱かせるのは、旧来の宗教以上のもの、即ち、サタンそのもの、その時に残っている世界覇権、そして『偽預言者』という何者かということになる。(黙示17:12-14)

これについては、使徒パウロが彼に託された終末の奥義を語るところでの『背教』という、それが起らなければ終末も来ないという宗教的で新たな状況が関連を知らせている。
それが『不法の人』と呼ばれる者の到来であり、この者は『滅びの子』とも語られる。この『滅びの子』と呼ばれたもう一人が、あのユダ・イスカリオテであることは非常に示唆的である。

なぜなら、キリスト・イエスの傍らに在って、その師を売り渡すということが「背教」でなくて何であろうか。
このユダを終末に置き換えるとすぐに思い当たる者らが候補として挙げられる。
即ち、「脱落聖徒ら」であり、師イエスも使徒らも、『新しい契約』に預かりながらそれを逸することの無いようにと何度も新約聖書中で警告しているのである。
だが、契約から離れ落ちる者らも、ユダ・イスカリオテがそうであったように、仲間を売り渡し、最大の敵と変じて、終末の出来事を成就させる働きを為すとしても何の不思議があるだろうか。

この鉢の災いの下る以前に、契約を全うした聖なる者らは天に召されており、『一人は連れてゆかれ、一人は残される』という聖徒の裁きも既に終わっているこの段階では、元は聖徒として聖霊の力に預かった者であっても、もはや天界に何の望みもなく、毒食わば皿までと云わんばかりに、悪の道をひたすら進むよりほかない。

こうして『偽預言者』の正体に見えるものがある。まさしく『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言う者らに対するイエスの答えは『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』というまったくの拒絶であり、『一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになっていながら』『その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできない』と使徒も厳しく予告した通りのことが起り、その後はサタンの霊力を受け『偽預言者』と堕した元聖徒らが、『汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。』とあるように、かの有名な『ハルマゲドン』という場所に全世界の権力を集め、神との戦いに進むという姿がここに描き出されているのである。(黙示16:16)

『大いなるバビロン』に含まれない『偽預言者』とは何者か。なぜ『預言者』と宗教的に呼ばれているのか。つまりは、旧来の宗教を超える宗教的存在であり、印を行い偽りを語るからである。これが脱落聖徒に著しく整合するのである。
こうして、メシアの初臨の際に登場した役者たちを終末に再度見ることになろう。
即ちキリストである「聖徒ら」、それを処刑するローマの権力に相当する「羊のような獣」、そしてそれを慫慂するユダヤ祭司長派に当たる旧来の宗教集団『大いなるバビロン』があり、ユダ・イスカリオテを演じる『偽預言者』、別けても『滅びの子』と共通の名で呼ばれる『不法の人』である。

それであるから、黙示録のこの場面の第15節で『見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。』との御厳のイエスの言葉がここに書かれていることはまったく適切なことである。

これを、近代になってモファットのような翻訳者たちが、この節の存在場所を不適切と見做し、本来は黙示録第三章に位置するフレーズであったに相違ないとして、多くの翻訳聖書でも括弧書きにされる習慣が出来上がっているが、ギリシア語本文にはここに何の区別もない。
むしろ聖霊により『新しい契約』に預かるすべての者が『偽預言者』に落ちぶれないために、この句こそは真に重大なキリストの訓戒となっており、ここにこそ必要な言葉となるではないか。それが『この世』の全体を慫慂する脱落聖徒の決定的咎となる場面だからである。



◆第七の鉢
この最後の怒りの鉢の段階は、世界の破滅の最終的有様を描くよりは、その手前の時点に在って、この世というものの全体への裁きの宣告の為された状態を指している。
それは特に聖徒らを葬るよう指嗾した諸宗教を一括して表す『大いなるバビロン』への処罰をこの鉢の注ぎ出しの主な効能としている。

それは何故かと言えば、その大娼婦への裁きは不意打ちであり、本来はこの象徴的娼婦への攻撃は表向き隠されているからである。
だが、その主目的は人類が最も行うべきでないシオン攻撃という、この世の大半の人々の意思に適う大義名分の下に行われようとしている。
ここに於いて、もはやこの世に咎を逃れる術は無い。

さて、第六の鉢の中身の注ぎ出しを経て、終末に神に逆らい続けるこの世には、いよいよ最終段階に踏み込む準備ができている。
世界は旧来の宗教という指針を無用なものとしてかなぐり捨て、今や、脱落聖徒による似て非なる神の信仰と崇拝方式が、獣と結託して進められている。それが即ちパウロが警告した終末を来たらせる『背教』であり、『不法の人』また『反キリスト』が究極の偶像『荒らす憎むべき者』となって地上に姿を現し、「救世主」また「神」ともされることであろう。
世界は『七つの頭を持つ野獣の像』の下、権力を一つにまとめることに成功し、『平和でないのに平和だという』世相が見られるらしい。
一見して平和的和合のように見られるその状況は、『北の王』という挑戦的な覇権国家の一つが瓦解したことによる消極的意味のものであって、人々が倫理性を得て争いを後にしたわけではないのである。

こうして、神とこの世とは決定的な敵対関係に入ってゆく。
神の怒りを満たした第七の鉢は、地上からの聖徒退場の後の一連の人間社会の災いを描いてきたが、この最後の鉢の怒りは『空気に注ぎ出され』るという。
これは、この世のすべてへの糾弾であり、また、『この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者』であり、我々が平素呼吸するかのようにして暮らす『世』という体制全体、諸悪の根源であるサタン自身の咎を暴き出すことを意味しているようにもとれる。聖霊の言葉にも繰り返し逆らう人類は、この導き手の下に結束しているからである。(エフェソス2:2)
こうして、神からの糾弾の矛先は、その人類社会の諸要素を経て後、悪の究極の原因者であるサタンへと遂に向けられることになる。(ヨハネ16:8-11)


第七の黄金の鉢から、神の怒りが空気に注がれると『大きな声が聖所の中から、御座から出て「事は既に成った」と言った。『この世』は、聖徒らによる七度のラッパによる罪の宣告にも、七度の害悪の証明を受けてもその道を悔いずに、神に逆らい続け、その同義的選択を完く明らかにした。

すると、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。
大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなった。
また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降ってきた。人々は、この雹の災害のゆえに神を呪った。その災害が非常に大きかったからである。 』


そして我々は、黙示録の描く終末に類似の状況と光景を旧約の記録に見ることになる。
稲妻、大音量の声、雷鳴、地震、これらはシナイ山麓でイスラエルが神の顕現に於いて経験したものであり、その地震が『かつてなかった』とは、ハガイの預言の成就を指すニュアンスを持っている。

第七の決定的な世への断罪は『天と地とを激しく揺すり』神にとって『望ましいものら』が神殿に入って来るのであり、これはイザヤとミカがシオンへの流れのように向かう諸国の人々として予告したものであろう。

これとは対照的に『大いなるバビロン』の罪は神の前に思い出され、三つに裂け、諸国の町々も倒れるというのは、旧来の宗教界の断末魔のような姿を曝すかのようであり、遂に聖徒への復讐としての『二倍』の葡萄酒の杯が回されるということであろう。

聖徒への反対行動ではバビロンとしての結束をみせた諸宗教も、信者の多くを失っており、もはやいざ自分たちが矢面に立たされる予感を覚えれば、怖気付いて咎を擦り合い、大きい部分に分裂してしまい、小さい宗派などは逃げ去ってしまうのであろう。

この世の権力については、野獣の像という政祭一致型の支配の下に一つにまとめられ
、小国の権威も見えなくなるほどに霞んでしまうということであろうか。
そして、天からは1タラントの雹というのであれば、当時でも25.8kgに相当するというから、この重さの氷が実際落下すれば、爆撃のような大惨事になるであろう。
だが、これは象徴である可能性が高い。

このような神と世との敵対関係は、古代にパレスチナ入植を目前にしたイスラエル民族と、カナン諸族との状況に似るものがある。
既に、神の民は『約束の地』から異教に堕落したカナン人を滅ぼしてその土地を入手することが許されており、またそれが神の命令であった。

カナンの人々は猛烈な恐れに捕われたが、その中から城市ギベオンはイスラエルに和睦を申し出たのである。
イスラエルはエリコのラハブに同じく、ギベオンの投降を認めたばかりか、彼らの窮地を救うために危急の軍事行動まで起こしたのであった。
カナン諸部族からすれば「裏切り者」とされたギベオンの命運は、カナンの強力な五つの城市の連合軍に責められ風前の灯火であった。
イスラエル軍は懸命に一晩中行軍を続け、ギベオンの危機を救う義なる姿を見せた。

だが、それは単にイスラエルの戦いというだけではなかった。
神が加勢に加わり、天から巨大な雹が降り注ぎ、人の剣にかかって戦死した者より多くの死者がカナン連合軍に出たというのである。(ヨシュア記10:11)
これは大きな戦いとなり、その後のイスラエルの優勢を形作る契機となったのだが、夕刻になっても戦闘は止まず、そのまま夜が訪れてしまえばカナン兵は闇の中に逃げ去り、再び態勢を立て直して状況は膠着し兼ねなかった。
そこでイスラエルを率いるヨシュアが『太陽よ止まれ』と叫ぶと、昼は更にまる一日も続いたとヨシュア記にある。もちろん、天文学上は有り得ないことではあるが、そう書いてある。
そして『YHWHがこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。』とも書かれているが、この出来事はそれだけ徒ならぬ意味を含んでいたのであろう。(ヨシュア記10:14)

そこでゼカリヤの終末預言も、YHWHの日の神と諸国民との戦いの予告の中でこう記している。
『そこには長く連続した日がある。この日をYHWHは知られる。これは昼でなく、夜でない。夕暮になっても光があるからである。』(ゼカリヤ14:4)
この神の日に起るとされる預言の言葉が、上記の陽が沈まなかったときのアヤロン平原での大勝利とを結びつけていないと誰が言えるだろうか。『後にも先にもなかった』異例な事態の指し示すところが『この世』の終末であれば、それこそヨシュアの時以上に異例な日となろう。こうして、ゼカリヤは神の側の圧倒的勝利のための夜の明るさを、ヨハネは巨大な雹の落下を預言する。

真実のイスラエルである聖徒らに信仰を持った人々の集団と、神に恭順することなく『この世』に留まる大多数の人々との軋轢は遂に『ハルマゲドン』の戦場に至るであろうが、その結末は、この1タラントンもある雹の落下に示唆されているというべきであろう。

イスラエル側についたギベオンを攻め滅ぼすことを謀ったカナンの五城市同盟の王たちであったが、最後は洞穴に逃げ込み震えあがっているところを捕えられ、ヨシュアの前で処刑されている。
こうしてギベオン人は守られ、イスラエルは約束の地の平定を進めてゆくのであった。

ここに我々は、『神のイスラエル』である『聖徒らの王国』と、その彼らに『親切を行って』その側につくことで『この世』を後にする『羊』で構成される『大いなる群衆』の姿を見ることができる。

その一方で、『山や岡に向かって「我々の上に覆い掛れ」』という敗残する世人の有様をも古代に前表されていたことを知れば、神と子と聖霊に逆らう事の末路を是非にも避けたいと思うであろう。滅びゆく人類が頼りたく思う『山や岡』も聖徒らである『シオンの娘』の前に削られていまうのである。(ルカ23:30/黙示6:11-17/イザヤ40:4)

したがって、第七の鉢の災いが注がれ『(事は)成った』と神殿(ナオス)の御座から声がしたというのは、大地震と大いなる城市の分裂が直後に続いていることからすれば、『この世』の全体への裁きが鉢の災いによって終了し、いよいよ処断の段階へと速やかに移行することを云うのであろう。

黙示録中で何度か言及される『大地震』とは、『天と地を激動させる』と予告されたハガイの預言に関わり、そこから『神殿に宝のようなものらが入って来る』のであり、それは『七つの鉢』から注がれた災いにより、信仰を懐いて『この世』から離れようとする人々を導き出すものであり、この第七の鉢によって惹起される『大地震』が最後の機会となると思われる理由がある。

それまでに、世界は『野獣の像』の崇拝に堕しており、聖徒を支持する人々の集団と思われる『シオン』への諸国家の攻撃を『この世』はもろ手を挙げて是認しており、そこに於いて人類は二つに分けられているからであろう。これが、即ちキリストの前に於ける『羊と山羊』の分離である。


やはり、人は救われたいから救われるわけではない。神やキリストの存在と慈愛を信じるから救われるわけでもない。まして、これらに関わる情報を正しく知ったからとて、そのまま救われるわけもない。知識がもたらす破壊的な脅威こそが「高慢」である。だが、それらがどうあろうとすべての人の前には為されねばならない「神の裁き」が待っている。

終末は、生ける人類の裁きであって、その時に至ってはじめて各個人の内奥が「エデンの問い」のように試されるのである。それは、一人一人がどのような者であるか、その内奥の倫理観が試されるのであり、その前に自信を持つのは極めて危険なことであり、また、恐れ過ぎても罠に嵌まる。これは現時点では何とも云い切れないが、「裁き」である以上、そのように不明のところが我々に残されているのは避けられないことであろう。我々が裁かれるべき『罪人』であること、これは厳粛に受け止めねばならない。

そこにはアダムが経験したような、身を切られるほどの誘惑と試練がそれぞれにあるに違いない。サタンは徹頭徹尾『蛇』であり、イエス・キリストをさえ誘惑したのであれば、誰をも試すに違いないのである。

ただ、聖徒らの聖霊の発言に価値を見出し、神の経綸に協働しようとする人々は、『シオン』とされている地上の『女』として『一時と二時と半時』の間は保護を受けるであろう。
その間は、おそらく聖徒らの活動期間であり、それが終わるとき、裁きは聖徒から地の人々へと向けられてゆくのであろう。⇒「二度救われるシオンという女」
それでも、この女『シオン』は城市ギベオンのように、『神のイスラエル』によって必ず守られるであろう。

では、我々は聖徒の現れるときに、彼らと和睦するだろうか。
その仕方について、イエスはこう言われる。
『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄に居たときには尋ねてくれた』(マタイ25:35-36)
イザヤとミカは、シオンに向かうという信仰を持つことになる諸国民の人々の流れを預言している。
そうであれば、聖徒を通して再臨のキリストと和睦する人々はけっして少なくないに違いない。









  新十四日派  ©2019 林 義平