難易度 ☆×7 特高  長文2万2千字超 
予備知識 ⇒ 「ヘレニズム史、ダニエル等の預言書と黙示録後半の理解 」
ダニエル書に現れる『北の王』を歴史と聖書の諸書から探る
その恫喝と『シオン』の人々の活躍について




終末に関わる『北の王』については、ダニエル書に見られるように『聖なる民』に与える害はもちろん、その権力の存在が世界に与える悪影響は小さなものでは済まないらしい。しかも、終末以前である今日ですら、既にその対型的『北の王』の狂気が世界を狂わせつつあるらしいのだ。もしそうなら、聖書に永らく語られてきた「終末」の舞台は、現状の世界に於いて今や整いつつあるという事になる。

さて、この世の終りの時期に於ける世界の状況と言えば、『南』と『北』という二つの強大な覇権国家同士の軋轢の渦中にあることを予告するダニエル書も第11章という場面は、旧約聖書と新約聖書の歴史記述の間隙を埋めるということでは特異な部分であり、それも終盤に至ると、単に当時のマケドニアの二大王国である『南』に位置するエジプトのプトレマイオス王朝と、『北』を占めるシリアのセレウコス王朝の間断の無い争いにユダヤが激しく揉まれることを予告するものだけとも言えない様相を呈し、何か別の事を伝えようとしている意図が濃厚に感じられる。

終末を描くダニエル書の第11章の後半部分では、やがて『南の王』が一旦は語られなくなり、代って『聖なる民』と『北の王』という新たな二者対立の構図が見られ、そこに『北の王』の著しい神への抗いが語られる。それはヘレニズム期に実在した『北の王』シリアを介してユダヤとエルサレム神殿を襲った時代の危機について、それを更に二重写しにして、終末に起る事柄をヘレニズム期とは別の時代の出来事、つまり途中から転じて古代アッシリアの聖書に記された故事に触れ始め、複数の事象を縦横に用い、我々のまだ見ぬ終末の姿について更に詳細に予告していると見るべき証拠のような記述が、聖書の他の預言や黙示録に散見されるものと併せてダニエル書にはまことに示唆的に記されている。

そこで、それら関連する一連の預言をまとめてみようと以下に試みた。
結果として顕れて来たものは、終末に起るとされる事態の概要であり、やはり徒ならぬものとなった。そればかりか、その『北の王』の特徴を備えた国家が今日我々の眼前に既に見えており、その性質をますます露わにしつつあるのは特に我々の注意を惹起するものである。

もし、そうであれば、終末に起るのであろう聖書黙示に記された諸事の勃発は、そう遠い未来でもなさそうなのであり、これを読まれる方々に実際に何かのお役に立つこともあるならと思う次第である。
というのも、既に姿を見せているらしいこの『北の王』は、終末に於いて良い意味でなく予め神から定められた相当に重要な悪役を負っているからである。

本来のユダヤを著しく悩ました『北の王』シリアの悪王アンティオコスVI世に相当するところの終末の悪辣な権力者も、『終わりの日』に現れることを預言される奇跡の聖霊で語る『聖なる者たち』を迫害して打撃を与えることに成功し、また甘言を用いて彼らを堕落させる姿がダニエル書のその場面に見出されている。 また一方で、終末の局面に於いてかなりの数の人々、それも終末に再び現れる『聖なる民』には属さないながら、彼ら聖徒の言葉に信仰懐く人々が、いよいよ『北の王』と対峙することによって遭遇する緊迫の終末の事態と、それから奇跡のような突然の解放を得て後に、去って行った聖徒らに似た業を続いて広く行うその人々の大きな活躍の姿とが黙示録や福音書の補足によって見い出されるのである。

その人々とは『シオン』とイザヤに呼ばれるところの信仰の場に集う人々、聖徒らの人数を遥かに越える相当な数に上る信徒のことを指している。
聖徒という『神の王国』に属する偉大な民にさえ勝利した『北の王』であるにも関わらず、迫害に去っていった聖徒になお従う信徒の民を前にして、恫喝していながらも実害を与える事なく忽然と倒れる事になり、強大に見えた権力を一時に瓦解させてしまうという本稿の結論が正解であるなら、それは鮮烈な印象を与える歴史上かつてない事態となるが、今でさえ、それは必ずしも有り得ない事にも見えない。
なぜなら、現に見えているあの覇権大国が『北の王』であるなら、それは強引な独裁と腐敗に立脚し、被支配民からの自発的コンセンサスを得てはいない「危うい大国」であるからである。



◆マケドニア南北朝に描かれる終末

まずは、なぜ『北の王』と呼ばれるかであるが、それがダニエル書の第10章以降に描かれるマケドニアの二大王朝の対立の中での南北、即ち、プトレマイオス朝エジプトと、セレウコス朝シリアに於ける北側のシリア王国を『北の王』と指すところからくる名称である。
即ち、ダニエル書の黙示は、終末を予告するために、古代の事象を語りつつ、それを鏡像として将来を写し出す手法をとるからであり、その技法は人間の能力を遥かに超えたことである。

この啓示を受けたダニエル自身は、後にアレクサンドロス大王が現れ、ヘレニズム文明が興されることになる二百年も以前の前六世紀、新バビロニア帝国に囚われていたユダヤ人であり、バビロニアがメディア・ペルシアの前に倒れた後も都市バビロンに在ってユダヤの将来に関わる黙示を天使から受け続け、ペルシア王キュロスⅡ世の第三年に及んでいたのである。

ダニエル最晩年のその年、前535年に与えられた最後の啓示によって、聖書の空白時代、即ち旧約聖書が後の預言者マラキによって書き終えられた更に先の「預言者はみな眠りに就いてしまった」とユダヤ人が嘆いて言い始めた時代、旧約と新約の聖書の間に横たわる空白時代についての予告情報をダニエルは得ていたのであった。

その時代への啓示は、シリアとエジプトの抗争の次第を描いてダニエル書の第11章の39節に及ぶ。それらの言葉が成就するのは、専らにダニエルから二百年後のアレクサンドロス大王の征服と死を経た前4世紀からマケドニア二大強国の鬩ぎ合う前2世紀の事ではあるのだが、更に『北の王』が最後に『南の王』の領域を侵犯することを描く第11章の40節以降は、その歴史の実際を離れてあらぬ事を語り出している不思議がある。

ダニエルは天使からその時代にユダヤに何が起こるのかを知らされたとも言えるが、その情報はマケドニア南北朝の対立の時代の情報を伝えることだけを目的とはしておらず、別のより重要な時代、即ち聖書の全巻が一枚のレンズのようになって焦点を合わせる「終末」という短い期間に起こる人類史に例を見ない事態をも知らせ、その知識を得る人々に重い意味をもたらす事に於いてまことに畏怖すべきものである。

さて、前4世紀の前半、マケドニアから現れた英桀アレクサンドロス大王がその地位に就くや否や、電撃的に小アジアに入り、エジプトを手中にするあたりからマケドニアの勢力がユダヤとの関わりを持つことになり、それまでのペルシア支配の安定的な時代が終わりを告げ、ユダヤはギリシアによる新たな時代の激流に巻き込まれてゆくことになる。それが即ち東西の文化の融合する「ヘレニズム」の時代である。

ダニエル書の第十一章以降、チグリス川畔に立つ天使からダニエルに伝えられた情報の中に、南北の王の対立が予告され描かれている。
それはまずダニエルの当時のアケメネス朝ペルシアの王らに言及した後に、明らかにアレクサンドロス大王について語り、その亡き後、大きく四つに分かれたマケドニアの後継者らの争い「ディアドコイ戦争」の結果としての強勢な二大王国の確執に関する細かい記述に入ってゆく。

ダニエル書の中ではその当事者の実際の名も国も明かされてはいないのだが、後のマケドニアの歴史の記録を辿ると、そこで語られる南北の争い合う王たちの姿はエジプトとシリアの歴代のマケドニア朝の王らや妃たちに当てはまっており、その的確さは異論を挟むまでもなく、識者らはその整合具合からして、それらの出来事が起った後に預言を装って記されたものに違いないと判断しているほど歴史と合致しているのである。

だが、識者らの説明も40節を越えると途端に歯切れが悪くなる。その原因といえば、ダニエルの述べる内容が一連の歴史から乖離し始め、マケドニア史から逸れるためであり、それまでの理路整然たる明解な知識人の説明も12章に入るころにはほとんど荒唐無稽な解説になってしまう。

確かに聖書そのものにも『人は後に起ることを知り得ない』と書かれている。だが、その聖書は預言の書でもある以上、人間以上の源からの情報をそこに想定するべきであることは言うまでも無い。
そこでこれらの預言の記述も、予め起る事柄を神が人に知らせたということになる。

しかし、予告だけの意義と言えば神の予知能力の確認というほかに余り挙げる名目もない。
つまり、「ダニエルはこのように書きましたが、その通りになりましたね」というだけであれば、「神は存在するのですね」の結論で終わるだけであり、もし神が人に自らを顕現されないことが神意であるなら、その結論はまるで意義がないではないか。
しかも、科学は神を検知せず、また神も人に顕現されないゆえに、自ら人類に対して圧倒的存在となることを願わない理由すら神にはある。それを一言で云えば人をして、その自由な意志の下に裁くためである。
やはり、神は『み顔を隠される』理由があり、そこで「神が存在するか否か」を超えた人の認識を求めているのであり、そこにこそ自発的『信仰』というものがある。

また、もしダニエル書の目的が捕囚後のイスラエルが辿る出来事を知らせるだけであったなら、シリア王アンティオコスⅣ世によるユダヤの神殿への冒涜だけでなく、ユダヤ人の勝利がもたらした神殿の再献納やハスモン家による一世紀近いユダヤ自立統治の栄光についてダニエル11章が語らずに終わっていることはまったく片手落ちに見えるところである。
ダニエル書の啓示が歴史の先読みならば、この異教徒に対するユダヤの勝利と神殿の清め、七十年にわたる独立支配こそ欠く事のできない神との契約ある栄光というべきものであることは間違いないであろうに、それが誇らしげに語られないとはどうしたことであろうか。

だが、その観方もダニエル書に示された啓示が、その後に起った事柄をただ一度予告したと見る限りのことであり、これらの記された言葉が更に将来、即ち「終末」についても二重に語られているとなれば単に前二世紀までの途中歴史の予告の限りではないことになる。

まさしく、ここに神の言葉が単に予告してみせるという低次元に留まらない意義がある。そのような「予告賛美の信仰」であれば、やはり「神は居る」という意味だけのことで終わるのであり、終末の事態に気付いたときにはその「信仰」に何の益もない。それは人に何を行うべきかを教えないからである。

だが『北の王』としてダニエル書第11章に示されてきたセレウコス朝シリアは、ずっと後の「終末」に対型となって別の権力が再度『北の王』となって現れ、徒ならぬ意味を持つのであれば、それはペルシア王キュロスの治世の第三年にダニエルが天使から受けた啓示の言葉の真価が伏流水のように悠久の永きに亘り聖書中に存続し、それらの言葉は『終わりの時まで秘められ』て来たと言えることになる。

即ち、『この世』というものの終わりが近付く時代、人類が大変革を迎える直前には、古代セレウコス朝シリアの鏡像のような覇権国家が終末に再登場することの警告となっていると言うことである。

ここでは、その根拠を追ってゆくことにする。


◆見掛け上の矛盾

第七章以降のダニエル書後半の預言には、政治権力についての歴史上の流れが記されている。
特に第七章の海から上がる四頭の獣については、ネブカドネッツァルとその帝国を第一の獣であるライオンに例えているところで理解は容易に進む。
実際の歴史上、新バビロニア帝国をペルシア帝国が破り、それからマケドニアが急速に世界を席巻した後、強力な帝国となるローマがマケドニアを破り覇権国として登場しており、これらはダニエルに示された四種類の獣とその特徴が合致している。

そればかりでなくダニエル書の第二章、それはダニエルがバビロン捕囚となったばかりのネブカドネッツァルの治世の第二年に示された王の夢の中の、四種類の金属で出来た巨大な人間の像の解き明かしとも合致している。
これらの啓示は明解であるので、これまでも多くのキリスト教研究家によって多くの解説がなされてきたものである。
即ち、新バビロニア、ペルシア、ギリシア、ローマと覇権が継承され、その結論と言えば、その四番目の覇権を以ってこの世が終わりを迎えるということであり、また神の『聖徒ら』が世界支配の権限を受けるということであった。これはダニエル第七章で順次登場する四頭の獣の幻とも合致することでは非常に分かり易く、今ここでの解説を要しない。

それらに加え、ダニエル書の第四章では大王ネブカドネッツァル自身が王権を離れ、とても復位が望まれそうにない境遇に落とされながらも、王位を簒奪されることもなく定められた時が満ちるに及んで正気を取り戻し、その経験から人間としての謙遜さをも含み、以前に優って王の器量を持ちつつ王座に戻ったことを王自ら国家の公用語であるアラム語で布告し周知させた文面を含めて記している。

その意義とは、神はどれほど低められた者であっても自在に支配権を与えるということであり、敷衍しては権力に迫害され散らされ滅ぼされるイスラエル、即ち『聖徒ら』であっても、その時に至れば神からの強大な支配権を賜ることになるという例示であったと言える。それゆえ、邪悪な者がたとえ聖徒らに勝利を収め、神に向かって勝ち誇る終末の王が居るにしても、時満ちるに及んでは、世界の支配権をも譲り渡すべきことがあることをこの一件は例証していたと言える。

だが、これらダニエル書に記された啓示の流れからすれば、世界覇権の趨勢がどう推移するかについては分かるのだが、終末というその期間そのものについての情報は充分語られているとは言い難い。
それに加えて、この四つの世界覇権の歴史上の連なりに関する幻の詳細と、次いで示されるダニエル第七章の幻には表面上の相違があり、双方が異なるものを示すかのような一つの事象がある。

それが『小さい角』という表象であり、この一つのために巨像や四種の獣の啓示を説明するのは容易であったものが、第七章に於いて一つの障碍に面するのである。つまり何度も語られる、後発で急速に成長する『角』の存在についてなのだが、ダニエルの記すところは章によって『小さい角』の出所となる覇権王朝が異なるという一見して非論理性が全体の解明を曇らせるのである。

では、まず『小さい角』の記述を比較してみよう。

第七章での『小さい角』は四番目の著しく強力な獣から現れる、その元となる野獣はローマであり、その中から『角』が現れる事を指していることになる。しかし、第八章では明らかにマケドニア、それも大王の後継者の一人から派生して現れるのであり、ここにまず矛盾がある。

だが、これらの啓示が何やら同じ事柄について述べているのであろうことは自然に感じ取れるのだが、ローマとマケドニアほどに歴史上の覇権国家をまるまる一つ違えるとなると、時代も背景もすっかり異なってしまい、そこで鋭意正確な解明を試みようとするなら、書かれた内容の方に大きな曖昧さを見てしまって探求心も失せるところではある。この『小さい角』に関する情報には確かに大きな矛盾がある。

しかし、この「見掛け上の矛盾」もダニエル書に記されたいくつもの幻の目的を考えると見えてくるものがある。
その考えられる目的とは、これらの啓示がただマケドニアの二大覇権の顛末を予告したものではなく、より重い意味、即ち「終末」に起る事象について、分かり易い「巨像」や「四頭の獣」以上の事柄を知らせようとしているのではないかということである。

それはダニエル後に刻まれていく歴史の事実を一続きに語るよりは、それぞれの覇権国家がかつて為した事柄や意義を素材として縦横に用い、直接に成就した歴史の事実を超えるところの、更なる将来の成就を二重に、また詳細に開示するために用いられていると捉えることを意味する。
つまり、単なる一連の歴史の予告に留まらず「終末」に生きる者らへ教訓としての情報を含んでいると捉え、それらの素材の出所を探り、ダニエルの記述の組み立てを再構成すると、モザイクの断片を合わせるようにダニエル書の真意の全体像が現れることになるのである。

そうしてダニエル書の第七章と第八章では『小さい角』に関してその現れる元の獣が異なることも、却って『小さい角』を詳細に描くための差異であると見るなら、終末という場に関しての視野がむしろ広がることになるのである。

では、『小さい角』に関するこれら二つの章の相違をどう見たらよいだろうか。

確かに第七章では、世界的覇権の推移を歴史上の最大覇権国家の推移についてを、新バビロニアからメディア・ペルシア、そしてマケドニア・ギリシアへと辿り、最後にローマ帝国に行き着いている。最後のローマ帝国は格別に強いとされているうえ、幻の「巨像」では長い下半身を形成する鉄の素材の部分に相当している。

実に、今日ローマ帝国は過ぎ去った国家ではあるのだが、別の文明の強力な大帝国によって倒されたのではなく、ローマ帝国は二本の脚のように東西に分裂し、西側は流入してくるゲルマン諸族、また、東側はイスラムの勃興により弱体化して蒸発するように消えていったのだが、キリスト教を国教に据えた文化や制度に於いてはその後の欧州、特に西欧を繁栄へと導き、後代の植民地経営や国家制度、国際規範などで今日に至るまでその影響は増大し、広く世界を覆っているというべきであろう。

即ち、現代文明というものは、世界規範を作り上げた西欧を介してローマ文明の延長線上にあり、そこに我々は生活しているのである。現代文明は西欧的規準を用い、国際的機関はラテン語の語彙の多いローマ字を用いる英語により機能し、多くの国で日曜を休日とし、欧州由来の法制度も世界各国の標準とされている。加えてローマ帝国が国教としたからこそ、その後のキリスト教は世界に広まり世界最大の宗教ともなっている。
しかも、その鉄の足先の部分には『鉄と粘土』という、まるで異質な物で構成されているという特徴がある以上、その終末部分である足先への注意も読者に喚起されているのである。

しかし、ここでは『角』について追ってみよう。
第七章の第四の強大な獣に『十本の角』が有ることにまずひとつの理解を置くことができる。
第四の獣は今日も『十本の角』に於いて健在であり、世界のほとんどがローマ文化の延長線上でそれぞれに国家を営んでいると言える。
十という数字が単に十か国を表すと捉えるよりは、全体を表す十全さの象徴とするなら、それらの角の各々は国際法で認められた諸国家を表すと見ることは的外れでもあるまい。
この観方であれば、第四の獣ということではローマ以後一国家を表さないながら、今日までにローマが世界的な広がりを見せていることになる。

ではあるが、この巨大な世界的体制の中で争いがないとは言えない。
歴史に照らせば、むしろ第四の獣の中で十本の角が平和に共存してきたとは言い難い。
それにしても、かつてのローマ帝国による地中海世界の安定と繁栄、そして後の大英帝国という史上最大の版図を誇った国家による経済的発展と、二度の世界大戦を経て、その覇権を引き継いだ米国の強大な力は、歴史上、常にローマ文明という主軸をずらすことなく据えられてきたと言えよう。

その意味で『第四の獣』は格別であり、例えるものが無いほどに強力であると言える。歴史はローマ文明を打ち消して乗り越えるような次なる世界覇権を見ていないというべきであり、現代の世界の人々は依然としてローマの延長線上を生きている。

古代に振り返ると、ダニエル書の第七章と第八章との異なり、即ち主役がローマなのか、それともギリシアなのかという点で、強国ローマが安定的であったのに比べ、熾烈に争い合う覇権同士の対立という概念を描くことではマケドニア=ギリシアほどの役者はいないと言えるのである。ダニエル書の目的は、やはり歴史を正確に予告することを超えて、終末に起る事態を描き出すことなのであろう。そこではバビロニア以来の四大覇権国家の流れも、マケドニアの二つの王朝も、その終末の事態を描き出すための画具ではないだろうか。

さて、大版図を領したマケドニアもアレクサンドロス大王が絶頂にあって急死すると、王権継承が準備されていない状態で広大な領土を治めるべきは誰かを巡り、大王配下の諸将が入り乱れて戦うことになったディアドコイ戦争をダニエルの預言は描いており、第七章の頭が四つに分割された豹と、第八章の一角の山羊の角が折れ四本の劣った角が生えてきたところは、やはり同じものを描き出している。
確かに大王後のマケドニアの勢力争いは間断の無いオセロゲームのように各ディアドコイ(後継者ら)の勢力範囲の変更を見せた。それは忽然と現れた超大国を四つの凡庸な王国に分けている歴史の証言がある。

だが、その中でも比較的安定していた勢力はナイル川に守られたエジプトを治めたプトレマイオス朝であり、また東方の広大な地域を領土としたセレウコス朝シリアの二大勢力で、この二つの王国はローマの版図に収められるまで最も長くまた目立って存続していた。

この点で、ダニエル書は第11章以降、単なる歴史を順番に預言するだけでなく、ペルシアの四代の王らとアレクサンドロス大王については一言語るばかりで、焦点を南北二人のディアドコイの王らの抗争と、その過程でのユダヤについて詳しく語り出す。
しかも、その啓示の話が終わりに近づくにつれて、単にこの南北の王の抗争の時代を超える内容に踏み込んでいるのである。それが即ち「終末」という遥か将来のこの世の終わりの時期に於ける世界の趨勢に話が及ぶのであり、やはりこれには現代の我々の注意を引かずには済まないものがある。

そこで第七章での後から生えて成長する『角』と、第八章で同じくように現れる『角』との出自の相違は、双方の『角』が異なるものなのではなく、異なる視点から同一のものを描いていると捉えることができ、その『角』の理解を一つの主題にして漸進的に深めることを目的にしていると読めるのである。



◆律法契約への挑戦

ここで終末に関わる本論に入る前に、ダニエルの語る『角』について詳しく見ておくと、この第八章での山羊から現れる『四つの角』またその一つから更に現れる『小さな角』の意味は、第十一章に於いて更に示唆的に明かされることに気付く。

ダニエル書の第十章から始まるダニエルへの最後の啓示は第十一章に入ってマケドニアの南北王国の対立を描きつつ、その間で翻弄されるユダヤの姿を含めている。第十一章三節以降ではアレクサンドロス大王の後継者らを四本の角で表象しながら、『その一つから小さな角が興ってくる』との幻をダニエルは見ており、その角がユダヤの神殿崇拝に干渉し、『背教』をさえ迫る様も描かれている。

この事態に至る過程について第十一章は丹念に南北の王朝のせめぎ合いを描写しているので、ユダヤの聖所を汚した覇権者と描かれるのが、歴史と照らし合わせることで識者らの認識もセレウコス朝のアンティオコスⅣ世エピファネスなる八代目の王であったことが明らかとなっている。
元々セレウコス朝はユダヤに対してその神殿祭祀を尊重し、律法遵守の文化を変えさせるような強引な支配は行って来なかった。

しかし、その粗暴な風貌を今日にまで肖像に見せるエピファネスは、気まぐれな性格で周囲から王位に不適格とされることでは預言された通りに『軽んじられた者』であったにも関わらず、描かれる『小さな角』の如くに増長しセレウコス朝の王座を強引に奪って後、エルサレム神殿の崇拝にまで関与して、ユダヤ人が立てていた大祭司オニアスⅢ世(契約の君)を廃しヘレニストのヤソンに代えさせるなどユダヤ文化そのものへの敵意を見せた。これはモーセを守るか否かというたいへんな選択をユダヤ人に迫るものである。

エピファネスはエルサレムを占領すると、自身のギリシア化政策に同意しない多数のユダヤ教徒の市民を虐殺し、神殿を棄損したことをヨセフスなどの歴史家は告げている。(ダニエル8:11/11:31)

ダニエル第8章と第11章の『小さい角』の働きとされる『常供の犠牲と絶えさせ聖所を汚す』との重大な行動は、やはり実際に西暦前170年以降に起っている。
エピファネスは一度目のエジプト遠征の途上でエルサレムを制圧すると大祭司をヤソンからメネラオスという更にギリシア文化に染まった反ユダヤの過激な人物に入れ替え、ユダヤ一国と律法体制を揺さぶった。

元々エピファネスは人質としてローマで成長した経緯があり、グレコローマンの文化に親しく触れ、アレクサンドロス大王の覇業によって成し遂げられた征服により、ギリシア文化とオリエント文化の融合によって新たに生み出されていたヘレニズム文化によって世界が安定的に治められることを目指していた。彼自身は人質に出される程度に軽視されていたとはいえ、ギリシア文化がオリエント東方ばかりか西の大国ローマにも浸透していることに自負心を懐いたことであろう。ローマのカピトリヌスの岡に祀られていたのは神ユピテル、即ち元はギリシアのゼウスであった。

その自負は『王は領内の全域に、すべての人々が一つの人民となるために、各々自分の習慣を捨てるよう勅令を発したところに顕著に出た。そこで異邦人たちは皆、王の命令に従った』とマカベア記に記されたところにも表れている。(マカベア記第一1:41)

エピファネスは、この意向について相当に強圧的であったのだが、千年以上前からユダヤ人に与えられてきたモーセの律法は、確かに時代の変化から取り残されてゆくようなところがあった。
というのも、ユダヤ人の生活がパレスチナでの農耕牧畜生活から、広く国境を跨いだ貿易や商業の産業に傾きつつあり、当然ながら異邦人との接触の機会も大いに増大し、隣の家には異邦人が住むような生活となり、それまでの律法の規定をどのようにヘレニズム文化のもたらす世界標準化に対応させるべきかという問題に直面し始めていた。多様な文化が融合し、より良いものを取捨選択して一層洗練された生活様式がパレスチナの周囲で流行して行く中で、割礼、安息日、食事制限などを求めるユダヤ律法体制への拘りは、いかにも時代遅れに見えたに違いない。

実際それは諸国民の嘲笑を買うところとなっており、ユダヤはプトレマイオスⅠ世の策略で、安息日にあっけなく占領され、それでなくても、安息日に火を起こせないユダヤ人が藁に食物を包んで冷めないようにする風習が驚嘆と侮蔑を誘っていた。割礼に至っては、我が子を流血の虐待している以上には見えなかった。北の王エピファネスが禁じようとした風習がそれらである。

そこで律法を守ろうと努めるユダヤ教徒は、ただモーセから授かった律法の言葉をどのように、またどこまで新しい生活様式に適用させることを模索したのだが、これは律法に精通した書士(ソフェリ-ム)の能力をさえ超えたことで、モーセを大胆に解釈する者の必要が生じていた。そこで姿を現すのが「賢人」(ハーミーム)であり、後の「律法学者」(タナイーム)であり、彼らの存在意義は、「口頭伝承」(ミシュナー)という教えが実はモーセの頃から律法とは別に伝えられていたと主張し始めたところにあった。だが、これは真実性を立証できるものではなく、ユダヤ人からも、まるで新法であるかのように律法解釈に於いて大胆過ぎるとの批判もあったものであった。

他方で、ユダヤの民からも、律法契約を呪縛と見做し、古めかしく見えるようになったユダヤの生活様式を嫌った者たちが、ヘレニズム文化の擁護者となっていたエピファネスの許に走るという事態も起こっていた。王は彼らを受け容れて保護し、彼らの方はユダヤ攻撃に際には、進軍の導き手となることを請合っていた。その代表格が後に大祭司職に就けられたヘレニズム主義者のヤソンであったという。
だが、エピファネスはヤソンの大祭司職もヘレニズム化が手緩いとの不満を持ち、より強硬な反ユダヤのメネラオスに入れ替えている。

さて前169年になると、エピファネスは姉妹の嫁ぎ先の王子、つまりは自らの甥に当たる『南の王』プトレマイオスⅥ世が即位したエジプトに攻め入り、エジプトの王権を継承したその幼い王フィルメトールを捕えたうえで傀儡としメンフィスに封じ、王都アレクサンドレイアだけを残して周囲をすっかり制圧してしまう勢いを見せた。アレクサンドレイアの人々は、捕えられたフィルメトールに代えてフィスコンを王位に就けプトレマイオスⅧ世と成らせて抵抗を続けたものの、エピファネスは二度目のエジプト攻撃を以ってあわや南の王朝を終わらせるかにまで至った。

しかし、そこで当時東方に勢力を伸張していたローマ共和国が介入をすることになる。ローマとしてはセレウコス朝の強大化を許せず、ギリシア圏ではやりたい放題のエピファネスの野望も、ここにラテンの新興勢力に挫かれることになるのであった。時代の潮流はマケドニアからローマへと移りつつあったのである。

これは彼の先代からの趨勢となっており、エピファネスの父王であったアンティオコスⅢ世メガスの時にセレウコス朝はローマ軍に対し圧倒的優勢を誇りながらもギリシアから小アジアへと敗退を繰り返し、エピファネスがローマに人質になったのも、父の連敗の代価としての支払いであり、前188年のアパメアの和約の条件の一つであったのだ。

エピファネスがローマに質に出され、その兄フィロパトルがセレウコス四世(前187-175)として即位していたが、その後のセレウコス朝はローマへの賠償金に悩まされ、この王は『輝かしい国に、税を取り立てる者を行き巡らす』ことを余儀なくされ、その『輝かしい』ユダヤもその悪影響を被っている。(ダニエル11:20-)

その後、このフィルパトルが暗殺され、つまり『数日のうちに、怒りにもよらず、戦いにもよらずに破られる』と預言は語る。その後『彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる。彼には国の尊厳は与えられないが、彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く掌握する』とダニエルに啓示されていたのが、エピファネスであった。彼は正当な王位継承者の兄フィルパトルの息子の摂政ということで幅を利かせ、やがてその甥を追い出し、前175年に自分が王位に就くに至る。(11:20-21)

だが、この卑劣なやり手の人物も、人質にされていたローマには頭が上がらない。
二度の遠征で、ほとんどエジプトを手中にしながら、ローマの代官ポビリウス・ラナエスはエピファネスが立っている周囲の砂の上に円を描き、その円の中から出る前にローマと敵対するか否かを決めよと言われ、不承不承にエジプトから撤退することになったのだが、憤懣やるかたない思いで帰路に立ち寄ったエルサレムでは、いつの間にやらユダヤ人に追放されてしまっていたメネラオスを呼び戻して再び大祭司として据えたうえ、何と翌年にはユダヤ教禁止令をユダヤに発布するという暴挙に及んだのであった。

彼の傲慢な支配欲に妥協なく、諸国の宗教的文化の差異を認められないほどに偏狭で、特にユダヤの律法祭祀や割礼などの習慣はエピファネスの嫌悪するところであり、モーセの律法が規定する崇拝も生活習慣も割礼を含んで廃止させ、エルサレム神殿を強引にもゼウスやオリュムポスの神々の崇拝の場とさせ、律法によれば禁忌すべき動物である豚を祭壇で捧げさせ、遂にゼウスの偶像を神殿に据えるまでに及んだ。第一マカベア記の筆者によれば、その像は確かに『荒らす憎むべきもの』と呼ばれている。(マカベア第一1:54/ダニエル11:31)

ユダヤ人に律法に従うことを禁じるとは、千年にも続く神と取り結んだ契約を反故にせよと迫ることであり、これほどまでに異邦の権力者に律法契約を翻弄される事態というものは、捕囚後からそれまでのユダヤに類を見ないほどであったと言える。
かつてエジプトからは、神殿や王宮から金銀を掠め取られ、ネブカドネッツァルには神殿もろともにエルサレムを滅ぼされたとはいえ、ダニエルの三人の友らが上手く立ち回り、また迫害も甘んじて受けたように、律法に従うことを異教を以って常に強く邪魔されてはいなかったと言えよう。

アケメネス朝ペルシアはキュロスの時からユダヤ神殿の再建に肩入れし、クセルクセスの時にはエステル記のような顛末が記されているし、その後の献酌侍従ネヘミヤもユダヤの民と共にアルタクセルクセスの格別な愛顧を受けている。
また、アレクサンドロス大王も何故かユダヤ人に特に好意を表し、もちろんその崇拝を邪魔してはいない。加えて、あのネブカドネッツァルですら、ダニエルを高位に就けて著名にし、三人の友を優遇したのであれば、ユダヤ人の習慣や文化が侮蔑の対象となり、律法の習慣が根絶やしされるほど圧迫された事態はそれ以前に例を見ない。その後にも、ローマもユダヤ教を保護し、ユダヤ神殿への寄進物の運送の安全は保障され、皇帝自らも犠牲を供出し、安息日などの宗教的頑固さもあってながら、ユダヤ人には徴兵を免除までしていたのである。

この点から見るなら、エピファネスという権力者の敵対は異様であり、ユダヤの宗教文化そのもの、またユダヤの神にさえ敵対して大言壮語を吐いていたのである。こうして『常供の犠牲を絶えさせ聖所を汚す』とのダニエル書に記された予告はその通りに成就する。

そこでダニエル書が第七章以降、繰り返しこのように聖なる民を悩ます存在を暗示し、強大な権力の狭間から生じる『小さい角』、また『腕』として場面や名称を変えながら指摘してゆくのである。



◆『聖なる民』を滅ぼすもの

ダニエル書の第七章から第十一章にかけて繰り返し現れるその『角』の実体については曖昧に語られており、正確を期して字句に拘れば探求を中止しなければならない。
したがって、これらの文章の背後にある精神は「誰にでも明らかにする」というものとは言えず、暗示を察知するために求められるのはダニエル文書へのひたすらな信頼といえよう。
そのうえ、そうして得られた理解には確証を誰も与えないのであり、間違える危険性も覚悟しつつ探求を続ける必要が否応なくそこにある。

だが、これらの文章に散在する表象は、もどかしい不明瞭さの中にも繰り返されるので、敢えて手を伸ばせば届くようなところに解釈があるとも言える。
しかし、ダニエル書の末尾には『これらの言葉を秘すように。多くの者が迷い行き、雑多な知識が横溢する』とまで書いてある。(12:4)
ゆえに、今ダニエル書を論じているこの記事も、その雑多で的外れな解釈に終わる危険と隣り合わせであることも考慮に入れつつ慎重に先を進むべきなのである。

したがって、終末についての解は「誰にでも知恵を与えようとの意志がそもそも聖書に無い」という点は常に意識しているべきであるとも言える。だが、何等かの理解を得た者が沈黙するのが良いということにもなるまい。

キリストはこう言われている『わたしが暗闇であなたがたに話すことを明るみで言え。耳にささやかれたことを屋根の上で言いひろめよ。』『彼らは目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがない。』(マタイ10:27/13:15)
ダニエル自身もこう告げられている『逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた者らについてはそれを悟る。』(12:10)
話されることが聞えても、それを受け容れることができない者にとっては聞いていないのと同じなのであるから、これは実に無駄がない。あまねく聞かせるだけでよいのだから。

さてここで、鍵となる前提の理解を挙げておくことにする。それは難解なダニエル書を解き進むに際しての羅針盤の役割を果たすと思われるからである。
それは『聖なる民』が何者かという理解であり、何を以ってもこれが終末という重要でありながら推理小説のように謎のままに語られる場に具体性を一貫して与える登場者である。


ダニエル書に限らず『聖なる者』は新旧の聖書に登場しており、特に新約聖書のキリスト後の聖霊を注がれた弟子たちを指すものとなっている。
旧約聖書では、律法に於いてはレヴィ族を特に聖なる者としての清さを守るべきことが強調されている。
それでも、ネイヴィームには『聖なる民』としてのイスラエル全体を指す例もあり、それがダニエル書では『聖なる者』も『聖なる民』も語られているのだが、その対象が具体的にどのような者たちを指しているのかは明確でない。

その『聖なるもの』については現実から離れた、何か架空の存在を指しているかのように読める理由は、ダニエル書の語る内容が預言書に比べて遠い未来を語るところから来ているのであろう。
イスラエル民族がパレスチナに健在である内には、神殿祭祀も継続されており、そこには現にレヴィ族の祭司団が務めを果たし、血統による大祭司も任命されていた。その状態での『聖なる者』という言葉にはレヴィ族を特に示す意味があった。

だが、西暦七十年をも遥かに越えた未来、ダニエルが第二章で語っているような最終世界覇権も打ち砕かれ、神の王国が権威を持つという終末までを見通した上での『聖なる者』や『聖なる民』の言葉には、もはや律法祭祀制度上の呼称は当然ながら通用しない。そこではモーセの祭祀制度を超えた、キリストを大祭司とする天界の『新しい契約』に基づく、聖霊注がれた弟子らという『聖なる者ら』の制度を考慮に入れない限り、この先を理解することは不可能となるのである。

そこでダニエル書の第九章にある「七十週」に関する記述には、契約を締結する者としてのメシアが描かれ、『彼は一週の間、契約を固く保つ』の言葉に、終末にさらに三時半の契約期間を残していることが示唆されており、それはまさしく終末を語るヨハネ黙示録に登場する『二人の証人』の活動期間1260日ともされ、これらの聖なる人々は黙示録だけでなくダニエル書でも征服され殺されることが知らされている。

この共通性からすれば、黙示録で『二人の証人』を滅ぼすのが『七つの頭を持つ野獣』であれば、ダニエル書では強大な野獣の十本の角の間から生え出る『小さな角』ということになり、双方は同じものを指して、別の表象で語られていることを読者に訴えていると見てまず間違いないであろう。

すなわち、その『角』の実体はダニエル書が指し示すアンティオコスⅣ世エピファネスの仕業を通して洞察すべき終末の何者かを指していることになると言える。
なぜなら、ダニエル書第8章でのその『角』は預言の通り四人のディアドコイの一人から現れており、そこで第11章では『北の王』であるエピファネスと、同時に『角』の働きを行うエピファネスの重なりが見られ、それがその預言の理解を妨げる黙示を構成しているからである。

だが、『北の王』が据える『腕』また『角』とは、ヨハネ黙示録の中でより詳しい情報を得ることになる。
そこには『七人の王がいて』『七つの頭を持つ野獣』は『八人目であり、その七人から出るが、滅びのために引き下がる』。
それはダニエル第8章で、エピファネス自身が『四つの角の内の一つから出る』と描かれたように、セレウコス朝という一つの王朝の王でありながら、同時に新たに芽生える角でもあると言うことに整合を見せている。

そしてダニエル第11章では、そのエピファネスから更に新たな『腕』または『軍勢』が興り、その『腕』が『神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てる。』としている。

そこで黙示録の言う『七つの頭を持つ野獣』とは、エピファネスの興す『腕』また軍事力と整合することになり、やはり、黙示録でその軍事力に対して『だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか』と人々は怖れ奉ると言う。(13:4)

したがって、ダニエル書の『角』また『腕』とは、黙示録の示唆するところでは七つの歴代覇権の内から現れる軍事力の集合体、新たな国家連合であり、それは現存の国際連合のように弱体なものではなく、新たで強固な軍事的同盟を指しているかのようである。

終末の『北の王』は、それを主導して新たな国際的な組織を唱導し、その盟主となるのであろう。その権威は世界中に及ぶほどになるという。(黙示録13:7)
だが、神の目からすれば、その寿命は42か月間と短く、実質的役割といえば、聖徒を攻撃されるための邪悪な道具にしかならない。(黙示録13:5)



◆『違背』という『背教』

ダニエル書の第8章では、第7章の『角』が『至上者の民を絶えず悩ます』とあるのと同様に、『角』は南と東に向かって攻めかかり『飾りの地』にも侵攻して『天軍さえも幾らかを地に落として踏み躙る』とある。その結果『聖なる定まった場所は打ち捨てられ』『常供の犠牲も次第に渡されていった』とある。
これは明らかに終末での聖徒らの処遇を指している。
なぜなら、聖徒が天に属する者となるにはキリストの犠牲を要しており、それなくして彼らも天界とは関わりを持たないからである。即ち、聖徒らはキリストとの『新しい契約』に入り、迫害の試練による「裁き」を受けてでなければ『天の王国』へと招かれないからである。

この『聖徒ら』に臨む裁きは、当然ながら彼らが地上に居る間に行われるべきものである。というのも、キリストが忠節を全うしたのもほかならぬ地上であり、人であった間のことであったからである。(ヨハネ17:4/ヘブライ2:17-18)
イエスが『神の王国』について『多くの者が入ろうとするが、入れないから』『狭い門を通って入るように努めよ』と弟子たちに言われたのは、主の昇天後に聖霊を受けるイスラエルの民であっても、イエスを仲介者とする『新しい契約』から脱落する危険があったことを教えるものである。(ルカ13:24)

この点では、『北の王』として単独ではどこまで地上に広く権力を及ぼせるかは未知数ながら、これが諸国家の軍事的同盟となれば、話も変わってくるであろう。

契約に入った聖徒らが王国に入るのを最も妨げるのは、ミナやタラントの例えに見られる『恐れ』の感情であり、迫害の前に確固たる態度を示さないとすれば、容易に妥協させようとする罠に嵌まってしまうに違いない。それゆえ『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな』とも『自分の磔刑の柱を抱えてわたしの後に従って来ない者はわたしに相応しくない』とも彼らの主は言われるのである。(マタイ10)

このように王国に招かれた者が吟味されることは、ほかにも「豪華な宴会の例え」や「引き網の例え」にも見られることであり、彼らがどれほどの危険に遭うかは『平和ではなく、剣を投げ込むためにきた』とイエスが言われる通り、家庭や親族関係さえ当てにならない事態さえ覚悟せねばならない。

これらの迫害は、彼らが『王や総督の前に引き出され』『神の王国』に道を譲るべきことを『聖霊によって語る』からであり、その音信はアダム以来、神から離れてしまっている『この世』を弾劾するものである。その強度の緊張関係の中で、聖霊を注がれたにも関わらず妥協してしまう者も出ることは、聖徒らの主イエスの厳しい言葉にも明らかなことである。(マタイ10:18/ヨハネ16:8)

ダニエル書を振り返ると、その第11章にはエピファネスの仕業の一つに『契約を破る者を巧言によって棄教させる』ともある。聖徒らへの迫害という正面攻撃があるばかりでなく、甘言の罠も用意されることも充分有り得ることであろう。

ダニエル書第7章には第11章同様にギリシア末期の王が『彼らの治世の終わりに、彼らの罪悪が窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ』とも『彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶる』とも書かれている。確かにエピファネスは正統な王位継承者を出し抜いてその地位を得ただけでなく、その後継者を殺させ、その暗殺者をも処刑して王位に就いたような人物であり、策略を弄するところも預言された通りであった。罪悪感は欠片も持たない冷酷な権力者であろう。(ダニエル7:23.25)

即ち、終末に於ける『北の王』が『契約を破る』よう聖徒たちを巧言や策を弄して唆すという事態はここに明瞭に見えている。
ここに『違背』がある。『[天の]軍勢は渡され、違背のために常供の犠牲は絶たれる。その角は真理を地に投げ捨て、放埓に振る舞いそれを成し遂げた』とあるように、『常供の犠牲』を絶えさせるのが『北の王』による策略であり、それを成し遂げるのが『角』であり『違背』であることをダニエル書は告げるのである。
そこでダニエル書はこうも言っている。『これらの悟る者らの何人かが倒されるのは、終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。まだ時は来ていない。』(11:35)

この『違背』は、使徒パウロが終末の印として挙げている。
『まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない』として、当時に既に『主の日が来ている』と唱える者たちを諭しているのである。(テサロニケ第二2:3)
そこで、ダニエル書の述べる『違背』が『新しい契約』への聖徒らの不忠節に原因であるとすれば、パウロが言うように、背教そのものが終末の始まった印ともなり、その『背教』の中から裏切る者ユダ・イスカリオテのように『滅びの子』と呼ばれる『不法の人』が登場することが関連付けられているのである。(ヨハネ17:12)

即ち、主を銀30枚で売り渡したような者の再来であり、『隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前の懐に安らう女にもお前の口の扉を守れ』とのミカの預言に注意を向けるべき時、イエスが『人の敵は家の者たちとなろう』という警告の言葉がこの『背教』の出現と共に現実性を帯びる時が来ることは避けられまい。(ミカ7:5-6/マタイ10:36)

これをダニエル書との関連で言うなら『違背』する者とは、聖徒に選ばれながら『北の王』の甘言のトラップに乗って『新しい契約』を捨てる者であり、そのような『違背』によって主イエスが犠牲となったように、終末の地上の崇拝である『常供の犠牲』が絶える、それは聖徒らによる聖霊の言葉の世界宣教が妨害されることを言うに違いない。

したがって『北の王』とはこれほどまでに終末で神に逆らう行動を取るのであり、その目的と言えば『神の国』の到来を阻止すること、即ち『時と法を変える』ことである。(ダニエル7:25)
『北の王』はその『角』を用いてキリストの王国を迫害によっても、また自ら罠を仕掛け、内部分裂によっても邪魔しようとあらゆる手を尽くして反対する姿を聖書に曝しているのである。

終末の聖徒が地上で宣教することは、バビロン捕囚が終わり、キュロス大王の勅命によってシオンに立ったゼルバベルと大祭司エシュアが、神殿を再建する以前に祭壇を築き、朝夕の常供の犠牲を始めていた様に合致する。未だ神殿は無いものの、崇拝の一部は再開することはできたのであるが、その事例は終末に、天界の神殿は未完成であるものの、地上で聖霊の言葉による宣教を始めた聖徒らの姿の予型であったと見ることは不自然ではない。

ゼルバベルの当時には、神殿の再建は周囲の民族の反対に遭い、遅々として進まなかったが、預言者ハガイとゼカリヤの到来以降は順調に進むことになった。同様に、終末の聖徒らはダニエル書によれば、『角』に『絶えず悩まされ』遂に『滅ぼされてしまう』。そこは終末では異なる点ではあるのだが、ダニエルは『聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する』という天使の言葉をも伝えている。
即ち、聖徒らの活動である聖霊による世界宣教が迫害と違背によって途絶えて後、物事は急速に進展し、天界の神殿の落成が近付くと見るべき理由が生じるのである。

何故なら、彼ら聖なる者らこそが『神殿の生ける石』であり、彼らが死を迎えて天界に去るなら、それは主イエスを隅の頭石として組み上げられる神殿となることを可能とするからである。


◆『荒らす憎むべきもの』を据える

このようにダニエル書と他の諸書とを補いつつあらすじを組み上げるなら、その王は、終末に於ける『聖なる者ら』を攻撃することで『常供の犠牲を絶えさせる』、これに黙示録を加えてゆけば、キリストの臨在によって再び聖霊を注がれて生み出される『二人の証人』が『粗布を着て1260日の間預言する』が、『それを終えた時に彼らと戦って滅ぼす』ための強大な軍事力を押し立て国家連合を樹立することになる。

そしてダニエル書で描かれる『北の王』は『荒らす憎むべきものを据える』となっており、これは前述したように歴史はエピファネスがエルサレム神殿にゼウス像を安置し、ユダヤ教の儀式も民の習慣も禁じたことに相当させている。つまり、前167年12月7日にその偶像が置かれたとヨセフスは言うのだが、やはりそれに伴い律法による常供の犠牲も絶えさせている。
前述の通り、『憎むべきもの』(シックース)が「偶像」を指すことは、歴史とのダニエル書の照合だけでなく、外典のマカベア第一書からもほとんど疑う余地がない。(マカベア第一1:54)

この「偶像」はダニエル書が11章で象徴的に語るように、『北の王』から『出る腕』、つまり権力である。即ち諸国家の軍事同盟とは崇拝の対象でもあるので『いと高き方に敵して言葉を出し、かつ、いと高き方の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒らはひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。』とダニエルは第七章でも語っている。(黙示録13:4/ダニエル7:25)

この点は、黙示録の第11章での二人の証人を攻撃する『七つの頭を持つ野獣』の権威が『42ヶ月』であることと符合している。そこでダニエル第七章が明かすようにこの強大化する『角』が『時と法を変えようとする』という点に光を当てることになる。それはつまり、自分たちの存続を図ろうと努めながら果たせなくなるという結末を知らせているのであり、『二人の証人』が1260日の短命に終わるにせよ、『聖なる者たちで成る民を滅ぼす』ことを終えると、『角』また『荒らす憎むべきもの』も、急速に『人手によらずに砕かれる』と黙示録とダニエルの双方の啓示が教えているのである。
(ダニエル8:24-25/黙示録13:5)

このように『北の王』から出た『腕』また『角』が忽然と姿を消す『人手によらない滅び』を理解するためには、もはやセレウコス朝シリアという王国の歴史から更に視野を広げるようダニエル書は暗に促していると言えるのである。

実に『人手によらない滅び』を被った歴史をイザヤ書第37章と列王記第二第19章と歴代誌第二第32章が同一の出来事として記録している。即ち、アッシリア王セナケリブによるユダ王国攻略の顛末であり、残虐さで知られたアッシリアの獰猛な兵士らと連合軍の18万以上の大軍が、地中海の海岸沿いを南下して後、ユダ王国の要塞都市ラキシュを攻囲しているときに、ユダの王ヒゼキヤとその民を脅していたときのことであった。
預言者イザヤは、その結末を予告し『彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも、盾を持って向かって来ることも、この都に対して土塁を築くこともない。彼は来た道を引き返し、この都に入城することはない』と語っていた。(列王第二19:32-33)

ラキシュも陥落し、次にはアゼカが攻囲されている最中、一人の天使がアッシリアの陣営を夜間に通り過ぎただけで、18万5千の兵が失われていたという。即ち『人間のものではない剣が彼らを食い尽くす』と言われていた通りであった。(イザヤ31:8)
したがって、アッシリアは神殿に偶像を据えるようなことにも至らず、むしろユダの山地にさえ軍を進められなかったのである。

そしてダニエル書の第11章には、この事跡を再度取り上げている場所がある。
それが『大海とあの「麗しの地」の聖なる山との間に天幕を張って、王の宿営とする。しかし、ついに彼の終わりの時が来るが誰も助ける者はない。』という最後の句である。(11:45)
この部分がアッシリアの故事を引き合いに出していると捉えるべき理由は二つある。

ひとつにはダニエル書で『北の王』が陣地とするところが『大海とあの「麗しの地」の聖なる山との間』であるところにある。『大海』とはヘブライ語で地中海を指すのであり、『聖なる山』とはシオンを指す以外にない。そうなるとそこはラキシュやアゼカの在った「シェフェラ」と呼ばれる台地と合致している。
やはり大軍率いるセナケリブは、そこからエルサレムを窺い、ユダ王ヒゼキヤに恫喝の使者を送っていたのであった。

しかも、軍を一夜にして失う前のセナケリブには、エルサレム征服を急がねばならない知らせが入っていた。それがエピオピアから向かってくる軍勢であり、直ちにユダ攻略を果たさねば挟み撃ちにされる危険があった。
この故事と関係のなさそうに見えるダニエル書には、この局面に関して『エジプトの隠された宝、金銀、宝物はすべて彼の支配するところとなり、リビアとクシュは彼の進むところに従う。次いで、東と北からの知らせに危険を感じ、多くの者を滅ぼし絶やそうと、大いに激昂して進軍する。』と記しているがこれはエピファネスに当てはまる。(11:43-44)

確かに、セナケリブはシェフェラの台地に上る以前に、エジプトの軍勢を海岸沿いのアシュドド近郊のエルテケで破っており、当時それは上記の聖句が描くような『金銀、宝物』を得たというエピファネスほどのエジプトと近隣諸国の制圧はできていなかったものの、この『北の王』が知らせを聞いて危機を感じるところはエピファネスよりはシオンの危機ということに於いてセナケリブによく当てはまる。セレウコス朝シリアに当てはまるのは『日の出方角と北』(パルティアとアルメニアの反乱)という知らせの来る方向くらいであり、ここにも双方の王朝の故事のグラデーションが見える。秘儀が秘儀たる所以であろう。

この最終部分での『北の王』がアッシリアに相当すると見なせるもう一つの事柄は、その大軍を一夜にして失ったという点であり、やはり、この顛末はエピファネスには当てはまらないのである。
ヒゼキヤ王とユダの民は、アッシリアの攻囲を予期し、エルサレム城外の泉を塞ぎ、シロアムの池へとあの有名な地下水道を掘り抜いて籠城に備えていたのである。
悪くすれば、というより、ユダ国民は王共々自分たちがどうなるのかには非常な不安を抱えて過ごしていたのであり、そこにイザヤのあの預言が語られ、アッシリアの軍勢がエルサレムに一本の矢も放つことも無ければ、盾をかざして囲むことさえないとの神の言葉が知らされたのである。

これが『聖なる山』シオン山上にあるエルサレムを『ダヴィドのためにこれを守る』と言われた通りに神がこれを守った証しとなったのである。(イザヤ37:35)

そして『北の王』から出た『腕』また『角』が突然に姿を消す理由がここに見えている。
なぜなら、『腕』また『角』、即ち『七つの頭を持つ野獣』が『聖なる民』を滅ぼすにせよ、その野獣そのものも42ケ月の活動期間で終わると黙示録が知らせており、『二人の証人』の預言する期間1260日と変わらない。それほどの権力を行使した途端に姿を消すからには、その『角』を支えていた『北の王』の急速な権力喪失の没落が原因していると捉えることが自然な合理性を持ってはいないだろうか。

そしてダニエル書は第11章を終え、次の章に入るとダニエルの民は救われ『多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める』とされる、即ち『第一の復活』であり、それゆえそれは死んだ聖徒らの裁きの復活でもあるので『永遠の生命に至る者もあり、また恥と、限りなき恥辱を受ける者もある』とされている。(ダニエル12:1-2/黙示録20:6/ヨハネ5:28-29)
こうして聖なる者らの王国がいよいよ到来することになるのだが、地上には『七つの頭を持つ野獣』からの攻撃を生き延びている忠節な聖徒がまだ幾らか残されており、彼らが『雲の内にあって』即ち、目視できない状態で天に召されるという、この世も驚愕するという異兆が起るときが来る。
これが所謂「携挙」と誤解されていることであり、ただの「模範的クリスチャン」が受けるような類いのものではない。(黙示11:12-13)

パウロはこれをテサロニケ第一の書簡の中で明かし、『主ご自身が天使の頭の声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初に生き返り、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう』としており、やはりダニエル書は『その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。』と言うのである。この辺りの新旧の聖句の整合性には眼を見張るものがある。(テサロニケ第一 4:16-17/ダニエル12:1)

こうして、天界に『神の王国』を構成するべき聖徒の全員が集められることで『神の奥義は終了するに至る』と黙示録は宣言する。(黙示10:7)
『北の王』は没落して既に無く、その『角』である『七つの頭を持つ野獣』も役割を終えて一度姿を消している。その『角』が切に願った『時と法を変える』ことは叶わなかった。その意味は、『一時と二時と半時』の後には、『裁きが下され』『聖徒らがその王国を取得する』ことであり、それは覇権国家の霊すらも制する天使長のミカエルの声と神のラッパの響きと共に訪れるとパウロも証しを加えて言っている。その『北の王』の没落の前後に聖徒らに起る『第一の復活』の時期が到来すると言っているのである。(テサロニケ第一 4:16)



◆終末に於ける『北の王』

ダニエル書第11章は全体としてペルシアの王たちから始まって、アレクサンドロス大王からプトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアの覇権争い、またその中でユダヤが受ける処遇とを描き出していることはこのように歴史と詳細に整合しており、比較的に認められたことである。

その記述と歴史との一致はアンティオコスⅣ世エピファネスに至って詳細に合致するのだが。前述のように第11章も終わり近い40節以降でエピファネスの生涯から乖離を見せている。
そこでは『北の王』が『南の王』に攻め込み、圧倒的な軍勢で威圧し、エジプトを制圧する。『隠された宝』とはヘブライ語の習慣として王家に所蔵される金銀宝物を指しているのであれば、それは確かにアレクサンドレイアを囲むまでに侵攻した事跡に似てはいるが、実際の歴史ではプトレマイオス朝を倒すには至っていないし、危急の知らせを受け憤激したと言うよりはむしろ、目の前でローマ共和国の権勢に脅されて退却を余儀なくされている。

そのうえ、エルサレムを窺うシェフェラに留まることなく、直に聖なる山を蹂躙していたのであるから、ダニエル第11章の29節の南の王の領域に侵攻してからエルサレムを制圧し、『常供の犠牲を廃し、荒らす憎むべきものを据えた』ところで、またエピファネスの大言壮語してユダヤの神YHWHを愚弄する彼の実際の歴史の予告は終わっているのである。

そのうえでダニエル書は前述のようにアッシリアのセナケリブの事跡について述べはじめているに等しく、ここが単に歴史を映し出したものでない神の言葉の奥深さと言うべきであろう。
即ち、11章40節以降は西暦前第二世紀までのセレウコス朝の事跡を追うのを止め、別のことを語り出しているのであり、これは当時の事では無く、別の時、即ち『聖徒の民が国を得る』という終末を描いていると見るべき謂れがある。いや、既にエピファネスを通して、そこに終末の『北の王』の姿が二重写しに活写されていたというべきか。

それを証拠立てるのが、11章の終りでエピファネスの事跡を、或いはセレウコス朝のその後の歴史を追っていたことである。しかし、その先についてはエピファネスを追う事を止め、後にメシア・イエスもユダヤ人として参加することになるハヌカーの祭りを始めるきっかけとなった、ハスモン家の神殿再献納という画期的な勝利がダニエル書に含まれていないという点に於いて異例な事で首を傾げる。やはり律法に含まれない「プリムの祭り」の由来をエステル記の一書を用いて旧約聖書が説いている事からすればバランスもとれず、やはりダニエル書は何かより重要な事柄を知らせているというべき様相を呈しているのである。

ダニエル書は11章40節から別の事柄を語りはじめるが、今更預言するまでもないような過去のセナケリブの時代に遡る。その理由は終末を描き出すためであろう。そして、ダニエル書では『北の王』の『角』によって既に聖徒らは死に至っている。
では、セナケリブで表されるところの『北の王』は聖徒以外のいったい誰に攻撃を仕掛けるのだろうか。
それは『「麗しの地」の聖なる山』とある以上、それはエルサレムでありシオン山で表される人々の集団であることになる。

この『シオン』についてはイザヤとミカの二人の預言者が、終末に於けるその繁栄を描いている。
『終わりの日にYHWHの神殿の山は、山々に勝って堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに流れ、多くの民が来て言う。「YHWHの山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。YHWHの教えはシオンから御言葉はエルサレムから出るからだ。』(イザヤ2:2-3/ミカ4:1-2)

終末の『シオン』に象徴される信仰を懐いた人々の集団は恰もヒゼキヤ王と民が直面したような非常な不安を前にする事であろう。その終末での危機に面する当事者は聖徒ではなく信徒ということになる。
ダニエル書の第8章『北の王』はその『角』を用いて既に『聖なる者ら』を死に至らしめているからである。

その姿は、エルサレムを脅すセナケリブとアッシリアの大軍のようであり、「いったい誰が我々に立ち向かえるのか」と豪語するかのようになるのであろう。(イザヤ37:11/黙示13:4)
そこで旧約聖書の諸書が揃って語るように、あっと言う間にその権力を喪失するのであれば、それはイエスの終末預言にも共通性を見出すことになる。

例えればマタイ福音書で『戦争や、戦争の噂を聞くだろうが、気をつけて怯え惑わないようにせよ。これらは必ず起こる。だが、終わりが来たのではない』これはマルコとルカの中でも同様に記されている(マタイ24:5/マルコ13:7/ルカ21:9)

ここで『終わりが来たのではない』とキリストが言うのは、この最初の弟子たちへの攻撃が、そのまま世界を裁く終局、また『ハルマゲドン』という国家間相互に同士討ちが起るという戦いではないためである。

この『戦争の噂』というギリシア語の用例はヨセフスにもあり、皇帝カリグラの命を受けたローマ軍のエルサレム接近の場面で用いられているのだが、このときもやはり一触触発ながら、遂に戦争に及ぶに至らなかった。ユダヤ人は大いに肝を冷やす事態となったが、西暦四十一年、皇帝が暗殺されたのである。
しかし、ダマスコスを発ったローマの軍団の本隊は地中海沿いのプトレマイスに到着しており、シリア総督がユダヤ人の陳情に耳を貸さず、神を自称する圧制皇帝カリグラの下命にそのまま従っていたなら律法契約を課せられているエルサレムは虐殺の坩堝と化し、神殿には偶像が置かれているはずであった。がしかし、その間にも皇帝暗殺の策は練られていたのであり、カリグラ帝は移動中を襲われ、数人から剣を突き立てられて果てた。それが西暦41年1月24日であり、その時期が絶妙であったのでユダヤ戦役は間一髪にして実現することなく、まさに『戦争の噂』で終わり、エルサレムと神殿の荒廃は二十九年後の西暦七十年を待つことになる。(戦記X1)

加えて、イエスの語る『これらは起こるが終わりはまだなのだ』との言葉によれば、ダニエル書での『北の王』の起こす『腕』また『角』によって聖徒らが地上を去っているのであれば、これは「聖なる民イスラエル」に向けて語っているのではなく聖徒らに信仰を懐いた信徒らへの言葉であり、その後の終末に関わる多くの聖書の言葉は、『聖なる者ら』ではない『神の民ら』に向けて語られているのである。

イエスは、聖なる弟子ばかりでなく、彼らに信仰を働かせる者らについてこう語っている。
彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください』(ヨハネ17:20-21)

この聖徒と信徒の一致を願うキリストの言葉の以前、既に旧約の預言書はこう語っていたのである。
『YHWHは言われる、シオンの娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むからである。
その日には、多くの国民がYHWHの側につき、わたしの民となる。わたしはあなたの中に住む。』(ゼカリヤ2:10-11/イザヤ40:9)

このように、聖徒に続く信徒の現れについては、黙示録の第九章にも暗示されている。
そこでは、まず無数の蝗が現れて太陽も空気も暗くされてしまう。それは聖徒らの語る言葉が余りに鮮烈にこの世を糾弾するからであろう。
人類に『罪』を逃れているものがいないことをも蝗が証しするので、すべての人々はその毒の苦しみに遭うのだが、『額に証印のない者』がその害を受けるのであり、『証印』として『聖霊を与えられた者』である『聖なる者ら』同士は当然ながらその毒の害を受けることはない。『キリストの兄弟』である彼らは『罪に定められることがない』状態に『新しい契約』によって仮承認されているからである。(黙示9:1-4/ローマ8:1)

だが、この『蝗』はその昆虫としての五か月の寿命を終え、蝗害が去るかのように一匹も居なくなってしまう。これが聖徒らの寿命に相当する『1260日』と、それに加えて『三日半』を指すのであれば、聖徒らはある時を境に地上から姿を消すことになることを教えているのであろう。

しかし、『聖なる者ら』の聖霊の言葉に信仰をおく者たちも、聖徒らの出現をきっかけに集められ、神はそれら世界から流れのように集まる信仰ある人々をも『わたしの民となる』と予告されていたのであり、終末の『北の王』が聖徒攻撃の次の目標に据えるのは、やはりこれら信徒の集団となろう。黙示録も天界の光を纏う女が1260日の間『蛇の顔から逃れて養われる』ことを告げている。それは聖徒の活動の1260日に相当するのであろう。(黙示録12:1-6)
したがって、聖徒らが患難の末に天に去ると、この女『シオン』は保護を解かれ、再び危険に曝させることになる預言上の道理がある。(イザヤ60:1)

だが、この信徒の集団、『シオン』に集まった人々もこの世に対して何も行わないわけではない。そこで黙示録第九章は、蝗に続く『騎兵隊』の出現を描くのである。

その数は二億ともされるのだが、騎兵の敵は『三分の一』というほど世界の大きな部分を占めるものに対する戦いであり、それは『火と煙を硫黄』という滅びの音信を暗示するものを口から吐いており、通り過ぎ様に致命的な蛇の害を与えることになる。即ち、その音信に聴き従わないなら死を招くということであろう。

だが、これは聖徒らを象徴する『蝗』の害の後のことであり、信徒らの活動もけっして小さくないことを示している。いや、『二億』という数字からすれば、むしろ蝗害よりずっと大きいというべきかも知れない。

さて、この以前に、実は『北の王』とその『角』という権力を慫慂して『聖なる者ら』をその聖霊の言葉共々亡き者とする謀事を企んだ別の勢力がある。

それが即ち黙示録での『大いなるバビロン』という大娼婦であり、この者は権力者らと『淫行』を行い、聖徒らの言葉によって『暗くされた』『この世の三分の一』でもあろう。
これを「宗教」というこの世の構成要素と見るなら、確かに権力者と共に『神の王国』の到来を歓迎するとは思えず、しかも聖霊の言葉が紛うことのない真理を証しするのであれば、宗教ほど聖徒を嫌い、且つ為政者らと聖徒らに敵意を共にするものもないであろう。

この世の「宗教」という構成要素が、聖徒攻撃の使嗾者であったとなれば、聖徒の言葉に信仰を働かせる人々の聖徒攻撃の不当性の暴露は、その論拠に於いて最強であり、聖霊の言葉に立脚する獅子のように堂々たる姿、馬のような俊足、そして決定的な裁きの音信を語ることに於いて無類の強さを発揮することであろう。それがシオンによる聖徒への復讐であり、ペテロが『この方をあなたがたは木に架けて殺した』と発言した故事を彷彿とさせ、それは聖徒らをなお支持することにもなるであろう。(マタイ25:40)
そこで『北の王』とその『角』の次の攻撃目標として定められるべき、次なる「黙らせるべき人々」が現れることにもなるのである。


◆終末のセナケリブの敗北

こうして象徴的アッシリア軍は、聖徒らの集団を滅ぼしつつ『麗しの地の聖なる山』シオンに向かってセナケリブのようなあらんかぎりの脅しをかけ、それは『戦争と戦争の噂』というイエスの言葉を具体的なものとするのであろう。
そうであれば、やはり一強国の権力の自壊は、終局の『ハルマゲドン』の同士討ちとは別ものであり、それは依然『終わりはまだ』というべきことになる。

イザヤがアッシリア軍がシオン山上のエルサレムに対して、一本の矢も放つことも無ければ、盾をかざして囲むことさえなく、YHWHが『ダヴィドのためにこれを守る』と言われたのであるなら、『ダヴィドに座に就く』再臨のメシアのために神は終末の『北の王』の攻撃をも阻止されると見る理由があり、それゆえにも『怯え惑わないように』すべきである。やはり神は終末のシオンに対する『北の王』また『角』の攻撃をも瓦解させると類推できるからである。

終末の『北の王』は、アッシリア軍に対して起こったエチオピアの攻勢に驚き惑ったように、ダニエル書では『東と北からの知らせ』が動揺をもたらし、早急にシオンを攻め滅ぼすべき事になるが、終末の『北』の王はますますアッシリアについて述べる旧約預言の数々が当てはまってくる。
ダニエルでは、北の王はあっけなく消え去っている『彼は海と麗しい聖山との間に、天幕の宮殿を設ける。しかし、彼はついにその終りに至り、彼を助ける者はない』
北の王がどのような圧力を信徒らに加えて来るのかの詳細は分からないが、圧制国家の強圧的な権力と公正さの欠片もないような法の制定、そして個人情報の集積からの監視など、その手口は既に見えているかのようである。

また『彼を助ける者はない』という言葉には、かつての帝国アッシリアの利己主義と残忍性を表すことを暗示していると言える。周囲の国々を威嚇してきたので、いざ危難に面しては味方がいないということであろう。であれば、あの『十本の角』も南北の王のせめぎ合いでは様子見をしているとも考えられる。

この事態を知る手掛かりにナホムの預言がある、アッシリアの首都ニネヴェの滅びを専らに予告しているこの預言書には以下のようにある。
『アッシリアの王よ、お前の牧者たちはまどろみ貴族たちは眠りこける。お前の兵士たちは山々の上に散らされ集める者はいない。お前の傷を和らげるものはなく打たれた傷は重い。お前のうわさを聞く者は皆お前に向かって手をたたく。お前の悪を常に身に受けなかった者が誰ひとりとしてあるか。』(ナホム3:18-19)

預言者のヨナもアッシリア嫌いでは徹底しており、ニネヴェに預言に行くことすら拒否しようと行動した姿が旧約聖書に見られる通りである。

アッシリアの兵士の残忍性はよく知られたことで、敗者や捕虜をどれほど酷く扱うかに関する史料に困ることはない。
特にアッシュール・ナツィルパルⅡ世は「征服の大王」と呼ばれ、その残忍な軍隊が近付いて来たというだけでフェニキアの諸都市は恭順してしまう。
セナケリブのラキシュ攻撃のレリーフに描かれるところでは、守備側に見えるところで捕虜を柱に括りつけで捕虜の皮を剥いでいる。
やはりナホムもこう言う。『獅子は子獅子のために獲物を引き裂き、雌獅子のために絞め殺し、洞穴を獲物で、住みかを引き裂いた肉で満たした。見よ、わたしはお前に立ち向かうと万軍のYHWHは言われる。わたしはお前の戦車を焼いて煙とし、剣はお前の若獅子を餌食とする。わたしはお前の獲物をこの地からなくす。お前の使者たちの声はもう聞かれない。』(ナホム2:13-14)

ダニエル書に戻って『北の王』のエピファネスの特徴を見ると、『 先祖の神々を無視し女たちの慕う神をも、そして他のどのような神をも尊ばず自分を何者にもまさって偉大であると思う。代わりに、先祖の知らなかった神、すなわち砦の神を崇め、金銀、宝石、宝物でこれを飾り立てる。』(11:37-18)

これは終末の『北の王』の姿の写しでもあるのだが、自分を神の顕現(エピファネス)として旧来の崇拝の対象を軽視し、『砦の神』即ち軍神を崇めてこれに金銀を費やし、軍事力を頼みの神としている様が描かれている。

軍事力をはじめとする権力を強くし、旧来の宗教を軽んずる姿、また宗教教理まで管理することであらゆる神々をさえ自分の下に置くという『北の王』は、終末に至る以前の今日ですら、既に登場しており、その利己的で狂暴な権威主義を見せているのであろう。 現に、その覇権国家は国民に自由な信仰を許さず、キリスト教であれイスラム教であれ、自国由来の気功集団までを弾圧し、信者を拘束して再教育を名目にする収容所に監禁し、精神的苦痛や拷問を加えているとの報道が絶えない。 外部とは分断され、家族にすら安否が分からないともされる。そこでは強制労働の工場があり、移植のための臓器摘出まで行われているとの報道は否定しきれるものでもない。 政府の内部文書によれば、そこから出られるとすれば、それまでの信仰を公に否定し、持てる文書や資料を明け渡し、二度と活動に参加しないとの誓約書に署名して、以前の仲間を売り渡すことが求められているとのことである。

こうまであからさまに信仰心を敵視する政府が現代に存在し、それも世界覇権国家であるということこそが信じ難い。
その国家元首が「人権はあっても良いが、国家の安全の方が重要だ」と発言したことは、すでに広く知られたことである。即ち、国家の安全とは、自分たち政府の支配権の安全に他ならず、人々の安全というわけではない。政府のための政府の支配なのである。 古来、獰猛な国家は絶えたことがないが、覇権国家で原始的粗暴のまま対外的に欺瞞に満ち、且つ人命軽視で闘争的なものは21世紀にはそれと特定できるほど珍しい。
その国家の理念とは、人間という貴重な内容物を保護する入れ物ではなくて、為政者のために囚われにしておくための高い塀を巡らした収容所となっている。その国家は第四の獣の『十本の角』の中でも大きくまた異形に育ったものと言えよう。(ダニエル7:20)

やはり、ダニエル書の描く終末は、南北の二大覇権のせめぎ合いの渦中にあり、双方の押し合いが続くところで、遂に『南の王』がきっかけを作ると『北の王』は南に攻め込み、多くの兵力と軍備を以って『南の王』の勢力になだれ込むことを記している。(ダニエル11:40-)
どうやら『南の王』は争いを始めて居ながら北の攻勢に為す術なく後退するようであり、一時的にせよ広範囲に地歩を失うことを示唆している。そしてあの『聖なる山』にも危機が訪れることになると言っている。

しかし、『北の王』の『南の王』への攻勢そのものが、この世界覇権の終焉が近付いていることを印付けるものとなってしまう。或いは、切迫した事情があって内心それを悟りつつも『北の王』は打って出る以外にないのかも知れない。そうでもしなければ、権力を維持できないほどに内面は崩壊に向かっているということなのなら、『北の王』のアッシリアのような突如として起る権力崩壊も充分に考えられる。

だが、弟子らのように信仰ある者らにイエスの言う通りに、『戦争の噂』を聞いても恐れ怯えてはならないのであろう。それはまだ終局ではなく、聖徒らが倒されたとは言え、信徒らの集団には成すべき意義深く大きな業が残されているのである。
それこそは、『北の王』が攻め込んだものの然程の期間を置かずに突然の権力崩壊を起こすのを見て後、その重圧から解放される人々は、『十本の角』で表される王たちに聖徒攻撃を使嗾した世の『三分の一』に聖なる糾弾を行うことであろう。

『北の王』の突然の消失の原因が何であるのかはダニエルは明かしていないし、旧約預言書を渉猟してもはっきりとした答えは無いようだ。
終末のセナケリブたる、軍国主義の圧制帝国がどのように瓦解するかと言えば、アッシリア帝国の衰退の原因が、実にその軍事的狂暴性にあり、はじめは力で屈服できたものの、やがて諸国家の強烈な抵抗を招くことを歴史は教える。

自国優先の貪欲で老獪な施策は諸国の怨みを買って積もり上がり、同時多発の内乱を招き、そのすべてを抑えるほどの軍力は賄えなかった。実際のアッシリアは、まずバビロニアの新たな王の独立宣言を受け、そこにメディアの反抗を招いている。その両者は連合してアッシリアを攻めたて、各地の城塞都市も征服され、二つの強国軍を中心にした連合軍が遂にニネヴェを囲むに至った。

また、ナホムが述べたように、さらに攻囲された首都には思わぬ水害が襲い、防備を誇った城壁が破損もしたようである。その水害は予期しないものであったようだが、ナホムはニネヴェがエジプトのテーベ(ノ アモン)に勝らないと語っては、ナイルが増水期に川面が盛り上がるほどになる水害を例えて予告している。アッシリアが征服したテーベであっても水害にはニネヴェに勝っているという意味であろう。(ナホム2:6-8/3:8)

支配を権力だけに頼って主権ばかり唱えていれば、その力の支配というものは、被支配者を脅す治め方であるから、どうしても独裁化を避けられないが、それは支配される人間の本性に反するもので、よほどの執拗な宣伝と情報統制による洗脳教育でもしない限り、人々からの自発的支持を得ることは難しい。また、エピファネスのように、常に利益を分配して自分を支える有力者らを味方に付けておく必要もあろう。(ダニエル11:39)

だが、そのように閉鎖的な統治は、諸国民からも自国民からさえ嫌われるものとなり、『商い人を天の星のように増やそうとも』その倒壊の知らせを聞く人々は『皆が手を打って』喜ぶことになる。(ナホム3:16/19)
また、『北の王』の最期についてはダニエル書も『遂に、彼は終わりを迎えるが、それを助ける者は誰もいない』と結ぶばかりであり、全くの孤立の中で、この政権は崩壊することが示唆されている。(ダニエル11:45)

実際、この21世紀に入ってすら、古代の覇権王朝のように統治者が権威を民の上に強硬で、恣意的に振る舞って法律を形ばかりの言い訳にし、支配者はそれぞれの地位で汚職を行うという野蛮で前近代的な政治形態を押し通す国家が、それも看板ばかりで内実の伴わない「大国」もその醜態を曝している現実がある。

人権さえ抑え込んだ強権によって支配する姿は如何にも強固に見えながら、内実は人の持つ本来の力を引き出すことも、自発的協調性によって支え合う態勢を維持することも難しい。愛国を唱えながら、実は理念も志の方向性もなく、個人の欲だけが動かすばかりの国家となれば、四分五裂する要因を自ら作っていることになる。

統治者がそのようであるから、当然その民にも順法性など期待もできない。自発的な倫理性が育つような環境にはないのであるから、国家の強権から見えないところではどんな不法が浸食しているものかも分からず、全体として、力による強面な外見に似合わず、その覇権国家も内実は極めて「危うい支配権」をぐらぐらと今日明日のバランスをどうにかとっているだけのことである。
ナホムの預言でも、強大な覇権国家の終わりが近付く時には、『要塞もみな、熟したいちじくを成らせた木のように、揺すられただけで、その実は口の中に落ちる』というほど強そうに見える防備さえ脆弱化していると予告されている。(ナホム3:12)


様々な宗教を弾圧しては、国家への愛を強要し教会堂の正面に国家元首の肖像写真を掛けさせるなど、詰まる所、自分を神々の上に君臨させているのだが、どうしてそれほどまでに宗教に警戒するかと言えば、やはり自分たちの支配論理もまやかしの宗教であり、崇敬の対象に対して嫉妬に狂い、実質的にただ貪欲な自分たちが神の座に就いているからである。しかも、その「宗教」は既にまともな教理を持ってはいない。マルクスを唱えつつ実質的にそれを否定し、市場原理を導入して経済を肥大化させる一方、只の圧政だけを残した監視国家、「特色ある社会主義」とのお題目を唱える原始的で貪婪なだけの教理の宗教、これが現代のエピファネスの姿というべきではないか。

まさにこれが終末に途轍もない役割、即ち、聖徒を滅ぼし、信徒の集団にも二度の攻撃を仕掛け、本来的に、古来神に計画されてきた聖なる者を屠るという最も汚れた働きを果たし終え、信徒の集まりを滅ぼそうとする最後の策略の中でその役割を果たし終えてしまい、目的を達することなく急速に瓦解して過ぎ去るということが聖書の黙示であろう。(ナホム1:13-15)

この『北の王』の終末の実体については、ダニエル第7章の四匹の野獣に戻って見ると、ある程度の示唆を得る。
それは、ローマの強大な支配の中から現れる諸国を表すのであろう『十本の角』に対して、後から現れ、それに先立つ幾つかの国々よりも強勢化を急速に遂げている点である。
はじめ『小さい角』と呼ばれていたにも関わらず、現れてからは『ほかのものより大きく』急成長するのであり、それは単なる角でもなくなり、目や口を備え『大言壮語』して神をも侮辱するという。(ダニエル7:8)

その『角』は、後発でありながら急激に大きくなるような覇権国家であり、且つ宗教には侮蔑的な国を我々は確かに目にしてはいる。しかも、その国は世界の二大覇権の片方を荷うだけの力を急速に付けてきたし、その過程で幾つもの国を凌ぐ国力を持つに至ってもいる。独裁の強権国家であり、その支配は恣意的で人権は保障されない。もし、そこに神の王国を説く聖徒らの現れを迎えるとすれば、それはどういうことになるだろうか。

だが、その力尽くの支配のいずれもその立場を堅固にするための目先の処置に過ぎず、近代以降に在っては危うい支配とならざるを得ない。今日の人々にあっては情報を得るに早く、北の王の領民も愚民ではいないからであり、人間とは誰であれ「神の象り」であるほどに、独裁強権の支配を受けるようにはできていない。人を抑圧することは神をも愚弄しているというべきであろう。

現に『北の王』如くに振る舞っている覇権国家の横暴には、それが21世紀に起っていることをさえ訝しく思わせるほどに異様さが見られ、殊に、その宗教への干渉は人間としての良識を全く欠いており、収容所と火葬場を備えた民族浄化の手法さえ取られているところは、人権を享受する人々には前世紀の忌まわしいナチスの記憶を想起させるものであるばかりか、信奉する宗教を暴力や薬剤によって自国支配者に対する忠誠心に替えさせるという人格破壊まで行うとは、近代的な常軌を逸した異様さを示している。

現在のところ、それはイスラム教徒や、信者の非常に多い気功の一派に対して牙を剥いているものの、根底を流れる支配者に賛美を要求する精神からすれば、如何なる旧来の宗教に対してさえ、攻撃の矛先を向け兼ねず、それはセレウコス朝のエピファネスについてダニエルの預言が『彼はその先祖の神々を顧みず、また婦人の好むものも、いかなる神をも顧みない。彼はすべてに勝って、自分を大いなる者とする』と予告したそのことが、今やまさしく世界覇権の一方に上り詰めようとしている大国の支配層に明瞭に見えているのである。

かつてエピファネスがエルサレム神殿に異教の偶像を持ち込んだことに類似するこの傲慢に行き着く先には、やがて真の神との対立も避けられなくなる道理があり、その件についても、『この王は、その心のままに事をおこない、すべての神を越えて、自分を高くし、自分を大いなるものとし、神々の神たる者に向かって驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』とダニエルの預言も語っている。(ダニエル11:36-37)

その圧制の国家体制では、個人監視のために最新技術を駆使した割にその動機は非人格的で不合理なばかりか、非倫理的な野蛮さはとっくに時代遅れなのであり、支配する者の利己性や単純さにおいて幼稚でもあり、それこそは太古シュメール時代のニムロデに観られる支配欲の際限ない渇望から何らの進歩もない我欲の塊に過ぎず、支配というものを支配する自分のためというほかの目的をもたないので、社会倫理の向上など到底望めた支配形態ではないのである。このように倫理を振り捨てた国家体制は、必ずや世界に向けて大いなる不善をいずれ為すことであろう。

その一方で、シオンに居る者らがどのように脅され、どのようにそれからの救いを見るかはイザヤの預言を中心に何度も目にする通りである。それによれば、やはり『気をつけて怯え惑わないように』とのイエスの言葉にシオンの者らへの教訓を見ることになる。

終末のアッシリアを描く預言はイザヤやナホムだけでない。
イザヤと同時代の預言者ミカも、終末に聖徒が生み出されて後のキリストについて、アッシリアが国境を侵して来る時に注意を向けてこう語っていた。
『こうして平和となる。アッシリア人が我らの国に来て、その土地を踏むとき、我らは七人の牧者を起し、八人の君侯を起してこれに当らせる。
彼らはつるぎをもってアッシリアの地を治め、抜身の剣をもってニムロデの地を治める。アッシリアが我らの地に来て、境を踏み荒すとき、彼らはアッシリア人から、我らを救う。』(ミカ5:5-6)
ミカの時代に、つまりイザヤと同時代にセナケリブのユダ侵攻があったが、そのときに上記のような君侯を何人も任命することはなく、ただ家令がシェブナからエリヤキムへの交代があっただけで、上記の句は過去とは一致していない。

この『七人の牧者を起し、八人の君侯』が何者を表すのかは不明で、人であるのかも分からないが、相当な権威を帯びて「ニムロデの地」を治めるとある。
これが終末の『北の王』の領地について言うであろうことは、ミカの預言の性質と前後関係から充分に推測できることである。または、強権の去った北の王の広大な領域と膨大数の人口に対する福祉について述べているのだろうか。

或いは、『北の王』がエピファネスの様に、極端な反宗教政策を推進していれば、その領域に遅れ馳せながらも『聖徒』の声について自由に意志を表明する機会が、その地の無数の人々に訪れることにもなり、その件についてこの『七人の牧者、八人の君侯』が関わるということも考えられる。
もう一つ考えられるところは、これらの君侯の起こされる時期が、聖徒の死と昇天の後であるところからすると、地上に残される信徒の民『シオン』を導く者らが必要になることを指しているのかも知れない。

加えて、ミカの預言は、終末の『北の王』の脅しに屈することのないよう、終末にシオンに集った人々を励まし、イザヤの預言と共に強める「二人以上の証人」と言えるのであろう。
終末のアッシリアが驚愕する『知らせ』が何を意味するのか現在からは分からないのだが、それはこの『君侯』らから発せられるものかも、或いは、自国での権力の失墜を云うのかも知れない。

この点で、ナホムが『お前の牧者たちはまどろみ貴族たちは眠りこける。お前の兵士たちは山々の上に散らされ集める者はいない。』と言っていたことからすれば、滅び去る前には国家の中枢から機能不全が起るようであり、その軍隊の指示系統に問題が生じ、全体掌握が難しくなって崩壊を起こすというようなことであるとも暗示されているかもしれない。

ニネヴェの陥落の前に、当時のアッシリア被支配の各地からの反乱が相次ぐ中、王であったシン・シャル・イシュクンが無策で過ごしていたという歴史からの指摘を考慮すると、対型的『北の王』はその強大な軍隊が打ち破られるいうことではなく、内部から自壊してゆく様が思い描かれる。

その後、この世は『北の王』の権力の崩壊からほどなく、次には再び諸国家の軍事力が集められ、秘密裏に計画された攻撃の結果として、突如『大いなるバビロン』に惨禍が臨む時を迎える。
『三分の一』また『大いなるバビロン』という旧来の宗教組織も糾弾され、『北の王』の擁立した『角』、これはおそらく未だ現れていない諸国家の権力集合体なのであろうが、その『角』という枠組みも消え去るものの、消え去った『七つの頭を持つ野獣』の中に有ったが依然残される『十本の角』が表す諸国家の公権力によって、遂に伝統的な宗教組織にも終わりの時が臨むことになろう。(黙示録17:12-16)

これが黙示録での『大いなるバビロン』の滅びを指すが、滅ぼしに関わる黙示録での『十本の角』、つまりダニエル書との整合部分から『北の王』が興すところの権力集合体を構成していた個々の諸国家は残っており、それを主導していた『北の王』だけが終末の舞台から去って行くことが示唆されてもいる。ダニエル書はその覇権国家の突然の崩壊に際しては『彼を助ける者は誰もいない』としている。そのとき、この国家は周囲の好意的であった諸国からも孤立しており、滅び去る時に周囲の国々はただそれを眺めるばかりとなるのであろう。従い、世界戦争に発展することにもなるまい。

『北の王』が召集した軍事連合を指すであろう異形の『野獣』については、確かに黙示録で『大いなるバビロン』の滅ぼし手の中に『野獣』とも書かれているのだが、時系列で考えると『大いなるバビロン』の滅びは『七つの鉢』の以後も存続しているので、終末でもハルマゲドンの戦いの直前に位置しており、その時点での『野獣』はその以前に偶像化されていることになり、『北の王』ではないもう一つの覇権国家の後ろ盾を得た状態にある再生した獣、つまり『生ける偶像』であることになる。(黙示録17:16/16:16-19/13:11-15)

『大いなるバビロン』が滅ぶことになり、既存の宗教体制が終わるにしても、これは人々から信仰心が失われるということではない。人がその信念を直ぐに変えることは難しいものである。
そこで旧来の信仰信条を引きずった新たな宗教的働きを為すであろうものがある。
即ち『北の王』が据えておいた『荒らす憎むべきもの』という『違背』に関わった偶像であり、『南の王』はその全権を受け継いで、『北の王』とは異なり『獣』に超越的宗教性を帯びさせて、より先鋭化することになるらしい。これが黙示録で『6.6.6』と称される究極の偶像崇拝「野獣崇拝」である。(黙示録13:11-18)

ともあれ、『北の王』と『角』の過ぎ去ったこの世では、更に許多の宗教団体も消え去るところで、世界覇権間の争いも宗教紛争も去っていったかのように見えるであろうから、世界は『人々が「平和だ。安全だ」と言っているその矢先に、突然の破滅が襲う』というパウロの予告の素地が出来上がるであろうし、そうなれば『ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らを襲って来る』という事も現実となるのであろう。確かに『大いなるバビロン』の滅びから『ハルマゲドン』での戦闘までの猶予はほとんど無いらしい。(テサロニケ第一5:1-3)

それこそは『背教』が頂点に達し、『自分は神だ』と言う者が顕現する最終段階に進む時となる。それが即ち『不法の人』である。これはエピファネスもセナケリブも至ることの無かった異様に強く高い権威となろう。全地を統べ治める王インマニュエルとは自分であるとするのであれば、それによって『アンチキリスト』を世界は迎え容れることとなる。(テサロニケ第二2:4)

ダニエル書が告げる通り『北の王』が極めて反宗教的であるなら、『不法の人』『アンチクリスト』が世界に跨る権威を行使するために、その王は除かれている必要があるが、同じくダニエル書が示唆するように『北の王』が『南の王』の領域を侵犯し、『聖徒』を亡き者とした後に自壊してしまうとすれば、確かに以上の聖書記述の組み立てに合理性が出て来る。

更に、ダニエル書が明かすように、『聖なる民の力が全く打ち砕かれると、直ちにこれらの事はすべて成就する』、即ち、もはや世の命運も尽き、『聖徒ら』の預言と『角』が争う『三時半』の後には時は残されておらず、後は一気に終局を迎えるということであろう。

終末も進んだYHWHの怒りの日に在って『隠される』人々とは、「シオンの民」であり、『わたしの民よ、奥の部屋に入り、後ろ手に戸を閉ざせ。激しい憤りが過ぎ去るまで、しばらく身を隠せ』とは、1260日の迫害に遭う聖徒らに語られているのではなく、信徒、その後に彼らを支持して共に世を糾弾する信ずる者らに向けて語られた救いを表す言葉なのである。(ゼパニヤ2:3/イザヤ26:20)

そして最後に『荒らす憎むべきもの』の活動する僅かな期間が残される。物事は終局に向けて大きく動き出すことを預言は語るのである。それら終末の諸事については、今日の情勢からすると然程遠くない時期に始まるのかも知れない。現に世界は、南北の王が対立関係を深めるという情勢にあり、もはや地球環境も末期的に見えるからである。

さて、以上のようにダニエル書11章40節以降が現実となって、『北の王』が『南の王』の領域に攻め込み『聖徒』を滅ぼす時、それは却って『北の王』の終局の印となり、もはや急速に台頭した覇権国家は、その持てる強大な軍事力に関わらず、自ら破局の時節をわざわざ招き、その寿命を縮めることになるであろう。その覇権が巨大であるがゆえにも、終焉に於ける『北の王』の国内の混乱には想像を絶するものがある。だが、それは同時に彼の地の人々にも福音と信仰を懐く機会の到達することも意味するのであろう。





   © 2019  林 義平