quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

基礎的項目

神はなぜ信仰を求めるか

科学で神を探求するべきか?



神といえば、信仰という主観でのみ人に把握されるものというのは、当然の事となっている。だが、もし客観で捉えられ、何らかのセンサーが神を捕捉するとしよう。それは自然を観察して知る科学の領域で神を知ることになる。そこで捕捉されたとなれば、神存在は動かせない事実となるのである。

さて、18世紀のプロイセン、「神の存在は証明できるものか?」と、ポツダム宮で家臣らに向かいフリードリヒ大王(位1740-86)は尋ねた。この君主はヴォルテールの啓蒙主義の影響を受けて否定的に質問したのである。
そこで侍医であったツィメルマンが 「陛下、ユダヤ人をご覧ください」 と一言答えたという。

ユダヤ人がオリエント文明も黎明期という太古の人アブラハムの末裔で、永く歴史の上に神と人との交渉を経た民族であり、その民が故国を追われてなお、紀元前千数百年も以前からのトーラーを守って同化もされずに欧州各地に存在し続けてきたこと、また彼らが聖なる奇跡の書を護持し続けてきたこと、神ともメシアとも交渉を持ったことの生き証人でもあり、これらすべてを重ね持つ眼前のその存在は紛れもない現実そのものであった。

だが、ユダヤ人がそうであっても、人間がおしなべて持つ道徳性の不備からの要請に迫られて「神がいないのなら神を造るべきだ」と唱えたヴォルテールの啓蒙主義の視座から擁護的に見たとしても、やはり科学的に神を証明することは不可能であるし、人間の作った神であれば、人はどれほどの信をその「神」におけるのだろう。それは仮想のものであって、真実には「上なるもの」ではない。まして聖書は『人は神でないものを神として作って良いか』という神の預言を以って警告しているのである。(エレミヤ16:20)

しかし、「人が神を存在させた」とは後のベルリン大学のヘーゲル左派の主張となってゆく。このキリスト教の中からのキリスト教への反発者らが唱えるところは、人間は自らの影として神を造ってきたという。 この主張が即ち19世紀に顕在するようになった無神論への道であり、その時期に西欧は科学を応用した技術を着々と発展させる。生活は便利になりつつ人間主義が進むところにチャールズ・ダーウィンの著作も現れ、これは伝統的な宗教信念の払拭に大いに利用された。その影響は今日の「自由主義神学」とやらに継承されているらしい。

「神などはいない」という近代の叫びは、早くもルターがヴォルムス国会の審理(1521)で聖書絶対主義を打ち出したときに、後に言われるように無神論の基礎がそこに据えられたというべきであろう。 つまりは専らに人間理性から神を探索しようとする試みの当然の帰結である。それは聖書を崇め奉る一方で、神を文章の中にだけ押し込めてしまい、意図せず過去に語り終えた存在、即ち、神をもはや奇跡を行なわない死んだものとすることで、専ら人間の知性の活躍の場を重視するものとなった。なぜか人には、自ら神を捜し出して見せるに心地よいところがあるようだ。

キリスト教の指導者らは、聖書の文言を根拠に自論を振り翳して神を語るが、ほとんどの場合でそこに神の介入を想定せず、神は自分の唱える通りだと請合うのだが、それは神を聖書の文言に閉じ込めたつもりになって、神は死んでいると唱えるようなものではないか。欠けているのは生ける動的な神への畏敬なのだ。

また、それが聖書偶像化の盲点でもある。だが所詮、その書を誰も理解し尽すこともできないのであるなら、「聖書全体を理解する」、或いは「厳密に聖書に従う」ことなど誰にできようか。誰が神の意志に充分に従ってみせ、その是認を勝ち得られるものだろうか。そこには自己義認の傲慢の罠が大きな口を開けてはいないものか。人にできる精々が、それぞれに「いまのところ分かった」と思えるところを知り、且つ行いを試みるばかりではないか。 ⇒「ヨブ記の結論」


さて、「神は見えないのだから存在しない」という論議はまったく愚かしいのだが、他方で「神は見えないが、見えないものはほかにも存在しているではないか」という論議もまた誤謬そのものの空しいものである。

自然界を創った神という存在は自然界の外に在り、どのような機器を用いても測定はおろか検知もできない。
つまり、神存在について客観的判断を下すことはできない。 これが厳然たる事実であって、ほかに付け加える言葉もない。
だが、これを認めようとしない信仰者が殊にキリスト教徒の中に少なくはない。

この人々は、聖書が科学的であることを証拠立てようと目を皿のようにしてその記述の中を行き巡り、様々な事柄を科学の実証したことに結び付けようと躍起になっている。
そうして聖書の文脈は軽視され始め、本来の記述の理解からは遠ざかることになる。そもそも、世界の創造者が人に霊感を与えて書かせたのが聖書であるなら、科学的整合性があって当然ではないか。だが、聖書は 科学の本なのだろうか。

加えて、「進化論」が依然として学説である弱点に噛み付いて、自然科学の領域にまで主張を広げている信者も少なくはない。それが創造の神を擁護することになると思ってのことなのであろう。

だが、客観である科学の目を通して「神」というものを証明することができると云うのだろうか?それが相応しいことか?また、神は人間の叡智によって存在を助けられる必要があるのだろうか?

全能とされる「神」が、もし自ら科学という名の本来的に主観を排した観察によって人間に検知されることを望んでいないとすれば、その努力はまったく実を結ばず、間違いなく徒労となるはずである。

ガリレオ・ガリレイを裁いた教皇ウルバヌスⅧ世は、様々な天体の運行は神が自ら動かしているものと考えていたという。そのように考える人々が晴れた夜空を見上げるときには、奇跡の力で天空を支配する神を身近に感じられたのであろう。即ち、かつての人々には、日々天体の運行そのものに神存在の証しを見ていたのである。
このような人々は、神が天体を動かすという旧来の天動説を擁護する一方で、コペルニクスによって説かれていた地動説をなんとか駆逐しようと権威に訴えて閲読禁止令の圧力をかけていた。然もなければ、創造界は法則に自動化され、神は不在となってしまう危機があると思い込んだのである。この時点で宗教は科学をどう扱うべきかに戸惑っているが、両者が未分化な蒙昧な時代であった。

そこに教皇が枢機卿であった頃から身近で交友のあった科学者ガリレイまで異説を唱え始めることに教皇ウルバヌスは我慢がならなかった。
ヴァチカン直属の検邪聖省は「天文対話」(1632年刊)の内容を検閲し、地動説を唱えたことでガリレイを有罪としたが、ガリレイは敬虔なカトリック信徒であり、彼の主張の要諦はキリスト教を論駁することではなく、宗教と科学を分離する方が良いという提言にあったという。

しかし、そこでは「法則が支配する宇宙の概念」と「神が常に天体を押して動かす宇宙概念」との衝突が起こっていたのであるが、これについては自然科学が答えを出すべきことは、今日の我々からすれば至極当然ではあるけれども、この時代には、ガリレイに拷問の脅しを行った教皇側が正しいとされた。宗教家が科学者を威圧して終わったのである。無論、このつけは20世紀に教皇自ら誤りを認めるという後果をもたらすことになった。

しかし今日の誰が、地球は動かずに天体を神が直接に動かしているなどと思うだろうか。ガリレオ裁判の件の最大の教訓は、科学と宗教の棲み分けに失敗したところにある。
だが、これを宗教の方が一方的に非論理性を曝されただけの敗北と見做す風潮は科学でも宗教でも根強いようだ。 

しかし、法則に支配された宇宙が我々の生きるところであって、そこは「自動化された世界」なのである。
科学の見出したこの世界に造り手の確たる証拠はなく、その姿もまるでない。

森羅万象を創った主はそれを置いたままで、今日は物質界に居ないというべきではないか。 
もし、神が意志のままにこの世を動かしているというなら、非情なこの世界に表れているその性格はサディスティックでさえある。 この世の苛酷な導き手が果たして人の崇めるべき本当の神なのだろうか?

それでも、ユダヤ人は今日まで存在しており、その聖典タナハ(旧約聖書)はシュメール人の王朝の時代からの一系の民族によって書き継がれ、その神との交渉の歴史は考古学によって裏付けられている。
現実という名の冷たく精緻で非情な世界と、ユダヤ民族を介しての神の痕跡という、このふたつの世界の異なりはどこからくるものだろうか。 

では、どうなのか?
「神」というものは自然界にも存在の証しを留めているので、それを科学を通して人は認めるべきなのか?

1708年、鎖国中の日本を訪れた伝道師シドッティ(Sidotti)は儒学者の新井白石に、聖書からノアの日の大洪水について説き、山の上に箱舟の残骸や断崖に貝殻など痕跡が当地にあると注意を促した。
しかし、これは相手にされなかった。白石には船の形をした岩などどこにでもあり、山の断崖の貝殻など日本にもあると云われてしまった。せめて、もうすこし良い宣教のアプローチはなかったものか。

そして今日の宇宙物理学は所謂「ビックバン」による宇宙開闢を論じる。
時間も空間も何も無いところから130億年ほど前に無限大のエネルギーが現れて宇宙が生成され、その爆発的膨張はいまだに広がりを見せているという。
このような目を見張るほどの科学の探求成果は、専門家ならずとも驚きと興奮を誘い、多くの創造神の信仰者にとっては更に喜ばしいもので、殊にキリスト教徒に希望を与えるものではあろう。そこに、天体の運行を見ては星々を動かす神の存在証拠と思い込んだかつての人々が重なる。

それにしても、ここで冷静になる必要はないだろうか。
というのも、キリスト教徒が神による世界の創造を掲げるのは当然としても、その根拠を科学に置いていて良いか?

現代という時代に、人々が最も信を置く宗教は、最大の信者数を持つキリスト教でもなく、実にこの「科学」と称する強力な宗教なのである。それも純粋な自然科学ではなく、身の回りを便利にしている様々な技術によって「科学教」の奇跡の数々に驚嘆するという間断ない「伝道」を受けてのことである。

それであるから、宗教を信じる人々は自分たちの宗教が如何に科学的であるか、あるいは科学と整合しているかを説こうとするのであろう。もとより、「科学教」に敗北しているからと言う他あるまい。この人々には非常に重要な観点が欠落している。それが聖書の本旨なのだが。
 
こうして、科学への信仰が主流となっている今日、「科学」との関連においてだけ「宗教」はその地歩を何とか得るかのようにすら見える。 だが、これに同調しているなら、いくら旧来の宗教を説こうと「科学教」の信者を作らないものだろうか。

科学というものは常に途上にあるばかりか、実証されたものとそうでない学説もあり、そこは推論が間断なくなされる場で、必ずしも完全なる客観が支配するばかりでもない。常に論議をせねばならないうえに、新発見でそれまでの常識がいつ覆るかも知れないということでは、そう安定したものとも言えないので、そこに「宗教」というめったに動かすことのできない人の主義主張の基礎を置いてしまうとすれば、その「宗教」は「科学」の進歩の揺れに伴ってグラグラとしたものと成らざるを得ない。
実に科学と宗教は、下からの観るか上から観るかの異なりであるばかりか、動と静、パトスとエートスほどに異質なものである。

そして以上の論議の全体も、詰まる所、人間の視点から神を見ようとする、その仕方に関するものである。

しかし、神はどうなのか?

フリードリヒ大王治下のケーニヒスベルクで大学の哲学教授であったインマヌエル・カントは、人間の側から絶対の存在者を理性によって認識できるか否かを四つのアンチノミーを用いて証明を行ったが、その結果はいずれも「否」と出た。
「叡智」という人間最高の能力を用いても、絶対存在には辿り着けないというのである。
即ち、彼は絶対存在と人間の間には越え難い渓谷が有ると証明する。
 
カントの述べるには、絶対存在に対しては『人間理性が戦々兢々として臨まざるを得ぬ深淵』に目をくるめかす。絶対者を理性で捕えようにも『一切のものは我々の脚下から崩れ去る』とまで言うのである。<「純粋理性批判」1781  篠田英雄訳 岩波文庫 中巻p278>

カント以前にもジョン・ロックが「人間悟性論」(1690年刊)の中で、人は共通の神認識を懐けるようには生まれて来ないことに注意を向けている。
つまり、人はアプリオリに、つまり生まれながらに共通の神認識をしないのである。
そこで、それは無神論正当の証拠だとさえ結論する人もいることだろう。だが、ロックもカントも神探求が生来的にも叡智によっても捉えられないと言っているのであり、そこで神存在云々の論議にまで飛躍してはいない。

ただ、人間一般には漠然と「上なるもの」への畏敬が普遍的に見られてきたのである。 それゆえ、人間には様々な宗教があるものの、それぞれが独立して和することはなく、また融和しないからこそ神に至る道であると主張もしてきたのであろう。それぞれが主観で神を捉えるからである。

だが、こうなると神と人という両者は隔絶されていると云う他なくなる。
創造の神が全能であるというのであれば、その全能神は人に自らへの認識を敢えて残さなかったのではないのか?
即ち、それを意図していないということである。

では、神は人間から客観的に認知されることを拒んでいるのだろうか?



-◆アダムに生じた社会性--

アダムに神は親しく話しかけ顕現していたので、彼には創造神の存在を信ずる謂れもなかった。神存在は眼前の事実だった。しかし、ひとつの命題が与えられていたのである。
それが、善悪を知るの木への禁令であった。そこで試されたのは、創造者との関わり方であり、信仰ではなく忠節な愛であったとみることができる。

この禁令が示すことは、創造の神はアダムを何としても永続させようとはしなかったのであり、そこに忠節な愛という絆が望まれたということであろう。
その理由は人が『神の象り』であり、神のように自由に決定し振る舞うことができるものとして創られていたからである。 

神はこの禁令に関してアダムを見張ることをしなかった。もちろん強制することもできたはずが、そうはしなかった。人は『神の象り』に創られたのであれば、その自由な意思を阻害しないことは、神が自らを尊重することに関わってもくるであろう。
 そこでやはり、創造者はアダムに自由な決定権を与えていたのではないか。然もなければ禁令を与えた意味が無い。それは確かに『してはならない』と命じてはいるが、『死ぬことのないためだ』と理由が語られ、禁令というよりは勧告というべき内容なのである。

禁令を課したうえで監視をしなかった理由は何か?
それは、アダムの自発心からの忠節でなければ、その忠節も真実のものとはなり得ないからであろう。
その特質はタナハ中で『忠節な愛』(ヘセド)*と呼ばれ、神をはじめとする他者とどう関わって生きてゆくかという「倫理」の問題を明らかに含んでいた。 *(或いは「不変の愛」)

そして我々は創世記からその試みの結果を知っている。
アダムの夫婦は神との関わりに忠節な愛を示さず、他者との関係性を敵対的なものとしてしまい、エデンの園という神の是認と恩寵から排除され、『永遠の命の木からも食すことのないよう』遠ざけられたのである。
もちろん、『永遠の命の木』というものはもう一本の木と共に、その時にはそれらは象徴的存在物であったことであろうが、象徴とはゆえ神は残った木をアダムたちから守る必要性が生じたのであろう。

そこで『燃えて回転する剣』という最初の「権力」が現れている。即ち「強制」の初めであり、それは人が神からの信用を失い監視されるべき対象に堕した。「権力」を要する倫理問題を負った証拠である。⇒「人はなぜ政治と宗教を存続させるのか」
『善悪を知るようになる』とは、それまでに悪が無いゆえに善もなく、悪が入ることによって善と悪との相違が生じ、そこで人は善悪を仮定的にも定めなくては社会生活を営むことすら困難を覚えることになったのを指すのであろう。

もしそうなら、善悪を定める「法」とその強制力である「権力」なくして存立できない『この世』の有様は、まさしく『善悪を知る』という形容に合致するものに観える。
そこで神の『人は善悪を知る点で我々のひとりのようになった』との発言は、神と共通する何かに人が達したかの観がある。その共通するものとは、サタンに対する意識が基になったものであると推論することも可能であろう。

即ち、サタンを通して創造界に悪が既に入り込んでおり、その問題についてふたつの要素が生じたと言える。
それは創造者とその意図に忠節な愛を以って支持する「善」と呼ばれるものと、創造者よりも自分を愛して他を省みない破滅的な「悪」と呼ばれるものである。

アダムは『善悪を知るの木』を介してこの二項対立に巻き込まれたが、その際に悪を以って参与したと言うべきであろう。ここに新井白石が言うような「単に誤った食事を一度したということ」では済まない理由がある。
サタンが云うところの禁令を破って『神のようになる』とは、この対立の中でいずれか一方の側に付くことを意味していたのであり、何か目覚ましい優れた状態に入ったということにはならない。

むしろサタンは『目が開けて神のようになる』との騙りで自分の側に人を付けようとする詐欺を行い、エヴァは『欺かれて』それを信じ込み、アダムは既にその道に入ってしまった美の極みであったろう愛しい伴侶を失うまいとして、自己の欲から善を捨て、その後を追ったと見るべきように思える。単に一本の木から食べてはならないとの難しくもない禁止事項が、猛烈な試みと変じさせることに於いて『蛇』を操った者の狡猾さは驚くべきものである。

エヴァに死ぬことは直ちに起こらなかったので、それが彼女には蛇の正しさの証拠にようにも感じられたのであろう。何らの変化も感じないからこそ夫にその実を差し出したに違いなく、その動機はただ『食物として好ましい』からというばかりのことで神を差し置いた。食すべきではないという理由は神との関係、倫理に関わるものであったのが、エヴァに在っては、食物としてどうかに入れ替えられてしまった。そこまで神は軽視されたものである。

そこでアダムがどう対処するかでまだ打開の道はあったろうか?
すくなくともアダム自身についてはその道は残されていたに違いない。
しかし、彼はそうはしなかった。
パウロが言うように、『アダムは欺かれなかった』のであれば、エヴァの差し出す木の実を食することが死を意味することも、神との関係を壊すことも理解していたにも関わらずのことを敢えて行っている。

それは何よりも、創造者に背を向けエヴァを選んだことにおいて倫理上で本末転倒しており、パウロはそれによって『悪が世に入った』とも述べている。
こうして人は、『罪』を負う事となったが、その不倫理性はこの世を一瞥するだけで充分に見て取れる。即ち、人間は他者とどう生きてゆくべきかということを弁えていないので争わずには済まない。その第一の他者が神であったのである。

また、エデンの顛末として、自分たちが裸であるという事が見えるようになったという、これは社会的視点が生じたということではないだろうか。

つまり、ふたりだけのように見えるエデンの園にあっても、そこが善者と悪者の両者の駆け引きの舞台であることが分かるようになり、創造者から精神的に距離を置くようになったところで、或いは第三者の存在が認められ始めて社会性が生じ、公私の違いが意識されるようになったということになる。そこで『善悪を知るの木』から取って食すことは明らかに第三者を絡めた倫理問題となった。「エデンの園の二本の木」

アダムらにとって創造者との関係だけで過ごすことのできた日々は終わり、そこに第三の者が現れたが、そのサタンは創造者との関係を変えるように唆した。こうして云わば親だけとの関係から社会を知る存在へとアダムは成長したといえる。しかし、その結果は昇華ではなく堕落となってしまった。また、親である創造者をも自ら第三者としてしまった。

倫理が、如何にして他者と生きてゆくかを問うものであれば、アダムらが無垢であったゆえにこそ創造者の関係性は禁令を破ったことで破綻しており、 その絆は永遠の関係に至るものからは一度限り堕ちてしまい。もう一方の木から食することが禁じられ、寿命の内に、労苦にまとわれ、病と老化を知って命から去りゆくものとされたのであった。即ち、永遠に存在を続けるからには、他者とどう生きてゆくかという関係性が問われるのは理の当然である。

そして彼らは、それまでになく創造者にさえ裸を見られることを嫌った。これは罰や酬いとしてではなく、以前から裸であったのを「裸」と意識するようになったという意識上の変化であろうし、人間が社会を営むようになり公私の区別を必要とする状況に至れば被服はいずれ必要不可欠となるべきものであったろう。ただ、それが人間社会が登場する前に意識が先に起こることになったと考えられる。
 
これをもたらしたのが、それまで創造者とだけの交わりであったのが、彼らにとっては新たな存在者であるサタンとの関わりが生じてきたことであろう。もちろんサタンとその後も彼らが交渉を持ったという記述があるわけでもないのだが、ひとたびその唆しに乗った以上は神とサタンとの駆け引きの中に身を置いたのであり、その存在を意識しないでは済まされなかったに違いない。しかも、彼らはいまや神の側には立って居なかった。

ふたりには明らかに自我意識が臨み、隠すべき事柄が生じていた。
神はできれば避けたい他者となってしまったことは、彼らが隠れたところにも表れている。(創世記3:10)
それは良い仕方ではなかったが、ともあれ社会性の始まりでもあり、倫理に関わる存在としての門出ではあった。(創世記3:22)

できるなら神を避けたいという態度は、この世に蔓延しており、人々は神を崇めていながらであってさえ、自分の不倫理性を隠したいものである。しかし一方で隠れたアダムを捜して『あなたはどこにいるのか』と繰り返す全知全能の神は、アダムという『神の象り』を尊重し、そのプライヴァシーを守る創造の父である。



-◆神探求に求められる人格性----

さて今日までの人類社会を顧みるに、アダムの行為は何という惨禍となってきたことであろうか。
だが、神は人の行動を予知さえしなかったと言える。むしろ全知全能性を自ら制して、たとえ害悪が生じるとしても、人間の自由意思を守ったのである。 

そこで人間が神を客観的に知る手立てを持たないのは、まさに神が顕現しないからであり、その意味においてもカントの云うように、人と絶対者との間には深い隔ての渓谷があり、その障碍を設けたのは創世記からしても神自身と言えるのである。

こうして、人は自らを超える「上なる領域」については上からだけ知らされるばかりで、抽象領域である「上から」の啓示無くして神を知り得ない。 
また、その啓示というものも客観的、科学的に正誤を判断できるものではなく、人格的に判断されるものだけとなっている。 まさに聖書とはそのようなものであり、考古学上の発見がどれほど積み重なってゆくとしても、最終的に何が「上からの啓示」であるのかを決めるのは機器ではなく人、それも個々の人でなければならない。

例え、衆人にも明らかなエリヤの見せた奇跡であっても、そこに科学の目を持ち込むことは的外れなことである。奇跡とは自然を超える事柄であり、それを奇跡と判断していたのは人格的判断あってこそのものであり、どこからどのように火が降ってきたかを科学的に確認できたところで、その出来事の意義や価値を捉えることはない。 いや、却って邪魔なものである。

それはキリストの行った癒しの奇跡や、使徒らの聖霊の賜物による超自然の出来事にしてもそうである。 
ある人には「復活」が信じられなかったが、それが科学的に起こり得る、あるいは起こし得ると証明されたなら、その人は「神を信仰する」ようになるのだろうか? 
だが、それでは静的な自然現象のままに何かが生じ得ることを納得しただけで、創造界を超える創造神の奇跡の力の領域を何ら認めることにはならない。

もし、そのような「科学的認識」を信仰と呼ぶのなら、当たり前の日常の延長線上を信じているばかりで、創造者の超越性を一向に認めたことにならないではないか。その「神」とは「科学」であり、その「偶像」はやはり「法則」となっている。そして「科学者」は「祭司」なのか?だが、そこでは神との人格的紐帯も、また倫理的問題も何ら発生してはいない。

しかし、科学を超えた人格的判断の要請は、パウロの次の言葉にも当てはまるであろう。
『神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。』(ローマ1:20)
この言葉は非人格的で無機的な観察や測定で被造物から神を割り出せることを保障しているわけではない。この使徒がここで強調するのは、『神の性質』を主観で捉えることであろう。

同じくパウロは探求心旺盛なアテナイの市民に向けてこうも言っている。
『人々が熱心に追い求めて捜し*さえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神は我々ひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。』(使徒17:27)
*([γε ψηλαφήσειαν]「本当に、探って(「触れて」・暗喩として「人格的に探求する」<mentally to seek>)」)

パウロはアテナイ市民にギリシアの知恵を用いて神を説明せず、却ってキリストの復活を語り、そこで一半の人々は復活が起こったと話されたところで聴くのを止めている。彼らは人間の狭い見聞の常識の限界から出なかったと同時に、畏怖すべき創造者の概念を真に捕えなかった。なぜなら『この世界とその中の万物とを造った神』というパウロの話す創造神にあって、どうして人の復活が不可能だろうか。

パウロはコリントスの人々にはこう書いている。
『知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うことをよしとされたのだ』
『ユダヤ人は印(セーメイア)を請い、ギリシヤ人は知恵(ソフィア)を求める。だが、わたしたちは刑木に磔されたキリストを宣べ伝える。このキリストはユダヤ人には躓かせるもの、諸国民には愚かなものである』(コリント第一1:20-23)
即ち、神を思考する方法からして異なっているのである。

また、リュカオニアで彼は神についてこうも言った。
『(神は)ご自分のことを証しをしないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、様々な恵みをお与えになっているのである』(使徒14:17)

ここで彼は、異邦人に対して自然の恵みへの感謝を通して神が存在の証しを立てていることに注意を向けている。
感謝とは人格的な接触の結果であるからして、ここでも神探求に無機的観察や機器によるような測定ではない「神の知り方」を訴えているのである。

即ち、大自然は無人格な必然の積み重ねだけでは存在しないという受け止め方であり、これが今日ほど、科学の進歩にゆえに難しい時代もないのではなかろうか。そして「神はいない」という観念を好む本能的で根源的な欲望を人類は強めて来たが、その背後にある利己的精神を、古代のこれらの言葉が気付かせるものとなっている。その精神には存在しているものへの感謝は無く、偶然があるばかりなのであるから。

そして、それは何時の日にか最大の論争に発展することになろう。古代から預言者はこう述べている。
『造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。』(イザヤ29:16)

そこでローマへの書簡の以下の言葉もこの背景を以って読まれるべきことになろう。
『神の怒りは、不義をもって真理を阻もうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。
 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。』 (ローマ1:18-19)
これらの言葉は、客観で神が捉えられると言っているのではない。

したがって聖書を科学の視座から読んだところで、その意味は極めて薄いというべきであろう。もともと科学の書ではないからであり、そこに述べられる事柄は専らに倫理に関わる事柄ではないか。
倫理とは、他者とどう関わりながら生きてゆくかという問題であり、それには当然ながら神との関係が含まれる。この点においてこそアダムは永遠に生きるのには失格したのである。では、『アダムと同じ罪を犯したわけでない』我々はどうか?(ローマ5:14)

そこで神との関わりが科学にあると言うなら、それは大いに的外れという他ない。現代とはそこまで科学信仰が蔓延しているというべきであろう。神存在を信じることが科学的なら信じても良いと条件づけるのなら、その人はいったい何を「信仰」するのだろうか?
 
『神の栄光は創造以来見える』と言ったパウロの言葉も、科学によって神を見出そうとする様々な試みとは次元を異にするものである。即ち、彼の述べるところは、創られた物を通して『見える』神の側の善意のようなものであり、それは中立的な視点でただ『見える』ものではなく、更には自然の壮大さや緻密さに畏敬を抱くだけのことでもなく、より神に近付いた観点、精神的、倫理的な視座に就かねば見えないものである。
 
例えれば20世紀から「創造科学」[creation science]と呼ばれる主張が存在するようになった。これはダーウィン以来の生物進化説への反撃と言える。そこでは進化論が学説のひとつに過ぎないことが強張され、聖書にある創造の順序など創世記の記述は科学的であるとしている。

つまり、聖書教は科学と一体となることが可能で、科学は信仰の基礎となり得るという主張でもある。その中では旧約聖書原初史に含まれる「ノアの大洪水」が起こり得た理由も挙げられ、地球大気上層部の温度の高くなる「温度圏」に膨大量の水分が保存されていた可能性を論じてもいる。降り注いで最も高い山をも覆った水は、やがて地殻で生じたプレート・テクトニクスが地表に著しい高低を造り出して陸地が海から現れたとも論じたのであった。
 
だが、科学者の多くは「創造科学」が進化説に比肩できるほど検証に耐えられず、科学として認められないとの立場にあると云われる。「創造科学」の唱道者らは、それが公教育の場で教えられることを目指したが、米国連邦裁判所は1987年にこれを認めない判決を下している。そこでは公立学校で「創造科学」が教えられるよう制定されたルイジアナ州の法を違憲と判定している。しかし、「創造科学」は米国の多くの新教系教会で恰も「教理」のように流行したのであった。

また、20世紀の最後の十年には「インテリジェント・デザイン」[Intelligent design]と呼ばれる説が登場している。
これは自然界の事象には、単なる法則性などの機械的な要因だけでは説明できない事柄が存在しており、そこに設計や構想などのデザインがなくてはならないとするものである。
 
この唱道者たちは、聖書的創造説の影響を保ちながらも「創造科学」から宇宙そのものや生物を設計造作した者を「神」とはせずに「偉大な知性」と呼び生物進化の過程を一部認め、そこでキリスト教だけでなくイスラム教やヒンドゥー教からの支持も得る道を拓いた。
「インテリジェント・デザイン」はキリスト教原理主義の強い米国中西部の人々と南部出身の大統領G.W.ブッシュの支持も得たが、こちらも2005年に裁判所から学校で教えるべき科学的妥当性がないと判断されている。

これらに加え、宇宙物理学の同系列上に「人間原理」[Anthropic principle]もある。
「人間原理」の萌芽はやや古く、物理学者ロバート・ディッケ[Robert Henry Dicke]の研究などにより1960年代からの宇宙観の進展に伴う中からこれは現れてきた。そして「人間原理」としての概念の創唱者は天体物理学者ブランドン・カーター[Brandon Carter]で1973年からのことであるという。
「人間原理」とは、自然法則や宇宙定数が生物、わけても人間を登場させるためには奇跡的なほどに極めて僅かな範囲に法則は数値をとらなければならないことから導き出された思想である。その稀なる条件を彼らは「ファイン・チューニング」[fine tuning]と呼んでいる。
 
つまり、宇宙を観察できるほどの知的生命を存在させるために宇宙は絶妙に出来ている。または、宇宙は人間を存在させる目的のために厳密に企画され、特別オーダーされたと云うのである。しかし、この思想は科学に立脚するものではあるが、やはり主観的であり科学として裏付けの証明をすることができないので科学とするには至らないと見做されている。
これはつまり、「そうかも知れない」にしても、それは客観性について問題があるということである。
この否定的判断に、無神論者の策謀を感じとったり、反発を抱いたりする「クリスチャン」も少なくもないのであろう。
だが、もしこれらの「聖書的科学」の主観性を認めるよう求めるのであれば、無神論の主観性も許さねばならないことになる。 

そこで、人は神存在を科学的に証明することが不可能であることを認めなければならない。 
神が存在するか否かという論議は、神が顕在しない限り無くなることはない。 
同時に、そこには人の側に投げかけられたひとつの命題がある。



-◆信仰という倫理的決定-- 

前述の20世紀後半からの科学的な神探求がなぜこれほどまでに行われたのであろうか。
この背景には、19世紀中葉からのダーウィンの著作に関する宗教全般の敗北が挙げられよう。

以降は、神探求そのものが愚かであるかのような風潮が広がり、かつてヴォルテールが危惧したような、道徳の警護者としての神を振り払ったような堕落した生活態度の蔓延がキリスト教欧州に無神論的同調者の間に見られている。キリスト教は名目化、形骸化し、実質的に人々は自らよしとする生き方を行っているように見える。そこで人々は信仰と無神論との間を都合よく行き来する。

欧州ではキリスト教の見直しが進み、フランスでは政治的に、ドイツでは哲学的に激しい攻撃が加えられ、やがて共産主義へと進んでいった。

科学の進歩に伴う技術の急速な発展と生物進化説の登場をみた19世紀という、欧米を中心に人間が神の代えて科学を信奉する時代を迎えたとき、人々は中世の蒙昧を想い見、十字軍や異端審問や魔女狩りを回想したことであろう。
そして、あのガリレオ裁判を心に再審し、宗教に対する科学の叡智の勝利を必ずや意識したに違いない。 

しかし、科学とは時代によってその主張も様相も異なってきたのであり、純粋な科学は必ずしも反宗教ではないことが表される時代が到来し、極端な無神論への政治的反省もそこに加わっている。ソビエト・ロシアに対するロシア正教の勝利は、その典型的な判断材料を提供していると言えよう。

だが、それにしても科学的な神探求の方法が、聖書教本来が求める神探求の方法と整合し得るものであろうか。

頭書のフリードリヒ大王のように神の存在の証明を求めたとして、そこで納得のできる解答を得られたなら、その人はそれから神を「信仰する」のだろうか?また、それは「信仰」と言えるのだろうか?
 
しかし、冷静に考えれば、自然を中立的に観察することによる科学が創造の神の存在を証明するとしたなら、神を「信仰する」余地が残るだろうか、との質問も不合理ではないであろう。
 なぜなら、科学が神は存在すると証しする場合、それは客観的に神存在は動かし難いものとなっており、それが常識ともなってしまい、信じるという行為そのものを意味の無いものとしてしまうに違いない。

たとえそこで神を認めても、それはただ事実を受け入れているだけであり、何ら格別のことを為すわけでもない。そこには何か大きな意義が欠けているのである。
ヤコヴが述べるように『悪霊たちでさえ神を信じて慄いている』のであれば、神をただ認知したからとて、どれほどの意義があるのだろうか。 (ヤコブ2:19)

そこで欠落しているものとは何であろうか。
それは神と人との間の関係性ではないのだろうか。
存在の事実を受け容れるというのと、人格的に近付くのとでは大きな違いがある。

例えれば、我々は隣人の存在を認める。その認めるというのは、そこに他者が存在するという事実を認識することである。
もちろん、隣人を慮って様々な配慮もするだろう。しかし、単なる隣りの住人なら普通はそれ以上のものとはならない。
もし、中傷者が現れて、その隣人を誹謗すればその件についてどうこう言う立場になく、ただ悪い評判を耳にするばかりである。

しかし、その隣人と人格的に接触していて、その批難が的外れであると強く感じれば、その人を擁護しようと思うであろう。まして、愛着や友愛を持っていればなおのことである。

さて、知的で神を認識できる創造物をその『象り』に神は創った。
アダムもまたそのように神との人格的接触の可能な存在者となったわけであるが、神はそのような存在者との関係を非常に重視したというべきであろう。そうでなく意思の自由を与えずにロボットのように作っていれば、アダムが受けることになったあのような断絶も、子孫が経験することが避けられなくなった膨大な諸悪も、このうえなく貴重な御子の犠牲も必要が生じなかったに違いない。だが、そこは空虚な服従の世界である。

そして神も創造の意図に反した多くの悪が生じるのを許す必要もなかったのである。
それゆえにも、神は人との関わりにおいて人格的接触を望む、いや、これは必須なのであろう。そこで二本の木はエデンの園も中央に置かれ、それが如何に重要であるか、その選択こそが永遠の命に入り神との永遠の関係にも入り得るものとなることが示されたと言えよう。そして明らかに創造者は人にそれを望んでいたのであった。

サタンが人を誘惑したからには、神との関係性とは、中傷者に打ち勝つほどのものが求められていたに違いない。即ち、試みられたのは「忠節さ」また「不変さ」である。
その関係性は天使らにせよ、御子にしても神に対して同様であったであろう。

御子は創造物の初子であり、創られた者の頂点に立つ者として御父である神への「忠節な愛」[חסד](ヘセド)*を公生涯に亘って示し続け、遂に自らの命を渡すところにまで至った。
その結果は『自らの死を通し、死をもたらす力を持つサタンを無に帰せしめる』ことを確定させたとパウロは言う。(ヘブライ2:15)*<または「不変の愛」>

その第二の位に在る者の忠節はすべての創造物に在るべき姿を求めたのであろう。(フィリピ2:9-11)
即ち、自由意思からの忠節な愛を創造者に対して保つ姿勢である。

そこで、全能の神が自らを顕わそうとするのであれば、どうしてそのようにできないことがあるだろう。
この論題に関する結論は、神認識には人格的接触と中傷に耐え得るほどに神を擁護する「忠節な愛」が求められているということである。神がそれを望まれるのであり、それは単なる隣りの存在のような関係ではない。また、17世紀にパスカルが、神を信じると賭ける方が受ける幸福の可能性がある、と記したような打算からくるものでもない。

即ち、何かを選び、何かを捨てるという、倫理的決定であるところの「信仰」が不可欠となるのであり、それも聖書の創造神のような絶対的神の場合にはその信仰は妖精信仰のような生半可なものとはならない。なぜなら相手は世界の創造者であり、人間存在の由来だからである。そこにあるのは「愛」また「忠節」という関係性が関わる最も基本的な倫理上の問いであり、まさしく「信仰」とはどちらかの選択を行う重大な決定というべきであろう。

まして全知全能の神は、そのままに圧倒的主権者と成る意図が無い。支配と服従が望みであれば、エデンの二本の木は必要が無く、サタンもアダムも裁かれる以前に造られもしなかったに相違ない。 

旧約聖書の中から神は自らを顕わしてきた記録がある。しかし、それはけっして科学的また不可避的な事実としてではなかったので、イスラエル人も度々に「神を試した」のであった。神が自ら顕現したのは、むしろ人の価値観や倫理性を試みるような超自然の事象を通してであり、それは神自身ではなく「奇跡」と呼ばれるものである。そこに人は何を「見出す」のであろうか?

神は自然の中に自らのすべてを余すことなく顕現せず、自然を超える事柄、即ち超自然の奇跡のような物事、または自然の中であっても恵みと感謝のような人格的観点からの意義によって自らを示されてきたのである。
 
そこでパウロの言葉をもう一度見よう。
『人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神は我々ひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。』(使徒17:27)

ここでは単なる自然観察で眼前に神が見つかると言ってはいない。捜そうとの個々の意志が求められており、科学の発展の途上で偶然に神が見つかるということを意味しているようには読めない。また、数式のようにして信仰が導かれることはけっしてないであろう。

自然界の驚異に神を感じ取る人もあれば、そうでない人もいる。
それは人それぞれであって、どちらにしても、科学そのものがある人には神を知らしめ、ある人にはそうしないということはなく、自然に神を見い出すか否かは別の問題というべきで、それはパウロの時代も今日も変わらないであろうし、今後、科学がどれほど進歩しようとも、神の認知が科学によるものとはけっしてなるまい。それは常に、その人の個人的な心の選択となるに違いない。

エデンの二本の木に表されたように、神は個々人に「忠節な愛」を求められるので、神は自然界に自らの姿を顕現してはいない。従って科学が神を捜し出すことはけっしてないであろう。なぜなら『神が御顔を隠されるときに誰がそれを眺め得よう』と言ったヨブ記のエリフの発言にあるように、自らを単に人に観察させることを避け、むしろ人格的に探究させる一方、全能の神は御子の犠牲を以ってまで創造物と愛によって結ばれることを望まれたのであり、創造物同士の間にもそれを望んだといえる。

『愛する者は神と結ばれている』と述べた使徒ヨハネはこうも言っている。 
『主(イエス)はわたしたちのために魂を捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛[ἀγάπη](アガペー)というものを知った。それゆえに、わたしたちもまた兄弟のために魂を捨てるべきである。』そしてこうも言う。『わたしたちは兄弟を愛するので、死から命へ移ってきたことを知っている。愛さない者は死の内に留まっている。』(ヨハネ第一3:16/14)

では、人は神に対して「中立的立場」に在りながら、神を見出すものだろうか?
また、そうすることを神は望むだろうか? 



-◆科学と宗教の純粋を保つために--

こうして神存在の探求の仕方を考慮すると、キリスト教徒と雖も科学信仰に傾いていることが見えてくる。
今日の宗教家の多くは、人々が「聖書は科学的にも信頼できます」と説明を受けて納得する姿に安心したいのだ。 

それゆえ如何に宗教家たちが科学の領域に口を挟んでくることか。
確かに聖書中に科学的にも妥当とされる記述もあるだろう。創造者が霊感を与えた書であればそれも当然のことではないか。
だが、聖書の内容はそれを明かす事を目的としているのだろうか?

宗教を信奉する者が科学を通して神を宣明するのであれば、今日最も普遍的に宗教化して信じられている「科学という名の宗教」への敗北であり、今日に於けるその「宗教の最高峰」を調略することによって一気に自派の優位を確立しようと画策することである。
もちろんこれが十分な成功を見ることは無い。『神が御顔を隠されるときに誰がそれを見得るか』のヨブ記の古代の言葉は今日依然として覆すことは不可能なのである。

しかし、そこに在るのはなりふり構わぬ信者獲得に血道を上げる宗教家の見苦しい姿であろう。彼らが目指すのは神も意図しない「神の客観的存在事実」を提示しようとする論理の圧制ではないか。そのようにして世界に自派の正統を唱えると引き換えに、神が人間の自由意思による信仰を確保し、その為に膨大な犠牲を払ってきたことを無視するのである。
『信仰はすべての者が持つわけではない』のであり、それもまた倫理上の決定である以上、神が居て欲しくない無神論や不可知論の人々は「科学教」の中に放っておけば良いのではなかろうか。そこが彼らの神からの「エデンの隠れ場」なのだから。終末に彼らを捜して『あなたはどこに居るのか?』と、プライヴァシーを尊重しつつ呼ばわるのは創造神ご自身となろう。(テサロニケ第二3:2/創世記3:9)

ゆえに、神の偉大な意志と悠久の歩みを前にして、キリスト教の宗教家が進化論に足を踏み入れて論駁しているべきだろうか。また、科学者が神の存在を云々しているべきだろうか。

これはガリレイの宗教と科学の分離の提言に対し、21世紀のキリスト教徒が、科学時代に乗り遅れた往時のカトリックの轍を踏み、いまだ宗教と科学の混淆を願い求めているに等しく、そこから何も学んでいないではないのか。その点、宮廷医ツィメルマンが理系の人物でありつつもユダヤ人を証拠に挙げたところは達見であったというべきではないだろうか。

科学が神の存在を証明しているかのように思えるとき、人は大きな問題が生じかねない岐路に居る。
その人は科学の合理性によって神を「信仰する」のだろうか? 創造者が存在する蓋然性をそこにどんなに見出したにせよ、それを本当に「信仰」と呼ぶべきだろうか。また、それがキリスト教なのだろうか。

もし、宗教家が「科学」を自らに利用しようと画策するなら、既に彼らが科学に対して客観性も中立性も失わせてしまっており、それはもう科学ではなく宗教の僕となってしまった疑似科学に過ぎない。そのように科学を従僕にしておきたい宗派というものは、何かと科学の領域に口を出し、その資料を都合よく取捨選択し、自らを科学者の一人、否、科学者たちを総括する偉大な判断者に仕立て上げるほどである。

それではガリレイを裁いた検邪聖省やウルバヌスⅧ世とどう異なるのだろうか?
科学の領域に口を挟み、自分の信仰に合致したことを唱えさせ、都合の悪いことは黙らせようという、その姿勢は当時のままではないのか?

宗教の信奉者には「自分の信仰は宗教と云うよりは真理だ」と唱えようとすることが多いのだが、その背景には、「宗教」という言葉が受ける今日的蔑視を避け、また「自分の信仰は理性的である」 とアピールしたいのであろう。だが、それは逆のことになる。

その人の「科学」は客観的なものでなくなり、結果的に もう一度ガリレオ裁判を行うことを厭わないと言っているではないか。
科学を純粋に保つなら、それを全ての主観的概念から解き放ち、放っておく必要がある。それが出来ないなら、何時までもガリレオ裁判の失敗から学べずに居るのである。

他方、科学であっても、宗教を否定する武具として用いられたときに、それは科学という純粋中立な領域を踏み越えており、人間の倫理という極めて主観的で罪の腐臭漂う場にそのクリスタルのような中立の美を汚すことになろう。自然科学が自然を超えることがないものなら、「無神論」もまた科学を外れてまたひとつの宗教になっていることになる。その立証法では科学による「有神論」と何ら変わらない。

科学信仰に依り頼もうとする宗教は、自らの役割を弁えてはいないかのようだ。
もし、科学上に何かの新たな発見があって有神論がほとんど否定され得るような事態が起こり、科学の側から有神論に離縁状が叩き付けられるような事態に立ち至ったりすれば、科学信仰の基礎の上に築かれたその信仰は行き場を失うようなことになるに違いない。その「信仰」とはそれほど脆弱なものである。
 
それでは、創造の神が如何に人との関係を重視しているか、そしてそれが倫理という科学よりも遥かに難しく扱い辛い分野を包含しながら、どれほど見事に神自身が啓示しているかを宗教家は教えず、また自らも知らないかのようではないか。 

このように宗教が科学の助けを求めていた構図は、2~3世紀のキリスト教史の再来のようでもある。
当時は世界にヘレニズムが溢れ、ヘブライ由来の宗教はギリシア哲学と科学の前に何ら誇るべきものを持たなかった。

そこでヘレニズムに同化しようとする動きが護教家を生み出し、ギリシア哲学の論法でキリスト教を説明しているうちに、信者は増えたが教理は後退し、キリスト教らしい奇跡の力強さは失われ、異教文化と哲学主義の理屈の惰弱に罹患したのであったが、「今日の護教論」というべきはキリスト教を科学で信仰させようとするこの混淆にあると言えよう。

それは無機的疑似信仰を生むだけのことであり、科学で神を信仰できたからと言って、それはやはり「科学教徒」を増長させているだけではないか。 「今日のヘレニズムの護教論」もやはりキリスト教をますます堕落させ、キリスト教信仰の本質から離れた科学の論議に足を取られることであろう。

ウルバヌスⅧ世が宗教家の立場を踏み外しつつも思い込んでいたようなことは現実ではなく、神は自ら宇宙を動かし続けてはいない。かつてD.ヒュームが指摘したように、この創造界は法則に支配されており、神自身を自然界に探っても、まったく客観的にその証拠を見出すことはできない。なぜなら、神がそれを望んではいないからであり、それは自然界ではなく聖書を読み込むことによって、その意図も動機も我々人間が知り得るように既にその中で啓示されているからである。

明らかに宗教と科学は別の領域に属するのであって、神探求の成否はまさしく、「人格的に捜し出し見出すならば」ということに掛かっているであろう。人を創造した神は、人格的交友を望まれる。
「信仰」において、人は価値観と人格的接触を必要不可欠とするところの「倫理的決定」を神に対して行うことになるのである。
 
それは神を見出して「忠節な愛」を懐くか否かという決定であり、この愛なくして神を知る意味もない。
これを指して聖書は『信仰』と云うのであろう。

ある「クリスチャン」が科学的蓋然性によって神への「信仰」を抱いているのであれば、その「信仰」に畏敬はあっても忠節はない。従順があっても自発的愛はない。即ち、相互的関係性には至らないのであり、ただ神に支配してされていると云うに等しい。それは『信じて慄く』悪霊にどれほど異なるだろうか。

人が真に信仰を表すか否かは「選択」であって意思の自由を必須とするのであり、科学が神の存在を証しすることはけっして無いに違いない。それはエデンの二本の木以来の選択の自由を奪うからである。そこでエデンの二本の木が人に求めるものが見えてくる。そこでは神との関係性、「忠節な愛」が求められている。もし「信じる」ということにこれが込められていなければ、それにどれほどの意味があるだろうか。

そうでなければ、歴史上にこれほどの無数の犠牲を払い、またキリストの犠牲の死までも費やした意味があったろうか。しかし、神は「忠節な愛」をその代価に相応しいと判断されたのではないのか。ならば、その愛の価は何と大きなものであろうか。加えて、神はその全知全能を抑制されている。それは即ち、人との人格的接触を保つためであり、『象り』である自らの神性を尊重することでもある。


そうであるならば、神は『御顔を隠される』に違いない。(ヨブ34:29)







          2015 ©  林 義平


キリスト教の究極の目的


キリストの教えの究極の目的は何だろうか?

ここでは出来るだけ約めて、なお部外の方にも分かりやすく述べる試みをしてみよう。


まず一言でキリスト教の目的を述べれば
人間の倫理上の欠陥を除去し、神の創造の当初に企図された状態に人間を復帰させる
即ち、創造者との関係を修復し、人相互にも隣人を見出し、創造の業が完遂されることである。
 そして、ここにキリスト教の優れた独自性を見出すことができるのである。神は人を支配し、平伏させることを望んでおらず、崇拝そのものでさえ、エデンの園の記録に見いだすことはない。創造の神が人に望むものは愛であり、その絆ですべてが結ばれることにある。

倫理上の問題を抱えた人間の現状と、その問題が如何に諸悪の根源であるのかについては⇒ 「アダムからの罪


いまこの瞬間にも不公正や不義が蔓延り、人々の利己的な欲がせめぎ合う世界、それが「この世」という人間社会の実像である。

我々は倫理上に重大な欠陥を抱えているため、互いに争い奪い合うばかりか、聖書によれば、創造者の企図から離れて神からも疎外されてしまっている。また、神との隔絶のために宗教も必要としている。 我々の誰もが、自分から存在するようになったわけではない。それで、人生の目的を問うのだが、宗教家であっても誰もが納得できるような普遍的正解は誰も持ち合わせていない。ただ、様々に答えと思われる事柄を陳列するばかりとなっている。創造者との間に断絶があるからであり、その答えを得るには、創造者との意思の疎通を必須とするのである。

明らかに我々人間には倫理上に問題があるので、日毎にこの欠陥のために重い苦難を多様に受けている現実がある。実際、人が受ける苦難の大半は、人間自身の悪に原因をもってはいないだろうか?

聖書が描写するように、人間は奪い続け、戦い続け、それでも充分には得るところがないので、なおも闘争を続けて来たが、既に地球環境も破壊してしまったようである。(ヤコブ4:1-3)


その人間の倫理欠陥を聖書では『罪』と呼ぶが、それは個人が犯す特定の悪行をほぼ意味しない。
人類社会の不道徳性や闘争性や利己性は全く隠しようもなく表れている。これが聖書中で『罪』と呼ばれるものである。

しかし、生まれたときからこの世界に住む我々には不道徳な人間の性質も当たり前のように見えるかもしれない。だが、この倫理上の欠陥こそが、まさしく人類に虚しい生涯と多大の苦しみをもたらし、神との関係をも破壊しているのである。(イザヤ59:2)


それゆえ『この世』の在り様は、神の意図した創造当初の規格からは相当に逸脱した混乱した虚しい人生の舞台となっている。

人に苦をもたらす不倫理性を、仏教では一般的に『業』(カルマ)という言葉で言い表すなら、キリスト教においては『罪』(ハマルティア)という言葉によって苦の原因を言う。

どちらも、人間の倫理的欠陥を宗教の中心的主題に置いているのだが、仏教がそれを『業』に応じた輪廻転生と最終的な「解脱」に答えを与えるのに対し、キリスト教では『罪への悔い』と『贖罪』(しょくざい)によって不倫理性が浄化されることを説くのである。すなわち『罪』なきキリストの犠牲の死による人の『罪』への代償である。

したがって、キリスト教での『罪』とは「原罪」といわれることもあるように、特定の悪行を指すわけではない。キリストは『罪を行う者は、罪の奴隷となっている』と言う。そこで悔いが求められるのは、人間の誰もが逃れられない倫理上の欠陥についてである。 
人は「この世」を生きるように創られてはいない。様々な不適応が多くの人に出るとしても何ら不思議はないのである。


この倫理上の欠陥にまとわれた事の発端はといえば、聖書の伝えるように、それが「禁断の木の実」をとって食したという最初の人間夫婦に由来する。そうであれば、これを免れる人は誰もいないことになる。そしてこの世の有様に見えるように、人は誰も実際に不倫理性を免れておらず、永く刻まれた歴史からも、人類が倫理上に問題を抱えていることを否応なく知らされていないだろうか。

さて、エデンにおけるその最初の悪行においての根本的問題の所在は、創造者への敬愛の無さであり、それが第一にされるべき創造神との関係性を損ない、倫理という社会関係性の基礎の基礎を破壊してしまったので、以後の人間には悪がつきまとう。

つまり我々は皆が「他者とどう生きるべきか」を弁えてはいないのである。それは不治の病のようであり、我々は誰も争いから免れ得ず、このままであれば永久に争い続けるか、何時の日にか自滅してしまうのであろう。

他方で、その『罪』の反対に位置するのが『愛』であり、キリスト教ではこの『愛』を「アガペー」と呼ぶ。 
新約聖書では『愛は人に悪を行わず、法を全うする』というのである。

人間に倫理的欠陥のない世界、つまり利己心、貪欲、争いなどのない人間社会を想像することができるだろうか。

しかも、創造の神との間にすら平和がある。人は老化や寿命に拘束されず、経験したことのない人間として創造された本来の輝かしい状態に入る。そこでは、今日の諸々の苦しみがその元から断たれるだろう。それが「アガペー」の支配する社会像といえるのである。

『罪』のない人は、人とどう生きるべきかを弁え知っており、神との間にも断ち難く深い絆が結ばれる。
その結果として、世界は創造の神の意図したままの輝かしいばかりの栄光に満ち、人々は存在したことのないほどの美を極め、これまで経験したことのないほどの繁栄を謳歌することであろう。

キリストの教えの根本はこの『愛』であって、最も必要でありながら、この世に欠けたものである。人は身近な家族や友人を愛するので、愛はこの世に無いとはいえないが、キリストはこのように言われるのである。

『自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。』『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』(マタイ5:46・44)
人々がこの通りに行えるなら、この世は今とは違っていることであろう。だがこれは実に難しい。
そして神は、この実践が人間には不可能であることを認めているので、イエス・キリストを『罪の贖い』のために任じたと聖書は教えているのである。


だが、そのような世界が却って面白みに欠け、争いや苦しみあっての人生だというように思われる向きは、以下をご覧頂いても意味を成さないと思われる。

あるいは意義を感じられる方々に、倫理的回復の手立てについて以下に書き出してみよう。


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◆人間の倫理問題の解決

創世記に語られる人間と神との断絶の話を信じようといまいと、人間が例外なく「そこそこの悪党」であることは、それぞれ個人のよくよく味わい知るところであろう。(詩篇14:2-)

この倫理上の欠陥は神と人をも隔てたが(イザヤ59:2)、創造者と人との和解の目的のために、神の意志によって仲介者が立てられた。聖書はこう云う。
『神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスである。』(テモテ第一2:5)

この神と人との和解が、アブラハムの宗教、ユダヤ教、キリスト教の目的であり、悠久の時を貫く不変のテーマとなってきた。(コリント第二5:19)

その和解の仲介者は、人間の先祖アダムが為した、禁令を破る行為によって失われた人の善性と命を請け戻すべく、自ら人間のひとりとなり、その命をアダムの失った命#の贖い代として差出すことで、その子孫を、老化して死に向かう不完全な命から開放する役割を喜んで担ったのである。(ローマ5:12-)

仲介の役が果たせる以上、彼は元々人間ではなかったが、神の創造の業をも委ねられていた存在で、神が自ら創造したのはこの者だけであったから、「神のひとり子」とも言われている。(コロサイ1:15-16/ヨハネ1:1-3)

キリストが処女懐胎によって誕生した道理はここにある。 

イエス・キリストがアダムの子孫なら、ただの『罪』ある人でしかない。


人類のはじまりであるアダムは、木の実の禁令を犯し、神の否認したことによって、自分ばかりか子孫すべてを神の創造物の輝かしさから遠ざけてしまい、神から遊離した根無し草のように不安定な存在としてしまった。
そうしてアダムは、老化して死に向かう虚しい運命に自分と子孫を諸共に一度限り売り渡してしまったのである。その動機を要約するとエヴァを選んで、その妻との関係を創造者より上に置いたところにあった。(創世記3:12・19)

そこに神の落ち度はなく、それはアダムの「神の象り」としての責任を伴う、二本の木の実に関わる意志の自由を守るための二択であった。もう一本の木は「永遠の命の木」であったのだ。
だが、アダムは創造神との関係を否認する選択をしたので、それは自分の存在の由来を否定したことで、あらゆる不義の第一歩となり、人の倫理を土台から破壊してしまった。(創世記1:26)


しかし、「仲介者」は神と人との断絶に心を痛めていたことであろう。彼は神と人間を大変愛しており、自らの死を捧げてまで神と人との和解のために働いたのである。(箴言8:31)


その和解のを受け入れるために、人は神を神としなければならないが、人間社会は大半において常に、創造の神には信仰していてすら無頓着であった。多くの人々は神を崇拝するにしても利己的に利益を求めて決め付けてきたからであり、神自身の意向を探ろうとはしてこなかったのである。

即ち「神は自分に何をしてくれるのか」を問うところの「ご利益崇拝」が宗教の専らとする姿であり、キリスト教の人々でさえキリストの自己犠牲に感化もされず、結果的にであれ、キリストの上にあぐらをかいて、自分が救われるために犠牲を捧げる下僕としてしまう。それでキリストを信奉していると言えたものだろうか。(コリント第二5:15)

さて、神を認めない最初の行いはエデンの園で為されたために、遺伝によりアダムのすべての子孫である人間は倫理において不完全となっているがこれを「原罪」ともいう。(創世記3:17-19)

即ち、第一原因者たる創造者を神として敢えて否認することは、創造物である人間にとって、あらゆる倫理の基礎を損なうものであったので、以後、アダムの子孫は皆が悪を行う者とされてしまったのである。(ローマ5:12)
 

それゆえ仲介者が、創造物としての相応しい「神の子」の立場に人類を復させるためには、人の命に宿ってしまっている『罪』を何とかしなければならない。
そこでアダム本来の命#の代替となる別の命#の「贖い」(あがない)を差し出される必要があった。そこで贖いの代価を備えるべくキリストは人となり地上に生まれた。(ローマ5:18-19)

それだけでなく、各個人が「神を神として認める」意思を見届ける必要があるが、これは「信仰」によって人々が選別されることであり「裁き」と呼ばれる。(ペテロ第二3:7)

その「裁き」で問われるのは『罪を悔いる』こと、また、キリストに託された「贖い」に『信仰を抱く』ことである。その貴重な代価の意味を知らされてすら、求めず感謝もしない者に、どうして赦しを与える必要があるだろう。それはアダムと同じ道を行くことではないか。



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◆倫理性を回復する過程(贖罪「しょくざい」)

キリストと称されるこの仲介者は、まず人間となるに当たって、罪以前のアダムと同様の無垢な命#を持つべく、アダムの血統によらない方法で人間社会に来た。そこで彼は地上で、キリスト(任じられた者)・イエスと呼ばれた。(マタイ1:20-21)

それから、不法や誘惑を退けつつ、自らの倫理的に欠けるところのない生命#を犠牲として捧げ、地上に人として到来した目的を果たした。(テモテ第一2:6)


この犠牲が捧げられ、既に「贖いの代価」は払われ、神の御前に満たされているので、それはすべての人が用いられる状態となっているが、その犠牲の価値を運用して人々に罪の赦しをもたらす「神の王国」と呼ばれる神からの手立てが待たれている。キリストを王とするこの王国は、「この世の終り」に際して存在するようになるという。(ローマ3:24/5:10)

そして、この仲介者が次に行うのは、「神を神とするか」というエデンの問いに対して「神の象りに創られた」人々が自由意志を行使して、どう答えるのかを見極める「裁き」であり、これも世の終末に行われるという。(ヨエル3:12/マタイ25:31)⇒「終末の裁きで何が問われるか」

あらゆる個々の人々によってこの選択が行われてこそ、創造の業が完遂し、世界が神の意図した通りの栄光を得るところとなるのであり、世界の人々は、世の終わりに再来するキリストの前に右と左に分けられるというのである。(マタイ25:31-)

『この世』というものは、アダムの血統を通してすべての人が出揃うのを待つ場であると同時に、『罪』のもたらす害悪の実情の証しをすべての世代が見ることにもなってきた。
それを各人がどう判断するか、キリストを頼り『罪』を悔いるか、あるいは神を否認して『罪』に留まるかは、それぞれの前に置かれた『エデンの木』のようになる。

人間を自らの象りとした神は、この問題に対してひとりひとりの自由な決定を行わせるであろう。
アダムのときのように神は人からの敬愛を強要しない。そうでなければ、真実の愛は存在しないからであり、アダムの道を行こうとする者が出ることは避けられない。⇒ 神の象り」に込められた神の愛


しかし、必ずや神を神とすることを望む者たちも居るに違いない。彼らを不敬虔な者らから選り分けて、仲介者自らが犠牲として差し出した生命#の代価を以って、彼らを『罪の奴隷』状態から買取り、彼らの倫理上の欠陥である「罪」を取り除く過程となる『神の王国』または『天の王国』の地上支配と贖罪の祭祀の下に入れるであろう。(黙示録20:6)これがキリスト教会で「天国」と誤解されてきたものである。

その過程は、黙示録において「千年続く王国」+と記されている。(黙示録20:4)
だが、この贖罪の機構である『神の王国』の助けを望まない人々は、この千年の始まる前に、神を認めぬ行動を通して動かぬ決意を示し、神と人との戦いを起こすにまで進み、その後果を刈り取ることになる。それが、創造者との戦いで人間に勝ち目なく、勝敗が顕著に分かれるという意味での、所謂「ハルマゲドン」の戦いである。(黙示録16:16/ゼパニヤ1:17-)

さて、これらはすべての生ける者に対する仲介者の処置(裁き)である。(マタイ25:31-)
一方、千年が終わると、一般の死者(聖徒*ではなく)たちの無数の復活が起こる。(使徒24:15)
この「死者の復活」こそが聖書教の特徴であり、まさしく創造者こそが為し得ることではないか。

それが起こる時、一度死んだ者は「死」という「罪の報い」を既に受けており、神の業は完全であるゆえに、生き返る彼らのすべては仲介者キリストの生命#の贖い(代替)によって、原初のアダムのような罪無き命#をもって復活するであろう。(ローマ6:23/マタイ12:41)
彼らにも、エデンの『二本の木』の選択が問われなくてはならない。


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◆倫理性を回復した人間への要求

千年の神の王国の終わった後に復活するこの無数の群衆には既に仲介の必要はなく、この人々を裁くのはもはや仲介者の仕事ではなくなる。(コリント第一15:24-28)
そして、千年間の贖罪を受け死を一度も経なかった人々も倫理的状態は同様に完全となっている。

ここで、「エデンの問い」は最終的なものとなろう。

仲介者キリストはすでにこの件に関する働きを果たし終えているのであるから、あとは個々の人がまったく自由な選択者として、直接神にどう答えるかが裁かれるであろう。(黙示録20:11)

神はこの人々にも、敬愛を強要しない。そこで再び現れる蛇の誘惑に陥る人々は少なくないが、これらの人々は、遂に「老いたる蛇」であるサタン(反抗者の意)共々、永久の滅びに裁かれるに至り、こうして、神の創造の業は完遂され、その意志は尽く世界に行き渡ることになる。(黙示録20:7-)


彼らは神の子としての関係に復すことを願うのか、或いは、神を認めず敬わずに「神のように」(対等に)なろうとして「蛇」の道を行こうとするのか?(創世記3:5)
この「蛇」で表されるのは、被造物の中で一番に神からの独立を宣して「罪」の道に入った天使でありサタン(反抗者)と呼ばれる。(黙示録12:9)

堕天使である「蛇」は、自らの自由意志から神を愛さず、創造界に利己心と無秩序を持ち込んだが、それは人間界にもよくよく観察される。我々は隣人を愛し、助け合う能力が無いわけでもないが、どうしても他者を愛するよりは欲に従い、隣人との争いを止めることができない。

もし、それが当然だと思うなら、その人は神の人間に対する倫理回復の手立てにそう関心も持てないであろう。これこそは、その自由な意思の選択であり、それは「エデンの問い」に連なるものとなろう。その人は『永遠の命の木』から食すことはあるまい。なぜなら、他者とどう関わって生きてゆくかという「倫理」を弁えない以上、永遠に生きるどんな理由があろう。

この問いについては、今はあれやこれやと想像できても、それはあまりに深遠な問題である。それでも、ひとつのことは明らかであるように思われる。

それは、「エデンの問い」は神への愛が問われるであろうことである。その反対に位置するのは自己への愛であるように思われる。

神に象られた創造物は、自己を存在させた創造者との関係性(愛)を以って初めて存在理由を得るからである。
その点、「仲介者」の示した神への愛、そして人への愛は深い教訓に満ちたものであろう。

愛を抱く者は死から生に移るという使徒ヨハネの言葉は、生き続ける理由が愛による以外ないことを見事に一言で表していないだろうか。(ヨハネ第一3:14)
「倫理」、即ち、「隣人とどう生きてゆくか」をわきまえない者が永遠に生きるとすれば、それは大きな矛盾であって、創造界から無秩序はなくならず、神の創造の意図は永久に成し遂げられないことになる。

それゆえ『罪』をキリストの犠牲によって赦され、『神の子』となって生きるということは、神が永遠であるように共に生き続けることを意味しよう。(詩篇90:2/ハバクク1:12)

以上が人間に関するキリスト教の目的である。


したがって、我々の眼前にある「この世」は人類を創造した神の是認を受けるようなものではあり得ない。
そこに神の摂理もなく、キリストの信仰者を特別に贔屓もしない。「この世」とは、ただ法則によって自動化された世界なのである。
しかし、神は「この世」をその汚された状態から、創造の当初の輝かしい状態に戻し、自らの栄光を反映する人間へと「救う」ことを意図された。

そこで、聖書はこう云うのである。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ3:16)

これは、「この世」をできるだけ住みよい場所に改善してゆく、というようなことではないし、個人の人生をより良いものにするということでもけっしてなく、道徳的な生き方を求めているのでもない。神の意図はそのように凡庸ではない。

むしろ、人間が創造者を意に介さずに成立させている「この世の有様」をひっくりかえして一変させてしまうものである。そこで聖書には終末、即ち「この世の終り」が避けられない。

だが、神はすべて人々に選択の機会を必ずもたらすという。即ち、救いを選ぶか否かというエデンの問いは思想信条に関わり無くすべての人に問われるのが終末である。

キリストが再び来る不定の将来に、その終末が訪れることになることを聖書は告げている。



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しかし、この仲介者キリストには神に関しても成し遂げる目的がある


それは、この仲介者が神の最初の創造物であり、第二の立場にあるゆえにこそ可能なことである。(コロサイ1:15)


創造界で神から離反していたのは人間だけでない。「蛇」を初めとする堕天使らである。(黙示録12:9)

ここでは仲介者としてだけではなく、彼は全創造物の「初子」として大きな働きをした。

つまり、この初子が創造の父を「神たるもの」とするとき、この第二位以下のすべての被造物は神を崇めるべき理由が生じることになる。


そのため、初子は地上に来て「蛇」である堕天使サタンの誘惑を度々受けたが、初子はこれを退けて遂に刑死に至るまで一途に神への忠節を尽くした。

初子の忠節な死を以って、神は神たるものとされるべきことが確定し、論議は既に終了している。それは堕天使らにも霊に復活した初子から伝えられたが、この件に関する蛇らの反論はまったく不可能となった。(ヘブライ2:14/ペテロ第一3:19/ヨハネ16:11)


最後の試みにおけるすべての人々の裁きに続き、堕天使らにも終わりが訪れる。これらの者らの滅びが(象徴的に)いつまでも破滅の火の中から煙を上げ続けることで、神の神性の証しも永遠に亘るものとなる。(黙示録21:8)

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◆被造物の裁き

こうして倫理の基礎が確立され、神が神であるということが全創造界に自由意志によりながらも秩序をもたらすことになり、すべての権威や権力を必要としない平和な関係がもたらされるのである。

神の初子は他の知的創造物すべての調和と神との絆の要となるが、殊に人間の父祖アダムに代わって『とこしえの父』となるので、人類はアダムの命によらず、初子キリストの命にあって永生を賜る機会が拓かれる。

こうして、初子は父である神を愛し、その神性を擁護する礎となり、その証しは神の最大の栄光となった。そこには創造者と被造物の強い絆が象徴され、且つこのうえなく具現する。
初子はさらに進んで、すべての被造物を神に帰せしめ、己を神とする者を永遠に絶やすことになる。(コリント第一15:24-)


こうして、政治的権力という一切の強制の必要の無い、また神も権威を翳す必要の無い、あたかも家族のような姿が神と被造物の間に見られるようになるであろう。(黙示録21:3)

人は神に語りかけ、神はイエスにそうしたように実際に答える。(イザヤ65:24)
そこでは所謂「宗教」の必要も無くなってしまい、「罪」のもたらす神と人の断絶は過去のものとなる。

倫理上の欠陥から開放された人類には、政治と宗教の必要が無くなってしまうが、これもキリスト教の究極の目的といえる。
人間の政治と宗教はふたつながらに、人間の罪への対症療法に過ぎず、神による根本治療がなされた後には何らの意味も持たないからである。


⇒ 人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか?



           新十四日派  © 林 義平

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#この「命」or「生命」は、正しくは「魂」(ネフェシュ)であるが、初学者の誤解を避けた。
*「聖徒」:キリストと共になって、人間から倫理的欠陥を千年の間に除去し、その間の統治を行うために信徒から選ばれた者で、千年の前に復活あるいは召しを受け「神の王国」+を構成する。「聖なる者たち」ie「神のイスラエル」。
+「千年王国」ie「神の王国」:始祖アブラハムの真の「子孫」ie「裔」=「神のイスラエル」で構成される人類救出のための手段となる『王なる祭司』とされる格別な人々。

関連項目⇒「エデンの園の二本の木の意味

以上の観点に基づいたキリスト教解説書 ⇒ 「神YHWHの経綸」

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また、上記のほかにもうひとつ、創造の業の完遂に於いて、神自身が直接に成し遂げる恐るべき至上命題がある。
だが、それを説明するとどうしても長い文章になろう。
また、初心者向けの内容ではないと思えるので、ここでは割愛し別の頁にまとめたい。

⇒ 神名浄化の至上命題「シェム ハ メホラーシュ」

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◆このブログの
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キリスト教の真髄 「愛の掟」


キリスト教の真にキリスト教たる真髄は何であろう。

それはユダヤ教からの見事な脱皮、次元上昇を成し遂げさせた事柄である。それはキリストの教え「愛の掟」とも呼ばれる。

ある人は「愛」と「掟」という、「内」と「外」ほどに相反する言葉の結合に矛盾を感じるかも知れない。

しかし、使徒ヨハネは、神がキリストを人間の罪の犠牲とすることによって、人間に真の命を賜ったので、我々には「愛し合う務めがある」と書いており、(ヨハネ第一4:11)他の使徒たちも「愛」の実践がどれほど重いものかを強調しているのである。

では、人の生活の隅々にまで影響を及ぼし得るキリストの「愛の掟」の『愛せよ』とのわずか一条がどれほどのものかを考えてみよう。


それにはまず、キリスト教の母体となったユダヤ教の在り様から説き起こすことをお許し願いたい。


-◆法の外面性-----------------

ユダヤ教とは、法律条項を遵守するべき義務を負うものであった。

概して、法規を守らせることは、人への外からの作用である。
先に書いた記事「なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存在させるか」でも触れたのだが
この社会で法を守らせるのものは、最終的には権力であり強制である。
「背後に剣の無い契約など、虚しい言葉に過ぎない」とホッブスも言っている。
 

しかし、イスラエルの神は初めから主権をかざし強制に訴えることはせず、契約の形を以って「律法」を与えた。
これが即ち、契約の仲介者の名を冠した「モーセの律法」と呼ばれるものである。
イスラエルは契約の一方の当事者であり、当然にその「律法」の遵守を期待されたのである。


神は彼らが契約を踏み外すことがあったからとて、即座に介入し、律法の施行を強要することはしなかった。
しかし、契約した以上、当然律法に関して行ったことの酬いは引き受けねばならない。それはある意味で甲乙の当事者として対等なところのある「契約」であり、そのため、イスラエルも強制を受けるわけではないにせよ、当然ながらその責を問われることになるのであった。

しかし、イスラエルはその歴史の大半の期間に亘って律法契約には従わず、その掟を無視し、あまつさえ異教を奉じるなど、律法の精神に逆行さえしていたのである。これらの行動によって彼らの内面の如何は充分に示された。

結果として、ユダ王国のマナセ王の頃までには、神は律法契約は破綻したと看做し、その決意は二度と翻ることがなかった。(列王第二24:3-4/エレミヤ15:4)


さて、彼らの律法契約のこうした不履行の原因はどこにあったか。
ひとつ考えられるのは、法規の遵守が必ずしも履行者の内面を形作らないことである。

もちろん、モーセの律法に人の内面、つまり特質を培うよう命じている条項がないとはいえない。
例えれば、レヴィ記19:18の「あなたは仲間(同胞)を自分自身のように愛さねばならない」は、愛という人の特質を直接に要求することに於いて、一般的法律にない特色を有している。

こうした律法を持ったにも関わらず、イスラエル=ユダヤは歴史上、その同胞によって圧制や搾取が為され、無辜の血も夥しく流されている。

彼らは契約に無頓着であって、律法中の基礎的な規定も大いに無視していた。
その結果、イスラエルの神YHWHは遂にその民を捕囚に処し、70年もの間この民族からエルサレムに在った神殿が失われ、この間、律法条項の多くが履行不能に陥り、律法契約は一度破綻したことがあった。

契約の証である聖なる箱は消失して戻らず、聖籤「ウリムヴェトンミム」も遂に見いだされなかった。
これらを失ったイスラエルは律法契約に対して不履行でいたことは、もはや拭いようのない事実となった。

こうして契約遵守を失敗した後、彼らは許されて新バビロニア帝国の頚木を脱し、悔い改めて帰還した幾らかの民は神殿を再建して崇拝を立て興し、それからしばらくは律法を守って過ごすのだが、やがて反対の極端に傾くようになってしまった。
つまり、律法条項の遵守を至上命題に、外面を整えることに腐心し始めたのである。

そこでイスラエル民族は、律法の条項を守らなくても、あるいは守っても、どちらにしても、その内面を向上させ進歩することなく、その延長線上でメシア=キリストを退けることになってゆく。

ユダヤ人のメシア拒絶に挙げられた理由は、イエスが律法の細目を守っていないとの外面的な判断によるものであった。
この点、それらのユダヤ人が、イエスから規定の外的墨守より内面の特質を培うようにと訓戒されたのも頷けるところである。(例 マタイ9:13)


「法」とは本来、倫理的秩序を保つためのもの、欲望の対立を避けるため、あるいは悪行とされるものを防ぐものである。畢竟、人が神をはじめとする他者と、どのように共に生きてゆくかを規制するものである。

これについては別の記事でも書いた通り、法律の存在そのものが人間に倫理上の欠陥のある証拠であり、人間にこの欠陥がある限り、我々は法律というものからけっして逃れられないであろう。

さて、モーセの律法には我々の知る今日の法律に似たところがあり、最大の共通点は条文によって人を外部から規制するという根本的方式にある。
この外部から人を縛る方式では、その動機が利己心であるにせよ何にせよ、人は出来るだけ拘束されたくないので、人はどうしても抜け道を探ろうとしがちである。

結果として、法律は法律を呼び、いよいよ人を多くの縄目で縛りつけることになってゆく。そこではこの世の習いに従い、貪欲と規制とがどこまでも競い続けてゆくのである。

ユダヤのイエス後の歴史をみると、トーラー(律法「教え」)にミツヴァ(伝承)を加えたが、その目的はトーラーを守らせるための規則であった。ミツヴァは編纂されてミシュナーとなり、さらにゲマラ(注解)が付され、それらを納める無数の規則で成るタルムードとなった。そしてタルムードは現在も条項を加えつつあり、その細かい規則は膨大な数となっているが、条規を守らせる為に条規を増加させるという点では諸国の法と同じであろう。

イスラエルの律法との関わりを観察すると、神から与えられた律法をどれほど仔細に守っても、やはり外から人を規制する「法規」が倫理的に人の内面を向上させることは難しいようだ。
それは、条項に従うにしても従わないにしても然程変わりはない。⇒ 「山上の垂訓に於ける律法の成就

我々はイスラエルの歴史から、人の倫理的欠陥の改善について法規というものがほとんど役に立たないことを見る。

法規は社会の秩序維持のための当座の必要のみにおいて効用があるだけであろう。人そのものの性質を変えはしない。
畢竟、「法律」とは人間に宿り続ける倫理上の欠陥への応急処置、また対症療法のようなものでしかない。
他に何か意味があるとすれば、我々人間が皆、そこそこの悪者であることを知らせるばかりであろう。⇒ 「人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか

では、倫理問題への根本治療のような、内面から人を変えるような方式が果たしてあるのだろうか?
法律を超越するそれは、如何にして人から善的特質を導き出すのだろうか?



-◆愛の内面性-----------------
「愛すること、これがわたしのおきてである」

「愛の使徒」とも呼ばれるのは十二使徒のヨハネである。
彼は自らの福音書を書いたときに、他の三つの(共観)福音書の存在を知っていて、それらに書かれていないことを記すよう努めたと伝えられている。(教会史Ⅲ24)

わけても、外面重視のユダヤ宗教領袖らの手に掛かってイエスが刑死する前の晩、あの浄められた夜の記述は五つの章にも及び、彼のこの晩の印象がまことに大きく深かったことを窺わせるものである。

彼は十二人の中ではおそらく最年少で、そのため彼はイエスに可愛がられ、福音書の中で「主に愛された弟子」と自ら称している。

ゼベダイの子ヨハネは、食事の席でそのふところに在り、イエスとの最後の晩に、主自らの死を記念するようにと「主の晩餐」を制定したときを共にしたが、彼はそのことは他の福音書筆者にまかせて、むしろ主の口から出た言葉に多くの注意を向けている。

その中でも白眉とされる部分が「愛の掟」であろう。

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「あなたがたはわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うようにせよ。これをわたしの掟として与える」。「友のために自ら命(魂)をなげうつことより大きな愛はない」。(15章)「あなたがたに愛があれば、人はそれによってあなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」。(13章)
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ここに我々は何を見出すだろうか?
これこそ、キリスト教の真髄である。

同様に他の使徒たちも「愛」についてはその重要性を書き記して憚らない。
パウロはコリント第一13章の全体を以って愛が如何に大きなものかを述べた。
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たとえ、わたしが様々な言語、天使の言葉にさえ通じていても、愛がないなら、それは単にやかましいだけの銅鑼やシンバルのようなものだ。

そして、預言の賜物があってすべての神聖な奥義に通じていたとしても、あるいは、山を移動させてしまうほどの信仰さえもっていても、愛を欠くなら何の意味があろう。

自分の持てる家財のすべてを人々に施し、自分の魂(命)を他の人のために差し出したところで、愛をもっていないなら何の価値もないのだ。


愛は忍耐強く、妬みや誇りや傲慢を行なわない。下劣な行いをしない。利己的にならず、苛立つことをせず、根にもつこともしない。

不義を喜ばず、真実と共に喜ぶ。愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてに耐える。愛はけっして絶えることがない。
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論理に通じ、解釈の先端を走った「奥義の家令」であるパウロであってさえ、愛が知識をどれほど超越するかをこのように言葉を究めて説いている。

また、立場は大いに違えどもパウロと協調して働いたイエスの弟ヤコブは、律法中のひとつである「隣人を自分のように愛せ」を「王たる律法」と呼んで、様々な愛を実践し、それが意義を持つようにせよと人々を戒めている。それが言葉に終わってしまっては、確かに愛は空しくなるに違いない。


そして愛の使徒とも呼ばれるヨハネは、イエスの命じた愛せよという掟を高く掲げる。
その第一の手紙の第四章で彼は愛することを、まことに美しい言葉を用いてこう説いている。
-------------------------------------
愛する者らよ、我々はこれからも愛し合ってゆこう。
愛こそは神からのものであるから。
また、すべて愛するものは神から生まれている。
神は愛であり、愛の内に留まる者は神と結ばれており
神はその者と結ばれている。
-------------------------------------

キリストの直弟子らは、彼らの主が述べた愛の重要性をよくよく認識していたことは明らかである。
彼らがギリシア語で「愛」と記すとき、幾つかあるギリシア語の「愛」を意味する単語のうちでアガペー” ἀγάπη”(第二音にアクセント)を選んだ。
それは、ギリシア語で使用頻度の少なかったものであり、それを用いることを通してその「愛」の優れた性質を知らせるようなニュアンスがあったという。(元の「アガペー」の意は「奴隷など立場の低いものへの慈愛」であったという)

イエスが弟子らに教えた「愛」とは、一般に見られる自分の身内や、自分によくしてくれる者に示す愛を超えるものであることは、「友の為に命を投げ打つ」という言葉にも示されるが、「敵をも愛せ」の言葉はさらに鮮烈な印象を与えるものである。


そして、使徒ヨハネは第二の手紙において、第二世紀に入ろうというその当時の弟子たちに次のように訴えている。
-------------------------------------
わたしは新しい掟ではなく、当初からの掟を伝える者として願う。
それは、わたしたちが愛し合うことである。
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この手紙を書いているヨハネは老境に達してなお、65年以上前のイエスと過ごした最後の晩のキリストの言葉の重みを告げている。


そして、この「愛」が「律法」と比較した場合にどれほど画期的なことであるかを指摘していたのは使徒パウロである。
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あなたがたは、この愛し合うことの他には誰にも、また何をも負ってはならない。

他の人を愛する者は、律法を完うしているのである。・・・

どんな掟があるにしても、律法は即ち「あなたは隣人を自分のように愛さねばならない」の言葉に要約される。

愛は隣人に悪を行なわない。それゆえ、愛は法律を完うするものなのである。
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こうして我々は、人を外から規制する「法」を超えるものを見出す。
それは人の内面から発するものであり、自ら望んで自らを規制するものである。
その人は、他者の喜びを自らと共に味わうことを望む。

それが即ちアガペーと呼ばれる「愛」である。
「愛は法律を完うする」というからには「アガペー」のその持てる本質が世に満ち亘るなら、今日の人々の貪欲を制御するために世界に行き渡っている外的な「法の支配」を不要なものとさせ得るであろう。

もし、人がアガペー愛の完全さを体現するのであれば、その人に「法律」という外面からの規制の必要はまったく無くなってしまい、倫理上の完全さに到達して、創造されたままの輝かしい「神の子」としての姿に回復されることであろう。
「罪」が神と人の間を隔てるものなら、「愛」は人を神と結ばせ、人と人の真の絆とも成り得るものである。

モーセの律法は600近い規則で構成されていたが、「キリストの律法」ともいえる「愛の掟」はまったくシンプルである。
しかし、我々がそれを行なうとなれば、律法のように、いやそれ以上に生易しいことではないであろう。

他者が定めた規則に従うだけで自分をよしとするのは、ある意味で容易なことである。その人の内面は問われるわけではない。

しかし、「神と人を愛せ」という一ヶ条だけなら、人は自らの良心や共感などを動員しなければならず、その都度、内面の特質が問われてくるのである。それが即ち『自分にして欲しい通りに』の意味である。
そして「愛の掟」を守る度に、経験を通しその人の内でより善いものに更新されることによって、生きた掟となり得る。
しかも、それはまったく個人の問題であって、外面的に互いに裁くことの出来ないものである。


それゆえ、この余りに簡単な掟ではあっても驚くべき内容が込められている。
その掟がシンプルであるゆえに、自由自在にあらゆる状況に様々な仕方で適用ができ、つねにこの「掟」に従おうとする各個人の限界や進歩の過程にも応じたものともなり得るのである。

キリスト教はこの「愛の掟」において史上かつてない宗教上のすばらしい次元上昇を果たしたのであり、これ「愛の掟」は、存在するすべての宗教を超絶するもの、他の追随をけっして許さぬものであろう。


そこには今日の世界を動かしている貪欲と、それを押さえ込むための法と権力というシステムの対極がそこにある。つまり、今の世の中は互酬システムで築かれたものであり、その原則は「他人のためには働かぬ」というところにある。
それは「友のために命を投げ打つ」また「敵をも愛する」精神とは大いにかけ離れていよう。

この愛をこの世に在って体現したのは、まさしくイエス・キリストであった。
神を愛して、自らは質素な生活の中で父を高め讃え、神殿を猛然と浄め、父を誤解する者を正し続けた。
また人々を愛し、多くの病を負い、悟りの遅さを忍び、死に涙し、遂に神と人の為の極刑にその命を散らすことを惜しまなかった。
その偉大な生涯は、あらゆる創造物に史上一度示されたアガペーという愛の真正な体現であった。


-◆アガペーは行動原理となり得るか-----------

他方、今日の社会はまったくよそよそしいものである。
我々は他者からのサーヴィスを受けるために代価を与えねばならず、毎日の生活が便利ではあっても、必ず通貨を持って買い物に行くのであり、利害は常に天秤にかけられるものである。
人は金銭を得るために愛想をよくし、支払う者は与える者であるかのように振る舞う。誰のお陰で生きて行けるのかとでも言うだろうか。

金銭はその人を規制し、願望の遂げられる範囲を定める役割を持っている。即ち「貪欲」への抑止力である。

この金銭というものが市場経済を作り上げるのだが、それは公平を装いながらけっして公平なものではない。貧しさに苦しむ人々をしり目に富は偏在する傾向があり、有り余るところには更に集まってくる。

誰かが富むということは、この世では必ず他の人々の貧しさの上に成り立つのであり、富者がキリストに喜ばしく語られたところを新約聖書に見出すことはまずできない。キリストに従うことは『駱駝が針の穴を通るほどに難しい』とされ、『金を愛する者ら』はイエスの話が不快であったともいうのである。(ルカ16:14)
その一方でイエスは、貧窮にある寡婦が神殿に僅かな額を奉納するのを見ては、その信仰を非常に高く評価された。


金銭は弱者に苛酷に作用し、その生活を悲しむべきものにするが、それでも富める者らにあっても必ずしも栄えを楽しませるものとはならない。そこにも勝ち負けのあるギャンブルのように動揺したものがある。「市場」とはアガペーの反対の動機に突き動かされ、「貪欲」という以上に定まった目標の無い、どこに向かうか分からない潮流そのものである。それは人々を呑み込む無慈悲な大波のようであり、当て所も無くバブルの有頂天と恐慌の絶望とを行きつ戻りつしていないだろうか。(イザヤ57:20)

創世記に語られる「あなたは顔に汗してパンを食し、ついに地面に帰る」という苦難の生活を逃れ出る人は常にごく僅かであった。
今でも一日2米ドル以下で生活する人々は人類の半分にも達していると言われるが、やはり過去についても経済学者は歴史の状況を俯瞰して「人類の歴史の大部分において、人は底知れず貧しい状態にあった」と述べている。(ダスグプタ「経済学」p17)
物資が不足しているのだろうか?統計からは必ずしもそうではないという結果になる。所有の大小が公平な分配を阻害しているのである。

富める者と貧しき者とは、様々な争いによってバランスを取らざるを得ず、また、富める者同士も、しばしば更なる富を巡って奪い合うことが起こり、一瞬にして莫大な富が消え去る恐怖と無縁でもない。個人同士の争いと同じく、国家同士も互いに利害を巡って対立し、ときに軍事力などの行使するが、それは兵にも民にも苛酷な仕打ちを行うものである。命を賭した人々が礼を尽くして葬られたとしても、奉られるほかに何の酬いがあるだろう。


キリストの弟ヤコヴはその原因を次のように指摘する。
『 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのか。
あなたがたの肢体の中で合い争う欲望が原因ではないのか。
あなたがたは貪っても得られず、人殺しをする。熱望しても手に入れることができず争い戦う。
あなたがたが得ることができないのは、あなたがたが願わないからだ。
なるほど願いはする、だが受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからなのだ。』(ヤコヴ4:1-3)

ここでヤコヴが指摘するような人間の貪欲に対処するための法による支配、つまりこの世の現状であるところの、愛に基づかない貪欲のシステムがもたらした悪弊に、人々は既に充分すぎるほどの辛苦を味わったであろう。

では、キリストの教える「愛」に支配された社会の実現は可能だろうか?

実のところ、それはまったく無理である。

なぜなら、僅かな不純物が澄んだ水の清さを曇らせて全体を損なうように、貪欲に振舞う者がひとり存在するだけで、その者が他者の愛の上にあぐらをかいてしまえば、クリスタルのような愛のシステムそのものは容易に破壊され、愛の世界は一瞬にして隷属の帝国と化してしまう。


しかも、この貪欲は性質が悪く、清く歩もうと願う者にも病気のように巣食っており、誰もが自己の内面のこの敵と戦う必要があり、我々は度々敗北するのである。

では、すべてが「愛の掟」に従うように強制できないのか、といえば、強制されたときに「愛」は失われ、そのような強制の世界なら既に我々の目の前にある。即ち、「法と罰」の世界である。

そこで我々の切なる希望は、「愛の掟」をシステムとするであろう「神の王国」と呼ばれるキリストの治める世界、神の意志により将来に現出するであろう新制度へ向かうのである。

その王国とは、「罪」という倫理的欠陥を負った人間の成し遂げる社会ではけっしてなく、人間以上の存在なくしてはけっして到来することのないものである。

それが証拠に、人類は不公正な貪欲に基づく互酬制度を止めることができないであろう。
もしそれを過去のものとするには、人類が一斉に倫理上の大変化を起こす必要があるが、それは現状をどうみても不可能であり、貪欲を改善することすら必要を感じない人々も多いであろう。

一方、キリストの「愛の掟」に従おうとする者であっても、この世の利己的なシステムの中では、周囲の貪欲のゆえに注意深くなければ自滅しかねず、できることは限られてしまう。(イザヤ58:10)

この世がそれを許さない造りで出来ているからである。(ヨハネ第一5:19)

それでも、「愛の掟」を守り行うよう努める価値は大いにあるといえる。なぜなら、それはキリストの教えに沿って自己の内面(社会ではなく)が変革される願いを表すのであり、それを正しく『悔い改め』と呼ぶのであろう。それは特定の違反を悔いるのではなく、この殺伐たる世にあっても懸命にキリストに倣いイエスをアガペーの師と仰ぎ努めることである。

アガペーという愛はキリストによって示されたが、我々はそれにどう応えるだろうか。
もう、殺伐としたこの世の有り様に倣って『罪』の奴隷に甘んじる必要はない。


そうする人々こそが、まさに「キリスト教徒」と呼ばれるに相応しい。

その弟子らの愛を見て「人々は彼らがキリストに従う者であることを知る」とイエスは言ったが(見分けるのではなく*)、無情に代価と報復を求める「互酬の原理」に動かされるこの世にあって、「アガペーの原理」に沿おうと努める彼らの姿は浮き立つように見えるだろう。

彼らの生きるべき世界は、もう既にこの世ではなく、来るべき世界「神の王国」となっている。キリストに同じく『世は彼らに価しない』。




 
                                      新十四日派   © 林 義平

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*愛によって「真のクリスチャン」が見分けられるのなら、それは存在し得ない「愛(アガペー)の体現者」を求めることになり、人間すべてが愛に対してほとんど同じような不完全さに留まっていることを無視し、「より以上の正統さ」を求めて虚しく「愛」を競わせることになり、競われたとき愛は失われ、優越感と対抗心の単なる相克となるであろう。


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アガペー
愛の掟

バプテスマの意義は何か


バプテスマ、それは「洗礼」とも「浸礼」とも言われる。
その漢字の一字の違いは、額に水を注ぐのか、人を水に浸すのかに由来する。

バプテスマがギリシア語「バプティゾー」から来ているのなら、その「浸す」という意味からして浸礼が本来であると見なせるし、旧約時代の灌油による王などの役職への任命あるいは、聖霊が火の舌のようになって彼らの頭上に現れたという、あのシャブオート(ペンテコステ)の日の出来事をバプテスマというなら(使徒2章)、水のバプテスマも頭への降り注ぎなのかもしれない。

また、モーセの律法が規定していた「清めの水の洗い」がその前提であれば、やはり体を洗えるほどの水が要ることになる。(ヘブル10:22→レヴィ14:9)

初期キリスト教徒は十分な水の得られない環境では、「浸礼」は施せないとしても頭から水をかける「洗礼」でやむなしとしていたとのことである。
また、「点礼」という寝たきりの人のために数滴を施すものも初期からあったようである。

しかし、これらの事柄を論じても、いずれかの儀式のやりようを考えることであり、バプテスマの本質には然程近づけない論議になりそうである。

では、バプテスマの意義はどこにあるのだろうか?

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ほとんどの場合、バプテスマはこれまで入信儀礼と解されて来た。
近年、アメリカなどで、宗派に関わらないバプテスマが施されるようになってきているそうだが、ほとんどの場合、バプテスマはどこかの教派や組織に一員として加わることの意味合いが強い。

宗派によっては、信仰告白や回心をするもの、また周到な準備期間を設けて、教理や道徳の教育が十分になされているのかを試され、然るのちにバプテスマを初めて許すところもある。

あるいは、バプテスマの直前に宣誓を求め、しかもそれが神やキリストと共に組織への信仰を表すものであることや献身などを要求されるケースもある。
ほかにも、教祖への専心を誓うよう求められるところもあるのかも知れない。

また、バプテスマ前にそれまでに犯した罪の告白をし、それらを洗礼の水が洗い流してくれるという意味づけもあるらしい。

しかし、そのように納得してこられた方々には残念だが、この点はペテロも第一の書簡で述べるように、この水は肉の汚れすら洗い流しはしない。(3:21)そうなると、「洗礼」という言葉は誤解を招きやすい言葉になるようだ。

もし洗礼が罪を洗い流すなら、終末においてすべての者に臨む神の裁きが前倒しされることになってしまい、人がひとりひとり裁かれることに一体何の意味が残るのだろう。
そこでは、バプテスマを受けたか否かという単純な儀式の問題に畏怖すべき裁きからの救いが置き換えられてしまう。

つまり、バプテスマを罪からの浄めのように考えるなら、ただ儀式を済ませたか否かになって、神は人の内面は見ないと主張することにはならないだろうか?

我々の罪を洗い流すのは水ではなく、キリストの血(の中の魂)、つまり贖罪の貴重な代価の方であって、どこにでもあるような水にその力はない。
実に、あの使徒パウロですらバプテスマを受けた後に、自分に罪が宿っていることを認めているのである。(ローマ8:18-)

だが、この罪の浄めという考えのために、四世紀にはバプテスマを死の間際まで延ばす習慣さえあったという。つまり、一度バプテスマによって罪から清められたなら、再び罪を犯すことで自らバプテスマを無効としないためである。

また、生まれたばかりの嬰児が命の危機にあった場合、産婆が慌ててバプテスマを施すという風習が、近世までヨーロッパにあったが、これはバプテスマの儀式によって死の直前にキリスト教徒とすることで、地獄に墜ちることを食い止めると信じ込まれたためである。

今日では、キリスト教への新たな帰依者も少なく、「あなたは信仰を持ちましたね、ではバプテスマを受けましょう」。と信者の自動的乱造があちこちの教会で行われている。だが、当然ながら、それは根の浅く、いつまで続くとも知れない信仰者を作っては失うばかりではないか。

このように、まるで様々に解釈されているようにみえるバプテスマではあるが、キリスト教に帰依する場面で行われるということにおいては何とか共通しているといってよいだろう。

しかし、以下のようにバプテスマの意義を探ってゆくと、罪を消しはしないものの、受ける者の内に宿る「罪」をどう見做すかが関係していることが見えてくる。


では、まずイエスに先立って活動した、バプテストのヨハネから見てみよう。


-◆先駆者バプテストのヨハネ---------------------

さて、聖書中にこの儀礼が重要な意味をもって登場してくるのは、やはりバプテストのヨハネである。
先の記事で既に書いたように、このレヴィ族の祭司の息子に与えられた使命はけっして小さなものではない。

もちろん、それはイエスの彼について述べた「女から生まれた者で彼より偉大な者はいない」の言葉からも知れるが、モーセ以来のユダヤ教1500年間の総決算のような預言者としてエリヤの姿をして律法契約不履行の罪と呪いの内にあるユダヤ民族にメシアの先触れとなって現れた意義は非常に大きなものがあった。

さてここで、ヨハネのバプテスマを理解するべく、少々ユダヤ教の流れについて記すことをお許し願いたい。それはヨハネのバプテスマの「悔い改め」という側面の理解を確認しておくためである。


ソロモン王の建立した第一神殿の破壊されユダヤ国民がバビロン捕囚に陥る以前から、イスラエル民族による律法不履行のために、神の側には律法契約を続行する意志は既に無く、御璽のような律法契約の証しであった「契約の箱」も第一神殿の破壊までには行方が知れなくなっていたようである。

それから、ネブカドネザルの大軍がユダヤとエルサレムを蹂躙し、神の刑執行者の役割を演じて、ユダヤ人を自国への捕囚に処したのであった。

後に、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人らが、第二神殿を以って神聖な祭儀を再開させたものの、「契約の箱」は戻らなかった。(エレミヤ3:16) ⇒ 契約の箱 アーロン ハ ヴェリート

これが物語ることは、神が一度限り律法契約を断念したとき以来、イスラエル=ユダヤ民族は神との関係に大きな問題を抱えていたのである。

第二神殿や祭祀の復活では律法に従う形式を保ったものの、すでに正式な律法契約によるものとはならず、アブラハムへの約束に基づく神の善意ということでしかない。

ただ、時経た後に、神はメシアを介してイスラエルの家と新たな契約を結ぶことを預言者を通して予告していたのであった。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)


ヘブル書はこう記している。
『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』(ヘブル8:7)

そして、律法契約を仲介したモーセも、新たな契約の仲介者キリストを予告して
『あなたの神、YHWHはあなたのうち、あなたの同胞の中から、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』と、既に律法が記されるときから述べていた。(申命記18:15)



-◆ユダヤ人への「悔い改め」のバプテスマ--------------

さて、そこでバプテストのヨハネの登場となる。(ルカ1:77)

ユダヤへの「新しい契約」の近づく時期に現れたゼカリヤの子ヨハネは言う。
だが、それは激しい言葉を含んでいた。
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「自分たちの父祖はアブラハムだ、などと思ってもみるな!神は石からでさえアブラハムの子孫を起こすことができるのだ」。
「斧はすでに木の根元に置かれている。ゆえに良い実をならせない木はみな切り倒されて火に投げ入れられる」。
「わたしは悔い改めのために水でバプテスマを施すが、わたしの後に来る方は、聖霊と火でバプテスマを授けるであろう」。
「その方は手に煽り分ける道具を持ち、脱穀場の隅から隅まで掃いてしまい、麦は蔵へ集め、籾殻の方は消えない火によって焼き捨てるのだ」。
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これらのマタイ3章の言葉は、旧約聖書に予告されたメシアの前を先立って行くエリヤ、また、主の道をまっすぐにせよと荒野で叫ぶ者の声である。その目的は神の前に「整えられた民を準備」するためであった。(ルカ1:17)

それは恰も、「さあ、こちらに来るように。我々の間の事を正そう」「そなたの罪が緋色の布のように赤くとも、それは羊毛のように白くされよう」。といっているかのようである。(イザヤ1:18)

この経綸によって、神はアブラハムの子孫の契約違反の罪と呪いから請戻し、そうしてアブラハムへの「あなたの子孫によって、諸国民は自らを祝福する」という約束を、後裔イスラエル民族に回復することを企図したのである。(創世記12:3)


さて、ここでヨハネのバプテスマという儀式の役割を総括するなら

イスラエル民族はバビロニア帝国によって神の恵みを失う以前から、神との間に道義的に問題を抱え不安定な状態にあった。即ち、律法契約を守らなかった咎を負ったまま過ごし、いまや約束のメシアが近付きつつあった。

その咎は、良心の鋭敏なユダヤ人をして、第二神殿での祭祀の再開をもってしても解消されることはない、と感じさせていたことであろう。その抱くものは「打砕かれた霊」であった。
では、どうすればよいのか?

幸いにしてエレミヤは「新しい契約」を告げていたし、最後の預言者マラキは「契約の使者」とそれに先立つ「使者」エリヤの到来を知らせていた。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)
したがって、メシアはイスラエルにとって律法の罪からの「救い主」であった。(コロサイ2:14)

バプテストのヨハネが現れるときには、民はすでにメシアやエリヤを待っていたので、マラキ以来の神の四百年に亘る沈黙の終了をエリヤのいでたちをしたヨハネに見たであろう。それは預言者の封印と呼ばれたマラキ書の最後の一節をもたらす貴重な人物となった。(マラキ4:5-)
 

さて、自分たちの国民が律法契約を守り行うことが出来なかったことを正直に認める人々にとって、荒野からの人ヨハネの施すバプテスマは、それを受ける者本人が律法契約の不履行の罪を認めて「悔い改め」、新たな神の道、救いの道を受け入れることを表明することを意識させたであろう。(使徒13:39)

それゆえ、彼の施すものは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれ、これはユダヤ人に限るものである。
このバプテスマは、それまでのユダヤの歩みを悔いて、来るべき救い主「メシア」にユダヤ人の心を整えるものであった。

この当時の平民の多くはヨハネからバプテスマを受けたが、宗教家たちは、このヨハネのバプテスマを受けなかった(あるいはヨハネが受けさせなかった)と記されている。(ルカ7:30)

したがって、ヨハネのバプテスマは、それを受けるユダヤ人の意識を律法体制の以外の事に、つまり、それまでバビロン捕囚の中断があったとはいえ、永く続いた動物の犠牲と法律を守ることによる宗教生活の外に向けさせる作用があったに違いなく、またイスラエルにとって『荒野』とは、モーセ以来の信仰の原点を思い起こさせる場所であったに違いない。

だが、ユダヤの宗教家は旧態依然たる宗教体制にこだわり続けることになった。
聖書にも歴史書にも、当時の宗教体制の人々は、既に破綻していた律法の遵守に腐心し、いまだに自分の行状によって義が得られるかのように誇っていた様が伝えられている。(ガラテア2:16)

つまり彼らは、自分たちの行いによる義を求めた思い上がりのために、ナザレのイエスに対して少しも整えられておらず、「新しい契約」に向かうべきその道は、主の前にまっすぐではなかったのであった。(ガラテア3:10)

そうした状況にあって、ヨハネのバプテスマを通じ約束のメシア=キリストが現れる。
神のみ子であるイエスの場合に悔い改めの必要はないが、自らを整えるかのようにユダヤ人としてこれを受け、そうして聖霊を灌がれた最初の人となりった。つまり、そのときに聖霊によって象徴的に「灌油」されメシアの任命を受けたのである。


さて、こうしてヨハネによるユダヤ人への「悔い改めのバプテスマ」をみると、神からの救いの手段を無条件で受け入れてキリストにすべてを委ね、その前に自己の義を放棄するよう促していたことが見えてくる。(ガラテア3:10)
つまりは、罪ゆえの神へのまったき降伏、一切の放棄である。そこに必要であったものがイエスをメシアとして受け入れる「信仰」であった。(ローマ3:20)

それは、既に破綻していた神殿の贖罪の祭祀を含むユダヤ律法体制ではないところ、自分たちの宗教習慣を離れ、未知の領域に新たな崇拝、「メシアへの信仰」を見出すよう促すものであった。そこでは柔軟な心が求められる。(ガラテア3:21-22)

一方で、ヨハネのバプテスマを受けず、イエスに強硬な者ら、とくにパリサイ派はイエスが安息日を守っていないからと、自己の義で頑なに判断を下してしまい、せっかく遣わされたユダヤにとってこのうえなく貴重なメシアと神の救いの道を退けたのである。(ヨハネ9:16)

その先にあるのは、あの西暦70年の恐ろしいユダヤ体制の滅びであった。イエスを退けた世代は、その火に呑まれることになる。(マタイ23:35-36)

その一方で、ナザレ人イエスを約束のメシアとして受け入れたユダヤ人は、まずヨハネのバプテスマによって意識を整えられており、イエスを信仰しその水のバプテスマを受けることで、さらに聖霊を受け、罪あるイスラエルから救われる準備を整えたと言える。(使徒2:38)
その聖霊を受け「新しい契約」に入る他に彼らに「救い」は無かったからであり、これを今日の一般的キリスト教徒と同列に見るべき理由はない。(ローマ4:13-15)

さて、ここまでが「律法契約」に関わるユダヤ人への「悔い改めのバプテスマ」である。



 -◆イエスの「聖霊と火」のバプテスマ-------------------

そして、イエスの施した聖霊によるバプテスマについても一瞥しておく必要がある。
ヨハネはイエスが「聖霊と火でバプテスマを施す」と語っていたわけだが、それは何であろうか?

「聖霊のバプテスマ」はあのシャブオート(五旬節)の日に最初の成就をみた。
その場にいた百二十人ほどの男女に天から聖霊が降下し、様々な言語で「神の壮大な事柄」を話し始めたのである。彼らの頭にはそれぞれ「火の舌」(「舌」は言語の象徴でもある)が配られたようにあった。(だが聖霊と火の「火」の部分はこれに相当していない)⇒聖霊と火のバプテスマ

こうして初めて、聖霊を受けた彼らに「新しい契約」が発効し「聖徒」(神のイスラエル)の一員となる見込みを得て、象徴的に「水と霊から」新しく生まれたといえるのである(ヨハネ3:5)

このように聖霊のバプテスマを受けた人々はその後も増えていったが、直弟子たちだけでなく、ステファノ、テモテ、のようなユダヤ系の外地の人々も与ることになる。(使徒2:38)

しかし、ユダヤ人の中から悔い改めに至る人々の数は多くはならなかったので「神のイスラエル」の国民の数を満たすべく、やがては信仰深い非ユダヤ民族のサマリア人や、ローマ人のようなまったくの異邦人もこのバプテスマに与ることになるのであった。(使徒1:8)

聖霊のバプテスマを受けた人々は、聖霊の賜物を授けられた超自然の(憑依状態ではない)能力を示す限定された人々であって、「聖徒」と呼ばれ、集まりの中心的役割を果たすが、奇跡をもたらす「聖霊の賜物」を持たない人々は当時であっても「聖霊のバプテスマ」を受けたとは見做されてはいない。(ローマ8:9/コリント第一14:16)

一方の「火のバプテスマ」は、キリストを葬ったユダヤの「ねじけた世代」に、ユダヤとエルサレムの滅びとなって臨んだ。⇒ 記事「聖霊と火のバプテスマ




-◆イエスの名による水のバプテスマ------------------

さて、前記の二種類のバプテスマを考慮してのち、本稿の本旨である「水のバプテスマ」に入ることができる。

このイエスの名による水のバプテスマの意義を物語る挿話が使徒言行録19章にある。

エフェソスで使徒パウロはユダヤ人の群れを見出した。彼らはイエスの教えは伝え聞いていながらも、ヨハネの「悔い改めのバプテスマ」を受けただけであった。

彼らは聖霊も賜物も知らず、イエスの名による水のバプテスマも受けていなかったので、パウロがこれを施して按手すると、彼らも聖霊を受けて異言や預言を始めたのであった。(使徒19:1-7)

これらは、ヨハネの「悔い改めの水のバプテスマ」を受けていたユダヤ人が、「イエスの水のバプテスマ」を受けて後のことである。つまりユダヤ人はまず第一に律法契約の違反について悔いる必要があり、次いでイエスをメシアとして受け入れ信じたことをその名による水のバプテスマで示したであろう。
(ヨハネの死後はユダヤ人にこの過程は省略されたであろう)

イエスが地上で活動しているときにも、弟子たちがイエスのバプテスマを民に施していたが、その水のバプテスマを通し「新しい契約」の効力が発揮されて聖霊が灌がれるようになったのは、あのシャヴオートの日からであった。

こうして、ヨハネの「悔い改めの水のバプテスマ」を経た後、イエスをキリストとして認めて「イエスの水のバプテスマ」によって備えられたユダヤ人らは、「新しい契約」に預かり、「聖霊のバプテスマ」を受けるのであった


このヨハネとイエスのふたつの水のバプテスマは、恰も、ユダヤ人を旧契約から新契約へとつないだ掛け橋のようである。ヨハネは終点でありイエスは新たな起点であったと言える。その二つの契約の間に水のバプテスマが存在している。
ひとつは「悔い」のため契約を終わらせ、もうひとつは新たな契約に預からせる「選び」の前に行われていた。

即ち、ユダヤ人はバプテスマを受けることで二度の意識の転換を行っているといえよう。一度目は律法体制による宗教生活に疑問符を打つことであり、第二のものは「新しい契約」に彼らを導くものとなったのである。

こうして彼らユダヤ人は、聖霊を受けることで「罪」ある肉体であるにも関わらず、キリストの血の犠牲の早い(仮の)適用によって「義と宣せられた」。それゆえ、彼らは自分たちを『聖なる者』また『被造物の初穂』と呼んでいる。彼らは罪を許された『神の子』の身分を史上初めて得た人々となった。それを可能としたのがキリストの血の犠牲であった。(ローマ8:1/コリント第一1:2/ヤコブ1:18)

ユダヤの民衆もヨハネのバプテスマによって整えられ、その柔らかくされた心によって、進んでナザレのイエスをメシアとして受け入れようとした。その意識、また決定をキリストのバプテスマによって示したと言える。(ヘブル4:7-8)
彼らは宗教家のように、古来の伝統や律法の「義」に固執しなかったので、イエスがガリラヤ出身であろうと、安息日に癒しを行おうと、彼らにはつまづく理由にはならなかったのである。(ガラテア2:16)

この民衆は、ヨハネのバプテスマからさらに進んでイエスのバプテスマを受け、一層整えられたユダヤ人たちは聖霊のバプテスマを授かり、予告された「新しい契約」に与って、イスラエルへの律法不履行の呪いから「救われた」ばかりか「アダムからの罪」も含めてすべての罪を赦されたのである。(ローマ8:33)
ここにユダヤ人が聖霊を受けなければ「救われない」事情があったガラテア3:13)


一方で、異邦人でこの契約に与った人々には「ヨハネのバプテスマ」の必要はなかった。悔い改めるべき不履行の契約に参与していなかったからである。彼らは、イエスの水のバプテスマによって一足飛びに「聖徒」(神のイスラエル)へ参加するよう心の準備を得ることができた。(カラテア6:15-16)

異邦人には律法を終わらせるために宗教生活から意識を方向転換させる必要はなく、そのままイエスをキリストとして受け入れたことに想いを傾け、その水のバプテスマにより内心の決定を自他に示すことができたであろう。
(コルネリウスの例を考えると、彼らにとってイエスのバプテスマは必ずしも聖霊を受けるまったく絶対の前提条件でもないようではあるが)

こうして見ると、水のバプテスマには、容易には変わることのない人の宗教信条の意識を変化させる効果があったことが窺える。それは天からの召命ではなく、自発的なものである理由もそこにあるのであろう。
ヨハネが荒野で『「主の道筋を直くせよ」と叫ぶ声』となったとき、ユダヤ人には意識の変革が求められたのであり、ヨハネの水のバプテスマを受ける人々は、その変革を意識した。

同じように、イエスの水のバプテスマは、以前の宗教がどうあれ、神の遣わしたキリストに神の救いの道を求め、そこに自らの意識を合わせることへの決意表明と見ることができる。


ではあるが、第二世紀以降、聖霊が人に注がれることは中断しており、今日までかつてのように正しく「聖霊の賜物」という世に対して明瞭な聖霊の注ぎを受けている人を見出すことはできないで来た。(ヨハネ9:4-5)

「使徒後教父」時代の資料は、聖霊の賜物を持つ人々がイエス後の百年ほどの間に現われては減少し、やがて絶えたことを教えている。
⇒ 「モンタヌス運動、最初の「時」の予告者

キリスト自ら「旅に出る」かのように一時期、地を去ることを述べていたが、それ以来、今日まで「聖霊のバプテスマ」はまさに中断している。⇒「今日のキリストの不在

それでも、今日「水のバプテスマ」が施されることは妨げられるべきものではないであろう。(マタイ28:19)
自らの中に、人間に共通する倫理上の欠陥である「罪」を正直に認めることのできる者は、イエスをキリストとして受け入れ、自己の正義をその前に捨て、「罪を悔いる」ことの表明することができる。これこそが「信仰」であり、それゆえのバプテスマは人々をキリストの再来に備えさせるものとなるだろう。(*ガラテア2:15)

従って水のバプテスマを受ける意義は、それが聖霊のものでない以上、自分が救われた状態に入ることではないにせよ、神の意志に対して『整えられた』者となり、神の声に『心を柔らかく』する用意のあることを示すことであろう。

今日の水のバプテスマと聖霊のバプテスマの決定的な違いは、その施す主体者にある。つまり、水のバプテスマを施すのが人間であるのに対し、聖霊は常に上からのものであり、神の許から「選び」また「召し」と共に注がれるものである。(ローマ11:29/テサロニケ第二2:13)

したがって、水のバプテスマは「召し」を証しするものではなく、聖霊を注がれることによって、その人に「召し」が差し伸べられていることを証しするのであって、これは人間の及ぶところではない。
 


-◆今日の水のバプテスマの意義--------------


さて、以上の論議をもってイエスの水のバプテスマの意義を確認すると、ヨハネのバプテスマが「新しい契約へと民を整えた」というところ、また「イエスの到来に備えさせた」というところは今日、依然意義をもっているであろう。

それは将来なお成就を待つことだからである。それは聖霊のバプテスマとは異なり、人が自発的に受けるもので、その観点からすれば「秘跡」と言うには的外れに見える。
今日的に水のバプテスマは、変化の難しい宗教信条の転換を自ら意識する効果に意義があるからである。

実に、人間の陥っている問題の全体は、創造者から離れ、当て所もない放浪者であることに原因しており、神の方からキリストという手が差し伸べられたのであるので、まずキリストを受け入れるよう心を整える必要がある。

更には、「ヨハネのバプテスマ」がユダヤ人の倫理的状況を自覚させる助けであったことから推して「イエスの水のバプテスマ」は、「新しい契約」の当事者に含まれない(聖徒でなく信徒である)我々のような『異邦人』であっても、自らの「罪」(原罪)ある状態を正直に認め、自分の義に固執することを止め、すべてをキリストに委ねるということが浮かび上がってこないだろうか?これこそが、キリストへの信仰であろう。


誰であれ、「人の正義」に固執している限りは、「神の義」にも服せず、キリストに真に従うことはできないであろう。(ヘブル3:7)

人類全体に「倫理的欠陥」という「罪」は残っており、それがこの世に満ちて人類を苦しめているのは明らかなことである。
まさに、すべての人には普遍的な「罪」を悔いる必要が残されており、虚心坦懐に自問すれば、我々の世界は不義から逃れることができないことがはっきりと見えているはずである。

では、我々は罪を認め「自分の義」を立てることを断念し「打砕かれた霊」をもってメシアを迎えるだろうか?


バプテスマそのものは儀式であって、それが罪を洗い流しはしない。救いを確約するものでもけっしてない。
むしろ人は皆が裁きを受けることになるのであるから、バプテスマを神の是認に入った証しと観るのは安直というほかない。
むしろ、それは自らに在る「罪」を認め(ローマ7:15-17)、イエスを罪を取り去るキリストとして受け入れ一途に従う姿勢を表すことである。

つまりバプテスマとは、自分の義を立てることを止め、まったく神とキリストに服する決意の表明であろう。そうして神に対して整えられた人となるのである。

だが、将来の水のバプテスマについては、もうひとつ加えるべき要素があることをキリストが語られている。


-◆神と子と聖霊の名によるバプテスマ----------------

マタイの福音の終わりに一度、地上を去るイエス自身の言葉として記されているのが、この『神と子と聖霊の名によってバプテスマを施せ』という使徒らへの下命である。(マタイ28:19)

この神、子、聖霊の三者の名が連ねられている理由が所謂「三位一体」の証しというのは、余りに事を単純化して思考停止に人を陥らせるものであろう。

この三者に対して人に求められることがある。
それが即ち「信仰」である。

ユダヤ教徒は、当然に神YHWHへの信仰を求められ、加えて出エジプトからモーセにも信仰を持つようになっている。(出埃14:31)
即ち、聖書中での「信仰」とは、神だけでなく、『神が遣わした者を信仰する(ピステウオー)』ことも含んでいるのである。(ヨハネ6:29)

確かにこのイエスの言葉そのものがキリストにも信仰を持つべきを示しているが、キリスト後に神はそれまでにない『援助者』(パラクレートス)としての『聖霊』を使徒や初期の弟子らに注ぎ出し、それは彼らに奇跡の業を委ね、神に関わる知識をもたらした。

一方で、ユダヤ人の大半は遣わされたキリストを信じず、その弟子らが行う『聖霊の業』も無視して彼らを迫害したのであるから、彼らがそのバプテスマに相応しいわけもない。

そこで、弟子らによる水のバプテスマが、ディアスポラの民やサマリア人、そして異邦人に向かって開かれてゆく様が使徒言行録に見えるのである。 その水のバプテスマは聖霊のバプテスマを呼び込んだ。
聖霊のバプテスマは人間の側から行うことは出来ないが、水のバプテスマは人間の側からのアプローチであり、各人の意志によるものであった。

彼らが決意して水のバプテスマに臨み、聖霊のバプテスマに対して整えられたが、その決意の動機はメシア信仰であり、そうでなくてはならなかった。 


そして、地上を去るイエスはこの『神、子、聖霊の名によってバプテスマを施せ』と云われたのである。
これにはそれまでキリストが地上で施していた『イエスの名による水のバプテスマ』を超えるニュアンスがある。

その信仰の対象が、第一にイスラエルの聖なる神であり、その御子にして遣わされたキリスト・イエスであり、イエス後のあのペンテコステ以降は、そこに新たに遣わされた『聖霊』を含むべきであったのである。

従って、今日地上のどこにも『聖霊』が見られないからといって、この三者への信仰無くして水のバプテスマを受ける理由は無い。 『聖霊』だけでなくキリスト自身も地上を去って、今日まで『人は誰も見ない』高められた状態に入っているのである。(テモテ第一6:16/1:17)


そこで今日も、水のバプテスマを受けようとする者にこの三者への信仰が求められることは変わらない。むしろ、神は新たな預言を伝えず、キリストも去っており、聖霊の働きをも見ない今日ほど信仰の求められることもないであろう。

だが、そうであればこそ、その信仰は神とキリストの御前にも貴重と見做されることであろう。
イエスは終末の臨在についてこう言われている。
『しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか』(ルカ18:8)


そして将来に、キリストがこの世に『臨御』(パルーシア)するときに、再び地上に『聖霊』が臨み、ある弟子らを通して『この世』は糾弾を受けることになろう。(マタイ10:17-20/ルカ21:12-15)

その「終末」において大いなる活躍を果たすのは『聖霊』であり、それが示す『神の証し』を信じるか否かを通して世は裁かれるのである。(ヨハネ16:8)
 

従って、今日バプテスマを受ける者には、そのように『神が語られるときに、心を頑なにしない』理由があり、水のバプテスマが救いを確約しないとしても、心を整えるか否かに於いて、裁きの行方を左右するものとなり得るに違いない。(ヘブル4:7-10)




-◆バプテスマは人間や組織への従属ではない----------------

したがって、キリストの水によるバプテスマが、地上の何れかの宗派に従うことの決意表明となるなら、まったく的外れな意味になってしまう

それは、一向に神の義に対して心を柔らかにせず、却って人間の義に凝り固まろうとすることであろう。
特に宗派がそれぞれに他の宗派を敵にして正義感を抱くなら、その証拠は如実ではないか?

人は正しい宗派を捜し、そこに所属することで自らの「正統・正当」を得ようとするものなのだが、いったい人間のもので神の前に「真正さ」を主張できるものなど存在するのだろうか? ⇒「ヨブ記の結論」

律法契約下のイスラエル民族は、「契約関係」のゆえに、確かにある時期に正しく「神の民」であった。
しかし、そこには「契約の証しの箱」が存在し、奇跡のシェキーナー(臨御)の光が宿ったのである。

ならば今日、これに相当する「新しい契約」の証したる「聖霊の賜物」を初代キリストの聖徒と同じように有する人々がそこにいるのだろうか?(エフェ1:14)

歴史は、「聖霊の賜物」がキリスト教徒初代の後に途絶え、イエスは王権を得る旅に出立したことを示していないだろうか。⇒今日のキリストの不在

「正統」を巡るキリスト教の宗派の争いや敵意は、そこに「聖霊」も「賜物」もない証拠であろう。

もし、自分がキリストのバプテスマを受けても教派的敵意や反目からの「休み」を得ず、却って誰かの信仰の隷属に入ってその教条などを擁護してしまっていれば、それは神に対し心を平坦にし、道をまっすぐに整えるという、バプテスマの精神の方を向いてはおらず、却って反対の方向を向いているのではないか?*(ヘブル3:7)

もちろん、自分にとってより正しいと見做せる事柄は誰にでもあるに違いない。
しかし、人間の教えや組織を絶対視し固執していると、神の義が現われるときにもそれに気付かず、神に対してさえ優越感と自己満足を抱きかねないのではないか?

それこそメシアに対してユダヤ人体制派が行ったものであり、パリサイはイエスがベツレヘムから来ていないことや、安息日に奇跡を行ったからという表面的で簡単な理由をもってキリストを退けたが、それは自分の義を放棄するというバプテスマの精神からすればまったく正反対である。

イエスは自ら行った奇跡を「父の業」と呼び、人々はそこに神に任命されたメシアを見るべきだったのだ。
そして信じたならば、「自分の義」を去ってバプテスマを受けるべきであった。

ゆえに、真に優れた案内者は自分も罪あることを認め、信仰する者の人格を無視して「自分の正義」を押し付けたりはせず、むしろバプテスマを通して「神の義」へとその人の心を平坦にするよう導くべきではないか。

バプテスマは信仰の自立であって、神と自分の間に世話役を入れることではない。

むしろ(宦官を導いた宣明者フィリッポスのように)案内者の仕事が終了したなら、バプテスマを受けた者からある意味で「離れ」、真のキリスト教が地上の誰の元にもなく、ただ天のキリストのもとに保たれていることを知らせるべきではないか。(使徒8:39/マタイ23:8-10)

それゆえ、人が何であれ神の企図を受け入れる心構えがあるなら、それをどんな人間でも組織でもなく、真の正義をもつ神にこそ捧げるべきであろう。

さて、マタイ福音書の最後で、キリストは『神と子と聖霊の名による』バプテスマを使徒らに命じた。
そこでは信仰の対象となる三者が宣言されるかのようである。どの名に対する信仰も欠くことはできないし、『神から遣わされた』のではない何者かを介在させるべきでもない。


バプテスマは、ペテロの言うように「清い良心を神に対して願い求めることで」あって、天の意図に対して「心を柔らかにする」よう心を定めることである。(ローマ2:5/ペテロ第一3:21)

水のバプテスマを受ける際に求められる事は、人間の業や義を頼ることから離れることであろう。
紅海を渡ったイスラエル民族は、海水を分かつ神の力にまったく頼っているべきであったが、これがバプテスマに相当するとパウロは言った。(コリント第一10:1-)

そして、バプテスマを受けた人は我を張ることがなくなり、敢えて悪行を為すことからは離れるので、下劣の道からは救われるのである、とはペテロの言うところであるが、バプテスマを受けて後、教祖や教団の言うなりになって、言わば我を張り、醜聞となるような悪行を為すなら、そのバプテスマとは誰の名に対するであったのだろう。(ペテロ第一3章)

つまりは、「罪」を認めて自らを全能の神に自らを委ねる過程で、他の人間、つまり「罪」があり間違いを犯す者に横取りされているのである。


そして、教えられる側も「先生や教団の言う通り」というような姿勢でいるなら、人間に対する従順は見せても、個人としての神に対する無頓着さは覆い隠しようが無い。その人の受けた水のバプテスマには何の意味も残らない。

そのバプテスマが神に誠実な関心を抱くことか?あるいは自分が「救われる」ならそれで充分か?

もし水のバプテスマを受けるのなら、人や教団に自分を献身したり差し出したりすることでなく、信仰するはその本人であるゆえ、直にキリストと向き合うつもりで、人としての尊厳を保っていただきたく思える。

水のバプテスマが、様々な人間の義を捨て、神と結びつこうとする意志の表明であれば、何者であろうと人の奴隷となっては逆の意志表明となってしまうではないか。

水のバプテスマには、かつてヨルダン川でバプテストのヨハネの指し示した精神が今以て共通しているであろう。
即ち『主の御前に、その道筋を直くする』という各個人に問われる精神である。




              林 義平   jst

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 『使者』と『契約の使者』による水のバプテスマ


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バプテスマ

人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか


果たして、これほど人々を仲たがいさせるものが他にあるだろうか?

政治と宗教、このふたつが何故これほどまでに世界を争わせるかと、人は歴史上しばしば問いかけてきた。

ジョン・ロックはこの問題から始まって「人間悟性論」を著したという。
つまり、何が正しいのかについての人間の認識が一致しないからである。

例えば、神というものを考えるときに、人間は生まれながらに神を認識できるのかが問われた。
その考察の果ての結果は「否」とでた。
人は生まれながらには神認識で一致できないのである。

また、その後にエマヌエル・カントが、絶対の存在を人間理性で捉えうるかについて、四つのアンチノミー(二律背反)を用いて、それが不可能であることの証明を行った。

彼は、我々と絶対的存在の間で理性は宙吊りになり立ちすくむと言って、人間の最高の能力である理性判断を用いてさえ、絶対的存在(神)に到達することはないとした。

これを記した「純粋理性批判」はキリスト教ヨーロッパに衝撃を与える。

この結論の回避に向けて様々な試みがなされたが、幾らか長い目で見ると、カントの結論はキリスト教の攻撃に向かってしまったようである。

所謂、ヘーゲル左派とキリスト教を内部から崩壊させるための「高等批評」の人間主義の進展、さらに続くマルクス以降の全宗教を否定した思想に向かう系譜である。これに西欧での1830-60年代に於ける急激な技術の進歩が重なり、人間能力の賛美は無神論を装飾してゆく。


しかし、神と人との間に隔てる越えることのできない深い渓谷が存在し、両者に断絶があるということに慌てふためく必要はない。

聖書そのものが、神と人に断絶があると繰り返し述べるからである。

神と人を隔てるものを聖書は「罪」(ハッタートorハマルティア)としている。
これは、我々が時折犯す個々の過ちや不法行為を意味するわけではない。
むしろ、人類の内にあって自分たちではどうにもならない道徳不全症候群、「倫理上の欠陥」を指している。


では、我々人類は「倫理上の欠陥」をもっているのだろうか?
人は助け合うことができ、社会は愛によって支えられているのではないか?
善意は我々の周囲にごく自然にみられ、その恩恵によって生きているのではないか?

この疑問への解答を最も鮮明にしているのは、実に「政治」というものの存在である。

政治の本質的構成要素が何であるかを考えてみよう。

政治は人々を支配するひとつの方法であり、互いの間に秩序をもたらす為の取り決めである。
我々は政治を行う政府を必要としており、これがなければ危険な無法の中に投げ込まれることになってしまう。

いったい何が「危険」なのか?
他の人間ではないか?

我々は常々、様々な願望を抱いて生きているが、その想い描く願望の中には他人の権利を侵害するものがあるのではないか?いや、むしろ、そのような欲望の方が多い、それを貪欲というべきか。

したがって人間は(特に)他人同士の関係においては、保護の壁を必要としているのである。
それは「法」(便宜的正義)を定め、それを実施する「権力」(公認の強制力)を必要とする。それがなければ、我々は互いの危険のためにひと時さえ安心しては過ごせないことになろう。

たとえ政府が存在し、施行される法が如何に優れ、人に多くの益をもたらすように案出されていても、人々を服従させてそれに違反する者への報復力が伴わなければ、あるいは十分な実施力がなければ政治は為されていないことになり、これは無政府状態と呼ばれている。警察のストを想像するに我々は戦慄を覚えないだろうか。

従って、政治を政治たらしめるものは法を施行する「強制力」に他ならない。
我々はその力を、被支配民に向けた内側へのものを「警察力」と呼び、外側に向けたものを「軍事力」と呼んでおり、どちらも有無を言わさぬ暴力をその強制の原資としている。

そうなると、我々人間は相互の間に暴力を介在させていることにならないだろうか?
つまり、我々は互いに対して「危険」なのである。


では、なぜ危険なのか?
すなわち、倫理上に欠陥を抱えているからではないのか?

我々が倫理的に完全の域に達していたとする、そうすればどれほど警察や軍隊の必要があろう。
あるいは逆に、倫理的に完全な人の間で暴力を振ったり脅かしたりすれば、それは単なる狼藉であり、そうする者こそ倫理上破綻している。

しかし現状の人間は、暴力無くして公共の秩序を保ち得ない。
他者を助ける能力がないわけではない。善意をも表すこともできるのにも関わらず、監視カメラはすべての人を捉えているのである。
何故か?

この質問に示唆を与えるのにフランス革命を前にしたモルリイの著述がある。
彼は言う、人間には貪欲という悪徳があるとして・・

「この世における唯一の悪徳は「貪欲」である。他のあらゆる悪徳はどんな名で呼ばれていようとも、すべて貪欲の和声であり、音階であるにすぎない。・(略)・虚栄、うぬぼれ、傲慢、野望、うそつき、偽善、非人情などを分析してごらんなさい。・(略)・その一切のものは精巧だが危険きわまる要素たる所有欲に帰一するのである。」と指摘した。(
M.Morelly “Code de La Nature”「自然の法典」1755大岩誠訳p26

しかし、この問題は近世に限らず、ギリシアの哲人を悩ませ、ガウタマ・シッダールタが考慮の中心においたものであり、人類は有史以来この問題と格闘してきたであろう。

政府は人々の際限の無い欲望の衝突を避けさせるために通貨を流通させ、本人の遂げられる欲望の範囲を規定する。それは一見公正のようでいてけっしてそうではないが、ともあれそれに従う以外にはない。交換社会に関わらなければ人間らしい生活水準は保てない。
これが、欲望への配分であるが、大半の人々は満足してはいないだろう。人類が通貨の交換に満足していれば、金銭がらみの犯罪は無く、使徒パウロも「金銭はあらゆる悪の根だ」とは言わなかったであろう。

しかし、政府の権力が通貨を介した売買を保証しなければ、人々は買い物ひとつできず、生存も脅かされかねないだろう。しかし、金銭そのものは人間だけが認識する仮想のものであり、政府が保証して初めて意味を成すものに過ぎず、人間の倫理問題そのものを孕んでいる。それは自然界からすれば、極めて異様な抽象物なのである。

だが、人と人が生きようとするときに金銭は欠くことができない。
人は一人では人らしく生きられないからである。いや、金銭や財が無ければ、人は生存さえ危ぶまれるのが「この世」というものではないか。

そして売買とは何か?
それは交換取引であり、報酬なしには互いのために働かぬという礎の上に築かれた互酬制度である。

それがなければ、人間社会では互いの貪欲の危険に曝されてしまうのである。
ヤコブはその書簡の第四章で争いの原因を端的に指摘する。
「あなたがたの争いや戦いはどこからくるのか。それはあなたがたの肢体の中から挑発する欲望ではないのか」「あなたがたは間違った仕方で求めるので得られない」それゆえ「争いを続け、戦い続ける」というのである。(ヤコブ4:1-3)

これが人間というものの実状ではないのか?
我々は互いの貪欲(罪の発現)を牽制するために、個人に勝る力、権力を必要としている。
それでも人が争いを続けているのは、政治というものが、人間の貪欲を調整するのに不十分であるからではないか?
つまり、政治とは人間の貪欲に対処するための応急処置また対症療法である。

秩序のために有無を言わさぬ暴力を必要とする人間とは、何者であろう。
やはり、人間は倫理上の欠陥である「罪」(原罪)を持っていると言えるのではないか?
我らはこの「罪」から逃れない限り、いつまでも争い続けるであろう。

そして、創造の神。その業が完全であるといわれる存在者が、初めから人間をこのように作ったとすれば、我々はそのような神を心底崇め捧ることができるだろうか?
人々はむしろ、神が居るのなら、なぜ世界にこれほど害悪があるのか、と問うのではないか?

もちろん、創造の神はこのような人間を創造のはじめの企図に沿うものとはみていない、とても神自らの「象り」であるなどと認められないに違いない。

それゆえ現在の人間は、誰も神の創造物たる「神の子」の立場をすら得ていないのである。


モーセの律法の祭儀は、人間と神の大いなる隔たりを「血」の犠牲の必要なもの、また、罪の内在する人間が神の栄光を見れば死に至ることを何度も示している。これはとても「親子」の関係とは思えない。

カントが人間理性では神を見出すことができないとしたように、我々は神についての情報を我々自身からは知り得ず、上から啓示される以外に探りようはないのである。
それらの情報とは、神に関する知識のみならず、自分は何者で、何ゆえ生き、またどこに行くのかというような、人の事象の彼岸にある創造への問い、人間自らは探すことのできない答えの正解をも含む。

それゆえ、神との断絶のゆえに、人間は神を求めるに当たって宗教を必要とし、上からの情報を求めるのである。
もちろん、事象の彼岸にある形而上の問題を扱うこの分野では、理性的判断を用いられず自然科学の客観的検証方法は通用しなくなる。そこで偽者の入り込む余地は大いにあり、実際、宗教界ではどうやらそのようである。

もちろん政治に同じく、人間の行う限り如何なる「宗教」も客観的な実証を伴う答えを持ち得ない。
にも関わらず、宗教家の多くは自派の正義を唱えるが、これは相克の源であるばかりか、神だけにあるものを自らにあるとする越権を犯しているであろう。

そして相争う宗教には、却って唱えるような「正義」がないことが、その争いや敵意の存在によって証明されることにはならないだろうか?
逆に言えば、正義も倫理も無いから争うのである。


ゆえに政治と宗教には人間の罪(原罪)が刻印されている
すなわち、倫理的欠陥があり、そこに上なる者との断絶があり、これが政治と宗教を存立させている。例えそれらの応急処置が在ってさえ、人に「罪」ある限りこれらの正義の無い不完全で闘争を招く分裂支配から人類はけっして逃れられないであろう。利己的欲の有るところでは分裂が必ず起こる。

したがって、いずれの政治や宗教であれ、それらは上手くつきあってゆかねばならない人間の必要悪であって、共に「ベター」を求める「罪」への不完全な「緊急手当」のようなものであり、それに気づく者にとっては政治も宗教も自分の身も心も捧げつくすには値しないものとなろう。

やはり『罪』は致死的なものであることには変わりない。
まして人間製の政治と宗教は不確実な偶像のようなものに過ぎず、人に真の解決を何らもたらさず、崇め奉るべきものでもない。不義にして死すべき肉なる人間に元々真理も正義も無いのである。それこそが「罪」の存在証拠であろう。

聖書は、人の「罪」のはじまりを創造者からの離脱にあるとする。
事の始まりにおいて倫理の基礎を破壊していたのであり、人類の創造者への無頓着が自己存在理由を足蹴にし、それが一切の倫理の土台を損なっているのである。

世のおおよその人には、「罪」が人類にあまねく見られるので、人間の不倫理性は当然の事と思われているだろうが、聖書は「罪」がアダムからのものであることを明かしてこう述べる。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』(ローマ5:12)

アダムからの「罪」の遺伝のような連なりを認めるか否かに関わり無く、明らかに我々は互いとどう生きてゆくかを弁えているとは言い難い。それはこの世を一瞥するだけで事足りる。

しかし、創造の神は、人間を創造物として本来意図した状態に引き上げ「神の子」の立場に引き上げるために「任命した」(「キリスト」の意)仲介者とその手立て「神の王国」を設けたことが聖書から知れるが、人間の創造者が関わるこの「贖罪」こそは「罪」の根本治療となり得よう。

人間はどんなに優れた倫理教育を受けようとも、誰も根本から倫理上の欠陥を修復することなどできるわけも無い。それは、まさに汚れた者が汚れた者にその汚れた手を差し伸べるようなもので、自分自身が欠陥者だから誰も浄められないのである。

上の領域からの「贖罪」という根本治療がキリストの血の犠牲を介するという以外に具体的にどうなされるかと知る者は居ない。だが、神の王国の果てには、人類を傷つけてきた政治と宗教を最終的にまったくの無に帰さしめることは聖書の知らせるところである。

倫理を回復した人類には、政治も宗教も似つかわしくもない不要物となる。それを成し遂げる「贖罪」は上から差し伸べられる清い手の「救い」であり、創造者たる神YHWH*の経綸、至上の手段である。*(発音不明の神の御名⇒シェム ハ メフォラーシュ

それは、シュメール時代の人物アブラハムからだけでも四千年に亘って進められてきた悠久の神の歩みであり、それを留め得る者は誰もいない。今日それを証しするのが、創造の神の人類救済の歩みを記した「聖なる書」である。



 ⇒ キリスト教を価値の高みに昇らせた「愛の掟」

 
                             新十四日派      © 林 義平
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上記内容は拙著「神YHWHの経綸」下巻の一部を要約し書き改めた。














政治と宗教.

「聖徒」 聖霊が指し示す者たち



◆「諸国民の光」となる「聖なる民」

聖書中に度々現れる「聖徒」(「聖なる者」)とは何だろうか? それは「信徒」を表すもうひとつの名に過ぎないのではないか?

では、「信じる者」(ピストス)と「聖なる者」(ハギオス)を書き分ける理由が何かあったろうか? 旧約では、イスラエル=ユダヤの民はその神に倣い「聖なる者」であるよう求められた。律法の条項を守ることにより、彼らは「聖なる者」とされるはずであった。(出埃19:1-)

イスラエル民族は、アブラハムに約束された格別な民である。 聖書では早くも創世記からこれが示されており、神はアブラハムに『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』と語られていたのである。(創世記22:18)

また、後にはモーセによって示された『祭司の王国、聖なる国民』、更にイザヤの預言した『諸国民の光』となるべき選民であった。(出埃19:5-6/イザヤ42:6)

しかし、イスラエル民族は神の前に、その律法を踏み外すばかりでなく、捕囚を解かれてなお、遂にはメシア=キリストを刑死にまで追い込んだのである。 では、『聖なる民』出現の希望は一度は選ばれたはずの民族の不行跡によって全く潰えてしまったのだろうか?(エレミヤ11:10/マタイ21:43)

もしそうなら、神の全能性、その「成し遂げる」という宣言もアブラハムへの約束も空しいものとなったであろう。 だが、聖書が旧約から新約へと進むに従い、神の全能性は『聖なる民』を出現させるに於いて、イスラエルの無能さをも補って余りあるものとなった。

というのも、律法不履行の罪あるイスラエルに対し、神はバプテストを遣わしてこの民に『悔い改め』を宣布させ、次いで遣わされたメシア、ナザレのイエスの死は、その尊い犠牲のゆえにこそ、地上に残った弟子らを仮贖罪し、遂に『約束の聖霊』を以って遂に『アブラハムの裔』、キリストの『兄弟』たる『神の子』を出現せしめたのである。(ヘブライ2:11/コロサイ1:12/ローマ8:14)

この件については、ローマ人書簡の第八章が、彼ら『聖なる者ら』の立場が如何に高いかを知らしめるものとなっている。またペテロ第一書簡も、モーセの律法契約が成し遂げるに至らなかった目的がキリストによって達成されたことを証しするものとなっている。

しかし、メシアの到来にあってさえもイスラエルの体制は、奇跡を行う人ナザレのイエスを退けるまでの不信仰を露わにしたため、結果的に『聖なる民』はユダヤ人以外から補充され、アブラハムの血統に属さなくても、アブラハムらしい特質であるその信仰に倣う者らが、そのメシア信仰のゆえにこそ選民とされ、その子孫に連なった。パウロはこれを『接木』に例えてもいる。(ペテロ第一2:10/ローマ11章)

だが、神の承認のないままに異邦人の誰でもが、自分の意のままにアブラハムの子孫たる『諸国民の光』、『聖なる者』に成ることが出来ただろうか? 多くのキリスト教徒は信仰ある自分たちが皆『世の光』であると考え、聖霊を受けてキリストが自分の中に住まうと考えている。

もし、キリスト教徒がそのようなものなら、『聖なる者』には客観的印無く、人目に曖昧なものとなり、「聖徒」であれ「信徒」であれ、どちらでもよいようにされるに違いなく、実際、現状のキリスト教界ではそのようである。

しかし、使徒言行録以降の新約の内容は『聖なる者』が何を意味し、どう選ばれたかが繰り返し記されている。 また、最後の晩餐の夜のキリストの使徒らへの言葉には、自身の去った後の聖霊の働きと彼らの関わりが説かれている。それらの言葉はヨハネ福音書の第13章以降の五つの章にわたって記されるところであり、聖霊が如何に多くの役割を担っているかが明かされている。 この「聖なる者」についての理解は、キリストの言葉と相まって、「アブラハムへの約束」という旧約からの流れの中で知ることのできるものであり、神の長い時代に亘る計画(経綸)に深く関わるものである。

結論から言えば、「聖なる者」らこそが創世記でアブラハムの子孫にもたらされると約束された格別な役割、即ち「地上のすべての家族が自らを祝福する」ための器となる者たちなのである。(創世記18:18/22:18) 神は特別な民を『子羊の血』で買い取り、その所有に帰する特別な民を用いて人類の全体を祝福に入らせようと意図された。それをエデンの園以来、悠久の時に亘り、その実現に向けて歩みを進めて来られたのであり、実に聖書はその神の足跡の記録証拠となっている。

そして、キリストの犠牲により『アブラハムの裔』は、あのペンテコステの日に史上初めて生み出され始めたのであった。(ペテロ第一3:6/エフェソス1:13-14) それは単に、キリストが自分の中に住まい、信者に幸福をもたらすというような「ご利益信仰」、どこにでもあるような凡庸な宗教とはこの点に於いてはっきりと異なっている。それはキリスト的利他心と、御利益を望む利己心程にかけ離れたものではないか。(コリント第二5:15)

即ち、エデンで失われた人類への創造者からの祝福を、生者にも死者にも回復させるための神の用いる真実のアブラハムの子孫である民『神のイスラエル』とは、水と霊によって生み出される者らでなくてはならない。即ちペテロが指摘するように「正妻サラの子ら」である。(ヨハネ3:5/ガラテア4:21-/ペテロ第一3:6)

彼ら「聖なる者」こそが、そのアブラハムへの約束に預かって、世界にキリストと共に人類支配と贖罪をもたらし、今日まで見られる世の「罪」と苦難を終わらせるための「王また祭司たち」である。つまり、「王」は支配を、「祭司」は人類の罪を除き去る贖罪の奉仕を意味しており、それを成し遂げるのが『神の王国』、真実の選民イスラエルである。(黙示録20:6)

今日まで、人類はこの「神の選民イスラエル」から益を受ける前段階にあり、特に誰かが優れて神の是認を受けているわけではない。つまり『イスラエル』の民は未だ天に集められず、『神の王国』も地に到来していないからに他ならない。その召集も到来も、なお不定の将来であることをキリストは語られている。(マタイ24:36/使徒1:7)

その民を構成する『聖なる者』、すなわち『聖徒』とは全人類を益するための器として用いられる人々を表すのであって、主に倣う聖徒には、その高い立場のゆえ、また神との『新しい契約』を守るための、生涯に亘る忠節の実証と、殉教をも辞さないキリストに続く自己犠牲の覚悟が求められるのである。(マタイ10:17-18.32-42) では、すべてのキリストの弟子がそのようにされたのだろうか。


◆天でキリストと共になる民

まず、いくつかの聖書の言葉をみてみよう。 『聖なる者』とは古代にモーセに啓示され、それを使徒ペテロがキリストの信徒の中の人々に適用し、誰であるかを指し示した特定のキリスト教徒たちのことである。 モーセを介して、神はイスラエルに差し伸べられた希望をこう伝える。 『あなたがたが本当に契約を守るなら、あなたがたはわたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる』(出埃19:6)

即ち、『祭司の王国、聖なる国民となる』ことが律法契約の行き着く先であった。 しかし、血統上のイスラエルがメシアを退け、まったく神の契約から外されたことは、西暦七十年の滅びと再建されることの無い神殿の有様に象徴される通りである。

それでも、ペテロは当時のキリスト教徒に向かってこう云っている。 『あなたがたは「選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の特別な所有に帰する民』・・(ペテロ第一2:9) ここにモーセの律法契約の目標である『諸国民の光』となる民が、血統によらない人々、『新しい契約』に属するキリスト後の弟子らの中に現れたことを知ることができる。

更に、彼らが神の所有となるために、最終的に天に召されることを以下の句が明かしている。

「彼(キリスト)が現されるときに、わたしたちも彼のようになり、彼をあるがままに見ることになるのを知っている」(ヨハネ第一3:2)

「わたしたちは彼(キリスト)の復活と似た様で彼と結ばれる」(ローマ6:5)

「わたしたちは塵で作られた様であったように、天のものである様になる」(コリント第一15:49)

「神はあらかじめ、最初に是認した者らをみ子の象りのものとするように定めておられた」(ローマ8:29)

「聖なる兄弟たち、天の召しに預かる人たちよ」(ヘブライ3:1)

「あなた方は近付いた、シオンの山、生ける神の都市なる天のエルサレム、幾万もの天使たち、・・天に登録された初子たちの集まり・・に」(ヘブライ12:22-)

「ダヴィデの家はYHWH*の前の天使のようになる」*<発音不明の神名>(ゼカリヤ12:8)

これらの聖句は、その人々が肉体を離れキリストと同じ様、つまり霊の体をまとってキリストと共になることを述べている。 キリスト教徒が、これを信者のすべてについてこのように霊者となる所謂「天国」を思い描いたとしても無理はなかったのかもしれない。

だが、すべての信徒に関してこれらが適用されて、信仰を抱いた人は皆、安楽な天に集めるのが神の企図なのだろうか。

もし、そうなら、何故に創造の神は地上に人を置いて『甚だ佳かりき』と言い得たのか。 しかも、そのキリスト教の天国への「救い」たるや、信者だけを益する閉鎖的で狭量なものとしてしまい、キリストの教えは信じる者に利己心を培わせるご利益信仰にしかならない。

信者だけの救いは、キリスト教とは神がアブラハムを通して人類全体に与えようとする祝福を独占しようとする貪欲でもあろうし、神を狭量だと宣していることにもなってしまう。そのうえ、キリスト・イエスの示した見事な自己犠牲の精神は「クリスチャン」方のために限定されてしまい、利他心は利己心に捻じ曲げられている。そこにどのようにキリストが感化を与えているのだろうか?


◆アブラハムの子孫である民

もちろん、このように天でキリストと共にされる人々にはそれなりの目的があり務めがあり、それはキリスト教徒の間で信じられている所謂、死後の「天国の至福」という終着段階ではない。
神がキリストの犠牲を以って特定の人々を地上から買い取ったからには、やはり特定の目的あってのことである。(使徒20:28)
即ち、キリストや使徒らの宣教活動は、単に信者を集めていたのではなく、『アブラハムの裔』をキリストの許へと一つに集め出していたのである。彼らこそが『神の王国』を構成し、全人類の祝福をもたらすためであったのだ。

天に行く者たちは、そこでキリストと共にどんな人にも出来ることのない壮大な業に取り掛かるのであり、それは結論から言えば地上に残る人類の罪を除く、即ち「贖罪」であり、また、その間の地上の支配という神と人への壮大な奉仕である。そこに個人の救いや安楽がどうのというのは、まるで場違いである。(ローマ6:3-5)

それゆえ、天に行く者たちは「贖罪」を行う「祭司」の職を、また支配を行う「王」の身分を受けることになる。まさしくモーセと後代のパウロが『あなたがたは王なる祭司、聖なる国民』と契約に入る者らに語ったことは、この神の人類救済を成し遂げる器が『聖なる者ら』であることを示しているのである。 すべての者が祭司や王でないように、その職を授かるのは特定の「聖霊」を地上で注がれ『新しい契約』に入った者らだけとなる。

黙示録20章6節はこう言っている。 『第一の復活に預かる者は幸いな者であり、聖なる者である。・・彼らは神とキリストの祭司となり千年の間キリストと共に王となって支配する』。

この辺りが理解されないと、キリスト教の目的がはっきりとせず、「聖なる者」についてばかりでなく、キリストが多くの例えを用いて語った「神の王国」や「聖霊」に関することも曖昧になってしまう。

今日多くのキリスト教宗派においては、信じれば「聖霊」を受け、自分の中にキリストが宿るようになると教えられている。それがその人を導くというだけのことであれば、創造の神が被造物のすべてをひとつに集め、創造された通りの輝かしい様に回復されるという、聖書に流れる偉大な意志には無頓着になるであろう。つまり、自分と身近な者が救われることを願うからである。(エフェソス1:10)

こうした「ご利益信仰」がキリスト教の「正統」を名乗っている現実は真に嘆かわしいことである。 例えれば、使徒2章38節の『バプテスマを受ければ無償で聖霊を受ける』などの言葉を前後事情も考慮無く、そのまま字面を教えられるようなこともあるのだろう。

しかし、そこでは何故、聖霊を受けたのかの理解が聖書全体を貫流する重要な問題と幾らも関連されない。 ペテロがペンテコステの日に、神との契約にあるユダヤ人に述べた言葉が、どうして自分に向けて語られているなどと捉えてよいだろうか?
彼はこれを語った人々について『 あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である』と言っているのである。

彼らイスラエルの民に約束されたメシアは今や現れていたのであり、この契約の民に属する者らが悔い改めて「新しい契約」へと転向することを、水のバプテスマで示すことにより、『主のみ前から慰め(回復)の時がきて、あなたがたのために予め定められたキリスト・イエスを、神が(聖霊を通して)遣わして下さる』とペテロは云うのである。

 この使徒筆頭が率先して語った宣告は、そこに集まってきたユダヤ人という神の契約に預かる立場の人々に言い広めたのであり、それはイエスという方こそが待望のメシアであったことを告げ知らせ、この方を退けてしまったユダヤ人一般の罪を悔い、そこから転向してイエスの水のバプテスマを受けることによって、聖霊によってメシアが彼らに遣わされることを指して言っていたのである。

であるから、弟子らだけに授けられ、『世が受けることができず、真理の全体を教える』と約束された聖霊が、単に個人の中でキリストを住み込みのコンパニオンのようにする為にあると云うのであれば、それは何と神らしくない少女趣味、また矮小さであろう。
いや、むしろ単なるキリストの内在を遥かに超える意味が「約束の聖霊」にあることは見過ごされるべきではないに違いない。(使徒2:32/ヨハネ14:26)

古来イスラエルにおいて、実際に香油を注がれる事が役職への「任命を受ける」を意味したように、後のキリスト以降の時代では、聖霊を以って油注がれる事、つまりより高次の「聖霊の注ぎ」はキリストと共になる王また祭司の一員としての「任命」を受けることを意味した。(レヴィ16:32/コリント第二5:5)

イスラエルの民にあっても、そのすべてが祭司ではなかったのであり、民のほとんどは、常に祭司たちから贖罪の儀式を受ける必要があったのである。 後のキリスト教徒たちの中にあっても、「聖なる者」あるいは「聖徒」(ハギオス)と呼ばれる者たちは、キリストと同じ体(霊体)をまとうことを象徴するパンを食して永生に入ることを表し、また人類に先立って「罪」(原罪)を許される象徴として聖餐のぶどう酒を飲み、キリストに近い者となって「新しい契約」に参与する限られた人数の人々である。(民数記3:12.13/ローマ8:23)

ゆえに、キリストの肉と血に預かることが、どれほどアブラハムへの約束を相続することになるかが如何にも明らかである。  これを諸教会では、誰にでも与えようとするところで、ぶどう酒が当然アルコールを含むので、幼児やアルコール中毒の信者に供することが憚られ、ぶどうジュースに入れ替えたり、果てはぶどう酒を省略する「一種陪餐」という不条理の横行をキリスト教界は赦してきたのであり、それが正統を唱える教会の実態となってきた。

しかし、この「聖霊の賜物」が、それ以前に働いたあらゆる聖霊よりも高い次元にあることは、キリストが犠牲の死を遂げる前には、『まだ、霊はなく、それはキリストが栄光を受ける前だったからである』とヨハネ福音書に語られているように、それまでには存在していなかったような格別な「霊」の在り方であったのだ。(ヨハネ7:39)

「聖霊の賜物」はそれを有する者に、恰もキリストのような業の一端に預からせ、同時にそれが彼らの身分を証しするものとなった。(エフェソス1:13-14) それはまた、キリストの犠牲によって初めて彼らが神の前に贖われ、罪の無い状態にあると「看做されて」下賜されたものであって、イエス自身も云われた『世が受けることのできないもの』という言葉にもその異例さが表されている。(ヨハネ7:39/ローマ8:1/ヨハネ14:16-17)


◆選びの実証

もちろん、超自然の賜物の下賜は人間のエントリーできるところではない。それゆえにも、聖徒への招命は間違いのない明確な印を伴い、他人に分からないような心理作用でもなく、公に明示されるものであって、けっして個人の内密に属する事柄ではなかったのである。パウロは聖霊の賜物の現れを『霊の顕現(ファネローシス)』と呼んでいる。それは即ち、誰にでも分かる明瞭なものであった。(コリント第一12:7)

もし、この賜物の有無が曖昧なものであれば、その貴重さも価値も危ういものとなるばかりか、偽者の横行を妨ぎ得ない。 それゆえ、人からではなく、神から任命された証拠を持つ人々こそが、アブラハムの子孫、真のイスラエルであり、モーセの契約の先に示された「王なる祭司」の「聖なる国民」であった。(出エジプト19:6)

パウロが時折「我々は王として治める」と述べる背景はこれである。それは、けっして信者の中の種類というような単純な違いではない。彼らの立場は格別な高次のもの、つまりキリストと共になる『兄弟』また『花嫁』である。 それゆえ、彼らも主と共に神を父として『アッバ』と呼びかけることができるのである。(コリント第一4:8/テモテ第二2:12・ローマ8:15-16)

本来は血統上のイスラエル民族に、メシア=キリストと共に諸国を治める「王なる祭司」の一員となる機会が開かれていたが、それは遠く古代のアブラハムに神が約束した民族の特権であったから「アブラハムの相続財産」とも呼ばれた。(ここに選民思想の根拠があった) 実にキリストの宣教の目的は、この「アブラハムの裔」を召し出すことであり、それは使徒をはじめとする初期キリスト教徒の宣教もまたその目的を有していたのである。(ヨハネ11:52/ヘブライ2:16)

しかし、イスラエル=ユダヤは民族全体としては現れたイエスを退け、ユダヤ人の中でイエスをキリストと見做したのは幾らかの「残りの」人々だけであった。(ローマ9:27)
そこで、神は血統上のイスラエルだけではなく、イエスをキリストとして受け入れた信仰のゆえに真の意味で「イスラエル」と呼ぶに相応しい諸国の人々を選んで、キリストを迎えた血統上のイスラエル人に加えたのであった。(ローマ9:24-・11:17-/エフェソス3:6)

イエスはこの事を予告して、こう語っていた。 『多くの人が東から西から来ると、アブラハム、イサク、ヤコブと共に天の王国で宴席に就くが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』 (マタイ8:11-12)
こうして、血統に関わらずキリストと天で共になる真の意味でのイスラエル、即ち「神のイスラエル」に任命を受けた人々が、アブラハムの正式な子孫の民に迎えられたので、その中では、血統上のイスラエルからの者らと異邦人から選ばれた人々によって構成されるようになったのである。パウロはそれを指して『ふたつの民』と呼んでいる。(ガラテア6:15-16/エフェソス2:14-15)⇒「去ってなお弟子を指導したキリスト 「羊の囲い」の例え」

彼らの働きは、王また祭司としてキリストと共に人類を治め贖罪を行うことにあるが、血統上のイスラエル人の目的が「諸国民の光」となることであるとされてきたように、彼らこそが世界にキリストの支配をもたらして、今日まで見られる世の苦難を終わらせる「王また祭司」となる。 キリストがユダヤ人に向かって『あなたがたは世の光』と言ったのには、この背景あってのことであり、「クリスチャン」が皆「世の光」だと言えば、それは大きな間違いである。(黙示録20:4/マタイ5:14)

おおよそ聖書というものは、アブラハムの子孫について書かれ、彼らに向けて語られたものであって、そこに『あなたがた』とあるのを自分だと思うなら、それは傲慢というほかない。 我々は、神と選民である「アブラハムの子孫」との交渉の記録から、神の悠久の御意志の如何を学ぶのであり、聖書は人生の指南書でもなく、個人の救いを求めるべきものでもない。 むしろ『生きる者が、もはや自分のために生きず、死んで生き返った方のために生きる』というのが、その精神、即ち利他的に生きるべきことを教えるのが聖書であって、ご利益信仰の余地はそこにない。(コリント第二5:15)

さて、キリスト刑死の後に聖霊の油注ぎを受け(使徒2章)、任命された聖徒らではあるが、それは確定されたものではない、彼らが集め出されるのはいまなお将来のことであり、その認証がなされるのは世の終わりに際してである。(黙示録7:3) このように、任命を受けてもしばらくは試されることはイエスの「狭い戸口を通って」(ルカ13:24)や弟子らの「終わりまでしっかりと堅く保って」(ヘブ3:6)「守り通して」(黙示2:26)という言葉に言い表されているし、古代アロンと息子らが油灌ぎを受けてから七日を「見張る」ために待たされたことにも象徴されている。(レヴィ8:33)

彼らはアブラハムに示された彼の「真の子孫」であり、地上のすべての諸部族が自らを祝福することの要となる人々である。モーセによれば、彼らは神の特別な所有に帰する、神に買取られた非常に希少な民であるゆえに、特にキリストのような自己犠牲の精神が求められるのである。(ペテロ第一2:21)

では、この「聖徒」はかつてどのように出現したのかを見てゆこう。


◆聖霊は聖徒を内定する

イエスの刑死、生き返り、それから昇天して復活の後、十日を経たシャヴオート(ペンテコステ「五旬節」)の日、以前からキリストが弟子たちに語っていた助け手(パラクレートス)である聖霊がエルサレムに留まっていた弟子ら約120名に灌ぎだされた。(使徒2:1-)

こうして、バプテストのヨハネが「その方は聖霊であなたがたにバプテスマを施すであろう。」と語っていたことが最初に実現することになった。(マタイ3:11) この人々は奇跡的に外国語で神の壮大さを話し始めたが、これ以降は聖霊を授かる人々が急速に増えてゆく。その範囲はやがてユダヤ=イスラエルの血統を越えてゆくことになる。その鍵を開けたのがペテロであった。

使徒ペテロはユダヤ人に、次いでサマリア人に対して「聖なる国民、イスラエル」に加わりイスラエルを補充する道を開いた。そしてローマ人コルネリオにも聖霊を受けるよう「鍵」を解いて、その補填はまったくの異邦人にまで広げられた。また、別の時にはこの「鍵」で閉じても見せた。(マタイ16:19/使徒10:45/使徒8:21)

確かにパウロは異邦人が聖霊に与り聖徒に加えられることについて、「イスラエルの不足を補うため」であると言っている。(ローマ11:7-11) そうして、不信仰を示したイスラエルの不足を補充するために召しだされた人々は、その血統に「接木され」、その一定数を満たすためにイスラエルの父祖アブラハムの財産を受け継ぐ相続人の一員と内定したのである。(ガラテア3:29) なぜ、決定ではなく内定かといえば、彼らは試され、地上で練り浄められ、その身分を生涯の最後まで保って初めてキリストと共なる者、聖なる者(聖徒)のひとりとしての立場を得ることになるからである。(エフェソス1:14)(ルカ13:24-)

霊の灌ぎは、その人の原罪をも仮赦免するものであるが、その理由は彼らが天に召され神の前に出るために必要不可欠であり、地上にあっても主イエスのように聖霊を受けるには、神は御前に「罪」ある肉なる者を容認されない。

そこで、イエスは自らの犠牲の益を最初に弟子たちの適用し、彼らと神との「新しい契約」を仲介することで、神の御前に於ける『義』を信用貸しされた状態に招き入れたのである。 だが、地上に居る『召された者ら』にはアダムの肉体にある以上、実際には『罪』の影響を免れてはおらず、依然として倫理上完全なる『義』には到達していない。(ガラテア5:5)

彼らには契約を保つことが期待される。つまり、主なるキリストに倣い、聖霊の証しを行い、それに命をかけることであろう。(ペテロ第一5:10/黙示録12:11)  

カトリックや正教の歴史には、初期の聖なる者の痕跡が残されており、「聖人」や「聖証者」と呼ばれ、これに列せられるには、複数回の奇跡を行ったことが条件であり、その多くは殉教者であった。

現代の学者J.ダニエルーも、こうした異言などの現象が実際に起こったものと看做している。(キリスト教史1p.26) 初代の彼らの集まり「エックレシア」(召し出された人々)は、こうした聖霊の賜物を持つ特別な人々が中心となって組織され、聖霊が集会の学ぶべき内容が備えられていた。(コリント第一14:26-33)
初代エックレシア内は、ほとんどが聖徒で構成されていたが、初心者や「普通の人」など「新しい契約」に参与しない人々が居たことを幾つかの聖句が伝えている。⇒ 「エクレシア内での信徒と聖徒」

聖霊を持たない人々は、聖徒たちの聖霊の賜物の発現による預言や知識や奇蹟などの益に預かることができたが、彼らはキリストと共に霊体に復活することにはならないので、キリストの体を受け継ぐことを表象するパンと、その契約に参与することを表象するぶどう酒を取り入れることはない。(マタイ26:26-、コリント第一11:21-)

すなわち、聖霊によって灌油された証拠の明瞭でない者は信徒ではあっても聖徒とはなり得ない。それは自他共に判然としたことであった。この賜物は古代の「先見者」のような霊の憑依状態に陥らず、自らの意識をはっきりと保持し、賜物そのものを本人が制御できるものであったことをパウロははっきりと語っている。(コリント第一14:14-15.30)

あるとき、賜物である預言が出来ると偽った者が、本物の聖徒に混じると一致したことが言えずに恥をかくこともあったと「ヘルメスの牧者」などの資料が伝えられている。 こうした、偽の「聖霊」は最後の使徒ヨハネの頃にはあちこちで出回るようになっていたようだ。「霊感の表現はみな試されねばならぬ」と言って、晩年にひとり世に残された十二使徒のヨハネは偽の霊に警戒するように強く促さねばならなかったのである。(ヨハネ第一4:1)


◆聖霊が去るとき

しかし、こうした賜物も何時かは消え去ることをパウロは示唆していた。(コリント第一13:8-)そして古代の資料はこれが二世紀半ばまで存続していたことを指し示している。 ローマのクレメンスは福音書を記した人々のことを「これらの聖徒で、真に聖なる霊を受けた者たち、すなわちキリストの使徒たちは、完全に潔い生活をし、・・(中略)彼らは自分たちと共に働く神の霊と、自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇蹟を行う力だけを使って、神の王国の知識を全世界に述べ伝えた。」*と述べている。

二世紀初頭には護教家のクワドラトゥスが、まだイエスに癒された人々が生存していると述べており、彼自身も預言の霊を持っていた。 150年ころに書かれたと思われる「イザヤの昇天」はシリア方面から預言者が見られなくなったことを嘆いており、ヘゲシッポスは「聖なる使徒たちの合唱隊がそれぞれ絶え、神的なソフィアを自分の耳で聞くことの許された世代が過ぎ去」*った後のキリスト教の混乱を書いている。*(エウセビオス「教会史」 秦 剛平訳)

それまでは、背教に曝されながらもキリスト教界はひとつの形を保つことができ、大規模な離反は起きなかったともいわれている。 パウロは聖霊が各地のエックレシアに教理を教え統一を与えていたことを述べ『神聖な奥義は、かつての世代には今のように聖なる使徒や預言者に霊によって啓示されている程には、人の子らに知らされてはおらず』ゆえに『今や、エックレシアを通して、天界の諸々の支配や権威すらもが神の多様な知恵を得るに至った』。とも言っている。(エフェソス3:5.10)

ペテロも、かつての預言者たちの語った事柄は、当時生きる聖徒のためのものであり『天から遣わされた聖霊を受けてあなたがた(弟子ら)に福音を伝えた人々を通して、今やあなたがたにも知らされている。それを天使らまでもが窺い見たいと願ってさえいる』。とも述べていた。(ペテロ第一1:12)

最後の使徒ヨハネもエフェソスにあって弟子たちを教え、地上に中心地を持たなくても、聖霊は各地の教理に均整をもたらしていた。つまり、キリストは聖霊を通して弟子たちを指導し続け、彼らの中央は天のキリストの許にあったのである。

聖徒の集まりはエックレシアと呼ばれたが、それは「召し出されたもの」を意味しており、実際、集まりのほとんどを構成していたのは聖霊を注がれた聖なる者らであった。 それは黙示録の七つのエックレシアイの間をキリストが歩み、その使いがキリスト自身の右手に把握されていることに象徴されている。当然に、そこでは弟子らを統括するためのエルサレムやヴァチカンのような地上の一点も、代理機関をも必要とはしなかったのである。(黙示録1:20/ヨハネ4:21)

しかし、この聖霊によるキリストの指導体制も終わる時がきた。やがて、聖霊は地上から徐々に引き上げられ、エックレシア内の聖徒の比率は下がってゆき、やがて聖徒は今日に至るまで絶えたのである。 そして、聖霊の降下が終了したことの明瞭な標識となるのが第二世紀後半の聖書疑典の噴出や、異なる預言の霊によるモンタニズムの台頭であったといえる理由がある。

ゆえに、聖霊はキリスト教が揺籃期を脱するまでそれを助けた、と云うことはできない。逆に聖霊降下の終了を第二世紀中葉とみれば、その現実は明らかな混乱と背教の始まりであった。 聖徒たちを失った後のエックレシアは、当然に信徒だけとなり、キリストは「王権を得る為に」旅立って不在となり、キリスト教界への監督は中断されている。

その後のキリスト教はユダヤからまったく離れ、ギリシア人やローマ人などの異邦人によって操られ迷走を始めたとしても不思議はない。聖霊が引き上げられ、ひとたび去ったからである。 ラテン語まで用いられてきた「エックレシア」の名に価しなくなった信徒ばかりの集まりは、やがて中世の間に「主のもの」を意味する「キュリアコン」に由来する「教会」(古英語[cirice])という言葉に置き換えられてゆく。⇒「なぜ教会と呼ばれるか」

その後は信徒も聖徒も曖昧となり、聖書が専ら聖徒に向けて書かれていることもあって、その事情を解さない後代の「クリスチャン」の思いのなかでは、聖書は万人に向けて書かれたことになってしまい、「あなた」と呼びかけられているところは自分にむけた言葉と誰もが思い込み、皆が天にゆくと誤解され始め、或いは、人々に聖霊は今も宿っていると教え始められたのである。

キリスト教徒は、聖書中でわずか三回だけ言及され、しかも外部からの呼称である「クリスチャン」(クリスティアノイ)で自分たちを専ら称するようになると、本来聖書中で多用されている「聖なる者」や「信じる者」の名称を用いなくなってゆく。つまり、「聖徒」が去ったので、その区別の必要が実質的に無くなってしまったのであろう。

そうして皆が只の「クリスチャン」となってしまった。 だからと言って、その「クリスチャン」に「地上のすべての家族が自らを祝福する」ための器となる気概などあるだろうか?ほとんどは、自分の救いに関心を持つだけのご利益信仰者と成り果ててはいないだろうか。


◆聖徒の再来

しかし、キリストの戻られるときこそ再び聖霊が注がれ、「聖なる者」が現れるとき、「聖徒」は非常に大きな意義を持つに違いない。 それは、聖徒たちが為政者と対峙してキリストの代弁者となるときである。 その論争にあって、「新しい契約」は当事者である聖徒らに、もう一方の契約当事者である神の名をはっきりと知らせるであろう。(詩篇22:22/102:21)⇒「シェム ハ メフォラーシュ」

それこそは人類に忘れられた神の名の再出現となり、聖徒たちはその御名の真実の証人、『御名のための民』となるであろう。彼らは対峙することになる為政者らばかりでなく、全世界の民に広く主イエスの帰還を告知し、神の御名を前面に高く掲げなくてはならない。それこそが終末における世界宣教となり、それは『霊と力の論証』によるものとなり『誰も反駁できないもの』となるという。(マタイ10:16-18/コリント第一2:4/ルカ21:15)

神の至聖の御名は人類の救いに不可欠となることを聖書は再三述べるが、これを終末に知らせる者は聖霊を受ける聖徒、即ちキリストの兄弟ら以外にいったい誰がいると言うのだろうか。(ヨエル2:32/使徒2:21/ヘブル2:12)

今日、神の御名が地上から絶えて忘れられ存在しない理由は、まさしく「新しい契約」に預かる者、真に聖霊を注がれた者がひとりも居ないことの証拠なのである。

このように終末に於いて際立った活躍を行い、また、それが為に迫害を受ける聖なる者らに信仰を示す人々も現れることは、マタイ25章の中の羊と山羊の例えの中で語られている。

即ち、キリストの『兄弟たち』とはキリストと共に『神の子』と認知され聖霊を注がれる『聖なる者たち』に他ならず、迫害される彼らに親切を示し、その立場を支持する者らは『羊』として主の右に分けられ、祝福に入るのである。
イエスはこうも予告している。 『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない』(マタイ10:42)

また、このようにゲッセマネで祈られた。 『わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。・・彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。』(ヨハネ17:20-21)

この点は、遠くアブラハムにも語られていた通りである。 『あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上のあらゆる氏族はあなたによって祝福を得るであろう。』(創世記12:3)

創世記の古代にアブラハムの裔として予告され、モーセの律法契約の辿り着くべき目標『世の光』となり、ついにキリストの犠牲によって初めて地上に現れた罪を清められた『聖なる者』について、聖書中を貫通する主題であるのがこれほど明らかであっても、ほとんどのキリスト教徒が気付かない現状はどうしたことであろう。これは異様なことではないだろうか。




 新十四日派  ©2011  林 義平
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聖書中にある「聖徒」が格別である根拠
 エクレシア内の信徒と聖徒


神の王国



キリストの宣教の中心主題であり、様々な例え話によって教示されたにも関わらず、これほど多くのキリスト教徒にこれが曖昧であるのは驚くべき事であろう。

しかも、これを「天国」や「心の中に在る」としてしまうキリスト教指導者の多さも意外なほどである。

ユダヤ人に向けたマタイ福音書の「天の王国」[ἡ βασιλεια τῶν οὐρανῶν]ヘー バシレイア ト~ン ウーラノ~ン,
また、異邦人向けのマルコ/ルカ両福音書での「神の王国」[ἡ βασιλεια τῶν θεοῦ(スェウ~)]は所謂「天国と地獄」の「天国」と訳されるべきものでもなく、まるでかけ離れたものである。

そのように信じてこられた方々には幾らか衝撃を与えるかも知れないが、もし、ご関心あらば以下もご覧頂ければ幸いである。    (初心者向けの解説はこちらを


-◆イスラエルが選ばれ招かれた「神の王国」-------------------

さて、この天国ではない『王国』が何を意味するのかについては、まず出エジプト記から説き起こすのが分かり易いものと思われる。

それは、イスラエル民族とそれに入り混じったエジプト人らとの大集団が、神の保護によって紅海を渡り、シナイ山麓に集合した場面で語られている。

即ち、神YHWH*とイスラエル民族との「律法契約」が締結されるところにおいて、神は「もし、あなた方がわたしに従い、契約を本当に守るなら」と前置きし「・・そうすれば、あなたがたはわたしの特別に所有する(宝のような)民、祭司の王国、聖なる国民となるであろう」(出エジプト19:5.6)とある。
これが「神の国」「天の王国」へと発展してゆく萌芽であった。*(現在は発音不明となった神名)

この律法契約で約された事を、神は遠い昔のシュメール時代の人アブラハムに対し、『あなたの子孫によって、諸国の人々は自らを祝福するであろう』(創世記12:2-3)と語り既に約束していたのであった。つまり、「神の王国」はアブラハムに示された全人類を益する神の手立てなのである。

後代、使徒ペテロは出エジプトを引用し、『・・あなたがたは選ばれた民、王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物たるべき民であり・・』(ペテロ第一2:9)とキリストの弟子の中の聖徒たちに適用している。

その意味するところは、イスラエル民族の皆が誰でも祭司ではなかったように、キリスト教徒のすべてではなく、選ばれた『聖なる者ら』(ハギオイ)が「初穂」として人類から刈り取られ(ローマ8:23/黙示録14:4)キリストと共に王国の支配を担当し、その益が残りの人類に及ぶことである。

この王国に召され『選ばれた民』はペテロの指摘するように、その時には存在していたが、この王国の民が歴史上に最初に現れたのは、使徒言行録第二章に描かれた、聖霊降下が起こり、奇跡を行うキリストの業がその弟子らに継承された日からであった。

この点では、ペテロが述べたように、新約聖書の書かれた時代にはキリスト教徒の集まりのほとんどが、『聖霊』によって選ばれた『祭司の民』であったため、それを読む今日の人々は、『聖霊』もないのに自分もその一人であると錯覚するのであり、今日のキリスト教徒の大半がそのようである。
それで、「聖霊のバプテスマ」を具体的に理解しづらく感じるのはその証拠となっている。

さて、契約によってその『選ばれた民』となるべきイスラエルではあったが、律法契約はイスラエル=ユダヤ人によっては遂に守られることが無かったため、神はこの契約の破棄を決意する。(エレミヤ31:32)
では、神の王国の実現はイスラエル民族の不行跡によって阻まれたのだろうか?

神はそこでその意志を完遂させるべく、預言者エレミヤを通して「新しい契約」を知らせていた。(エレミヤ31:33)この新しい契約と律法契約と入れ替えることで「祭司の王国、聖なる国民」を実現させる筋道をユダヤに確保したのである。
しかし、イスラエルは「新しい契約」に無事に入って王国の実現への道を保っただろうか?

やはり彼の子孫イスラエル=ユダヤ民族は、アブラハムへの神の不動の約束に基づき、『王国』の担い手、選民となるはずであった。
しかし、律法契約を守ることに失敗した彼らは、その違反の罪を負ってしまったまま、およそ六百年後に『契約の使者』またマーシァハ(メシア=キリスト)という『王国』の主要な王となるべきナザレ人イエスの到来を迎えることになった。(マラキ3:1)

しかし、メシアの到来はシナイ山が轟音を立てて揺れるような華々しいものとはならなかった。新たな契約は、生来の民全体とではなく、信仰を必須とする個人的なものであったからである。

ユダのベツレヘムから来ると預言されていたが、メシアの出身は北部ガリラヤの田舎ナザレであるかに見えた。そこでメシアを得るには信仰が求められる。

神殿崇拝に関わる血統になく、律法学者のような専門教育も受けていない。その廉潔な現れにユダヤ人は動揺する。なぜなら、多くの奇跡を行い、その言葉には説得力があるからであった。

バプテストのヨハネは、この人物の到来を予告し、律法不履行の民の罪を悔い、『律法の呪い』から解かれるようにと「悔い改めのバプテスマ」を施して人々を『契約の使者』であるメシアの到来に備えさせていた。(ガラテア3:13/申命記21:23)

メシアが現れたことにより、ユダヤ=イスラエルの人々には、いよいよ『新しい契約』に入る道が開かれるのだが、それは律法契約が遂に生み出さなかった『王なる祭司、聖なる国民』となるよう招くものであった。

それであるから、イエスが『見よ!神の王国はあなたがたの只中*にある!』と発言したとき、これはけっして諸国民に語った訳でないし、その理由もない。(*[ἐντος ὐμῶν]エントス ヒューモーン「あなたがたの内部に」)

『神の王国』とは、王キリストだけのものではなく、ひとつの国としての民を必要としたのであり、ユダヤはその民となるよう古来招かれていたのであり、その目的は、神がアブラハムに語られたように、全人類をこの世の虚しい状態から救うことにあった。

イエスは王国の民を召す業をパレスチナで始めていたのであるが、ユダヤ人の反応は芳しいものとはならなかった。原因はユダヤ人らの不信仰な傾向であり、それはモーセの出エジプト以来、この民の見せ続けた誉められたものでない性向であった。

アブラハムの子孫であるユダヤ人にこそ『王国』の機会が開かれていたのだが、まさに王国の王となるべく任命を受けたメシアが、『神の王国はあなたがたの只中にある』と言った通りに、光輝なく質素な身なりではあっても現に選民であったユダヤ人たちのところに来ていたことに注意を向けたのであった。

この時期、メシアを受け入れるユダヤ人は『「王国」に向かって殺到している』ともイエスは語っていたのであるが、それは素朴な平民たちばかりで、それに気付かない体制派のユダヤ人にメシアはその認識を促していたのである。(ルカ17:20-21/16:16)

したがって、イエスが『王国』について「あなたがたの只中に」と指摘したとき、ユダヤ人らには『王国』そのものが到来する姿を目にすることはなくとも、イエスがメシアであり、その『王国』の王がそこに立っているばかりか、信仰の目を以ってメシアをイエスに見ることのできた謙虚な平民のユダヤ人たちが、既にその『王国』を捉えつつあったのであり、それを『あなたがたの只中にある』とキリストは語っていたのである。

無論、イエスに信仰を働かせず、聖霊による奇跡の業にメシアを見ない頑ななパリサイ人の心の中に『王国』があったとは考えられるところではないが、メシアであるイエスは、ユダヤ人の中に現れようとしていた王国に信仰を促していたのである。

それでも、パリサイを含むユダヤの宗教体制はナザレのイエスを認めず、与えられたメシア=キリストを退け、王国の民を集めず、却って散らしてしまい、その王さえもローマの権力に渡して処刑させたのである。メシアの罪名には、いみじくも「ユダヤの王」と掲げられた。

この結果、ユダヤ民族全体としてはメシアの到来によって示されつつあった『王国』に反対したために、これを受け継ぐ望みが無くなり、信仰を抱いたほんの「残りの者ら」だけがイエスをキリストとして受け入れ「神の王国」を構成する希望を繋いだのみであった。(マタイ21:45)



-◆律法契約に代わる「新しい契約」 ---------------------

そのため、神はイスラエル民族との関係を終了させて、別の契約を用いてアブラハムの血の繋がりではなく、アブラハムの信仰に適う人々を「内面のアブラハムの子孫」として『聖なる国民』に差し招くこととなる。

それはイエスの語った、婚宴を設けたのに招いておいた客の来なかった王の例え話にも表わされていたところであり、王は宴席を満たすために周囲から呼ばれてもいなかった部外者である人々を引き込んだのであった。(マタイ22:1-10)

この例え話の中の、招いておいたはずの呼ばれるに相応しいユダヤ人が招待に応じず、王の怒りを買って滅ぼされてしまったように、メシア=キリストを退け『王国』への招待を拒んだユダヤの世代が過ぎ去る前の西暦七十年に、神はその裁きを下し、エルサレムは神殿もろとも完膚なきまでにローマ軍に破壊され、以後ユダヤ人は流浪の民となってゆく。それは律法契約も神の恩寵もイスラエル=ユダヤを去ったことの明らかな証しであった。(ルカ13:6-9/19:41-44)

そこで「新しい契約」を通して、『王なる祭司、聖なる国民、特別な所有物』たるべき『王国』の選民には、ユダヤ人だけでは足りず、イエスをキリストとして信じた諸国の人々も含まれ混じることになるのであった。(ローマ9:24-27)

イエス自身、異邦人の信仰の深さを高く評価しつつ、『いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。』と語っていたことがこうして現実となってゆく。(マタイ8:11)
(ここに善人はだれでも行ける「天国」との混同の陥穽があった)

それゆえ、これらのイスラエルに属さない人々は「接木され」、血統によらずにアブラハムの遺産(王国)の相続人となったとパウロは言う。(ローマ11章/ガラテア3:19)

パウロは彼ら全体を『神のイスラエル』と呼び、他方でアブラハムの血統上にありながら信仰が薄くキリストを迎えなかった『肉のイスラエル』と対照して語っている。(ガラテア6:16/4:21-31)
即ち、真の意味での選民イスラエルは、必ずしも血統によらず、イエスへの信仰によって形成されたのであった。

これらの人々は、キリストから「あなたがたの場所を準備に行き、また戻ってきてあなたがたと迎える」と語られた当事者であり、破棄された「律法契約」に代わる「新しい契約」に属する人々である。(ヨハネ14:2-3)

この契約に与る、神の「特別な所有物である」「聖なる国民」の人々には、イエスの復活後に聖霊が降下するようになり、特別な奇跡を行う賜物が与えられたが、それは『王国』の一員として内定したことの印でもあった。
(エフェソス1:13-14)

つまり聖霊の灌がれない人は選ばれておらず、けっして「神の王国」に入ることはないし、その必要もまったくない、むしろ『王国』の外に居て、「贖罪」というその優れた益に与れるのである。

『王国』を受け継ぐ人々は、キリストが王権を得て戻る(ルカ19:11-27)時に、シミなく傷のない状態で(原罪はあっても)見出されるならば、キリストと共にその『王国』を受け継ぐことができることになっている。新約聖書に記された一定の道徳律は、聖霊が注がれ「新しい契約」に入った人々の守るべき『聖なる行状』の求めを示しているのである。(ペテロ第二3:14/コリント第一6:9-11) ⇒ 今日のキリストの不在

その将来のキリストの帰還のときには、再び幾らかの人々が選ばれ、聖霊が灌がれることになろう。それは「王国」出現の序章となる。
 ⇒ 聖霊と聖徒

この人々は「聖徒」(ハギオス[ἁγίος])と呼ばれ、神からの聖霊の発言によって「神の王国」の到来を注目すべき仕方で世界中に告げ知らせ、その後、選民のすべてが天に召される集められることになるという。(マルコ13:9-11)(これが「携挙」と思われているテサロニケ第一4:17)

これらの人々の中心である「王の王、主の主」はキリスト・イエスであり、この王国の唯一首位にして世代交代の必要ない大祭司ともなる。(黙示録19:16/ヘブライ7:26)


人類の将来に関わるこの王国の働きに注意を向けると、おおよそ以下のようになる。



-◆「罪」に対処する為の「王国」の政治と宗教------------------------


人類は今日まで、政治と宗教の分野で苦しんできたことは冷厳な事実であり、今後も倫理上の欠陥である「罪」(アダム由来の)が除かれない限り、この罪の苦悩からけっして逃れることはできない。

ここに「救い」と謂われるものが見えてくる。
人間は「罪」あるゆえに誰も「真の正義」を持てないが、「神の王国」は、人間によらないゆえに「真の正義」を持ちうるものである。
宗教であれ、政治であれ、すべての人間製の「正義」は神の義の前に途を空けねばならない。倫理上に欠陥を持つ人間は、宗派であれ党派であれ、他のどんなイデオロギーであっても「完全な正義」を持っていないからである。

しかし、キリストと聖なる者らで構成される「天の王国」こそは、祭司また王となって人類を天から支配し、人々の倫理上の欠陥である罪(原罪)の贖罪を行って、最終的にはすべての生ける人々に、神の創造物たる「神の子」に復する機会を提供するのである。(黙示録20:4/ローマ8:14/ヨハネ1:12)

つまり、王国の民はキリストと共になる「王また祭司」であり、千年の間人類を導き、最終的に政治と宗教を終わらせてしまうであろう。(コリント第一15:24) ⇒ なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか

まさに政治と宗教は、人間の原罪に対処するための必要から生じた一時的「対症療法」だからである。
こう書くことは簡単なことだが、その意味するところは恐るべきものである。

初期キリスト教徒が持っていたこの理解は、キリスト教がローマの国教となってこの世の権力との妥協が成立したときに、ローマ帝国の存在がキリストの王国を駆逐してしまい、キリスト教も大衆受けのよい平凡なご利益宗教に変じ、引き換えにキリストの支配する『神の王国』を失ったのである。



-◆「王国」の到来する将来 ----------------------------------


『神の王国』の来るときについて、イエスは幾つかの例え話を用い、自らが一度去った後に再び(地に王権を持って)来ることを何度か述べていた。
それは使徒たちを通しても繰り返し語られており、イエスが肉体で到来するのではなく、「パルーシア」[παρουσία]というギリシア語で表される方法で地に帰還するのであり、それは『雲に乗って』あるいは『雲と共に』という状況の下である。

「雲」が視界を阻むもので、聖書中で「雲」はその働きをもって度々語られている。
すなわち、不可視性の象徴であり、イエスの帰還を「到来」や「再来」とせずに、「その場に関わりを持つ」「監臨」また「臨御」という意味のある「パルーシア」の語を用いたからには、その帰還は単純なものではない。

キリストが『雲の内』に、つまり世人からは見えない状態で世に対して『臨御』し始めるとき、『聖霊』は『聖徒』に再び語らせる。
彼ら聖徒たちは支配権を巡って為政者と対峙し『神の義』の代弁者となるので、彼らには誰も抗弁することができない、人間の世界は太陽も月も一切の光を失ったかのようになるという。(ルカ21:12-14/マタイ10:17-20)

つまり将来に、キリストが帰還して、まさにイエス自ら臨御するとき、聖霊を通して知らされる神の義の前に、己を正しいとするどんな宗派も党派もまったく意味を成さなくなり、その立場は溶解してしまう。

キリストの前に地は平坦にされ、一切の権威も権力も平伏すべきときが来るであろう。
しかし、人々に対する警告は充分に繰り返されると思われる。
神は悪人であってもその死を望まない。(エゼキエル33:11)

裁きの行われる前に何度も警告が与えられる方法が神の仕方であることは、エジプト以来示されたことである。

しかし、大半の宗教家も政治家も『王国』を非現実と看做すので、キリストに従うことは難しいだろう。そこで将来現れる『聖徒』の忍耐が求められるところであるが、彼らは自分の命をも惜しまず支配者の資質を証明し『世を征服』するであろう。(黙示録3:5/13:10/コロサイ2:15)

そのときキリストの姿は引き続き雲に隠れており、為政者も人々も目に見える自分たちこそが正しいという、人間の「正義」に自信をもってしまっているので、神の王国を現実のものとは思わないか、あるいは思いたくもないであろう。(出エジプト19:9/列王第一8:11/ルカ9:35)

そのときには、かつての個人的な罪は然程の問題ではない。
問われるのは神を神とするかという「エデンの問い」である。
たとえ、人々の中にキリストを罵倒していた者があっても、聖徒を支持するならどんな罪も許される。そこに誤解があったからである。(マタイ25:40)

しかし、聖霊の発言に逆らうものは許されることがあるだろうか?
聖霊に逆らうのは確信犯であり、そこに完全な選択がある。神に敢えて逆らうことを選ぶのである。

こうして将来、聖徒が語るときに、我々は聖霊に対してどう反応するかが問われるであろう。
(マタイ25:31-46/ルカ12:10-12)


そして幾らかの時の後、人類の裁きの進行と共に、試された聖徒たちの選びが確定することで『王国』が完成し、御厳の大王たるキリストが神の王権の栄光を掲げて世界に顕現(エピファネイア)するときに、すべての者は地上に起こる事柄を通して象徴的な不可視の雲の中に王の臨御を認めざるを得なくなる。⇒ 黙示録の四騎士

そこではすべての者がイエスの臨御を、その時に起こる意外な事態を通して「見る」ことになるだろう。
(黙示録7:1-3/テサロニケ第二2:8)(マタイ24:30・26:64/黙示録1:7)

それは恐怖の時となるようだ。「高官たちや軍司令官ら」すらも山や岩に保護を求める様が聖書中に描かれている。(イザヤ2:10-/ホセア10:8/ルカ23:30/黙示録6:15-)



-◆『王国と神の義を求める』とは何か---------------------------


それで『王国』の来る前から、人々を憎ませ裁き合わせるあらゆる宗派から逃れ、また分断し相争わせるあらゆる党派を支持するな!というのは不適切なことにはならない。(黙示録18:4/エレミヤ25:31)

それらは互いにも、また聖霊に対してさえも敵意を煽り、自らの義に固執して神の義を否認し、なお現世のままに永遠に争い続けようとする凝り固まった「蛇の道」となりかねない。(イザヤ57:21)

一方、王として処刑されたキリストと、その同じ道を歩む『聖徒』たちは、死に至るまで支配者としての資質を試されたうえ、倫理的に浄められた人々であり、世間一般の為政者とは比較にもならぬほど政治を委ねるに相応しい。(マルコ8:35/ヨハネ16:33/黙示録2:26)

それゆえ、人間の政府ではなく『神の王国』を待ち、人間の様々な正義ではなく『神の義』を求めよ。これこそが「主の祈り」の意味するところである。(マタイ6:10/6:33)

これが、『神の王国』であり『世の救い』であり、すべての涙を拭うものである。
不完全な人間の誰もが正しく描くことさえ出来なかった「理想郷」、いや、その概念をさえ超える世界、神の創造物の立場(子)に復帰した輝かしい人類を作り上げるための手立てこそが『神の王国』である。

神の王国の千年の間に、人々はイエスの主要な教えであるアガペーと呼ばれる愛を思考と行動の原理として向上してゆくことになり、その到達点は悪意、欺き、争いがなく、互いに気遣う幸福な社会であり、それこそ創造において意図された人間本来の姿であろう。

黙示録21:3-4はこう述べている。
 『見よ!神の天幕が人の間に張られ、神は人と共に住まわれる。(人が神のところに行くのではなく)・・
神はすべての涙を残らず拭い去ってくださる。もはや死もなく、悲しみも嘆息も辛苦もない。以前のものは過ぎ去ったからである』。

それでもなお、あなたは「天国」の至福を望むだろうか?
もしそうなら、それは誰のためだろうか?

「天国」が個人を益するものとすれば、『神の王国』は人類に幸福をもたらすものである。
このふたつは、それを望む人に正反対の精神を抱かせるものと言える。
つまり、利己心と利他心ほども異なることになる。




              新十四日派   © 林 義平

 『神の王国』 -新十四日派の綱領として-

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 ⇒ 聖霊と聖徒
 ⇒ キリストの王権拝受は何時か
 

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二人目のアダム

「最後のアダム」という言葉には希望の響きがあった。(1Cor15:45)
使徒パウロはキリストであるイエスを指してこの言葉を用いた。

すなわち、アダムが失った様々な貴重なものが、イエスによって回復される事が、それに含意されていた。

アダムは「善悪を知る樹」の実を食すことで、自らの作り手を父のように敬うことを止めた。神は神とされなかったのである。

こうして、創造物に過ぎないアダムは独立してあたかも「神のようになった」。
神とアダムとの関係は対立するものとなり、創造者と創造物という父子の倫理が崩壊し、神の子としての栄光は消え、その子孫も神を父とする関係から外に出されたのである。

地は呪われ、人の耕す処に雑草が繁茂するようになり、人は厳しい労働によって生きて行かねばならなくなった。「顔に汗してパンを食し、遂に地面に帰る」という、今日まで続く人間の在りようがこうして現れた。

現代の先進国においてすら、この創世記の言葉を否定させることはできない。間断のない競争、わずかな利益の奪い合いは熾烈であり、一生を安寧のうちに過ごせる人がどれほどいることだろう。

パウロは言う「創造物は虚無に服せられたが、これは自らによらず、服させた方によるのであり、一条の希望があってのことである。すなわち、創造物が朽ちゆく隷属を解かれ、神の子らの持つ栄光ある自由に至るのである。」(Rom8:20-21)

アダムの子孫たちが、神を神とすることを選ぶとしたら、これを見過ごさず助けを与えるためには、当事者の甲乙たらざる第三者が必要になる。
つまり、神と人との和解の仲介者であり、そのものはアダムの一度限り失った貴重なもの、無辜の命(魂*)を代わりに差し出さねば倫理上の要求を満たすことができない。(Heb9:16-20[διαθήκη]を遺言と訳す理由はない、神との契約は仲介者の代償の死を必要とする)

アダムの子孫には倫理的欠陥たる「罪」があり、生きる以上は神の目に罪を犯しつつ過ごすのである。これらの罪がどれほど膨大であろうと、アダムの命(魂*)に値するひとつの命(魂*)が捧げられ、仲介者の血が流されるなら、すべてが相殺される。

こうして、神に次ぐロゴス[λογος]たる神の直接創造した唯一の存在者は、神と人への愛から自ら無辜の命の犠牲を捧げるべく、アダムと同じ様になって地上に生まれた。(Col3:15)

それゆえ、処女からの誕生は神秘性を印象付けるためのものでも、ましてや不義の妊娠を覆い隠すためのものでもなく、神の神たる倫理上の極めて重い要請に他ならない。

この第二位のロゴスなる「神の一人子」は、進んで神と人に仕え、神を神とし、人を「神の子」とする(Joh1:12)ために地上に来て、苦難の経て犠牲の死を遂げた。そのため、それ以後アダムの子孫らへの希望は実現が保証されることになったのである。

だが、この神の意志はさらに具体的な手段を擁しており、それを持たずにはアダムの子孫の罪は消されることがない。

その手段というのが、「神の王国」[ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ]である。 


 ⇒ 神の象り」に込められた神の愛




                                                新十四日派       林 義平
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*「生命」に(魂)を付記したのは、初学者の混乱を避けるためで、「命」は正しくは「魂」である。
 ⇒ ネフェシュ 命に優る魂







アダムからの罪(原罪)


創世記の原初史にある二本(群)の樹、『善悪を知る樹と永遠の命の樹』が最初の人間たちの前に置かれた。
とくに「善悪を知る樹」の実に関する禁令をもって、人は初めて倫理の問題に足を踏み出すことになる。

これは、自らの創造者との関係を決定づける一度限りの機会であった。
それらの樹は、エデンの園の中央に植えられたからには、そこに重い意味があったに違いない。
最初の夫婦が、創造者との関係をどうするのか、という問いがその二択にあったと言える。

彼らは、自らを産み出しエデン(「楽しみ」)の園に彼らを置いた神と、信頼の内に結ばれ「忠節な愛」を示すだろうか?
この点を問う役割を負ったのが、園の目立つ場所に植えられた二本の樹であった。

もちろん、創造者は彼らを創ったのであるから、永遠の命を与え、エデンで示した多くの善意を続けてゆく意志があったと見てよいであろう。
しばらくは、アダムとエヴァは神の言葉を守って、これに近づくこともしなかったが、神に人が従うのを見て苛立つ者がいた。

彼はケルブと呼ばれる種類の天使であったが、アダムの以前に自らの天使としての「神の象り」による自己決定により、創造者を否認、つまり神を神として認めず、自らが「神のように」意のままに生きることを選んでいた。(エゼキエル28:16)
その根底にある動機は自らの貪欲と、創造者への愛の欠如であろう。
自分がよければ、他者はどうでもよい、という利己心の登場というべきか。

このケルブは、エデンの東の園で蛇を用いて、人の妻を慫慂する。
女は、蛇を通したケルブの発言を信じてしまい、食物として好ましく見える「善悪を知る樹」の実をもいで食した。しかし、すぐには死ななかった。それは禁令に従う意味を明らかに薄れさせたであろう。

それから、アダムと共にいるときにそれを差し出した。アダムは不意をうたれた形で試練を受ける。
そのとき、彼がどのように考えたのかは創世記に直接は書かれていない。しかし、神に問いただされた場面で「女です!あなたが私といるようにと与えた女が」と釈明していることからすれば、妻と運命を共にしたいという願望があったのであろう。
あるいは、「蛇」はアダムを観察し、彼を神から引き離す誘因があるとすれば、それは何が最も効果的かに気づいていたことは充分な理由がある。誰かを直接説得するよりも、その強い欲を引き出す方がずっと成功し易い。これが誘惑であり籠絡であり、その後の歴史も常に証明してきたことである。

だが、この方法論は結果からすれば然程重要ではない。
ともあれ、アダムは創造されて以来最初の「神の象り」としての自由な選択を神に対して行使したのであるが、それは利己の道であり、創造者ばかりでなく、その子孫に対しても利己的な振る舞いとなってしまった。エヴァに対しても正しく愛を以って振る舞ったとはいえないであろう。聖書には『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』と記されている。(ローマ5:12)

以後、人間は諸苦と死から逃れられなくなり、短く虚しい生涯を定められ、創造者との関係も断たれて、生きる意味も知らされていない。

この根本は「倫理」に属する問題であり、相手が自らの原因者たる神であるからには、創造者ばかりか他のすべての(「神の象り」をもつ)者との関係性、つまりすべての倫理の基礎において欠陥を生じた事となる。

彼らは裸であったことに気づくようになる。
自己決定を下したことがもたらしたプライバシーなのかも知れない。
神は彼らの選択に関与せず、善悪の木の実を食することから強制的に排除しなかった。
(これを性行為を経た事に解釈するには、既に「産めよ増えよ」の神命が下されており無理があるように見受けられる)

この欠陥は『罪』(ハッタートorハマルティア)と呼ばれ、以後は人間と神との間を隔てる越え難い障碍となって今日に及んでいる。(イザヤ59:2)

以来、人は神の創造物の価値に達しておらず、その「子供」としての立場を得ていない。(ヨハネ1:12)

作られたものが、作った者の意図に反して存在し続けるなら、製作者の意図はいつまでも成し遂げられないので、神が人に寿命を設け、やがて命が尽きるように「その日に死ぬ」、つまり、そのとき以来寿命を持つよう取り計らったことは理に適うものであろう。(創世記2:17/3:19)

一度、寿命をもつ不完全な生命となったアダムは、永遠の生命を子孫に伝えることはできなくなった。彼らは「善悪の木」から食さないなら「永遠の命の木」から食すことが許されたであろうが、いまやその木から強制的に排除されることになった。神は彼らが「永遠の命の木」にも近づくことのないようにと、燃えながら回転するという剣と天使らを配置したのであった。ここに最初の「権力」が登場している。(創世記3:24)

さて、人間の子孫に対して倫理的欠陥も遺伝し、人は社会を構成するのに自発的善意(愛)を期待できなくなって、逆に暴力という強制力を必要とするようになった。その強制力は権力であり、内向きの警察力と外向きの軍事力と呼ばれている。人間は互いの間にこれらの暴力を介在させなければ秩序を保つことも難しい、そこでは何が善で何が悪かを仮にでも決めておかなければ、生存さえ脅かされることになってしまう。

その原因は「貪欲」である。
それを規制するために善悪を定めた法が施行され、通貨が流通する。それらは、人の充足できる欲望の範囲を規定し、貪欲と貪欲の衝突を調停するものである。

しかし、市場経済は公平ではない、古代より今日に至るまで「顔に汗してパンを食し、遂に地面に帰る」の言葉は人類にとって真実であり続けた。それでも、大半の人々の困窮は、物資の不足が招いたものというよりも、人間が共通に抱く「自分さえよければ」という貪欲が招いた、財物の偏在に原因しているのである。

他方、この倫理上の欠陥は、神との間に断絶をもたらした以上、人間は神を探求するための「宗教」を必要とすることになった。

人間は自らの感性や悟性を用いて創造神を知ることができない。
創造された物を観察して物事を探求する「科学」、この人間の最大の叡智をもってしても、事象の彼方にいる神を指し示すことはない。この現実の理由について、聖書はやはり『罪』が神と人の間を隔てていると教える。 (イザヤ59:2)
そうなれば、人間は神を探るために神の側からの知らせ「天啓」を待つよりほかない。

アダムの踏み外しは、こうして子孫に政治と宗教を必要とさせたが、その原因たるものは、倫理上の欠陥、すなわちこの『罪』である。

そこで、政治と宗教に争うなと命じることには無理がある。
倫理的欠陥ゆえに両者ともに正義を持ち得ないから、互いに不確実な「人間の義」を競うばかりである。

むしろ、政治と宗教が存在するという現実こそが、人間に『罪』があることを証しているのである。
なぜなら、政治と宗教というこのふたつは、人間の『罪』への応急処置であり、「必要悪」だからである。

もし、真実に正義をもつ宗教なり政治なりがあるなら、疑いようのない上からの啓示を持つだろうが、現在までのところまったく見かけない。
誰もが得心できる普遍的な政治上、また宗教上の「正義」などは、元来『罪』ある人間に所有できるようなものでは決して無いからである。

そこで、政治と宗教は正解と思えるものを陳列するばかりで、多極化する定めを最初から負っている。
我々は、その中から、自分にとって比較的良いと主観的に思えるものを選び取るに過ぎないのだ。

そして、神の側から真実が知らされない限り、人はこれを続ける以外にないし、『罪』がある以上、人は正義も真実も知り得ず、虚しい生涯を終えるのみである。

では、神は『罪』ある人類を放置するだろうか。⇒ 「二人目のアダム」 



                                      新十四日派          林 義平

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関連項目
 「キリスト教の究極の目的
 「人はなぜ傷付きながらも政治と宗教を存続させるのか









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