quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

キリストの例え話

不正な管理人の例え



不正な管理人の例え
予備知識
ヨシュア記第2章・第6章、ルカ第16章、マタイ第10章・第25章、黙示録第11章



ルカ第16章でイエスの語られた、解雇される「不正な管理人の例え」の解釈が難しいというのは、ひとつのヴィジョンが欠けているためであり、以下の視点から観るなら、非常に鮮明な理解に即座に至れるものである。読者の中には、以下を少しだけ読み進めるだけでそれと気付かれるであろう。
そうでなくとも、その状況について幾らか思い巡らすだけで、そのヴィジョンに於いてこの例えとの整合性があることは理解されると思われる。

この例えは一見すると、金銭の神(マモン)崇拝に堕落するな、少しは宗教的な仲間に持てる財産を使え、という教訓にも見えるのだが、そうではない。例えの中で管理人の扱う財産は他人のものなのである。
また、宗教家が信者の寄付金への金離れの良さを推奨するためのものであるわけもない。

ではこの例えの意味はどうなのか。


◆不義なる善

さて、平時には起らないようなことが、危急の時においては起ることがある。
ルカ16章にある「不正な管理人の例え」は、普段の正邪の判断では転倒を招き混乱するように見えはするが、これは常に道徳的であることに努めるキリスト教徒には分かり難いものながら、この例えは、世間一般の人々が普段縁遠いキリストに、また延いては神との関わりを、僅かな時間の内に築くためには、まことに得難く貴重な訓戒となっている。ゆえに、この話は、キリスト教の外の人々にとって、それも終末という特殊な時期に於いて無類の救いをもたらすことであろう。

ときに、義が不義になり、不義が義となることがある、と言えば、不正を避け正直に歩もうと日々努めている方々からすれば、首をかしげられるかもしれない。だが、聖なる書物はそれを確かに例示しているのである。そこでまず、旧約聖書の故事から話を起こさせて頂きたい。

旧約聖書もヨシュア記に入ったところ、即ち、『約束の地』を手前にしたイスラエルから、二人のスパイがカナン人の城市であったエリコに入ったときに、その街の一人のカナンの女が示した判断がイエスの例えを理解するための典型的な例であった。

カナン人の諸族は、パレスチナへの入植を窺うイスラエル民族の前に猛烈な恐怖を懐いていた。
イスラエルを率いるヨシュアは、ヨルダンを渡る前から武備を固める城市エリコに二人の間者を放ったのであるが、その二人は平凡な旅行者を装い、娼婦の家に入った。

だが、この二人の偽装は不慣れで上手くはなかったか、或いは迫りくるイスラエルへのカナン人らの警戒心がそれを見抜くまでに高まっていたというべきか。
早くもエリコの住人らに素性を見抜かれていたスパイらの命は、その夜のうちに風前の灯火となっていた。

案の定、エリコの王はこの娼婦ラハブの家に使いを差し向け、その二人はイスラエルの間者であるから差し出すようにと言って来た。
さあ、ここで娼婦ラハブの対応はどうであったか?

『確かにその人たちはわたしの所にきました。しかし、わたしはその人たちがどこからきたのか知りませんでした。黄昏時、門の閉じるころに、その人たちは出て行きました。』と言うばかりか『急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません』と言ってのけたのである。
これは王や城市への裏切りではないか!しかも、この娼婦はスパイらを屋上の亜麻の茎の中に彼らを隠していたのである。これは捨て身の嘘であったに違いない。民族防衛にピリピリと気が立っている周囲の誰かにラハブの計略が気付かれるなら命があったろうか。

そこで聖書やキリスト教は嘘偽りを禁じてはいないのかと、ただ訝るとすれば、その人は不正の横行する世を渡るには無防備で純粋に過ぎ、人間の不倫理性の本質に蓋をして見ないふりをしているに等しく、その取澄ました観点から「不正な管理人の例え」を理解しようとするのにはかなりの無理があると言うべきか。

また、キリスト以外にいったい誰が嘘をつかずに生きていられよう、聖書の中には族長ヤコブをはじめ、しばしば虚言を弄した例がある。そこで誰でも「自分には嘘が無い」と言えば却って最大の嘘つきではないか。ただ、喜んでそうするのか、仕方なくするのかの違いがあり、貪欲なだけの詐欺師と、重病の告知にたじろぎ、人の益を図って考え込む利他的な人が同列に「嘘つき」とされるべきだろうか。その不正の目的も動機も様々であり、ラハブも居ればアナニヤとサフィラも居るではないか。

そしてラハブはその行動の理由を明かして彼らにこう言っている。
『YHWHがこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたを非常に恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震え慄いていることをわたしは知っています。』『あなたがたの神YHWHこそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。』

だが、この娼婦は抜け目なく、彼らを助けたからには『わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいまYHWHを指して誓い、確かなしるしをください。』と交換条件を提示する。

捨て身の覚悟でここまでされてはスパイであった者らに是非も無い。既に放たれた追手はヨルダンの渡し場に向かい、城門も閉じられている。
彼らを逃すための赤い紐が、城壁の上に位置していた娼屋から下げられた。
そこで二人はYHWHに誓って、この赤い紐を垂らしておくならその屋の中の魂には手を掛けないと請合ったのであった。

二人は、紐をつたって城壁の外に降り、女に言われたように三日の間、ヨルダンとは反対側の荒れた大岩の転がる山地に身をひそめ、遂に生還を果たし、エリコの慄きを指導者ヨシュアに報告する。
ここに於いてラハブは、エリコの王に対する娼婦としての情報提供の特権を利用して、イスラエル民族を新たな友とすることに懸けたのであった。

やがてイスラエルがエリコ城市を囲むとき、ラハブはその赤紐を垂れ、自分と家族とを救うことになる。イスラエルの士師であるヨシュア自ら、その二人の者にその家族の救援を命じていたのであった。

これがオリエントの王国の尊大な文書であれば、遊女に助けられたスパイの話なぞ、とても碑文に刻めたものでもないであろう。しかも、そのスパイの働きが征服を成し遂げるうえで殊更に重要であったようには読めないではないか。むしろ付録のようであり、偽装下手な素人スパイは言わば『小さな者』である。この挿話の主役はまったく異教徒の一娼婦ラハブであり、どう読んでもその内密な行動に焦点を合わせて書かれているのだが、むしろ聖なる書にこれが記述されたからには、カナン人の一娼婦の信仰ゆえに狡知であった行動に焦点を合わせたなりの意味があるに違いない。

聖なる書によれば、こうして救われたラハブは、その後ユダ族のサルモンと結婚し、イスラエルの血統に連なることになり、神が殲滅を命じたカナン人でありながら、あのルツ記に登場するボアズの母となり、キリストを生み出す家系に組み入れられたのである。しかも、そのキリストの弟ヤコブによって、『ラハブはその行いによって義とされた』と書かれるに及んだのであって、奨励はしないにせよ「嘘はいけません」などとは書いていない。あの「義人ヤコブ」がである。(ヤコブ5:12)

カナン人と言えば、これに加えてギベオンという城市が、街ぐるみでイスラエルに偽りを語ってはその交友を得た。しかし、その不正を知ってもイスラエルは、偽りまでして和を求めた彼らを救うために夜を徹して行軍し、ほかのカナンの軍からギベオン人を保護するために戦っている。彼らカナン人は、イスラエル入植に際し一人残らず滅びに捧げられるべきと定められていたにも関わらずギベオンは城市のまるごとに神の大いなる救いに与っている。

また、聖書中には後代のイスラエル王国の時代、アハブ王のときにカナン系フェニキア人から王妃としてイゼベルを招き、バアル崇拝を導入してしまった王家のために、神YHWHの預言者らが捕らえられ殺害されるという状況にまで追いやられたときに、王家の臣オバデヤは王家に知らせずに百人ものYHWHの預言者らを洞窟に匿い、日々の糧も供していたという事が記録されている。もちろん王に従うべきオバデヤは自分の命の危険を承知の上でのことであった。(列王第一18:3-4)

これらの事跡では、危急の時に世間一般の善悪規準を超える場面が起り得ることを教え、それは神と世とが対立し、どちらをとるかの焦眉の問題がそうであると前表しているのである。(ヤコブ2:25-26)



◆次なる機会

さて、終末のキリストがこの世界に臨御を果たすとき、それは『この世』という不信仰な体制全体の危急の場面であり、そのとき人類はカナン人のような立場に居る。(エレミヤ25:31)
イエス自身がマタイ福音書の中で明らかにしたように、再臨するキリストは『すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。』と予告されているのである。(マタイ25:31-33)

その分かれ目となるのが、キリストの『兄弟たち』に便宜を図るか否かとされている。
この兄弟たちというのは、パウロは明かすように『キリストと共同の相続人』であり、『聖霊に導かれる神の子』であり、新約聖書を通して『聖なる者たち』と呼ばれている初期の弟子らで、あのペンテコステの日を以って聖霊注がれ、歴史上に初めて登場した者ら『聖徒』である。
確かに彼らが存在したことは、カトリックの聖人伝承に語られるように、原始キリスト教での奇跡を行う殉教者の数々、即ち「聖人」を意味しており、当時のように聖霊で奇跡を行う弟子らの存在は、第二世紀辺りから絶えて久しい。

福音書が揃ってイエスの言葉を記す通りに、終末に於いて、聖霊の伝える音信のために再び現れる『聖なる者たち』は、強い迫害の下に曝されることになるとされている。彼らは会議場の為政者らの前に引き出され、そこで驚嘆すべき聖霊の言葉を語ると福音書は何度も語るのである。
彼らが世からの圧迫に曝される理由といえば、彼らの話す内容が『この世』とは厳しく対立する『神の王国』の支配の到来を知らせるからであろう。(マタイ25:40/ローマ8:14-17/ダニエル2:44)

彼らはキリストから与えられる知恵を語るという。即ち『聖霊が語る』のであるから『だれも論駁できない』宣言を『為政者と諸国民に対する証し』として語るのだが、1260日という三年半の宣教を終えたときに、七つ頭のある野獣、即ち強力な公権力によって死をも迎えるというのである。(マタイ10章/黙示録第11章)

マタイに含まれる終末預言では、キリストの兄弟たちは『飢え、渇き、逃避行に在り、衣類なく、病気で、獄に繋がれている』。これらの苦しみは『この世』との対立がもたらすことは、彼らが迫害されることになるというイエス自らの語られた訓戒にも、パウロの手紙にも、黙示録にも繰り返し記されており、聖霊の注がれた使徒や初代の弟子たちに対する『この世』からのかつての仕打ちを越えるほどの悪辣な敵意が終末の『聖徒たち』を待ち受けていると予告されている。
(マタイ25章・10:16-36/ローマ8:35-36/コリント第一4:11/黙示録12:10-11)

そこで、それらの『聖徒』のために、自分の持てる何かしらのものを以って、信仰のうちに援助を与えるとすれば、それによってキリストの兄弟たちが益を受け、迫害を耐え忍び、或いは逃げ延びることを助けることが出来、その助けはキリストに対して行ったと見做され、神の是認に至ることにもなるということであろう。

そこは迫害下にある人々を助けるのであるから、一食の提供であるのか、獄を訪れて一着の衣類でも差し入れるのか、移動を助けたり、囮となって拘束を避けさせたり、或いは、自分の管轄下で内密に釈放したり、匿ったり、見逃したりする権威の行使であるのかも知れない。それらは本来なら不正な行いとされるところながら、真に善悪を弁えるべき場面も生じ得るのであり、この世の秩序が崩壊するに及んで人は誰に義理立てすべきだろうか?

それは「命のビザ」をユダヤ人のために外務省の意向に逆らいつつ、職権と個人能力の限界まで査証の発給を続けた杉原千畝のような働きであるのかも知れない。或いは、ナチスの強権を欺いてガス室に送られる人々を終戦まで守り切った実業家オスカー・シントラーはどうだろうか。これらの事例は国家という正義に抗うものでありながら、慈愛という人間にわずかに残された「人の美」の金字塔である。

こうした行動のためか、終末ではキリストの兄弟のすべてが殉教を遂げるわけではなく、これらの聖徒の全体を表す『二人の証人』の死、つまり宣教の業が終わって後、なお僅かな三日半を経ると天への全体召集が行われるとき、地から直接召される「七千の名」があるという。そこで地上は異変に気付くことになるという。(黙示録11:7-13/列王第一19:18)

それが黙示録第11章での、七千人の名前の消去(死)であり、官憲がいくら探そうとも聖徒の残りの者らの姿は地上のどこにもない。キリスト・イエスの体が墓から消えたように、これは大いなる不思議となるのであろう。それはハガイの預言をも含意するであろう『大きな地震』ともなるというが、その驚きをもたらすのが即ち、不可視性を表す『雲の内に取り去られる』ことである。しかし、彼らを支持した人々、特に実際的な助けを与えた人々の善意は、彼らと共に天に達することになろう。

この残った『聖徒』の召しが「携挙」と誤解されているのだが、けっして「クリスチャン」方を終末の患難から保護するために天に挙げるのではなく、むしろ逆であって、迫害に立ち向かい『新しい契約』を地上で全うした人々の天への召しであり、『神の王国』『神のイスラエル』が天界に揃うときとなる。その直前には死せる聖徒らの天への復活が先んじているとパウロは書いている。(テサロニケ第一4:14-17)
それは聖徒の全体が迫害により証しの宣明を行えなくなって後の事となろう。太古の過去から呼び出された野獣が『二人の証人を殺す』とある。

さて、キリストの前に裁かれる人類の全体は、これら『二人の証人』に対して各自どう振る舞うであろうか?

これは、そのときに各人に出来る事があるとすれば大きな幸いの門口に立つことになる。そこに永遠に亘る祝福を得る機会が開かれているからである。
主イエスはこうも言われていた。
『あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。』『まことに言うが、わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水の一杯でも飲ませてくれる人は、けっしてその報いを受けないことがない。』(マタイ10:40-42)

何という幸いな機会に恵まれたことであろう。キリストの弟子への僅かな善意が神からの報いを得るという。
では、そのような義なる行いはどのように行われるだろうか。



◆不義の富による義

イエスはルカ福音書第十六章に於いて、この義行を描き出す例えを語られている。
それが「不正な管理人の例え」であり、この話は平時には正しくもない行いが、非常時には義なる行いと成り得ることを指しており、聖書中に在って今は難解であっても、その時に至れば極めて明瞭、且つ眼前の危機を分かつ重要な教訓と変じるものである。

この裕福な家の管理を任されていた家令が解雇されるのはつかい込みが告発されたからとなっているが、このきっかけの理由は意味がない。重要なのは、管理人という仕事がなくなるという状況の方である。失業したら、その後はどう生活を維持できるものか。
それは一種の危急の時であり、彼が管理していた一切の財は何の関わりもなくなってしまうのである。その解雇を前にした状況は『この世の終り』と相似関係にある。もう、この世の秩序は終わろうとしているときには、人は解雇される管理人のような状況になるであろう。

そのとき、誰かに財産や権威や権力の幾らかが委ねられていたとしても、また、それがどれほど多くも、『この世』が終わりに瀕していては、もはや一時のものでしかない。

この家令の例えを難しくしているのもが、他人の富を不正に用いて、というところであろう。ラハブの事例では、周囲の社会との対立の中で起こっていたのであり、不義や不正が善になるとは、こうした対立が生じているところでこそ不正も誉めるべき行いと成り得たということである。

そうなれば、その人は最後までこの世の秩序の方に忠実であるべきだろうか。
いや、神が『この世』を裁こうとしているのであれば、世への忠実さにどんな善があるのか?また、その報いに何が残るのか? 何も残りはしない。

そこで、この例えの管理人がし始めたように、まだ残された僅かな間に自分の自由になる財を『友を得るために』用いることこそがまったく賢明なことになる。
もちろん、それは平時であればただの不正、不義な行いでしかないのだが、危急の時であるためにそれは善となる。それゆえ『不義の富』を用いて急いで『友』を作るべきであり、この場合には『神』に忠実であろうとすれば『富』に忠実ではいられない。

そこで、この管理人の主人もこの不正を知ったときに誉めた。
こうした類いの不正は『この世』ではごく日常のことであり、多少の不正でもしなければ富も得ないことをこの主人も自ら味わい知っていたという設定であろう。であるから『この世の子らは、光の子らよりもその世代では賢い』のである。

キリストの『是は是を』という言葉に限らず、山上の垂訓を体現できる人がいれば、その人はキリストであり、血の犠牲で人類を贖えるであろう。
だが、それに準じる人々が居る。即ちキリストと共なる『聖なる者たち』であり、その道徳水準からすると、『この世の子ら』のように狡猾に立ち回れるものかには難しいところがあるだろう。『キリストの丈の高さを目指し』『誓ってもならない』という正直の極みを目指して地上を歩む人々だからである。元々がそのような器でない。(マタイ5:33-37)

だが、『この世』が終わろうとするときには『YHWHの怒りの日には、銀も金も彼らを救うことができず』『彼らは銀を外に投げ捨て、金は芥となる。』と言うのであれば、『この世の子ら』の『この世の富』への忠義立てに何の意味が残っていようか。
既に『この世』の方が神から糾弾されている状況で、「自分は不正行為などできない」と言うだろうか?では、その「正しさ」とはどんな「正しさ」なのか!(エゼキエル7:19/ゼパニヤ1:18)

だが、その事情を弁えるなら、平時では『不義の富』であっても、終末には『聖徒』またキリストという『友を作る』原資となり、その報いと言えば『永遠の幕屋への招待』となる。これ以上の財の使い方があるだろうか。俗世の儲けの判断からしてこれほど「割のいい」ものもなく、その主人もその「やり口」の巧妙さを誉める以外にないであろう。

であるから「『不義の富』とは、俗世で稼いだ報酬のことだ」と言う理屈は成り立たない。例えの中での財産の勝手な調整は確かに主人への裏切りであり、身勝手な他人の財産の流用を『不義』と言っているのである。
であるから、それを根拠にこの世で儲けた金は「不義の富」であるから宗教団体に寄付しろといえば、この例えの難解に見える表層を突いた信者への次元の低い詐取ではないか。

だがもし、危急の終末で『不義の富』を窮境にある『光の子ら』のために使える立場に在りながらも使わないなら、その機会の扉は永久に閉ざされることになろう。『不義による富』を用いてすぐに友を作らねば、『この世』と運命を共にすることになるからである。

ゆえに、『もしあなたが不義の富について忠実(ピストス)さを示さないなら、誰があなたに真実のものを託す(ピステウオー)だろうか』とは、忠実を示す相手は財産の持ち主ではなく、『聖徒』のためであり、延いてはキリストであり神と言えることになる。

世人にしてみれば、手許に有って自分の自由にできる世的な財すら神への忠節に用いないなら、『この世の子ら』がいったいどんな霊的なものを差し出せるというのだろうか。しかも、自分の懐を傷めもしない他人の富でさえ使わないのであれば、誰が本当に自分の財産をその者に与えようなどと思うだろうか。その者には与えても何もしない不誠実が既に見えている。

他方、終末のそのときまで『この世』の者として神から隔てられてきた人々であっても、その人が行政や司法の権威者であろうと、いや、そのように権限があるほどに、直ちに手許にあるもので神の側を支持できる多くのものがあることになる。つい先刻までこの世を代表するような身分であったゆえに、むしろ大きな貢献の機会に恵まれるのである。

他方、非常に乏しく明日をも知れぬ僅かな手持ちといえども、あのザレファトの寡婦のようであってさえ、自分と息子を後にして、エリヤに「最後の一食」を渡したことで、三年半に亘る飢饉の間中、不思議にも乏しくならない油と食物の祝福に預かっている。(列王記第一17:8-16/黙示録12:14)

しかし、この時代のイスラエルの民といえば、エリヤ唯一人さえ受け入れず、この預言者の逃避生活を援助したのは神が用いたカラスであった。その後も、やっと受け入れたのはイスラエル人ではなく、異邦のシドン人の貧窮に喘いでいたその寡婦であったのだ。ではイスラエルはいったい何をやっていたのかといえば、バアル崇拝と対決して唯一人勝利したエリヤの奇跡を、あれよあれよと眺めはしても預言者は顧みなかった。当時のイスラエルはエリヤほどの預言者さえ放置し、アハブやイゼベルの脅威から保護しようとする者も皆無であったのだ。

そこでイエスはこう言われる『当時のイスラエルには多くの寡婦がいたが、エリヤはその中の誰の許にも遣わされないで、シドン地方のザレファトの寡婦の許にだけ遣わされたのだ。』それをきいたイエスの同郷者らは面子を潰され、イエスに向かって激怒したのだが、何という的外れなことか。彼らはエリヤを超える人物イエスに何をするでもなく自分が役立とうともしなかった。それでは偉大な預言者を世話をするのはカラスで良いとしていたようなものであろう。その原因といえば、ラハブと正反対に信仰が無かったからである。(マタイ13:58)

ここに、どんな宗派に居るかということを超えた善悪の事例があり、神は契約の選民さえ不信仰のゆえに用いず、部外者を用いるという事が起り得るのである。(ルカ4:25-26)

だが、主はこう言われる。その手に管理が委ねられているものでキリストの兄弟たちの『最も小さい者』に対してたとえ『一杯の水を飲ませる』としても、その報いは必ずあると。

人は一定の善良さに達していれば神の前に善人であるというわけではない。
信仰とはエデンでそうであったように倫理上の選択であって、敢然と何かを選びとって支持し、また何かを退けることである。まして知識がそのまま信仰なのではない。イエスの時のユダヤ人の正確な知識は吉と出たか凶と出たか?

そこで自分は信仰に在ると思いつつ「何事も神の思し召し」とでも言って何もしなければ、神の側を選んだことにもならない。「信仰」に泰然としているようでいて、自分に何かできるところを探す判断に怠慢であり、実は神への協調性や忠節心も欠落しており、『忠節な愛』もアガペーもそこに無い。行動によって信仰を見せよと書いたヤコブは『人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である』と言う。つまりその場合に、知識は災いとなるのである。(ヤコブ4:17)

だが、神の業は様々な人々の自発的忠誠心によって飾られ栄光を受けるに違いない。
聖書とは、神と人の関わりの合作の記録であり、ただ神がその意志を遂げた知らせなのではない。カナンの女ラハブの記述も神と人との関わりを語る一つの価値あるドラマである。

それであるから『ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である』と見做される理由がここにある。自分の用いようとするものが『この世』では『不正の富』とされようと、対立の中で手許にある自分に使えるそれをさえ使わないとしたら、もはやその人には神の前に何も残されてはいないではないか。

その人はそれ以上の選択ができないからであり、『一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』とは、神とこの世の対立が先鋭化する終末の一時に於いて焦眉の問題となり得るのであり、そこに裁きがある。それを逃したら「次」は無い。(マタイ25:45)

だが、世の終末の時期に『聖徒』の奇跡の言葉、『神の王国』の征服が近いことを告げる音信に信仰を懐く人々は少なくないことを新旧の聖書が予告している。
聖徒を予告する黙示録の『蝗』の去った後に現れる『騎兵隊』の数は二億であるという。聖徒に触発され、似た業を行うのであろう、これらの人々の活動は『三分の一』を攻撃し、『大いなるバビロン』の滅びに道を開くものとなる。(黙示録9章)

また『シオン』を目指す人々は水の流れのようであり、公権力に使嗾して『聖徒』即ち『二人の証人』に死をもたらす旧来の組織宗教の群れである『大いなるバビロン』の滅びを喜ぶ人々の声は、膨大量の水量のようであるという。その水も、元はバビロンの座すユーフラテス大河の水であったのかも知れない。(黙示録19:1-2)


エリコのラハブが聖なる書を通して我々に示したこの「不正行為」が如何に貴重な報いをもたらしたか、終末にそれがどのような実態となって実現するのかは、その場に面する各個人によって様々に判断されるのであろうが、それが何であるのかは今は具体的には分からない。

だが、自分の手にあるもの、管理を任されたもの、それを危急の状況下で我々は眼前にするかも知れない。それらがその人をして『永遠の天幕』へと導くことになる。即ち、神の是認に至るのである。その時になって、今信仰や知識を持つと唱える「クリスチャン」なりは『この世』の義に拘り、自分の行いの正しさを訴えては却って『この世』と運命を共にすることになるのだろうか?

だが、神への善意を行いで示してこそ、それが『信仰』と言えるとキリストの弟ヤコブは言うのである。これは実に大きな教訓となろう。ただ心の中で教理を信じていれば良いわけではないのである。ヤコブが教えるように、出来ることさえ行わない「信仰」というものは見えることがない。存在しないのだから。

神の経綸を知り、それに自分の願望が一致したからと「信じた」としても、ヤコブによれば、その人が「信仰を持った」と言えない。まだ行動を起こして神の側を支持している様子を見せてはいないからである。臨御のイエスの前に裁かれる『山羊』も『わたしがいつ行わなかったでしょうか?』と問うのである。本人の気持の上では、キリストの味方のつもりのようである。

だが、聖霊の無い身であれば、誰もが裁かれるべきアダムの罪人であることを忘れてよいだろうか。いつ神はその人を事前に是認したろうか?(マタイ25:44)

そして、この管理人の例えを想いの片隅にでも覚えていた人であるなら、実際にその機会の訪れた千載一遇の機会が到来したときに、鮮明に為すべき事が何かを思い起こされるに違いない。

人は、『この世』と『聖徒ら』との敵対を介して、最終的にどちらかを選ぶことが求められるのである。『永遠の幕屋』に於ける、新しい生活のために新しい友を得よ、これが趣旨であろう。(ヨハネ第一5:19)


それにしても、聖なる書がこうまで終末に焦点を合わせているとは、恐ろしいほどではないか。
この例えを聴いていた弟子たちは、まず真意に達してはいなかったであろう。その成就する日はずっと先であったからである。

だが、それが近付いているのであれば、人々は意味を知る必要も生じるのであろう。
だが、実際にそうする人がどれほど居るのだろうか? 誰か困った人々が居ても、いずれ「全能の神」が何とかしてくれるだろうと体制べったりで居るなら、ラハブのようではないただのカナン人に同じく、内心で何を信じていようと『友』など出来ないし、『愛』も口先だけのものとなろうから、新しい『永遠の天幕』も諦めることだ。いや、機会に恵まれていながら忠節さを示さないその人には、もとより神にも人にも関心が有るまい。







  新十四日派 ©2018  林 義平





 

似て非なるサマリア人へのキリストの想い


似て非なるもの

中国古典の孟子、その著「盡心」(じんしん)の「下」に「悪似而非者」(似て非なるものは憎まれる)という知られた言葉がある。
これは元は孔子の述べたところであり、孔子はこれを解して「悪莠 恐其乱苗也」(莠〈ゆう〉と云う草が憎まれるのは、それが苗と混同され兼ねないから)であると言い添えている。

つまり、似てはいるが、実は異なるものは紛らわしくて厄介な存在である、ということから、そこには憎しみが生じる道理があると云うのである。

それはまるで、新約聖書の小麦と毒麦の例えに援用することこそが相応しそうではあるが、この「似たもの」に対するキリストの教えには、この中国古典の精神とは実に対照的で特異なところが見られるのである。

そこでこのたびは、世界標準的な格言をも超えてゆくイエスの教えに注目せんがために、むしろ様々な世界で共通する「似ているゆえに憎まれる」事柄の内でも激しい憎悪の原因となってきたもの、つまり似た宗派同士の異なりについてキリストの言葉から再考してみたい。この中心を成すのは「サマリア人」である。


善きサマリア人の譬え

マタイやマルコではイエスにパリサイ人が「どのおきてが第一か?」と尋ねており、そこでイエスは申命記第六章を引用して『聴け!イスラエルよ・・心をこめ、魂をこめ、思いをこめ、力をこめてあなたの神を愛さねばならない。』

そして、第二としてレヴィ記19章から『あなたの同朋を自分自身のように愛さねばならない』と答えているが、これは「善きサマリア人の例え」の語られるルカ10章よりは後の時期で、イエスの公生涯の終わり間近の一行が最後のエルサレム登城する時期のものである。

この神と人を愛せという、二つの掟は有名ではあるのだが、実際に行おうとするとそれはけっして生易しいものではない。
特に、隣人を愛する事が難しい状況をイエスはその譬えで示すことになるのであった。
それは単にユダヤの同朋を愛するばそれでよいという教条の単なる表層を、「山上の垂訓」のようにキリストらしく遥かに超えてゆく。


さて、ルカ書の善きサマリア人の例えに至る部分に目を向けると
ある律法に通じた人が立ち上がって「師よ!」とイエスに尋ねた。
「立ち上がる」という書き方からすると、これはユダヤ教の会堂の中でのことであったのだろう。
『わたしはどうしたら永遠の命を受け継げるのでしょうか?』これが、この例え話を紡ぎだすきっかけの問いであった。

神殿破壊以前のこの時代、ユダヤ人はいまだ神との関係を享受していたので、彼らは選ばれた選民の一人となる権限を有していたのであるから、彼らに与えられた律法にどう対処するかによっては祝福に預かり、「新しい契約」へと移行することができたであろう。
そうするなら、彼らはアブラハムの嫡流の裔として、そのまま「諸国民の光」である「王なる祭司の国民」に数えられ、真のイスラエルとして「神の王国」での永遠の命に入ることができるはずであった。(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9-10)⇒「神の王国

しかし、イエスは彼の問いに直接的には答えずに、その律法に通じた人を試して、『あなたはどう読むか?』と尋ねられた。

すると、この人は『心をつくし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります。」と答える。
イエスはそれを肯定し『あなたの答は正しい。その通り行いなさい。そうすれば、命を得る。』と言われる。

しかし、ここで話は終わらなかった。
その人は自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、誰のことですか?」

この「律法に通じた人」(モニコス)[μονικός]また「律法学者」とは、当時活躍していたタナイームと呼ばれる律法からその当時の適用法を教える学識ある者、また口頭伝承(ミシュナー)の編纂の当たっていた「大ヒレル」からの流れを汲むヒレル派の学者か学徒のひとりであったのだろう。

この人々はモーセの掟の適用と遵守に熱心であり、ここで「師」と呼んだからには、イエスに一定の律法適用の権威を認めての問いであったことであろう。
彼はイエスを試そうというよりは、自分の何かを正当化する動機があったことをルカは伝えている。
それであるから、「わたしの隣人とはだれか?」という問いには、自分の正しさを示そうとした以上、彼なりに答えは出ていたに違いない。

即ち、律法そのものが述べるように、その「隣人」とはイスラエルの同朋であって、互いに「自分のように愛する」ことが神から求められたことである、と考えていたことであろう。
この人物はおそらく箴言27章10節の『あなたの友、あなたの父の友を捨てるな、あなたが悩みにあう日には兄弟の家に行くな、近い隣り人は遠くにいる兄弟にまさる。』を引き合いに出して、親族よりも近くにいる隣人が助け合うことの大切さを唱えたかったのかも知れない。だが、それもユダヤ同朋の中でのことである。

イエスの答えを得てから、彼がこれらについていよいよ述べようとしていたのであれば、続いて話されるイエスの例え話によって、彼はそのように自分の正しさを表明する機会を失なったばかりか、より重い訓戒を与えられてしまったことになる。

そこでここで語られることになる「サマリア人の例え」を非凡なものにしているもの、また、語られた状況で巧みに際立った教訓を引き出しているのが、これから話される親切を施した善良な人物が、実に「サマリア人であった」という設定にあることを見落とすわけにはゆかない。

サマリアの民族は、大半のユダヤ人の軽蔑の対象であり、彼らからは特に汚れたものと見做されていた。
そのサマリア人をメシアはユダヤ人への講話の中の主人公としたので、質問を投げかけた「律法に通じた」という当の人物の思惑は打ち砕かれ、話があまりに意外な方向に進んだことに当惑したに違いない。

ユダヤ人のサマリア嫌いは徹底したもので、まるで異邦人の宗教ならば却って割り切れたのか、サマリアの宗教にだけは猛烈な拒否反応があった。その理由といえば「似て非なる」からである。

そこで「善きサマリア人のたとえ」には、見知らぬ人への慈愛を説くばかりでない訓戒が込められている。
追剥ぎに遭って身包み盗られたうえ、殴打され傷を負った人の世話をするであろう人も、世に居ないわけではない。ごく自然にそうしようと心が動く人も存在することは人間社会で頻繁ではないとしても、まま見られることであろう。

例え話の中の慈愛ある人の場合には、その同情からくる親切は徹底したもので、自分の去った後の費用までも工面しているのだが、確かに、これはなかなか難しい。

だが、筆者自身、キリスト教徒でもない人がそのようにするのを見たことがある。
他人でありながら、急性疾患のその人に身寄りがないのを知って、病院側に保証人を引き受け、約二十日後の退院当日に現に大枚を持って来られたという奇特な御仁であられる。しかも、その方は患者の帰宅に際して社会的地位から忙しい身で在りながらも休暇をとって同行し、途中で買い物をして食物を整え、家に着いては細い体で重い荷物を二階まで運んでやったのであった。(これはまったくの実話である)

それであるから、ここでサマリア人が登場しなかったなら、このイエスの例え話はユダヤ人の良識の範囲内に留まり、彼らをユダヤ教の次元から引き上げるような内容にはならなかったに違いない。


サマリア人の由来

サマリア人とは、ソロモン王の後の世代、イスラエルが二つに分裂した北王国の主要な土地で、元来はマナセ族の相続領にあったひとつの山に由来し、所有者はシェメルであった。これをイスラエル王オムリが100万円ほどで買い取り、ここをシェメルの名を以てショムロン(サマリア)と呼んで、城市を建設したことに由来する。

以後は北の王国の首都となって繁栄し、エルサレムとは犬猿の仲となった。
イスラエルは北のシリアばかりでなく、同朋であるはずのユダヤとも何度も干戈を交え、互いに糧食や物資を奪い合う間柄となっていった。これは南北の深い敵対感情を醸造してゆくこととなる。

神YHWHはエリヤのような預言者たちを遣わし、何度も譴責を繰り返したが、異教を奉じることも含めて、遂にその罪は重なって、北のイスラエル王国の諸部族は獰猛な帝国アッシリアの手に渡されたのであった。

そうして独立を失って後、イスラエルの多くの民はアッシリアのユーフラテスの北やパルティアに強制移住させられ、アッシリア王エサル=ハドンの時からシナルの人々が入植を始めたと云われる。つまりは強制的「交換移住」である。(列王第二17:24/エズラ4:2)
しかし、その間に荒れてサバンナ化した土地に神がライオンを増やしたので、その獣害に困った入植者は、土地の宗教と見做したYHWHの宗教を取り入れて、この害悪を除こうとする。

それが発端となり、移住させられていたイスラエル流刑囚の中から一人の祭司の帰国が許され、この祭司を通してこの土地の以前の宗教を教えるようにとアッシリア王は取り計らった。
その宗教がどのようなものになったかの詳細は伝えられていないが、彼らはイスラエル同様に生後八日で割礼を施し、アラム語にされたトーラー(タルグム)を読んだ。彼らの過ぎ越しの祭りは21世紀の今でも行われている。

しかし、神殿を有するユダヤから見ると、この土地に残されたイスラエル人と入植者の雑婚もあってか、この崇拝は同じ神YHWHを奉じながらもメソポタミアの祭式が混じり合い、ユダヤ人からすれば異様であったようで、異教と混成したような宗教は特に嫌悪されたようである。(列王第二17章)
しかし、彼らの中にはイスラエル王国を失った北の部族の残留者の血統が多く含まれたことには違いなく、以前には同じくイスラエル民族であった彼らには不可抗力的事態であったというべきだろうか。

時代が幾らか降ると、ユダヤもバビロン捕囚を経験し、その後キュロス大王のバビロン征服を期に、神殿祭祀再興の為にユダヤ人の残りの者らがバビロンから上って来て、エルサレム跡地に神殿を再建しようとした。そのときサマリアの人々は、その中途半端な崇拝方式をユダヤ人の正統なものと合流できる機会とすることを目論んだ。(エズラ4:1-3)

だが、これは真正なYHWHの崇拝を汚しかねないことであり、ユダヤ側はこれを謝絶してきたのであった。
アッシリア帝国は既になく、キュロス大王の勅令はユーフラテスの北に強制移住された北のイスラエル王国の民にも届いたのであろう。彼らの中で帰還に応じた人々があったとすれば、その目的地はユダヤではなく、ガリラヤやサマリアなどであったろうから、神殿再興の業への協力を申し出た背景に、あるいは聖書には書かれていないものの、これら十部族の末裔の存在もあったのかも知れない。

しかし、ユダヤ側からの拒否の返答に遭い、サマリアは憤激し、エルサレム神殿再建の妨害を始めたのだが、これは再び両者の交流を阻害するものとなってしまうのであった。(エズラ4:8-10)⇒アリヤーツィオンの残りの者

以後、サマリア人はエルサレム神殿再興への関わりは叶わなくなったばかりか、ユダヤ人はサマリア人を嫌って神殿域への進入さえ拒絶するようになる。
それでも神YHWHへの崇拝を続けようと願うサマリアは、ヘレニズム期の前300年頃なると自分たちの神殿を建立する。

その場所は、更なる古にカナン入植を前にしたエホシュアの時代の全イスラエルが集合し、また更に古くは「約束の地」に入ったアブラハムが天幕を張ったというほど由来の深いエバルとゲリジムの山からゲリジムの峰を選び、ここに自分たちのYHWHに奉じる神殿を建てるのであった。

ここにおいて、ふたつの民族の崇拝の方式がひとりの神に捧げられていたことになる。

預言者たちの言葉によれば、神YHWH自身から観て、北も南も律法契約を踏み越えたことには変わりなく、どちらも罪無しというわけではない。第二神殿に契約の証しの箱は戻らず、その崇拝は昔日のものからは後退しており、律法契約は不安定で、エレミヤの伝えた「新しい契約」が何を意味するかもキリストの公生涯中であってさえ民には未だに謎であった。

しかし、サマリアといえば、北王国の処罰の後に登場してきた派生民族であるから、南北の律法の違反に直接関わってはいなかったし、神に直に処罰されたわけでもない。その後に現れ、律法を戴いてそれを自分たちなりに守ろうとしてきたのである。
その状況で、ユダヤ、サマリアの双方とも正統を主張して譲らず、それぞれの民は宗教的対抗心と敵意を持つようになる。

一方で、連れ去られた北の部族が大手を振ってユダヤに合流する場面を歴史は知らない。
おそらくは、ペルシア帝国期からヘレニズム化してゆく過程で徐々に北の諸部族からの帰還があったのだろう。

(余談ながら、北の部族が日本に渡来した可能性を云々する向きもあるが、確かに神道はエルサレム神殿祭祀に似ており、日本語とヘブライ語に共通するような単語の多さも異様ではあるが、この件を掘ってもそう価値のあることを見つけられそうもない)


さて、イスラエルの「回復の預言」は、どの十二支族も差別するものとはなっていないし、現にルカの福音書にはキリストの時代に北に属するアシェル族のパヌエルの娘アンナがエルサレム神殿から離れずに居たことを伝えている。これはアッシリアによって遠方に移住させられた人々の幾らかが戻っていることを示しており、それらの人々がこうしてイスラエルの一族、ユダヤの同朋として神殿崇拝に受け入れられているのを確認できる。(ルカ2:36)

他方、北の地域に残され混血したサマリア人の方はと云えば、かつてのゲリジム山の神殿での崇拝がどのようなものであったのかは分からないにせよ、今日も行われている彼らの「過ぎ越し」からすると、日付が異なったり、羊が燻製にされたりと「似て非なるもの」である。それは彼らが、ゲリジム山上でアブラハムがイサクを焼燔の犠牲として捧げようとしたと主張しているところからくるものだろうか。(それでもサマリアは伝承や律法の定式に従う点で現イスラエルより正確である部分も残っている)

しかし、彼らが第一次ユダヤ戦役でローマ軍の一部隊とゲリジムで戦闘を行ったことはあっても、西暦七十年のユダヤの破局を共にしなかったので、彼らのタルグムは生き残り、ヘブライ語ではないにせよ、それに近いセム系のアラム語でモーセ五書が保管されており、世界で最も古いこれは「サマリア五書」と呼ばれ、古さに於いてイスラエルに優るテキストとして研究されている次第であるが、ヘブライ語でないゆえにイスラエル側はこれを最も古いトーラーとは見做していない。

さて時代を遡る前2世紀のこと、ハスモン朝ユダヤ王国時代、サマリア人のゲリジム神殿は、セレウコス朝の弱体化に乗じて北に勢力を伸張してきたハスモン朝のユダス・マカバイオスの甥ヨハナーン・ヒュルカノスⅠ世率いるユダヤ軍によって破壊されてしまった。(B.C182)

ユダヤ人としては、これを間違った崇拝を覆す正しい行いと思ったことであろう。だが、神はこれをどう観たのであろうか。
その恨みは間違いなくサマリアに残っていた。それでもサマリア人は、廃墟とされた神殿跡地で変わらずにアブラハムの神への崇拝を続けていたのである。

それであるから、後にイエスがゲリジム山麓のシェカルの井戸で話しかけたサマリア女が、『わたしたちは父祖の代からこの山で崇拝してきたのに、あなたがた(ユダヤ人)は崇拝する場所はエルサレムだと言います』と語った言葉の背後には、この深い恨みが込められていたことであろう。

しかし、それに対してイエスは普通のユダヤ人なら到底言わないような返答をするのであった。
『あなたがたがこの山でもエルサレムでもないところで父を崇拝するときが来ようとしている・・真の崇拝者が霊と真実とを以って父を崇拝する時が来る。そうだ。今来ているのだ。』(ヨハネ4:21-23)

この言葉は西暦七十年のエルサレム神殿の亡失と、その以前に聖霊降下がイエスの弟子らの上に起こったことによって現実のものとなったのを我々は知っている。

この女との会話の数年後、福音宣明者フィリッポスによってキリストの信仰が再びサマリアに及ぶと、この地の人々がこの新たな教えにこぞって転向してきたことも使徒言行録の伝えるところであり、そこで使徒ペテロが派遣され、「神の王国の鍵」を用いたので、サマリアの人々も聖霊が注がれることにより『新しい契約』に招じ入れられ、こうして彼らもユダヤ人と共に聖霊が注がれ「アブラハムの遺産」に預ることになったのである。

キリストの契約の下では、今更エルサレムやらゲリジムやらの崇拝の中央を云々する意味もなく、天界のキリストの許に聖霊を通してひとつに結ばれる希望が双方の民のものになったのであるから、それは不和と敵意の収束されるべき時の到来となったに違いない。そこでは、聖霊によって生み出されるに及び、遂に両者の平和がもたらされることになったといえよう。



イエスを高揚させたもの

しかし、イエスの現れた時代のユダヤ人のサマリア人への蔑視にはかなりのものがある。
ユダヤ教徒は会堂や神殿で、公然とサマリアを呪い、永遠の命を与えぬよう神に祈ったともいう。
ユダヤ人はサマリア人を「クスィム」と蔑称で呼んだが、それは彼らが強制移住させられてサマリアに来る以前に住んでいたメソポタミアの「クタ」の地名によるそうであるが、それはサマリア居住であることさえ認めないという趣旨が込められているだろう。だが、ヘブライ人も元はといえばその近くのメソポタミアのウル近郊の出ではないだろうか。

それであるから、イエスと論争していたユダヤ人らがイエスを指して『あなたはサマリア人で悪霊に憑かれているというのが真相ではないか?』と言い放ったときには相当な侮蔑を込めていたことになる。(ヨハネ8:48)
つまりは、他ならぬメシアに向かって「怪しく似てはいるが間違った悪魔の教えを説いている」と云っていたことになるのである。

ではその一方で、キリストの想いの中で「サマリア人」はどんな位置を占めていたのだろうか。
確かに、公生涯中のイエスは確かにサマリアへの伝道を弟子らに禁じており、サマリアの女にも「救いはユダヤ人から起こる」と明言してもいる。イエスは公生涯においては、まず第一にイスラエルの失われた羊を集める業に着手していたからである。

しかし、新約聖書中では度々サマリア人が登場してくるが、悪い人物として表れるのは魔術師シモン*くらいのもので、イエスに癒された十人のらい病人の内で感謝を述べるために戻ってきたのはサマリア人だけであった、と正直に伝える福音書を書いたルカの精神は、やはりユダヤ人一般の見方を超えている。(ルカ17章) *(このシモンはサマリア人でない可能性も知られる)

また、イエスはサマリア人の女に「シェカルの井戸」で話しかけたとき、まずユダヤ人にはしないことであったが、その女には自分がメシアであることをはっきりと明かしたのである。

旅の食物を確保してその井戸に戻って来た弟子らは、主がサマリア人(ごとき)の女と話していることが解せなかった。
その傍らで、イエスの語る言葉に驚愕した女が、町の皆に知らせようと水瓶も忘れて走り去って行くと、イエスはこう言われる。
『収穫までまだ四か月あると言うだろうが、目を上げて見よ!土地は既に白く見え収穫を待っている』

そこでは、井戸端の一人の女を通してサマリアという畑がメシア信仰に色付き、もう刈り取られるのを待っているように広がる麦穂の波打つ予見の光景がイエスにはまことに喜ばしく見通せたのであろう。

それであるから、弟子らが「主よ、食べてください」と、しきりにパンを差し出しても、イエスの心は高揚し、旅に疲れ果ててシェカルの井戸端にどっしりと腰を下ろした先刻とはまるで様子が異なっていた。
サマリアの収穫、それは同行しているその弟子らが数年後に穫り入れることになるサマリアの人々である。

それは七百年もの遠い昔に神がライオンを送って以来の収穫であり、弟子らは自分たちの蒔いていないものを刈り取ることになる。まだ弟子らは何も知らないが、キリストであるイエスには数年後のサマリアが予見され、すっかり爽快になったのであろう。

『わたしにはあなたがたの知らない食物がある』と言われ弟子たちが訝ると、その食物が何であるかを主は明かして、『それは私を遣わした方のみ旨を行い、成し遂げること』がその食物であると言われるのであった。

ユダヤ人全般の見方をよそに、古代にサマリアに蒔かれた種はみごとに成育し、現れたメシアを信仰の内に受け入れる用意が整っていたのであった。それは思えばまことに長い道のりであった。
しかし今や、イエスは収穫を行う刈り取り手たちが既に賃金を受け取って作業を始めたとまで言われるのである。

あと数年。そうすればサマリアに福音が到達してペテロが鍵を開け、聖霊がこの地にも到達するであろう。
それは「アブラハムの裔」を小麦として倉に集める業であり、ユダヤがメシアに良い反応を一向に見せない中で、サマリア人にはその機会が差し伸べられたことを意味している。
そうして『蒔く者と刈り取る者とは共に喜ぶことになる』であろう。

弟子らは労せずにその収穫に預るが、かつて与えられた一人の祭司から蒔かれ始め、「似て非なるゆえに」ユダヤとは仲たがいの年月が久しく続いてきたのだが、今やメシアが現れたので、いずれ聖霊が到来するなら、すべての労苦の報われるときとなる。このヤコヴの井戸の一件は、イエスの内にあったサマリアへの喜びの大きさの伝わる場面である。

このとき、その町の住民たちはイエスをその通りにメシアとして受け容れ、一行に留まるように願うのであった。
そして一行は、メシアへの信仰を表したサマリアの町に二日留まったが、それは異邦人に対する扱いとしては異例であったろう。宿には更に多くのサマリア人が集まって来たとヨハネは記しているが、普段なら交友することのないイスラエルのイエスたちとサマリア人らの交歓の声が聞こえてきそうである。イエスは彼らの間に何かの奇跡を行ったとは書かれていないにも関わらず、このサマリア人たちは彼の言葉だけで信じたのであった。

イエスは確かにイスラエルの羊を尋ねるべくガリラヤとユダヤを往来し、サマリアといえば中間の「半異邦人地帯」で、通り掛かりという程度のものではあった。しかし、サマリアの特殊な事情をこれほどの共感を以ってイエスは見ていたのである。(マタイ10:5)

そして、この「善きサマリア人」の例え話がある。


誰が本当に隣人であるか?

では、メシアの語る「善きサマリア人の例え」に入ってゆこう。

さて、エリコに下る街道は岩のごろごろとする死角の多い通行人には危険地帯であった。
当時、追いはぎ強盗など出没しやすい道であったのだろう。

例えの中で、そこに倒れていた人はおそらく所持品も多かったのだろうが、いまや裸で殴打のため意識も無い。
そのような光景に出合ったなら、我々はどうしようか?

一人の祭司が通りかかった、当時には祭司の都市であったレヴィに属する町エリコに帰る途中であったように語られる。
すると、この祭司は半殺しの目に遭った同朋を見ると、道の反対端に寄ってその場面を避けて行ってしまった。

次に通りかかったのはレヴィ人で、やはり神殿祭祀の勤めを果たして帰るところであったようだ。
彼も倒れた人を見かける。するとやはり反対の端を通ってその人を避けて去っていった。

彼らは倒れている人が既に死んでいるなら、『死体に触れて汚れを身に受ける』という律法の定めを犯さないようにしなければならないと思ったのかも知れない。
そうであれば、自分の清さを保つことが同朋を救うことに優先されたのである。つまりは、宗教上の「清い勤め」が人間味ある振る舞いを差し止めたというところか。

あるいは、内心ではまったく他人事であったという、それ以下の理由であったのかも知れない。
確かに、身包み剥がれた被害者がどの人種であるかを特定するすべは無かったかも知れないが、それはこの例えの主旨に関わるものではない。(ユダヤとサマリアとは共に割礼の民である)


そして、三人目にサマリア人が通りかかる。
彼は、そこに半殺しの目に遭い、持ち物をすっかり剥がされた人を見た。

宗教的に対立し、軽蔑されているか否かに関わらず、このサマリア人は倒れている人を見ると『哀れに思う』。
そこで初めての、そして貴重な助け手として倒れたユダヤ人の傍らにサマリア人が近づいてゆく。

彼は傷口に油(オリーブか)を塗って(汚れを除き)、さらにブドウ酒を注いで(消毒した)。
それから包帯を巻いて(止血して)やったが、そのままにすることはとてもできないと思ったのであろう。自分の家畜(ロバか)にのせて(エリコの)宿屋まで運び、世話を続ける。

翌朝、自分は出立するものの、回復しておらず、おそらくまだ眠っている被害者のために二日分の日当に当たる額を宿屋の主人に差し出し、世話の継続を頼んだのであった。
それだけではない。その後いくらの費用が掛かろうとそれを自分が戻って払うとまでいうのである。

この例え話を聴いていた人々は、その内容に引き込まれていたであろう。
今日聖書で読む我々もそのようである。
だが、その場で聴いていたユダヤ人にとって、親切を示したのが実にサマリア人であったというところに大きな動揺があったことであろう。

そこでイエスは問う。
『さて、これら三人のうち誰が本当に隣人であることを示したか?』

これに答えるのはユダヤ人にはさぞや辛いことであったろう。
殊に、宗教に熱心であればこそ尋ねられたくない問いである。
聴衆の皆がイエスに問いかけられた者の答えに耳を欹てたことだろう。

先の「律法に通じた人」は、やはりイエスの問いに戸惑いがあったようだ。
それは「そのサマリア人です」とは答えなかったところに表れていよう。

彼の答えは「その人に親切にした者です」であった。
サマリアの名は出したくもなかったようだ。
彼にしてみれば、親切を施したのがサマリア人でなくユダヤ人であればどれほどよかったか。それならば、まだ格好もついたであろうに。
だが、それではこの例えも、窮した人への親切を奨励するだけの凡庸なものに終わったに違いない。

そしてイエスの言葉は結論に至る
『あなたも同じようにせよ』。

つまり彼にはいかがわしい宗教の徒であるサマリア人を範とせよということになる。

もし、サマリア人が困るようなことがあれば勿論のこと助けを差し伸べなくてはなるまい。これもまた大いに難題であったことだろう。

原因は、もちろん彼らの内に有る敵愾心や蔑視であり、イエスは隣人愛を示す前に、それらの差別意識が親切を阻害するものであることをサマリア人を通して教えられたのである。

「律法に通じた人」もこれにはぐうの音も出でず、自分の義も示せずに終わったに違いない。隣人愛を語る前提となる土台を突かれてしまったか、彼の返答は何も書かれていない。

それでも、まだ「サマリア人などは人ではない」などと暴言を吐かなかったところは、この問い掛けた人物に見るべきところがあったというべきか。


「崇拝方式」という「部分」

この例えは、単に深い親切を誰にでも示すようにとの教訓で終わるものではない。
イエスは隣人愛を示そうとするときに、宗教上の対立、偏見、差別、蔑視、敵意などを超えてゆくように求めていたのである。これこそは人間同士を隔てる心の壁ではないか。

それは、敷衍すれば宗教だけでなく民族や政治や思想の対立も含むであろう。

21世紀の今日、前世紀の二度の世界大戦が過ぎ去り、その激痛に学ぶところがまことに多かったにも関わらず、人類は民族主義や愛国心を衰えさせず、人を人種や国籍毎に判断する傾向は減ることなく、むしろ増えてさえいるようである。

人は確かに隣人とうまく生きてゆくのが難しい。
その原因は「罪」からくる「貪欲」にあることだろうし、そこから多くの敵対心や憎しみや怨みが連鎖的に湧いて出るものである。

しかし、その「罪」の相殺のためにこそキリストは世に来られ、その余りにも貴重な犠牲を捧げる必要があったのだ。

このキリストが贖いを捧げた自己犠牲の精神を以って世を眺めるなら、人々が争い憎む原因をわざわざ作り、それを煽って対立の火を燃やすのは何と愚かなことなのだろう。
それは政治然り、愛国心や民族の対立然り、そして宗教の宗派毎の正義感もその責めを逃れられないのである。

それらはキリストの愛の教えからすれば偏狭で、偏執的であろう。人はキリストの犠牲によってどれほど多額の負債を許されるのだろうか。

だが、一歩引いて眺める冷静さがなく、それぞれのドグマの近くに立てば立つほどその視野は近視眼となり、古代のユダヤ人のようになってしまう。

当時、確かにエルサレム神殿での祭祀が続けられており、イエスもまたその祭祀に従うユダヤ人であった。
しかし、その神のみ旨はその崇拝方式のそのものの厳格な履行にあったのではないことを度々イエスは語っている。

それは神の意志を成し遂げる過程の一部に過ぎず、崇拝の方式が永続する神の御旨の全てであるかのように見做していれば、却って神の意図するところから外れるという愚を犯す危険がある。

それは今日のキリスト教諸宗派とて何の変わるところがあるだろうか。
まるで異なる宗教よりも、同じキリスト教に拒否感が強いのも、やはり「似て非なるもの」だからではないか。

「どこの宗派はキリスト教とは言えない」また「彼らの用いているものは聖書とは言えない」、他方で、「古いキリスト教界は異教のもので悪霊崇拝である」など互いに異端視して軽蔑し合っているところは昔日のユダヤとサマリアのような対立の構図はそのままに見えるかのようである。 確かに我々は、隣人ばかりでなく近い宗教の人々を尊重し、うまく共に生きてゆくことも難しい。

しかし、ユダヤとサマリアという当事者たちからすれば決定的に見えた違いも、あのシャブオートの日以来、聖霊の降下によるキリスト教の出現して以降、両者が聖霊を受けるに従いその違いも正義も意味を失ったのであった。

ユダヤ教は過去のものとなり、「新しい契約」に属する崇拝の方式は、地上に崇拝の中央を必要とせず、聖霊を通してゲリジムでもエルサレムでもない天にその崇拝の中央を得たので、両者の軋轢も無用で的外れなものとなり、あまつさえ聖霊は更に進んで、まったくの異邦人に向かって拡げられて、世界をひとつキリストの下に結びつけ始めたのである。

では将来、再び聖霊が到来するときにはどうなるのであろうか?
つまり、真にキリスト教が回復されるであろう時に、現今の宗派の義が何の意義を保ち得るか。
いや、どのような宗派に属していようと、聖霊への信仰を通して再びキリストの下に合一すべきであるに違いない。

もちろん、邪悪を憎むゆえに義憤を覚えることは自然なことではある。
しかし、今日まで人間社会は、様々な主張の異なり、ドグマや教理の違い、そのうえ人種や民族性の差異に、憎しみの隔ての壁を打ち立て、容易に敵意を煽ってきたのだが、その原因と言えば、それぞれの持つ「自分の義」ではなかろうか。
キリストのような精神を反映しようとする以前に、これらの「余分な義」が邪魔をしていたのでは、その「キリスト教」に意味は無いであろう。キリストの名を騙る「宗派の義」などは特に厄介なものである。

イエスは使徒らにこう語ったものである。
『聖霊が到来するときにあなたがたは力を受け、ユダヤとサマリアのすべて、そして地の絶え果てるところまでもが、わたしを証しする者らとなるのである』(使徒1:8)

「終末」と呼ばれる将来に再び聖霊が注がれるとき、宗派という崇拝の方式に何の意味が残るだろうか。







             2014   © 林 義平    
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諸国民の光「オール ラゴイーム」とオリーヴの接木

<難易度 ☆☆☆☆ 中>




「斯くして全イスラエルが救われる」(ローマ11:26)
このようにパウロが語ったときイスラエルは確かに危機にあった。
それは捕囚をもたらした罪科の時代に匹敵する、いやそれ以上の危機である。

そのイスラエルとは、血統上のイスラエル民族、アブラハムの嫡流を指している。
では、彼らが「救われる」べきどんな危機が臨んでいたのか?


まさに重大な危機であった。
イスラエル民族に神から約束されていたメシア到来に接して、彼らの思考力は衰え、なんと彼らは頭が頑なになってあの父祖の代から待望されたメシアを拒絶したというのである。


この件には、イスラエル人が自分たちの使命と認めてきた「諸国民の光」となるべきことの危機、そしてこの情況でパウロの語った「オリーヴの接木の例え」が関わっている。

もし、人類が「諸国民の光」を失うことになれば、イスラエルに留まらずあらゆる人々に神からの恩恵も救いも無い。

そのためにも、まずイスラエルが「諸国民の光」となることは人類の救いに関わる重大事であった。いや、と言うよりは「諸国民の光」となる事は現在も完結してはいない。
今日のイスラエル人ユダヤ教徒に彼らの使命は何かと問えば、「『諸国民の光』(オール ラゴイーム)に成る事だ」と答えだろう。

この『光となる』という民族の使命はいったい何を指しているのだろうか?
ではまず、この民が「諸国民の光」となるべき理由はどこから来るのかを観てゆこう。


この言葉は、イザヤ書に数箇所存在しているが、イスラエル人が使命と感じる理由を端的に語るのは49章にある。
まず、神は彼ら民族に向かって語る。『イスラエルよ、あなたはわたしの僕である。あなたによってわたしの美しさが現れされることになる』。

神からこう語られる民族の誉れは想像に難くない。

それから『あなたがわたしの僕となって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルの抑留者たちを帰り戻すことは容易なことであった。
更にわたしはあなたを諸国民の光とし地の果てにまで我が救いをもたらす者とする』とも神は宣う。

つまり、神はイスラエル民族を用いて人類に益をもたらすというのである。
それは遥かな創世記の昔、アブラハムへの約束にも含まれていた。
『わたしは、あなたから大いなる国民を作り、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。・・・地のあらゆる部族はあなたによって必ず自らを祝福するであろう』。(創世記12)

アブラハムの裔であるイスラエルは「地上のすべての家族」の益をもたらす器であり、彼らにこそ『様々な契約と律法の授与と神聖な祭祀と多くの約束』を神は与えたのである。(ローマ9:4)

それでキリスト・イエスが、自分を信じたユダヤ人らに向かって『あなたがたは世の光』と山上の垂訓に語った背景はここにある。しかし、異邦人に対してはけっしてそうは言わなかったであろう。(マタイ5:14)

だが、そのイスラエルもこの優れた立場を二度失う危機に面した。
一度目は、イザヤ書が預言したバビロン捕囚であり、二度目はメシア、すなわちナザレ人イエスの拒絶であった。⇒ イエスの終末預言

その二回ともイスラエルは神殿を失い、彼らの神への祭祀は不可能となったが、一度目は百年を待たずに再開したものの、二度目の神殿の喪失ではイスラエル民族による祭祀の中断は今日まで二千年に及ぶことになった。

特に、二度目の神殿喪失の原因は、貴重な神の「独り子」メシアを拒絶することに於いて決定的であったことを福音書が明かしている。(ルカ19:41-44)
イエスが現れ数々の奇蹟を行い、聖霊をもって「神のみ力」を示したにも関わらず、イスラエルの大半はこれを信じず、指導者らはメシアに躓いて、却ってローマ総督に処刑させたのである。

『律法はキリストに導く養育係』であるなら、これは永く続いた律法契約の目的からまったく逸れた大失敗である。その原因は『神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまった』ことにあった。即ち、不信仰である。(ヨハネ第一5:10)

では、イスラエルによる諸国民への光が輝くことはなくなったのだろうか?
全能の神(エル シャッダイ)を称えるイスラエルの神YHWHにとって『手が短い』ということはない。(民数11:23)

血統上のイスラエルの僅かではあってもイエスに信仰を持った『残りの者ら』を保ちつつ、アブラハムのような信仰を持った非イスラエルの信徒からアブラハムの約束を成就する器たるイスラエル、つまり『神のイスラエル』に招き入れたのである。


このことは、メシア拒絶の酬いとしてのエルサレムと神殿の破壊を待つ「世代」の間にも進められた事業であり、その門は使徒ペテロによって異邦人に対して開かれていた。

異邦人をもイエスが招く姿は「羊の囲い」の例えに示されており、それが見事な預言であったことを使徒らは自らの体験を通しても理解したであろう。⇒ 「羊の囲い」の例え

実に使徒たちの活動は、『諸国民の光』となる人々、つまり血統だけによらず信仰による真のイスラエルに属する当時の人々を集め出す業ということに尽きる。その光は血統上のイスラエル民族の大半から離れ去り、彼らと異邦人のふたつの群れを成す『神のイスラエル』こそが『諸国民の光』として輝くよう招かれ『産み出され』ようとしていたのである。

そうして頭書のパウロの『斯くして全イスラエルが救われる』という言葉が明瞭となるのである。



-◆オリーヴの接木---
 

「諸国民の光」となる主要な裔また胤は、ひとりのアブラハムの子孫、ダヴィデの王権の継承者、約束のメシア、ナザレの人イエスである。
このことを認めることのできたイスラエル人は真に幸福である。その人もまたイエスと共になって『諸国民の光』となりアブラハムの大いなる遺産『神の王国』、真のイスラエルを受け継ぐ者となるからである。

それは、肉を去って『死へのバプテスマ』を受けアダムの命にあって死に、イエスの命にあって霊を受け天に生きる体を受けることになったからである。

つまり、人類を益するアブラハムの裔また胤とは、キリスト・イエスを中心に天に召集される一団の人々であり、人類に対して幸福な善政を敷き、罪を贖う祭司として働くのである。


使徒ペテロがキリストの信徒らを指して『あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた格別の民である。それは、あなたがたを、闇の中からご自分の驚くべき光に招いてくださった方の優れた徳を、あなたがたが宣明するためである』。と語った背景はここにある。(ペテロ第一2:9)

この「神のイスラエル」に選ばれた人々には、あの五旬節以降、聖霊の賜物が降り、パウロはその聖霊の賜物が選びに対する「事前の保証の印」であると言う。(エフェソス1:14)

その聖霊の賜物が異邦人に対しても注がれるようになったのは、使徒ペテロがローマ士官コルネリウスを尋ね『神の王国の鍵』を彼らに対して開けたときからのことである。

その時、はっきりと神意は示され、イスラエルに血統によらないアブラハムのような信仰を持つ異邦人が真の意味での裔として呼び込まれたのである。

それは丁度、いざ息子の婚宴を始めようとしたときに招いておいた招待客が集まらないので、何処なりとも居る人々を招いて満席にした王のようであった。(マタイ22)

イエスは、あるローマ士官の信仰の強さを讃嘆してこう述べたことがあった。
『「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。 あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天の王国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。』(マタイ8:10-12) 
 

加えて、「異邦人への使徒」であったパウロは、後に「オリーヴの接木」の例えを語るのであった。

それはローマ人への手紙の11章にある。

パウロはイスラエルのメシア拒否が古代の預言者エリヤの状況に当たることを述べる。
イスラエルは預言者たちを殺害し、神の祭壇を覆し、残された預言者エリヤをも亡き者としようと追っていた。そこにおいて神は、異神バアルに屈しない七千人の残りの者をイスラエルの中に残しておいたのであった。(列王第一19:18)

同じように、ナザレのイエスに信仰を置く幾らかの『残りの者』がおり、彼らは血統上のイスラエルからの者らであって、イザヤはこれを『イスラエルが海の砂粒のようであったとしても、救われるのは残りの者である』と預言していた通りである。(イザヤ11:22/ローマ9:27)

ではイスラエルの不信仰のために欠けた神の王国の人員はどうされるのか?

そこで神は接木という秘策を用いて不信仰なイスラエル人を剪定し、信仰深い非イスラエル人という産出の見込まれる野生ながら良質な枝を接ぐというのである。

『では、ユダヤ人が躓いたのは、まるで倒れてしまったということなのか。決してそうではない。むしろ、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になったが、それは、彼らに嫉みを起こさせるためだった。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼ら(イスラエル)の全体が救われたとすれば、なおのこと良い』。(ローマ11:11-12)

こうして、異邦人はアブラハムという種から成長したオリーヴの木、血統上のイスラエルに接木され、その枝数が満たされる。

 そこでパウロの次の訓戒の意味が明瞭に理解されるようになろう。
『もしある枝が切り取られて、野生のオリーヴであるあなたがそれに継木され、オリーヴの根から豊かな養分を受けているのなら、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのである』


 それゆえ聖霊を受けアブラハムの裔に連なることが許されたことは特例である。
『彼ら(イスラエル)は不信仰のゆえに折り取られ、あなた(異邦人)は信仰のゆえに立っている。高ぶった思いを抱くことなく、むしろ恐れよ』
『もしあなたが、自然に生えた野生のオリーヴから切り取られ、自然の性質に反して良い(栽培の)オリーヴに継木されたのなら、ましてこれら(栽培されていた)良い枝は、より良く元のオリーヴに継がれないだろうか』。


 これは異邦人に対するイスラエル人の本来的優位を述べている。
『諸国民の光』となるべき神の選民イスラエル、その『神の王国』の民となることが異邦人に開かれたが、それは期間も人数も限定されたものである。


パウロはこう言っている『諸国民が入って(全数が)満たされる(プレーローマ「完成する」)までイスラエルの一部に頑なさ(ポローシス「頑迷」「見えない」)が生じたということである』。(ローマ11:12.25-26)

これは無制限な異邦人の流入を意味しない。「イスラエル」への一定数の人員が確保されるなら召しは終わるのである。

 但し、彼らは召されてなお厳しい試練のふるいに掛けられるので、聖徒に召される人の数は定数よりは相当に多いのであろう。その最後の選別についてもイエスは様々なたとえを用いて『狭い戸口から入るよう努めよ、入ろうとしながら入れない者は多い』とも言い添えている。(ルカ13:24/マタイ10:32-39)



-◆救いの実態----
 

キリストの意義は何かと問えば、神と人との仲介者であろう。(テモテ第一2:4.5)
すなわち、エデン以来神から離反し「罪」を負った人類を、創造本来の神の創造物たる「神の子」に復帰させ、人類を「救う」ことである。(ヨハネ1:12)

それを以って人類は輝かしい神の特質を反映することが出来るようになろう。

天界で神の傍に住まう喜びは『天の王国』に選ばれた者、聖霊の賜物をはっきりと有する人々のものであった。聖霊の保持は本人にしか分からない心理作用などではないし、今日のスピリチャルのように自己を益するものでもない。また、忘我の憑依状態とも無縁であった。(コリント第二2:22/コリント第一14:12・15)

だがそれが、西暦第二世紀以降のどこかで聖霊の賜物が無くなったことから、キリスト信徒の間に理解の混同が起こった。

つまり、使徒たちが聖霊の賜物を有する信徒、つまり『聖なる者ら』(ハギオイ)という人々に語った言葉の数々を、そのまま自分たちに語られたものと思い込んだのである。
ローマ人への手紙は「聖徒ら」(ハギオイ)へと、宛名書きされているが、新約の成立する時期には、聖霊を有する人々の比率はエクレシアの中で相当高かったようであるが、それでも信徒と聖徒の区別は聖書中に幾らか見られる。(ローマ1:7/12:13-)

このように、キリスト教徒の間に「信徒」と「聖徒」に区別があるとしても、それは所謂「差別」とはならない。なぜなら、天でキリストと共になる人々は人類の益に仕えるのであり、その他の人々は言わば「客」のようにその幸福に与れるのである。(黙示録20:6)

地上に人として生きるということは、天に行くための準備でも裁きのためではなく、そのように地上で生きるよう創造されたからである。⇒ 政治と宗教の存在理由


ひとりの天使であったサタンの違反を通して創造界に入ってきた「罪」がもたらしたものに人類は全歴史に於いて苦闘してきたが、それらの諸悪からの解放こそが人類の救いであって、神はその手立てをアブラハムに告げていたのである。

しかし、聖霊の賜物を失ったキリスト教は、以後その状態のままで回復されていない。
もし、真に聖霊ある者がいるなら、その人は為政者と対峙し、誰からも反駁できない聖霊の言葉を命をかけて語り、それは世界を震撼させるとされている。(マタイ10)

今日、異言を語るというキリスト教徒も居るが、為政者と対峙するほどのメッセージを彼らは持つのだろうか?ただ、自分の理解できぬ言葉を語ったからといって世界に対してどれほどの意義が生じよう。

しかし、聖なる者が現れるなら、彼らこそが神の正義と真理を持つゆえに、分裂し相争うキリスト教界は彼らによって徹底的に浄化されるだろう。彼らの持つ聖霊には反駁のしようもないからである。

それこそはキリストの帰還、「再臨」とも称されることのある「臨御」(パルーシア)の時の証しとなる。

人はそれをもって『夏は近い』と知るからである。⇒ パルーシアの標識

以上のようにキリストの教えを理解することが、如何に既存の大半のキリスト教会と異なるかを知るなら、多くの信徒には受け入れられないであろう。

それは恰も、ユダヤ人もパウロのキリスト教を受け容れることが出来なかったように、その逆もまた仕方のないことではあるが、このように理解するなら聖書理解の見通しは一気に開かれて、様々な記述が次々に得心できるものになるであろう。

キリスト教とは、アブラハム、イスラエルに啓示され、古代から漸進的に進められた神の歩みの連続の上に理解されるものではないのか?
キリスト・イエス自身もまったくのユダヤ人であり、『女より出でて律法の下に置かれ』生涯ユダヤ教徒であったことは紛れもないことである。

端的に言って「キリスト教」とは欧米文化のものではなくユダヤ=イスラエルの教え、つまりアジアのものに他ならない。
それが聖霊が引き上げられると共にキリストの不在が始まり、聖霊を持つという意味での「イスラエル人」が居なくなった上、ユダヤがキリスト教を拒否したので、この優れた教えもギリシア=ローマなどまったくの『異邦人の罪人』が踏み躙る汚されたものとなったのである。⇒ キリストの不在

ではイスラエルの聖なる神は、聖霊もない単なる異邦人にいったい何時『諸国民の光』となるよう任じたのか?誰も聖霊なくしてアブラハムの裔とはならず、その接木ともなれない。

そもそもキリストが「ユダヤ教を改革した」というのは大きな誤りというべきであろう。
「任命された者」であるキリストは聖書の教えをユダヤ教から先に進めたのであって、それは一連の神の計画の中でのことであり、キリスト教だけ独立させて捉えるならオリーヴの根からの滋養は届かず、いずれは枯れゆくものとなるのであろう。

聖霊による『神のイスラエル』への選びこそが全人類を救済する『諸国民の光』をいまだ保っているのであり、そのように理解されるときにこそ数千年に亘る神の歩みのままの力を得て、解釈を語る言葉は神の足取りのように確固たるものになるであろう。




         新十四日派   林 義平

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不和と軋轢 許さなかった僕の例え



『神の王国ではだれが一番(偉いの)ですか?』と弟子らがイエスに尋ねたとき、彼らが王国が実現して自分たちの主が王となって君臨するときに、誰がそれに次ぐ者となるのかを尋ねたかったであろう。人の上に立つことを望むのは世の一般的で、誉められさえする欲望である。

だが、この欲望は争いを呼び、人を傷つけるものである。
この頁では、人間につきものである不和とその周辺にスポットを当てたマタイ18章を追ってみよう。

弟子らが「誰が偉い」と問う背後に、彼らの諍いがあったことは、彼らの主が磔刑に臨もうという最後の晩餐にあってすら、誰が偉いかについて言い争った事例が明かしている。

彼らの内面で、自分が他から抜きん出て高一等の権威を得たいという欲望がなかったわけもない。
それは地位を追求し、他人を陥れ、より多くを所有し、不要な規則で人を縛り、不遜に人々に命じ、物事を仕切りたがるものである。

思うまま甘やかされて育つ少年は見事に「暴君」また「独裁者」に成長するというからには、やはりこれは「肉の傾向」であろう。しかし、この肉の性質はどこから来たものだろうか。
人は、偉いと呼ばれることが好きな生き物であるが、実に聖書は、この傾向が上からの知恵ではなく動物的、また悪霊のものであるとまで云っている。(ヤコブ3:15)


-◆模範者は幼子---

さて、仲間内で「偉い」(メガス「最も」)とは、資質や能力、また威風を備えた優秀者の地位を意味したのであれば、彼らの質問に答えるために師が幼子を自分の許に寄せたことは非常に意外であったろう。

何と師は、誰が偉いかと息巻く男らの只中に幼子を立たせたのである。そうして彼らの「模範者」をそこに示す。
曰く『誰でも身を転じて(ストレフォー「戻す・返る」)この幼子のようにならなければ、あなたがたは天の王国に入れない。この幼子のように謙遜(パテイノーシウス「低める」)になる者が天の王国において最も偉大な者である』。

ここにおいて、師はより高い地位を巡って争う弟子らから、その精神とは対極のところに王国があることを示す。
元来、幼児は自分の地位を求めないが、これが成長するに従って、地位を求めたり人の上に立って命じる権限に欲望を募らせるようになってゆく。

イエスに質問しようとその周りに群がった弟子らは、痛烈な訓戒を授かった。
彼らの模範者は、いたいけな幼子であったのだ。しかし、やがて彼らはそれも忘れてしまった。

王国の基本的精神また原理は、世に蔓延る他人よりも上を行こうとするものとは正反対である。

それゆえ『わたしの名によってこれら最も小さな者のひとりを迎える者はわたしを迎えるのであり。わたしに信仰を持つこれらの小さな者のひとりを躓かせる者は、誰であれロバの回すような(大きな)臼石を首にかけられて大海に沈められる方がまだ良い』と師は云われた。

誰が一番偉いかと諍う男たちのなかで幼子は容易に埋もれ、踏みつけられるであろう。
だが、そのように「小さな者」を躓かせるような輩には、二度と浮かび上がらぬ重しを付けて海に沈めた方がよいというのである。

それから師の言葉は、他以上の地位を求めるこの欲望の由来を暗示する。
『ああ、世からの躓きは避けられない。躓かせる者が来るからだ。しかし、その経路となる者は災いである』。

「王国の子ら」を脱落させようと身構える者がいる。
それは王国が実現することを阻もうとする元凶、サタンという以外ない。

サタンにしてみればキリストに従う聖なる者を、その忠節な歩みから引き離し、ひとりであれその成員が欠けるなら王国の妨害に成功するであろう。
このディアボロス(中傷者)が用いる極めて有効な手段が、イエスの弟子同士の衝突や軋轢である。
『その経路となる』とは、悪魔の持つ性質を現わして他の弟子を躓かせる者を指すであろう。

なかでも、偉くなりたいという欲望の根源者は他ならぬサタンであった。この霊者の貪欲が目指したのは「神の位」であったが、それはイエスにすら自分を崇拝させようとしたことにおいて十二分に証明されている。

こうして、弟子らに求められたのは、こうした願望から『身を転じる』ことであったのだ。
それゆえ師は続けて『もしあなたの手か足があなたを躓かせるのなら、それを切り離して捨て去れ。・・不具または足の不自由なまま命に入る方があなたには良い』。と言う。

これは先の海に沈められる方が良いという強調と共に、サタンの精神をもって行動することへの激しい警告となっている。
人は、自分を愛して他を蹴落す内にとてつもない間違いを犯す。すなわちサタンの共犯である。

師は『天にいる彼ら(小さな者)のみ使いたちは、天におわす我が父のみ顔にいつも近づいているのだ』とも言われるが、これは人々のひとりひとりには守護天使が居るというユダヤの伝承を敷衍して、どんなに立場の低い者であっても軽んじることを戒めているのである。

『ある人が百匹の羊を持つことになり、そのうちの一匹が迷い出てしまうなら、その人は九十九匹を山に残してでも、迷い出ているものを捜しに出かけないことがあろうか』
古代オリエントの羊飼いが財産である羊を一匹であっても大切にしないでいれば、百匹の羊が居たとはいえ、管理の悪さから次第に減ってしまうだろう。
「王国の子ら」と呼ばれるイエスの弟子も同じように、その一人も欠かすことのできないもの*である。

したがって、「小さな者のひとり」が躓かされて脱落しても、再び見出され拾われることは大きな善歓となる。
『もしも、見つけることになるなら、その人は迷い出なかった九十九匹以上にそれを真に歓ぶ。 このように、これら小さな者の一人が滅びることは、天のあなたがたの父の意ではない』

こうして、躓かされた神の王国の最も小さいひとりとはいえ、神の目に貴重であり、離れ落ちた状態から回復されることがいかに喜ばしいことがが例えられる。


-◆躓きへの対処法--

さて、イエスは次に訓戒の対象を躓かせる者から、躓いた者へと換えて話を続ける。
つまり、その要旨は躓きの「対処」へと移る

『しかし、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もしあなたに同意してくれたなら、あなたの兄弟を得たことになる。』

王国の子らが義に宣せられたとはいえ、アダムの命にある間は依然「罪」ある肉体に生きており、倫理上の失敗を免れないから、仲間を躓かせるとこが無いとは言い切れない。
 
では、もし誰かに躓きを覚えるようなことをされたならどのようにすべきか?
躓されるままに忍耐し続けるのが良い、と師は言わなかった。
エクレシア外部については忍耐し続けることも良かろう。

しかし、愛に枯れる状態に放置すれば、躓いた本人はエクレシアに居ることも放棄しかねないであろう。それこそは、中傷者ディアボロスの思う壺ではないか。
 
師は山上の垂訓で次のようにも話されている。
『祭壇に供え物をささげようとする場合、もし誰か兄弟が自分に対して何か恨み事を抱いていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、行ってその兄弟とまず和解し、それから戻ってきて、供え物を捧げるようにせよ。』
 
これは神殿崇拝の背景で述べられた訓話であるが、その内容はエクレシア内でも同様に適用できるものである。

イスラエルの聖なる神の前に奉納物を残して「お預け」食らわせるような、一見して不敬な事柄でもこの場合には却ってそうすべきと言うのである。
これをユダヤの宗教領袖が聞いたなら、彼らの外面的で紋切り型の浅い判断は、もってのほかとこれを批難したであろう。

しかし、御子イエスは、不和の解決が崇拝行為に優先されるべきこと、それこそが聖にして真実な神の御前では相応しいことを説いているのである。

聖書中には、心に憤懣を宿したままにした例が幾つかある。
まず、カインがそうであった。
彼は神から供え物を受け入れられなかったときに『非常な怒りに燃え、その顔色は沈んでいった』。

神は彼に語り、この件を放置しようとはされなかった。
『「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。お前が正しいことをしているなら、顔を上げられるではないか。正しいことをしていないなら、罪は戸口で待ち伏せており、それはお前を慕い求めている。お前はそれを制御せねばならない。」』

カインには平素から問題があったようである。神が彼の捧げ物を受けなかったには理由があり、パウロが指摘するように、その捧げ物に誠意が幾らか欠けたところにそれが表れていたかも知れないが、それが単に血を伴わなかった犠牲であったからとするなら、神を不公平だというに等しいであろう。

むしろ、カインには行状に問題があり、それが供物にも表れていた。総じて、カインの抱く心が神をしてその捧げ物を拒ませたのであろう。つまり差し出す以前に解決が求められる事柄があったのだろう。

そこで、神はカインに話しかけた。彼の怒りは嫉妬となって弟アベルに向かっており、しかもその憤りを正しく解くつとめ、つまり「正しいことを行う」ことを諭されたが、彼はその怒りを解こうとはせず内に秘め続け、遂に凶行に至る。


ダヴィデ王の子アブサロムもまた内心の恨みを隠して自らと周囲に悲劇をもたらした人物となってしまった。
妹タマルを腹違いの兄弟アムノンに陵辱されて以来、アムノンの愚行の良し悪しを一切語らなかったアブサロムは、その心中に激しい憤りを宿したまま過ごし、やがて安心しきった状態のアムノンを弑する。
許されて後も、彼は野望を秘め続けて、やがて父王をエルサレムから追いだした。
それはダヴィデの治世中で特に大きな痛手となったのである。

モーセの律法は、このような不和に対して条項を設けており、それが神の注目するところであることをこう示している。
『あなたは心の中に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人を丁寧に諌めよ。彼のゆえに罪を身に負ってはならない。
  あなたは仇を返してはならない。あなたの民の同胞に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしはYHWHである。』(レヴィ19:17-18)

イスラエルの同胞を愛し、心中にこれに恨みを宿すことがどれほど破壊的かは、旧約のその後の記述からも知れる通りである。

それは新約の王国の民の間にあっても変わらない。いや、「神のイスラエル」に関わる以上、より重大であろう。
それゆえ、イエスはこの律法の規定を更に丁寧に進めた対処法を示す。すなわち、当事者同士が直に話して事を正すという仕方である。

だが、相手が同意しないということも考えられよう、そこには思い違いがあったかも知れず、ふたりには冷静さが必要な場合もあるだろう。
そこで師は進むべき次の段階を示し、それは民事裁判へと発展する。つまり、和解しようと近づいても相手が聞く耳をもたない場合にはどうすべきか?

『 もし聞いてくれないなら、他のひとりかふたりを、一緒に連れて行くように。それは、二人または三人の証人の口によって、すべてが確認されるためである』。
 
これは、律法中で重要な審判に際して、ひとりの証人だけで裁いてしまわぬよう求められていたことを敷衍したものであろうが、このキリストの手順においては証人というよりは「立会人」の意義があるようだ。
これらの参加者は、二人の話し合いの経過を聴き、訊ね、それぞれの意見を述べて、譴責するなり仲裁するなりするであろう。

ここで、当事者らが、あるいは非が認められ、また許しが為されるなら和解が成立することになり、『兄弟を得る』、つまり関係が修復されることになろう。
だが、それでも紛糾する場合には、もうひとつの方法を行って兄弟を見出す努力を続けるようにと師は言われる。

『もし、それでも彼らの言うことを聞かないなら、エクレシアに申し出よ。もしエクレシアの言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人*同様に扱うように。』(*文末註)

召しだされた聖なる者で成るエクレシアの中で告発された躓きの元である者が最終的に自らの落ち度を認めないということも無いとは言い切れない。

エクレシアが率直に話しても被告が落ち度を認めず強情さを見せるときには、相当の裁定を下さざるを得ないが、その処置は世の法廷が下す刑罰とは異なるものであり、聖なる者の集団がその被告をかつてのユダヤ体制での「異邦人や取税人」に相当する仕方で扱う、すなわち、公の活動は別にしても、親しい交わりからは排除するのである。和解を肯んじなかった者は兄弟(同胞)としての扱いから除外されるであろう。

それは、かつてのユダヤ人が異邦人や取税人と食事を共にすることはもちろん、同じ屋根の下に入ることによってさえ汚れると見なされたように、個人的で親密な交わりを忌避される立場に置かれることを意味する。
但し、これは個人に対して犯される罪、またはそう思われた事柄の扱いについて述べているのであり、異端審問や、道徳律を守らせるためのものではない。
文脈から明らかなことは、むしろ、個人間の平和が如何に重視されるかを示すものである。

そして、この辱めから当事者があるいは思いを改めるかも知れないと使徒たちは書いている。

それは、不和や軋轢が兄弟として愛し合うべき王国の聖なる民の中ではまことに相応しからざるものであることを強調するものとなっている。この目的は誰が正しいのかということに優る。

しかし、この地上の肉なる人々による審判の当否は信頼に値いするものとなるのだろうか?
そこでイエスはこの保証を与える。

『真に。何であれあなたがたが地上で縛ることは、天でも縛られ、何であれあなたがたが地上で解くことは、天でも解かれたものである。』

すなわち、いまだ地上に居る聖徒たちではあるが、躓きをもたらす経路となり、エクレシアの絆を壊してなお頑迷に悔いぬ人物については天のイエスも地上のその断罪を承認するというのである。

しかし、当事者のふたりが願うことで心をひとつして祈れるのであれば、神も和解を認めてそのようにするであろう。

それから師は、次の有名にして誤解されることの多い一言を加える。
『二人か三人が集まるところには、わたし(イエス)もそこに居る』

すなわち、聖なる者の資格に関わる事柄にイエスも天から関わり、あるいは両者の和解を受け入れ、あるいは躓かせる経路となった者を天でも否認するということである。

この句だけ取り出して自分たちの集まりにイエスが同伴してくれると思い込むのは自由ながら、互いに相容れないほとんどの宗派がそれぞれこの句を自らに適用するのは奇観ではある。


さて今日、聖徒でない者たちに上記の処置法がどこまで、その通り機能するかは分からないが、コミュニティを構成する場合、何らかの不和解決法は必要になろう。

そこで、この方式に準拠することが無益であるとは思えない。むしろ最初に個人間で話して問題を大きくしてしまわないところには多くの益があるように思われる。

また、自分の正義を確立しようと同調者を求めて回ることは人々を巻き込むばかりか、聖書的でもない。
『あなたは中傷するために民の中を行き巡ってはならない』はレヴィ記の律法の条文であるが、もちろん愛の掟に背くものでもある。



-◆許さなかった僕の例え-----

ここでペテロが口を挟み『わたしは兄弟(同胞)を何回まで許すべきでしょうか。七回まででしょうか?』と言い出し、話の行方は「許す」という事柄に向かって更に舵を切る。

こうしてイエスは許さなかった借財人の譬えを話すことになる。
『天の王国は、王がその僕と清算を行うのに譬えられる。決算が始まると、一万タラント*もの負債のある者が、王のところに連れ出された。
 しかし、この者は返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
この僕はひれ伏して哀願した、「何卒ご猶予ください。全部お返しいたしますから」。
僕の主人は哀れに思って、彼を許して、その負債も帳消しにしてやった。』
 
一万タラントもの借財とは一般商取引のレベルを遥かに越えた額*である。イエスは負債のその巨額さを通して人と神の関係を描いたであろう。
すなわち、アダム由来の「罪」の重さ、そしてその許しの大きさである。その対価は神の御子の犠牲であり、それは一万タラントといえども誇張にもならない。
*(ソロモン王に毎年納められた金塊の額は666タラント(約23トン)であった)


それほどの許しを得る人類ではあるが、その大きさをどれほど味わい知るだろうか?
この対価は既に支払われ、人類は現在も買い戻されている状態に入っているのである。
 
 しかし、この譬えの許された僕の場合は、主人の許しから重要な要点を学ばなかった。
許されて出てゆくと、自分に負債のある別の僕を見つけるなり『貸しているものをすべて返せ』と首を締め上げたのである。

この僕も彼と同じように猶予を懇願したのだが、許されたばかりの僕は哀れみも示さず許そうとはしなかった。
そして、負債ある僕を牢に入れたのであったが、そのことが主人の耳に入ると、主人は彼を邪悪な僕と呼び『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』と言うのであった。
 
つまり、地上に贖いの価値を見出せないほど貴重な対価によって「罪」を許されながら、同じ人間の、しかも『仲間の僕』である同胞を許せないとは、このように邪悪なことであるという訓話である。
 
この譬え話が語られた背景には聖徒同士の関係があったが、 先の不和の対処法にしても、我々聖徒でない者であってもその精神を敷衍することができ、ここでは更に、すべての弟子にも適用されるべき貴重な教えとなっている。

つまり、誰かが自らの非を認めるときには、それを許す務めがすべてのキリストに従う者にあるだろう。
キリストによって許されようとする者はすべて、罪を犯した者が悔いているときに、これを打ち砕く理由はまったくない。

このように許すときに不和は憤りの跡を引かずに終息し、それが互いの関係を壊すことは防がれるであろう。それは人に属する数少ない美である。
あるいは、相手の悔いに疑念があり、再犯が恐れられるにしても『七十七回』また『七の七十倍』も許せというイエスには、この方自らが「世の罪」を負う方であるからして、これに何の反論ができようか。

信仰の関わるコミュニティにあっても、人に「罪」が宿痾のようにある以上、躓きが生じるのはまず避けられまい。
それゆえ、悪行者に悔いる道を是非とも戒めによって拓くべきであり、もし誰かが悪行を続けるを傍観するは共犯ではないか?

また、悔いる者に許しの道をも保つべきであり、そうしないならそれも躓きを与えることになりはしないか?それらは共に問題解決の拒否であり、共に自らの「罪」を否定するようものであろう。

それらの不適用が神の目からも相応しくないことを自覚するなら、まずは勇気を振るい、あるいは祈り求め直接に話すよう努める。
先のレヴィ記はこの行為と同胞への愛を関連付けている。


-◆適用の実態-----

だが、キリスト教団体における筆者の見聞から言えば、聴く耳の無い相手の方が多いであろう。

内心で自己正当化し罪に凝り固まる者の方が事後も厄介であり、これら表面では悔いを見せても裏表様々に悪意をちらつかせるような、芯まで邪悪と思える輩はどこにでも居り、問題はこれらの者らによって引き起こされることが大半であろう。

たとえ、聖徒でなくとも、宗派に関わらずイエスの名において平和が試されるとき、躓かせる者が神の目に留まらぬことはないに違いない。このようなとき、イエスの言葉『二人か三人の集まるところにわたしも居る』の句は慰めとなるであろうし、キリストの手順を踏む謂われともなろう。(現在、聖徒はいない)


その相手が高一等の役職ある者であり、引き続きその立場に留まる場合、問題は却って忌々しい方向に進んでしまうこともあるだろう。
弟子らの間で誰が偉いかで言い争ったように、サタン的な特質は様々な宗教組織の上へ上へと登ろうとしないではいられない。
メシアがユダヤ宗教体制の頂点はおろか上方でもなく、「地の民」と蔑まれた底辺から現れたことはその辺りを如実に語っていよう。

それゆえ、特権意識を煽って幹部を確保しようという宗教組織の教導者の企図は、聖書にあからさまに反しており、とても感心できたものではない。そんなことをしていれば、上層部はどんな人格を持つだろうか?
しかし、彼ら幹部は実のところ『躓かせる経路』となるものであるのかも知れず、もしそうなら神の悦納は彼らにはけっして無い。

問題を起こした人物を役職から外さない集団全体も責なしとは言えまい。彼らはイエスの対処法にどれほど理解を示し、且つその通りに行うだろうか。
それが行われない、あるいは表面だけのものであれば、その集団は容易に、善良の仮面をつけた獄吏の居る牢屋、「正しい」と主張するゆえにより無慈悲な監獄と化してしまうだろう。

その場合には、信徒がそこに何ら留まる必要もないであろう。教団が如何に「正統」や「神の経路」を自認しようと実際には『躓かせる経路』、『海辺の隠れた岩』、『水のない雲』サディスティックなサタンの隠された罠だからである。

一方、憤りを宿した状態が心身に与える破壊的な影響は、何を持っても逃れるに値する。
人間には様々な限界があり、無理を続ければそれだけ多くを失わないだろうか?
そのためにも神に創られた世界は広く、様々な逃れ道があろう。

また逃れた後も、以前に居た宗教団体に憤りや被害者意識を引きずる人々は少なくないが、そこにまだストレスを残している限り、その人々は依然として、その教団組織の影響下に留まっているのだろう。
『怒り立ったまま日が沈むことのないように』という山上の垂訓は、キリスト教徒に限らず誰でも魂を安んじるためのまことに優れた方策である。また、信徒に怒り立つことを長引かせて放置するような教派は、必ずキリスト教としては間違っているに違いない。
 

しかし、人が圧制的宗教教団からどれほど被害を受けたと主張しようと、世人からすればそこにルサンチマンを見る以上は期待できそうにない。

そのような害をもたらした教団は保身には走っても、けっして元信者のためにイエスの示した不和の処理法に則って公正に解決しようとはしないであろうし、そこに正体も現れてもいる。

そこが、九十九匹という大多数の確保を目指す宗教団体の民主政治というものなのであろう。官僚に特権があるように幹部にも特に保護も与えねば要員の確保に支障も出よう。

ならば、今日キリストが現れるとすれば、けっしてそのようなところからで無いのは誰にも分かりそうなものである。そこは明らかにイエスよりはパリサイやサドカイの性格を芬芬と匂わせており、真のエクレシアではないと結論されるとしても仕方なかろう。

しかし、『あなたがたの髪の毛まで数えられている』という神にあって、人の作った教団を離れたからとてその人が神の視界から消え去るわけがあろうか?

孤立を推奨しないが、致し方なく一頭の羊となったなら一層の顧慮があるとのイエスの言葉があり、その人が神に近づくのは妨げられず、いや、より自由で快活な思いの中でそのようにできるであろう。できるところから研鑽を積めば信仰はより確固たるものとなり、自分と神の間には人を入れず、ただ仲介者キリストを置くので、それこそはキリスト教徒の基本の姿となるであろう。

あるいはその教団の中にまだ親しい人々が残されているかも知れない。
しかし、人は誰かに代わって信仰という倫理的決定を下すことはできないし、現今の法もその自由を認めている以上、人間的に抗うことは最初から大きな無理がある。

ある教団に躓いて、まったくキリスト教を離れたのならともかく、いまだ主に従う意識があるのなら、かつての古巣を攻撃して「自分にされた通りに返そう」とせず、その人自身がキリストの教えに従い、忘れることで許してしまうことこそが神の前での勝利となるのだろう。
それは何もその教団を是認するわけではない。人間共通の「罪」の誤りを憐れむのである。

全く忘れ去ることは無理にしても、過去にはこだわらず神への信仰と感謝のうちに泰然としている姿こそが人々を引き寄せ、古巣にとっての痛撃となるのではないか。少なくともそうする人はこの点でキリストに従っており、そのエウセベイア(敬虔な行い)が天に受け入れられないことはないと言えるだろう。


結論として、イエスの示した躓きへの対処法と許すことの肝要さは、共に我々の倫理上の不完全さを天が気遣っていることの表れである。

それが、ときに非常に厄介なものを人にもたらし、深く傷つけ兼ねないことはもちろん天に知られており、どこであろうと起こったすべての事柄は神の目に映ってもいよう。

ともあれ、「一万タラント」の巨額の負債を許された幸福の喜びを味わうことは、他のつまらぬ事柄を忘れさせ、我々をよりキリストに教えられる者とするに違いない。





      新十四日派   林 義平 jst

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*取税人:ローマ帝国と従属の王国は支配下であるユダヤ人の土地からも徴税を行っていた。
 その取立てを生業としたユダヤ人は一般のユダヤ人からすれば異邦権力の犬のようになった裏切り者であり、律法が汚れていると看做す無割礼の異邦人と接触も多いため、良識的ユダヤ人は取税人を娼婦や罪人と共に忌避し、交友を持とうとしなかった。イエスが宗教領袖らに『取税人や娼婦たちの友』と称えられた背景にはこの痛烈な蔑視観があってのことである。

 一般人からの蔑みに復讐心も働いたか、取税人は税率以上を徴収し私腹を肥やすことが通例で、それはユダヤ人一般から余計に疎まれることになった。取税人ザアカイは『強請り取ったものを四倍にして返す』とイエスに懺悔した背景にはこうした不当利益がある。

 これらの理由から取税人はどうしても交友範囲が狭くなり、付き合える仲間といえば同業者など社会からはじかれたような者らだけであった。こうした底辺へと低められた階層に溶け込むイエスの姿は、一層その慈愛を際立たせたであろう。



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富者とラザロの例え 矯正不能の高慢さ




このルカだけが伝えている例え話は、宗教家らによってイエスを殺す算段の進む時期、キリストがローマの権力に引き渡されるほんのしばらく前に語られている。それはイエスの一行がエルサレムへの最後の旅に入る頃であった。聴衆の中にはパリサイ派の者らも含まれている。

その時にユダヤの体制では、ナザレ人イエスに対する陰険な殺人計画が現に練られており、イエスをメシアと見做さず、却って拒絶する姿勢が彼らのその目論見からして既に明々白々であった。

さて、この例えのなかではユダヤの二種類の人々が描かれる。
一方は体制派の宗教家を中心とするイエスに強硬な者たちであり、他方は体制派から「地の民」(アム ハ アーレツ)と呼ばれ蔑まれつもイエスを支持した民衆である。

実に、『この律法を知らない者らは呪われているのだ』という支配者やパリサイの発言をヨハネ福音書が記している。(ヨハネ7:49)
だが、平民にモーセの条項を知らせる務めがあったのはいったい誰か?
ユダヤ指導者層こそが、知識を占有して自分たちの優位性に悦に入っていたのではなかったか?

しかも彼らのいう律法とはミツヴァ「口頭伝承」と呼ばれる彼らの父祖が作り上げた「人間の規則」をも指しており、それは余計な重荷としてイエスが指弾したものである。

彼らは、そうした自分たちの作った規則を鼓吹し、それに沿える生活に余裕のある者だけを「義」としたのである。それは宗教的に豪奢な生き方である。

それでは民を憐れみ、進んで溶け込むイエスとの衝突はまず避けられないであろう。
特定の宗派が自分の仲間内だけを正しいと主張し、「人間の義」の優越感に浸って憚らないのは、古代も現代も何ら変わらない。

イエスはこの例えが語られる前に、あらゆる類いのユダヤ人が神の王国に殺到していると述べ、その一方で、高みの見物はしても「収税人や罪人、娼婦の友」と社会の底辺の階層にイエスは属すと難癖をつけてメシアとは認めない「高尚な」者らと対比させた発言をしている。
しかし、彼らの深く尊重しているはずのモーセの律法はメシアを証し、指し示す羅針盤であった。

こうして、イエスを殺す算段の進むなか、彼らの性質が拗けていて、どうしようもなく、変わりようのないものであることをひとつの例えで示されることになる。

それが「富者とラザロ」の譬えであり、実によく語られている。

これは、恰も「天国と地獄」という非ヘブライ的な教理を裏付けているように見えるかもしれないが、そのように見做して読んでいれば、ここからの教訓はほとんど得られないであろう。

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ある富んだ者が豪奢な生活を送っていたが、その門のところにはラザロ(ユダヤ人のエレアザル*)という名の乞食が富んだ者の食卓から落ちるものを食べたいと思ってそこにいたが、彼の体は潰瘍だらけという悲惨な有様で、犬が来てはそれを舐めるのであった。

やがてふたりとも死ぬと、ラザロは天のアブラハムの懐*に運ばれていたが、富んだ者がハデス (墓)で見ると自分は燃える火の苦痛のなかにいた。(*宴席で一緒に座した状態)

それでアブラハムにラザロを遣わして僅かの水を指から垂らしてほしいと願う。しかし、両者の間には大きな裂け目があってそちらには行けないとアブラハムに断られる。

それでは、と、富んだ者が願うことは、自分の五人のまだ生きている兄弟らに、自分がいるような責め苦の場所に来ることにならぬよう、徹底的な証をして説得してほしいということであった。

これに対してアブラハムは「彼らにはモーセと預言者たちがある、これに従えばよろしい」というのである。

すると富んだ者は反論して「いいえ、誰か死人の中から行けば(死人が行けば驚いて)悔い改めるでしょう」。しかし、これはモーセや預言者を軽んじた発言である。


したがって、次のアブラハムの一言でこの譬え話は終わることになる。
「モーセと預言者たちに従わないのなら、死人の中から誰が行ったとて彼らは応じまい」。
(ルカ16:19~31)

*(このラザロをヨハネ11章のラザロと同定することはルカ書の位置からすると幾分難しい)
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富んだ者とラザロの差はたいへんに大きいのだが、これはイエスをメシアとして信じることのできた「地の民」が受ける喜ばしい報い、つまりイエス後、聖霊に預かることで真のイスラエルの民の一員として認知を受けたことは、確かにアブラハムの約束の裔と相続人の立場を得たことを表しており、象徴的にその宴席を共にするというのは頷くに易い。

他方、遣わされたメシアを拒絶し殺害まで行う指導者層の受ける後の評価のあまりの低さ酷さは、こちらも象徴的に火の燃えるゲヘナ*に投げ捨てられた犯罪者の屍の如くである。*(硫黄の火が燃え盛ったエルサレムに隣接するゴミ処理場)

両者の間には、確かに深くて越え難い違いがあって当然ではないか。
富んだ者は一生の間、良いものを受けたとあるが、それは単に生前の生活水準の両者の違いにバランスをとる、というような意味の薄いものではけっしてない。

宗教的に「富んだ者」である体制派のサドカイやパリサイ、また祭司長派などの支配者層は、モーセに通じ宗教的に高一等の立場を享受していたのであり、そのゆえにも、この者らのメシア拒否はより一層その罪を重くするであろう。パウロの言うように『律法はキリストに導く養育係』であるなら、律法に通じた彼らはまったくその目的を逸したのである。

イエスは『あなたがたがモーセを信じるなら、わたしを信じるはずである。彼はわたしについて書いたのだから。しかし、彼の書いたものを信じないのなら、どうしてわたしの言うことを信じるだろうか』。と頑ななユダヤ教徒に言っている。(ヨハネ5:46)

つまり、彼らは自分たちが非常に通じており知識が豊富であるまさにその「富んだ」事柄でつまずいたのである。
これが例え話全体の要旨であり、それは「終わりの日」においても銘記すべき警告となるのであろう。

聖書に精通する聖職者や学者であっても、書かれた神聖な事柄を、人間的理解に染まって「科学的」と称するヘーゲル左派の毒舌に迎合し、それを知識と称えて神の言葉を傍観するような観点から見、神の言葉をこそ必要とする人々に、霞をかけたような不明瞭なものにしているとすれば、どういうことになるのであろうか?

他方、ラザロはといえば、富んだ者の僅かな食卓からのこぼれものを渇望するような宗教的状態にあった。しかし、このような蔑まれた平民こそが父祖アブラハムの恵みに預かったのは、その不利な身の上にも関わらずメシアとしてイエスを信じ、喜んで迎え入れたことによって、この例えのような結果の逆転を招かせたのである。


では、宗教指導者層には、死者から誰かが行って警告されれば、あるいは悔いてこの後のひどい評価を避けさせることができるだろうか?

イエスはこの前後の時期に、不信仰で頑なな彼らが預言者の墓を立派に飾りつつ、もし自分たちがその時代に生きていれば預言者を迫害して殺すことなど決してさせなかったものを・・と言う彼らの偽善を暴いている。(マタイ23:30)

むしろ、預言者たちの墓を飾り立てることによって、自分が預言者を大切にしているかのように装いながら、実は預言者にはそこで静かに眠っていてほしいのであり、立派に父祖の犯罪の共犯者なのである。
それならば、確かに墓石は豪勢で預言者が二度と出てこられぬほど大きく重いものがよいであろう。

そうすれば、預言者たちに対する彼らの見栄も張ることが出来、同時に都合の悪い神の音信に封印もできるので、一石二鳥ではないか!
さらに今、「神の義」たる約束のメシアその人をも封殺しようというのであるから、まことに「人の正義」とは恐ろしいものである。傍から見るとロジックが有るようでいてすっぽりと欠落している。

そうして彼らはその父祖にまさる罪人になろうとしていたのである。
イエスは彼らを糾弾し「アベルからザカリヤに至るすべての血」が問われる世代であるという。
まさにそれが、「もし自分がその世代に居たら、父祖たちには預言者たちを殺めることなどけっしてさせなかった」と誇る連中の実態であった。

あるいは目覚しい奇跡を見せるなら彼らにも悔い改めが期待できただろうか?
イエスの言からするに、それはとても無理な様子ではないか。
豚に真珠は与えまい。しるしを見せろという再三の要請に実際イエスは答えなかった。

しかも彼らは、この時期イエスが大いなる奇跡によって生き返らせたベタニヤのラザロという、この例えと同じ名前*の実在の男をも、イエスと共に亡き者にしようとしていたことをヨハネ福音書が暴露している。つまり、類稀な神の奇跡も込みで、無かったことにしようというのである。(ヨハネ12:10)(*イエスは後にラザロ殺害の企図に気付いたであろうから、同じ名前を用いた背景はここにあったのかも知れない)

それなら彼らに対しては、たとえ実際に生き返った者が現われてどれほど説得しようがまるで意味を成すまい。
とにかく不都合な諌言する者がいれば、省みて自分を変えようなぞけっしてせず、それが誰であれさっさと殺して黙らせるような者たちなのであるから。それが預言者であってすら、飾った墓に押し戻されるであろう。
(イエスの殺害後、預言者たちの遺骸が墓から飛び出したが、それは彼らに一斉に語り出したかの意味をもったであろう)

正にイエスが生き返り、墓を出たことを目撃してしまった祭司長派の守備隊員らに金を渡して見なかったことにさせようとしたときに、彼らの傲慢さはこれ以上ない仕方で神に対して発揮された。
いったい、誰が死者の中から行けば聴くというのか。

そうして、奇跡を含めてイエスのすべてを除き去ろうとしているこれらの「富んだ者」らは、彼らの精通するモーセや預言者たちが古来ずっと指し示してきた貴重なメシアを亡き者にし、封じてしまおうとしていたのであり、どうにも矯正不能であることを自ら明らかにしていたのであった。

後日、ラザロで表された「貧しい」人々は、あのシャヴオートの日以来、聖霊に預かる者となってアブラハムの約束の後裔として数えられその懐に至るが、「富んだ者」たちはその世代の内にエルサレムと共に「火のバプテスマ」というユダヤ体制の壊滅を被ることになるのであった。




                               新十四日派  © 林 義平
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「十人の乙女」・「盛大な婚宴」の例え

 
十人の乙女の例えが、キリストの再来に関わるものであることは広く周知されているが、油や乙女に具体的な意味を読むことが難しい。
この理解の鍵は、「乙女たち」とその「宴会」が意味するところにある。それが把握されないかぎり、曖昧で意義の薄いものに終わってしまうであろう。

(以下に予備知識として「聖徒」に関する部分を書いたが、より詳しくは別頁「聖霊と聖徒」をご覧いただきたい。
(この知識は論旨の基礎であり、これがないと以下を理解することはほとんどできないと思われる)


-◆「十人の乙女」の例え--------------------------------

 この例えはマタイ福音書の終末預言にだけ存在し、四人の使徒に話された終末予告の中に含まれている。

 十人の乙女たちは、夜の暗闇に各自がランプを灯して花婿の結婚式からの到着を新郎の自宅で待っている*。しかし、到着は遅れてすっかり時が経って夜も更けてゆき、やがて乙女たちはみな眠り込んでしまう。*(古ユダヤの習慣という)


 さて、真夜中になって花婿の到着が知らされた。
五人は補充の油を用意していたが、残りの五人は用意が無かった。そこで油の無い女らは、油を用意していた五人に向かって油を分けて欲しいと願うが、双方を満たすには足りないので油商人から入手してくるようにと言われる。


 用意の無かった「愚かな」と形容される五人は油を買いに行き、花婿の宴に遅れてしまう。婚宴の行われている場所の扉は既に閉められている。
彼女らは、戸を開けてくれるように
花婿に頼むが、却って「あなたがたを知らない」と言われてしまい、宴を共にすることから疎外されることになってしまう。(マタイ25:1~12)


-◆予備知識としての「聖徒」----------------------------------

 ミナの例えなどを通して知ることができるように、花婿であるキリストは、不定の年月に亘り地上に対して不在(アプーシア〔関わりを持たない状態〕)となるが、その期間が終了すると地に対して監臨あるいは臨御(パルーシア〔物事に介入する状態〕)を始めることによって「地に帰還」する。

 そのときに、すべての信徒ではなく、その中の聖霊が注がれ「新しい契約」に属している弟子ら(「聖なる者」or「聖徒たち」[ハギオイ])だけが、キリストの居る天への召しを受ける。(テサロニケ第一4:13-)

 これもパウロがテサロニケ書簡で述べることだが、かつて初期の時代に在って、聖霊を注がれていた「聖徒」で死んで眠っている者らは終末に天への復活を受け、次いでキリストの臨御のときに生きていて聖霊を受けている者らはそのまま天に挙げられる。
 こうして弟子の中の聖徒はすべて天に召集されてキリストと共になることで、「神の王国」(i.e「天の王国」)が完成し、その後は、神の贖罪の計画に沿って人類の祝福のために機能を始めることになる。(テサロニケ第一4:15-)


-◆キリストと天で共になる限られた者たち---------------------------------------

 その聖徒たちが、天でキリストと共になるということは、聖書中で度々結婚になぞらえられており、聖徒たちは花嫁の立場が与えられている。
 しかし、そのような例えで聖徒を花嫁に準えると、乙女は単数になってしまい、その中の分離を表すことができない。そこで主は、新郎宅で祝う乙女たちを用いて聖徒の立場を明かしているのであろう。

 これはつまり、約束の聖霊を受ける弟子たちがどのようにその責務を果たすかを個々に問うものである。

 この譬えでは、賢い乙女らも含めて十人が眠り込んでしまうというところで、花婿を待つ時間は予想外に長いことが暗示されている。それゆえ聖徒たちの死を連想させるものともいえる。
 それは、キリストを待って時を過ごすうちに、自らの寿命も尽きてしまうかのようである。

 使徒たちをはじめとする初代の弟子たちは、自分たちの世代のうちにキリストの帰還が為されると考えていたことは聖書中に見られる通りであり(テサロニケ第一4:15)、彼らの期待通りにキリストの臨在は起こらず、『生きながらえて主の来臨の時まで残る』と自らのことを西暦55年頃に記していたパウロの認識も、後に変化を見せており、最晩年には『わたしが世を去るべき時はきた』と言っている。(テモテ第二4:6-8)

即ち、覚醒しているうちは待っている間に時がきても、新郎を迎えることを意識しているものだが、眠気はその意識とは関係なく誰にも臨むものである。気持ちを込めて待つにせよ、人間には限界というものがある。


 この見方を裏付けるように思える点は、彼女たちの持つ油の量である。
つまり、眠り込む以前に花婿を待つ時間が、自分たちの予想を越えて長くなってもよいような準備があったか否かを左右する証拠となっている。

そこでの「賢さ」は、時の長さへの用意であったことになり、そのような準備は、眠ってしまってからではどんなにしても行うことはできず、眠る以前にのみ行えることであるから、待つ側の乙女の対型である聖徒たちの寿命の尽きる以前が問われると見ることができるであろう。


 聖徒たちが復活するのが天であれば、復活という目覚め以後にそこで忠誠の試みに遭う機会は既に無く、身分を明かすような業や信仰を、活動できる生前に衰えさせ、あるいは失っていたなら、天界に復活することすらも場違いなことになってしまうことであろう。

この点で、パウロは自らの死を悟りつつ『わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守り通した。』 ということができた。つまり、目覚めの後への備えができていたと言えよう。『今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。』とも言っている。(テモテ第二4:6-8)

確かに、パウロは西暦55年頃には自ら主を迎えると考えていたことを記していたのであるから、彼をこの例えの観点で言えば、余分の油はしっかりと確保されていたと言うべきであろう。

だが、『この世を愛して』パウロを見捨てたという、テサロニケのデマースのような人物はどうなるのであろうか。(テモテ第二4:10)
 




-◆「婚礼の例え」---------------------------------------

 この観点を後押しするのが、同じマタイ福音書の22章にある「婚礼の例え」である。
この婚礼では、ある国の王子の婚礼に予め招いておいた客に、いざ婚礼を催すに際し、改めて出席を呼びかける通知を行った。

しかし、以前から招いておいた客たちは様々な理由をつけて、皆が揃って断ってきたのである。その挙句、呼びに行った家来まで殺されてしまった。


この内容は、イスラエル=ユダヤの民が預言者やメシアを排斥してきた歴史を彷彿とさせる。
神はアブラハムのゆえに、イスラエル=ユダヤの血統上の民に「聖なる国民、王なる祭司」となる道を開いてきたのだが、彼らは不信仰のためにそれには値しないことをメシアのときに明確に示したのである。

結局、この民族は律法契約を守らず、その上ナザレのイエスを退け、キリストを基に構成されるべき「神の王国」への招きに確かに応じなかった。(出埃19:5.6)


その結果、血統上のイスラエルから聖霊に預かる者となったのは「僅かな残りの者」と預言された通り、ナザレのイエスをメシアと認めた民族のごく一部に留まった。(ローマ11:7)


その後のイスラエル史は、ユダヤとエルサレムの滅びに向かう。
つまり、血統によるユダヤがメシアを拒絶した為にエルサレムは徹底的に破壊され、灰燼に帰したのである。
以後、ユダヤは流浪を始め、今日まで神殿もメシアも得ていない。

盛大な宴会の例えにおいては、父王が怒り、軍隊を送って人殺しどもを除き去り、街を焼いたことがこれに相当している。

更に、婚宴の席を満たすため、誰でも目に付いた人々を差し招くよう家臣に命じ、やがて宴席はいっぱいになった。

 この部分の対型はメシアを受け入れたユダヤ人の不足のため、信仰に篤い異邦人からも「新しい契約」に与る人々が選民「神のイスラエル」に迎えられた歴史の明瞭な比喩になっている。

 イエス自身、この事態を『多くの人が東から西から来ては、天の王国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり歯がみをしたりする』と予告しており。
パウロは異邦人によるイスラエルへの補充を『接木』として例えてもいる。


 つまり、ローマ人コルネリオにも聖霊が注がれ、まったくの異邦人もその血統に関わらず「神のイスラエル」の中に加わることを許されたところから、この宴会への召しが始まったとみることができる。(ローマ10:20)


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 しかし、ここで更に注目すべきはその後にある。
つまり、招かれた人々の中に華燭の宴に相応しからぬ服装をした人物が混じっていたことに主催者の王が気付く。おそらくは普段着のままで席に着いたのであろう。

 それを咎められると、その者は何も言えなくなり、王は家臣にその者を捕縛し外の闇に放り出すように命じる。やはり、その者はそこで泣き悲しみ、歯軋りするだろうとされている。

 そして最後に、この語り手であるイエスは「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」と結論付けている。(マタイ22:1-14)



-◆外に出される者ら---------------------------------------

 この婚礼の例えと同様に、乙女の例え(またミナやタラントの例え等)も話の結末には「外に出され、泣き悲しみ、歯軋りする」という状況が共通しているがどういうことだろうか。

それらのたとえは何か共通したものを教えていないだろうか。
婚礼の例えの場合、「異邦人」という初めから招待されていない者で十分な準備ができなかったような酌量されそうな理由があったにせよ、結婚式の服装の相応しくない出席者は、やはり除外されることになるのだろう。

その理由は、その場への認識を欠いているからである。それでは、出席そのものを断ってきた本来の招待客であるユダヤ人の不敬と大差ない。

 これらの例えは共に、本来は神の恵みに入るはずであった人々がその立場を失うことの警告であり、こうした戒めは、イエスの言葉の中で何度も繰り返されている。


 そして、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」という法則は、一方で、異邦人から聖徒に招かれた者らにも、また、乙女の例えが示すように、聖徒の肉の寿命の尽きた後にも適用されるであろう。

 生ける者にも死して眠る者にも、一度聖霊を注がれた「聖徒」となったなら、その裁きは同じように臨む。
 テモテ第二4:1の『生ける者と死せる者を裁くために定められた』キリストの姿はここに見出される。

 実に聖徒たちは『キリストに属する者ら』であり、共に「生ける神殿」となる以上、キリストの吟味を受けるのは当然であろう。

 即ち、一度聖霊を受け、その賜物に与りながら生涯を聖徒に相応しく過ごさなかった者らは、天に招かれようとも、資質がそこで問われるということである。

 これは「十人の乙女」そして「宴会」の双方の例えに共通する主題であり、聖霊を注がれる聖徒たちにとっては重大事であり、軽視されてよい訓戒ではない。



-◆「多くを委ねた者には多くが求められる」----------------------------------

 「婚宴」はまた、将来に乙女らが花婿キリストと共になる祝いの時である。

 もし、寿命の尽きる前にキリストを待ちきれず聖徒としての行いや認識を欠いていたなら、復活して後の聖徒らの持ち物、つまりキリストの臨御(パルーシア)が起こり花婿が到着して乙女らが夜半に起こされる時、祝うべきその時に手持ちの油は不足していることであろう。灯火の光明は消えかけており、主の来臨を明るく照らし出して迎えることは叶わないのである。


 その「油」を聖徒としての必要な認識や練り浄めと解するなら、愚かとされる五人は復活してから花婿であるキリストを迎えるだけの認識や態度をもう一度培わなければならないし、練り浄めも必要であろうが、試練もない天界においてそれは無理である。
 また、この「油」が聖霊そのものであるなら、個々の聖徒のうちで相応しく歩まない者がいれば、その者から「油」に相当する聖霊の賜物は、夜半に起きるとき既に尽きている、ともとれる。

 まさに、キリストと共になるとは、恐るべく聖なる立場の責を負うことに違いない。(ヨハネ6:65)


 そのように考える場合、死に至る前に、あるいは天に挙げられる以前にどのような生き方をしたか、つまりたとえ死に至るとも「主」を待ち続けたか否かによって、聖徒らが天に召されたときの境遇に反映されるであろう。 


しかし、それは時間の上で間に合わないだけでなく、復活があってから認識を培うようではキリストと共になる者に相応しい信頼性もない。それまで何をしていたのかが問われても仕方の無いことである。

 では、油の足りなくなった乙女らは、具体的にどう復活するのだろうか。
天界に復活するとしても、その後はすぐに悪霊らと同じような境遇に置かれるのかも知れず、あるいは、天界への復活に意味がなくなっているならば、それも起こらずに「千年期」の後の諸世紀のすべての人々の復活に含まれるとすれば、そこで確かに、天界でキリストと共になることからは閉め出されたことを痛感することになろう。

 その落ち度といえば、やはり聖徒としての立場に相応しい生涯を送らなかった為に、召され復活してすぐにキリストを直ちに迎えるべき準備ができていないところにある。
 



-◆終わりの日に眠りから起こされる者たち---------------------------------

 この「十人の乙女」の例えの解釈を支持するように見做せるのはダニエル書である。
その12章では、天使長ミカエルが終わりの日に立ち上がるが、そのとき地の塵の中に眠る者が多く起こされ、彼らはあるいは栄光に、あるいは定めないときに至る恥辱へと出てくると書かれているのである。(ダニエル12:2-)

 この預言の記述を吟味すると、この内容はミカエルの戦うべき現今の政治勢力の影が残っている時代であり、黙示録と照らし合わせると千年期以前に相当するため、初期教父エイレナイオスの理解に従っても、全人類の死者の復活を述べているのではない。

 この復活は、その前のパウロが「早い復活」と記し、黙示録が「第一の復活」と呼んだものであり、キリストと共になる「初穂」の人々が人類から買い取られて天に召されるパルーシアの時のことを記していよう。彼らはそのようにして聖徒に相応しいかを見定められ、彼らの吟味される「裁き」に立つであろう。
(フィリピ3:11/黙示録20:5.6/ローマ8:23/ヤコブ1:18)


 ペテロが「各々行った業によって裁かれる」と述べたのは、行状に表れるところの、この聖徒としての愛に基づく行動がどれほど行われていたかが判断されることを指していたのであろう。そこに、キリストの追随者としての認識が証しされるからである。

 ヨハネ福音書にある「良いことを行った者は命の復活、忌むべきことを行った者は裁きの復活」というこの言葉も、聖徒に関してのみ当てはまるものであり、その他の死人は「死の報い」である死を経ていれば、死の眠りに就いた時点で、既に罪は過去のものである。(ヨハネ5:25-/ローマ6:23)

(したがって、ほとんどの死者が受ける後の復活では、そのすべての人々が「新しい契約」に無い以上、生前の応報を受けることはない。黙示録20:12)

 しかし、聖霊を受けた者は肉であったときから既に贖罪を受けており、「新しく生まれた」状態にあったので状況は異なる。彼らは霊による命を味わい知っているという。

 それは永遠の命が既に地上で始まっているとも言い得る状態であったろう。したがって、彼らにとって肉体の死はまさに眠りに近いものになる。(ヨハネ3章/ローマ8:1/コリント第二5:17/ヘブライ10:20)



-◆起き上がる聖徒-----------------------------

 死の眠りについた聖徒について、西暦第二世紀小アジアのポリュクラテスは書簡で次のように書いている。
『祝福されたパピアスと去勢したメリトン、彼はまったくの聖霊の賜物により話をしたが、今はサルディスに眠り天からの(指示)を待っているが、そのときには彼は死から起き上がるであろう』。(教会史V24)


 このように、初期の純正なキリスト教徒、しかも聖霊の賜物に預かった人々の希望は、死後に至福の楽園のような「天国」に行くことなどではない。死という象徴的「眠り」の内に時を「待つ」のである。

 そこに非ヘブライ的かつ異教的な死後の命などは無く、キリストのパルーシアを待ち、そのとき天に復活することこそが彼らの願いであった。(ヨハネ6:54)
 もちろん、信仰のうちに人生を全うした聖徒には、主イエスに対して忠節を尽くした生涯の歩みに関する充実感もあるだろう。殉教者に至っては、パウロの語った如く、復活は大勝利の凱旋のようであろう。(コリント第二2:14)


 だが、聖霊を与りながら、そのように充足した喜びのうちに入れない者が居ないとも限らない。
それゆえ、ペテロは手紙を書いて、聖徒らが行状に注意し、「肉体の残りの日々を人の欲望に沿って生きるのではなく」「自分の召しを確固たるものとする」よう訓戒している。(ペテロ第一2:11-21/第二1:10)

 パウロも「貞潔な処女」として聖徒たちを夫キリストに差し出す務めが自分にあると言っている。それゆえ、彼らはシミもキズもない者としてキリストの前に立てるよう励むべき理由があったのである。(コリント第二11:2)

 彼らが聖霊に預かる者となり、「聖なる者」と呼ばれ、聖霊の賜物を使いこなし「大いなる業」を行なおうとも、それは彼らの「約束手形」にすぎず、アダムの罪ある肉体にあって、その「義」も信用貸しされたものなのであり、「新しい契約」をどう保つかは本人次第であった。(エフェソス1:14/コリント第二5:5)(契約とは不確定のものに対してとられる措置である)

 そこで聖徒らに重要なのは、自分たちが受けたものに対する価値観を失わぬことである。
さもなければ、強力な業を行い悪霊を追い出す活動をしてもなお、主イエスから「不法を働く者よ」と退けられるであろう。(マタイ7:21-23)⇒ 小麦と毒麦の例え 「不法の人」の現われる時



 したがって、彼ら初代キリスト教徒には、イエスの再来が自分たちの世代に起こると信じていた人々も多く、パウロさえテサロニケへの手紙を書いていた55年頃には、迫害に遭いながらも自分は死ぬことなく天に召されるグループにあるとの認識を示している。

だが、晩年のテモテへの手紙ではこれが大きく変化し、「自分は走路を走りきった。今から後、自分には冠がある」とイストミアードの競技者になぞらえて、はっきりと死を覚悟しているのである。ここにも待ち時間の予想外の長さが窺えるが、実際二千年後の今日なお臨御の徴はないようだ。


 そうした中にあって、キリストの臨御が思うような時期に来なかったからと、人類の初穂としてキリストに贖われたはずの聖徒がその道を捨ててしまったり、放蕩して堕落を見せたりして生涯を送ったとすれば、天への復活にあってはあまりにも似つかわしくない姿をさらすことになろう。(エフェソス3:12/ローマ6:6)

(この悔い改めの許容範囲には、当然一般信徒と聖徒の違いがあるだろう。コリント第一6:9-10)


-◆見張り続けよ------------------------------------------------

そしてイエスは「十人の乙女」の例え話の結びに、弟子たちはキリスト到来の時を知らないゆえに、「ずっと見張っているように」と付け加え、それからタラントの例えに移っている。

 この「時を待つ」姿は、シナイ山麓でYHWHの会見の天幕で祭司として仕えるアロンと子らが、任命の灌油を受けても、さらに七日を待たされたのに似ていることも指摘できよう。(レヴィ8:33-)

聖徒たちはキリストと共に「王なる祭司」となるので、律法契約の下での祭司の先例が予型としての意味を持っていたと考えることは不適切ではないだろう。

モーセはその日々を待つことの意味するところを「力を満たす必要があり」また「自分を見張り」「死ぬようなことのない」ためであると語った。
イエスと共に王また祭司となる聖徒らも、同様に「死ぬことのないように」自らの生涯という「七日」の相当する期間を心して「見張る」必要があるのだろう。

つまり、その「八日目」に相当するキリストの到来と聖徒たちの権能の満たされる日が、自分たちの思うより遅くなり、生涯が終わってしまうことも念頭に置くようにと、この「十人の乙女」の例えを用いて諭していることになる。

 聖徒の受けるものが大きい分、「多くを委ねた者には多くが求められる」ものである。
彼らは人類の『初穂』であり『神の子』であり『新たな祭司職』を受ける『聖なる者』なのであるから。(ルカ12:48)

(後に、アロンの子らのうち二人は不適切に振る舞い、祭司から取除かれて死んでいる)


 全世界の民は、彼ら聖徒たちが間違いなくキリストの花嫁となって神の王国の完成されることを願うべきである。そこに我ら諸国民の光というべき「救い」があり、その王国は人類を神の創造物へと復帰させるからである。

 我ら諸国民は将来の聖徒の現われを祝し、聖霊を注がれ重い責務を負うことになる彼らを全く支持するべきであるといえる。(ゼカリヤ8:23/ローマ8:19-)

 新しい契約は効力を果たし、天に聖徒の全員が揃ってキリストと共になり、神の千年王国が完成して機能は始めることで、地の人々から倫理上の欠陥除かれ、社会は輝くように変化するという。

 人は皆、「神の子」となって創造された通りの姿を取り戻すのである。そこでは、今日この時にも行われているであろう、あらゆる不義や不公正、様々な悪行も存在しなくなる。神との関係の回復の結果として、死や老化も過ぎ去り、地の呪いも解かれるであろう。

 それは人間の努力の及ばない栄光、神の属性を持つ人類の誕生となる。
『創造物は切なる願いを抱いて神の子らの顕し示されることを待ち焦がれている』とパウロが語ったように、人類の最初にキリストの贖いを適用され、先立って「神の子」となる「聖徒たち」は、我々「諸国民の光」であり、真のアブラハムの子孫「神のイスラエル」、「神の所有に帰する民」となる。

 では、その礎となるべく、より多くを委ねられる「聖徒たち」に、より多くが求められたとしても、神の意志と人類にとってそれは喜ばしいことではないか。


                ©2011  林 義平
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小麦と毒麦の例え 「不法の人」の現われる時

長文15000字超 <難易度 ☆☆☆☆☆☆☆ 特高>

-予備知識-
「聖徒 聖霊が指し示す者」、「大いなるバビロンの滅び」、「神の家から始まる裁き」、「マタイ福音書の終末預言と例え」、「オイコノミアと七つの頭」




◆終末に撒かれる毒麦

 マタイ13章24節を以って始まる「小麦と毒麦の例え」はマタイ福音書にだけ存在し、「種まき人の例え」の解釈を述べた後に、イエスの身近に居た弟子らに話されており、おそらく群集はこれを聞いていない。

 つまり、「種まき人の例え」の四種類の種の中でも、実を結ぶ「良い種」に相当する人々すらも更に選別を受けることを警告しているように読めるのである。

 ユダヤ人を念頭に置いたマタイの福音書は神の王国をほとんどの箇所で「天の王国」と呼んでいるが、この「小麦と毒麦の例え話」の主題もやはり「天の王国」である。

では、その例え話に耳を傾けてみよう。
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 「天の王国は、このような例えのようだ。
 人は自分の畑の中に良い種を撒いた。

しかし、人々の眠っている間に、この人に敵対する者が来て、小麦の間に毒麦(ジザニオン)の種を撒いて去っていった。

草が芽生えて、実ると、そのとき毒麦も現われた。

家の僕らが主人に近づき「ご主人さまが畑にお撒きになったのは良い種ではありませんでしたか?どうして毒麦があるのでしょう?」と訊く。

主人曰く「それは敵対する者がしたことだ」。すると僕らは「私共が行って抜きましょうか?」と言うと
「いや、毒麦を引き抜く際に、小麦も一緒に抜きかねない」。「収穫まで両方とも成長させておき、その時になったら刈る者には、まず毒麦を集め焼くために束ねさせ、次いで小麦を収穫の蔵に納めるために集めさせよう」。

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 以上が例え話であり、群集を解散させた後で、これらについてイエスは弟子たちの要請にしたがって、その意味するところを語っている。
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良い種を撒くのは人の子、つまりキリストである。
畑とは世界であり、良い種は王国の子らであり、毒麦とは邪悪な者の子らであり、それらを撒いたのは悪魔で、収穫は世の秩序の終わる時で、刈る者は天使である。

それで、毒麦が取り集められて火で焼き尽くされるように、世の秩序[アイオーン]の終わり(終焉[シュンテレイア])もそうなる。
人の子は、天使らを遣わして、人をつまずかせる者と不法[テーン アノミアン]を行わせる者らを自らの王国から集め出し、炉の火に投げ込ませるであろう。そこで泣き悲しみ歯軋りするのである。

それから、義なる者たちは彼らの父の王国で太陽のように輝きわたるであろう。

耳のある者は聴くがよい。
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敵対者が畑に別の種を撒いたような、いやがらせの行為が実際、古代に行われていたとも言われている。(ローマ法では処罰の対象であったという)

この毒麦を食すと死亡に至ることもあるというからには、その分別は命に関わるものである。

食すことのできないこの中東の毒麦は、実を結んで穂が出るようになるまでは小麦によく似ており、そればかりか共に根を伸ばして絡み合えば、毒麦だけを選んで抜き去ることは難しいと言われている。
それが撒いた悪人の狙いでもあろう。畑全体の予定していた収穫を阻害してしまえるからである。

だが、この例え話の主人の判断は合理的である。
成長する間、農夫であっても小麦か毒麦かの区別がつかなかったし、多少養分を毒麦に吸い取られていたとしても、収穫の時期になってしまえば、遠慮なくどちらをもバッサリと刈り取ろうが引き抜こうが支障はなくなる。

しかも、穫り入れの時期になれば穂の外見から双方の見分けがつくので、小麦は蔵に納め、食料にならない毒麦の方は竈で煮炊きの火にでも供すればよいであろう。

さて、イエスは良い小麦の収穫を期待したが、それは「天の王国」に集められる人々のことを語っているのであり、単に「クリスチャン」の中に区別が生じるなどと考えていれば、この例えの本旨には到達しない。

これを結論から言えば、「新しい契約」に参与することよって、イエスと共に王また祭司となるはずの「聖なる者たち」の中の分離を表している。⇒ 聖霊と聖徒


即ち、奇跡を行う聖霊を注がれた『聖なる者』となった者には、『多くを委ねられた者は多くが求められ』『狭い門から入るよう励み』『自分の魂を救おうとするものはそれを失う』ほどの試練が待っているのであり、そこで脱落する『聖なる者』が出ることは、「ミナ」や「タラント」の例えをはじめ、「婚礼の服装」「引き網」「一人は残される」など多くの警告が与えられている。

また、「小麦は倉へ納める」という新約聖書で繰り返される言葉が、ユダヤ人の中から「聖霊のバプテスマ」を受けた者と「籾殻」とされ「火のバプテスマ」を受けた者の相違の中でも語られており、それがイエスをメシアと信じた側と信じなかった側のユダヤ人の結末を語っているところからも明らかである。⇒ 聖霊と火のバプテスマの異なり

この倉に納める「小麦」とはキリストがその宣教を通してパレスチナで集め始めた『聖霊によって油注がれた』『アブラハムの裔』『聖なる国民、王なる祭司』を表しており、もちろん単なる「クリスチャン」などではけっしてない。⇒アブラハムの裔を集めるキリストの業
即ちキリストと共に天の神殿を構成する格別で少数の弟子たちである。

だが、「小麦が倉へ納められる」ことを喜ばない者がいる。それはサタンであり、「小麦」に相当する『アブラハムの裔』また『王国の子ら』が集められ、神の王国が実現することは悪魔の立場を危うくし、天に居られなくするものである。そこで彼は「ディアボロス」(中傷者)の特性を発揮して、「聖徒」たちを誘惑し、本来「小麦」であった者を「毒麦」と変じさせることを目論む。その意味に於いて『毒麦』の種を撒くのは『敵である』サタンである。(黙示録12:7-)

そこでこの「小麦と毒麦の例え」は、キリストと共になる聖なる『召された者』らの中に悪魔が自分の種である邪悪な者らを混ぜようとして、「偽の聖なる者」を撒き足すということであろう。そうすれば、『聖なる者』また「キリストに与えられた者」『神のイスラエル』の数を満たさぬように影響でき、王国の実現を阻むことになるかも知れない。(コリント第一1:2/ヨハネ17:6/ガラテア6:16)


では、すぐに悪魔の撒いたものを抜き去ることが良いかと言えば、実際の毒麦のように見分けがつかなかったり根が絡んだりして、大切な聖徒である『小麦』まで損なう危険があり、それは敵対者の大いに喜ぶところとなるだろう。サタンが妨害したいのはキリストの民『神の子ら』が『収穫』されて揃い、『天の王国』の実現することを阻むことである。(ルカ11:23・13:34)


そこでキリストの側で必要になるのは、『額に証印を押される』『神のイスラエル』の十二部族を『四方の風から集める』という『裁き』であり、それに適う者たちが見極められるのが終末の聖徒の裁きとなるのである。(マタイ24:31)

彼らが天界の神殿の石となるからには、彼らの主と同様に『試された石』となるべき必要があり、その試みの場がこの毒麦の例えで言うところの『世界』という『畑』であって、それは聖霊の種の撒かれる地上以外にない。

この小麦と毒麦との処置の過程から、もうひとつの裁きも進行してゆく。
それが『キリストの兄弟たち』である聖徒らに寄り添い親切を示すか否かという、その時に生ける人類の残りに対するより大規模な裁きであるが、その前に、どうしても『小麦』となる人々が試され集め出されなければ何も進まない。そこでイエスは使徒らを通して、その試みに備えさせている。


まさにこれを指して、イエスがこの例えの終わりに『世の終わりも(小麦と毒麦の例えのように)そうなる』と語ったと言えよう。
では、『小麦』と『毒麦』をはっきりと区別させるのは何であろうか。
 


さて、初代のエクレシアにおいて、信徒の中でも聖なる者たちには聖霊が注がれていたのだが、最後の使徒ヨハネの時代(第一世紀末)には偽の霊感が混入し始めていた様がその書簡に窺える。(ヨハネ第一4:1-6)⇒ 西暦二世紀のキリスト教

これは人類全体を二分する事柄「世の裁き」ではなく、繰り返しになるが、一般のキリスト教徒の良し悪しを述べるような単純で浅薄なものでもなく「どのクリスチャンが正しいか」などと云う観点からこの小麦と毒麦の例えを見ていれば、その奥深い意味にはいつまでも到達しないであろう。

これこそは「世の裁き」に先行する、聖霊を受ける人々が試練の中にあって起きる分離を意味しているのであり、まだ将来の「主の日」、即ち終末に起きることである。


だが、その人々「聖徒たち」にとっては重大な関心事となるに違いない。その選別キーワードに「不法」[アノミアス]が挙げられる。この「小麦と雑草の例え」の解き明かしでイエスが語った『不法を行わせる者らを』集め出すからには、雑草また毒麦とは「不法」を行う者である。⇒神の家から始まる裁き


即ち、「雑草」と「不法」は聖書中で「聖なる者たち」(ハギオイ)と呼ばれるイエスの約束した聖霊を受ける人々の中から起こる「背教」が関係している。即ち、「脱落する聖徒ら」のことであり、パウロがテサロニケのエクレシアに『まず背教が起こり、不法の人が現されてからでなくては(主の日は来ない)』と言っていたところの『背教』(アポスタシア)がこれである。(テサロニケ第二2:3)

『毒麦』また『背教』は、キリスト教の外側で起こる事象ではなく、まさしく内部から、それも聖霊注がれ、不定の将来に『回復』を果たす「浄められたキリスト教」の中枢での逸脱を指し示している。『聖なる者ら』が担う責任は非常に重いものであり、命を掛けて聖霊の言葉を語り、為政者とこの世に対峙せねばならず、『自分の魂を見出そうとする者はそれを失う』ほどであるという。(マタイ10:32-39)


そこで恐れ慄いてしまい、その果たすべき責務を離れてこの世と妥協してしまう者は、当然に「新しい契約」に相応しくないばかりか、仲間であった聖徒たちの敵と変ずるとしても不思議はない。もう、その者たちにキリストとも神の王国とも関わりはないのである。これは『背教』というべきであろう。 ミナやタラントの恐怖のために財産(聖霊)を隠してしまった奴隷の例えはこの警告となっている。

そこでは堕落させようとのサタンの誘惑が働くことで『小麦』となるか『毒麦』なるかの分かれ目となるのであり、その結末については『聖なる者』らの個人の忠節に関わる問題であるので、エデンの二本の木の試みと同じく、神はこれを予見しない。そこで毒麦を『小麦も共に抜いてしまわないように』する必要が生じると言える。それは即ち、聖徒らに臨む試練の結果として初めて両者の違いが現れるのであり、その間は『聖なる者ら』の裁きにキリストは手を付けることはないことになる。(フィリピ1:10/ペテロ第二3:12/ダニエル11:35/マラキ3:2)


そして、『収穫まで両方とも成長させ』るという時間の流れは、あのペンテコステからずっと現代まで続いてきたとは言えない。
なぜなら、真に聖霊を注がれた『聖なる者』は初期(第二世紀)に一度途絶えており、次に現れるのは「終末」という将来の『主の日』だからである。即ち、キリストは終末に至って弟子らの中に聖霊の注ぎを許し、そこで再び倉に納められるべき「小麦を撒く」ことになるであろう。⇒「ダニエルの七十週」

もし、初代から種は撒かれたままであると主張しようにも、それではローマ国教化以後の『畑』という世界は雑草だらけになっていることになり、この例えとは大いに様相を異にする。この例えに語られる『毒麦』とは、今日のキリスト教界の逸脱を遥かに凌ぎ、『聖霊を冒涜する』ほどの恐るべき『背教』というべきものとなろう。それは使徒パウロが書いたように、その『背教』(アポスタシア)が来なければ『主の日』も来ないからである。(テサロニケ第二2:1-17)


さて、古代には第二世紀までの初期の『聖なる者』たちも試練に遭っており、ユダ・イスカリオテの存在が示すように脱落した者が居たであろう。西暦60年代に入ると迫害が各地で起こるようになり、ペテロが警告する『神の家から裁きの始まる』時期が到来している。⇒神の家から始まる裁き
他の脱落者の例を挙げれば、アナニアとサッピラもそれに当たるように見える。この二人の場合はそのまま抜き取られたことになるが、これは聖霊降下からそう日を経ていない事例なので、言わば「芽を摘んだ」のであろう。

初期の『聖なる者』たちの選別は、死に至るまで忠節であったか否かによって分けられるものであり、それは復活において、『命の復活』となるか『裁きの復活』となるか*を左右するものとなるであろう。これは「十人の乙女」の例えに表わされている。⇒十人の乙女の例え 


*(これは『第一の復活』と呼ばれる(Rev20:6)ところの、キリストによる聖徒らを裁くための『千年期』直前の復活であり、キリストの声に呼び出される者ら復活(Joh5:28-29)を指している。従って、神による『義者も不義者も生き返る』(Act24:15)という、ユダヤ人が広く信じたところの諸世紀に生きた全人類の復活とは明らかに異なっている)



そこで、この小麦と雑草の例えは、初代キリスト教徒のように聖霊を受ける人々が再び現れる終末期の二度目事態を我々に指し示すもので、現状では、この例えから、将来に起こるであろうその実態を推察する以上のことにはならない。つまり、誰が『小麦』で誰が『毒麦』かを『主の日』に入ってもいない今の時代に決め付けるのは不毛な論議なのである。

そして現在は、奇跡を行う『聖霊』が地上の誰の身の上にも注がれていない以上、種の撒かれてもいない今日、『聖徒』からの『毒麦』も『背教』も芽吹いても始まってもおらず、小麦も雑草も生育さえしていない


背教というなら、すべてのキリスト教には初代のようには聖霊が無いことにおいて、どんな宗派も本来のキリスト教から逸脱している最中にあり、現在はそれ以上に「背教」のしようもない。
イエスの『毒麦』の例えも、パウロの言う『背教』も、キリスト教界の原状の逸脱ように「生易しい背教」では済みそうになく、それこそは、終末期における世界を惑わすサタンの猛り狂った反キリストの大暴れとなろう。



-◆「不法の人」--------------------------------

パウロの時代(西暦60年代まで)にも、彼によって「不法[アノミアス]の秘事」は既に始まっており、(聖霊という)抑制力が除かれるときが来れば、それははっきりと姿を現すと述べており、その「不法の人+」は、また「滅びの子×」とも呼ばれている。(テサロニケ第二2:1-12)

(+ [ホ アンスローポス テース アノミアス]=不法「重大な不正/法律を超える/無法な」)
(× [ホ ヒュイオス]=「子/子孫」 ・ [テース アポーレイアス]= 滅び「破滅/破壊」)


このように、使徒たちは当時から「聖なる者たち」の間から異なった分子の現われることを警告していたのだが、それは内部から現われることにおいて見分けがつき
難いことは容易に想像できる。しかし、単にクリスチャンの中にも悪い輩がいるということではない。(悪い輩はどこにでも居る)

それらの事は使徒たちの時代に成就していて、もう既に過ぎ去ったことなのだろうか?
だが、イエスの例えの内容は、それがずっと将来に起こることを示している。


というのも、イエスは『畑』を『世界』[コスモス]と述べ、『収穫』の時期を『この世の秩序の終わり[シュンテレイア]』と語っているが、これは小麦の最終的な収穫と倉に納めるところの、即ち、『神の王国』への『聖徒』たちの終末の集め出しの時期を指していよう。


なぜなら、初期の『聖なる者』らも使徒時代の『世界』の至る所から集め出されたが、終末に至って初めて『収穫され』『倉に納められる』からである。(黙示録7:1-3)

幾つかの古代資料は、使徒時代が終わり、初代の人々がまったく眠りに就いた第二世紀半ばまでに、消え去る聖霊の賜物について知らせているのだが、確かに、その聖霊の時代が去った後に、歴史はローマ国教化や以後今日まで主要なキリスト教に影を落とす教義の変更が酵母(パン種)のように作用して、イエスの伝えた教えを本質的に入れ替え、宗教上の封建的圧制者を登場させている。⇒ ローマ国教化で失われたもの


では、16世紀のプロテスタントが唱えたように、ローマ教皇が「不法の人」かと言えば、当時から歴史は今日までも流れ続けており、未だ『世の秩序の終わり[シュンテレイア]』を迎えておらず、事はそう簡単ではない。

イエスの言う通り、「世の秩序の終わり」に至るのであれば、時の経過を待つ以外にこの秘儀が具体的に誰を指すかは知ることができないだろう。

パウロはキリストが口の息で「不法の人」(アノモス「無法者」)を殺し、「その臨御(パルーシア)の顕現(エピファネイア)によって絶つ」と書いている。それは将来起こるキリストの臨御の開始から、さらに幾らか経った時点での地上への介入を意味する。(テサロニケ第二2:8)
 

したがって、誰が不法を行う「毒麦」か、また誰が「不法の人」であるかについて現在まで様々な推測がされてきているにしても、小麦と毒麦が『撒かれ』てもおらず、共に生育している段階にさえ達していない現在、即ち、正しく聖霊を注がれた「聖なる者たち」も存在さえしていない状態で「不法の人」の実体を見極めることには無理がある。

これについてエイレナイオスは、使徒ヨハネの言う反キリストについて「その者の名をはっきり告げる必要があったなら、その黙示を見た者自身がそれを告げていたであろう。なぜならそれが見られたのは然程昔ではなく、ドミティアヌスの治世の終わりで、ほとんど我々の世代のことであったからである」と第二世紀に自著"異端反駁"に書いている。

将来の「収穫の時」。それが何時であるかについては、ある物事の進展がない限りそれを判断することは人にはできないに違いない。それはパウロの云う『背教』の起こる時期を指しており、それにはサタンの誘惑によって脱落する「元聖徒」が関わるもので、『抑制力となっているもの』*である『聖霊』が『聖徒』と共に地上を去るという、終末期も進んだ後のことである。(テサロニケ第二2:1-12)
*(パウロがテサロニケ第二2:6-7に於いて『抑制力となっているもの』を『者』とも書いていることについては、前者を聖霊、後者を聖徒と見做すことができるように思える)


それゆえ、地上に聖霊が無い以上、イエスの語った毒麦の例えと不法の人に関する記述は現在までも変わらずに「秘儀」であり、時限ファイルの様相を呈しているのである。

将来、徴として進展し始めるこのパウロの警告は、約束の聖霊を受けていながら「背教」に至る「不法の人」が「すべての神々や崇拝の対象の上に己を高め、神殿に座して自分を神だと宣する」という事態の発生を伴うとされるが、これはイザヤやダニエルの預言でも語られている。(イザヤ14:3- /ダニエル11:36-)

様々な研究熱心な人々が聖書を詳細に調べ、この傲慢な「不法の人」の実体に迫ろうとして今現在も努めているのだが、いずれにせよ、世界は、この尊大で強烈な指導者に対してどう振舞うかによってふたつに分かれるであろう。

以下に、その理由と思えるところを述べよう。
 


-◆「不法の人」をめぐる事態の進展-----------------------

この「不法の人」が「滅びの子」ともされる理由は、キリストによって除き去られることが定められているからであろう。
しかし、その末期には大いに増長し、その傲慢さは神をも超えてゆこうとするが、その時点となれば「不法の人」が誰であるかは疑いなく明らかになるであろう。


その尊大さは、おそらく終末で早々と過ぎ去ることになるローマ教皇の比ではなく、全世界に崇拝を要求して「神の王国」とその王権を得るべきキリストにあからさまに逆らう人類の(照りつける太陽のような)独裁者であり、その姿は4000年以上前の底知れぬ深みから歴史の新たな舞台に登って来るであろう大王の姿に『像』のように重なるものであろう。(黙示録17:8)⇒「誤解されてきたバベルの塔」


ダニエル書では、この大王は聖徒の中のある者たちをも滑らかな言葉で誘い背教させ、また、聖徒を攻撃して成功し、優勢となるとすら予告されている。(ダニエル7:21/11:32-35)
これは『北の王』から起こされる『腕』(権力)であり、『北の王』が『人手によらずに砕かれ』た後も偶像化されて存続することが黙示録に示唆されている。(ダニエル8:25/黙示録13:15)⇒「二度救われるシオン」

パウロが「抑制する者が居なくなったとき」に、それが姿を現すと言っていたのは、将来、再び聖霊が聖徒に注がれて後のことを意味しているのであろう。パウロはまた同時の状況について『その不法の策略は既に働いている』とも述べていた。これは『不法の人』として当事者が顕現するのが聖霊の注ぎが終わり、悪霊の力に入れ替わった後のことを指して云うのであろう。つまり聖徒らが殉教し、或いは選ばれて天に召されると、以前は聖霊を受けた聖徒であった筈なのに、依然として地に『残されて』いる者らがいる。即ち、『ひとりは連れて行かれ、ひとりは捨てられる』の言葉の成就でもある。(マタイ24:40-42)

彼らはタラントの例えの中で、外に放り出されてしまう者に相当し、その持てる聖霊も取り上げられる。
しかし、彼らには「別の霊」を与える親玉が現れている、それはサタン崇拝の偽宗教であるが、『大いなるバビロン』は既に滅んでおり、今日見るような類いの宗教ではないであろう。

それこそは、諸宗教を葬り去った『七つ頭の野獣』の『偶像』による、その時まで存在したことの無いような「まったく新たな装いの宗教」の教祖的存在者なのである。


この教祖自身も「元聖徒」であり、聖霊は失っても引き続きサタンの霊力を受けて奇跡を行う者、『聖なる神殿を汚す者』、世の滅びを招く者となるであろう。そのすり替わりは巧妙で、『聖なる者の中からさえ躓く者が出る』。
ならば、その現れは聖徒らの天への召集に先立ち、『四十二ヶ月存在する』『七つ頭の野獣』と時間的に重なるとも言える。


そのように捉えると、以下のように黙示録13章と合致するかのようにして、その後の見通しが開ける。

つまり、聖徒たちが四十二ヶ月の期間、聖霊の賜物によって預言者の業を行った後、彼らは「新たな角」の攻撃を受けて倒れ、彼らの主がそうであったように、彼らが死すべき肉なる人であるうちはけっしてこれに勝利することはない。敵らは彼らに打ち勝ったことを喜ぶさまが黙示録にある。(11:10)つまり、『女の裔』はここでも主のように『踵を砕かれる』ことであろう。(創世記3:15)


その攻撃によって聖徒たちの中からさえつまずいて抜け落ち、「不法」に加担する者も出る。
その点、『滅びの子』(ホ ヒュイオス テース アポーレイアス)が当てはめられている例が、聖書中でユダ・イスカリオテだけであることは非常に示唆に富む。


即ち、「十二使徒」という最高度の聖なる立場にある者らの中からですら、『滅びの子』が現れたのであれば、『聖なる者ら』からどうして落伍者が出ないといえようか。
実にキリストの福音書中では、脱落についての類似した「例え」が他にも多数存在し、これを警告しているのである。


マタイの福音の第七章では「良い実を生み出せない木」についてイエスは語り、次いで、『その日、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言う』者らのことを予告している。

これら預言したり、払魔したりする権限を持つのは、まさしく聖霊の賜物を得た『聖徒』に他ならない。

そして、終末において、彼らは聖霊を得てすら「背教」に至り、本来の仲間である『聖徒』を排撃しておきながらキリストの顕現(エピファネイア)の段階になってからキリストに寄り添うことが許されるわけもない。⇒黙示録の四騎士

この「背教」による「聖徒」からの離開が生じることを教えるイエスの例えには、毒麦やミナの他に「引き網」や「選別される二人」、また「荒らす憎むべき者」、パウロが言う「不法の人」また黙示録の「偽預言者」などがあり、それらの中でも最たるものがこの「毒麦」の例えということができる。

初期の『聖徒』たちのように、将来の聖なる者らにも「キリストの杯」を飲み干して自分たちの主に続く覚悟が要ることはイエスの再三語ったところである。
 

こうなると、誰が真に聖なる者となるのかは、こうした事態の進展して来るまでは分からないことになり、やはりダニエル書はそれが聖徒を『練り清め、白くする』ためであるという。(ダニエル11:35)

そこから出る『灰汁』は聖徒の背教という、終末の著しい事態を表すものであろうことが明らかではないか。

「神の家から始まる裁き 試みと背教のとき」


その試練の後に小麦と毒麦の相違が明らかになるに違いない。

『小麦』として蔵に納められるべき聖徒が、来るべき『王国』において人類を統治し裁く役割を担うからには、自分の命を惜しんでなどいればキリストと共になる資格に適わず、そこで選別が起こるのであろう。(マタイ10:32-)




-◆悪魔の手段、脱落聖徒から現れる「不法の人」---------

例え話に戻れば、小麦も毒麦も実際の種は最初からどちらかなのだが、将来においては、試練の時の経過が無いなら分からない。だが、双方を収穫という終わりのときまで生育させ続ける理由に相当するところがこうして幾らか見えてくる。

つまり、これらの植物が実を結んだ最後の時期になるまで、人の目には小麦か毒麦かが分からないように、将来のある時点で、聖霊の注ぎをはっきりと受けた人々が存在するようになったとしても、なお試みがあるという事であり、聖徒の試みを経なければ例え話の「小麦」が誰で、「毒麦」が誰なのかは分からないということである。


ミナの例えのように、主人の帰還した後で清算される弟子の中にも、「外の闇に投げ出されそこで歯噛みする」者がいるとイエスは語っていたが、この区別の類似にも「時」が共に重要な要素となっている。⇒ ミナの例え

そうなると、生育中の小麦と毒麦が外見上似ているように、もちろん我々も将来「聖霊の賜物」を持ってその業を行う聖徒を眺めても初めから誰が小麦で誰が毒麦と断ずることはできないのであろう。


しかし、今から「不法」が何であるかを推論しておくことには大きな価値があるようだ。
それは、キリストの王権に関わる帰還への反対行動であろう。

しかもそれはあからさまな反対ではなく、「アンチ・クリスト」の語が示すように、キリストに「代替」するという詐騙であって、「終末」において天に臨御するキリストを偽り、自らがキリストであると主張し、恰もキリストが地上にいるかのように横暴に振る舞うものである。

キリストを詐称する者が多く現れるにせよ、『不法の人』は格別であるようだ。
彼は自らを高め、様々な宗教を倒させて、『あらゆる神とされるものの上に座す』のであろう。それはサタンのような悔いる余地なき「自己愛者」の典型、その象徴像のような人物なのであろう。(ダニエル11:36/テサロニケ第二2:4)


即ち、「聖なる霊」が聖徒らを通して語るその言葉と、「アンチ・クリスト」のいずれの言葉に従うかに関わる個々の人々がそれにどう応じるかという問いであり、ある人は『誰も反駁できない』聖霊の言葉に信仰を働かせ、またある人は何らかの理由でそれを退けることであろうし、そこに誘惑を仕掛けるのがサタンの腕の見せ所となろう。


「アンチ・クリスト」である『不法の人』に従う「脱落聖徒」は『毒麦』となるが、それは聖霊を与えられた人々の変質を言うのであり、聖徒が各地から現れる意味で『畑は世界』と雖も、元々「聖霊」を撒かれていない大多数の信仰持つばかりの人々『信徒』がそのようになることは無いことだろう。
 

しかし、「アンチ・クリスト」である『不法の人』に従ってしまう危険は「聖徒」にも「信徒」にも同等にあって、それは『天の雲と共に』に臨御して見えない真なるキリストを否み退ける結果を覚悟しなければならない。「不法の人」は、自分を神よりも高めるほどの自己崇拝を強要するだろうからである。(ダニエル11:31-35)

即ち、ユダ・イスカリオテが現れたように、『聖なる者たち』の中から脱落する者が生じ、多くが忠節を保って天に召される中、試練に脱落した彼らは地上に『残される』が、サタンは彼らを利用して『偽預言者』とする。特にその頭目が『不法の人』であり、神に勝ったものとして自分を示し『神の神殿に座す』ことになるというが、これはパウロが注意を促し『常々語っていたこと』であったというのである。(テサロニケ第二2:3-4)



-◆不法の人を招く諸宗教の教理-----

そこで恐ろしい効果を発揮してしまい兼ねない教理が既に地上のキリスト教界に現存している。
その第一が「三位一体説」であり、第三世紀頃にキリスト教に混入してきたものであるにも関わらず、我々の時代を飛び越えて、終末にまったく尋常ならざる効果をもたらし兼ねないものである。
その恐るべき効果をもたらし兼ねない教理の第二は、キリストの見える「地上再臨」 があると信じさせる教えである。

これらによって、サタンの霊力を帯びた脱落聖徒は、地上に置いてゆかれ、天への召しに与れないだけのことでは済まず、キリストが終末預言に於いて再三警告した、「地上にメシアが現れた」という偽りを推動し、そこに三位一体説が加わって、更にその者を「神」の座に祭り上げ兼ねないのである。

もし、そうなるのであれば、「三位一体説」も主の「地上再臨説」も終末の裁きの時にまで、『大いなるバビロン』の滅びを通過して存在し続けることになる。組織宗教としてのキリスト教が去ったとしても、確かに人の信仰心というものは簡単に変えられるものではない。

もし、終末に地上のエルサレムに実際に神殿が再建されるようなことが起こるなら、その『座』までも提供し兼ねないことになる。もしそうなれば、それはキリスト教だけでなくユダヤ教の宗教信条も刺激するものとなるのであろう。そこで、キリストの再臨時にユダヤ教徒が大量改宗するなどと信じているキリスト教徒から見れば、自分たちの預言が成就したかに思え、大いに目出度いことに思われるであろう。

そして、イスラム教も終末にイーサー(イエス)の現れを教えてはいなかったろうか。 しかも、終末で誰が本当のマーシー(メシア)であるかの戦いで圧勝するとされてはいないか。
こうなると、いまでこそ異なる三大宗教が、終末に波長が揃って『不法の人』に向かう事態も考えねばならなくなる。 


その時には、旧来の諸宗教組織を中心にした『大いなるバビロン』が去っているとはいえ、『羊のような二本の角を持った獣』が新たなイデオロギーを推進するのであれば、それはキリスト教の影響の色濃いものである危険性も拭えない。 その大国は極めてキリスト教的であって、その起こす行動や思想の潮流は圧倒的影響力を持つのであろう。

そこで『神の神殿に座し、自分を神として示す』者『不法の人』の現れを推動するものは、現に今キリスト教徒の多くが既に信じ込んで保持しているその教えそものではないか! そうともなれば、『不法の人』とは、キリスト教の逸脱の集大成のような存在となるのであろう。


終末では、世界という畑において、我々人間の狭い観点からではなく、天上からの判断により、天使らを通して真の聖なる者たちが選ばれるだろう。そこで悪魔の撒いたものである「偽の聖なる者」も出る。「アンチ・クリスト」に屈従し「不法」[アノミアス]に関与しているからであり、その行いは大多数の人々をつまずかせるものともなるに違いない。
 

 このように終末とは、「この世の裁きの日」という以外にない、「バプテスマを受ければ救われる」などと教えていたものはその信者らへの責を負えたものではない。例え、この世の現状の諸宗教が「聖なる霊の言葉」を聖徒共々葬り去らせることに成功して、しばし喜んでも、その次に倍した滅びを被るのが『大いなるバビロン』である。 ⇒ 「大いなるバビロンの滅び」 


たとえ、これらの「地上再臨」や「三位一体」を信じていない宗派がキリスト教にあるとしても、「聖霊の賜物」を否定していれば、奇跡が起こるときにそれが想定外となってしまい、真実の奇跡の賜物も偽りの霊による奇跡も判断をつけることさえ難しいのではないだろうか?その前に、終末に次々に起こる事柄についてゆくことさえ覚束ないであろう。

そして、あらゆる旧来の宗教組織を除き去って登場する、まったく新しい強制宗教が世界を覆う。
そのために、地上に残されてしまった脱落聖徒にサタンの霊力は臨む。それが『カエル』止まりの奇跡を見せることである。それこそ信じることが『偽預言者』の唱導する『七頭の野獣の像』への崇拝なのであろう。(黙示録16:13-16)

その虚偽の崇拝とは、『聖徒』と『大いなるバビロン』を滅ぼすと、時を経ずに聖霊の声に信仰を働かせ「信徒」となった人々の集団『シオン』を攻撃するように諸国家の公権力を糾合するだろうが、それが『ハルマゲドン』という場所に象徴的に集められていることを意識する人々がその人類連合軍の中にいるだろうか。



それで、我々が聖霊を注がれた聖なる者とはならなくても、「不法」[アノミアス]の側に組しその崇拝方式を受け容れることなどけっしてしない覚悟を思い定めることが、その時には誰にあっても最重要な事になる。


その崇拝方式とは「神の王国」の意義を否定し、人間が倫理上の欠陥(「罪」)を持っている事実と聖霊の言葉とを無視し(ここに聖霊への冒涜がある)、人類の能力と可能性に信仰を置く人間賛美の崇拝であろう。

 例えるならば、今日人々が信頼して止まない科学によって、人類の永生が可能となり老化や病気を食い止める希望が現実ともなれば、人々はそれでも神の側につくだろうか? あるいは強力な世界政府が登場し、紛争のない世界の希望が具体化するときに、人々はそれに熱狂しないだろうか?だが、それは不完全な代替品、いやまったくの偽物であり『666』なのであろう。(黙示録13:18)


多くの人々がその夢を洗脳のように「額」の思いに置かされ、「手」の具体的行動に表すよう圧制によって強要される日が来るのだろう。(黙示録13:11-)
これを先導する者は、初めは神の聖霊を有していたのに、やがてサタンの魔力によって不思議を行う脱落した「元聖徒」と「七つ頭の野獣の像」を崇拝させようとする「偽預言者」の勢力であろう。


-◆不法の人という究極の偶像崇拝----------------

以上の文章が幾分難解であることは承知しているが、結論は極めて簡潔な二択に収斂する。
それは創造者と人間とのどちらを神とするかという、エデンの問いへの回帰となるだろう。

聖書の述べるところを渉猟して推察するに、将来、人類に神の側を取らせまいと『不法の人』が猛烈な活動を展開し、世界はそれに巻き込まれ、相当数の人々は無頓着な故にその罠に易々とはまり、聖霊の業を行って大いなる業を見せた聖徒であってすらも、そしてごく普通の人々に至ってはまったく容易に、その欺きの陥穽に落ち込み、不法の側に立ってしまい兼ねないのである。(マタイ7:22-23)


『蛇』については、まず、間違いなくその始めからその終わりに至るまで『蛇』であり、ディアボロス(中傷者)としての姿勢を変えないに違いない。(黙示録12:9)
サタンが『終わりの日』ともなれば、誰であろうと神を中傷し、エデンの時のようにあらゆる人々を誘惑せずにはいないであろう。むしろ、『自分の時の短いことを知り』その持てる力の限りに 、創造神からあらゆる者を引き離しにかかることは目に見えている。それは『裁きの日』でもあるからである。


その『背教』は、「終末」におけるサタンの誘惑の最高傑作となり、エデンでエヴァにしたように、できうる限り人々を誑かして多くの犠牲者を吸い寄せようとすることであろう。この世が全体としてその道に入ってしまうことは、『聖徒』が『世』と敵対していることを述べる聖書中の多くの句に示されている。
 

『不法の人』は、その『背教』によって神をも凌ぐ名誉を唱え、あらゆるものの上に自らの権威の座を設えて、その玉座に就き、世界を神と対立させたうえで、結局は世界から集め尽くした追随者共々遂にキリストの顕現のときに滅びに至る。

パウロが聖徒らに対し『あなたがたの思いが腐らされ、サタンがエヴァを誑かしたように、キリストに対して示すべき誠実や貞潔さから離れはしないか』と心配したことはまことに適切であったことになる。(コリント第二11:3)
それこそが、真の「背教」であろう。それに比べれば、キリスト教の宗派同士が「背教だ」と批難しあうことなど他愛の無いものである。「不法の人」は擬似(反<アンチ>)キリストであり、『神の王国』の劣った代替物を提唱することであろう。


この以前に、その意味はいまだ不明瞭ながら、サタンは、最後の野獣の「新たな角」通して聖徒を攻撃し、神を冒涜して憚らない。さらにキリスト教を含む旧来の諸宗教たる『大いなるバビロン』をも完膚無きまでに滅ぼし尽くすことになろう。(ダニエル7:20-26)

それを使嗾する最たる者が『不法の人』また「アンチ・クリスト」であり、「背教」によってサタンの際立った人類誘惑の器「偶像」となって、キリストは(地上の)「ここに居る」と唱え、大半の人々を騙し、聖徒の中からさえ離脱者を得る、ということであろう。
『どこであれ、死骸のあるところには鷲が集まっているものである』。しかし、わざわざ鷲の餌になる必要などはなく、そのようなところから離れるべきではないか。(マタイ24:24-28)



いずれにせよ、この考察も含めて聖書記述に対する人の予想はそれ以上のものにならないが、より重要な事を考えるに、我々はキリストのような熱意を以って創造神を神とする立場を取るだろうか。それとも「蛇」の道を行こうとするだろうか。人間が神のようになって良いものだろうか?これが焦眉の問題となるだろう。


蛇と不法の人の目的は、創造物に創造者を離れ独立した自己の道を行かせることであり、アダムの子孫は既にそうしてあらゆる倫理の基礎を失って罪の内にいるが、仲介者キリストを通して善人も悪人も信者も不信者も関係なく人類のすべてに「神の子」の認知を受ける道は残されている。

その道とは、将来聖霊が再降下し、ある人々が聖徒として為政者と対峙し、反駁できない聖霊の言葉をもって語るときに、それを支持することである。(マタイ10:18)

その言葉が世界を揺り動かす程のものになるというからには、我々は聖徒が誰かを見紛うことはない。(ハガイ2:7)

『蛇』はその一条残された神への道を断つべくあらん限りの手段を用いるに違いない。(黙示録12:9)


それはこれから聖霊の驚くべき言葉が臨んで後、先鋭化する争点となるからであり、「アンチ・クリスト」という、おそらくは聖徒からの著しい大背教者、十二使徒から現れたユダ・イスカリオテ同様に『滅びの子』と呼ばれる者の登場によって、そこで、人はそれぞれに自己の内奥が問われることになろう。(マルコ13:9-10)

『大いなるバビロン』の亡き後、「最後の究極的偶像崇拝」が登場するなら、象徴的『聖所に立つ』『荒らす憎むべきもの』の到来はその時に聖霊を信じた者らの中で紛うことなく明瞭となるのであろう。(マタイ24:15)

中傷者としての「蛇」の本性を知る者であるなら、聖徒であろうとなかろうと、その欺きにのってはならず、神とキリストを擁護して、エヴァやアダムのようにもならないことを決意せねばなるまい。




               新十四日派   ©  林 義平



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「背教」と「不法の人」 

神の家から始まる裁き

黙示録の四騎士

携挙と誤解される聖なる者の召し

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賃金の例え話 後の者は先に、先の者は後に




イエスの「賃金」の例え話はマタイ福音書二十章のはじめから読むことができる。
以前にもぶどう園の悪い耕作人たちの例え話に触れたが、ここでもぶどう園のオーナーと作業する者たちが登場する。

初夏を迎え、ぶどうが取り入れの時期になったので、オーナーは収穫作業のために人々を一日一デナリウスの賃金で雇い入れる。しかし人手不足なので午前九時ころに公共広場に行き、その日に仕事がない男たちをも日雇いにして自分のぶどう園に追加の労働力として送り込んだ。

しかし、相当な豊作だったのか昼頃にも同じように人手を増強して、さらに二回、つまり合計四回人手を送込んだ。そのため、朝からの者らの労働は十二時間にも達していたが、最後にぶどう園に着いた者たちは、わずか一時間働いたのみであった。

こうして夕刻になると、オーナーは最後の者から始めてどの者にも同じく一デナリウスを支払った。そこで収まらないのが最初から働いた者たちである。オーナーに向かって『最後の者たちは一時間働いただけなのに、あなたは日がな一日の炎暑と労苦とを耐えたわたしたちを等しくした』。(マタイ20:12)もっともな主張ではある。

だが、これは適正な労働賃金について説明する話ではない。オーナーの答えは『同胞よ、わたしはあなたに不正をしていない。あなたはわたしと一デナリウスで合意したではないか。自分の分を取って行くがよい。わたしは、この最後の者にもあなたと同じに与えたいのだ。わたしが自分の物をしたいように使うのは当然ではないか。それとも、わたしの気前よさが、あなたの目には悪く見えるのか』。というものであった。

-◆足りない選民「イスラエル」への異邦人の補充---------------------

イスラエルの歴史は非常に長い。
我々は彼らの父祖アブラハムへの約束やモーセの律法が与えられてからのこの民族の歴史をかいつまんでみて来た。彼らの不従順が原因とはいえ、その歴史は苦難の連続であった。
彼らはまる一日の労苦と暑さを辛抱した最初からの労働者のようである。

対照的に、コルネリオのような割礼も受けず正しくユダヤ教に改宗もしていないまったくの異邦人はどうであろう。ユダヤ人がやっとの思いで辿り着いたメシアと聖霊に一足飛びに預かってしまった。いまや彼らは「諸国民の光」となるべきアブラハムの遺産を受け継ごうとまでしているのである。

しかし、ユダヤ人のイエス派信徒の大半はトーラーの教えから脱却するのに手間取り、異邦人信徒のように身軽にイエスの新しい教えに合わせることはできなかった。キリスト後も使徒たちは依然としてエルサレムの神殿を中心に活動しており、エルサレム倒壊以前に新たな見方をはっきりと培っていたのは、異邦人への鍵を開いたペテロと、新たな使徒パウロなどの少人数のように聖書は読める。

西暦60年代に入るころになっても、ユダヤのイエス派信徒は数万いたとあるが、それは全体からすれば僅かな数である。おそらくは十分の一以下はもちろん、ユダヤ人と名の付く人々の百分の一にもならなかったかも知れない。イエスをメシアと認めた少数派の彼らは敬虔なユダヤ教徒でもあった。だが、当時のイエス派ではペテロやパウロの活動に明らかなように、異邦人による選民への補充というイエスの意図は同時進行している最中であった。
しかし、「異邦人は汚れたもの」という律法的思考をユダヤ人はそう易々と変えることはできない。まして現状で律法の規定に従う生活をしていれば、それは無理といっても過言ではないだろう。

だが、こうして我々は、イエスがユダヤの律法体制の『囲い』にはいなかった『この囲いのものでない』羊を連れてくるということ(ヨハネ10章)に関して、この譬えの最後の言葉『後の者は先になり、先の者は後になる。』(マタイ20:16)という例え話を締め括るこの言葉が現実性を帯びるのを見る。

この「賃金の例え」は、直接にはイエスの言葉を聞く使徒たちへ向けた警告となり得た。彼らはユダヤ人であり、彼らがこの例え話を仲間のユダヤ人信徒に言い伝えることで、間接的に同胞のイエス派信徒たちにも遺産相続を異邦人にも許す覚悟を固めさせる効果もあったろう。

つまり、キリスト以後「異邦人の罪人」までもがアブラハムからの相続権を得たとしても、ユダヤ人たちが不公正に受け取ったり、嫉妬しないためである。

これが語られたのはイエスの刑死が近づいた春先で、主を含む一行がエルサレムへの最後の登城をする旅程の中にあった。

すでにユダヤでは、祭司長派によって体制としてナザレのイエスを退ける算段が進んでおり、メシアを信仰の内に捉えるのはユダヤ体制の全体ではなく、僅かな「イスラエルの残りの者」だけであることは確定的であったから、アブラハムの相続財産を受ける『王国』を構成するにはユダヤ人だけでは不足すること、そしてその補充のために異邦人でイエスをメシアとして信じる者らを、その血統によらず信仰によって真のアブラハムの胤として集め出し、『メシアの王国』「神のイスラエル」を実現させる必要はもはや動かしがたい現実として眼前に迫っていたのであった。

後に使徒パウロは、この補充について果樹園のオリーブの樹の接木の例えを用いて説明している。(ローマ11:13-)イスラエルというオリーブの樹に実を結ばせるために本来の枝は折り取られ、異邦人という野生ながら良好な枝が接木されて、イスラエルの樹全体が満たされ「数が揃う」と言っている。(一定数であり無制限ではない⇒「聖霊と聖徒」)

しかし、そこではユダヤ人と異邦人という二つの群れが生じる事態をすべての弟子は乗り越える必要があり、これは後にエルサレム使徒会議を要請し、イエスの弟ヤコブの寛容な裁可を以って、当時には律法に従い続けるユダヤ人イエス派と、律法の頚木を負わない異邦人イエス派とがそれぞれ共栄する道が開かれたのであった。(エルサレム会議のヤコブ

しかし、それでもユダヤ優等主義はエクレシアからは絶えず、使徒パウロは生涯を通してこれと戦い、これによって逮捕投獄され、これのためにローマに送られてもいるのである。

それで、このイエスの「賃金の例え」に見るように、ユダヤ人の永い歴史に亘る神の経綸との関わりが、遺産相続における代価の受け取りに反映されていない、また不公正であると、初めからの労働者たちに相当するユダヤ人らが見做されることは無理からぬものであろう。それゆえにも、イエスはこの例えを話しておくことにしたのであろう。

あのシャヴオートの日には、祭りに登っていたユダヤ人に「聖霊」を通して遺産相続が約束されたのだが、その日から遠からず使徒ペテロの活動を契機にサマレイア、そしてまったくの異邦人たるローマ人へとアブラハムからの相続権が聖霊の降下と共に広げられていったことは、ユダヤのイエス派信徒に少なからぬ動揺をもたらしたであろう。(使徒11:1-2)

ユダヤの優等性を図りたいユダヤ人が異邦人のイエス派信徒に向かって、ユダヤ教への改宗者のように割礼を受けるべきだと主張したとしても想像の難しいことではない。(使徒15:1)
彼らにとってメシアを受け容れるということはユダヤ教の完成を意味したのであり、実質的に「古いぶどう酒は旨い」と言っていたに等しい彼らは、後のキリスト教という世界宗教への脱皮を果たすことなどは概念すらも持たない。(ルカ5:39)

ただ、彼らとて神意である天からの聖霊の導くままに任せるより他無かったが、その聖霊は無割礼のままの異邦人にも向かっていったのである。確かに、賃金の支払い方としては公正とは言えないだろうが、そこでは神の選んだ国民(出埃19:6)の不足が、真のアブラハムの後裔「神のイスラエル」の数を満たす必要をして、ぶどう園のオーナーに「気前のよさ」をもって振舞わせたのである。つまりは、『働き人』の不足がもたらした事態なのである。

明らかに、キリストが去ろうとするこの段階で、ユダヤの不信仰による「人手不足」は深刻なほどであった。
それはつまり、『神の王国』『聖なる民』となるべき都市国家「聖なるエルサレム」を構成するべきユダヤ人が少な過ぎ、当時のユダヤ体制はメシアを拒絶し、招かれていたのに『結婚式には行けない』と言ったのであった。(マタイ22:1-10)

この件がはっきりとした段階での、「賃金の例え」を語っていたイエスの意志は、聖霊の活動によって「神のイスラエル」の信仰ある異邦人を採用しての補充へと動き、民族的国家教から世界宗教への方向性を明示し、それは誰も抗い得ない神の経綸となった。

こうしてアブラハムに語られた、人類全体を祝す手立て『神の王国』、キリストを主要な王また大祭司とする人類救済の『天の王国』が、ユダヤ人の不信仰と失敗を乗り越え実現へと向かう道を進み始めたのである。




                     新十四日派    © 林 義平
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以上は拙著「神YHWHの経綸」中巻からのダイジェスト

関連記事
ユダヤ人と異邦人のイエス派信徒を共栄を目指した
エルサレム会議のヤコブ


価値観への警鐘 「種まき人の例え」


ガリラヤ湖畔で語られた八つの例え話から

以下「種まき人の例え」、「からしの木」と「パン種」は ⇒ ローマ国教化で失われたもの 

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同じ本を読んでも人によって受ける益は同じにはならないようだ。
特に聖書はその差が非常に大きいとキリストは注意を促しているかのようである。

その「種まき人の例え」は、実に簡明な内容であるが、同時に人々への警告ともなっている。
この例えの上辺だけを聞いて通り過ぎるとすれば、まさにこの例え話を聞いた意味そのものを失うであろう。

イエスは当時の中東の農夫のするような撒種を引き合いに出した。
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それは大雑把な撒き方なので、ある種は畑から飛び出し、他の種は表土の下に岩のある地面や野茨の茂みにも落ちてしまう。

畑の外の踏み固められた畦道に落ちた種は地中に入ることなく、踏み付けられ鳥たちの餌となってしまう。

土の下が岩場である地面に落ちた種は根を伸ばすことができず、やがて枯れる。

茨の中に落ちたものは茨が覆ってしまい、実らない。

だが、良い土に撒かれた種は成長して実を結び、三十倍、六十倍、百倍の実を生み出す。

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これだけの話をしただけで「耳のある者は聴くように」と言って、イエスは集まっていた群衆へのこの話を終えてしまう。


この話は共観福音書中にそれぞれ納められているが、マタイとマルコはこれが「海辺」つまりガリラヤ湖畔で、イエスは船に乗って岸辺の群集に話している。それは多くの人々に声が届く効果があったともされている。したがって、聴衆は少なくなかったのである。

だが、その内容の希薄さが気になったのか、近くの使徒や弟子はこの「種まき人の例え」の意味をイエスに尋ねた。

すると、イエスは質問した弟子らにだけはその意味を明かすのであった。
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種は「言葉」であるという。マタイは「王国の言葉」としている。
それが撒かれるのは地面は人々を指している。

道に落ちた種は、「言葉」を聞いても「意味を悟らない」なら、邪悪な者あるいはサタン・悪魔が来て「信じることがないよう」「心に撒かれたものをさらってゆかれる」者である。

岩地の上に落ちたものは、根がないので一時的に成長しても、試練に遭うとつまずいて離れ去ってしまう者を表している。

茨の中に落ちた種とは、世の煩い事や富や快楽への欲望が撒かれた「言葉」を塞がれてしまう者のことである。

そして、良い土に撒かれた種は、「良い心で言葉を聴き」、「その意味を悟り」、「しっかり保って耐え忍び実を結ぶ者」のことであるという。

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イエスの下に集まった群集といえども、その言葉がすべての人に益をもたらす訳ではない。この例えはそう警告していたのである。

イエスは例えの意味を尋ねた弟子らにだけこう言った。
「あなたがたは神の王国の神聖な奥義が与えられているが、外の人たちはすべてが例えで生じる」。
それは、彼らが見ても見えず、聞いても聞こえず、その意味を悟らないためであるという。
(マタイはここでイザヤを引用している)

イエスの下に集まった群集をイエスは弟子らとの対比で「外の者」と呼び、イエスの理解の埒外に置いたのである。

そこには、信者を集めたいキリスト教の指導者らが人々に思い描かせるような、誰にも優しく個人の傍に寄り添うコンパニオンのようなイエスの姿はない。

しかし一方で、意味を尋ねた弟子らは幸いであるという。
なぜなら、「多くの預言者や義人たちは、あなたがたが見ているものを見たいと欲しながら見ることなく、聴きたいと願いながらそれを聴けなかった」。

かつて生存した多くの預言者らはキリストについて預言しながらもキリストを見ず、その語るところも聴くことは叶わなかった。それはアブラハムのような約束を受けながら、その成就をみることなく死の眠りについた義人たちも同様である。

古代の彼らのように神聖な物事に対する鋭い価値観を有した人々ですら受けることのなかった優れた益に与っているのは、今やイエスに例え話の意味を尋ねた弟子たちであった。
群集がユダヤ人であり、彼らが伝統的に「諸国民への光」(オール・ラゴイーム)となることを願うとしても、その資質が問われたのである。


しかし、イエスは続けて弟子らに言う。「あなたがたはどのように聞くかに注意深くあれ」(ルカ
「自分の聞いている事に注意せよ。あなたがたの量り出しているその量りであなたがたも量り出されるだろう」。「持っているものは更に加えられるが、持っていない者は持っているものまで取り去られるのである」。(マルコ

これらの言葉は、例えの上辺だけを聞いて去っていった群衆と、意味を尋ねた弟子らの大きな違いを際立たせるものである。

群集が聞いたイエスの言葉はその意味を成すことなく消えてゆく。それは神やキリストの意図であるよりも、聞く側に問題があることへの鋭い指摘であったのではなかろうか。
もし、このあまりにも単調な例え話を聞いて、この意味は何かを問わないで済むとすれば、それは神聖な物事への関心の低さを露呈していなかっただろうか。「神はヤコブを愛し、エサウを憎んだ」のは何故であろう?

群集はイエスの行う奇跡を見て、あるいは彼がキリストではなかろうかと思いつつ、イエスの下に集まったのであろう。あるいは興味半分の輩も混じっていたのかもしれない。

だが、いずれにせよ、キリストは神聖な物事への深い関心を求めたのであり、群集は例え話によって試されたのであろう。実にイエスは例えで話さないではいなかったという


--◆言葉の価値を目指し--------------------------

イエスはこの例え話に添えて次のようにも言っている。
灯火をつけてからそれを器で覆ったり、寝台の下に置いたりはしない。むしろそれを燭台の上に掲げ、人が見えるようにする。隠されているもので明らかにならないものはなく、秘められているもので知られずに終わるものはない。(マルコ/ルカ)

あるときイエスは弟子らにこう言っている。「わたしが闇のなかで告げたことを光の中で言え、わたしが耳打ちしたことを屋上から言い広めよ」(マタイ10:27)

今日、イエスの言葉は弟子らによって聖書中に納められている。世界中に最多頒布されたこの書は世界中で入手ができるだろう。社会一般でもイエスのいくつかの言葉は常識のように知られており、幾らか進んで日頃から聖書に親しむ人々も少なくはないだろう。


だが、今でも弟子らと群集の違いは存在し続けていないだろうか?
つまり、例えの上辺だけを聞いても実を結ばない仕方でイエスの言葉に触れているかも知れないということである。その違いは価値観にあるのではないだろうか?


困難や迫害を耐えて「言葉」を保つとすれば、その人はそれらを克服させるだけの価値をその言葉に見出していなくてはなるまい。
マタイ福音書では、この例え話には他の六つの例え話と共に語られているが、その中に「畑に隠した宝」と「価の高い真珠」の話も含まれている。
それらの主人公は「天の王国」を見出すと非常な価値をそこに見出すのである。

それぞれ自分の持つすべてのものを売り払い、「天の王国」を買っている。
しかも、それに十分な満足を示しているのである。

では、聖書を読むときにそこまでの価値観を得ることがあるだろうか?

それは気ままに雑誌を眺めるようなことでは到底無理であろうし、通読するだけでも、あるいは論議のために多くの言葉を覚えることをしてすら、自分のすべての持ち物に勝る価値を見出すことは難しいであろう。

必要なのは継続的研究と熱意だろうが、それを行わせるのも価値観と思える。

したがって、聖書の研読は価値を探し出すようになされる必要があろう。幾らか見出された価値は人を再び研読に向かわせる。こうして次第に神聖な物事の価値を深く知ることができるようになるだろう。

聖書の研読を組織や人任せするべきではない。また、教団の人づての教育に満足していてはいけないだろう。
それは、他の人の研究の成果であり、知識は増えるとしても、我々自身を神に向かせるのは何と言っても本人による神へのアプローチではないだろうか。つまり、神からの書を前に神に向き合うのである。
それが知識の吸収で終わるなら、どれほど自分のものとなろう。信仰するのは自分自身ではないだろうか。

「知識は人を高慢にならせ、愛は人を引き起こす」とパウロは言う。
研読の目的が自派の信仰箇条の擁護や宣教目的であれば、知識を超えた先の価値に到達すること、特に「愛」については相当に難しいであろう。

だが、何が人に価値観を培わせるのかについて説明するのは難しい。
愛や善良さなどの個人の内面が反応する。つまり(筆者の現時点では)価値観が育つというほかない。

ソロモン王は「理解を呼び求め、識別力に思いを向けるなら・・銀を求めるように求め続け、隠された宝を探すように捜し出すなら、あなたはYHWHへの畏れを知り、神の知識を見つけ出すであろう」。と述べイエスは「求め続ければ与えられる」と言っている。(箴言2章/マタイ6:7.8)

我々の誰もが、必要なら聖書の原語を尋ね、言葉の背景や民族の習慣に思いを寄せて観想することも行う熱意を示してよいものと思う。
現代はこの種の研究が非常に容易になった。我々は自宅に居ながらにして様々な聖書写本を調査でき、ヘブライやギリシアの原語の意味も見ることのできる時代に住んでいるのである。

その影には、万人の益を願う大らかな意志を持って公開した人々がいる。こうした原語研究は昔には願っても叶わなかったことである。我々は宗派によらず忌憚無く公平に聖書の研究において互いに助け合える時代に入っていないだろうか?もしそうなら、時代の有利さを生かして、イエスに質問をした弟子たちの精神に倣うことができるのである。

解釈は僧職者のもので、信徒はそれを聞くだけだ、などと中世のような発想をしている時代だろうか?
ソロモンは「人の顔は人の顔を研ぐ」と言ったが、現代の我々は皆で研鑽し合えるのではないだろうか。
千年以上も以前に古代のおぼろげでギリシア哲学との境界線もあやふやであったときの解釈を、後生大事にしていたのは過去のことであろう。一部の人々のよらず、キリスト教徒の皆が聖書を検証し、その実体を明瞭に明かすことができる時代がきていないだろうか?

仮に自らの解釈において何かの思い違いをしているとしても、人間の解釈などはどれもそう大したことも無い。
パウロは見解を異にする仲間に対して泰然と構え『もし、あなたがたがどこかでこれ(パウロの述べる見解)と違う考え方をしていても、神はこれをあなたがたに啓示にしてくださるだろう』。と言っている。
聖霊の賜物は人を啓示し、真正な理解を与えるものであるから、神の語るときに人が争う必要もない。

我々は自分にとってより蓋然性の高いと思われることを得心してさえいれば、いずれにせよ、神が再び聖霊を地に注ぐときには真相が知らされようから、自分の解釈に固執せず、その時に訂正すればよいであろう。(フィリピ3:12-15)

失敗を恐れることはない。ギリシア語の聖書本文を刊行した16世紀の大学者エラスムスですら、習うべき教師がおらずギリシア語はぽつりぽつりと独学で始めたのであり、必ずしもギリシア人のように流暢に話せる必要があるわけではない。しかし、エラスムスのギリシア語本文はルターのドイツ語訳、ティンダルの英語訳などへと結実していったのである。

とりあえず、自分の気になる句をひとつふたつ逐語訳などから見るだけでも、それは本当に有意義で、登場人物に一歩近づいたようにさえ感じられるようなところがあるのではないだろうか。

そのような調査は、接続詞ひとつの訳で意味がまるで違ってしまうことにも気付かされ、それゆえ複数の翻訳を身近に置きたいと思わせることになるだろう。
完全なる翻訳などあり得ないし、それを言うなら、原語においてすらヘブライ語からギリシア語に移されたときに概念を変えられてしまった言葉すらもある。ギリシア語は現在進行形が無く、これは相当な訳の違いを起こさせる原因ともなっている。

このように聖書を深く研究したい人々にとって必要になるのは、人間は間違えることを認め、心をニュートラルにして、様々な可能性に柔軟に対応できる気構えであろう。修正に次ぐ修正、これを拒むべきではない。かび臭い宗派の教理などに拘泥していれば、やがてパリサイのように頑迷な敵意の人になってしまうであろう。それはキリストを葬った精神である。

しかし、柔らかな心で知識を増すことは、人の義を去って神に意志に近づくきっかけとなり、その汲めども尽きぬ価値の実体により引き寄せられることになるだろう。それは知識を超えたところにある。

そうすれば、やがて神との関係はかけがいのないものとなり、その意向に沿って生きるよう努めたいと思うようにもなるであろう。(詩篇63:3)
誰であれ、このような内面の変化を神は見過ごすだろうか?

-◆意味のどれほどかを悟り、価値の大きさを知る--------------------------

一方でそれは、自分に都合のよい神ではないであろう。もしそうなら持ち物すべてを替わりに差し出したりせず、持ち物を増やし、世渡りなどを成功させてくれて、「充実した」生涯をおくらせてくれるような「神」ではないだろうか。それは人生への対症療法であろう。

だが、イエスの救いはそのようなところのものではない。
倫理的欠陥という、人類の逃れられぬ根本問題への根本治療、「神の王国」がその意志である。

ここで、同じ聖書を手にしながらも、人は古代のように再び選別されないと言い切れるだろうか。
我々の抱くものは私心を捨てた神の王国への大志か、あるいは個人の安寧か?

使徒パウロは「人々は健全な教えに耐えられず、耳をくすぐるような事を聞こうと、欲望にあわせた教師をかき集め、真理には耳を背け、作り話へと反れてゆく時節が来る」と語っていたが、現代はまことにその方面と思しき軽い宗教は流行となっている。それを指控はしない。だが、そこに孕む危険は知らせたいとは願う。(テモテ第二4:3)

聖書や他の何にしても、深入りをせずに雰囲気を楽しむのは生き方上手なのかもしれない。

だが、神の言葉に関する限り、最終的に持っているものまでもが失われるとは、まったくの損失であろう。
それは、知りかけたことも意味を持たないという価値の消滅である。それらの言葉に、実は猛烈といえるほどの価値があったとしたら、通り過ぎただけの自分をどんなにか後悔することであろう。


イエスは例え話を終えるに当たってこう言ったものである。
「耳ある者は聴くがよい!」


                                  林 義平
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ブログ内の記事一覧

ローマ国教化で失われたもの からしとパン種の例え


キリスト教が、ローマ帝国の国教化で差し引きされて失ったものがある。

それを契機にキリスト教は、個人の信仰から、コミュニティの宗教へと外面も大きく変化を観たのだが、それ以上に、処女性のような内面に変化をもたらすものがあった。


ローマ帝国最後の全土に及ぶ大迫害の勅令がディオクレティアヌス帝から発せられたのが303年2月であった。
それから10年を経た313年、ローマで対立皇帝となっていたマクセンティウスに勝利したコンスタンティヌスはメディオラヌム(現ミラノ)市で当時の同盟者リキニウスと共に勅令を発布し、迫害されていたキリスト教に「市民権」を与え、信徒を解放し、接収していた集会所を含む財産を返還させた。

これは政策の正反対への転換である。十年の年月は苛烈な迫害を受けていた信徒らからすれば長く感じられたかも知れないが、変化は突然に訪れた。
この事態の急変を見た信徒らがその後に経験することになるキリスト教自体の変質は、数世代をかけてよりゆっくりと、そして確実に進行してゆくことになるが、そのようにしてキリスト教の側も帝国の方針転換に伴い180度の針路変更を決することになる。その変化に伴い、キリスト教はその本来の相貌をすっかり変えてしまうのであった。

325年はコンスタンティヌス帝によるニカイア(ニケーア)会議の年であるが、キリスト教徒の母ヘレナ*の影響があったにしても帝自身の「信仰」はキリスト教というよりは太陽神崇拝に偏ったものであった。*(帝は、母の帰依より先にキリスト教徒を優遇し始めている)
帝自身の信仰とキリスト教とはどうやら異質だと本人が気付いたのは、晩年に入ってからのことである。実際に帝はニコメディアのエウセビオスから死の床で滴礼を受けるまでは正式な入信儀礼をしてはいないし、教理教育を受けた記録もないと言われる。

このような人物であるにも関わらずニカイア会議を招集し、自らヤコブよろしく議事を取りまとめるなど主導したのは、ローマ皇帝の威光によるものであり、また、当時のエピスコポイ(監督たち)がその権威に平身低頭したからであろう。

名目上ながら、歴代皇帝は帝国の宗教上の最高権威者を兼ねたせいか、帝自身も自分が(少なくとも)エピスポコスの一人であると思い込んでいたのだが、これを譴責するほどの勇気をもって異を唱える人物は無かったようである。その模様を伝えるカエサレアのエウセビオスの記した「コンスタンティヌスの生涯」には、彼の皇帝への阿りの言葉で満ちている。これと『わたしの王国はこの世のものではない』と、はっきり言い切ったイエスの言葉を整合させることには越え難い溝がある。

会議は参集者の交通費から滞在費までが国庫から支出されていたために、キリスト教の領袖たちは帝や国家の不利益になるような議決などできなかったであろう。
つまりは、キリスト教の領袖が会議に参加することで、既にキリスト教界は皇帝に買い上げられていたのである。

そこに見えるのは、敵意と過酷な迫害という猛攻撃のあとに、一転してローマの巨大権力から保護と善意をもって擦り寄られたときに、依然多数派ではなかったキリスト教徒の脆弱さである。

そして不思議なことに、このキリスト教の変質を企図し国教化の完成と教理の変更の全体を教導した一人の人物をこの皇帝を含めても挙げることができない。それは当時の社会全体が向かおうとする、何ものか抗い難い歴史の潮流のようなものであったと言える。


キリスト教化は当時の帝国を結束させる必要のために目論まれたもの、との解説を目にするのだが、確かにこの時期のキリスト教には争論があったにせよ、コンスタンティヌス帝個人にあって、それがどこまで理解されたかよく分からない。むしろ、キリスト教というものを自分なりに解釈し直し、それを本気で信じていたように歴史書は読めるのである。彼は、キリスト教に自ら関心を寄せたようだが、その以前には明らかに太陽神崇拝者であったことが知られている。

それでもコンスタンティヌス帝を、本人の宗教的嗜好によって然したる意図も持たずに、後のヨーロッパ宗教封建制の種を撒いた人物とすることは出来るだろう。彼が他ならぬ皇帝であったために、その議決を以ってキリスト教はヘレニズム的のものが正統とされ、欧州は「キリスト教化」という激しい波を蹴立て、その奔流は歴史上に渦を巻いて人々や社会を巻き込むことになってゆく。

議決は宗教上のというより皇帝による政治的判断であったが、結果的にその趨勢が近代まで継続し、今日の非キリスト教国までもが習慣や暦などを通して社会に様々に影響を受けているのである。

当時の帝国の国教化は、様々な人物が関わったところの、まさに十数世紀に亘る歴史の潮流の発端となったが、忘れてならないのは、国教化への変更で生じた「キリスト教」とは、「異邦人」つまり非ヘブライ的に形成された「新たなキリスト教」であっても、けっしてキリスト自身の教えに沿うものではないことである。

つまり、以後の「キリスト教」はまったく霊感のない異邦人の所有に帰したといえる。
ローマ皇帝によるキリスト教への介入は、やがて380年の「カトリック教令」に結実し、普遍教会はアレクサンドレイア=ローマ型のものが国家によって正統とされるに至るであろう。⇒アンブロジウス

そして当時の異邦人キリスト教徒も皇帝も、「主殺し」の張本人としてのユダヤ人を、この民族のパリサイ的文化傾向をも相当に嫌っていたのであるが、その結果、異邦人キリスト教徒らは、主イエスが、紛れもなくユダヤ教徒で在り続けたユダヤ人のメシアであったことさえ忘れるようになってゆく。

(この時代には、既にユダヤ人キリスト教徒は歴史の舞台から去っている)


ともあれ、キリスト教は「ローマ皇帝の宗教」となった。このことが意味することの大きさを信徒らは目の当たりにすることになる。

しばらく前には迫害に雄雄しく立ち向かって拷問台や闘技場での死に至るまで毅然たる信仰を見せたキリスト教は、すぐに甘やかしの誘惑に曝される、しかも、多くの人々はそれが罠になるとは気付いていなかったであろう。


闘技場での剣闘士の試合や動物の虐待はキリスト教的でないので行われなくなり、奴隷の顔に主人の印である焼印を入れることは「神の象りに作られた」人間を卑しめる事として禁止される。
広く行われていた磔刑も、主殺しの残酷な刑罰であるので不適切とされ禁止されてゆく。

これら帝国で一般的に行われてきた野蛮な風習はキリスト教の道徳性を通して洗練されるのだが、多くの信徒にとってそれは喜ばしいことに見えたであろう。人々には国教化が恩恵であるとさえ思えたことが容易に想像される。

加えて、コンスタンティヌス帝と母ヘレナは帝国のあちこちにキリスト教のための壮麗な建築を次々に始める。
ローマでもヴァチカノ、ラテラノなど多くのバジリカが市を囲むように建立され、ヘレナはエルサレムやベツレヘムなどに次々に聖堂を寄進した。それまで信徒が見たこともないような立派で印象的な空間は彼らを魅了したであろう。

しばらく前までは、キリスト教徒であることを告白することが命の危険を意味していたのが、いまや出世や特権を享受する手形と化する。
人々は集会所に波のように押しかけ、個人の家で行われていた集まりはパンクするほどになる。田舎の村ではいきなり村ごと「改宗」することもあったという。

エクレシアの指導者層には国庫から食い扶持があてがわれるようになり、彼らは僧職者を通り越して公務員に近い立場を占めるようになった。
宗教の教師というものはひとつの権威であって、政治家に似て人の上に立つ以上、その地位を得るのは出世である。この僧職碌を狙って多くの者が群がってきた。

この状況で思い起こされるのはキリスト・イエスの語っていた「からしの木の例え話」である。

からしの木の種は砂粒のように小さい。しかし、それが芽吹いて成長を始めるとするすると枝を伸ばし続け、ついには野菜の中で最大のものになる。
その枝は広く空に張り出すので、鳥たちがその枝に宿り場を見出すという。(マタイ13:31-/マルコ4:31-/ルカ13:19-)

当初、イエスの周辺に集まり始めた信者たちは大きな集団ではなく、ユダヤ人民は体制としてイエスに従うことはなく、却って刑死に追い込んだのである。
したがって、キリスト教の始まりはユダヤ人にとって単にイエス派というような内部の(メシア主義的)分派活動のように見なされ、早めに消し止めるべきボヤのようなものであった。

イエスの死に際しては使徒らも逃げ散ってしまい、イエスはあたかも一粒の種のように蒔かれたといえよう。
四年に満たない活動期間だけを持った教祖が刑死してしまった宗教の将来性というのはどれほどのものだろうか?
しかし、その砂粒のように小さな種が発芽し成長を始めると、その枝は空に向かって伸び続け、ユダヤ教の規模をはるかに超えて、ついに世界最大の宗教となるのであった。

そして、その大枝には多くの「鳥」が来て住み着きはじめたのである。もちろんこの鳥たちはからしの木そのものではない。その木から利益を得るものたちである。
共観福音書はそれぞれに、この「鳥」が「宿り場を見出す」としている。

これは僧職を生業にしようと群がり集まった者らではないと言い切れるものではあるまい。
驚くほどの信者の増加は、当然ながら信仰の俗化を招いたが、同時にそれらの信者を「指導」する要員が必要であり、俗化した「信仰」に見合った俄仕立ての「先生方」の糊口をしのぐ就職先が大きな口を空けたのである。

このように「からしの木」の例えを看做すべきもうひとつの理由は、続けて語られた「パン種」の例えの存在である。

「小麦粉を大舛に三杯(三サトン)」は22リットルにもなる量である。
調理をする「女」がその大量の小麦粉に中に、ほんのわずかな酵母(イースト菌)を「隠す」、そして熱すると「塊は大きく膨らんだ」(マタイ13:33-/ルカ13:20-)
これを語ったイエスは、神の王国もこのようになるという。

イエスは他の時に、弟子たちに「パリサイやサドカイのパン種に注意せよ」と語り、弟子たちはそれが「教え」に関わるものであることを悟った。
また、パウロは「少しの酵母が塊全体を発酵させる」ゆえに「古い酵母を捨てよ」とエクレシア内の悪行を例えている。(マタイ16:6/コリント第一5:6-8/ガラテア5:9)

コンスタンティヌスがその父以来、キリスト教徒に好意的であり、特に大帝となった息子が帝国内でキリスト教を擁護するようになったからといって、一般民衆がすぐに改宗してきたわけもなく、帝国域の各国の諸神の宗教がそれぞれに入り乱れている状態にあった。

それまでのローマの国策により、各地の諸神はローマの諸神と同じ神であることにされていったので、帝国の拡張は、この宗教合同による民心掌握もかなりの程度で役だっていた。これはギリシアの征服に際し、ゼウスをユピテル、アフロディーテをヴィーナス、メルクリウスをヘルメスというような、神を共にする姿勢を勝利者の側が示すことで、敵対から同朋意識へと転換させた例が観える。

そこで、コンスタンティヌス後、キリスト教が皇帝の宗教となって、次第に帝国民が教化される過程で起こったことは、かつてこの国が行ってきた通りとなった。

つまり、キリスト教にヘレニズム異教の様々な要素という「パン種を隠して」いったのである。
そこでヨーロッパのキリスト教がどのようなものになるかは、既にその時に動かし難い路線の上に乗せられてしまった。
その結果は、今日の一般的な教会での「キリスト教」に見られる通りのものとなっている。

コンスタンティヌス後、ローマ帝国の各所に千切れ雲のように散らばっていた、保護と励ましの必要なキリスト教徒という「小さな群れ」は、国教化に従い通勤ラッシュのような信者の増加を経験することになったのである。(教会史Ⅷ-i)
「パン種」は確実に作用したようだ。元々の麦粉が22リットルもあったのなら、その膨らんだ果ての姿はどのようなものであろう。今日、キリスト教は世界最大の宗教となっている。
この急激な膨張は隠された酵母の為せる業、また、からしの木の驚くべき成長に似たものである。

では、この「パン種」というもの、その「教え」とはなんであろう?
それはキリスト教を変質させる「強力な」大衆性であり、国教化に伴って取り入れられた異教であろう。

以前の拙文「ユダヤ教とキリスト教の歴然たる違い」で書いたように、ユダヤ教から脱皮して素晴らしい次元上昇を遂げたキリスト教に「酵母」が作用し、元居たユダヤ教のレベルかそれ以下に押し戻されたのである。

ユダヤに生まれてくる者はすべてモーセの律法契約に入り、男子が生後まもなく割礼を受けるように、キリスト教がローマの国教となるに伴い、自ずと幼児洗礼が確定的になってしまう。
パウロは、血統によるイスラエルが真にイスラエルなどではないと言ったが、それに反して血統主義のかつてのユダヤ教のように、国民がすべて生まれながらに信徒たるべき時代が再び訪れた。

イエス以来、迫害される宗教であった「キリスト教」が、旧約のイスラエルのように武力で異教を排除するものとなり、迫害を加える側となってゆく。
どうやら彼らは、残虐な拷問や処刑を次々に考案した帝国の官吏の「正統な」後継者のように見える。
後代の十字軍は、旧約に描かれたイスラエルの戦いのように正当化され、キリストの名の下にユダヤ人やアラブ人の許多の「犠牲」が捧げられもしたが、それもまた、この『パン種』の為せるところであろう。

ユダヤ教のように国家宗教となった以上、当然のことながら戦争を肯定する必要が生じ、兵役を避けてきたキリスト教徒は「信仰」を否認していることになってしまい、キリストの「剣を執る者は・・」の言葉をうやむやにするようにもなった。
わたしの王国は争い合うこの世のものではないと言ったイエスの言葉とは裏腹に、「正義の戦い」や「正しい戦い」に参加できるように信者は「進歩」した。それは国を背負った宗教の宿命である。

聖霊の賜物を有し、帝国のかつての迫害で忠節を保って死を受け入れた「聖徒」たちは「聖人」として崇められる副次的神の「糞像」と化した。

初代キリスト教徒が待ち続けた「神の国」は、「ローマ帝国」の存在によって現実化されてしまい、実際には到来しないもの、あるいは「教会」を通して徐々に実現されるようなものと教義を変えざるを得なくなった。

ローマの法はユダヤの律法の地位を得て、キリスト教徒はユダヤ教徒のように再び外からの力によって道徳的に拘束され、愛と良心を働かせるキリスト教の自律は失われ、再び現実の国家法にひざを屈めるようになったのである。

また、かつてエルサレムに神殿が存在し、地上の宗教的中心地があったように、この国家教の中心が次第に求められてゆく、それは権威付けのための、また末端まで精神的支配を行き渡らせるための道具であり、ローマ市がヒエラルキアの頂点に上ろうとしてくるのであった。
今日もそこには壮大な建造物が威容を誇り、十億の人々の総本山となっているが、ユダヤ人がエルサレムに登ったように、いまだ巡礼の地となっている。

多くの壮麗な教会堂が建立されるにつれ、初代キリスト教徒の励ましあう簡素で牧歌的な集会は、荘重な儀式の礼拝と化した。この点でもキリスト教はユダヤの「祭儀の宗教」に舞い戻っていたのである。そこに違いがあるとすれば、聖書の裏づけがあるかないかということくらいであろう。

それらの儀式は東方宗教やギリシア的神秘主義との渾融であって、秘蹟(サクラメントゥム)という形で神の介在が要請された。それは参列者に権威を示すものである。

やはり異教との交配がはっきりとしている分野として祭りが挙げられよう。
12月25日はローマ市民の楽しみな無礼講の祭日であった。その日は冬至を越した喜びの宴であり、冬至であたかも死んだかのようになった太陽の復活を祝う「ナタリス・インヴェクチ・ソリス」(敗北せぬ太陽の祭り)であって、冬も葉を保つ常緑樹が飾られ用いられた。

太陽の復活は農耕にとっても吉兆である。農耕神サトゥルヌスの祭り「サトゥルナリア」も同じ時期に行われ、それに加えてペルシア由来で冬至に死んで三日後に復活するという太陽神ミトラスの祭儀もこの日と深く関係していた。

こうして、イエスの誕生は明らかに冬ではないに関わらず、太陽神の再生はイエスの誕生と結び付けられ、以後伝承されている。

国家がキリスト教化されることにより、太陽神崇拝者であったコンスタンティヌスと、ユダヤ教徒を嫌悪し安息日を同じくせず*したい当時のキリスト教徒が都合よく一致して、ローマ曜の「太陽の日」(日曜日)を安息すべしと規定され、土曜安息を守る帝国内のユダヤ人は、以後肩身の狭い思いをすることになる。

「太陽の日」はキリストの「復活」した目出度い日であるから、以後もこれを祝うべしとなったが、帝国の権威によるこうした宗教合同がキリスト教徒に太陽神の祭日を祝わせたとしても、それは自然な成行きであったろう。
それまでのローマの宗教に似た「キリスト教」に人々は喜んで帰依したことであろう。
キリスト教そのものは安息日を求めていない。しかし、ローマ文明の伝播により、こうして日曜安息が今日世界に広まっているが、それはコンスタンティヌスの太陽神崇拝の痕跡でもある。

さて、こうして世俗と手を結び変質した「伝統的キリスト教」に、今日でも魅力を感じる人々もおられるに違いなく、筆者はそれを指弾しない。

見事な均整をもったラテン十字架のすっきりとした美しさ、宗教絵画に見られる静謐なまた動的な敬虔さの世界、カテドラルのステンドグラスの多彩な煌きやオルガンの荘重に屹立するパイプの列、また人を卒倒させるほど法悦の極致に至らしめる音楽に、それはそれとして価値がないなどとは到底言えないものであり、世界遺産のような観点から言って人類の高等な文化であることは言うまでもない。(文化というものはそれぞれの土壌で必ず生育するものであろう)

だが、キリスト教の本質について考える人、これらの変質した「グレコ=ローマン型キリスト教」以前の「源キリスト教」を求めようとする人々も必ずや居るであろうことも信じる。

その方々にお勧めしたいことは、これらの変質が16世紀の宗教改革を以っても、本質的には回復されなかったのであり、変質する以前のキリスト教を求めるなら最後の使徒ヨハネの居た西暦第2世紀前半の小アジアを考慮しなければならないと思われることである。
この二世紀初頭の小アジアのキリスト教について、今後も筆者は記事を書き加えてゆきたく考えている。


それにしても、キリスト教は何と大きな膨張を遂げたことであろう。今日では人口においてイスラームの追い上げを受けているが、それでも20億という依然として最大の信者数を誇る世界一の勢力を持っているのである。

それは、からしの木が空に向かって枝を広げているかのようであり、古代のパン種によるインフレーションがもたらした急膨張の余波をそこに見るかのようである。





 ⇒  初代キリスト教徒の様子  第二世紀初頭の小アジア
      聖なる者たちのエクレシア

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                       ©  林 義平
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*ローマ帝国のキリスト教徒への迫害に乗じて熱心なユダヤ教徒たちが、当局へのキリスト教徒の告発を非常に執拗且つ陰険に行ったことを歴史が明かしている。
そのため、二世紀以降のキリスト教徒の多くにはユダヤ教との共通性を排除しようとする強いムーヴメントが働いていた。
そしてコンスタンティヌス帝自身もこの動きに賛同していた。ニケアーの議決は、それに神をユダヤと同じくせずとしたい欲求(三位一体説)を合わせたものとなった。


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去ってなお弟子を指導したキリスト 「羊の囲い」の例え




フランス皇帝となり「余の辞書に不可能の文字は無い」との名言と共に知られるナポレオン・ボナパルトも、セント・ヘレナ島の幽閉先で過ごした後に、死に臨んでは「私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」と遺言に記している。
また、自らの生涯とキリストとを比較し「キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献金は、全世界を包んでいる。 これを、死んでしまったキリストと呼ぶことができようか」と讃嘆している。聖書はまさにキリストが驚くべき超絶的指導者であったことを雄弁に語っている。


キリストの指導力は、地上に在った所謂「公生涯」の期間以上に、刑死後に復活してからの時期に於いてこそ大いに発揮されたのであり、信じる者は絶えることなく世界に広がっていったが、これは確かに、彼のナポレオンと雖も、また如何に優れた政治家たる者であっても及ぶところなく、キリストの前にその指導力もみな色褪せるのである。

それを物語る記述をひとつ見てみよう。
キリストが地上を去って後、彼が天から弟子たちの活動を導き続けるさまを明瞭に描きだす絵画のような記述が、ヨハネ福音書のひとつの例え話となっている。

その絵画の中には、キリストとバプテストのヨハネ、そして使徒や弟子(聖徒)らの姿が見られ、それらの全体を俯瞰できるという意味深い例え話なのである。

その「羊の囲い」に関するその例え話はヨハネ10章に描かれている。

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羊の群れは家屋の中庭のような囲いの中で保護されている。
(この例え話がされたのは冬季で、夜間には羊が野外から囲いや屋内に保護される時期であった)

しかし、設けられた入り口からではなく、どこかの壁をよじ登って羊のところにゆく者は盗賊である。

入り口を通って入る者は、これらの羊の本当の牧者であり、門番は彼に戸口を開き、羊らはこの羊飼いの声を知っているので彼にはついて行く。
しかし、彼以外のほかの者らにはその声*に聞き覚えがないのでついては行かない。
*(これが中東の羊飼い独特のヴィブラートの掛かった声を指すなら、真似ることは至難の業である)

牧者は、自分が羊にとってはある意味で「入り口」*であり、彼を通って出入りするものは豊かな牧草地を見出すという。*(恰も「入り口」の概念がだぶるようだが、これは以下に解決を見る)

羊飼いは自分の羊をすべて外に連れ出してその先頭を行く。
この羊飼いは羊のためであれば、その命をも投げ出す「良い羊飼い」である。

一方、雇われた牧者はそうではない、元々羊は自分のものではないので、狼がくると羊を見捨てて逃げ出してしまう。
イエスは良い牧者であって、羊のために命を投げ出すのである。

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 以上が、そのあらましである。

イエスは自身が「入り口」であり、それを通ってゆくものの幸いを言う。
そして、彼自身は「良い牧者」であるとも言っている。
これは、明らかにキリストと彼に従う人々との関係を示していよう。

キリスト・メシアはユダヤ人という囲まれた領域に現れ、その範囲内で活動している。
イエス自身、パウロのようではなく、キリストとしては主にガリラヤからユダヤまでで宣教しており外地のユダヤ人居留地も訪ねてはいない。

従って、「羊の囲い」とはユダヤ体制、もしくは律法契約の囲いとみてよいであろう。

つまり、モーセの時代から律法によって周囲の諸国民と異なり、神との契約にあったイスラエル=ユダヤの人々、殊にイエスの弟子になるユダヤの人々を「囲い」の「羊」と見る。

しかも、この例えに存在する「囲い」はひとつだけであり、それは当時、唯一つ神との契約関係にあったイスラエル民族の状況を指していると見てよいであろう。

このように解すれば、この後はスムーズに見通しが利いてくる。

さて、「入り口」を経ずに入ろうとする者は「賊」であって、もとより「羊」のことを大切にはしようと思わない。
彼らは「羊」を害し、損なうのであり、「雇われた牧者」も「羊」よりは自分を大切にする。

この「盗賊」*は、偽メシアが度々興ってその都度に鎮圧され、その度にユダヤ人が犠牲となっていた事態に良く符合する。

「雇われた者」
らは、当時ユダヤの宗教家であろう。彼らは平民を「地の民」と呼んで蔑み、優越感に浸っていたし、世の常として宗教家らしく自分たちは高一等であるべきとも思っていたであろう。(ヨハネ7:49)


このイエスの時代、モーセの律法体制の下にあったユダヤ=イスラエルの契約はすで破綻した状態にあったので、「新しい契約」の為の「契約の使者」が待たれていたのであり、それがメシア=キリストであった。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)

メシアはユダヤ律法体制から羊を導き出し、「新しい契約」の下にある「豊かな牧草地」に連れ出す役割があった。そこは律法遵守の頚木から開放された牧草豊かな自由な広野であり、もちろんそこに囲いの必要はない。

そして、メシアはそれら羊のためならば、命をすら惜しまない愛着を示す。即ち、これらの羊が「新しい契約」に与るためには彼の血(魂)の犠牲が求められたが、この羊飼いはそれを見事に殉職によって差し出したのである。

この「良い羊飼い」は自分の「羊」が囲いからの出入りをしばらくは許したとしても、やがて律法契約という「囲い」から「すべてを外に出してしまう」べき理由があった。


なぜなら、律法契約が機能不全に陥って四百年以上が既に経過し、メシアの去った後にユダヤの体制はローマ軍によって崇拝の中心たる神殿もろとも完膚なきまでに破壊されようとしていたからである。それはユダヤ体制の壊滅であって、無数の命が失われ、その後ユダヤは流浪の民となる。


かつてイエスは、ユダヤの弟子たちに警告し、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たなら、ユダヤに居る者は山地に逃れ、都に居る者はそこを出て、外に居る者は入ってはならないと預言していたのである。
こうして、囲いにいた羊は囲いそのものの倒壊から逃れ出ることに成功する。その壊滅はイエスの刑死から四十年を経ない西暦70年に起こったことであった。


さて話を戻そう。
例え話には「門番」がいた。
彼は、メシアに対して扉を開く者である。
これは、「使者」としてメシアの前を行き、その道をまっすぐにせよと荒野で叫ぶ者の声であるザカリヤの子ヨハネ、つまりバプテストであろう。(ヨハネ1:23)

ヨルダン川でユダヤ人にバプテスマを施していたこのヨハネは、やがてナザレのイエスをメシアとして指し示す。(ヨハネ1:29-31)

こうして、「門番」からユダヤ人にメシアが紹介され、イエスを通って行くものは律法契約不履行の呪いの下にあるユダヤ体制から「新しい契約」へと「救われる」のである。

ここまでが、イエスが地上に在る間の活動の縮図となっている。
しかし、この例えはそれだけで終わらない。


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「わたしにはこの囲いのものではない、ほかにも羊があり、わたしはそれらをも連れてくる務めがあり、それらもわたしの声を聞き、そうしてひとつの群れにひとりの牧者となる。」
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「この囲い」が律法契約によるユダヤ体制を表すならば、その囲いの外にいる羊とは何だろうか?

つまり、ほかにもいる羊としてユダヤの宗教体制あるいは律法契約の外に居る者らのことを示唆している。言わば、野生のような羊であろう。
(ほかの羊らが入るような別の何かの囲いについては語られていない)


イエスは、これら外部の羊らも連れてくるというのであるが、ではユダヤ人の間でだけ働いたイエスが、これをどのように果したのだろうか?

そのことを考えるに際し、教祖としてのキリスト・イエスという人物に注目してみよう。
彼は、自らの活動を僅か四年以内に終えている。これは他の宗教教祖らと比較すれば余りに短い。
しかも、その直接に得た弟子らは、エリート階層に属しておらず漁師や収税人など無学な平民「地の民」であった。

イエスが去ったあと、これらの弟子らを中心にして今日の世界最大の宗教にまで発展してゆく基礎が出来上がったのであれば、まず驚きを感じよう。

そして、上記の「ほかの羊」に関するイエスの務めがどのように果たされたかを確認しようにも、聖書記述でイエスの地上の活動の部分には該当するようなところが無い。つまり、我々の知るキリストは、異邦諸国民に宣教を広げず、パレスチナを出て活動してはいないのである。

そうなると、我々はキリストが天に去った後に相当する使徒言行録以降の記述の部分を探らねばならない。


先の記事(「聖霊と聖徒」)でも書いたように、キリストは地上から去ったのちに、弟子らに「助け手」としての聖霊を与えた。(ヨハネ14:25)
この聖霊は、イエスがしていたような奇跡の業を弟子らに行わせ、異言を語らせ、知識を与えたが、それはユダヤ教徒を相手にした宣教に留まらず、パレスチナを越えて異邦諸国民に向かってゆき、それは新約聖書をギリシア語で編纂させる素地ともなったのである。(使徒4:30-31/コリント第一12:8-/ヨハネ14:12)

また、聖霊を通して弟子らを動かし、あるときは宣教に向かうべき方向を示し、あるときは迫害される者らのそばに立って励ました。初期キリスト教の資料から、聖霊の降下は西暦第二世紀の半ばまで存続していたように観察される。(使徒16:6-7/23:11)

その意味するところは、メシアによる『祭司の王国、聖なる民』即ち、人類全体を祝福する「アブラハムの裔」の集め出しであり、これはキリストが地上を去って後に聖霊の降下を以って開始されたのである。
 

即ち、律法契約がもたらせなかった『諸国民の光』となるべき本当の意味での神の選民『神のイスラエル』が、遂に歴史上初めて姿を現したのである。それはイエスの復活から50日後のペンテコステの日を以ってユダヤ人から始まり、次いでサマリア人、それから聖霊は異邦人にさえ『養子縁組』を得させるに至り、血統によらず、信仰によって『神の子』に迎え入れられたのである。(ガラテア6:16/ローマ8:14-15)


それゆえに、イエスは刑死の後も弟子らを聖霊によって指導し続けていたといえるのである。それは聖霊の途絶えるまでのおよそ百年ほどであろう。(記事「今日のキリストの不在、そして帰還」を参照)


いみじくもイエスは刑死する前の晩に、使徒たちに臨むことになる聖霊がご自分を証しすると伝えてから、『わたしと初めから行動を共にしてきたあなたがたが今後は証しを行うのだ』と命じていたのであった。(ヨハネ15:26-27/使徒2:43)⇒「聖霊という第三のもの」

そして聖霊は様々な活動を使徒たちに行わせてゆく。
天にいるイエスは、まずサマリア人にもペテロを介して聖霊を与え、明らかにヨッパにいた使徒ペテロに指示を与えて、無割礼のまったくの異邦人であるコルネリウスのところへ遣わし、その授けた「鍵」を用いて異邦人のために神の民への扉を開けさせている。(使徒10章/マタイ16:19)

そのようにして、「囲いのものではない」つまりユダヤの律法体制下にない異邦諸国民の「ほかの羊」がキリストという「戸口」を通って「新しい契約」の牧草地に入り始めたと見做すことができる。これはキリストの指導の下での弟子たちの使命であり、キリスト教の完成と共に成し遂げられるべき最重要事項であったと言える。

後に、強硬な迫害者であったパウロもイエスから選ばれて回心し、バルナバと共に取り分けられて、その「ほかの羊」を集め出す長途の伝道旅行を繰り返し、異邦人であってもユダヤ伝来の相続財産が継承されるという、その革新的な教理を与える役割(奥義の家令)を果たした。(コリント第一4:1)

聖霊に預かり「新しい契約」に参入してきた異邦人たちをパウロは「野生のオリーヴ」と呼んでおり、それはこの「羊の囲い」の例えのなかでの 『囲いのものでない羊』とすることは、自然な意味の整合性を持つものである。

こうして、キリストの弟子にはユダヤ人イエス派と、異邦人イエス派(ほかの羊)の「ふたつの群れ」が並存するに至ったのである。パウロは、これらを『ふたつの民』と呼んでいる。(エフェソス2:11-19)


これらの群れを隔てる障碍のとなっていたのは、モーセの律法に由来するユダヤの永い伝統であった。ユダヤ人はイエスを信じるようになった後も、神殿祭祀を重んじ律法に熱心であったので、パウロたち異邦人派に対しては懐疑的であった。そのため、この「異邦人への使徒」はエクレシア内外のユダヤ主義との戦いのうちにその残りの生涯を費やすことになる。(使徒21:20)

イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人であっても、それは「ユダヤ教の完成」の意味合いが強く、アブラハムの子孫として守ってきた律法の崇拝から離れるには彼らの良心がなかなか適応しなかった、というよりは、その必要さえ感じなかったであろう。

特にユダヤに住むイエス派信徒は依然ユダヤ古来の崇拝に格別熱心であり、パウロをはじめとする異邦人派とは衝突を回避するための調整をすら必要としたのである。そこに新旧の差はあるが、羊飼いにとっては双方が大事にされ、この微妙な問題上でどちらが正しいというようなものとはされなかったであろう。
(神もキリストもこれに裁定を下しているようには見えない。むしろ、互いの宗教的良心を並立させる意図さえ見える)⇒「エルサレム会議におけるキリストの弟ヤコブの寛容


それゆえ、これら二つの群れを導き出すという仕事において、ペテロは異邦人への扉を開き、パウロは外の羊を呼びに遣わされている。加えるなら、イエスの弟ヤコブがこれら双方の群れを共存させるために西暦49年のエルサレム使徒会議を司り尽力している。
これらのすべては、イエスのあとに残された使徒や直弟子らに与えられた極めて重要な役割、聖霊の指導の下に行われたキリストと初期の弟子らとの「一大事業」であったと言うことができるだろう。

したがって、この例え話の一幅の絵から、イエスは地上から去ってからも聖霊を介して弟子を指導しつづけて、ユダヤ民族に留まらず諸国民からも羊を集める業を成し遂げていった様がそこに見えないだろうか。

イエスは、地上にいるときに『わたしを信じる者はわたしと同じ活動を行い、しかもより多くを行う。わたしが父の許に行くからだ』。とまさしく述べていた。(ヨハネ14:12/同16:7)


このように『新しい契約』に関わる事柄を教導することなど、地上の単なる人間の誰かが果たして出来たろうか。

その契約はイエスの帰天後に、その犠牲に基づいて発効したものであるから、聖霊を用いるイエスこそが天から使徒や聖徒を導いて企図したことを成し遂げたに違いなく、この功はまったくキリストに属するものである。(ヨハネ15:5)

さて、使徒パウロは『ふたつの民』また『両方の民』という言葉を西暦60年代に入っても依然として用いており、それを隔てるのが律法であることを明らかにしている。(エフェソス2:15)

そして、この「羊の囲い」のような『隔ての壁』はユダヤ人の心を容易には去らなかった。


つまり、ユダヤ人の律法契約への誇りはイエスを受け入れてさえ容易には彼らの心を去らなかったのであり、それはエルサレム会議後も然程の変化を見せていなかったことは神殿の破壊の時にまで及んだ。実にパウロは残りの生涯でユダヤ優越主義を論駁した為に、批難され、逮捕され、裁かれていることに鮮明に表れている。(使徒21:28)

そのように当時のユダヤ人イエス派であっても引き続き律法遵守に熱心であった以上、パウロの言うように『ふたつのものがひとつになり、間の壁が除かれる』のは更に後のことになるに違いない。
今はそれら「ふたつの群れ」が眠りについているので、ひとつになる時というのはキリストの臨御(パルーシア)の以降であろう。(エフェソス2:14/マタイ24章)

西暦49年に行われたと言われる前述のエルサレム会議でのヤコブの裁定を以ってしても、千数百年続いたユダヤ優越主義はエクレシアの中から去ってゆかず、パウロは生涯の終りとされる西暦67年の直前までも、このユダヤ主義の頑固な抵抗と戦っていた様が書簡に滲み出ており、それは第二世紀の直前に書かれたとされる使徒ヨハネの手紙では、ユダヤ主義に加え、更に厄介なグノーシス主義に染まりつつあったユダヤ人らの影響と闘う様が色濃く表れている。


エルサレムを中心としていたユダヤ教イエス派の人々は、エルサレムと神殿の滅びに際し、主の言葉に従ってデカポリスであった東北の城市に逃れたという史料が伝えられているが、その後のイエス派はエビオン派やナザレ派などに分裂してゆき、第二世紀にはユダヤ教側から異端として排撃されるようになり、やがてパレスティナを追われ、消滅してしまったと言われる。

そしてこれらに前後して、西暦第二世紀半ばに聖霊が途絶え、キリストは「王権を得るための旅」に出立し、聖霊の降下が無くなって聖徒も眠りに就いてしまった。⇒「ミナの例え」
聖霊の降下のない現在まで、イエスの臨御の証拠はなく、新しい聖徒はまだ現れていないようだ。(ルカ19:12/マタイ10:19)

もし、「今日も聖霊は注がれている」と主張するなら、それはどのように証拠立てられるのだろうか。証明されるべきは「無い」ということか「有る」ということか。もし、「有る」なら、それは極めて明瞭なものであるに違いない。⇒「聖徒 聖霊の指し示す者たち」

それゆえ、ユダヤと諸国民というふたつの群れも眠りに就いたままであり、いまだひとつには束ねられるところまでは成就していないので、この「羊の囲い」の例え話は現在も途上にあると考えられる。(エゼキエル37:15-20)

彼らはキリストと共になる者らで、無酵母のパンを食して象徴的にイエスと体を同じくし、ブドウ酒を飲むことを通して「新しい契約」に与ることを示す者、つまり信徒の中でも格別な「聖徒たち」(ハギオイ)である。(エフェソス1:18)

自らの肉体を捨て、キリストと体を分け合い、霊の体となるからには、天において以前の肉体が持つ民族性も血統も意味を成さなくなり『ユダヤ人もギリシア人も男も女すらも関係がない』状態に入ることになる。(ガラテア3:28)


そうして「ふたつの群れ」の差異が無くなり、この囲いの例えに描かれるように、遂には『ひとつの群れ、ひとりの羊飼い』となるであろう。


選ばれ召される彼らは、その霊体のゆえに肉眼ではもはや見えることのないイエスを「天」にあって間近に見るとも言われている。(ヨハネ第一3:2)彼らはキリストの臨御(パルーシア)の際立った印であり、人類の中の『早い復活によって』『塵の中から目覚める』『初穂の霊を持つ』者たちであり、我々諸国民の祝福を可能ならしめる民となる。


統合されるふたつの群れが、天でひとつの民となる以上は、もはや律法契約下の呪いから完全に開放された真のイスラエルを意味する選民の具現、神が血統だけによらずに選んだ真のアブラハムの嫡流、『神のイスラエル』となって、聖霊を受けるとき、いきなりにひとつの国民となって登場するのであろう。(ガラテア6:16/イザヤ66:8/黙示7:1-8)


このようにイエスは、ユダヤの囲いから自分の羊を導き出し、そこに異邦の羊を加えて数を合わせた「ふたつの群れ」の先頭を歩んで、血統上のイスラエル民族のモーセへの踏み外しにも関わらず、神がアブラハムに約束した、血統だけによらない彼の真の子孫と言うべき(聖徒の国)真実の「イスラエル」、『神の王国』の繁栄と『諸国民の光』そして人類の『祝福』を確保したのである。(詩篇89:34)


これは、単なる朽ちる人間の思い致し、且つ為すところではけっしてない。(創世記12:1-3)

聖霊を用いるキリストが、天から弟子たちを導いて遣わさない限り、行えることではない。




                        新十四日派   © 林 義平

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*「賊」について:イエスが「私の前に来た者」と賊を呼ぶのはそのためであろう。イエス以後、キリストの羊はもう居ない。

実に、「ほかの羊」を連れてくるという業は、ふたつの群れがひとつになる事と共に、今後の展開を待っている部分が残っており、それはキリストの帰還を印付けるだけでなく、世の人々の裁きにも関わることになると思われる理由がある。

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聖霊と聖徒」 

信徒と聖徒


『聖霊の賜物』 パルーシアの標識


 


今日のキリストの不在、将来の帰還  ミナの例え

<難易度 ☆☆☆☆  中>
理解の為の基礎項目 ⇒ 「
聖霊と聖徒



今日、キリストが不在であるという考えはけっして突飛なものではない。

実に、イエス自身が例え話を用いて、弟子から長い期間離れることを何度か述べているがそれを見てみよう。

 そのひとつはルカ書にあるが、その場面はイエスの一行が最後にエルサレムに上る途上でのことである。彼らはエリコに到着し、エルサレムは目前であった。(ルカ19:11-)
ここでルカは、弟子らの誤解を伝えている。
つまり、イエスがエルサレムに入るなり「神の王国」がすぐにも出現するものと思い込んでいたのである。

 そしてイエスは彼らに話しを始めるが、弟子たちの先走る願いとは裏腹に、そこでの例え話では、生まれの高貴な人物が王権を確かなものとして授かるために遠く旅をするという。

これは、ローマ帝国に従属する王たちが皇帝からの王権の承認を得て、それを確立するために帝都に赴くという、当時の習慣を思い起こさせるものであったろう。

 さて、出立に際してこの高貴な人物は、家僕らに財産を分けて留守中に運用させることにする。
後に、この人物が王権を得て帰還したときに、家僕らは預かっていた財産の銀子(1ミナ)をどう増やしたか報告することになる。

ある者は1ミナを見事に10倍に増やしており、他の一人も5倍にすることができた。それぞれの家僕はその成果に応じて『町を治める』者となる報いを受ける。

だが、ひとりは1ミナのまま差し出し、主人は厳しい人で、自身が撒きもしなかったものを刈り取るので怖かったから1ミナをそのままとっておいたという。
 ここで主人は憤って言う。
「ならばそれを銀行に入れておけばよかったのだ。そうすれば利息と共に受け取れたものを!」

そして、この家僕から銀子を取上げ、さらに、この主人を王として受け入れるのを拒んだ市民らを「敵」と呼び、討ち殺させるのであった。

 以上がこの「ミナの例え話」のあらましである。


-◆王権が関わる出迎え---------------
 
さて、この例えの中の、王権を確保するために遠く旅行する貴い生まれの人物とはイエス自身であろう。

キリストは「神の王国」の王となる権限を下賜された将来に、支配するべきこの地上に帰還して臨御(パルーシア[παρουσία])することは度々語られているところである。(使徒1:6)

「パルーシア」はその場に臨席し、物事に関わる状態を意味し、その逆を意味する「アプーシア」[ἀπουσία]は、不在でまったく関わりを持たない状態を表している。
現在は聖霊による聖徒への指導が無く、奇跡の賜物も認められない以上、キリスト不在(アプーシア)の状態が西暦第二世紀以降続いているというべき理由がある。

実際、ヘロデ王朝の王たちがローマに赴き、そこで皇帝からの王の称号を手にして後、その支配地域に来臨していたが、それでもなお、自分の王権を確立するために邪魔な勢力を駆逐してはじめて王権を実現する必要もあったのである。 ヘロデ大王の王子たちが実際にそうであったから、イエスの弟子らはその実例を良く知っていたに違いない。

そして、財産をそれぞれに委ねられた家令らで表されるのはイエスの弟子たちであろう。主人は家令たちにミナを殖やすように求めていたのであるが、それは単なる利殖ではなく、王権に関わる事柄であったことであろう。(彼らは家令であって、すべての信徒を表すわけではない)


 
弟子とはいえ、彼らは王の支配の一端を引き受けることになるからには、彼らはすべての信徒を表すのではなく、モーセの古より予告された『王なる祭司』となる『聖なる国民』、聖霊による選びの民『神のイスラエル』に属する者らである。(出埃19:5-6)


『聖なる民』は、本来「律法契約」が産み出すことを目標としたものであったが、血統上のイスラエルは契約を守らず、遂に一度破綻する。
だが、預言者エレミヤの予告した「新しい契約」によって代替され、後代にキリストの血を以って発効した「新しい契約」は、あのシャヴオートの日に、永らく律法契約が達成できずにいた『聖なる国民』、『神のイスラエル』を遂に生み出したのであった。(出埃19:6/創世記22:18/ガラテア6:16)


彼らがキリストの弟子の中から現れたことは、使徒ペテロも当時の弟子らに向かって、彼らが『選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民、神の格別な所有に帰する民である。』と聖霊ある者らを指して宣言した通りであった。(ペテロ第一2:9)


これらの者がキリストと共に王として地を治めることは使徒パウロも時折述べており、『聖なる民』の存在は新約聖書に散見されるところである。(コリント第一4:8)


こうして例え話を見直すと、彼ら弟子たちにはキリストの到着までに為すべき仕事があることが分かる。王として帰還するキリストは、家令が熱心に利殖を増やした分の栄華で飾られよう。
そうした僕は、その功に応じた地域を治める報酬が与えられている。

 それゆえ家令たちは主人の家の財産を増やすべきであるが、ある者はそうしないかも知れない。そうしない理由は「恐怖」であるという。つまり家令には敵の矢面に立つ勇気が求められるのである。
もし、そのように王権の栄誉を増やそうとの主人の意を汲み勇気持たないないなら、持っているものまで奪われるのである。


そこで、聖徒に与えられるものは実に価値ある資産と言える。
彼らは初代と同じく「約束の聖霊」によって奇跡の賜物を得るが、それが意味するところはどれほど重いだろうか。パウロは、それが『有罪と宣告されることはない』という人類一般に先立って贖われた状態をその人にもたらすとまで語っているのである。(ローマ8:1)

その家僕となる者らは使徒をはじめとする格別なる弟子たちである。
彼らは聖霊によって任命された『聖なる国民、王なる祭司』であり、人類の祝福となる選ばれた民である。
奇跡の聖霊の賜物は彼らの身分を証しする『手形』であり、終末後には『キリストと共に、千年の間王と』なる者らであるから、それぞれが『町を治める』という酬いは頷けるものである。(エフェソス1:13-14/黙示録20:4)

そして彼らの務めは、『暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝える』ことであるとペテロが言っている。
では、彼ら聖霊に預る人々はその類稀な宝をどのように用いるだろうか?

この聖霊を受ける人々には、王となる主人に忠義を尽くし、反対勢力と対峙することも求められている。
それが『長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対して証しをする』というキリストの予告された事態の発生である。(マタイ10:18)
そのとき、彼らには『聖霊』が臨むとも教えられている。


その時、地上に聖霊を注がれて現われる人々が、その聖霊を用いるべきひとつの務めがあると、イエスは語っているのである。

すなわち、為政者の前に引き出され、聖霊によって語ることに他ならない。


マルコ13章はこれを以下のように語っている。
『あなた自身に注意せよ。あなたがたは裁判所に捕われ、会堂で鞭打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してまさにわたしを証しすることになる。そのようにして、まず福音があらゆる民に宣明されねばならない。また、人々があなたがたを捕えて連行するとき、何を言おうかと、前もって心配しなくてよい。そのときに与えられるものを語ればよい。語るのはあなたがたではなくて、聖なる霊である。』(マルコ13:9~11)


この場面のマルコ13章では、為政者の前に引き出されることを指してから、「そのようにして」あるいは「こうして(カイ[καί]を口語訳や新改訳はこの意味に訳している)王国の福音はあらゆる国民に伝えられる」とあり、人類社会の全体に向かった王国の到来の宣告が聖霊の業となることを伝えている。

マタイは、よりはっきりと弟子らが王や高官の前に引き出され聖霊によって語る意義が『彼らと諸国民への証しのため』であると言っている。(マタイ10:18)
聖霊を以て語る者らにこの仕事が与えられていることは、キリストの顕現の前に彼らが存在し、前以って王権を称揚するという前段階があることを知らせるものとなっている。

さらにルカ12章は「聖霊によって弟子が語る」という事と、「聖霊に言い逆らう罪には許しがない」と云う事のふたつを関連付けており、そこに人類の裁きが関わることをも知らせているのである。それぞれの福音書が我々に訴える意味はきわめて明瞭と云うより外ない。
 

しかも、弟子らには為政者の前で何を言おうかとあれこれ迷うなとあるからには、この場面でその人々に与えられる神の御力は圧倒的であるようだ。
つまり、それは神ご自身、重要な事柄と見做す事柄「神の王国」が関わっているからに違いない。

奇跡の聖霊が注がれる者とは即ち「聖なる者」または「聖徒」である。初代の聖徒はあのエルサレムの二階の部屋で最初の聖霊の降下を経験して以来、多くの奇跡の賜物に恵まれ、それは彼らが「聖徒」であることの動かぬ証しであった。パウロはその聖霊が彼らの身分を証しするものであると書いている。(コリント第二5:5)
そして将来、聖霊が再降下して新たな聖徒たちに語らせるその発言は、きっと世界を震撼させるものとなるだろう。(ルカ21:15/ハガイ2:7)

聖霊の発言は広く知らされるべきものであり、全地に響くユダのライオン(ダヴィデ王)の声である。人々はこの王権に関わる論争を聞かねばなるまい。 (⇒ 記事「聖霊と聖徒」
この類まれな「聖徒」という立場への認証は神からの選びであって、本人のエントリーするところでは到底ない。そこには超自然の賜物が与えられるが、それは神の王国という『相続財産への新たな誕生』であるという。(ペテロ第一1:3)

この例え話の中で、清算を求められるのは一般の家僕ではなく「家令」である。彼らには託されたものと任された仕事があり、その重さも責任の大きさも本人たちがよくよく承知しているはずである。



だが、この貴重な『聖霊』を用いず隠してしまい、自分が努力するわけでもない銀行の利息さえも得ようとしなかったからには、この1ミナを殖やさなかった不精な家令は主人の王権の獲得をどれほど喜んだのであろうか?

彼は、その理由を述べて言う、『あなたは厳しい方で、お預けにならなかったものを取りたて、お撒きにならなかったものを刈る人なので、怖ろしかったのです』。(ルカ19:21)

この家令は自ら殖やす努力の必要のない銀行も利用しようとしなかった。
つまりは、神の業を行う聖霊の賜物をまったく表に出さなかったのであり、これは周囲からの反対を恐れて、『聖霊』を持っていることさえ隠しておいたということであろう。

確かに「聖霊の賜物」は、まったく憑依状態に陥るのではなく、それを持つ者が制御できるものであることをパウロはコリント人への第一の手紙の中でよく言い表している。(コリント第一14:27-33)

この例え話では「不精な家令」と、王権を望まなかった「市民」らが共に処罰を受ける点で似た範疇に入る。
即ち、「不精な家令」の態度は主人が王として帰還するに際し、主人の王権を望まなかった人々と幾らも変わらない。
自分が努力するわけでもない銀行の利息さえも得ようとしなかったからには、この不精な家令は主人の王権の獲得をどれほど喜んだのであろうか?それよりは自分の身の安全の方を選んでいるのである。その家令に足りなかったのは主人の側に立ってその王権を擁護する勇気であった。

主人の王権取得を何ら意に介さないこの「不精」と呼ばれた家令は、いまや王となった主人からすれば当然ながら、家令には相応しくなく、大いなる怒りと不興に触れ、是認や悦納を受けるには程遠くされるのである。


この「ミナの例え話」に非常に似たマタイの書にある「タラントの例え話」では、この不精な奴隷は主人の勘気を被り、外の闇に放り出されている。それは主人の家令からの解任であるばかりか、処刑を受けるほどの立場への失墜である。
その処置は、王の臨御が誰にもはっきりと認められる次なる段階、即ちキリストの『顕現』(エピファネイア)と呼ばれる事態の進展の中で行われることであろう。


それで、キリストが「神の王国」の王権を確かなものとして佩帯して、この人間社会に臨御(パルーシア)の顕現(エピファネイア)が示される直前に、「家令」らはパルーシアの間の働きの首尾を申告しなければなるまい。


つまり、キリストが王として顕現するとき、これをどれほどの栄誉をもって迎えるのかということであろうし、王キリストは家令らである『聖霊』を与える者らに忠節な支持を求めるのである

この例えは、聖霊を注がれる『聖徒ら』(ハギオイ)には、極めて重い務めが生じることになることを教えている。
それをイエスは為政者らの前に引き出され、聖霊の語らせるままにこの世を断罪することであることを使徒らに明らかにしていたのである。(マタイ10:17-20/ヨハネ16:7-11)

そこで聖霊が注がれ『新しい契約』に差し招かれた者らには真にキリストに従う勇気を要すると同時に、その務めから逃れようとする誘因もまた存在するに違いない。それはまさに福音書でイエスが『自分の魂を救おうとする者はそれを失う』とも『わたしとの結びつきを否認するものをわたしは恥じる』とも警告していた通りであろう。

したがってこの例え話は、聖徒たちがイエスの与える奇跡の証しとなる「聖霊」をどう運用するかで、キリストの臨御をどう迎えるかがまったく異なることを示しているのであろう。


つまり、王の支配権に関わる論争にまで聖霊の音信を公開させず、その発言を抑え、聖霊を聖霊のまま差し出したのでは、王の前に何の意味もない、ということになろう。
王や高官らの前で聖霊の言葉を語り、世を断罪まですることは大いに勇気を要することであるに違いない。

ヨハネ福音書の中でイエスはこう言っている。
『わたしは真実のことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け手(パラクレートス)は来ないであろう。だが、もし行けば、それをあなたがたに遣わすようにしよう。その者は来て、この世の誤りを明示し咎め立てる。つまり罪について、義について、裁きについて。』(ヨハネ16:7-8)

従って、やはり聖霊を受ける者には、大きな責務が生じることになる。
そこで『自分の魂を救おうとする者はそれを失う』ほどの恐れからの葛藤を生じさせるものともなろう。(マルコ8:35)
イエスは脱落する者も現れることを示唆することを憚らず、むしろ警告することが多いのだが、そのミナの例えでも『不精な奴隷』に描かれる。


その王国の価値を高めず知らせずに過ごすとすれば、主人の王権取得への熱意に欠けており、反対する「市民たち」と一向変わるところがない。

この点で言えば、初代キリスト教徒らは「来たりませ主よ」(マラナスァ)の言葉の下にキリストの王国が(人手によらず)主と共に到来することを待ち望んでいたのだが、ことにキリスト教がローマの国教となって後に、「神の国」は世俗の帝国に実現されてしまい、初代からのキリストの王としての到来の希望はうやむやにされ、神の御力ではなく、教会や人力を通して抽象的に実現されるものとまで貶められた。

これらの王国の理解に関して「変質したキリスト教徒」の行動は、果たしてキリストが王として到来するときにその人間を超えた栄光ある王権に誉れを添えることができるだろうか?

 だが、更に疑問が起こる。キリストが地上に聖霊を用いて弟子を指導し「監臨」していたキリスト教初期の時代はともかく、終末でキリストが帰還するときに果たして家僕がいるだろうか?(ルカ18:8)

 これについては、まず思い浮かぶ事として、小アジアのポリュクラテスがローマのウィクトルに宛てた書簡の中に先達のメリトンについて述べた言葉がある。

「我らは、純正な時代に何も付け加えることはしない。アジアの光明は眠りについたが、再び主の顕されるときに回復するであろう。そのとき彼は天の栄光をもって到来するだろうし、聖徒たちも生き返るだろう。」と書き、少し後で「そのうえ、祝福されたパピアスと去勢したメリトン、彼はまったくの聖霊の賜物により話をしたが、今はサルディスに眠り天からの(指示)を待っているが、そのときには彼は死から起き上がるであろう。」(教会史V)

 つまり、聖霊を受けキリストに属する者であった初期の人々は眠りについているが、キリストの王権を帯びた臨御(パルーシア)のとき「早い復活」に与り、初期の聖徒らは直接に天に召しだされる。
そのときに、彼らのかつて地上の生涯で行っていたことが、王の臨御にどれほどの栄えを添えるかが吟味されるだろう。

加えて、その臨御のときに地上で聖霊を受ける人々もあり、彼らも聖霊を受ける以上、同じように王の臨御を栄光あるものとする務めがある。(テサロニケ第一4章)
彼らが、その務めを終えるとき、地上に残る聖徒らは『雲にあって空中で主に会う』という天への召しに預かるであろう。もちろん、これはキリスト教徒なら誰でも受けるものではない。


-◆聖なる者とは-----------

では、将来の終末において聖徒となりうる人はどのような人であろうか?

現時点で分かることは、人類から「買取られた者」たちであり、主人の王権を擁護して為政者に立ち向かう人であるということである。
しかも命をかけてのことでに違いない。それは初期殉教者と何ら変わらないことであろう。(ダニエル12:7/黙示録12:11/13:7)
すくなくとも、自分の「救い」に願をかけるような軟弱な人々ではなさそうである。「多くを委ねられた者は多くを要求される」からである。(マタイ10:39)(ルカ12:48)

 これはすなわち、支配権に関する政治的問題になることは間違いがなさそうだ。
その世の支配権を巡る争いとは、キリストの『神の王国』が現存する諸政権に対して挑む争論である。

それは即ち『神の王国』が「信者の心の中にある」ような曖昧なものではなく、正しく実効支配を行い得る実際の政権であり、それも世界の諸政府を相手に『聖霊』の言葉によって『この世』が如何に間違っているかを論駁するのである。


キリスト教をはじめとする既存の宗教家たちはこの論争では脇役とならざるを得ない。彼らは神の言葉を語る聖徒の出現によって存在意義を失っており、激しく聖徒を妬むのみである。

それで、新たな聖徒が対峙するのは宗教家ではなく政治家らとなる。(黙示録19:2)

こうした政治的論争があって初めて『世の王国は我らの主とその王国となった』(黙示録11:15)と言い得るのであり、それは相克を繰り返す人間の政争ではない。『聖徒』には神の正義があり、それに比べれば人間の正義な虚しく、却って害になるものである。


 『聖徒』となる人々は、帰還する大王の王権を掲げる人々であろう。彼らにこそパラクレートス(助け手)たる聖霊は必要となる。その助け手は聖書中のどの預言者の事例よりも大きな奇跡を聖徒を通して行うことであろう。(ヨハネ14:16)


一方、聖霊の述べることを聴き、それに従いたいと思う世界の人々は、それぞれ過去にどんな罪を犯していようと聖霊の発言に従うので、聖霊への罪を犯すことはない。彼らは聖徒らを支持して神の王国の到来を迎える側に立つことになろう。それはロバに騎乗するイエスの前に外衣を敷き、シュロの枝を手に歓呼して迎えた故事のようにである。(マタイ21:8-9→黙示録7:9-10)

このようにする人々は、王の臨御を迎えるについては、明らかに「聖霊」という神の御力を持ちながら、勇気無く何ら運用しなかった「形ばかりの聖徒」よりは、よほど王権を引立てることになろう。

であれば、王権を佩びた主人キリストを勇気なく何ら讃えなかった「聖徒」は、世の一般の反対者と何ら変わるところがないではないか。そして、ミナの清算が済むと、主人は王権取得に反対した市民を撃ち殺すことになる。これは将来、恐るべき成就を迎えることになろう。(ルカ19:27)
それは神が『シオンに立てる王』を認めず抗うすべての勢力を裁きに渡す、終末の出来事「ハルマゲドンの戦い」となるのであろう。
 

キリストの来臨に際して、その王権を望まない敵も少なくは無い。為政者らは雲の内にあるキリストを現実の存在とは見做せず、自らの支配欲を掻き立てるばかりであろうし、この世に慣れ切った『市民』もキリストの支配を理想主義の絵空事と思うのであろう。ただ、聖霊の奇跡の発言に信仰を働かせる人々だけが、聖徒らに親切を示すことをキリストは予告されている。(マタイ25:31-46)

では『神の王国』の王の到来を前にして、キリストの家令はどう行動するだろうか?
聖霊を以って語り為政者に立ち向かうか、それとも事を恐れて沈黙しているか。


現在のところ、未だ聖霊によって語る人々は現れていないことからすれば、やはり、今もキリストの不在は継続しており、未だ終末には入っていないのであるが、一方、キリストの帰還する時、それは只ならぬものである。

それはナザレのイエスが霊者となって変貌した、畏怖すべき御厳の大王としての復讐のための帰還であり、すべての政権はそれを放棄しなければ実質的な闘争と滅亡になり兼ねないものである。(ローマ8:3/ヘブル9:28/詩篇2)

それは全人類への「エデンの問い」でもあり、神と人との支配権を巡る争いであり、実のところは人間にまったく勝ち目はないのだが、来臨する大王は不可視性の「雲」にまとわれるために、政治家らは、自分たちだけが「現実の為政者」であると思い、自信満々であろう。


以上のように、ミナの例え話からキリストの人間社会に対する不在期間があると見做すことはけっして理不尽ではないそれは即ち、初代の聖霊の賜物の途絶えて以降、現在も含んでいる。
(「主の祈り」からすれば、その間の祈りが不在であるから聞かれないということにはならないだろう)


 しかも、この話の前後でイエスは、その帰還する時期について弟子らは「まったく思わぬ時」になると注意を促しているので、「待ち続ける」ことが現在の弟子の主要な務めであろう。「主人は遅いと」宴会を始めるときではない。
 

キリストが出立するのもその旨なら、帰還するのもその意志のままであって、肉なる人間がこの件に口を差し挟む余地はない。その時や方法について人は予告も意見もできるようなものではないだろう。(ルカ21:8)

現在のところ聖霊の再降下を人類は見ていない以上、啓示の無い人類にはそれを知る確かな手立てはない。ただ、聖なる書物が、これまでの神による人類救済の業が悠久の時に亘り、どう展開してきたかを知らせる。
 

時の不可知は、ひとつにはパウロが言うように「肉なる者が誰も神の前に誇らないためであ」ろうし(コリント第一1:29)、もうひとつ考えられるのは「裁き」のためである。

 
「裁き」は我々人間の内面の性向と願望など、人間互いに探りえない深奥についてのものであり、すべての人はこの「エデンの問い」に直面しよう。それゆえ、キリストの臨御は(視界を遮る)「雲と共に」「雲に乗って」為される必要もある。「キリスト変貌の意義」


しかし、ミナの例え話では全人類の裁きではなく、キリストの家僕らがその以前に裁かれることについて述べていたのである。(ヨハネ第一2:28)

つまり、キリストの御許近く仕え、イエスが天に去って後に聖霊を託されることになる『聖徒たち』の裁きであり、ペテロも、初代に聖徒が存在した時代にあって、既に『裁きは神の家*』から始まっていると仲間の聖徒らに警告している通りである。(ペテロ第一4:17/*「神殿」を含意2:5-)


彼ら一人一人が聖徒の栄光に本当に相応しいのかが、まず初代のキリストの聖霊による監臨の時期、そして終末の王権を佩帯した臨御の時期に再び問われるだろう。(コロサイ1:22)  ⇒ 終末に残された三年半に契約を結ぶメシア


こうして例えの意味するところを概観すると、終末の世の姿を垣間見ることになる。 

すなわち、キリストは帰還すると、まず聖霊を注いで聖徒を任命し、彼らを通して自らの王権を宣明させ、人類を分かつであろう。
その際に、聖霊を受ける弟子らにはその働きを問われるに違いなく、ミナやタラントの例えはこれに注意を促すものとなっているのである。

その働きは地上のすべての人々のためのものである以上、『聖なる者』らには、キリストに続いて自己犠牲を示すべき理由があり、自分の刑木を荷って絶えず主の後に従う義務がある。
実際、彼らはそのような道に召されたからであり、最終的には、キリストと共に栄光に浴することになる。

その上なる賞を目指して生き抜くこと、これが「新しい契約」に属する掟であり、死に至るまでの忠節を神は大きな酬いをもって受け入れるに違いない。

我々は、これほどの自己犠牲を払う人々に対して、相応しい感謝と同意を示さずにいられようか。



 



                  新十四日派    林 義平

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