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原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

キリスト教史

アンブロジウス 俗世との岐路に立った男


アンブロジウス 俗世との岐路に立った男
(短編並長文二万三千字超)
 

ナザレ村のイエスとローマ総督ポンティウス・ピラトゥスという、まるで異なる世界の二人が出会い、実際に言葉を交わした場面があったということは、神に属する人と世俗の権威との象徴的な邂逅であったといえよう。
このふたりの会話は、ユダヤの祭りを直前にして「魔術を行って民を惑わすナザレのイエス」をその日の内に処刑しようとの周囲の敵意に満ちた怒号や喧噪をよそに、静かで平和的なものであり、そこでは少ない言葉の内にキリスト教の本質について話されていたのであった。

これがユダヤの大祭司とローマ総督の会合であれば喧嘩腰という以上に余り意味も無い。それは「この世」を挟んで仲も良くない似た者同士の権勢を巡る駆け引きだからである。
 
だが、ピラトゥスは民に奇跡の癒しを行う人との噂に違わないイエスという人物に徒ならぬものを感じる。そこに妻からの不思議な知らせも届き、その気持ちは増したに違いない。
そこで『その義人』を釈放しようと何度も試みるのだが、イエスの同朋であるはずの宗教勢力はこれを頑として退け続けた。それは当時のユダヤ体制派の不信仰と頑なさが、もはや拭えぬほどに染みついていることを証しするものでもあった。

だが、その渦中にあって、キリストと総督の間に交わされた会話から、キリスト教というものが世俗権力とどのような立ち位置にあるのかが、そこに示唆されていたのである。そしてそれは小さな問題ではなく、キリスト教というものの本質を明示するものであった。

まずイエスが宣明してきた『神の王国』が総督の審問で問題とされた。
これはローマ総督にイエスを訴え出たカヤファやアンナスらの祭司長派が、ローマ帝国に抗う『別の王』を僭称したという罪状を述べ立てたからであった。

当時のユダヤはローマの直轄領であり、ガリラヤはヘロデ・アンテパス王の領土であった。
しかし、ユダヤは「預言者たち」が予告を続けてきたメシアを待望しており、時折にメシアを自称する輩が現れては騒動を起こしていたので、イエスを裁いた祭司長派は、このナザレ人をそれらの偽メシアとして処罰するよう総督に願い出たのであった。

つまり、イエスは王を僭称して新たな政治権力を持とうとしているが、これはローマへの謀反であり、『総督よ、この者を処罰しないなら、あなたはカエサルの友では無い』とユダヤ人は、自分たちに関係も薄いカエサルへの忠義立てなどまで持ち出してピラトゥスを脅しにかかる。

だが、総督はイエスに具体的罪を認めない。なぜならイエスはローマ帝国に何らの敵意もなく、実際に武力闘争を行ったわけでもない。誰も殺めず傷つけず、却って多くの奇跡を以って人々を癒して回ったという宗教的清さの漂う人であるのに、宗教領袖と群衆はまるで反対に重罪の訴えを起こして憚るどころか固執しているのである。

そこにピラトゥスは宗教家らのイエスへの嫉妬を見抜き、ますます擁護しようと努めるのであった。
総督にとってまず第一の問題は、イエスが「王」を僭称するようなユダヤ主義武装集団の頭目であるか否かである。
ピラトゥスに向かって、イエスは自らが王であることは否定せずに、その「王」がどのようなものかを明解に語る。
『わたしの王国はこの世のものではない。もし、そのようなものであったなら、弟子らはユダヤ人と闘ったであろう。しかし、わたしの王国は実にこの世のものではない』。

そこで総督であるピラトゥスは、イエスが王であるか否かに意を向けており
『それではお前はやはり王なのだな』。と念を押す。

イエスは答えて、この異邦人の支配者にメシアとしての別の側面に言及する。
『わたしが王だとは、あなたが言う通りだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』

さらにピラトゥスは『真理とは何か?』と訊くのだが、既に『わたしの王国はこの世のものではない』と述べるイエスが危険分子ではないことに得心がいったようで、この問いに答えを求めるでもなくそのまま群衆の方に出て行き、『わたしはこの者に何の罪も見出さない!』と叫ぶ。

しかし、この支配権に限定された会話を通して、イエスがこの以前に多くの例えで語った『神の王国』の本質が、ここでは比喩によらず明らかにされている。それこそは、ローマ帝国の権威との素のままの語らいであったと言ってもよいであろう。
帝国の代理者ピラトゥスは、王イエスが治めるという「王国」に一切の脅威を感じることは無かったし、イエスが民を煽動して騒動を焚き付けるような「メシア武装活動家」ではないことがはっきりしたが、これはイエスに殺意を抱く祭司長派からすれば大いに不満であったに違いない。

イエスを訴えた者らは、俗世の権力との衝突を焚き付けて煽ったのだが、イエスの唱える「王国」についてピラトゥスが幾らか聴取したところで、祭司長派の画策した「権力を衝突させる」という思惑はまるで当てが外れたのである。

確かに、イエスの弟子らはユダヤ人とも闘わなかったといってよいであろう。
この前の晩には、彼らがイエス捕縛のために差し向けた武装集団にペテロが剣を振って一人の耳を切り落とすという事はあったが、イエスは即座にその耳を癒して、ペテロに『剣を納めよ!剣を執る者は剣によって滅びるのだ。』と諭している。それは却って弟子らの武力行使を印象深く戒めるための場面となった。そして弟子らはといえば、十二使徒も含めて逃げ散っていったのである。

このようなキリストの態度に比べ、ユダヤの教えは軍事をも含むのである。本来ユダヤ教はイスラエルの国家宗教である以上、モーセの律法には軍法も含まれざるを得ない。
古代イスラエルはパレスチナ入植に際して軍事力を行使し、信仰を変えない異教徒を殲滅するよう神から求められていたし、異教諸国との争いはその後も断続的に行われてきていた。ユダヤ教とは戦う国家宗教であったのだ。

ダヴィデの王朝を失って以降では、ハスモン朝期の軍事行動が歴史上に目立っているが、その後はポンペイウスやヘロデ王統に降り、イエスの時代にはローマ直轄領であったその時代、ユダヤは正規軍を擁していなかったものの、サンヘドリンには守備隊が付属しており、ヘロデ・アンテパスⅡ世の下には支配地域の軍勢があった。あのイエスに茨の冠をかぶせて軽蔑した兵士らがその一部である。

このように歴史を通じて宗教国家として軍事力を擁してきたイスラエル=ユダヤを見ると、イエスの教えの革新性が明らかになる。
それは「権力に関わりを持たない宗教」、「世俗から離れた王国」という、それまでにない宗教概念の現れと言えるのである。

キリスト教というものが、権力の原資である軍事力や警察力を持たないものとするなら、そのキリスト教というものは、まさに虫が蝶になるように、ユダヤ国教を脱皮してあたかも別のまったく美しい生き物であるかに羽化したように、ユダヤ教とは異なる姿形を得たことを意味しないだろうか。

つまり、ユダヤ教のような政治と結びついた宗教を後にし、暴力という本質を有するあらゆる権力から解かれ、新たなるアガペーという愛を説く美しい姿を見せるものがキリスト教と言えるであろう。

しかし、大半の歴史に刻まれたキリスト教の姿と言えば、けっしてそのように美しいとは言い難い。例えれば、中世欧州の野蛮さをキリスト教が浄化したかといえば、けっしてそうは言えない。
 
教皇が参加者に全贖宥を与え天国行きを請け負った十字軍の兵士や民衆は、却って良心の咎めという轡を外してしまい、行く先々で暴虐三昧を繰り広げ、イスラム教徒だけでなく多くのユダヤ人も「主殺しの民」との罪状を根拠に殺害していったが、それも単なる殺人ではなく、ほとんどが生きながら焼き殺すなどの惨殺であった。それも二度や三度で終わるものではなかったのである。その悪行殺戮軍団の派遣は、正規のものだけで九度に及んでいる。

宗教改革期もまた流血の時代を招来してしまい、ドイツの農民、チェコのフス派教徒への弾圧の流血だけでは収まらず、新旧の勢力が自派の正義を信じ込んで南欧や北欧から参戦し、中部ヨーロッパを各国の新旧宗派の諸侯の軍隊が入り乱れて駆け回った。そのため主戦場となったドイツは著しく疲弊し、そこに飢饉とペストが蔓延したものであるから、その進歩を百年遅らせたとまで言われている。

銃砲の兵器が一般化したのもこの時期で、砲弾内に火薬の詰められた榴弾が「開発」され、戦いはいよいよ近代戦に近付いて損害をますます大きくした。榴弾砲が「ホヴィッツェル」[Howitzer]と呼ばれたのは、痛ましくも、これがまずフス教徒弾圧に使用されたからであるというのである。
これらの武器はすぐに日本にも輸入されている。16世紀のキリスト教伝播の時期に銃も伝わっており、戦国期の必要から自国生産され、17世紀初頭には世界の三分の一以上の銃が日本に在ったという。それをキリスト教国から学んだのであるが、その後、泰平の時代が訪れると銃は強い規制を受けている。

こうした武器の非常な発達は、キリスト教界に於いて起こった。
宗教改革期の動乱に乗じて、狂信的千年王国を樹立(1534-35)したドイツ北部の都市ミュンスターに対する司教侯側の攻囲で用いられた射程の長い「蛇砲」(カルバリン砲)も徳川家によって輸入され大阪城攻撃に用いられているが、それらはキリスト教徒同士の戦争に明け暮れた西欧で発達した最新兵器であり、その後、西欧の植民地征服においてこれら宗教の戦いで開発した新兵器が用いられ、「キリスト教徒」は武器の優位性から現地人を奴隷として屈服させていったのである。

日本では、その後にキリスト教の方は禁令に付され、多くのカトリック信徒が過酷な迫害に命を落としている。
幕府側はキリスト教の政治的影響を懸念したであろう。つまり、ヴァチカンの政治的影響が国内に入ることを阻止したのであり、キリスト教を禁令に付すのも西欧の植民地化されることを警戒してのことであった。明治以降に日本が「和魂洋才」の姿勢をとったのも、西欧の植民地支配を食い止める必要に促され、明治維新の二世紀も前から採用されていた日本人の自然な立ち位置であった。

即ち、日本においてキリスト教とは、西欧人の諸国への横暴と強く関連付けられて今日に及んでいるというべきで、キリシタンの殉教も宗教的争いというよりは、よほど西欧権力への牽制の犠牲であったのである。

ヨーロッパではドイツ諸侯がアウグスブルクの和議を結ぶが、それは宗教と権力の入り混じった闘争にすっかり疲れ果ててのことである。その条約によって新たな体制が造られてゆく中で、独立主権と内政不干渉の原則、そしてドイツ領邦教会(Landeskirche)が姿を現す。領民の宗派を決めるのは領主であり、それを肯んじることのできない領民は生業を後にして他の領邦に移動するほかに方途はなかった。

やがて教会は国家の中に経済的に接収され、聖職碌は教会税を資源とするようになって、今日でもそうされているように、ドイツでは国家が国民から徴収した税の一部を教会に支給するものとなっていった。そこには相変わらずの政治と宗教の慣れ合いが観える。

その後も、西欧列強の植民地争奪戦の最中で「布教」も行われるが、その時代は強制や拷問さえ用いるものが見られたうえ、各宗派が相互に勢力争いを繰り返してもいたのである。
その過程で異端審問があり、それは「異端」の名の下に宗教家の都合で多くの犠牲を強いた。正面からキリスト教を究めようと真剣に努める者、また翻訳者、出版業者までが数知れず命を落としている。

こうして西欧は宗教の絡んだ植民地争奪戦を行いつつ、やがて産業革命を迎え、それは社会構造を変革し、搾取を挟んで労働者と実業家の争いに転換し始める。
同時に科学崇拝が姿を現す過程で、フランスは遂に共和政の下で「公共の無宗教」(laïcité)に着手し、流血まで見ながら百年をかけてカトリックの政治に及ぼす影響を振り払う。

ドイツでは、キリスト教信仰そのものに矛先を向ける「ヘーゲル左派」や「牧師の息子たち」と呼ばれる「チュービンゲン学派」が台頭し、宗教を科学的に分析する「高等批評」によって、「自由主義神学」を興して、実際にはキリスト教信仰を「科学」の名の下に内部崩壊させたが、ベルリンの学派は、遂に「宗教はアヘン」とまでする新しい「赤い宗教」に至るのであった。その好戦的精神は21世紀の今日なお動かし難く存在し続けている。

これらは、キリスト教が行政に影響を及ぼすことからの反対行動や回避とみることができるが、逆説的に、これらの運動は宗教が政治にもたらす影響が小さくないことを表しており、人々の大半は依然「クリスチャン」であったのである。

後の二十世紀の世界大戦は人類に激痛を与えるものであったが、これらもやはりキリスト教国から始まっており、それも二度までも行って、キリスト教国が新開発した核兵器を二度使用して後、その巨大な暴力によってもはや国家間の総力戦が人類の存亡や地球環境の癒し難い破壊を意味することを悟るようになって初めて「恐怖の均衡」というネガティヴな抑止力から強国同士の戦争を躊躇するようにはなったのだが、その後の局地戦の頻発は21世紀の今日、愛国主義や宗教対立を強まりを表しており、人間というものは戦いを止めることのできない宿痾に冒され続けて、その歴史を刻んで来たかのようであり、もう十二分に苦痛を味わったであろう。


さて、その連綿と続く歴史の中にあって、キリスト教社会はイエス最期の日のピラトゥスとの静謐な会話の中で語られた『この世のものではない』という言葉に即してきたと言えるだろうか。
だが今日、国民の大半が「キリスト教徒」である国家に軍事力を捨てよ、と命じることは超え難い矛盾を孕んでおり、到底無理である。

その矛盾をきたらせる原因こそが、イエスの言われた『この世のものではない』はずのキリストの教えが、いつの間にか「この世」の政治権力と合体し、ユダヤ教のような「国家の宗教」に戻ってしまっているところに問題がある。いや、現在のキリスト教の国々が、例え他のどんな宗教を奉じていたとしても結果は似たようなものになるに違いない。

何故なら、暴力を必要とするものが「この世」というものであり、本来の「キリスト教」と「この世」とはまったく異質なものであって、けっして相容れないからである。それこそがイエスの『わたしの王国は実にこの世のものではない』とローマ総督に語った言葉の真意であろう。

「この世」が権力を手放すことは絶対的にできない。
その理由は、人間の不倫理性、またその根源としての「アダムからの罪」という貪欲にある。イエスの弟ヤコブはこの点を端的な言葉で見事に指摘しており、その教訓を人類は一向に学んでは来なかったし、今後も世が終わってしまうまで、そのようなそぶりさえ見せないであろう。

『あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。
それはほかでもない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
あなたがたは、貪るが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い、戦い続ける。
だが、あなたがたは、求めないから得られないのだ。
つまり、求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからなのだ。』

それゆえヤコブは世についてこうも言うのである。
『不貞の輩よ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするものなのだ。』(ヤコブ4:1-3.4)


それでは、いったい何時、どのようにキリスト教の弟子らがこの世の友となり、争う主体者と成り果てたのだろうか?

そこで歴史のゲージを引き下げて見てゆくと、第四世紀という百年間に行き当たる。
この百年の前と後とではキリスト教の姿がはっきりと異なっているのである。

第四世紀の初頭、西暦303年にローマ帝国史上最も過酷であったとされるディオクレティアヌス帝によるキリスト教迫害が始まっている。
この時期のキリスト教は依然として迫害される少数派の宗教であった。

しかし、百年後に目を向けると、そこではローマ帝国は権力が東西にはっきり二分割されており、しかも度重なる蛮族の侵入によって西ローマ帝国の権勢は風前の灯となっている一方で、キリスト教は異教も異端も迫害する強権的国家宗教となっているのである。即ち、ローマ帝国の国教となったキリスト教の姿がそこに在る。

当時の皇帝たちは蛮族に擁立される程に西方帝国の権勢は地に堕ち、国庫は空となっていた。それは恰も、歳経て老境に達し、大国としての足取りも覚束ないかのようである。
こうした中で、ローマ司教座は、最高位を唱える絢爛豪華な教皇の御座所となっており、やがて第五世紀に現れるローマ教皇レオⅠ世(440-461)は、ローマを包囲したヴァンダル族を宥めてローマを強奪や破壊から守り、異教フン族のアッティラ大王を宥めてイタリアとフランスを守っている。それはまるで西欧の皇帝のようではないか。

こうして、西の帝国の衰退は、西欧地域の民にローマという精神的中心をカトリックのローマ司教座に求めさせる強力な誘因ともなっていた。帝国の消失は西欧に癒されるべきカオスをもたらしていたのだったが、いまや新たな主人が現れていたのである。それがローマ司教座の就く「教皇」という、名目上は政治家でない西欧地域一帯を治める主人である。
 
この状況をその百年前と比較すると、キリスト教の変わりように目を見張る。
帝国による迫害の嵐に翻弄されていた少数派のキリスト教が、次の世紀にはローマを代表して蛮族の狼藉からかつての帝国領内を守るまでに権力上の力をつけているのである。

では、第四世紀というその百年間にいったい何がキリスト教に起こっていたのだろうか?

イエスはローマ帝国にせよ、ヘロデ家の支配にせよ、一言もその支配に口出しをしたことはなかった。政治に関わらないイエスはまったく宗教の人であったのだ。それゆえ、ピラトゥスもイエスに何の脅威も見なかったのである。
その使徒たちも同様であり、為政者に何かを進言するようなキリスト教の嚆矢は、キリスト教徒への迫害を思い留まらせる目的で書かれた多くの教父たちによる護教論ではあったが、それは請願ではあっても政策に意見するものとは言い難い。

だが、為政者に意見し、政策を補佐することさえ踏み越え、譴責し指導までするというキリスト教指導者の姿を第四世紀の後半にはっきりと見出すのである。
その人物は政治家から司教となって、皇帝をさえ自らの指導するべき信徒とすることに遂に成功した稀なるキリスト教の「信奉者」であり、それまでのキリスト教とその人物後のキリスト教は、権勢を帯びたことにおいても、ヘブライの原始的教理を捨てさせてヘレニズム式のものを採用させ帝国に公認させたことによっても、キリスト教を大きく変質させたのである。

その人物の名前は、アンブロジウスという姓だけが知られているだけで、兄サテュルスや姉マルケッリーナのようには個人名は知られていない。「聖アンブロジウス」として余りに有名になった代償というべきか。父アウレリウスの名から、アウレリウスを冠して呼ばれてもいる。

「第三のローマ」とも呼ばれたアウグスタ・トレヴェロールム(現トリアー)に地方長官の息子として生まれたが、この城市が西帝の本拠地とされることが多かったことを考えても、彼の父アウレリウス・アムブロジウスの地位は低くはなく、家系は由緒あるローマ貴族の流れである。

他方で、キリスト教の趨勢については、当時このような「外地」では多くの異教徒の中にキリスト教徒が増え始める途上にあり、その大半が三位一体説ではないところのケルト人による一神論のキリスト教徒が当地には多かった。実際、今日のオランダからドイツにかけての地域では、このころアイルランドからブリテンに勢力を持っていたケルト教会の布教が強く、彼らが異教欧州にキリスト教を教えている最中であり、ローマが力をつけるのはまだまだ先のことであった。
北イタリアの状況も同じく、未だ三一派はエジプトで産声を上げているような状況を脱したばかりの幼児のようであり、アンブロジウスの世代の後にローマ帝国が分裂してからも、ゴート族、ブルグンド族、ロンゴバルト族、ヴァンダル族なとのイタリアに南下してきたゲルマン諸族は揃って一神論のキリスト教徒のままであった。

さてアンブロジウスについては、成長して16歳でローマに移り勉学に励んだ後、リグリアとエミーリアの長官としてメディオラヌム(現ミラノ)赴任する。それは西暦356年、およそ26歳のことである。現代なら新卒採用で知事の地位であるから、相当に恵まれた家庭環境であった。

おそらくは父親の働きかけもあってのことであろう、メディオラヌムといえば、宮廷の所在地であり、この時代の皇帝は北方からの蛮族との戦いに明け暮れ、宮廷の御座所とはいえ、皇帝は前線に出ていて不在であることがほとんどであった。その皇帝の前線基地のひとつが彼の誕生の地であり父が長官を勤めたアウグスタ・トレヴェロールムであったのである。

それでもメディオラヌムは宮廷の置かれるに相応しく整えられ洗練された城市であり、多くの地位の高い文官や宮廷の人々との交渉の多い機会に恵まれるという出世に非常に有利な場所であったと言われる。

さて、当時の宗教事情からすればキリスト教は少数派であり、大多数の昔ながらのヘレニズムやローマの神々の崇拝者の中に、キリスト教徒が羊の群れのようにあちこちに点在している様子が窺える。
いまだ、キリスト教徒は次第に教勢を増しつつある過程で、少しづつ高官の中でもキリスト教徒らしい者らが増えつつあった。

その原因の大きな部分は皇帝がキリスト教に一際助力していたからであり、その趨勢はコンスタンティヌス大帝の登壇に由来するもので、アンブロジウスが赴任する43年前の同じくメディオラヌムで出された勅令によって、それまで専ら迫害を受けるばかりであったキリスト教徒に財産や集会場所が返還されて以来の流れであった。

そこで、出世を願う人々は進んでキリスト教徒に宗旨替えをするという、奇妙な変化が起こりはじめていたのであった。
しかし、アンブロジウスは宗教に然程の関心があったようには見えない。それゆえにも、後に数日での宗旨替えも可能となったのであろう。

アンブロジウスがメディオラヌムに赴任したその同じ356年には、三位一体派が如何に少数派で弱体であったかを象徴するようなことが起こっていた。⇒三位一体説の来歴と影響
それがフランス中部のピクタヴィウム(現ポワティエ)で三位一体を擁護していた司教ヒラリウスのフリュギア(トルコ)への追放であった。⇒ ポワティエのヒラリウス

時の皇帝コンスタンティウスⅡ世は、ニカイア会議の議決を翻した先帝に倣い、古来の一神論派(「単性派」は「単性説」との混同が生じ兼ねないので「一神論派」とする)
を支持しており、この年に皇帝は南仏のベジエで宗教会議を開催し、その議決として、三一派のヒラリウスを、つまり策略を以って各地の一神論派司教らの排除、追い落としにかかっていたピクタヴィウムの一党を、南仏の三一派共々退けたのである。

三一派の敗北はこればかりではない、三位一体説そのものが現れたのが、諸国の宗教の交差点「世界の結び目」とも称された「宗教と哲学の坩堝」エジプトのアレクサンドレイアであったが、そこの司教であったアタナシオスも、アンブロジウスのメディオラヌム赴任の前年に第三回目の追放に遭い、自らエジプト南端の砂漠に逃避し、そこの隠修士らのところに身を隠していた。

このようなキリスト教の状況は、今日の大半が三位一体を信じてやまない所謂「クリスチャン」方からすれば真に意外に思うことであろうが、当時まで、三位一体派は新参の少数派に過ぎず、今日に多く目にする「大多数を占めていた正統的三位一体派の中から少数のアリウス派という異端が現れた」というような「解説」は不適切な政治的意図を匂わせるまったくの誤謬と云う他ない。

歴史を紐解けば、そこに見るのは逆であって、ユダヤ教以来の一神論であった普遍的(カトリカムな)キリスト教の中から三神一体のエジプトやインドの異教信仰の手を借りて、キリストを唯一神の座に祭り上げようとする新らたなムーヴメントが「三位一体説」の姿であり、もちろん聖書にもないこの概念の担い手は、第四世紀の当初はエジプトのアレクサンドレイアの司祭団以外に見るべき人物も教派もなく、それは三一説の誕生地がエジプトであったことを物語っていよう。

そこに宗教化していたギリシア哲学が絡む。当時のギリシア哲学の中心は既にアテナイを離れ、アレクサンドレイアとなっていた。そのエジプトは多くの三神崇拝で溢れていたのである。プラトンの「国家」に見られる「聖三角形」、オシリスの三神柱、三つの顔を持つ女神ヘカテー崇拝の流行など、当時の垢抜けたヘレニズム神秘主義の流行は、ユダヤ的に純粋な一神教を野暮に見せる。しかも、キリスト教にはイエスという大きな存在があり、人間として身近に感じさせ、しかもキリスト教徒とユダヤ教徒の仲は非常に悪かった。その地で「三一派キリスト教」の登場する素地は十分に整っていたと言えよう。
 
しかし、キリスト教界から唐突に三一派を唱えようとすることには、当然反発があり、アレクサンドレイアの地元の経験豊かな助祭アレイオスからさえ指弾されてしまっていた。
一神論者を表す「アリウス派」は、当時の司教アレクサンドロスの横暴な三位一体への歪曲に抵抗した同じエクレシアの助祭アレイオスにちなむ名を蔑称とされたのであって、助祭アレイオスが何かの新説を唱道などしたわけではない。これは大いに誤解されているというべきである。

そこで当時、アンブロジウスがメディオラヌムに赴任したときにも、その地の趨勢はやはり旧来の一神論派にあった。
当時のメディオラヌムの司教(エピスコプス)はアウクセンティウスと云い、一神論を奉じるギリシア人であってラテン語はできなかったと云われている。

彼の前任者ディオニュシオスが三一派であったが、355年に皇帝によって開かれたメディオラヌムの会議で追放されていた。 そしてヒラリウスの追放はその翌年である。したがって、この355年のメディオラヌムの皇帝会議は一神論派にとっての凱歌のようであった。
この三一派のヒラリウスが、このメディオラヌム司教アウクセンティウスを何とかその地位から引き摺り下ろせないものかと画策するその標的としていたのだが、それが今や、逆にヒラリウスの方がフリュギアに流されてしまっていたのである。この一件から、却ってアウクセンティウスは皇帝の庇護を受けるのであった。

さて、当時の「ローマ教皇」の方は、未だローマ司教ではあってもローマのキリスト教首位権はまだ存在せず、後の「教皇」という超絶的権威には程遠い。殊にアンブロジウスのメディオラヌム赴任の頃のローマ司教リベリウスと言えば、今日まで連綿と続く教皇の中で珍しく列聖されていないのである。

その理由といえば、どうやら一神論派と三一派の勢力争いの渦中で、皇帝に流刑に処されては一神派となり、後にローマに帰還しては三一派に戻り、と日和見的に振る舞っていた件が災いしたという。この頃、かのアタナシオスがローマに「追放」されていたこともあったのだが、ローマのキリスト教徒は彼を厚遇し、その教えを尊重さえし始めていたのである。

このようにアンブロジウスがメディオラヌムに赴任した370年という年のローマ帝国のキリスト教環境を見ると、ニカイアで決着をつけた筈のキリスト教論争も、アレイオスと同門のニコメディア司教エウセビオスの慫慂によって、またまた「キリスト教擁護者」のコンスタンティヌス大帝の心変わりで議決が覆され、振り出しに戻っていたというべきであろう。相変わらずキリスト教徒は旧来の一神論か新たな三一かで分かれ、大いに揺れ動いていたのである。皇帝は相変わらずキリスト教の守護者であったが、コンスタンティヌス大帝の息子たちからユリアヌスに至る前までの皇帝は皆が一神論派の擁護者であり、三一派は肩身が狭かった。
 
そして、皇帝の庇護を受けメディオラヌムでは三一派から一神論派が司教座を取り戻していた。これを地方長官として異教徒アンブロジウスはどのように見ていたのであろうか。

だが、アンブロジウスがこれに関わらざるを得なくなる事態がメディオラヌム赴任から5年後に訪れた。一神派のメディオラヌム司教アウクセンティウスが逝去したのである。

それまでメディオラヌムでは一神論派と三一派の勢力が、司教の交代もあって押し合い圧し合いしていたが、ここ18年は一神論派の司教であったので、三一派にしてみれば大きなチャンスであり、ここで劣勢を挽回し、広いバジリカを占有して教勢を盛り返したかったことは明らかである。

両派は鎬を削って渡り合い、共に一歩も引かぬ覚悟で、次の司教を自派から擁立しようと争ったが、それは時にキリスト教徒らしからぬ騒擾にまでなってしまい、大半が異教徒やマニ教徒らで構成されるメディオラヌムの一般市民までをも巻き込んでの粗暴で危険な街としてしまいつつあった。

前述のように、メディオラヌムは帝国西方の要衝。多くの皇帝が宮廷を置いてきたことではローマやコンスタンティノープルと比肩するほどの帝国の要となる城市である。
そこの長官がこの騒擾を無為に眺めることなど許されようはずもないであろう。

アンブロジウスは男盛り44歳になっていた。
この辺りの話は、彼の近侍でもあった伝記作者パウリヌスが伝えるが、アンブロジウスが十五の奇跡を行ったという霊験灼かなありがたい物語に創作脚色されているという評価が専らではあるが、幾らか伝えられるところを書き出すと

両派への調停に乗り出し、和解を探っている最中に一少年が『アンブロジウス司教さま!』と叫んだところ、それは衆人の喝采を浴びるところとなってしまったが、それは一笑に付すエピソードで終わらなかった。その後、三一派が本気でこの異教の長官を司教にしようと動き出したという。
一神論派は名高い宣教者ウルフィラスの養子でアレクサンドレイアでディアコノスを経験していたこともある前任者と同名のアウクセンテイウスを準備していたが、おそらくは、三一派は人材に事欠いてもいたのであろう。 

アンブロジウスの雄弁は有名であったというが、確かに残された彼の説教集を読んでも、言葉の荘重さや論理の提出の周到さに驚かされるところが多い。
後に、ヒッポの司教となる、かのアウグスティヌスがその弁舌に学ぼうと彼の講話するバジリカに足を運んで来たほどのものである。
これほどの弁士であれば、是非とも我が宗派にと思ったであろうことは、想像に難くない。

しかし、彼はこの司教叙階の話を拒む。 これは当然であろう。
行政に当たるべき長官が、そのまま司教にスライドするなどということは、今日に置き換えて考えても到底適当には思えない。しかも、その人物はキリスト教徒ではないのである。
仏教徒の東京都知事が、突然に洗礼を受けたかと思えば、わずか八日すると東京教区司教として目白のカテドラルでキリスト教の説教を始めるようなものである。

しかし、三一派は容赦なく叙階を迫ってくるのであったもので、独身の彼は娼婦を二人雇い入れ、自分の家に住まわせて見せ、これなら叙階もされまいと安堵したというのである。彼自身は女性の化粧をひどく嫌っていたといわれるが、ここでは相当に我慢をしていたことであろう。しかし、その苦労も報われずに終わってしまう。

「キリスト教徒」は「そんなこと」で怯みもしなかったからである。
さあ、司教に叙階をとばかりに責め立てられたものだから、とうとう夜逃げを決行するに至ったという。雌の「ベッタ」という名のロバに乗って、「走れベッタ!」と喝を入れて逃げ出したが、しかし、そこは「神さまがアンブロジウスに道を間違えさせ」サン・シーロと呼ばれる区域を出るところで、気の毒な夜逃げの長官は、それと気付いた群衆に捕まえられてしまったという。(ミラノ市内の「コルベッタ」の地名は「それ(行け)!ベッタ」から来ているという)

だが、この辞退も逃避も地方長官としては適切なことであったに違いない。また、立場は違えどキリスト・イエスが自分を王にしようとする群衆を逃れて山に祈りに籠ったところを彷彿とさせるところもある。(ヨハネ6:15)
また彼は、司教を引き受けるにしても皇帝の裁可を仰がねばならないと言った。これも「キリスト教徒」には彼の時間稼ぎのように見えたかも知れないが、良識的な判断であろう。あるいは一神派を推進する皇帝ウァレンティアヌスが彼を「窮地」から救い出してくれたかも知れない。
しかし、三一派キリスト教徒はそれも待たなかった。
彼はバプテスマから八日で叙階されたとも伝えられるが、どうやらバプテスマが先か否かも怪しいらしい。

ともあれ、根負けした彼は三一派に担がれて本当に「アンブロジウス司教さま」となっていた。政治家が突然その意によらず、メディオラヌムのキリスト教指導者となってしまったのであった。
この一種お祭り騒ぎのうちに、ピラトゥスとイエスの会話はどうやらかき消されていたようであり、それはたいへんな「パン種」を撒いていたのであった。


さてその頃、ローマではキリスト教が一神論から三一派へと流れが変わる動きが既に起きていた。前述のようにアタナシオスはローマにも流刑にされており、その間に三一論をローマで吹聴していたので、素地は形成されていたというべきであろう。そこでさらに、転向の鍵を握る人物がダマススであった。

この人物は、ローマ教皇ダマススⅠ世(位366-384)として知られるが、そのローマ司教の座を手に入れるのに対立するウルシヌスの側の擁護者を殺してゆくことを躊躇しなかった。酷いときには一日で137の他殺死体がキリスト教の会合の行われていたはずのシシニヌスのバジリカから発見されたこともあると、マルケリヌス*はその「ヒストリア」(Res Gestae)に述べている。そればかりか、366年に司教座に就いてからも、殺人を止めなかったと伝えられる恐るべき「権力者」であった。*(Ammianus Marcellinus

ダマススはローマ司教座を指して「使徒の座」と称し、ローマ司教のキリスト教の首位権を主張し続けた。これが後の「ローマ教皇」へと変貌を遂げてゆくことになる。
その点では、ダマススはその実態を先取りしたかのようにキリスト教徒らしからぬ貴族のように贅を尽くした生活を送り、輝く黄金や珍しい大理石で飾られたバジリカで多くの貴婦人を魅了しつつ仰々しく振る舞い、女性との浮名を流してもいる。

そのバジリカの光輝あるさまは、ユダヤ人が金銀レバノン杉を用いて神に対して専らに栄光帰したのとは異なり、ローマの司教座を飾りたて、他よりも抜きん出ようとしたのであって、詰まる所、ダマススが自分に栄光を帰したかったのである。

しかし、帝国内外では相変わらず、一神論のキリスト教徒が優勢であり、東方ばかりか、西方に於いてもアイルランドに広まったケルト系キリスト教の布教の勢いは現在のオランダからドイツ方面に広範に及んでローマの首位権を認めようとしない司教たちも数多く存在してアンブロジウスの故郷のトリーアもケルト系キリスト教が主流であった。この点、ローマカトリックはまったく確立前にあり、三一派のアンブロジウスでさえもこのローマ司教には遠慮会釈もなく行動していたというべきであろう。いや、むしろアンブロジウス無くして、後のローマカトリックは成り立たなかったと言える。

それでも、キリスト教に地上の中央を設けるという誘惑に乗る場合、その名もローマという万人が納得し易い場所に、それに見合う贅沢で輝かしい場所と大仰な人物が備えられたということでもあった。

アンブロジウスは、日本語で言うところの「郷に入らば郷に従え」に相当する「ローマではローマの方法で」の格言でも知られてはいるのだが、実体は、地元のメディオラヌムの司教座にあって、ローマとは幾分張り合うようなところがあった。
メディオラヌムでは、アンブロジウスの叙階以前にメディオラヌム式の崇拝を持っており、それはローマのものとも異なったものであった。例えれば、メディオラヌムではバプテスマの儀礼を受けた者には続いて洗足の儀式が行われたが、これはイエスの最後の晩におけるペテロへの『水浴びをした者は足を洗ってもらうほかは清い』との言葉にちなむものであるが、これは北イタリアから南フランスにかけて広がっていた風習であったという。

アンブロジウスは、これを行わないローマ典礼に苦言を呈したことがあったが、それもローマに対するメディオラヌムの対等性、あるいは優位を印象付ける目論見からのことであったろう。つまりは教理も政治的に利用する口実であったのである。実際、メディオラヌムに於いてはアンブロジウス案出の典礼方式が行われており、それは当時のローマ式と異なり、より洗練されていた。
ともあれ、この時代のローマ司教の権勢はダマススをもってしても、アンブロジウスには対抗できなかった姿がそこに窺える。しかし、ダマススはその贅沢を以ってローマをキリスト教の頂点とする下地を作りつつあり、やがて後述するように、エジプト式キリスト教が政治状況から君臨することになるのである。

さて、アンブロジウスが司教に叙階されてまず行ったことは、財産の処分であり、役職柄から相当な蓄財があったが、これをまったく捨てて困窮者たちに与えた。
これは、富んでいて財産を惜しんだためにキリストの弟子とならなかった聖書中の例を意識したものに違いない。そうして自らの司教職の上での経験の無さを補い、衆目に得心を与えることができたであろう。何しろ、彼はバプテスマを受けて八日で叙階されたというのだが、確かに、この財産処分の潔さをダマススに観ることはまずない。

それから彼は聖書の知識の習得に励むが、彼はギリシア語に通じてもいたので、セプチュアギンタばかりでなく東方の多くの著作に直に触れることができた。
聖書の他の資料で初期に学んだものは、フィロンの「アブラハム論」であったとされているが、それは彼に大きな影響を明らかに及ぼしている。その旧約の事跡にちなむ対型論の方式をアンブロジウスは盛んに援用することになってゆく。

また、雅歌に関する比喩が多いのには、カッパドキア派の影響が見える。大バシレイオスをはじめとするこの派閥は、この時期にアタナシオスを介してエジプト式キリスト教に近付き、連合を組み始めていた。(三一派の十字架崇拝は、おそらくこの派から混入してきたように思われる) 

そこでアンブロジウスを評すれば「旧約の人」と言ってよいようにさえ見える。
旧約から話す傾向が強いというに留まらず、思考法も旧約的なのである。
これは以後のキリスト教界に決定的な方向付けを与えることになる。

本人はまったく意図せずに、教理教育も信仰も関係なく、いきなりに三一派の指導者となったアンブロジウスであったが、彼は自分の時代におけるキリスト教の有様を、教理を優先する宗教家としてではなく、政治家の観点から見たことはまず間違いない。

そこでは、大帝コンスタンティヌス以来、皇帝が関わることによって教勢は一神論派にも三位一体派のどちらにも傾いてきたのである。
彼はピクタヴィウム(現ポワティエ)のヒラリウスや、三位一体説の急先鋒であったアレクサンドレイアのアタナシオスが皇帝の一神論支持により追放の憂き目に遭ってきたことを知っていた。

殊にヒラリウスは、アンブロジウスの前任者に当たるメディオラヌム司教アウクセンティウスが一神論派でラテン語ができないところを攻撃し、何とかその司教座から追い落とそうと画策していて、却って自分の方が追放の憂き目に遭ったことを知っていたであろう。
それも皇帝コンスタンティアヌスⅡ世が一神論を擁護したためであった。
ヒラリウスはアウクセンティウスを論難するために” Contra Arianos vel Auxentium Mediolanensem”「メディオラヌムのアリウス派アウクセンティウスを駁す」を著してはいるが、それも皇帝の威光の前には効力を持たなかった。

だが、ピクタヴィウムのキリスト教徒が何ゆえヒラリウスを司教に推したかについては、当時のキリスト教界の事情を教えるものがあると言える。
それは、信者が多くなりつつあり、都市や地域などで「信仰社会」を形成しつつある中で、所謂「名士」を代表に据えようとする傾向の強まりであった。
ヒラリウスはキリスト教徒ではなく、当地で名の知れた哲学者であったところを、キリスト教化されるピクタヴィウムのエクレシアに推されてキリスト教徒となり、哲学を捨てたところなど、知事を辞職したアンブロジウスを彷彿とさせるものがある。そして同じく三一派に担ぎ出されたところも同じであった。こうして見ると、三一派には個人の信仰よりは、社会構造にキリスト教を取り込もうとする傾向が強かったようである。

他方で、アレクサンドレイアに発する、三位一体説の唱道者のひとりであり最大の権威者と目されるアタナシオスはヒラリウスよりはずっと政治的人物であり、学者肌ではなかった。
彼は皇帝に反抗して帝国の穀倉、北アフリカからの穀物がヨーロッパに渡るのさえ阻止しようとし、賄賂を受けることも常態化していたという。
しかし、この「聖アタナシウス」はそのキリスト教徒らしからぬ政治的行状が災いして、皇帝の更なる不興を買い、生涯に五度も追放を宣告され、アンブロジウスが叙階される前の年に、その破天荒な生涯を閉じていた。(今日まで「クリスチャン」が三位一体の根拠としてありがたく崇める「アタナシウス信経」は5世紀南仏由来の偽物と言われる)

このように皇帝から度々介入を受け、そのために思うような進展を見ない三位一体派をアンブロジウスは背負い込んだのである。しかも、世界的な信徒の総数でも新参の三位一体派は相当な劣勢にあった。だが、この劣勢をアンブロジウスは「政治手腕」によって一気に覆すことになるのである。

まずそこで、行政のプロであったアンブロジウスが、三一派の伸張のためにはまず皇帝を抑えることがどれほど重要かを弁え、そして皇帝に接近するのにメディオラヌムの優位を生かさずにおくことはなかった。
即ち、帝国西方の要であり、多くの皇帝がその宮廷を置いてきたメディオラヌムという御座所の優位性である。

そこへ、彼が仕えた西の皇帝、即ち西方で一神論派を支えてきたウァレンテイアヌス帝が崩御する。それは何ともアンブロジウスには都合よいことに、彼が叙階された翌年のことであった。
そして皇太子グラティアヌスが16歳で西帝の跡目を継いだが、その際にこの新帝は、ブリタンニアと北アフリカで戦功著しく先帝を支えてきた剛腕の将軍テオドシウスを亡き者とさせ、自分の4歳に過ぎない弟をウァレンテイアヌスⅡ世として共治帝に即位させ、東方の叔父ウァレンスと共にウァレンテイアヌス朝の安泰を図った。
この新たな青年西帝グラティアヌスがアンブロジウスの最初の標的となってゆく。

さて、その同じ375年に帝国は新たな脅威に見舞われた。
それがウラル方面からフン族が押し出してきたことによるゲルマン民族の帝国内への圧力であった。

帝国の境であるドナウ川の北側に逃れて来たウィシ・ゴート族は、フン族の西進に耐えられず、東帝のウァレンスに帝国内への居住と服属を求めてきた。
そこでウァレンスはこれを許可したのだが、それがどれほど難しい問題であるかは悟っていなかった。必要物の供給が不十分な上、官吏の腐敗も逆作用し、ゴート族は当てにしたような扱いを受けられなかったので、他のゲルマン諸族と組んでドナウを渡った帝国内の新天地のはずの場所でも略奪を始めたのであった。

ウァレンス帝は鎮圧に赴くが、甥のグラティアヌスの援軍を待たずに戦端を開いてしまい、コンスタンティノープルに近いハドリアノポリスでゴート=ゲルマン連合軍相手に軍を壊滅させるまでの大敗を喫したうえ、戦死を遂げたのであった。それが376年のことであった。

そこで西帝のグラティアヌスは、この東帝の空席を埋めさせる必要が生じたが、そこで彼が即位を要請したのは、なんと、かつて処刑した有能な将軍テオドシウスの同名の息子であった。
この息子テオドシウスの武勇をグラティアヌスは知っていたに違いない。それゆえにも恐れて遠ざけていたということもあろう。
しかし眼前の脅威に対して、かつての遺恨などもかかずってなどいられないほどの帝国の危機からの要請をふたりは受けていたのであろう。

こうしてゲルマン民族の大移動が始まり、ローマ帝国は明らかな衰退に向かう中、アンブロジウスはこの歴史の転換期にキリスト教界の方での転換を成そうと虎視眈々としていたに違いない。
ゲルマン諸族の信仰はウルフィラスのような献身的な人々の宣教により従来の一神論キリスト教となっており、アイルランドからオランダ、北ドイツではケルト系教会が布教に努めていた。この点で三一派は飛び石のように点在するばかりであったので、アンブロジウスの目指した転換は趨勢をひっくり返すほどのものであった。

さて、アンブロジウスが叙階されてから四年目の378年の春のこと、グラティアヌス帝はゲルマン民族のレンティエンシス族との戦いにアルゲントヴァリア(現アルザス)に向けて出陣するに当たり、メディオラヌムでその司教(アンブロジウス)の祝福を所望したらしい、その件についてアンブロジウスはこう書いている。
「まさに戦場に赴かんとする信心深い皇帝が、私に信仰の小冊子を熱望されている。兵士の力より、皇帝の信仰によって勝利を得ることはもはや習慣になっており、それはアブラハムが家僕318人を率いて、無数の敵から戦利品を持ち帰ったように。」
やはりここでも「旧約の人」が顔を出している。

さて、このアルゲントヴァリアの戦でグラティアヌスは鮮やかな大勝を収めた。
グラテティアヌスは蛮族の将プリアリウス共々四万の蛮族軍を打ち破ったのである。
この戦勝からグラティアヌスは「アレマンニクス マキシムス」の称号を元老院から贈られている。(レンティエンシスはアレマンニの支族、アレマンニは度々北イタリアに侵入し、帝国の悩みの種であったから、この称号の威光は高い)

さて、戦勝を得て帰るアブラハムを出迎え祝福したかのように、翌379年、アンブロジウスはメディオラヌムに凱旋帰還するグラティアヌスを迎えるが、この皇帝がキリスト教に帰依したのはこのときとされている。その時グラティアヌスは二十歳にも満たない若さであったが、老獪なアンブロジウスはどうやって籠絡したのだろうか。その後のグラティアヌスはすっかり変わってしまい、民の宗教に不寛容さを見せ始める。

実は、若きグラティアヌスはウィシ・ゴートの入域と奪略と戦うウァランス帝の救援に向かった先のシルミウムで、一神教派からアンブロジウスの教説には誤謬があるので注意するよう言われていた。もちろん、地方長官からのにわか司教であることは誰にも明らかなことで、グラティアヌスはアンブロジウスにその教えを明らかにするよう指示されており、アンブロジウスが言うように「信仰の小冊子を熱望されていた」のではなく、疑われていたのであった。
だが、年齢差で有利なアンブロジウスは老獪さを発揮し、白を黒と言わんばかりの勢いで若年皇帝を精神的に下してしまった。
しかも、それまでの皇帝が一神論派支持であったが、三一派としての信仰を授けることにアンブロジウスは成功したのである。こうして一人目の三一派皇帝を確保したがこの意味するところは大きい。

彼はすぐにこのメリットを活用し始めた。
グラティアヌス帝への最初に書いた信仰のための小冊子に加え、陣中に届けられた第二の小冊子ともども、彼は一巻の書物とするべく続編を著してゆく。その続編の内容は、一神論への容赦ない反駁であった。
つまり、彼はグラティアヌス帝に対して、次に行うべき「一神論派の駆逐方法」を続けて書き記したのである。

その書は、当時の優勢を誇る一神論派の論客の一人、ラティアリア[Ratiaria](ドナウ南岸、現スロヴェニア)の司教パラディウス[Palladius]に反論を加えるもので、三巻が記されて以前の二つの小冊子に合わせて五巻本にまとめられグラティアヌス帝に献上された。

しかし、それですんなりと三一派が優勢に変わったわけではない。それは教理面でも俗権でもである。

それでも、続々とアンブロジウスにとって喜ばしい便りが入る
それは、ドナウを渡河して帝国内を略奪していた西ゴート族を鎮圧した新たな東帝テオドシウスⅠ世が、そのまま大病をして自ら死を意識し、テサロニケーで洗礼を受けてしまったことであった。

当時は、コンスタンティヌス以来、皇帝が洗礼を受けるとしても死の間際まで延ばすのが常であった。
そうすることにより、生涯で犯したすべての罪が許されるという迷信、また、キリスト教の大僧正に従わずに済み、帝権をその前に屈服させずに済んだのである。
ところが死を覚悟したテオドシウスは、すっかり回復してしまったのであった。
アンブロジウスが平信徒となった皇帝を活用しないことが考えられようか。彼からすれば、東西の皇帝を三一派のために奉仕させる扉が開かれたようなものである。

彼は自分の生まれ故郷のトレヴェロールムに西帝のグラティアヌスを訪ねるばかりか、勝手知ったるかつての赴任先、ドナウ南岸のシルミウムにも通い、東帝テオドシウスを訪ねる。おそらくは大病の治癒も神の思し召しなどと恩を着せたのであろう。

しかし、このメディオラヌム司教の訪問は二人の皇帝にとって有り難い側面もあったことは残された文書から知れるところである。
というのも、当時のローマ政体では武官と文官ははっきりと分けられ、武官上りの皇帝の場合、高度なオフィス事務を自分ではほとんど行えなかったと言われる。
アンブロジウスはローマで十年の政治家としての素養を充分に学んだれっきとした地方長官であったので、交渉に有利な文言や大仰に修飾されかつ論理的な手紙を書くこと、そつのない書類の作成に打って付けであるばかりか、いまやローマ政界とも関わらない僧職という云わば中立の立場で蛮族とも話がし易く、調停役としてもまことに都合がよい希少な存在であったことはまず間違いない。

それは日本の戦国時代の大名が特定の高僧を外交交渉に用いたところに共通するものである。
しかも便利なことに、皇帝たちに呼ばれるまでもなくアンブロジウスの方から(何故か)出向いてくるのである。
だが、この時期、様々な都市にそれぞれ司教がいたし、ローマのダマススが権勢を望んでしゃしゃり出て来なかったのはどうしてであろう。

このヒントは、例えればダマススの教養の程度を慮るときに見えるものがある。
ダマススはアンブロジウスのような仕事に向いた人ではなかったと言えるのである。
貴族のように豪奢な生活を送ってはいたのだが、彼もやはりデスクワークが苦手であった。

そこで中東の砂漠からローマにやってきた研究者のヒエロニュモスをこれ幸いと秘書に使ったのである。このダルマティア出身の求道者は、聖典と教史のキリスト教側からの極めて強力な探索者であった。(聖ジェロームで知られる)

この大学者を秘書に据えるとは何と贅沢なことであろうと思えるところだが、ヒエロニュモスの方もダマススに仕えたローマの三年間は居心地が良かったようであり、ラテン語ウルガタ訳聖書を製作するように命じられるなどは願ったり叶ったりであったに違いない。その聖書がルネサンス期までのカトリック公認聖書ウルガタ訳(Biblia Sacra Vulgata)となってゆく。(だが、この学者の徹底的な研究により、その完成は405まで待たされる。
ダマススにしても、ローマ中心の教会ヒエラルキアを構築してゆく上で、乱造され意訳で不一致の酷かったラテン語訳聖書に代えて、普遍的ラテン語訳聖書を制定しておけるなら、それは大いにローマの権威を高める助けになることだったろうが、その点で東方の諸言語に通じる理想的な人物をそこに見出したのである。ヒエロニュモスが目にしたラテン語訳聖書類の酷さと言えば、彼をして「翻訳の数だけ原典がある」と言わしめるほどであった。ともあれ、以後は豪壮なローマのラテラノ聖堂、コンスタンティヌス大帝がローマ司教に贈った雅びなバジリカの中を歩くホームレス然たるヒエロニュモスの不釣り合いな光景が見られたという。

そのほかの地方の司教たちも、前歴が地方長官などという奇特な人物を見出すことはできない。人々はキリスト教徒としての経歴を持ち安定した信仰を示してきた男性を司教に頂くことは至極当然であり、一重に信徒としての経歴の長い者がほとんどである。
確かに、この時期には哲学者や高官のキリスト教徒も増えつつあったが、司教のほとんどは、平民や解放奴隷上りの信者で、この時期までのローマ司教の流れを見ても、前任の司教の近侍などを経てから司教の名跡を継いだ例がほとんどである。そこでアンブロジウスのように有能な地方長官ほど世事に長ける人材がキリスト教の中に取り込まれる事態の発生は、当然ながら変革を呼び込まずには済まなかった。それは本人も承知の上で、自らだけが為し得る事柄の広がるフロンティアを眼前にしていたことであろう。

他方で旧来のキリスト教指導者らは、キリスト教には通じていても政治的デスクワークとはまず無縁であった。アンブロジウスの前任者のようにラテン語すら話せない司教もいたのであり、著作を残すほどの素養を備えた司教は多くは無い。
まして、前職が地方長官であったというか、信仰の無かった地方長官を無理やり司教にしたというアンブロジウスの存在はまったく異例中の異例というべきであった。

しかし、著作の点で云えば、アンブロジウスはそう魅力あるものを残してはいない。それを埋め合わせるには、彼の許に居た女信徒モニカの息子、アウグスティヌスの神秘的キリスト教著書の数々が世に出るのを待つことになるが、それがカトリックの方向を決定的にするのであった。

アンブロジウスの著作についてはユダヤ人ヘレニズム哲学者のフィロンに似ていると言われるが、彼の叙階された初期に学習したのは「アブラハム論」などのフィロンのヘレニズム折衷ユダヤ教であったので、やはりその得意なところは旧約のちなみを示すところにあり、キリスト教が如何にユダヤ教に勝るかは、予型と対型の類比で留まってしまった。

例えれば、エデンの園に水源を発する四つの川を、比喩的に東西南北に分け、それぞれが表していたものが、美徳、知恵、節制、勇気と正義であるという。
もちろん、これはヘレニズム哲学風のこじつけであり、人々が価値あるものと見做すものに強引に関連付けることで創世記も「有り難いお経」となったであろう。

また彼は、雅歌に描かれる娘をエクレシアに例えることを常とした。
また、シリアの将軍ナアマンがヨルダン川に浸かってらい病を癒されたことがバプテスマの予表であったとも言い、預言者エリシャの居ることを教えたユダヤ少女がこれまたエクレシアを指していたとも言う。

確かに旧約の出来事の意味をキリスト教に置き換えることにその大半の内容が終始するのは、話がいつも同じところに留まるようで、本質的に新鮮ではなく、ヘレニズム風の信仰合同的ではあってもキリスト教らしい革新性は感じられない。また、ディダケーのように初期に近い文書との内容の乖離も大きく、使徒伝承は彼の解釈によって更に断ち切られ、大きく傷ついていることも明らかなのである。

しかし、彼のキリスト教のユダヤ性は、彼自身の権威にも、三一派がこの世で地歩を得るにも、大いに役立ったのである。
何故ならば、キリスト教は本来『この世のものではない』が、ユダヤ教はイスラエル民族のための「国家宗教」であったからであり、政治をも含むからである。

そこでは、生まれて来る者はすべて信仰共同体に所属し、「律法契約」の下に置かれ、その道徳と言えば、律法の条項を守るか否かにかかっていたのであり、この宗教モデルの方が、純粋なキリスト教の教条の無いような「愛の掟」など「不確かなもの」に頼る必要もなく、皇帝の統治の下に戒律を定めてしまえるし、どのような「キリスト教」であれ崇拝すべき「正統」と仕立て強制できるのである。
そしてアンブロジウスの底力の見せ所は、それを実現させてしまったところにあると言ってよいであろう。

既に、キリスト教は皇帝の擁護するところとなっていたので、出世を考えるとキリスト教徒を名乗れるメリットが次第に大きくなりつつあった。
それまでは、官僚や兵士にキリスト教徒はほとんど無く、キリスト教徒が社会から疑問視された理由こそは、キリスト教らしさの発露であったと言える。
即ち、出世欲が無くて私利に疎く、話相手にも付き合いも悪く、大酒や卑猥な冗談もやらず、神々の神殿に詣でない「無神論者」で、この世で幅を利かせられる政治や軍事に関わらないのであった。

それが、皇帝がキリスト教を贔屓するに及んで、官僚も兵士もキリスト教徒であるメリットが生じてくるという矛盾を孕み始めたのであった。
そこにはキリスト教というものが変質してゆく過程が観察されるのである。
 
この点で、「聖セバスティアヌス」はアンブロジウスにとって格好の軍人勧誘と、都市メディオラヌムのキリスト教の象徴とするに相応しい人物であった。
この聖人は、アンブロジウスの百年も経たない以前の軍人で、自身はキリスト教徒でありながら皇帝の親衛隊に隊長として所属していたが、この人物の仕える皇帝こそ、かの最後にして苛烈はキリスト教迫害を行ったディオクレティアヌス帝その人であった。
時は第三世紀後半でまさにその大迫害が行われており、ローマで獄につながれていたキリスト教徒の助祭の兄弟を励まし、彼らの棄教を迫ったその両親をそのセバスティアヌスは回心させ信仰に導いたが、ほかに彼は十六人も信仰に導いた。

しかし、彼がキリスト教徒であることが発覚するに及び、ディオクレティアヌス帝は彼を野原に立てられた杭に縛り付け、弓兵らにハリネズミのようになるほど射抜かせた。
セバスティアヌスを埋葬するべく近づいた殉教者の未亡人イレーネは彼に息があることに気付き、自宅のある建物で介抱し続け、彼は命を取り留める。
その後、彼は皇帝の前に立ち熱弁を振ってキリスト教を擁護するや、怒り立ったディオクレティアヌスに死ぬまで殴打され、遂に息絶え死を迎えるに至った。帝はその遺骸を崇められぬよう隠したのだが、霊となった彼はイレーネに遺骸の場所を示したので、彼女は使徒らの墓に横たえたという。
後日談としてダマススⅠ世が367年に建てたバジリカ・アポストロヌムがそれであり、ペテロとパウロの墓所でもあるということにされた。

以上が、セバスティアヌスの聖人伝のあらましであるが、アンブロジウスが特にこの聖人を称揚した理由には、セバスティアヌスが同じ南フランスの出身で、メディオラヌムで教育を受けた人物であることから、キリスト教界でのメディオラヌムの地位を高めようとの算段もあった。しかも、それはそれほど昔の事ではなかったのであり、当時にはリアリティも感じさせる環境も残っていたに違いない。そこでこの殉教伝は相当程度アンブロジウスが作り込んだものであるらしく、中世期には明確にアンブロジウスの創作だと明言されることになっている。

だが、
アンブロジウスが画策していたことは、殉教者セバスティアヌスの側からキリスト教を見ていたとは言い難い。その聖人を権威付けてメディオラヌムの立場を向上させ、殉教者を除き去った皇帝の方をキリスト教の支配下に置いてしまうことだったのである。実際、
キリスト教は「殉教する宗教」から、「迫害する宗教」へと変貌を遂げてゆくことになるのであった。


また「聖マルティヌス」と今日までカトリックで崇められている人物は、さらにアンブロジウスと同じ世紀に生きていた軍人であってガリアの戦闘に携わっていた護民官の息子であった。軍隊の花形である騎兵それも「重装騎兵隊」に属したらしいのである。
 
だが334年頃、アウグスタ・トレヴェロールムの東150kmにあるライン左岸のボルベトマグス(現ウォルムス)での蛮族との戦闘の前に自分はキリスト教徒であるから戦いに参加はできないと宣言したのであった。それは騎兵になって三年目の18歳ことであった。彼の親はエクレシアでの教理教育を10歳から彼に受けさせていたのである。(それがコンスタンティヌス大帝のキリスト教贔屓を見越した出世教育であったのかは不明)

彼はゴール族の矢面に武装せずにひとり立つことを釈放条件とされたが、戦闘が始まる以前にゴール族の方から和平提案があり、戦闘が起きずに彼も釈放されたという。
つまり、当時のキリスト教徒の中には戦闘に参加できないとする者と、出世目当ての者とが混在していたようである。
しかし、キリスト教がローマ国教となれば、マルティヌスのような兵士は、却って「キリスト教信仰」を否定した背教の逃亡兵として処刑されることになるのである。

そして実際、アンブロジウスの行ったことの先には、ローマ皇帝によるキリスト教を帝国の国教とさせ、それもわざわざ少数派である三位一体説の方の「キリスト教」を民のすべてに強制し、生まれる者すべてがユダヤ教徒となるように、以後はローマ帝国民が自動的に三一派キリスト教徒とされ、三一派が揺るぎないものとされることであったのである。そこではユダヤの「割礼」のように「幼児洗礼」が要請されてくる必然がある。これはキリスト教という宗教の本質を入れ替えてしまうほどの大変化と言わずして何であろうか。

さて、それまでユリウス・カエサルに始まり皇帝たちが兼任してきたローマの神々への祭祀を司る最高責任者としてのポンティフィクス・マキシムスの地位がグラティアヌスにも歴代皇帝のように備わるべきであった。
当時の帝国内は、依然として多様な宗教が大らかに共存しており、その中で他の神々を肯じないユダヤ教という一神教は異例であったのだが、そこにキリスト教という、同じく一神教が混在した状態にあった。皇帝は、それらのすべての頭となるようこの「ポンティフィクス・マキシムス」つまり最高神祇官職が付帯したのであった。

そこでアンブロジウスは、まずグラティアヌス帝にこの異教に関わる名の地位に就かないようキリスト教の教師として「皇帝という名の平信徒」を指導する。
こうして、皇帝がはじめてポンティフィクス・マキシムスの称号を受けないという事態の発生を見た。しかし、この称号が後の「ローマ教皇権」の礎とされようとは皇帝もアンブロジウスも思いもよらなかったことであろう。

そしてアンブロジウスは、東の皇帝テオドシウスに対してもポンティフィクス・マキシムスの称号を捨てさせて抜け目なく行動し、自らの地方長官らしい「政治力」を発揮する。つまり、皇帝たちと自分のどちらが偉いのかをはっきりさせるための布石であった。
それは380年のことであり、この重要な年に帝国に対するキリスト教の立場が政治的に優勢となり、三一派が中枢部で実権を握った年として見てよいであろう。

アンブロジウスは、そこから更に踏み込み、遂に皇帝が一神論派に加担するという体制をまったく覆すことに成功してゆく。
それは早くも、テオドシウスがテサロニケで大病をしてキリスト教徒に「なってしまった」翌年のことであった。これには傍目にも強引さを感じるところであるが、「カトリックについて」という勅令を発布させ、以後、「普遍的」(カトリカム)なキリスト教とは三位一体説を教えるものだけを指し、それ以外を異端とすると宣告させた。所謂「カトリック教令」である。しかし、これは本来、使徒伝承的で普遍的とされるべき一神論派を政治権力でその座から強引に引き摺り下ろし、エジプトから来た怪しい新参者をカトリックにしてしまうという恐るべき入れ替えであった。

これが西暦380年2月のことであったが、それはコンスタンティヌス大帝が一神論派を退けたニカエアの議決を、ニコメディアの司教エウセビオスの勧めでひっくり返して三一派が誤りとされて以来の(ユリアヌス帝の三年の空白を除いて)大逆点であった。

この「カトリック教令」に基づいた行動が早速にテオドシウス帝に求められ、帝は翌年にローマの親衛隊長エウトロピウスに命じて市内での一切の異端の集会を禁止させ、市外に追放するようにと命じている。
そればかりか、三一派以外は異教だけでなく一神論派の一切の集会も禁じ、崇拝場所の提供者までも告発させたのであった。三一派は依然少数派ではあったが、帝国の権力を以って宗教全体の独占を命じ、これが現在まで続くキリスト教界の趨勢を決したのであって、政治権力の介入が無かったなら、三位一体派が今日まで存続していたかも危ういのである。

しかしこの勅令は、ローマに居たテオドシウスに血筋で勝るウァレンティアヌス朝の若き皇帝ウァレンティアヌスⅡ世の存在を随分と無視した下命であった。
確かに相手が皇帝とはいえわずか10歳であれば、テオドシウスが補佐であったとも言い訳できそうではある。特に西方皇帝であったグラティアヌスが配下の将軍マグヌス・マキシムスに383年に謀反を起こされてルグドゥヌムで弑されると、東帝のテオドシウスは実父の大テオドシウスに従う有能な将軍であったマグヌス・マキシムスが西帝となることをグラティアヌスに残された異母弟のウァレンティアヌスⅡ世に承服させるために、仲介に立てたのが何とアンブロジウスでもあったのだ。

だが、マグヌス・マキシムスはイタリア本土への野心も然ることながら、自ら倒したグラティアヌス帝の家系であるウァレンティアヌス朝の生き残りであるウァレンティアヌスⅡ世の存在を断って後顧の憂いを除いておきたいところがあったに違いなく、テオドシウスⅠ世には、その父への仇を取った自分の行動を許してもらえるだろうとの思いもあったろう。

そこでイタリア本土目指してメディオラヌムに進軍したところで、テオドシウスによる東軍の阻止を受けることになった。


ウァレンティアヌスⅡ世の母、つまり皇太后ユスティナは一神論キリスト教徒であり、その息子もその影響下にあった。しかもユスティナの一神論支持は熱心なもので、アンブロジウスとの対決はかなり長い期間に亘って繰り広げられることになった。
まずは、ドロストルムのアウクセンティオスと共にアンブロジウスを責め、メディオラヌムの一神論派のために市外の大バジリカ Bolziana fuori le mura を勝手に占有していると訴え、後にはゴート兵による皇帝の軍を遣わしてもいるほどである。

アンブロジウス率いる三一派はこれに籠城して抵抗したが、日々、ビザンツ様式の聖歌(アンティフォナ)を歌って士気を高めたというが、その中にはアウグスティヌスの母モニカの姿もあったという。そしてこの粘りでバジリカを皇太后のゴート兵から守り通したというが、そこを占拠していたアンブロジウスは軍に向かって「神のものは神から貰え」と言い放ったと言われる。 これは後の385年から翌年のことであり、387年に修辞学の教師をしていたアウグスティヌスがアンブロジウスと母モニカに感化を受け、私生児の息子アデオダトゥスと共に三一派に帰依する前年のことであった。

息子と孫の受洗の年、母モニカは世を去り、アウグスティヌスは息子と仲間を引き連れアフリカに戻ることにし、いよいよ、史上最大のこのラテン教父が始動することになる。
彼はアンブロジウスの法制化に立脚した禁欲の清めに邁進し、キリスト教界に及ぼすその影響は決定的また拭い難いものとなってゆくのであった。これが「ピッポの聖アウグスティヌス」の登壇であり、冗長な神秘哲学的文章の量産が始まり、以後、その言葉に酔う者が後を絶たなかった。

さて、その前年386年に、アンブロジウスは争った一神教派の皇后宛てに書簡を出しており、皇后ユスティナの一神論を責め、「もし、十字架の前にひざまずくことをしないのなら・・」とも記して、三一派が十字架崇敬を行っていたことを明らかにしている。だが、十字架崇敬は帝国から十字架刑が禁止され過去のものとなった状況でなければ異様な刑具崇敬でしかなく、迫害下であれば、とても首から下げられるものでも、建物の内外に飾れるものでもない。しかも大迫害後のメディオラヌム勅令の頃にコンスタンティヌス大帝が自らの印としたのはXPの合わせ字であり、十字ではなかったのであるから、十字架が三一派の表象となったのは、第四世紀も後半以降に流行し始めたことが見えている。アウグスティヌスの時代のキリスト教界とは斯くも不安定であったのである。
 
こうした皇太后との対立もあって、アンブロジウスはイタリアだけを治めるこの少年皇帝に近付くことは無かったが、他の皇帝ほどの影響力は無いと見切ってのことでもあったろう。
それにしても、皇帝たちにせよアンブロジウスにせよ、彼らがキリスト教に正面から向き合っていたようにはとても見えないのである。彼らが専らにしたのは政治的な権力闘争であろう。

さて話しを380年に戻すと、三一派司教アンブロジウスの皇帝を操り始めたその動きは、当然一神論派の警戒するところとなる。
この点で一神論派の強力な論客として、前述のダキアのドナウ南岸の城市ラティアリアの司教パラディウスが挙げられる。
この教理に通じた司教が公会議での討論に出よと、アンブロジウスに挑戦してきたのである。もちろん、アンブロジウスが講話に長けているとはいえ、実際の教理面での僅か四年の知識の蓄積では自信がなかったところがここに露見する。

そこで、教理論争で勝てないであろうアンブロジウスは、彼の最強の武器である政治力で勝負に出るのであった。
即ち、皇帝グラティアヌスに働きかけて、アクイレイア(ヴェネツィアの約80km東の港町)での公会議に東方の司教が参加しないよう計らわせ、自分は西方ラテン圏の司教たちに根回しを行い三一派が集まるように仕向けたのである。
そして、この謀略は成功し、一神論派の仕掛け人パラディウスらは身の危険を感じて出席できず、自分たちの場所から議決に投票する有様となったのである。
結果パラディウスらはアナテマ(呪い)の下に置かれ、形の上では三一派が大勝利したとこにはなるのだが、出席した司教は西側から32名が集まっただけのことであった。これはカトリック教令発布の翌381年のことであった。こうしてアンブロジウスは皇帝の権威を利用して一神論派に勝利を重ねるが、それはキリスト教の内容がどうということではない政治の土俵に敵方を引っ張り出してのことである。

翌382年、東方に旅してギリシアのキリスト教とヘブライ語に通暁した学者ヒエロニュモスがローマを訪れている。彼は若いころローマで修辞学を修めており、ローマはよく知るところではあったが、この度はシリアのアンティオケイアの司教パウリノスを伴っての旅であり、それは彼が支持したこのパウリノスをダマススがローマ司教の肩書でアンティオケイア司教座に就けるよう擁護してくれたことへの返礼も兼ねてのことである。

当時のキリスト教界は五つの大司教座があった。即ち、エルサレム、コンスタンティノープル、アレクサンドレイア、ローマ、そしてシリアのアンティオケイアであった。この頃は、ローマの首位権は未だ存在しておらず、ローマの座に強大な権力が負加されるのは、西の帝国が崩壊して後のことである。

しかし、前述のようにダマススはこの多国語に通じ、聖書理解に明るい論客ヒエロニュモスを自分の秘書として、以後ダマススの死まで三年ローマに留め置き、カトリック(普遍)に相応しいラテン語訳聖書の製作に当たらせたのであるが、その背後には、自分とまるで異なるこの質素きわまる修行者の中に自分にはまったくない能力を見込んでのことであったに違いない。

そして、グラティアヌスもテオドシウスも捨て去ったポンティフィクス・マキシムスの称号を、このダマススが使い始めたのもこの頃のことであったろう。
テオドシウスのカトリック教令も三一派のダマススをまったく喜ばせたものかは分からない。
というのも、その教令では「ローマ帝国に住む者はすべて、使徒ペテロからローマのキリスト教徒に伝えられた信条をキリスト教とする。それは現在ローマ司教ダマススとアレクサンドレイア司教ペトロスが受け継いでいるものである。」とされた。

ここで、キリスト教唯一の最高位の扱いにはローマは一歩及ばなかった。 この文言の背後には三位一体の発生源であるアレクサンドレイア式キリスト教とローマは道を同じくするという宣告の意味が込められていたことであろう。即ち、東方では依然として一神論派が強く、アレクサンドレイアが三一派発祥の地としてぽつんと東方に在ったからこそ、それを帝国の威信あるローマが援護するということの表明であろう。

また、この当時にはアタナシオスがカッパドキアに撒いておいた種が芽を吹き始めてもいた。
大バシレイオスをはじめとする哲学的教理を唱えるカッパドキア派が三一派に傾いており、時代の風は三一派を後押ししつつあったのである。アンブロジウスは教令の三年後にはテオドシウスにコンスタンティノープルの司教を三一派から、あのナジアンゾスのグレゴリオスをカッパドキアから引っ張り出し、一神教の地盤である当地に据えさせてもいる。

一方でローマを見ると、アンブロジウスからすればローマに主導権を渡してしまわないことにおいてこれで上首尾であったろうが、ダマススはどうであったろうか。 
そこで、ダマススにとってはポンティフィクス・マキシムスの称号の方が「ローマ教皇」としての箔付けに大いに役立ったに違いなく、ローマの異教を征服したかのように感じられたのかも知れない。つまりアンブロジウスとダマススの駆け引きをここに見るかのようである。アンブロジウスが皇帝たちから捨てさせた称号をダマススが持って行ってしまったのであった。このローマ帝国の最高宗教責任者の称号佩帯が、今日的「教皇」の始まりをこのローマ司教ダマススⅠ世にあるとも言わしめる一因となったであろう。
 
確かに、カトリック教令によって異教も法の上では存在してはならないことになり、この教令で元老院も議会での焚香が禁じられていったのだが、しかし、本来は異教の称号であるポンティフィクス・マキシムスを、それもキリスト教徒の皇帝には相応しからずと捨てたものであるのに、当のキリスト教の司教が用いたとは、権力者然とした本人はともかく、当時の人々は矛盾を感じなかったのであろうか。だが、ダマススにはローマ司教座の首位権を認めさせる器の大きさは足りなかったようで、まだ、ローマだけの「お山の大将」を叫んでいただけのようである。その辺りではアンブロジウスの政治手腕の前に見るべきものもない。

ここで彼の伝記を記していたノラのパウリヌスについても話しておくことは、当時のキリスト教界の状況を思い描くのに資すると思われる。
この人物はブルディガラ(現ボルドー)で352年頃に誕生しているので、アンブロジウスより十歳ほど若い。ローマ元老院議員を父に持ち、家は南欧各地に広大な領地を持っていた。
グラティアヌスが帝位について後の377年、パウリヌスはローマの執政官と三年後にはイタリア南部のカンパニアの知事として据えている。その時彼は二十歳代であった。
彼は任地のカンパニアに赴き、ノラというネアポリスに近い場所で殉教していた聖フェリクスの墓を訪れる人々のために宿泊所を建設している。
この地で、若い彼の心は既にキリスト教に傾いていた様子が見て取れる。

だが、383年にグラティアヌス帝がヌグドゥヌム(現リヨン)で配下の指揮官マグヌス・マキシムスに反逆され世を去ると、パウリヌスは拠って立つ権威を失い、一時的にメディオラヌムに逃避し、そこでアンブロジウスの庇護の下に入った。こうして出自の似た二人のキリスト教徒が近付き、第五世紀まで長生きをしたパウリヌスによって第四世紀の人となったアンブロジウスの伝記が記されたのである。

その後、彼は一度ブルディガラに戻って結婚し、キリスト教徒にして稀なる良妻テシリアに恵まれたのだが、二人の間に生まれた男児は生後八日にして逝ってしまった。
それからの夫婦は信仰に邁進するところとなり、夫は家の莫大な富を手放して貧者らの大集団に食事を与え、なお幾らかの土地を持つノラに移住し、やはり彼のように持てる多くの財産を貧者に恵んだという、かつてその地のキリスト教徒で、第二世紀のデキウス帝の迫害から当地の監督の身代わりに迫害の矢面に立ち、なおその監督を匿った聖証者フェリクスを讃えて記念するバジリカを夫婦で再建している。それはアンブロジウスが世を去る数年前のことであった。
この三一派の夫婦が当時のキリスト教界にもたらした影響は少なからず、アンブロジウスの世を去った後も、ヒエロニュモスやアウグスティヌスらをはじめとする錚々たる名士らに書簡の往復と交友とがあった。

このように第四世紀後半の当時のキリスト教界では、下層民が多くを占めていた信仰者の範囲であったものが、アンブロジウスや、このパウリヌスのような体制側に立っていた名士たちに広がりを見せていたのであり、大多数の信徒たちもそれを頼もしく思って支持し、街々の監督として推し始めていたのであった。従って、劣勢にあった三一派は、社会の宗教化への趨勢と共に今や地歩を固めようとしていたのである。
しかし、これはキリスト教の信仰を個人で懐くものから、社会体制として信仰が規定される制度への道程の半ばにまで差し掛かっていたということであり、その事に対する危機感を表明した人物を歴史は語らない。神が三位一体なのかどうかという論争に人々の注意が向いたままであったというべきであろう。


さて、三一派をカトリックとさせる道筋をつけたアンブロジウスであったが、いまだ皇帝をまったく平信徒として下命できる立場には至っていない。それこそは前人未到の領域であったが、彼にはまことに都合のよい事件が起こるのであった。

カトリック教令から10年目の390年、テサロニケで暴動が起こった。
人気ある戦車競技の選手が些細なことで当局に捕縛され、選手のファンである民衆が釈放を要求して暴動となり、地方長官を含む役人たちまでが殺されてしまった。
テオドシウスは軍を派遣してこれを鎮圧したが、軍は民衆を競技場に閉じ込めた上でこれを無差別に殺害させた。

以前の皇帝ならば、そう問題にされることでもなかったことかも知れないが、アンブロジウスはこれを見て機敏に反応する。
アンブロシウスは皇帝を単に諌めるのではなく、ひとりの平信徒として譴責したのであった。これは司教と皇帝を天秤にかけることであり、キリスト教の恐るべき世俗化を決定づける転換点となるに違いない。
それも前述のように西帝のグラティアヌスは七年前にブリタンニアの司令官マグヌス・マキシムスの反乱で世を去っており、ローマのウァレンティアヌスⅡ世は未だ19歳で依然ユスティナ皇太后の影響下にあったから、テオドシウス帝は36歳以来実質的に帝国全域を治める唯一の皇帝となっていて当年43歳、アンブロジウスは50歳代であった。さて一番偉いのは誰なのか?

ここでローマ帝国が一都市の司教に政治問題で膝を屈してしまうのであろうか。
それは、キリスト教が皇帝の庇護を受けるという段階を超え、キリスト教が皇帝を指導譴責するという、新たな構図を描くことであり、史上はじめて発生する事態となるのである。 

初めはこの譴責を無視していた皇帝であったが、実はこの手のアンブロジウスの譴責は初めてのことではなかった。テサロニケの暴動の起こる前年にテオドシウスはメディオラヌムに行幸した際にも別件で責められていた。
それは、熱心さを通し越した「キリスト教徒」の集団がユダヤ教の集会所(シュナゴーグ)を襲い、破壊した件につき、テオドシウス帝がユダヤ教徒に補償をしたことにアンブロジウスが抗議していたのである。そこではユリアヌス帝期の事例を持ち出して、ユダヤ人もガザ地区のバジリカを焼打ちしたではないか、とまくしたてるが、これがキリスト教の論理であるわけもない。旧約の「目には目を」の表層的理解である。

こうした宗教熱心の行き過ぎを収めるのは皇帝行政としては理に適ったことであることはアンブロジウスも地方長官であった以上、百も承知していたであろうが、司教のアンブロジウスとしては、帝国権威に対するカトリックの優位を確立するに至るチャンスとして利用する価値を見てとったに違いない。しかも、皇帝は前年のシュナゴーグの件で一度折れているのであった。そこでアンブロジウスは公的に謝罪するまでキリスト教の典礼に参加させないと強硬に打って出た。即ち破門宣告である。

アンブロジウスの目論見は、テオドシウスと組んで帝国民の面前で寸劇を演ずることである。
そこで皇帝が司教に一度頭を下げればそれでよいのである。
政治家が、自分の施策は間違っておりましたと、宗教家に懺悔すればそれだけで事足りる。 
そうすれば帝国全域は誰が最高権威者かを知ることになるのである

アンブロジウスには勝算があってのことに違いない。テオドシウスにはポンティフィクス・マキシムスの称号も捨てさせてあり、カトリック教令で帝国がキリスト教に舵を切っていた以上、皇帝には逃げ道がない。 
細工は流々、ここで一気に勝負をつける潮時を読んだに違いない。これはまさしく政治の手法ではないか。 

ここでキリスト教徒であれば、サタンがイエスにこの世の栄華を見せたうえで、『このわたしに一度ひれ伏して崇拝するなら、これらのすべてを与えよう』と誘惑した場面が思い浮かぶことであろう。
キリスト・イエスはこれを拒絶して『サタンよ、失せよ!「主なる神を崇拝しなければならず、この方だけに仕えなければならない」とあるのだ』と言う場面である。

そして今や、その逆が起ころうとしていた。
アンブロジウスの望んだものとは、三一派に諸国の栄華を与えることであり、純粋にキリストに従おうとする者であれば、誰であろうと畏れ多いことで、主に倣い拒絶すべきものであった。

皇帝テオドシウスは、何カ月もアンブロジウスに膝を屈することを拒んでいたのだが、既に局面は詰んでいた。必要なのは「参りました」の一言と共に投了するばかりであった。

さて、皇帝ともあろう人物が平装でメディオラヌムのバジリカの門前にひれ伏し待たされた。やがて門が開かれ、もうひとりの役者が現れる。相応しい舞台衣装は金銀の刺繍が施された豪奢な司教の礼服に、ミトラと呼ばれる口を開けた二枚貝のようなエジプト由来の帽子*を被り、パストラーレ、即ち司牧丈を手にした大仰な扮装のアンブロジウスである。

そこで平信徒テオドシウスは跪いて悔悛を述べ、アンブロジウスに赦しを乞うのであった。これこそが三一派キリスト教が「この世の栄華」を手に入れた瞬間であった。
これは、西暦390年のことであった。

この三百五十年ほど前のパレスティナに視点を戻すと、エルサレムではローマ帝国のユダエア総督ピラトゥスは質素な身なりのナザレ村から来たイエスと向き合っている。
ピラトゥスには総督としてこの奇跡を行う人の生殺与奪の権限を持っていた。
 
イエスはこう語っていたのである。『わたしの王国はこの世のものではない。もしそのようなものであったなら、わたしの弟子らはわたしをユダヤ人に渡すまいと闘っていたことであろう。しかし、わたしの王国はそのようなところからのものではない。』(ヨハネ18:36)

そこにおいて総督は、祭司長派が突き出したこの人物に、何ら世俗的な脅威も罪も見出さなかった。むしろ、ユダヤ人の中での宗教上の妬みが関わっていることも見抜いていた。
それゆえ、いよいよイエスが重罪とされるとなると、ローマ総督ピラトゥスは公衆の面前で手を洗ってこう言った『わたしはこの人の血については潔白である。おまえたちが処置するがよい。』(マタイ27:24)
この手を洗う行為を以って、総督はイエスが世の権力に関わりのないことを証ししていたのである。 

しかし、もし皇帝をひれ伏させるような「キリスト教」がそこにあったのであれば、ピラトゥスが脅威を感じなかったろうか。 むしろ、アンブロジウスのような人物であれば、手を洗うどころか正義感の内に即刻に極刑を命じたのではないだろうか。

そして第四世紀以後、「キリスト教」は権力と合体してしまい、戦いを神聖なものと宣し、自ら無数の血を流す汚された宗教となってその歩みを誤ってきたのである。

もし、ピラトゥスがアンブロジウスを裁いていたなら、けっして裁きの場で手を洗うことなど無かったに違いない。その油断のならない希代の政治家だけは何とか処置せねばなるまいと思ったであろう。

だが、アンブロジウスを契機として「キリストの処女」たるべきキリストの弟子らは、はっきりとその純潔を失い、『王たちと淫行を犯す』 ものとなったのであった。(黙示録18:3)
 
元々は、「カトリック」ではなかった三一派キリスト教が自らの普遍性(カトリック)を唱えて、西欧封建制の頂点に立つことになり、 神の名のもとに搾取と流血という政治に加担し、その罪を世界に向けて増し加えつつ歴史を刻んでいったが、そのように道を変えさせた人物として、このアンブロジウスを挙げないわけにゆかない。

その後のヒッポのアウグスティヌスの洗練された文章や、そのキリスト教徒となる過程での長い苦悩の記録には共感されるとしても、アンブロジウスについては、今日キリスト教界にあっても多くを語られるようにはけっして見えない。
彼には、アウグスティヌスのようにはキリスト教帰依に至る心の道程がまるで見えず、その「信仰」というものも彼個人の実際がどのようなものであったか把握し難い。 
むしろ、彼は「官僚」として「政治を用いて」三一派をローマ国教に押し上げるという一大事業を成し遂げたばかりに見えるのである。 つまりは、宗教家というよりはやはり政治家、それも希代の大政治家というべきである。

実際、アウグスティヌスに関する資料は山の様に多いが、キリスト教をこの世へと方向転換させたアンブロジウスについて見出すことはそう容易ではない。アンブロジウスの名がよく知られているにも関わらず、彼の経歴を知ろうとしても、そう簡単に適当な資料は見つからないであろう。
 
その理由というものも、著作の多寡というよりは、上記のように三位一体派がどのように権力によって地歩を得、今日「カトリック」と呼ばれているものが、実にナザレのイエスと正反対のものになっていったその過程を、多くの「クリスチャン方」が正視したくはないからではないのだろうか。
それこそが、「酵母」がパンを膨らませるようにローマ国教化を完成させるべく働き、信者数のインフレーションを起こす直前のきっかけでもあったのだ。(マタイ13:33) ⇒ ローマ国教化で失われたもの

今日の「クリスチャン」がアウグスティヌスの三位一体の哲学的な思索に酔えるのも、元は俗世から登場し、俗世に塗れて三一派を「カトリック」に仕立てたアンブロジウスという人物あればこそである。
即ち、今日のキリスト教界とはアンブロジウスという肥やしの上に咲いた花のようなものであり、所謂「クリスチャン」は、誰もその根元には目を向けたくはないのであろう。

だが、花もいつしか枯れる日を迎えるものである。
『草は枯れ、花はしぼむ。だが、我らの神の言葉は永遠に立つ』(イザヤ40:8)
人の栄華は何時しか空しいものとなる、それが神の言葉によらず、世の汚れに由来するものなら、その終わりは殊に惨めなものであろう。





Francisco_de_Zurbarán
Episcopus
Ambrosius






*(上の絵にあるようなミトラ帽は後代のもので、当時のミトラがこのようなものであったかは分からないと言われる。由来はローマ帝国の要人の被った帽子がミトラと呼ばれたが、二枚貝のようなスタイルは西帝国地域でカトリック高位僧職者に着用されはじめた)

⇒「アムブロジウス人物補足メモ





 

神の家から始まる裁き 試練と背教の時代


時は否応なく進み、状況は刻々と変化を遂げるものである。
西暦60年代に入り、今までにない迫害にキリストの弟子らは直面していた。
その原因を作っていたのは、キリスト教とは相容れないユダヤ民族主義の各地での高まりであった。

そこでは使徒ペテロまでが、パウロのように手紙を介して、ポントス、ガラティア、カッパドキア、アシア、ビュチュニアとアナトリア半島北部方面の聖徒たちに励ましを送る必要を感じ取っていた。
 

ペテロは、迫害によって動揺し兼ねない人々に『あなたがたが召されたのはこのためだ。つまり、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからである。』と記して窮境に陥った弟子らを励ます必要を察知していたことを示す。(ペテロ第一2:21)

それゆえ『あなたがたの間に降りかかっている火は試練として臨んでいるので、何か予想外の事態に面したかのように動揺し怪しむべきではない。』『キリストの名にゆえに謗られるのであれば、あなたがたは幸いだ。栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿っているからである。』(ペテロ第一4:12.14)

迫害の困難な状況の中で、彼らには守るべき清さがあった。
即ち、『悪を行って苦しみに遭うよりは、善を行って苦しみ』『肉体の欲望を避け』『王や総督に従い』上位者を敬い、キリスト教徒の自由を『悪の覆いとはせぬよう、むしろ自らを神の奴隷の身分に置き続けるように』することで、彼らの主に倣う歩みを続ける必要があった。
そうするなら『諸国民の間にあって、常に見事な行状を示し、あなたがたを悪行者とする彼らが、来臨の日には却って神を崇めるようになる』ともペテロは言う。(ペテロ第一2:12)

彼らに約束されたのは『朽ちず汚れず、褪せない資産を受け継ぐ』ことであり、その彼らは『“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎのために選ばれた』者たちであることが明記されており、ペテロは彼らがモーセによって律法契約が目指しながらも、それが遂に生み出さなかった『選ばれた支族、王なる祭司、聖なる国民、神の格別な所有に帰する民』となったことを宣しており、これ以上ない仕方で彼ら弟子たちが霊を受けた『聖なる者たち』であることを云い表している。(ペテロ第一1:2-4)


まさしく、彼らは中にはユダヤ人ではない者も多かったが、いまや『新しい契約』に共に預かる者らであり、生涯を通してその契約を守ることで、神の御前に信用貸しされた「義」の立場を聖なる行状によって守る務めがあった。(ペテロ第一2:10/ローマ8:1/コリント第一6:20)
彼らは、聖霊が注がれることで任命された『聖徒』であり、キリストと共に『神殿』即ちヘブライ語においては『神の家』を構成することになる格別な弟子であった。即ち、裁きの始まる場としての『神の家』である。 (ペテロ第一4:14/コリント第一3:16/エゼキエル9章)

そして今や、あのペンテコステの聖霊降下から30年が経過し、キリストの初代の弟子たちには新たな時代環境の変化が臨もうとしていた。

西暦40~50年代の『順調な時期』は去りつつあり、弟子たちは厳しい現実に直面し始めていた。

しかし、聖霊の降下が止んでしまったわけではない。では「聖霊の賜物」というこれ以上ないほどの恵みの最中にあって、なにゆえ当時のキリストの弟子たちには多くの困難が臨んだのか。

ペテロは新たに直面することになった時代をこう呼んだのであった。
『今や、裁きが神の家から始まる時が到来したのだ。』(ペテロ第一4:17)

キリスト・イエスと同世代の弟子らが齢六十を越える老境に達しつつある西暦60年代に入ると、彼らの周囲は目まぐるしいほどに変化を始めていた。それは初代の聖なる者らに臨む試練の時であり、彼らは『新しい契約』をその生涯を通して守り通すか否かの裁きに面したのであった。


◆老齢に達した初代の聖徒

西暦60年に入ると、パウロは難船を経ながらもローマに送られ、その後の二年間の軟禁生活に入る。
そして弟子たちの中心と目されていたエルサレムではエクレシアの第一の柱である「義人ヤコブ」、即ちキリストの弟を62年に殉教で失う。
そして、64年にはローマ大火が起きている。火災の下手人とされたキリスト教徒への迫害が始まったともされているが、その以前にユダヤ教徒によるキリスト教排撃の火の手が各地に上がっていたのである。

かつては、激しい迫害に敢然と立ち向かった者らが徐々に去り、「義人ヤコブ」の仲裁を得て比較的平穏に過ごせてきたキリストの同世代にも、はっきりと試みとなる時節が近づいてくる。

それはユダヤ民族の愛国的メシア願望による、思想の先鋭化であり、歴史の記録も教えるように、それまでは律法に従うことが宗教的責務であったものが、民族社会的義務の様相を帯びてきたのである。パレスチナばかりか、各地の居留民の間でもユダヤ愛国主義は異様な高まりを見せていた。彼らにとって、イエス派は「悪しきユダヤ人」にほかならず、そのころのシカリオイと呼ばれる集団は、国粋主義者でない要人を暗殺するようになってゆく。

他方、ローマ側から観る場合、ユダヤ教徒とユダヤ・キリスト教徒の違いは判然とはしない。そこで彼らはユダヤ人とだけ見做される。そうしてキリスト教徒は、ユダヤ教徒からも、諸国民を含む帝国側からも圧力を受ける難しい立場に立たされることとなる。 


神殿の石の床に跪いてイスラエルと神との執り成しの祈願を日々捧げ続けていた為に、その膝の皮膚がラクダのようになっていたという「義人ヤコブ」の願いも空しく、ユダヤの体制は彼の兄ナザレ人イエスをまったく顧みることなく、「ユダヤ人の良心」とも言われたこの義人までを除き去ってしまった。それは巻き起こりつつあった動かし難く強まる時代の渦潮の影響であり、ユダヤ民族を中心に巻き込んでやがてその体制をもろとも沈めてしまうことになる。それを媒介していたひとつに、帝国が差し向ける総督の質の低下が関わっており、ヤコブの死後着任したアルビノスは横暴な支配を行い、少なからずユダヤ人の義憤を買っていたのだが、続いて赴任したフローロスに至っては、ユダヤを挑発しているとさえ云われるほどの圧制を行ったとされる。
 

使徒パウロは、このヤコブ殉教の報をローマで受けたことであろう。
おそらく翌63年に一度釈放されたパウロは、『自分もアブラハムの後裔にしてベニヤミン部族の者であり』『わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されても厭わない。』とまで云うほどに同朋ユダヤ人を深く気遣い「ヘブライ人への手紙」を認ためたのであろう。(ローマ11:1 /9:3)
そこで、新約聖書中にパウロらしからぬひとつの書簡が残ったのは、ヤコブの殉教がきっかけであったように思われる。

パウロは自分の評判がユダヤ人の間で頗る悪いことを考慮したようで、その書簡は頭書に自分の名を出さない唯一のものとなっている。
「ヘブライ人への手紙」と呼ばれるそれは、パウロによってヘブライ語で書かれたのであろう。ユダヤ人に向けて書かれたそれが、後になってからおそらくはギリシア語を話す諸国民の信徒らの依頼で、ルカやマルコのようなヘレニストである誰かによってギリシア語に訳されたため、文体がパウロらしくないかも知れないが、これほどの認識を以ってこの画期的内容を記せる人物が、この「奥義の家令」を除いて誰か他に居ただろうか。

この書簡ではキリストのモーセに勝ることが強調される、その祭司権の優越性、様々な旧約の事柄がキリストにあって成就したことを教え、『律法は来るべき事柄の影であったが実体そのものではない』と古参のヘブライ人の知覚力を刺激する。(ヘブル10:1)
イエスこそが、繰り返されることの無いひとつの永遠の犠牲を捧げたことを多くの章を費やして語るパウロの言葉は、実にあと三年で勃発することになるユダヤ騒乱と、その結末としてローマの攻囲の下に七年後に歴史上からまったく消え去ってしまう神殿祭祀について、今日の我々のように時代の下流から見る場合、この教訓がまったく重要で危急に培うべき認識であったことが分かる。

このヘブライ書簡で、パウロはキリストについてこう述べている。
『キリストは、時代の終わりに*、ただ一度限り、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために来られた』(ヘブライ9:26)*(シュンテレイア アイオノーン)
この『時代の終り』(あるいは世代)というのは、何の時代の終りであるかといえば、それはモーセの律法の時代の終りを指して、彼がユダヤ教のものの考え方から離れるようヘブライストらに語りかけていたというところが順当な捉え方であろうし、もし『世代』と解釈するにしても、キリストを退けた『世代』への『火のバプテスマ』による、ユダヤ体制の崩壊を含意して注意を促していたのかも知れない。(マタイ3:12/ルカ19:41-44)


動物の犠牲によるユダヤ律法体制と、イエスの犠牲によるキリスト教とは、元来、両立し得ないものであり、その対立が愛国主義の先鋭化と共に動かし難い相違として浮かび上がり、メシアを退けたうえヤコブにまで殉教の死を与えたユダヤは、悲惨な終局に向かって更にその行き止まりへの道を猛然と突き進んでいた。


それゆえ、パウロが後半生を捧げて教えてきた「業」に対する「信仰」の優位を、今やこれらのヘブライの初期キリスト教徒がしっかりと把握し、来るべきユダヤ体制の終焉を切り抜ける重大性は強調し過ぎることが無いほどであったことであろう。

こうして、パウロは本来ヤコブのテリトリーであったユダヤ人らに、態々その危急のゆえに憎まれ顔を出してまで同族に語らずにはいられなかった。その理由はヤコブ殉教によるそのヘブライストたちの中心的「柱」と目された「義人」の不在であったろう。(ガラテア2:9)

使徒たちをはじめとする初代の弟子たちは、自分たちの世代のうちにキリストの帰還が為されると考えていたことは聖書中に見られる通りである。使徒パウロも『生きながらえて主の来臨の時まで残る』と自らのことを西暦50年頃に記している。(テサロニケ第一4:15)

だが、彼らの期待通りにキリストの臨在は起こらなかった。そしてパウロの認識も後に変化を見せる。それから十五年を経た最晩年の西暦65年頃には、二度目の逮捕を受け『わたしが世を去るべき時は来た』と言っている。(テモテ第二4:6-8)

その後、パウロはペテロとほぼ同じ時期に処刑される。パウロはローマ市民であったためか斬首となり、磔刑を宣告されたペテロは、主と同じ様で死ぬことを憚り、自ら望んで逆さに磔されたと伝承に伝わっている。
「聖なる者」(ハギオス)は、生涯を通して忠節を保ち、主に倣った死を遂げるべき「新しい契約」に聖霊によって預かっている。

この初代の弟子らに臨んだ試みの時期に、使徒のペテロも警告の書簡を各地へ送る。
まさしく、これは律法体制の「終わりの日」であるばかりでなく、初代の「聖なる者たち」が生涯の終わりの時期を迎え、彼らの全体が試みられ裁かれる「使徒時代の終わりの日」ともいうべき時節に入っていったからである。

だが、ペテロは聖霊の霊感を受け、当時を越えて更なる将来に目を向け預言して続ける。
『終りの時には、嘲る者たちが嘲りながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。』

『しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、清く信心深い行いをしていなければならない。』(ペテロ第一3:3-)

理知があり神を認識できる創造物には、押しなべて創造者への見方が問われるのであり、その為にサタンという存在は、神が初めから彼を反逆者として創造したのではないにせよ、その不忠節を教唆する歩みを通して、他の理知ある創造物を試し、その結果として意図せずに創造物の自由意思を担保する役回りを負ったのである。
それゆえ、地に来た御子にあってさえ、四十日の試練の後にサタンからの試みを受けることを神はよしとされたのであった。

では、その御子キリストに連なるべき聖徒たちはどうか。
その「聖霊の賜物」に表される「召し」に相応しい生涯を通すことができるだろうか。即ち、イエスへの忠誠の歩みを主の来られるまで、あるいは死に至るまで行い遂げるか否かは、彼らの「救い」に関わるところであり、ひとつ間違えればユダヤ体制と共に滅びに巻き込まれ、そのうえに『神の王国』のひとりと数えられず、真のアブラハムの裔とされることからも退けられてしまうのである。それを狙って猛り狂うサタンは獅子のように獲物を求めて歩き回るかのようであることをペテロは警告する。(ペテロ第一5:8)

それは聖徒であればユダヤ人も異邦人も変わるところはない。残された生涯の間に『清い行状と崇敬の思いを以って主の日を待つことを十分に心に留める』ことは彼らの最大の務めであった。(ペテロ第一3:11)

聖徒であれば、彼らの死後は天に迎え挙げられ、キリストと伴なる聖なる民の一員と成り得るが、もし、地上の歩みを相応しく終えていないなら、彼らの目覚めたときに灯火の油は足りず、『愚かな処女』に例えられるとしても仕方のないことであるが、それはもはや花婿と宴席を共にはできず、外の闇に残されるばかりである。なぜなら、天に召集されてからでは、サタンは放逐された後で、既に天におらず、試みの受けようもなく、彼らは地上の歩みであってこそ、主に忠誠を示せたはずであった。(マタイ25:1-12)

そして、このような聖徒にとっての試練の時代は、ユダヤ体制の崩壊の後も引き続いていったことは、その後の書簡も知らせる通りである。彼ら契約に属する者たちの間での分離は依然として厄介な問題を引き起こしてゆくのである。


◆使徒たちの終わりの日

西暦67年頃にペテロとパウロが相次いで世を去ると、第二世代ともいうべき聖徒らも含め、なお残された者たちがいた。
既にイエスの弟ヤコブの亡き後、そしてペテロとパウロも去った後に、トランスヨルダン方面の山地にエルサレムの荒廃を逃れたユダヤ人の弟子らの中から、引き続き警戒を緩めることのないようにとの声が上がる。

イエスの末の弟ユダが、『一度限り伝えられた信仰を守って厳しい戦いをするように』と書簡に記して兄ヤコブ亡き後にその声を上げた。
仲間たちは既に一通りのことを学んだが、その聖なる民にもう一度注意を喚起したいと彼は言う。(ユダ3)

『愛する人たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出せ。 彼らはあなたがたにこう語った。「終わりの時には、嘲る者どもが現れ、不信仰な欲望のままに振る舞う」と。 この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊*を持っていない者なのだ。』(ユダ18-19)*(プネウマ「聖霊」を含意)

ここに『終わりの時』の言葉が現れており、そこでは仲間内からの異分子の出現について容赦なく描写する。
『これらの者は、無遠慮にもあなたがたと愛餐を共にしても私腹を肥やすばかりで、風に吹かれて行き惑う水無き雲、実を結ぶことなく枯れ果て、晩秋に根扱ぎにされた樹木、その身の恥を泡のように吹き出す海の荒波、永遠の下界の闇と暗さが定め置かれている迷える(軌道を外れた)星辰』。(ユダ12-13)

これらの者らは聖徒の交わりにあって意味なく、その欲望のままに過ごすばかりで、神の聖霊の祝福にも実は与ってはいないことが暴露される。この輩には聖徒としての印である聖霊があるように装うとしても、実はそれを持ってはいないとも警鐘を打ち鳴らしている。

この『終わりの時』が先に逝った使徒たちの予告した時代であり、ここでユダはペテロの言葉を引用しているが、パウロも、荒野のイスラエル人たちの不行跡について触れた後に、このように語っていたのである。
『これらの事が彼らに起ったのは、他の者に対する警告としてであって、それが書かれたのは、時代*の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(コリント第一10:11)*(アイオノーン「世代」とも)

これは西暦七十年のユダヤ体制の「終わり」に近づいたペテロやパウロの世代の「終わり」だけを意味したのだろうか。

しかし、それから30年ほど後の、第一世代のその最後を飾る使徒ヨハネはユダに続いてこう記している。
『子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたが以前から反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知るのである。』(ヨハネ第一2:18)

これらの書簡の内容を時代に沿って追ってゆくと次のような結論に至る。
即ち、聖徒たちの第一世代が老齢に達し始める頃から、彼らへの試練が強まり、その後もその状況が続き、それは第二世代以降まで続き、遂に聖霊で油注がれた聖徒のすべてが地から消え去るに至るまで続いていたという事になろう。その間に聖徒らは試され分離が生じていった。

これについて使徒ヨハネは『反キリスト』を挙げており、それは『キリストが肉体で来たことを証ししない者』であることも知らせている。

しかも『彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒に留まっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが明らかにされるためである。』とも語る、即ち、『反キリスト』と呼ばれる者らは、以前には彼らと共に居た者らであることも教えている。

では『反キリスト』は聖徒であったのだろうか。
ここでイエス自身が語っていたことで留意する価値のある言葉をマタイの福音書に見出す。
曰く『その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか」と言うであろう』。(マタイ7:22)

『悪霊を追い出す』権威を持ち、多くの力ある業を行う者が奇跡の聖霊を賜った聖徒でなくして誰であろうか。しかし、聖徒の身分は不動のものではない。
それゆえに『新しい契約』が取り結ばれたのであり、契約とは不確定な事柄があるところで必要とされるものではないか。

これについてパウロはこう言っている。
『最初の確信を最後までしっかりと持ち続けてこそ、我らはキリストに連なる者となれるのだ。』(ヘブル3:14)

ここで我々は、キリスト自身の言葉も思い起こすであろう。
『狭い門から入るようにせよ。滅びに至る門は広く、その道は広く、そこから入って行く者は多い。』(マタイ7:13)


したがって、聖霊を灌がれた者と雖も、『キリストの掟』を全うせず、その清い立場を敢えて汚すならば、キリストは決して彼らを是認はしない。マタイの例えの結末はこうなっている。
『そのとき、わたしは彼らにはっきりと、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」。』(マタイ7:23)

主イエスは、これに類する例えを多く残されていて、他にも「小麦と毒麦」「引き網」「結婚式」などが思い浮かべられるところである。

これらの離れる者たちは、単に「罪」の傾向が彼らの忠誠の邪魔をしたということにはならない。ヘブライ書でパウロが言うように、そこでは『一たび、光に受けて天からの賜物を味わい、聖霊に預かるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後なお堕落した者は、再び悔い改めに立ち帰らせることはできない。神の子を自分の手で改めて磔刑に付し侮辱する』とされる者となるのであり、『故意に罪を習わしにするのであれば、もはや何の犠牲も残されてはいない。』(ヘブル6:4-6/同10:26)
これが即ち、キリストが『けっして赦されることの無い罪』と呼んだものである。(マタイ12:31)

では初期聖徒たちの終わりの日の試練に際して、『新しい契約』を離れてしまい、聖霊によって油注がれた立場を汚してしまった者たちが出たのだろうか?
使徒ヨハネの言葉、『反キリスト』が彼らから出てきたという指摘には、そうではないという反論の余地が無いようである。


キリストの仮現説、つまり『キリストが肉体で来たことを証ししない者』としてのグノーシス主義というユダヤ教とキリスト教の中間派生的宗教の台頭をヨハネは強く懸念していたであろう。
その教えには、ユダヤ体制の崩壊によってユダヤ人が感じたに違いない失望が込められており、すべての造物主は不完全な劣った神(デーミウルゴス)であったので、この世の有り様もすべては虚しいとする。
それらの「デーミウルゴス」の一人には何とYHWHまでが、「ヤルダオバート」という別名ながら悪しき神に含まれているという、根深い神への失望と恐るべき誤謬の入り混じったものとなっていった。

グノーシス派の創唱者の一人と目されるケリントスなるユダヤ人を使徒ヨハネは個人的に知っていたと古代資料が語っている。
ヨハネはキリストが間違いなく肉体で来られたという『この教えを携えずにあなたがたの許に来る者を迎え入れても、挨拶の言葉をかけてもならない』と命じていたが、ヨハネがエフェソスの浴場にケリントスの姿を認めると、そこから出て行ってしまったとさえ伝えられている。
このような偽教師の存在は、確かにしっかりと使徒に追随しないような聖徒らには紛らわしいものであったことであろう。グノーシスではキリストの教えとまったく異なる教理と伴に、キリスト教の自由さとは不釣合いな禁欲の道徳も教えられていた。

この使徒時代の終わり以降に現れた様々な派はケリントス派だけでなく、イエスは予告された預言者ではあっても普通のユダヤ人であったと見做したエビオン派は、あのエルサレムの滅びをトランス・ヨルダン地方に逃れた人々から派生したと言われる。
また、自分たちの教祖が天啓を受けたと主張するエルカサイ派は、使徒ヨハネの最晩年頃に東方パルティアに出現したらしいが、旧態依然として全信徒に割礼を強制していた。そこからマニ教が興されるのは時間の問題となっていた。
これらはユダヤ・キリスト教からの変形であり、ユダヤ教を引きずった人々の好感と支持を得て、神秘主義と結婚禁止と禁酒などの律法化に再傾斜していった。

これらの人々も、初めはヤコブの指導の下にあったのであろうが、エルサレムの柱が抜けてしまった後に、分派は分派を産んで広がってゆく。その中にあってキリストの末弟ユダは、かつての使徒たちの言葉に注意を喚起し、残された使徒らも迫り来る背教の侮り難い勢力との日々の戦いを余儀なくされていった。


◆終末の聖徒の試練

この時代の試みの時期に離れ去った者らがあったということから、我々の関心が「世の終末」の聖徒たちに向けられて不思議はない。即ち、将来に再び現れるであろう、聖霊を受ける人々と、そこからの異分子の出現についてである。

初期の聖徒たちに試練の「終わりの日」が臨んだように、将来の聖徒らも地上で試されなくてはならないに違いない。『あなたがたは王や高官の前に引き出され、それは証しをする機会となる』と予告された主の言葉は終末に関わるものである。(ルカ21:12-15)
したがって、終末の聖徒らは、聖霊の言葉を賜って世の為政者たちと対峙しなければならず、そこで迫害は当然覚悟されるべきものである。(マタイ10:17-42)
そして、初期と同様に、聖霊を受けていながらも試みに篩われ、契約から脱落する者があるとしても驚くべきことではない。

まさしく、終末への示唆に富むダニエル書の記述にそれを見出すのである。
『キッテムの船が、彼に立ち向かって来るので、彼は脅かされて帰り、聖なる契約に対して憤り、事を行うだろう。彼は戻って行き、聖なる契約を捨てる者を顧み用いる』

この部分は、ダニエル書の記述の終わりも押し迫った11章30節に在り、いよいよ世界の終わる時が近づいた場面での『北の王』と呼ばれる政治勢力の、対抗する『南の王』との『押し合い』の過程で生じることとされている。

ここで、『北の王』は『聖なる契約を捨てる者を顧み用いる』と明瞭に書かれていることは注目に値する。
これこそは、聖霊で油注がれ、その奇跡の賜物を一度は得た者らが、『新しい契約』から離れてしまうが、それを『北の王』は『用いる』というのである。
加えて、この続く部分も衝撃的である。
『彼から腕(軍勢)が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てる』

こうして、この謎の言葉『荒す憎むべきもの』の姿について我々は幾らか進んだ理解に入ることができる。
即ち、『荒す憎むべきもの』は『神殿と城郭』また『常供の燔祭を取り除く』という言葉によって、聖なる者らの捧げる崇拝を中止に追い込むものであり、それは『腕』とよばれる権力つまりは軍事的強制を用いてそれを成し遂げるということであろう。
これこそは、黙示録に在る『七つ頭の野獣』の行うところでもある。
そして、そこには『聖なる契約を捨てる』元聖徒らが関わると云う。

ここで思い起こされるのが、パウロがテサロニケの聖徒らに書き送っていた、『キリストの臨御』の起こる終末に関する次の記述である。
『だれがどんな手段を用いるにしても、それに騙されてはならない。まず背教が起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れてからでなければ終わりは来ない。』(テサロニケ第二2:3)

ここで『背教』という言葉が挙げられている。これについてパウロは、彼の当時もその『不法の秘事が働いているが、それは今のところ抑制しているものが無くなるまでのことであり、その後に「不法の人」が姿を現す』と言って、「背教」と「不法の人」とに注意を向けさせている。(同7-8節)

その『不法の人』にはサタンの働きが在って『あらゆる偽りの力と、徴と、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行う』と言う。

背教への抑制力であった聖霊が地上を去った後に、つまり西暦第二世紀以降の古代からパウロに語っていた「背教」と「不法の人」が現れたかと云えば、そのように考えねばならないわけでもない。

なぜなら、この書簡を記していた時分のパウロ自身の認識では、キリストの臨在は自分の生きている間に起こることを想定していたが、実際には後に自分の死を悟るように変化しているでのあるから、『今のところ抑制しているものが無くなるまでの』時代の終りとは、パウロ死後の古代を必ずしも想定する必要はない。


むしろ、『不法の人』とは、聖霊の賜物のような力ある業を行う偽預言者となるのであろうから、それは単に異なった教理を説く指導者では役不足なのであり、プロテスタントが16世紀に唱えたような『不法の人』をローマ教皇と観ることさえも、器としては不十分と言えるほどである。

なぜなら、教皇と雖も、『聖徒』のような奇跡の賜物も、あるいはそれに匹敵するものも何ら持たなかったからである。終末に勃興する『背教』に比べれば、今日のキリスト教界の逸脱など取るに足りないほどであり、一たび聖霊を受けた者らの背教は究極的な神への抗いとなり、この世に最後をもたらす最悪の宗教となろう。
だが、実際の『不法の人』が不思議な力を持って聖徒に対抗し、また聖徒を征服しようとも、彼らの霊が神の聖霊の価値に勝ることはない。

それはパウロが『ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。』としているように、モーセの奇跡に立ち向かったエジプトの祭司らの限界と同じくなろう。(テモテ第二3:8)
というのも、黙示録がこの点を語っているからである。

『また見ると、龍の口から、獣の口から、偽預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。これらは、徴を行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に戦いをするためであった。』(黙示録16:13-14)

こうして我々は『新しい契約』から堕ちた元聖徒の偽りの栄えとその末路を眺める視座に就くのである。即ち、彼らはモーセに逆らった異教祭司の対型となり、ある程度の不思議な力を発揮はするが、それは『かえる』止まりである。なぜなら、エジプトの祭司が行えたモーセの真似事は『かえる』を出すところで留まってしまったように、必ず限界を迎え、ハルマゲドンの決戦を用意し、シオンに対して全人類軍を整えても、その行く先には『火の湖』が定め置かれているのである。(出埃8:7・8:18-19/黙示録20:10)


◆背教の行方

だが、それでも『不法の人』の行うところによって世の相当数の人々が聖徒を支持するところから離れることは、上記の引用文にも示される通りなのであろう。
このような『不法』の働きは初期聖徒の時代にも働いており、それはやがて聖霊の油注ぎを受ける者らが絶えて、キリスト教界がキリストの教えから離れ、他の宗教と本質的に変わるところのないご利益宗教に堕した以上の『背教』となることであろう。

『不法の人』は『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の神殿に座して、自分は神だと宣言する。』ともパウロは書いている。(テサロニケ第二2:4)
これを推進するのが『北の王』であろう。『この王は、その心のままに事をおこない、すべての神を越えて、自分を高くし、自分を大いにし、神々の神たる者にむかって、驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』(ダニエル11:36)
そして、この王は旧来の宗教を顧みることをしないとも預言されている。
『彼はその先祖の神々を顧みず、また婦人の好む者も、いかなる神をも顧みない。彼はすべてに優って、自分を大いなる者とする』(同37節)

それゆえ『北の王』が新しく自分を崇拝させる宗教を興したとしても不思議はないようだ。また、旧来のすべての宗教『大いなるバビロン』を何ら顧みず、却ってこれを破滅に至らせることにも躊躇はないのであろう。そこには自分への崇拝が既に存在しているからである。

それを支えるのが元聖徒の『偽預言者』らであり、彼らの教唆はまず聖徒を攻撃させて地上から一掃し、次いで諸宗教「大いなるバビロン」も亡きものとする。こうして『北の王』を至高の賛美へと高め讃えさせるが、それも長くは続かない。
なぜなら、聖霊の声に信仰を働かせる人々の集団である『シオン』を『北の王』が軍事力を誇示して恫喝したところで、この王は天使長ミカエルの手に掛かり、あっという間に『人手に拠らず』歴史の舞台から消え去ってしまうからである。(ダニエル11:45/8:23-25) ⇒「二度救われるシオンという名の女」

だが、聖徒らを亡き者とし、『大いなるバビロン』をも滅亡させたところの、この新たな崇拝は過ぎ去ることなく、偽預言者と共に、まだひと時の間は存続することになる。
そこで、黙示録は『子羊のような二本の角を持った』別の野獣に、その傲慢な崇拝を継続させ、これは広い範囲の人々に強制を施すことに成功するようだ。(黙示録13:15)

こうして、人類は神の聖霊の声や徴に信仰を懐く人々と、それに頑強に抵抗する背教に組する無数の人々とに二分されることであろう。ここに終末の裁きが成し遂げられ、いよいよキリストの王権領受の瞬間が近付くことになる。即ち、『神の怒りの葡萄搾り場を踏む』という「戦うキリストの日」である。⇒ 「黙示録の四騎士」
我々はここに、聖霊に信仰を懐くことが簡単ではないことを悟らねばならない。

かつてパウロはこう語っていたものである。
『不法の者が来るのはサタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と徴と、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受け入れなかった報いである。
そこで神は、彼らが偽りを信じるように惑わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、裁くのである。』(テサロニケ第二2:9-12)

ここで重要なことは、信仰を懐きさえすれば、あるいは神に関わる進んだ知識を取り入れさえすれば、自分は安泰であるなどと思うべきでないことである。まして、特定の宗教組織への所属など何の保証にもなりはしない。



◆アナニアとサフィラを見よ

この夫婦は自分の畑地を売った金額をごまかしてまで、バルナバのように人々から讃えられることを望んだ。そこで悪巧みを仕組んで裁かれ死に至ったが、彼らはまるで信仰の無い者らであったろうか?
いや、まず聖霊の働きに信仰を働かせ、使徒たちと行動を共にする決意を固めたのであろう。
しかし、メシアに信仰を持った彼らであっても、貪欲に誘われた試みによってその内奥の姿が焙り出されてしまった。(ヤコブ1:13-15) あるいは聖霊をさえ受けていたかもしれない。おそらくはそうであろう、ならば咎は一層重い。
この夫婦は、バルナバのように純粋な内面を持ってはいなかったので、隣人愛の外見をした誉れを得ることだけを願った行動をとったが、人々を欺くその動機は利己心であったろう。

これを単なる献金の動機がどうのと捉えるなら、それはこの世の人間の観点であって、聖霊が注がれ『新しい契約』に与っている状況下では様相が異なるのである。それが如何に違うかをこの夫婦の受けた処罰が物語っている。このような宗教組織内の動機の悪い献金が今日なされたとしても、然程のことは無い。なぜなら、今日はどこにも聖霊が無いからである。

しかし、この夫婦が欺こうとしたのは単なる人間ではなかったので、ペテロは彼らが『聖霊に対して偽りを働いた』と断罪し、この二人は共に救いには至らず死に絶えたのである。

これを裁いたペテロがまるで「罪」の無い人間であったのではない。ペテロは主の奇跡の豊漁を見るなり、『わたしは罪深い男です』と叫んでいる。また、キリストを三度否認したのもペテロであったのだ。
だが、罪を認めるペテロと、隠し遂せると思ったアナニアとサッピラとは動機では正反対であったに違いないし、今や聖霊によって『聖なる者』とされ、その聖さを守る務めが契約によって課せられていたのである。

この夫婦には、聖霊というものの重さを弁えるところがまるで無かったのであろう。それが単なる人を騙すように思えたところにそれが曝け出されている。

もちろん「アブラハムの裔」にこの二人が含まれることは無くなった。彼らは人々を欺いたつもりでも、実は『聖霊を試した』以上、聖霊を保持するに値しなかったのである。
ならば、信仰にある仲間であったにも関わらず、『聖霊への許されざる罪』で、この夫婦は裁かれたのである。何と厳しい教訓であることか!


パウロはこう言っている。
『キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は皆が迫害を受ける。しかし、悪人や詐欺師たちは、騙し騙されしながら、いよいよ悪に堕ち込んで行く。』(テモテ第二3:12-13)
これが「終わりの日」の実相なのであろう。即ち、ここで言う『悪人や詐欺師』とは一度は浄められた者である。

それゆえ、『終わりの時には困難な時期が来ることを知れ』として『人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となる』という事柄は、単に世相を云い表しているのではない

これらの言葉は、聖霊ある者らの失態を描き出している。
この者らは、聖なる『新しい契約』に価せず、それから『離れる』ことになるのだろう。

ヘブライ人に宛てた時期より後の、このテモテへの書簡が書かれた時期にあたる、ローマ大火後のパウロが二度目に逮捕された最晩年に、ここで彼はなお将来の「終わりの日」のことを含めて警告しているのである。
これがもし、ユダヤ体制の滅びの時期についてを述べていたのなら、それはなお将来のことではなく、もうそこに到来していた危機の時代であったはずであるから、このように『終わりの日には・・を知れ』とは言わなかったことであろう。


この『困難な時代』とは、まさしくエクレシア内の試練の時期なのである。さもなければ、『こうした人々からは離れよ』とは命じられず、また、『常に学びながらも神の真理に達しない』とされる者らも関連付けされなかったであろう。(テモテ第二3:1-7)

この世というものは、常に苦難の状態にあるもので、俗世の人の性向が善くもないのはノアの日から変わるところが一向に無いし、それは所謂「クリスチャン」であっても然して変わらない。(創世記8:21)

この『困難な時代』は、まずパウロ後の主要な使徒らが去った時代にまず一度成就し、なお「終末」の聖徒らの試みの上に二度目の成就を見るのであろう。

そこで、キリストに従おうと決意固める者には内奥の純粋性が求められるに違いない。
それはキリストに関する知識を取り入れて信仰を働かせ、バプテスマに浴したとしても、一途に求めるべきところは一向に変わるものとはならないのである。殊に、聖霊を注がれた者については、その重責を問われるであろう。

これらの事柄の結論として、ペテロが警告した『神の家から裁きの始まる定められた日』の到来が臨むときに聖徒らの心すべきこと、またその聖霊に信仰を働かせるすべての者らにとって自らを省みるべきことは何であるか?
イエスはこの重要性を端的な言葉で次のように語られた。
『目は体の灯火である。ゆえに、あなたの目が澄んでいれば、全身も明るいだろう。
だがもし、あなたの目が暗ければ、全身も暗いだろう。もしあなたの内なる光が実は闇であれば、あなたの暗さとはどんなに酷いであろうか。』(マタイ6:22-23)

このことでキリストに従おうとする者には僅かな油断も大敵となろう。
ベオルのバラムの貪欲は、神YHWHの祭司という自らの貴重な立場を幾らも誉れとはさせなかった。
コラとダタンとアビラムらの自分本位な正義感を見よ。それが何か彼らを益しただろうか。

そして、ユダ・イスカリオテがいる。
パウロは『不法の人』を『滅びの子』とも言い換えているが、聖書中でこの言葉が当てはめられているのはユダひとりであり、それは聖徒の背教が如何なるものか、また、どのような結末を迎えるのか、そして、十二使徒というこれ以上ない優れた環境からでさえ、『滅びの子』が現れたことが、警鐘を音高に打ち鳴らしているのである。

我々の前に置かれたこれらの例を眺め、自己の内面を探る人々は、神に正面から向き合う覚悟が必要であろう。

それであるから、救いに至るほどの「信仰」が、正確な知識を取り入れるだけで出来上がると思うなら、それは大きな見込み違いである。その人の内面にあるものこそが真実に益ある「信仰」を産み出すのであり、「知識」は助産婦のようでしかない。まして行状や活動の『業』は、『裁き』に影響を微塵にも与えないことであろう。

そして、もちろんすべての人に皆「罪」がある。
我々には間違いがどうにも避けられない。
しかし、それから逃れたいと願い続けるのと、「罪」に凝り固まってしまったり、自分は恩寵を得て「罪」から逃れたと思い込んでしまうのとでは正反対に違うのである。

ユダヤ体制の滅びの端緒となるユダヤ騒乱を、およそ三年後に控えたヘブライ人にパウロはこう戒める。
『あなたがたの誰も、生ける神を離れて不信仰で邪悪な心を育てることがないように』また『罪の力のために頑なになることのないように』とも記した。

使徒ヨハネも後の聖徒らに向けてこう言っている。
『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはない。しかし、自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方であり、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださる』(ヨハネ第一1:8-9)

我々には皆「罪」があり、日常しばしば倫理上の間違いを犯す。
それゆえ、神に対して頭を垂れて謙る姿勢は誰もが是非とも持つべきであろう。
だが、ある人々には、あるいは状況によっては、神に謙虚さを示すのが難しくなることもあろう。試み手としてのサタンの手腕が発揮されるのは、こうした人をその固有の弱さや特定の状況に追い込むことに違いない。
この観点から見ると、『わたしたちを試みに陥らせないでください』との主の祈りにある言葉もやはり疎かにはできないものである。

そして、聖徒に在っても「神と人を愛する掟」は違えることのできないものである。
『「彼を知っている」と言いながら、その掟を守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の言葉を守る者は、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼に在ることを知るのである。「彼の内に在る」と言う者は、彼が歩まれたように、その人自身も歩むべきである。』(ヨハネ第一2:4-6)

このように歩む聖徒らに倣い、聖霊無い者であるなら増々全能者の前に膝を屈める思いを強め、自分を高めず、罪の清められるのを一心に願いつつ待ち望む必要があろう。

初期聖徒たちの「終わりの日」に生じた試練は、「エデンの問い」に臨んだ『初穂』の人々の情報を伝えており、世の終末を将来に控えたすべての者にとっても、「自己の内面を問う」という、真に重い教訓を含んでいるのである。

使徒ペテロもこのように言う。
『「義人がかろうじて救われるとすれば、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどこに出るのだろうか」云われる通りである。』(ペテロ第一4:18)
これは一般人悪行を言うのではなく、聖なる者らが一般的犯罪者としての苦しみに遭うことのないようにとの訓戒であり、またアナニヤやサフィラのような者が出ることを警告しているのである。(箴言11:31<口語訳>)
それはキリストが再三警告していた「新しい契約」からの脱落となるからである。(エゼキエル9章)




              
   © 林 義平
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 二度救われる『シオン』という女  消え去る「北の王」

 黙示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か キリストの王権領受の時

 エルサレム会議にみるキリストの弟ヤコブの寛容さ ヤコブとパウロ







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ディダケーの描く「主の晩餐」



◆ディダケー「十二使徒の遺訓」

「ディダケー」は、古代の書物で言及され、その存在が知られながら、19世紀になるまで姿を現すことのなかった初期キリスト教の文書である。
だが、近代になって歴史の淵から引き上げられたこの古写本の述べるところに中世期の蒙昧は感じられず、驚くほど教理上に優れた認識を垣間見せる。

1873年、日本では明治政府が不承不承に耶蘇教禁令の高札を取り下げた明治六年のことであった
東方正教会、ニコポリス府主教フィロスェオス・ブリェンニオス(Philotheos Bryennios)がコンスタンティノープルの修道院図書館で非常に古い写本を見出した。この中から、あのエウセビオスが第四世紀にヒストリア・エクリジアスティカ(「教会史」)で言及していたものの、世に知られていなかった幻の書物が遂にその姿を現した。

「十二使徒たちの教え」([Διδαχὴ τῶν δώδεκα ἀποστόλων]*)と題するそれは、非常に古い由来を持つもので、第一世紀から第二世紀初めにかけてのキリスト教第二世代(使徒教父期)のものと識者らに考えられている。*(Act2:42)

キリスト教第一世代の終わりといえば、イエスの弟ヤコヴ、使徒ペテロとパウロが西暦六十年代に相次いで殉教に消え、キリストの同世代が大きな区切りを経験した西暦七十年までと見るなら、第二世代をそれ以後の四十年ほどの間と見做すことに妥当性もあろう。新約聖書は未だ全体が綴じられておらず、使徒ヨハネの著作が残されつつある時期ではなかったろうか。

ディダケーの写本については、次いで1900年にヨーゼフ・シューリヒト博士によってラテン語版の一部が発見されるに及び、これが西方教会にも伝播していたことも確定的となった。しかし、その内容に幾分かの相違あり、ギリシア語原文にも幾つかの異文があったと想定されている。

アレクサンドレイアのクレメンスが、これを聖書の一部として言及しているところから、ハルナックのような学者は、この書の成立を165年以前と観るが、エルサレム陥落の情報がなく、その終末観がテサロニケ第二書に近似し、しかも文章が平易明快であることから、これを西暦70年以前の初代と看做す識者もある。

だが結局のところ、これを何処で誰が、正確に何時書かれたかは分からず、今のところそれを知ることはまず無理のようである。しかし、後代のものと異なるその非哲学的内容からは、新約聖書の編纂される以前の弟子らへの必要を満たすための簡潔な情報源と思われ、且つ、福音書のイエスの言葉、また、使徒たちの手紙にあるような訓示の言葉がそこに在る。

書中、今日的キリスト教と異なって聖餐と愛餐が分けられて記述されところからも、明らかに原始キリスト教のものであり、当時の教理の姿も垣間見ることができるものであるが、そこでは当時のエクレシアの指針が述べられ、使徒の教えが反芻されているので、初期の人々の息吹を今日の我々に感じさせるほどのものである。
この書名「ディダケー トーン ドーデカ アポストローン」を約めて、単に「ディダケー」と呼ばれるので、以下この名称で述べたい。

このディダケーでは、まず、『神と人を愛すること』から説かれ始めるが、これはまさに「愛の掟」を中心に据える使徒らの声を彷彿とさせる。それからこの中心的教訓の適用としてイエスの垂訓を回想しつつ幾つかに触れている。

また、エクレシアの秩序を守るために必要な教訓が簡潔に述べられるが、それは教条の多岐にわたる律法のようでも、まして膨大量の規則集であるタルムードのようなものではない。むしろ、このディダケーそのものも大変短く、「信徒便覧(ハンドブック)」のようなものでしかない。おそらくは、新約聖書成立以前の人々の必要を満たすべく、初代に近い時期の誰かが編纂したとも言われている。


◆「主の晩餐」への記述

そして注目すべきはディダケーの「主の晩餐」(別称「感謝」〈エウカリスティア〉)[Περὶ δὲ τῆς εὐχαριστίας]に関する記述であり、そこには第二世紀までのキリスト教徒の行う聖餐の次第が記されている。
第十章の第三節以降は以下のように書かれている。

『3 「全能の神よ。あなたはあなたの名のゆえに万物をお造りになられました。また人々があなたに感謝を捧げるように、彼らの飲食のために食物と飲み物とをお与えになられました。

他方、わたしたちには、霊的な食物と飲み物と永遠の命とを、あなたの僕イエスを通して賜りました。


4 あらゆること先立って、わたしたちはあなたが力強い方であられることを感謝します。あなたに栄光が永遠にありますように。


5 主よ、あなたのエクレシアを覚え、それをすべての悪から解放し、あなたの愛によって完全なものとしてください。また聖なるものとして、四方からあなたが準備されたあなたの王国へと導き集めてください。威力と栄光とは永遠にあなたに属するからです。


6 恵みが到来しますように。この世が過ぎ去りますように。ダヴィデの神にホザンナ。

聖なる者は来るように、そうでない者は悔い改めなさい。マラナスァ。アーメン。」


7 預言者の欲するだけ感謝を捧げるように』
                                                 


これが聖書に匹敵するなどと云うのではない。
しかし、初代キリスト教徒の教えの中心がどこに在ったかについて証しされている。つまり、「神の王国」が聖餐に預る聖なる者らによって構成されること、また彼らが各地に散っているが、「四方の風」によって〈マタイ24:31〉(アブラハムの裔として)集められること、また、終末待望は「千年期説」との関連を要請している。

神はその「名のゆえに」万物を創造されたというヘブライ古来の要点を記し、またイエスを神の「僕」と呼んでおり、これは使徒ペテロの用いた語法*であって、かつて旧約では、ダヴィデ王について『わたしの僕』として多用された呼称であり、イエスとダヴィデの王権の司る姿を重ねるものである。そこには、後の第四世紀にやっと現れる「三位一体」の影も形も無いことはもちろんである。*(使徒3:13/4:27.30)

今日的キリスト教の「主日の聖体拝領」と、このディダケーが示すものの間に大きな乖離があることは広く認められているのだが、こうしてタイムカプセルが1700年の間のキリスト教に起こったあらゆる事象を一気に飛び越え、近代に出現したことに衝撃を受けた人々も少なくは無いであろう。『この世が過ぎ去りますように』との文言などは、使徒ヨハネの文書を彷彿とさせ、キリスト教が皇帝の宗教とされ、世の宗教となったニケアー以降ではとても許されるようなものではない。これが宗教の圧制が強い中世期であれば、オリゲネスのような初期教父の著作のように異端宣告を受け焚書に葬られていたのではあるまいか。

しかも、この文面にも聖霊の賜物のひとつであり、分けても重んじられるべき『預言者』が依然として存在しており(10:7)、聖霊降下が継続していたこともはっきりと語られている。(11:7) それは識者らがこの書の由来を第一世紀後半から第二世紀頃と認識していることにも符合する。おそらく、この当時のエクレシアは依然「聖徒」が大半を占めていたのであろう。(使徒21:9-10)


◆これが意味するもの

さて、今日のキリスト教界の趨勢となっているカルケドン派、またギリシア=ローマ型のキリスト教の「主の晩餐」の捉え方は、上記の近世に突然に現れた初期文書の伝えるところとは随分と違うところに在るので、おそらくは以上の文面の意義の大きさを教会員が悟るに難しいとしても不思議はないし、何か異物を見る想いであろう。しかし、それはキリスト教徒個人の責に帰せられるものでもない。

なぜなら、ディダケーが書かれて後、おそらくは百数十年を経る頃にキリスト教界の様相は一変し、ヘブライ的な原始キリスト教から変質し、ヘレニズム的な異教の混じったものが伝承されてきており、それが中世欧州を介しそのまま今日まで「キリスト教」と称されて広まったからである。


原始のキリスト教界を一変させた原因は、まず「聖霊の賜物」の喪失というべきであろう。
例えれば、上記ディダケーのように聖霊によって教えを与える『預言者』のような人々の存在を、今日のキリスト教界は正しく見てはいない。つまりパウロがコリント人への書簡で明らかにしているような、憑依状態にならずに本人の制御できる奇跡の賜物を持つ人々である。(コリント第一14:26-33)

パウロはコリントの人々が「聖霊の賜物」に富み、あらゆる種類の聖霊の働きがその地のエクレシアにあることを褒めている。
また、パウロ自身の賜物はたいへんなもので、彼はエフェソスで奇跡の業をこれ以上ないほどに見せたと、医師でもあるルカが直に見聞した事柄を使徒言行録に記している。これは聖徒らがキリストから業を託されたこと、またパレスチナから世界へと「神の業」の活動の場が広げられたことを意味する。(コリント第一1:7/使徒19:11/ヨハネ15:26-27.14:12)

また、聖霊は知識を与え、当時のエクレシアを真理へと導き、エクレシアの聖徒たちを介して神聖な知識が伝えられていたので、教理を統括する地上の中央無くとも、キリスト教徒の一致が保たれ得たのである。

それがため、パウロは自分と異なる考え方をしている者がいても『神が啓示してくださるだろう』と泰然と構えることができたのであり、彼が戦うべき誤謬といえば、聖霊を注がれず、新たなキリストの教えから遠く取り残されてしまったユダヤ主義者の嫉妬であった。(ヨハネ16:13/フィリピ3:15/ヘブライ2:4)

聖霊による神からの知識はまことに貴重なもので、パウロは聖霊によるこの知識の伝授について『それは今や、天上にある諸々の支配や権威までがエクレシアを通して、神の多種多様な知恵を知るに至るのであって、わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的に沿うものである。』と記してその価値の大きさの程を知らしめる一方、ペテロも預言への聖霊の啓示について『天使たちもそれを知ろうとして覗き込む』と述べている。(エフェソス3:10/ペテロ第一1:12)

上記ディダケーの引用の最後にある『預言者の欲するだけ感謝を捧げるように』という句には、聖霊によって語る聖なる者の感謝の言葉を妨げることなく、聖霊の語らせるままにすべてを話させるための指示とみるのが自然であろう。聖なる者らには仮のものであったとはいえ贖罪が既に行われていたのであり、聖霊の賜物はその証しであった以上、彼らには多くの感謝の理由があったに違いない。

それは、パウロがコリントのエクレシアに対して、皆が一斉に聖霊で語るのでは混乱して学ぶことができないからと、異言ばかりでなく『預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを味わうように』としたことを思い起こさせる。(コリント第一14:26-32)
即ち、聖霊によるキリストの監臨の続いていた時代に見られたエクレシアの姿がディダケーにも映し出されているのである。


従って、「聖霊時代」のキリスト教とそれ以後、即ちキリストが王権を得る旅に出立した後に、預言者たちのような聖霊の賜物をもつ人々がいなくなって以降のキリスト教とでは非常に大きな違いがあって当然と言える。(ルカ19:11-12)

聖霊の賜物の去ったキリスト教界は、その結果として「主の晩餐」の理解を変えていったとしても然程の不思議はない。殊に、賜物が失われたということを直視しないことによって、既に「無い」聖霊を「有る」ことにするのであれば、そこで本来のものから逸脱の起こらないわけがない。


◆パウロの述べたミュステーリオン

これは即ち英語のミステリーの語源であるが、ギリシア語では「隠されたもの」の意である。
パウロがこのギリシア語を用いている例としてエフェソス第一章を見ると

『神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、御旨の奥義(ミュステーリオン)を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。

 それは、時の満ちるに及んで実現される(全体)管理である。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとくキリストにあって一つに帰せしめようとされているのである。

 わたしたちは、御旨の欲するままにあらゆる事をなさる方の目的(経綸)の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。

 それは、キリストに望みをおく最初のものであるわたしたちが、神の栄光を讃える者となる為である。
 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。

 この聖霊が、わたしたちが遺産を継ぐことの約束手形であって、やがて神の所有となる者が全く贖われ、神の栄光を讃えるに至るためである。』
(エフェソス1:8-14)

ここでの『奥義』とされる教義には、聖霊を受けた者たちについての内容が関わっている。
彼らが聖霊を通して知った事とは、聖霊を受ける彼らが『遺産を継ぐ』即ち、アブラハムの遺産である『神の王国』をキリストと共に相続することであり、その約束手形として『聖霊の証印を押された』と明かしている。

それはエデンの園で神が予告された『女の裔』に属するひとりとなることであり、その目的はサタンとその悪影響とを亡きものとし、神を高め讃え至高の座に就くことを求めることである。(創世記3:15)
それはまた、アブラハムに約束された『あなたの裔によって地上のあらゆる家族が自らを祝福する』という遺産であり(同22:18)

また、モーセの律法契約で、もし契約を守るならアブラハムの嫡流イスラエルが『聖なる国民、祭司の王国』となることを示されたこと(出埃19:5-6)

この「裔」がキリスト後に更に進んで実体を現したので、使徒ペテロは聖なる者らで成る当時のエクレシアの人々を指して
『あなたがたは選ばれた民、祭司の王国、聖なる国民、神の特別な所有に帰する民』と呼んだのである。(ペテロ第一2:9)

この人類を祝福するというこの格別の「選民」に召されるには、メシアがイエスであることへの信仰を必要としたが、ユダヤはそれを十分には示さず、その数を満たさなかったので、この『聖なる国民』には異邦人からも補充のために選ばれるに及んだ。

そこではアブラハムの実際の「血統」ではなく、アブラハムのような「信仰」を示す人々で構成される『神のイスラエル』と呼ばれる真の選民と補充された異邦人を『接木した』混成の民が出現したのである。

しかし、どの国民であれ、選ばれた人々を印付けたのが『約束の聖霊』であった。そこでパウロはユダヤと異国の聖なる者を『ふたつの民』と呼んでいる。(エフェソス2:14)

それはエデンの園に始まり、爾来悠久の時を経て、遂にキリストの弟子らの上に聖霊の賜物を介して成就し、遂にエデンで語られた『女の裔』が、キリストの犠牲に基づいて現実に姿を現し始めたのである。

その聖なる人々の働きは神の卓越性を賛美し、それを宣告することにあり、それこそは神の聖霊を通した世界宣教の業となる。
この聖霊による宣告を通して世界は裁かれ、信仰懐く人々の一半は遂に「自らを祝福」し「罪」を許され「救い」に至ることになるのである。(マタイ10:18/ヨハネ3:36)

『神の王国』を構成する聖霊を受ける『聖なる者』は、人類救済を司るために、天界の「祭司」と成るべく人類に先立って贖罪され、大祭司キリストと同じ霊の様、同じ栄光を得ることを目指し『新しい契約』に参与して、忠節の内に聖さを全うするよう努める責を負う。(ローマ8:29/コリント第一15:50-53)

人類救済を目的とする悠久の時に亘る神の意志に基づく計画、パウロはこれを指してこそ『奥義』(ミュステーリオン)と呼んだのである。
それは『目も見ず、耳も聞かず、人の心に上ることもない』ものであり、聖霊がこれを教えるのであるが、その聖霊は『世が受けることのなく、知ることもない』ものであると聖書は語る。(コリント第一2:9/ヨハネ14:17)

イエスはその教えを大衆に向かっては譬えで語らずにはいなかったのも、まさしくその内容がミュステーリオンであったからに他ならない。(マタイ13:11-15.34-35) 俗な関心を専らに抱く人々にこのことは理解できず、そうしようとも思わないであろう。(コリント第一2:14)


◆「主の晩餐」はミュステ-リオンに非ず


パウロが言うように、『奥義』とは神の「経綸」(或いは「目的」プロスェシス)に対する理解であって、それは『聖徒』の『神の王国』への集め出しに関わるものである。ディダケーには、この認識が表れており、これが書かれたとされるキリスト教第二世代には依然ミュステーリオンが「神の目的」である事が知られていたであろう。

しかし、その同じギリシア語「ミュステーリオン」が、やがてキリスト教徒の間でさえ諸国民が語るままの異教儀式の『密議』の意に入れ替わり、「主の晩餐」のエレメントに与る人をキリストに結びつける「秘跡」(ミュステーリオン)ということにしてしまったのは、「原始キリスト教」ではなく、迷信的「原始的宗教」の精霊崇拝への堕落という他ない。

今日「ミサ」と呼ばれる儀式(東方の「聖体礼儀」)、その中心を成す「聖体拝受」の原型が「主の晩餐」のパンではあったが、これを第四世紀の政治家から俄か仕立てに司教となった人物、アンブロジウスがミュステーリオンと思い込み、ネメシェギも指摘するようにラテン語の「ミステリウム」はもちろんのこと「サクラメントゥム」(聖なる秘跡)とも区別せずに置き換えていた。(「秘跡論」1/同9)

司式者が「これは私の体である」と言った瞬間に聖体のパンはまさしくキリストの肉になり、司式者が「これは私の血である」と言った瞬間から、それは本当にイエスの血に変化し、その都度キリストの血が流されるというのである*。この教えはもちろん聖書の根本的理解を逸脱したヘレニズム的古代の蒙昧である。(ヘブライ10:11-14)
*(トレント以後の「カトリック」は毎回の流血を否定している)

アンブロジウスは、これを「秘跡」でありミュステーリオンであると称するばかりか、『それがどれほど偉大なサクラメントゥムであるかを悟りなさい』とまで命じている。(「秘跡についての講話」第四講話:6)
しかし、それが引き続き変わらずパンとぶどう酒のように「見える」のは、それを食し飲む人々が気持ち悪く思わないための恩恵のようにも云うのである。(「秘跡についての講話」第四講話:4)

これにどうしてアーメンと言えようか。ならば、キリストが最期を遂げるその前の夜に、磔される前にその血が既に流されたと云うのか?犠牲になる前のイエスの体をそこに見ていながら弟子らがキリストの肉を食らったのか?いや、やはりパンと葡萄酒は表象である。
そのひどい思い込みは「やはりパンも葡萄酒もそのままだ」と言って子供が正しく指摘するような「裸の王様」さながらではないか。儀式は儀式であって、エレメントは表象であり、けっして実体に成ろう筈も理由も無い。これらは「ミュステーリオン」を理解できないことへの代替物、呪術の産物と云うべきだろう。

この「教え」が「聖体拝受」の「秘跡」(サクラメントゥム)とされてキリスト教会に伝承され、今日まで東方もカトリックもプロテスタントまでもが、つまり大半のキリスト教会がそのように「聖体変化」と称する古代異教如き「秘跡」を教えられ続け、宗教改革期を、また近代以降の科学時代をさせ潜り抜け、人間理性をここまで侮り、見事に欺いてきたのはまったく驚くべきことではないだろうか。

そこでは秘跡を通して、与る者にはキリストと合一させ、罪が許されて救われるというのだが、これが『奥義の家令』パウロの意図した「ミュステーリオン」であると教えられ信じ込むのがキリスト教信仰とされてきたのである。

もちろん、儀式や表象物がその人を救うわけでも聖たらせるわけでもないのだが、それらが人に何かを与えると教えるところでは、あの真なる「ミュステーリオン」即ち、聖書全巻を貫流し、人の思いを遥かに超える全人類救済の「神の目的」たる「聖なる者」も「神の王国」も無視され、キリスト教でなくても良いような、個人にとっての「ありがたい宗教」とされ、本来「ミュステーリオン」が持っていた力強さは見る影もなく削がれてしまった。

これはヘレニズム異教神秘主義の秘密儀式と混同されたというよりほかなく、これはもうヘレニズムの素材で造られたギリシア=ローマの別宗教であって、キリストの直弟子らのものとは異質なものである。

第二世紀のディダケーから第四世紀のアンブロジウスを眺めると、そこには進歩ではなく、明らかな後退が見られるではないか。この時代にキリスト教はエントロピーともいうべき秩序解体が進み、高度な教理からアニミズム的迷信に下っているのであり、その原因は聖霊時代から急速に遠ざかっていたことであろう。


やがてキリスト教は、「イエスさまを自分にお迎えする」という個人を益するご利益崇拝と堕した。「聖体拝受」や「聖体礼儀」がどれほど荘厳に行われようと今日「スピリチャル」と呼ばれる類いの軽宗教と変わりなく、好奇心を刺激し個人に役立つ占いのような低い価値レベル、また絶対者との合一を唱えるところは交霊術的であって、本来のキリスト教とは程遠いものと言わざるを得ない。

他方、パウロの語った意味での「ミュステーリオン」とは『奥義』であって、実体は「理解されるべき教理」ということである。それは「隠されたもの」であるがゆえにも、これまで世に対してばかりでなく、キリスト教界に対してさえも隠されてきたようだ。原因は聖霊が無いからであり、真剣な探求が人類救済の「大志」無き人々の政治的意図によって踏み躙られてもきたのであろう。

さて「主の晩餐」のふたつの表象物の意味は
即ち無酵母のパンは、キリストの罪なき体を分け合うものとなって天界で共になるべく、キリストと同じく霊の体に新たに生まれることを表象し、葡萄酒は、キリストの流された血によって発効する『新しい契約』に与り、古代律法の祭司職のように、大祭司キリストによって人類に先立った仮の贖罪を受け、また、キリストの血を通して相続財産である『神の王国』を選ばれた聖なる者らが受け継ぐことを表すものである。
(Rev16/Joh3:5-6/Tit3:5-6/1Cor10:16/Rom5:9/Eph2:13)

これらの表象された事柄についてイエスが群衆に向かって『わたしの肉を食し、血を飲む』ことを語ったときに、十二使徒を残して群衆はみな理解せずに去っていったことからすると、その理解そのものが『奥義』であったと言い得る。
しかし、この表象や儀式そのものが『奥義』ではけっしてない。(コリント第一2:10)

その表象や儀式が彼らにその立場をもたらすのではなく、聖霊が証印を与えているのであり、「主の晩餐」はそれを年に一度、主の死を記念しつつ、それをふれ告げ、聖なる者らがその類い稀な立場を再確認する意義があった。(コリント第一11:23-26)

彼らがイエスの死に想いを馳せることは、契約による聖霊を介しての神や主との絆の価値の高さを再認識し、自分たちに与えられた主と同様の自己犠牲の使命について決意を新たにするものとなったことであろう。

したがって、その場で表象物に与った者が聖霊を受けた者とされるのではなくて、『証印』たる聖霊を受けている者がキリストの表象物に与るのである。その人は既に賜物によって自他共に『聖なる者』として知られているのでなければ偽物と見分けもできない。(ローマ8:9-10/8:1-2)

「主の晩餐」のエレメントに与る者は、本来『神の王国』という人類祝福の礎となる高尚な目的を理解し、キリストと同じく、その体を捧げ、主の血によって人々に先立って贖罪される「新しい契約」に参与して、その犠牲の精神をも共にする覚悟が要るのである。(マタイ10:28/ヨハネ15:20)

イエスが広く大衆に講話しつつも譬えを以ってこれを秘め、パウロが家令を務めつつエクレシアに明かした『奥義』ミュステーリオンの実体である神の目的に込められたもの、即ち人類救済の神の悠久の意志という畏怖すべきまでの内実の素晴らしさに、今日でもある人々は心動かされるであろう。(エフェソス3:1-4)

「秘跡」「復活の祝い」「赦しと救い」など様々に誤解されてきた「主の晩餐」であるが、キリスト教の神髄に適った「主の死の宣布」と「聖霊と聖徒待望」の仕方で挙行することは、今日の聖霊を持たない我々にもできることである。
もちろん、エレメントに与る者は居ないが、その本来の姿、原始キリスト教が持っていたその理解を目指し、ディダケーにあるような仕方を尊重して、この21世紀にこれを甦らせることは現に可能なのである。そこではパウロが述べていたように、聖霊の再降下と聖なる者の現れを願うという意義が残されている。(ローマ8:19)


筆者はここ数年、小アジア原始キリスト教の古式に則り、年に一度の「主の晩餐」を行ってきた。また、遠隔地のこの信仰と神の意志に従おうとの大志ある方々にも無酵母パンとぶどう酒を用いた「パスカ」を同日の同時刻に行われることをお勧めしてきた次第である。

そして本年は四月十四日の日没後がその機会となった。

各地で「主の晩餐」を行われた方々からのお知らせをお待ちしている。
人数は一向少ないが、これも大多数の人々には「譬え」や「奥義」で終わるということだろうか?
筆者は東京で行い二名の出席であった
埼玉県内でも二名あり
富山県内で一名
海外で一件の知らせあり

他にも行われた方があれば、お知らせを頂ければ、こちらで把握できた分だけでも公表したく思う。
それは、僅かといえ価値を見出し万難を排して式を行った少数者を励ますものとなろう。


 quartodecimani(a)hotmail.co.jp   (a)を@に入れ替え 林 義平 宛てまで


(「主の晩餐」の基本的理解についてはこちらを

(「ディダケー」については一例として「使徒教父文書」荒井献 編 佐竹明 訳で講談社学術文庫にも含まれている。但し、この文庫本に含まれる他の教父文書に同様の価値があるというわけではない) ⇒ ディダケーについてのメモ

なお、2015年のパスカはユダヤ人の習慣から考慮して4月5日(日)の夜を予定している。

© 林 義平






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ポリュカルポスとアニケトゥスのパスカ論議



西暦第二世紀、小アジアのキリスト教は「活況を呈していた」とJ.ダニエルーもその著書で紹介している*。
小アジアのその活況とは、エルサレムの瓦解から逃れ、主の母と共にエフェソスに移った使徒ヨハネ、またヒエラポリスに家族と共に住んだ使徒フィリポの薫陶あってのことに違いない。

エルサレムのエクレシアの流れを汲むこのキリスト教は、パウロの推し進めた異邦人型の教えからは遅れを取っていたが、晩年のヨハネに臨んだ聖霊の啓示は、この地域を一気にキリスト教の最先端に押し上げ、新約聖書の完成へと向かわせた。

使徒ヨハネ没後、殉教者として有名なスミュルナのポリュカルポスやヒエラポリスのパピアスは、この最後の使徒を直に知っていたといわれる。


そのポリュカルポスが殉教する幾らか以前(AD150年代)に、彼がローマを訪れた際、ローマのエピスコポス(教皇制はずっと後のことであった)のアニケトゥスは敬愛を以ってこれを迎え入れた。

このときにアニケトゥスはポリュカルポスに小アジアの伝統であるニサン14日の「主の晩餐」(パスカ)を止めさせ、翌日曜に復活に関連して行うように説得を試みた。これは未だニケアー会議の75年も前のことであり、帝国の法によりパスカが復活祭に変じる以前で、キリスト教界には「主の晩餐」を多様に行っていたのであった。

ポリュカルポスにしてみれば、十四日遵守は直接に知る使徒ヨハネたちからの伝統であり、これを変更することなど考えもつかないことであった。主の晩餐はユダヤの過越しの中で開始されたことであり、それは無酵母パンを用いるところに表れているだけでなく、主イエスは過越しと無酵母パンの祭りに関わる中で、死と復活を遂げられているのである。

この時期の小アジアのキリスト教は、千年紀説でも特徴を備えており、それはヨハネ黙示録を戴く七つのエクレシアを擁する小アジアの誇りでもあったことであろう。

千年王国が実際に地上にその支配をもたらす期待は、第四世紀にアウグスティヌスによって揉み消される以前には、小アジア出身の卓越したルグドゥヌム(現リヨン)の教父にして、第二世紀に使徒伝承を擁護して活躍したエイレナイオスによって伝承されていたことは今日も揺るぎないことである。

それに対して周囲のキリスト教は、使徒ヨハネにより、小アジアに発現していた最後の聖霊の栄光を受け入れることに困難を感じていた。
シリアはそのペシタ訳から黙示録を除外し六世紀にまで及び、アレクサンドレイアでもディオニュシオスらが正典に黙示録を含めることを認めていない。

第二世紀にはユダヤ発のグノーシス主義が盛隆を見ており、このユダヤ神秘主義に黙示録が転用されることを嫌ったともされている。しかし、却って黙示録を有した小アジアこそは、逆にこのグノーシスの影響を跳ね返したほとんど唯一の地域であったといわれているのである。

使徒ヨハネの『イエスが肉体で来られたことを告白しない者たち・・には挨拶の言葉さえかけてはならない』という訓戒が功を奏したのであろう。(ヨハネ第二7-10)
キリストの最後の晩にその懐にあったこの最年少の使徒にとって、イエスが肉体でこの世に来なかったなどという仮現説の教えを容認する隙など微塵もなかったことであろう。それゆえ、この時代の小アジアが使徒ヨハネの教えの下にあった蓋然性はいよいよ高まるのである。

その浄められた晩のキリストの発言は、ヨハネ福音書の五つもの章を占めており、ヨハネの老境に至ってなお、その若き日に聴いたそれらの言葉のひとつひとつに思いを究めていた姿が彷彿とされるほどである。
それらの言葉には、イエスの聖徒らに対する慈愛と教えに満ちており、更に将来についても告げている。

イエスは三年半の公生涯を終えるに当たり、特に十二使徒らと最後に過ごす時を『心待ちにしていた』という。
それはイエスの地上における最後の晩餐であり、彼らとの惜別の数時間であった。
およそ千五百年を遡る前に、イスラエルがエジプトで最後の晩餐を行ったその同じ夜、キリストは新たな食事儀礼を創始する。

即ち、一枚の無酵母パンと一杯のぶどう酒による儀礼であり、キリストの記念として行い続けるようにと使徒たちに申し付けた。
そして彼らは一枚のパンから食し、一杯のぶどう酒を飲み合うのであった。

彼らは、キリストの罪の無い体を表す無酵母のパンに与ることによって、キリストと体を共にして天界の永生に入ることを、ぶどう酒を飲むことは使徒らが『新しい契約』に参入するための、仲介者の『契約の血』の注ぎを意味した。
これらのふたつの事柄が彼らの上に成就する日まで、キリストは『この葡萄の木の産物を口にしない』と言われた。それは天界に彼らが揃う時、即ちキリストの帰還の後のこととなる。


その陰暦の同日、日が昇って後には『神の子羊』として屠られるという、その前の夜の時間を用いて、イエスは彼らに聖霊を送ることを約束する。それは『真理の霊であって、世が受けることのできない』格別のものであるという。

復活したキリストが天に去ってから十日後、あの五旬節の日の朝にそれは到来する。
(使徒2章/ヨエル2章)
聖霊の降下は即ち、キリストの犠牲の適用によって初めて贖われ『有罪宣告のない』人々の『水と霊からの誕生』となった。

聖霊を下賜された彼らは、アダムの命に生きる間から「罪」を贖われているゆえにも『聖なる者』また『聖徒』(ハギオス)と呼ばれたのである。

それはいにしえアブラハムに語られた『すべての家族が自らを祝福する』という真の「アブラハムの裔」の登場であり、遂に象徴的サラは、人類を救う奇跡の子らを生み出し始めたのである。

それはモーセを通して約束された『祭司の王国、聖なる国民』の最初の人々であり、彼らには『契約の箱』に相当する契約の証し「聖霊の賜物」が下賜されていた。血統にはよらず、キリストへの信仰によって、この人々がアブラハムの遺産を相続することになったのである。

これらの事柄が実現するための礎となったのが、キリスト・イエスの死であり、この忠節な死なくしては人類救済の民を導き出すという神の経綸は進まなかったのであり、『すべての預言に証印を押す』『アーメンなる方』、また創造神の座を至上のものに高めるのは、この死よりほかなく、この死によってサタンに組する者すべての反論はまったく封じられたゆえに、この崇高なる死こそが『世の征服』を成し遂げたといえるのである。(ヘブライ2:14)

これほどに記念されるべきことが他にあるだろうか。
使徒パウロは、この儀礼「主の晩餐」が『主の死を宣明すること』であるとはっきりと記している。(コリント第一11:26)

それを復活の慶事に置き換えたのは、事情に疎い異邦人に他ならず、そのユダヤ嫌いが手伝って、的外れにも目出度い復活祝いの祭りに模様替えしたのであった。これがローマ帝国の権威によって世に普遍化して今日に及んでいる。

あまつさえ、これらギリシア=ローマ型キリスト教界では信者がみなパンとぶどう酒に与るものとされてしまったので、アルコールの提供に問題のある子供や中毒者を憚り、ぶどう酒はジュースに変更され、カトリックではパンだけの一種陪餐にまで貶められた。

これらの原因は、『約束の聖霊』とそれを受けた人々である『聖なる者』に関する神の御旨が忘れ去られたところにある。その御意志は数千年に亘る神の歩みに表されており、「エデン」以来の聖書を貫通する主題を成している。⇒聖霊

小アジアはヘブライの知識に無遠慮な異邦人型キリスト教に周囲をかこまれてはいたが、確固としてニサン十四日の「主の晩餐」(パスカ)を守り続けた。それは最後の使徒ヨハネからの伝統であり、黙示録同様、けっして違えることのできないものであった。
彼らは「十四日派」と呼ばれたが、やがて周囲の世俗化の波の呑まれ、中世期のどこかで姿を消してしまった。


さて、通年のように新十四日派と銘打って2013年も「主の晩餐」を挙行したが、これは久しく絶えた十四日派の回復の試みである。

今日、「約束の聖霊」も「聖霊の賜物」も天から下賜されていない『臨御』(パルーシア)以前の状況であるので、パンとぶどう酒という表象物(エレメント)に与る人はいないが、使徒パウロの書いたように『切なる願いを抱いて神の子らが顕し示されることを待ち望んでいる』ことを示すことができる。(ローマ8:19)

『神の子ら』とは、初代に同じく聖霊によって生み出される者であり、そこに「聖霊の賜物」が『身分の証し』として伴う人々、「聖なる者たち」(ハギオイ[ οἱ ἅγιοι ])のことである。(エフェソス1:13/ローマ8:16-17/コロサイ1:12)

もし、真にエレメントに与るべき聖霊を持つ人々が現れるとすれば、キリストの『臨御』が始まった証しとなり、世界は「終末」に入ったことを意味する。

彼ら聖徒はキリストの『兄弟』たちであり、主と同じ歩みを遂げて共に神殿を構成する『石』となる。彼らを巡って人類は終末の裁きに試されるという。(マタイ25:31~)

この行事(パスカ)は、このようにキリストと聖徒たちとの関係に濃密に由来するものであるが
パスカの挙行日については、第二世紀エフェソスのポリュクラテスの言葉に従い、パスカの日付けを天文によらずユダヤ人に寄り添うものとしたい。従って、ユダヤ人がブディカット・ハメツ(ペサハ準備の日)を行う現行ユダヤ暦のニサン14陰暦日に相当する、2013年3月24日の日曜日の午後六時を以って集まり、この儀礼を挙行した。

本年より、ディダケーの中に残り、さらに古いとされるパスカに関わる文言とされる句をエレメントの整えの後に唱えたが、これは内容にも次第にもしっくりと調和しているように感ぜられるものであった。いや、エレメントに密接に関わる必要な言葉とさえ思えるので、今後も継続的に用いるべきものと判断できた。

東京では文京区で挙行され、上記意義に賛同なさるのであれば宗教・立場を問わず、どなたでも参加できるものとしたところ、ふたつのプロテスタント教会からおひとりずつの参加を頂いた。
全国では、こちらに連絡いただいた範囲で、東京で三名、埼玉で二名、富山で二名ということになる。
七名という僅かな人数ではあるが、昨年までと比べればこれでも驚かされるほどである。
もし、他にも行われた方がお在りなら、ご連絡賜れれば幸いである。

2015年度は4月5日(日)を予定している。

引き続き来年も、遠隔地の方は各地でこの儀礼を行うことをお勧めしたい。
細かい式次第は残されておらず、無酵母パンとぶどう酒を用意できるなら執り行うことができる。

日没を待ち、パンとぶどう酒を置き、「聖霊の賜物」が無いなら、誰もこれに与らないが
祈りのうちに観想の時を過ごす。
この目的は、主の死を記念するところにあり、聖霊を受ける人々とキリストの帰還を願い待つ姿勢を表すものともなる。
更には、ヨハネ福音書13-17章に思いを馳せることは適切と思われる。

                                            © 林 義平

無酵母パンの製法についてはこちらを
 http://irenaeus.blog.fc2.com/blog-date-201203.html

イスラエルからの輸入品も活用できる(↓ミルトス社HPへ)
 http://myrtos.shop-pro.jp/?pid=12809559


パスカ参考資料
 http://blog.livedoor.jp/quartodecimani/archives/51868461.html



* 脚注 ジャン・ダニエルー Jean Danielou  「キリスト教史Ⅰ」p107 上智大学中世思想研究会 平凡社















主の記念式

諸国民の光「オール ラゴイーム」とオリーヴの接木

<難易度 ☆☆☆☆ 中>




「斯くして全イスラエルが救われる」(ローマ11:26)
このようにパウロが語ったときイスラエルは確かに危機にあった。
それは捕囚をもたらした罪科の時代に匹敵する、いやそれ以上の危機である。

そのイスラエルとは、血統上のイスラエル民族、アブラハムの嫡流を指している。
では、彼らが「救われる」べきどんな危機が臨んでいたのか?


まさに重大な危機であった。
イスラエル民族に神から約束されていたメシア到来に接して、彼らの思考力は衰え、なんと彼らは頭が頑なになってあの父祖の代から待望されたメシアを拒絶したというのである。


この件には、イスラエル人が自分たちの使命と認めてきた「諸国民の光」となるべきことの危機、そしてこの情況でパウロの語った「オリーヴの接木の例え」が関わっている。

もし、人類が「諸国民の光」を失うことになれば、イスラエルに留まらずあらゆる人々に神からの恩恵も救いも無い。

そのためにも、まずイスラエルが「諸国民の光」となることは人類の救いに関わる重大事であった。いや、と言うよりは「諸国民の光」となる事は現在も完結してはいない。
今日のイスラエル人ユダヤ教徒に彼らの使命は何かと問えば、「『諸国民の光』(オール ラゴイーム)に成る事だ」と答えだろう。

この『光となる』という民族の使命はいったい何を指しているのだろうか?
ではまず、この民が「諸国民の光」となるべき理由はどこから来るのかを観てゆこう。


この言葉は、イザヤ書に数箇所存在しているが、イスラエル人が使命と感じる理由を端的に語るのは49章にある。
まず、神は彼ら民族に向かって語る。『イスラエルよ、あなたはわたしの僕である。あなたによってわたしの美しさが現れされることになる』。

神からこう語られる民族の誉れは想像に難くない。

それから『あなたがわたしの僕となって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルの抑留者たちを帰り戻すことは容易なことであった。
更にわたしはあなたを諸国民の光とし地の果てにまで我が救いをもたらす者とする』とも神は宣う。

つまり、神はイスラエル民族を用いて人類に益をもたらすというのである。
それは遥かな創世記の昔、アブラハムへの約束にも含まれていた。
『わたしは、あなたから大いなる国民を作り、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。・・・地のあらゆる部族はあなたによって必ず自らを祝福するであろう』。(創世記12)

アブラハムの裔であるイスラエルは「地上のすべての家族」の益をもたらす器であり、彼らにこそ『様々な契約と律法の授与と神聖な祭祀と多くの約束』を神は与えたのである。(ローマ9:4)

それでキリスト・イエスが、自分を信じたユダヤ人らに向かって『あなたがたは世の光』と山上の垂訓に語った背景はここにある。しかし、異邦人に対してはけっしてそうは言わなかったであろう。(マタイ5:14)

だが、そのイスラエルもこの優れた立場を二度失う危機に面した。
一度目は、イザヤ書が預言したバビロン捕囚であり、二度目はメシア、すなわちナザレ人イエスの拒絶であった。⇒ イエスの終末預言

その二回ともイスラエルは神殿を失い、彼らの神への祭祀は不可能となったが、一度目は百年を待たずに再開したものの、二度目の神殿の喪失ではイスラエル民族による祭祀の中断は今日まで二千年に及ぶことになった。

特に、二度目の神殿喪失の原因は、貴重な神の「独り子」メシアを拒絶することに於いて決定的であったことを福音書が明かしている。(ルカ19:41-44)
イエスが現れ数々の奇蹟を行い、聖霊をもって「神のみ力」を示したにも関わらず、イスラエルの大半はこれを信じず、指導者らはメシアに躓いて、却ってローマ総督に処刑させたのである。

『律法はキリストに導く養育係』であるなら、これは永く続いた律法契約の目的からまったく逸れた大失敗である。その原因は『神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまった』ことにあった。即ち、不信仰である。(ヨハネ第一5:10)

では、イスラエルによる諸国民への光が輝くことはなくなったのだろうか?
全能の神(エル シャッダイ)を称えるイスラエルの神YHWHにとって『手が短い』ということはない。(民数11:23)

血統上のイスラエルの僅かではあってもイエスに信仰を持った『残りの者ら』を保ちつつ、アブラハムのような信仰を持った非イスラエルの信徒からアブラハムの約束を成就する器たるイスラエル、つまり『神のイスラエル』に招き入れたのである。


このことは、メシア拒絶の酬いとしてのエルサレムと神殿の破壊を待つ「世代」の間にも進められた事業であり、その門は使徒ペテロによって異邦人に対して開かれていた。

異邦人をもイエスが招く姿は「羊の囲い」の例えに示されており、それが見事な預言であったことを使徒らは自らの体験を通しても理解したであろう。⇒ 「羊の囲い」の例え

実に使徒たちの活動は、『諸国民の光』となる人々、つまり血統だけによらず信仰による真のイスラエルに属する当時の人々を集め出す業ということに尽きる。その光は血統上のイスラエル民族の大半から離れ去り、彼らと異邦人のふたつの群れを成す『神のイスラエル』こそが『諸国民の光』として輝くよう招かれ『産み出され』ようとしていたのである。

そうして頭書のパウロの『斯くして全イスラエルが救われる』という言葉が明瞭となるのである。



-◆オリーヴの接木---
 

「諸国民の光」となる主要な裔また胤は、ひとりのアブラハムの子孫、ダヴィデの王権の継承者、約束のメシア、ナザレの人イエスである。
このことを認めることのできたイスラエル人は真に幸福である。その人もまたイエスと共になって『諸国民の光』となりアブラハムの大いなる遺産『神の王国』、真のイスラエルを受け継ぐ者となるからである。

それは、肉を去って『死へのバプテスマ』を受けアダムの命にあって死に、イエスの命にあって霊を受け天に生きる体を受けることになったからである。

つまり、人類を益するアブラハムの裔また胤とは、キリスト・イエスを中心に天に召集される一団の人々であり、人類に対して幸福な善政を敷き、罪を贖う祭司として働くのである。


使徒ペテロがキリストの信徒らを指して『あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた格別の民である。それは、あなたがたを、闇の中からご自分の驚くべき光に招いてくださった方の優れた徳を、あなたがたが宣明するためである』。と語った背景はここにある。(ペテロ第一2:9)

この「神のイスラエル」に選ばれた人々には、あの五旬節以降、聖霊の賜物が降り、パウロはその聖霊の賜物が選びに対する「事前の保証の印」であると言う。(エフェソス1:14)

その聖霊の賜物が異邦人に対しても注がれるようになったのは、使徒ペテロがローマ士官コルネリウスを尋ね『神の王国の鍵』を彼らに対して開けたときからのことである。

その時、はっきりと神意は示され、イスラエルに血統によらないアブラハムのような信仰を持つ異邦人が真の意味での裔として呼び込まれたのである。

それは丁度、いざ息子の婚宴を始めようとしたときに招いておいた招待客が集まらないので、何処なりとも居る人々を招いて満席にした王のようであった。(マタイ22)

イエスは、あるローマ士官の信仰の強さを讃嘆してこう述べたことがあった。
『「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。 あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天の王国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。』(マタイ8:10-12) 
 

加えて、「異邦人への使徒」であったパウロは、後に「オリーヴの接木」の例えを語るのであった。

それはローマ人への手紙の11章にある。

パウロはイスラエルのメシア拒否が古代の預言者エリヤの状況に当たることを述べる。
イスラエルは預言者たちを殺害し、神の祭壇を覆し、残された預言者エリヤをも亡き者としようと追っていた。そこにおいて神は、異神バアルに屈しない七千人の残りの者をイスラエルの中に残しておいたのであった。(列王第一19:18)

同じように、ナザレのイエスに信仰を置く幾らかの『残りの者』がおり、彼らは血統上のイスラエルからの者らであって、イザヤはこれを『イスラエルが海の砂粒のようであったとしても、救われるのは残りの者である』と預言していた通りである。(イザヤ11:22/ローマ9:27)

ではイスラエルの不信仰のために欠けた神の王国の人員はどうされるのか?

そこで神は接木という秘策を用いて不信仰なイスラエル人を剪定し、信仰深い非イスラエル人という産出の見込まれる野生ながら良質な枝を接ぐというのである。

『では、ユダヤ人が躓いたのは、まるで倒れてしまったということなのか。決してそうではない。むしろ、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になったが、それは、彼らに嫉みを起こさせるためだった。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼ら(イスラエル)の全体が救われたとすれば、なおのこと良い』。(ローマ11:11-12)

こうして、異邦人はアブラハムという種から成長したオリーヴの木、血統上のイスラエルに接木され、その枝数が満たされる。

 そこでパウロの次の訓戒の意味が明瞭に理解されるようになろう。
『もしある枝が切り取られて、野生のオリーヴであるあなたがそれに継木され、オリーヴの根から豊かな養分を受けているのなら、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのである』


 それゆえ聖霊を受けアブラハムの裔に連なることが許されたことは特例である。
『彼ら(イスラエル)は不信仰のゆえに折り取られ、あなた(異邦人)は信仰のゆえに立っている。高ぶった思いを抱くことなく、むしろ恐れよ』
『もしあなたが、自然に生えた野生のオリーヴから切り取られ、自然の性質に反して良い(栽培の)オリーヴに継木されたのなら、ましてこれら(栽培されていた)良い枝は、より良く元のオリーヴに継がれないだろうか』。


 これは異邦人に対するイスラエル人の本来的優位を述べている。
『諸国民の光』となるべき神の選民イスラエル、その『神の王国』の民となることが異邦人に開かれたが、それは期間も人数も限定されたものである。


パウロはこう言っている『諸国民が入って(全数が)満たされる(プレーローマ「完成する」)までイスラエルの一部に頑なさ(ポローシス「頑迷」「見えない」)が生じたということである』。(ローマ11:12.25-26)

これは無制限な異邦人の流入を意味しない。「イスラエル」への一定数の人員が確保されるなら召しは終わるのである。

 但し、彼らは召されてなお厳しい試練のふるいに掛けられるので、聖徒に召される人の数は定数よりは相当に多いのであろう。その最後の選別についてもイエスは様々なたとえを用いて『狭い戸口から入るよう努めよ、入ろうとしながら入れない者は多い』とも言い添えている。(ルカ13:24/マタイ10:32-39)



-◆救いの実態----
 

キリストの意義は何かと問えば、神と人との仲介者であろう。(テモテ第一2:4.5)
すなわち、エデン以来神から離反し「罪」を負った人類を、創造本来の神の創造物たる「神の子」に復帰させ、人類を「救う」ことである。(ヨハネ1:12)

それを以って人類は輝かしい神の特質を反映することが出来るようになろう。

天界で神の傍に住まう喜びは『天の王国』に選ばれた者、聖霊の賜物をはっきりと有する人々のものであった。聖霊の保持は本人にしか分からない心理作用などではないし、今日のスピリチャルのように自己を益するものでもない。また、忘我の憑依状態とも無縁であった。(コリント第二2:22/コリント第一14:12・15)

だがそれが、西暦第二世紀以降のどこかで聖霊の賜物が無くなったことから、キリスト信徒の間に理解の混同が起こった。

つまり、使徒たちが聖霊の賜物を有する信徒、つまり『聖なる者ら』(ハギオイ)という人々に語った言葉の数々を、そのまま自分たちに語られたものと思い込んだのである。
ローマ人への手紙は「聖徒ら」(ハギオイ)へと、宛名書きされているが、新約の成立する時期には、聖霊を有する人々の比率はエクレシアの中で相当高かったようであるが、それでも信徒と聖徒の区別は聖書中に幾らか見られる。(ローマ1:7/12:13-)

このように、キリスト教徒の間に「信徒」と「聖徒」に区別があるとしても、それは所謂「差別」とはならない。なぜなら、天でキリストと共になる人々は人類の益に仕えるのであり、その他の人々は言わば「客」のようにその幸福に与れるのである。(黙示録20:6)

地上に人として生きるということは、天に行くための準備でも裁きのためではなく、そのように地上で生きるよう創造されたからである。⇒ 政治と宗教の存在理由


ひとりの天使であったサタンの違反を通して創造界に入ってきた「罪」がもたらしたものに人類は全歴史に於いて苦闘してきたが、それらの諸悪からの解放こそが人類の救いであって、神はその手立てをアブラハムに告げていたのである。

しかし、聖霊の賜物を失ったキリスト教は、以後その状態のままで回復されていない。
もし、真に聖霊ある者がいるなら、その人は為政者と対峙し、誰からも反駁できない聖霊の言葉を命をかけて語り、それは世界を震撼させるとされている。(マタイ10)

今日、異言を語るというキリスト教徒も居るが、為政者と対峙するほどのメッセージを彼らは持つのだろうか?ただ、自分の理解できぬ言葉を語ったからといって世界に対してどれほどの意義が生じよう。

しかし、聖なる者が現れるなら、彼らこそが神の正義と真理を持つゆえに、分裂し相争うキリスト教界は彼らによって徹底的に浄化されるだろう。彼らの持つ聖霊には反駁のしようもないからである。

それこそはキリストの帰還、「再臨」とも称されることのある「臨御」(パルーシア)の時の証しとなる。

人はそれをもって『夏は近い』と知るからである。⇒ パルーシアの標識

以上のようにキリストの教えを理解することが、如何に既存の大半のキリスト教会と異なるかを知るなら、多くの信徒には受け入れられないであろう。

それは恰も、ユダヤ人もパウロのキリスト教を受け容れることが出来なかったように、その逆もまた仕方のないことではあるが、このように理解するなら聖書理解の見通しは一気に開かれて、様々な記述が次々に得心できるものになるであろう。

キリスト教とは、アブラハム、イスラエルに啓示され、古代から漸進的に進められた神の歩みの連続の上に理解されるものではないのか?
キリスト・イエス自身もまったくのユダヤ人であり、『女より出でて律法の下に置かれ』生涯ユダヤ教徒であったことは紛れもないことである。

端的に言って「キリスト教」とは欧米文化のものではなくユダヤ=イスラエルの教え、つまりアジアのものに他ならない。
それが聖霊が引き上げられると共にキリストの不在が始まり、聖霊を持つという意味での「イスラエル人」が居なくなった上、ユダヤがキリスト教を拒否したので、この優れた教えもギリシア=ローマなどまったくの『異邦人の罪人』が踏み躙る汚されたものとなったのである。⇒ キリストの不在

ではイスラエルの聖なる神は、聖霊もない単なる異邦人にいったい何時『諸国民の光』となるよう任じたのか?誰も聖霊なくしてアブラハムの裔とはならず、その接木ともなれない。

そもそもキリストが「ユダヤ教を改革した」というのは大きな誤りというべきであろう。
「任命された者」であるキリストは聖書の教えをユダヤ教から先に進めたのであって、それは一連の神の計画の中でのことであり、キリスト教だけ独立させて捉えるならオリーヴの根からの滋養は届かず、いずれは枯れゆくものとなるのであろう。

聖霊による『神のイスラエル』への選びこそが全人類を救済する『諸国民の光』をいまだ保っているのであり、そのように理解されるときにこそ数千年に亘る神の歩みのままの力を得て、解釈を語る言葉は神の足取りのように確固たるものになるであろう。




         新十四日派   林 義平

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『この世代は過ぎ去らない』 理由




人というものは「自分が裁かれる」という漠然とした心配を懐く傾向を持っている。
それはキリスト教に限ったことでもなく、人間存在の危うさの自覚からか、様々な宗教、また民族に広く見られるところからすると、よほど鈍感であるか、サイコパスでもなければ、これは人に普遍的な恐れなのであろう。

人は、自らの行いについて、自分自身の良心の咎めを感じずに生涯を終えることはまず無理である。我々に備わった善悪判断を行う「良心」というものが、自分自身について疑念の警告を、あるいは罪を宣告するようなことをしばしば経験するからこそ、人間の社会はある程度の秩序を保っていられるに違いない。

やはり、この世に悪が横溢する一方で、勧善懲悪の物語が人々を安堵させるのも、我々の「良心」が何らかの安住の地を求めている証左ではないか。

その「良心」というものに照らして自分を省みるなら、人は自分の生きて来た軌跡の上で、「本当に正しかったか」という問いについて、多少とも誰もが不安を感じるものであるし、或いは、取り返しのつかないことをしたものだとの、深い自責の念に捕われる辛さを味わうこともあろう。

さて、聖書に於いては、「終末」と呼ばれる「この世の終わり」を意味する概念が存在していることはよく知られたことである。
イエス・キリストも福音書の中でそれを語っており、キリスト教を信奉する以上は「終末」という概念から逃れることはまずできない。

だが「この世」が終わり、キリストの支配する「新しい世」が始まる前に、人類世界が『神の裁き』に直面すると云うそのことは、人をして恐れを抱かせるものでもあり、できることなら裁きを逃れ、あるいは裁きで無罪放免を勝ち取ることを願わせるものともなり得る。

そこで、いくつかのキリスト教宗派は、その恐れを相殺するかのように、信者たちが「神の裁き」を通過できるものと教えているが、それが即ち、それぞれの宗派に属し、それぞれの教理を信じることで裁かれる恐怖を打ち消すメリットとなっているのである。それだけ大抵の人は、自分の倫理性に自信が持てないということであろう。確かに、聖書は人には皆『罪』があるとしているのである。

また、信者の天国行きを請け合う、大半の教会では「終末」を説くのは異端とまで口にするところもあるようだが、実はこれも恐怖の裏返しであり、自分は救われたと言い聞かせながらも、逆に内心では「終末」での危うい神の裁きを意識させてしまうことではないか。

それにしても、なぜ神は裁きを下すのか、人の何に対してそうするのか、その判断基準は何か、というような根本的なところについて、当の怖がっている信者らからは然して問われないように見えるのは何故だろう。それでは、ただ漠然と恐怖を抱いているばかりで、そこを宗教家に利用されてしまわないものだろうか。

やはり、聖書には間違いなく神の裁きが行われる「終末」が書かれており、他ならぬイエス・キリスト自身が語った「この世の終わり」についての預言の中には、世の「終末」が始まってからその期間の苦難が終わるまで、「(特定の)世代が過ぎ去ることはない」との言葉がある。

そこで「この世代」というキリストの言葉に根拠を置いて、「終末」の時期を「自分たちの世代」に想定し、それを信じてきたキリスト教徒たちもいるのである。
つまり、自分たちの世代が『過ぎ去ることはない』とのキリストの言葉に保証されており、自己存在が「過ぎ去らず」「保たれる」という願望への保証のニュアンスを感じ取り、大きな希望をこの言葉に懸ける信仰である。


ではまず、三福音書それぞれに記された、そのイエスの言葉を見てみよう。
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マタイ書24:34
まことに。あなたがたに告げる。これらのこと(終末の災い)の全てが生じるまでは、この世代(ホゲネア)は決して(アメン)過ぎ去る(パレルセー)ことはない』。

マルコ書13:30
まことに。あなたがたに告げる。これらのことが全て生じなければ、この世代(ホ ゲネア)は決して(アメン)過ぎ去ら(パレルセー)ない』。

ルカ書21:32
まことに。あなたがたに告げる。すべてのことが生じるまでは、この世代(ホ ゲネア)は決して(アメン)過ぎ去る(パレルセー)ことはない』。

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このように、どの福音書もほとんど同じ内容であり、しかもイエスが『この世代』が『過ぎ去らない』ことを『決して』と強調しているのが分かる。これが何を意味するかが気にならぬわけもない。


そこで、そのひとつの「世代」のうちに「この世の終わり」が完了し、世界がキリストの支配する「楽園」になると教えてきた宗派もあるのだが

それを信じた人々は、自分たちがその「世代」であると教えられ、恰も、神の新しい世に死ぬことなく入ることのできる「黄金世代」のように、自分たちが幸運で目出度く選ばれた時代に生まれたとの喜びに大いに沸き、信仰の流行ともなった。

この人々は「神の裁き」を事前にパスしているかのように、既にその先にある神のパラダイスに希望を託してもいるのである。だが、それは本当にキリストの語った「世代」という言葉の真意に沿った理解なのだろうか。

もしそうなら、それがどの世代かを知ることで、世の終わりの詳細な月日はともかく、大よその時期が把握でき、まさに「黄金世代」に選ばれたような興奮があり、その期待と喜びがその人々の崇拝の原動力ともなっているであろう。そこでは死への恐れすらもが忘れ去られているのである。
つまり神の裁きについては、既に信者になった時点で赦されており、信者であるという状況を保持することの自力本願で、その赦しの条件を保てば良いということになろう。

これらの人々の思考の中心は、終末に行なわれる「裁き」で何が問われるのか?また「苦難」をどう通過するのかと云うところは飛び越して、裁きの規準を自分たちで定め、その先の「良い生活」の方について、自分なりの妄想を膨らませてしまっているようにさえ観察されるのだが、それほどの自己への確信はどこから来るのだろう?

しかし、その前に、本当にそれが聖書の語る真意だろうか?
つまり、キリストは終末で起こる事象のすべてが「この世代のうちに訪れるので、幸福な良い生活は目前だ」と言って、間近な「楽園」の到来というご利益信仰を励ましていたのだろうか? では神の裁きの要諦は何であるのかは考えなくてよいのだろうか?ただ生き残ることを願い、一定の道徳基準に達していれば良いのだろうか?
しかも、それは本当に幸運な「黄金世代」のようなものだろうか?


そこで本頁では、キリストの終末預言で強調された、この世の体制の終りに臨む『この世代』(ホ ゲネア[ὅ γενεὰ])という言葉に着目し、その意味を探ってみよう。

この頁でまず探るところは、ユダヤ人の弟子らの見方である。ユダヤ人であった弟子らにイエスの言葉が語られていたからには、当時のまさに『この世代』のユダヤ人の背景による理解の仕方をまず追うことが言葉の真意を捜す出発点として相応しい。

当時の「世代」に属した弟子たち、またルカがはっきりとその認識を示すところの観点、他にペテロやヘブル書の筆者が示す理解のそれぞれが指し示す方向に目を向けると、『この世代』発言のイエスの意図について明瞭に見えるものがある。

では、この終末預言において、その「(特定の)世代が過ぎ去らない」とのイエスの言葉は何を意味していたのか?
ユダヤ人であれば、またイエスと三年ほど行動を共にし、その言葉を聴いてきた使徒らであれば、これをどう聴いたのだろうか?

また、師イエスから『彼(人の子)はまず、多くの苦しみを受け、この世代から捨て去られなければならない』との言葉を聴いていた使徒たちは、その『世代』をどのように理解しただろうか。(ルカ17:25)

これらを知ることが、この言葉を理解する重要で第一の手掛かりとなる十分な理由があり、その観点から見る場合、とても「黄金世代」のような夢を描けるものでは無いことがはっきりと見えてくるのである。


-◆かつて特定された「世代」----------

さて、イスラエルの歴史上、特に注目された「世代」がある。
最も顕著な例といえば、モーセに率いられてエジプトを出た、その「世代」であろう。

この事例は、以下に見るように旧約でも新約でも繰り返されるテーゼであり、エレミヤの頃の滅びに定められた「世代」の例もあるが、「世代」に関して荒野のイスラエル以上に注目されるべき型もないであろう。

さて、イスラエル民族はエジプトに居る間にも、大いなる神の奇跡の業を目撃して十度に及んだ。
それから、神がイスラエルの大集団をどう救い、エジプト軍をどのように打ち破ったかを紅海で大きな驚きと感動と共に目撃することにもなった。

荒野を進む数百万を雲と火の柱で導き、天からのパンで養ったことも自ら経験したことである。
それらすべては、彼らを約束のカナンの地に導き移住させるという、神がアブラハムに示して以来の不変の意志であったことをその度に思い起こされたであろう。

そしてエジプトを出て二年目に、モーセがカデシュ・バルネアから12名の斥候を移住先の土地に放ち、そこを探らせたときに彼らは大きく躓くことになる。

斥候は皆、そこが豊かな土地であることを認めたものの、十二人のうちの二人を除いては、そこの住民らの背が高く強いこと、また城市の壁が非常に高大で征服は出来ないと言い張ったのである。

しかし残った二人、エホシュアとカレヴだけは、神は必ずこの地を与えてくれるとの信仰を言い表し、皆を説得しようと奔走した。
それでも、イスラエル民族は「約束の地」への希望をすっかり失ってしまい、宿営全体が喪に服すかのように声を上げて泣き悲しんだのであった。

ここに至って、神の怒りは燃え上がった。
いつまでこの民はわたしに敬意の欠けた振る舞いをするのか!わたしが彼らの中に行った印の業を見ながら、いつまでわたしに信仰を置かないのか!』(民数14:11)

彼らの神に対する敬意の無さは、このときに始まったものではない。
エジプトや紅海の奇跡を目の当たりにし、神を賛美して歌ったその同じ者たちが、荒野で水に困っては不平を言い、天からの奇跡のパンを食しながらも肉を欲したのであった。

神はその都度、彼らの必要やわがままを満たしてさえしてきたのだが、遂に、彼らはエジプトの苦役から救った本来の神の目的である「約束の地」への入植を不可能とし、エジプトに戻ることを考えるところまで進んでしまったのであった。

遂に、神はこの民族を滅ぼすとモーセに告げた。
しかし、仲介者モーセは神の聖なる名を汚すことになるからと、神を制するのであった。
確かに、滅ぼしてしまってはアブラハムへの約束は立たず、諸国民はYHWHを嘲弄することにもなろう。

そこで神はモーセの言葉を容れ、イスラエルを滅ぼすことはしないが、エホシュアとカレヴ以外の二十歳以上のすべての者、つまり「世代」に属する者全員には約束の地を踏ませないと宣言する。神は彼らをはっきりと『邪まな世代』(ハドル ハラ[הַדֹּ֥ור הָרָ֖ע ])と呼んでいる。(申命記1:35)

人格が固まり、その人がどのような人であるのかが決まるのが二十歳であると今日では言われ、それ以上の年齢に達した人々が基本的な信念を変えることは難しいらしい。
特に十代の後半は身体だけでなく、人格を造り上げるうえで重要な時期と言えよう。
神は、青少年の世代が年長者らの不信仰から教訓を学び、新たな民の礎となることに望みを繋いだとも言えるようだ。

こうして出エジプトの「世代」が寿命を終えるまで、イスラエルはセイルの荒野をさまよいエジプトから四十年を経過するに至るのであった。それは神が、ひとつの「世代が過ぎ去る」のに費やした四十年であった。

やがて、その邪悪な世代が絶えると、この集団はカナンの地に向かい、遂に目的を達して入植を始めることになる。
しかし、神の業を目撃しその恩恵に与りながらも、神に信仰を持てず、その意図を汲むことの出来なかった「世代」は、『乳と蜜の流れる』「約束の地」に入ることはなかった。宣告の通り、ふたりの例外を除いて「世代」のすべての者が尽く荒野に倒れたのであった。

後代、ヘブル書はこれを次のように評している。
聞いていながら、御怒りを惹き起こしたのは誰であったか。モーセに率いられてエジプトを出た全部の者らではなかったか。


四十年の間、神の憤ったのは誰に対してであったのか。罪を犯して屍を荒野にさらした、あれらの者たちではなかったか。


また神が、ご自分の安息には入れないと誓われたのは、従おうとしなかった者たちに他ならない。それゆえ、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のゆえであったと我らは知る』。

(ヘブル3:16-19)


-◆邪悪でねじけた「世代」------------

では、時代は降ってイエスの預言で語られた「世代」はどうなるだろうか。
イエス自身、その当時のユダヤ人の「世代」について度々言及しており、その評価を知ることができる。

マタイでは、その「世代」は邪悪で、異邦人すらもが彼らを罪に定めると暴露される。(12章)

また不信仰でねじけており(17章)

創世記のアベルから始めて、ずっと後代の祭司ゼカリヤの犠牲の血の罪までが、すべてまとめてこの「世代」に求められるという。(23章)

それはマルコやルカの書でも変わらない。
この「世代」はしきりに印を求めるが、与えられず(マルコ8章)
約束のメシアは「この世代」から退けられることになる(ルカ17章)

ユダヤ体制の来るべき処断の滅びの原因は、そのユダヤの世代が『自分たちが査察されている時期を見分けなかった』からであるとイエスは指摘する。

その「査察」(エピスコネース)とは、「契約の使者」メシアたるイエスの到来であり、彼に対してユダヤの全体としては信仰を見せなかった。彼らは律法に固執し、新しい契約を携えたメシアを明らかに退けた。それはローマの権力に渡して処刑を迫ったところに、また、使徒らの活動に反対し弟子らを迫害したところに否定のしようもなく表れている。

実は、ユダヤ人はマラキ書に描かれる『契約の使者』を非常に恐れていたことが、ラビ文学に記されていたのである。
ラビたちの中には、「ゲーヒンノムの裁き」と「マゴグのゴグの攻撃」と「メシアの艱難」から逃れるためには、安息日に必ず食事を三度採るべしという、まじないのような教えをする者さえあった。(ラビ、ベン・パズィ)

「メシアの艱難」とは、実にルカ書の『査察』に通じるものがある。
マラキの預言にはこうあったからである。
その来る日には、だれが耐え得よう。その現れる時に、だれが立ち得よう。彼は金を吹き分ける者の火のようであり、布晒しの灰汁のようである。』(マラキ3:2)

そして、やはりマラキの預言は避けられなかった。
ユダヤの体制は、イエスの奇跡の業にも信仰を持つことなく、「三年世話をしても」「二度と実を付けることのないいちじく」と評価されたのであった。(マラキ3:1/ルカ13:6-9/マルコ11:13)

そして、イエス・キリストが刑場に引っ立てられる途上で、彼の姿を見て泣く女たちに向かって語っていた言葉がルカにある。

エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。あなたがたと子供たちのために泣け。「不妊の女と孕まなかった胎、乳で養わなかった乳房は幸いだ」と言う日がやがて来る人々は山に向かって、また丘に向かって、我らを覆えと言い出すであろう』。

即ち、約束のメシアを退けて以後、その悪行の酬いはそのユダヤの世代の内に執行されなくてはならない

そして、その裁きの処断は、「イエスと同じ『その
世代』が過ぎ去る前に間違いなく到来した」ということができるのである。即ち、西暦七十年に起こったローマ軍によるユダヤとエルサレムの荒廃と神殿の完膚なきまでの破壊を指している。

この件では、既にバプテストのヨハネが現れたときに、キリストが『聖霊と火とでバプテスマを施す』と述べており、『小麦は蔵に』『籾殻は火で』という言葉にユダヤのその世代が受けた選別が明瞭にされている。メシア信仰に至った者には聖霊が、退けた者には戦火が臨んだのである。

『籾殻の焼却』は、ユダヤ人からの収穫が終わったことを表しており、ユダヤ体制は神との格別な関係も、赦しと
恩寵を享受した時代も終わったことを意味し、ローマ軍の攻囲の後に神殿祭祀も神名も、自分たちの家系図も失い、流浪する民となっていったところにそれが明瞭に見えている。

そこにおいて、神YHWHは律法体制をまったく終わらせたというべきであろう。神殿無きユダヤ体制には、以後二千年が経過しようとしており、もはや完全な律法遵守の見込みが絶え果てたのである。もはやイザヤの預言したような「回復」は彼らに約束されておらず、今日まで神殿は地上に戻ってはいない。(ルカ23:28-31/ルカ19:42-44/マラキ3:1-3)⇒「アリヤー・ツィオンの残りの者」

『その世代』のユダヤ体制は予告されてきた貴重なメシアであるイエスを退けたのであり、それは明らかに神の意図からの逸脱であった。
パウロが言うように『律法はキリストに導く養育係』であったなら、当代のユダヤ民族はそのキリストを拒絶することにおいて、律法契約の最重要にして辿り着くべき目的を逸していたという以外ない。やはり彼らはイスラエルの目的地に入ることを拒んだのである。(ガラテア3:24-25)

その一方で、イエスの弟子たちへの聖霊の注ぎは、神の恩寵がメシア信仰を見出した人々に移った証しであり、イエスの奇跡の業は使徒らを中心に継続されていったばかりか、世界に向けて広がり始めたのであり、そこに神の意図をユダヤは見るべきであったが、彼らはキリストだけでなく、その弟子らの聖霊の働きをさえ否認したのである。(サムエル第一8:8/使徒7:52)

イエスはユダヤの宗教家に対してこう語っていた。『
アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたゼカリヤの血に至るまで、世の初めから流されたすべての預言者の血の咎がこの世代に問われるためである。』(ルカ11:50)

ヘブライ人とされるキリスト教徒ヘゲシッポスもこの言葉と同様の見解をもっていたが、それ以前に、ルカが他ならぬメシアの言葉としてユダヤ懲罰滅亡論を記録している以上、それがユダヤ教徒に極めて受け入れ難い内容であっても、キリスト教徒がこれを否定するわけにはゆかないのである。

つまり、ユダヤ民族がその神YHWHに示してきた不信仰と、遣わされた預言者らを迫害することによって示した反抗との総決算がメシアとその弟子らへの殺害を以ってまとめられ、その報いがメシアの世代に臨むということのこれ以上ない証しの言葉といえよう。

これについてはキリスト教徒ではないフラヴィウス・ヨセフスですら以下のように記している。
『創建のときのような繁栄を享受していたならば、まちがいなく羨望の的になっていた都、
破壊をもたらす世代を生んだというだけの理由でかくも大きな不幸をなめることになった都、その都が今こうして焼け落ちたのである』(戦記Ⅵ・8:5 秦剛平訳・下線筆者)


だが、それは『この世代』への断罪であって、キリスト教徒への迫害を行わなくなった後のユダヤ民族が神から糾弾されているのではない保証も与えているというべきであろう。彼らから『選ばれた民』としての恩寵は聖霊によって召された『神のイスラエル』へと移ったが、今日のユダヤ人は神の御前に他の民族と立場は変わらない。ただ、彼らの歴史や言語、伝統文化から学ぶところが多く、この民族は今でも神との邂逅の証言者といわれるべき立場にある。


以上を概観すると、キリストは患難がどれくらいの期間に及ぶかという「期間の長さ」などを知らせ「もうすぐだ」と希望を与えようとしていたのではないことが見えている。まして、イエスの言葉を聴いた四人の使徒の内の二人は、早くも神殿の破壊される以前に迫害に遭って殉教し過ぎ去っているのである。

そこでユダヤ体制の「処罰」であるゆえに遅れることがないという意味で、『すべてのことが起こるまで、この世代は過ぎ去らない』とイエスは言われていることは、事態を見たであろうそのユダヤ人の世代の観点からすればまったく明らかなことに違いない。

メシアを退けた『世代』はその酬いとしての「すべてのことが起こって」その災禍を味わい尽くすべきであったのであり、それは間違いなく「ひとつの世代」への決然たる糾弾の言葉であったのだ。

メシアの当時のユダヤにはいまだ幾らかのイエスを受容れる者たちがおり、その後もイエスを信じる者が出るという幾分かの水分を含んだ『生木』の状態にあったが、弟子になり得る者らも絶え、乾き切るなら、どれほどの処罰が待っていよう。
実際の歴史で、ユダヤは二つのパリサイ派の下で愛国主義を極度に高めてゆき、その途上で、ローマに処刑されたようなナザレのイエスなど、到底メシアには程遠いと、イエス派の排除が進んでいった。そうしてユダヤは神の御前に水気を失っていったと云えよう。(ルカ23:31)

神の処断を恐れる者らが、山や丘に保護を求めて自分たちを覆ってくれるように言う場面は「終末預言」や黙示録に見られ、元来は旧約の預言者たちの「神の処断」を表す言葉であった。
したがって、その預言の言葉は、イエスと同じ『
世代』に臨む事柄も処罰としての滅ぼしであることを物語っている。


そこには「ふたつの世代にまたがる」と云うような意味の余地はなく、イエスが預言の言葉で「患難がいつ終わるか」を予告していたというなら、それは主の意図に目を留めないことにおいて的外れであるばかりか、そこからご利益に預かろうとする浅ましさまでもが透けて見えるほどである。

即ち、自分の世代が「黄金世代」であると信じ込むところにおいて、その人々の関心は主なるイエスの意向ではなく、専ら自分の利益に向いているのである。終末の裁きに関する神の意志を探るよりは、自分がどうなるのかの方が余程重要なのであろう。

『この世代は過ぎ去らない』との言葉が、単なる時間の長さを語っていたのではない証拠に、五旬節では集まってくるユダヤ教徒の群集に向かって、多くの言葉をもって『この曲がった世代から救われよ』と熱心に説き勧めていた使徒ペテロの姿が見出されるのである。(使徒2:40)

ペテロの『あなたがたはこの方(イエス)を磔にして除いたが、神はこの方を主ともキリストともされたことを知れ!』という指弾の言葉に、集まった「この世代」のユダヤ群衆は心を痛めた。「かつてなく罪の重い世代」とされたからである。

つまり、メシアというこのうえもなく重要な人物を拒絶したところの、不信仰で邪悪なユダヤの「曲がった世代」から離れ、『救われる』ようにとペテロは繰り返し「この世代」のユダヤ人に勧告していたのであり、彼をはじめ終末預言を聴いた使徒らが「この世代」という言葉をどう理解していたかは明白といえる。

そこでペテロは「ひと世代」という時間の区切りの迫っていることを言わなかった。
むしろ重要な事は、時がどうかではなく、神の意志に共感し、その五旬節の日から聖霊によって救われることであり、メシアを殺害するほどに不信仰なユダヤの「悲劇の世代」に巻き込まれないよう行動するべきであったのだ。

後にヘブル書もユダヤ人に説き勧めるために、彼らのよく知るであろう詩篇95篇を引用する。

それゆえ聖霊が述べる通り、「今日、もしこの方の声を聞いたなら、苦々しさを惹き起した(かつての)時期のように、荒野で(神を)試したように心を頑なにしてはいけない。

あなたがたの父祖はそこでわたしを試した。それも四十年の間わたしの業を見たうえでのことであった。

それで、わたしはこの世代を嫌悪し、“彼らは恒に心をさ迷わせ、わたしの道を知るに至らなかった”と宣した。また誓って言った“彼らにはわたしの安息に入らせない”」。

(ユダヤの)兄弟たちよ!あなたらの中からも生ける神から離れた邪悪で信仰の欠けた心を、誰もが抱かないように注意しようではないか。
』(ヘブル3:7-12)

このヘブライ人宛ての書簡が記されたときにはおそらくイエスの弟ヤコヴは既に世を去り、西暦66年のユダヤ戦争勃発までは僅か年月のことであったろう。
従って、彼らイエスに信仰を抱いたユダヤ人が荒野のイスラエル人のようになってしまうことは極めて危険なことであった。

つまり、多くの奇跡を見ながらも不信仰のままで、神の目的を見分けず理解せず、遂に神の是認を失って神の憤怒を受けるユダヤの「世代」に含まれてしまう危険である。

やはり、ユダヤとエルサレムそして神殿の滅びは断罪であり、処罰であり、律法体制の清算となるものであったことはとても否定できるものではない。

したがって、イエスを葬った邪悪な世代が尽きる前でなければ処罰の意味を成さない

彼らこそ、歴代の預言者たちの「義の血」を流し、遂にメシアをすら除き去った『すべての義なる血の清算』が求められる『世代』に他ならないからである。(ルカ11:51)


-◆神はユダヤ人の悔い改めを待つ-------

しかし、ユダヤ人は永い間律法体制の中に歴史を過ごして来たので、その宗教的良心をすぐにキリストに合わせることが易しかったとは言えない。

それゆえ、神はイエスの弟子たちに聖霊を与え、その著しい奇跡の賜物を以ってユダヤ人への徴とし、イエスの業が続行されるよう取り計らった。エルサレムのエクレシアでは、ユダヤ人一般からも深い尊敬を受けた義人ヤコヴがユダヤの民衆からの帰依者を集めていた。

パウロが逮捕される頃、またヤコヴの生涯の終わり近くには、弟子の数はユダヤで数万に達していた。これらの帰依者たちは、まさに神の「善意の年」の期間をよくよく活用したといえよう。だが、それもユダヤの民全体からすればほんの一部に過ぎなかった。(使徒21:20)

その一方で、メシア拒絶の処罰は大多数の「この世代」に対して遅れることなく執行されねばならない。イエスが言われるように『けっして過ぎ去らない』、いや処罰であるために過ぎ去ってはならないのである。

約束の地を拒否した荒野のイスラエルに神の怒りが臨んだのであれば、神の「御子」を退けて殺害した民に、それ以上の神の憤怒の「世代」に臨むは当然であろう。

イエスの刑死を西暦33年とすれば、ユダヤ戦争の勃発する西暦66年の時点で、既に33年、決定的処断の行われた西暦70年までは37年となる。

荒野で神が「ひと世代」を待った期間が40年。その内のカデシュ・バルネアから彷徨を続けた後、セイルとモアブの国境にあるゼレド渓谷を下りヨルダン川に至るまでが38年。(申命記2:14)
同様にメシアを拒絶したユダヤへの処罰も、やはり神が荒野で待った「ひと世代」の期間内の出来事であったのだ。

イエスの刑死から37年目にしてユダヤに下った滅びが、まさにそれがメシア殺害という、神のきわめて重要な目的を踏み躙る不信仰な暴挙に対する処罰を意味することは、ルカの伝えるエルサレムの女たちへの『自分のために泣け』というイエスの言葉に沿うものであることも論議を補強する。

それは同時に、弟子らを時代の苦難に備えさせ、その「世代」と共に処断されぬよう注意させるものとなったであろう。
したがって、先のヘブル書の記述は、その「世代」の処罰の始まりを数年(四年か)の間近に控えた、まさに当時のヘブライ人に向けられた適時にして極めて貴重な「世代」に関わる勧告であったに相違ない。

エルサレムの滅びは神殿祭祀制度を終わらせ、律法の全体の履行を不可能としたばかりか、神殿でのみ発音されてきた神の御名は、神殿が存在しなくなったことで地上から発音する機会をまったく失わせ、その世代が過ぎ去るに従い、神名は何と云われるのかも今日まで人類の知るところではなくなってしまった。

明らかにそれは、ユダヤへの神の恩寵の終焉する世代となったのである。
無数のユダヤ人が命を落とし、剣闘士や奴隷や処刑される捕虜として諸国に引いてゆかれ、以後ユダヤ人は祖国を持たない民となってゆく。

他方、その「世代」の期間の終わりまでにイエスをメシアと受け入れたユダヤの人々は、事前にユダヤとエルサレムを後にしていたので命を保ち、そればかりか聖霊の賜物に与って「新しい契約」という「神の安息」に入ったであろう。そこが象徴的な『約束の地』である。

このように、メシアが『この世代はけっして過ぎ去らない』と語って以来、その後の37年という期間は、ユダヤに住む人々、またユダヤ体制への「許し」と「処断」という、相反するふたつの事柄のバランスがとられた結果の長さであったわけである。
あるいは、その以前のイエスの公生涯を含めて40年なのかもしれない。

出エジプトの「二十歳以上の世代」が過ぎ去る長さが四十年とすれば、その六十歳弱という「荒野の世代」の最短寿命はかなり短めである。
例えれば、この世代と共に生きたモーセは120歳まで生きたとされている。

それゆえにこそ、それは狭く特定された「世代」と云うことができ、ぼんやりとしたものではない。やはりイエスの終末預言においても荒野でのあの四十年が意図され、敷衍されていると見ることができよう。


-◆「この世代」に対型があるのか?-------

こうして、イエスが終末の預言で語った「過ぎ去ることのない世代」を考慮してみると、次には、それが語られた将来に関わる事柄が関心を呼び起こすであろう。

つまり、「この世代」の将来の対型はあるのか?という問いである。
イエスが使徒らに明かした神殿の倒壊の予告は、単に西暦七十年の「ユダヤ体制の終わり」を越えて、「この世の終末」の予告を含んでいるであろうことは、まず間違いないことである。

メシア拒絶の代償として「この世代」にユダヤ代々の血の罪までが求められたのであるが、将来においてもやはり「この世代」は存在するであろう。

例えれば、マルコ福音書でイエスはこう言われる。
邪悪で罪深いこの世代(ゲネア)にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう。』(マルコ8:38)

これは後のキリストの臨御のときについて敷衍して述べているのであろう。
つまり、キリストの当時の世代と同じく『邪悪で罪深いこの世代』が存在することになるのであり、その時に弟子らが、周囲の世代と共に不信仰に流される危険を言うのである。

それはイエスの当時のように、再び聖霊注がれる終末の『聖なる者たち』の行う多くの奇跡を目撃しながらも、不信仰で神の目的を見誤り、その是認に入らない「世代」となるだろう。それは『許されることのない』という『聖霊を冒涜すること』である。

それがすなわち、イエスの地への帰還、「パルーシア」(臨御)を迎える「世代」となろう。
但し、それは「聖霊の賜物」の到来を待ってのことであり、それが人類世界に見られない限りは到来することはない。

福音書に繰り返し記されているように、神はイエスの弟子の中に聖霊を注ぎ、その選ばれた『聖なる者』らは賜物を得て為政者と対峙し、誰も論駁できないような聖霊の言葉を語るという。これこそが『諸国民への証し』となって世界への宣明になるとマタイも言う。(ルカ21:15/マタイ10:18)

即ち、聖霊の働きによる世界宣教であり、世界は動揺し『揺り動かされ』神にとって『望ましい者らが(神殿に)入ってくる』ことになることをハガイは告げる。(ハガイ2:7)

『聖徒』らは多くの徴となる奇跡をも示し、不可視の雲の中にあるキリストの代弁者また大使となって、世が神と和解するように再三促すであろう。「邪悪な世代から救われよ」と説き勧めたペテロのような姿がそこにあるのではないだろうか。
そこで諸国から『我らも共に行く』とイスラエル人の裾を掴む人々も現れる。しかし、世の大部分は聖霊の言葉を語る「聖なる者ら」を退け「邪悪な世代」であることを示すことになる。

では、その期間は「ひと世代」、あるいは四十年というほどの長さになるのだろうか?

ところが、黙示録やダニエル書の挙げる数字は、そう長いものではないのである。
聖霊を受ける弟子たちが活動する期間は42ヶ月、または1260日とされている。
ダニエル書で長い数字を探しても「2300の夕と朝」が精精の長いところであろう。

ヨハネ福音書が示唆するように、イエスの公生涯も四年に満たず、おそらくはヨハネ黙示録が示唆する42ヶ月であったことが考えられる。

聖霊を注がれる将来の『聖なる者』たちが奇跡の徴を示す期間が同様であるとしても、彼らが攻撃を受けて殺された後、その奇跡を引き継ぐ者が聖書にもはや登場していないことからすれば、聖なる弟子たちに臨む患難の後、千年期前の世の裁きは「世代」というほどの長さでなく、始まってしまえば数年という意外なほど短期に決着がつくようだ。(マタイ24:22/ローマ9:23)

となれば、それほど聖霊注がれる聖徒の活動とは、世に在って極めて顕著なものとなることが予想される。(マタイ10:18/黙示録11:6)

もし聖霊によって語る聖徒らの発言を拒絶し、その聖徒たちを迫害し処刑するなら、終末での滅びに値する人類の罪が生じる。即ち、キリストを屠ったユダヤの『世代』のようにである。 ⇒「大いなるバビロンの滅び」
それが行われてから「終局」に至るまでの時間は「三時半」に比べてさえも更に短いことを、『聖なる民の力を打ち砕くことが為されると、すべてのことが直ちに終局に至る』とダニエルがはっきりと告げている。(ダニエル12:7)

それでも、将来にも断罪される「世代」が同じように存在することには変わりはなく、彼らも終末預言のすべてを味わうことになろう。それが『この世の終わり』の世代とも言えよう。ただ、その期間だけはモーセがファラオに対峙した時のように、「世代」といわれるほど長さよりはずっと短くなりそうなのである。

現時点での筆者の理解から推論すると、おそらくは聖徒らの現れから艱難の終わりまで七年未満のように思える。終末の世界は数年の内に裁かれるように預言は読めるのであるのであるが、その間に聖徒に迫害の犠牲となる人々は少なくないのであろう。

その理由として考えられるのは、この度はエデン以来の最終局面となるので「時の短いことを知る」サタンの圧制的また背教的攻撃が苛烈となることが予想されることである。
聖なる者らを攻撃して勝利するこの世の体制は、当然ながら聖徒の支持者にも過酷に当たろうとするであろう。

聖徒らは地上の生涯を終えることになっても、地上に残るその支持者で信仰を示した人々がナチスやスターリンの思想浄化のような目に遭えば、長い期間を耐えられないのではないかとも思える。

「終末」は危急の事態であり、天の聖なる弟子らは地上の支持者(大群衆)を救うために、神に患難を短くするように願い出るかも知れない。さもなければ、肉なる者が残されなくなってしまい、聖なる者らの栄光ある千年の統治と贖罪に与るべき地上の民が存在しなくなってしまう。(マタイ24:22)

それゆえ、ある時点で敵たちを駆逐するためにキリストの戴冠する必要があり、終局までの時の短さは、その理由から「聖徒たちの要請」であっても不自然ではないであろう。つまり、この世の公権力による「聖徒攻撃」の時期から、信仰を持った者らへの攻撃から誘発される「ハルマゲドン」までの期間は長くはならず、むしろ聖霊を注がれる「聖徒」の現れから数年というほどの、非常に短い期間に違いない。

そうなれば、この世の「終末」と呼ばれる時期は弛むことなく突き進むもので、新しい世への転換はイエスの「世代」に与えられたほどの猶予もないほど短いことを予期するべきものとなろう。

また逆にもし長ければ、「終末」とされる期間に然したるこの世の変化無く、しかも「世代が重なる」ほどに、人にとって余りに長いのなら、全人類の魂に関わるほどの神の裁きは、冗長に堕して「しるし」の意義を薄めてしまい、それは以前の他の時代とどこも変わりないものになってしまう。つまり、神の裁きの要点がぼけてしまうのである。⇒「黙示録の四騎士」

結論として「世代」の「対型」については、信徒が待つべき「過ぎ去ることのない世代」のような長めの期間に相当するような、ぴったりとした対型らしきものを複数の聖書陳述からはっきりと導くことはどうにも難しいようである。

だが、イエスの終末預言のすべての部分に何が何でも対型が伴わなければならないと規定してしまうと、将来に起こる事柄の独自性が損なわれ、「そのときまで起きた事がない」程の将来の事態をすべて過去のこじんまりとした型に押し込むような無理がないだろうか。

また、予型と対型は人が定めるべきものか、という問題もそこに在るだろう。
キリストのユダヤとエルサレムの滅びの預言をこの世の「終末」の予型にすべて細々と読み込むことには無理がある。



-◆「世代」の捉え方---------

出エジプトの例からすると聖書中の「世代」には、その時代の人々の性向を指す意味が強いようだ。神に逆らう「処断の世代」を「黄金世代」というわけにもゆくまい。

しかし、人はつい時間の長さを探る方に注意が行き易いのかも知れない。
そこには「自分」への益の強い願望が働くのかもしれないが、事は世の終局に関わる「神の」裁きなのである。

ある人々が言うように、この世の「終わりの日」がスタートしてから終局までが「世代」の長さであることをイエスがその預言で強調したというのであれば、その先見の明から神の裁きにうまく対処でき、安心と豊かな将来像を描け、まして、それに死を経験せずに与れるとなれば、それを信じさせようとする誘惑は相当に強いであろう。

そのような希望を抱いて、日々明るく生活している人々にどうこう言おうとも思わない。
ご自分の信じたいもの、また事情や立場のゆえに今は信じるべきを信仰なされば宜しかろう。
ただそれは、紛うことなく「ご利益信仰」である。

今日、完全な人間は居ないように、完全な宗教もないであろう。 ⇒ 「ヨブ記の結論」
自分の信頼していたことに反して、予期しない方向に事態が今後進展したとしても、動揺せぬよう心がけるのはすべての人に有益であろうと思えるので、一言そのようにはお薦めしたいし、筆者もそう努めたい。

宗教の教理を含め、人間の関わるあらゆることは不確実だからである。それが証拠に間違いを免れる者はいない。
もし、いるとすれば、それは真に聖霊を注がれた「聖徒」であろう。為政者と対峙し命がけで聖霊の言葉を語る彼らはまだ現れていない。

それであるから今日、人間の関わる不安定な宗教解釈に対し、完全には信を置かぬことは少しも信仰の不足ではなく、神というものが、我々人間には啓示された範囲を超えては知ることのできない存在者であることを認めることであるゆえに、それは神を高めるところのより強固な「信仰」であると思える。

現状で、我々が神に関してはもとより、終末についても知りうることはどうしても限られており、間違いのない知識は聖霊(聖書ではなく)を通さなければ人間には分からないという現実、それはどのようにしても揺らぐまい。

これは何にしても言えることだが、背景を考慮せず、キリストの語った「過ぎ去らない世代」が終末までの苦難の時間の長さを知らせるものであったと請合うことは非常な責任と危険を背負い込んでしまわないだろうか。
当時のユダヤ人の弟子らの観点から見る場合、主イエスは時間の長さを知らせようとしていたのではないなら、これは事情に疎い近代アメリカ人クリスチャンの「願望的憶測」というほかない。イスラエルに同じアジア人である我々までが、なぜ同じ轍を踏むべきか。

キリストを葬り去った『この世代』に含まれるユダヤ人の中には、イエス派でなくても律法体制が終わりを迎えつつあることに気付き、賢くエルサレムを脱出した人々もいたことをヨセフスが伝えているが、その人々はユダヤに起こりつつある情勢から将来を見通していた。

だが、その人々は律法中心の宗教意義の崩壊から救われたことにはならない。ただ、機敏に対処して命を長らえたのである。彼らがデカポリス方面に逃れたのかは分からない。もしアレクサンドレイアなどに向かえば、民族紛争の渦中に身を投じることになってしまい。せっかくのユダヤ脱出も無駄に終わっていたであろう。

同様に、『この世代』という言葉に命を長らえるべく「時代の切迫感」を感じるのであれば、神の意志への共感よりは、命を保とうという願望が先に立ち、内面では神から離れた利己心によって行動することになって、その目的が却って果たされないという結果にはならないものだろうか。 また、時への緊急感を懐くことがキリスト教の要旨なのだろうか。

人の作った教理は、純粋にすべてを信じる人ほどに害するものである。
大多数のキリスト教の宗派は、自分たちは聖書の正しい解釈者であることを自認しているであろう。しかし、人間の中に誰か「正しい解釈者」を見出せるものだろうか? 真理を伝える神からの聖霊がない限り、無謬な者は存在し得ないはずではないか。

我々に出来ることは、むしろ油断せず、神を信ずるつもりでいて人に欺かれぬよう注意することではないだろうか。聖書は『人はだれも後に起ることを知らない。だれがその身の後に起る事を告げることができようか。』と言う。(伝道の書10:14)

主イエスは同じ終末預言の中で、「その時が近付いた」という者たちに『付いて行ってはならない』と端的な一言が命じられている。(ルカ21:8)

では、神が行動を始める年代や世代を信者らが予想することは神やキリストの意志だろうか、またその意義には自分たちの利益願望以外の何があるのだろうか? それは神の意志を尊重しつつ信じるのではなく、預言の言葉の表層に自分の願望を読み込んだだけの事ではないのか?




                                  新十四日派      © 林 義平    

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1914 世代 重なる

キリストの語った終末預言と歴史


イエス自身が死を三日前にした週の第三日にその預言は語られた。

最後にエルサレムに上ったイエスと弟子たちは、この日に神殿を見て周り、弟子がこのヘロデ大王の建立した神殿の見事さを感嘆したことが、その預言が語られるきっかけを作った。

イエスは言った。「あなたがたはこれらのものをよく見極められないのか」「これらの(石組み)の石ひとつとして石の上に残らないだろう」。

この発言に対して弟子らはすぐには反応しなかった。民族の誇りとなっている見事な神殿がまったく崩れ去るという内容は彼らユダヤ人からすれば衝撃が大き過ぎたのかも知れない。

一行は神殿から東の谷を渡って、春先の日差しのなかであったろうか、聖域を見下ろすオリーヴ山を登ってゆく。
その間に使徒の四人が申し合わせたのか、彼らだけがイエスに密かに近づいて、先刻の神殿の石に関する発言の意味をそっと尋ねた。

「どうぞ、お話ください。そのような(すべての)ことは何時起こるのでしょうか?」「〔あなたの臨御とこの世("アイオーン"「時代」)の終わる[以上マタイのみ]  その徴しとしてどんな事があるのですか?」


これに答えてイエスの終末の預言が語り始められる。

では以下に、共観福音書を組み上げてイエスの発言をまとめてみよう
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誰からも惑わされぬように自分に注意せよ。わたしの名を騙って来るものは多い

自分自身に心せよ。あなたがたは王や高官の前に引き出されるが、そのとき何を語るべきか気を揉んだり、練習しようとするな、そのとき聖霊があなたがたにあって証しのために誰も論駁できないことを語らせるからである。そのようにして、王国の福音はあらゆる人々に宣明されるであろう」。

あなたがたは諸国民の憎しみの的となり、家族によってもわたされるだろう」。「多くの者がつまずき、倒れるだろうが、最後まで忍耐したものが救われる」。

あなたがたは戦争や無秩序とその噂を耳にするだろう。国民は国民に敵して決起し、食糧不足と疫病が蔓延し、あちこちで地震が起こるだろうが、これらは苦難のはじまりにすぎない」。

エルサレムが野営する軍勢に囲まれるを見たなら、都に居る者はそこを出よ、外にいる者は都に入ってはならぬ」。「荒廃させる憎むべきものが立ってはならぬ場所(聖所)に立つを見るなら、ユダヤに居る者は山に逃れよ」。「二階に居る者は何かを持ち出そうとして階下におりてはならず、野にいる者は外衣をとろうとして戻るな」。

そのとき、世の初めから今に至るまで起きたことがなく、その後も起きないような大患難がある」。「その日に妊娠している女と赤子に乳を飲ませる女にとっては災いとなる」。「実に、その日が短くされないなら、肉なる者は誰も救われないだろう。しかし、選ばれた者たちのゆえに、その日は短くされる」。

そのとき、自分がキリストだと言って惑わすものがあり、選ばれた者すらにも惑わされる者が出る」。

太陽と月と星に徴しがあり、諸国民は海の動揺から逃れようの無い苦悶がある(ルカ)」。「太陽は闇に月は血に星は天から落ち森羅万象は震い動く」。

そのとき、人の子が雲に乗って(と共に/の内にあって)到来し、すべての者は(刺し通した者も)それを見る」。

彼は、天の四方の風から自分の選んだ者たちを集めるだろう」。


-◆メシア拒絶の代償----------------------------------------

本来はエルサレムの神殿の破壊に関する言葉からの質問であったが、ここでイエスはユダヤの体制の終わりを述べつつ、事はそれだけで済まないことをも言葉の端々に表しているのが分かる。


しかし、ここではまずユダヤ体制の壊滅についてみてみよう。

イエスは刑場に曳かれる際に「エルサレムの娘たちよ、わたしのためではなく、自分のために泣け、孕まなかった胎と含ませなかった乳は幸いだというときが来る」。と言っている。(ルカ23:28)

それは、メシアを退けた後果をユダヤが刈り取らなければならないことを述べたのだろうか?

イエスはその数日前に次のようにも言っている。
エルサレムよ、お前(女性名詞)を取り囲んで先を尖らせた杭をめぐらし攻める日がくる。それは自分の査察されているときを見分けなかったためだ」。(ルカ19:43)

この国民の罪と言えば、神に属する者たちへの殺害であることを示してイエスはこうも言う。
アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この世代がその責任を問われるのだ。そうだ、真にあなたがたに言う、この世代がその責任を問われるであろう。」(ルカ11:50-51)

ユダヤは、キリストが水を与え、周りを掘って肥やしをやりして三年世話をしても実を生らせないイチジクであり、「お前からはもう二度と実がならぬように」と宣言されてもいる。(ルカ13:6-9/マタイ11:19)

こうしてみると、ユダヤ体制の終わりはイエス拒絶の代償であることはゆるぎないようである。*
ユダヤは体制として、ナザレ人イエスに信仰を置かず、その聖霊の奇跡の力と、神からの廉直な言葉を遂に認めなかった。そればかりかローマ総督にわたして処刑させたのである。
*(ヘゲシッポスや史家エウセビオスも同様の見解だが、彼らの言を待たずとも福音書そのものが雄弁に語っている。)

それでなくとも、ユダヤは以前からモーセの律法契約にも違反しており、メシアを退けることにおいて二重の過ちを犯そうとしていたのである。

ユダヤ体制派の策謀によりイエスの処刑が三日後に迫っていたこのときにおいて、神殿というユダヤの崇拝の要をまったく捨て去る神の決意はもはや翻らなかったが、イエスはそれを語っていたのであった。

では、その言葉はどう成就したか?
それを、以下に「ユダヤ戦記」を基に関連性を辿ってみよう。


-◆ その世代における成就 --------------------

イエスを除き去ったユダヤの体制は、その後、ますます愛国心を高めていった。
その先鋒となったのは、パリサイ人のシャンマイ派由来のシカリオイという集団であったという。
そのシカリオイの名は匕首(ナイフ)に由来し、彼らは匕首を忍ばせて雑踏に紛れ込み、自分たちの意に染まない要人を暗殺していたのである。

彼らの主張は、ユダヤをかつてのようにローマや異邦人の頚木から解放し、偉大なメシアの統治によって世界を治める地上の王国とすることにあったという。

確かに、旧約聖書を読むなら、メシアの統治は世々限りなく、神の熱心がそれを行わせるとある。(イザヤ9章)

そして、ユダヤ全体も歴代ローマ総督の悪政のためにむせ返り、とくにギリシア人総督フローロスが敢えてユダヤを煽るかのように振舞ったとき、独立への願望が堰を切らんばかりになっていたユダヤは、遂に引き返すことのない岐途に踏み込んだ。

西暦66年、ユダヤの過激派は死海沿岸のマサダ要塞に詰めるローマ兵を殲滅させ、神殿での皇帝の犠牲を妨害したのであった。これらは、宣戦布告に等しい暴挙となった。
そこで、大祭司アンナス(ハナニヤ)はヘロデ・アグリッパスⅡに暴徒の鎮圧を依頼するが、この王の軍も返り討ちに遭ったうえ、神殿直近のアントニア要塞まで陥落してしまったのである。

ここにイエスの予告に傾聴すべき部分が現われる。
即ち「あなたがたは戦争や無秩序とその噂を耳にするだろう」の言葉である。

現実は、まさに「国民は国民に敵」する事態となってゆく。
帝国各地のディアスポラの民が蜂起し、また、ギリシア人もユダヤ人を攻撃し始めた。
実にアレクサンドレイアのような都市までもが民族対立の危険な都市と化したのである。


ローマのシリア総督ガッルスは、ここにおいてユダヤ体制は反乱したと見做さざるを得ず、ダマスカス駐屯の第十二軍団と共にユダヤに向かって進軍を始める。だが、ユダヤ人の諸都市は抵抗らしいこともせずに制圧されていった。
なぜなら、その時期はユダヤの秋の仮小屋の祭りの最中であって、ほとんどの住民はエルサレムに上っていたからである。

ローマ軍が地中海方面からユダヤの山地を登り、いよいよ祭りを祝うエルサレムに近づくと、ユダヤ人は数を頼んでいっせいにローマ軍にかかっていった。しかもそれは安息日であって、40年ほど前のイエスのときにはあれほど固執し、その以前のセレウコス朝との戦いでは安息日に攻められて敗戦までしたユダヤ人が、安息日を踏みつけて攻めかかったのである。

だが、ローマ軍は秩序だった攻撃によってエルサレムの城壁を崩し始め、大方の住民は降伏するよりほかなしと思っていたのだが、しかし、そこでいったい何が起こったのかは今もって分からない理由のために、ガッルスは一目散に撤退を始めたのである。総督自身も軍を見捨てるようにして逃走し、這う這うの体でカイサレイアにたどりつく。
ローマにとって非常に不名誉なものであったのだろうか。撤退というよりは敗走と云うべき体たらくの真実の理由は歴史から削除されてしまったようだ。

しかし、これはローマ軍の殿軍を追撃し、大いに気勢を上げたユダヤ人に高慢に振舞わせる罠となった。

それからは、各所で若者たちに軍事教練が施され、武器が量産されたが、事を冷静に見ていた人々は、崇拝をないがしろにしながら神頼みの勝利を当てにするユダヤの異常さを察知した。ペルシアのような国ならいざ知らず、小国ユダヤが超大国ローマに抗ったところでどうなるかは見えている。

そして、イエスの言葉「エルサレムが野営する軍勢に囲まれるを見たなら、都に居る者はそこを出よ」の句はイエスの弟子らに意味を持ち始める。

そこで、ローマ軍がいったん退いたあとで、イエスの弟子らや他の賢明な人々は愛国心が崇拝心を上回ってしまったユダヤを見限り去って行った。弟子らはイエスの言葉に従い東方の山地デカポリス地方に身を潜めるが、これは彼らを救うものとなる。(教会史Ⅲ5)

その後、エルサレムは数度ローマ以外の軍勢に囲まれるが、次第に都から脱出することは困難となっていった。

そして遂に、ローマ軍の二度目の攻囲が始まると、父ウェスパシアヌスと共に皇帝と呼ばれた全軍司令官ティトゥスは、エルサレム周辺の木々を伐採し、ユダヤの都を柵で取り巻く作戦をとったのである。

こうしてイエスの「先のとがった杭」の預言が成就し、聖都の周囲はかつての木々の緑成す美しい佇まいを失い、乾いて荒れた土がすっかりむき出しにされてしまったとヨセフスは記す。

もはや、ユダヤ人に逃れる術は無い。慈悲あるティトゥスは都から出ようとするものを許すつもりであったが、粗暴なアラビア兵などが、ユダヤ人が宝石などを呑み込んでいるものと決め付け、貪欲から次々に人を切り裂き腸を調べたのである。しかし、そのような財産を呑み込んだ脱走者はごく少数であったという。

城壁の外でこのように凄惨なことが起こる間に、市内ではシカリオイからゼーロータイ(熱心党)へと発展した過激派と、ユダヤの強盗集団が神殿の聖所を自分たちの要塞としてしまい、血で汚し、奉納物を私物化したのであった。
これは「立ってはならぬところに憎むべき何者かが立った」と見ることができるだろう。彼らはユダヤ史上最悪の役者というほかない。預言者ダニエルが記したようにこの不法な者らの「行く先(翼端)には滅びがある」。(ダニエル9:27)

実際、彼らはエルサレムの荒廃を呼び込んだ。
総勢六万に上る大軍を率い、既に皇帝と呼ばれたティトゥスではあったが、懐深くも神殿と聖都を残すべく再三再四熱心党と強盗集団への説得を繰り返したのである。


だが、ユダヤのならず者らは、まるで勝ち目がないにも関わらず投降を拒み続けたので、市内は物資に窮し、遂に常供の犠牲も絶えてしまい、美麗を讃えられた聖都と神殿も徹底的な破壊に至るのであった。


その過程で、無数の命が塵芥のように掃き捨てられた。
攻囲が始まったときには春先の「過越しの祭り」の時期と重なり、エルサレムはユダヤ人で溢れ、人口が何倍にも増えていた関係で、城内では食糧不足が速やかに進行し、僅かな食料を巡って奪い合いがあちこちで起こり、やがて若者ですら栄養不足から手足は萎え腹部は突出したという。
そして遂にネブガドネザルの攻囲のときと同じく、母親が子供を食らうという事態にまで致る。街路に散乱する死体からは疫病が発生し、それは体力の落ちた人々を容赦なく襲う。

こうして「食糧不足と疫病」を予告したイエスの言葉が重みを増す。
そのような状況下では、確かに「孕まなかった胎と含ませなかった乳は幸いだ」と言われるだろう。

聖都の壊滅、そしてその凄惨さは古代バビロニア軍による攻囲の比ではなかった。
ヨセフスによれば神殿の焼失は、カルデア軍のときと同じ夏のアヴの月の9日となったという。ヨセフスの挙げる数字には相当な誇張があるとされるものの、110万の死者というのは、未曽有のユダヤ人殺害がなされたという表現として読むことができよう。(ティベリウス期の帝国内のユダヤ人の総数が400~450万人と推定する現代の資料がある。そのほとんどがディアスポラであった)

エルサレムの破壊の程度も徹底的なものとなった。城壁を調査できたネヘミヤのときと異なり、此の度はあたかも絨緞爆撃の跡のようにエルサレムは地下施設と路条を残して更地のようにされ、ティトゥスが命じて地上に残ったのはほんの三つの建築物だけであった。そのため、イエスの時代の遺構も不明瞭で、現代でも大祭司の館や総督館、ゴルゴタの位置など不明なものが多い。

やがて帝国は、反乱を繰り返すユダヤ人の当地への定住を禁止するに及び、ローマ属州ユダエアの名称はついに地図から失われる。その後、この地域はパレスティナの名を以って呼ばれるようになり、それが現代に及んでいるのである。

ユダヤの民は、奴隷や剣闘士の需要をまかなわされて帝国の各地に散って行き、大半は流浪の民となった。ユダヤ人には特別な税金が課されるようになり、残った民も135年のバルコクバの乱の終りを経て、エルサレム地区への入域さえ叶わなくなってしまう。

かつて、バビロニアによる神殿の破壊からは百年かからず復興したユダヤ=イスラエルも、ローマ軍攻囲の後は二千年が経過しようとする今なお神殿祭祀の再興を見ず、「彼らのメシア」は依然現われていない。

それを思えば、ユダヤ人にとって「世の初めから今に至るまで起きたことがなく、その後も起きないような大患難」がエルサレムに臨んだと言ってよいであろう。これらすべての患難は、メシアを退けたユダヤ民族の結末となる「邪悪な世代」への処罰として臨んだ。つまりそれは、モーセから千数百年の代々続いたユダヤという偉大な体制の歴史を閉じる「終結」であった。(マルコ13:19/ルカ3:17)

一方ではその以前に、神はキリストを通して「新しい契約」に聖なる人々を招き、「神のイスラエル」を発足させていたのであった。それこそが血統上のユダヤに替わって、律法によらずにアブラハムの約束を受け継ぐ新しい体制の誕生であった。(ガラテア6:16)


-◆その世代に起こらなかった事柄-------------------------

さて、このように神殿の石についての弟子らの質問の答えが、現実となってユダヤ人とエルサレムに降りかかったのだが、イエスの預言にはそのときに当てはまらない部分が残っている。

弟子らは、為政者の前に際立った仕方で立たされておらず、聖霊が反駁のしようもない語りを行うのを誰が聴いただろうか。(マタイ10:17-/マルコ13:11-)
明らかに『雲と共に来る人の子』の姿を世界はまだ見ていない。(マルコ13:26/ルカ21:27)


では、それらの残された部分はどうなるのか?
それはなお将来に成就を控えているのだろうか?

第一世紀に成就した預言の最終的な実現を見るのはまだこれからと言える。
イエスがユダヤの体制の終焉を預言する中に、『起きたこともないような大いなる患難がある』と『この世』の終わりの預言を含んだように、ローマ軍によるエルサレムの滅びは、将来のユダヤ一国の出来事を遥かに超える出来事の予型であったことを教えている。(マタイ24:21)

エルサレムの聖所を汚して、ユダヤの体制の終わりを招じ入れた熱心党や盗賊集団が居たのだが、来るべき時代にも何者か「荒廃をもたらす憎むべきもの」がいるが、未だ確定していない。(マルコ13:14)

将来のそのものは、同様の行動をもって象徴的「聖所」に現われるであろう。その聖所とはキリストと共に神殿を構成する『聖なる者ら』を蹂躙することを意味するのであろう。

だが、その蹂躙とは『二度死んだ木』のように神からまったく打ち捨てられた地上に残るエルサレム市は何ら関わらないものである。

それでも、先の成就と同じく、その象徴的「聖所」は、その者が立つときに神の目には聖所ではなくなり、打ち捨てられた汚れた場所となるとしても、それら『荒廃をもたらす憎むべき者』が原因して諸国民は象徴的「聖所」または「エルサレム」を踏みにじるのであろう。(ダニエル8:13)

我々はそのまったく強情な悪党らの正体を見るのだろうか。
しかし、その前に『聖所』に相当する『聖なる者たち』が、真に聖霊を注がれ、奇跡の賜物をもって現れなくてはならない。(黙示録11:1-3)

だがしかし、将来の悪党どもに相当する者らは、間違いなく地上に関わるであろう。即ち、『一人は連れてゆかれ、一人は残される』というキリストの警告にあるように、地に残されるユダ・イスカリオテのような『滅びの子』であり、『聖なる者たち』の内からの脱落者らが、地上のエルサレム、またはその近郊に関わり、『背教』に関わる何事か不善を為すことは予期されるべきである。(ルカ17:33-35/テサロニケ第二2:1-10)



こうして、共観福音書の後に記され、エルサレムの荒廃を経てなお終末預言を繰り返す預言の書、旧約への許多のリンクを孕んだ聖書全巻の封印にして最も不可解とされる最終巻、「ヨハネ黙示録」へと我々の目は向かう。
その成就するときは、第一世紀の預言のみならず、聖書中の預言がそこに集中する世代となるだろう。




   新十四日派  ©2011  林 義平
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まず、なぜ小アジアか?といえば・・
そこにキリスト教の完成を見るからである。
(このブログで「小アジア」と称するのはローマ帝国のアシア州とその近隣を意味する)

教父学のジャン・ダニエルーも述べるように、第一世紀後半から第二世紀にかけて、小アジアのキリスト教は「異常なほどの盛隆を見ていた」とされている。

この時期のキリスト教を見回すと、キリストの弟ヤコブが率いたユダヤ、ペテロの影響のあったアナトリア北部や東方、パウロの育てたギリシア本土やローマ、これらの地方はそれぞれの指導者を西暦60年代半ばに相次いで失っている。
したがって70年以降、十二使徒で残っていたのが文書資料に出てくるのは、トマス、アンデレ、タダイ、そしてヨハネとフィリポなどが挙げられるが、分けても使徒ヨハネの存在は大きい。

殊に、ペテロ、ヤコブ、パウロという主軸となって働いた弟子たちの亡き後、西暦70年のユダヤとエルサレムの滅びを免れたヨハネを迎えたアナトリア東部の小アジア地方にキリスト教の最後の発展があった。
それは何と言ってもヨハネの福音書と書簡、そして黙示録という、聖書を締め括るに相応しい見事な著作群にその趨勢が見られる通りである。

使徒ヨハネはイエスの弟ヤコブの率いるユダヤ・キリスト教に以前は属していたであろう。
それはパウロの異邦人キリスト教よりも旧式なユダヤスタイルに甘んじていた。
しかし、西暦70年のユダヤとエルサレムの滅びは「ユダヤ・キリスト教徒」の幾つかの習慣を終わらせるものとなった。
彼らは神殿を失ったので、そこでの祭りも犠牲も意味を失って自分たちがどのような教理に行くべきかを知りたいと願っていたであろう。
そして、黙示録の中のイエスは、神殿の聖所を歩くかのように、小アジアの七つのエクレシアである七つの燭台の間を歩む姿を見せるのであった。それは『エルサレムでもないところで父を崇拝する時』の到来を示唆してもいるであろう。(ヨハネ4:21)

ユダヤのキリスト教徒は西暦66年のローマ軍の一回目の攻囲の前後からユダヤとエルサレムを去って「山地」トランスヨルダン方面に脱出した。
現代に伝えられているのは、当時デカポリス(十城市)に数えられたペッラ市への逃避がある。(ルカ21:20-22)

エルサレムの滅びの後に、使徒ヨハネはイエスの母を伴いおそらくデカポリス地方を経由して、小アジアのエフェソスに落ち着いたであろう。比較的近くのヒエラポリスには使徒フィリポが家族を伴って定住したようである。また、福音書で使徒フィリポと共に行動することの多かった使徒アンデレも小アジアに居たという資料も伝わっている
(AD65年,最晩年のパウロがテモテをエフェソスの監督に任命し、テモテが80歳まで生きたという伝承が正しければ、テモテは当地で生存していることになり、ヨハネたちが宗教的安定性があったこの地を選んだとも考えられる。但し、他の資料ではこの件は明瞭でない)

そうなると、キリスト教揺籃期の柱であったエルサレムのエクレシアの伝統は、ローマの攻囲を避けてデカポリス地方に移り、その後、小アジアに移った観がある。

さて、ユダヤとエルサレムの滅びの以前には、パウロを追い出すほどユダヤ人の先鋭化が進んだエフェソスであったものの、ローマ軍のユダヤ攻撃に前後して、帝国各地のユダヤ人居留地も襲撃や迫害を受けており、エフェソスでも急進的なユダヤ主義は収まっていたであろう。


そのエフェソスに腰を落ち着けた使徒ヨハネではあったが、さらにニ十年以上後の晩年に至って、ティトゥス帝の弟ドミティアヌスの在位中(81-96)の迫害を受け、エフェソスの沖合いのパトモス島に流刑にされる。

しかし、ここで驚くべき且つ極めて重要な啓示を受けた。それは文字に記されて、今日「ヨハネ黙示録」と呼ばれ、今日の新約聖書の最後を占め、許多の謎を含んでこれを封印している。
この書を著した後、ネルウァ帝の時(96-98)に恩赦を受けたヨハネはエフェソスに戻り、周囲に勧められて、あの霊感に溢れる福音書を書き記したという。それに三通のヨハネの書簡も小アジアを通して伝えられている。

時代は西暦第二世紀に入るところであったが、ヨハネはトラヤヌスの治世中(98-117)まで生きたと云わる。

このように、小アジアは使徒ヨハネの声の残響していた場所であり、それは黙示録冒頭の七つのエクレシア名からも充分推察できるところであろう。
つまり、パウロやペテロ、そしてイエスの弟ヤコブ亡き後、唯一小アジアは、教理が聖霊時代の最後まで伸張し続けた地域であって、「聖書の完成」に与った人々がそこに居たと言える。

そのため小アジアのキリスト教は、他の地域のキリスト教と比べはっきりとした特徴をもっていた。
それは年に一度の「主の晩餐」の儀礼と「千年王国」の教えであり、やがて第二次ユダヤ戦役以降にエルサレムのエピスコポスまでも異邦人が任命されるところとなり、パレスチナにあっても失われることになるキリスト教徒のユダヤ性も小アジアにはなお息づく。

聖餐については、イエスとの最期の晩をその懐で過したヨハネにとって、ユダヤ暦ニサン月十四日における年一度の晩餐への思いはゆるぎなく見え、それゆえ彼の影響のあった小アジアのキリスト教徒は主の晩餐の日付から「十四日派」と呼ばれ、また黙示録の「千年期待望」も当初は他の土地に見られないものであった。この点、「ヨハネ黙示録」そのものを受け入れない地域も少なくなかったのである。

しかし、今日の聖書全体を眺めるなら、小アジアにおける最後の使徒ヨハネを以って本来のキリスト教は完成されたと見てよいであろう。聖霊の賜物を通じたキリストの監臨の最後の時である。
(聖霊の去った後は教理の進展はなく、むしろギリシア化など、非ユダヤ人たちによる教えの蹂躙の時となって今日まで続いているように見える)



それでは、二世紀中葉の小アジアのキリスト教徒の様子を想像してみよう。
これは小アジアだけでなく、当時の各地のキリスト教徒に共通に見られた習慣も含むものである。


-◆あつまり-

各都市にはキリスト教徒の会衆(エクレシア)に監督(エピスポコス)が任命され、集まりの運営には長老たち(プレスビュテロイ)が諮り、それを執事ら(ディアコノイ)が行った。選挙は行われなかったようである。
(監督と長老団の関係は地域によって幾らかの違いがあったが、小アジアでは執事らは監督に直属していたと言われる)

エクレシアに、聖霊の賜物を受けた「聖なる者たち」(ハギオイ)が居れば、エクレシアの集会の内容はこれらの人々の聖霊の賜物による異言や預言などが供された。
この点でパウロは生前に、コリントスのエクレシアには「異言」や「預言」ばかりでなく、あらゆる聖霊の賜物が揃っていることを褒めていた。

加えて旧約聖書(ギリシア語訳)や後には福音書、またパウロらの手紙からの朗読があり、文字が流暢に読め、かつ声の通る者が朗読者となっていた。朗読の後にその講釈があり、これは「知識」の賜物を持つ聖徒、あるいはプレスビュテロイ(長老)の務めであったろう。
殉教者ステファノはこの「知識」の賜物を得ていたのであろう。ペンテコステから然程経ていない時期に、「神殿に神は住まず」というユダヤ人にしては驚くほど斬新な理解をみせている。

このように聖霊はすべての弟子らを教えるものであった。
地上に居たときのイエスに会っていないパウロが「主はこのように言う・・」と述べるとき、それは彼に宿る聖霊を通してイエスの言葉を聴いていたのであろう。しかし、ヨハネの頃には偽の霊感が起こるようになってきており、聖霊ではない別の霊の言葉を語る者や、聖徒と装う不道徳な偽聖徒が利得を得ようと現れてきた。
それはパウロも警告していたのだが、ヨハネの晩年にはその圧力は非常に強くなっていたことが窺える。その背景にはハギオイ(聖徒)の減少が明らかである。

それに加えて、グノーシス運動の台頭がある。この創唱者のひとりケリントスなる人物はヨハネと同じ世代のユダヤ人であったという。このユダヤからの教えは、ユダヤとエルサレムを失って自分たちの神を逆恨みするようなところがあり、現実逃避的教理を有していた。つまり、創造物はすべて失敗作であり、造った神も劣った存在者であるという。

キリスト仮現説を唱えるこの派の活動は伸張し始めたが、ヨハネは「キリストが肉体で来たことを告白しない霊感」を強く指弾した。イエスその人を肌で知るようなヨハネにとってそれはまったく受け入れられない教理であったに違いない。

しかし、キリスト教徒には聖霊の降下が続いていて、全体の教理を導き、聖霊の賜物を持つ人が居る間は破壊的分派は成功していない。
殊に使徒ヨハネの影響の残る小アジアは、グノーシス主義の影響から免れた数少ない地域となったという。そのような異なる教えを持ち込もうとする者には「挨拶の言葉もかけてはならない」というヨハネの警告は功を奏したのだろうか。


さて集会では、聖霊の賜物によってあのペンテコステのときのように聖徒たちが一斉に話し出すと集会全体の益にならないからと、一人ずつが数人だけ話すよう、かつて勧告し秩序付けたのはパウロであった。

それは聖霊の賜物が憑依状態に陥るものではないことをも教えている。賜物が臨んでいる間も、それぞれが自分の意識を別に持っており、賜物をコントロールできたことをパウロがはっきりと書いているのである。(コリント第一14章)
しかし、その賜物を持つ人々は減少しており、ヨハネの晩年には小アジアでも次第に背教への危機に瀕してゆくことになる。



集まりは夜間にも行われていたようで、遠くのエクレシアから誰かが訪問すると、話を聞くためにその都度、昼夜を問わず不定期に集まりを催したようである。
ユダヤからの使徒らを受け入れた小アジアのエクレシアでは、旧来通り第七日の安息が行われていたようである。
聖餐(主の晩餐)は、小アジアでは年に一度、ユダヤの除酵祭に日付を合わせていたことをエフェソスのポリュクラテス(c196没)が証言している。
(二世紀初め、シリアのアンティオケイアのイグナティオスがこれらをユダヤ的と批難していたが、それは「パスカ論争」に発展している)

集会場所は大き目の個人の家が用いられた。
古代の家は、よほど貧しいか狭い市街地の家でもなければ、今日の電気や水道、ガスなどの設備がない分、火を扱う場所や井戸などの台所の広さは今日の住宅の比ではない。古代の彼らが近代的住宅を見れば、「ウサギ小屋」のように揶揄されても仕方ないだろう。
加えて奴隷たちや家畜類を用いていたのであちこちに大きなスペースを必要としたから、百人ほどの人々が集まれる部屋をもつ家庭は少なくなかったようだ。

しかし、信徒が増え、エクレシアに余裕ができると皆で資金を集めて集会のための建物を手に入れた。当時のギリシア圏には哲学者たちが多く、自分の学校(私塾)を所有していたが、あちこちの寂れた学校跡は適した集会場所となったであろう。かつてエフェソスでは、シュナゴーグでのユダヤ人一半の反対行動を避けようとしたパウロが、無名な哲学者テュランノス(ツラノ)の講堂の空き時間*を利用したという。*(西方写本のあるものは、パウロが午前11時から午後4時までこの講堂で講話していたと註釈している)

他に、公の集まりではないようだが「愛餐」は互いにもてなす習慣である。
それは人種や貧富や知己の有無といったさまざまな違いを越えて友誼を深め、持てる者が持てない者を歓待する宴であったが、今日の先進国の教会で見られるような飽食者同士の料理を競うような自己満足の「愛餐」とは様子も意義も異なるだろう。
このためキリスト教徒は、見知らぬ土地への旅行においても便宜があった。(これはやがて偽信徒に悪用されることになったが、使徒ヨハネやキリストの弟ユダはこれに警戒するように求めている)

ユダヤ教にはモーセによって年三回の祭りなど(大会)が規定されていたが、ユダヤ人キリスト教徒であっても既に神殿を失っており、キリスト教にはこれ類するものがなく、宗教的理由でどこかに向かうとしても個人的な旅行が多かったように見受けられる。(但し、ユダヤ人キリスト教徒がユダヤの暦を用い続け、今日のユダヤ人がするように家庭でその日を祝わなかったと言い切ることはできない)

集会の方法はそれぞれの地方によって幾らかずつ異なっていたであろうから、旅をして各所で交流することは新鮮さを得る機会にもなったであろう。



-◆ 書 物 -

聖霊が去った後の時代の集会については、聖書からの朗読がなされたという。こう述べる殉教者として著名なユスティヌスの時期(c.165没)には、ローマの彼の周囲では、聖霊が集会の内容を導くことは無くなっていたようである。
しかし、朗読の習慣は、諸国の異教のような偶像に香を焚くことなどの儀式中心の崇拝からすれば、キリストが中心に据えられていても、なお「聴いて学ぶ」というユダヤのシュナゴーグの流れを参入者に感じさせるものであったろう。(ローマ10:17)

もっとも新約聖書が今日の形に編纂され始めるのは第二世紀以後のことで、聖書の朗読に供するべく、パウロの書簡群が各地で筆写されつつあったが、実際には現在新約聖書に収められている以上にパウロが多くの手紙を書いていたことは聖書に収められた手紙文からも知られている。
新約聖書が編纂されるまでの弟子らの必要を満たしていた書物として、「十二使徒の遺訓」(「ディダケー」)が読まれてもいたであろう。この書はハンドブックのような案内書以上のものではなく、「経典」とは云えず、また信徒を縛る修道院の規則のようでもない。

小アジアでは、それらが読まれているほかには旧約のギリシア語訳である七十二人訳*が専ら用いられていた。
*(第五世紀、アウグスティヌスの時代に七十人〈セプチュアギンタ〉と略して呼ばれるようになった)
使徒ヨハネの著作群がやがて加わって新約聖書が綴じられるのは更に多年を要したらしいが、小アジアが護持する「黙示録」についてはシリアなど地方によっては受入れに難色を示したところもあった。

その背景として、使徒たち初代の著名な弟子らが世を去る第二世紀半ばから、あちこちで著名な人物を騙る、程度の低く不自然な内容の疑文書が多数噴出してきており、「ヨハネ黙示録」の際立った難解さにも疑いの目が向けられたためである。しかし、聖霊の導きが預言者らの減少に伴って退潮してゆく中にあっては、かつての使徒らの残した真正な著作をまとめるべき焦眉の急が感じられたに違いない。


他方、集まりでは崇拝に関する歌がまとめられていたようである。それがどのようなものであったかは楽譜らしいものも無い時代のため、残念ながら伝えられていないが、ユダヤの詩篇歌の延長線上にあったのかもしれない。但し、当時は器楽は官能的(或いは俗的)とされ、集まりでは採用されなかったという。今日ビザンティン系のギリシア語の聖歌を聴くことができるが、これは第四世紀以来の伝統を継承しているというが、第二世紀のものは、単声のよりシンプルな読誦に近いものであったのであろう。
(後にヨーロッパ中の教会堂に置かれるオルガンは、この時分にエジプトで水力を利用した「水オルガン」の形で存在するようになっていたというが、まだキリスト教と出会っていない)

それはユダヤ神殿のかつての大合唱と管弦楽による祭日の崇拝とは対照的に、こじんまりしたものであったに違いない。エクレシアでの聖歌は、シュナゴーグでのユダヤ教の賛歌に似ていたようで、音程を定めるための先唱者を司式者が務めたところは共通していたと言われる。(これは後のアカペラによるミサ曲にも痕跡を留めている)

初代キリスト教徒の集まりは礼拝の要素はほとんど無く、主の晩餐やバプテスマ以外は「儀式」ではなく、愛を培い聖霊からの知識を分配するような「集会」というべきであったろう。そこで複雑な合唱があったようには思われない。

それでも、霊の賜物の中にはこの点でのもの(霊の歌)があったかも知れない、おそらく楚々とした音の動きの狭い落ち着いた曲調は、次第にギリシア圏各地のあるいはヘブライの音律によって多様化していったであろう。それは中世期から今日まで伝わる八種類の「教会旋法」に痕跡を残しており、この中にも小アジアの地名を見出すことができるが、当地の音楽の繁栄を垣間見るかのようである。

詩を作り出すことにおいてサルディス市のメリトン(c.180没)は傑出した才能の持ち主であった。彼の講話はそのものが押韻された詩を成しており、ヘブライの聖書の故事をキリスト教の上での意味を与える対型論のはしりであったから、タナハを彼が「旧約」と呼んだのはなるほど頷ける。後のポリュクラテスもメリトンについて「彼はまったく聖霊によって語った」と賛意を記している。



-◆信徒と聖徒の構成 -

それぞれのエクレシアには聖霊が灌がれ、その賜物を持つ人々「聖徒」(聖なる者)と、賜物を持たない「信徒」からエクレシアは構成されていた。初期の「エクレシア」では、ほとんどの成員が聖徒であったが、時の経過と共に信徒が増えていった様が見受けられる。第二世紀に成立したとされる外典「イザヤの昇天」では当時のシリアからエクレシアに預言者が絶えたことが伝えられている。

使徒パウロはその書簡の前後の挨拶で、それぞれの人々に挨拶をしている。
例えれば、エフェソスへの手紙の冒頭では「聖なる者たち、及びキリストと結ばれた忠実な者(「信徒」と同義語)たちへ」とあり、コロサイへの手紙には「キリストと結ばれた聖なる者たち、そして忠実な(「信仰ある」と同義語)兄弟たちへ」となっている。
ヘブル人書簡では、内容にその差が現れるようになっているのが観察される。
エクレシア内の信徒と聖徒

会衆がエクレシア、つまり「召しだされた人々」の意で呼ばれたのも、主には聖徒たちを中心として集まりが構成されていたことを窺わせている。
というのも、聖霊の賜物を保持することは、天でキリストと共になることの事前の証(手形)であるとパウロは書いている。

それは、人の側から働きかけができるものではなく、上からの選びによるのであり、人はその条件をさえ付けることができない。
例えれば、パウロの助手テモテであっても、パウロが按手したときに初めて預言の賜物を得たとあるが、パウロが聖霊の賜物を授けたわけではない。

選ばれた聖なる者「聖徒」は、天でキリストと共に「王」(支配者)また「祭司」(贖罪者)となるよう招かれたのであり、彼らの本来の務めは彼らの死して復活した後にある。
その生前に地上で聖霊の賜物を受けたのは、仲間の聖徒を集め出す目的ばかりでなく、聖書教からキリスト教を完成しそのメシアの王国を地に知らせておくことであったろう。

彼らを通して、王国の良い知らせ、すなわち「福音」が伝えられると同時に、王国の完成に至るどの段階に時代があるかが残りの人類に知らされていたからである。(それは現在、キリストの臨御を待つのみとなっている)


-◆ 宣 教 -

当時のエクレシアの集会は、聖徒らの信仰の発露や友誼と宣教がその主な目的であった。
宣教は本来、アブラハムの相続財産である王国を受け継ぐべきユダヤ人に向けられたが、イエスのときと同じくユダヤ人の反応は芳しいものではなかったから、コルネリオ以来、異邦人からの者も聖徒となることが許されたので、異邦諸国民に向けても宣教が行われてゆくようになった。

それで、パウロたちの宣教方法に見られるように当初はユダヤ人の会堂でユダヤ人が宣教を行ったが、これは今日見られるように異邦人による異邦人への宣教が専らとなってゆく。

だが、異邦人同士の新しい方式の宣教方法がどのようなものであったかは資料に明瞭にないが、長途旅行の困難さに立ち向かったことは間違いない。宣教上の未開地へと、勇んで向かった事例が残されている。

また、聖霊の降下のあった時代には、その奇跡的賜物そのものが人々を招き寄せる働きを果たしており、宣教は集会を中心とするものであったように見える。コリント人への第一の手紙の第14章には、外来者が預言者らにその秘密を暴露されてゆき、エクレシアに平伏するシーンが描かれている。

初期宣教に携わる人々の熱意は、パウロやバルナバばかりでなく福音宣明者のフィリポのように聖霊の裏づけによってますます強められたに違いない。聖霊が各地で注がれることによってエクレシアも増え広がり、更に未踏の地へと聖徒らを旅させたことであろう。

 彼らが第一に伝えるべきは、ナザレのイエスがメシア=キリストとして来られたことを世界に知らせることであった。無名であったその名は、パウロの存命中でさえローマ帝室や親衛隊にも広まったことを彼の書簡が記している。他の十二使徒らも世界宣教に旅立って行き、各地で殉教を遂げたが、イエス・キリストの名とその犠牲の死による救いはローマ帝国の領内を越えて広く知らされてゆく。

 遠く離れた地にあってもバプテスマを施し、按手すると聖霊が降り、その地でもエクレシアの開かれる喜びは何事にも増して達成感を与えたことが想像される。
パウロの最晩年には地中海世界からメソポタミアに至る地域でキリストの福音が伝えられていたが、西暦70年の「火のバプテスマ」を経た後は、生き残っていた使徒たちは東西に旅立って行ったとされている。

 トマスはインド方面に向かい、そこで自分の兄弟マタイの著したヘブライ語写本の福音書を見たという。
アンデレはスキティアに、タダイはオスロエネへ向かったという資料的痕跡もある。
 後に小アジアからは、使徒ではないがヨハネの直弟子ポリュカルポスの知人で、スミルナ市出身の高名なエイレナイオスがルグドゥヌム市(現リヨン)に渡り、苛烈な迫害に耐えたゴール族信徒たちを束ねるエピスコポス(監督)となって、南フランスに小アジアの伝統を移植している。
今日、ユダヤ教の聖典を「旧約」として異邦人キリスト教徒の読むべきものとされたことは彼ら小アジア人に由来するといわれる。


-◆バプテスマ-

新規参入者がキリストとその神に信仰を働かせ始めると、教え手によって教理教育が施され、バプテスマへの準備が行われる。
初期にはその準備は簡素なものであったようだが、時代が下るに従い、受洗への準備は儀式的になっていった。

西暦第二世紀頃には、バプテスマは春先の主の晩餐の前後に行われたようである。
それは教理教育の準備段階を経て、前日(あるいは数日)の断食があり、それまでの個人の犯した罪の告白があり、それが許されるよう祈祷がされる。

バプテスマそのものは神と子と聖霊の名において三回水に沈められる。
これはマタイ福音書の最後に明示されているが、三位一体を信じていたわけではなく、そのギリシア神秘主義哲学との混合物が登場するのに、まだ多くの時間と哲学者らの根回しが必要であって、この時分では無縁であった。また、北イタリアから南フランスを経てスペイン北部の地方では水から上がったあとに足を洗う習慣もあったと伝えられている。

更に、水から上がると「ミロン」と呼ばれる香油の塗布が額などに行われたとも伝えられている。
罪の告白と塗油はヤコブの手紙を彷彿とさせる習慣である。

エクレシア内で指導的立場につくことのない女性ではあるが、バプテスマに関しては新たに信徒となる女性たちの用に仕えるためにも古参の女性信徒が任じられて居たようだ。

彼女らはバプテスマでの世話や、女性同士での世話の必要に有用であったことであろう。(パウロは女奉仕者(デイアコノン)として女性フォイベの名を挙げている)


バプテスマを受けると必ず聖霊を受けるとは限らない。
聖霊の有無は周囲からも観察されうるもので、聖徒とは成らず信徒で留まる人の比率は時代と共に増えてゆき、聖徒は希少となりやがて姿を消していった。

二世紀初頭にシリアの護教家クワドラトス(129没)は自身が預言の霊を持っていたが、彼はイエスに病を癒された人が彼の時代(125年頃)、まだ生存していたと証言しており、この時代には「主の奇跡的力」が残っていたことが窺える。


-◆生活様式-

「クリスティアノイ」と半ば蔑称で呼ばれたキリスト教徒ではあるが、彼らを外見で特定することは難しかった。
ユダヤ教徒なら、同じ民族がかたまって居住し、服にある青糸の房縁、また異邦人と異なる食物や作法でそれと知れたが、キリスト教徒は一般庶民と変わらない服装をし、市民と同じく大衆浴場に行き、おそらくは浴場の付帯施設でスポーツも適度に行い、食物に本来禁じられるものはなかった。

しかし、問題がまるでないわけではない。
その一つが外食である。ヘレニズム世界では多神教の神々の神殿が多くの都市に林立しており、人々は供物として多くの食物をその神々に献じていた。
しかし、そのままでは折角の上等な食物も無駄になってしまうので、それらの食物が奉納された後に市場(アゴラ)で売られ、そこは今日のスーパーマーケットの様相で、商品の中には神殿から下げられた「霊験あらたか」なものも売られていた。

また、神殿内にも食堂を付随しているところも多く、そこでは神前から下げられた食物が調理されて供されていた。
そこは一般庶民にとっての今日のファミレスといってもよいようなところであったらしいが、この会食は一般に、その食物を捧げられた神との交友、また崇拝の一環と位置付けられていた。

そのため、キリスト教徒の良心が鋭敏な者は、これらを避けようとして、一度神前に供された食物を共にする「悪霊の食卓」を伴にはしない決意を固めていたし、神殿から下げられた肉を買うことも避けていた。
しかし、その一方で、弟子としての経験が長く円熟した人々は、「食物はすべて創造の神からのもの」と拒む理由はないと見ていたので、兄弟同士が互いを裁いてしまう危険もあった。

これをパウロは、良心の鋭敏な(弱い)人々に円熟した者らが配慮して「つまづかせる」ことのないようにと調整を図っている。そして彼は「自分の兄弟をつまづかせるのであれば、もう二度と肉を食べない」とまで言っている。
つまり、規則を定めてそれを守ることに腐心したユダヤ教と異なり、キリスト教は自らの愛(アガペー)に基づいて自らを律するという、より高度な「愛の掟」を有していたといえよう。そこには権利を主張してばかりの態度は見られない。



-◆無理解と反対-

エクレシアは世界各地で設立されていったが、反対にも遭遇しなければならなかった。
その多くは故国を失ったユダヤ教徒の先導による嫉妬深く陰険なものであったらしい。帝国がキリスト教徒の迫害に乗り出すときにはユダヤ教徒はせっせと告発に励み、当時のキリスト教徒の強烈なユダヤ嫌いの原因を作ったが、その影響は今日まで続いている。

ユダヤの安息日(シャバット)を嫌った異邦人的キリスト教徒はキリストの生き返ったシャバットの翌日(週の第八日)を主日(キュリアケー ヘメーラ)と呼んで安息するようになる。
それがローマの太陽曜日(ディエス ソリス)であった由来が後にコンスタンティヌス帝の喜ぶところとなってゆくが、ヘブライの色彩を残す小アジアはこの習慣を持たなかったので、後々異邦人的キリスト教徒との間に論争が起き、日曜安息を強要するローマ国教化の進展によって小アジア式は圧迫されやがて消滅することになる。
だが、キリスト教そのものが安息日を命じているわけではない。

また、キリスト教の全体は「世間の常識」のようなものによっても反対を受けた。
それは、ローマ帝国の版図が広く、その統治に益するべく各地の神々とローマ諸神とを同一視する「信仰合同」が進んでいたというところが大きい。

ローマが新しい占領地を得ると、そこの信仰を抹殺せず、却って自分たちの神と同定してしまうことで取り込み、被占領民の前でその同じ神に崇拝を捧げてみせることができたのである。これは民心掌握の一便法である。
こうして広大な国境を持つローマは諸国の神々の入り乱れるところとなったが、宗教合同は次第に諸国民同士の絆を形成していった。

しかし、これを肯じない宗教がひとつあった。ユダヤ教である。
皇帝はこれに手を焼くことを恐れ、帝国はユダヤ教を保護教とするのだが、ユダヤ教から更にイエス派という得体の知れない新興宗教が現れてくる。今日なら「カルト」と呼ばれたであろう。

それはユダヤ教とも異なり、服装や習慣で見分けることもできない。
初期のキリスト教徒に十字架は用いられておらず、イエスの姿を絵に描くことさえ避けて、人型(十字形)をかろうじてイエスの印*としていた初期は、偶像崇拝を強く禁忌しており、まして主殺しの刑具に向かって祈りはしない。第二世紀ではキリスト教徒は社会に希薄で、ときに迫害も起こるのであるから、もし首から表象物などぶら下げていれば、それは「逮捕してください」というに等しい愚行でしかない。 *(カッパドキアに多い、これが十字架に発展したのかも知れない。十字架が崇拝に現れるのは第四世紀以降である。)

ただや鳥の簡単な図柄が仲間であることを素早く知らせるささやかなサインであったから、「踏み絵」のような崇拝物を用いた「宗門検め」も彼らには通用しなかったであろう。
当時は極刑として十字架刑は続いており、十字架を自分たちの表象とすることさえ異様で常識外れなことであった。
五世紀以降に始まる十字架を堂々と頚に下げる風習は、ローマ国教化によりキリストを葬った十字架刑が悪と見做され廃止されたこと、即ちキリスト教が「この世」と妥協したことの明確な証しというべきなのであろう。

第二世紀当時の民衆からすれば、この輩はローマ万神に犠牲も捧げず、一般常識たる皇帝への焚香すらもしない奇怪な存在である。もちろん誰も皇帝が本当に神だと信じているわけではないが*、形だけでもそうすることで帝国民は皆仲間だという心地よい共感を得られるものである。*(自らが神であると称えた皇帝ネロ、カリギュラ、ドミティアヌスは皆、弑殺されている)
このような帝国民の「友愛」(フィランスォローピア)を否定するような秘密結社のような連中は神々を認めない「無神論者」ではないかとされた。

こうして、帝国内のあちこちに僅かずつ生活するキリスト教徒は、民衆一般から多神教でないゆえに「無神論」と、加えて世間的常識の通用しない者「人類憎悪」(ミサンスォローピア)の悪人、あるいは世間に合意することのない強情者として見做され、当局からも罪せられるのであった。
かと云って、社会一般からキリスト教を理解してもらい、ある程度の市民権のようなものを持つに至るのはまだまだ先の先のことであり*、迫害が強まるに従い、信徒たちは社会の片隅に目立たぬように集まりをもつようになってゆく。
しかし、それはますます危険視される原因ともなった。*(ここに護教論が多数著された理由がある)
 

今日でもキリスト教の宣教や宗派によって集会も含めて禁止令を出している国々があるが、そのような国の集まりでは当局の妨害を案じて夜間に灯火を消すことがある。
西暦第二世紀もそのようにしていたようである。
そこで、キリスト教徒は夜に消灯して乱交するとか、聖餐のことであろうが、子供(人の子)の肉を食し、血(契約の表象)を飲んでいるとの噂が世間に恐れを拡大させた。ここでも風評のお先棒を担いだのは嫉妬に狂ったユダヤ教徒とされている。

それでもキリスト教徒は増えてゆく、それは外面的宣教が困難な中で、信徒らの内面の輝きが人々を引き寄せたからであろう。
教勢は静かに拡大し、ローマでは帝室からも殉教者が出るようになる。いや、この点で言えば、帝都ではパウロの到着の前ですら帝室の中からも告発される者が出ていたのである。

小アジアにおいては、使徒ヨハネの直弟子でスミュルナ市のポリュカルポス(c.155没)の殉教も書物となっており、その死をものともしない信仰の崇高さを今でも読むことができる。

また小アジアからの移民が多かった南フランスでは、著名なエウセビオスの「教会史」が採録しているルグドゥヌム周辺での迫害の記録に残る老若男女が、厳めしい裁きの場や苦痛の拷問台の上で「わたしはキリスト教徒です」と告白しつつ次々に殉教してゆく様子は、まことに今日のキリスト教徒の襟を正させるものである。(ヨハネ14:27)

彼ら殉教者たちが闘技場で示す勇敢さや死に面してさえ保つ静穏の見事さには、やがて「世間一般」からも同情と尊敬の声が湧き上がる。
そして、人々はこの気高い崇拝に関心を向けるようにさえなってゆくのであった。

迫害者らがコロッセオで猛獣の餌食にしようと、宴会での燃える巨大な松明の芯にしようと、彼らの主イエスを否認させて征服することは誰にもできなかった。

むしろ、征服したのは殉教した者たちの方であった。
パウロの言葉を借りれば、彼らは崇高な死の勝利を以って「この世をまるごと凱旋行列に捕虜として引っ立てた」のである。
殉教によって世を征服した彼らは、まことに「聖なる者」としての名と、その「外衣」を汚さずに主に続いたのであった。





      新十四日派   © 林 義平 jst
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エイレナイオス ⇒ http://irenaeus.blog.fc2.com/blog-entry-94.html









小アジアキリスト教

歴史書のように読める聖書要約本 



聖書理解の鍵は、まず全体の大枠を把握することに尽きる。


新旧の聖書を一渡りで見回せるよう目指した本!
簡潔ながらユダヤ教とキリストの深い関係性が浮き彫りにされる!


-◆上巻 「アブラハムからユダヤのイエス拒絶まで」 -------

この一冊でアブラハムから始めてキリストまでをコンパクトに収めた。
歴史の上ではエルサレム神殿の滅びまでを扱い、ユダヤ史を聖書全体の観点から俯瞰している。

書中では、読者が聖書をいちいち引かなくてもよいように、聖書中の言葉を出来る限り書き込むようにし、重要な部分や単語には原語や脚注を付した。

聖書の別の場所で関連する箇所や、ヨセフスやクセノフォンなど他の歴史資料を補いつつ、出来事の概要を複数の視点から見られるよう心がけたつもりである。それによって、立体的に聖書歴史を眺めることができるので単なる要約ではない。


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 電子版を発売中¥350 ⇒ amazon
(これらの注文において林義平は何ら個人情報を得ることはない)    

82頁と薄めながら、A5サイズを更に二段に組み、内容を倍程度にすることにより価格を下げるよう努めたつもりではある。

-◆聖書の述べるままに捉えた内容----------------------------

キリスト教の入門書といえば、聖書の陳述に対して「学術的」な説明がなされるものが多いようだ。
現代生活において我々は、確かに専門家の科学的知恵のお世話になるのがごく当然の、そして間違いの無いアプローチとされている。

だが、事が宗教となると、どこまで科学的な物差しが役立つだろう?

科学に掛かれば、聖書中の奇跡はそのように見えただけの錯覚か、象徴的意味があると教えられ、預言の成就も後代の書き加えと語られる。

それは「そんなばかなことが起きるはずは無い」という聖書記述に対する「現代的で洗練されたものの見方」
かも知れず、それらの書物は、こうした「親切」を施して現代人の読者がありのままの聖書記述につまずかぬよう配慮しているかのように見受けられる。そのような「科学的信仰」をどうこう言うセリフもない。

しかし、それでは聖書そのものの言葉に静かに耳を傾けたい人々には、傍らで間断なく鳴り続けるサイレンを聞かされる思いであろう。

そうした人々の数は世の中に少ないのかもしれないが、預言も奇跡も稀釈されずに聖書の語られるままを味わいたいと思う読者にこそ、この「神"YHWH"の経綸」をお読み頂けるなら真に幸いである。

聖書の述べることをそのままに捉えてはじめて、パズルを組み上げるように聖書全巻を貫く企図を汲んでゆくことができ、悠久の時代を貫通する強力な意志が姿を現してくる。

実際、聖書とはこのように只ならぬ本であり、その通りに聖書を単に人の著作とはしない入門書があってもよいであろう。

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「中巻」では、イエス後の使徒の時代にキリスト教が如何に築かれてゆくかを理解する基礎が据えられる。以後キリスト教史を辿って今日の趨勢にまで至る。
(中巻はこちらを)

本書を通して聖書の初心者の方々はもとより、すでにキリスト教徒である方々にも、今一度、聖書全巻からのキリストへの視点を得て頂きたく衷心より願ってやまない。


 



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書中の見出しは以下の通り。

第一章「聖なる国民、王なる祭司」

10 諸国民の父祖           

11 アブラハムの胤          

14 イスラエルの民族移動      

17 律法契約の締結       

18 長男の権による祭司職     

19 律法契約の行方       

20 ダヴィデへの王朝契約    

21 ダヴィデの王都         

22 ソロモンの繁栄        

23 分裂と衰弱           

24 ユダとエルサレムの滅び   

26 イスラエルの回復      

27 巨大城塞都市の油断     

28 神殿と崇拝の復興        

29 苦しみのメシア       

30 新しい契約          

31 最後の預言書         

32 ヘレニズムへ         

35 メシアを待つ民       

 

 

第二章「メシアとエルサレム」

38 長い沈黙の後に        

40 キリストの活動         

40 ユダヤの宗教事情      

42 「ラビ」我が偉大なる師    

43 罪多きもの多くを愛す     

44 宣教の主題         

45 イエスの訓話         

47 キリストの戦い         

48 人々を選り分ける      

50 安息日の奇跡          

52 富者とラザロ         

52 勝利の入城         

54 イスカリオテのユダ      

55 浄められた夜          

56 定められた時に至る    

58 神の子を不法な者が裁く     

59 神の子羊の死         

61 ユダの末路         

61 「大安息日」         

63 イエスとは何者か         

64 エルサレムの二度目の滅び       

66 ウェスパシアヌスとティトゥスの進軍  

67 城下の内乱              

68 ローマ軍の二度目の攻囲       

69 完全なる破壊             

71 失われた祭祀             

71 現れることのないメシア        

 

74 脚 註

 

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「神"YHWH"の経綸」 ⇒ 中巻  ⇒ 下巻

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山上の垂訓における律法の成就


旧約聖書中のはじめの五巻、モーセを通して与えられた見事な条文法である「モーセの律法」は、成立以来ユダヤ人によって精密に写本されて伝承しているので、今日のユダヤ人も「トーラー」と呼ばれるこの律法に含まれるヘブライ文字七万九千八百五十六字をそっくり神に返すことができるという。何と天晴れな事であろう。

だが、その六百近い法律条項で成る「モーセの律法」がキリスト教徒に対してはどのような位置を占めるのかになると、キリスト教界では多くの見方が並存している。

宗派によっては律法は過去のものとなったとされ、過去の遺物を眺めるかのように時折に参照される程度にされている。

他の派では、教えの原則は学べるものであるとされて、似た規定をキリスト教に中に設けているところもある。

また別の宗派では、キリストの「わたしが律法を廃棄しに来たと考えてならない」との言葉から、律法は依然有効であるとされる。

特に多くの人々が従っている見方は、律法の中でも最初の十ヶ条である「十戒」だけは守るべきである、というものであろう。

その理由は、律法の最初の十ヶ条のみが人手によらず書かれて、それらの文字が二枚の石板として切り出されているゆえに、特別なものであるからユダヤ人でなくても信徒は皆従うべしとのことらしい。
それに加えて、先のイエスの「廃棄しない」との発言も十戒の残存を裏付けている、ともされるかも知れない。

その当否を、ここで論ずることはするまい。

だが、キリストが律法について述べた背景や真意を探る試みをしようと思う。

その言葉は、マタイ福音書5章から始まる所謂「山上の垂訓」に含まれている

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「わたしが律法や預言者らを廃棄するために来た、と思うべきではない。廃棄するためではなく成就(満たす)ために来たのだ」。

「真にあなたがたに言うが、律法の一点(ヨッド[י]またはイオータ"i”の下点)一画が消入るよりは天地が消え去る方が先になろう。

れゆえ、その最も小さな条項一つであってもそれを廃して人々に教える者は、「天の王国」のおいて「最も小さい者」と呼ばれよう。

だが、逆に行うように教える者こそは「天の王国」において「大いなるもの」とされるであろう」。

「真にあなたがたに言うが、あなたがたの「義」が書士ら(ソフェーリム*)やパリサイ人に勝らなければだれも「天の王国」に入ることはないのだ」。(マタイ5:17-20)

(*あるいはトーラー筆写の専門家で律法に精通していた「抄経博士」

確かに、イエスは律法を廃止するのではないと述べ、律法は捨て去られるものではなく、以後も残らず存続すると言っている。そして実際ユダヤ人によってトーラーは、確かに地上にも保たれている。


他方、「律法の終わり」を説く一番の論客は何と言っても使徒パウロである。
「キリストは律法の終わりである」と端的述べたのは彼である。(ローマ10:4)
またパウロは「律法はキリストに導く養育係*であったが、・・(イエスへの)信仰が到来し(成長を遂げ)た現在、我々はもはや養育係の世話のもとににはいない」。とまで言っている。(ガラテア3:24-25)(*邸宅の家庭教師、子弟の守役


では、イエスとパウロに「矛盾がある」というべきなのだろうか?

だが、パウロは別の箇所でイエスに近い発言をしている。
「では、我々は自分の信仰によって律法を廃棄するのだろうか?いや、けっしてそうはされないように!むしろ我々は律法を確立するのだ」。(ローマ3:31)


もちろんイエスがギリシア語で話したわけではないのだが、福音書のその言葉では「成就する」(あるいは「満たす」[プレーモゥ])という表現が用いられたのに対し、パウロは「確立する」(あるいは「セットアップする」[ヒステーミ])というように、両者の用いた動詞は異なるものの、「廃棄せず」にそれを仕上げてゆくようなニュアンスで律法を肯定していることを双方に見出すことはできる。


では、パウロの意図するところをもう少し探ろう。
つまり、彼がどのように律法を評価していたのか、という点についてである。



-◆「罪」を知らせる律法------------------------------

使徒パウロはキリストに従う者らが律法に拘束されることを極めて強く指控しているが、一方で、「律法は聖なるものであって、義に適い有益だ」とも述べており、また「律法が聖なるものであるゆえに、自分は肉に属し罪の下にある」というのである。(ローマ7:14)

その肉については「肉は律法に服従しておらず、実際服し得ない」と彼は律法ではなく自らもまとう「肉体」の方を責めている。(ローマ8:7)

したがって、「肉は律法によっては義と宣せられることはない」とも言い「律法によって罪の知識が生じる」という。
パウロは自身について更に語り「自分には善いことを行いたい願いはあるが、肉の傾向がそれをさせず、却って自分の願わない悪へと引いてゆく。・・それゆえ悪を行わせるのはもはや自分ではなく自分の内に宿る「罪」である」という。(ローマ3:20/7:20)


そして「我らはユダヤ人もギリシア人も皆が罪にあるとの告発をした」というのである。
つまり、モーセを介してイスラエルに与えられた律法は、人類の誰にも宿る肉の罪に関する知識を与え、「義人がいない」ことを証したと述べている。(ローマ3:9)

使徒ペテロも律法について『先祖もわたしたちも負いきれなかった軛』 と呼んでいるのであり、誰が律法を全うできたとも見做していないのである。(使徒15:10)


では、罪に関してキリストたるイエスはどうであろう?
ペテロはイエスを指して「罪を犯さず、口に欺きが上らず」と言い、パウロも「罪を知らなかった方をわたしたちのために罪とし、その方によってわたしたちが神の義となるようにしてくださった」と書いており、ヨハネはイエスが贖い代であるゆえに「彼に罪はない」と断言する。(ペテロ第一2:22/コリント第二5:21/ヨハネ第一3:5)

この「罪」というのは、個別の罪を指すのではない。それは我々人類に共通する倫理的欠陥のことであり、それは今このときにも行われている無数の不義、不公正、あらゆる倫理の欠如した事柄の淵源であり、これを絶たない限り、この世が不道徳に支配されている状況は一向に改善しない。聖書によれば、この「罪」(原罪)は人類の始祖から遺伝したもので誰もが避けようのないものである。(ローマ5:12)

それゆえ、その罪を除き去るイエスはアダムの子孫とならない方法で人として世に来る必要があった。

そうなると律法は、我々に罪の存在を教え、そこから逃れ出ることに注意を向けるものであったことになる。
同じ律法には祭祀規定の中に「贖罪」の儀式があったが、それはイスラエルの罪に対して動物の血(魂)の犠牲を要求するものであった。

そのようにして、律法はアダムの子孫である人が皆「贖罪」される必要をも教えていたのである。

しかし、動物の犠牲は人の罪を贖わない。それでいつまでも律法祭祀で動物の犠牲が繰り返されていたのだが、あるいは贖罪の必要のない人が現れて、律法のすべての条項をことごとく超えたとしたら、その者こそ真の贖罪として供される「子羊」となりうる者であろう。(ヘブル10:1-4)

つまり、「律法」が真の贖いの犠牲となる命(魂)を指し示すのである。
律法を超える者であれば、我々生身のアダムの子孫には到底追いつけないほど高い倫理基準をもっていよう。そうでなければ、人類の贖い代とはなり得ない。



-◆書士やパリサイ人に勝る義----------------------------------

さて、「山上の垂訓」のイエスの言葉に戻ってみよう。
『真にあなたがたに言うが、あなたがたの「義」が書士らやパリサイ人に勝らなければだれも「天の王国」に入ることはない』。

「天の王国」が神の傍らに仕えることを意味するのであれば、それは罪ある肉なる者であって良いはずもない。神の倫理基準に達していなければ、天で神の前にただ死を意味するのみである。


したがって「天の王国」に入る者は、あらゆる人間の倫理基準よりも高い位置に居なければならない。
書士やパリサイは律法の墨守、つまり自らの努力によって己を義とする者らであるが、これらの者たちの倫理が見掛け倒しのものであったことはイエスによって暴露された通りである。

イエスの倫理基準は律法主義者より遥かに高いものであったから、彼ら律法主義者が自らの皮相的な義に拘泥する限りイエスと衝突することは避けられなかった。しかし、それは何と無謀な挑戦であったろう。

そして、イエスは律法を引用しつつその真髄ともいうべき意味を知らせて言う--------

「あなたがた(ユダヤ人)は、『汝、殺すなかれ』と(律法で)聴いている。しかし、わたしは言う。自分の同胞に対して怒りを抱き続ける者は皆、法廷で言い開きを求められることになる。また、同胞に言うべきでない侮辱の言葉をかけるものは最高法廷に引き出されるであろう」。「捧げ物のため祭壇まで来ていたとしても、同胞の誰かが自分に反感を抱いていることを思い出したなら、捧げ物をそこに残しておいてでも、まずその仲間と和睦して、しかる後、供え物を捧げよ」。(マタイ5:21-)


こうして、イエスは律法の「人を殺してはならない」の条項一つから、その「殺人」という字面を超えて遥かに「敵意」や「反感」にまでも大きく適用範囲を広げているのである。怒りの感情の中に殺意の萌芽があることはアベルを殺めたカインの時以来、誰にも明らかにされてきたことではないか。

イエスはそうした反感を解消するためならば、イスラエルの聖なる神の前に捧げ物を留め残すことすら不敬とはならないというのである!いや、むしろそうすべきなのであろう。
だが、これは神への聖なる祭祀を非常に重視したユダヤ人には聞いたことのない(あるいは容認しがたい)教えであったろう。彼らは神を祭り上げつつその意志を逸したのである。(マタイ23:16-)


イエスは続けて別の律法についても語る。

「『あなたがたは姦淫を犯してはならない』と(律法で)聴いている。しかし、わたしは言う。女を見続けてこれに情欲を抱く者は、ことごとく既にその女と姦淫を犯している」。

「『妻を離縁する者は離婚証書をこれに与えよ』と言われている。だが、わたしは言う。淫行以外の理由で妻を離縁する者は、彼女を姦淫に曝すのであり、これを娶る者も姦淫を行うのだ。」



「『誓約をして履行しないことがないように』と聴いている。だが、わたしは言う。一切誓うな・・ただ、あなたの是は是を、否は否を意味するようにせよ。・・これ以外の言葉は邪悪な者から出るのだ」。


『目には目、歯には歯を』は同等報復を表す言葉として有名ではあるが、この律法の言葉からイエスの導き出す倫理基準は、まるで正反対ともいえるものである。
自分から外衣を奪おうとする者には内衣をも与えてやるように、と言うのである。
邪悪な者には手向かわず、右の頬を打たれるなら左の頬をも差出し、徴用する者(おそらくは不正な役人)が一里を行かせようとするなら、その者と共に二里を行け、とも言う。


『隣人(同胞)を愛し、敵を憎め』*とユダヤ人たちは聴いていた。
これは自分の仲間を大切にすることが一般的常識に属するものであることを引き合いに出している。

だが、イエスはこうした一般的倫理を超えてゆく。「あなたを愛する者らによくしたからといって、いったい何をしたと言うのか?悪人とて同じことをするではないか」。「あなたを圧迫する者のために祈り、敵を愛せ」。「我が父が完全であるようにあなたがたも完全となれ」。
(*この言葉「敵を憎め」は直接には律法に無いが、「同胞を愛せ」の部分から宗教領袖らによって拡大解釈され、それを民衆は聴いていたらしい

この垂訓の中で、イエスは律法の中の幾つかの掟を挙げたに過ぎないが、これほどの倫理観に誰が間違いなく付いて行けるのだろう?
ここでイエスのしたように律法を再確認してゆくなら、いや、十戒だけであってすらその精髄たる基準を示されれば、我々のような罪ある人間はまったく窒息してしまうであろう。
我々は努力を重ねてすら、まったく嘘をつかないで済むこともできず、神の基準には到底及ばない。まして『天の父のように完全であれ』と言われて、誰がそうできるものだろうか。

本当に、山上の垂訓のようにして律法に込められた精神を追求するのであれば、あらん限りの宗教的情熱を傾けて条文の表面を守ろうとする書士やパリサイ人たちの誇る「義の業」であっても浅薄なもの、いや無駄なあがきとさえ言わざる得ないだろう。


そして、イエスはもちろん自らの述べた言葉、その律法の精神に違わず生きて、律法の要件を充分に成就(満た)し地上の命を終えた。その偉大な生涯は使徒らの深い畏敬の内に福音書に記録されている。

当然のことながら、律法に込めらている神の優れた倫理観が廃棄されるべきものであるはずもない。これらのイエスの指摘の方法に沿って律法を見直すとするなら、確かに一点一画たりとも欠けてよいとは思えないのではないだろうか。



-◆過重な求めからの解放------------------------

それだけではない、律法は肉なる罪ある人間を糾弾し続けるが、その同じ律法は罪から開放されることの大きさをも教えてくれるのである。

こうしてイエスが「成し遂げた」律法は、罪ある人類にはとても手に負えるものでないという真相も明らかにされた。(ローマ3:9)
人が垂訓の教えを守ろうとしても、それはユダヤ人の律法遵守を遥かに越えて難しいのであり、我々はそれを「努力目標」にするのが精精ではないだろうか。

それゆえ、キリストはこのように人が達することのできない律法の要求から人々を救い、自らの罪のない命を犠牲として捧げることで、罪ある人間を律法によらない実現可能な「信仰による救い」へと導いたのであった。

それを可能にしたのが「犠牲の死」である。つまり神と人との仲介者イエスが人類の罪を一身に負って、エルサレムの神殿の捧げ物のような身代わりの死を遂げたのである。


人は自分に「罪」の宿痾のあることを認め、神の前に謙るなら、それを神は許される。
その条件は、「罪の贖い」であるキリストの犠牲に信仰をもつ以外にない。

つまり律法の役割とは、人には罪があり、神の前に犠牲が必要であることを指し示し続けたところにあり、律法の役割は、キリストの犠牲の死を以って終わりを迎えたと言うことができる。(ローマ1:17/ヨハネ14:6)

パウロはそのことが示す事の重大性について人々の注意を促し、「キリストは律法の終わり」と述べたのであり、律法の要求はキリスト・イエスによって一度満たされ、その上で犠牲の死を遂げたゆえに、人々は律法による義を追い求める必要から解かれ、身代わりに死んだイエスを一重に受け入れる「信仰」によってのみ、罪ある人間が「義」(神の倫理基準)に至る方途が一条残されたのである。

つまり、「垂訓」を語るほどの全き義人たるイエスが身代わりの死刑を受けて、律法によって死刑宣告された数え切れぬ罪人を不問にして牢から解き放つというのである。(ヘブル2:15)

これは大変なことである。定められた死刑を牢で待つ囚人が身代わりを立てられて無罪放免される思いとはどのようなものであろうか。
しかも、その罪の許しの先には、神の倫理性に達した人類がある。
パウロはそれを[カリス](「無報酬の賜物」i.e「過分のご親切」)と呼んでいる。(ローマ3:24・・)

キリストひとりだけが果たし得た崇高な「死」の貴重さや、贖われる世の罪の多さ大きさ酷さを考えるなら、その言葉にならないほどの寛大さを前にして、我々は再び罪にまみれたいなどと思えるだろうか?

「山上の垂訓」の中でイエスが律法に示したものは、神の倫理基準が持つ煌くばかりの純粋性と、それが我々には憧憬はできても、到達は不能の圧倒的高みにそれが存在しているということである。

今や律法は、そのようにしてキリストの支払った贖いの値の高さや貴重さを証明しているのである。

加えて『あなたがたの「義」が書士らやパリサイ人に勝らなければだれも「天の王国」に入ることはない』との言葉が、「新しい契約」に預かるべきユダヤ人に語られているところは、まさにその言葉の通りであり、天に召され、天の王国に属し、キリストと共に神の御傍に仕える者となる以上、彼らは「山上の垂訓」に語られたその基準、天界の者の持つ聖なる状態に達することがなければ相応しくない。

「イスラエル」と呼ばれる全人類を祝福することになる「アブラハムの裔」、またYHWHの聖なる什器を担う者が『聖なる者』でなくてはならないと「預言者たち」は繰り返して語ってきたが、メシアの言葉によって、その聖性の如何が垂訓の中で示されたのである。

もちろん、彼らが聖霊注がれた「聖徒」となっても、肉である限りこの高い倫理水準に達することはできなかったに違いない。
だが、彼らが自力でその高みに上ることはできなくても、「キリストへの信仰」が彼らを「新しい契約」へと導き、キリストの犠牲が適用されて、それほどの倫理の高みに達したものと仮承認されたであろうし、その『キリストの丈の高さ』に達することを目標に努めようとすることはできたはずである。

それにしても、契約の下には居ないはずの我々も、キリストのときのユダヤ人と同じ過ちを犯す危険に注意するべきだろう。
つまり、自分の信じる正義や教条に固執して、信仰という神からの無償の「義」を拒むことであり、それはキリストの犠牲の成し遂げた偉業の何たるかをまったく理解も感謝もできてはいないことの露呈である。

モーセの律法の墨守による「義」に固執して、却って「神の義」を得損なったユダヤ人の轍をわざわざ踏むべき理由はないのだが、自らの正義感の赴くままに、他者を裁く人間共通の傾向に注意せねばならない。
確かに人には自ら正しいと思えることがある。だが、それは神の前に誇れるほどのものとはならない。にも拘らず、なお、神は人が何らかの条文規則に従うことを喜ぶだろうか?(ローマ9:31)

もし、『神の義』を求めて『安息』に入らないなら、それは神の贖おうとされている人類全般の「罪」が見えていないのであり、自分は品行方正でキリストの犠牲は要らないと言うに等しいだろう。(ヨハネ第一1:8)
むしろキリスト教徒は、律法主義に後退することなく、「自らの義」を立てることを止め、「安息」に入る機会がキリストにより開かれているのである。(ヘブル3・4章)

つまり、自分の属する「宗派の義」を捨て争いを後にし、「人の義」ではなく「神の義」を求める生活に入り、神の安息に入ることができるであろう。
「宗派の義」を捨てるとは、その派の律法のような戒律に固執せず、キリストの律法たる「愛の掟」だけを負って平和を求めることである。(ローマ13:8/テモテ第二2:24)

それでも、我々は古代の律法の条項のひとつひとつを見るとき、そこにイスラエルに与えられた神の倫理精神を探ることができ、自分の良心をその方向に伸ばすよう努めることはできるであろう。これが律法に学ぶべき副次的事柄であろう。

つまり、イエスなら個別の律法条文から何を導き出しただろうかと自問し、その精神に思いを留めて生活上に努めることである。それは我々の内面の人となりを幾らかは改善し、(帰還する)キリストに備えて、自己に調整された資質を培う一助となろう。また、人に対してではなく、神に対して『清い良心を願い求めること』を示すことにもなろう。(ペテロ第一3:21)


加えて『モーセの律法』はただ空しく終わったわけでない。

確かにパウロが『キリストは律法の終り』と宣言したように、律法は既に終わったものではある。彼が『神は「新しい」と言われることによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。』と予告した通り、パウロを含むキリストの世代と共にエルサレムの神殿は滅んでしまい、以後の律法祭祀の履行は不可能となった。(ローマ10:4/ヘブライ8:13)

では律法はイスラエルに何も成し遂げなかったかと言えばそうではない。
律法によってイスラエルの中からただ一人の義人が生み出され、律法の全体を『成就し』自らの業によって聖なる者であることを証したナザレ人イエスを指し示したことに於いて大成功を収めており、『その一点一画も』朽ちないと確かに言えるのである。

故に、このキリストとなった方は、自らを『聖とした方』であり、その他の者らは『聖とされる』べきなのであり、すべては律法によって自らを義をした方の清さの分け前に預かる以外に『罪』から逃れる術がない。(ヘブライ2:11)

それゆえ、人は神だけでなく、出エジプトのイスラエルたちがモーセに信仰をもったように、この『救いの創始者』に信仰を働かせるべき大きな理由も存することになったのである。(出埃14:31/ヘブライ2:10)

更に終末ともなれば、信仰の対象として『聖霊』に大きな役割も与えられることになろう。
それに対する信仰が世界を裁くことになるからである。(マタイ10:18)

こうしてイスラエルに与えられた律法は、『聖なる国民、王なる祭司の民』を出現させる礎とはなったのであり、民の現れのためには『新しい契約』の補助を要したとはいえ、一人の人物を生み出していたのであった。





          新十四日派   © 林 義平
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パウロはテモテに「律法の条項も無法な者や無規律な者らには、適切に用いれば有益である」と述べている件があり、健全な福音に属さない者には、律法の外面的強制(全てではないにしても)に効果を認めている。
しかし、これは対象となる人々の倫理レベルが「愛の掟」に達しない、相当に低い場合のことを述べており、例外的処置と思われる。(テモテ第一1:8-11)
しかし、このことが彼の「キリストは律法の終わり」と述べたことを覆すとは到底思えない。


⇒ キリストの救いの以前に「律法」の果たした役割


◆このブログの記事一覧






聖霊と火のバプテスマの異なり



聖霊と火とによるバプテスマとは何だろうか?


これら二種類はまるで正反対の結果をもたらしたが、この頁では「聖霊のバプテスマ」とその意義、そして、「火のバプテスマ」がそれぞれ何を意味するかを書き出してみよう。



さて、その言葉はマタイ3:11とルカ3:16にある。


では、バプテストのヨハネの述べた「わたしはあなた方(ユダヤ人)に水でバプテスマを施すが、わたしの後から来られる方はあなた方に聖霊と火でバプテスマを施すであろう」と言ったこの件の意味について記したい。

バプテストのヨハネが、モーセの律法契約にあったユダヤ体制の終わりを印付ける仕方で現れ、ヨルダン川の水を用いてユダヤ人のみに「悔い改めのバプテスマ」を施した意義について、およびキリストの水のバプテスマについては、以前の拙文「バプテスマの意義は・・」を参照されたい。


本稿ではヨハネによって予告された「聖霊と火とによるバプテスマ」の意味は何かを明らかにしたく思う。



-◆聖霊のバプテスマ--------


まず、「聖霊と火」の「聖霊のバプテスマ」の方の実体が何かということのはじまりを言えば、これはイエスが刑死を遂げて弟子らの見守る中、天に戻ってから十日後、ユダヤの祭礼である五旬節つまりペンテコステ(シャヴオート)の日の午前に起こった事柄を以って「聖霊」のバプテスマが開始されている。(初学の向きは使徒言行録2章を参照されたい)


そこで起こったことは百二十人ほどの弟子の頭の上に見える「火の舌のようなもの」がそれぞれに配られ、彼らは様々に異なった言語で「神の壮大な物事」を語り始めている。それは個人的な神秘体験という心理作用の範疇を超えて、誰の目にも明らかな奇跡であり、ナザレのイエスをメシアとして知らせる力強い布告の、世界に向けた開始であった。


即ち、モーセを仲介者としてイスラエル民族と結ばれた契約は、キリストを迎えて大きな転換点にあったのである。


そのとき、ペテロはその奇跡に見入るユダヤ教徒らに向かってこう言っている。

『イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。』(使徒2:33)



だが、バプテストの語っていた『聖霊と火とのバプテスマ』の『火』を、このときの『火のような舌』の『火』と同じく見做して良いものであろうか?

これについては以下に見るように、「聖霊のバプテスマ」にせよ、「火のバプテスマ」にせよ、バプテスマを施す人として現れたヨハネの真意を探ってゆくと、そこにはっきりと見えるものがある。 


さて、シャヴオートの日に聖霊が降下するに際し、非常に強い「大風が吹き付けるような轟音」が響き渡ったので、祭りのために都に登っていた外地からのユダヤ人たちが、何事かとイエスの弟子らの居る場所に大勢集まってきた。(ヨハネ3:8)


既にユダヤ内地の者らは、メシア殺害を通してその大方の態度を表しており、そこで神の福音は外地(離散)のユダヤ教徒に向かい、その注意を促してゆく。(使徒2:5)

彼らはそこにいる百二十人ほどのガリラヤ人たちが、自分たちのそれぞれの居留地の外国語で、神の事柄を話しているのを聞いて大いに驚いた。


これはその後「異言」(グロソラリア)と呼ばれる超自然の能力で、「聖霊の語らせるまま」に外国語を話す「賜物」である。

パウロの言から分かることは、この『異言』という賜物は没我のトランス状態や熱狂に入るものではなく、当人の制御できるところのものである。(コリント第一14:14-)


使徒言行録のこの日の事は本当に起こったことではないと断ずるなら、以後のキリスト教はもはや真正な存立をみることができないほど重要な事象なのである。

多くの人々が、この五旬節の出来事を以ってキリスト教の出発点と看做すほどである。(フランスのジャン・ダニエルーをはじめ、歴史・教父学者はグロソラリアが実際にあったと想定している)


これがバプテストのヨハネによって語られていたキリストによる「聖霊と火」の「聖霊」によるバプテスマである。



-◆聖霊のバプテスマの意義----------


聖霊降下の意味するところは、モーセの律法によってユダヤ=イスラエル民族の中に取り込まれていたヘブライの崇拝が、新たな契約によって諸国に向けて広げられる予兆、また神の意図であろう。(ルカ13:29/使徒10:35)


復活後の主イエスはこう言われている。

『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう』(使徒1:8)


聖霊降下の出来事は、本来アブラハムの子孫であるイスラエル民族のためのものであり、キリストの世代が終わるまで、エルサレム神殿でが存在し、神への崇拝が行われてはいたが、その間に、キリストの犠牲が一度限り捧げられ、律法墨守のユダヤ体制に聖霊が降ることは遂に無かったのである。(ダニエル9:27/ヘブル7:27)


だが、ヨエルの預言が語るように、イスラエルの子孫は霊を受けることにより、祭司や預言者でなくとも平民も女も若い者から奴隷であれ霊を受けて預言をするという奇跡が、あのシャヴオートの日から成就した。それはイザヤも預言していたところであった。(ヨエル2章/イザヤ44:3)


そこで、あの五旬節の日から、新たな崇拝の方式が興されている。

そのときには、まずユダヤ人のためにこの新しい崇拝へと門戸が開かれていたので、神殿での古い崇拝も並行して存在してはいたが、その旧来の律法体制に聖霊が注がれることはなく、むしろ霊が示すように、新たな崇拝はイエス派の中に始まっていた。(使徒4:27-31/ヨハネ4:21-23)


それがユダヤ、サマリア、世界へと次第に広がったエクレシアの場を通し、聖霊の奇跡が行なわれる、より高度な崇拝方式で始まりであった。 即ち動物の犠牲によるモーセの神殿祭祀が終わる時期となる一方で、一度限り捧げられたキリストの犠牲は、『霊と真理をもって崇拝』する時代を到来させたのであった。(使徒1:8/ヘブル8:7)


即ち、キリストがサマリア人の女に語られた『この山(ゲリツィム)でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る』との言葉の通りとなったのである。


 

さて、エクレシアで聖霊のバプテスマを受けた者たちには非常に多くの恩寵がもたらされた。

彼らには、この異言の賜物ばかりでなく、その異言を「翻訳」する賜物、「預言」といって神からの言葉を授かり、将来に起こることを予告したり、人の秘密を知ったりする能力もあった。更に使徒らには強力な癒しの能力が与えられ、ペテロやパウロは死人を生き返らせてもいるのである。即ち、予告されたようにキリストの業は使徒や直弟子らの中に継承されたのである。(コリント第一12:7/14:24/ヨハネ1:47-)


また、「知識」の賜物を通しては、新たな教義に関する情報を得たのであろう。

こうした様々な能力はもちろん本人に属するものではなく、文字通りに「賜物」であり、まったく上から与えられたものである。『真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる』と主も予告されたようにである。(ヨハネ16:13)


この格別の『聖霊』の注ぎについては、以前から将来に起こる事としてヨエルやイザヤなど旧約の預言者らも「回復の預言」の中に指し示していたのであるが(ヨエル2章/イザヤ44章)、イエスは自らの弟子たちに与えられることになっていたこの『聖霊』を予告して、弟子たちの「助け手」(「パラクレートス」)と呼んでおり、これが彼らに師の業を続行させ、真理を教え、主の言われた言葉を思い出させるとも言っている。(ヨハネ14:16/26.14:26)


しかし、意義はさらに大きく、そのことをイエスはヨハネ福音書3章でこう言われる。

『水と霊から生まれなければ、だれも神の王国に入ることができない。肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である』(ヨハネ3:5)


この言葉は、コリント第一の手紙15:49に通じるものであり

このようにある『我々は塵で造られた者の様相であったように、天の者の様相を帯びるのである』


また、使徒のヨハネはその第一の手紙で『彼(イエス)が現されるときに、我々も彼の様になることを知っている』と言う。(3:2)


これに調和するように、ペテロの第一の手紙では『肉体における残された時を・・神の意志に従って生きる・・』ことを記している。(4:2)

聖霊を授かることはいずれ肉の体を後にし、霊者としての新たな命に入るというのであるから、これは徒ならぬことである。(コリント第一15:50-54/ペテロ第一1:23)


つまり、彼らは人間としては必ず「死」を経なければならない。・・このことを訝る方がおられるのは承知している。

言うまでも無く一般の常識では、人は必ず死ぬからである。


ではあるが、聖書では死を経験しないで済む人々が存在するのである。イエスは兄弟を亡くしたマリアにこう言った。『生きていてわたしに信仰を持つものはけっして死ぬことがない』(ヨハネ11:26)

これは終末の時に生きている人々のことを言うのであるが、人の世界では達し難い事ではあるけれども、人の常識がすべてなら神は無用であろう。(マルコ12:24)


一方で、聖霊を受けた弟子は霊の生命に移るに際し、肉体においてまさしく死を迎え、アダムからの命を必ず捨てなければならない。これをパウロは『キリストへの死のバプテスマ』と呼んだ。(ローマ6:3)

バプテスマにおいてキリストと共に『葬られた』のは、『水と霊から』キリストの復活された永遠の命によって『再び誕生』し『共に生きる』ためであり、この聖霊を受ける弟子たちが、将来に肉体から霊体へと移り変わる定めを受け入れたことの象徴表現と言える。(ローマ6:4) ⇒「無酵母パンから生じるエクレシア」


何ゆえ、このように人間であることを止めるべきかについては、神の「人類全体が、神の創造物(子)として立場の回復する」と定められた期間における、全人類の支配や贖罪の計画、即ちキリストの宣教の主題であった『神の王国』、それが聖霊のバプテスマを受け『新しい契約』に入る弟子らに関係しているのである。(ヨハネ1:12/エフェソス1:10/フィリピ2:10)⇒「キリスト教の目的」



-◆『天の王国』に召される聖なる者ら

 

この全人類の祝福となる人々は「アブラハムの子孫」と呼ばれる。

なぜなら、早くも創世記に於いて、神はアブラハムにこのように言われたからである。

『地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』(創世記22:18)


即ち、アブラハムの子孫イスラエルが、他の諸国民の祝福する選民となるのであり、それこそが『諸国民よ!主の民と共に喜べ!』というよく知られた聖句の真意である。

彼らアブラハムの子孫は地上の神殿ではなく、キリストを隅石とする、聖霊を受けた『聖なる者ら』という石で構築される天界の新たな神殿となって、将来に人類全体の罪の赦しを備えるということである。(ペテロ第一2:4)


だが真実のイスラエルとは血統上のイスラエルを意味しないことはパウロが語るところであり、こう書いている。

『イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではない』(ローマ9:6)


このユダヤのメシア信仰の拒否が何をもたらすかについては、やはりキリスト自身も血統のイスラエルに警告していたことであった。
『多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』(マタイ8:11-12)


その一方で、使徒パウロはまったくイスラエルでなかった異国の弟子らにこう書いている。

『あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である』(エフェソス2:19/ペテロ第一2:10)


何が彼らのような非イスラエル人を、聖なる民としたのだろうか。パウロはこうも記す。

『あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対する信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。』(テサロニケ第二2:13)


つまり、聖霊を受けた彼らこそが真にイスラエル、全人類の祝福となるという「アブラハムの子孫」であり、律法によらず信仰によって神に選ばれた『神のイスラエル』という血統のユダヤとは異なる新しい神の選民、人類の中からの初穂として、人類より一足先に救いを得た、格別な役割を担う民となるというのである。(創世記22:18/ローマ4:12/ガラテア6:6:15-16)


神は、アダムが最初に享受していた創造者との自由な「子」の関係に全人類を復帰させるために、自らの創造の初めである「初子」を仲介者として立てた。この仲介者がまず人々の間に宿りキリストとしてユダヤに来られた。(ヨハネ1:12/コロサイ1:15-/テモテ第一2:5)


人類には神との間を隔てる「罪」(原罪)の壁がアダムの時から存在しているので、人は生きる限り無罪では済まず、神とは断絶状態にさえある。(ローマ6:7/イザヤ59:2)

そこで、キリストと共なる新しい選民『アブラハムの裔』が存在する意義がある。



-◆世の罪を除き去る祭司団 -----


モーセの律法が動物の犠牲を要求したのは、あらゆる人間には「罪」があり、犠牲を介さなければ神に近付き得ないことを教えるものではあったが、エルサレムの神殿の祭祀は人の罪を実際には浄めることはなかった。(ヘブル10:4)

だが、『罪』からの清め無くしては、世界の人々を祝福する『聖なる民』また「アブラハムの子孫」も現れないことになってしまう。


しかし、エルサレム神殿の崇拝方式が模型のように指し示していた真実な実体があり、それがキリストを大祭司とする天の祭司制度であって、即ち、実際に人の罪を浄め、『神の子』へと復帰させる『神の王国』という手段である。(ヘブル8:5)

そこで、聖霊を受けた聖徒らが『キリストを親石に』『神殿の石となる』といわれる理由が生じる。(ペテロ第一2:4-5)


これがまさしく、キリスト・イエスが『神と人との間の仲介者』と言われる所以である。(テモテ第一2:5)


神はキリストを任じ、千年続く『神の王国』を樹立して、これが生ける人々を罪から贖うための手段とされるのだが、この「王国」の、アダムからの人類の罪を赦すシステムは、モーセの律法の中、ユダヤの祭司制度の中に動物の犠牲を通して模型的に予告されていたのである。(黙示録20:6)


そして『新しい契約』に預かることで、『聖霊』のバプテスマを受け初めに清められた人々がいる。キリストの弟ヤコブは、彼らを『人類の初穂』であると記している。(ヤコブ1:18)

こうして彼らの天にゆく理由もはっきりと見えてこよう。即ち、彼らが天で大祭司キリストの下で祭司となって地上に残る全人類の贖罪に貢献するということである。使徒ペテロは、『聖霊に浄められた』弟子らを確かに『祭司』と呼んでいる。(ペテロ第一1:2・2:9)


キリストの地上での宣教も、ただ信者を募ったのではなく、これらの「祭司となるべき人々」を集めることにあったが、それこそは『地上のすべての支族が自らを祝福する』というアブラハムの末裔『神のイスラエル』『祭司の王国、聖なる国民』をまずキリストの宣教の業においてパレスチナのイスラエル民族から集め始めていたのであり、それは単に信者を集める宣教ではなかった。(使徒13:46-47)


しかし、血統上のユダヤはメシアと共にアブラハムの末裔を集めずに却って散らし、イエスを信じる充分な人数をユダヤ体制は出さなかったので、エルサレムは、このように主から指弾されている。

『めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。』(ルカ13:34)


ユダヤ教の体制派が、どのように集めるキリストを妨害したか、といえば、それは聖霊による奇跡を悪霊の頭の業だと誹謗し、信仰を働かせるユダヤ人が現れることを邪魔したことによる。

そこで主イエスはこう言われたのである。

『わたしの味方でない者は、わたしに反対するのであり、わたしと共に集めない者は、散らすのである。』(マタイ12:30)


聖霊が使徒らや初代の弟子らにもたらす奇跡の業が、まさしくユダヤ体制派の嫉妬を買っていた様は使徒言行録に明らかであり、使徒らが宣教に赴いた外地のユダヤ教徒らからさえも反対を受けたことが同じく記されている。


そこでキリストの業を受け継いだ使徒らは、ユダヤ教徒を後にして諸外国への宣教に向かうことになる。その宣教も、ただ信者を募るものではなく『アブラハムの末裔』を集め出すという意義深い目的があった。


それであるから、パウロはバルナバと共に宣教を妨害する外地のユダヤ人にこう言い放ったのである。

『神の言葉は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから向きをかえて、異邦人たちの方に行くのだ!』(使徒13:46)


そして「イスラエル」という本来人類の祝福となる民の不足する人数を満たすために『接木』が行われる。

即ち、初期の弟子らの宣教の目的は、異邦諸国民から信仰ある人々を『神のイスラエル』に集め召し出し、『諸国民の光』となる『神の王国』を目指すことにあった。(ローマ11章)

この点で、使徒ペテロは主から授かった『鍵』を用いて、異邦人にも聖霊が降るよう取り計らっている姿が使徒言行録に見える。(使徒1:8/8:14-16/10:44-47)


こうして天界の大祭司キリストが従属の祭司となるべき人々に天から聖霊を注ぎ、その人々は聖霊の奇跡の賜物によって浄められ、「罪」を許され、人類に先立って『神の子』と認知されるに至った過程はレヴィ記16章の『贖罪の日』の取決めの中に予型されている。


即ち、律法で定められた『贖罪の日』の儀式では、まず大祭司自らの罪を牛の血によって除き、次いで従属する祭司たちの罪が贖罪され、そうして後、これら祭司団の働きによって民の全体が贖罪に預り、こうしてすべてが神の御前に「罪」を許されるという図式があった。


つまり、『新しい契約』は、大祭司キリストと従属の祭司団を天に召して、聖霊を受けた人々で天界の神殿が構成される将来に『神の王国』という、全人類の贖罪を行うアブラハムに予告された一大事業に乗り出すことになるのである。その人類の祝福は、創世記で繰り返し神がアブラハムに言われていた通りである。(創世記22:18/コリント第二5:19)


そこで新約の民、聖霊を受ける人々こそが『選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民』と使徒ペテロが言うのである。つまり、モーセの律法契約が目指した『聖なる民』の出現は、キリストの『新しい契約』によって遂に実現し始めたことを使徒たちが知らせているのである。


使徒ペテロは、当時の聖霊を注がれた弟子たちについて、『あなたがたはサラの子になった』とも言っている。それはつまり、真実のアブラハムの子孫となったと述べているのである。(ペテロ第一3:6)


しかし、これは誰でも信仰を抱けばそうなるというわけではけっしてなく、それが契約である以上『多くを委ねられた者には多くが求められる』のであり『入ろうと努めながら入れない者は多い』とも主は言われている。(ルカ12:48/マタイ22:14)


したがって、キリスト教徒が聖霊を受けることは人類全体の『贖罪』の始まりに過ぎず、聖霊を受けることがけっして最終目的の「救い」なのではない。彼らは天でキリストと供なる祭司団また王たちとなるために(黙示録20:6)、人類に先立ってアダムからの罪をまったく贖われる必要があったが、肉体のままではその「罪」が消えることはない。地上に肉体で残る人類のために、聖霊を受ける者らの天での奉仕が必要なのである。(ヤコブ5:16/ヨハネ第一1:8)



-◆聖徒の立場と義務 ------


そこで『新しい契約』が、聖霊の印ある者についてのみ、地上での「義」と「救い」の仮の承認を彼らにもたらしたのである。その代価が貴重なキリストの血であった。(エフェソス1:13-14)

それゆえ、使徒ヨハネが『まだイエスは栄光を受けておられなかったので、霊はまだ下っていはなかった』と述べた理由は、聖霊の注ぎがキリストの犠牲の死の栄光を要したからに他ならない。(ヨハネ7:39)

確かに『水と霊から生まれる』『聖なる民』が、人類からの『初穂』と呼ばれるに相応しい。彼らは『キリストに在って生き』、イエスを『とこしえの父』とした。(ローマ8:23/ヤコブ1:18)


それで、聖霊を賜った「聖なる者ら」に『有罪宣告はなく』(ローマ8:1.30)、その『救い』も聖霊を通して既に開かれている。しかし、それは『聖なる者』として相応しく生涯を終えるという条件付きのものであり、「契約」とは常に不確定な事柄について締結されるものである。


そこで彼らは、『その召しに相応しく歩む』(エフェソス4:1)ことが求められており、一定の道徳規準を満たし、レヴィ族の祭司のように聖なる者であるべきで(コリント第一6:9-11)、『狭い戸口から入るように努める』べきである。(ルカ13:24)


その『新しい契約』は『聖なる者』らを天へと召すものであるから、当然に聖い状態で『染みも傷もなく、安らかな心で、神のみまえに出られるよう』に生涯を終えるべきであり、彼らは死に至るまでのキリストへの忠節を全うし、全人類を贖い、治めるに相応しいことを実証することが要求されている。(ペテロ第一3:14/黙示録2:10)


つまり、彼ら『聖徒』の務めは人類の贖罪と、その間の管理(支配)ということができる。彼らは主と共に『神の王国』で『千年の間支配する』のである。(コリント第一4:8/エフェソス1:10/黙示録20:6)


それに対して、バプテスマを受ければ誰でも「聖霊」を受け、キリストが内住してくれて、自分を幸福へと導いてくれるという教えは、根本において正反対である。なぜなら、関心の対象が神の全人類への救いの大志から、身近な自分たち自身の幸福に置き換えられるほどに異なってしまっている。つまり、利己心か、利他心かというほどに『聖霊』の見方ひとつで、その信仰の精紳は根本から異なるのである。



さて、信徒の中でも『聖霊』に与る選ばれた者は、大祭司キリストと共になる祭司となる人々であるから、キリストと霊の体を共にする象徴として『主の晩餐』でパン種のないパンを分け合い、誰よりも早く最初に罪(原罪)を相殺される象徴として、また『新しい契約』の発効させるために必要な『犠牲の血』を表すところの葡萄酒を飲み合うのである。(ヨハネ6:53-58/ヤコブ1:18/出埃24:8/ローマ8:1)


その『新しい契約』は、彼らが地上でアダムの命を持つ「肉」の状態である間から「義」を信用貸しされるためのものである。(コリント第二5:10)それゆえにも彼らは『聖なる者』(ハギオス)と聖書中で呼ばれるのである。

つまり、天に戻ったキリストは、自らの犠牲を携えた大祭司としての最初の贖罪を、従属の祭司となるべき彼らに行ったので、聖霊の賜物を受けた聖徒らは人類に先立って『義』を得て『救われた』状態に入れられるのである。(マルコ14:22/ヨハネ6:56)


彼らは『召された人々』(ヘブル9:15)アブラハムの『相続財産を受け継ぐ者』(ローマ8:17)『聖なる者』(あるいは『聖徒』)(エフェソス1:1)『キリストに与えられた者たち』(ヨハネ17:24)であり、ペテロが『あなたがたは王なる祭司、聖なる国民』と指摘したように、律法上のレヴィ族のような『神の特別な所有に帰する民』である。(申命記26:19/民数記3:12)

彼らの『神の子』としての身分の証しは注がれた『聖霊』であり、死後キリストと共になる事への事前の保証(手形)であると、パウロが異邦人に宛てたエフェソス書簡に明言されている。(エフェソス1:13-14)


終末に、キリストの「臨御」(パルーシア)が起こり、主が象徴的に地に帰還した後、聖徒として死んで眠っていた者らには天で霊の体に再生することを許される者があり、地上では聖霊を授かって生きている者らも(今は居ないようだ)、承認を受けた者は直接に肉の体を解いて天に行き、そこでイエスと共になるよう召されることになる。こうして集められる『アブラハムの裔』はキリストの許に集合し、いよいよ人類を贖罪する『神の王国』の千年支配の始まるを見るというのが、聖書全巻に亘る奥義となっている。(テサロニケ第一4:14-/ダニエル12:2)


キリスト教徒は終末になると、誰でも天に召されるということにはならないが、聖霊を受けなかったならとて、地に残されることを何も恐れる理由もない。やがて『神の国』の贖罪に与ることができるのである。しかし、聖霊があってなお地に残されることは「新しい契約」不履行の罪を恐れなければならない。(マタイ24:40-41)


天に召される聖霊ある人々は、肉体という『幕屋』を解いてキリストの御許に集められるが(コリント第二5:1-)、それは新たな誕生となり、霊の身体を得てキリストと共に生きる者となるという。(ローマ8:1-2/15-17) 


それゆえ彼らは『キリストの兄弟』であり『共同の相続人』であるとも言われる。(ヘブライ2:10-17)

だが、『神の子』 の立場は彼らだけでなく、神がアブラハムに告げられたように、最終的には『神の王国』の贖罪を通して全人類にも差し伸べられるものである。(ヨハネ1:12)


このように、「聖霊と火」の「聖霊」でバプテスマを受けるとは、「人類の贖罪」というキリスト教の根幹たる神の御旨に祭司として預かることを意味するのである。(ヘブル2:3-4)



-◆火のバプテスマ-----------


さて、聖霊に対する『火のバプテスマ』については、もう一度バプテスマのヨハネの言葉に戻り、その続き見てみよう。


『その方(イエス)の手には煽り分ける道具があり、ご自分の脱穀場をすっかり掃き清めると、小麦は蔵に納め、籾殻は消えない火で焼き払うであろう』(マタイ3:12)


これはユダヤ人に対する痛烈な警告である。

ヨハネはまたこうも言っている。

『 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。』

『斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:9-10)


アブラハムの嫡流子孫であるユダヤ人にこそ、正統に千年王国のキリストに伴う「王なる祭司」の「聖なる国民」となる機会が開かれていたが、当時のユダヤ体制の『ねじけた世代』は却ってイエスを退けることによって、血統上のユダヤ民族全体としてはこの類まれなアブラハムの遺産を遂に放棄するのである。(創世記12:3)

その原因は、アブラハムの子孫には不似合いな『不信仰』であった。(ルカ22:67)


もちろん、これらメシアを拒絶した多くのユダヤ人の上に聖霊の降下は無かった。

あのペンテコステの日に、ペテロが『バプテスマを受ければ聖霊に与る』と語った相手は信仰を抱いたユダヤ人であり、すでに律法契約にあり『契約の子ら』であるとペテロもそこで言っている。彼らこそはイスラエルであり、イエスをメシアとして信仰を持つことで、そのままに『新しい契約』に移行でき、『救われる』状態にあった。(使徒2:38-39)


だが、大半のユダヤ人はこれほどに有利な立場をアブラハムから相続していたにも関わらず、イエスをメシアとして信仰せず、水のバプテスマを経て聖霊のバプテスマに至った人々は僅かで、むしろ、体制としてのユダヤのその不信仰な『世代』には、『アベルから祭司ゼカリヤ*まで』の殉教者らの血の清算が求められたのである。(*歴代第二24:22/ルカ11:51)



-◆ユダヤ体制という籾殻に臨んだ火のバプテスマ


その世代のうちに起こった恐るべきこと・・

それはイエスの刑死から『この世代』の内に、即ち四十年を経ない西暦七十年に到来した。(マタイ24:34)


ユダヤとガリラヤ、そしてエルサレムがローマ軍に徹底的に蹂躙され、美麗なる聖都であったエルサレムは更地のように破壊され、神YHWHの神殿は火炎に包まれて以後再建されていない。ユダヤ人は『剣の刃に討たれ、奴隷となって諸国に売られ』、以後は流浪の民となってしまった。(ルカ21:22-24)


それまで存続していたモーセの律法制度による神殿での動物の犠牲を中心とした祭儀は、神殿の破壊と共に終了を余儀なくされたが、その以前にキリストの犠牲が、既に神殿の祭儀の意義を失わせていた。(ヨハネ4:21/ダニエル9:27)


そして、「バプティゾー」が「浸す」を意味するように、ユダヤの律法による千年以上の永きにわたった体制も、『火』に浸されたことになる。つまり、全き滅びを被ったのであった。


モーセの崇拝体制は神殿のないままに今日まで二千年を経ても未だ再興されていない。既にキリストによる『霊と真理による崇拝』に置き換えられたからであれば、今後も地上の神殿と動物の犠牲も再開はしないであろう。例えもし、神殿が再建されるような事があったとしても、キリストの犠牲の後に、今更に動物を捧げるどんな意味が残っていよう。(ルカ19:41-/23:28-/マタイ24:2/ヘブル10:1-4)


メシア殺害があって後、律法の警告の預言は成就し、遂に『約束の地』はこの民族を『吐き出す』に至ったのであった。(レビ20:22) 


それはバプテストの言う『籾殻が焼き尽くされ』たかのようにである。

こうして「火のバプテスマ」の方が理解される。

 

ユダヤ祭司体制の終焉は、モーセが命じた『繰り返し捧げられる動物の犠牲』を終わらせ、一方で、神は大祭司キリストに基づく天の神殿での贖罪を開始させていた。即ち聖霊を降下させ従属の祭司らを集め始めたのであった。キリストが「集めた」者、また「父から与えられた者」とは、真の意味での『アブラハムの子孫』であった。(ルカ19:9)


爾来、「火のバプテスマ」によって聖域を失ったユダヤは、律法の完全な履行が明らかに不可能となってしまった。ユダヤ教徒たちはその後もメシア=キリストを待ち続けているが、二千年後の今日までメシアは現れてはいないし、神殿も失われたままである。例え再建されたとしても、既にキリストの完全な血の犠牲が捧げられた以上、今更、動物の血の犠牲は「退行」にしかならず、キリストによって更新された天界の祭司制度に無益に抗うものにしかなり得ない。もはや、神は何者の血も求めることはない。(ヘブル9:25-26)


だが、ナザレのイエスをキリストと認め信じるユダヤからの人々は、キリストの預言の『山に逃れよ』との言葉に従い地上のエルサレムを見切って「山地」デカポリス地方に避難した記録があり、この神殿と律法体制の処断の「火」を免れている。(マタイ24:16)

そうしてユダヤ体制への神の決定的断罪と絶縁から逃れ出、その以前に「小麦」として「蔵」に納められるべきものとされていたのであった。(マタイ3:12)

穀粒と籾殻の違いには、まことに大きな差があるもので、エレミヤ書で神は『夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうか』と言われる。(エレミヤ23:28)
真実と偽りの預言者ほどに異なると言われているのである。


そして、その聖霊降下の始まった時期にはユダヤの体制の終わりが近付いていた。ユダヤはメシア拒絶により律法体制はその契約の辿り着くべき目標を見失ってしまった。それは聖霊の降るときに『日は暗く、月は血に変る』というヨエルの陰鬱な言葉に相当するであろう。(ヨエル2:30-31/使徒2:17-21)


しかし、その中からでもヨエルの言うように『シオンの山とエルサレムとに、逃れる者があるからである。その残った者のうちに、YHWH*のお召しになる者がある』。(ヨエル2:32)*発音不明の神の御名


この人々が前記の『聖霊と火』の「聖霊」でバプテスマを受けたユダヤの人々である。一方で『火のバプテスマ』を受けたユダヤの体制は、キリストが『三年世話をしても実を付けないイチジクの木』であり、イエスを通して示された「父の業」即ち聖霊による奇跡を三年半のキリストの公生涯のあいだに見ても、ユダヤ体制の全体がキリストに信仰を示して聖霊を受け『聖なる国民、祭司の王国』となることは遂になかった。(ルカ13:6-9/マタイ21:19)

もし、律法契約が『聖なる民』という目的に達していたなら、『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』とも『神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言された。年を経て古びたものは、間もなく消えうせる』ともヘブル書筆者は言わなかったに違いない。(ヘブライ8:7・13)


律法に固執し続けた血統のイスラエルは、イエスをメシアとして認めなかったために『諸国民の光』となって『地のすべての民のすべてに祝福』をもたらすというアブラハムの相続財産を、体制としてまったく逸したのである。(創世記18:18)


やはり、ルカ福音書はユダヤ体制の滅びの原因をメシア拒絶に特定しており、『敵がおまえの周囲に柵を作り、攻囲して四方を閉じ込んでしまう日がやがてくる』というイエスの言葉を記している。それがキリスト後に現実の惨禍となったことをまさしく目撃したヨセフスがユダヤ戦記に詳細に述べている。(ルカ19:43)


そのルカ書にもマタイと同様に、メシアは『手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』 とのバプテストの言葉を伝えているのであり、この「火のバプテスマ」が何を指すかは動かし難いことである。(マタイ3:12)


バプテストのヨハネの語った『その方は聖霊と火とによって、お前たちにバプテスマをお授けになる』というのが、本物の滅びの火ではなく聖霊が 火のように下ったことを表していると教えられる教会や宗派が多いのは承知している。

だが、バプテストの、聖霊か滅びかの予告と、あの五旬節の朝に『舌のようなものが、炎のように分れて現れた』という聖霊の降下の姿とを混同するなら、バプテストの語った当時の背景とユダヤへの意図を無視しなければならない。即ち、「そうではない」と言うなら、マタイやルカなどの新約聖書の筆者らの意図を無視しなければならなくなるではないか。

 

聖霊が火であったのは、あのペンテコステの日の百二十人以外には聖書に『炎ような』との記載はほかに無いのであり、『霊の火を絶やすな』というパウロは、『聖霊を嘆かせるころとのないように』とも訓戒しており、聖徒らに注がれた聖霊に相応しく行動することを促す言葉と捉えるのが自然といえよう。聖霊はむしろ『風』や『息』として描かれることがほとんどである。(テサロニケ第一5:19/エフェソス4:30/ヨハネ3:6-8/20:22)


マタイやルカにある「聖霊と火と」をペンテコステの『炎のような舌』と混同してしまえば、その「ただ、ありがたいばかりの教え」は、バプテストによるユダヤ人への重い警告という意義を欠くことになる。それは多くの「クリスチャン」方に在りがちな皮相的なご利益信仰というべきであろう。

(それでも「その方が良い」と思われる向きは、それが個人の倫理的決断であろう)


このバプテストの言葉によって、当時にユダヤ人らにはメシアの成し遂げる優れた祝福と、恐るべき裁きとをそのメシアを紹介するに当たり激しい言葉で強く警告されていたのであるが、大半のユダヤ人はイエスを退け、その後も体制としては真実なメシア信仰を欠いて、イエスの仲介する『新しい契約』への道に入ることなく、ユダヤは聖霊を受けた一民族『聖なる国民』『神のイスラエル』となるにも及ばなかったのである。(ガラテア3:24/6:16)


使徒ヨハネはこう書いている。

『神を信じない者は神を偽り者としているのだ。神が御子について証しされたのにそれを信じないからである。』(ヨハネ第一5:10)


つまり、メシアであるイエスに信仰を置かなかった当時のユダヤ体制は、モーセの律法順守による救いに固執し、旧約聖書を暗記してさえいながら、遂に救われなかったのであるが、その原因は、救いというものが、知識ではなく価値観を働かせ、現れたメシアに信仰を持つことであるとは理解しなかったからである。(ローマ9:32)


しかし、ヨエルの預言は、イスラエルの末孫に神の霊が注がれることだけではなく、『その日わたしは、わが霊を下僕ら下女らにも注ぐ。』とも付け加えていたが、それは、ユダヤの家の者ではない異邦人によく当てはまる。(ヨエル2:29)


そこで、キリストは地上に残った使徒らやパウロらを用いて、真実に選ばれた聖なる民、『神のイスラエル』の一員となる選びを、イスラエル民族だけでなく、聖霊降下を通してメシアへの信仰を働かせた異邦諸国民へと広げてゆくのであった。(ガラテア6:16)


主イエスはこれについて、ユダヤ人ではない『多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』と言われる。(マタイ8:11)


また、復活の後の世界宣教を弟子らに命じるに当たっては『地の絶え果てるところまでが、わたしの証人となるであろう』とも言われたのである。(マタイ8:11-12 /使徒1:8)


そして、パウロはこの異邦人による流入を「接木」に例えている。(ローマ11章)

つまり、これらキリストの使徒らによる活動も、彼らの主の活動に同じく『神のイスラエル』である信仰深いアブラハムの内面の子孫を召し出すための諸国民への宣教であったのだ。(ガラテア6:16)


歴史に残された様々な資料は、奇跡の「聖霊の賜物」を持った諸国の人々が居たことを教えているが、アウグスティヌスの頃にはとうに過ぎ去った過去のことになっていた。その人々は「聖人」と呼ばれて今日に伝えられ、カトリックの伝承の中に、奇跡を行い殉教したという人々として痕跡を残している。


いや、この点で言えば、第三世紀のオリゲネスですら、聖霊を持つ人々を過去のものとして語っており、西暦第二世紀中頃までについて語る資料だけが、この格別の「賜物」を有する人々について告げるのである。




-◆聖霊を受ける者の現れを待つ-----------



そして今日、初期の人々のような姿で「聖霊のバプテスマ」を受けた人を筆者はやはり見ていない。

初期の奇跡を行う聖なる者らの痕跡であるカトリックの「聖人」、即ち、複数の奇跡を行い、その多くが殉教者であったこの人々が、自分の人生の導きや益を専らに求めるご利益信仰者であったと言えるだろうか?


そしてその奇跡の『賜物』はトランス状態に陥るものでなく理性的であり、自らの意識を保持し、霊の働きを制御できたことをコリント前書は描き出し、『神は無秩序ではない』ゆえに一人一人が順に話すよう訓戒している。(コリント第一14:26-33)

しかも、その聖霊の語らせる内容は、終末に於いて人類に重大論争が生じるようなものである以上、明確に理解されるべき音信が語られるに違いない。

即ち、その聖霊の発言は福音書が述べるように世の支配権に関わるもので、為政者との対立を生じさせるというのである。(マタイ10:17-)


だが、世界にそのように明白なものを未だ聞いていない。

聖霊を注がれる彼らはそこで聖霊によって語るのだが、宗教家ではなく政治家の前に立つからには、彼らの音信には『神の王国』の支配に関わる内容が込められるのであろう。(ルカ21:15)*(マルコ13:9-11/マタイ10:16-19などを参照、宗教的対立ではないようだ)



では、将来再び『聖霊か火か』のバプテスマを受ける人々が現れるだろうか?

つまり、キリスト教界が古代のユダヤの体制のように、「聖霊」か、あるいは「火」かの洗礼を浴びる日が来るのだろうか?そうかもしれない。いや、そのようになるのであろう。(マラキ4:1-/ヨハネ3:10/マタイ13:24-)


いずれにしても、聖書を読む限りはまず「聖霊」でバプテスマを受ける人々が現れなくてはならないが、そうして聖徒となることは神の選びであって人間の働きかけるところではない。それゆえ、初代からキリスト教徒の集まりが「エクレシア」(召しだされた者たち)と呼ばれたように、その集まる人々のほとんどが聖霊を有する『神の召しに与る人々』で構成されていたが、将来にもそのようになるのだろうか。(コリント第一14章)


聖書での呼称「エクレシア」(招し出されたもの)は、ローマ帝国の国教となった頃から「キュリアコン」(主のもの)を語源とする別名「教会」(キエザ、キルヒェ、チャーチ等)と呼ばれるようになっていったが、それは所謂「聖人」が過去のものとなり、もはや召された者たちのいない信徒だけの集団には相応しい名称であったと言えるかもしれない。(使徒2:38/ヨハネ第二1)


しかも、将来に起こる「それ」は、初めて「聖霊のバプテスマ」が弟子らに行われたあのペンテコステの日に、ユダヤ人たち対してその奇跡が『大風の轟音』によって広く明らかにされたように、個人のご利益信仰に属するような単なる個人の心理作用でないに違いない。


神はそれに加えて彼らの上に『火の舌』を一人ずつに置いて証しを立てたのであり、これは彼らの発言の内容と共に、『葡萄酒に酔っている』と反論する者らにも説明の付かない印となったに違いない。(使徒2:15-)

だからと言って今日の我々が、この火の印と火のバプテスマを取り違えるべきでないし、そうするなら聖書理解はほとんど諦めねばならない。これはキリスト教にとって基礎的な事ではないだろうか?

それまでひっそりと二階の部屋に隠棲していた弟子らは『聖霊によって力を受け』強力な宣教へと世界に足を踏み出したのであるから、聖霊は「神の威力」というべきものである。(使徒1:8)

まして、今日の「聖霊によるキリストの内住」などは、キリストが王権領受の旅に出立し、聖霊を通した「監臨」を終えた西暦第二世紀の半ば以降、聖霊の賜物が地上を去った為にキリスト教界が案出した実体の無い、「自分の人生イエスさまといっしょ」というような少女趣味的で大志なく脆弱な信徒に植え付けられた「ご利益信仰の思い込み」か「異教や悪霊の影響」であろう。

もっとも、今日までこのようなアニミズム的な聖霊信仰が「正統信仰」とされているのは嘆かわしいことではあるが、それも神不在の今は容認されるところであり、その教義についてだけは、今後も終末まで長らえるのであろう。(ヨハネ9:4/ルカ19:12)


だが、それは「自分に神は何をしてくれるのか」を求めるという利己心に基づく「信仰」であって、キリストや使徒、また初期の弟子らのような無私の精紳とは逆のものである。教会一般の教えるご利益は、個人の人生を幸福にしてくれて、自分が天国に召されることを夢見るというレベルの「キリスト教」である。(コリント第二5:15)


聖霊のバプテスマが自分にも行われたと思い込むのは自由だが、それが本来人に求めるものは、ご利益とは正反対の自己犠牲であり、聖霊を受けることは初期の弟子らのように、むしろ世の矢面に立つことであるからして、そのような迫害に至れば、「自分には聖霊などは無い」と本当のことを叫ぶようなことになるのであろうか。(ゼカリヤ13:3)


本稿の内容が、教会員に受け入れ難いことは承知している。

そこは筆者が教会生活を離れ去り、もともとキリスト教世界に属さない日本という自由な土壌でキリスト教の研究を進めたという背景あってはじめてこの観点に立ったものと思える。

あるいは、もし、閲覧の方からこのような「信者だけの救い」ではないキリスト教理解に賛意を頂戴できるなら幸いである。

やはり聖書中を見るなら、「聖霊の賜物」とは、神がその御力をもって御子イエスに証しを与え続けたように、公に対する明瞭な神の威力の堂々たる表明なのである。(ヨハネ5:36/ヨハネ第一5:10)


聖霊とは、それを見る他者の信仰をさえ惹起するもの、つまり自己欺瞞的で不鮮明なものでなく、反対者に対しては勿論、人類全体に対して神からのものであることが極めて明確な形で将来も示されなくてはならず、また、実際にそのようになるであろう。(マタイ10:17-20/マルコ13:9-10)

その将来、もし我々が「聖徒」(聖霊を受ける者)たちの現れと、彼らを通して「聖霊」の声を聞くときには、けっして心を頑なにするようなことをしてはなるまい。(ローマ2:5/ヘブル4:7)

ヘブル書が警告するように『語っている方を拒んではならない』。それは人による発言ではないとされている。そのとき、宗教界が聖霊の声に心を向けないなら、殊に宗教指導者が自分の正当さに固執すれば、神からの発言に色を失い、却って聖霊に逆らうことになるのではないか。(ヘブル3:14-15)⇒「聖徒 聖霊の指し示す者たち」


聖霊によるその発言は、為政者との対峙*によって「神か人かの」究極の論争に発展するであろう。これは共観福音書が揃ってイエスの言葉として預言するところであり、後の時代に弟子らは王や高官の前に引き出され、そのとき聖霊は彼らに『彼らが束になっても反駁できない言葉を語らせる』(ルカ21:15)。

それゆえ『何を話そうかと、気を揉む必要』(マルコ13:11)も『前もって練習しなくてよい』(ルカ21:14)と再三記している通りである。


これが『王の王、主の主』による「人類の裁き」に連なる「エデンの問い」に発展し、世界は聖霊の声に従うか否かの二択を迫られるであろう。(マタイ10:18)

キリストは『雲と共に来る』ので、人類はキリストを直接には見ず、聖霊の声を代弁する『聖なる者たち』の発言に信仰を働かせるか否かが、人類を分かつものとなる。『聖霊は裁きについて』『世に証拠を提出する』ことになることが知らされているように、イエス御自らが地上に姿を現すのが再臨であれば、「裁き」とは何と外面的で単純で幼稚なものであろう。(ヨハネ16:8)



それが聖徒たちという人間「土の器」を通すものであっても、聖霊が語らせる以上、それは論駁不能な神の義の顕現であり、その時までに、いかなる人間の義(宗派や党派)をも放棄すべきではなかろうか。『聖霊』が語るときに人間の作った宗派や党派などに何の意味があるのだろうか?(エゼキエル33:13/アモス3:8)


キリスト教徒のひとりであれば、自分が聖霊を受けた『聖徒』でなくとも何ら落胆する必要はない。むしろ、『聖徒ら』の天の祭司職による『贖罪』の益に与り、ついに『神の子』となって地上の千年王国で永生に至るべき『信徒』(ピストス)となり得るからである。


それこそは、神が 『あなたの子孫によって地のすべての国民は自らを祝福する』と、いにしえ創世記に繰り返し示された、あのアブラハムへの約束の成就を迎えることではないか。そこには神に倣う公共善と利他性の大志があり、まさしくキリスト教とはそのようなものであろう。(創世記12:3/18:18/22:18/26:4/コリント第二5:15)


必ずや神の悠久の歩みは、その目的を違えることなく、まったく成就することになるであろう。






 © 2011  林 義平

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 ⇒ 火のバプテスマに焼かれるユダヤ

 ⇒ 原始キリスト教と「キリスト教」の違い

 ⇒ キリスト教の救いとはご利益か    




ローマ国教化で失われたもの からしとパン種の例え


キリスト教が、ローマ帝国の国教化で差し引きされて失ったものがある。

それを契機にキリスト教は、個人の信仰から、コミュニティの宗教へと外面も大きく変化を観たのだが、それ以上に、処女性のような内面に変化をもたらすものがあった。


ローマ帝国最後の全土に及ぶ大迫害の勅令がディオクレティアヌス帝から発せられたのが303年2月であった。
それから10年を経た313年、ローマで対立皇帝となっていたマクセンティウスに勝利したコンスタンティヌスはメディオラヌム(現ミラノ)市で当時の同盟者リキニウスと共に勅令を発布し、迫害されていたキリスト教に「市民権」を与え、信徒を解放し、接収していた集会所を含む財産を返還させた。

これは政策の正反対への転換である。十年の年月は苛烈な迫害を受けていた信徒らからすれば長く感じられたかも知れないが、変化は突然に訪れた。
この事態の急変を見た信徒らがその後に経験することになるキリスト教自体の変質は、数世代をかけてよりゆっくりと、そして確実に進行してゆくことになるが、そのようにしてキリスト教の側も帝国の方針転換に伴い180度の針路変更を決することになる。その変化に伴い、キリスト教はその本来の相貌をすっかり変えてしまうのであった。

325年はコンスタンティヌス帝によるニカイア(ニケーア)会議の年であるが、キリスト教徒の母ヘレナ*の影響があったにしても帝自身の「信仰」はキリスト教というよりは太陽神崇拝に偏ったものであった。*(帝は、母の帰依より先にキリスト教徒を優遇し始めている)
帝自身の信仰とキリスト教とはどうやら異質だと本人が気付いたのは、晩年に入ってからのことである。実際に帝はニコメディアのエウセビオスから死の床で滴礼を受けるまでは正式な入信儀礼をしてはいないし、教理教育を受けた記録もないと言われる。

このような人物であるにも関わらずニカイア会議を招集し、自らヤコブよろしく議事を取りまとめるなど主導したのは、ローマ皇帝の威光によるものであり、また、当時のエピスコポイ(監督たち)がその権威に平身低頭したからであろう。

名目上ながら、歴代皇帝は帝国の宗教上の最高権威者を兼ねたせいか、帝自身も自分が(少なくとも)エピスポコスの一人であると思い込んでいたのだが、これを譴責するほどの勇気をもって異を唱える人物は無かったようである。その模様を伝えるカエサレアのエウセビオスの記した「コンスタンティヌスの生涯」には、彼の皇帝への阿りの言葉で満ちている。これと『わたしの王国はこの世のものではない』と、はっきり言い切ったイエスの言葉を整合させることには越え難い溝がある。

会議は参集者の交通費から滞在費までが国庫から支出されていたために、キリスト教の領袖たちは帝や国家の不利益になるような議決などできなかったであろう。
つまりは、キリスト教の領袖が会議に参加することで、既にキリスト教界は皇帝に買い上げられていたのである。

そこに見えるのは、敵意と過酷な迫害という猛攻撃のあとに、一転してローマの巨大権力から保護と善意をもって擦り寄られたときに、依然多数派ではなかったキリスト教徒の脆弱さである。

そして不思議なことに、このキリスト教の変質を企図し国教化の完成と教理の変更の全体を教導した一人の人物をこの皇帝を含めても挙げることができない。それは当時の社会全体が向かおうとする、何ものか抗い難い歴史の潮流のようなものであったと言える。


キリスト教化は当時の帝国を結束させる必要のために目論まれたもの、との解説を目にするのだが、確かにこの時期のキリスト教には争論があったにせよ、コンスタンティヌス帝個人にあって、それがどこまで理解されたかよく分からない。むしろ、キリスト教というものを自分なりに解釈し直し、それを本気で信じていたように歴史書は読めるのである。彼は、キリスト教に自ら関心を寄せたようだが、その以前には明らかに太陽神崇拝者であったことが知られている。

それでもコンスタンティヌス帝を、本人の宗教的嗜好によって然したる意図も持たずに、後のヨーロッパ宗教封建制の種を撒いた人物とすることは出来るだろう。彼が他ならぬ皇帝であったために、その議決を以ってキリスト教はヘレニズム的のものが正統とされ、欧州は「キリスト教化」という激しい波を蹴立て、その奔流は歴史上に渦を巻いて人々や社会を巻き込むことになってゆく。

議決は宗教上のというより皇帝による政治的判断であったが、結果的にその趨勢が近代まで継続し、今日の非キリスト教国までもが習慣や暦などを通して社会に様々に影響を受けているのである。

当時の帝国の国教化は、様々な人物が関わったところの、まさに十数世紀に亘る歴史の潮流の発端となったが、忘れてならないのは、国教化への変更で生じた「キリスト教」とは、「異邦人」つまり非ヘブライ的に形成された「新たなキリスト教」であっても、けっしてキリスト自身の教えに沿うものではないことである。

つまり、以後の「キリスト教」はまったく霊感のない異邦人の所有に帰したといえる。
ローマ皇帝によるキリスト教への介入は、やがて380年の「カトリック教令」に結実し、普遍教会はアレクサンドレイア=ローマ型のものが国家によって正統とされるに至るであろう。⇒アンブロジウス

そして当時の異邦人キリスト教徒も皇帝も、「主殺し」の張本人としてのユダヤ人を、この民族のパリサイ的文化傾向をも相当に嫌っていたのであるが、その結果、異邦人キリスト教徒らは、主イエスが、紛れもなくユダヤ教徒で在り続けたユダヤ人のメシアであったことさえ忘れるようになってゆく。

(この時代には、既にユダヤ人キリスト教徒は歴史の舞台から去っている)


ともあれ、キリスト教は「ローマ皇帝の宗教」となった。このことが意味することの大きさを信徒らは目の当たりにすることになる。

しばらく前には迫害に雄雄しく立ち向かって拷問台や闘技場での死に至るまで毅然たる信仰を見せたキリスト教は、すぐに甘やかしの誘惑に曝される、しかも、多くの人々はそれが罠になるとは気付いていなかったであろう。


闘技場での剣闘士の試合や動物の虐待はキリスト教的でないので行われなくなり、奴隷の顔に主人の印である焼印を入れることは「神の象りに作られた」人間を卑しめる事として禁止される。
広く行われていた磔刑も、主殺しの残酷な刑罰であるので不適切とされ禁止されてゆく。

これら帝国で一般的に行われてきた野蛮な風習はキリスト教の道徳性を通して洗練されるのだが、多くの信徒にとってそれは喜ばしいことに見えたであろう。人々には国教化が恩恵であるとさえ思えたことが容易に想像される。

加えて、コンスタンティヌス帝と母ヘレナは帝国のあちこちにキリスト教のための壮麗な建築を次々に始める。
ローマでもヴァチカノ、ラテラノなど多くのバジリカが市を囲むように建立され、ヘレナはエルサレムやベツレヘムなどに次々に聖堂を寄進した。それまで信徒が見たこともないような立派で印象的な空間は彼らを魅了したであろう。

しばらく前までは、キリスト教徒であることを告白することが命の危険を意味していたのが、いまや出世や特権を享受する手形と化する。
人々は集会所に波のように押しかけ、個人の家で行われていた集まりはパンクするほどになる。田舎の村ではいきなり村ごと「改宗」することもあったという。

エクレシアの指導者層には国庫から食い扶持があてがわれるようになり、彼らは僧職者を通り越して公務員に近い立場を占めるようになった。
宗教の教師というものはひとつの権威であって、政治家に似て人の上に立つ以上、その地位を得るのは出世である。この僧職碌を狙って多くの者が群がってきた。

この状況で思い起こされるのはキリスト・イエスの語っていた「からしの木の例え話」である。

からしの木の種は砂粒のように小さい。しかし、それが芽吹いて成長を始めるとするすると枝を伸ばし続け、ついには野菜の中で最大のものになる。
その枝は広く空に張り出すので、鳥たちがその枝に宿り場を見出すという。(マタイ13:31-/マルコ4:31-/ルカ13:19-)

当初、イエスの周辺に集まり始めた信者たちは大きな集団ではなく、ユダヤ人民は体制としてイエスに従うことはなく、却って刑死に追い込んだのである。
したがって、キリスト教の始まりはユダヤ人にとって単にイエス派というような内部の(メシア主義的)分派活動のように見なされ、早めに消し止めるべきボヤのようなものであった。

イエスの死に際しては使徒らも逃げ散ってしまい、イエスはあたかも一粒の種のように蒔かれたといえよう。
四年に満たない活動期間だけを持った教祖が刑死してしまった宗教の将来性というのはどれほどのものだろうか?
しかし、その砂粒のように小さな種が発芽し成長を始めると、その枝は空に向かって伸び続け、ユダヤ教の規模をはるかに超えて、ついに世界最大の宗教となるのであった。

そして、その大枝には多くの「鳥」が来て住み着きはじめたのである。もちろんこの鳥たちはからしの木そのものではない。その木から利益を得るものたちである。
共観福音書はそれぞれに、この「鳥」が「宿り場を見出す」としている。

これは僧職を生業にしようと群がり集まった者らではないと言い切れるものではあるまい。
驚くほどの信者の増加は、当然ながら信仰の俗化を招いたが、同時にそれらの信者を「指導」する要員が必要であり、俗化した「信仰」に見合った俄仕立ての「先生方」の糊口をしのぐ就職先が大きな口を空けたのである。

このように「からしの木」の例えを看做すべきもうひとつの理由は、続けて語られた「パン種」の例えの存在である。

「小麦粉を大舛に三杯(三サトン)」は22リットルにもなる量である。
調理をする「女」がその大量の小麦粉に中に、ほんのわずかな酵母(イースト菌)を「隠す」、そして熱すると「塊は大きく膨らんだ」(マタイ13:33-/ルカ13:20-)
これを語ったイエスは、神の王国もこのようになるという。

イエスは他の時に、弟子たちに「パリサイやサドカイのパン種に注意せよ」と語り、弟子たちはそれが「教え」に関わるものであることを悟った。
また、パウロは「少しの酵母が塊全体を発酵させる」ゆえに「古い酵母を捨てよ」とエクレシア内の悪行を例えている。(マタイ16:6/コリント第一5:6-8/ガラテア5:9)

コンスタンティヌスがその父以来、キリスト教徒に好意的であり、特に大帝となった息子が帝国内でキリスト教を擁護するようになったからといって、一般民衆がすぐに改宗してきたわけもなく、帝国域の各国の諸神の宗教がそれぞれに入り乱れている状態にあった。

それまでのローマの国策により、各地の諸神はローマの諸神と同じ神であることにされていったので、帝国の拡張は、この宗教合同による民心掌握もかなりの程度で役だっていた。これはギリシアの征服に際し、ゼウスをユピテル、アフロディーテをヴィーナス、メルクリウスをヘルメスというような、神を共にする姿勢を勝利者の側が示すことで、敵対から同朋意識へと転換させた例が観える。

そこで、コンスタンティヌス後、キリスト教が皇帝の宗教となって、次第に帝国民が教化される過程で起こったことは、かつてこの国が行ってきた通りとなった。

つまり、キリスト教にヘレニズム異教の様々な要素という「パン種を隠して」いったのである。
そこでヨーロッパのキリスト教がどのようなものになるかは、既にその時に動かし難い路線の上に乗せられてしまった。
その結果は、今日の一般的な教会での「キリスト教」に見られる通りのものとなっている。

コンスタンティヌス後、ローマ帝国の各所に千切れ雲のように散らばっていた、保護と励ましの必要なキリスト教徒という「小さな群れ」は、国教化に従い通勤ラッシュのような信者の増加を経験することになったのである。(教会史Ⅷ-i)
「パン種」は確実に作用したようだ。元々の麦粉が22リットルもあったのなら、その膨らんだ果ての姿はどのようなものであろう。今日、キリスト教は世界最大の宗教となっている。
この急激な膨張は隠された酵母の為せる業、また、からしの木の驚くべき成長に似たものである。

では、この「パン種」というもの、その「教え」とはなんであろう?
それはキリスト教を変質させる「強力な」大衆性であり、国教化に伴って取り入れられた異教であろう。

以前の拙文「ユダヤ教とキリスト教の歴然たる違い」で書いたように、ユダヤ教から脱皮して素晴らしい次元上昇を遂げたキリスト教に「酵母」が作用し、元居たユダヤ教のレベルかそれ以下に押し戻されたのである。

ユダヤに生まれてくる者はすべてモーセの律法契約に入り、男子が生後まもなく割礼を受けるように、キリスト教がローマの国教となるに伴い、自ずと幼児洗礼が確定的になってしまう。
パウロは、血統によるイスラエルが真にイスラエルなどではないと言ったが、それに反して血統主義のかつてのユダヤ教のように、国民がすべて生まれながらに信徒たるべき時代が再び訪れた。

イエス以来、迫害される宗教であった「キリスト教」が、旧約のイスラエルのように武力で異教を排除するものとなり、迫害を加える側となってゆく。
どうやら彼らは、残虐な拷問や処刑を次々に考案した帝国の官吏の「正統な」後継者のように見える。
後代の十字軍は、旧約に描かれたイスラエルの戦いのように正当化され、キリストの名の下にユダヤ人やアラブ人の許多の「犠牲」が捧げられもしたが、それもまた、この『パン種』の為せるところであろう。

ユダヤ教のように国家宗教となった以上、当然のことながら戦争を肯定する必要が生じ、兵役を避けてきたキリスト教徒は「信仰」を否認していることになってしまい、キリストの「剣を執る者は・・」の言葉をうやむやにするようにもなった。
わたしの王国は争い合うこの世のものではないと言ったイエスの言葉とは裏腹に、「正義の戦い」や「正しい戦い」に参加できるように信者は「進歩」した。それは国を背負った宗教の宿命である。

聖霊の賜物を有し、帝国のかつての迫害で忠節を保って死を受け入れた「聖徒」たちは「聖人」として崇められる副次的神の「糞像」と化した。

初代キリスト教徒が待ち続けた「神の国」は、「ローマ帝国」の存在によって現実化されてしまい、実際には到来しないもの、あるいは「教会」を通して徐々に実現されるようなものと教義を変えざるを得なくなった。

ローマの法はユダヤの律法の地位を得て、キリスト教徒はユダヤ教徒のように再び外からの力によって道徳的に拘束され、愛と良心を働かせるキリスト教の自律は失われ、再び現実の国家法にひざを屈めるようになったのである。

また、かつてエルサレムに神殿が存在し、地上の宗教的中心地があったように、この国家教の中心が次第に求められてゆく、それは権威付けのための、また末端まで精神的支配を行き渡らせるための道具であり、ローマ市がヒエラルキアの頂点に上ろうとしてくるのであった。
今日もそこには壮大な建造物が威容を誇り、十億の人々の総本山となっているが、ユダヤ人がエルサレムに登ったように、いまだ巡礼の地となっている。

多くの壮麗な教会堂が建立されるにつれ、初代キリスト教徒の励ましあう簡素で牧歌的な集会は、荘重な儀式の礼拝と化した。この点でもキリスト教はユダヤの「祭儀の宗教」に舞い戻っていたのである。そこに違いがあるとすれば、聖書の裏づけがあるかないかということくらいであろう。

それらの儀式は東方宗教やギリシア的神秘主義との渾融であって、秘蹟(サクラメントゥム)という形で神の介在が要請された。それは参列者に権威を示すものである。

やはり異教との交配がはっきりとしている分野として祭りが挙げられよう。
12月25日はローマ市民の楽しみな無礼講の祭日であった。その日は冬至を越した喜びの宴であり、冬至であたかも死んだかのようになった太陽の復活を祝う「ナタリス・インヴェクチ・ソリス」(敗北せぬ太陽の祭り)であって、冬も葉を保つ常緑樹が飾られ用いられた。

太陽の復活は農耕にとっても吉兆である。農耕神サトゥルヌスの祭り「サトゥルナリア」も同じ時期に行われ、それに加えてペルシア由来で冬至に死んで三日後に復活するという太陽神ミトラスの祭儀もこの日と深く関係していた。

こうして、イエスの誕生は明らかに冬ではないに関わらず、太陽神の再生はイエスの誕生と結び付けられ、以後伝承されている。

国家がキリスト教化されることにより、太陽神崇拝者であったコンスタンティヌスと、ユダヤ教徒を嫌悪し安息日を同じくせず*したい当時のキリスト教徒が都合よく一致して、ローマ曜の「太陽の日」(日曜日)を安息すべしと規定され、土曜安息を守る帝国内のユダヤ人は、以後肩身の狭い思いをすることになる。

「太陽の日」はキリストの「復活」した目出度い日であるから、以後もこれを祝うべしとなったが、帝国の権威によるこうした宗教合同がキリスト教徒に太陽神の祭日を祝わせたとしても、それは自然な成行きであったろう。
それまでのローマの宗教に似た「キリスト教」に人々は喜んで帰依したことであろう。
キリスト教そのものは安息日を求めていない。しかし、ローマ文明の伝播により、こうして日曜安息が今日世界に広まっているが、それはコンスタンティヌスの太陽神崇拝の痕跡でもある。

さて、こうして世俗と手を結び変質した「伝統的キリスト教」に、今日でも魅力を感じる人々もおられるに違いなく、筆者はそれを指弾しない。

見事な均整をもったラテン十字架のすっきりとした美しさ、宗教絵画に見られる静謐なまた動的な敬虔さの世界、カテドラルのステンドグラスの多彩な煌きやオルガンの荘重に屹立するパイプの列、また人を卒倒させるほど法悦の極致に至らしめる音楽に、それはそれとして価値がないなどとは到底言えないものであり、世界遺産のような観点から言って人類の高等な文化であることは言うまでもない。(文化というものはそれぞれの土壌で必ず生育するものであろう)

だが、キリスト教の本質について考える人、これらの変質した「グレコ=ローマン型キリスト教」以前の「源キリスト教」を求めようとする人々も必ずや居るであろうことも信じる。

その方々にお勧めしたいことは、これらの変質が16世紀の宗教改革を以っても、本質的には回復されなかったのであり、変質する以前のキリスト教を求めるなら最後の使徒ヨハネの居た西暦第2世紀前半の小アジアを考慮しなければならないと思われることである。
この二世紀初頭の小アジアのキリスト教について、今後も筆者は記事を書き加えてゆきたく考えている。


それにしても、キリスト教は何と大きな膨張を遂げたことであろう。今日では人口においてイスラームの追い上げを受けているが、それでも20億という依然として最大の信者数を誇る世界一の勢力を持っているのである。

それは、からしの木が空に向かって枝を広げているかのようであり、古代のパン種によるインフレーションがもたらした急膨張の余波をそこに見るかのようである。





 ⇒  初代キリスト教徒の様子  第二世紀初頭の小アジア
      聖なる者たちのエクレシア

 ⇒  「キリスト教」と「原始キリスト教」の違い
      どうして変わってしまったのか

 ⇒  アンブロジウス  俗世との岐路に立った男
      カトリックを捏造した人物 

                       ©  林 義平
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*ローマ帝国のキリスト教徒への迫害に乗じて熱心なユダヤ教徒たちが、当局へのキリスト教徒の告発を非常に執拗且つ陰険に行ったことを歴史が明かしている。
そのため、二世紀以降のキリスト教徒の多くにはユダヤ教との共通性を排除しようとする強いムーヴメントが働いていた。
そしてコンスタンティヌス帝自身もこの動きに賛同していた。ニケアーの議決は、それに神をユダヤと同じくせずとしたい欲求(三位一体説)を合わせたものとなった。


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ユダヤ教とキリスト教の歴然たる違い


ユダヤ教とキリスト教の違いを一言でいえば、ナザレのイエスをメシア=キリストとして認めるか否かということになるだろう。だが、その意味するところは非常に大きい。両者は宗教の原理が正反対なほどに異なるのである。

イスラエル民族の父祖アブラハムに示され、モーセが予告したメシアの到来をユダヤ教は現在までも認めず、キリスト教のような世界宗教の自由さに脱皮することも、宗教上の価値観を上昇させることも経験していない。

ユダヤ教は、田舎ナザレ村から来たイエスのような「ガリラヤの私生児で、魔術師」*のようではないところの自分たちにとって望ましい超絶的大王メシアの到来をいまだに待ち望んでいるが、ヨム・キプル(正月の贖罪の日)からヨム・キプルへと神殿喪失から二千年の歳を重ねつつ忍耐を続けている。  *タルムード)

しかも、イエスの死後四十年を経ずに、つまりイエスを葬った世代の間にユダヤはローマ軍の攻撃を受け、以後ユダヤ人は流浪の民となり、崇拝の要であった神殿も失い、そのためモーセの律法の三分の一に当たる神殿祭祀は、以後履行不能となった。したがって、今日まで神殿を持たないゆえに、モーセを介して与えられた六百に及ぶ戒律である「律法」の完全な遵守はどうあっても不可能となっている。

そのうえ、神殿付属の書庫にあった系図も同時に失われ、神への祭祀を行う祭司たるべき者を文書で確認することもできなくなった。
加えて、ヨセフの長子イエスが、真にベツレヘム・エフラタに発するユダ族であることも今日からは分からない。ただ、マタイとルカの二系統の系図が新約聖書中に残されている。

それでもメシアには系図以上の価値ある証拠があった。
即ち、福音書の記述ではナザレ人イエスが奇跡を行う徒ならぬ人と描かれており、旧約の預言を数多く成就していることも後になって使徒らが気付いている。

では、あのナザレのイエスがメシアではなかったのだろうか? 
かつて彼を刑死に追い込んでしまったユダヤ教にとって、これは今日も恐るべき禁断の問いである。

イエスは北部ガリラヤの片田舎ナザレ出身で、ラビ式の宗教教育を受けておらず、レヴィ族でもないので神殿祭祀に関わる立場でもない。
その素のままの廉直な姿はエルサレムの宗教指導層から見ればみすぼらしい人物である。(イザヤ53:2-)
だが、この田舎者が語る力強い言葉と行う奇蹟を否定するにはかなりの困難を覚えていた。

彼らの念頭にあるのは、自分たちが納得でき、受け容れられるメシアの現れであって、ユダヤ宗教家階層の常識が通用し、且つ自分たちの身分を保証してくれるような、垢抜けた仲間らしいエリートのようなメシアでなくてはならなかった。
そのような優等生の「約束のメシア」なら、自分たちの崇拝の方式や体制や組織を是認してくれるに違いないと思い込んでいたであろう。

その理由は神よりも、自分たちの宗教方式を信じていたからである。
当時のユダヤ体制派の人々がそのように独善的であった証拠は福音書やユダヤの伝承の随所に散らばっていて、それらのすべてを「無かったこと」に回収するのは、もはやできない相談である。

彼らには残念だが、メシアは宗教領袖らの仲間とはならなかったし、聖典を熟知したはずの彼らの常識の外に現れてしまった。
イエスは宗教家が「地の民」と軽蔑するユダヤの民衆と共にあり、彼らを教え、労わり、癒す。しかも宗教家の味方をするような発言をしてくれないのだ。いや、むしろイエスはユダヤの宗教体制を糾弾する人であった。

彼の存在が都合の悪いユダヤの宗教領袖たちは、イエスが直接にはメシアの出身地とされるベツレヘム・エフラタの出身ではないので、まず、ここにイエスを拒否する口実を得る。

次いで、モーセによって不労働が固く命じられた安息日にイエスが奇蹟を行う事も否定できる条件となったが、一方でイエスは安息日の精神を教えようとしたのであった。

宗教家らの蔑む民の方はといえば、イエスの行う驚くべき奇蹟の業と直截的で不思議に権威を帯びる見事な言葉とを喜んで受け入れた。両者の観点が異なったのである。聖なる書に通じる宗教家らの正確な知識はほとんど逆に作用した。

そこでユダヤの宗教家たちは、イエスの奇蹟は悪魔の力に由来すると唱え始めるのだった。第一、彼らにとって民衆は律法の細目に通じていない「呪われた」群集に過ぎないのだ。

こうして、ナザレのイエスを否認する「正義」はよろしく整ったのである。


しかし、イエスはユダヤ人の中で虐げられた「アブラハムの裔」を集め出してゆくが、その弟子らの集団は、イエスの帰天後に、肉の「血統」によらず「信仰」によって構成される『神のイスラエル』となってゆく。(ガラテア6:15-16)

そのため、イエスの活動はアブラハムの子孫であるユダヤ人の間で、ユダヤ教の信仰されている只中で行われたのであり、イエス自身も幼児期に割礼を受け、祭りのときには神YHWHの神殿に詣で、その務めを果たしたユダヤ人の中のユダヤ人、イエスは生涯を通してまったくユダヤ教徒であった。


では、イエスをメシアとして受け入れた人々の中で、歴史上のどこからがキリスト教となったのだろうか?
ここでは、この時系列を踏まえつつ、ふたつの宗教の内容的相違を俯瞰してみたい。



さて、西暦七十年の神殿の喪失は、確かにユダヤ教の祭司制度の崩壊であったが、しかし、いつからがキリスト教かという、この点は厳密に何年の何時からと言うのは難しいことであろう。それでも、信仰する者にとっては聖書の文言においてある程度はっきりとさせておく必要がある。

何故かといえば、ユダヤ教とキリスト教の教義は根本的原理がまるで異なるからである。⇒愛の掟 
これを混ぜこぜにしてしまうと、理解の鍵は取り去られるに違いない。

「イエスがユダヤ教を改革した」との説明をよく目にするが、確かに彼がユダヤ教の真髄を語ることはあっても、ユダヤ教を改革ないし改善したというよりは、自らが死して後の時代に、残された弟子らを通して、ユダヤ教の彼岸、まったく新たな教えの次元の彼方に初代の弟子らを到達させたという方がよほどその意義に適うだろう。


つまり「キリストの死」が迎えられてはじめてキリスト教への道が拓かれたのであり、キリストの死後に「犠牲」が触媒として作用してはじめて新たなキリスト教教理の体系も創られる素地ができたのである。

特にユダヤ教とキリスト教の相違に重要な意味を帯びるのが、キリスト前後の時期である。というのも、キリストが到来し地上で活動している間も、「新しい契約」は発効しておらず、イエス自身モーセの「律法契約」に服するユダヤ教の立場を守り通したからである。
 

ゆえに、新約聖書に収められたキリスト・イエスの言葉には旧契約の中で律法に沿ってユダヤ人に語られたものがほとんどである。
例を挙げれば、「あなたがたの逃げるのが安息日にならぬよう」また「あなたがたの義が書士やパリサイらに勝らないなら」、また、癩病を癒した相手に「行って祭司に見せ、証しを立てよ」という発言などがある。
(したがって、福音書中で「あなた」と書かれているところを自分に向けて書かれたと思うのはまったく早計である)


しかし、彼が死に至るまで試され、その『血の犠牲』を携えた大祭司の権能を受ける、つまり刑死の51日後のペンテコステ(シャヴオート)において史上初めて「新しい契約」が効力を発し、旧い制度に対する新しい制度が現れて状況が一変する。これを以ってキリスト教の初めとされてもいる。しかし、当時はその教理のほとんどを依然ユダヤ教に負っていたことは変わらない。


そこで新たな教理へと導き助ける存在があった。それがキリスト最後の晩に約束された『聖霊』である。

その後もイエスは、弟子らに「助け手」である格別な『聖霊』を通して指導を続け、それらの新たな教えが所謂「キリスト教」へと道を開いたが、それは律法に囚われない新しい教えとなってゆく。 ⇒キリストは去ってなお


地上でのキリストの姿を見たことがなく、イエスを知らなかった「パリサイ人サウロ」は、、イエス派迫害の急先鋒であったにも関わらず、復活したキリストの臨在の現れを受けて使徒パウロとされ、「奥義の家令」としてそれまでにない革新的な教えを授けられ、非ユダヤ人に多くの時間を費やして宣教し、教義において最先端を走ってゆく。これは「パリサイ人サウロ」の180度の大転換である。


だが一方で、イエスをメシアとして受け入れた多くのユダヤのイエス派にとっては、このような概念の大変化はなかなか難しく、律法遵守する「熱心なユダヤ教徒」であることに満足してしまった。 ⇒ キリストの弟

しかし、パウロの説くように『キリストは律法の終わり』であり、使徒筆頭のペテロも律法を『我々も父祖も守り得なかった頚木』と呼んでいる。こうして使徒時代は、律法の「業」からキリストの「信仰」、「人の義」から「神の義」へと転換する途上となった。

その転換というものは、『罪』という人間に巣食う倫理上の欠陥についての認識が180度も変わることを求めるものであった。(ローマ3:9)
ユダヤ教の基本は、モーセを介して与えられた『律法』の条項を守ることによって、神の前に『義』を得る、というところにある。

生活の中でその掟に従い、また神殿での祭儀を行うことで、彼らは神との契約を守ってみせることにより、ほかのあらゆる民族に祝福をもたらす『諸国民の光』、『聖なる国民』となるはずであったのだ。(出埃19:5-6)
そこでユダヤ教は、いまだに律法の遵守による『義』を目指しているのだが、それはキリスト後に神殿を失っており、もはや律法全体の履行が不可能となっているにも関わらずのことである。(ローマ9:30-31)

他方でキリスト教での『義』とは、キリストを唯一の義人として認め、その犠牲の死によって人々の『罪』が相殺されたことで『義』が可能となったと理解する。(ローマ3:21-22)
それゆえ『キリストは律法の終り』であり、『律法』の役割は、人類全体には拭い難い『罪』があることを知らせ、罪の無いキリストを指し示すところにあったのである。(ローマ10:4/ガラテア3:19)

イエスがキリストであることを認め、個人として信仰を持つ者が『義』を得るのであり、ユダヤ教のように民族として神の契約に入る時代は終りを告げたと解釈するのがキリスト教である。(ガラテア3:10-14)

だが、この新たな教えに到達するには使徒たちの時代を待たねばならず、彼らに注がれた聖霊による理解は、第二世紀までに新約聖書にまとめられるのだが、それまでにユダヤ教からイエス派に転向した人々については、それまでの律法の生活様式や教理に従うことが専らであって、使徒らの告げる新たな教えについてゆく困難さがあった。

その結果、律法に従い続けたユダヤ人イエス派は異邦人のイエス派に遅れをとり、『最初の者は最後になる』と言われた事柄は成就してしまったのである。「賃金の例え話」


その後、ユダヤ教的イエスの信徒は西暦七十年の神殿を含むユダヤ宗教体制の壊滅と共に、その拠って立つものを失い、以降は『神の計らいによってクリスティアノイ』と呼ばれていた異邦人的イエス派が、ユダヤ教と袂を分かち「キリスト教」を先導してゆくことになる。

使徒言行録全体から見れば、この『神の計らい』とは、「クリスチャン」と呼ばれるのが神意だというのではなく、過去にしがみ付くユダヤ教と袂を分かち、新たな宗教「キリスト教」として出発することを指している。


ユダヤ教イエス派をキリスト教という新しい宗教に分かれさせたのは、イエスをメシアとして受け入れないユダヤ教側が律法主義や愛国主義に凝り固まって、イエス派を迫害し排除したところにあった。つまり、ユダヤ教は自らキリストとその弟子らを外に追い出し、新たなキリスト教を構成させる素地を自ら与えたのである。

それで、我々がキリスト教*と呼んでいるこの宗教が確立されたのは西暦第一世紀の後わりから第二世紀にかけてと言い得るだろう。

教理の完成については、エルサレムの破壊を逃れた使徒ヨハネが晩年を過ごした小アジア地方で結実したと言い得る理由がある。それは即ち、『聖霊』を通したキリストの監臨の最後の時であったろう。 ⇒ 小アジアのキリスト教


(*ここで言うのはヘブライ的(ユダヤというよりは)キリスト教であって、現代のほとんどのキリスト教が含まれる新興のグレコローマン型キリスト教を指していない。そちらの始まりはこの二百年以上後のニケーア会議からである)



さて、このようなわけで福音書中のイエスの言葉にはモーセの律法体制に従う教えがほとんどで、一方でイエスの去って後の使徒らの発言には、律法から解かれたものが多い。特にパウロは、自られっきとしたユダヤ人で律法墨守のパリサイ派であったが、キリストに召されて後は『自分は律法の下に居ない』と断言し、その先にある教えを指し示す。(コリント第一9:20-21)


そこで、新約聖書中の陳述の真意を知ろうとするなら、それがどちらに属するものかの判断を加えなければ双方が混濁してしまい、それは理解を助けるものとはならない。
つまり、語られた対象がユダヤ人なのか異邦人なのかの判断がそこに求められるのである。

この点で重要な事は、そのような判別を行う条件として、
ユダヤ教とキリスト教がどのように違うかを知っておくことである。

この両者を比較して大きく異なる事項を挙げてみると



◆律法契約下のユダヤ教
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◆まず、ユダヤ教は国家宗教であり、国民皆信徒制であったことが挙げられる。
ユダヤ人として生まれたならば、アブラハム契約によって誕生八日目に男子は全員が割礼を受けねばならず、律法契約では生まれながらに契約当事者であって、モーセを遵守することが義務付けられた、生まれながらのユダヤ教徒である。

イスラエルの血統にある者は常に一定の特権を享受し、アブラハムの相続者と見做され、「友」「同胞」「兄弟」といえば同族のイスラエル人崇拝者を意味した。同朋には金利をとって貸すことは許されていなかったが、異邦人に対しては金利を取って貸すことが許されるので、ユダヤ人は大いにこれを活用し、後代には世界各地で金融力を付けた。同様に、安息日の規定に縛られるので、安息日には自分らができない作業を非ユダヤ人には負わせ、食すことの禁じられた「汚れた」と見做される食物をも与えたのであった。

そこにはユダヤ優等主義が内にあり、それはトーラーにも認められた特権であったが、この点では、たとえユダヤ教徒であっても、イスラエルの血統にない異邦人改宗者には一定の制限があった。


ユダヤ人の受ける「割礼」は、アブラハムに約束された子孫繁栄に益するものであり、当然家族が大切にされ、子がいることは祝福であるから、独身者などは一人前とはみなされない。子らが多いことはその父の威力であった。

この点、結婚相手も原則的に国民内、同族内に規定され、兄弟が子孫を残さなかった場合には、未亡人を兄弟が娶り(レビレート婚)その家系を絶やさぬようと取り計らわれた。
しかし、不妊の妻は立場が悪く、主人が女奴隷から子を得たり、離婚される危険があった。

◆そのように、個人よりは集団が重視され、国家教として神と契約を結びこれを崇拝していたので、国家の体裁を保つために軍事力を持ち且つ行使する必要が生じるが、律法には軍法も含まれている。

コミュミティを保つことが重視されるので、子らは幼いうちから鞭で矯正され、不良少年は親の判断で処刑された。子らに宗教上に選択の自由はなく、ユダヤ教を離れることも、その神を呪うことも共に死を意味した。かつて処刑は官吏ではなく一般住民によって集団的になされていた。


国家であるからには法規を持ち秩序を維持しなければならないし、違反者を裁判にかけ、実際に処罰するシステムを持たねばならない。また国家である以上、他国の侵略に対抗しなければならないので、軍事力も保持する。

つまり、通常の国家として政治力を維持するための内外への権力(暴力)を必要としたのである。
この神権国家は、その権力を用いることを神から命ぜられ、エジプトからの入植時期には、城市を次々に攻略して異教の崇拝もろとも先住民を殲滅しているし、領域を守るため、また奪略に対処するために、イスラエルは何度も剣を振るっている。


◆加えてユダヤ教は祭儀の宗教であり、動物の犠牲による祭儀を行う場所を有し、常々浄めの儀式や犠牲を必要とし、生活上の仔細に踏み込むものであった。国民にはトーラーで年三回(ハヌッカーなど他の祭りもあるが)の祭りが定められ、エルサレムという宗教的地上の中央を与えられ、そこに集うべきであった。

殊に、エルサレムの神殿で行われる典礼は規模が大きく壮麗であり、大合唱と管弦楽による詩篇歌や、祭司の古着を灯心にした巨大なメノラー(燭台)の輝きはモリヤ山上から遠くまで届いたという。ヘロデ大王の建立した最後の神殿域はアテナイのアクロポリス神域の倍近い広さを持ち、金で覆われた聖所の姿と共に美麗なる聖都エルサレムはローマ帝国民にとっても誇らしい名所であった。

ユダヤ人の習慣では、安息日や新月などの節会を律法に応じて守ることで、労働や移動に制限があり、加えて、食物の規定があって律法で「汚れた」とされる生き物を採ることが許されなかった。これらはイスラエルを他の民族への同化吸収の消滅から決定的に守るものとなっていた。これらの規定はユダヤ人を彼らの居住区ゲットーへの集約を特に推進する。

服装や髪型にも幾らかの規定があり、それは外見においても「モーセの弟子」であることを明らかにしていた。彼らはそれを見る度に律法の遵守を思い起こしたという。
そこで、イエスの当時からパリサイ派は敬虔さを競って、タリットの房べりをこれ見よがしに長くし、揉み上げ*を伸ばしてきた。(今日のユダヤ教の大勢はヒレル系パリサイ派の延長線上にある)

これを基に敬虔さを外見で表すことが習慣となったので、宗教指導者は敢えて公共の場所で祈りなどの宗教的な行いをしたという。(荷車が来ても退かず、毒蛇に咬まれても祈りを止めない。「義」は律法の履行によって得られる)

*(古代のカナンには揉み上げを刈り込む部族があったようで、イスラエルがその風習に染まらないための規定が律法にあったが、後代の敬虔主義はこれを拡大解釈し、揉み上げをともかく切らないことでこの律法条項を完うしようとした結果、カールした異様に長い揉み上げを見ることになった)



-◆新契約下のキリスト教-----------------------
だが、こうした事柄はキリストの教えで変化し始める。


◆まずバプテスマは生まれながらのものではなかった。それはイエスをキリストととして受け入れる意志を持つ者が授かるものである。

もし、割礼のようにバプテスマが生まれながらのものであれば、そこにコミュニティの(皆信徒制)宗教が出来上がり、ひいてはキリストが地上に制度教、つまり本人の意志選択によらない「俗権」と融合した宗教を持つことになるが、これは国家・民族宗教たるユダヤ教への出戻りとなろう。


ユダヤでは子を設けることや家族の繁栄を祝福と看做したが、これはキリストにおいて独身の奨め、そして家族が必ずしも祝福とはならないような発言によってユダヤ人はその個人重視に驚愕したであろう。本来のキリスト教に於いては子に帰依が強要されるものではない。

従って、ユダヤ教はコミュニティの宗教であり、律法を営々と守り受け継いでゆくことで、周囲諸民族から隔たり、独特の文化を確立し維持してゆくことを目的としている。つまりイスラエル民族を周囲への同化吸収から保護し、ひとつの宗教を護持して行く制度がユダヤ教であった。

それに対し、キリスト教は個人の宗教であって、コミュニティの中に混じり込み目立たないものとなった。それは迫害からの保護でもあったのである。
もちろん、十字架など首から下げはしない。それでは逮捕してくださいというに等しい愚行でしかないし、十字架信仰そのものが第四世紀まで存在していなかった。
 


◆軍事力についてはどうだろうか?ペテロに発した有名な「剣を納めよ」、またピラトゥスの前で「わたしの王国は(戦い合う)世のものではない」とイエスは述べたが、それ以上の説明を要しまい。

この条件を満たそうとすれば、キリスト教ははっきりと政教を分離し、政治に関わらないことを意味する。政治に関われば、必ず何らかの争いに関わらずには済まない。 ⇒ 「人はなぜ政治と宗教を・・

ローマ国教化以後、キリスト教も政治権力と結んだときに、ユダヤ教のように武器を持ち、力で異端や異教徒を迫害や攻撃することのできる「世俗的な」宗教となったが、それはキリスト教のものではなく、初期のキリスト教徒は迫害されこそすれ、する側には立たなかった。後代、キリスト教徒同士であってさえ迫害しあうのは第五世紀のアウグスティヌスの関わったドナトゥス派迫害からである。


◆法秩序では、ユダヤ教において「律法」の存在は非常に大きく、モーセの時代から3500年近い時の流れを経て、既に現代生活と合わないところが目だってきたが、なおこれら律法中の規則を墨守することは、人間に巣食う「罪」(原罪)を認めていないことを示している。

つまり「律法」が人間に「罪」あることを知らせ、『キリストに導く教師』となったことを依然認めず、いまだに「律法」を守ろうとすることで、神の前に自らの「義」を示そうとしており、そこから先に進まないことを意味しているのである。(ガラテア3:24)

他方キリスト教では、神の規準である「律法」の規則が人間には守れないものであることを認め、人間の自己救済が不可能であることを謙虚に受入れ、神の遣わしたキリストの犠牲によって、人が初めて救われることを信じるのである。

人間の自力更生不能の原因が、アダムの子孫の誰の血にも流れる悪の傾向である「罪」にあることを理解するので、律法遵守の業では「義」を得られず、アダムの血統にないイエス・キリストの身代わりの死の犠牲無くして「義」を得られないことを一重に信仰する。これが即ち「キリスト教」である。

そこで求められるものは、自らの悪に傾く傾向(倫理上の欠陥)を認める謙虚さである。
つまり、キリスト教徒の求めるべきものは、実質も無く到達できるはずもない自らの言動による「人の義」ではなく、救世主キリストへの信仰による「神の義」である。



したがって、このことが両者の生活規準に違いをもたらす。
「信仰」に基づくキリスト教は個人的なものであり、元々地域社会向きのものではないので、何らかのコミュニティに対して一定の道徳性を要求する権力を持たないし、ユダヤ教のように集団に法規を定めて道徳的行動を要求するものではない。
キリスト教での道徳については、ただ「愛の掟」があるのみである。⇒ 「愛の掟」

「裁かれないために汝も裁くな」の言葉にみられるように、不行跡を指弾するのではなく、むしろ後悔するものを許すのがキリスト教に相応しい。悔いぬ者だけを個人的に極力避けるのみである。キリスト教徒の中では警察力の必要はなく、その恩恵を受けるにせよ、本来それは世俗という外のものである。(マタイ18章)

法規制についてキリスト教徒は良心の指示に逆らうものでない限り、世俗の権威や権力に従いその法を守るが、法秩序はやはり外部のものである。したがって、キリスト教徒は政権から独立して別の法を施行する必要がない。世俗の法規を二次的なものとして、ある程度取り込んでしまえるのである。(ローマ13章)

だが、律法を遵守しようとする国家宗教のユダヤ教ではこうはゆかず、自前の法律である「モーセの律法」が、彼らに自治や権力を求めさせ、他国の法律と衝突するところで、しばしば周辺民族や他国政府との軋轢をもたらしてきているのは今日もユダヤ教徒の有様に見る通りである。(イスラームの政教一致制度の「タウヒード」が同様)


◆崇拝では、キリスト教は本来は儀式宗教ではない*。ユダヤの定期的な牛や羊などの動物の犠牲はキリストの犠牲を模式的に示すものでしかなく、キリストの血の犠牲のように真に人の罪を贖うことはなかった。
*(ローマ国教化以後、キリスト教も儀式宗教に戻っていった)

キリスト教の儀式は聖餐とバプテスマのふたつのみとなり、必要なエレメントは、面倒な種々の動物や様々な収穫物から替えられて、少量の無酵母パンとぶどう酒、それにバプテスマの水という簡単に入手できるものに置き換えられたので、中東に留まらず世界に向けて広がりやすく整えられた。

また、キリストは天にあって初代の弟子らを聖霊で導く中央であり「天のエルサレム」であったから、神殿やサンヘドリンのような地上の中央は必要がなく、却ってあるべきではなかったといえよう。現在は「聖霊」が存在しないので、天の中央はない)


キリストの犠牲によって、かつてエルサレムの壮麗な神殿で行われたような厳粛な典礼はキリスト教の本質ではなくなった。
したがって、キリストの教えは大仰な「礼拝」ではなく、本質的には牧歌的な講話を主体とした「集会」の宗教といえよう。教会での聖体拝領や聖餐の儀式の度に、再びキリストの血が流されるという解釈は、無理なこじ付けであり、ユダヤ崇拝への後退でしかない。
そこに荘厳なバシリカなどの建造物は不似合いであり、それはむしろユダヤ教にこそ相応しい。



◆習慣については

ユダヤの祭りや節会、また聖書を見る限り、本来的に安息日もキリスト教徒を縛るものとはなっていない。(集まりのために日曜の不労働を決定したのは後代のローマである)(唯一の節会は「主の晩餐」)

ユダヤ教徒は外見や定式化された行動からすぐに判別されたが、キリスト教徒は浮世に対して付き合いが悪いほかは一般人と同じ服装をし、異教の神殿内は別にしても*同じように食事する生活様式であり、イエスは弟子らが外見ではなく「愛」によって知られると述べている。(*ギリシア社会では神殿の奉献物を崇拝の一部として食事する習慣が広く行き渡っていた)

初代キリスト教徒の中での指導的立場にある人々は、その立場ゆえの特別な服装をすることはなかっただろうが、これは護教家にして殉教者ユスティヌスが哲学者の黒い服装(パリウム)を着たままキリスト教徒となってから三世紀あたりにかけて、その黒服が僧服に連なることに定着していったようである。

しかし、こうした差別化が僧職者と平信徒の身分へと進む以前には、「父」や「師」と呼ばれることさえキリスト教徒の良心は許さなかったであろう。(マタイ23:8-12)

ローマ帝国が迫害するためにキリスト教徒を知る方法は、服装や習慣という外見に頼れないので、多くの場合「告白」やユダヤ教徒からの執拗な「密告」また「告発」によってであった。記録に残るように、ユダヤ人がキリスト教徒の火刑の薪を率先してせっせと運んだからには、無抵抗なキリスト教徒が火炎に絶命するのを宗教的正義感に浸って眺めたであろう。(ヨハネ16:2)

当然、これは双方の宗教の強烈な不和の原因となった。
やがて、キリスト教徒は度々ユダヤ教徒を惨く迫害したが、これは自分たちの「師」や古代の「聖人たち」の借りの意趣返しだったろうか。

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このようにキリスト教はユダヤ教からまったく別のものに脱皮を遂げていたのである。それ以前の「アブラハム契約」と「律法契約」はキリスト教に於いては「アブラハムへの約束」へと収斂した。

実際のアブラハムの血統がそのままに、それらの契約の成就を受けることは遂に無かったが、それらの契約はイエスの仲介した「新しい契約」に置き換えられることでその目的が保存され、アブラハムの遺産も「神の王国」へと継承され、神の企図はキリスト教へと移った。その移行を証ししたのが、あの五旬節での聖霊降下とイエスの奇跡の業の弟子らへの移譲であった。(ヨハネ14:12/15:26-27)

しかも、モーセの六百もある「条文遵守」が外面的であるのに反し、「愛の掟」の一カ条は人の内面が問われるものである。「義」は個人の行状では得られず、メシア=キリストはイエスであるとの信仰によって得る。
こうして、人の心に働きかける中心的原理も百八十度変えられている。

これは次元上昇と呼んでもよい程の昇華であった。
そうして「愛の掟」をもつキリスト教はかつて存在したことのない価値の高みに揚げられたのである。 ⇒ 愛の掟

これはアブラハムの宗教、そして律法契約から新しい契約へと段階を進む、数千年に亘る
神の歩みである。

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それで、イエスの犠牲の死が触媒のようになって、ユダヤ教からキリスト教への変化を司ったのであり、且つキリストの時代は転換途上にあったことを我々は理解する必要がある。


キリスト教が成立するためには、キリストの犠牲を受けてのち、数十年の時の経過を以って「聖霊」の指導を得て時の経過を待つ必要があったが、そうして「キリスト教」は使徒たち初代の弟子のうちに出来上がっていったのである。

この「聖霊」とは、キリストが去る以前に弟子らに与えると予告していた特有のものであり、当時の弟子らにも奇跡を行わせ、律法契約には無かった新たな段階の教えを知らせる神からの使いのような働きを行った超自然のものであった。この奇跡の「聖霊」なくしては、キリスト教は歴史に登場しなかったと言って過言ではない。

新約聖書には、キリストの直弟子ら、また初期の人々の必要を満たし、ユダヤ教からキリスト教を脱皮させる言葉の数々が記されているのである。聖霊を受けた初期の弟子の目的は人類全体の救いとなることであった。
したがって、これらの状況に基づき新約聖書中のキリストの言葉を判断することが求められているのである。

つまり、どのような状況で誰に対して述べられた言葉であるのかというような背景を考えに入れて読まれなくてはならない。
そのためには、聖書歴史のあらましを注意深く読んでおく必要がある。⇒推奨書籍

それに加えて、実のところキリスト教の記述部分にあっても、それが選ばれた聖霊の持ち主たる「聖徒」(聖なる者)に述べられた言葉か「信徒」に述べられたものかの区別も必要になってくる。(ルカ12:41)

聖書の大半の記述は人類の救いに関わるものであっても、直接にはその手立てとなる「聖徒」というキリスト教徒の中でも格別な人々に向けて大半が語られ、書かれているという事はどうしても見過ごすことができない。

つまり、キリスト教とは人類救済の準備段階の宗教なのであり、けっして信者を天国に召して終わるものなどでは断じてない。
そこで聖書という書物は、世の人類全体を救うための神の手立てとなる人々について書かれたものであり、けっして個人のための「人生のガイドブック」のようなものでも、「道徳の教科書」のようでも無いのである。⇒ 「聖霊と聖徒

「旧約聖書」というものは、古代メソポタミアのシュメール文明期の人、アブラハムに向けて語られた彼の子孫が人類の救いとなるという予告に始まり、モーセを通して神との律法契約と、それに預かったアブラハムの血統上の子孫「イスラエル民族」(ユダヤ人)について記述を続けたものである。

そして、遂に予告されていたキリストの到来によって、「血統」ではなくアブラハムのような「信仰」を示した人々と結ばれたキリストによる「新しい契約」による、人類救済の手立てとなる人々、つまり「聖なる者たち」の現れと、新たな教えの確立を語り継いできたものなのである。それゆえにも、聖書の新しい部分は「新約聖書」と呼ばれるにふさわしい。


それで、今日聖書を手にする人々が、聖書中で「あなた」と呼びかけられたからそれが自分だと思い込む前に、立ち止まってその言葉の背景を見回すべきである。そうしないなら、その意味を取り違える危険が常にある。それは途轍もなく大きな間違いを招くに違いない。(使徒時代にはエクレシア(集まり)の大半は聖霊を受けた聖徒であったが、以後減少し第二世紀中頃に消滅している)

もし一般の人が、その精神を敷衍されて教えられるならともかくも、何であれ聖書のそこにある言葉をそのまま自分に語られたものであると解すとしたら、それは何と云うべきであろう。

聖書は、人類救済の手立てとなる特別の人々に対して語り掛けているのがほとんどなのであり、個人の生活上の幸福をもたらすために書かれたものではなく、「この世」という、混乱し争い満ちる人類全体を覆う「罪」と呼ばれる悪の傾向から、あらゆる人々を救うというほどにダイナミックな内容が聖書に込められているのである。



だが、かくも優れた進歩をみせたキリスト教も、聖霊を通したイエスの指導(監臨)が終わり聖霊が去ると、やがてその本質をまったく理解しない為政者によって、元いたユダヤ教のスタイルに押し戻されてしまう事態が訪れる。

それが、今日の主要なキリスト教の伝統を作り上げたローマ国教化であり、これを通してキリスト教はコミュニティの宗教となり、帝国全体に国民の宗教として強力に押し広められていった。

このときにローマ皇帝の介入によって、不仲であったユダヤ教とキリスト教は、国法によってさらに分断され、ユダヤ教は約束されたメシアが未到来となって今日まで三千数百年に及び、律法の遵守による義に固執して「罪」を認めず、新約を読まないので、旧約の対型的意味を探らず、古代の掟をタルムードなどで修正しながら現代までしのいできた。

キリスト教の方は、帝国の法令によって新約で求められてもいない安息日を、ユダヤと異なる日曜に移したばかりか、他方ではヘブライの知識を嫌ってヘレニズム化を許し、ギリシア=ローマ型の教えを別に作り上げて、異教の天国や地獄の教えを混入し、三位一体や聖人崇拝によって多神教化させた。

イエスでさえエルサレム神殿での崇拝の対象としていた唯一神YHWHまでをも捨て去り、『父のほかに良い者はない』と神を尊ぶイエス自身を、その死に至るまで見事な忠誠を示して父の神性を立証したキリスト(「任じられた者」)を、却って三位一体の曖昧の中でいつの間にやら勝手に神に担ぎ挙げてしまい、ユダヤ人を「主殺しの民」と呼びつつ、ユダヤ教徒らとはその神YHWH*を同じくしたくなかったところを、今日に至るまでキリスト教徒は古代の反感と対立の故事を忘れて無頓着にそのまま歩んでいるのである。 *(今や発音が忘れ去られた至聖なる神の御名[יהוה]⇒「シェムハメフォラーシュ」)


こうして、ユダヤ教とキリスト教の古代からの不和は、聖書全巻に流れる一貫した新旧の教えを双方ともに失わせるものとなり、現在に及んでいる。
ユダヤ教とキリスト教のどちらも古代と中世のかび臭く暗い蒙昧の中でいまだに足踏みをしているというべきか。

それであるのに、何とも御目出度いことに、それぞれの信徒の多くはそれぞれの教えで満足しているようである。
おそらくそれは、悠久の神の意志ではなく、自分の「救い」という利害に関心が向いているからであろう。

だが将来、神はキリストに再臨を許し、聖霊が神の声を知らせることになるという。(マタイ10:18-20)
再び、聖霊を注がれる「聖なる者」を通し、世界はこれを聴くのであろう。(ヘブライ12:25-27)

そのときこそ、キリスト教は再興し、すべての人に真の信仰の求められる時となるのだろう。





                               新十四日派      ©2011  林 義平

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ユダヤ教とキリスト教
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バプテスマの意義は何か


バプテスマ、それは「洗礼」とも「浸礼」とも言われる。
その漢字の一字の違いは、額に水を注ぐのか、人を水に浸すのかに由来する。

バプテスマがギリシア語「バプティゾー」から来ているのなら、その「浸す」という意味からして浸礼が本来であると見なせるし、旧約時代の灌油による王などの役職への任命あるいは、聖霊が火の舌のようになって彼らの頭上に現れたという、あのシャブオート(ペンテコステ)の日の出来事をバプテスマというなら(使徒2章)、水のバプテスマも頭への降り注ぎなのかもしれない。

また、モーセの律法が規定していた「清めの水の洗い」がその前提であれば、やはり体を洗えるほどの水が要ることになる。(ヘブル10:22→レヴィ14:9)

初期キリスト教徒は十分な水の得られない環境では、「浸礼」は施せないとしても頭から水をかける「洗礼」でやむなしとしていたとのことである。
また、「点礼」という寝たきりの人のために数滴を施すものも初期からあったようである。

しかし、これらの事柄を論じても、いずれかの儀式のやりようを考えることであり、バプテスマの本質には然程近づけない論議になりそうである。

では、バプテスマの意義はどこにあるのだろうか?

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ほとんどの場合、バプテスマはこれまで入信儀礼と解されて来た。
近年、アメリカなどで、宗派に関わらないバプテスマが施されるようになってきているそうだが、ほとんどの場合、バプテスマはどこかの教派や組織に一員として加わることの意味合いが強い。

宗派によっては、信仰告白や回心をするもの、また周到な準備期間を設けて、教理や道徳の教育が十分になされているのかを試され、然るのちにバプテスマを初めて許すところもある。

あるいは、バプテスマの直前に宣誓を求め、しかもそれが神やキリストと共に組織への信仰を表すものであることや献身などを要求されるケースもある。
ほかにも、教祖への専心を誓うよう求められるところもあるのかも知れない。

また、バプテスマ前にそれまでに犯した罪の告白をし、それらを洗礼の水が洗い流してくれるという意味づけもあるらしい。

しかし、そのように納得してこられた方々には残念だが、この点はペテロも第一の書簡で述べるように、この水は肉の汚れすら洗い流しはしない。(3:21)そうなると、「洗礼」という言葉は誤解を招きやすい言葉になるようだ。

もし洗礼が罪を洗い流すなら、終末においてすべての者に臨む神の裁きが前倒しされることになってしまい、人がひとりひとり裁かれることに一体何の意味が残るのだろう。
そこでは、バプテスマを受けたか否かという単純な儀式の問題に畏怖すべき裁きからの救いが置き換えられてしまう。

つまり、バプテスマを罪からの浄めのように考えるなら、ただ儀式を済ませたか否かになって、神は人の内面は見ないと主張することにはならないだろうか?

我々の罪を洗い流すのは水ではなく、キリストの血(の中の魂)、つまり贖罪の貴重な代価の方であって、どこにでもあるような水にその力はない。
実に、あの使徒パウロですらバプテスマを受けた後に、自分に罪が宿っていることを認めているのである。(ローマ8:18-)

だが、この罪の浄めという考えのために、四世紀にはバプテスマを死の間際まで延ばす習慣さえあったという。つまり、一度バプテスマによって罪から清められたなら、再び罪を犯すことで自らバプテスマを無効としないためである。

また、生まれたばかりの嬰児が命の危機にあった場合、産婆が慌ててバプテスマを施すという風習が、近世までヨーロッパにあったが、これはバプテスマの儀式によって死の直前にキリスト教徒とすることで、地獄に墜ちることを食い止めると信じ込まれたためである。

今日では、キリスト教への新たな帰依者も少なく、「あなたは信仰を持ちましたね、ではバプテスマを受けましょう」。と信者の自動的乱造があちこちの教会で行われている。だが、当然ながら、それは根の浅く、いつまで続くとも知れない信仰者を作っては失うばかりではないか。

このように、まるで様々に解釈されているようにみえるバプテスマではあるが、キリスト教に帰依する場面で行われるということにおいては何とか共通しているといってよいだろう。

しかし、以下のようにバプテスマの意義を探ってゆくと、罪を消しはしないものの、受ける者の内に宿る「罪」をどう見做すかが関係していることが見えてくる。


では、まずイエスに先立って活動した、バプテストのヨハネから見てみよう。


-◆先駆者バプテストのヨハネ---------------------

さて、聖書中にこの儀礼が重要な意味をもって登場してくるのは、やはりバプテストのヨハネである。
先の記事で既に書いたように、このレヴィ族の祭司の息子に与えられた使命はけっして小さなものではない。

もちろん、それはイエスの彼について述べた「女から生まれた者で彼より偉大な者はいない」の言葉からも知れるが、モーセ以来のユダヤ教1500年間の総決算のような預言者としてエリヤの姿をして律法契約不履行の罪と呪いの内にあるユダヤ民族にメシアの先触れとなって現れた意義は非常に大きなものがあった。

さてここで、ヨハネのバプテスマを理解するべく、少々ユダヤ教の流れについて記すことをお許し願いたい。それはヨハネのバプテスマの「悔い改め」という側面の理解を確認しておくためである。


ソロモン王の建立した第一神殿の破壊されユダヤ国民がバビロン捕囚に陥る以前から、イスラエル民族による律法不履行のために、神の側には律法契約を続行する意志は既に無く、御璽のような律法契約の証しであった「契約の箱」も第一神殿の破壊までには行方が知れなくなっていたようである。

それから、ネブカドネザルの大軍がユダヤとエルサレムを蹂躙し、神の刑執行者の役割を演じて、ユダヤ人を自国への捕囚に処したのであった。

後に、バビロン捕囚から帰還したユダヤ人らが、第二神殿を以って神聖な祭儀を再開させたものの、「契約の箱」は戻らなかった。(エレミヤ3:16) ⇒ 契約の箱 アーロン ハ ヴェリート

これが物語ることは、神が一度限り律法契約を断念したとき以来、イスラエル=ユダヤ民族は神との関係に大きな問題を抱えていたのである。

第二神殿や祭祀の復活では律法に従う形式を保ったものの、すでに正式な律法契約によるものとはならず、アブラハムへの約束に基づく神の善意ということでしかない。

ただ、時経た後に、神はメシアを介してイスラエルの家と新たな契約を結ぶことを預言者を通して予告していたのであった。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)


ヘブル書はこう記している。
『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』(ヘブル8:7)

そして、律法契約を仲介したモーセも、新たな契約の仲介者キリストを予告して
『あなたの神、YHWHはあなたのうち、あなたの同胞の中から、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』と、既に律法が記されるときから述べていた。(申命記18:15)



-◆ユダヤ人への「悔い改め」のバプテスマ--------------

さて、そこでバプテストのヨハネの登場となる。(ルカ1:77)

ユダヤへの「新しい契約」の近づく時期に現れたゼカリヤの子ヨハネは言う。
だが、それは激しい言葉を含んでいた。
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「自分たちの父祖はアブラハムだ、などと思ってもみるな!神は石からでさえアブラハムの子孫を起こすことができるのだ」。
「斧はすでに木の根元に置かれている。ゆえに良い実をならせない木はみな切り倒されて火に投げ入れられる」。
「わたしは悔い改めのために水でバプテスマを施すが、わたしの後に来る方は、聖霊と火でバプテスマを授けるであろう」。
「その方は手に煽り分ける道具を持ち、脱穀場の隅から隅まで掃いてしまい、麦は蔵へ集め、籾殻の方は消えない火によって焼き捨てるのだ」。
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これらのマタイ3章の言葉は、旧約聖書に予告されたメシアの前を先立って行くエリヤ、また、主の道をまっすぐにせよと荒野で叫ぶ者の声である。その目的は神の前に「整えられた民を準備」するためであった。(ルカ1:17)

それは恰も、「さあ、こちらに来るように。我々の間の事を正そう」「そなたの罪が緋色の布のように赤くとも、それは羊毛のように白くされよう」。といっているかのようである。(イザヤ1:18)

この経綸によって、神はアブラハムの子孫の契約違反の罪と呪いから請戻し、そうしてアブラハムへの「あなたの子孫によって、諸国民は自らを祝福する」という約束を、後裔イスラエル民族に回復することを企図したのである。(創世記12:3)


さて、ここでヨハネのバプテスマという儀式の役割を総括するなら

イスラエル民族はバビロニア帝国によって神の恵みを失う以前から、神との間に道義的に問題を抱え不安定な状態にあった。即ち、律法契約を守らなかった咎を負ったまま過ごし、いまや約束のメシアが近付きつつあった。

その咎は、良心の鋭敏なユダヤ人をして、第二神殿での祭祀の再開をもってしても解消されることはない、と感じさせていたことであろう。その抱くものは「打砕かれた霊」であった。
では、どうすればよいのか?

幸いにしてエレミヤは「新しい契約」を告げていたし、最後の預言者マラキは「契約の使者」とそれに先立つ「使者」エリヤの到来を知らせていた。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)
したがって、メシアはイスラエルにとって律法の罪からの「救い主」であった。(コロサイ2:14)

バプテストのヨハネが現れるときには、民はすでにメシアやエリヤを待っていたので、マラキ以来の神の四百年に亘る沈黙の終了をエリヤのいでたちをしたヨハネに見たであろう。それは預言者の封印と呼ばれたマラキ書の最後の一節をもたらす貴重な人物となった。(マラキ4:5-)
 

さて、自分たちの国民が律法契約を守り行うことが出来なかったことを正直に認める人々にとって、荒野からの人ヨハネの施すバプテスマは、それを受ける者本人が律法契約の不履行の罪を認めて「悔い改め」、新たな神の道、救いの道を受け入れることを表明することを意識させたであろう。(使徒13:39)

それゆえ、彼の施すものは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれ、これはユダヤ人に限るものである。
このバプテスマは、それまでのユダヤの歩みを悔いて、来るべき救い主「メシア」にユダヤ人の心を整えるものであった。

この当時の平民の多くはヨハネからバプテスマを受けたが、宗教家たちは、このヨハネのバプテスマを受けなかった(あるいはヨハネが受けさせなかった)と記されている。(ルカ7:30)

したがって、ヨハネのバプテスマは、それを受けるユダヤ人の意識を律法体制の以外の事に、つまり、それまでバビロン捕囚の中断があったとはいえ、永く続いた動物の犠牲と法律を守ることによる宗教生活の外に向けさせる作用があったに違いなく、またイスラエルにとって『荒野』とは、モーセ以来の信仰の原点を思い起こさせる場所であったに違いない。

だが、ユダヤの宗教家は旧態依然たる宗教体制にこだわり続けることになった。
聖書にも歴史書にも、当時の宗教体制の人々は、既に破綻していた律法の遵守に腐心し、いまだに自分の行状によって義が得られるかのように誇っていた様が伝えられている。(ガラテア2:16)

つまり彼らは、自分たちの行いによる義を求めた思い上がりのために、ナザレのイエスに対して少しも整えられておらず、「新しい契約」に向かうべきその道は、主の前にまっすぐではなかったのであった。(ガラテア3:10)

そうした状況にあって、ヨハネのバプテスマを通じ約束のメシア=キリストが現れる。
神のみ子であるイエスの場合に悔い改めの必要はないが、自らを整えるかのようにユダヤ人としてこれを受け、そうして聖霊を灌がれた最初の人となりった。つまり、そのときに聖霊によって象徴的に「灌油」されメシアの任命を受けたのである。


さて、こうしてヨハネによるユダヤ人への「悔い改めのバプテスマ」をみると、神からの救いの手段を無条件で受け入れてキリストにすべてを委ね、その前に自己の義を放棄するよう促していたことが見えてくる。(ガラテア3:10)
つまりは、罪ゆえの神へのまったき降伏、一切の放棄である。そこに必要であったものがイエスをメシアとして受け入れる「信仰」であった。(ローマ3:20)

それは、既に破綻していた神殿の贖罪の祭祀を含むユダヤ律法体制ではないところ、自分たちの宗教習慣を離れ、未知の領域に新たな崇拝、「メシアへの信仰」を見出すよう促すものであった。そこでは柔軟な心が求められる。(ガラテア3:21-22)

一方で、ヨハネのバプテスマを受けず、イエスに強硬な者ら、とくにパリサイ派はイエスが安息日を守っていないからと、自己の義で頑なに判断を下してしまい、せっかく遣わされたユダヤにとってこのうえなく貴重なメシアと神の救いの道を退けたのである。(ヨハネ9:16)

その先にあるのは、あの西暦70年の恐ろしいユダヤ体制の滅びであった。イエスを退けた世代は、その火に呑まれることになる。(マタイ23:35-36)

その一方で、ナザレ人イエスを約束のメシアとして受け入れたユダヤ人は、まずヨハネのバプテスマによって意識を整えられており、イエスを信仰しその水のバプテスマを受けることで、さらに聖霊を受け、罪あるイスラエルから救われる準備を整えたと言える。(使徒2:38)
その聖霊を受け「新しい契約」に入る他に彼らに「救い」は無かったからであり、これを今日の一般的キリスト教徒と同列に見るべき理由はない。(ローマ4:13-15)

さて、ここまでが「律法契約」に関わるユダヤ人への「悔い改めのバプテスマ」である。



 -◆イエスの「聖霊と火」のバプテスマ-------------------

そして、イエスの施した聖霊によるバプテスマについても一瞥しておく必要がある。
ヨハネはイエスが「聖霊と火でバプテスマを施す」と語っていたわけだが、それは何であろうか?

「聖霊のバプテスマ」はあのシャブオート(五旬節)の日に最初の成就をみた。
その場にいた百二十人ほどの男女に天から聖霊が降下し、様々な言語で「神の壮大な事柄」を話し始めたのである。彼らの頭にはそれぞれ「火の舌」(「舌」は言語の象徴でもある)が配られたようにあった。(だが聖霊と火の「火」の部分はこれに相当していない)⇒聖霊と火のバプテスマ

こうして初めて、聖霊を受けた彼らに「新しい契約」が発効し「聖徒」(神のイスラエル)の一員となる見込みを得て、象徴的に「水と霊から」新しく生まれたといえるのである(ヨハネ3:5)

このように聖霊のバプテスマを受けた人々はその後も増えていったが、直弟子たちだけでなく、ステファノ、テモテ、のようなユダヤ系の外地の人々も与ることになる。(使徒2:38)

しかし、ユダヤ人の中から悔い改めに至る人々の数は多くはならなかったので「神のイスラエル」の国民の数を満たすべく、やがては信仰深い非ユダヤ民族のサマリア人や、ローマ人のようなまったくの異邦人もこのバプテスマに与ることになるのであった。(使徒1:8)

聖霊のバプテスマを受けた人々は、聖霊の賜物を授けられた超自然の(憑依状態ではない)能力を示す限定された人々であって、「聖徒」と呼ばれ、集まりの中心的役割を果たすが、奇跡をもたらす「聖霊の賜物」を持たない人々は当時であっても「聖霊のバプテスマ」を受けたとは見做されてはいない。(ローマ8:9/コリント第一14:16)

一方の「火のバプテスマ」は、キリストを葬ったユダヤの「ねじけた世代」に、ユダヤとエルサレムの滅びとなって臨んだ。⇒ 記事「聖霊と火のバプテスマ




-◆イエスの名による水のバプテスマ------------------

さて、前記の二種類のバプテスマを考慮してのち、本稿の本旨である「水のバプテスマ」に入ることができる。

このイエスの名による水のバプテスマの意義を物語る挿話が使徒言行録19章にある。

エフェソスで使徒パウロはユダヤ人の群れを見出した。彼らはイエスの教えは伝え聞いていながらも、ヨハネの「悔い改めのバプテスマ」を受けただけであった。

彼らは聖霊も賜物も知らず、イエスの名による水のバプテスマも受けていなかったので、パウロがこれを施して按手すると、彼らも聖霊を受けて異言や預言を始めたのであった。(使徒19:1-7)

これらは、ヨハネの「悔い改めの水のバプテスマ」を受けていたユダヤ人が、「イエスの水のバプテスマ」を受けて後のことである。つまりユダヤ人はまず第一に律法契約の違反について悔いる必要があり、次いでイエスをメシアとして受け入れ信じたことをその名による水のバプテスマで示したであろう。
(ヨハネの死後はユダヤ人にこの過程は省略されたであろう)

イエスが地上で活動しているときにも、弟子たちがイエスのバプテスマを民に施していたが、その水のバプテスマを通し「新しい契約」の効力が発揮されて聖霊が灌がれるようになったのは、あのシャヴオートの日からであった。

こうして、ヨハネの「悔い改めの水のバプテスマ」を経た後、イエスをキリストとして認めて「イエスの水のバプテスマ」によって備えられたユダヤ人らは、「新しい契約」に預かり、「聖霊のバプテスマ」を受けるのであった


このヨハネとイエスのふたつの水のバプテスマは、恰も、ユダヤ人を旧契約から新契約へとつないだ掛け橋のようである。ヨハネは終点でありイエスは新たな起点であったと言える。その二つの契約の間に水のバプテスマが存在している。
ひとつは「悔い」のため契約を終わらせ、もうひとつは新たな契約に預からせる「選び」の前に行われていた。

即ち、ユダヤ人はバプテスマを受けることで二度の意識の転換を行っているといえよう。一度目は律法体制による宗教生活に疑問符を打つことであり、第二のものは「新しい契約」に彼らを導くものとなったのである。

こうして彼らユダヤ人は、聖霊を受けることで「罪」ある肉体であるにも関わらず、キリストの血の犠牲の早い(仮の)適用によって「義と宣せられた」。それゆえ、彼らは自分たちを『聖なる者』また『被造物の初穂』と呼んでいる。彼らは罪を許された『神の子』の身分を史上初めて得た人々となった。それを可能としたのがキリストの血の犠牲であった。(ローマ8:1/コリント第一1:2/ヤコブ1:18)

ユダヤの民衆もヨハネのバプテスマによって整えられ、その柔らかくされた心によって、進んでナザレのイエスをメシアとして受け入れようとした。その意識、また決定をキリストのバプテスマによって示したと言える。(ヘブル4:7-8)
彼らは宗教家のように、古来の伝統や律法の「義」に固執しなかったので、イエスがガリラヤ出身であろうと、安息日に癒しを行おうと、彼らにはつまづく理由にはならなかったのである。(ガラテア2:16)

この民衆は、ヨハネのバプテスマからさらに進んでイエスのバプテスマを受け、一層整えられたユダヤ人たちは聖霊のバプテスマを授かり、予告された「新しい契約」に与って、イスラエルへの律法不履行の呪いから「救われた」ばかりか「アダムからの罪」も含めてすべての罪を赦されたのである。(ローマ8:33)
ここにユダヤ人が聖霊を受けなければ「救われない」事情があったガラテア3:13)


一方で、異邦人でこの契約に与った人々には「ヨハネのバプテスマ」の必要はなかった。悔い改めるべき不履行の契約に参与していなかったからである。彼らは、イエスの水のバプテスマによって一足飛びに「聖徒」(神のイスラエル)へ参加するよう心の準備を得ることができた。(カラテア6:15-16)

異邦人には律法を終わらせるために宗教生活から意識を方向転換させる必要はなく、そのままイエスをキリストとして受け入れたことに想いを傾け、その水のバプテスマにより内心の決定を自他に示すことができたであろう。
(コルネリウスの例を考えると、彼らにとってイエスのバプテスマは必ずしも聖霊を受けるまったく絶対の前提条件でもないようではあるが)

こうして見ると、水のバプテスマには、容易には変わることのない人の宗教信条の意識を変化させる効果があったことが窺える。それは天からの召命ではなく、自発的なものである理由もそこにあるのであろう。
ヨハネが荒野で『「主の道筋を直くせよ」と叫ぶ声』となったとき、ユダヤ人には意識の変革が求められたのであり、ヨハネの水のバプテスマを受ける人々は、その変革を意識した。

同じように、イエスの水のバプテスマは、以前の宗教がどうあれ、神の遣わしたキリストに神の救いの道を求め、そこに自らの意識を合わせることへの決意表明と見ることができる。


ではあるが、第二世紀以降、聖霊が人に注がれることは中断しており、今日までかつてのように正しく「聖霊の賜物」という世に対して明瞭な聖霊の注ぎを受けている人を見出すことはできないで来た。(ヨハネ9:4-5)

「使徒後教父」時代の資料は、聖霊の賜物を持つ人々がイエス後の百年ほどの間に現われては減少し、やがて絶えたことを教えている。
⇒ 「モンタヌス運動、最初の「時」の予告者

キリスト自ら「旅に出る」かのように一時期、地を去ることを述べていたが、それ以来、今日まで「聖霊のバプテスマ」はまさに中断している。⇒「今日のキリストの不在

それでも、今日「水のバプテスマ」が施されることは妨げられるべきものではないであろう。(マタイ28:19)
自らの中に、人間に共通する倫理上の欠陥である「罪」を正直に認めることのできる者は、イエスをキリストとして受け入れ、自己の正義をその前に捨て、「罪を悔いる」ことの表明することができる。これこそが「信仰」であり、それゆえのバプテスマは人々をキリストの再来に備えさせるものとなるだろう。(*ガラテア2:15)

従って水のバプテスマを受ける意義は、それが聖霊のものでない以上、自分が救われた状態に入ることではないにせよ、神の意志に対して『整えられた』者となり、神の声に『心を柔らかく』する用意のあることを示すことであろう。

今日の水のバプテスマと聖霊のバプテスマの決定的な違いは、その施す主体者にある。つまり、水のバプテスマを施すのが人間であるのに対し、聖霊は常に上からのものであり、神の許から「選び」また「召し」と共に注がれるものである。(ローマ11:29/テサロニケ第二2:13)

したがって、水のバプテスマは「召し」を証しするものではなく、聖霊を注がれることによって、その人に「召し」が差し伸べられていることを証しするのであって、これは人間の及ぶところではない。
 


-◆今日の水のバプテスマの意義--------------


さて、以上の論議をもってイエスの水のバプテスマの意義を確認すると、ヨハネのバプテスマが「新しい契約へと民を整えた」というところ、また「イエスの到来に備えさせた」というところは今日、依然意義をもっているであろう。

それは将来なお成就を待つことだからである。それは聖霊のバプテスマとは異なり、人が自発的に受けるもので、その観点からすれば「秘跡」と言うには的外れに見える。
今日的に水のバプテスマは、変化の難しい宗教信条の転換を自ら意識する効果に意義があるからである。

実に、人間の陥っている問題の全体は、創造者から離れ、当て所もない放浪者であることに原因しており、神の方からキリストという手が差し伸べられたのであるので、まずキリストを受け入れるよう心を整える必要がある。

更には、「ヨハネのバプテスマ」がユダヤ人の倫理的状況を自覚させる助けであったことから推して「イエスの水のバプテスマ」は、「新しい契約」の当事者に含まれない(聖徒でなく信徒である)我々のような『異邦人』であっても、自らの「罪」(原罪)ある状態を正直に認め、自分の義に固執することを止め、すべてをキリストに委ねるということが浮かび上がってこないだろうか?これこそが、キリストへの信仰であろう。


誰であれ、「人の正義」に固執している限りは、「神の義」にも服せず、キリストに真に従うことはできないであろう。(ヘブル3:7)

人類全体に「倫理的欠陥」という「罪」は残っており、それがこの世に満ちて人類を苦しめているのは明らかなことである。
まさに、すべての人には普遍的な「罪」を悔いる必要が残されており、虚心坦懐に自問すれば、我々の世界は不義から逃れることができないことがはっきりと見えているはずである。

では、我々は罪を認め「自分の義」を立てることを断念し「打砕かれた霊」をもってメシアを迎えるだろうか?


バプテスマそのものは儀式であって、それが罪を洗い流しはしない。救いを確約するものでもけっしてない。
むしろ人は皆が裁きを受けることになるのであるから、バプテスマを神の是認に入った証しと観るのは安直というほかない。
むしろ、それは自らに在る「罪」を認め(ローマ7:15-17)、イエスを罪を取り去るキリストとして受け入れ一途に従う姿勢を表すことである。

つまりバプテスマとは、自分の義を立てることを止め、まったく神とキリストに服する決意の表明であろう。そうして神に対して整えられた人となるのである。

だが、将来の水のバプテスマについては、もうひとつ加えるべき要素があることをキリストが語られている。


-◆神と子と聖霊の名によるバプテスマ----------------

マタイの福音の終わりに一度、地上を去るイエス自身の言葉として記されているのが、この『神と子と聖霊の名によってバプテスマを施せ』という使徒らへの下命である。(マタイ28:19)

この神、子、聖霊の三者の名が連ねられている理由が所謂「三位一体」の証しというのは、余りに事を単純化して思考停止に人を陥らせるものであろう。

この三者に対して人に求められることがある。
それが即ち「信仰」である。

ユダヤ教徒は、当然に神YHWHへの信仰を求められ、加えて出エジプトからモーセにも信仰を持つようになっている。(出埃14:31)
即ち、聖書中での「信仰」とは、神だけでなく、『神が遣わした者を信仰する(ピステウオー)』ことも含んでいるのである。(ヨハネ6:29)

確かにこのイエスの言葉そのものがキリストにも信仰を持つべきを示しているが、キリスト後に神はそれまでにない『援助者』(パラクレートス)としての『聖霊』を使徒や初期の弟子らに注ぎ出し、それは彼らに奇跡の業を委ね、神に関わる知識をもたらした。

一方で、ユダヤ人の大半は遣わされたキリストを信じず、その弟子らが行う『聖霊の業』も無視して彼らを迫害したのであるから、彼らがそのバプテスマに相応しいわけもない。

そこで、弟子らによる水のバプテスマが、ディアスポラの民やサマリア人、そして異邦人に向かって開かれてゆく様が使徒言行録に見えるのである。 その水のバプテスマは聖霊のバプテスマを呼び込んだ。
聖霊のバプテスマは人間の側から行うことは出来ないが、水のバプテスマは人間の側からのアプローチであり、各人の意志によるものであった。

彼らが決意して水のバプテスマに臨み、聖霊のバプテスマに対して整えられたが、その決意の動機はメシア信仰であり、そうでなくてはならなかった。 


そして、地上を去るイエスはこの『神、子、聖霊の名によってバプテスマを施せ』と云われたのである。
これにはそれまでキリストが地上で施していた『イエスの名による水のバプテスマ』を超えるニュアンスがある。

その信仰の対象が、第一にイスラエルの聖なる神であり、その御子にして遣わされたキリスト・イエスであり、イエス後のあのペンテコステ以降は、そこに新たに遣わされた『聖霊』を含むべきであったのである。

従って、今日地上のどこにも『聖霊』が見られないからといって、この三者への信仰無くして水のバプテスマを受ける理由は無い。 『聖霊』だけでなくキリスト自身も地上を去って、今日まで『人は誰も見ない』高められた状態に入っているのである。(テモテ第一6:16/1:17)


そこで今日も、水のバプテスマを受けようとする者にこの三者への信仰が求められることは変わらない。むしろ、神は新たな預言を伝えず、キリストも去っており、聖霊の働きをも見ない今日ほど信仰の求められることもないであろう。

だが、そうであればこそ、その信仰は神とキリストの御前にも貴重と見做されることであろう。
イエスは終末の臨在についてこう言われている。
『しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか』(ルカ18:8)


そして将来に、キリストがこの世に『臨御』(パルーシア)するときに、再び地上に『聖霊』が臨み、ある弟子らを通して『この世』は糾弾を受けることになろう。(マタイ10:17-20/ルカ21:12-15)

その「終末」において大いなる活躍を果たすのは『聖霊』であり、それが示す『神の証し』を信じるか否かを通して世は裁かれるのである。(ヨハネ16:8)
 

従って、今日バプテスマを受ける者には、そのように『神が語られるときに、心を頑なにしない』理由があり、水のバプテスマが救いを確約しないとしても、心を整えるか否かに於いて、裁きの行方を左右するものとなり得るに違いない。(ヘブル4:7-10)




-◆バプテスマは人間や組織への従属ではない----------------

したがって、キリストの水によるバプテスマが、地上の何れかの宗派に従うことの決意表明となるなら、まったく的外れな意味になってしまう

それは、一向に神の義に対して心を柔らかにせず、却って人間の義に凝り固まろうとすることであろう。
特に宗派がそれぞれに他の宗派を敵にして正義感を抱くなら、その証拠は如実ではないか?

人は正しい宗派を捜し、そこに所属することで自らの「正統・正当」を得ようとするものなのだが、いったい人間のもので神の前に「真正さ」を主張できるものなど存在するのだろうか? ⇒「ヨブ記の結論」

律法契約下のイスラエル民族は、「契約関係」のゆえに、確かにある時期に正しく「神の民」であった。
しかし、そこには「契約の証しの箱」が存在し、奇跡のシェキーナー(臨御)の光が宿ったのである。

ならば今日、これに相当する「新しい契約」の証したる「聖霊の賜物」を初代キリストの聖徒と同じように有する人々がそこにいるのだろうか?(エフェ1:14)

歴史は、「聖霊の賜物」がキリスト教徒初代の後に途絶え、イエスは王権を得る旅に出立したことを示していないだろうか。⇒今日のキリストの不在

「正統」を巡るキリスト教の宗派の争いや敵意は、そこに「聖霊」も「賜物」もない証拠であろう。

もし、自分がキリストのバプテスマを受けても教派的敵意や反目からの「休み」を得ず、却って誰かの信仰の隷属に入ってその教条などを擁護してしまっていれば、それは神に対し心を平坦にし、道をまっすぐに整えるという、バプテスマの精神の方を向いてはおらず、却って反対の方向を向いているのではないか?*(ヘブル3:7)

もちろん、自分にとってより正しいと見做せる事柄は誰にでもあるに違いない。
しかし、人間の教えや組織を絶対視し固執していると、神の義が現われるときにもそれに気付かず、神に対してさえ優越感と自己満足を抱きかねないのではないか?

それこそメシアに対してユダヤ人体制派が行ったものであり、パリサイはイエスがベツレヘムから来ていないことや、安息日に奇跡を行ったからという表面的で簡単な理由をもってキリストを退けたが、それは自分の義を放棄するというバプテスマの精神からすればまったく正反対である。

イエスは自ら行った奇跡を「父の業」と呼び、人々はそこに神に任命されたメシアを見るべきだったのだ。
そして信じたならば、「自分の義」を去ってバプテスマを受けるべきであった。

ゆえに、真に優れた案内者は自分も罪あることを認め、信仰する者の人格を無視して「自分の正義」を押し付けたりはせず、むしろバプテスマを通して「神の義」へとその人の心を平坦にするよう導くべきではないか。

バプテスマは信仰の自立であって、神と自分の間に世話役を入れることではない。

むしろ(宦官を導いた宣明者フィリッポスのように)案内者の仕事が終了したなら、バプテスマを受けた者からある意味で「離れ」、真のキリスト教が地上の誰の元にもなく、ただ天のキリストのもとに保たれていることを知らせるべきではないか。(使徒8:39/マタイ23:8-10)

それゆえ、人が何であれ神の企図を受け入れる心構えがあるなら、それをどんな人間でも組織でもなく、真の正義をもつ神にこそ捧げるべきであろう。

さて、マタイ福音書の最後で、キリストは『神と子と聖霊の名による』バプテスマを使徒らに命じた。
そこでは信仰の対象となる三者が宣言されるかのようである。どの名に対する信仰も欠くことはできないし、『神から遣わされた』のではない何者かを介在させるべきでもない。


バプテスマは、ペテロの言うように「清い良心を神に対して願い求めることで」あって、天の意図に対して「心を柔らかにする」よう心を定めることである。(ローマ2:5/ペテロ第一3:21)

水のバプテスマを受ける際に求められる事は、人間の業や義を頼ることから離れることであろう。
紅海を渡ったイスラエル民族は、海水を分かつ神の力にまったく頼っているべきであったが、これがバプテスマに相当するとパウロは言った。(コリント第一10:1-)

そして、バプテスマを受けた人は我を張ることがなくなり、敢えて悪行を為すことからは離れるので、下劣の道からは救われるのである、とはペテロの言うところであるが、バプテスマを受けて後、教祖や教団の言うなりになって、言わば我を張り、醜聞となるような悪行を為すなら、そのバプテスマとは誰の名に対するであったのだろう。(ペテロ第一3章)

つまりは、「罪」を認めて自らを全能の神に自らを委ねる過程で、他の人間、つまり「罪」があり間違いを犯す者に横取りされているのである。


そして、教えられる側も「先生や教団の言う通り」というような姿勢でいるなら、人間に対する従順は見せても、個人としての神に対する無頓着さは覆い隠しようが無い。その人の受けた水のバプテスマには何の意味も残らない。

そのバプテスマが神に誠実な関心を抱くことか?あるいは自分が「救われる」ならそれで充分か?

もし水のバプテスマを受けるのなら、人や教団に自分を献身したり差し出したりすることでなく、信仰するはその本人であるゆえ、直にキリストと向き合うつもりで、人としての尊厳を保っていただきたく思える。

水のバプテスマが、様々な人間の義を捨て、神と結びつこうとする意志の表明であれば、何者であろうと人の奴隷となっては逆の意志表明となってしまうではないか。

水のバプテスマには、かつてヨルダン川でバプテストのヨハネの指し示した精神が今以て共通しているであろう。
即ち『主の御前に、その道筋を直くする』という各個人に問われる精神である。




              林 義平   jst

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 『使者』と『契約の使者』による水のバプテスマ


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バプテスマ

去ってなお弟子を指導したキリスト 「羊の囲い」の例え




フランス皇帝となり「余の辞書に不可能の文字は無い」との名言と共に知られるナポレオン・ボナパルトも、セント・ヘレナ島の幽閉先で過ごした後に、死に臨んでは「私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとして失敗した。イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」と遺言に記している。
また、自らの生涯とキリストとを比較し「キリストは愛され、キリストは礼拝され、キリストへの信仰と献金は、全世界を包んでいる。 これを、死んでしまったキリストと呼ぶことができようか」と讃嘆している。聖書はまさにキリストが驚くべき超絶的指導者であったことを雄弁に語っている。


キリストの指導力は、地上に在った所謂「公生涯」の期間以上に、刑死後に復活してからの時期に於いてこそ大いに発揮されたのであり、信じる者は絶えることなく世界に広がっていったが、これは確かに、彼のナポレオンと雖も、また如何に優れた政治家たる者であっても及ぶところなく、キリストの前にその指導力もみな色褪せるのである。

それを物語る記述をひとつ見てみよう。
キリストが地上を去って後、彼が天から弟子たちの活動を導き続けるさまを明瞭に描きだす絵画のような記述が、ヨハネ福音書のひとつの例え話となっている。

その絵画の中には、キリストとバプテストのヨハネ、そして使徒や弟子(聖徒)らの姿が見られ、それらの全体を俯瞰できるという意味深い例え話なのである。

その「羊の囲い」に関するその例え話はヨハネ10章に描かれている。

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羊の群れは家屋の中庭のような囲いの中で保護されている。
(この例え話がされたのは冬季で、夜間には羊が野外から囲いや屋内に保護される時期であった)

しかし、設けられた入り口からではなく、どこかの壁をよじ登って羊のところにゆく者は盗賊である。

入り口を通って入る者は、これらの羊の本当の牧者であり、門番は彼に戸口を開き、羊らはこの羊飼いの声を知っているので彼にはついて行く。
しかし、彼以外のほかの者らにはその声*に聞き覚えがないのでついては行かない。
*(これが中東の羊飼い独特のヴィブラートの掛かった声を指すなら、真似ることは至難の業である)

牧者は、自分が羊にとってはある意味で「入り口」*であり、彼を通って出入りするものは豊かな牧草地を見出すという。*(恰も「入り口」の概念がだぶるようだが、これは以下に解決を見る)

羊飼いは自分の羊をすべて外に連れ出してその先頭を行く。
この羊飼いは羊のためであれば、その命をも投げ出す「良い羊飼い」である。

一方、雇われた牧者はそうではない、元々羊は自分のものではないので、狼がくると羊を見捨てて逃げ出してしまう。
イエスは良い牧者であって、羊のために命を投げ出すのである。

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 以上が、そのあらましである。

イエスは自身が「入り口」であり、それを通ってゆくものの幸いを言う。
そして、彼自身は「良い牧者」であるとも言っている。
これは、明らかにキリストと彼に従う人々との関係を示していよう。

キリスト・メシアはユダヤ人という囲まれた領域に現れ、その範囲内で活動している。
イエス自身、パウロのようではなく、キリストとしては主にガリラヤからユダヤまでで宣教しており外地のユダヤ人居留地も訪ねてはいない。

従って、「羊の囲い」とはユダヤ体制、もしくは律法契約の囲いとみてよいであろう。

つまり、モーセの時代から律法によって周囲の諸国民と異なり、神との契約にあったイスラエル=ユダヤの人々、殊にイエスの弟子になるユダヤの人々を「囲い」の「羊」と見る。

しかも、この例えに存在する「囲い」はひとつだけであり、それは当時、唯一つ神との契約関係にあったイスラエル民族の状況を指していると見てよいであろう。

このように解すれば、この後はスムーズに見通しが利いてくる。

さて、「入り口」を経ずに入ろうとする者は「賊」であって、もとより「羊」のことを大切にはしようと思わない。
彼らは「羊」を害し、損なうのであり、「雇われた牧者」も「羊」よりは自分を大切にする。

この「盗賊」*は、偽メシアが度々興ってその都度に鎮圧され、その度にユダヤ人が犠牲となっていた事態に良く符合する。

「雇われた者」
らは、当時ユダヤの宗教家であろう。彼らは平民を「地の民」と呼んで蔑み、優越感に浸っていたし、世の常として宗教家らしく自分たちは高一等であるべきとも思っていたであろう。(ヨハネ7:49)


このイエスの時代、モーセの律法体制の下にあったユダヤ=イスラエルの契約はすで破綻した状態にあったので、「新しい契約」の為の「契約の使者」が待たれていたのであり、それがメシア=キリストであった。(エレミヤ31:33/マラキ3:1)

メシアはユダヤ律法体制から羊を導き出し、「新しい契約」の下にある「豊かな牧草地」に連れ出す役割があった。そこは律法遵守の頚木から開放された牧草豊かな自由な広野であり、もちろんそこに囲いの必要はない。

そして、メシアはそれら羊のためならば、命をすら惜しまない愛着を示す。即ち、これらの羊が「新しい契約」に与るためには彼の血(魂)の犠牲が求められたが、この羊飼いはそれを見事に殉職によって差し出したのである。

この「良い羊飼い」は自分の「羊」が囲いからの出入りをしばらくは許したとしても、やがて律法契約という「囲い」から「すべてを外に出してしまう」べき理由があった。


なぜなら、律法契約が機能不全に陥って四百年以上が既に経過し、メシアの去った後にユダヤの体制はローマ軍によって崇拝の中心たる神殿もろとも完膚なきまでに破壊されようとしていたからである。それはユダヤ体制の壊滅であって、無数の命が失われ、その後ユダヤは流浪の民となる。


かつてイエスは、ユダヤの弟子たちに警告し、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たなら、ユダヤに居る者は山地に逃れ、都に居る者はそこを出て、外に居る者は入ってはならないと預言していたのである。
こうして、囲いにいた羊は囲いそのものの倒壊から逃れ出ることに成功する。その壊滅はイエスの刑死から四十年を経ない西暦70年に起こったことであった。


さて話を戻そう。
例え話には「門番」がいた。
彼は、メシアに対して扉を開く者である。
これは、「使者」としてメシアの前を行き、その道をまっすぐにせよと荒野で叫ぶ者の声であるザカリヤの子ヨハネ、つまりバプテストであろう。(ヨハネ1:23)

ヨルダン川でユダヤ人にバプテスマを施していたこのヨハネは、やがてナザレのイエスをメシアとして指し示す。(ヨハネ1:29-31)

こうして、「門番」からユダヤ人にメシアが紹介され、イエスを通って行くものは律法契約不履行の呪いの下にあるユダヤ体制から「新しい契約」へと「救われる」のである。

ここまでが、イエスが地上に在る間の活動の縮図となっている。
しかし、この例えはそれだけで終わらない。


--------------------------------------------
「わたしにはこの囲いのものではない、ほかにも羊があり、わたしはそれらをも連れてくる務めがあり、それらもわたしの声を聞き、そうしてひとつの群れにひとりの牧者となる。」
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「この囲い」が律法契約によるユダヤ体制を表すならば、その囲いの外にいる羊とは何だろうか?

つまり、ほかにもいる羊としてユダヤの宗教体制あるいは律法契約の外に居る者らのことを示唆している。言わば、野生のような羊であろう。
(ほかの羊らが入るような別の何かの囲いについては語られていない)


イエスは、これら外部の羊らも連れてくるというのであるが、ではユダヤ人の間でだけ働いたイエスが、これをどのように果したのだろうか?

そのことを考えるに際し、教祖としてのキリスト・イエスという人物に注目してみよう。
彼は、自らの活動を僅か四年以内に終えている。これは他の宗教教祖らと比較すれば余りに短い。
しかも、その直接に得た弟子らは、エリート階層に属しておらず漁師や収税人など無学な平民「地の民」であった。

イエスが去ったあと、これらの弟子らを中心にして今日の世界最大の宗教にまで発展してゆく基礎が出来上がったのであれば、まず驚きを感じよう。

そして、上記の「ほかの羊」に関するイエスの務めがどのように果たされたかを確認しようにも、聖書記述でイエスの地上の活動の部分には該当するようなところが無い。つまり、我々の知るキリストは、異邦諸国民に宣教を広げず、パレスチナを出て活動してはいないのである。

そうなると、我々はキリストが天に去った後に相当する使徒言行録以降の記述の部分を探らねばならない。


先の記事(「聖霊と聖徒」)でも書いたように、キリストは地上から去ったのちに、弟子らに「助け手」としての聖霊を与えた。(ヨハネ14:25)
この聖霊は、イエスがしていたような奇跡の業を弟子らに行わせ、異言を語らせ、知識を与えたが、それはユダヤ教徒を相手にした宣教に留まらず、パレスチナを越えて異邦諸国民に向かってゆき、それは新約聖書をギリシア語で編纂させる素地ともなったのである。(使徒4:30-31/コリント第一12:8-/ヨハネ14:12)

また、聖霊を通して弟子らを動かし、あるときは宣教に向かうべき方向を示し、あるときは迫害される者らのそばに立って励ました。初期キリスト教の資料から、聖霊の降下は西暦第二世紀の半ばまで存続していたように観察される。(使徒16:6-7/23:11)

その意味するところは、メシアによる『祭司の王国、聖なる民』即ち、人類全体を祝福する「アブラハムの裔」の集め出しであり、これはキリストが地上を去って後に聖霊の降下を以って開始されたのである。
 

即ち、律法契約がもたらせなかった『諸国民の光』となるべき本当の意味での神の選民『神のイスラエル』が、遂に歴史上初めて姿を現したのである。それはイエスの復活から50日後のペンテコステの日を以ってユダヤ人から始まり、次いでサマリア人、それから聖霊は異邦人にさえ『養子縁組』を得させるに至り、血統によらず、信仰によって『神の子』に迎え入れられたのである。(ガラテア6:16/ローマ8:14-15)


それゆえに、イエスは刑死の後も弟子らを聖霊によって指導し続けていたといえるのである。それは聖霊の途絶えるまでのおよそ百年ほどであろう。(記事「今日のキリストの不在、そして帰還」を参照)


いみじくもイエスは刑死する前の晩に、使徒たちに臨むことになる聖霊がご自分を証しすると伝えてから、『わたしと初めから行動を共にしてきたあなたがたが今後は証しを行うのだ』と命じていたのであった。(ヨハネ15:26-27/使徒2:43)⇒「聖霊という第三のもの」

そして聖霊は様々な活動を使徒たちに行わせてゆく。
天にいるイエスは、まずサマリア人にもペテロを介して聖霊を与え、明らかにヨッパにいた使徒ペテロに指示を与えて、無割礼のまったくの異邦人であるコルネリウスのところへ遣わし、その授けた「鍵」を用いて異邦人のために神の民への扉を開けさせている。(使徒10章/マタイ16:19)

そのようにして、「囲いのものではない」つまりユダヤの律法体制下にない異邦諸国民の「ほかの羊」がキリストという「戸口」を通って「新しい契約」の牧草地に入り始めたと見做すことができる。これはキリストの指導の下での弟子たちの使命であり、キリスト教の完成と共に成し遂げられるべき最重要事項であったと言える。

後に、強硬な迫害者であったパウロもイエスから選ばれて回心し、バルナバと共に取り分けられて、その「ほかの羊」を集め出す長途の伝道旅行を繰り返し、異邦人であってもユダヤ伝来の相続財産が継承されるという、その革新的な教理を与える役割(奥義の家令)を果たした。(コリント第一4:1)

聖霊に預かり「新しい契約」に参入してきた異邦人たちをパウロは「野生のオリーヴ」と呼んでおり、それはこの「羊の囲い」の例えのなかでの 『囲いのものでない羊』とすることは、自然な意味の整合性を持つものである。

こうして、キリストの弟子にはユダヤ人イエス派と、異邦人イエス派(ほかの羊)の「ふたつの群れ」が並存するに至ったのである。パウロは、これらを『ふたつの民』と呼んでいる。(エフェソス2:11-19)


これらの群れを隔てる障碍のとなっていたのは、モーセの律法に由来するユダヤの永い伝統であった。ユダヤ人はイエスを信じるようになった後も、神殿祭祀を重んじ律法に熱心であったので、パウロたち異邦人派に対しては懐疑的であった。そのため、この「異邦人への使徒」はエクレシア内外のユダヤ主義との戦いのうちにその残りの生涯を費やすことになる。(使徒21:20)

イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人であっても、それは「ユダヤ教の完成」の意味合いが強く、アブラハムの子孫として守ってきた律法の崇拝から離れるには彼らの良心がなかなか適応しなかった、というよりは、その必要さえ感じなかったであろう。

特にユダヤに住むイエス派信徒は依然ユダヤ古来の崇拝に格別熱心であり、パウロをはじめとする異邦人派とは衝突を回避するための調整をすら必要としたのである。そこに新旧の差はあるが、羊飼いにとっては双方が大事にされ、この微妙な問題上でどちらが正しいというようなものとはされなかったであろう。
(神もキリストもこれに裁定を下しているようには見えない。むしろ、互いの宗教的良心を並立させる意図さえ見える)⇒「エルサレム会議におけるキリストの弟ヤコブの寛容


それゆえ、これら二つの群れを導き出すという仕事において、ペテロは異邦人への扉を開き、パウロは外の羊を呼びに遣わされている。加えるなら、イエスの弟ヤコブがこれら双方の群れを共存させるために西暦49年のエルサレム使徒会議を司り尽力している。
これらのすべては、イエスのあとに残された使徒や直弟子らに与えられた極めて重要な役割、聖霊の指導の下に行われたキリストと初期の弟子らとの「一大事業」であったと言うことができるだろう。

したがって、この例え話の一幅の絵から、イエスは地上から去ってからも聖霊を介して弟子を指導しつづけて、ユダヤ民族に留まらず諸国民からも羊を集める業を成し遂げていった様がそこに見えないだろうか。

イエスは、地上にいるときに『わたしを信じる者はわたしと同じ活動を行い、しかもより多くを行う。わたしが父の許に行くからだ』。とまさしく述べていた。(ヨハネ14:12/同16:7)


このように『新しい契約』に関わる事柄を教導することなど、地上の単なる人間の誰かが果たして出来たろうか。

その契約はイエスの帰天後に、その犠牲に基づいて発効したものであるから、聖霊を用いるイエスこそが天から使徒や聖徒を導いて企図したことを成し遂げたに違いなく、この功はまったくキリストに属するものである。(ヨハネ15:5)

さて、使徒パウロは『ふたつの民』また『両方の民』という言葉を西暦60年代に入っても依然として用いており、それを隔てるのが律法であることを明らかにしている。(エフェソス2:15)

そして、この「羊の囲い」のような『隔ての壁』はユダヤ人の心を容易には去らなかった。


つまり、ユダヤ人の律法契約への誇りはイエスを受け入れてさえ容易には彼らの心を去らなかったのであり、それはエルサレム会議後も然程の変化を見せていなかったことは神殿の破壊の時にまで及んだ。実にパウロは残りの生涯でユダヤ優越主義を論駁した為に、批難され、逮捕され、裁かれていることに鮮明に表れている。(使徒21:28)

そのように当時のユダヤ人イエス派であっても引き続き律法遵守に熱心であった以上、パウロの言うように『ふたつのものがひとつになり、間の壁が除かれる』のは更に後のことになるに違いない。
今はそれら「ふたつの群れ」が眠りについているので、ひとつになる時というのはキリストの臨御(パルーシア)の以降であろう。(エフェソス2:14/マタイ24章)

西暦49年に行われたと言われる前述のエルサレム会議でのヤコブの裁定を以ってしても、千数百年続いたユダヤ優越主義はエクレシアの中から去ってゆかず、パウロは生涯の終りとされる西暦67年の直前までも、このユダヤ主義の頑固な抵抗と戦っていた様が書簡に滲み出ており、それは第二世紀の直前に書かれたとされる使徒ヨハネの手紙では、ユダヤ主義に加え、更に厄介なグノーシス主義に染まりつつあったユダヤ人らの影響と闘う様が色濃く表れている。


エルサレムを中心としていたユダヤ教イエス派の人々は、エルサレムと神殿の滅びに際し、主の言葉に従ってデカポリスであった東北の城市に逃れたという史料が伝えられているが、その後のイエス派はエビオン派やナザレ派などに分裂してゆき、第二世紀にはユダヤ教側から異端として排撃されるようになり、やがてパレスティナを追われ、消滅してしまったと言われる。

そしてこれらに前後して、西暦第二世紀半ばに聖霊が途絶え、キリストは「王権を得るための旅」に出立し、聖霊の降下が無くなって聖徒も眠りに就いてしまった。⇒「ミナの例え」
聖霊の降下のない現在まで、イエスの臨御の証拠はなく、新しい聖徒はまだ現れていないようだ。(ルカ19:12/マタイ10:19)

もし、「今日も聖霊は注がれている」と主張するなら、それはどのように証拠立てられるのだろうか。証明されるべきは「無い」ということか「有る」ということか。もし、「有る」なら、それは極めて明瞭なものであるに違いない。⇒「聖徒 聖霊の指し示す者たち」

それゆえ、ユダヤと諸国民というふたつの群れも眠りに就いたままであり、いまだひとつには束ねられるところまでは成就していないので、この「羊の囲い」の例え話は現在も途上にあると考えられる。(エゼキエル37:15-20)

彼らはキリストと共になる者らで、無酵母のパンを食して象徴的にイエスと体を同じくし、ブドウ酒を飲むことを通して「新しい契約」に与ることを示す者、つまり信徒の中でも格別な「聖徒たち」(ハギオイ)である。(エフェソス1:18)

自らの肉体を捨て、キリストと体を分け合い、霊の体となるからには、天において以前の肉体が持つ民族性も血統も意味を成さなくなり『ユダヤ人もギリシア人も男も女すらも関係がない』状態に入ることになる。(ガラテア3:28)


そうして「ふたつの群れ」の差異が無くなり、この囲いの例えに描かれるように、遂には『ひとつの群れ、ひとりの羊飼い』となるであろう。


選ばれ召される彼らは、その霊体のゆえに肉眼ではもはや見えることのないイエスを「天」にあって間近に見るとも言われている。(ヨハネ第一3:2)彼らはキリストの臨御(パルーシア)の際立った印であり、人類の中の『早い復活によって』『塵の中から目覚める』『初穂の霊を持つ』者たちであり、我々諸国民の祝福を可能ならしめる民となる。


統合されるふたつの群れが、天でひとつの民となる以上は、もはや律法契約下の呪いから完全に開放された真のイスラエルを意味する選民の具現、神が血統だけによらずに選んだ真のアブラハムの嫡流、『神のイスラエル』となって、聖霊を受けるとき、いきなりにひとつの国民となって登場するのであろう。(ガラテア6:16/イザヤ66:8/黙示7:1-8)


このようにイエスは、ユダヤの囲いから自分の羊を導き出し、そこに異邦の羊を加えて数を合わせた「ふたつの群れ」の先頭を歩んで、血統上のイスラエル民族のモーセへの踏み外しにも関わらず、神がアブラハムに約束した、血統だけによらない彼の真の子孫と言うべき(聖徒の国)真実の「イスラエル」、『神の王国』の繁栄と『諸国民の光』そして人類の『祝福』を確保したのである。(詩篇89:34)


これは、単なる朽ちる人間の思い致し、且つ為すところではけっしてない。(創世記12:1-3)

聖霊を用いるキリストが、天から弟子たちを導いて遣わさない限り、行えることではない。




                        新十四日派   © 林 義平

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*「賊」について:イエスが「私の前に来た者」と賊を呼ぶのはそのためであろう。イエス以後、キリストの羊はもう居ない。

実に、「ほかの羊」を連れてくるという業は、ふたつの群れがひとつになる事と共に、今後の展開を待っている部分が残っており、それはキリストの帰還を印付けるだけでなく、世の人々の裁きにも関わることになると思われる理由がある。

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信徒と聖徒


『聖霊の賜物』 パルーシアの標識


 


エルサレム会議にみるキリストの弟ヤコブの寛容さ


果たしてイエス・キリストに弟などがいたろうか?


確かにマタイの福音書には書かれている。イエスがヨルダン川でキリストの任命を受けてから、ナザレ村に帰省した場面でその弟たちのことが次のように記されている。

『これは大工の息子ではないか。その母親はマリアと云い、そして兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 姉妹たちも皆、我々と一緒にいるではないか。』(マタイ13:55-)

イエスの兄弟たちとは、マリアがイエスをした後に夫ヨセフとの間に設けた子らである。
しかし、これらイエスの兄弟たちの存在はマリアを永遠の処女に崇めたい人々にとって、そのまま読むことのできない記述である。


そこで、カトリックなどは、ヨセフには前妻が居たということにして、これらの子供らはヨセフの連れ子である、という主張も普遍教会の中で始まった。

ではあるが、ここではマリアが処女神のように崇められるべきか否かに関わることなく、その息子のひとり、ヤコブに注目したい。


彼ヤコブは、他の兄弟に先んじて名を挙げられるところからすれば、イエスを除いた兄弟の筆頭であったようだ。世間向きには、イエスに次いでヨセフの次男の立場にあったろう。

しかし、おそらく二十歳代の彼は、兄イエスが家を出て宣教の生活に入ったことを理解しかね、気が狂ってしまったとすら思っていたようである。

聖書中では、そのおかしな兄を気遣って宣教の現場にまで母を伴い出向いた場面も語られているが、そこには、余りに類稀な人物を輩出した家族の苦労が見える。(マルコ3:21)

イエスは父ヨセフの家に在っては、自分のことをほとんど明らかにはしていなかったようである。
ヘブライ語ではエシュアと呼ばれた長男が、単なる息子のひとりでないことを知っていていたのは両親、殊に母親のマリアであったことは、カナの婚宴での奇跡が語る通りであるが、それも随分と抑制された観がある。その奇跡に何人が気付いたのだろう。

おそらくは親戚、つまりイエスの従兄弟にあたるであろうゼベダイの子ヨハネ(十二使徒)は、その福音書でこの奇跡を記しているが、これを晩年にエフェソスで著したときに、当地に共に来た主の母からかつて聞いた情報を含めたのであろう。それに加えてイエスの兄弟たちがイエスに信仰を持っていなかったと、はっきり書いている。(ヨハネ7:5)



-◆兄に帰依し、義人と呼ばれる--------------------------------

しかし、それも変化するときが来る。
パウロの言葉によれば、イエスは刑死を遂げて三日目に生き返らされると、弟のヤコブに現れたというのである。(コリント第一15:3)
どうやら、これがヤコブが信仰を持つ決定的なきっかけになったようである。
彼はその後、他の弟たちと共にあのシャヴオートつまりペンテコステの日に聖霊が灌がれたおよそ百二十人の中の一人に含まれていたのであろう。(使徒1:14)


しばらくすると、ゼベダイの息子でヨハネの兄弟でもある十二使徒の方のヤコブがヘロデ・アグリッパス王(Ⅰ世)によって処刑されると、次は使徒筆頭のペテロが狙われ、ペテロは投獄されてしまう。
しかし、天使の介入によって獄から開放されると、この使徒筆頭であり地方を回ることの多かったペテロは、以後更に遠くエルサレムを離れるようになってゆく。(使徒12章)


その後、どのようにエルサレムのエクレシアがイエスの弟ヤコブを自分たちの代表としたのかについて聖書は何も伝えていない。
あるいは、ペテロが依頼したのか、それともイエスが任じたのか、またはユダヤ的相続の習慣にしたがって次男として指導の任を受けたのだろうか。父ヨセフも母マリアの家系*も共にダヴィデ王家に連なることはふたつの福音者が記しており、使徒たちの間で知られたことであったことは明らかである。(ヘブライ7:14)


あるいはヤコブ自身に傑出性があったのかもしれない。というのも、ヤコブは後年「義人ヤコブ」と呼ばれ、イエス派への所属を問わずユダヤ人の多くから敬愛されていたというのである。その状況からすると、ヤコブは先鋭的にイエス派を推進していたというよりは、周囲のユダヤ人から尊敬を勝ち得るほど、ユダヤ教徒の務めをよく果たし、神とイスラエルを執り成し、兄とユダヤの間に立って「律法契約」から「新しい契約」への橋渡しに努めていた姿が浮かびあがる。(ヨハネ7:6-7)

いや、橋渡しというよりは防波堤であったというべきだろうか。ヤコブへのユダヤ人一般の尊敬は、彼がイエス派であるか、またその弟であるか否かよりも、如何に神への崇敬の念の厚いかに集められていたのであれば、そこでユダヤ人によるイエス派への迫害も彼の中立性のゆえに躊躇されたことであろう。

この「義人」(ツァデーク)というのは完徳者を意味するわけではないが、一種の称号であり、ユダヤの民のために取り成しの祈りを日々神殿で捧げ続けたというヤコブは、人々からの賞賛によってユダヤの宗教的良心を代表するような立場を民衆の間に得ていた。
ヤコブとしては、ユダヤの民の多くが、未だ兄をメシアとして認めようとしないその頑なさを去って、神との平和を得るよう願い続けたのであろう。(ルカ19:41-42)


この弟ヤコブは十二使徒でもなく、ヘレニストの世話役となった「七人」にも、イエスの宣教を委ねられた「七十人」にも加わっていないのは明らかであり、その点、イエス運動の表舞台に上がったことがないので、標的にされ難かったこともあろう。

あのシャヴオート以来、イエスの弟子らはユダヤ教の中で人数を増していたが、ヘロデ大王の建立した神YHWHの壮麗な神殿は依然そこにあり、モーセの律法は日毎の祭祀においても機能していて、ヤコブもその崇拝方式に従っていたのであり、ヤコブたちも依然として「ユダヤ教イエス派」であった。そのためか、次第に数を増しつつも律法の習慣を守るイエス派に対して、祭司たちも温和に振舞うようになってゆく。(使徒6:7)


当然ながら、ユダヤ人の宗教的良心は神殿祭祀や生活でのトーラーとミツヴァの遵守にあり、それはイエス派ユダヤ人においても変わるところは無かった。ヤコブはそのようなイエス派の良心を代表するようなところを見せたのであろう。このヤコブの姿勢によって引き続きユダヤ教徒がイエスに帰依する道が開かれていたと言える。彼の晩年にはユダヤに数万の『律法に熱心な』イエス派が居たことが記されている通りである。(使徒21:20)


しかし、ペテロは外遊しつつ神の王国の「鍵」を用いてサマレイア、そしてローマ人にすらその門戸を開いたことによって状況が変化してゆくことになる。(使徒8:14~/10章)



-◆ユダヤと異邦人のふたつの群れ--------------------------------

そして迫害の急先鋒であったシャウル、つまり後の使徒パウロまでがイエス派の戦列に加わり、聖霊に取り分けられてバルナバと共にセレウケイア港から地中海に乗り出すことで、その状況の変化はさらに大きなものとなっていった。(使徒13章)

エルサレムのエクレシアとしては、イエスの教えが世界に向けて次第に異邦人の中に拡大してゆくことが何かと気になっていたに違いない。
その証拠に、ペテロがカエサレアに行って、ローマ人コルネリウスの家に入り、その一族や友人と交友して汚れたと彼を譴責しているのである。

実に、これこそペテロの主イエスから賜った「鍵」の使用であったのだが、イエス派の誰もそのことに気づいた様子はない。(マタイ16:19)
ともあれ、「それでは神は(汚れた)異邦人にも聖霊をお与えになったのだ」と黙りこむよりほか無かったのである。(使徒11章)

一方、エルサレムから直線で600kmほど北上したシリアのアンティオケイア市は、ローマ帝国第三の人口を誇る闊達な都市である。
東方ユーフラテス河畔方面、あるいはアディアベネ、ペルシアにつながる要衝であり、様々な人種の行き交う自由な気風がその都市にはあった。
 

ユダヤ人はヘレニズム期に入ってこのかた、この都市で特権を得ており、割礼を受けた異邦人改宗者(プロセーリュトイ)やその他の無割礼ながら「神を恐れる異邦の人々」(フォボメノイ)もシュナゴーグに集まる会衆の中に比率は少なくは無かった。ユダヤ人も人種の違いを然程気にせず過ごすことができたであろうから、そこには様々な人種が共に神を同じくする爽快さがあったろう。(使徒6:5/11:19/13:1)

その点、間近で神殿祭祀が行われ、ユダヤ優越性の色彩濃く保守的なエルサレムとは様子が随分と異なっていたようだ。

パウロはこのシリアのアンティオケイアを基地にして三回の長途伝道旅行を行っている。パウロやバルナバたち「諸国民への選びの器」にとってこの自由な気風溢れる都市は精神的な母体に相応しいものであったに違いない。
そして、彼らが旅行から戻るたびに、この地のイエス派はより一層ユダヤ教の色彩を薄めていったことであろう。


しかし、これはイスラエル=ユダヤ中心主義からすれば何か釈然としないものがあったとしても仕方が無い。
ユダヤ人の宗教的良心は、国教であるユダヤ教から簡単に離れることができないし、パウロの著作が未整備なうえ、パウロを迫害者、次いで異端者として避けていたユダヤのイエス派にとって、イエスの教えがモーセとどう異なるのかさえ不明瞭で、キリスト教の真髄を知るには至っていなかったというべきなのであろう。


現に十二使徒ら、またヤコブら中心的「柱」の人々はエルサレムの神殿でユダヤ教の崇拝を捧げることで、さらに多くのユダヤ人イエス派信徒を獲得していたのである。

だが、彼らの意識の外ではイスラエル民族は宗教上の大きな転換点に差し掛かっていたのであり、異邦人イエス派(クリスティアノイ)と、イエスをメシアと認めて「ユダヤ教の完成」を標榜するヘブライスト・イエス派との間には、意識のズレが生じうる事態が進行していたのであった。



-◆そして、起こるべくして事件は起こった--------------------

それが起こったのは西暦49年頃とされている。

エルサレムのエクレシアからアンティオケイアに向かった一群の人々が「メシアの弟子であっても異邦人なら割礼を受けなければ救われぬ」と主張しだしたのである。確かにユダヤ教の古い観点からメシア信仰を考えるなら、割礼を受けて改宗者になる必要があるというのは、常識的で穏当な判断であったと言えよう。(創世記17:12)
だが、キリスト後の神意は旧約的な判断を超えていた。

「割礼を受ける」とは、キリスト教徒もイスラエル=ユダヤの血統の優越を認め、イエス派にも祭日や服装や食事などのユダヤ的生活習慣を行う必要が生じ、延長線上には神殿祭祀やモーセの遵守がある。従って一つ「割礼」の問題は、イエスの弟子ら、特に諸国民からの信仰者らの信仰生活やユダヤ人との間の立場を左右する重大な問題となっていた。

では、イエスの教えは「より優れたモーセの弟子(ユダヤ教徒)」とさせるべきものだったのか?それとも、メシアの到来はより革新的なものをもたらしたのか?
この点で、ユダヤ人の弟子らには、律法を遵守する旧来の信仰生活を守るべきであるという、生まれながらの習慣と、それに伴う良心がある。イエスも祭礼に参加していたエルサレム神殿は依然として機能しており、無割礼の異邦人は聖域に入れなかった。

しかも「割礼」は、律法以前もアブラハムの家と異邦人の下僕にまで命じられたアブラハム契約以来のもので、それはアブラハムの『後裔が受けるべき契約の印』であり、その契約は『代々にわたる・・契約』とされていた。(創世記17:9-14)
それであるから、ユダヤの弟子らが「モーセの教えの延長線上にキリストを加える」というスタイルでいたことは、永い存続してきた律法体制の中から見るなら、それが正統的に見えていたことは無理もない。

しかし、無割礼の異邦人らが次々に信仰を表して参入していた外地のエクレシアでは、コルネリウスのように無割礼でありながら聖霊を注がれる例が増えてゆくとなると、そこで起っている事象は、聖典に書かれたところを信仰する旧来の観念を超える神の意図を感じさせるものである。
そこで使徒言行録は、アンティオケイアで「少なからぬ争論が起こった」としている。(使徒15章)

確かに神殿の犠牲はキリストの犠牲によって完うされたと唱えるパウロたちがそこにいれば、これは確かに大きな問題にならないわけがない。
 しかし、現代の我々の知るようなパウロの先端的理解を記した書簡群も未だ存在していない時期である。
さて、弟子らはこの事態にどう向き合うだろうか。

そこでアンティオケイアのエクレシアとしては、この問題に決着をつけずにはいられないと結論し、いまだ神殿を擁して中央と目されていたエルサレムのエクレシアと話し合うことにする。
この問題に適任なのは、何といってもパウロとバルナバであろう。
ペテロもエルサレムにおり、こうして、エルサレム会議の舞台は整った。


エルサレム会議は「使徒会議」とも「第一エルサレム会議」とも呼ばれるが、ある人々が「第一」と呼ぶ背景には、後代の1672年のものをも最初のものの延長線上に置こうという企図がある。
だが、初代キリスト教徒による最初の会議に比肩しうるものが他にあるだろうか?

以後、ニカイア会議に続く普遍教会による公会議と、このエルサレム会議には大きな違いがあったのである。

初代のエルサレム会議がキリストの使徒らの参加があったことを除いても、その意味するところは大きく異なっている。

例えれば、テオドシウスⅠ世がコンスタンティノポリスで主催した第一の会議では、キリストと神が「相似なのか同質なのか」を巡って争論がされ、結果として、僅かに見えるこの認識の差を以って、あるいは正統とされ勝ち誇り、あるいは「異端」と裁かれアナテマ(呪詛)が宣告され排斥されている。しかも、この会議は反対派を排除した政治的なものであったのだ。
 

しかし、使徒らの会議は決してそのようではない。
それはずっと大きな教理の違いの容認なのである


会議ではやはり、ユダヤ人の中には律法遵守、すなわち、イエス派であってもまず割礼を受けユダヤ教への帰依を示すことを条件とする人々がいた。
これは、ユダヤから出ず、ユダヤ教のもとに順当に育った人なら至極当然と思えるところだったに違いない。(出埃12:44)
 

しかし、自らイエスから授かった『鍵』を使用して異邦人に向かって「神の国」を開け広げたペテロは違っていた。
多くの議論が出た後のペテロの発言が転換点となったようである。
彼はコルネリウス以降の無割礼の異邦人にも「約束の聖霊」が降下した事実を説いてこう言った。

『神は異邦人にも聖霊を与えたのですから、この上、我々も父祖も守れなかった頚木をどうして彼らにかけられましょう』。
これはユダヤ教からみれば、恐ろしく革新的な考え方である。律法は『守れない』と言っているのである。

しかし、こうして「聖霊」の業績が列席者の争論を決定的に収める働きを成してゆく。

これに加えて、パウロたちが異邦人に臨んだ神の業の実例の数々を話して聞かせるのであった。

そうしてから、論議を聴いていたイエスの弟ヤコブが総括をする。
「私の決定は、即ち神に立ち返ろうとする異邦人を悩ますべきではない。
但し、偶像に捧げられた物(食物)と淫行と絞め殺されたものと血*を避けるようにとだけは、彼らに書き送るのがよい。」
 

これは、ユダヤ人の決定とは思えないほどの驚くべき転換であろう。
自分たちが心底信じるユダヤ教崇拝に関して、異邦人を律法の規定外に置きながらも仲間として認めたのである。こうして諸国民に中に出て行ったペテロやパウロのような人々を介して、イエス派の中央は聖霊の巻き起こす新たな流れを受け入れたのであった。

しかし、ユダヤ人側からすれば、異邦人信徒は中心から遠ざかった一ランク下の格付けに看做す誘惑はあったろう。
律法を知らない異邦人を汚れた者と看做す千年以上続いた習慣は、そう易々と意識から排除できるものではないに違いないし、偶像に捧げられた物と淫行と絞め殺されたものと血を避けよという指示も、律法の部分的延長という説明は無く、もし、そんな主張をすればパウロが黙ってはいなかったであろうし、ヤコブ書も律法が切り売りできないことを記している。即ち、『律法のひとつでも踏み外す者は、律法の全体への違反者なのである』(ヤコブ2:10)


これらを踏まえてみると、それらの指示は、むしろユダヤ・イエス派を躓かせないための最低範囲の線引きのようである。

議決を述べた後に続くヤコブの言葉はそれを裏付けている。

『 モーセの律法は、古来どの町にも告げ知らせる人がいて、安息日毎に会堂で朗読されているのだから』

この一言に示されていることからすれば、キリスト教徒にも血に関する律法規定が延長されたということに捉えることはできない。また、ここでヤコブ自身がキリスト教の規則を新たに制定をしているわけでもない。

むしろ、無割礼の異邦人であってもユダヤ教のシュナゴーグの集いに「神を畏れる諸国の人々」(フォボメノイ)として受け容れることを許すには『偶像に捧げられた物(食物)と淫行と絞め殺されたものと血*を避ける』というのが以前からの最低条件であった。そこでヤコブも、まったく無割礼の異邦人を信仰の仲間と認めるための条件として、ユダヤ教の会堂への参入の条件であったものをイエス派でも用ることで、律法に熱心なユダヤ人イエス派信徒と異邦人信徒の融和を図っているのである。(レヴィ17:12.15)


即ち、律法の朗読が各地のユダヤ人社会を通じて行われ、その価値観は依然として神の規準として知らされていたのであるから、割礼を求めないにせよ、異邦人でメシアを信じて転向してくる者たちも一定のユダヤ的道徳観に基づいて振る舞い、ユダヤ人からの拒絶に遭わないようにするためである。
現にコルネリウスのようなフォボメノイが、この規準によって無割礼でありながらユダヤ人と共にシュナゴーグに出入りを許されていたからであろう。

 

まさしくこのヤコブの裁定は、ユダヤ教の会堂であっても、異邦人中心の集まりであっても、『双方の民』が躓きを覚えずに交流することを促進する賢い選択であった。(エフェソス2:11-18)


もちろん、崇拝に慎重なヤコブが大胆にもキリスト教の掟を新設して命じたわけでもないし、道徳的であることは望ましいながら、今日のキリスト教の信徒にこの古いユダヤ教の慣行を課する謂われはもはやない。モーセを引きずったユダヤ教イエス派は第二世紀を過ぎた早い時期に消滅したからである。今や自由に属するキリスト教信徒には「愛の掟」があるばかりではないか。(ガラテア4:24-31/ローマ13:8)


ともあれ、こうして、この会議はその議決を書簡に記し、彼らに「聖霊と使徒らの決定」を知らせ、さらに複数の証人を付けてパウロたちと共に送り返すことにした。
その書簡はシリアとキリキア(トルコ半島の付け根)のイエス派信徒に宛てたもので、受け取った人々は大いに喜び励まされ、さらに数を増していゆくこととなった。


だが、この議決を以ってユダヤ教イエス派と、パウロがイエスの霊に従って推し進めていた異邦人イエス派との間に何の問題も起こらなくなったわけではなかったし、その後もユダヤ優等主義はエクレシアから消えはしなかった。

実に、キリストの異邦人の弟子らから割礼を必須のものとしないという裁定によって、生殖重視の観点が失われ、その後の『アブラハムの裔』が血統に依拠しないという大転換が込められていたのだが、この点については誰にも気付きがなかったかのようである。だが、それは使徒パウロの言行によって次第に明白にされてゆくことになるのであった。
そのため、使徒パウロはエクレシア内外のユダヤ主義と生涯戦ってゆくことになる。(ガラテア5:12/フィリピ3:2/ローマ2:25)


やはり、人の信念というものは、易々と変えられるものではないし、宗教信条では特にそうであろう。
その発言が議決へと導くことになった使徒ペテロであってさえ、この会議の後のアンティオケイアで、エルサレムからの仲間が到着すると、異邦人と交友するのを避けたことをパウロから激しく咎められている。(ガラテア2:11-14)

これについては、その逆の事態も起こっており、パウロは宣教に訪れた各地のユダヤ教徒らからの強烈な反対を受けねばならなかった。一度はユダヤ人に石打で死刑にまで処せられたのを何とか生き延びてさえいるのである。
ユダヤ人と異邦人の間では、エルサレム神殿が機能している間のイエス派が、純然たるキリスト教となって、ユダヤ教から脱皮を遂げるまではバランスをとることの難しさが新約聖書のあちこちに見える。

更に後年になって、ヤコブは異邦人派の先頭に立つパウロの評判が、ユダヤ教の中心であるエルサレムでは頗る悪いことを慮り、彼に神殿での浄めの儀式の世話をするよう求めているが、そこでこう云っている。

『そうすれば、あなたについて言われていることが根も葉もないことで、あなたは律法を守り正しい生活をしていることが、人々にも分かるであろう。

 異邦人で信者になった人たちには既に手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてあるのだから」』(使徒 21:24-25)

そこには、明らかに偶像、飲血、不品行を異邦人派に求めた動機が記されている。即ち、両派の衝突を避け会堂でメシア信仰者が一緒に集ることにある。やはりヤコブはここでも「執り成しをする義人」の姿を見せている。

また、血を避けるという律法に基づくユダヤの常識を異邦人が受け入れることにより、キリストの血の犠牲の価値の大きさを認識する助けが異邦人にも与えられたことになる。
なぜなら、血の禁忌をもたない民族であれば、主の晩餐において葡萄酒の表象を飲むときに、飲血の禁令を超えてゆく意義を悟れないからである。 

だが、ヤコブの配慮もむなしく、パウロは彼をアジアで知るユダヤ人に見咎められ、神殿域で捕縛されてしまうことになってしまうが、これはパウロをローマという大舞台に立たせることになる。





-◆ユダヤ人らしからぬ寛容さ -----------------------

さて、この議決で注目すべきは、その大いなる寛容さである。
ユダヤのイエス派信徒は従来の律法遵守を続け、一方で異邦人は律法から解かれているのである。これは二重の基準、ダブルスタンダードに他ならない。


それは、崇拝方式ばかりか生活の様々な面、食事や衛生、祭日まで異にするという意味であり、モーセの下にひとつにまとめられていた宗教が諸国の多様性を受け入れるのというのである。
こうしてユダヤ教イエス派と、異邦人のクリスティアノイとの難しい共存が図られた。

果たしてそこに偏狭さがあるだろうか?
むしろ、僅かな言葉の認識の違いで呪詛されたり、排斥されたりはしていない点で後代の公会議とは大いに異なるものである。


そして、イエスの弟ヤコブの会議における振る舞いに、ヒエラルキアの頂点に立つ者が往々にして陥りやすい専横な独断や強欲さや教理の無理強いは見られないし、人を威嚇するようなところも仄めかされてもいない。まして、エルサレムのやり方に「合わせろ」などと見解の一本化を諮ることさえしてはいない。

むしろ、多様な議論の出るのを見守ってから、自らの周囲で起こる様々な事柄に注意を払って人々の間に働いている聖霊の示す方向を窺い、全体の意見を集約して結論に至っている。
そこでは、聖霊を内に得ていてもなお、自己を制して兄イエスの意志を探るようなところを見せているのである。


ヤコブの名を冠した聖書にある書簡には「人は聞くに早く、語るに遅くあるべきである」とあり、「人の憤りは神の義を行うことにはならない」とも述べているが、それはまさにエルサレム会議を仕切ったキリストの弟ヤコブの姿を彷彿とさせる。

この「ヤコブの手紙」は後代のルターらによって、信仰よりも律法の業を強調するユダヤ的なものであると、価値を低く見積もられ「わらの福音」とまで貶されたが、しかし、内容を見る限り「業」の強調はともかくモーセの律法の条項のひとつをすらを挙げて遵守するように求めていない。

その中に「王たる律法」「自由の民の律法」の記述があるとしても、それはキリスト教の「愛の掟」に通ずるものであって、この著者を律法主義者と断ずることは出来そうに無い。
確かに彼は『人は業によって義と宣せられるのであり、単に信仰によるわけではない』と書いている。(ヤコブ2:24)
だからと言って、ヤコブが律法主義者と断じることはできない。
文脈を見れば『業の無い信仰は死んだもの』と言っているのであり、『業のない信仰を見せるように、そうすれば、わたしは業によって信仰を見せよう』というのであるから、ここで問題にしているのは、『信仰』がどのようなものかというところに焦点が合わされているのであって、『業』それも律法を行うことを論題にはしていないのである。

ヤコブの手紙にあるのは、律法の業の続行ではなく、信仰の業を求めているのであり、実際、「自分は信仰を持っている」と言いながら、何をするでもなかった不信仰の事例は旧約聖書にもみられる通りであり、それを彼は『死んだもの』というのであろう。(列王第一18:21-)
当時の同僚パウロの業、その苛烈とも言うべき宣教の労苦を思えば、決してパウロの教えと衝突はしないであろう。(ヤコブ2:26/コリント第二11:23)

むしろ、『割礼を受けるなら律法をすべて守る務めがある』というパウロの如く『律法のひとつでも踏み外す者は、律法の全体への違反者なのである』とさえ言うのである。これは、律法主義者であるパリサイ人の平衡的律法の適用方法の枠に留まるものではなく、キリストの『完全な自由に属する律法』を指し示すものである。(ヤコブ2:9.10/ガラテア5:3/ヤコブ1:25)
更に、この手紙の驚くほど優れた点は、双方の民のいずれが読んでも益を得られる事にある。

ここにキリスト教徒にとって学ぶべきことはないだろうか?
キリスト教の各派が正統を巡って争い、ヤコブのような寛容を表せないのは何故だろう?なぜに聖書の言葉一つや文法を巡って正義を立てようとするのだろう?キリスト教を信じようとする人々は、宗派という互いに敵視し排除しあう鉄条網の枠に強制収容されているかのようではないか。

けっして神はそのようにはしていなかった、むしろ当時のユダヤ人にその宗教的良心の働き方をすぐに変更させることは無理を強いることであるので、聖霊の印と一定の判断期間をユダヤ人に与えたのである。
一方で、今日までキリスト教を称える様々な宗派の示してきた他者排撃による義の確立、その偏狭さは、こうした神の精神とはまるで別のものを感じさせるものであろう。つまり敵意を醸造するディアボロス(中傷者)の精神である。

ヤコブの手紙は『ねたみや闘争心のあるところにはあらゆる無秩序がある』と警告する。(3:13~)
僅かな見解の相違を争ったり、自分たち以外をサタンの側に断じたり、神の真実性を脇に押しやり自分の正しさの立証に血道を上げるようなことはヤコブが努めて避けたことではないだろうか?当時の弟子たちには聖霊があり、それこそが神の真実を教えるものであったから、人間の教理の正当化などは思いも付かないことであったろう。

そして、彼の寛容さは様々な実を結び、パウロの活動の支えともなった。
ヤコブ及び「柱」と思えるエルサレムの主要メンバーにパウロが持論を開陳したとき、ヤコブらはパウロに黙って手を差し伸べ、自分たちは割礼を受けた者の方に、そしてパウロたちが異邦人に向かうことを認めたのである。そこではパウロに働く聖霊への敬意があったに相違ない。(ガラテア2章)

そして、自ら律法の下にいないと再三主張してきたパウロではあったが、後年エルサレムにあっては、ユダヤ人としての習慣に従うようにというヤコブらの勧告を唯々諾々と受け入れているのである。しかもそれは『ナジル人の誓約』に関わることであり、極めて律法主義の色濃いユダヤ的行為への勧告であった。しかし、これを肯んじることはけっしてパウロの敗北などではなかったことであろう。むしろ、ヤコブの示すパウロへの気遣いと寛容への丁重な返礼のようにさえ見えないだろうか。(コリント第一9:20/ローマ6:15/使徒21:20~/レヴィ6:13~)


歴史上、キリスト教において論争や敵意が普遍的に見られてきたのだが、その多くは言葉を巡る教義上の争いが多かろう。しかし、パウロは後になって、信徒同士が「言葉の事で争うことのないよう、「厳粛に」([ディアマルチュロマイ]あるいは「厳格に」)申渡すよう」助手のテモテに命じてもいるのである。(テモテ第二2:14)
この厳正さは、まさしく偏狭への戒めであって、言葉の小異を巡る厳格さではない。これは自らに厳しくも、同時に謙虚で協調性豊かなヤコブと共に働いた経験を持つ使徒ならではの戒めとは言えないだろうか。


こうして、寛容さを以ってヤコブは初期の問題を乗り越えた。
それは彼に働くイエスの霊の特質でもあり、ヤコブは兄イエスの意を汲むことにおいてまことに見事であった。
これが後代の「キリスト教」諸派の教師らのような自己義認者であったなら、自分の方式に固執して、敵意と闘争の坩堝に人々を投げ込むようなことになっていたであろう。

しかし、ヤコブは聖霊の特質を発揮し、ユダヤ人と異邦人という分裂しかねない「ふたつの群れ」をそれぞれに平和に保つ役割を果たしたのである。(ヨハネ10:16)⇒「羊の囲いの例え

現状のキリスト教徒の独善の実態に鑑みるに、これは誰にでもできるようなことではない。

しかし、その一方で偏狭で独りよがりなユダヤの崇拝が終わりを迎える日、つまりユダヤとエルサレムの荒廃が刻々と近づいていた。それは神殿喪失による祭祀の不能と、律法遵守の内向きな正義の意味を失う時代の到来である。(ルカ23:28)⇒似て非なるサマリアへのキリストの想い

つまり、時代の過ぎ去った後から見ると、異邦人を許したはずの「優秀な」ユダヤ・イエス派も、実に自分たちの後進性の存続を許していたのである。
こうして、「最初のものは最後になった」。(マタイ20:16)


-◆殉教の死 --------------------------------

会議の後十三年、民に尊敬されたヤコブは、より多くのユダヤ人をイエスに導いていったが、他方でユダヤ体制はますます愛国的になってゆき、やがてその愛国心が崇拝心を超えてしまう事態が発生しようとしていた。⇒ 「キリストの語った終末預言

西暦60年代に入ると物事は急速に動き始め、パウロは獄からローマに護送され、エルサレムではローマ総督の交代の留守を衝いて権威欲の深い大祭司アンナスⅡ世が暗躍し、遂にイエスの弟ヤコブに死をもたらす。
祭りの日に神殿の胸壁に立たされて、民にイエスはメシアではないと説得するよう要求されたところ、逆のことを行ったために祭司長派に突き落とされ、最期は撲殺されたと伝えられている。

この「処刑」の名目として、表向きは「律法の不履行」の罪状が挙げられたが、キリスト教徒ではないヨセフスですらヤコブの死刑が不正なものであったと糾弾する。それについてはアグリッパスⅡ世も、また、しばらくして着任した新総督アルビノスもアンナスⅡ世の大柄さに激怒したので、総督の留守に闇討ちのようにして民に尊敬されていた「義人」を亡き者にしたアンアスⅡ世は、僅か三ヶ月の在任で職を解かれたのであった。

こうして無慈悲な暴力によってヤコブは世を去った。
彼を除き去ったのは(ユダヤの)宗教上の偏狭さであり嫉妬であり対抗心であり、よほどに注意していても誰もが陥りやすい「人間の正義感」であった。それは彼の兄を葬った精神でもある。義人ヤコブの精紳は大祭司アンナスⅡ世ら体制派が示したものとは正反対であった。さて、キリスト教界の相克の歴史は、どちらであったろうか。


ヤコブはイスラエルの民のために神殿で祈りを捧げ続けたので、その膝はらくだの皮膚のようになっていたという。彼は兄に次ぐものとしての立場に於いて、実に堂々と平和を訴え続けてその責を全うする人生を歩み通した。平和を保つためのそのバランス感覚の良さは、クリスティアノイにもヘブライストにもまさしく宝のような特質であったに違いない。

このような人物のゆえに彼は尊敬も集めていたのだが、彼の兄に対するメシア信仰はやはり体制派ユダヤ教とは根本的に異なるものである。それが遂に表出するときが来たというべきか。
彼の祈る言葉はユダヤ人の頑なさに阻まれ、ヨセフスも述べたように、この「義人」の殺害に至って、遂にユダヤの命運は決したかの観がある。

こうしてヤコブの働きを概観すると、ユダヤ体制への神の最後の善意を保つ役割を負っていたように見える。彼のイスラエルへの執り成しの祈りは、「善意の年」を活用し「救われてゆく」ユダヤ人を「神の国」に受入れることを可能にしていたと言えよう。

だが、イエスに敵対し、その弟にまでも牙をむいたユダヤ優越主義は、ユダヤとエルサレムの壊滅に向かって、ますます引き返すことの出来ない岐途に分け入ってしまったのだが、その「清算の世代」にあってヤコブの率いたユダヤ・イエス派の人々はユダヤ破滅の危機を乗り越えることができただろうか?

西暦66年のユダヤ反乱まで、あと僅かに数年を残すのみ。

居丈高なユダヤ優越主義も、エルサレム神殿の消滅と共に大いなる失望を迎える時が刻々と迫っていた。
ヤコブの死から時を経ずに、ユダヤにはいよいよ神の審判が下ろうとしていたのであった。



                 新十四日派   ©林 義平

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*(マリアとエリザベツが親戚関係にあり、マリアの家系はレヴィ系であるが、ソロモンの世代にダヴィデ王家からレヴィ系祭司に移った系統が記録されており(サム二8:18)、ルカの系図はそれを追ったものであるように思われる(ルカ3:31/歴代一14:4)それゆえマリアの姉妹とされるゼベダイの妻サロメを通し使徒ヤコブとヨハネもレヴィに近いと言える)


*「血」を避けるとは、「ヤコブの手紙」の言葉に基けば(ヤコブ2:10)律法の同種の規定(レヴィ17章など)がキリスト教においても延長されたとみるべき理由はない。⇒「山上の垂訓における律法の成就」

むしろ、この項目をも用いて相互の民が良心的につまずかないための最低ラインを引いたように見える。

あるいは、「虹の契約」の延長とも看做せなくもないが、ヤコブらはその由来を明言してはいない。むしろ、ユダヤ教シュナゴーグの習慣を敷衍したとみるべきであろう。
いずれにせよ、絞め殺された動物には血液が滞留しているので、続けて記述されたこの「血」の禁忌は血を食することを意味するのであろう。この禁令は「魂」(ネフェシュ)の在り方に深く関わっている。⇒「ネフェシュ」とは何か

但し、このときの双方の民の存続を保つべき状況で、この会議の決定が必要であったとしても、これを金科玉条のように現在のキリスト教徒に戒律としてあてはめようとすれば、ヤコブの示した寛容さに逆行することになり、エルサレム会議の精神を理解するのではなく、却って律法主義的とはならないだろうか?⇒「血の禁令を超える主の晩餐

たとえ、誰かがその規定を守るとしても、それは決して他者に強制されるべきでないと思えてならない。


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モンタヌス運動 最初の「時の予告者」


さて、第二世紀中頃に出現したモンタヌス運動はエポックを画するものとなった。
J.ダニエルーは、この運動はキリスト教の普遍教会から最初に現れた分派であるといっている。
それまでは、サマリアのシモン・マグスであってもエクレシアに決定的分裂を引き起こすことはできなかったとエウセビオスは書いている。(教会史Ⅱ14)

そのようにキリスト教に統一が保たれた大きな理由は、あのペンテコステ(シャヴオート)の日以来、当時あった「聖霊の灌ぎ」であろう。(使徒2章)
つまり、神からの超自然の「聖霊」が各地の聖徒(聖なる者)たちに降って知識を与え続ける以上、地上に中央を持たなくても教理の一致が可能であったということである。(ヨハネ16:13/ヨハネ第一2:20)

実際にパウロは、他の信徒らが彼と異なる教理を持つことに対して頑強に口論する必要を感じていないが、その理由が聖霊降下にある事を示唆する文言を幾つか残している。むしろパウロは『いずれ主が啓示してくださるであろう』と云いつつ、とりたてて背教が広がりそうな重大な誤解を除いては放っておくほどであった。
この点において聖霊の産出する実に『平和』があったとも言えよう。そこで今日に至るまでのキリスト教界の分裂と反目は、聖霊の無さを露呈しているであろう。(ガラテア5:10/コリント第一14:37/フィリピ3:15)


また使徒ヨハネも聖霊を持つ者たちは知識を有しており、いまさら新奇な教えを受ける必要がないと言っている。(ヨハネ第一2:20-)

それゆえ『今は、天の管理に関する神の秘められてきた様々な知恵が、エクレシアを通して知らされるとき』とパウロが書いた背景はここにあろう。(エフェソス3:10)

しかし、「聖霊の賜物」を持った世代が次第に姿を消し、聖霊の助けが地上から去る時代になると、そのときを狙って何処からか異なるものが入り込んできた。(コリント第一13:8)今日のキリストの不在

それでなくとも、聖霊を装う悪霊の危険は以前から存在しており、それは十二使徒の最後に位置するヨハネも、「霊感は試されねばならず」と警告し、加えて「新しい教えに惑わされぬよう」注意を促していたことからも明らかであろう。
この「新しい」とは、晩年のヨハネが使徒時代の最後にあって語っているのであり、けっして「新しい契約」を云っているのではなく、当時台頭してきたグノーシス派のように「新奇な教え」を指している。彼はこれらの異なった教えがエクレシアに入り込むのを阻止すべく『挨拶の言葉を掛けてもならない』と命じたほどであった。(ヨハネ第一4:1/2:24/ヨハネ第二10)

そして当時の資料には、自分には聖霊があると偽る者が、本物の聖徒の中に入ると一致できずに醜態を晒す様が伝えられてもいる。(牧者XI,13)

聖霊の賜物の発現は、その人を没我のトランス状態にするものではなくて、賜物を有する人が理性によって制御できるものであった。(コリント第一14:26-33)
しかし、聖霊を持つ「聖徒」と呼ばれる人々の減少が趨勢となっている中で、フリュギアのアルダバウ*でモンタノスという人物には突如としてトランス状態が襲い、世の終わりとキリストの臨御が近づいていると唱え始めた。*(小アジアのフィラデルフィアから北に24km)

当時、地上から去りつつあった「聖霊の賜物」は、いまやモンタノスらに灌がれていると主張し、彼らは追随者を加えて一派を成すようになる。
その他のエクレシアイがこの運動を異端として直ちに排斥できなかったのは、この運動には最も警戒されたグノーシス派のように神までが異なるほどの宗教として異質なものでなく、大きな逸脱がなかったことが理由とされている。加えて、普遍教会も聖霊を持つ人々の減少に危機感を抱いていたことが処置の曖昧さの理由として考えられている。

モンタノスは、自分に注がれている霊は、イエスが『助け手』(パラクレートス)として示した霊であって、今や失われつつある初代キリスト教徒にかつて豊かに注がれていた聖霊は、いまや自分を通して介在していると主張する。
そこで、彼らを容認した当時のキリスト教界は、やはり彼らにひとつの弱みを握られていたことが見えてくる。即ち、聖霊を注がれた『聖なる者たち』の著しい減少と、その神意をつかみかねている当時の指導者たちの狼狽である。

つまり霊の発言が減少してゆくなかで、『預言者』の存在はますます希少なものとなっていたのである。これについてはこの時期に書かれたという外典「イザヤの昇天」がシリア方面から預言者が絶えたことを嘆いている。


他方、モンタノス一派が現れたのはアナトリア(トルコ中部)のフリュギアであり、彼らには女預言者らも加わって侮れない勢力に膨らんでいった。
そのひとりマクシミラは、戦争や混乱した事態を預言し、やがて「新しいエルサレム」がフリュギアのペプザ(現アンカラ近郊)に降下すると言い立てた。(マタイ24:6-8)(黙示録21:2)

これは、ポリュカルポスなど使徒ヨハネの直弟子らが生きていたなら到底許さないであろうことである。(教会史V:20)
それで、モンタニズムの発生は、即ち聖霊の降下と入れ替わったものであり、キリスト教徒への聖霊降下のあった時代の終了を知らせる指標ともなりうるものといえよう。

この運動は、およそ西暦150年から170年頃に始まった事と言われている。
聖霊が灌がれなくなると共に、キリストが「旅立って」去った事に呼応するかのように、使徒や初代の著名な人物をかたる偽文書が横行し始めている。それはあたかもこの時期に著作権が切れたかのようにである。
ペテロの福音書や黙示録、パウロ言行録、ヤコブ原福音書など少なくはない。だが、これらは親しい者からの名前を偽った手紙のように、内容が不自然であり、エイレナイオスなどの初期教父ら人々によって退けられるところとなってゆくのだが、同時にこれは初代に連なる聖霊を得た権威ある人々が、当時には既に過ぎ去っていたことも教えるものとなっている。

これは原始キリスト教への回帰運動と錯覚させる聖霊信仰であり、後にはカルタゴの高名な教父テルトゥリアヌスまでもが、このサヴァイヴァル的キリスト教分派に染まっていった。


さて、マクシミラは「戦争が近い」などと緊急感を煽り、自分が最後の女預言者になると唱えた。つまりは、「これが本当に最後だ」という警告である。しかし、その預言にも関わらず、彼女の死後ですら遂に「新しいエルサレム」の降下を見ることはなかった。(マタイ24:6.7)ローマ帝国は賢帝の支配下で、目だった戦争や騒擾など、預言されても世界を揺るがすような事態はまるで起こらなかったのである。
 

それでもモンタノス運動はマクシミラの死後も継続し、黒海沿岸から北アフリカに至り、やがてローマにも押し寄せる。

しかし、後代のモンタノス運動は初代と異なり、謹厳な道徳律と殉教願望で知られたのである。
この点でいえば、モンタノス派の初期指導者らは倫理的にだらしのない生活を送りながら、弟子たちには行動を規制し、救いのための教条的に為すべき事柄を指示したのである。

そこには、次第にキリスト教界一般が世俗化し、霊的に堕落していたことの反動としての要素も見られる。「救われる」ものとは一般的信徒より道徳的で選りすぐれた者らに違いないという着想であろう。

しかし、そうなると個人の真実の内面よりは預言によって「裁きの時」に気付き、その時に間に合わせて道徳的に振舞う者が救われることになる。そのようなところでは「道徳の競争」が始まるものである。
しかし、競われたときに道徳は本質を失っている。そこではパリサイ派のような「救われるはず」の信者が、「救われそうにない」一般人に対して優越感を抱かないで済むことはまず考えられない。

そうして罪人や娼婦と食事をすることを意に介さず、『健康な者に医者は要らない』と語ったキリストの精神は閉め出されて、ますます高慢に「業」を誇るパリサイの教えへと同化したであろう。

それにしても、よくも自分は救われるなどと思い込めたものだが、他の人々よりも決定的に優れていることが何かあったのだろうか?
そして、それは何かと問えば、道徳的振る舞いで神の規準に到達したからなのだろうか?
もし、そうならキリストの犠牲無しでそれを勝ち取った自力本願の勝利であり、律法を守るユダヤ教と同じ内容の信仰形態ということになる。

自分ではどうにも罪から離れられない同情すべき人々が終末の裁きにバタバタと倒れ伏してゆくのを、神の是認あると思い込んだ信者らはそれを踏み越え楽園に喜び勇んで入るのだろうか?

しかし、これはキリストの示した精神とは随分と異なるものだ。
イエスは弱きを助け、病人もひとりひとり癒して、ひとりも残さなかったとルカが伝え、また、卑しめられた下層の人々に寄り添った姿が福音書に記されているのである。


しかし、モンタニズムの弟子らも自分たちの生活が規制されることを喜んだ。その理由は、程よく困難な努力を重ねる内に「救いの実感」があったからではないかと思われる。つまり「時」が迫ったところに「代価」を支払った実感が高まると、「見返り」が現実味を帯びるというトリックである。その一方で、生き残りのできない人々が落伍してゆくところは、自分たちの優秀性の証しであり、そこで選ばれた実感も更に感じるというのだろうか?そのせいか、戒律や規制は、「時」を信奉する宗教に付き物である。つまり、いずれもが生き残るためのチャレンジなのである。


-◆モンタニズムのもたらしたもの-------------

このモンタヌス運動は三つの点で初期キリスト教に痛撃を与えた。

ひとつは、聖霊の賜物が絶える頃合を見計らって混入してきたという時間的要素。その結果以前からのキリスト教徒の多くもがこのムーヴメントに連なることになってしまった。

二つめは、それが十二使徒中最後のゼベダイの子ヨハネの伝統を残していた小アジア直近のフリュギアが狙われ、使徒の声の残響の最後に残る地域の信徒たちを襲ったという地域上の素因*。

第三は、これらモンタノス派の指導者が不道徳的な振る舞いで知られたために、千年王国説そのものが批判に晒されたことが挙げられる。
これらはどれをとっても「反キリスト」的といえるものである。


この派はマクシミラの死からおよそ五百年の後*、新エルサレムを見ることなくモンタノス派も遂に終息してしまうが、彼女が自分を「最後の女預言者」として緊急感を煽った割には、随分と長命を保ったものである。*(8世紀頃消滅したらしい)

しかも、その役回りは十二分に果たしていたのである。
この運動の騒ぎが結果的に醸造したものと言えば
小アジアにかろうじて残っていたキリストの生誕や復活ではなく、その死を記念する年に一度ニサン14日に聖餐を行う習慣を結果的に放棄させる

彼らが近づいたと言い立てることで、黙示録に明示された「千年王国」を卑しめる思想を台頭させる

そしてキリストの王国は実体を持ったものではなく、「キリスト教会」を経て人的努力によって実現されるという初代とはまるで異なった教理の推進。「神の国」は既に信ずる者の心に中に在るという、聞き慣れた誤謬の始まりである。


これらの彼らの持っていたユダヤ的特色を大半のキリスト教徒に忌避させ、「王国は待っても無駄だ」という風潮を他の大多数にもたらしたうえで、この運動が収束したことになる。

かつて使徒パウロは、降下していた聖霊が「不法の秘事を今のところ抑制しているもの」であると示唆していた。(テサロニケ第二2:6)

しかし、その抑制者である聖霊が除かれると「不法の人」が現されるとも記していたのだが、実際、こうしてキリストの監臨が終わり、聖霊が地上から引き上げられるや、異物が抜け目無く闖入してきて、早くも小アジアのポリュクラテスの言うような「純粋な時代」は過去のものとなってしまった事態がそこに見える。小アジアはヒエラポリスのように正面切ってこの運動に抗ったエクレシアを除いては多くが呑み込まれてしまうのであった。



歴史上、繰り返される擬似モンタニズムの「時の予告」

しかし、モンタヌス運動に似た、時を予告して(「主人は遅い」と言うように)宗教的な騒ぎを引き起こす人々はその後も繰り返し歴史上に現れてきた。(マタイ24:49)
それはあたかも、モンタノスの失敗をまるで知らないかのようにである。

そうした「時の予告者」には、近代北米での「覚醒運動」(特に第二次以降)を挙げないわけにはゆかない。所謂「リヴァイヴァル運動」である。

このモンタニズムを繰り返すかのような「時を予見する運動」は、キリスト教の名の下にいくつかの教派に分かれ現在でも活動を続けているので、我々は比較的身近にそれを見てもいるのである。

それら覚醒運動が残した教派に共通する傾向は、キリストの帰還の臨御(パルーシア)に関して特定の年代を挙げるが、その年はおおよそ予告した当事者の世代に含まれるが、そうでないと信者が集まらないであろう。ご利益信仰だからである。

そして、どの派もその時になると例外なく言った通りにはならなかったが、部分的にそれらしく見えてしまう場合には、より強く長く延命してしまう。

どの派にしても、予告は失敗とはされず、予告された事柄の成就は人間には観測できない「天」の領域でその時に起こったとされる。(いったい、どのように観測できたのだろう?)

しかも、この「天」での成就という弁解を持つ教派が他にも現存している事を各派の信徒らは知らないことが多い。そして、夫々の信徒たちは真に誠実で、慎みある人々が大半を占めている。

それらの類似しあった教派の相違点を探せば「時の予告」に関する限り、ただ予告した年代が違うところだけが見えるほどである。
もし、年代別に宗派が設立されるなら、年数分だけ幾つでも可能となろう。

そのようにして、年代で信徒が宗派別に分けられたうえ、夫々に非常な熱意をもって組織を競い合うのは何と虚しいことであろう。


しかし、我々がモンタニズムから学べる言葉が、ルカ21:8にある
「その時が近づいた、という者があってもついて行ってはならない」
この一行とはいえ、このキリストの語った言葉をどう捉えたらよいのか。


--以上「神YHWHの経綸」中巻からのダイジェスト--


--以下、論考--

-時を予定することの問題点------

このルカの言葉は「時の予告者」を要請してはいないし、以下の論点からしても、彼ら「時の予告者」は天からも地からも必要とはされていないのではないか。

◆神と人の間に立ってしまわないか?

たとえ、誰かの予告の時に何かが起こったとしても、そこにどんな益があるのだろう。
神の予定の時を言い当てたことが、その予告者や周囲の人々に何を意味するのか。それは益ではなく害ではないだろうか?(テサロニケ第二2:2)

時を言い当てた人々なり派なりは、それを以って自分たちの正統さや義などを言い立てることであろう。自派の主張通りにその後も事態は推移すると主張し兼ねないが、何かの偶然であった場合、それはどういうことになるのであろうか。

しかし、たとえ「人間の義」を立てたところで何であろう。間違いのない真理が罪ある人間、つまり倫理的に欠陥のある人間と共にあるのだろうか?何かの時を言い当ててからといって、その指導者は神の是認を受けていると本当に言えるのだろうか?(伝道10:14)

それゆえにこそ聖霊の注がれることに価値があるのだろう。聖霊は人に依拠するものでなく、神の印であって、人間の議論の外にあるものだからである。
初代エクレシアで明瞭な聖霊の賜物による発言に当たり外れがあったろうか。

『神は霊を量り分けして(吝嗇には)与えない』と明言している以上、聖霊を受けた者が不確かで、あるときには託宣の通りに、またあるときには外れたりすることなど考えられないだろう。確かに聖書はそのような著作ではない。(ヨハネ3:34)

むしろ、「神の義」をこそ求め、且つ、聖霊を持たないどんな人にでもなく、神に許にこそ正義や真理などの真正なものが属すと教えるられるべきではないのだろうか?(ローマ8:1)

パウロは『肉なる者が誰も神の前に誇ることのないように』と書いているし、また『キリストへの信仰による義』により『誇ることは信仰の律法によって締め出されている』とも述べている。(コリント第一1:29/ローマ3:27)


だが、予告に成功した者は、それが聖霊の賜物によらないゆえに(例え、聖霊を持つと主張しても)、神の前に己を高めることにならないだろうか?
つまり「自分の考えを教え」「自分について証し」しなければならなくなるが、それはキリストでさえ避けたことである。
そのように自らを高めている証拠として、年代までを信仰箇条に加えてはいないだろうか。
いったいそれは神からのものか?人からのものか?それは偽りの印を見せることにならないものか。


それに加えて、自らを神からのもの(経路)と称えることにおいて、仲介者キリストが自ら臨御する時に、果たして二重の仲介者とする必要があるのだろうか?キリストは『聖霊』を注いで人を『聖なる者』に召し、その人を用いることはあるだろうが、『聖霊』の無い者が自らを神からの者としてよいだろうか?(ローマ8:9)


目に見える人に頼りたいという願いは誰にも共通するものであろうが、キリストの現われる時まで実際に見える人や組織に頼ることはなるほど楽なことである。しかし、他方で「雲に見えないキリストは信頼するに足りぬ」と言うようなことにならないか?
それは一種の恐るべき「仲介者のすり替え」になるであろう。

さて、キリストの臨御(パルーシア)は、誰かに事前に「時を」告示されなければ人類には気付けないものなのだろうか?
むしろ、パルーシアでは、神は聖徒たちを通して、広くはっきりと聖霊の言葉を全世界に対して伝えるのではないだろうか?預言者と使徒たちは終末で為政者と対峙し、聖なる者たちは誰も反駁できないほどの聖霊の発言を行い、それは世界に響き渡って、信仰を表す多くの人々が集まってくることを知らせているのである。(マタイ10:18/ハガイ2:6)そこで主体となって働くのは神の聖霊であってどんな人間によりかかるものではないに違いない。


キリストの臨御が、天下に『東から西へと稲妻の輝きわたる』ようだとされるが、その一方では、予告を聞いた一部の人にだけ臨御が示され、その趣旨に同意する狭い範囲の人のみが「救われる」のであれば、それは「彼は奥の間に居る」と言うに等しいばかりか、「時の予告者」は神の裁きを待たずに自分たちで裁きの「先取り」をすることになり、神と人との仲介者を僭称し、その立場に(聖霊を受けずに)立つという恐るべき危険を冒さないだろうか?


むしろそれは『主人は遅い』と何らかの行動を起こし始めたように見受けられないだろうか?つまり、神からの『聖霊』の降下を待たずに人間の行動を取ってしまったようにである。

それは正に「預言者」を自称したモンタニストの行動であり、彼らが既に古代に行って失敗を見たことである。



◆「神の裁き」を侮らないか?

おおよそ神の裁きの時となるキリストの帰還の時期を事前に知ることに意義があるとすれば、神の裁きに対してあたかも自然災害から逃れるための警報のサイレンを鳴らすようなものであろう。人が自己防衛本能を働かせるのは自然なことではあるが、それを以って「神の裁き」に向き合うことが人にとって適切なのだろうか?

むしろそれは一種の罠、神の裁きを卑しめるものではないだろうか?
旧約の預言書などに年代が直接に語られる場合はあるのだが、キリストの終末預言に関しては「裁き」が関係しており、異なる理由が存在する。⇒「黙示録の四騎士」


人間の抱える「罪」が終末のときに教条的行動をするだけで許される、あるいは外面的条件でキリストの犠牲の贖いが適用される、というなら、イエスの犠牲の適用に勝手な条件が教師によって付けられるのであって、尊い犠牲は一度宗教指導者に私有され、その行動次第で罪の赦しを分け与えると、まるで贖いの程度を行動の基準で決める裁判官のように振る舞おうとされることになってしまい、それでは「神は行動の外見を見ても人の内面を見ない」と言うに等しくはないだろうか?

少し考えれば分かることだが、神の是認を得るということが人間の道徳を保とうとする努力で得られるものだろうか?もし、そうならキリストの犠牲は無償のものではなく、道徳的であるよう努力して一定の基準に達した人のものだということになる。 しかし、これは律法遵守のユダヤ教の発想である。


確かに、ある人たちにとって、神の裁きの以前の安心できる「救いの保証」のようなものがあったら、是非手に入れて置きたいという誘惑は強いかも知れない。
そして、裁きの先にある将来の希望に先走ってしまうかも知れない。
だが、真に聖霊の霊感を持たない誰がそんな保証を請け負えるというのだろう。

そこでは、信じた人々が「神の裁き」に生き残ることを自ら得心してしまうことにおいて危険がないだろうか?その楽観的観測が具体的に煽られ、慢心したうえに最後に崩れるのなら、それは何と大きな損失となることだろう。そうして「裁きの焦点」という、より重要な事を見過ごす危険を態々冒すことになる。⇒「終末の裁き」で何が問われるか

「時」を知り、事前に宗派に属することで酌量を得ようとするのであれば、それは人為的に「裁き」の時を前倒しするようなものであるばかりか、畏怖すべき「裁き」を宗派や組織毎ではなく、人を『ひとりひとり』([アッレローン]マタイ25:32)に対して執行するという、裁く権限を有するキリストへの挑戦とはならないのだろうか?


また、神の裁きの真正さや効果は、マクシミラがしたように人間の側で事前に緊急感を煽る必要があるのだろうか?
もしそうなら、人の宣教努力やその進展具合によって裁きが左右されることになるだろう。果たしてそのように神の重大な事柄を人間の問題に引きおろしても良いものか。

「神の裁き」を恐れない者はあるまい、しかし、その「恐怖」と「敬虔な畏れ」との間には大きな違いがある。
神が自らを「おそれる」ことを望むとしてもそれは「恐怖」であろうか?それは強制的「おそれ」であってサタンの望むものであるに違いない。(ヨハネ第一4:18)

人が「救われる」ために服するというのは本末転倒であり、『神の象り』である人を『神の子』に復させようとする神が、恐怖や生への願望からの主権への服従のようなものを望むだろうか?(ヨハネ1:12)


むしろ人を救うものは明らかに自発的「信仰」であって、怖れからの「従順」ではない、それゆえにも「裁きの日」にキリストは不可視の『雲と共に』来る理由はないのだろうか?


*(贖い代は既にまったく満たされているので、「救い」は、服従や犠牲の対価ではなく、自発的選択の結果となるべき理由あり)


◆神(聖霊)を「待つ」べきでは

キリストの弟ヤコブは『主の臨御まで忍耐せよ。農夫は大地の貴重な実りを待ち望む・・・あなたがたも忍耐し、自らの心を堅くたてよ』と述べているが、「神を待つ」ということは少しも消極的なことではなく、神の意志や決定を人のレベルに引き下ろすことをせず、「時」を自在に用いる権限を神に保ち尊重することであり、神を高めることである。(ヤコブ5:7)


信仰のうちに「神の時を待ち、忍耐を続けること」に対して、「神の時を人が予告する」ことを倫理的また霊的な価値を以って評価したり感心して眺めたりするのはとても難しい。そこで予告者が人々に善意を抱いていたにしても神に対してはどうなのか。

それは、神の全能性を無機質な時間厳守に置き換えることであり、創造神という豊かな想念と愛情の高度な表出を為しつつ裁くところの人格神の側からの人類への観点を明らかに欠いている

この種の「信仰」は、予告された事態が起こらなかったことがはっきりした後の方が勢力を増す傾向にあるとも言われる。その原因は、「預言が外れた」ことを創唱者も信者も認めたくないからであろう。自分の堅く信じて来た事が間違いであったと認めることにはよほどに大きな勇気を要するに違いない。
そこで、それまでの「信仰」に頑なにしがみ付き、何等かの言い訳を考え出そうと躍起になり、神意を探ろうとする姿勢はますます失われてゆく。
信者にして見れば、その方が誤りを認めるよりも遥かに楽なのである。

単なる時間の厳守者を裁き主たる神の相貌とするなら、その神ははたして意識の無い時計ではないのか?
それを信奉する者も時計の奴隷のようになってしまわないものだろうか。
むしろ、神はこの世を裁くゆえにこそ裁きが公平であるために、時を自らの手中に納めているのであろう。
したがって、時の予告は失敗し、あるいは予告された時に関わらず歴史は変わりなく流れてゆくに違いない。⇒ 「黙示録の四騎士」


加えて、使徒ヨハネは『神は世を愛してそのひとり子を与え』たと記したが、時を信じようとする人々の関心ある利益の主体は、神の意志たる人類の将来の贖罪なのか、あるいは自分と身近な人々の永生や安泰なのだろうか?


つまり、人間から罪の障碍が除かれて、人類が神の子の立場に復すことを喜ぶのか、あるいは今以上の良い生活ができるようになることを望んでいるのか?
倫理是正の神の意志か?それとも人の願望か?

パウロは言う。
『創造物は切なる期待を抱いて「神の子ら」の現れを待ち望んでいる』。

『それは、創造物自身が朽ちるという隷属から解かれ、神の子の栄光ある自由に至る希望からである』。(ローマ8:19・21)


このパウロの言葉に照らして、我々の待つべきは「年代」や「期間」ではなく、「神の子ら」「聖徒」、つまり聖霊の降下によって明らかに神の認知を受け、先立って贖罪される人々の到来であり、まさに、この聖霊を持つ人々こそ人類とパルーシアの主とを結ぶ絆となろう。

聖書の語る通り、間違いなくキリストに倣い人類のための犠牲となって命を差し出す人々だからである。
キリストと結ばれる者は聖霊という絆を得ていると使徒ヨハネは言う。(ヨハネ第一3:24)
聖霊の印なく、自分に神の是認があると言えば、それはこの上ない詐称であり聖霊を冒涜するものではないだろうか。

西暦第一世紀に、神の是認がユダヤ律法体制からメシアに移ったことを聖霊の賜物が証したのであれば、偽キリストの到来を再三警告されている「終わりの日」にこそ、なおのこと強い証しが求められるに違いなく、神がその必要に答えない理由が何かあろうか。

預言者たちの「回復の預言」の大きな成就のときに、神が霊の証しをせずにいるものだろうか。(ミカ7:15-16/イザヤ51:9)
むしろ『天地を激動させる』とは言っていないだろうか。その時に神にとって望ましい者らが神殿に入ってくると記されているが、いまだ世界はその激動を経験したとは言い難く、その預言はなお将来を指し示しているというべきであろう。(ハガイ2:7/ヘブル12:25)


このように、聖霊を持つ「聖徒」以外の人間に従うという時の迷路に再び踏み込まぬための反面教師としてモンタニズムには大いに学ぶべきところがあるだろう。


そして「時の予告者」は古代から今に至るまで誰ひとり成功しなかったように、これからも成功できず失敗と訂正を重ねるであろう。

その理由は難しいことではなく、『あなたがたはけっしてその(再来の*)時を知らない』というキリストが繰り返した言葉と、そこに含まれた神の企図に対し、彼らは今後もずっと抗ってゆかねばならないからである。

(マタイ24:50・25:13/マルコ13:35/ルカ12:39-40)*(聖徒の裁きがあることからすれば、これはパルーシアよりもエピファネイアを指している)



                  林 義平


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*マクシミラの死(179)から13年を経て、モンタニズムは「キリスト教の完成」を見た小アジア地方にも押しよせた。ヒエラポリス市は頑強に抵抗したが、中心都市エフェソスを揺るがし、同じく使徒ヨハネに由来したほどのスミュルナ市であってもエクレシアごと改宗してしまったという。


「子も知らず、天の使いたちも知らない」神だけが知る「時」 ⇒ 「黙示録の四騎士」


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