ユダヤ教に発する三大一神教には、それぞれの裾野に至るまで共通している強い傾向がある。 それが「選ばれた正しい者が救いを得る」という根本的な正義意識である。
だが、聖書を貫く教えは、神の選民にして「イスラエル」と称する者らの目的には人類の祝福となることにあり、それはエデンの園で神が宣言した『蛇』である悪魔を最終的に亡き者とするところの『女の裔』と呼ばれた何者かの役割にも暗示されている。
即ち、アダムという男の血統ではない、処女から誕生した『罪』なきキリストの犠牲の益に最初に与るとされる『信仰のイスラエル』『人類の初穂』、聖霊注がれた『聖なる者ら』の民が、キリストと共に人類のための祭司また支配者となって人々から『罪』を除き、神へと導くというところにある。
その『女の裔』はアブラハムの血統から来ることがイサク献供を通して確約され、その裔はイスラエル国民と成り、律法の秩序の下に置かれ『祭司の王国、聖なる国民』とされる目的を荷った。そのため今日のユダヤ教徒に彼らの目的を訊けば、「諸国民の光となることだ」との答えがかえって来る通りである。彼らが神の選民であることには自分たちの救いを超えた、人類を益するという根本的な神の目的が込められていたのである。だが、ユダヤ教もいつしか自分たちに古来約束された利益や特権を振りかざし、周囲の諸国民からすれば鼻持ちならない存在と化してしまっている。
だが、本来の神の選民である『聖なる者ら』は神の用いる器であり、やはりその目的は人類全体を神の創造物としての栄光ある姿に回復することにあり、それは律法契約から『新しい契約』へとキリストを通して前進し、『律法を成就』したキリストの『完全にされた義』を嚆矢として、それに与る選民が聖霊の降下を通して史上初めて生み出されたのであった。それが血統を超える『神のイスラエル』の現れの初めであったのだ。(ヘブライ2:10-11/ガラテア6:16)
だが、今日のキリスト教界といえば、そのような神の選民としての真のイスラエルの働きを度外視し、聖書に記された格別な者らへの言葉を自分に向けて語られていると思い込むところで、その選民の利他的で自己犠牲的な働きと目的を考えず、ただ自分たちが祝福され、天でキリストと共になるという自分の祝福を妄想し、神の善意が自分たちに向けられていると思い込んでいるのである。
もちろん、そのような妄想が懐かせる精神は、本来のキリスト教が伝えるものとは異なってしまう。大まかにそれを言い表せば、特定の教えに信仰を懐いている者、また何等かの規準に達している者が、「神に救われる選ばれた者」という概念であり、教団なり宗派なりは、本来は『聖なる者ら』に与えられる祝福を信者だけの特権として教勢拡大の原動力とし、信者を得た分だけ「人を救う」ことになるとの大義名分を持つことにもなっていよう。
更には、教師自らは特に宣教に邁進するでもなく、ただ興味や関心を持って近付いてきた人を信者に仕立てては、あなたは救われるべくして神に選ばれる特別な運命にあったなどと請合う始末である。
この信仰のモデルは大洪水を通過できたノアや、ソドムとゴモラの劫火を逃れたロト、加えれば、イエスの警告に従いユダとエルサレムからその滅亡を山地に逃れたイエス派の信者も挙げられる。いずれも、神は僅かな義なる者を選んで救うが、そうでない多くの者らには処罰の滅びをもたらすという共通の差別的宗教ヴィジョンを持っている。
それであるから、「救われたくば神の狭い是認の内に入れ」が信仰の基本となり、保身目的に経典から道徳律が拾い集められ、言動が規準に縛られることで義人の認定を受けられるという方向に容易に進んでゆく。異なるところと言えば、幾らか違う経典や解釈への拘りであったり、帰依する団体や宗派が違ったりするくらいのものである。ほとんどの一神教でこの点は変わりがなく、それぞれ異なる「正しい救い」を求めてひとつの集団からより確実な救いを目指しては異議を唱える者が次々に現れ、ますます分派が進んでゆく。もちろん、自分の正しさによって神を宥め、周囲と自分を異ならせて救われようとする優越感や特権意識はけっして褒められたものでない。
言うまでもなく、自分たちに唯一の正義を唱えるところから排他傾向は避け得なくなり、自分たちの宗派や集団に属さない他の人々の境遇は憐れむべきものであるとする以外になくなり、部外者に残る希望は唯一、自分たちの仲間の信者になるというだけのことになる。それこそは「傲慢」の責めを免れるものではないし、自分は特別だという単なる思い込みなのだが、実際、宗教の名のもとに当たり前のように横行しているのである。
そうして信者となるに及べば、その人は神ではなく、是認の可否を勝手に判定する教導者の奴隷とされてゆくのであり、それは「神の前の義」とは程遠い『人間の教え』に過ぎないのだが、信者本人からは大層有難いものになっている。(マタイ15:9)
その独善的な捉え方でゆくと、自派の絶対性が要請されるために、人種差別のように人々を信仰の有無で分け隔てることが避けられなくなってくる。つまりは、自己義認の 妄想に陥り、人を現実に沿った評価はしないのである。不信者は地獄行きや滅ぶものだとするこれは、人種差別に勝って侮蔑的であるから、そのような「信仰」なぞ無い方が余程その人の為である。
それに加え、信仰に在るか否かが「救い」また「命」の分かれ目であると思い込む以上、信者が自分に親しい人に対して信仰を強要する誘惑は非常に強いものと成らざるを得ない。
だが、これは人間関係を歪め、何が良い事かの評価を誤り、価値観を誤導するものであることは避けられない。 『入ろうと願いながら、入れない者は多い』とも、『わたしたちがかろうじて救われるのであれば、反抗的な者らはいったいどうなるだろうか』などの言葉は確かに新約聖書のものではある。しかし、それが語られている対象は誰であったかと言えば、契約にあるべきユダヤ人であり、彼らは古い契約から『新しい契約』にキリストを介して与る立場にいたのであり、それに準じる異邦人らが『接木』として応急的に加えられたにせよ、それは『神のイスラエル』という格別な民、人類を祝福する『聖なる民』を召し出すための厳しさであったのであり、たとえ信者と雖も普通一般の人の出る幕ではない。その聖なる定めを救済されるべき人類一般に要求してしまうなら、皆が行いによってキリストの義に到達することになってしまい、キリストの犠牲も千年王国の贖罪も意味がなくなり、しかも、その自己義認がもたらすものと言えば、不相応な優越感と劣等感のアンバランスにしかならない。
これは当然に人の精神を歪めるものとなる。 現に、自己義認の強い宗派に於いて「二世問題」という圧制が生じており、ひどいものでは、幼少期から子供を叩いて矯正すれば信仰から離れないと教えてきた宗派があり、長じては精神疾患を負う結果を見ている。 実質的に、こうする「益」と言えば、教導者による信者の獲得と囲い込みにしかなっていない。真実には個人の選択を奪い、個人を尊重もせずにおいてそれが「信仰」だと嘯いているからである。むしろ、それは奴隷化というものではないか。
また、「選ばれた者が救いを得る」という観点は、神は人間に一定の行動基準を設けているという教理に救いの実感を求めて容易に誘導されてしまう。 確かに旧約聖書の律法の概念はそれに近いのだが、律法とは、生まれながら掟の下にあったイスラエル民族が、メシアによる達成を待ち、その民を備えるためのものであった。 キリストが『わたしは律法を成し遂げるために来た』と言われるのも、パウロが『キリストは律法の終り』と説くのも同じく、だだ一人キリストのみが律法を尽く守ってその『義』の規準に到達した事を意味しているのである。したがって、終末での救いの要諦はそのキリストによる『罪』の赦しへの信仰に懸っているのであり、人の言動の道徳性だと言えば、それは大いに間違っていて、却って危うい観方なのである。(マタイ5:17/ローマ10:4)
聖書を見直せば『新しい契約』についても、メシアによる律法の成就によって、聖霊を通し『義』を分与される『聖なる者ら』について、その『完全』な義の分与により『神の子』としての身分を仮承認された状態に入らせるものである。それでも依然としてアダムの罪に在りながら神の是認に応分の道徳性を守る必要があり、且つ、それが『新しい契約』を全うして、天界への召きに預からせる規準であった。 やはり「契約」とは常に不確定な事柄について用いられるものである。(ヘブライ2:10-11)
しかし、ほとんどのキリスト教宗派では、「救い」を信者に請け負ってしまったところから本来のキリストの教えから大いに逸脱し、真意では『契約』に属する『聖なる者ら』への規準を、奇跡の聖霊を持つわけもないただの信者に当てはめさせることで「救い」の実感を味あわせるという欺瞞に陥っているではないか。
その結果となれば、決めつけによる人間差別であり、信者に傲慢さを助長するという以外にない。 その行いも、人にも神にも「見せるもの」と化しており、誰も逃れるわけもない「アダムの罪」を、信者が道徳的な業に努めれば赦されるものと自己欺瞞的に誤認させている。これはヨブが多大な犠牲を払って後に悟り、悔い改めたところであるにも関わらず、その教訓を得ないばかりか、モーセの律法の意義をさえ捉え損なっている。即ち、メシアが律法とどう関わったかの理解が不足しているのである。それではますますメシアの犠牲は何のためだったのかが謎となる。 ⇒ヨブ記の結論
こうした教理を教える側も信じる側も、共に自己救済に関心が強すぎて神の意図をなおざりにしていると言うべきであろう。 キリスト教の神髄である赦しやアガペーは色あせ、利己主義という正反対の精神を教え、また信じさせていることに気付いているようには見えないからである。 教えを乞う信者たちを排他性の檻に囲い込んで悦に入っているような「キリスト教の教師」は、果たして何を以ってキリストの精神としているのだろうか。 それが、宗派と自分の立場のための「キリスト教」であれば、それは自己愛の満足を味わうためのものであり本末転倒ではないか。
しかし、キリスト教の神髄とは広く知られた以下の句に明らかである。
『神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである』。(ヨハネ3:16)
『信じる者がひとりも滅びない』ことが神意であることが示されると共に、このニコデモスに語られた言葉の中で、メシア自らが、モーセが荒野で掲げた蛇のように磔刑に処せられることを暗示されている。これらはイエスの語られた同じ文脈にあり、やはり無関係と捉えることには無理がある。
これは、モーセの日に逆らった者でさえ、蛇の毒が体内に巡りつつあった状態であっても、ただ掲げられた蛇を仰ぎ見ることで生き長らえる手立てを得られたのである。(民数2:4-9)
同様に、この世の終わりに臨んで、聖霊の言葉を語った聖徒らに逆らっていた者らですらも、人類に裁きを執行する最終的な『死の災厄』の中からでも、キリストの犠牲に信仰をおき始める者でさえ、なお希望をつなげることを示唆するものであろう。(黙示6:7-8)
この荒野の蛇の毒の解消は、もちろんキリストの勝利を含んでのことに違いなく、パウロの発言はキリストの死が敗北ではなかったこと、人々に幸いをもたらす大勝利であったことを明らかにしている。
『それは死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって生涯に奴隷となっていた者たちを解き放つためである』。(ヘブライ2:14-15)
たとえ一時は神に逆らった「罪ある人々」にも示される寛容さは、キリスト自身の言葉『人には、その犯すあらゆる罪も、神を汚す言葉も赦される』また『敵を愛し、迫害する者のために祈れ』に明らかであり、実際イエスご自身を磔刑に処している兵士らについて『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』と祈って執り成しをされている。(マタイ12:31・5:44/ルカ23:34)
その結果、キリストの処刑を担当したローマの百卒長は、当日の一連の事柄の経験の上で『この人は、確かに神の子であった』と認めるに至り、イエスの傍らの強盗も信仰を言い表してバプテスマも無しにその恩寵に与っている。彼らの信仰はユダヤの独善的な宗教家らに勝っていた、というより、真実の信仰に達したのは彼らが蔑んでいた異邦人や罪人の方であったのだ。
このイエスの迫害する者への寛容の精神は、弟子の中からの最初の殉教者として描かれるステファノスに受け継がれており、彼を石打にしている頑迷な律法主義者らについて『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』と叫んで死の眠りにつくことになった。
その場に居てこの処刑を手伝っていたパリサイ人の一人が居て、その後も苛烈な迫害者となったのだが、その人物は誰あろう、後の使徒パウロなのである。それをステファノスは知るよしもなく最期にその罪の執り成しを祈りつつ亡くなっていたのである。(使徒7:56-8:3)
敵をも愛するというこの精神は、終末に聖なる者らが迫害に倒れるときにも表されるであろう。
即ち、聖徒らに横暴な反対行動や迫害に行って後にも、苛烈な迫害者でさえ、なお信仰を抱いて救いに入る機会は残されるということを指し示しているのではないか。(ルカ6:27)
こう言える理由は、黙示録にも存在する。
その11章は、重大な裁定に関わる意味での『二人の証人』で表される聖徒らの活動と迫害とが描かれているが、そうして地上での活動を終えた彼らは忠節の全うにより、天界に召され、そこで『神の王国の奥義』が完成することになる。
だが、聖徒らに横暴を行った者であったとしても、なお悔いと信仰への扉は開かれていることを黙示録はこう示唆するのである。
『聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。』(11:2)
神殿聖所の外の中庭とは、異邦人の入ることの許された領域であったが、彼らはそこを『踏み躙る』という。そして、その中庭は『測られなかった』のだが、その一方で『聖所、及び祭壇とそこで崇拝する者らを測れ』とヨハネは命じられている。
これは即ち、聖なる者らがキリストと共になり、天界の『神殿』を構成する以上は、その石材として正確に測られなくてはならない。つまり『新しい契約』に則り、その生涯をキリストの兄弟として相応しく終えているべきである。
だが、象徴的な神殿境内の『中庭』が『与えられ』最終的には蹂躙を悔い、神を崇めるようになってそこに立つであろう異邦人にはそのように高い倫理性の規準は課せられない。なぜなら、この世にキリスト教徒でもなく、聖書も知らず、むしろ異教や無神論に属している無数の人々に聖徒の規準を要求することそのものがまったく不合理だからであり、この人々には聖なる民を虐げたことでさえ赦されることが示唆されていると観ることができる。
それはダニエルが語るところとも整合するからである。
即ち、「第四の獣の後から生え出た角」が『いと高き者の聖徒を悩ま』して『ひと時と、ふた時と、半時の間、その手にわたされる』と言うように、黙示録の言う『四十二か月の間この聖なる都を踏みにじる』というのも、象徴的シオン山上の聖都の民が、聖霊を注がれて現れてからずっと迫害を加えている姿を共に描き出しているからである。その決定的迫害者らをすら受け容れることを黙示録が示しており、しかも、それこそがキリストに真に従う者らの「偉大なる寛容さ」、まさしく自己犠牲なのである。(ダニエル7:24-25)
キリストが犠牲となられたのも、同様にキリストの共同相続の権利を持つ聖なる者らが迫害に倒れるのも、その身のためである以上に広く世の人々のためであるからである。そして、彼らは敵のためにも祈ることであろう。
それこそが『御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため』という有名な句の真意ではないか。
それゆえ、キリスト教とは信者だけの救いを請け負う「内向き」で利己的なものであろうはずがない。
それは終末の終り、その終局に至るまでも広く人々の悔いを待つものであるに違いない。
世に多種多様な思想信条があるにせよ、それぞれの賛同者には人間に普遍的な良心的動機が有ってのことに違いなく、その内奥の人の良し悪しもそれぞれである。
それを、一つのドグマを持つかどうかで善悪を判断したときに、それは野蛮な裁定となってきた。それが思想に基づく粛清であったり、宗教差別や闘争となり、果ては民族浄化ともなって歴史に刻まれただけでなく、今日も一向に止んでいないことは世相に見えている。
また今日でも、無神論を標榜し、宗教を弾圧する国家、また国々でそれぞれに異なる宗教を国民に規定している地域も狭くはない。それらの無数の人々はキリスト教に無縁で、却って避けてさえいることであろう。
では、その人々は『ひとりも滅びない』という神意の外にあるのだろうか。
そう思う「クリスチャン」は少なくもないらしい。
不信仰者が「地獄」に行くものとの教えに納得しているのであれば、それは却って有毒な誤謬ではないか。それは誰にとっても有用な意義がない。
同じ信仰にないからと言って、それだけで地獄行きであるなら、反論したり迫害などしている者への処置はどれほどのものになるだろうか。だが、キリストは『人の子をあしざまに言う者が誰であっても赦される』と明言しているではないか。(マタイ12:32)
実際、一神教では異なる信仰の人々を敵として常に敵視し争って来なかったろうか。
しかも、同じ宗教同士での諍いが、他方の異端を主張して一層激烈ではなかったろうか。
教義上の問題で争い、政治や利害や人種を含めて闘争し、ヤコブが言うような我欲の衝突を止めることはなかった。今日では直接的な暴力の行使は禁じられているものの、他宗派への敵視など、一神教の闘争性は嫌悪と偏見の中に燻っているように見受けられる。
また、教会によっては「終末」という概念さえ異端視するのも、裁きを避ける保身意識からではないのだろうか。それで『ご意志が地に行き渡るように』と祈っているのなら、それは大いなる矛盾ではないか。偽善ではないか。
終末とは、聖書の全巻が焦点を合わせる救いの時であり、それに恐れを抱くのは、自分の倫理性に危うさを感じればこそのことであろう。そこでほとんどの一神教徒らは「従順さの義」を持ち出しては神を宥めて自分だけは救われようとしているのである。
しかし『我は悪人の死を喜ばず』と言われ、人を『自らの象り』に創られた神が人に望むことが、その言葉への厳密な従順だろうか。多くの一神教徒は「神が望む人の生き方」を唱えて、自らの生活を規準で縛ることで「神の是認」を得ようとしているのだが、それではその人の人格が形ばかりの善に押しつぶされ、自ら機械のような存在になることを目指すことになってしまい、そのような自己棄損を神の意志だと言っていることになる。
しかも、アダムの罪は一向その人から去っていないにも関わらずのことであるから、そこに欺瞞があり、またキリストの犠牲の価値を見失ってもいるし、実質的に、神を好き嫌いの激しい偏狭者だとも言っている。
それぞれに自分たちの正しさを唱える宗派は、異なる教理を唱える別の派を「間違っていて危険だ」と言うのであれば、それは実は利己心に発する主張であり、人々を分断して敵意を募らせることでは、その「正しさ」こそが危険ではないか。一神教に特徴的な宗派の争いは、その自分たちの正当性を絶対視して、他を蔑視するところに発してはいないものか。それは少しも「正しい宗教」とは言い難く、「諸悪の根源」と言う方が似合う。
片や、それは自己保身の動機から神を恐怖する余りに、神とは強圧的で気に入らない者を抹殺する圧制者であるとしてしまい、強大な主権者の神が人に望むのは服従であって、その人がどのような内面を持っているかではないと主張することでもある。
やはり、『我は悪人の死を喜ばず、悔いて生きることを望む』と言う神を頂くキリスト教とはそのようなものであるわけもない。
神がアダムをどう処遇していたかにそれは現れている。そこに強圧的主権者など存在しなかった。崇拝行為や儀礼ばかりか、エデンでは祈りの必要さえなかったのである。
それであるから、自分がどのような人であるか、これに正面から向き合い、キリストからの感化を望むのがキリスト教ではないか。
もし、そうでなくて、本当に神が圧制者であるなら、初めから神が人に信仰を求める理由が無い。
キリスト教徒が人間の指導者の言いなりに、何等かの規則に従うだけの奴隷となる理由などは無い。『信仰』とは自由な選択から起こされるものであり、神との関係性は、命欲しさの恐怖の呪縛に捕われるようなものでも、安直な救いの獲得の射幸心にも無いのである。
詰まる所、キリスト教界が利己心を煽られてきた原因には、『アダムの罪人』らしく自分だけは救われようとの動機が働くところに働き、その利得を請け合う宗派が正しい事を願って自分は倫理的欠陥を抱えていながら「何が正しいか」を問う姿勢からきたものであろう。
そこで「何が価値あることか」は問うこと無しに、『愛』という最善の価値あるものを見出さなかった。そのキリスト教は愛ではなく人には存在するわけもない架空の正義を追い求めてきたのである。
だがキリストは、その予告の通りに終末には世の裁きに戻られ、ご自身の王国を建てられる。
ダニエルの『一週の間、契約を固く守る』と記され、終末に残された『新しい契約』をなお締結する残された1260日、42ヶ月、三年半を忠節の内に過ごす『聖なる者ら』の現れは、到底そのような恐れと呪縛の「キリスト教」から現れることはないであろう。
キリスト教の「終末」とは、聖徒が精錬を受けると当時に、膨大な数の諸国民の救いの機会なろう。キリスト教とはそのようなものではないだろうか。
その人々が流れのようにシオンの山を目指すとき、それは「現状のキリスト教徒」の想像を遥かに超えた預言の成就とならないものだろうか。
それゆえにもダニエルの『北の王』は終末の途中で消滅しなければ、その支配下の人々に救いの道は拓かれないのではないだろうか。(ダニエル11:45)
やはり残虐な北の王国であったアッシリアから預言者ヨナが学んだ事はいったい何であったろうか?ヨナは自分の義の規準から、明らかにニネヴェの民を嫌い、滅ぼされることを望んでいた。確かに、その北の国アッシリアは残虐さで知られる帝国ではあったが、神の言葉への悔いは早かった。そこで神は預言者ヨナを諭したのであり、ヨナ書の教訓は明らかに「預言者への預言」であったのだ。(ミカ5:5)
そして終末では、許多の宗教組織への糾弾も起こされるに違いない。それが即ち「大いなるバビロンの滅び」である。それがシオン攻撃の直前に奇襲として起こされるのであれば、なお、短時間に億を単位のそれぞれの信仰者の思いの転換が見込まれることであろう。神は『わたしの民よ・・あの女から出よ』と言われる。その『わたしの民』とは「正しい信者」のことだろうか?そうではない。その時に間違いに気付く人々について神は予め『わたしの民』と呼びかけているのである。
荒野の蛇がその人々を癒すように観えないだろうか?
この世の崩壊する『大患難』に在ってさえ、キリストの犠牲に信仰を働かせるのであれば、やはり信じる者と言えるであろう。同じ人間なのである。
そうであるのに、自分は「救いに価するクリスチャン」などと取澄まして思うべきだろうか。いや、それは恥ずべきことで、少しもキリスト教でない。キリスト教徒でなくても優れた資質を持ち、また示すことのできる人々は何と多いことであろうか!
そこでキリスト教とは、「救い」を外へ外へと押し広げることに於いて利他的であり、その点に於いてこそ、他のどのような宗教や思想であれ、けっして追随を許さないほどのアガペーの高みに登ることであろう。
思想信条の異なる人々との境界に於いてさえ、キリスト教は間口を広く出来、「宗教団体の信者」ではなく「信じる人々」をひとりも漏らさずに救うこと、これが神意に違いない。
©2020 新十四日派 林 義平