quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

終末理解

ヨエル書の蝗害の意味を黙示録は語る



ヨエル書の蝗害について終末での対型を告げる黙示録


あらゆる食物を国から奪ってしまうという蝗害というものを、ヨエルの預言を別にしてイスラエル民族は実際に経験していたに違いない。だからこそ、その被害の酷さを例えとしてヨエルの預言が成り立っているのであろう。
しかし、ヨエルの蝗害では、その害を償う神の善意が語られており、ここでは記述に書かれた蝗害とその後の豊作が有ったという以上に、この預言には象徴的意味が含まれていることが明らかに読み取れる。

やはり、このヨエル書に預言されたイスラエルの大地からあらゆる緑を食い尽くす無数の虫の害とその償いについては、メシア帰天後の使徒ペテロがあのペンテコステの日に起った聖霊降下にこの預言の成就を指摘しているのであり、バプテストのヨハネが『聖霊のバプテスマ』を予告した事と共にその意義は実に大きい。聖霊の注ぎは真の『アブラハムの裔』を歴史上初めて登場させたからである。 しかもそれまでおそらく七世紀にも亘ってこの「蝗害」の意味が謎のままであったことになる。旧約聖書の言葉はこのように新約聖書の説き明かしを必要としていたのであり、依然としてナザレのイエスをメシアとして認めず、当然ながら新約聖書を読まないユダヤ教主流派は、このヨエルのような預言から何を学ぶだろうか。まだ来ていない彼らのメシアによって説き明かされるのを待ち続けるつもりなのではあろう。

だが使徒時代での成就は預言の与え主である神の意志の悠久の歩みを物語り、さらに、ほかの預言共々に二重の成就を迎えることを思うなら、使徒時代から二千年になろうとする現在を更に超えた先にあるべき世の終末にも、なお考慮すべき実現するべき第二の成就もあろう。その旧約預言を紐解き意味を暗示するのがヨハネ黙示録の役割でもある。

さて、この作物を食い尽くす大量の虫の発生と霊の下賜について関連付けて語るヨエルの預言は、その全編が比較的に短いこともあって、この預言書がどの時代に書かれたか、ヨエルとは何者かについての情報は、書中に父親の名ペトエル以外に何も提供されていない。
但し、エホシャファト王の故事が予型として語られているからには、前800年代の前半以降であることは判断でき、また捕囚からの帰還が語られ、神YHWHが捕囚と帰還について予告して述べるイザヤなどの他の預言書と共通の観点も有しているので、それが無いヨナ書ほど古くはないと言える。

しかし、短いながら、その語るところは鮮烈な印象を与えるものであり、その内容は新約聖書の中で何度か引用され、その引用の多くが終末に関わる記述に見られる。ヨエルの語るところの、太陽は闇に、月は血に変わるという表象は福音書から黙示録にまで散らばっている。それに天の星辰も加えて光を失うというイザヤ書と共通する表現や、神の名を唱える者が救われるというヨエルの言葉が聖書の各所に見られることからすれば、ヨエルの預言には聖書的普遍性があると言える。

そして、何と言ってもヨエル書を特徴付けているのは「蝗害」である。
ヨエル書そのものは、蝗ばかりを述べてはおらず、毛虫や羽を持たない蝗とゴキブリまでを総動員して植物がすっかり失われる事態の到来を描いている。ヘブライ語の虫に関する単語はこれほどに多様性があり、この種の昆虫が多かったことが窺える。

しかし、預言にあるこの蝗害を通して悔いるなら、後にその害が償われるばかりか、以前に勝る豊かさを得ることが示されている。そこに神からの預言としての意義がある。

このようにヨエル書と言えば蝗害を連想させるのは、新約聖書での引用によるところが大きく、特に黙示録は終末での事象としてヨエルの預言の表象を再度取り上げて暗示しており、これは黙示の不明性の中に在っても強く関連を示唆しているので、単語や文法の正確性に拘るなら何も収穫を得ないながら、象徴的に捉えつつ読むなら、これは俗的な意味でなく霊的な意味に於いて、世界を覆うたいへんな事態の発生を予告するものと言えるのである。

だが、その終末の事象について考慮する前に、このヨエルの蝗害が象徴的に小規模ながら、かつてユダヤで一度成就していた使徒時代を観ておくべき理由がある。
なぜなら、悠久の歩みを続ける神にあってその預言は、一度の成就に留まらず、それを模式として人が知るべき二度目の成就を予め証しするのであり、今から二千年前に一度成就した事柄は、次なる終末の偉大な成就の先駆けとなり、人はそこで起こるべきことを予見し得るのであり、今なお重い意味を保ち続けている。
即ち、かつてイエス直後に起った小規模な第一義的成就は、我々の後の終末に起るべき、より大規模な蝗害の有り様を想定するよう促すものだからである。



◆ユダヤ律法体制への糾弾
メシアの現れは当時のユダヤの体制を揺さぶることになったのだが、当のユダヤ人の大半はそれに気付くでもなく、「魔術を行って民を惑わす」ナザレのイエスという騙り者を除外することで、自分たち正しく行動したと思うのであった。しかし、それは後に彼らの心に刺すような痛みをもたらすことになる。

それでも、ユダヤ教のラビたちはマラキの預言にあるメシアの到来の予告ではユダヤ人にとってその現れが必ずしも目出度いものとはならないことが明かされ、事前に恐れていたことが安息日に関わるミシュナーに見える。(マラキ3:2-3)
加えて、バプテストのヨハネの警告があった。だが、その言葉はユダヤ教指導層からは無視された、と云うよりは、ヨハネの方から『蝮の裔よ』と呼ばれてしまい、悔い改めの浸礼を受けようにも拒絶されていたのであった。(ルカ7:30)

そのヨハネは『斧はすでに木の根元に置かれている』とも『わたしの後に来られる方は、あなたがたに聖霊と火とでバプテスマを施すだろう』また『小麦は蔵へ、籾殻は消すことのできない火で焼き払う』と、それまで永く営まれてきたモーセの律法体制が二つに裁かれることの警告の言葉を重ねていたのであった。(マタイ3:7-12)

そしてメシアは彼らにとってやはり『躓きの石となり』、『その石の上に落ちるものは微塵に砕かれる』というその言葉通りにメシアに対して振る舞ったのであった。
その原因と云えば、律法に従いながらその意味するところを悟らず、神の奇跡を見ながらも不信仰であり、利己心に固執したからであった。(ルカ17:18)

彼らは、ナザレ人イエスを通して自分たちとその体制が審判されていることを悟らず、却ってメシアを処刑に追い込むことによって『思いのままにあしらった』のである。(使徒2:23)
しかし、神はメシアを復活させ、行われていた奇跡の業はその弟子たちに聖霊を介して移譲されるのであった。イエスの去った後のペンテコステの朝に、聖霊によって異言を口々にする弟子たちの異例な姿について、使徒ペテロは集まったディアスポラの民を主にする群衆に向かって、ヨエルの預言を引用し、これがその成就であると宣言する。(使徒2:1-20)

『その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る』ペテロの指摘した霊の注ぎが、このように予告されていたことであり、メシアの死と復活をきっかけにそれが成就したのであった。(ヨエル2:28)

それであるから、使徒ペテロの影にさえ触れた病人までが癒され、ユダヤ体制派は十二使徒を中心にしたメシアの業を継続する弟子たちと対峙しなければならなくなってゆく。それはイエス自身が『わたしに信仰をおく者はわたしの業を行うことになる。しかも、より大きな業を行う』と予め語られていた通りであった。(ヨハネ14:12)
それに加えて「ナザレ派」と呼ばれるようになったイエスの弟子たちは、神との契約にあるはずのユダヤ人がメシアを殺害してしまったと言い広め、それは広くユダヤ人たちの心に刺すような痛みを与えずには済まなかった。(使徒2:37)

弟子らには、聖霊による奇跡の業が伴い、癒された病人たちが共に居ることに体制派を構成する宗教家らは自分たちを正当化することに困難を覚える。また、宗教の専門家でもない使徒たちの堂々たる発言には実力行使する以外に対処もできず、使徒らを鞭打ち、或いは牢に拘束するのだが、何の効果もなく使徒らを止めることは出来なかった。むしろ、聖霊注がれるナザレ派は人数を日に日に増して行く。それは恰も蝗の来襲のようであり、壁を乗り越え導かれたかのように家々の上にまで整然と進んでいったというヨエルの描写さながらであろう。(使徒4:29-30/ヨエル2:6-9)

むしろ使徒たちは彼らを責め立て『わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪の赦しを与えるために、このイエスを導き手とし、また救い主としてご自身の右に上げられた。』とその罪を暴き、『わたしたちはこれらの事の証人であり、神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまたそうなのだ』と、その動かし難い事実につき、神の霊の後ろ盾を得て証しまで加えている。

使徒らがこうも大胆に真相を語るので『これを聞いた者たちは激しく怒り立ち、使徒たちも殺してしまいたいと思った』と使徒言行録は記録している。(使徒5:30-33)
このように心を刺された彼らの苛立ちは、後にステファノスへの石打によって暴発することになる。だが、それこそはメシア殺害の上塗りであり、彼らの立場は神の御前に絶望的になるばかりであった。

そのうえ、エルサレムの民や下位の祭司らも、神殿祭祀に熱心なナザレ派に好感を懐き始め、あの奇跡を行う人イエスこそがメシアであったのではないかという意識が広まってゆく中で、イエスを退けることで主導的に振る舞った祭司長派、律法学者とパリサイ派などは、神の前の立場が急激に悪化したことを内心で感じ取ったに違いないが、その内心の責めへの慄きをナザレ派への怒りと敵意に置き換えるよりほかになかったのであろう。

この情況を念頭に、ヨエルの蝗害を読むならそこに隠されていた光景が見えて来る。
鍵となる言葉は『聖霊の注ぎ』であり、メシアの死と復活を通して聖霊が注がれ、そこに新たな民が忽然と現れ出たきっかけをその霊の注ぎがつくっていたのである。
ヨエルはこの民を『上って来る強力な民で数知れず、ライオンの歯と顎骨を持つ』と描写する。その口から出る言葉が強烈であることを指すのであろう。
ライオンの咬む力が五百キロにもなるというからには、その顎と歯を持つ蝗の害はどれほどのものであろう。その民は『木々を切り株』としてしまい、恐るべき損害をイスラエルにもたらすという。(ヨエル1:6-12)

それはユダヤ体制の服喪のようである。
メシアを退けたことによって最終審判を下されたユダヤ律法体制を糾弾する民の現れであり、イスラエルが営々と積み重ねてきた宗教文化遺産が尽く神の是認を失い、彼らが守ったはずのモーセの律法そのものからさえも裁きを言い渡される事態の発生であった。

ヨエルはこの事態を一切の収穫物のない光景、牧草地も損なわれ家畜も野生の獣も空腹の苦しみに喘ぐというイスラエルの土地全体に及ぶ災厄として語り、『このような事がかつて有ったか』と問う。

その昔、確かにモーセが語って「後に現れる偉大な預言者」に聴き従わない者には『言い開きを求めることになる』と明言していたのであり、その約束のメシアを殺害することにより、その当時のユダヤ体制派はまったくその警告の言葉をその通りに踏んでしまった。(申命記18:18)

ナザレ人イエスが去った後、あのペンテコステの日から聖霊を注がれた者らの現れは、メシアを除き去ったユダヤ体制派を糾弾する民の出現でもあった。それはモーセの日以来、いや歴史上存在したことのない者らの登場であった。
なぜなら、彼らはメシア=キリストがその死に至るまで示した完全な義を、『新しい契約』によって分与された『有罪告知の無い』者たちであり、このような『義なる者』はアダムの子孫からそれまで一度も現れたことがない。(ローマ8:1)

それまでユダヤに有った神との契約による是認、神殿祭祀や会堂で培ってきた多くの宗教文化、多様な習慣や口頭伝承の数々、これらはメシア殺害によってすべてが色褪せ、今や無意味となってしまった。それをヨエルの預言は、緑なす大地をまったく荒廃させてしまう蝗害の突然の襲来に準えていたことが、ここに神の意向として見える。
バプテストが警告していたように、今やユダヤ体制は『籾殻』となり『消すことのできない火で焼かれる』のを待つばかりとなっていた。それが即ち、37年後の西暦70年に到来することになるユダヤ体制とエルサレムのローマ軍による徹底的な滅びである。

しかし、その一方でメシア信仰を得て、聖霊を注がれ『小麦』とされたイエスの弟子たちは、キリストを仲介者とする『新しい契約』が取り結ばれ、『神の子』となって神の是認の『倉』に納められることになった。それはイエスの反対者であったパウロのような者であっても変わらない。
これをヨエルは、断食や涙を以って悔いる者には、蝗害によって受けた損害の償いをし、さらに豊かな雨が降り、『脱穀場は穀物で満たされ、搾り桶は新しい葡萄酒と油で溢れる』と述べ、彼らを『シオンの子ら』と呼びかけ『定めない時まで恥を被ることはない』とも言われたのであった。(ヨエル2:23-27)



◆終末の蝗害
そしてヨエルは『YHWHの日』の到来を警告する角笛の吹奏について語り、一層の注意を終末の蝗害に喚起する。そうして次なる実現を観る終末、『太陽は闇に月は血になる』という神YHWHの日に於ける成就にも読み手の注意を向けるのである。
『あなたがたはシオンで角笛を吹け。わが聖なる山で警報を吹きならせ。この国の民はみな恐れ慄け。YHWHの日が来るからだ。それは近い。それは闇と陰鬱の日、雲と濃い漆黒の日である』。(ヨエル2:2-3)

そして、やはり存在したことの無い民について記述を続けている。
『強大で数多い民がいる。それが広がる曙の光のように山々を覆う。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の時代にも再び起こらない。彼らの前では火が燃え上がり、彼らの後ろには炎が焼き尽くす。彼らの来る前にはエデンの園のようであったこの国も、彼らの去った後には滅びの荒れ野が残る。何者もこれを逃れられない』。(ヨエル2:2-3)

この民の進むところは一気に荒廃してしまうのだが、その速度は歩くようなものではなく疾駆する戦車のようであるという。
『その姿は馬のようで、軍馬のように駆ける。 山の頂を駆け巡る轟音は戦車のような響きがあり、藁を焼く炎のような音をたてる。これは戦いの備えをした強大な民の姿だ』。(ヨエル2:4-5)
そして『その前に諸国の民は悶え、どの顔も色を失う』とある以上、この民が糾弾するものはもはやユダヤ一国のことにはならない。
では、世界の人々が受けるような糾弾が何かあるのだろうか。

このヨエルの蝗害に光を当てるのが新約聖書巻末のヨハネ黙示録の蝗害である。
その第九章には、やはり異様な蝗害が描かれており、ヨエルの言葉に補足を加えることにより双方の蝗害が何を意味するのかについて明らかにするものとなっている。

黙示録には次のようにある。
『蝗の姿は出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。
 また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。
 胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。』(黙示録9:7-9)
 これは明らかにヨエルの蝗との共通性を保っており、その実体への理解を誘っているのである。

黙示録に描かれるこれらの蝗は戦う準備ができており、それはイエスの死の後にユダヤ人を恐れてエルサレムの片隅に隠遁していた百二十人のガリラヤの弟子らのようではなく、あのペンテコステの日に聖霊を注がれて世界宣教に足を踏み出した恐れることの無い聖なる民を指している。

彼らには復活した主が天界に有り、そのため夫に従う妻のように長い髪をしてはいるが、『神の王国』をイエスと共同相続する『王なる祭司』とも成る以上、頭上の金冠はまことに相応しく、それでも彼らは地から選ばれる人間である。
彼らの『聖なる者』としての身分は『罪』を既に地上から赦されたものであるので、その義で出来た良心を守る胸当ては強固な鉄で出来ている。彼らの語る言葉は鋭くライオンの歯のようである。

その『義』のゆえにこそ、彼らには未だ『地の草やすべての青草、またすべての木を損なってはならないが、額に神の印がない人たちには害を加えてもよいと言い渡された』。
即ち、聖霊注がれた聖徒は、終末に『地の四方の風から集められる額に印のある者ら』であり、それ以外のすべての者には、誰であろうともアダム由来の『罪』があることが免れない事実である。

終末の聖なる者らは、イエス後の第一世紀のユダヤの体制を糾弾したように、すべての人々に『罪』があることを指摘しないではおかないのであり、彼らは『額に神の印がない人』にそれを痛感させることに於いて『蠍に刺される時のような苦痛』を与え、誰もそれから逃れることができない。

確かに、我々人類のすべてが死に渡されており、神から隔絶したこの世という場に否応なく生まれて辛苦を味わっているのだが、そこから自力では出ることは叶わない。誰が宗教を始めて教えを説こうと、何者が聖人を気取り「神の代理」や「経路」などと権威をひけらかそうと、結局は皆が同じ罪人でしかないことが真実に聖なる者らの奇跡の言葉によって暴露されてしまう。
そうなれば自分たちは正しいのだと言い張ってきたすべての者は、政治家であろうと宗教家であろうと尽く聖徒の発言によって恥をかかざるを得ない。(黙示録7:3)

ゆえにヨエルの預言には『民を集め、会衆を聖別し、老人たちを集め、幼な子、乳のみ子を集め、花婿をその家から呼び出し、花嫁をその部屋から呼び出せ』とある。(ヨエル2:16)
即ち、蝗害によってもたらされた問題を避けられる者はいないのであり、これは真剣な対処を求められることになる。

ヨエルを通して神はこう言われる。
『今からでもあなたがたは心を尽くし、断食と嘆きと悲しみとをもってわたしに帰れ。
 あなたがたの衣服ではなくその心を裂け。あなたがたの神YHWHに帰れ。主は恵みあり、憐れみあり、怒ることが遅く、慈しみ深く、加えた災いを思い返してくださるからだ。』(ヨエル2:12-13)

そのように神に帰った人物として、使徒パウロが居る。
イエスの弟子らにはまったく強硬な迫害者であった彼は、キリストから直に回心を求められたが、それについて『自分を最たる例としてキリスト・イエスが限りない寛容を示し、そうして彼を信じて永遠の命を受ける者の見本となるためであった』また『自分が信じていないとき、知らずに行ったことについて憐れみを受けた』とも述懐している。(テモテ第一1:15・13)
そして使徒パウロとなってからは、彼ほどその発言によってユダヤ体制を切り刻んだ者もいない。



◆蝗の主人
一方で、終末の蝗害のきっかけをもたらすものについて黙示録ではこう述べられている。
『第五の御使がラッパを吹き鳴らした。するとわたしは、一つの星が天から地に下って来るのを見た。この星には底知れぬ深みを開く鍵が与えられた。そして、この底知れぬ所の穴が開かれた。』こうして竃の煙のように空を埋め尽くす黒々とした蝗の群れが解き放たれている。(黙示録9:1-2)

『底知れぬ深み』(アビュッソース)という語については、黙示録中で『かつて居たが今は居ない、しかし底知れぬ深みから這い上がろうとする野獣』についても用いられている。即ち、遥かな時の経過を越えて出現することに於いての使用例がある。(17:8)

世界は、キリストの現れから二千年を経ようとしているが、それはアブラハムからキリストまでの時の経過にほぼ匹敵し、その間にキリスト教は主に欧州キリスト教会によって伝承されていている。だが、真に聖霊が注がれ奇跡を行い世からの迫害に殉教した『聖なる者ら』の存在は初期の二世紀中に見られるばかりで、第四世紀になるとキリスト教は権力に介入を受け、すっかりこの世の一部と化してしまった。
当然ながら、聖霊を注がれたような者は、その後現れていない。

しかし、ダニエル書が明かすように、メシアには最後の『一週の間、契約を固く保つ』とされ、『その週の半ばで犠牲と供え物とを廃する』即ち、三年半の公生涯での宣教と受難により、律法を成就し神殿祭祀を完了させた。だが、なおその最後の『一週』の半分の三年半が未だ残っており、それが何時になるのかをダニエル書は語らないままに記述を終えている。(ダニエル9:27)
そこで、二千年以前という遥かな過去を意味する『底知れぬ深みを開く鍵が与えられた』『天から下った星』が何者を意味するかについては他ならぬ再来のメシアを別にして聖書は何者をも指し示していない。

加えて黙示録は蝗の主人についてこうも言う。
『彼らは、底知れぬ深みの使いを王に戴くが、その名はヘブル語でアバドンと言い、ギリシヤ語ではアポリュオンと言う』(黙示録9:11)
この『底知れる深みの使い』とは彼らを解き放ったメシアであり、彼らに聖霊のバプテスマを施す権限をかつて行使して、ユダヤ体制派に刺されるような痛みを与えたように、終末に於いても聖徒迫害の罪を世界に問うことになろう。この世は間違いなく神の聖性と相容れない程に俗な『罪』に塗れ、まずは聖徒を退けて悔いない者らが多いに違いないからである。

そして新約聖書にヘブライ人書簡は、このギリシア語『アポリュオン』を同じ意味の『滅ぼす者』として、出エジプトの故事に関して用いている。(ヘブライ11:28)
それは、モーセとアロンによるファラオへの第十番目の決定的な災いを引き起こした、エジプト全土を一夜にして通り抜けた災いの天使を指して『滅ぼす者』(アポリュオン)と呼んでおり、子羊の血の贖いの印の無いすべての家の長男に死をもたらしたそのものである。

この『滅ぼす者』の起こした第十の災いにより、結果として神はイスラエル十二部族の中からレヴィ族を買い取って祭司の部族と成した。即ち、子羊の犠牲により死の災厄から贖われた「長子の民」である。(民数記3:12-13)
そこでヨセフの部族がエフライムとマナセの二部族に分かれることで、神に取られたレヴィ一部族の不足を埋め合わせ十二の部族数は再び満たされている。

即ち、『底知れる深みの使い』が『滅ぼす者』であればこそ、地上から祭司となる部族、人類の長子、『聖なる者ら』が神の側に買い取られたのであり、その代価を血で支払った出エジプトの小羊に相当するメシアにこそ彼らが従うべき道理がある。
使徒時代の聖徒らはその対型であり、キリストの犠牲は『新しい契約』を発効させ、『祭司の王国、聖なる国民』を登場させるきっかけを作った。これらの民こそが真実のレヴィ族、キリストの血によって『地から買い取られた民』である。 しかるに、終末に起る蝗害もまた、祭司の部族である対型的レヴィ族を出現させる意味を持つに違いない。

こうして、黙示録は終末の蝗が何者であるのかを読む者に教えていることになる。
それはキリストが再びこの世に対して介入を行われる臨御の時に到来する、聖霊を再び注がれる『聖なる者ら』の民、奇跡を行い、論駁不能な言葉を発する『ライオンの口』を有する強力な民である。彼らは王や高官の前に、また会議場に引き出され、そこで一歩も引き下がることなく驚嘆すべき告発を行うことは、彼らの主によって繰り返し予告されていたことである。(マタイ10:18/マルコ13:10/ルカ21:12-15/ヨハネ16:8)

これらの蝗には、異例にも草木を損なうことは許されていないが、草木への害は彼らの活動が終わって後の『四方の風』が吹くという最終的段階まで延期されている。その時までに彼らは天界に召され、その数も満たされていることになる。(黙示録7:1-3)
その後、彼らはキリストと共に全地の支配権を確立するために、地上のあらゆる権力を捩じ伏せるべく、この世に『神殿への復讐』を為すことになる。世はキリストに行ったように、地上に居る間の権力なく弱い聖徒らをも除き去るに違いないからである。(テサロニケ第一3:13/ゼカリヤ14:5/エレミヤ51:11/ヨハネ15:20)


◆大いなるバビロンという大娼婦
従って、蝗に相当する彼らが五カ月というその昆虫としての寿命を終えるや皆が揃って去って行く定めにあることにも整合性があり、確かに聖徒の民はダニエルによって語られた暴虐な『王』また黙示録の『七つの頭を持つ野獣』によって亡き者とされ、この世はそれを大いに喜ぶのである。世はその蝗害によって蠍に刺されるような糾弾の言葉に悩まされ『責め苦に遭わされ』ていたからである。(ダニエル8:23-24/黙示録13:7/11:10)

だが、これら一連の害も実はメシア=キリストの地への介入の結果であり、永く保たれた神の沈黙が終わったことを知らせるものでもある。しかし、聖徒の現れは世にとって余りにも意外なことであるに違いなく、特に宗教界、別けてもキリスト教界の動揺の激しさは今からでも想像に難くない。教会関係者、また信者で熱心であるほどに、聖徒らの発言は容認し難いものとなることであろう。その発言が無視できないほどに正しいからに違いない。

神からの音信によって既存の宗教の存在意義が根底から覆され、人々の間には疑念が広がらざるを得ない。神YHWHからの聖霊の言葉を拘りなく聴く人々にとっては、今までの宗教とはいったい何だったのか、それは引き返せないほどの問いとならざるを得ず、多くの人々の心は諸宗教を去る以外にない。
諸宗教の教えの数々がつまるところ何であったかといえば、人の考案か悪霊の教唆に過ぎなかったのである。その人々のすべてが聖徒支持に回ることにはならないとしても、既存の宗教団体の狭い教義に留まる魅力も理由も、突如現れた蝗の民によって食い尽くされたかのように見る影もなく奪われることであろう。

では、宗教界はその無視し難い蝗害にどう対処することになるだろうか。
そこで黙示録には『聖なる者たちの血と、キリストの証人たちの血に酔っている』『大娼婦』が描き出されるのである。
この女には『バビロン』の名が付され、まさにエレミヤが『神殿の復讐』が為されるべき対象としたイスラエルを荒廃させた都市また国家バビロニアが追想される。イエスと聖徒らとはやはり神殿を構成するからである。(エレミヤ50:28)

終末に現れ、聖霊で語る聖徒を攻撃する姿は、かつて初臨のキリストを「魔術を行い、民を惑わす者」として殺害し、その弟子たちを迫害したユダヤ宗教体制に重なるものである。
また、古代バビロンがイスラエルの神YHWHの崇拝を絶えさせたように、終末にも神との契約に在る聖徒らの地上の崇拝、即ち『常供の犠牲』を絶えさせるようこの娼婦バビロンが世の勢力を使嗾することは、この大娼婦があの『七つの頭と十本の角を持つ赤い野獣の上に座っている』姿に表されている。(黙示録17:3-6)

その異形の野獣も『底知れぬ深みから上ることになり、また去って滅びに至る』とされる短命な存在であり、七つの頭と十本の角は権力の集合体であることを示している。(黙示録17:7-13)
ゆえに、聖徒らの蝗害に辟易とし、激しく憎んだ世の宗教界が、聖霊の言葉諸共に聖徒を除き去るよう、権力の世界的集合体に働きかけることができるのであれば、迷いもないことであろう。そうしてその野獣にはダニエルが指摘するように『大層な事を語る口があり』また黙示録が描くように『冒涜を語る口が与えられ』『聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許される』という事態に至ることになる。(ダニエル7:11/8:24/黙示録13:6-7)

だが、聖徒を除き去る事は一つの災いを回避することにはなるのだが、それこそはメシアを除き去ったユダヤ体制に比すべき悪行であり、使徒らをはじめとする弟子たちの敢然たる糾弾にユダヤの宗教家らが曝され、その邪悪さを暴露されたように、やはりその罪が明らかにされ、その卑怯な行いを責める者らが現れることになる。即ち、黙示録が語るところの『第二の災い』の始まりである。


◆二億の騎兵隊
聖徒らが去っていったとはいえ、聖霊の発言は無駄にはならない。
際立った仕方で語られた言葉に真実を汲み取り、それに賛同する人々がそこに現れるのである。
黙示録では蝗害の去った後の場面で、第六のラッパの吹奏があり、ユーフラテスの岸を離れる四人の使いが現れたかと思うばかりに、唐突に二億もの騎兵の現れを描き出している。(黙示録9:13-16)

これら四人の使いは大河の畔に囚われていたとあるが、このユーフラテスがバビロンを暗示することは、黙示録に繰り返されるところから既に明らかである。即ち既存の宗教的勢力からの解き放ちであり、「蝗害」である聖徒らの活動の後に続けて現れるところは、彼らの聖霊による活動がバビロンで象徴される世の宗教領域に変化をもたらしていることを指すのであろう。

神からの音信を告げる神の民についてイザヤはこう語っていたのである。
『国々を一堂に集わせ、すべての民を集めよ。彼らの中に初めからのことを告げて聞かせる者がいるか。彼らに証人を出させて証言させ、それを聞く者に「それは真実だ」と言わせてみよ』
まさしく、聖霊の言葉を聴くことになる世界の人々は、諸宗教からは聞いたことも教えられたこともない真実を知ることになろう。それは人間の置かれた真実の状況についての稀なる知識である。

それゆえ聖徒たちについてこそ神はこう言われるのである。
『あなたがたは我が証人、わたしが選んだわが僕である。それゆえ、あなたがたは知って、わたしを信じ、わたしがYHWHであることを悟ることになる』。(イザヤ43:9-10)

蝗に相当する聖徒らが去った後、神からの言葉に信をおく人々が黙っているだろうか。
いや、黙示録はそこに二億もの騎兵隊の出現を描き出すのである。それは聖徒らが迫害に遭って去ってゆき、それを以って忠節を全うして天に召され、キリストと共になるのを待って現れるものであるから、それは『天の王国』の権威の実現するその時に従うかのようであり、黙示録は騎兵隊の現れのきっかけをつくる『四人の使い』が『その時、その日、その月、その年に備えておかれた』と語っている。(黙示録9:15)

そして騎兵隊の現れの目的は、四人の使い同様に『人々の三分の一を殺すため』とされている。
これは、黙示録中で三分割される世の要素である、政治、商業、宗教の最後のものを指すのであろう。(黙示録18:3)
即ち大娼婦そのものであり、この時点で『聖徒らの血に酔う』世の宗教には聖徒殺害の重大な罪が明らかとなっている。なぜなら現状でさえ、自派の正義に凝り固まる諸教派はユダヤ体制派に同じく、聖霊の発言に謙虚さを示すには余りに頑迷固陋であることを存分に見せているからである。「或いは自分たちは間違っているかも知れない」などと言う宗教家が僅かでも居るとすれば却って正しく、神の御前に謙虚で天晴なことである。

だが、ほとんどの宗教は信者を失うまいと自説に拘り、その姿勢により宗教団体は却って終末に多くの支持者を失うことになろう。その決定打となるのが、この騎兵隊の存在とその攻撃となる。
というのも、この世の『三分の一』は聖徒の聖霊の言葉から既に多くを暴露されており、それは黙示録この部分に先立つ第八章の第一から第四のラッパの吹奏の度に痛々しいまでに打ちのめされている。

その『三分の一』については世の全体に先立ってあらゆる緑が既に焼き尽くされてしまい、その命運は先に尽きている。
火のように燃える山、シナイの暗示は、三分の一が契約をも違犯してきたことを糾弾し、その海の三分の一は象徴的な死に至っており、そこを生業にする船は難破している。
天からの星が水の源に落ちることで、人々を潤すはずの宗教の教えの水のすべてが苦くされ、多くの人が象徴的に死ぬ。
地上の人類を照らすはずの宗教的光明は、太陽、月、星の三分の一が衝撃を受けて光を失ってしまう。

黙示録によれば、これらの災厄は『聖なる者らの祈り』に答えたものであり、いよいよ聖霊による言葉がこの世に開示されるに従い、まず害を免れないのが『三分の一』たる世の宗教勢力であることはまず間違いがない。

だが、聖霊の言葉の開示はこの世の全体にとっても災いをもたらす以外にない。なぜなら人類にはおしなべてアダムの罪の汚れがあり、神の御前に容認されるべき者でないからであり、それゆえ三分の一への災いの後に、中天を飛ぶ一羽の鷲はこう宣告するのである。
『ああ、災いだ、災いだ、地に住む人々は災いだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている』(黙示録8:13)
その宣告に違わず、黙示録中の第五、第六のラッパの吹奏は、『三分の一』を越えてこの世の全体へと災いを広げてゆくことになる。

その中から、聖徒らの言葉に信をおき、彼らキリストの兄弟らを支持するようになるこの世の一半の人々は、その三分の一に対する糾弾の手を緩めないであろう。
黙示録のそれぞれの騎馬は、聖徒らを象徴した奇妙な蝗の姿が投影されており、同じようにライオンの頭を持っているが、その歯で噛み砕くのではなく、口から出る炎と煙と硫黄の災厄によって人を殺すとある。
その赤と紫と黄色で象徴される災厄は、まさに公共ゴミ捨て場であったヒンノムの谷を表しており、これはキリストがユダヤ体制派に警告した『ゲヘナの裁き』即ち、復活の望まれない処置を示唆している。(マタイ23:36)

これらの騎馬には乗り手がいるが、その胸当ての色もこれら三つの災厄の色を持つからには、復讐を心に懐く聖徒らが彼ら騎馬を操るとの解釈もできるかも知れない。しかも、それが胸当てという防具であるからには、その乗り手は『ゲヘナの裁き』から守られることを意味していよう。だが、この時点では聖徒は天界への復活を待つ段階にあり、死が深い眠りのように無活動で無意識であるなら、これらの『騎手』が聖徒とは言えないことになる。おそらくは、この乗り手そのものが信徒らであり、その『馬』は聖徒らから得た聖霊の音信なのであろう。そのため、害を為す火炎も尾の蛇もこの乗り手そのものからのものではない。
ともあれ、これらの騎馬の権能がその口と尾に有るという事も、これらの災いについて示唆的である。騎馬の発言によって悔いることがないなら、その三分の一に属する人は彼らの通り過ぎるに際し、その尾の毒蛇に咬まれることになるのであろう。(黙示録9:19)

従って、終末の聖徒の聖霊の言葉に信仰を奮い起こし、聖なる民を退けて殺害させた元凶である諸宗教への攻撃を行う騎兵隊となる人々には、数に於いて聖なる民に勝る活動の場が終末に備えられているのである。それは聖徒らを屠らせた咎の暴露と罪の追求である。

その騎兵隊には明らかに戦闘の権限が与えられ闘う備えも出来ている、神の後ろ盾を得て糾弾に勇敢であり、ご利益信仰の軟弱な「クリスチャン」などとは異なり、その勇気によって聖徒らと共に明らかに神の側に立っている。聖霊への信仰と聖徒らに対する熱烈な支持が、神の是認をもたらしているのであれば、彼らは『神の王国』の支配する地上を受継ぐ者らであるに違いない。



◆大娼婦への裁き
こうしてヨエルの語られた蝗害の顛末が、ユダヤ体制にもたらした災厄によって終末への予型を成していたことが歴然とする。
やはりヨエルはこう語っていた。
『その後、わたしはわたしの霊をすべての人に注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。
その日、わたしは僕にも下女にも、わたしの霊を注ぐ。』(ヨエル1:28-29)

これはメシアの犠牲を通して初めて可能となった聖霊の注ぎと、それを受ける真にアブラハムの子孫であるユダヤ人、そしてそれに『接木されて』後から加わった諸国民からの補充者らのことであると理解できる。ペンテコステの朝の使徒ペテロの宣言は、『僕、下女にも霊を注ぐ』と述べたのは、キリストの犠牲が諸国民にも及び、その成就をもたらすことを知らせるものであった。(イザヤ14:2/ローマ11:24)
この聖霊によって語る人々の現れはキリスト以後の二世紀に限られるものではなく、いよいよ終末の『半週』『三年半』が残されており、ヨエルに始まる象徴的蝗害が過去のものとなったわけはない。
その言葉は、ハガイが預言したように天地を激動させ、神にとって望ましいものが新たな神殿に参集する契機となるに違いない。(ハガイ2:6-7)

まさしくイエスはこう祈っていた。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにもお願いします。
父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての者が一つとなるためです。』(ヨハネ17:20-21)

終末の聖なる者らの聖霊の言葉に信仰を働かせる多くの人々にも、ヨエルの蝗害からの償いがなされ、神からの豊かな祝福に与ることができることも記されている。
『見よ、わたしは穀物と新しい酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたはこれを食べて飽きるであろう』(ヨエル2:19)

当然ながら、既存のキリスト教に聖書中の象徴的蝗害の意味を尋ねるのは徒労にしかならない。それは『大いなるバビロン』に含まれる傾向を持つ宗教に期待できないからであり、ヨエル書にせよ黙示録にせよ、それは彼らには最後まで伏せられた事柄に終わるべき理由がある。

だが、実際に『聖なる者ら』が聖霊によって語るとき、この世界は『目も見ず、耳も聞かず、人の心にも浮かばなかった事柄』である神の秘儀を知らされることになる。『神はそれをご自身の霊によって啓示される』のであり、それは人の能力を超えたことである。(コリント第一2:9-10)

神は霊によってメシアである証をナザレ人イエスに立てたのであり、それを無視することは神を無視したのであった。(ヨハネ第一5:10) ユダヤの体制派のように神の証を無視し続け、イエスを磔刑に処し、ステファノスにも耳を塞いで殺到し、石打にするような仕打ちを聖徒らに繰り返すような宗教人が終末にも避けられないなら、それは自分の教えや面子に拘る、どうしようもなく頑迷固陋なごく少数の輩で充分であって欲しいものである。

そして蝗に続いて騎兵隊の騎手となる人々は、遂に『大いなるバビロン』の滅びを目の当たりにし、大いなる歓声を上げる天の大群衆の声に賛同し唱和するに違いない。
『ハレルヤ、救と栄光と力とは、われらの神のものであり、その裁きは真実で正しい。神は姦淫で地を汚した大娼婦を裁き、神の僕たちの血の報復をなさったからである』(黙示録19:1-2)





  林 義平 ©2020 



追記;蝗害の後に『北からのものをあなたがたの上から遠ざけ・・』とあるので、蝗の集団をバビロニア軍であるとするのは、ネイヴィームの中でこの言葉を捉えていないことからくる浅い解釈から生じる誤解と思われる。この『北からのもの』は蝗を直接に指しておらず、蝗害に悔いた人々が終末の象徴的アッシリアを指す『北の王』の恫喝から守られ、その勢いがシェフェラの台地で終息してしまうことを指すのであろう。それは列王第二第39章及びダニエル書第11章との照合によって類推できる。
終末に於ける蝗害を悔いる人々は聖徒ではなく信徒となろう。なぜなら、聖徒は蝗そのものだからである。⇒「突如瓦解する北の王






「マゴグの地のゴグ」 その素性を暴く


マゴグの地のゴグ その素性を暴く
長文 追記含二万七千字超
難易度 ☆×7  特高 (基礎知識なしに読解は困難)
基礎知識:「聖霊と聖徒」 エゼキエル書36章 38章 39章 列王記第二8:7-  黙示録11章以降 ダニエル書7章以降 テサロニケ第二2章 マタイ24-25章
概要:「大患難前に破滅する北の王」に擁立され『北の王』の権力崩壊後に圧倒的に顕現する契約脱落者 / 「イスラエルの山地」は地上の場所ではなく「二度救われる女シオン」を指す / 黙示録の「ゴグとマゴグ」は別物 /「ロシュ」もロシアでなく「北の果て」は方角でもない / マゴグは集団でゴグは頭目 /「第三神殿」と共に終末への秘儀であり「大衆的解釈」が圧政的に世を覆い 裁きの罠となる



『マゴグの地のゴグ』とは、如何にも暗い響きの名前ながら、旧約聖書の預言書の中に在っては一際異彩を放って格好のオカルト系の題材ともされてきた。そこで『マゴグの地のゴグ』については耳にした人もそう少なくもあるまい。

しかし世の大半の「キリスト教」宗派の解釈と言えば、ゴグについて書かれた言葉の表層から、終末での実際のパレスチナ・イスラエルへの北方からの攻撃を説くばかりである。
また、エゼキエルは黙示録のように「ゴグとマゴグ」とは述べておらず、それと同一視するのは、千年期の後を描くヨハネ黙示録のゴグに関わる名称との混同であり、エゼキエルの『マゴグの地のゴグ』とヨハネの『ゴクとマゴグ』とは役割が相似してはいるのだが、明らかに時代が千年も異なり、別の実体を指している。黙示録の描くものは、千年支配の後に生じる一般の復活に伴うものであるのに対し、エゼキエルのものはそれに先立つ『神の王国』の到来に抗うもので、今日までの世界体制、『この世』の終わりに位置する事象であることが双方の記述の異なりから分かる。

やはり『マゴグの地のゴグ』とは、確かに「終末」への宗教的空想力を掻き立てる名称ではあるのだが、エゼキエル書の難解さのために、今日までにまともにその実体が知らされたとは言い難く、傾聴に値するほどの解釈を見聞きすることもまず期待できない。だが、以降に見るように、『マゴグの地のゴグ』と呼ばれる者が終末に果たす役割は世界を巻き込むことになり、ただイスラエルの地方での限定的な戦役を意味しないと判断すべき理由がある。


◆背景
さて、この預言者エゼキエル、ザドク系祭司の『ブジの子』と自己紹介する預言者本人については、エホヤキンと共に捕囚となったその5年目の前597年からバビロニアのユダ捕囚民の中で預言者また有責の警護者として任命を神から受け、前571年に至る26年間に啓示を飛び飛びに受けていることがその記述から知られる。
その預言する間にエルサレムの陥落が起ってダヴィドの王朝が倒され、神殿も滅び去り、律法契約の履行も不可能となった。そうしてモーセ以来の契約は宙に浮いてしまったのであった。

神殿が破壊され、契約の中断した西暦前586年を境にしてエゼキエルの預言の内容も、第33章以降、諸国とユダとイスラエルの罪を糾弾する内容から終末的黙示へと変化しており、『マゴグの地のゴグ』を記す部分も、その後13年を隔てた前572年から最後に啓示された第40章以降の「神殿の幻」と共に終末への謎が解かれぬまま今日に及んでいる。

このエゼキエルが記した預言には神秘的な事象が数多い。
それはほぼ同時代、ユダの地と首都エルサレムの荒廃が近付く中で、神の裁きに直面した王や民の具体的な事柄を預言した同じくザドク系レヴィ族祭司のエレミヤが、人々との対立的会話を多くし、ユダ王国の荒廃を迎える中で、彼が体制派の人々の不信仰と闘い続けたために預言の対象が人物やユダヤ体制となり、語られる内容が具体的事象であったのとは対照的に、エゼキエル書は最初から天的な異象を幻視し、エゼキエルが住んでいたカルデアの居留地に神YHWHが天界の戦車(レクーブ)に乗って神殿から遥々と到来される姿の幻をもって第一章が描かれ始めている。

このようにこの預言書には終始抽象的な内容と幻が満ちており、実際、『幻』[ハズン]という語が多用されることではエゼキエル書とダニエル書とが双璧を成すほどであり、やはり度々に幻に於いて捕囚の身上である彼を、神は瞬間的な移動させ幾つもの情景啓示を目撃させているところで、預言者としてはイザヤやエレミヤよりはダニエルやゼカリヤに近く、また黙示録に通じるものが見受けられる。現に『ゴグとマゴグ』と述べて共通するのはヨハネ黙示録なのである。
また、そこには『ケルヴ』と呼ばれる種類の天使らの特異な姿も見たままに描かれているが、そのような描写は聖書中で初出であり、ほかに描いたのは新約聖書の「黙示録」の著者でエーゲ海の孤島で啓示を受けた使徒ヨハネばかりである。

これがエゼキエル書の特徴であり、彼が見た幻視の数々の象徴が黙示的記述となって二千六百年もの間、旧約聖書の中に今日に至るまで静かに佇んできた。
本書の特に全48章ある内の後ろ三分の一が、前述のようにエルサレムが新バビロニアのネブカドネッツァルの攻囲によって陥落してしまった後に与えられた霊感であり、それらの内容は当時を離れて遠く『末の日に起る事柄』に関するものとなっているので、記述の内容は前6世紀の過去から一気に現代の我々をも飛び越してこの世の終りに及んでいるのである。

その中で『マゴグの地のゴグ』という言葉が唐突に表れるのもこの預言書の第38章からであり、次の章ではこの『ゴグ』の側の惨めな敗北が描かれているところからすると、『ゴグ』の行うところも、刈り取る結末も何一つ善いところがなく、しかも活動できる期間も短いことが分かる。

しかし、エゼキエルの預言で語られている、この『マゴグの地のゴグ』なる何者かは深い謎と匿名性に覆われており、それがますます人々の知る欲求を募らせるものとなってきた。

そこでマゴグとゴグという名で調べてみると、聖書中にはマゴグというヤペテの子にしてノアの孫の名が人類の系譜を記した創世記と歴代誌略第一に民族名のマゴグとして出ているばかりで、『ゴグ』との関連は分からない。

ヨセフスによれば、マゴグの民はあの獰猛で知られるスキタイの民となったと云うが、エゼキエルの預言は、スキタイ人にせよが『末の日』に神の土地を侵略するというだけのことを言うよりは、『ゴグ』と呼ばれる個人について多くを語るのであり、これは「特定の民族に注意せよ」というのが神の啓示の目的でないことが預言の内容に明らかである。

だが、マゴグという種族があったこと、それが歴史上、コーカサス山脈の向う、ユーラシア大陸の北側に住んでいたことのほかには、この預言の意味を知らせる情報を聖書は与えていない。エゼキエルの預言が『マゴグの地のゴグ』を述べるのに『メシェクとトバルの君主の長』としているが、これはパレスチナからすれば北方と言えなくもないのだが、これは小アジアの北西側を意味した*とのことである。*(Keith Carley) "The Book of Prophet Ezekiel"1974

それであるから、『マゴグの地のゴグ』と呼ばれる何者かに対する理解は実質的に封印されており、サマリアのタルグムの註解は『ゴグ』をローマ人であるとし、アウグスティヌスはゴート人のことであると、それぞれに自分たちの視点から「解明」してはいるのだが、歴史の遥か下流から眺める我々が納得するわけもない。彼らそれぞれに異民族の侵入を見ては「世も終わりだ」と思えたかも知れないが、終末は遥かに未来のことであったのだ。

更には、ユダヤ教徒やキリスト教徒ばかりでなく、イスラム教徒までもが口伝ハディースに於いて、「ヤージュージュとマージュージュの襲来」という、終末に先駆者マフディやメシアを意味するマシーフに襲いかかり、正義を脅かすユダヤ教の「ゴグとマゴグ」に当たる者らについて多様に解釈を施しているので、エゼキエルの真相を知りたいと願うとしても、探求を試みる者には様々な雑音が絶えず、知の限界の壁も屹立しており、ほかならぬ神がその理解を許していない様相さえ呈している。

やはり、聖書に精通した識者や宗教家であってもこの『ゴグ』が何者のことを指すのかについて誰もが納得できるような統一的見解は無い。

『マゴグの地のゴグ』が語られる第38章から第39章にかけての情報では、その者の土地が『北の果て』であり、また、終りの日には『北から』神の民に攻めかかるというエゼキエルの言葉を頼りに、北方の国家を中心とした連合軍が終末に共和国として現実に存在しているイスラエルの土地に攻め込むという想定を立てる解釈師は多い。

また、終末の『ゴグ』の攻撃目標は正しい宗教を実践している自分たちの宗教団体であるとの主張も見られる。そう信じることが、自分たちこそが神の民であるとの正義感を高める作用もあってのことであろう。そうなると、その団体に反対する者を任意に「ゴグだ」と言えてしまうことにもなる。

それはさておき、我々は『マゴグの地のゴグ』について何を知り得るか?
エゼキエルの預言だけでなく、聖書の中に何か理解するための鍵は置かれていないものか。
また、その理解が、ただ知の欲求を満たして終わるとすれば何と言うこともない。
しかし、それが『必ず成し遂げる』と言われる神の意図、人との関わりに於ける「裁き」と「救出」について知らせるものであるなら、それが単なる知識欲の充足で終わるようなものとはならない。良くも悪くもその言葉には何らかの意味があるはずであり、最終的には神の意図を尽く成し遂げるものであるに違いない。

それを神が黙示的にエゼキエルに伝えたのであれば、記された内容が終末が近付くころに神意として人に伝えられる必要があろう。良くも悪くもではあるが

というのも、以下に見るように、『マゴグの地のゴグ』についての黙示の意味を悟らない事の損失ばかりか、むしろそれらの記述を知って居るがために神意を顧みず、自分の解釈に固執してゴグの側についてしまうというトリックが起きかねない危険が考えられるからである。



◆恐るべき神の言葉
そのような言葉の罠には既に何人もがはまっており、聖書中にもその例が少なくもない。
聖書に書かれた事柄が、度々にそれを誤解した人々を使役して、善ではなく悪を行わせて来たという事実は重く受け止めなくてはなるまい。

例えれば、メシアがベツレヘム・エフラタから来るという分かり易い知識を持ったユダヤの宗教家らは、ナザレから来たイエスを退ける行動に駆り立てられている。
預言者エリシャがシリア王の使いに向かって、「お前が王になる」と言わなければ、バアル崇拝を罰する器となるこの使者ハザエルがシリア王位を簒奪しただろうか。
イエス自身、敢えて『わたしの血を飲み、肉を食す』ように語っては群衆を落胆させて解散させ、『神殿を三日で建て直す』と宣言しては祭司長派の怒りに油を注ぎ、『神の子羊』であるご自分を屠るように誘導されてはいなかったろうか。

このように聖書には人の内面にあるものが何であるのかを暴いてしまう言葉も仕組まれている。そのことはけっして忘れてならないことであり、実際、聖書にその例がこのように書かれてもいるのである。
イエスご自身が、群衆に例えを用いて語られ、群衆には『天の王国の奥義を知ることが許されていない』と言われ、イザヤの『聞くには聞くが、決して悟らない』との厳しい預言の言葉を用いて例証されている。聖書とはこのように単なる書物という範疇を超えたものである。

まして人間というものが、アダムの子孫として裁かれる前の罪人であれば、神がどうして何もかも教えるだろうか。聖書とは、裁きに関わる厳粛な内容が込められており、裁き主たる神が誰にでも善意の内にすべてを知らせるわけもない。
黙示録での復讐に燃えるイエスの厳貌を見れば聖なるヨハネさえ倒れ伏したほどであり、地上では誰をも裁かなかった磔刑上の柔弱な肉のままのキリストの再臨を教えられて喜ぶ教会員は却って気の毒なことである。むしろ、終末にはキリストの口から出ている諸刃の長剣、即ち神の言葉によって許多の人々が裁かれるとある通りであり、我々は聖書を字面のままに信じ込むことに注意するべきではないだろうか。(ヨハネ12:48/黙示録1:16-17)

ユダヤの宗教家の聖書への精通と確信が益となったか否かは、その人がどのような人柄であるかに依存していたこともまた聖書の明かすところなのである。憎しみの内にナザレ人イエスを屠った大祭司カイヤファのようにも、あるいは擁護したニコデモスのようにも当時の人々がそれぞれに振る舞ったのは共通する知識ではなく、それぞれの人格の違いというべきであろう。その点で、ただ教理を学び信じることを「信仰」としているなら、それはイエスを処刑したユダヤの宗教家らに変わるところがないことになる。

むしろ、聖書の言葉に対して個人がどのように内面を刺激され振る舞うかによって、その結果は大きく異なるのであろうし、そこに誰でも同じく判で押したような「従順さ」は意味が無い。人の内面を試すのが聖書の理解の難しい内容、即ち「裁き」の秘儀である。

そこで、エゼキエルに記された『マゴグの地のゴグ』もやはり「秘儀」の範疇に在ることはまず間違いないであろう。キリストを迎えたユダヤ人がそうであったように、それらの言葉に秘められた神の奥深さによって、人は裁かれ、善と悪とは大きく枝分かれすることになろう。そこで人々は「何をすれば良いのか」の愚問を利己心の内に懐き、自分を「義の安全圏」に立ったことにして何とか救われようと多くの宗教上の従うべき規則を渇望してきた。
だが、秘儀をどう解釈するかは自由ながら、その解釈を得てなお人はその内面を露呈することになるであろう。それが人々を分かつ『諸刃の長剣』による神の裁きである。

加えて、不思議を解く事への魔術的関心、また功名心、これらは容易にオカルトを扱う悪霊に接近し兼ねない危険がないものか。そこには「当てる」か「外すか」というギャンブル的嗜好があり、尽く外してきていても、「シモン・マグス」を継承するようなオカルト好きは絶えることがない。

また自分たち宗派の救いを確信するための材料としてこうした秘儀を活用しようという前提から解釈を進めようとすれば、それは利己心の伸張とはならないものか。
いずれも、真に聖である神から決然と拒否を言い渡されるのも当然である以上に、神の意図を知るという目的とは裏腹な行動に駆り立てられるようなことにはならないだろうか。

実に、エゼキエル書の後半は様々な謎に満ちており、この『マゴグの地のゴグ』にしても、第40章以降の「神殿」にしても、まず「分からない」という点で恐るべきものと成り得る理由がある。その謎を解こうとして却って罠に嵌まるという恐れである。
『マゴグの地のゴグ』が何者であるかは、人類への秘儀であるに違いなく、まず解けるような謎ではない上、その本人が実際に現れてすら終末の世はそれを否定する、いや、まさにそのゴグ当人ではないとして別の解釈を広めようとし、世の大半の人々を騙し、人々もそれを望むのであろう。だが、それも終局までのごく短い期間に過ぎないと言える理由もある。

そこで『マゴグの地のゴグ』が何者かを知ったからと言って、人が益を受けるかどうかは別問題である。
即ち、終末は未到来であるうえ、本稿を含めて、その解釈がその通りであるかは分からない。神が秘めたものを人は決して知り得ないからである。
ただ、様々な解釈を聞いておくということでは、信仰者各人の知識となるのを超えて、あるいはその人の内面が神の是認に向かう可能性を助けることになることはあるように思う次第である。

また、これらの預言が記された以上、いずれは解かれ全容が明らかになる日が来るのであろう。しかし、どのようにそれを知るのかは人ぞれぞれの結末になるのであろう。

では、心づもりを整えた上で、表題の『マゴグの地のゴグ』を追ってゆくことにしよう。



◆知らされていること
エゼキエルの預言の言葉を通して『マゴグの地のゴグ』について直接に知らされている事の中で、何者かを示す記述は、やはり『終わりの日』に「神の民」に対して諸国の大軍を集めて攻めかかるという行動が最も特徴的である。その結果が、神に敵することによる大敗北であるというところは、ネイヴィームに繰り返されて来たところの終末に於ける神と人との戦いのフレーズを想起させるものとなっている。

実際にエゼキエルのゴグに向けた記述の中に『わたしが昔、我が僕イスラエルの預言者たちによって語ったのは、あなたのことではないか』とある。(38:17)
確かに預言者たちはエゼキエルがこの啓示を書いた前586年の以前、つまり新バビロニアによるエルサレムと神殿の破壊の年以前にも、既に預言者らは神と人との世界的で徹底的な争いが起ることを繰り返し語っていたのである。

例えれば、エレミヤはこのゴグの記述の21年前のエホヤキム王の第三年にこのように預言している。
『YHWHは高い所から呼ばわり、その聖なる住いから声を出され、ご自分の住む処に向かって大いに呼ばわり、地に住むすべての者に向かってぶどうを踏む者のように叫ばれる。叫びは地の果にまで響きわたる。YHWHが国々と争い、すべての肉なる者を裁き、悪人を剣に渡すからであると、YHWHは言われる。
万軍のYHWHはこう仰せられる、見よ、国から国へと災いが出て行く。大きな嵐が地の果から起る。その日YHWHに殺される人々は、地のこの果からかの果に及ぶ。彼らは悲しまれず、集められず、また葬られずに、地の表に糞土となる。』(エレミヤ25:30-33)

エゼキエルより二世紀ほど以前の預言者イザヤもこう語っていた。
『もろもろの国よ、近づいて聞け。もろもろの民よ、耳を傾けよ。地とそれに満ちるもの、世界とそれから出るすべてのものよ、聞け。
YHWHはすべての国にむかって怒り、そのすべての軍勢にむかって憤り、彼らを尽く滅ぼし、彼らをわたして屠らせられた。
彼らは殺されて投げ捨てられ、その死体の悪臭は立ちのぼり、山々はその血で溶けて流れる。』(イザヤ34:1-3)

このように激烈な神との戦いで惨めな敗北に至る諸国の連合軍の描写について、ほかにゼファニアやヨエルやミカやハバククなどのエゼキエル以前の預言者らを挙げることは容易なことで、更に古代のダヴィド王のような詩篇の歌い手ら、また後のゼカリヤや新約の黙示録で『ハルマゲドン』の語を伝えた使徒ヨハネ、イエス・キリスト自身の予告を含めてゆけば、聖書という書がどれほど終末に焦点を合わせているかに異論の余地はない。

そこでエゼキエルが明かす、諸国の軍勢を従える者として語る『マゴグの地のゴグ』なる者が、それ以前に預言されていたところの、神に抗って人類の連合的軍事力を束ねるほどに巨大な権威を持つ者を指していることは既に明らかである。

この点では、黙示録での該当する『ハルマゲドンと呼ばれる場所』に諸国の軍を集める箇所である第16章に『ゴグ』の名称は出ていないのだが、そこでは悪霊の印による慫慂が『龍』『野獣』『偽預言者』の三者から出るとされている。しかし、それに呼応して決定を下す者がいるはずであり、黙示録ではその名を存分に語るエゼキエル書に委ねているのであろう。この世の裁きのためにこそ、神にはゴグが誰であるかを伏せる理由があるからであろう。

一方、使徒ヨハネが語るゴグは、千年期の後に起るところの遅い一般の復活によって現れて来る諸世紀の無数の人々の間から起る別の『ゴグとマゴグ』であり、その新たな存在について黙示録第20章の描かれるその結末も異なっている。しかし、現状で人類はエゼキエルの語る『マゴグの地のゴグ』について、その素性を知るのなら、更にできることなら対処しなくてはならない。

そこで攻撃を受ける側はただ「神の民」、あるいはイスラエルというだけでない情報がエゼキエルの預言そのものに加えられている。
それは『多くの日の後』即ち「終末」のことであり、そこは『剣から回復された地、すなわち多くの民の中から人々が集められた地』であり、また『久しく荒れすたれたイスラエルの山々』でもある。

即ち、剣の危険と捕囚から解かれた地、それまで人が住まずに荒れ廃れていたユダの地を直接には指している。(イザヤ6:11/エレミヤ9:11)
だが、捕囚が解かれてユダヤ人が実際に約束の地に戻ったのは西暦前6世紀のことであるし、例え1882年以降のユダヤ人のパレスチナ帰還や1948年のイスラエル建国を考えにいれても、もはや前世紀の歴史となっており、終末と呼べる特異な時代区分にあるとも言い難い。

したがって、エゼキエルの言う『多くの民の中から人々が集められた地』が意味するものはそれらとは異なる終末の事象を指すに違いない。それは単に血統上のイスラエルが実際上のパレスチナという約束の地に帰還したことを指すと単純に判断させないところがある。もし、血統のイスラエルがそうであると言い張るなら、表面的にもいくつか合致しようがない点が出て来るのである。



◆攻撃を受ける『イスラエルの山々』とは
ゴグが攻撃の対象とするものは『イスラエルの山々』、『無防備の村々の地』、また神を指して『わたしの民』とも呼ばれている。
ここで注目するべきは、聖書中でエゼキエル書だけに『イスラエルの山々』の語があることが挙げられる。
つまり、その攻撃の対象が『聖徒』であるなら、確かに神から『わたしの民』と呼ばれる道理があるのだが、聖徒を滅ぼす役割を担うのが『北の王から起る腕』であることをダニエル書が知らせ、黙示録ではそれと同じくする『七つの頭のある野獣』を聖徒を攻撃し勝利するものをとしているので、ここで論じている『ゴグ』とは、それらの表象と見かけ上では同じものになるとは言える。つまり、『わたしの民』という語が『聖徒』を指すならばである。

だがしかし、このエゼキエル書に描かれる『マゴグの地のゴグ』の行動の結末はまったき敗北であり勝利ではない。ゴグに召集された大軍勢が屍を地に曝すとされているのは『聖徒』を滅ぼすことを許された者『七つの頭を持つ野獣』の輝かしい勝利とは明らかに異なっている。野獣はむしろ聖徒の集団を壊滅させ、それ聖霊の言葉共々滅ぼしたことを誇るからである。黙示録第十一章では、『二人の預言者』で表される聖なる者たちが屍となったことで俗なる世は大いに喜んでいる。従って、ゴグは「七つ頭の野獣」でも、後発の「角」でも有り得ない。(黙示11:7-10)

ゆえに、敗北することになるゴグの攻撃の標的となるのは『聖徒』では有り得ないことになる。エゼキエル第38章からのこの『ゴグ』の場面は、迫害によって聖徒の去った後を語っていることが明らかになっているのであり、『北の王』も『腕』また『野獣』はもちろん『聖徒ら』も既に舞台から退いており、いずれもこの『ゴグ』の場面に出演する役者ではないのである。

そうであれば、攻撃を受ける『イスラエルの山々』、『無防備(城壁の無い)の村々の地』、また『わたしの民』とは、天に召集される聖徒の12部族を意味せず、別の人々を語っていることになる。
それはもちろん、現状のイスラエル民族でも国家でもない。どうして核兵器も持つとされる中東の軍事強国の彼らが『無防備』だろうか。

攻撃を受ける『イスラエルの山々』とは、『聖徒』たちの言葉に信仰を働かせていた「信徒」の集団、即ち『シオン』である理由は、イザヤとミカが『流れのように向かう』その目的地であることを証しているところにも見られる。彼らはキリストの追随者であるゆえに『剣をとる者』では有り得ないことに於いて『無防備』であるに違いない。

この点ではイザヤ第40章も理解の鍵を与えている。
『高山の道をとれ、シオンに良い知らせを伝える者よ。力の限り声を上げよ、エルサレムに良い知らせを伝える者よ。声を上げよ、恐れるな。ユダの各地の街々に言え。「見よ、あなたがたの神を」と』。
この知らせを伝える『女』は、ユダの山地の街々に神の到来、YHWHが彼らの神となったことを『良い知らせ』として伝えている。これは神との関わりを持つ聖徒だけが成し得ることに違いない。
聖徒らが『シオン』にもたらすその知らせとは、彼らが『神の民』とされることであり、聖徒らは去ってゆくとしても、彼らが残す信仰ある人々に神の顧慮が臨むことを言うのであろう。

キリスト・イエスはゲッセマネの祈りの中で、この人々についてこう願い出ている。
『わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
 父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みなの者が一つとなるためです。』(ヨハネ17:20-21)

即ち、キリストが神と共にあるように、聖徒らと信徒らが共に一つとなることであり、終末に聖徒が地上を去った後の「信徒ら」が、やがて『神の民』と呼ばれる所以がここにあると言える。即ち、聖徒の去った後には、信徒で成る「女シオン」も神YHWHを『王として迎える』喜びに浴すのであろう。

そのうえ、エゼキエルの預言が『イスラエルの山々』について、それ以前の章に詳しく語っているので、特にその第36章に注目すると、まずエゼキエルに語りかける神は『イスラエルの山々』に対して預言せよと命じている。

イスラエルが捕囚となって去ったその土地は、残った諸国民が自分のものになったと喜ぶのだが、その一方で神はイスラエルの人々のその土地への帰還を謀っているので、そのためにイスラエルの土地についてはこう呼び掛けている。
『しかしイスラエルの山々よ、あなたがたは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。この事の成るのは近い。
見よ、わたしはあなたがたに臨み、あなたがたを顧みる。あなたがたは耕され、種をまかれる。
わたしはあなたがたの上に人を増やす。これはイスラエルの全ての家の者となり、町々には人が住み、荒れ跡は建て直される。』(36:8-10)

『わたしはわが民イスラエルの人々をあなたがたの上に歩ませる。彼らはあなたがたを所有し、あなたがたはその嗣業となり、あなたがたは重ねて彼らに子のない嘆きをさせない。』(36:12)

これらの言葉に共通しているものは、ゴグが攻撃目標とさせる『イスラエルの山々』とは、聖徒たちではなく、彼らを載せる岡や小山、またエルサレムを戴くシオンであり、そこには街がかつて建っていたが、イスラエルの民が捕囚に去っていた間に打ち捨てられ、荒廃していたその場所を指している。
しかも、『荒れ果てていた地はエデンの園のようになった』とも述べられ、帰還のイスラエルによって耕されるともある。この『イスラエルの山々』を同じ章の中で『捨てられた街々』とも呼び替えているからには、都市や城市を載せていた神の民の故地を指すことは疑いようがない。

更に、イスラエルの民についてはこう書かれている。
『わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わが掟を守ってこれを行わせる。』(36:26-27)

これらの言葉は、エレミヤ第31章33節以降に予告されたメシアによる『新しい契約』を証しする点では、エレミヤに続くエゼキエルという二人目の預言の証人とも言え、以上の文言が、聖霊に預かり油を注がれる『聖なる者たち』、そして、彼らが所有するという地上の信徒たちとを言い表していると言う以外に何と言うべきか。

また、『シオン』に集うという諸国民からの流れのような人々の集団は、エゼキエルの語るように『多くの民の中から人々が集められた地』であると確かに言え、ゴグの襲撃を受ける以前に、『北の王』が操る『腕』また『角』の脅威に一度面して、『戦争の噂』という一触即発の武力行使の寸前から『北の王』の突然の権力崩壊が起って女シオンが逃れてもいるところは『剣から回復された地』とも言えるので、やはり『イスラエルの山々』が信徒の集団であるとの論議は補強されている。(38:8/マタイ24:6/ダニエル11:45)

その人々は脅威から逃れて『安らかに住んでおり』、何の防備も城壁もなく『田園のような土地』である。それは聖徒らが『野獣』から圧迫を受け続けた『42カ月』の間も、この『信徒』の人々については『荒野』で安全に守られていたのであり、『北の王』に恫喝されたものの、一度として実際の攻撃を受けたことがなかったのである。それゆえイエスも言われるように、信徒は聖徒を獄に尋ねて親切も施せる道理がある。そこがマゴグとゴグの嫉むところであるのはもはや避け難い。彼らは聖霊への信仰に於いて聖徒らに忠節であり、マゴグには靡かないからである。(38:11/黙示12:14/マタイ25:37-40)

まして、神と人との最終決戦の以前に聖徒たちが天に召されることによって、ゼカリヤが言うように世界連合軍と戦う大王イエスの下に聖徒の全員が伴うのであれば、『ハルマゲドン』で救われるのが聖徒たちイスラエルであろうわけもない。それは明らかに信徒、即ち、聖徒らの聖霊の言葉に信仰を働かせる人々が救われる民であり、やはり、その人々を指してエゼキエルは『イスラエルの山々』と呼んでいる。(ゼカリヤ14:5/テサロニケ第一3:13/コロサイ3:4)

加えて、それらの山々の中心たるシオンの峰は、ゴグの攻撃の時点では未だ荒れた状態にあり聖都エルサレムを戴いてはいない。それはゴグの総攻撃の後になってから新たにシオンに降るからであろう。(黙示録21:10)

この認識は、人類を正反対の二極に分離するものとなるであろう。
何故なら、地上のエルサレムは神の是認に関係なく第三神殿と共に終末がある程度進んだ時点で姿を現し、ほとんどの一神教徒らがそれを歓呼して迎えてしまうだろうからである。その点でエゼキエルは、第四十章以降に第三神殿の寸法を克明なまでに記し、そこに座す傲慢な者の現れを誘ってもいるのである。
それに誤導される人々らは、倫理の観点から神を捉えず、目に見えるメシアを望み、表層だけの感動と偽りを愛することであろう。



◆偽預言者と『蛙』の印
こうしてゴグの攻撃目標が、本来、聖霊の言葉に信仰を懐き、地に残った信徒らの集団に対してのものであることが分かる。それは強力な軍備を持つイスラエルという国家でも、核兵器さえ持つものとされる民族に対するものとは言えたものではない。

ではそこで、次にゴグについて探ってみよう。
というのも、その人物は何故にこうも神に反対する行動を起こすのか?
また、この21世紀前半に無いほどの、世界の公権力を集めるほどの猛烈に強い権威を持つのは何故なのか?
では、以下に解明を進めてゆきたい。それがいよいよゴグの素性を暴き出すからである。

さて、ゴグのように諸国家の軍事力を召集している場面は他のネイヴィームにもあるが、その召集者について言及しているのは新約の黙示録の方である。
その第16章の場面ではこのようにある。
『龍の口から、獣の口から、偽預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。
これらは、しるしを行う悪霊の霊示であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは全能なる神の大いなる日に戦いをするためであった』とある。(黙示16:13-14)

『龍』とは悪魔であることは黙示録の文面から明らかだが、『獣』とは聖徒を滅ぼした七つの頭を持つ野獣、即ち世界の公権力の集合体であろうかと思われるかも知れないが、これは後から現れる『子羊のような二本の角を持つ野獣』の方であろう。なぜなら七つの頭を持つ野獣の行動期間が『四十二ヶ月』と制限されており、それは聖徒らが預言する期間と変わらないからである。
従って、終末もこの辺りまで進み、いよいよハルマゲドンへと諸国の権力が集められる頃には、七つの頭を持つ野獣は既になく、それを記念した偶像である『野獣の像』に取って代わっているだろうからである。

そしてこの場面には、世界を神への戦いに引き込むよう使嗾する者らの中に『偽預言者』と呼ばれる要素もある。
この者らが、世の為政者らに対して預言者として権力をどう用いるかにつき、悪霊の指図を伝えられるからには、この『偽預言者』のことを世の人々が『偽』と思っているわけもない。
神の側を正しく代表し、不思議な奇跡を行うことが出来、その発言は重んじられるに違いない。彼らにはなお一定の霊力があり、奇跡の『印』を行えるからである。イエスに向かって『わたしたちはあなたの名によって預言し、悪霊を追い出し、数々の奇跡を行わなかったでしょうか』と言う者らを退けることを予告されたが、これらの業こそは、本来なら聖霊注がれた聖徒だけの成し得ることである。(マタイ7:22-23)

だが、ここで注目したいのは『かえるのような』とされる『霊』である。
なぜ『蛙』かと言えば、聖書には確かに前例が存在している。

それは出エジプト記の中にあり、モーセとアロンが次々に奇跡を行ってはエジプトの地に災いを下す中、ファラオの前で同じような奇跡を二回目までは真似することのできたエジプトの神々の祭司らのことであり、一度目は水を血に変えること、そして二度目は、彼らが出来た悪霊の奇跡の限界、蛙を異常繁殖させることであり、それを見たファラオはヘブライ人の神の奇跡と託宣を平凡な事と侮り、イスラエルを奴隷として留め置く決意を強めた。しかし、エジプトの祭司らにはそれ以上の奇跡はモーセらのようにはできず、次から次へと奇跡を行うヘブライ人について『あれは神の指です』と嘆きつつ見ているほかなかったのであった。(出埃8:1-15)

そこで、出エジプト記の『蛙』を黙示録が再度描いていると捉えるのことは、共に神の民に不利益をもたらそうとする権力者を慫慂する宗教家という概念で新旧の聖書に整合性がある。

では、この『偽預言者』というのがキリスト教ではない異教のもの、あるいはキリスト教でも異端的とされる今日のどこかのカルト宗派に属するものかと言えば、どちらも違う。

何故なら、黙示録の世界の軍事力を糾合している段階で、実は旧来の宗教組織の集合体を表す『大いなるバビロン』という娼婦の姿をした黙示録の表象が既に危機にあるからである。いま論じている黙示録第16章の直前の聖句はこうなっている。
『第六の者が、その鉢を大河ユーフラテスに傾けた。すると、その水は、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるために枯れてしまった』。
これこそは、大河ユーフラテスを防備に栄えた大都市バビロンが、前539年の初秋の一夜にして攻め取られた原因であったのだ。黙示録では大河の水を『人々』であるとしている。

従って、聖書は神の民を捕囚にしていたバビロンが鉄壁の防御を誇ったにも関わらず、夜間に市内を貫流する川の水を別の水路に流され、川床を歩いて攻め入ったメディアとペルシアの軍隊の前にあっけなく陥落した故事を用いて、終末での旧来の宗教組織の信者の急激な心離れが起り、しかもそれに気付けない宗教団体にとって、それが既存の諸宗教の破滅への道を拓くという、現在では信じ難いことを例示しているのである。
大娼婦バビロンは古代にシドンから嫁いで来たイゼベルのように『わたしは女王として座す、寡婦なのではない』と言っているそのときに、宮殿の階上から石畳に落とされるかのように失墜し、その財は犬どものような権力の手先によって収奪されてしまうのであろう。その滅びはエフーが操るメルカヴァのように狂ったように疾駆して到来する。

従って、世界の軍事力を糾合する『偽預言者』とは、我々が現在に見ているような宗教に属する宗教関係者とは言えないと結論できる。それは霊感によって預言を行うことでは聖徒らのようであり、不思議な力を持ってはいても、それは聖徒らと同じ聖なる源からのものではなく、邪悪な霊力に支えられるゆえに『偽預言者』なのであるが、その不思議を行う霊力によってさえ、今や一般的宗教家に勝る立場を得ており、それゆえにもかつての信者の多くが旧来の宗教に価値を認められずにそこを去っていることであろう。しかし、それは人々が信仰心までもを失うということではないらしい。

既存の宗教には不思議を行う力量について見るべきものがない反面、大衆的信仰者など、人気や流行に流れるものに過ぎない。スピリチャルが流行るのであれば、幾らかの霊力を悪魔が見せるだけで大衆誘導など容易なことであろう。アダムの子孫で構成される『この世』とは、そこまで軽はずみで背徳的なものであり、それはカナンの神々を奉った預言者エリヤの時代のイスラエルと些かも変わらない。


◆脱落聖徒を用いる悪魔
他方で『偽預言者』とは、実は「契約から脱落した元聖徒」であり、天界のキリストの許に集められることもなく『一人は(地に)おいてゆかれる』とイエスに予告された、地に残された『一人』に相当する者たちを言うのであろう。彼らが最終的に『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか』と弁明するにしても、当然ながらキリストの答えは明白であり『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。というものであることを福音書が明かしている。(マタイ7:22-23)

これらの者らは、聖霊が注がれ始めて聖徒らが現れると、その初期から早速に脱落し始める者として現れることをダニエル書が示唆している。それは恰もイエスの語った「小麦と毒麦の例え」のようであり、どちらも共に生育することになる。

脱落聖徒らは、終末の二大覇権国家の一方である『北の王』による罠に陥る聖なる者として描かれる。その北の王は『聖なる契約に逆らってほしいままに振る舞う』ことでは古代のセレウコス朝の王エピファネスの対型であり、『聖なる契約を離れる者を甘言によって棄教させる』ともある。(ダニエル11:32)
即ち、聖徒らの前には迫害と甘言の罠が置かれることになり、それらによって彼らが真にキリストに従う者であるか『練り清められる』ことになる。(ダニエル11:35)

脱落してしまった元聖徒らには何の将来も残されていない。『ただ、裁きと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを恐れつつ待つだけである』(ヘブライ10:27)
その点では悪魔と悪霊たちの境遇と変わりなく、滅びが確定してしてしまった運命共同体とも言える。そこで悪魔と悪霊は、この元聖徒らに霊力を与え、『この世』への影響力を付与することになろう。『この世の権威はわたしに与えられている』という悪魔の地上の代弁者となり、世界的権威を帯びるようになる元聖徒らの行うところはイエスが指弾するように『不法を働く』ことなのである。(ルカ4:5-7)

その『不法』とは、元来は神の業を行うべきところを歪曲し、神と敵対するはずの『この世』の仲間となるところにあろう。聖徒であって一度脱落したなら、もはや神の側に立つことは叶わない。『悔い改めに戻すことは不可能』であり、『裁かれることへの恐ろしい予感』に怯えるだけであれば、悪魔の道を共に歩もうとする以外に行えることがない。(ヘブライ10:26-27)

そこで、地上を統べ治めるべきメシアの預言を、この世の希望的憶測に置き換えることは以前から広く行われてきたことであり、イザヤの平和の君メシアによる世界平和の聖句は国連の理念であるかのように飾られている。だが、それは本来無関係なものであり、『神の王国』と『この世』とは折り合えるものではないのである。(イザヤ2:4/ヨハネ第一5:19)

そして宗教を極端にまで嫌い、キリストの『新しい契約』にあった聖なる者らから脱落するよう謀った『北の王』が、配下の『腕』また『荒らす憎むべきもの』を用いて聖徒全体を亡き者とした後、何等かの理由で権力崩壊を起こしてしまって後、世界は二つの覇権の間で敵対し合う緊張関係を脱するのであろう。人々は平和の到来を喜ばないはずものない。だが、それは人間が不倫理性を脱したので訪れる平和ではなく、覇権の競合がなくなっただけのことであり、キリストのもたらすものでもない。(テサロニケ第一5:3)

もう一方の残った覇権国家は、聖徒を滅ぼした七つの頭を持つ野獣、また『荒らす憎むべきもの』をまさしく「生ける偶像」に仕立て上げ、『野獣』としての公権力の集合と『偶像』としての宗教的集合という政祭の象徴的頂点の座を設けてしまうというように黙示録の第13章11節以降は読める。

自分を諸宗教の神々以上に高めるという性癖は、既に『北の王』が見せていたものではあるが、その非宗教性は万人が受け入れるものではなかったに違いない。しかし、この度の生ける偶像となる『不法の人』は基本的にはキリスト教を基本とすることになり、宗教、特に一神教への是認度は高いことにはなるが、実はそれは自分を崇拝対象とする究極の一神教を認めさせることに於いての是認であり、一神教同士の野合はあっても寛容性はない。

それこそは太古の蛮王ニムロデによる世界支配の野望の再現であるので、残った世界覇権国家が主導して『剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた』との黙示録の記述も、あの七つの頭の内の一つを剣で打ち倒されていた野獣について、歴史上の七大覇権の象徴の第一、シュメール期のニムロデの覇権であったと見ることができよう。歴史上の世界覇権を表すその頭の一つは、言語分割という神の一撃によって世界制覇を打ち砕かれ、かつて姿を消していった。だが、黙示録は七つの頭を付けた不格好で異形の獣物が『底知れぬ深みから上ってくる』と警告しているのである。(黙示録17:8)

ともあれ、終末では最終的に世界は複数の国家が覇権を荷うのを止め、一つの覇権を世界が戴き、宗教的にも、特に一神教に於いて一つにまとまる機会を得ることになるらしい。
これは突飛な謬説とも言えない道理がある。
何故なら、世界を治めるメシアを教える預言は三つの一神教に共通しており、それぞれ終末にメシアが現れるところもそうである。そこに自称メシアが現れ、幾らかの奇跡を見せるならどういうことになるだろうか。

そのうえ、世界が一つの覇権を戴くために、世界の争い合う大半の人々が共通して納得のゆくであろうものと言えば、メシアの支配を置いてほかにない。それは宗教であるゆえに民衆をして広く、どんな政治理念をも超越すると看做され得るものだからである。
こうして世界は「アンチ・クリスト」を自ら呼び出してしまうことになる。


◆アンチ・クリストの影響
既に、脱落聖徒には悪魔の側の霊力が働いており、『蛙』程度の奇跡は行える。
そうなれば、脱落聖徒の中でも、特に野心的で不思議を行う力を持つ者が居れば、悪魔が古来用意してきた世界の頂点を成す玉座への道の数々が直ちに開かれるであろうことは既に見えている。
それがキリスト教に於いては、「キリストの地上再臨説」であり「三位一体の教理」であり、イスラムに於いては「終末に現れるマシーフ(メシア)たるイーサー(イエス)」であり、世界に平和を与える者である。ユダヤ教徒にとってはもちろん「偉大なダヴィドのような統治者」また「モーセのような預言者」の到来である。これに仏教の阿弥陀如来も加わらないとも限らない。
そこに偽メシア、「アンチ・クリスト」が人間でありながら奇跡の印を持って現れるとすればどういうことになるであろうか。

それゆえにも、イエス・キリストは何度も警告を繰り返されたのであろう。
『そのとき、誰かがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
偽キリストたちや、偽預言者たちが起って、大いなる印と奇跡とを行い、できれば選民をも惑わそうとするであろう。』(マタイ24:23-24)

三つの一神教が共通する聖地にエルサレムがある。
それらの宗教の源はユダヤ教にあり、ユダヤ教徒はエルサレムに今日まで神殿を再建していない。
ユダヤ教正統派のその理由といえば、神殿を再建してよいのはメシアただ一人であり、今日までユダヤ教徒が西壁で悔いるばかりで神殿跡地に入らないのも、不浄な人間が聖所や至聖所の場所を足で踏んでしまわないためであるとされる。
そのため、神殿域にはイスラムのドームが残されているままではあるが、ユダヤ教徒の中では、既に神殿祭祀で用いる什器類を再現しており、その中には契約の箱までをも含んでいる。もし、誰かがメシアを名乗って現れ、それが証明されたかのように幾らかの印を行うとすれば、熱心なユダヤ教徒らが神殿再建に動かされないでいられようか。(エレミヤ3:16)

現在のところ、神殿再建に熱心なユダヤ教徒らは、岩のモスクの建つエルサレムの神殿の岡に新しい神殿を建てることに拘っているのだが、もし、それをその場に再建するならイスラム諸国との軋轢が避けられず、エゼキエルの幻に描かれる諸国家がイスラエルの地に攻撃を仕掛けるのがイスラム諸国であり、それを統帥するのがロシアであるように予想している向きもあるようで、エゼキエルへの啓示にはゴグに率いられる諸国民の中にはペルシアもあって、その予想に現実味を添えているかにも見えるのであろう。

だが、終末預言は『人々が平和だ、安全だ、と言っているそのときに、突然の滅びが臨む』としている。(テサロニケ第一5:3)
イスラエルとイスラム諸国がいよいよ大きな戦火に巻き込まれるのであれば、終末のゴグのすることと言えば、おとなしい神の側に立つ人々へのではなく、敵意も武器も兵員も満たされた手強い相手との熾烈で泥沼の戦いに手を染める以外にあるまい。それを『平和だ、安全だ』と評することなどできようか。ましてイスラムの教えハディースに於いては、岩のドームが存続している状態になければ終末に入れないのである。
それであるから、エゼキエル書の幻の神殿がシオンでもエルサレムでもなく『高い山の南方』と呼ばれる場所に建てられている理由も意味のないものではなく、ユダヤ教オーソドックスがエルサレム以外のユダの地に神殿再建の用地を見出すよう誘っているのであろう。

それに加えて、今日の二大覇権国の一方は親イスラエルであり、加えて憲法上はともかくもキリスト教国家という以外にないほどキリスト教的である。そのためイスラム教圏とは度々対立もしてきたのではあるが、イスラムの「マシーフ」即ちユダヤ教の「マシアッハ」そしてキリスト教の「メシア=キリスト」が人の様を取って現れたとなれば、政治的対立も、その源泉となってきた宗教理念に於いて和合の根拠を持つ大義を得ることになり、三位一体のキリスト教徒らが、その者をキリストだと認めるなら、それは即ち神ともすることに躊躇しないであろう。[イスラームの終末]

加えてキリスト教徒の多くは、終末に現れるメシアをユダヤ教徒らが目撃して大量改宗を起こすと信じ込んでもいるのであり、その趨勢は今でさえ揺るぎないほどである。そこに元から偽物である契約の箱の上に、臨在光を装った不思議をサタンの霊力が真似をしないとも限らず、そうなればユダヤ教徒も納得してしまうことになるであろう。
おおよそUFOくらいで人々は騒ぎ、宇宙人なぞを想定している体たらくだが、むしろ悪霊という一層恐るべき敵意ある者らについての心構えなど何もしていない。あの者らにはまともに相手をする価値すらないのであり、好奇心以外に何の建設的な事柄も得ないはずである。であるから、悪霊の現れは見えていても無視するに以外に賢い方策もない。

だが、好奇心という悲しい人間の性のために、大衆は終末での悪霊の積極的な現れ、脱落聖徒らの行う不思議な技に大騒ぎし、溢れる水が低い土地を押し流すように低俗な大衆信仰の洪水は、一度流れ出せば止める者がいないほどにこの世を押し流すほどになるのであろう。

その「信仰」には人類の宿痾である『罪』への認識もなく、まして『悔い』などない。むしろ自分たちは科学的であると勘違いして悪霊の友となり、輝かしい将来のテクニカル・ユートピアへの人類の希望、或いは「偽の千年王国」さえ唱え兼ねないであろう。そこに倫理性などはなく、人間の『罪』を負っている実情を当たり前と見做し、これまでの地的政治の延長を『神の国』などと言うとなれば、それは天界の王キリストとの正面衝突を招く以外にない。

だが、それらを政治家たちがそれを妨害する理由があるだろうか。却ってその崇拝に助力するであろうし、『その像を崇拝しようとしない者には売り買いさせない』ような処置さえあり得ないとも言えない。つまりは、あの覇権国家が得意とする経済制裁や口座凍結である。

こうして世界は、悪魔の霊力の印の下に、一人の「生ける偶像」を祀り上げることが可能となる。
それが使徒パウロの予告した『すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する』という『不法の人』であろう。
こうして「アンチ・クリスト」また「偽メシア」そして『不法の人』が同一の対象を指していると見做す蓋然性があることになる。それに加えて、神殿に座し自らを神と称する偶像性に於いては、やはり偶像(シックース)を含意する『荒らす憎むべきもの』であるとも言える。

そうであれば、その者が世界支配の政祭の玉座に就いているのを見るなら、真のキリストに信仰を働かせる人々は、イエスの終末預言に従ってエルサレムを一目散に離れ『山に逃れる』必要がある。つまり、その「新たな偶像崇拝」を逃れてこの世の流れに従ってはならず、この世の外れであるような『山に逃れる』必要が生じるのであろう。それは実際の地上のものではない象徴の「シオンの山」ということなのであろう。後に真実のエルサレムが降る場所、つまり、その支配を受け入れる人々の集団のことであろう。(マタイ24:15-21)


◆マゴグの地のゴグの素性
聖書中の様々な終末に登場する表象を辿り出してゆくと、それぞれは多面的であっても、実は同一の事象を指し示しているということが、こうして結論できることになる。

世界の公権力をまとめて使嗾できるだけの権威というものがあるとすれば、それ以前にあった二大世界覇権に勝るほどのものである必要があるに違いない。
まさしく、その権限を終末に行使するのが『マゴグの地のゴグ』であることをエゼキエルが預言していたのである。

以上に推論してきたように、それほどの権限は世界支配権ほどのものでなければ難しいのであり、残されたキリスト教的世界覇権国家が後押しをするにしても、その権威のすべてをゴグに与えられるのは霊力を駆使する悪魔以外にない。

エゼキエルのゴグが率いる諸国の軍が、他のネイヴィームが予告していたように、終末の神との戦いに召集された人類軍であると見做すべきであることも見えている。やはり、同士討ちによって滅びるという予告の共通点をも有しているからである。

それであれば、ゴグの故地とされる『マゴグの地』とは『偽預言者』、即ち「脱落聖徒」の集団と見做すことが妥当であり、ゴグ本人は『反キリスト』であり、脱落聖徒の中でも非常に傑出した一人か、そうでなければ小グループであろう。いずれにせよ、ゴグは地の人であるに違いない。イエス自身が再三警告されたように、真のキリストは終始『雲』という不可視性の中に在って、人々をその内面から裁くためにも、地上に見える仕方では再臨しないからである。(マタイ24:26)

そこで、彼が『北の果てから来る』と預言されていても、これは方角としての「北」を指してはいないし、『メシェクとトバルの総首長(ロシュ[ראש])』とあるから「ロシア」を指すという短絡的な解釈は荒唐無稽なばかりである。⇒「文語訳に現れる「ロシ」
『北の果て』という言葉は詩篇に於いてはエルサレムについて用いられており、それはイザヤ書が悪魔の望む至高の位として追認している。
『わたしは天に上り、わたしの王座を高く神の星の上に据え、北の果なる集りの中の山に座し、雲の頂点に上り、いと高き者のようになろう』と、まさしくその野望の究極的に高い座、至高の座の象徴とされているのである。(イザヤ14:13-14)

これは古代人が天空のすべての星辰が極北を中心に回転する姿に畏敬の念を懐いたところに例証されている。宇宙や地球の姿も世界地理も充分には知られていなかった頃の北半球の古代文明にとって、全天が従うべき中心こそが『北の果て』なのである。
その「北辰」を中国では「天皇大帝」として崇めてもいた。詩篇も『高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都』と詠うように、明らかに極北は至上の座を占めるものを意味しているのである。そうでなければ、北緯が32度にも満たないエルサレムがどうして『北の果て』と呼ばれるのだろうか。確かに詩篇は神の神殿を戴く聖都についてこう語っている。『高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都』(詩篇48:2-3)

その点でエゼキエルの預言も、偽りの神殿に座すゴグが『北の最果て』という至高の座から行動を起こして『来る』という意味で、『不法の人』であり『反キリスト』であり偽メシアであることを明らかにしていると言えるのである。パウロの語るように、彼の占める座が至高者の位であるからこそ、それを通して悪魔はニムロデ以来の宿願を遂げるのであろう。言語と共に七つに分割された覇権は、一匹の野獣によって具現化するのであろう。しかも、それが偶像化されるというのである。(テサロニケ第二2:3-4/黙示録13:4)

ゆえに、『マゴグの地のゴグ』という表象には、悪魔の望む支配の絶頂としての著しい権力を使嗾する者として『アンチ・クリスト』の意味があり、宗教的頂点に神を自称して座し『野獣の像』を司ることに於いては『不法の人』であり、悪魔の代理者の偶像となって崇められるところは『荒らす憎むべきもの』であり、西暦七十年に神殿を占拠してエルサレムの滅びを招いた野盗や熱心党のような無法者、この世に滅びを呼び込む者でもある。また裏切りという『違背』によって聖徒を渡すところはユダ・イスカリオテに同じく『滅びの子』でもあり、悪魔の代理人がその正体である。(ダニエル8:12/ヨハネ17:12)

したがって、エゼキエルの預言にある実際の北方を示唆する幾つかの地方の名称が登場するのはゴグの正体を突き止めさせないための神のカムフラージュであろう、加えて、プト(リビア)やエチオピアの軍がわざわざ北から来るだろうか。これもまた実際に言葉に拘る者らへの罠ともなるのであろう。なぜならエゼキエルの預言によってゴグを崇める者らが呼び出されるためである。恐るべきことにゴグの預言がゴグを登場されるということになる。

そもそも聖書の原著者にすべてを誰にでも明かす意図があったなら、敢えて一つの物事の情報をわざわざ多くの断片に切り分けて、パズルのピースのように聖書中に散らしてしまう必要がない。それは然るべき時に然るべき相手に開示されることが意図されている。また、誤解するものにその思うままの行動を取らせて反対行動を起こさせるための難解さでもあろう。やはり、聖書には裁くための罠も仕組まれている。

というのも、当然ながら『ゴグ』が自分を「ゴグ」だと認めるわけもない。むしろ『メシア』という聖書の概念に自らを立脚させ、攻められるのは自分たちの方であり、虚勢の神殿に座する自分たちに攻撃を仕掛ける何者かを「ゴグら」に仕立て上げる必要がある。
ゴグの軍勢が正義のための防御の戦いに向かうとされるなら、『ゴグ』自身である偽キリストには、自分にとっての「邪悪な」別の「ゴグ」を必要とさせる。即ち、聖書を一辺通り逆に解釈するのである。そのためには聖書が書かれたままに理解できるようであってはならず、『ゴグ』には別の「ゴグ」を求める余地がなくてはならない。彼に従う勢力は、彼らにとっての「ゴグ」を他ならぬ天界の真実のキリストに設定してしまい兼ねない。つまり、「神なるキリストは我々と共に地上に居る」とすれば、「ほかにキリストを唱える者はアンチ・クリストでありゴグだ」と言わざるを得ないことになる。これがたいへんな事態を招かずに済むだろうか。終末の人々はゴグというアンチ・クリスト崇拝によってキリストの敵となるのであろう。

即ち、「ゴグ」の攻撃を受ける被害者は地上の虚像のイスラエルに座する自分たちであり、その立場を危うくさせる者らがゴグとマゴグであると主張し、その防御のために諸国の軍を集めて抽象のイスラエルの民を攻撃させる。
そこでは聖書を逆に解釈させる強い誘因がある。

例えれば『その日には、もろもろの国語の民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、「あなたがたと一緒に行こう」』などの句をどう解釈するだろうか?
このユダヤ人を文字通りに捉えて「見えるキリスト」が存在する地上の都市エルサレムと、血統のユダヤ民族にその成就を見てしまわないだろうか。(ゼカリヤ8:23)

そうして仕立て上げたその別の「ゴグ」の襲来から自らを守る正義の戦いに本物の『ゴグ』が立ち上り、そうして聖書の『ゴグ』が却って実体を明かすことになろう。
だが、この『ゴグ』の襲来の概念はユダヤ教とキリスト教ばかりでなく、イスラム教徒も既に共有しているものであるから、そうなると聖書、それも新約聖書の詳細は無視される危険があり、三つの一神教の合同の流れは最高善とも見られ、聖書の多少の詳細は無視され、もはや止めようも無い潮流となることも考えられよう。

キリスト・イエスが『神の王国は目立った様では来ない』と言われ『見よ!そこをとか、ここをというものではない』と言われた背景がここにもあることになる。なぜなら、続けて『しかし、そちらへ行くな、彼らのあとを追うな。』と言い添えられているからである。やはり臨在のキリストは不可視であるに違いない、これら警告の言葉は、終局に於いて生死をも分ける結果を人それぞれにもたらすものとなるのであろう。(ルカ17章)

今現状で啓示されて言葉の中から分かることは、その最大の敵が『イスラエルの山々』で表される信仰の人々であり、真のキリストを聖徒を信じる信徒の集団がゴグの権威の土台を揺るがす最大の敵と見做されるのであろう。しかし、真の彼らの敵とは天界のイエスと聖徒であり、『善を悪であると言い、悪を善であると言う』『自分の目に賢い』彼らは征服すべき自分たちの敵を地上の人々に据えるのだが、軍事力の圧倒的優勢にも関わらず、実は勝ち目はない。それゆえ黙示録がその無謀な戦役への集合場所を『ハルマゲドン』と呼んでいる。(イザヤ5:20)

では、エゼキエル書のゴグの記述に何の意味があるだろうか。
そこにはゴグによる終末の軍事行動と惨めな敗北、また、累々たる屍の処置について書かれてはいるが、建設的な意味合いは然程ない。
『ゴグ』に伴ってハモナ([הֲמֹונָ֖ה]群衆)の一人となりさがり、神に敵対する俗世の潮流に押し流されない側に付くことが総じた教訓と言えるほどである。かと言って、それが易しいことにはならないのであろうが。

そのためか、エゼキエル書中には再三「安息日を神聖なものとせよ」との訓戒が繰り返されている。聖と俗とを明確に分かたないなら、人は容易に俗化し流されるからであろう。聖なることが要求されるのは祭司の対型である聖徒らばかりではなく、安息日に忙しい彼らを別にして、真に安息日の聖を保つべきなのは、むしろシオンに集う信徒の方であろう。俗世に飲まれれば、その人は容易にゴグの追随者となり、『666』の印と『額』(思い)と『手』(行為)とに押され奴隷化することであろう。その人々は『安息』を示唆する『7』に達することは決してない。俗に塗れ、俗のまま聖なる千年王国には入れない。(39:16)

次いで我々は第40章以降に摩訶不思議な神殿の幻を延々と読むことになる。
これらは共に善なる人々のために書かれたものというよりは、むしろ、この世が広く流されてしまう終末の偶像崇拝者、つまりは真のキリストの反対者らへの啓示となっているのであろう。そうでなければ、どうして建設可能なまでに設計の詳細が次々に語られるのだろうか。しかも第二神殿はこの設計で造られていなかった。
即ち、エゼキエルの預言は、ゴグという究極の支配者にして崇敬される生ける偶像となる者について語るばかりか、その座すべき場所まで提供しているという恐るべき書なのである。

終末で許多の人々がこの神の言葉の罠に嵌まることであろう。
特に一神教徒、この『ゴグ』が地上に存在するエルサレムを目指して攻めて来ると現に妄想している多くのキリスト教徒、またそう捉えるようになる更に多くの数になるのであろう諸宗教の人々が、聖書本来の意図を曲解し、アンチ・クリストを擁護するための証拠とするために、エゼキエル書の中に前6世紀の古代から刻まれていた『マゴグの地のゴグ』の文言が、終末の世への罠となる危険性が有り得ると言える。
その者『ゴグ』は「獣崇拝」の偶像であり、俗物を示す『666』は決して完全なるもの、「安息の聖」と成り得ないことをも指しているであろう。即ち、対型的安息日の千年には入らないのである。

情勢に流され『不法の人』による世界平和の達成をただ喜んでいれば、その脆弱な対症療法の惨憺たる結末を味わうことになるに違いなく、人は『神の王国』という根本治療を望むべきことは道理として見えている。(テサロニケ第一5:3)

総じて言うならば、地上のキリストは偽者であり、その者は『マゴグの地のゴグ』である。
そのマゴグとは脱落聖徒の集団であり、ゴグはその総帥として偶像化されるに至る。

ここまでの理解ができるなら、二度目に語られる黙示録の方の『ゴグとマゴグ』の素性にも見えて来るものがある。
即ち、一般の復活に混じって再登場してくるであろう天への復活を拒まれた元聖徒らの集団が考えられ、それに従ってしまう海の砂粒のような無数の者らの背景には、生前に信仰していたそれぞれの宗教への固執がある。

千年期の後に復活する彼らについては、パウロが言うように『人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』のだが、死の状態が『何の意識もない』以上、千年期後に復活して来る人々は生前の宗教を引きずっていると見做すべきに違いなく、それはエデンの誘惑のようにその人々に作用して、眼前にどれほどの麗しい世界が打ち建てれていようと、何等かの欲に誘われる危険は有り得る。復活する諸世紀の人々は、かつて生きたときの俗を捨てられるだろうか。(コヘレト9:5-6/ヘブライ9:27)

これを現時点で指摘しても、ほとんどの読者の関心も引くまい。
だが、終末に入り、いよいよ究極の偶像崇拝がその輪郭を顕わしてくるならその限りではないのであろう。





  新十四日派    ©2020 林 義平







追記:

マゴグ[הַמָּגֹ֔וג]というヘブライ語が、もしもアヴェスター語より古くからのメディア系言語の発音に由来しているのであれば、メディアの宗教種族のmagu,またはmayuを指している可能性が出て来る。古来、クセノフォンなどの著述でのギリシア語ではその種族を「マゴイ」[μγοι](pl)と確かに呼んでおり、元の発音がmとgに由来することが示唆されている。(現「創世記」の編纂が前十世紀以降とするなら尚更に)
そしてマシアッハのエシュアを除き去るようにと結果的にヘロデ大王に働きかけたのが『東方からの博士ら』であり福音書は確かに彼らを「マゴイ」[μγοι]と記している。

そうなると、イザヤでマシアッハとして指名されたクルシュ、即ちキュロス大王の生まれたところを殺害するようにメディア王アステュアゲスに王位の危機を語って嬰児の殺害を促したのも、後に現れたもう一人のマシアッハであるエシュアにしても、その嬰児の時期に殺害に関わったのが二回ともメディア=イラン系宗教種族の専門家(魔術師「マギ」)を指していることになる。⇒「指名されたメシア」

それは単なる類似に終わらない。三度目が黙示録に示唆されている。
なぜなら、黙示録の第12章で終末の入り口に於いて、同じ策略が弄されることが示されているからであり、そうなるとゴグまたはマゴグに相当する者が聖徒の再出現の以前から活動していることになり、ゴグが脱落聖徒ばかりとは言えない可能性もあることになる。(聖徒とされる以前から悪魔的であれば)
だが、それでも諸国の公権力を糾合させるという役割はエゼキエルに明らかであるので、その論理は十分ではない。やはり幾分次元の低い奇跡は行える。
或いは、終末に聖徒の誕生時を狙う、「三度目のマゴイ」(μαγος/sg)とは聖徒に装う悪霊の顕現を持つ者であるのかも知れない。この危険は十分な注意を要するものとなろうが、終末の聖徒以前に在る今からもその脅威は考えられる。
終末のマゴイは、サマリアのシモン・マグスのように、草創期に聖なる契約に紛れ込んで来るのかも知れない。おそらくそうであろう。自分が神秘的な力を持つことに異様な関心を持つ人々は必ずのように常に存在してきたし、現に世間での名声を得てもいる。だが、あれらは悪霊の力によるのであって、彼ら自身にその力量があるのではない。(既に、その傾向を示す複数の人々からコンタクトがあった)

その例でゆけば、聖書やキリスト教に触れる時間が短いにも関わらず(モンタノスのように)、霊の顕現には強い関心を持つスピリチュアル的な人々の様子に注意が向く。聖徒にしては価値観が異なるのである。その人にとっては神の経綸への大志よりは、自分の霊力と栄誉に関心があるのだろう。やはり聖書によって培われる価値観、また聖徒たりえる程のキリストに続く自己犠牲の精神を懐くには、熟成のための時間を要すると見てよいと思われる。それは契約を全うする聖徒には必須と言って良いのであろう。

しかし、本文の執筆人は、現状で黙示録の女の生む嬰児を龍がどのように襲おうとするのか、また、その策謀に「対型のマグ族」がどう関わるかは十分には推論できていない。だが、マゴイが聖霊降下の時期に聖徒として紛れ込むことの危険性は高いと言わないわけにもゆかない。シモン・マグスは『神の王国の鍵』の権威を持つ使徒ペテロが締め出したが、終末に使徒は居ないので、この点の防備はかなり弱い。「諸国の王が懐に聖徒らを担って運んでくる」のであれば、誰がそれらを吟味する権威を持つだろうか。

この権威について聖書は沈黙しているようであり、その不明性が終末のマグとマゴイの現れを誘っているかのようでさえある。それはキリストを裏切る者や、屠る者らについての情報を聖書が事前に詳細には語っていなかったことに類似する。即ち、それが、邪悪な者をさえその自発心によって『器』として用いるところの、全ての者を創造された神の秘儀なのであろう。(ローマ9章)

ひとつ言えることは、どうしても霊的な不思議に関心が向く人々が一定数存在することは確かであり、その神の経綸への捉え方は、ペテロが戒めたように『まっすぐでない』。倫理の価値観が働かないからであり、それは単なる憑依でもなく、その性向を替えることはかなり難しいらしい。それはシモン・マグスの生涯についての伝聞が語るところも示していると言うべきであろう。 加えて、エゼキエルの「第三神殿」の立地については、建物の周囲の中庭はともかくも、外周を巡る垣の長さがシオンにもモリヤにも入らないほど広い。

また、エゼキエル書中の部族の割当て地の面積に不足が生じるのだが、この点を記述に当てはめようとすると実際のエルサレムの位置では無理がある。この点でエゼキエルは、幻の神殿の位置をエゼキエルは『イスラエル』とは言うのだが『極めて高い山』とは言うだけで、そこがシオンやモリヤであるとはけっして言わないのであり、これは異様でさえある。そのうえ、神殿に関する記述の中には、神の発言として現実のエルサレムの場を忌避しているところ散見されるし、レヴィ族がカナン人のような下僕にされている。
だが、これらの意味するところは、また改めて記述しようと思う。(内容は極めて深刻であり、知識の遊びでは到底終わらないし、そのような関心の方にはお読み頂きたくもない)





 

突如瓦解するダニエル書の『北の王』

難易度 ☆×7 特高  長文2万2千字超 
予備知識 ⇒ 「ヘレニズム史、ダニエル等の預言書と黙示録後半の理解 」
ダニエル書に現れる『北の王』を歴史と聖書の諸書から探る
その恫喝と『シオン』の人々の活躍について




終末に関わる『北の王』については、ダニエル書に見られるように『聖なる民』に与える害はもちろん、その権力の存在が世界に与える悪影響は小さなものでは済まないらしい。しかも、終末以前である今日ですら、既にその対型的『北の王』の狂気が世界を狂わせつつあるらしいのだ。もしそうなら、聖書に永らく語られてきた「終末」の舞台は、現状の世界に於いて今や整いつつあるという事になる。

さて、この世の終りの時期に於ける世界の状況と言えば、『南』と『北』という二つの強大な覇権国家同士の軋轢の渦中にあることを予告するダニエル書も第11章という場面は、旧約聖書と新約聖書の歴史記述の間隙を埋めるということでは特異な部分であり、それも終盤に至ると、単に当時のマケドニアの二大王国である『南』に位置するエジプトのプトレマイオス王朝と、『北』を占めるシリアのセレウコス王朝の間断の無い争いにユダヤが激しく揉まれることを予告するものだけとも言えない様相を呈し、何か別の事を伝えようとしている意図が濃厚に感じられる。

終末を描くダニエル書の第11章の後半部分では、やがて『南の王』が一旦は語られなくなり、代って『聖なる民』と『北の王』という新たな二者対立の構図が見られ、そこに『北の王』の著しい神への抗いが語られる。それはヘレニズム期に実在した『北の王』シリアを介してユダヤとエルサレム神殿を襲った時代の危機について、それを更に二重写しにして、終末に起る事柄をヘレニズム期とは別の時代の出来事、つまり途中から転じて古代アッシリアの聖書に記された故事に触れ始め、複数の事象を縦横に用い、我々のまだ見ぬ終末の姿について更に詳細に予告していると見るべき証拠のような記述が、聖書の他の預言や黙示録に散見されるものと併せてダニエル書にはまことに示唆的に記されている。

そこで、それら関連する一連の預言をまとめてみようと以下に試みた。
結果として顕れて来たものは、終末に起るとされる事態の概要であり、やはり徒ならぬものとなった。そればかりか、その『北の王』の特徴を備えた国家が今日我々の眼前に既に見えており、その性質をますます露わにしつつあるのは特に我々の注意を惹起するものである。

もし、そうであれば、終末に起るのであろう聖書黙示に記された諸事の勃発は、そう遠い未来でもなさそうなのであり、これを読まれる方々に実際に何かのお役に立つこともあるならと思う次第である。
というのも、既に姿を見せているらしいこの『北の王』は、終末に於いて良い意味でなく予め神から定められた相当に重要な悪役を負っているからである。

本来のユダヤを著しく悩ました『北の王』シリアの悪王アンティオコスVI世に相当するところの終末の悪辣な権力者も、『終わりの日』に現れることを預言される奇跡の聖霊で語る『聖なる者たち』を迫害して打撃を与えることに成功し、また甘言を用いて彼らを堕落させる姿がダニエル書のその場面に見出されている。 また一方で、終末の局面に於いてかなりの数の人々、それも終末に再び現れる『聖なる民』には属さないながら、彼ら聖徒の言葉に信仰懐く人々が、いよいよ『北の王』と対峙することによって遭遇する緊迫の終末の事態と、それから奇跡のような突然の解放を得て後に、去って行った聖徒らに似た業を続いて広く行うその人々の大きな活躍の姿とが黙示録や福音書の補足によって見い出されるのである。

その人々とは『シオン』とイザヤに呼ばれるところの信仰の場に集う人々、聖徒らの人数を遥かに越える相当な数に上る信徒のことを指している。
聖徒という『神の王国』に属する偉大な民にさえ勝利した『北の王』であるにも関わらず、迫害に去っていった聖徒になお従う信徒の民を前にして、恫喝していながらも実害を与える事なく忽然と倒れる事になり、強大に見えた権力を一時に瓦解させてしまうという本稿の結論が正解であるなら、それは鮮烈な印象を与える歴史上かつてない事態となるが、今でさえ、それは必ずしも有り得ない事にも見えない。
なぜなら、現に見えているあの覇権大国が『北の王』であるなら、それは強引な独裁と腐敗に立脚し、被支配民からの自発的コンセンサスを得てはいない「危うい大国」であるからである。



◆マケドニア南北朝に描かれる終末

まずは、なぜ『北の王』と呼ばれるかであるが、それがダニエル書の第10章以降に描かれるマケドニアの二大王朝の対立の中での南北、即ち、プトレマイオス朝エジプトと、セレウコス朝シリアに於ける北側のシリア王国を『北の王』と指すところからくる名称である。
即ち、ダニエル書の黙示は、終末を予告するために、古代の事象を語りつつ、それを鏡像として将来を写し出す手法をとるからであり、その技法は人間の能力を遥かに超えたことである。

この啓示を受けたダニエル自身は、後にアレクサンドロス大王が現れ、ヘレニズム文明が興されることになる二百年も以前の前六世紀、新バビロニア帝国に囚われていたユダヤ人であり、バビロニアがメディア・ペルシアの前に倒れた後も都市バビロンに在ってユダヤの将来に関わる黙示を天使から受け続け、ペルシア王キュロスⅡ世の第三年に及んでいたのである。

ダニエル最晩年のその年、前535年に与えられた最後の啓示によって、聖書の空白時代、即ち旧約聖書が後の預言者マラキによって書き終えられた更に先の「預言者はみな眠りに就いてしまった」とユダヤ人が嘆いて言い始めた時代、旧約と新約の聖書の間に横たわる空白時代についての予告情報をダニエルは得ていたのであった。

その時代への啓示は、シリアとエジプトの抗争の次第を描いてダニエル書の第11章の39節に及ぶ。それらの言葉が成就するのは、専らにダニエルから二百年後のアレクサンドロス大王の征服と死を経た前4世紀からマケドニア二大強国の鬩ぎ合う前2世紀の事ではあるのだが、更に『北の王』が最後に『南の王』の領域を侵犯することを描く第11章の40節以降は、その歴史の実際を離れてあらぬ事を語り出している不思議がある。

ダニエルは天使からその時代にユダヤに何が起こるのかを知らされたとも言えるが、その情報はマケドニア南北朝の対立の時代の情報を伝えることだけを目的とはしておらず、別のより重要な時代、即ち聖書の全巻が一枚のレンズのようになって焦点を合わせる「終末」という短い期間に起こる人類史に例を見ない事態をも知らせ、その知識を得る人々に重い意味をもたらす事に於いてまことに畏怖すべきものである。

さて、前4世紀の前半、マケドニアから現れた英桀アレクサンドロス大王がその地位に就くや否や、電撃的に小アジアに入り、エジプトを手中にするあたりからマケドニアの勢力がユダヤとの関わりを持つことになり、それまでのペルシア支配の安定的な時代が終わりを告げ、ユダヤはギリシアによる新たな時代の激流に巻き込まれてゆくことになる。それが即ち東西の文化の融合する「ヘレニズム」の時代である。

ダニエル書の第十一章以降、チグリス川畔に立つ天使からダニエルに伝えられた情報の中に、南北の王の対立が予告され描かれている。
それはまずダニエルの当時のアケメネス朝ペルシアの王らに言及した後に、明らかにアレクサンドロス大王について語り、その亡き後、大きく四つに分かれたマケドニアの後継者らの争い「ディアドコイ戦争」の結果としての強勢な二大王国の確執に関する細かい記述に入ってゆく。

ダニエル書の中ではその当事者の実際の名も国も明かされてはいないのだが、後のマケドニアの歴史の記録を辿ると、そこで語られる南北の争い合う王たちの姿はエジプトとシリアの歴代のマケドニア朝の王らや妃たちに当てはまっており、その的確さは異論を挟むまでもなく、識者らはその整合具合からして、それらの出来事が起った後に預言を装って記されたものに違いないと判断しているほど歴史と合致しているのである。

だが、識者らの説明も40節を越えると途端に歯切れが悪くなる。その原因といえば、ダニエルの述べる内容が一連の歴史から乖離し始め、マケドニア史から逸れるためであり、それまでの理路整然たる明解な知識人の説明も12章に入るころにはほとんど荒唐無稽な解説になってしまう。

確かに聖書そのものにも『人は後に起ることを知り得ない』と書かれている。だが、その聖書は預言の書でもある以上、人間以上の源からの情報をそこに想定するべきであることは言うまでも無い。
そこでこれらの預言の記述も、予め起る事柄を神が人に知らせたということになる。

しかし、予告だけの意義と言えば神の予知能力の確認というほかに余り挙げる名目もない。
つまり、「ダニエルはこのように書きましたが、その通りになりましたね」というだけであれば、「神は存在するのですね」の結論で終わるだけであり、もし神が人に自らを顕現されないことが神意であるなら、その結論はまるで意義がないではないか。
しかも、科学は神を検知せず、また神も人に顕現されないゆえに、自ら人類に対して圧倒的存在となることを願わない理由すら神にはある。それを一言で云えば人をして、その自由な意志の下に裁くためである。
やはり、神は『み顔を隠される』理由があり、そこで「神が存在するか否か」を超えた人の認識を求めているのであり、そこにこそ自発的『信仰』というものがある。

また、もしダニエル書の目的が捕囚後のイスラエルが辿る出来事を知らせるだけであったなら、シリア王アンティオコスⅣ世によるユダヤの神殿への冒涜だけでなく、ユダヤ人の勝利がもたらした神殿の再献納やハスモン家による一世紀近いユダヤ自立統治の栄光についてダニエル11章が語らずに終わっていることはまったく片手落ちに見えるところである。
ダニエル書の啓示が歴史の先読みならば、この異教徒に対するユダヤの勝利と神殿の清め、七十年にわたる独立支配こそ欠く事のできない神との契約ある栄光というべきものであることは間違いないであろうに、それが誇らしげに語られないとはどうしたことであろうか。

だが、その観方もダニエル書に示された啓示が、その後に起った事柄をただ一度予告したと見る限りのことであり、これらの記された言葉が更に将来、即ち「終末」についても二重に語られているとなれば単に前二世紀までの途中歴史の予告の限りではないことになる。

まさしく、ここに神の言葉が単に予告してみせるという低次元に留まらない意義がある。そのような「予告賛美の信仰」であれば、やはり「神は居る」という意味だけのことで終わるのであり、終末の事態に気付いたときにはその「信仰」に何の益もない。それは人に何を行うべきかを教えないからである。

だが『北の王』としてダニエル書第11章に示されてきたセレウコス朝シリアは、ずっと後の「終末」に対型となって別の権力が再度『北の王』となって現れ、徒ならぬ意味を持つのであれば、それはペルシア王キュロスの治世の第三年にダニエルが天使から受けた啓示の言葉の真価が伏流水のように悠久の永きに亘り聖書中に存続し、それらの言葉は『終わりの時まで秘められ』て来たと言えることになる。

即ち、『この世』というものの終わりが近付く時代、人類が大変革を迎える直前には、古代セレウコス朝シリアの鏡像のような覇権国家が終末に再登場することの警告となっていると言うことである。

ここでは、その根拠を追ってゆくことにする。


◆見掛け上の矛盾

第七章以降のダニエル書後半の預言には、政治権力についての歴史上の流れが記されている。
特に第七章の海から上がる四頭の獣については、ネブカドネッツァルとその帝国を第一の獣であるライオンに例えているところで理解は容易に進む。
実際の歴史上、新バビロニア帝国をペルシア帝国が破り、それからマケドニアが急速に世界を席巻した後、強力な帝国となるローマがマケドニアを破り覇権国として登場しており、これらはダニエルに示された四種類の獣とその特徴が合致している。

そればかりでなくダニエル書の第二章、それはダニエルがバビロン捕囚となったばかりのネブカドネッツァルの治世の第二年に示された王の夢の中の、四種類の金属で出来た巨大な人間の像の解き明かしとも合致している。
これらの啓示は明解であるので、これまでも多くのキリスト教研究家によって多くの解説がなされてきたものである。
即ち、新バビロニア、ペルシア、ギリシア、ローマと覇権が継承され、その結論と言えば、その四番目の覇権を以ってこの世が終わりを迎えるということであり、また神の『聖徒ら』が世界支配の権限を受けるということであった。これはダニエル第七章で順次登場する四頭の獣の幻とも合致することでは非常に分かり易く、今ここでの解説を要しない。

それらに加え、ダニエル書の第四章では大王ネブカドネッツァル自身が王権を離れ、とても復位が望まれそうにない境遇に落とされながらも、王位を簒奪されることもなく定められた時が満ちるに及んで正気を取り戻し、その経験から人間としての謙遜さをも含み、以前に優って王の器量を持ちつつ王座に戻ったことを王自ら国家の公用語であるアラム語で布告し周知させた文面を含めて記している。

その意義とは、神はどれほど低められた者であっても自在に支配権を与えるということであり、敷衍しては権力に迫害され散らされ滅ぼされるイスラエル、即ち『聖徒ら』であっても、その時に至れば神からの強大な支配権を賜ることになるという例示であったと言える。それゆえ、邪悪な者がたとえ聖徒らに勝利を収め、神に向かって勝ち誇る終末の王が居るにしても、時満ちるに及んでは、世界の支配権をも譲り渡すべきことがあることをこの一件は例証していたと言える。

だが、これらダニエル書に記された啓示の流れからすれば、世界覇権の趨勢がどう推移するかについては分かるのだが、終末というその期間そのものについての情報は充分語られているとは言い難い。
それに加えて、この四つの世界覇権の歴史上の連なりに関する幻の詳細と、次いで示されるダニエル第七章の幻には表面上の相違があり、双方が異なるものを示すかのような一つの事象がある。

それが『小さい角』という表象であり、この一つのために巨像や四種の獣の啓示を説明するのは容易であったものが、第七章に於いて一つの障碍に面するのである。つまり何度も語られる、後発で急速に成長する『角』の存在についてなのだが、ダニエルの記すところは章によって『小さい角』の出所となる覇権王朝が異なるという一見して非論理性が全体の解明を曇らせるのである。

では、まず『小さい角』の記述を比較してみよう。

第七章での『小さい角』は四番目の著しく強力な獣から現れる、その元となる野獣はローマであり、その中から『角』が現れる事を指していることになる。しかし、第八章では明らかにマケドニア、それも大王の後継者の一人から派生して現れるのであり、ここにまず矛盾がある。

だが、これらの啓示が何やら同じ事柄について述べているのであろうことは自然に感じ取れるのだが、ローマとマケドニアほどに歴史上の覇権国家をまるまる一つ違えるとなると、時代も背景もすっかり異なってしまい、そこで鋭意正確な解明を試みようとするなら、書かれた内容の方に大きな曖昧さを見てしまって探求心も失せるところではある。この『小さい角』に関する情報には確かに大きな矛盾がある。

しかし、この「見掛け上の矛盾」もダニエル書に記されたいくつもの幻の目的を考えると見えてくるものがある。
その考えられる目的とは、これらの啓示がただマケドニアの二大覇権の顛末を予告したものではなく、より重い意味、即ち「終末」に起る事象について、分かり易い「巨像」や「四頭の獣」以上の事柄を知らせようとしているのではないかということである。

それはダニエル後に刻まれていく歴史の事実を一続きに語るよりは、それぞれの覇権国家がかつて為した事柄や意義を素材として縦横に用い、直接に成就した歴史の事実を超えるところの、更なる将来の成就を二重に、また詳細に開示するために用いられていると捉えることを意味する。
つまり、単なる一連の歴史の予告に留まらず「終末」に生きる者らへ教訓としての情報を含んでいると捉え、それらの素材の出所を探り、ダニエルの記述の組み立てを再構成すると、モザイクの断片を合わせるようにダニエル書の真意の全体像が現れることになるのである。

そうしてダニエル書の第七章と第八章では『小さい角』に関してその現れる元の獣が異なることも、却って『小さい角』を詳細に描くための差異であると見るなら、終末という場に関しての視野がむしろ広がることになるのである。

では、『小さい角』に関するこれら二つの章の相違をどう見たらよいだろうか。

確かに第七章では、世界的覇権の推移を歴史上の最大覇権国家の推移についてを、新バビロニアからメディア・ペルシア、そしてマケドニア・ギリシアへと辿り、最後にローマ帝国に行き着いている。最後のローマ帝国は格別に強いとされているうえ、幻の「巨像」では長い下半身を形成する鉄の素材の部分に相当している。

実に、今日ローマ帝国は過ぎ去った国家ではあるのだが、別の文明の強力な大帝国によって倒されたのではなく、ローマ帝国は二本の脚のように東西に分裂し、西側は流入してくるゲルマン諸族、また、東側はイスラムの勃興により弱体化して蒸発するように消えていったのだが、キリスト教を国教に据えた文化や制度に於いてはその後の欧州、特に西欧を繁栄へと導き、後代の植民地経営や国家制度、国際規範などで今日に至るまでその影響は増大し、広く世界を覆っているというべきであろう。

即ち、現代文明というものは、世界規範を作り上げた西欧を介してローマ文明の延長線上にあり、そこに我々は生活しているのである。現代文明は西欧的規準を用い、国際的機関はラテン語の語彙の多いローマ字を用いる英語により機能し、多くの国で日曜を休日とし、欧州由来の法制度も世界各国の標準とされている。加えてローマ帝国が国教としたからこそ、その後のキリスト教は世界に広まり世界最大の宗教ともなっている。
しかも、その鉄の足先の部分には『鉄と粘土』という、まるで異質な物で構成されているという特徴がある以上、その終末部分である足先への注意も読者に喚起されているのである。

しかし、ここでは『角』について追ってみよう。
第七章の第四の強大な獣に『十本の角』が有ることにまずひとつの理解を置くことができる。
第四の獣は今日も『十本の角』に於いて健在であり、世界のほとんどがローマ文化の延長線上でそれぞれに国家を営んでいると言える。
十という数字が単に十か国を表すと捉えるよりは、全体を表す十全さの象徴とするなら、それらの角の各々は国際法で認められた諸国家を表すと見ることは的外れでもあるまい。
この観方であれば、第四の獣ということではローマ以後一国家を表さないながら、今日までにローマが世界的な広がりを見せていることになる。

ではあるが、この巨大な世界的体制の中で争いがないとは言えない。
歴史に照らせば、むしろ第四の獣の中で十本の角が平和に共存してきたとは言い難い。
それにしても、かつてのローマ帝国による地中海世界の安定と繁栄、そして後の大英帝国という史上最大の版図を誇った国家による経済的発展と、二度の世界大戦を経て、その覇権を引き継いだ米国の強大な力は、歴史上、常にローマ文明という主軸をずらすことなく据えられてきたと言えよう。

その意味で『第四の獣』は格別であり、例えるものが無いほどに強力であると言える。歴史はローマ文明を打ち消して乗り越えるような次なる世界覇権を見ていないというべきであり、現代の世界の人々は依然としてローマの延長線上を生きている。

古代に振り返ると、ダニエル書の第七章と第八章との異なり、即ち主役がローマなのか、それともギリシアなのかという点で、強国ローマが安定的であったのに比べ、熾烈に争い合う覇権同士の対立という概念を描くことではマケドニア=ギリシアほどの役者はいないと言えるのである。ダニエル書の目的は、やはり歴史を正確に予告することを超えて、終末に起る事態を描き出すことなのであろう。そこではバビロニア以来の四大覇権国家の流れも、マケドニアの二つの王朝も、その終末の事態を描き出すための画具ではないだろうか。

さて、大版図を領したマケドニアもアレクサンドロス大王が絶頂にあって急死すると、王権継承が準備されていない状態で広大な領土を治めるべきは誰かを巡り、大王配下の諸将が入り乱れて戦うことになったディアドコイ戦争をダニエルの預言は描いており、第七章の頭が四つに分割された豹と、第八章の一角の山羊の角が折れ四本の劣った角が生えてきたところは、やはり同じものを描き出している。
確かに大王後のマケドニアの勢力争いは間断の無いオセロゲームのように各ディアドコイ(後継者ら)の勢力範囲の変更を見せた。それは忽然と現れた超大国を四つの凡庸な王国に分けている歴史の証言がある。

だが、その中でも比較的安定していた勢力はナイル川に守られたエジプトを治めたプトレマイオス朝であり、また東方の広大な地域を領土としたセレウコス朝シリアの二大勢力で、この二つの王国はローマの版図に収められるまで最も長くまた目立って存続していた。

この点で、ダニエル書は第11章以降、単なる歴史を順番に預言するだけでなく、ペルシアの四代の王らとアレクサンドロス大王については一言語るばかりで、焦点を南北二人のディアドコイの王らの抗争と、その過程でのユダヤについて詳しく語り出す。
しかも、その啓示の話が終わりに近づくにつれて、単にこの南北の王の抗争の時代を超える内容に踏み込んでいるのである。それが即ち「終末」という遥か将来のこの世の終わりの時期に於ける世界の趨勢に話が及ぶのであり、やはりこれには現代の我々の注意を引かずには済まないものがある。

そこで第七章での後から生えて成長する『角』と、第八章で同じくように現れる『角』との出自の相違は、双方の『角』が異なるものなのではなく、異なる視点から同一のものを描いていると捉えることができ、その『角』の理解を一つの主題にして漸進的に深めることを目的にしていると読めるのである。



◆律法契約への挑戦

ここで終末に関わる本論に入る前に、ダニエルの語る『角』について詳しく見ておくと、この第八章での山羊から現れる『四つの角』またその一つから更に現れる『小さな角』の意味は、第十一章に於いて更に示唆的に明かされることに気付く。

ダニエル書の第十章から始まるダニエルへの最後の啓示は第十一章に入ってマケドニアの南北王国の対立を描きつつ、その間で翻弄されるユダヤの姿を含めている。第十一章三節以降ではアレクサンドロス大王の後継者らを四本の角で表象しながら、『その一つから小さな角が興ってくる』との幻をダニエルは見ており、その角がユダヤの神殿崇拝に干渉し、『背教』をさえ迫る様も描かれている。

この事態に至る過程について第十一章は丹念に南北の王朝のせめぎ合いを描写しているので、ユダヤの聖所を汚した覇権者と描かれるのが、歴史と照らし合わせることで識者らの認識もセレウコス朝のアンティオコスⅣ世エピファネスなる八代目の王であったことが明らかとなっている。
元々セレウコス朝はユダヤに対してその神殿祭祀を尊重し、律法遵守の文化を変えさせるような強引な支配は行って来なかった。

しかし、その粗暴な風貌を今日にまで肖像に見せるエピファネスは、気まぐれな性格で周囲から王位に不適格とされることでは預言された通りに『軽んじられた者』であったにも関わらず、描かれる『小さな角』の如くに増長しセレウコス朝の王座を強引に奪って後、エルサレム神殿の崇拝にまで関与して、ユダヤ人が立てていた大祭司オニアスⅢ世(契約の君)を廃しヘレニストのヤソンに代えさせるなどユダヤ文化そのものへの敵意を見せた。これはモーセを守るか否かというたいへんな選択をユダヤ人に迫るものである。

エピファネスはエルサレムを占領すると、自身のギリシア化政策に同意しない多数のユダヤ教徒の市民を虐殺し、神殿を棄損したことをヨセフスなどの歴史家は告げている。(ダニエル8:11/11:31)

ダニエル第8章と第11章の『小さい角』の働きとされる『常供の犠牲と絶えさせ聖所を汚す』との重大な行動は、やはり実際に西暦前170年以降に起っている。
エピファネスは一度目のエジプト遠征の途上でエルサレムを制圧すると大祭司をヤソンからメネラオスという更にギリシア文化に染まった反ユダヤの過激な人物に入れ替え、ユダヤ一国と律法体制を揺さぶった。

元々エピファネスは人質としてローマで成長した経緯があり、グレコローマンの文化に親しく触れ、アレクサンドロス大王の覇業によって成し遂げられた征服により、ギリシア文化とオリエント文化の融合によって新たに生み出されていたヘレニズム文化によって世界が安定的に治められることを目指していた。彼自身は人質に出される程度に軽視されていたとはいえ、ギリシア文化がオリエント東方ばかりか西の大国ローマにも浸透していることに自負心を懐いたことであろう。ローマのカピトリヌスの岡に祀られていたのは神ユピテル、即ち元はギリシアのゼウスであった。

その自負は『王は領内の全域に、すべての人々が一つの人民となるために、各々自分の習慣を捨てるよう勅令を発したところに顕著に出た。そこで異邦人たちは皆、王の命令に従った』とマカベア記に記されたところにも表れている。(マカベア記第一1:41)

エピファネスは、この意向について相当に強圧的であったのだが、千年以上前からユダヤ人に与えられてきたモーセの律法は、確かに時代の変化から取り残されてゆくようなところがあった。
というのも、ユダヤ人の生活がパレスチナでの農耕牧畜生活から、広く国境を跨いだ貿易や商業の産業に傾きつつあり、当然ながら異邦人との接触の機会も大いに増大し、隣の家には異邦人が住むような生活となり、それまでの律法の規定をどのようにヘレニズム文化のもたらす世界標準化に対応させるべきかという問題に直面し始めていた。多様な文化が融合し、より良いものを取捨選択して一層洗練された生活様式がパレスチナの周囲で流行して行く中で、割礼、安息日、食事制限などを求めるユダヤ律法体制への拘りは、いかにも時代遅れに見えたに違いない。

実際それは諸国民の嘲笑を買うところとなっており、ユダヤはプトレマイオスⅠ世の策略で、安息日にあっけなく占領され、それでなくても、安息日に火を起こせないユダヤ人が藁に食物を包んで冷めないようにする風習が驚嘆と侮蔑を誘っていた。割礼に至っては、我が子を流血の虐待している以上には見えなかった。北の王エピファネスが禁じようとした風習がそれらである。

そこで律法を守ろうと努めるユダヤ教徒は、ただモーセから授かった律法の言葉をどのように、またどこまで新しい生活様式に適用させることを模索したのだが、これは律法に精通した書士(ソフェリ-ム)の能力をさえ超えたことで、モーセを大胆に解釈する者の必要が生じていた。そこで姿を現すのが「賢人」(ハーミーム)であり、後の「律法学者」(タナイーム)であり、彼らの存在意義は、「口頭伝承」(ミシュナー)という教えが実はモーセの頃から律法とは別に伝えられていたと主張し始めたところにあった。だが、これは真実性を立証できるものではなく、ユダヤ人からも、まるで新法であるかのように律法解釈に於いて大胆過ぎるとの批判もあったものであった。

他方で、ユダヤの民からも、律法契約を呪縛と見做し、古めかしく見えるようになったユダヤの生活様式を嫌った者たちが、ヘレニズム文化の擁護者となっていたエピファネスの許に走るという事態も起こっていた。王は彼らを受け容れて保護し、彼らの方はユダヤ攻撃に際には、進軍の導き手となることを請合っていた。その代表格が後に大祭司職に就けられたヘレニズム主義者のヤソンであったという。
だが、エピファネスはヤソンの大祭司職もヘレニズム化が手緩いとの不満を持ち、より強硬な反ユダヤのメネラオスに入れ替えている。

さて前169年になると、エピファネスは姉妹の嫁ぎ先の王子、つまりは自らの甥に当たる『南の王』プトレマイオスⅥ世が即位したエジプトに攻め入り、エジプトの王権を継承したその幼い王フィルメトールを捕えたうえで傀儡としメンフィスに封じ、王都アレクサンドレイアだけを残して周囲をすっかり制圧してしまう勢いを見せた。アレクサンドレイアの人々は、捕えられたフィルメトールに代えてフィスコンを王位に就けプトレマイオスⅧ世と成らせて抵抗を続けたものの、エピファネスは二度目のエジプト攻撃を以ってあわや南の王朝を終わらせるかにまで至った。

しかし、そこで当時東方に勢力を伸張していたローマ共和国が介入をすることになる。ローマとしてはセレウコス朝の強大化を許せず、ギリシア圏ではやりたい放題のエピファネスの野望も、ここにラテンの新興勢力に挫かれることになるのであった。時代の潮流はマケドニアからローマへと移りつつあったのである。

これは彼の先代からの趨勢となっており、エピファネスの父王であったアンティオコスⅢ世メガスの時にセレウコス朝はローマ軍に対し圧倒的優勢を誇りながらもギリシアから小アジアへと敗退を繰り返し、エピファネスがローマに人質になったのも、父の連敗の代価としての支払いであり、前188年のアパメアの和約の条件の一つであったのだ。

エピファネスがローマに質に出され、その兄フィロパトルがセレウコス四世(前187-175)として即位していたが、その後のセレウコス朝はローマへの賠償金に悩まされ、この王は『輝かしい国に、税を取り立てる者を行き巡らす』ことを余儀なくされ、その『輝かしい』ユダヤもその悪影響を被っている。(ダニエル11:20-)

その後、このフィルパトルが暗殺され、つまり『数日のうちに、怒りにもよらず、戦いにもよらずに破られる』と預言は語る。その後『彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる。彼には国の尊厳は与えられないが、彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く掌握する』とダニエルに啓示されていたのが、エピファネスであった。彼は正当な王位継承者の兄フィルパトルの息子の摂政ということで幅を利かせ、やがてその甥を追い出し、前175年に自分が王位に就くに至る。(11:20-21)

だが、この卑劣なやり手の人物も、人質にされていたローマには頭が上がらない。
二度の遠征で、ほとんどエジプトを手中にしながら、ローマの代官ポビリウス・ラナエスはエピファネスが立っている周囲の砂の上に円を描き、その円の中から出る前にローマと敵対するか否かを決めよと言われ、不承不承にエジプトから撤退することになったのだが、憤懣やるかたない思いで帰路に立ち寄ったエルサレムでは、いつの間にやらユダヤ人に追放されてしまっていたメネラオスを呼び戻して再び大祭司として据えたうえ、何と翌年にはユダヤ教禁止令をユダヤに発布するという暴挙に及んだのであった。

彼の傲慢な支配欲に妥協なく、諸国の宗教的文化の差異を認められないほどに偏狭で、特にユダヤの律法祭祀や割礼などの習慣はエピファネスの嫌悪するところであり、モーセの律法が規定する崇拝も生活習慣も割礼を含んで廃止させ、エルサレム神殿を強引にもゼウスやオリュムポスの神々の崇拝の場とさせ、律法によれば禁忌すべき動物である豚を祭壇で捧げさせ、遂にゼウスの偶像を神殿に据えるまでに及んだ。第一マカベア記の筆者によれば、その像は確かに『荒らす憎むべきもの』と呼ばれている。(マカベア第一1:54/ダニエル11:31)

ユダヤ人に律法に従うことを禁じるとは、千年にも続く神と取り結んだ契約を反故にせよと迫ることであり、これほどまでに異邦の権力者に律法契約を翻弄される事態というものは、捕囚後からそれまでのユダヤに類を見ないほどであったと言える。
かつてエジプトからは、神殿や王宮から金銀を掠め取られ、ネブカドネッツァルには神殿もろともにエルサレムを滅ぼされたとはいえ、ダニエルの三人の友らが上手く立ち回り、また迫害も甘んじて受けたように、律法に従うことを異教を以って常に強く邪魔されてはいなかったと言えよう。

アケメネス朝ペルシアはキュロスの時からユダヤ神殿の再建に肩入れし、クセルクセスの時にはエステル記のような顛末が記されているし、その後の献酌侍従ネヘミヤもユダヤの民と共にアルタクセルクセスの格別な愛顧を受けている。
また、アレクサンドロス大王も何故かユダヤ人に特に好意を表し、もちろんその崇拝を邪魔してはいない。加えて、あのネブカドネッツァルですら、ダニエルを高位に就けて著名にし、三人の友を優遇したのであれば、ユダヤ人の習慣や文化が侮蔑の対象となり、律法の習慣が根絶やしされるほど圧迫された事態はそれ以前に例を見ない。その後にも、ローマもユダヤ教を保護し、ユダヤ神殿への寄進物の運送の安全は保障され、皇帝自らも犠牲を供出し、安息日などの宗教的頑固さもあってながら、ユダヤ人には徴兵を免除までしていたのである。

この点から見るなら、エピファネスという権力者の敵対は異様であり、ユダヤの宗教文化そのもの、またユダヤの神にさえ敵対して大言壮語を吐いていたのである。こうして『常供の犠牲を絶えさせ聖所を汚す』とのダニエル書に記された予告はその通りに成就する。

そこでダニエル書が第七章以降、繰り返しこのように聖なる民を悩ます存在を暗示し、強大な権力の狭間から生じる『小さい角』、また『腕』として場面や名称を変えながら指摘してゆくのである。



◆『聖なる民』を滅ぼすもの

ダニエル書の第七章から第十一章にかけて繰り返し現れるその『角』の実体については曖昧に語られており、正確を期して字句に拘れば探求を中止しなければならない。
したがって、これらの文章の背後にある精神は「誰にでも明らかにする」というものとは言えず、暗示を察知するために求められるのはダニエル文書へのひたすらな信頼といえよう。
そのうえ、そうして得られた理解には確証を誰も与えないのであり、間違える危険性も覚悟しつつ探求を続ける必要が否応なくそこにある。

だが、これらの文章に散在する表象は、もどかしい不明瞭さの中にも繰り返されるので、敢えて手を伸ばせば届くようなところに解釈があるとも言える。
しかし、ダニエル書の末尾には『これらの言葉を秘すように。多くの者が迷い行き、雑多な知識が横溢する』とまで書いてある。(12:4)
ゆえに、今ダニエル書を論じているこの記事も、その雑多で的外れな解釈に終わる危険と隣り合わせであることも考慮に入れつつ慎重に先を進むべきなのである。

したがって、終末についての解は「誰にでも知恵を与えようとの意志がそもそも聖書に無い」という点は常に意識しているべきであるとも言える。だが、何等かの理解を得た者が沈黙するのが良いということにもなるまい。

キリストはこう言われている『わたしが暗闇であなたがたに話すことを明るみで言え。耳にささやかれたことを屋根の上で言いひろめよ。』『彼らは目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがない。』(マタイ10:27/13:15)
ダニエル自身もこう告げられている『逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた者らについてはそれを悟る。』(12:10)
話されることが聞えても、それを受け容れることができない者にとっては聞いていないのと同じなのであるから、これは実に無駄がない。あまねく聞かせるだけでよいのだから。

さてここで、鍵となる前提の理解を挙げておくことにする。それは難解なダニエル書を解き進むに際しての羅針盤の役割を果たすと思われるからである。
それは『聖なる民』が何者かという理解であり、何を以ってもこれが終末という重要でありながら推理小説のように謎のままに語られる場に具体性を一貫して与える登場者である。


ダニエル書に限らず『聖なる者』は新旧の聖書に登場しており、特に新約聖書のキリスト後の聖霊を注がれた弟子たちを指すものとなっている。
旧約聖書では、律法に於いてはレヴィ族を特に聖なる者としての清さを守るべきことが強調されている。
それでも、ネイヴィームには『聖なる民』としてのイスラエル全体を指す例もあり、それがダニエル書では『聖なる者』も『聖なる民』も語られているのだが、その対象が具体的にどのような者たちを指しているのかは明確でない。

その『聖なるもの』については現実から離れた、何か架空の存在を指しているかのように読める理由は、ダニエル書の語る内容が預言書に比べて遠い未来を語るところから来ているのであろう。
イスラエル民族がパレスチナに健在である内には、神殿祭祀も継続されており、そこには現にレヴィ族の祭司団が務めを果たし、血統による大祭司も任命されていた。その状態での『聖なる者』という言葉にはレヴィ族を特に示す意味があった。

だが、西暦七十年をも遥かに越えた未来、ダニエルが第二章で語っているような最終世界覇権も打ち砕かれ、神の王国が権威を持つという終末までを見通した上での『聖なる者』や『聖なる民』の言葉には、もはや律法祭祀制度上の呼称は当然ながら通用しない。そこではモーセの祭祀制度を超えた、キリストを大祭司とする天界の『新しい契約』に基づく、聖霊注がれた弟子らという『聖なる者ら』の制度を考慮に入れない限り、この先を理解することは不可能となるのである。

そこでダニエル書の第九章にある「七十週」に関する記述には、契約を締結する者としてのメシアが描かれ、『彼は一週の間、契約を固く保つ』の言葉に、終末にさらに三時半の契約期間を残していることが示唆されており、それはまさしく終末を語るヨハネ黙示録に登場する『二人の証人』の活動期間1260日ともされ、これらの聖なる人々は黙示録だけでなくダニエル書でも征服され殺されることが知らされている。

この共通性からすれば、黙示録で『二人の証人』を滅ぼすのが『七つの頭を持つ野獣』であれば、ダニエル書では強大な野獣の十本の角の間から生え出る『小さな角』ということになり、双方は同じものを指して、別の表象で語られていることを読者に訴えていると見てまず間違いないであろう。

すなわち、その『角』の実体はダニエル書が指し示すアンティオコスⅣ世エピファネスの仕業を通して洞察すべき終末の何者かを指していることになると言える。
なぜなら、ダニエル書第8章でのその『角』は預言の通り四人のディアドコイの一人から現れており、そこで第11章では『北の王』であるエピファネスと、同時に『角』の働きを行うエピファネスの重なりが見られ、それがその預言の理解を妨げる黙示を構成しているからである。

だが、『北の王』が据える『腕』また『角』とは、ヨハネ黙示録の中でより詳しい情報を得ることになる。
そこには『七人の王がいて』『七つの頭を持つ野獣』は『八人目であり、その七人から出るが、滅びのために引き下がる』。
それはダニエル第8章で、エピファネス自身が『四つの角の内の一つから出る』と描かれたように、セレウコス朝という一つの王朝の王でありながら、同時に新たに芽生える角でもあると言うことに整合を見せている。

そしてダニエル第11章では、そのエピファネスから更に新たな『腕』または『軍勢』が興り、その『腕』が『神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てる。』としている。

そこで黙示録の言う『七つの頭を持つ野獣』とは、エピファネスの興す『腕』また軍事力と整合することになり、やはり、黙示録でその軍事力に対して『だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか』と人々は怖れ奉ると言う。(13:4)

したがって、ダニエル書の『角』また『腕』とは、黙示録の示唆するところでは七つの歴代覇権の内から現れる軍事力の集合体、新たな国家連合であり、それは現存の国際連合のように弱体なものではなく、新たで強固な軍事的同盟を指しているかのようである。

終末の『北の王』は、それを主導して新たな国際的な組織を唱導し、その盟主となるのであろう。その権威は世界中に及ぶほどになるという。(黙示録13:7)
だが、神の目からすれば、その寿命は42か月間と短く、実質的役割といえば、聖徒を攻撃されるための邪悪な道具にしかならない。(黙示録13:5)



◆『違背』という『背教』

ダニエル書の第8章では、第7章の『角』が『至上者の民を絶えず悩ます』とあるのと同様に、『角』は南と東に向かって攻めかかり『飾りの地』にも侵攻して『天軍さえも幾らかを地に落として踏み躙る』とある。その結果『聖なる定まった場所は打ち捨てられ』『常供の犠牲も次第に渡されていった』とある。
これは明らかに終末での聖徒らの処遇を指している。
なぜなら、聖徒が天に属する者となるにはキリストの犠牲を要しており、それなくして彼らも天界とは関わりを持たないからである。即ち、聖徒らはキリストとの『新しい契約』に入り、迫害の試練による「裁き」を受けてでなければ『天の王国』へと招かれないからである。

この『聖徒ら』に臨む裁きは、当然ながら彼らが地上に居る間に行われるべきものである。というのも、キリストが忠節を全うしたのもほかならぬ地上であり、人であった間のことであったからである。(ヨハネ17:4/ヘブライ2:17-18)
イエスが『神の王国』について『多くの者が入ろうとするが、入れないから』『狭い門を通って入るように努めよ』と弟子たちに言われたのは、主の昇天後に聖霊を受けるイスラエルの民であっても、イエスを仲介者とする『新しい契約』から脱落する危険があったことを教えるものである。(ルカ13:24)

この点では、『北の王』として単独ではどこまで地上に広く権力を及ぼせるかは未知数ながら、これが諸国家の軍事的同盟となれば、話も変わってくるであろう。

契約に入った聖徒らが王国に入るのを最も妨げるのは、ミナやタラントの例えに見られる『恐れ』の感情であり、迫害の前に確固たる態度を示さないとすれば、容易に妥協させようとする罠に嵌まってしまうに違いない。それゆえ『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな』とも『自分の磔刑の柱を抱えてわたしの後に従って来ない者はわたしに相応しくない』とも彼らの主は言われるのである。(マタイ10)

このように王国に招かれた者が吟味されることは、ほかにも「豪華な宴会の例え」や「引き網の例え」にも見られることであり、彼らがどれほどの危険に遭うかは『平和ではなく、剣を投げ込むためにきた』とイエスが言われる通り、家庭や親族関係さえ当てにならない事態さえ覚悟せねばならない。

これらの迫害は、彼らが『王や総督の前に引き出され』『神の王国』に道を譲るべきことを『聖霊によって語る』からであり、その音信はアダム以来、神から離れてしまっている『この世』を弾劾するものである。その強度の緊張関係の中で、聖霊を注がれたにも関わらず妥協してしまう者も出ることは、聖徒らの主イエスの厳しい言葉にも明らかなことである。(マタイ10:18/ヨハネ16:8)

ダニエル書を振り返ると、その第11章にはエピファネスの仕業の一つに『契約を破る者を巧言によって棄教させる』ともある。聖徒らへの迫害という正面攻撃があるばかりでなく、甘言の罠も用意されることも充分有り得ることであろう。

ダニエル書第7章には第11章同様にギリシア末期の王が『彼らの治世の終わりに、彼らの罪悪が窮まるとき、横柄で狡猾なひとりの王が立つ』とも『彼は悪巧みによって欺きをその手で成功させ、心は高ぶる』とも書かれている。確かにエピファネスは正統な王位継承者を出し抜いてその地位を得ただけでなく、その後継者を殺させ、その暗殺者をも処刑して王位に就いたような人物であり、策略を弄するところも預言された通りであった。罪悪感は欠片も持たない冷酷な権力者であろう。(ダニエル7:23.25)

即ち、終末に於ける『北の王』が『契約を破る』よう聖徒たちを巧言や策を弄して唆すという事態はここに明瞭に見えている。
ここに『違背』がある。『[天の]軍勢は渡され、違背のために常供の犠牲は絶たれる。その角は真理を地に投げ捨て、放埓に振る舞いそれを成し遂げた』とあるように、『常供の犠牲』を絶えさせるのが『北の王』による策略であり、それを成し遂げるのが『角』であり『違背』であることをダニエル書は告げるのである。
そこでダニエル書はこうも言っている。『これらの悟る者らの何人かが倒されるのは、終わりの時に備えて練り清められ、純白にされるためである。まだ時は来ていない。』(11:35)

この『違背』は、使徒パウロが終末の印として挙げている。
『まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ない』として、当時に既に『主の日が来ている』と唱える者たちを諭しているのである。(テサロニケ第二2:3)
そこで、ダニエル書の述べる『違背』が『新しい契約』への聖徒らの不忠節に原因であるとすれば、パウロが言うように、背教そのものが終末の始まった印ともなり、その『背教』の中から裏切る者ユダ・イスカリオテのように『滅びの子』と呼ばれる『不法の人』が登場することが関連付けられているのである。(ヨハネ17:12)

即ち、主を銀30枚で売り渡したような者の再来であり、『隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前の懐に安らう女にもお前の口の扉を守れ』とのミカの預言に注意を向けるべき時、イエスが『人の敵は家の者たちとなろう』という警告の言葉がこの『背教』の出現と共に現実性を帯びる時が来ることは避けられまい。(ミカ7:5-6/マタイ10:36)

これをダニエル書との関連で言うなら『違背』する者とは、聖徒に選ばれながら『北の王』の甘言のトラップに乗って『新しい契約』を捨てる者であり、そのような『違背』によって主イエスが犠牲となったように、終末の地上の崇拝である『常供の犠牲』が絶える、それは聖徒らによる聖霊の言葉の世界宣教が妨害されることを言うに違いない。

したがって『北の王』とはこれほどまでに終末で神に逆らう行動を取るのであり、その目的と言えば『神の国』の到来を阻止すること、即ち『時と法を変える』ことである。(ダニエル7:25)
『北の王』はその『角』を用いてキリストの王国を迫害によっても、また自ら罠を仕掛け、内部分裂によっても邪魔しようとあらゆる手を尽くして反対する姿を聖書に曝しているのである。

終末の聖徒が地上で宣教することは、バビロン捕囚が終わり、キュロス大王の勅命によってシオンに立ったゼルバベルと大祭司エシュアが、神殿を再建する以前に祭壇を築き、朝夕の常供の犠牲を始めていた様に合致する。未だ神殿は無いものの、崇拝の一部は再開することはできたのであるが、その事例は終末に、天界の神殿は未完成であるものの、地上で聖霊の言葉による宣教を始めた聖徒らの姿の予型であったと見ることは不自然ではない。

ゼルバベルの当時には、神殿の再建は周囲の民族の反対に遭い、遅々として進まなかったが、預言者ハガイとゼカリヤの到来以降は順調に進むことになった。同様に、終末の聖徒らはダニエル書によれば、『角』に『絶えず悩まされ』遂に『滅ぼされてしまう』。そこは終末では異なる点ではあるのだが、ダニエルは『聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する』という天使の言葉をも伝えている。
即ち、聖徒らの活動である聖霊による世界宣教が迫害と違背によって途絶えて後、物事は急速に進展し、天界の神殿の落成が近付くと見るべき理由が生じるのである。

何故なら、彼ら聖なる者らこそが『神殿の生ける石』であり、彼らが死を迎えて天界に去るなら、それは主イエスを隅の頭石として組み上げられる神殿となることを可能とするからである。


◆『荒らす憎むべきもの』を据える

このようにダニエル書と他の諸書とを補いつつあらすじを組み上げるなら、その王は、終末に於ける『聖なる者ら』を攻撃することで『常供の犠牲を絶えさせる』、これに黙示録を加えてゆけば、キリストの臨在によって再び聖霊を注がれて生み出される『二人の証人』が『粗布を着て1260日の間預言する』が、『それを終えた時に彼らと戦って滅ぼす』ための強大な軍事力を押し立て国家連合を樹立することになる。

そしてダニエル書で描かれる『北の王』は『荒らす憎むべきものを据える』となっており、これは前述したように歴史はエピファネスがエルサレム神殿にゼウス像を安置し、ユダヤ教の儀式も民の習慣も禁じたことに相当させている。つまり、前167年12月7日にその偶像が置かれたとヨセフスは言うのだが、やはりそれに伴い律法による常供の犠牲も絶えさせている。
前述の通り、『憎むべきもの』(シックース)が「偶像」を指すことは、歴史とのダニエル書の照合だけでなく、外典のマカベア第一書からもほとんど疑う余地がない。(マカベア第一1:54)

この「偶像」はダニエル書が11章で象徴的に語るように、『北の王』から『出る腕』、つまり権力である。即ち諸国家の軍事同盟とは崇拝の対象でもあるので『いと高き方に敵して言葉を出し、かつ、いと高き方の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒らはひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。』とダニエルは第七章でも語っている。(黙示録13:4/ダニエル7:25)

この点は、黙示録の第11章での二人の証人を攻撃する『七つの頭を持つ野獣』の権威が『42ヶ月』であることと符合している。そこでダニエル第七章が明かすようにこの強大化する『角』が『時と法を変えようとする』という点に光を当てることになる。それはつまり、自分たちの存続を図ろうと努めながら果たせなくなるという結末を知らせているのであり、『二人の証人』が1260日の短命に終わるにせよ、『聖なる者たちで成る民を滅ぼす』ことを終えると、『角』また『荒らす憎むべきもの』も、急速に『人手によらずに砕かれる』と黙示録とダニエルの双方の啓示が教えているのである。
(ダニエル8:24-25/黙示録13:5)

このように『北の王』から出た『腕』また『角』が忽然と姿を消す『人手によらない滅び』を理解するためには、もはやセレウコス朝シリアという王国の歴史から更に視野を広げるようダニエル書は暗に促していると言えるのである。

実に『人手によらない滅び』を被った歴史をイザヤ書第37章と列王記第二第19章と歴代誌第二第32章が同一の出来事として記録している。即ち、アッシリア王セナケリブによるユダ王国攻略の顛末であり、残虐さで知られたアッシリアの獰猛な兵士らと連合軍の18万以上の大軍が、地中海の海岸沿いを南下して後、ユダ王国の要塞都市ラキシュを攻囲しているときに、ユダの王ヒゼキヤとその民を脅していたときのことであった。
預言者イザヤは、その結末を予告し『彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも、盾を持って向かって来ることも、この都に対して土塁を築くこともない。彼は来た道を引き返し、この都に入城することはない』と語っていた。(列王第二19:32-33)

ラキシュも陥落し、次にはアゼカが攻囲されている最中、一人の天使がアッシリアの陣営を夜間に通り過ぎただけで、18万5千の兵が失われていたという。即ち『人間のものではない剣が彼らを食い尽くす』と言われていた通りであった。(イザヤ31:8)
したがって、アッシリアは神殿に偶像を据えるようなことにも至らず、むしろユダの山地にさえ軍を進められなかったのである。

そしてダニエル書の第11章には、この事跡を再度取り上げている場所がある。
それが『大海とあの「麗しの地」の聖なる山との間に天幕を張って、王の宿営とする。しかし、ついに彼の終わりの時が来るが誰も助ける者はない。』という最後の句である。(11:45)
この部分がアッシリアの故事を引き合いに出していると捉えるべき理由は二つある。

ひとつにはダニエル書で『北の王』が陣地とするところが『大海とあの「麗しの地」の聖なる山との間』であるところにある。『大海』とはヘブライ語で地中海を指すのであり、『聖なる山』とはシオンを指す以外にない。そうなるとそこはラキシュやアゼカの在った「シェフェラ」と呼ばれる台地と合致している。
やはり大軍率いるセナケリブは、そこからエルサレムを窺い、ユダ王ヒゼキヤに恫喝の使者を送っていたのであった。

しかも、軍を一夜にして失う前のセナケリブには、エルサレム征服を急がねばならない知らせが入っていた。それがエピオピアから向かってくる軍勢であり、直ちにユダ攻略を果たさねば挟み撃ちにされる危険があった。
この故事と関係のなさそうに見えるダニエル書には、この局面に関して『エジプトの隠された宝、金銀、宝物はすべて彼の支配するところとなり、リビアとクシュは彼の進むところに従う。次いで、東と北からの知らせに危険を感じ、多くの者を滅ぼし絶やそうと、大いに激昂して進軍する。』と記しているがこれはエピファネスに当てはまる。(11:43-44)

確かに、セナケリブはシェフェラの台地に上る以前に、エジプトの軍勢を海岸沿いのアシュドド近郊のエルテケで破っており、当時それは上記の聖句が描くような『金銀、宝物』を得たというエピファネスほどのエジプトと近隣諸国の制圧はできていなかったものの、この『北の王』が知らせを聞いて危機を感じるところはエピファネスよりはシオンの危機ということに於いてセナケリブによく当てはまる。セレウコス朝シリアに当てはまるのは『日の出方角と北』(パルティアとアルメニアの反乱)という知らせの来る方向くらいであり、ここにも双方の王朝の故事のグラデーションが見える。秘儀が秘儀たる所以であろう。

この最終部分での『北の王』がアッシリアに相当すると見なせるもう一つの事柄は、その大軍を一夜にして失ったという点であり、やはり、この顛末はエピファネスには当てはまらないのである。
ヒゼキヤ王とユダの民は、アッシリアの攻囲を予期し、エルサレム城外の泉を塞ぎ、シロアムの池へとあの有名な地下水道を掘り抜いて籠城に備えていたのである。
悪くすれば、というより、ユダ国民は王共々自分たちがどうなるのかには非常な不安を抱えて過ごしていたのであり、そこにイザヤのあの預言が語られ、アッシリアの軍勢がエルサレムに一本の矢も放つことも無ければ、盾をかざして囲むことさえないとの神の言葉が知らされたのである。

これが『聖なる山』シオン山上にあるエルサレムを『ダヴィドのためにこれを守る』と言われた通りに神がこれを守った証しとなったのである。(イザヤ37:35)

そして『北の王』から出た『腕』また『角』が突然に姿を消す理由がここに見えている。
なぜなら、『腕』また『角』、即ち『七つの頭を持つ野獣』が『聖なる民』を滅ぼすにせよ、その野獣そのものも42ケ月の活動期間で終わると黙示録が知らせており、『二人の証人』の預言する期間1260日と変わらない。それほどの権力を行使した途端に姿を消すからには、その『角』を支えていた『北の王』の急速な権力喪失の没落が原因していると捉えることが自然な合理性を持ってはいないだろうか。

そしてダニエル書は第11章を終え、次の章に入るとダニエルの民は救われ『多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める』とされる、即ち『第一の復活』であり、それゆえそれは死んだ聖徒らの裁きの復活でもあるので『永遠の生命に至る者もあり、また恥と、限りなき恥辱を受ける者もある』とされている。(ダニエル12:1-2/黙示録20:6/ヨハネ5:28-29)
こうして聖なる者らの王国がいよいよ到来することになるのだが、地上には『七つの頭を持つ野獣』からの攻撃を生き延びている忠節な聖徒がまだ幾らか残されており、彼らが『雲の内にあって』即ち、目視できない状態で天に召されるという、この世も驚愕するという異兆が起るときが来る。
これが所謂「携挙」と誤解されていることであり、ただの「模範的クリスチャン」が受けるような類いのものではない。(黙示11:12-13)

パウロはこれをテサロニケ第一の書簡の中で明かし、『主ご自身が天使の頭の声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初に生き返り、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう』としており、やはりダニエル書は『その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。』と言うのである。この辺りの新旧の聖句の整合性には眼を見張るものがある。(テサロニケ第一 4:16-17/ダニエル12:1)

こうして、天界に『神の王国』を構成するべき聖徒の全員が集められることで『神の奥義は終了するに至る』と黙示録は宣言する。(黙示10:7)
『北の王』は没落して既に無く、その『角』である『七つの頭を持つ野獣』も役割を終えて一度姿を消している。その『角』が切に願った『時と法を変える』ことは叶わなかった。その意味は、『一時と二時と半時』の後には、『裁きが下され』『聖徒らがその王国を取得する』ことであり、それは覇権国家の霊すらも制する天使長のミカエルの声と神のラッパの響きと共に訪れるとパウロも証しを加えて言っている。その『北の王』の没落の前後に聖徒らに起る『第一の復活』の時期が到来すると言っているのである。(テサロニケ第一 4:16)



◆終末に於ける『北の王』

ダニエル書第11章は全体としてペルシアの王たちから始まって、アレクサンドロス大王からプトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアの覇権争い、またその中でユダヤが受ける処遇とを描き出していることはこのように歴史と詳細に整合しており、比較的に認められたことである。

その記述と歴史との一致はアンティオコスⅣ世エピファネスに至って詳細に合致するのだが。前述のように第11章も終わり近い40節以降でエピファネスの生涯から乖離を見せている。
そこでは『北の王』が『南の王』に攻め込み、圧倒的な軍勢で威圧し、エジプトを制圧する。『隠された宝』とはヘブライ語の習慣として王家に所蔵される金銀宝物を指しているのであれば、それは確かにアレクサンドレイアを囲むまでに侵攻した事跡に似てはいるが、実際の歴史ではプトレマイオス朝を倒すには至っていないし、危急の知らせを受け憤激したと言うよりはむしろ、目の前でローマ共和国の権勢に脅されて退却を余儀なくされている。

そのうえ、エルサレムを窺うシェフェラに留まることなく、直に聖なる山を蹂躙していたのであるから、ダニエル第11章の29節の南の王の領域に侵攻してからエルサレムを制圧し、『常供の犠牲を廃し、荒らす憎むべきものを据えた』ところで、またエピファネスの大言壮語してユダヤの神YHWHを愚弄する彼の実際の歴史の予告は終わっているのである。

そのうえでダニエル書は前述のようにアッシリアのセナケリブの事跡について述べはじめているに等しく、ここが単に歴史を映し出したものでない神の言葉の奥深さと言うべきであろう。
即ち、11章40節以降は西暦前第二世紀までのセレウコス朝の事跡を追うのを止め、別のことを語り出しているのであり、これは当時の事では無く、別の時、即ち『聖徒の民が国を得る』という終末を描いていると見るべき謂れがある。いや、既にエピファネスを通して、そこに終末の『北の王』の姿が二重写しに活写されていたというべきか。

それを証拠立てるのが、11章の終りでエピファネスの事跡を、或いはセレウコス朝のその後の歴史を追っていたことである。しかし、その先についてはエピファネスを追う事を止め、後にメシア・イエスもユダヤ人として参加することになるハヌカーの祭りを始めるきっかけとなった、ハスモン家の神殿再献納という画期的な勝利がダニエル書に含まれていないという点に於いて異例な事で首を傾げる。やはり律法に含まれない「プリムの祭り」の由来をエステル記の一書を用いて旧約聖書が説いている事からすればバランスもとれず、やはりダニエル書は何かより重要な事柄を知らせているというべき様相を呈しているのである。

ダニエル書は11章40節から別の事柄を語りはじめるが、今更預言するまでもないような過去のセナケリブの時代に遡る。その理由は終末を描き出すためであろう。そして、ダニエル書では『北の王』の『角』によって既に聖徒らは死に至っている。
では、セナケリブで表されるところの『北の王』は聖徒以外のいったい誰に攻撃を仕掛けるのだろうか。
それは『「麗しの地」の聖なる山』とある以上、それはエルサレムでありシオン山で表される人々の集団であることになる。

この『シオン』についてはイザヤとミカの二人の預言者が、終末に於けるその繁栄を描いている。
『終わりの日にYHWHの神殿の山は、山々に勝って堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに流れ、多くの民が来て言う。「YHWHの山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。YHWHの教えはシオンから御言葉はエルサレムから出るからだ。』(イザヤ2:2-3/ミカ4:1-2)

終末の『シオン』に象徴される信仰を懐いた人々の集団は恰もヒゼキヤ王と民が直面したような非常な不安を前にする事であろう。その終末での危機に面する当事者は聖徒ではなく信徒ということになる。
ダニエル書の第8章『北の王』はその『角』を用いて既に『聖なる者ら』を死に至らしめているからである。

その姿は、エルサレムを脅すセナケリブとアッシリアの大軍のようであり、「いったい誰が我々に立ち向かえるのか」と豪語するかのようになるのであろう。(イザヤ37:11/黙示13:4)
そこで旧約聖書の諸書が揃って語るように、あっと言う間にその権力を喪失するのであれば、それはイエスの終末預言にも共通性を見出すことになる。

例えればマタイ福音書で『戦争や、戦争の噂を聞くだろうが、気をつけて怯え惑わないようにせよ。これらは必ず起こる。だが、終わりが来たのではない』これはマルコとルカの中でも同様に記されている(マタイ24:5/マルコ13:7/ルカ21:9)

ここで『終わりが来たのではない』とキリストが言うのは、この最初の弟子たちへの攻撃が、そのまま世界を裁く終局、また『ハルマゲドン』という国家間相互に同士討ちが起るという戦いではないためである。

この『戦争の噂』というギリシア語の用例はヨセフスにもあり、皇帝カリグラの命を受けたローマ軍のエルサレム接近の場面で用いられているのだが、このときもやはり一触触発ながら、遂に戦争に及ぶに至らなかった。ユダヤ人は大いに肝を冷やす事態となったが、西暦四十一年、皇帝が暗殺されたのである。
しかし、ダマスコスを発ったローマの軍団の本隊は地中海沿いのプトレマイスに到着しており、シリア総督がユダヤ人の陳情に耳を貸さず、神を自称する圧制皇帝カリグラの下命にそのまま従っていたなら律法契約を課せられているエルサレムは虐殺の坩堝と化し、神殿には偶像が置かれているはずであった。がしかし、その間にも皇帝暗殺の策は練られていたのであり、カリグラ帝は移動中を襲われ、数人から剣を突き立てられて果てた。それが西暦41年1月24日であり、その時期が絶妙であったのでユダヤ戦役は間一髪にして実現することなく、まさに『戦争の噂』で終わり、エルサレムと神殿の荒廃は二十九年後の西暦七十年を待つことになる。(戦記X1)

加えて、イエスの語る『これらは起こるが終わりはまだなのだ』との言葉によれば、ダニエル書での『北の王』の起こす『腕』また『角』によって聖徒らが地上を去っているのであれば、これは「聖なる民イスラエル」に向けて語っているのではなく聖徒らに信仰を懐いた信徒らへの言葉であり、その後の終末に関わる多くの聖書の言葉は、『聖なる者ら』ではない『神の民ら』に向けて語られているのである。

イエスは、聖なる弟子ばかりでなく、彼らに信仰を働かせる者らについてこう語っている。
彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください』(ヨハネ17:20-21)

この聖徒と信徒の一致を願うキリストの言葉の以前、既に旧約の預言書はこう語っていたのである。
『YHWHは言われる、シオンの娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むからである。
その日には、多くの国民がYHWHの側につき、わたしの民となる。わたしはあなたの中に住む。』(ゼカリヤ2:10-11/イザヤ40:9)

このように、聖徒に続く信徒の現れについては、黙示録の第九章にも暗示されている。
そこでは、まず無数の蝗が現れて太陽も空気も暗くされてしまう。それは聖徒らの語る言葉が余りに鮮烈にこの世を糾弾するからであろう。
人類に『罪』を逃れているものがいないことをも蝗が証しするので、すべての人々はその毒の苦しみに遭うのだが、『額に証印のない者』がその害を受けるのであり、『証印』として『聖霊を与えられた者』である『聖なる者ら』同士は当然ながらその毒の害を受けることはない。『キリストの兄弟』である彼らは『罪に定められることがない』状態に『新しい契約』によって仮承認されているからである。(黙示9:1-4/ローマ8:1)

だが、この『蝗』はその昆虫としての五か月の寿命を終え、蝗害が去るかのように一匹も居なくなってしまう。これが聖徒らの寿命に相当する『1260日』と、それに加えて『三日半』を指すのであれば、聖徒らはある時を境に地上から姿を消すことになることを教えているのであろう。

しかし、『聖なる者ら』の聖霊の言葉に信仰をおく者たちも、聖徒らの出現をきっかけに集められ、神はそれら世界から流れのように集まる信仰ある人々をも『わたしの民となる』と予告されていたのであり、終末の『北の王』が聖徒攻撃の次の目標に据えるのは、やはりこれら信徒の集団となろう。黙示録も天界の光を纏う女が1260日の間『蛇の顔から逃れて養われる』ことを告げている。それは聖徒の活動の1260日に相当するのであろう。(黙示録12:1-6)
したがって、聖徒らが患難の末に天に去ると、この女『シオン』は保護を解かれ、再び危険に曝させることになる預言上の道理がある。(イザヤ60:1)

だが、この信徒の集団、『シオン』に集まった人々もこの世に対して何も行わないわけではない。そこで黙示録第九章は、蝗に続く『騎兵隊』の出現を描くのである。

その数は二億ともされるのだが、騎兵の敵は『三分の一』というほど世界の大きな部分を占めるものに対する戦いであり、それは『火と煙を硫黄』という滅びの音信を暗示するものを口から吐いており、通り過ぎ様に致命的な蛇の害を与えることになる。即ち、その音信に聴き従わないなら死を招くということであろう。

だが、これは聖徒らを象徴する『蝗』の害の後のことであり、信徒らの活動もけっして小さくないことを示している。いや、『二億』という数字からすれば、むしろ蝗害よりずっと大きいというべきかも知れない。

さて、この以前に、実は『北の王』とその『角』という権力を慫慂して『聖なる者ら』をその聖霊の言葉共々亡き者とする謀事を企んだ別の勢力がある。

それが即ち黙示録での『大いなるバビロン』という大娼婦であり、この者は権力者らと『淫行』を行い、聖徒らの言葉によって『暗くされた』『この世の三分の一』でもあろう。
これを「宗教」というこの世の構成要素と見るなら、確かに権力者と共に『神の王国』の到来を歓迎するとは思えず、しかも聖霊の言葉が紛うことのない真理を証しするのであれば、宗教ほど聖徒を嫌い、且つ為政者らと聖徒らに敵意を共にするものもないであろう。

この世の「宗教」という構成要素が、聖徒攻撃の使嗾者であったとなれば、聖徒の言葉に信仰を働かせる人々の聖徒攻撃の不当性の暴露は、その論拠に於いて最強であり、聖霊の言葉に立脚する獅子のように堂々たる姿、馬のような俊足、そして決定的な裁きの音信を語ることに於いて無類の強さを発揮することであろう。それがシオンによる聖徒への復讐であり、ペテロが『この方をあなたがたは木に架けて殺した』と発言した故事を彷彿とさせ、それは聖徒らをなお支持することにもなるであろう。(マタイ25:40)
そこで『北の王』とその『角』の次の攻撃目標として定められるべき、次なる「黙らせるべき人々」が現れることにもなるのである。


◆終末のセナケリブの敗北

こうして象徴的アッシリア軍は、聖徒らの集団を滅ぼしつつ『麗しの地の聖なる山』シオンに向かってセナケリブのようなあらんかぎりの脅しをかけ、それは『戦争と戦争の噂』というイエスの言葉を具体的なものとするのであろう。
そうであれば、やはり一強国の権力の自壊は、終局の『ハルマゲドン』の同士討ちとは別ものであり、それは依然『終わりはまだ』というべきことになる。

イザヤがアッシリア軍がシオン山上のエルサレムに対して、一本の矢も放つことも無ければ、盾をかざして囲むことさえなく、YHWHが『ダヴィドのためにこれを守る』と言われたのであるなら、『ダヴィドに座に就く』再臨のメシアのために神は終末の『北の王』の攻撃をも阻止されると見る理由があり、それゆえにも『怯え惑わないように』すべきである。やはり神は終末のシオンに対する『北の王』また『角』の攻撃をも瓦解させると類推できるからである。

終末の『北の王』は、アッシリア軍に対して起こったエチオピアの攻勢に驚き惑ったように、ダニエル書では『東と北からの知らせ』が動揺をもたらし、早急にシオンを攻め滅ぼすべき事になるが、終末の『北』の王はますますアッシリアについて述べる旧約預言の数々が当てはまってくる。
ダニエルでは、北の王はあっけなく消え去っている『彼は海と麗しい聖山との間に、天幕の宮殿を設ける。しかし、彼はついにその終りに至り、彼を助ける者はない』
北の王がどのような圧力を信徒らに加えて来るのかの詳細は分からないが、圧制国家の強圧的な権力と公正さの欠片もないような法の制定、そして個人情報の集積からの監視など、その手口は既に見えているかのようである。

また『彼を助ける者はない』という言葉には、かつての帝国アッシリアの利己主義と残忍性を表すことを暗示していると言える。周囲の国々を威嚇してきたので、いざ危難に面しては味方がいないということであろう。であれば、あの『十本の角』も南北の王のせめぎ合いでは様子見をしているとも考えられる。

この事態を知る手掛かりにナホムの預言がある、アッシリアの首都ニネヴェの滅びを専らに予告しているこの預言書には以下のようにある。
『アッシリアの王よ、お前の牧者たちはまどろみ貴族たちは眠りこける。お前の兵士たちは山々の上に散らされ集める者はいない。お前の傷を和らげるものはなく打たれた傷は重い。お前のうわさを聞く者は皆お前に向かって手をたたく。お前の悪を常に身に受けなかった者が誰ひとりとしてあるか。』(ナホム3:18-19)

預言者のヨナもアッシリア嫌いでは徹底しており、ニネヴェに預言に行くことすら拒否しようと行動した姿が旧約聖書に見られる通りである。

アッシリアの兵士の残忍性はよく知られたことで、敗者や捕虜をどれほど酷く扱うかに関する史料に困ることはない。
特にアッシュール・ナツィルパルⅡ世は「征服の大王」と呼ばれ、その残忍な軍隊が近付いて来たというだけでフェニキアの諸都市は恭順してしまう。
セナケリブのラキシュ攻撃のレリーフに描かれるところでは、守備側に見えるところで捕虜を柱に括りつけで捕虜の皮を剥いでいる。
やはりナホムもこう言う。『獅子は子獅子のために獲物を引き裂き、雌獅子のために絞め殺し、洞穴を獲物で、住みかを引き裂いた肉で満たした。見よ、わたしはお前に立ち向かうと万軍のYHWHは言われる。わたしはお前の戦車を焼いて煙とし、剣はお前の若獅子を餌食とする。わたしはお前の獲物をこの地からなくす。お前の使者たちの声はもう聞かれない。』(ナホム2:13-14)

ダニエル書に戻って『北の王』のエピファネスの特徴を見ると、『 先祖の神々を無視し女たちの慕う神をも、そして他のどのような神をも尊ばず自分を何者にもまさって偉大であると思う。代わりに、先祖の知らなかった神、すなわち砦の神を崇め、金銀、宝石、宝物でこれを飾り立てる。』(11:37-18)

これは終末の『北の王』の姿の写しでもあるのだが、自分を神の顕現(エピファネス)として旧来の崇拝の対象を軽視し、『砦の神』即ち軍神を崇めてこれに金銀を費やし、軍事力を頼みの神としている様が描かれている。

軍事力をはじめとする権力を強くし、旧来の宗教を軽んずる姿、また宗教教理まで管理することであらゆる神々をさえ自分の下に置くという『北の王』は、終末に至る以前の今日ですら、既に登場しており、その利己的で狂暴な権威主義を見せているのであろう。 現に、その覇権国家は国民に自由な信仰を許さず、キリスト教であれイスラム教であれ、自国由来の気功集団までを弾圧し、信者を拘束して再教育を名目にする収容所に監禁し、精神的苦痛や拷問を加えているとの報道が絶えない。 外部とは分断され、家族にすら安否が分からないともされる。そこでは強制労働の工場があり、移植のための臓器摘出まで行われているとの報道は否定しきれるものでもない。 政府の内部文書によれば、そこから出られるとすれば、それまでの信仰を公に否定し、持てる文書や資料を明け渡し、二度と活動に参加しないとの誓約書に署名して、以前の仲間を売り渡すことが求められているとのことである。

こうまであからさまに信仰心を敵視する政府が現代に存在し、それも世界覇権国家であるということこそが信じ難い。
その国家元首が「人権はあっても良いが、国家の安全の方が重要だ」と発言したことは、すでに広く知られたことである。即ち、国家の安全とは、自分たち政府の支配権の安全に他ならず、人々の安全というわけではない。政府のための政府の支配なのである。 古来、獰猛な国家は絶えたことがないが、覇権国家で原始的粗暴のまま対外的に欺瞞に満ち、且つ人命軽視で闘争的なものは21世紀にはそれと特定できるほど珍しい。
その国家の理念とは、人間という貴重な内容物を保護する入れ物ではなくて、為政者のために囚われにしておくための高い塀を巡らした収容所となっている。その国家は第四の獣の『十本の角』の中でも大きくまた異形に育ったものと言えよう。(ダニエル7:20)

やはり、ダニエル書の描く終末は、南北の二大覇権のせめぎ合いの渦中にあり、双方の押し合いが続くところで、遂に『南の王』がきっかけを作ると『北の王』は南に攻め込み、多くの兵力と軍備を以って『南の王』の勢力になだれ込むことを記している。(ダニエル11:40-)
どうやら『南の王』は争いを始めて居ながら北の攻勢に為す術なく後退するようであり、一時的にせよ広範囲に地歩を失うことを示唆している。そしてあの『聖なる山』にも危機が訪れることになると言っている。

しかし、『北の王』の『南の王』への攻勢そのものが、この世界覇権の終焉が近付いていることを印付けるものとなってしまう。或いは、切迫した事情があって内心それを悟りつつも『北の王』は打って出る以外にないのかも知れない。そうでもしなければ、権力を維持できないほどに内面は崩壊に向かっているということなのなら、『北の王』のアッシリアのような突如として起る権力崩壊も充分に考えられる。

だが、弟子らのように信仰ある者らにイエスの言う通りに、『戦争の噂』を聞いても恐れ怯えてはならないのであろう。それはまだ終局ではなく、聖徒らが倒されたとは言え、信徒らの集団には成すべき意義深く大きな業が残されているのである。
それこそは、『北の王』が攻め込んだものの然程の期間を置かずに突然の権力崩壊を起こすのを見て後、その重圧から解放される人々は、『十本の角』で表される王たちに聖徒攻撃を使嗾した世の『三分の一』に聖なる糾弾を行うことであろう。

『北の王』の突然の消失の原因が何であるのかはダニエルは明かしていないし、旧約預言書を渉猟してもはっきりとした答えは無いようだ。
終末のセナケリブたる、軍国主義の圧制帝国がどのように瓦解するかと言えば、アッシリア帝国の衰退の原因が、実にその軍事的狂暴性にあり、はじめは力で屈服できたものの、やがて諸国家の強烈な抵抗を招くことを歴史は教える。

自国優先の貪欲で老獪な施策は諸国の怨みを買って積もり上がり、同時多発の内乱を招き、そのすべてを抑えるほどの軍力は賄えなかった。実際のアッシリアは、まずバビロニアの新たな王の独立宣言を受け、そこにメディアの反抗を招いている。その両者は連合してアッシリアを攻めたて、各地の城塞都市も征服され、二つの強国軍を中心にした連合軍が遂にニネヴェを囲むに至った。

また、ナホムが述べたように、さらに攻囲された首都には思わぬ水害が襲い、防備を誇った城壁が破損もしたようである。その水害は予期しないものであったようだが、ナホムはニネヴェがエジプトのテーベ(ノ アモン)に勝らないと語っては、ナイルが増水期に川面が盛り上がるほどになる水害を例えて予告している。アッシリアが征服したテーベであっても水害にはニネヴェに勝っているという意味であろう。(ナホム2:6-8/3:8)

支配を権力だけに頼って主権ばかり唱えていれば、その力の支配というものは、被支配者を脅す治め方であるから、どうしても独裁化を避けられないが、それは支配される人間の本性に反するもので、よほどの執拗な宣伝と情報統制による洗脳教育でもしない限り、人々からの自発的支持を得ることは難しい。また、エピファネスのように、常に利益を分配して自分を支える有力者らを味方に付けておく必要もあろう。(ダニエル11:39)

だが、そのように閉鎖的な統治は、諸国民からも自国民からさえ嫌われるものとなり、『商い人を天の星のように増やそうとも』その倒壊の知らせを聞く人々は『皆が手を打って』喜ぶことになる。(ナホム3:16/19)
また、『北の王』の最期についてはダニエル書も『遂に、彼は終わりを迎えるが、それを助ける者は誰もいない』と結ぶばかりであり、全くの孤立の中で、この政権は崩壊することが示唆されている。(ダニエル11:45)

実際、この21世紀に入ってすら、古代の覇権王朝のように統治者が権威を民の上に強硬で、恣意的に振る舞って法律を形ばかりの言い訳にし、支配者はそれぞれの地位で汚職を行うという野蛮で前近代的な政治形態を押し通す国家が、それも看板ばかりで内実の伴わない「大国」もその醜態を曝している現実がある。

人権さえ抑え込んだ強権によって支配する姿は如何にも強固に見えながら、内実は人の持つ本来の力を引き出すことも、自発的協調性によって支え合う態勢を維持することも難しい。愛国を唱えながら、実は理念も志の方向性もなく、個人の欲だけが動かすばかりの国家となれば、四分五裂する要因を自ら作っていることになる。

統治者がそのようであるから、当然その民にも順法性など期待もできない。自発的な倫理性が育つような環境にはないのであるから、国家の強権から見えないところではどんな不法が浸食しているものかも分からず、全体として、力による強面な外見に似合わず、その覇権国家も内実は極めて「危うい支配権」をぐらぐらと今日明日のバランスをどうにかとっているだけのことである。
ナホムの預言でも、強大な覇権国家の終わりが近付く時には、『要塞もみな、熟したいちじくを成らせた木のように、揺すられただけで、その実は口の中に落ちる』というほど強そうに見える防備さえ脆弱化していると予告されている。(ナホム3:12)


様々な宗教を弾圧しては、国家への愛を強要し教会堂の正面に国家元首の肖像写真を掛けさせるなど、詰まる所、自分を神々の上に君臨させているのだが、どうしてそれほどまでに宗教に警戒するかと言えば、やはり自分たちの支配論理もまやかしの宗教であり、崇敬の対象に対して嫉妬に狂い、実質的にただ貪欲な自分たちが神の座に就いているからである。しかも、その「宗教」は既にまともな教理を持ってはいない。マルクスを唱えつつ実質的にそれを否定し、市場原理を導入して経済を肥大化させる一方、只の圧政だけを残した監視国家、「特色ある社会主義」とのお題目を唱える原始的で貪婪なだけの教理の宗教、これが現代のエピファネスの姿というべきではないか。

まさにこれが終末に途轍もない役割、即ち、聖徒を滅ぼし、信徒の集団にも二度の攻撃を仕掛け、本来的に、古来神に計画されてきた聖なる者を屠るという最も汚れた働きを果たし終え、信徒の集まりを滅ぼそうとする最後の策略の中でその役割を果たし終えてしまい、目的を達することなく急速に瓦解して過ぎ去るということが聖書の黙示であろう。(ナホム1:13-15)

この『北の王』の終末の実体については、ダニエル第7章の四匹の野獣に戻って見ると、ある程度の示唆を得る。
それは、ローマの強大な支配の中から現れる諸国を表すのであろう『十本の角』に対して、後から現れ、それに先立つ幾つかの国々よりも強勢化を急速に遂げている点である。
はじめ『小さい角』と呼ばれていたにも関わらず、現れてからは『ほかのものより大きく』急成長するのであり、それは単なる角でもなくなり、目や口を備え『大言壮語』して神をも侮辱するという。(ダニエル7:8)

その『角』は、後発でありながら急激に大きくなるような覇権国家であり、且つ宗教には侮蔑的な国を我々は確かに目にしてはいる。しかも、その国は世界の二大覇権の片方を荷うだけの力を急速に付けてきたし、その過程で幾つもの国を凌ぐ国力を持つに至ってもいる。独裁の強権国家であり、その支配は恣意的で人権は保障されない。もし、そこに神の王国を説く聖徒らの現れを迎えるとすれば、それはどういうことになるだろうか。

だが、その力尽くの支配のいずれもその立場を堅固にするための目先の処置に過ぎず、近代以降に在っては危うい支配とならざるを得ない。今日の人々にあっては情報を得るに早く、北の王の領民も愚民ではいないからであり、人間とは誰であれ「神の象り」であるほどに、独裁強権の支配を受けるようにはできていない。人を抑圧することは神をも愚弄しているというべきであろう。

現に『北の王』如くに振る舞っている覇権国家の横暴には、それが21世紀に起っていることをさえ訝しく思わせるほどに異様さが見られ、殊に、その宗教への干渉は人間としての良識を全く欠いており、収容所と火葬場を備えた民族浄化の手法さえ取られているところは、人権を享受する人々には前世紀の忌まわしいナチスの記憶を想起させるものであるばかりか、信奉する宗教を暴力や薬剤によって自国支配者に対する忠誠心に替えさせるという人格破壊まで行うとは、近代的な常軌を逸した異様さを示している。

現在のところ、それはイスラム教徒や、信者の非常に多い気功の一派に対して牙を剥いているものの、根底を流れる支配者に賛美を要求する精神からすれば、如何なる旧来の宗教に対してさえ、攻撃の矛先を向け兼ねず、それはセレウコス朝のエピファネスについてダニエルの預言が『彼はその先祖の神々を顧みず、また婦人の好むものも、いかなる神をも顧みない。彼はすべてに勝って、自分を大いなる者とする』と予告したそのことが、今やまさしく世界覇権の一方に上り詰めようとしている大国の支配層に明瞭に見えているのである。

かつてエピファネスがエルサレム神殿に異教の偶像を持ち込んだことに類似するこの傲慢に行き着く先には、やがて真の神との対立も避けられなくなる道理があり、その件についても、『この王は、その心のままに事をおこない、すべての神を越えて、自分を高くし、自分を大いなるものとし、神々の神たる者に向かって驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』とダニエルの預言も語っている。(ダニエル11:36-37)

その圧制の国家体制では、個人監視のために最新技術を駆使した割にその動機は非人格的で不合理なばかりか、非倫理的な野蛮さはとっくに時代遅れなのであり、支配する者の利己性や単純さにおいて幼稚でもあり、それこそは太古シュメール時代のニムロデに観られる支配欲の際限ない渇望から何らの進歩もない我欲の塊に過ぎず、支配というものを支配する自分のためというほかの目的をもたないので、社会倫理の向上など到底望めた支配形態ではないのである。このように倫理を振り捨てた国家体制は、必ずや世界に向けて大いなる不善をいずれ為すことであろう。

その一方で、シオンに居る者らがどのように脅され、どのようにそれからの救いを見るかはイザヤの預言を中心に何度も目にする通りである。それによれば、やはり『気をつけて怯え惑わないように』とのイエスの言葉にシオンの者らへの教訓を見ることになる。

終末のアッシリアを描く預言はイザヤやナホムだけでない。
イザヤと同時代の預言者ミカも、終末に聖徒が生み出されて後のキリストについて、アッシリアが国境を侵して来る時に注意を向けてこう語っていた。
『こうして平和となる。アッシリア人が我らの国に来て、その土地を踏むとき、我らは七人の牧者を起し、八人の君侯を起してこれに当らせる。
彼らはつるぎをもってアッシリアの地を治め、抜身の剣をもってニムロデの地を治める。アッシリアが我らの地に来て、境を踏み荒すとき、彼らはアッシリア人から、我らを救う。』(ミカ5:5-6)
ミカの時代に、つまりイザヤと同時代にセナケリブのユダ侵攻があったが、そのときに上記のような君侯を何人も任命することはなく、ただ家令がシェブナからエリヤキムへの交代があっただけで、上記の句は過去とは一致していない。

この『七人の牧者を起し、八人の君侯』が何者を表すのかは不明で、人であるのかも分からないが、相当な権威を帯びて「ニムロデの地」を治めるとある。
これが終末の『北の王』の領地について言うであろうことは、ミカの預言の性質と前後関係から充分に推測できることである。または、強権の去った北の王の広大な領域と膨大数の人口に対する福祉について述べているのだろうか。

或いは、『北の王』がエピファネスの様に、極端な反宗教政策を推進していれば、その領域に遅れ馳せながらも『聖徒』の声について自由に意志を表明する機会が、その地の無数の人々に訪れることにもなり、その件についてこの『七人の牧者、八人の君侯』が関わるということも考えられる。
もう一つ考えられるところは、これらの君侯の起こされる時期が、聖徒の死と昇天の後であるところからすると、地上に残される信徒の民『シオン』を導く者らが必要になることを指しているのかも知れない。

加えて、ミカの預言は、終末の『北の王』の脅しに屈することのないよう、終末にシオンに集った人々を励まし、イザヤの預言と共に強める「二人以上の証人」と言えるのであろう。
終末のアッシリアが驚愕する『知らせ』が何を意味するのか現在からは分からないのだが、それはこの『君侯』らから発せられるものかも、或いは、自国での権力の失墜を云うのかも知れない。

この点で、ナホムが『お前の牧者たちはまどろみ貴族たちは眠りこける。お前の兵士たちは山々の上に散らされ集める者はいない。』と言っていたことからすれば、滅び去る前には国家の中枢から機能不全が起るようであり、その軍隊の指示系統に問題が生じ、全体掌握が難しくなって崩壊を起こすというようなことであるとも暗示されているかもしれない。

ニネヴェの陥落の前に、当時のアッシリア被支配の各地からの反乱が相次ぐ中、王であったシン・シャル・イシュクンが無策で過ごしていたという歴史からの指摘を考慮すると、対型的『北の王』はその強大な軍隊が打ち破られるいうことではなく、内部から自壊してゆく様が思い描かれる。

その後、この世は『北の王』の権力の崩壊からほどなく、次には再び諸国家の軍事力が集められ、秘密裏に計画された攻撃の結果として、突如『大いなるバビロン』に惨禍が臨む時を迎える。
『三分の一』また『大いなるバビロン』という旧来の宗教組織も糾弾され、『北の王』の擁立した『角』、これはおそらく未だ現れていない諸国家の権力集合体なのであろうが、その『角』という枠組みも消え去るものの、消え去った『七つの頭を持つ野獣』の中に有ったが依然残される『十本の角』が表す諸国家の公権力によって、遂に伝統的な宗教組織にも終わりの時が臨むことになろう。(黙示録17:12-16)

これが黙示録での『大いなるバビロン』の滅びを指すが、滅ぼしに関わる黙示録での『十本の角』、つまりダニエル書との整合部分から『北の王』が興すところの権力集合体を構成していた個々の諸国家は残っており、それを主導していた『北の王』だけが終末の舞台から去って行くことが示唆されてもいる。ダニエル書はその覇権国家の突然の崩壊に際しては『彼を助ける者は誰もいない』としている。そのとき、この国家は周囲の好意的であった諸国からも孤立しており、滅び去る時に周囲の国々はただそれを眺めるばかりとなるのであろう。従い、世界戦争に発展することにもなるまい。

『北の王』が召集した軍事連合を指すであろう異形の『野獣』については、確かに黙示録で『大いなるバビロン』の滅ぼし手の中に『野獣』とも書かれているのだが、時系列で考えると『大いなるバビロン』の滅びは『七つの鉢』の以後も存続しているので、終末でもハルマゲドンの戦いの直前に位置しており、その時点での『野獣』はその以前に偶像化されていることになり、『北の王』ではないもう一つの覇権国家の後ろ盾を得た状態にある再生した獣、つまり『生ける偶像』であることになる。(黙示録17:16/16:16-19/13:11-15)

『大いなるバビロン』が滅ぶことになり、既存の宗教体制が終わるにしても、これは人々から信仰心が失われるということではない。人がその信念を直ぐに変えることは難しいものである。
そこで旧来の信仰信条を引きずった新たな宗教的働きを為すであろうものがある。
即ち『北の王』が据えておいた『荒らす憎むべきもの』という『違背』に関わった偶像であり、『南の王』はその全権を受け継いで、『北の王』とは異なり『獣』に超越的宗教性を帯びさせて、より先鋭化することになるらしい。これが黙示録で『6.6.6』と称される究極の偶像崇拝「野獣崇拝」である。(黙示録13:11-18)

ともあれ、『北の王』と『角』の過ぎ去ったこの世では、更に許多の宗教団体も消え去るところで、世界覇権間の争いも宗教紛争も去っていったかのように見えるであろうから、世界は『人々が「平和だ。安全だ」と言っているその矢先に、突然の破滅が襲う』というパウロの予告の素地が出来上がるであろうし、そうなれば『ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らを襲って来る』という事も現実となるのであろう。確かに『大いなるバビロン』の滅びから『ハルマゲドン』での戦闘までの猶予はほとんど無いらしい。(テサロニケ第一5:1-3)

それこそは『背教』が頂点に達し、『自分は神だ』と言う者が顕現する最終段階に進む時となる。それが即ち『不法の人』である。これはエピファネスもセナケリブも至ることの無かった異様に強く高い権威となろう。全地を統べ治める王インマニュエルとは自分であるとするのであれば、それによって『アンチキリスト』を世界は迎え容れることとなる。(テサロニケ第二2:4)

ダニエル書が告げる通り『北の王』が極めて反宗教的であるなら、『不法の人』『アンチクリスト』が世界に跨る権威を行使するために、その王は除かれている必要があるが、同じくダニエル書が示唆するように『北の王』が『南の王』の領域を侵犯し、『聖徒』を亡き者とした後に自壊してしまうとすれば、確かに以上の聖書記述の組み立てに合理性が出て来る。

更に、ダニエル書が明かすように、『聖なる民の力が全く打ち砕かれると、直ちにこれらの事はすべて成就する』、即ち、もはや世の命運も尽き、『聖徒ら』の預言と『角』が争う『三時半』の後には時は残されておらず、後は一気に終局を迎えるということであろう。

終末も進んだYHWHの怒りの日に在って『隠される』人々とは、「シオンの民」であり、『わたしの民よ、奥の部屋に入り、後ろ手に戸を閉ざせ。激しい憤りが過ぎ去るまで、しばらく身を隠せ』とは、1260日の迫害に遭う聖徒らに語られているのではなく、信徒、その後に彼らを支持して共に世を糾弾する信ずる者らに向けて語られた救いを表す言葉なのである。(ゼパニヤ2:3/イザヤ26:20)

そして最後に『荒らす憎むべきもの』の活動する僅かな期間が残される。物事は終局に向けて大きく動き出すことを預言は語るのである。それら終末の諸事については、今日の情勢からすると然程遠くない時期に始まるのかも知れない。現に世界は、南北の王が対立関係を深めるという情勢にあり、もはや地球環境も末期的に見えるからである。

さて、以上のようにダニエル書11章40節以降が現実となって、『北の王』が『南の王』の領域に攻め込み『聖徒』を滅ぼす時、それは却って『北の王』の終局の印となり、もはや急速に台頭した覇権国家は、その持てる強大な軍事力に関わらず、自ら破局の時節をわざわざ招き、その寿命を縮めることになるであろう。その覇権が巨大であるがゆえにも、終焉に於ける『北の王』の国内の混乱には想像を絶するものがある。だが、それは同時に彼の地の人々にも福音と信仰を懐く機会の到達することも意味するのであろう。





   © 2019  林 義平



 

神の怒りの七つの鉢


黙示録の鉢の災い 長文2万3千字超
難易度 ☆×6  特高  聖霊と聖徒の理解は必須
黙示録の当該の鉢は黄金であり、それは祭祀に於いて液体の捧げ物を注ぎ出すことに用いられていた
他方で銅製の鉢は、香の祭壇の灰を回収するためのものであった⇒Ex25:29鉢の段階の前に聖徒は既に地上の試みを終えて去っている。聖徒という天界の神殿の石へのこの世の仕業への糾弾の段階、人類軍の召集に至るまでにこの世に表れる不吉な表象。





この『七つの黄金の鉢』の災いは、黙示録の中に繰り返される『七つの封印』、『七つのラッパ』に続く第三のものであり、『これら七人は最後の者らである』と紹介されているように、『第七のラッパが吹奏された』段階で、既に『聖徒ら』は天に揃い、『神の王国の奥義』は終了している。 そのために、これらの怒りの鉢が注がれる段階では『神の王国』が世に介入する直前の僅かな期間を描いており、その間に『この世』には鉢から注ぎ出される災厄の数々によって、神に敵対した世界に凶兆が次々に現れてゆく。

それらの災厄は、出エジプトの際のアロンの奇跡のようでもあり、キリストを屠ったユダヤに臨んだ地震と暗闇のように『この世』が神の是認から程遠いことを暗示するものともなろう。 既に、終末に於いて聖徒らを屠った『この世』の重い罪は明白となっており、残された地上の様々な部分が『鉢』の中身を注がれ、罪の宣告を受け、その悪しきところを次々に暴露されてゆく場面に、これらの『神の怒りを満たした七つの黄金の鉢』が注がれるところに黙示されてゆく。だが『この世』は神の糾弾に対し、その罪を認めるだろうか?

さて、黙示録という書は、新約聖書の他のどんな書とも様相を異にしている。
その記述内容は有り難い「天国の至福」のご利益目当ての教会員にしてみれば、まるで異次元の内容が展開されているというべきであろう。そこに描かれるのは、危機的で理解し難い状況、容易ならぬ試練、罪科への糾弾、未曽有の災い、こうした陰鬱な事象の数々の先に、ようやく神の善意が訪れる。

これは聖書の全般にも云えることだが、この黙示録も信者への神の善意に溢れた書という訳ではない。それゆえにも隠された内容がある。
全能の神、何事も為しえないことの無い方が、ただ人への善意と恵みを注いでいると捉えるなら、なぜに『この世』に悪と苦しみが横溢し、人が救いを願うようなことになっているのであろうか。
所謂「クリスチャン」とは、この辺りを考えない人々の集団であるとさえ云えよう。お目出度いご利益信仰であれば黙示録の真意も肯んじない違いない。そのような人々に黙示録はいつまでも謎となるであろう。
それはエレミヤの音信のようであり、多くの偽預言者らが興ってはエレミヤの糾弾の言葉を、神意ではない人受けする柔弱な内容に入れ換えようとしたものである。

確かに、宗教改革の両大師ルターとカルヴァンは揃ってヨハネ黙示録の聖典性に確信あるような発言はしていない。
ルターは「本書が聖霊によって備えられたことを何も証明することができない」と疑問視しており、カルヴァンは「暗黒の書だ」と友人に漏らしたと云われる。

それでも古来からヨハネ黙示録は、第三世紀のものとされるボドメルパピルス(P47)にも含まれており、非常に古くからの存在は裏付けられてきた。その中にはここで取り上げる『黄金の鉢』の災いの部分を含む16章17節から17章2節の句も古代のままに、パピルス上にそれらを記した文字の数々が現存し、今日もその記述を確認できるのである。
たとえその理解は進まないまでも、彼のヒエロニュモスやムラトーリ断片が黙示録の聖典性を認めていたように、謎に満ちた書でありながら、一半の人々は徒ならぬ聖性を感じてきたのである。

さて、「新約」という言葉に込めらる『新しい契約』とは、律法契約が遂に生み出すことのなかった『聖なる国民、王なる祭司』の選民、即ち、アブラハムに『あなたの子孫によって地上のすべての氏族が自らを祝福する』というその「真実のアブラハムの子孫」を、キリストの復活の七週後のペンテコステの日から、聖霊の注ぎを以って登場させた契約なのである。
その『神のイスラエル』への召しは、肉のイスラエルというアブラハムの嫡流の民族にまず開かれた招きがあったが、キリストを退ける『不足を示し』異邦諸国民が接木されている。(使徒13:46/ガラテア4章/ローマ11章)

『この世』の終わる時期とは、それら人類祝福の器とされるべき『アブラハムの裔』、真実の選民『神のイスラエル』が再び現れ、『この世』にとって代わる『神の王国』という、人類の贖罪と支配とを担うべき世界が、いよいよ間近に到来していることを知らせるところの最終的な預言の成就を迎えるという史上前例のない重大な変化の時となる。

黙示録とは、その「終末」に専ら焦点を合わせた一書であり、キリストや使徒らの言葉だけでなく、旧約からの許多の預言者ら、即ち「ネイヴィーム」に記された遥か古代の情報を、後の危急の将来に備えて呼び起こし、まざまざと活写して再び訓戒を与え、理解を与えられる限定された人々の身の上に起こる事柄を予め見せる役割を負ったおり、そこは特定者への映画の試写会のようでもある。これは終末に面する人々にはまことに重大な意味を持つ。

この書は、到底読んで幸福感に浸れるようなものではない。『天』と『地』への「裁きに次ぐ裁き」なのである。しかし、その必要のない時期にも、また必要のない人にも開示されることはないであろう。その為の黙示文ではないか。
これから裁かれようとしている被告人に抜け道を伝授する裁判官がいれば、その裁きが不正となって意味を成さないように、神がキリストと共に終末に起る事柄を通して、天に属する者らをも、地に属する者らをも裁き尽くすのであれば、その内容や裁きの要諦を『世人』に対してすべてあからさまに教えることは有り得ない。

さて、このヨハネ黙示録が書かれた時期は、第二世紀に入ろうという西暦96年頃とされ、この頃には奇怪な神秘教理を造り上げてきていたグノーシス派の勃興が有ったことで、初代キリスト教徒に属する人々にとっても、このヨハネ黙示録の存在については、ほとんど読解が出来ないという著しい困難のゆえに、グノーシス派の文書のように見え、書かれた当初から聖典に含めるべきでないとするシリア系の信徒集団と、使徒ヨハネの最後の活躍の場であった小アジアの人々の擁護との狭間に置かれてきた書であった。

全体はおよそ四つの部分から成っており、これを記したヨハネ自身が復活した恐るべき厳貌のキリストから命じられたように『今あることを、今後起ころうとしていることを書き留め』ている。
『今あること』とは、この書の第一の部分に述べられる、著述当時に見られた小アジアの各エクレシアの状態と、それをキリストが見守り、訓戒を与えている場面を指すのであろう。
そこでは聖霊によって生み出され、『新しい契約』に預かり、『聖なる者』となりながら、その契約から逸脱し兼ねない彼らの行動への譴責と、契約を全うし終えたときに彼らが受ける類い稀な栄光ある立場への励ましが込められている。

次いで、幻の内に天界に挙げられたヨハネは、後の世、それも聖徒らの裁きとこの世の裁きの終末に起る事柄への多くの黙示を見聞することになるが、それらが残りの三つの部分を構成している。
黙示録第二の部分は、解かれる書の『七つの封印』であり、キリストの勝利により、終末の恐るべき世の姿が開示されてゆく。

第七の封印が解かれると、そこから『七つのラッパ』の吹奏により『三分の一』とされるこの世の宗教的部分への不吉な宣告が下されるが、これが第三の部分を成している。

その中の最後に第七のラッパが吹かれるに至って、遂に『神の神聖な奥義は終わりに至る』ことになる。遂に『アブラハムの裔』が生み出され、天界に『キリストの権威が実現する』からである。

また、これらの黙示の合間には、『聖なる者ら』が身に多大の苦難を受けながら『この世』への暗鬱な預言を行うこと、また、彼ら聖徒を生み出す象徴の『女』アブラハムの正妻サラ当たる集団についての知らせも込められている。(ペテロ第一3:6/黙示録12:1/イザヤ60:1)

これらの記述の後、既に『新しい契約』がその役割を果たし終え真実のイスラエル『神の王国』が設立された後について、黙示録は第四の部分を語り始めるのだが、これが『七つの黄金の鉢に満たされた』神の怒りが注ぎ出されるという、聖徒らを屠ったこの世への激しい憤怒が頂点を迎える場面であり、22章ある黙示録は第16章まで進んでおり、なおその先を語るのである。
この『七つの鉢』の記述が終わると、『聖なる者らの血に酔う』大娼婦『大いなるバビロン』への滅びへと進み、以後、黙示録は人類社会への裁きの執行の場面と千年期の後の最終部分を残すのみとなるのである。

この終末三番目の「七つ」である「怒りの鉢」が何を表しているかについて、それは『大患難』の実際の災厄であるとも、また「ハルマゲドンの戦いの様子」であるとも教えられる。
その理由には、黄金の鉢を携えた七人の天使らについて『最後の者たちである』とされており、終末を示す『来るべき事柄』においての三重の七つの段階は、ここで三度目に描かれ、次なる「七つ」はもはや無いことがある。

しかし、「七つの鉢」の黙示そのものは、実は大患難もハルマゲドンも描いていない。大患難であれば、はじめの「四つの封印」が解かれた場面で早くもその恐るべき事態は既に開示されている。⇒「黙示録の四騎士」

「七つの鉢」によって描かれているのは、人々に見える実害によって証拠立てられる「この世の咎の告発」であり罪の宣告であり、七つの段階を進むに従い、『この世』は裁き凶兆によっていよいよ追い詰められてゆくのである。

それは、アダム以来神から離れて存在を続けてきた『この世』という人間製の体制が、どれほど倫理上の欠陥を持ち、争う貪欲が支配し、邪悪さに強情で空しく、人間の栄光を失わせ、如何に存続するに相応しくないのかが暴き出されてゆく。それでも悔いることのない者らの末路は、もはや異議を唱える根拠も残されないであろう。これこそ神の裁きというべきである。(ヨハネ16:8)

さて、黙示録は同一の事象を多面的に語るところがあり、封印もラッパも鉢も、必ずに時間的経過に沿って書かれてはいない。むしろ、終末に起る事態を複数の観点から記しているのであり、その都度、知らされることなく旧約聖書やキリスト・イエスの発言への関連が暗示され、「知る者は悟る」という書き方が終始徹底されている。
それこそは、初臨のキリストが『耳ある者が聴け』と言われ『譬えを用いてでなければ話そうとされなかった』と記されたところを彷彿とさせるものである。

それであるから『黙示』(アポカリプシス)、つまり「覆いを取り去る」という表題の意義は、限定された読者に対するものであり、それは聖書全巻に相当に通じた者のための書と言える。
なによりも大切なことは、『この世』が終わり、社会も人も生活も思いも、日常のすべてが激変するところに差し掛かる「終末」という、歴史上未曽有の事態に面する特定の人々をしてこの書が備えさせていることにある。したがって、「黙示録」は霊感されていない著作でも暗黒の書でもない。これなくして終末の意義を知ることは到底無理であり、黙示録は終末に面する人々への心を整えさせる重大な警告が込められているのである。



◆聖なる者らの召集の完了

この鉢の災いの天使らが『最後の者らである』と述べられているように、これらの災いが始まる以前に終わっている事柄が示唆されている。
それがこれら七人の天使らが現れ出る場所が『聖所』であり、そこは『神の栄光と立ち上る煙のために、誰も中に入れなかった』と描き出されているところである。

このように『聖所』が雲で満たされた場面が旧約聖書にあり、モーセの日に、律法契約に伴う神への祭祀の準備が整い、いよいよ崇拝が幕屋で開始されようとする直前に起ったこと、また、後にソロモン王が神殿を建立し、そこでザドク系の祭司団が奉仕を始めようとした日にも起ったことであり、祭司たちはその栄光と雲が去るまで祭儀を開始できなかった。

そして黙示録のこの『鉢』の場面でも、やはり『七つの災いが終わるまで、聖所には誰も中に入れなかった』とヨハネは記す。
この意味は、既に天界での祭司団の浄めも済み、祭祀の準備ができている段階であることを知らせるものと言える。終末に於いても天界の祭祀の開始は神の『雲』が晴れるのを待たねばならない。 即ち、『七つの鉢』から神の怒りが尽く注がれるまで、天界の神殿は整えられていても、その祭祀が始められることはなく、聖徒らの崇拝はその後の事となるのである。

確かに黙示録は、これら『鉢の災い』の以前に『第七のラッパ』が吹き鳴らされるときに『神の神聖な奥義は終了する』と語っていた。即ち、そのラッパの時点で聖徒の試みも終了し『レヴィの浄め』も達成された。
奥義の満了を通して『新しい契約』はその働きを成し遂げており、大祭司キリストとその祭司団が天に揃い、『女の裔』が現れることにより、聖徒らの長としてのキリストの権威が天に於いて実現していたのである。
だが、これら『七つの鉢の災い』が終わるまでは、天界の神殿祭祀も開始されず、その終了を待つべきであることを黙示は教える。即ち、『この世』への罪状認否の確認である。

これが意味するところは、まったく地の咎が露わにされた状態に入ったことである。
地で試され屠られた『聖なる者ら』は既に天界に去って地上には居らず、『新しい契約』を忠節の内に全うしなかった脱落聖徒たちが、連れ去られずに地に残されている『この世』があるばかりであり、しかも『この世』の全体には『聖なる者ら』を弾圧して滅ぼした重い罪を負って、いよいよ邪悪さを極めた醜態が見えている。そこに於いて『地』は、ただ裁かれるべき、罪科を負うばかりの世界となっているであろう。

だが、この段階では天界に去った『聖徒ら』と雖も、未だキリストと共に神殿を構成するには至っていないらしく、そのためか黙示録で七人の天使らが出て来たのは『神殿』ではなく『幕屋』とされている。
その時点で、天界に新設された祭司団が機能を始める前に為されねばならない一つの段階が残されており、聖所は雲に覆われ祭司らの活動はしばし止められ、為されるべき事のための時間が設けられている。それこそが『七つの鉢』による地への『神の憤り』の注ぎ出しなのである。

七人の天使らは『最後の者ら』であり、彼らの処置によって『この世』の全体が悔いを拒むことにより、モーセとアロンという『二人の証人』に抗したファラオを前表として、『この世』という対型的エジプトに対し、遂に処断の段階を迎えるために判決の申し渡しに相当する行いを為すことになる。

それらの描写は、七つ頭を持つ『野獣』によって死に至った『聖徒』たちも、『王の王、主の主』となられるイエスに追随して『諸国民との戦い』を繰り広げる直前の状態に居ることを教えるものとなっている。
だが、彼らは『野獣』と地上で戦う信仰の試みに於いて最後まで妥協することなく、キリストの道を歩んで遂に契約を全うし、主に付き従う者となったゆえに、それは勝利であり『世を征服した者』となり『キリストの兄弟』『キリストと共同の相続人』であることを自ら立証するのである。

それゆえ、彼らはモーセの時の七十人の長老らが、律法契約の締結を祝してシナイ山に招かれ神の面前で飲食したように、ガラスのように見える光景を足下にして、『モーセの歌と子羊の歌』を詠唱している。即ちそれは紅海での勝利の歌であり、弟子らを励まして『勇気を出せ。わたしは既に世に勝利している』と語り得た子羊の犠牲の死の偉業をも讃える内容であろう。(黙示録15:1-4/出埃24:9-11)

なぜなら彼らは『獣』と『その名の数字』『666』に勝利したと明記されているのであり、既に彼らは天界に召されているのである。
黙示録も、ヨハネの当時の聖徒らに向けて復活のイエスが激励するように『勝利を得る者』には類い稀な多くの報いが用意されているのである。

『新しい契約』を守って忠節を尽くし、『野獣』に屈することなく殉教したその勝利が、彼らをして『王なる祭司、聖なる国民』の立場を確定したのであり、彼らは天界でキリスト・イエスと共に祭儀を行う身分をその生涯を通して獲得したのである。

このように、天では準備が整いつつある中で、地上と云えば『聖なる者ら』を屠り尽くしてその罪悪は極まっている。この情況で神の怒りが表明され始めるのだが、その怒りが液体の注ぎとして描かれるのは、旧約預言からのことであり、それが黙示録でも鉢という容器に入れられている点に整合性がある。同じく古代のイスラエルはその所業により断罪されている。(歴代第二34:25)
終末での罪せらるべきは、『この世』の為政者らと、彼らに聖徒らを売り渡した脱落聖徒どもであり、加えて、キリスト教の偽りなき真理を告げた聖徒、即ち『二人の証人』を死に至らしめるべく、公権力を唆した旧来の宗教の集合体であろう『大いなるバビロン』との名を持つ大娼婦の三者である。

もちろん、『この世』の全体としては、『聖なる者ら』の処刑に賛同したのであり、それゆえにも『野獣の数字』である『666』の強制に喜んで服し、賛同もしたのであろう。その印を『手』と『額』、即ち、古代に律法遵守が「行動」と「思惟」に求められたように、人々の大半は野獣崇拝に従ってしまうのであろう。(申命6:8/黙示13:15-17)

イエス・キリストを屠ったユダヤ宗教体制が、ひとつの世代を過ぎることなく瓦解したように、終末の『この世』も、聖徒殺害を通して引き返すことのない行きどまりの道を突き進む以外にない。それは聖徒らを亡き者としたことで、キリストの共同相続者らを天に揃わせたかつてのユダヤ体制派が行ったような暴虐によってその重罪が重ねて犯され、古代にユダヤ体制が滅びへの袋小路に入り込んだように、終末の『この世』の命運もまったく決したというべきであろう。

今や『この世』には陰鬱な印が次々に起る。それはモーセの日にイスラエルに反抗を続けたエジプトを襲った十度の災い、また、メシア殺害の咎の報いを目前にし、ローマ軍団の足音がひしひしと近付く中での無法な騒擾と、身の毛もよだつほどの凶兆とが渦巻くことになったエルサレムにも比すべき陰鬱な時期の到来となるのであろう。

黙示録の終末に於いては、『神の子ら』への返報の予兆が『七つの鉢』に注がれた神の怒りの災いとされており、それは次々に『この世』を断罪し、出エジプトの時にそうであったように、それらの災いを通して、なお『この世』を離れるよう人々を促すものともなるのであろう。



◆野獣の秘儀

これらの『鉢の災い』を理解するために、把握しておくべき黙示された『野獣』がある。
つまり、聖徒らがキリストの完全性に預かるべく、忠節な生涯を全うさせる最後に、多くの聖徒を殉教へと陥れる『七つの頭を持つ野獣』とは、地上にすべての聖徒が生み出されたことに起因して、天界での立場を失った悪魔とその一党らが地に放逐されて後のこと、地上で聖徒を生み出した『女』を攻撃しようとしても上手くゆかず、そこで攻撃目標を聖徒らに改めるに際し、『底知れぬ深み』から呼び出される異形の『獣』であり、聖徒攻撃のために特化された悪魔の武具である。

『底知れぬ深み』[アビュッソース]の聖書中の用例を見ると、同じ黙示録の中では、悪魔が千年間囚われる場所が『底知れぬ深み』であり、千年の後には、その場所の鍵を持つ天使により、そこから解かれることが知らされている。

同じく黙示録では、『底知れぬ深みの鍵』を持つ『星』が天から地下に降って開錠するや、黒煙のような蝗の群れが放たれている。即ち、地に降ったキリストが解き放った聖徒らの宣教による世への痛撃のことである。初代の聖徒以来、現れることの無かった彼らは、終末の『この世』の空を覆って暗くし、五か月の蝗の寿命の間、世人すべてに『罪』あることを宣告することにより人々を苦しめることになろう。(黙示9章)

また、使徒パウロは『「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。』と述べ、殉教のイエスが確かに死に下ったことを否定しないようにと書いている。(ローマ10:7)

確かにキリスト・イエスは死に服して『地の芯に三日居た』のであるが、その死は出エジプトの晩に屠られ食された子羊と同じく、レヴィ族を買い取り神に仕えさせたように、天の神殿で仕える祭司となる聖なる者たちを召し出している。
聖霊を注がれた彼らは、ヨエルに予告された蝗のように、イエスを殺害に至らせた祭司長派をはじめとする宗教指導層を糾弾し、その悪行を告発される痛みを味あわせたのであった。そして黙示録は、同様の事態が遥かな時を越えて終末に繰り返されることを暗示しているのである。

これらを総合すると『底知れぬ深み』とは、無活動と時間の経過とが関連付けられていると言える。

従って『底知れぬ深み』から上って来る『野獣』とは、かつては存在したものの、永らく無活動の牢獄に居たことが示唆されている。
そして『野獣』という表象については、ダニエル書の再三繰り返される啓示の中で、一貫して王国や帝国という支配機構として示されてきた。

加えて、『七つの頭を持つ』というこのことについては、やはりダニエル書で四つの頭を持つ豹のような獣が現れているのだが、その異象と歴史上の成就とを比較してみると、強大な支配権が樹立されてのち、四人の側近によって分けられ、四つの王国に分離したアレクサンドロス大王のマケドニア・ヘレニズム王国を指していたことは広く知られたところである。

そこで『七つの頭』を推論すると、七つに分かたれたかつての王国を探すことにはなるのだが、そこで『七』というヘブライ文化に於ける数字の特殊性を勘案する必要が出て来るのである。この稿で考慮している『七つの鉢』のように、聖書において『七』は格別な数字であり、同じく黙示録では、人類史上の世界覇権の数をやはり『七』としている。

そして『獣』が支配体制を指すのであれば、『七つの頭を持つ野獣』とは、それら歴代の世界覇権を併せ持つ強大な支配体制であると類推することができる。
やはり、黙示録はこの『七つの頭を持つ野獣』が現れる時、それを見る人々は恐れて『この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか』と言う様を予告しているのである。しかも、この『獣』が『底知れぬ深みから上って来る』のであれば、それはかつて存在していなければならない。

そこでヒントを与えているものが、『その頭の一つが、屠られたかのように死んでいたが、その致命的な打撃から癒えてしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従う』という部分である。
これら七つの頭を世界覇権の一つ一つを表すものと仮定して推論を進める場合、どれか一つの覇権は、かつて致命的な損害を被っていることになる。

だが、損害を被らずに歴史の舞台を去った覇権なぞ無かったし、これからも無いであろうから、この『頭の一つ』は格別な意味での致命傷を負ったと見るべきであろう。
そこでこの謎について想い巡らしてゆくと視界に入ってくるものがある。
文明の黎明において、世界覇権の中で歴史の遥か彼方に、神からの有無を言わせぬ格別な力の行使を受けて、覇権を失った例が創世記の過去に存在しているのである。

それは、世界最古のシュメール文明と共にあり、人類を一か所に集め、統一支配を樹立したに等しいまでに成り上がった『ニムロデ』と呼ばれている何者かの支配覇権であり、それは本来なら神のメシアにのみ認められるはずであった全人類支配の実現の野望であった。
それがどう処置されたかは、創世記の語る通りに、言語が分けられてしまうことにより、人類の統一支配が妨げられて今日に及んでいる次第である。⇒「誤解されてきたバベルの塔」

だが、黙示録の開示する終末の有様の中では、この『一つの頭』も癒えてしまい、言語分割されたままの七つの頭を持った奇怪な姿のまま、再び強大な力を持つことが知らされるのである。
終末の世界が、その再登場を見るときに、『いったい誰がこれと戦うことができようか』と恐れるというのであるから、その支配権は歴史上類を見ないほどに強大であり、歴代の『七つの頭』であるそれぞれの覇権を併せ持つほどの、おおよそ『この世』と呼ばれる支配体制全体の糾合されたような恐るべき強権が終末にその姿を現すのであろう。

それは現存する国際連合のような、評決で平和的行動をやっと決めるようなおとなしいものではなく、むしろ既存の西欧的世界的体制などに満足せず、後発ながら強圧的な軍事集合体を構築し、それまでに存在しなかったような獰猛で野蛮で強大な権力を恣意的に振うという点で歴史的にも稀なものとなろう。それは『神の王国』と鋭く対立することになるが、その最重要な務めは、黙示録によれば聖徒たちを蹂躙することであり、恰も、そのために歴史の舞台に登場するかの観がある。

この地上の諸権力を併せ持つ『七つの頭を持つ野獣』は終末に至って、ダニエル書の『北の王』の提唱と擁護によって設立される権力の糾合される世界的軍事同盟も様相を見せ、それは現在までのところ姿を現してはいないが、その『野獣』としての行動また直接的存在は『42ヶ月』という非常な短命に終わることになる。おそらくは、設立基盤である『北の王』が大国として立ち行かなくなる暗示がダニエル書に描かれているためであろう。この野獣は先の七つから出て、第八の覇権となるとされるのだが、わざわざ『去って滅びに至る』と黙示録に於いても書き添えられている。(黙示13章・17章)

その『七つの頭』には『七つの王冠と十本の角』があり、この『十本の角』は後に『獣』とは独立して行動している節がある。しかし、とりあえず、この『七つの頭を持つ野獣』は、その強権を以って、聖霊の発言により『神の王国』の到来を告げ知らせる聖なる弟子たちを攻撃して死に至らせることが許されていると黙示録は語っているのである。



◆「三分の一」の秘儀

それからもうひとつ、鉢の災いの秘儀を追って行く前提条件として、(他の記事で扱ったが)黙示録中で度々現れる『三分の一』について理解を準備しておかねばならない。

「鉢の災い」の以前に、黙示録第八章に於いて、第二のラッパが吹奏されたことにより『海の三分の一が血になった』とされていた。
この世の三分の一を構成するほどの人々の集合体と言えるものを探そうとすれば、国家には無いのだが、他にそれに匹敵するほどに巨大なものが挙げられはするのだが、それは単なる一括りの集団ではなく、キリスト教に深く関わる大集団が存在している。
それが今日二十億を越える人口を擁する世界最大の宗教、「キリスト教界」であり、これはどんな国家よりも大きい人口と領域を占めている。

この世に聖霊の注ぎが再開され、再び聖徒が現れるとするなら、その世界に対して使徒時代のようなキリスト教、即ち「原始キリスト教」が清い状態で回復されると見ると考えることは妥当なことであろう。

だが、そうなると現状の「キリスト教界」はそれを歓迎するだろうか。
この点で示唆を与える事例は、イエス・キリストの初臨、また使徒たちの活動を、それ以前から存在してきたユダヤ教体制が、それをどう迎えたのかという歴史上の実際であろう。

旧約聖書最後の預言者マラキは、初臨のメシアがユダヤ体制を試すことに於いて『銀を精錬するもの』また『洗濯人の灰汁(洗剤)のようになる』と警告し『その来る日には、だれが耐え得よう。その現れる時には、誰が立ち得よう。』との畏怖の念をもって語っていたのであった。(マラキ3:2)
そこでラビたちの中から「メシアの患難」という言葉さえ造語され、それを避けるためのまじないのような行いさえタルムードに記されるようになったのである。

そして、実際メシアは『ナザレ人イエス』となって来られたにも関わらず、ユダヤ体制はそれを認めずに、その後も二千年も待ち続けたままである。
だが、メシアをローマの権力に渡して処刑させた咎は、その世代の内にユダヤ体制に酬いとなって襲い掛かり、遂に神殿を失い、律法祭祀を行う場所を失い、もはや律法を遵守する希望さえ断たれて今日に及んでいるのである。
メシア自身は、これを『自分たちが査察されていることを見分けなかった』ことが原因であると言われたのである。やはりユダヤ体制は「メシアの患難」を避けられなかったのであった。

では、キリスト教界は再臨のキリストをどう迎えるのであろうか。
多くの宗派で、再臨のキリストは肉眼で見えるとされている。あるいは、地にその姿を現すことで、ユダヤ教徒たちがその見えるメシアに帰依し、「集団改宗」という、即ち、民族を挙げて一気にキリスト教徒となるとさえ信じている人々もキリスト教界には少なくもない。

だが、キリスト教への帰依がそのようなものであるなら、終末に於ける『この世』の裁きとは、各個人の内面の性質がどうであるかが問われるものではなく、その信仰は外面的で、見えたままを受け入れる事になってしまう。それが各個人の倫理性を問いただし、永遠の裁きに分けるような「信仰」と云えるのだろうか。
それほど単純なことであれば、イエスはなぜベツレヘム・エフラタからではなく、ユダヤ教の中央からも離れたガリラヤの片田舎のナザレから来られたのだろうか。

そこには、単に預言のままには来なかったメシアに、神への個人の信仰、また一人一人に倫理的価値観を問う神の姿勢が見えるのである。
確かに、マラキが警告していたように、メシアの現れはユダヤ宗教体制を揺さぶる裁きとなり、『銀を精錬した』結果、ユダヤは裁かれ、メシアを殺害するという最悪の罪を犯し、パウロも言うように『イスラエルには感覚の麻痺が生じて』聖なる国民には異邦人が接木されねばならないほどに不足を見せたのであり、その咎と云えば、バプテストの予告した『火のバプテスマ』を被るという惨憺たる結末に、ひと世代の内に至ったのである。(ローマ11:7-)

そうであれば、メシアの再臨がキリスト教界にとって、単なる祝福になることを期待する理由が何かあるだろうか。
まして、二度目の臨在は、一度目とはまるで異なることを示してパウロはメシアについてこう言うのである。
『ご自身を犠牲として献げて罪を取り去るために、世の終わりにただ一度、現れてくださった』『キリストも多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れる。』(ヘブライ9:26・28)

また、キリストが一度目には肉体でこられた理由については、肉体の死が必要であったことを示してこう述べる。
『子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらを備えられた。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。』(ヘブライ2:14-15)

だが、しかし黙示録のイエスはまるで異なっている。
ヨハネの見た様は、髪は真っ白になっており、両眼は燃え盛る炎であるばかりか、その口からは諸刃の長剣が突き出ているので、それを見るなり彼は気を失ったとある。
教会員の多くは、十字架上にうなだれるキリストを、自分のために命を投げ打ってくださった優しい恩人とばかりに感傷に浸ってそれを眺めているのであろうか。

だが、再臨のキリストは『弱さのゆえに刑木につけられたが、神の力によって生きておられる』とパウロは語り、また復活した復讐に燃える恐るべき姿のキリストは、ヨハネに向かって『わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている』と豪語されているのである。(コリント第二13:4/黙示録1:18)

そして地上に在られたイエス自身が、福音書の終末預言の中で、何度も『彼はそこに居る』と言われてもそれを信じるなと警告を繰り返している。
また、『稲妻が東から西にひらめき渡るように、人の子もそう現れる』と言われるからには、真実のメシアの再臨は、人として地上に来られるのではなく、見えるメシアはむしろ偽物というべきであろう。

そこで黙示録中で度々言及される『三分の一』なのだが、メシアの初臨のときのユダヤ体制に相当し、メシアの再臨に於いて強い試みに曝されるものとしての「キリスト教界」のメシアに対する甘美な期待の脆弱性に注目しないではいられない。

なぜなら、メシアは『この世』を裁き、ご自身と兄弟たちへの報復のために再臨を為し、その時にこそ、敢えて敵対し続ける『この世』の勢力からエリコのラハブや、城市ギデオンのようにメシアの側に着こうとする者らを救出するのであり、そこに求められるのは、柔弱な信者だけの天国願望ではなく、神の公正への「忠節な愛」なのであり、地上は究極の正義と邪悪の戦場とならざるには済まない。



◆鉢から注ぎ出される七つの怒り

聖徒らは、『捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここが聖なる者たちの忍耐と信仰が必要なところである。』と書かれている。
これが人類の裁きに先立つ「聖徒の裁き」であり、キリスト・イエスが『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、入ろうとしても、入れない人が多いのだ』との厳しさの由来、また『自分の命を得ようとする者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを得るであろう。』との言葉の真意がそこにある。(ルカ13:24/マタイ10:39)

キリストの契約を守り、全人類祝福のための選民『神のイスラエル』として数えられるに至るためには、主イエスに続いて命を懸ける決然たる意志と行動とが求められており、それゆえにも彼らはキリストと共に『凱旋行進』を共にすることになるのである。(コリント第二2:14-15)

さて、こうして『新しい契約』がその働きを終え、『聖なる国民』が天に揃った後、地に依然存在している『この世』には、キリストばかりではなくキリストの『兄弟ら』を屠った重大な罪の報いが求められ、その件が有ってこそ決定的に神の憤りが頂点に達するのである。

その怒りを満たした『黄金の鉢』とは、本来の神殿祭儀では葡萄酒の捧げ物を祭壇に注ぐためのものであったとされる。
葡萄酒は後の『主の晩餐』でキリストの犠牲の血を表象するものとされているが、黙示録の黄金の鉢に注がれた葡萄酒は、聖徒らの犠牲の表象なのであろう。
従って、これらの『鉢』の災いの始まる前に、聖徒らへの裁きは完了しており、『この世』への裁きへと終末の段階は進化するのである。


・第一の鉢
その第一の鉢の中身は、地に注がれる。
すると『獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々との身体に、ひどい悪性のでき物ができた』。

このような皮膚病は、出エジプトの時の災いの中に有り、それは人にも家畜にも水腫を伴ったでき物を生じさせ、異教の祭司らもファラオの前に立てなかったとされている。
その災厄はエジプト人に限定されたものであったが、やはり黙示録でも限定された人々についての災厄となっている。
だが、黙示録の明かす終末でのこの災厄は、他の鉢のものを含めて、皮膚病などの実際に起る事柄を述べているのではなく、「黙示」である以上、他の多くの描写に同じく象徴的な何かを教えるものである。

この野獣崇拝に関わる人々に限定された皮膚病とは、その人々が崇める強大な権力への帰依がもたらす過ちの兆候の一つが、皮膚が人の外装であるように明らかに見える事態を指すのであろう。それはその人の行動を抑制し、不自由さを味あわせるほどの何かのように思われる。既に、黙示録十一章では『聖なる者ら』を表す『二人の証人』を直接に死に至らしめた咎がある。

最初の鉢の怒りが注がれた場所である『地』とは、聖書中の『天と地』の語の慣例からすれば、支配される側の民を指すのであれば、地の大衆も『獣』を崇拝する以上は、その行動を是認し、神への敵対を明確にしている「共犯者」となっている。その表層である皮膚に現れた災厄は、その人々同士で認められる神からの不興の印と言えよう。

今日でさえ、人間の生産活動に伴う歪みから、自然界に気象の異常が関わってきているのではないかと論じられている。20世紀の後半から豪雨と旱魃が、気温の異常が、地上の様々な場所を襲うようになってきたとされ、ローマ時代からの橋が流され、ルネサンス期の彫刻像が溶解している様は、やはり人類社会全般がその生き方を省みるべき事を指し示している。

平穏な日常が強大な自然の力の前に打ち砕かれるとしても、人が社会全体の生き方、在り方を反省したりする姿を見ているだろうか。いや、むしろ信仰あるほどに「神が居るならどうして」と思うことであろう。しかし、問題を惹き起こしているのは実に人間なのであり、その倫理上の欠陥は、重い宿痾となって人類に憑りついているのである。それを知っても認めないとすれば、それは快癒を拒絶する病人のようになろう。

だが、人間は貪欲に基づく生活方式を変えることはまったく難しい。そのうえ、異論を唱える人々も居れば、一致した改革も至難の業であることは、現状でさえ様々な国際会議の実態に明らかである。だが、現実は容赦なく人々に襲い掛かりつつあり、なお将来に来る終末の時期に我々は世界を汚染することに於いて何を見るのか、まったく予断を許さない状況にある。


・第二の鉢
さて、二杯目の鉢は、『海』に注ぎ出されることになる。
そのため、『海は死人の血のようになって、その中の生き物のすべてが死んでしまった。』
黙示録に於いて『海』に災いが降るのは二度目になるが、一度目との間には異なりがある。
第八章の第二のラッパの吹奏によって災いが及んだのは、『海の三分の一』であり、先に見たようにこれがキリスト教界への断罪の宣告であった可能性を示唆しているのが、海に投げ込まれた『燃える山』の存在と言える。

『燃える山』と云えば、聖書中に在って最も深い印象を与え、新旧の聖書でその概念が繰り返されている。即ち、シナイ山であり、律法契約の締結のためにその山に降って来られた神の恐ろしさは一方ならず、全山が激動し竃から立ち上るような黒煙と百雷と稲妻が煌めく中、神が火となって降って来られたのであった。

イスラエルの民は肝をひしがれ、神には『わたしたちに直接に話さないようにしてください』と懇願するほどであったが、モーセはこの意味を説いて『神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのだ』と語っている。それは神との契約を取り結んだ民への責の重さを銘記させるための畏怖すべき現れであった。

そして神は、再び山だけでなく天地を激動させるとハガイに預言させただけでなく、使徒パウロがこの件をヘブライ書第十二章で雄弁に語っており『あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか』と警告しているのである。

これは、聖徒らの語るところにキリスト教界がどう反応するのかを暗示して、『新しい契約』に預かるという彼らの主張が、シナイ契約を守らなかったユダヤ体制のように糾弾されることを意味しているのであろう。
それゆえにも、燃えるシナイ山という契約履行への責任の追及の象徴が、世界人類という動揺する海に投げ込まれたときに『三分の一が血になる』謂われがある。キリスト教界が聖霊の声にまずは従わないであろうことを通して、その死が確定するからであり、『血』とはその象徴であろう。

だが、黙示録第十六章での第二の鉢については『燃える山』は出ては来ない。その対象は契約とは関係のない世の全体となっているからであろう。
その災いは、もはや『三分の一』だけに問われる咎では済まず、それと結託して神からの使者、聖霊で語る『聖なる者ら』を亡き者とした『海』で表される人類全てに及ぶのである。

人類社会は貪欲が推動する世界であるので、当て所も無く蠢くばかりで、一致した行動も目的を果たすことも不可能である。それぞれの貪欲がせめぎ合って、あらぬ方向へと常に流されているのがこの世というものであり、イザヤの預言にはこうもある。
『しかし悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができないで、その水はついに泥と汚物とを出す。わが神は言われる、「よこしまな者に平安はない」』(イザヤ57:20-21)


・第三の鉢
そして第三の天使が次なる黄金の鉢の中身を『川と水の源とに傾けた。すると、すべて血となった』とある。
『川と水の源』に関する記述は新旧の聖書中で散見されるもので、これは水源を意味している。(イザヤ48:21)
古来、ユダヤ文化では「水」(マイム)にも幾らか区別があり、流水は「生きた水」(マイムハイイーム)と呼ばれ、溜められた水よりも格段に好ましいものとされてきた。
確かに源を持って流れ出る水は澄んでいるが、貯水は淀み濁ってゆくものである。それであるから、ただ流れ込むばかりのパレスチナの「塩の海」は「死海」とも呼ばれている。

エレミヤ書に『わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った』とあるように、聖書中で「水の源」は、命を与える神自身を表している。
エゼキエルやゼカリヤの預言書には、神殿から水の流れが発して、それが死にゆく者らを救う「生ける水」とされている。黙示録でもこのテーマが繰り返されているのだが、その一方で、旧約の預言書は『毒の水』も対照して語っているのである。エレミヤ書にはこうある。『我々の神、YHWHが我々を黙らせ毒の水を飲ませられる。我々がYHWHに罪を犯したからだ。』(エレミヤ8:14)

これについては、黙示録の鉢の災いの以前の、第三のラッパのところで『水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ』とあるのだが、同じくエレミヤ書にも背教したイスラエルの体たらくを罰する目的で『「彼らは、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、それに歩まず、彼らのかたくなな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルに従って歩んだ。」それゆえ、イスラエルの神、万軍のYHWHは、こう仰せられる。「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。』と書かれている。(エレミヤ9:13-15)
この両者の共通点を通して、古代と終末で共に神の民を自認する者らへの神の不興が表明されていると捉えることは自然なことである。(アモス6:12)

黙示録の前半の第三のラッパでもたらされた水源の汚染も、後半部の第三の鉢によって血とされた流れる水も、共に神の処断であり、本来なら人々を生かすはずの水の流れも、死をもたらすものとされている。
これは、ラッパに於いては、キリスト教という本来人に永生をもたらすべきであったものが、実はそうではなく、その教えと云えばただ死のようなものであったことが、降下した聖霊の発言によって暴かれてしまうようなことであることを、旧約の預言を通して黙示されており、我々はそれを察知すべきなのであろう。

こうして、神に関わる知識の源であるべき『三分の一』の宗教上の理解も教義もまったく無益なものであることが明らかになるとき、かつての神の民を襲った事態は繰り返されないとは限らない。イザヤはこう述べていたのである。
『「この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしてもそれは人間の戒めを覚え込んだからだ。
それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねてこの民を驚かす。賢者の知恵は滅び聡明な者の分別は隠される。」』(イザヤ29:13-14)

従って、第三の鉢の怒りによって、世のすべての『川と水の源』が血に変わるとは、ラッパの災いが限定された『三分の一』に向けられたものであった以上に、この世のあらゆる精紳面での導きを司る指導者らの教えが無意味と化して生気を失い、それがただ死に向かうばかりの、希望のなく、儚い虚構の知恵であることが暴露されることを予期すべきことになる。
その理由を黙示録では、水を司るという天使の言葉としてこう記している。
『「この者どもは、聖なる者たちと預言者たちとの血を流しましたが、あなたは彼らに血をお飲ませになりました。それは当然なことです。」』(黙示16:5-6)
即ち、為政者らをはじめとする『この世』が、体制として聖霊で語る聖徒らを退けるばかりか、キリスト・イエスにしたように、その殺害に手を染めるのであれば、それは『聖霊への冒涜』であり、『けっして赦されることのない罪』となる。(マタイ12:31-32)

そこで、神への祭祀において犠牲を捧げる場である『祭壇』までが、擬人化されこう語るのである。
『「然り、全能者である神なる主よ、あなたの裁きは真実で正しいのです。」』(黙示16:7)
これらの鉢が金製であると描写されていることからすれば、律法の祭祀に於いて、それらは聖所の香の祭壇の灰を処理するための鉢ではなく、飲み物の捧げ物を入れる容器としての鉢であり、その中身は葡萄酒であったことになる。タルムードによれば、神殿での祭壇の下には、排水用の小穴が穿たれており、祭壇に注がれた葡萄酒や、犠牲の動物の血などは祭壇とその前に設けられた溝を通じて神殿域の外側に排出されるようされていたとされる。

このことを併せて考えるなら、キリストに続いた聖徒らの犠牲の血が祭壇に象徴的に注がれていたことになり、そこで『祭壇』はその証人ということもできるのである。
即ち、聖徒殺害に対する神の怒りの表明の正当性を、確かに『祭壇』という、その犠牲を確かに受け取った側として、これは天使の発言に重ねて証しする言葉であり、神の裁きの正当性と共にその犠牲の重さを強調してもいるのであろう。



・第四の鉢
第四の天使は、神の怒りを太陽に注ぎ出した。すると、『太陽には人間を火で焼くことを許された』とある。
この『太陽』が何を意味するのかについては、黙示録がやはり旧約の預言者たち(ネイヴィーム)の過去の多くの発言へのリファレンスの役割を果たしていることに気付く。

この『鉢』の怒りによって引起される炎暑については、回復をもたらす神を讃えたイザヤ第49章でこのように語られている。
『わたしは捕えられた人に「出よ」と言い、暗きに居る者に「現れよ」と言う。彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。
彼らは飢えることがなく、渇くこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らを憐れむ者が彼らを導き、泉の畔に彼らを導かれるからだ。』(イザヤ49:9-10)

同じく第25章では暴虐から民を救う神についてこのように語っている。
『まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる。暴虐な者の勢いは、壁をたたく豪雨、乾ききった地の暑さのようだ。あなたは雲の陰が暑さを和らげるように、異邦人の騒ぎを鎮め、暴虐な者たちの歌声を低くされる。』(イザヤ25:4-5)

砂漠の夏での炎暑が殺人的であることは、ベエルシェヴァを彷徨したハガルや、瓢箪の木陰を失った預言者ヨナの記述にも描かれているが、やはり、これらの句での『太陽』も人々を『撃つ』ものであり、それが乾燥した地で彷徨する者らへの炎暑を指すことはもちろんであるが、二つ目の句に於いては、それが『弱き者』が受ける『暴虐』に擬えられている。
そこから類推のできる『人を焼く』ほどの『太陽』とは、上位からの「著しい暴政」ということになろう。

では、その暴政の原因として何が考えられようか。
先の第四のラッパでは、『三分の一』の月、星、そして太陽が打たれて、光明を三分の一だけ失っている。
そのラッパと比較すると、見掛け上、この鉢では正反対の結果に至っているようではある。
だが、それでも太陽が打たれて光明を失うのが三分の一であり、それがキリスト教界、また宗教関連であるなら、その指導力が陰ったとしても、社会全体に与える影響は限定的なもので済むだろうが、これが政治上の指導や支配の仕方そのものが、実は間違っており、被支配者に益をもたらさず有害であることさえ暴露されるとしたらば、為政者は宗教家とは異なり、強権を振ってでも支配を継続しないわけにはゆかない。なぜなら、社会の秩序に支配は必要不可欠であり、一時でさえ休止すれば混乱が避けられないからである。

こうして、支配を表すであろう天の光は人々を焼く圧政の炎暑が避けられないとしても、人々は『これらの災いを支配する権威を持つ神の御名を冒涜し、悔い改めて神に栄光を帰することはしなかった。』と黙示録が予告するのであれば、出エジプトのときのファラオの如き頑迷さを表し、名を知らされた神を讃えるよりは圧政の下に留まることを選んで、その倫理上の選択を変えないのである。



・第五の鉢
次いで第五の天使は、その鉢を『その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみ悶えて自分の舌をかみ、苦痛と腫れ物のゆえに天の神を呪い、その行いを悔い改めようとはしなかった。』(黙示16:10-11)

この『獣』というのは、黙示録の第13章のはじめに『海から現れた』『七つの頭を持つ』あの野獣かといえば、そうはならない。
その理由は、先に述べたように、この鉢の場面そのものが、聖所の雲の中から始められているので、天界の祭祀の始められる直前であり、既に聖徒らは天界の海の岸辺で勝利の歌を詠唱しているのである。彼らが地上で預言した期間は42ヶ月であり、その長さは『七つの頭を持つ』野獣の活動期間と同じであることが黙示録に記されている。(黙示13:5)
従って、聖徒たちを葬り去ったその野獣であっても、はや活動期間も尽きたことは否めない。

そして、黙示録は次なる『子羊のような二本の角』を持つ別の獣が現れ『先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で行使する』とある。では、なぜ先の『七つの頭を持つ』野獣の面前ですべての権力の行使が許されるのか。
やはり、その答えは、先の強大無比の野獣の権力行使が何らかの理由で止まっているからであり、おそらくはその時点で存在もしていない理由さえ聖書には示唆されている。

であるから、新たに表舞台に現れるこの羊の如き獣は、先の『七つの頭を持つ』あの野獣の『像』を造り、それをあらゆる人々に拝ませるという、究極的な偶像崇拝を起こしているのである。その偶像には息が吹き入れられ、遂に生ける魂となる。

その『像』とは、人類の権力の糾合の象徴であり、ニムロデの野望が政治の範疇を超え、いよいよ宗教の領域にまで入り込むであろう。政祭の頂点を極めるその恐るべき生ける偶像によって、今やサタンの願望は絶頂を迎えることになる。この辺りの描写は旧約のネイヴィームに詳しく、またより重大な内容を伝えており、やはり黙示録はそのリファレンスのようでしかないほどである。(イザヤ14:13)

ゆえに、黙示録は第13章以降、一貫してこの『野獣の像』への崇拝を警告し続けており、その数字は完全数「7」に到達することのない『666』、即ち「不完全、不完全、不完全」であろう。これは、黙示録中で終末について繰り返される三度の『七つ』との対照として捉えることも的外れではないように思える。七に到達しない六とは、神の王国に到達することのない、また対型の安息日の聖なる第七日に達しない六日、つまり「千年王国」に入らずに俗なる世が滅び去ることを表しているとも考えられる。即ち「滅びの数字」とも言えよう。

第五の鉢の神の怒りが注ぎ出される先が、この『子羊のような』偽善的にキリスト教的な世界覇権であり、これは、黙示録でヨハネに示された『七人の王』の一人であるなら、先の特殊な『第八』の覇権の『去って滅びに至る』のを目撃した後に、再び権力の座に戻る理由があることになる。

だが、その支配の座としての権威を振う大義名分が、聖徒らの聖霊の言葉と、この第五の鉢の災いによって完膚なきまでに崩されるとすれば、それはその直前の第四鉢から注がれた災いに関係を持つと考えられる。
『羊のような』獣がキリスト教を基盤としてきたものであれば、元から苛酷な独裁制の監視社会ではなかったであろうところが大きく変質することになろう。

だが、世界覇権と成り得る大国が、普段から個人情報などを収集していないわけもなく、監視社会は従来の独裁国家だけが構築するものでもない。民間での情報漏洩が騒がれようといまいと、既に我々の個人情報もネットに関われば、日々国境を越えて各国の巨大データベースに入念に蓄積されつつあり、顔認証なども加われば、無数の監視カメラや位置情報によってあらゆる人を追い詰めることが可能な時代は、現に到来してしまっているのである。

ハックスリーなどのSF作家の描いた牢獄のような世界は、もう空想の出来事ではなく、各種端末や家庭電気製品にさえ滞在位置や購入履歴や本人の嗜好はもちろんのこと、ネット上の電子的書き込み内容も、果ては通話までをも監視されている日常の現実は、人体へのマイクロチップの埋め込みの必要もなく、統治の脅威としての準備は自由主義圏でも整っている。それは実に人に便利なテクニカル・ユートピアの到来などではない。ある意味で「バベルの塔」のような圧政の世界帝国が建設されている途上にあるのである。それこそは『この世』にあらゆる人を引き留めようとの『獣』の野望のためであるに違いない。

そこで終末では、『獣の印』のない人々に対する差別が徹底したものであることを黙示録の第13章が既に『売り買い』さえできないという、生活を支えるべき交換社会からの締め出しさえ示唆されているところに明瞭である。

また、このように捉えることは、これらの鉢の災いが長い時間をかけて下されるものと云うよりは、相互に接密な関係を持って短時間で行われると見ることになるが、それはダニエル書の末尾に『聖なる者らを打ち砕くことが行われるや、あらゆることが終局に至る』と書かれているところと整合している。

このように、『獣の座』であるところの支配の正当性を被支配者らの前に失えば『闇』が覆い、それでなくとも既に人々が味わっている多くの苦しみや、悪性の『腫物』によって自らを省みるべきであるのに、一向悔い改めることもなく、却って神の名を呪うというのである。この繰り返される頑迷さは、ますます出エジプトの対型と言うべきであろう。



・第六の鉢
大河ユーフラテスが第六の怒りの注ぎ出される場所であることを黙示録は告げている。
『すると、日の出る方から来る王たちに対し道を備えるためにその水は干上がってしまった。』

これは唯一場所が特定され得る記述であると同時に、ユーフラテスに関わるところでは先の第六のラッパによって引き起こされた『四人の使い』の解放という事象とも関連を持っている。
ラッパと鉢の双方にユーフラテスが関わっているのは、やはりその大河に跨って両岸に建てられていた大城市バビロンが黙示されている。
ユダの捕囚民を解放しなかった新バビロニア帝国のこの都が、前539年ティシュリの月の16日のわずか一晩のうちにメディア・ペルシア連合軍に攻め取られたのは、強固な城壁ではなく、十分な兵糧でもなく、ユーフラテスの水を抜いてしまい、川床から侵入するという攻略軍の作戦によるものであったのだ。

その結果としてバビロニアの支配が終わり、捕囚民らは自由を得て、その一部のユダヤ人が帰還して祭祀を回復させ、その後には神殿の再建に至ってもいる。
それであるから、黙示録中の第六のラッパでは、捕囚民が解き放たれる場面が描かれ、第六の鉢では、攻撃される前のバビロン、またその東に位置したメディアやペルシアの王族たちの軍勢の攻撃準備が整う場面が描き出されているのである。

これは、既に黙示録中に登場している『大いなるバビロン』について黙示しているに違いない。
それは第七のラッパの吹奏の後の記述の中、三人の天使が次々に地への布告を為す場面であり、その第一は天地を創った神を崇拝せよと地に住む諸国民に告げ、第三の天使は『野獣とその像』の崇拝者である印を身に受ける者が裁かれ、滅びに至ることを警告している。

それら間に第二の天使が『大いなるバビロンは倒れた』と宣告しているが、これが黙示録中での『バビロン』の初出であり、終末の神の裁きの日の三つの段階の中央に置かれているのである。従って、『大いなるバビロン』への神の処遇は、非常に重要な一つの段階であることが示唆されており、それはこれ以降の黙示録中での『大いなるバビロン』の処罰について語られることが実際にたいへんに多いところにも表れている。

では、この『大いなるバビロン』の咎は何かと云えば、『わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。』と啓示を受けたヨハネは語っている。(黙示17:6)

これは即ち、キリストと共なる『聖なる者ら』の犠牲という以外にない。彼らは天界でキリストを隅石とした神殿を構成するべき者らであり、彼らを死に追いやった『大いなるバビロン』には、古代の新バビロニア帝国がエルサレム神殿を破壊したように、神殿についての咎を負っていると言えるのだが、やはりエレミヤはこう預言している。
『矢を研ぎ澄まし丸盾を用意せよ。YHWHはメディアの王たちの霊を奮い起こさせる。バビロンに対する主の定めは滅ぼすこと。これこそYHWHの復讐、その神殿の復讐だ。』(エレミヤ51:11)

こうして黙示録に記される『大いなるバビロン』というものが、終末に『七つの頭を持つ野獣』の上に座り、聖徒らを攻め滅ぼすことを使嗾する何者かであることを我々は知ることになる。
『大娼婦』ともされる『大いなるバビロン』ついて、『地の王たちはこの女と淫行を行い、地に住む人々はこの女の淫行のぶどう酒に酔いしれている』とも黙示録は指摘する。
『葡萄酒に酔う』という概念は、聖書中で度々『血に酔う』の意味が付され、流血行為また騒擾や暴虐に擬えることがある。(箴言4:17/イザヤ49:26/エレミヤ51:7)
加えて、『淫行』つまり異教への恋慕も葡萄酒の酔いと関連付けられている。(ホセア4:11/イザヤ65:12)

こうして『淫行のぶどう酒に酔いしれる』この大娼婦の実体を探ってゆくと、これは『獣』で表される権力と結びついて諸国民を酔わせ、流血や騒擾を惹き起こすものであり、『七つの頭を持つ野獣』に乗って、聖徒殺害を使嗾するからには、聖徒らに対して最も敵対し、嫌悪する勢力であろうことが見える。
これはが宗教上の勢力であるとすれば、様々な聖書の記述に合致するところが次々に現れてくる。

『地の王たち』に関係を持って諸国の民の理性を失わせたかのように流血に向かわせたのは「宗教」と呼ばれる勢力ではなかったろうか。
宗教そのものが諸国の争いの元となるだけでなく、政治や民族と絡むことによって事態を悪化させる元凶ともなってきた。

それが終末に於いては、聖霊によって語る聖徒撲滅のための最悪の使嗾を諸国民と『十本の角』で表される諸国家の公権力に対して行うとすれば、それはローマの権力を使ってメシアを屠った祭司長派の役回りを、やはり諸宗教が演じることになることがここに警告されているであろう。

黙示録のこの節は、更に加えて『わたしはまた、龍の口から、獣の口から、そして、偽預言者の口から、蛙のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。
これはしるしを行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たちのところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。』と語る。(黙示16:13-14)

この場面には大娼婦は出て来ない。『全世界の王たち』という世界の公権力全体を糾合するのに宗教勢力は適当であるように思われるのだが、それを行うのは『龍』であるサタン、キリスト教的な『獣』と『偽預言者』とされている。
大娼婦に属する諸宗教も偽の預言者のように思えもするのだが、この句では別の名称が現れており、しかも黙示録中で、この『偽預言者』は『大いなるバビロン』よりも後まで存続している。そればかりか『野獣』の崇拝を行わせているのは『大いなるバビロン』ではなくてこの『偽預言者』の方なのである。(黙示19:20)

この勢力には、『蛙のような』『しるしを行う悪霊どもの霊』が幾らかの奇跡の業を行って見せはするのだが、出エジプトのときの異教の祭司らがしたように蛙を出すのが精々であり、モーセの真似事程度のものにしかならず、到底、聖徒らの聖霊の印には及ぶまい。

従って、野獣の像を造り、新たな偶像崇拝を強制するのは、「子羊のような獣」と「偽預言者」であって、この新たな崇拝にそれまでの諸宗教の関わりは示唆されていない。
それゆえにも、『大いなるバビロン』を滅ぼすという『十本の角』である諸国家の権力に『同じ思い』を抱かせるのは、旧来の宗教以上のもの、即ち、サタンそのもの、その時に残っている世界覇権、そして『偽預言者』という何者かということになる。(黙示17:12-14)

これについては、使徒パウロが彼に託された終末の奥義を語るところでの『背教』という、それが起らなければ終末も来ないという宗教的で新たな状況が関連を知らせている。
それが『不法の人』と呼ばれる者の到来であり、この者は『滅びの子』とも語られる。この『滅びの子』と呼ばれたもう一人が、あのユダ・イスカリオテであることは非常に示唆的である。

なぜなら、キリスト・イエスの傍らに在って、その師を売り渡すということが「背教」でなくて何であろうか。
このユダを終末に置き換えるとすぐに思い当たる者らが候補として挙げられる。
即ち、「脱落聖徒ら」であり、師イエスも使徒らも、『新しい契約』に預かりながらそれを逸することの無いようにと何度も新約聖書中で警告しているのである。
だが、契約から離れ落ちる者らも、ユダ・イスカリオテがそうであったように、仲間を売り渡し、最大の敵と変じて、終末の出来事を成就させる働きを為すとしても何の不思議があるだろうか。

この鉢の災いの下る以前に、契約を全うした聖なる者らは天に召されており、『一人は連れてゆかれ、一人は残される』という聖徒の裁きも既に終わっているこの段階では、元は聖徒として聖霊の力に預かった者であっても、もはや天界に何の望みもなく、毒食わば皿までと云わんばかりに、悪の道をひたすら進むよりほかない。

こうして『偽預言者』の正体に見えるものがある。まさしく『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言う者らに対するイエスの答えは『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』というまったくの拒絶であり、『一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになっていながら』『その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできない』と使徒も厳しく予告した通りのことが起り、その後はサタンの霊力を受け『偽預言者』と堕した元聖徒らが、『汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。』とあるように、かの有名な『ハルマゲドン』という場所に全世界の権力を集め、神との戦いに進むという姿がここに描き出されているのである。(黙示16:16)

『大いなるバビロン』に含まれない『偽預言者』とは何者か。なぜ『預言者』と宗教的に呼ばれているのか。つまりは、旧来の宗教を超える宗教的存在であり、印を行い偽りを語るからである。これが脱落聖徒に著しく整合するのである。
こうして、メシアの初臨の際に登場した役者たちを終末に再度見ることになろう。
即ちキリストである「聖徒ら」、それを処刑するローマの権力に相当する「羊のような獣」、そしてそれを慫慂するユダヤ祭司長派に当たる旧来の宗教集団『大いなるバビロン』があり、ユダ・イスカリオテを演じる『偽預言者』、別けても『滅びの子』と共通の名で呼ばれる『不法の人』である。

それであるから、黙示録のこの場面の第15節で『見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。』との御厳のイエスの言葉がここに書かれていることはまったく適切なことである。

これを、近代になってモファットのような翻訳者たちが、この節の存在場所を不適切と見做し、本来は黙示録第三章に位置するフレーズであったに相違ないとして、多くの翻訳聖書でも括弧書きにされる習慣が出来上がっているが、ギリシア語本文にはここに何の区別もない。
むしろ聖霊により『新しい契約』に預かるすべての者が『偽預言者』に落ちぶれないために、この句こそは真に重大なキリストの訓戒となっており、ここにこそ必要な言葉となるではないか。それが『この世』の全体を慫慂する脱落聖徒の決定的咎となる場面だからである。



◆第七の鉢
この最後の怒りの鉢の段階は、世界の破滅の最終的有様を描くよりは、その手前の時点に在って、この世というものの全体への裁きの宣告の為された状態を指している。
それは特に聖徒らを葬るよう指嗾した諸宗教を一括して表す『大いなるバビロン』への処罰をこの鉢の注ぎ出しの主な効能としている。

それは何故かと言えば、その大娼婦への裁きは不意打ちであり、本来はこの象徴的娼婦への攻撃は表向き隠されているからである。
だが、その主目的は人類が最も行うべきでないシオン攻撃という、この世の大半の人々の意思に適う大義名分の下に行われようとしている。
ここに於いて、もはやこの世に咎を逃れる術は無い。

さて、第六の鉢の中身の注ぎ出しを経て、終末に神に逆らい続けるこの世には、いよいよ最終段階に踏み込む準備ができている。
世界は旧来の宗教という指針を無用なものとしてかなぐり捨て、今や、脱落聖徒による似て非なる神の信仰と崇拝方式が、獣と結託して進められている。それが即ちパウロが警告した終末を来たらせる『背教』であり、『不法の人』また『反キリスト』が究極の偶像『荒らす憎むべき者』となって地上に姿を現し、「救世主」また「神」ともされることであろう。
世界は『七つの頭を持つ野獣の像』の下、権力を一つにまとめることに成功し、『平和でないのに平和だという』世相が見られるらしい。
一見して平和的和合のように見られるその状況は、『北の王』という挑戦的な覇権国家の一つが瓦解したことによる消極的意味のものであって、人々が倫理性を得て争いを後にしたわけではないのである。

こうして、神とこの世とは決定的な敵対関係に入ってゆく。
神の怒りを満たした第七の鉢は、地上からの聖徒退場の後の一連の人間社会の災いを描いてきたが、この最後の鉢の怒りは『空気に注ぎ出され』るという。
これは、この世のすべてへの糾弾であり、また、『この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者』であり、我々が平素呼吸するかのようにして暮らす『世』という体制全体、諸悪の根源であるサタン自身の咎を暴き出すことを意味しているようにもとれる。聖霊の言葉にも繰り返し逆らう人類は、この導き手の下に結束しているからである。(エフェソス2:2)
こうして、神からの糾弾の矛先は、その人類社会の諸要素を経て後、悪の究極の原因者であるサタンへと遂に向けられることになる。(ヨハネ16:8-11)


第七の黄金の鉢から、神の怒りが空気に注がれると『大きな声が聖所の中から、御座から出て「事は既に成った」と言った。『この世』は、聖徒らによる七度のラッパによる罪の宣告にも、七度の害悪の証明を受けてもその道を悔いずに、神に逆らい続け、その同義的選択を完く明らかにした。

すると、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。
大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなった。
また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降ってきた。人々は、この雹の災害のゆえに神を呪った。その災害が非常に大きかったからである。 』


そして我々は、黙示録の描く終末に類似の状況と光景を旧約の記録に見ることになる。
稲妻、大音量の声、雷鳴、地震、これらはシナイ山麓でイスラエルが神の顕現に於いて経験したものであり、その地震が『かつてなかった』とは、ハガイの預言の成就を指すニュアンスを持っている。

第七の決定的な世への断罪は『天と地とを激しく揺すり』神にとって『望ましいものら』が神殿に入って来るのであり、これはイザヤとミカがシオンへの流れのように向かう諸国の人々として予告したものであろう。

これとは対照的に『大いなるバビロン』の罪は神の前に思い出され、三つに裂け、諸国の町々も倒れるというのは、旧来の宗教界の断末魔のような姿を曝すかのようであり、遂に聖徒への復讐としての『二倍』の葡萄酒の杯が回されるということであろう。

聖徒への反対行動ではバビロンとしての結束をみせた諸宗教も、信者の多くを失っており、もはやいざ自分たちが矢面に立たされる予感を覚えれば、怖気付いて咎を擦り合い、大きい部分に分裂してしまい、小さい宗派などは逃げ去ってしまうのであろう。

この世の権力については、野獣の像という政祭一致型の支配の下に一つにまとめられ
、小国の権威も見えなくなるほどに霞んでしまうということであろうか。
そして、天からは1タラントの雹というのであれば、当時でも25.8kgに相当するというから、この重さの氷が実際落下すれば、爆撃のような大惨事になるであろう。
だが、これは象徴である可能性が高い。

このような神と世との敵対関係は、古代にパレスチナ入植を目前にしたイスラエル民族と、カナン諸族との状況に似るものがある。
既に、神の民は『約束の地』から異教に堕落したカナン人を滅ぼしてその土地を入手することが許されており、またそれが神の命令であった。

カナンの人々は猛烈な恐れに捕われたが、その中から城市ギベオンはイスラエルに和睦を申し出たのである。
イスラエルはエリコのラハブに同じく、ギベオンの投降を認めたばかりか、彼らの窮地を救うために危急の軍事行動まで起こしたのであった。
カナン諸部族からすれば「裏切り者」とされたギベオンの命運は、カナンの強力な五つの城市の連合軍に責められ風前の灯火であった。
イスラエル軍は懸命に一晩中行軍を続け、ギベオンの危機を救う義なる姿を見せた。

だが、それは単にイスラエルの戦いというだけではなかった。
神が加勢に加わり、天から巨大な雹が降り注ぎ、人の剣にかかって戦死した者より多くの死者がカナン連合軍に出たというのである。(ヨシュア記10:11)
これは大きな戦いとなり、その後のイスラエルの優勢を形作る契機となったのだが、夕刻になっても戦闘は止まず、そのまま夜が訪れてしまえばカナン兵は闇の中に逃げ去り、再び態勢を立て直して状況は膠着し兼ねなかった。
そこでイスラエルを率いるヨシュアが『太陽よ止まれ』と叫ぶと、昼は更にまる一日も続いたとヨシュア記にある。もちろん、天文学上は有り得ないことではあるが、そう書いてある。
そして『YHWHがこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。』とも書かれているが、この出来事はそれだけ徒ならぬ意味を含んでいたのであろう。(ヨシュア記10:14)

そこでゼカリヤの終末預言も、YHWHの日の神と諸国民との戦いの予告の中でこう記している。
『そこには長く連続した日がある。この日をYHWHは知られる。これは昼でなく、夜でない。夕暮になっても光があるからである。』(ゼカリヤ14:4)
この神の日に起るとされる預言の言葉が、上記の陽が沈まなかったときのアヤロン平原での大勝利とを結びつけていないと誰が言えるだろうか。『後にも先にもなかった』異例な事態の指し示すところが『この世』の終末であれば、それこそヨシュアの時以上に異例な日となろう。こうして、ゼカリヤは神の側の圧倒的勝利のための夜の明るさを、ヨハネは巨大な雹の落下を預言する。

真実のイスラエルである聖徒らに信仰を持った人々の集団と、神に恭順することなく『この世』に留まる大多数の人々との軋轢は遂に『ハルマゲドン』の戦場に至るであろうが、その結末は、この1タラントンもある雹の落下に示唆されているというべきであろう。

イスラエル側についたギベオンを攻め滅ぼすことを謀ったカナンの五城市同盟の王たちであったが、最後は洞穴に逃げ込み震えあがっているところを捕えられ、ヨシュアの前で処刑されている。
こうしてギベオン人は守られ、イスラエルは約束の地の平定を進めてゆくのであった。

ここに我々は、『神のイスラエル』である『聖徒らの王国』と、その彼らに『親切を行って』その側につくことで『この世』を後にする『羊』で構成される『大いなる群衆』の姿を見ることができる。

その一方で、『山や岡に向かって「我々の上に覆い掛れ」』という敗残する世人の有様をも古代に前表されていたことを知れば、神と子と聖霊に逆らう事の末路を是非にも避けたいと思うであろう。滅びゆく人類が頼りたく思う『山や岡』も聖徒らである『シオンの娘』の前に削られていまうのである。(ルカ23:30/黙示6:11-17/イザヤ40:4)

したがって、第七の鉢の災いが注がれ『(事は)成った』と神殿(ナオス)の御座から声がしたというのは、大地震と大いなる城市の分裂が直後に続いていることからすれば、『この世』の全体への裁きが鉢の災いによって終了し、いよいよ処断の段階へと速やかに移行することを云うのであろう。

黙示録中で何度か言及される『大地震』とは、『天と地を激動させる』と予告されたハガイの預言に関わり、そこから『神殿に宝のようなものらが入って来る』のであり、それは『七つの鉢』から注がれた災いにより、信仰を懐いて『この世』から離れようとする人々を導き出すものであり、この第七の鉢によって惹起される『大地震』が最後の機会となると思われる理由がある。

それまでに、世界は『野獣の像』の崇拝に堕しており、聖徒を支持する人々の集団と思われる『シオン』への諸国家の攻撃を『この世』はもろ手を挙げて是認しており、そこに於いて人類は二つに分けられているからであろう。これが、即ちキリストの前に於ける『羊と山羊』の分離である。


やはり、人は救われたいから救われるわけではない。神やキリストの存在と慈愛を信じるから救われるわけでもない。まして、これらに関わる情報を正しく知ったからとて、そのまま救われるわけもない。知識がもたらす破壊的な脅威こそが「高慢」である。だが、それらがどうあろうとすべての人の前には為されねばならない「神の裁き」が待っている。

終末は、生ける人類の裁きであって、その時に至ってはじめて各個人の内奥が「エデンの問い」のように試されるのである。それは、一人一人がどのような者であるか、その内奥の倫理観が試されるのであり、その前に自信を持つのは極めて危険なことであり、また、恐れ過ぎても罠に嵌まる。これは現時点では何とも云い切れないが、「裁き」である以上、そのように不明のところが我々に残されているのは避けられないことであろう。我々が裁かれるべき『罪人』であること、これは厳粛に受け止めねばならない。

そこにはアダムが経験したような、身を切られるほどの誘惑と試練がそれぞれにあるに違いない。サタンは徹頭徹尾『蛇』であり、イエス・キリストをさえ誘惑したのであれば、誰をも試すに違いないのである。

ただ、聖徒らの聖霊の発言に価値を見出し、神の経綸に協働しようとする人々は、『シオン』とされている地上の『女』として『一時と二時と半時』の間は保護を受けるであろう。
その間は、おそらく聖徒らの活動期間であり、それが終わるとき、裁きは聖徒から地の人々へと向けられてゆくのであろう。⇒「二度救われるシオンという女」
それでも、この女『シオン』は城市ギベオンのように、『神のイスラエル』によって必ず守られるであろう。

では、我々は聖徒の現れるときに、彼らと和睦するだろうか。
その仕方について、イエスはこう言われる。
『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄に居たときには尋ねてくれた』(マタイ25:35-36)
イザヤとミカは、シオンに向かうという信仰を持つことになる諸国民の人々の流れを預言している。
そうであれば、聖徒を通して再臨のキリストと和睦する人々はけっして少なくないに違いない。









  新十四日派  ©2019 林 義平



「携挙」と誤解される聖徒の召し

黙示録とテサロニケ書簡が示すもの
1万5千字超  黙示録11.13.18章、テサロニケ第一4-5章、テサロニケ第二2章
<難易度 ☆☆☆☆☆☆ 高>



「携挙」とは、新教系のキリスト教宗派の人々がテサロニケ人への第一書簡の第四章に記されるところによって信じられている終末に起きる事象を指している。

つまり、キリストが帰還するときに生きている弟子らが、『雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいることになる』という句を主な根拠として、信仰に篤い信者らが、ある日キリストに迎えられ、突然に空中に挙げられると期待しているその事柄である。

それは、信仰している「クリスチャン」方に起こる昇天というありがたい「奇跡」であり、その後は永遠に天で主と共になるという。 ⇒(テサロニケ第一4:17)

肝心のその時がいつになるかについては、世に臨む患難の前か後かで議論があるものの、それは突然に来るというところはおおむね一致しているらしい。
ある人々は2016年中にこれが起こると待望しているとも聞く。だが、そのような話は毎年出て来ては消えて行くものとなっている。

その期待には、目出度い「携挙」の発生への待ち遠しさが込められているのであろう。確かに、生き辛い世の中からの解放は早く来て欲しいものであるし、至福の天に入れるとは、まことに有難い教えに思えることであろう。


では、この「携挙」という物事の意義は、単なる信者の突然の救いなのだろうか?
それとも、何か別の深い神の意志が込められた秘儀が関わるのだろうか?
そこでパウロの述べた、生ける弟子らがあるとき突然に空中に挙げられるというこの句の背景を探ってみることにしよう。

ついては、旧約聖書や黙示録などの幾つかの角度からの視点を加えて再考してゆくと、この「クリスチャン」と称する方々の待望なさるところとは異なる終末の「携挙」の姿が立ち現われてくる。それを特に以下に書き出してみようと思う。



まずは、「携挙」の根拠とされているテサロニケへの書簡について述べる前に、旧約聖書の後半を占める一大事業、バビロン捕囚からの民の解放について、古代と終末を旧約と黙示録の視点から確認いただきたく、以下しばらくはそちらの内容をご辛抱願いたい。

さて、黙示録の中で、旧約聖書に描かれるバビロンからの解放が回想され、また敷衍されている箇所がある。
バビロンという城市がその大河を跨いで建設されていたユーフラテスの河畔から、黙示で拘禁を解かれる四人の使いが何者であるかは、その解放に続いて『二億の騎兵』が現れるところに示唆されている。(黙示録9章)
この数字は実数であろうか?黙示録が書かれた当時の推定世界人口が二億であるというからには、当時としてこの数字は大きすぎる。だが、それでも今日の世界人口からすると、この騎兵隊の攻撃目標が 『人々の三分の一』であれば、まったく二億と雖も誇張とはならない数であり今日なら三分の一は20億以上にもなる。やはり黙示録という書は当時を超えた内容を湛えているといえる。

そこで『人々の三分の一』という語が指し示している、二十億以上の人々を抱える集団で思い当たるものといえば、地上の最大の宗教となっている「キリスト教界」がある。それを『殺す』ために、『二億』もの多くの参加者が現れる理由があるとなれば、宗教界に大きな動揺が走るかのような人々の意識の変革が必要となるであろう。⇒ 「聖霊によるキリスト教の回復」

『二億』という数字は、人類の三分の一を占める現在のキリスト教界のさらに十分の一とは言え、やはり小さな数ではない。国民が二億人を越える国家がどれほどあるだろう。(黙示録11:13)
そこで黙示録の記述を当てはめて考えると、キリスト教界に属する膨大な数の人々が、その教師らに従って世界各地で信仰生活を送っている現状を鑑みるに、この黙示の『二億』もの数の人々が、キリスト教界が無意味な偽りを教えていることを暴露し、その教えが死のような利己主義であると暴いてしまうことなど、現状では到底考えられないことである。

だが、福音書が揃って予告するように、『聖霊』を注がれる『聖なる者ら』が地の四方から終末に現れ、まさにキリストに予告されたように、支配者らの前でそれぞれに聖霊によって語り『誰も抗うことも、論駁もできないほどの証し』を行うのであれば、当然ながら世界の衆目を集める事態となり、それまでのキリスト教とはいったい何であったのかが問われることは避けられない。(ルカ21:15/ヨハネ16:8)

旧約聖書でも、預言者ハガイはこの件を述べ、神がいつの日にか、天地を揺るがすと予告されているのであるが、そうすると諸国の宝(のような者ら)が入ってきて、神の神殿を満たすと予告しているが、新約聖書でもヘブル書がこのハガイを引用した上で、神が天地を揺り動かすことを再度言及し、終末に神が語ることに注意を促している。(ハガイ2:6-7/ヘブル12:25-27) 

この件とイザヤとミカが揃って予告する終末の一大絵巻の次の光景は無関係であろうか。
ふたりの預言者は、揃って終末のシオンの山に無数の人々の集まることを予告してこう描いている。シオンとは神殿を戴くべき小山でありエルサレムの土台であるのだが、終末には諸国の人々が神の教えの出所と見做して、そこを目指して流れのように参集してくると二人の預言者は預言しているのである。

このように書かれている。
『終りの日に次のことが起る。YHWHの家の山は、諸々の山の筆頭として堅く立ち、諸々の峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れ、多くの民は来て言う、「さあ、我らはYHWHの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道を我らに教えられる、我らはその道を歩もう」と。律法はシオンから出、YHWHの言葉はエルサレムから出るからである。』(イザヤ2:2-3/ミカ4:1-2)

また、これに関連するかのようなゼカリヤの預言もこう告げる。
『その日には、諸国のあらゆる言語から来た十人の者が、ひとりのユダヤ人の裾を捕えて、「我々も共に行く、神があなたがたと共にあることを聞いたからだ」。』(ゼカリヤ8:23)

 そこでキリストの終末預言にあるように、為政者らの前で語られる『聖霊』の神の発言に諸国民の間で衝撃が起るのなら、儀式や典礼で大仰に振る舞ってきた宗教、特にキリスト教界を意義無きもの、黙示の述べるように死んだものとしてしまうと言っても過言ではあるまい。⇒「聖霊によるキリスト教の回復」 

人々が宗教をいうものを再考し、問い直す機会があるとすれば、それは何であろうか。
信者になれば「天国」でそうでなければ「地獄」との幼稚な教えのキリスト教界に対して、キリストが予告したように、為政者らと対峙し聖霊の言葉を語る弟子らとの差は余りにも大きい。しかも、その証しを『諸国の人々』が聴くとも言われるが、それはいつの時代に起こると語られたのか。人類は歴史上にそのように際立った、全地を揺るがすような発言を聞いたとは言えない。(マタイ10:18)

そのように『聖霊』が再び人々に降下される以上は、その時にキリスト教というものがキリストとの結びつきを回復し、今日の蒙昧の内に分裂している状態から回復される必要があるのだが、それは即ち、キリスト教というものが異教の象徴的中心地であるバビロンの捕囚から解放される必要がある。つまり「天国と地獄」のような異教の教理と決別することである。

まさしくユーフラテス両岸に古代バビロンの城市はあった。黙示録の四人の使いが終末に拘束されているとされる場所でもある。
かつてこの城市は世界覇権を手にし、神と律法契約を結んでいた民、至高の神の崇拝を司っていたイスラエル民族を捕え、七十年に亘って神殿祭祀を中断させた新バビロニア帝国の帝都でもあった。

大王ネブカドネッツァルのときにエルサレムが破壊されて以降、シオン山上に聖なる神殿は存在せず、律法に規定されていた祭祀はまったく中断されていたのであるが、ペルシアのキュロスⅡ世がバビロンを征服して後、エルサレムに神殿を再建してその祭祀を復興するように命じた勅令の発布によって、志ある五万弱の帰還民団がユダの地を目指したのであった。⇒「アリヤーツィオンの残りの者」

その後、神YHWHの崇拝の復興に携わった人々は、周辺諸国民からの反対運動に遭遇して多くの年月を無為に過ごしもしたのだが、やがて神は預言者らを遣わして帰還民を激励し、ペルシア王ダレイオスをも動かし、前515年に至り神殿祭祀も遂に復興をみたのであった。それは神殿破壊の起こった前586年から七十一年目の事であった。⇒「エレミヤの七十年」

古代よりバビロンとは創造神崇拝とは異なる崇拝の中心地であり、死後の世界を教え、死者との交霊を説く宗教世界の中心地であったことからすれば、今日までのキリスト教はバビロンの教えに染まって来たことにおいて、恰もバビロン捕囚に遭っているかのようである。⇒「誤解されてきたバベルの塔」

中世から今日まで、キリスト教界には様々な異教が寄生しており、死後にゆく天界の至福や責苦の地獄ばかりでなく、地母神や母子崇拝、冬至の三日後に誕生する太陽神の祝い、三神崇拝や十字形の刑具崇敬なども含め、挙例すると本質的にはキリスト教独自のものをほとんど失って異教化していることに気付かされる。

今日では一般的にキリスト教の勢いに陰りはあるものの、キリスト教界の教理はローマ帝国以来変わらずに観え、『正統』を称して以て回った伝統や、捏ね繰り回した哲学を誇ることで、バビロンの二重の城壁の奥深くにキリスト教はすっかりと囚われの身でいるかのようではないか。古代に東方からキュロス大王が現れたような大きな事態の変化の無い限りには、やはりこの趨勢もまずもって動かし難い。(黙示録16:12/イザヤ41:2)
 
したがって、キリスト教がバビロンの教えに囚われた状態から解き放たれることが起こるとすれば、それは新バビロニア帝国を短期間に征服したキュロスⅡ世のようなメシアを要することであろう。

預言者エレミヤは、メディア・ペルシアによるバビロニアの没落を預言してこう記した。
『滅ぼす者がこれに臨みバビロンに来た。その勇士たちは捕えられその弓は折られる。YHWHは復讐する神であるので必ず酬いられるのだ。 
わたしはバビロンの高官、知者、総督、長官、勇士らを酔わせる。彼らはいつまでも眠り続けて目を覚ますことはない、とその御名を万軍のYHWHという王が言われる。
万軍のYHWHはこう言われる。バビロンの厚い城壁は無残に崩され、高い城門は火で焼かれる。今や、多くの民の労苦はむなしく消え、諸国民の辛苦は火中に帰し、人々は力尽きる。』(エレミヤ51:56-58)

そのうえで、この預言についてエレミヤは神からこのような指示を受けている。
『あなたがこの巻物を読み終ったならば、これに石を結びつけてユーフラテスの川に投げこみ
それから言え、「バビロンはこのように沈んで、二度と上がってこない。わたしがこれに災厄を下すからである」と』(エレミヤ 51:63-64 )

これらバビロンへの災禍の予告はキュロスⅡ世によって征服されたときに成就を見たかといえば、ユダとイスラエルの解放とシオンでの神殿再建の下命によりYHWHへの祭祀の復興が実現したことにおいては、バビロンの没落は明らかではある。
だがしかし、そのときにエレミヤに語られたYHWHの言葉がその通りに成就したかと問えば、そうも言えないのである。

確かに、『わたしはバビロンの海を干上がらせ、泉を涸らす』とユーフラテス川の流れを変えるキュロスⅡ世の戦法を予告しているかのように読める箇所もあるのだが、『バビロンの厚い城壁は無残に崩され、高い城門は火で焼かれる』ようなことはメディア・ペルシアによる征服のときには起こらず、まして『バビロンは、瓦礫の山、ジャッカルの住みかとなり、恐怖と嘲りの的となり、住む者はひとりもいなくなる。』というようなことも起こらなかった。(エレミヤ51:37)

今日ならば、バビロンの跡地を見るときに、荒涼たるその光景にエレミヤの預言の成就を重ね合わせることはできるのだが、それでも預言を追ってゆくと頚を傾げるようなところが多いのである。キュロスⅡ世の攻略で、城壁は崩されず、街が燃え上がったわけでもない。征服戦の最中にユダの捕囚民も守られたその戦法は、城壁に手を付けずにユーフラテスの河の流れを変えたところにあったのである。

考古学は未だバビロンという城市がどのように終わりを迎えたのかを知らず、アケメネス朝ペルシアでも特に洗練された城市として存続を続け、囚われたユダの人々の大半はキュロスの勅書が出されても依然としてバビロンに住むことを選んでおり、この地のユダヤ人コミュニティは中世期にはバビロニアン・タルムードを生み出すほどに成熟している。その地のユダヤ人の比率の高さは現代のニューヨークのようであったであろう。

民は自由を得て捕囚はそのまま離散となり、ユダヤ人種はこの時代からコスモポリタン化を始め、メソポタミアの公用語となるアラム語を用い、その後はヘブライ語もアラム字体で書かれるようになり、暦の月の名称をはじめ生活上の多くの事柄が以前のヘブライ古来の伝統一辺倒から離れ始める。これを今日に例えると、民の皆が英語も話すことができ、母国語もローマ字で記すというような変化と言えよう。

こうしてユダヤ人にとってのバビロンは本国パレスチナに比肩するほどの文化や宗教の中心となっていったのであるから、民はエレミヤの預言に野暮なほどに偏った敵愾心を感じたことであろう。 そこは洗練された愛すべき大都会なのである。

では、神YHWHによるバビロンへの預言にあった『城壁が無残に崩され、高い城門は火で焼かれ』などの言葉の数々はどう成就するのであろうか。
これらを比喩であると言うには『瓦礫の山、ジャッカルの住みか』とは随分に具象的である。

そこでこれらの言葉に示唆を与えるのが、ヨハネ黙示録の存在となってくる。
黙示録が再度バビロンについて言及することにより、激烈なエレミヤの預言の言葉はそこに再び蘇り、将来の終末について新たな意味を帯びて来ることになるからである。



◆バビロンからの解放
 
ヨハネ黙示録が「バビロン」と言及するときに、それは古代城市バビロンという概念を超えておりそこでは『大いなるバビロン』と呼ばれる大娼婦として何度も繰り返し描かれる。
それは、かつてのバビロンの経巡った歴史上の意味を、それもずっと煮詰めたように凝縮された仕方で再呈示しつつ読む者に訴えかけて来るのである。⇒「大いなるバビロンの滅び」

それに加え、かつてバビロン捕囚からの解放に関わった人々が、世の終末を描く黙示録の中にも暗に描き出されている。
即ち、キュロスⅡ世が描かれ、総督ゼルバベルと大祭司エシュアもそこにいる。そしてシオンに神殿を再建するべく出立する「残りの者ら」の姿さえも黙示録には認められるのである。

だが、ヨハネ黙示録は、やはり古代の事跡を繰り返すばかりでなく、終末独特の事象を予告しているところが現代の読み手の思考を強く刺激するものとなっている。

それは古代の事跡を模型のようにして、将来の全世界に関わる出来事を描き出すという驚異の内容が記されているのであり、旧約聖書に記された歴史を読む者に向かって、それらが将来に意味するものが何かを予告しているのである。

だが、黙示録の記述は旧約聖書に描かれた歴史を順に追って書かれてはいない。それは黙示録というこの書の多くの場所がそうであるように、終末の事象も前後関係を切り離されて散らされている。そればかりか、一つの事柄を繰り返し別の角度から述べるような観点の変更も多い。それが却ってこの書の理解を妨げる閂のようでもある。
 
それでも、バビロン捕囚と解放という一つの事象について黙示録を探ると、実に多くの事柄が示唆されていて、旧約聖書の故事を予型とし、その対型である将来の成就を指し示しているのである。

そこで黙示録に散在する旧約のバビロン捕囚と解放に関わる記述を幾らか書き出してみよう。

まず、イザヤ書から予告されたメシアとなったペルシアの王キュロスⅡ世という人物は、捕囚からの解放に於ける発起人ともされるべき重要な役割を果たしている。

もちろん神YHWHが彼を用いて、神殿喪失による祭祀の中断の空白を置き、予告通り七十年後に再建された神殿での祭祀を復興させたのではあるが、キュロスⅡ世がバビロン征服を果たした二年後に、それまでの新バビロニア帝国の政策を正反対に変え、諸民族の崇拝を復興させ、特にエルサレムの神殿再建に勅令を発したことは、この人物の寛容さの発露であり、その功であったに違いない。⇒「指名されたメシア キュロス」

黙示録の中でも、この大王によるバビロン征服のニュアンスが何度か述べられている。
そこで『ユーフラテス河畔に繋がれている四人の使いを解き放つ』という場面をヨハネは描いているのだが、これはその大河の両岸を跨いだ大城市バビロンの陥落と、それを契機としてユダの残りの者らがシオンを目指す姿が不定の将来に投影されている。

しかも、それはエレミヤが預言した七十年が正確に満たされたように、非常に厳密な時が定められてのことである。黙示録はその四人の使いの解放の時期について『その年、その月、その日、その時刻』のために備えられたとまで言う。(黙示録9:15)⇒「エレミヤの七十年」

それらのアリヤーを目指した者らの中にあって総督ゼルバベルと大祭司エシュアがその中心を成したのであるが、ゼカリヤの預言の中では彼らは二本のオリーヴの木として象徴されている。それらの樹液が燭台の火を明るく燃え立たせるというのであるが、これが黙示録では『二人の証人』として再登場し、終末に現れる『聖なる者ら』の働きが『二本のオリーヴの木』として繰り返されている。

その働きは1260日に亘って滅びの預言を宣告することであり、この『二人の証人』に与えられた権威はモーセとアロン、エリヤとエリシャを含む三重のものに達している。(黙示11:1-6)
彼らが『聖なる者ら』であることは、ヨハネが与えられた葦で測る『神殿で崇拝する者ら』に表されている。即ち、終末に為政者らに聖霊の言葉を語る人々のことであり、彼らは『新しい契約』を守ることが求められているので、一定の基準に達する必要がある。(マタイ10:18/ルカ21:15)

これら『聖なる者ら』を表す総督ゼルバベルと大祭司エシュアを含んだ『イスラエルの残りの者ら』が、バビロンを発ってシオンに向かわせることを実現させるためにやはりキュロスⅡ世の存在は欠かせなかった。では、誰が終末におけるキュロスとなるかについては何の議論の余地もない。

より偉大なるメシア、即ち神の右に挙げられたキリスト・イエスであり、その永く待たれた臨在の開始によって初代キリスト教徒のように聖霊注がれる『聖なる者ら』が再び出現し、将来彼らが世界の注目を集める中で聖霊の言葉を告げることを表しているであろう。

彼らがユーフラテス河畔から解かれるその時ついて、厳密に狙い済ました一時となることを黙示録の『その時と日と月と年』という言葉が強調している。(黙示9:15)
キュロスⅡ世の勅令は前537年に出されたとされているが、神殿の再建と祭祀の復興を迎えたのはその22年後の前515年のことであったとされている。

したがって今日のオリエント学に照らすと、神殿の存在していなかった期間は七十年間となり、ネブカドネッツァルによって前586年に神殿が破壊されて以来71年目にYHWHの神殿祭祀が回復したことになる。⇒「エレミヤの七十年」

そこで終末に於ける『四人の使いら』が象徴的バビロンから解放される時、即ち『聖なる者ら』が初代の弟子ら同様に地上に現れるその時も、綿密に練られた格別の時である必要を知らせているのである。これは聖霊を注がれ、為政者と対峙し、聖霊の言葉を語ることになる格別な聖徒らの出現を指すと観ることができる。
また、彼らの解放の目的は、世界と為政者に対する宣告に終わるものではないことも、この選び抜かれた時に象徴されている。
 
即ち、『四人の使いら』の解放される目的は、象徴のシオン山上に神殿を再建することであり、しかもそれは地上のエルサレムを意味しないのである。
『聖なる者ら』が建設を目指す神殿の隅石はキリスト・イエスとなる天のものであり、その最終的な天界の神殿は新約聖書の記述からも明らかである。
 
パウロも繰り返し教えるように、キリスト教徒は律法を後にし、業ではなく信仰によって『義』を得るのであるから、動物の犠牲は何ら人の『罪』を除かず、いまさら地上のエルサレムに神殿を建てモーセの祭祀に後戻りするべき謂われはまるで無い。(ヘブライ10:18)

そしてシオンを目指した『残りの者ら』が周辺諸国、それも同じくサマリアのような割礼の民からの反対に遭い、神殿再建が遅れたように、終末の『聖なる者ら』にも試練の1260日、42ヶ月が存在する。
その間、諸国民は象徴的エルサレムと神殿の中庭を蹂躙すると黙示録は語っている。(黙示11:2)

これは『聖なる者ら』が聖なる崇拝をそれまでの間行えないというのではない。なぜなら、アリヤーの大祭司エシュアはキュロスの勅令の年の内にシオン山上の神殿跡地に祭壇だけは築いて中庭での祭祀の一部を行い始めているからである。それも、周辺諸国の醸し出す不穏な情勢が後押しをしていたとエズラが語っている。(エズラ3:2-3)

だが、この日毎の犠牲も仮のものというべきである。なぜなら、神殿が存在しないために至聖所が無く、スッコートの祭りは行えても当面『贖罪の日』の祭儀が行えなかったのであり、そこで祭司らの贖罪も済んでおらず、その聖性は仮のもので未確定であった。マラキの予告した『レヴィの浄め』は済んでいなかったのである。それで黙示録のヨハネも『崇拝する者らを測れ』と命じられている。(マラキ3:3/黙示11:1)
 
そしてこのことは、終末に現れる『聖なる者ら』の地上の身分と相似関係にあると言える。彼らが天界に挙げられ主を隅石として神殿を構成するか否かは『新しい契約』を生涯に亘って守るかどうかによるのであり、地上に居る限りには試みを経る必要があり、その聖性も未確定なものである。

そのため聖書は、終末のキリストによる聖徒らの検分の後に、なお地上に残される脱落聖徒が存在することを新約の中で繰り返し警告している。それは『ひとりは連れてゆかれ、ひとりは残される』というキリストの終末預言にも警告された選別である。



◆聖なる者らへの試練

さて、『聖なる者ら』の最大の敵が『七つの頭を持つ野獣』であることを黙示録は告げている。
これはサタンが七つの頭を持つ赤い龍に象徴されるところと類似しているが、この分割された頭はサタンの持つ利己心と関係しているであろう。

即ち、神はキリストを通してすべてのものを一つ(のオイコノミア)にまとめ上げ創造物全体に忠節な愛の一致をもたらし得るのに対し、利己心を抱く者らに一致なく、常に分裂と闘争を繰り返すのであり、それはこの世の実相そのものではないか。(フィリピ2:1-11/イザヤ57:20-21) ⇒ 「オイコノミアと七つの頭」

七つという完全数は、それでも何とか全体をまとめ上げた姿を指していると見れば、その見かけ上の一致も非常に脆いものであり、それは最終的にハルマゲドンの同士討ちで露呈することになるのであろう。
だが、分裂気味でもこの世が一つに何とかまとめ上げられることに世人は却って感心してしまい『誰がこれと戦い得るか?』と讃嘆の声を上げるというのである。(黙示13:1-4)

黙示録によれば、この野獣は、サタンとその一党が天界を追われ地に落された後に生じているのだが、このきっかけを作ったものは象徴的サラの出産が終わり、すべての『アブラハムの裔』、『選ばれ、召された者』即ち『聖なる者ら』が『男児』の誕生をもって現れたことに由来することを黙示録12章は暗示している。しかし、これは『新しい契約』に預かる者の全体が地上に現れたということにはなっても、天界でのイスラエル12部族の十四万四千人が選ばれて揃ったということにはならない。(黙示7:4)

『新しい契約』から篩われる脱落聖徒は少なくないことをイエスは『召される者は多くも、選ばれる者は少ない』と語られ、やはり『ひとりは連れて行かれ、ひとりは(地上に)残される』とも予告されたのであるから、聖霊を注がれる人々の総数は十四万四千人を越える相当な人数となるに違いない。(マタイ22:14)

これらの『聖なる者ら』のすべてが終末の主の臨在を以って地上に登場すると、地上のすべての家族の祝福となるというアブラハムの裔がサラによって生み出され尽くしたことになる。(ペテロ第一3:6)
彼らの活動期間は42ヶ月という短期間に定まっている以上、 『聖なる者ら』が長い時期に亘って少しづつ現れるわけもない。一国民が一気に生み出されるのであるに違いない。(イザヤ66:8)
それは『契約を保ち結ぶ』というダニエルの啓示されたメシアの役割が果たし終えられる時とも言える。(ダニエル9:27) 

それによって『神の王国』の権威が実現することになるのであろう。これは天界でのサタンの地位を失わせ、神の前でキリストの兄弟らを終始訴え続けることを不可能にしてしまう。即ち王権を確実にしたキリストは、依然戴冠してはいないものの、王の継承権をその共同相続者全体と共に手中したことになるのであろう。⇒「黙示録の四騎士」

このため地に落された龍であるサタンは、『聖なる者ら』を生み出した母体である女シオンを攻撃するのだが、これは地上の諸権威が許さない。即ち、サタンの放った川の奔流は『地が口を開いて呑み込んでしまう』。これは人権を擁護する世論によるものなのか、それほど『聖なる者ら』への賛同者は多いのだろうか。そればかりか、女シオンは三時半の安全を得るのであった。(黙示12:15-16)<但し、三時半の後は別である>
そこで龍は攻撃目標を『聖なる者ら』に絞り込み、『七つの頭を持つ野獣』を遠い過去から呼び出すことになる。

それは現存の地上の権力を糾合したものであり、疑似的世界統一権力のようなものであろう。即ち、ニムロデの野望の再現である。 ⇒ 「誤解されてきたバベルの塔」
『七つの頭を持つ野獣』は『聖なる者ら』が1260日に亘る預言の期間を終えると、それを攻撃して殺してしまう。地からの日毎の犠牲はそこで絶える。(黙示11:7/ダニエル11:31)

こうして『聖なる者ら』が滅ぼされると、多くの人々はそのことを大いに喜び、贈り物さえ交わすという。それほどまでに『聖なる者ら』の宣告は世の人々を苦しめることになるからである。彼らの宣告が人々に苦しみとなることは、黙示録第九章の五か月に及ぶ蝗害の記述も補足しているが、この世を断罪する聖霊の言葉とは、そこまでも激烈な痛みをこの世にもたらすのであろう。(黙示11:10/9:4-6/ヨハネ16:8-11)
確かに、ヨエルの蝗害の預言は、末の日の人々に聖霊が注がれることと関連付けている。(ヨエル2章) 

一方、野獣によって殺された『聖なる者ら』は侮辱と見せしめのために墓に葬られることなく、その死体は『霊によって、ソドムあるいはエジプトと呼ばれる大いなる(メガレー)城市の大通りに置かれる』という。(黙示11:8)

この『大いなる城市』とは、『大いなる(メガレー)バビロン』のことではないようだ。ソドムは裁きに価するその背徳性を、エジプトは神の民に対する圧制と虐待を言い表しているのであれば、神の民を虐待した世界とはかつてのユダヤ教界と将来のキリスト教界と言わざるを得ない。即ち、自分たちをして正しい崇拝の徒であるとする世界である。ましてここで黙示録の著者は『彼らの主もそこで磔刑にされた』と霊感によって語っているが、それは人間の義を誇り、傲慢な敵意を特徴とする宗教世界であることが示されているように読める。

彼らの死体は三日半の間放置されるが、それは腐臭さえ放っていることであろう。(ヨハネ11:39)
だが、それでもこの者らには『神からの命の霊(息)が彼らに入り込み、その足で立ち上がる』というのである。それゆえ『眺めていた者らにはこの上もない恐怖が襲い掛かる』ことになる。(黙示11:11/エゼキエル37)

『聖なる者ら』は殉教も覚悟せねばならないことは聖書に何度も語られているところであり、主イエスも『自分の魂を守ろうとする者はそれを失う』とまで言われる。(マタイ10:38-39)
終末を描くダニエルの幻でも、第四の獣から生じるところの『小さい角』が『聖なる者を攻めて滅ぼす』ことを告げている。(ダニエル7:21)

そうであれば『聖なる者ら』が受ける『滅ぼし』は権力によるもので徹底的なものになるのであろう。 
しかし、それでも全員が殉教するというわけではないことをパウロがテサロニケへの手紙の中で次のように明かしている。

『主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに・・その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。』(テサロニケ第一4:16-17)

こうして、多くのキリスト教徒に自分たちが天に挙げられて救われるという、ありがたい「携挙」とされている部分に到達することになる。

だが、これを聖霊の理解に照らせば、キリストが信者を迎えに来て天国に招くという単純で安楽な夢想とは異なるものとなるのである。そこで、新教系の「クリスチャン」方が「携挙」によるご自分の幸せを願う前に、神が聖書を通してこの件をどう描いているかを、ここで是非とも別の視座に就いて暫し眺めて頂きたいものである。

それは聖書全体から、つまり旧約から黙示録を貫いてテサロニケ書簡に描かれたこの「携挙」とされる内容を広く俯瞰することであり、その聖書の描く光景を一度ご覧の上でご判断頂きたく思う次第である。

さて、テサロニケへの書簡で、パウロは当時までに死亡した仲間の『聖なる者ら』がキリストの再来を見ずに逝ってしまった人々についての慰めを述べている。そして同時に、キリストの臨在のときに彼らが地上を去る時に起こる事柄をも略述しているのである。

前述のように、終末の裁きには、まず『新しい契約』に属する『聖なる者ら』への裁きがある。これは天でキリストと共になり『神の王国』を相続するところの、聖霊注がれた『神のイスラエル』となる人々の選別が起こり、終末のそのときまでに死んだすべての聖徒の裁き、それからそのときに地上に生き残っている聖徒らの選別が起こる。(ダニエル12:1-2/黙示7:3)
引き続いて、この世のすべてが裁かれることになる。(マタイ25:31-32/黙示11:18)

テサロニケ書簡の書かれた当時の『聖なる者』らは、キリストの再臨は近いと理解していたが、この頃は主の帰天からすでに十五年が経過していたのであり、彼らの早い時期のイエスの帰還の予想は外れてはいたが、キリストは黙示録でこれから四十年後になお『わたしはすみやかに来る』と改めて言われる。

即ち、時の不可知性は彼らの裁きに関わっており、不完全な彼らに在って忠節を保つべき期間は永遠であって、契約の遵守も生涯に及ぶものでなければならない。いつになったら終わるかと、その「時」の予想を立てることは的外れなばかりか、忠節を全うすることから『聖なる者ら』を逸らし兼ねないものであろう。主への忠節とは、時に追い立てられる切迫感とは無縁のものである。

そして、死せる『聖なる者ら』が天に復活するときに、地上に生き残る聖徒らも居ることは、このパウロの書簡からも、また主イエスの『ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される』の言葉にも表れている。終末での『聖なる者ら』の選別はなお地上で行われるからである。

初代の弟子らには聖霊が注がれており、イエスはその霊を通して彼らを導くという「監臨」を終えてはいなかった。それゆえパウロは聖霊によりテサロニケ後書を記して、『背教』が来て後に「主の日」が来ることを教え、『彼(不法の人)が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。』 と述べ、その『阻止しているもの』については『あなたがたが知っている通り』であるとも言い添えている。

その『阻止しているもの』こそは彼らに注がれていた『聖霊』を表していたに違いない。それを「知らない」とは言えるものではないからである。また、『阻止している』とは彼ら自身を指すであろう。(テサロニケ第二2:6-7)

したがって、終末で『聖霊の賜物』また『聖なる者ら』が絶えたところで、『不法の人』の現れと裁きの『主の日』となるということになろう。
それらの事象は初代の弟子らの時代には起こらなかったし、 彼らが世を去って後も『不法の人』をはっきりと認識する出来事には歴史上至っていない。なぜなら、未だそれらは存在していないからであり、『主の日』は現在まで来ていないからである。

他方で、終末の『聖なる者ら』については、ユーフラテス河畔から解放されてその裁きの時を迎えるまでが字句通りに42ヶ月と三日半であるとすれば、『主の日』の裁きは一定の短い期間をもって確実に到来することになる。
三年半程度の期間は長いとは言えず、殉教さえなければ多くの『聖なる者ら』がひとつの世代の間に生き長らえているに違いない。

したがって、テサロニケ書簡の述べる『天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響く』その時に、地上に生きる『聖なる者ら』が少なからず、おそらくは数万の人々が天に挙げられると見ることができる。
それは『死せる者と生ける者を裁く』主が死者に声をかける時であり、『神のイスラエル』の『十二部族に証印を押す』時となろう。その後、地上に惨禍が臨むことになる。(ヨハネ5:28/黙示7:2-3)

したがって、『聖なる者ら』が天に挙げられる時は、世の最終的裁きの『大患難』に先立つが、然りとて彼らが迫害を逃れる訳でもないことになる。
言い換えれば、 天に挙げられるのは、確かに「神の憤り」からは逃れるものの、「世の憤り」の矢面に彼らは立たされ、そこで試みられ、主に続き自己犠牲を体現して『世を征服する者となる』ことが求められているのである。(黙示2-3章)

それは、彼らが為政者らと対決して聖霊の言葉を恐れずに語るか否かによるのであり、所謂「クリスチャン」方がキリストの御傍に救われ大患難を逃れるために保護されるというだけの有り難いご利益とはならない。
むしろイエスは、『聖なる者ら』が恐れに屈して自らに従うことを止めてしまうことのないようにと繰り返し諭しているのである。 

『聖なる者ら』の選びの過程では、主ばかりでなく十二使徒がその裁きに参与することは、あのニサン十四日の『主の晩餐』で約されたことであるから、十二使徒らは死せる『聖なる者ら』より更に早い復活を天界に得ることになろう。(ルカ22:28-29/マタイ19:28)⇒ 「主の晩餐で忘れられてきた二つの事柄」

そうして死した『聖なる者ら』が主と十二使徒によって吟味されて裁かれ。『善いことを行った者は命の復活へ、悪しきことを行った者は裁きの復活へ』と出て来ることになる。(ヨハネ5:29) ⇒ 「十人の乙女・盛大な晩餐の例え」



◆『聖徒』と『信徒』の異なり

だが、『聖なる者ら』の聖霊による発言に信仰を働かせながらも、聖霊を注がれることの無い人々も存在する。
この人々についてイエスは祈りに含めてこう語っていた。
『わたしはこれらの者らだけでなく、彼らの言葉を聞いてわたしに信仰を持つ者らについてもお願い致します。』(ヨハネ17:20)

前者が聖霊を注がれる『聖徒』(ハギオス)であれば、後者は信仰を働かせる『信徒』(ピストス)と言える。なぜなら、その文脈で『これらの者ら』には『聖別される』ことが記され、主イエスは自らを『聖別する』と語られており、これは『清める方も、清められる者たちも、皆ひとりの方(神)から出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされない』とのヘブライ人への書簡に彼ら『聖なる者ら』の立場が実によく描かれている。(ヘブライ2:11)
聖化されることにより、彼らは間違いなく「キリストの兄弟」なのである。(マタイ25:40)

この聖徒と信徒の違いが理解されない限り、創世記から黙示録へと連なる神の経綸をつぶさに眺めることは不可能となろう。
なぜなら、アブラハムの子孫に与えられた役割が『聖徒』にあり、彼らは『地上のすべての家族の祝福』に関わる者らであり、『信徒』はその祝福に預かる者らとなるからである。(創世記18:18/出埃19:5-6/ペテロ第一2:9)

それゆえ、イエスはマタイに記された終末預言の中で、この両者の関係を、迫害に遭う者と、それに親切を示す同調者という類比を用いているのである。そしてそのような親切を示す者らとは、即ち聖徒の言葉に信仰を働かせる者らに違いなく、彼らは聖徒らが天に召集された後に、地上の裁きの根拠として「キリストの兄弟らに親切を行った」者を祝福に、そうでない者らを呪いへと分けてゆかれるのである。(マタイ25:31-)

そして黙示録の第九章の中にもこの双方の存在を見る。
例えれば、ユーフラテス河畔から解放される『四人の使い』の登場によって別に導き出される『二億の騎兵』がそうであり、地の底から湧き出る蝗が去った後にこの騎兵が蝗に似た活動を展開するところに表れている。(黙示録9:1-11)

また黙示録の第十二章では、地に落されたサタンの攻撃を受けるところの聖徒を生み出した『女』がいるが、サタンはこの攻撃に失敗し、この『女』は荒野に逃れて『三時半』の安全を得ると書かれている。即ち、聖徒と野獣の活動の間のことである。(黙示録12:14)
だが、その一方で『聖なる者ら』には苛烈な迫害が臨み、遂に死に至るというのである。

それであっても、『聖なる者ら』への強い迫害があるからと言って、このキリスト教理解を恐れてしまう必要はない。聖徒には主イエスから格別の心の平安と、天への召しへの強い願いに満たされることが知らされている。(ヨハネ14:27)

イエスも殉教を前に動揺しなかったわけではないが、ひとたび祈りから身を起こすと敢然と捕縛隊に向き合い、その決意した様に気圧され、後ずさりして転ぶ兵士さえいたというのである。

主イエスの示した神と人への無私の忠節さは、何者も侵し難い崇高さに満ちていたに違いない。
その姿に、やがてステファノス(冠)の殉教を嚆矢として『聖なる者ら』の尊い犠牲の数々が主に続くことになってゆく。(詩篇116:15)

彼らはまさしく『聖なる者ら』であり、それはカトリックの聖人伝説に在って、聖霊の奇跡を行い、見事な殉教を遂げた初期の人々として痕跡を留めているのである。

これらの人々に対して、将来その奇跡と聖なる言葉との信仰を働かせる一人となる機会は今後開かれることになるし、今日でも、聖書の記録を通して、かつての聖霊の言葉に信仰を抱くことができるのである。

それは自分に益を求めるご利益信仰としてではなく、キリストのような神への忠節と自己犠牲を表す人々への深い尊敬の篭った信仰を抱くことであり、聖徒が現れていない現在であっても、その到来を待ち望んで、主イエスの来臨に備えてバプテスマを受け、また『主の晩餐』をしつらえ、その心を整えた民の一員となることはできるのである。

『聖なる者ら』がキリストに続いて迫害に遭い、天での立場を得るために試練に晒されるにしても、信徒については聖書中でシオンという『女』で描かれ、神は自らこれを『火の城壁となって守る』と言われるのである。(ゼカリヤ2:5)

イザヤはこう預言する。
『さあ、わが民よ、あなたの部屋に入り、あなたの後ろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまで、しばらく隠れよ。
見よ!YHWHはその在らせられる所を出て、地に住む者の不義を罰せられる。』(イザヤ26:20-21)

サタンはこの女シオンを二度攻撃するように終末預言は読めるが、その攻撃はどちらもまったく効果をあげないことを待望できるのである。⇒ 「二度救われるシオンという女」
*


それを思えば、アブラハムの子孫、『神のイスラエル』の一員、『聖なる者』(ハギオス)であるということは、実に崇高な犠牲を備える人々であることがいよいよ明きらかになるではないか。主の自己犠牲に続くこの人々に是非とも親切を施し、その側に共に立って支持を表したいと思えないだろうか? これぞまさしく『国々の民よ、主の民のために喜び歌え』という広く知られた言葉の真意ではないか!(申命記32:43/コリント第二1:8-11)

だが、彼らの直面する試練の厳しさに対して、『信徒』(ピストス)であれば顧客のように振る舞いたいと願うだろうか?もしそうなら、その人には『聖徒』の自己犠牲の精神から益を受けるべき資格など到底無いであろう。(コリント第二5:15)

むしろ、試練に直面する『聖徒ら』を助け、必要を満たし、慰めるなど、あらん限りの善意を示し、その精神に共鳴し、神の経綸に幾らかでも協働したいと願わずにはいられないことであろう。神が是認を与えるのはそのような信仰の持ち主であるに違いない。(マタイ10:42/25:37-40)




◆「携挙」と誤解される天への召し

さて、ご覧の様に、黙示録は『聖なる者ら』の天界への召しを、終末での迫害と殉教の側面から描き出している。

『七つの頭を持つ野獣』が『ふたりの証人』とされる『聖なる者ら』を殺すと、人々は喜び、一方で彼らは蔑視の対象とさせるべく墓に葬ることを許さず大通りに晒し者とされる。
だが、三日半の後に起こる彼らの復活は多くの人々を恐れさせるものになるということである。(黙示録11:7-13・13:1-7)

それでもこれは、死んだ『聖なる者ら』が霊体への復活を遂げることを通して人々を恐れさせることではないようだ。
確かに黙示録は、彼らの死して三日半の後の復活について『その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。』と書いている。(黙示11:12)

これはテサロニケ書簡でパウロが書いたところの『聖なる者ら』の天への召し挙げであろう。テサロニケ第一書簡の宛てられた人々が『聖なる者ら』であることは同じ第四章の中で、彼らが聖霊を賜っている人々であることを述べている。(テサロニケ第一4:8)

だが同時に『聖なる者ら』が天に挙げられることを『わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ』とテサロニケに記しているところは、黙示録の『雲に乗って天へ上った』としているのと同じである。これらは共に彼らの天への召しが人に見えないことを教えていよう。(テサロニケ第一4:17)

これは『雲と共に来る』というキリストの臨在と同様の言い回しであり、キリストの臨在がこの世の裁きに関わるゆえに見えないように、やはり『聖なる者ら』の天界への召しも肉眼では捉えられないということになろう。(マタイ26:64/使徒1:9-11)

では、どのように『敵たちはそれを見た』と言えるのであろうか。(黙示11:12)

確かにパウロも『肉的な人は霊の事柄を理解しない』と言う。(コリント第一2:14)
それゆえ、『敵たち』も肉的な観点からのみこれを見るばかりに違いない。したがって、敵らが見るものは死せる者らの霊体への復活ではなく、生ける『聖なる者ら』の動静であろう。

パウロが記したように、ある時を以って生ける人々が天に挙げられるのであれば、当然ながらある人々が地上から消えることになる。敵が彼らをどれほど捜せども見出すことはない。

黙示録の続く句はこのように言っている。
『この時、大地震が起って街の十分の一が倒れ、その地震で七千人が死に、残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。』(黙示11:13)

まず『七千人』という人々については、エリヤに残された『その膝がバアルに屈まなかった者ら』を示唆しているであろう。(列王第一19:18)

そこでパウロもこれを引用した上で『それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。』と言うのであるから、この『七千人』とは『聖なる者』を異教からの清さの象徴として黙示録で述べていると見て良いであろう。即ち、キリスト教界の異教の汚れを避けた僅かな『残りの者』の人々となるのである。(ローマ11:4-5)

異教からの清さはこの黙示録の文脈で適切と言うべきものがある。殊に大地震が起こった街(ポリス)がキリスト教界を特に表しているのであれば、その約二十億とされる今日の信者数の『十分の一』である黙示録第九章に描き出された『二億の』騎兵の出処にも見えてくるものがある。『十分の一』はキリスト教界とは袂を分かつ以外に無いからである。(黙示録9章)

大地震の変革が臨むとき、キリスト教界から十分の一が『倒れてしまう』が、もはや、その部分はその城市の一部となることは二度と無いであろうし、それが聖徒らへの攻撃の完了を意味するのであれば、これらの聖霊の言葉に信仰を働かせた人々は「キリスト教界」から除名や排斥の処分さえ受けるのかも知れない。いまさら、「死のような」宗教に残りたいなど思いもしないであろう。

しかし、より衝撃的なのは地上の『信徒』の宣教の嵐よりは余程『聖徒』の行方知れずであろう。
これを理解するには、まず、上記黙示録第十一章十三節の句の『その地震で七千人が死に』というところで翻訳上に再考の余地がある。
 
というのも、本文を直訳するとなると『その振動の中で七千の人の名が消された』となり、消され(殺され)たのは人ではなく、その文中で主格をとっている「名」(オノーマタ)の方であって、「人」(アンスゥローポーン)は属格をとっているのである。⇒「キュロス大王の意義」
(これをヘブライ語的表現と言い切るには無理があるであろう。なぜなら、人数を表す場面で名を関連付ける例が新約中に他に無いからである) 

おそらくこれは欽定訳以来の習慣で、人々の理解を促進するためだったのであろう。もちろん、地震で人の命が失われると捉えることが自然であり、「名前」という概念は関係がありそうには思えない。
使徒ヨハネが晩年を過ごした小アシアは特に地震の危険地帯であった。

しかし、この文章はかの「黙示録」なのであり一般常識を通用させようとするのは要注意であろう。ここを聖霊理解から解釈を進める場合、これは本文にある「名」を取り去らずそのままに訳した方が余程に理解し易いというべきか、『この巻物の言葉を取り去る』ことに注意しなければ、この『地震』と聖徒の天への召しとを結ぶ紐帯が取り去られてしまうことになろう。(黙示録22:19)

即ち、『聖なる者ら』の天への召集が起こり、忠節の内に死去した者らも、地上で契約を全うした生きた者らも『雲のうちに』天に昇る。つまりそれは肉の目に見えるところではない。
地上の肉的な『敵ども』は、生ける『聖なる者ら』についてのみ起こった驚嘆すべき事柄に気付くばかりである。
密告を受けた当局者やらが血眼になって捜し求める『聖なる者ら』は誰も見つからず、やがて彼らが揃って地上に存在しないことに気付くのであろう。

『それを見る』とは彼らにとって恐るべき異兆となる。役所は彼らの戸籍を抹消、あるいは警察も所在不明の扱いをせざるを得なくなるのであろうか。彼らの死体さえ主イエスのように見つからないことであろう。迫害するために手配された人々を捜索し、令状を持ってあちこち踏み込んでも、頑なに妥協しなかった『聖なる者ら』の姿がどこにも無い。そこで顔写真を揃えて公衆に協力を依頼するなら、それは意図せずにその不思議な噂を広めてしまうことであろう。そこでキリストの時のような口止め料が払われるのだろうか。(マタイ28:11-15)

即ち、殺されるのは七千の「人」というより、その人々の「名」である方が恐るべきことになる。公権力が彼らを抹殺したのなら捜す必要も無いのだが、死亡診断書も葬儀もないその死はどこにも見つからないので、捜すほどに権力者の殺意はいよいよ明らかとなろう。

おそらくはこのような所在不明により、異教に屈しなかった象徴的『七千人の名』が消去されるが、同じグループに属する聖なる人々の一斉の行方知れずの不思議は人々に様々な衝撃を与えるようである。
捜せば捜すほどその奇妙さは増幅するであろうが、忘れ去られない謎となるのは、彼ら『聖徒ら』の語っていたことに信仰を抱く『信徒』となった多数の人々の存在と、その人数が増えてゆくことであろう。聖徒らの超自然な不在は、信徒らの信仰を更に燃え立たせ、この世に徴を加えることにもなろう。即ち、不信仰な世に対する決定的な『ヨナの印』のようになろう。(マタイ12:39)

そこで『残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した』というところは、多くの人々が『聖なる者ら』の聖霊の言葉の確かさをここで悟っているのか、あるいは一向に反対し続けていて、依然存在している『大いなるバビロン』の自分なりの宗教に崇拝を捧げるよう動かされたのかは本稿の筆者には未だ判然とはしていない。(黙示録11:13)

もし、『天の神に栄光を帰した』という言葉が、福音書に再三見られる、キリストの奇跡を見た群衆の反応を表しているのであれば、また、キリストの死に立ち会い、畏れの内に『「この方は、まことに神の子であった」』と言って『神の栄光を讃えるようになった』ローマの百卒長が投影されているのであれば、捜査を行っている官憲の中からさえ、信仰に向かう者が出ることを述べているのかも知れない。(マタイ27:54/ルカ23:47)

あるいは、殉教した聖徒の墓を暴いてみるようなことでもあれば、おそらくキリストのようにその肉体が消えているという事もあるのかも知れない。そうなれば、これは権力者に恐怖を誘いさえするに違いない。 これは、黙示録での聖徒の屍が野晒しなのであることと関係するのかも知れない。

もし前者であるなら、五か月の蝗害の後の二億の騎兵の件と通じるものがあることにはなろう。残りの者である七千人が『聖なる者ら』を表し、キリスト教界を揺さぶる大変革が起こるときに彼らが皆死んで、そこでキリスト教界の十分の一の数に相当する二億の騎兵がキリスト教界から分離する。

黙示録の『二億』という膨大な人数は、ヨハネの当時の推定世界人口にほぼ匹敵している以上、この数が象徴であるとしても、当時には関わりを持たずに終末の数を表すに違いない。世界人口が揃って騎兵なら、誰を攻撃するのだろうか。
 
そして、この二億もの騎兵は『三分の一』に襲い掛かり、それを『殺す』ことになるのであるが、これら巨万の騎兵を生じさせるきっかけを作ったのは、ユーフラテス河畔の『四人の使い』の解放なのである。彼らが『蝗』であったことはその働きからも、蝗としての五か月の寿命で過ぎ去り、(天に)去るところにも、彼らが『聖なる者ら』であることが表されている。

こうして理解は一巡することになる。やはり黙示録は時系列に沿って語ってはいない。



◆バビロン荒廃の予告の成就する時

『聖なる者ら』にとってこの天への召しはある意味に於いては突然に起こるのではあるが、それまでの42ヶ月の宣教と、何者か現在は分からないながら『七つの頭を持つ野獣』の攻撃の著しい高まりと、権力と妥協してしまう『聖なる者ら』の中からの脱落者の現れ、即ち『背教』が起こり、内部からも裏切り者が生じる事態など、その42ヶ月の間にも様々な事が次々に経る事を通してある程度の時期については分かるに違いなく、その意味ではパウロが言うように、世人に『その日が突如として臨み、逃れられない』ということは彼らにに起こることはなく『不意を打たれるようなことはない』ことであろう。(テサロニケ第一5:3-4)

ダニエル書はこのように言う。『聖なる民の力が打ち砕かれる時に、すべての事は尽く成就する』(ダニエル12:7)
そこで、『聖なる者ら』が『七つの頭を持つ野獣』というこれまでに存在してこなかったような全球的権力の集合体に攻められまったく打ち砕かれる時、そこで『新しい契約』はその役割を果たし終え、天界に『神の王国』を成就することになるといえよう。それは恰も、彼らの主イエスの殉教の死がサタンを無に帰せしめたようにである。

その迫害による殉教は『聖なる者ら』に『レヴィの浄め』をもたらすことになり、天からの声は生死に関わらず彼らを天に召し挙げることになる。したがって、『聖なる者ら』は象徴的に『殺される』としても、そのすべてが殉教によってまったく死に絶えるという事態にまでは進まず、あるところで『ラッパ』が吹かれ残りの者らも天に召されることになる。

既に死んだ聖なる者らの復活には『先んじない』ことをテサロニケへの書簡にパウロが書いており、それゆえにも、終末には忠節の内に死した古代の『聖なる者ら』は、この天への召しよりも早くに霊体への復活を遂げ、天に居ることになろう。

終末の聖なる殉教者らもそのときに召され始めるので『今から後に主に結ばれて死ぬ人は幸いである』との黙示録の言葉は、古代の『聖なる者ら』がこの天への召しよりも早くに復活を得ていること、また、終末の迫害で殉教する将来の『聖なる者ら』も、その天に共に集められることを指すのであろう。(黙示14:13)

しかし、すべての『聖なる者ら』の全体が天に揃うのは、最後まで地上に残った『聖なる者ら』が天に召されるときのことになる。すなわち、聖霊で語った彼らを反対者らが捜しても見つからなくなるときのことである。 
 
そこで脱落しているものが出るとしても、人々は手配中の者らが消えたことに気付く。それはキリスト教界に癒し難い衝撃を与え、二億の騎兵を生じさせることになるのであろう。⇒「黙示録のイナゴ」
 
多くの騎兵がキリスト教界を攻撃し激しく糾弾するので、『大いなるバビロン』が頼みとした無数の信者、つまり膨大量の水も引いて乾いてしまい。それはいよいよ『日の出る方から来る王たちに対し道を備える』ことになる。即ちキュロス大王と同盟軍のバビロン攻略であり、将来には野獣の『十本の角』で表される公権力がその役目を担い、そうして野獣を慫慂して『聖なる者ら』を亡き者としたすべての組織宗教に対する滅びが目前に近付くことになろう。 ⇒ 「大いなるバビロンの滅び」

ここにおいてバビロンは『城壁は無残に崩され、高い城門は火で焼かれ』『瓦礫の山、ジャッカルの住みかとなり、恐怖と嘲りの的となり、住む者はひとりもいなくなる』とエレミヤに言われるべきものとなろう。黙示録に於いて『大いなるバビロン』は『聖なる者ら』を亡き者とした責めを負い、二倍の報復を受けねばならなくなる。それは『聖なる者ら』が迫害に倒れるまで忠節を保って天に召された後、この大娼婦が野獣の角の部分によって徹底的な破滅を被るときに起こることである。(黙示17:16)
 
そして黙示録はエレミヤの預言の水面下に消える石のモチーフを繰り返してこのように言う。
『ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。』(黙示18:21-24)

野獣に『聖なる者ら』を滅ぼすように慫慂した『大いなるバビロン』が石のように水面から消え去って沈むように、急速に過ぎ去って二度と存在しなくなるのは彼らの召しの直後のことであろう。

それに続いて脱落聖徒らによると思われる、テサロニケに予告された『背教』はいよいよ高まりを迎え、神をも超える『不法の人』を招来するが、ここに於いて、キリスト教界の宗教組織は過去のものとなっても、依然としてその教理が後を引くであろうことが見える。人は容易には信仰心を変えないからである。

『不法の人』とは即ち、脱落聖徒の一人であり、サタンの霊力を受けて劣った奇跡を行い、キリストの「地上再臨の教理」を利用してアンチ・クリストとなるであろう何者かのことである。
アンチ・クリストとはキリストに成り代わる者の意であり、衆人にキリストと認められたからには、次いで「三位一体信仰」の抜けない人々を用いて自らを神と宣することができる。

そこで主イエスが繰り返し、地上にキリストが居るとの誘いに応じてはならないと命じられていたその意味が見えて来る。(マタイ24:23-28/マルコ13:21-22/ルカ17:22-24)

『不法の人』はパウロによって『滅びの子』とも呼ばれている。この語は聖書中に二度だけ出てくるが、二度目がこの『不法の人』であれば、一度目はかのユダ・イスカリオテなのである。(ヨハネ17:12)

十二使徒というイエスに従う者の最高の栄誉に輝く立場からさえこのような反逆者が現れたのであれば、どうして終末の『聖なる者ら』の中から『滅びの子』が現れないと言えるだろうか。ユダがイエスを売り渡したように、『不法の人』は仲間の『聖なる者ら』を妨害し、売り渡すことさえ充分に考えられることである。(ダニエル11:31-39)

もし、これにユダヤ教の一部がエルサレム神殿を再建するようなことでもあれば、この権威の亡者は喜んでその『奥の間』の座を占めようとすることであろう。
終末に地上再臨するキリストを見て、ユダヤ教徒が集団改宗すると信じて止まないキリスト教徒の人々は少なくもないらしい。
 
パウロはこう警告を与えている。『まず背教が起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり崇拝されたりするものに対抗して立ち上がり、自ら神の家に座して、自分は神だと宣言する。』(テサロニケ第二2:3-4)

彼の支持者らは、『聖なる者ら』の『名の消滅』を知ったとしても、この誤った道に分け入る危険性は非常に高いと言わざるを得ない。人は思想信条を簡単には変えないからであり、『聖なる者ら』の聖霊の発言を聞いてもその真意を悟らないなら、代替宗教である「新たなスタイルのキリスト教」に容易に呑み込まれてしまうであろうし、それを推進する『子羊のような二本の角を持つ野獣』で表される国家、おそらくはキリスト教的な覇権国家が在るなら、その圧力は否応なく高まることであろう。
それは権力を用いた究極の偶像崇拝となり、祭政合体の宗教を人々に強制を課すらしいのである。(黙示13:11-18)


赤く燃え立つ両眼を光らせる復讐のキリストは、そうしていよいよ世界統治に乗り出し、『聖なる者ら』もそれに続き『諸国民を籾殻のように刷り砕く脱穀橇』と変じ、キリストと反キリストの両者の対立は極限に達するその状況で世は『ハルマゲドン』の最終決戦へと呑み込まれてゆく。(イザヤ41:15/ミカ4:13/黙示17:14)

それは不法の人がキリストの『臨在の顕現によって無に帰せられる』時となるであろう。それはキリストの臨在が起こって三年半に亘って続き、聖霊を注がれる『聖なる者ら』が世に宣告を下す業を為し終えた後のことであるに違いない。(テサロニケ第二2:8/ヨハネ16:8) ⇒「シオンの娘の謎を解く」


それであるから、エレミヤのバビロンに対する預言の言葉は、終末においてすべての成就を迎えることになるというべきであろう。
そこで予告された『七十年』が満ち、古代に神殿祭祀が再興されたように、象徴的ユーフラテス河畔から拘束を解かれた『聖なる者ら』は、天に召される時にいよいよ神殿祭祀の再開を天界に於いて始めるということができる。

それまでは象徴的「日毎の捧げ物」が仮の身分の彼らによって捧げられるが、天界の神殿の建立は、彼らを全く贖って天界に相応しい者とし、律法の神殿祭祀が予型した真の人類贖罪の準備が整うことになる。これが『地上のすべての家族を祝福する』、即ち『神の王国』である。

『聖なる者ら』の天への召し挙げは、キリスト教徒の云うような「携挙」などではなく、また世の裁きとなる大患難から逃すためでもはない。これこそはアブラハムの裔としての『神のイスラエル』、エデンで語られた『女の裔』の観点から見るべきものであり、その精神はご利益信仰とは正反対なもの、自己犠牲を以って主に続き、天に挙げられる『聖徒』のことなのである。(創世記3:15)

さて、「携挙」されて空中でキリストの出迎えを受け、天国でずっと共になる謂われがご利益信仰の「クリスチャン」方にあるものだろうか?あるいは、「クリスチャン」を大患難から保護することが天への招聘の理由なのだろうか?それは余りに利己的願望ではないか。

自分たちは救われ、他の人々はキリスト教徒ではないという理由で恐るべき患難に呑まれることを信仰していると公言するなら、周囲はその宗教をどう見做すだろうか?そこにキリストのような自己犠牲の精神とは反対のものを感じさせないものか?

果たして、自分たちのような信仰を抱かなかった人々が大患難で滅んでゆくのを眺めるだけの理由が「クリスチャン」にあるのだろうか?その高慢な精神に気付けないにも関わらずキリスト教徒と公言できるものか?

それは単なる聖書の解釈の違いを超え、倫理の問題となっている。
つまり、キリスト教を称えつつ、却ってパリサイ派のように独善化し、地上のすべて家族の祝福となろうとする『聖なる者ら』の精紳とは正反対に、自らの「祝福」をばかり願うからである。 

『聖なる者ら』の天への召しこそが『新しい契約』の意味するところであり、その契約を自己犠牲の忠節の内に全うする者が到達する、天でキリストの伴なる王また祭司となって人々の祝福となること、即ち、人間には到底不可能な偉業、『罪』にうめくすべてのアダムの子孫のための『神の王国』が成就することなのである。

これほど優れた神の経綸を知ってすら、キリスト教徒がお目出度い自らの「携挙」を望み続けるなら、その信仰は非常に虚しい後果を買いとることにはならないものだろうか?そこにキリストのような大志や忠節な愛があるだろうか?





           ©2016  林 義平
 

聖霊によるキリスト教の回復

大いなるキュロスによる解放の時、黙示録のラッパと責められる三分の一

短編並み長文 2万2千字超 <難易度 ☆☆☆☆☆☆☆ 特高>
-予備知識-
・  黙示録第9-11章 ダニエル書第9章
・「聖徒 聖霊が指し示す者」・「聖霊という第三のもの」
・「誤解されてきたバベルの塔」・「大いなるバビロンの滅び」
・「指名されたメシア キュロス」・「イナゴと騎兵隊」
・「エレミヤの七十年」・「ダニエルの七十週」 



◆回復されないキリスト教

キリスト教界の中にあって、歴史上に様々な回復への試みがなされてはきた。
それは特に旧態依然としたカトリックへの様々な抗議となって西欧に現れたが、批判者はルターに至るまで異端者としての処刑を免れなかったし、あるいは山中に籠って、自らの信仰を貫く他なかった。
改革期以前の批判者の大半は苛烈な迫害に追われ、穏やかな死を迎えた僅かな著名人の例としてはイングランドのウィクリフが挙げられるほどに過ぎない。 

その批判圧殺の宗教世界の中で、ルターがどうして処刑や暗殺を免れたかといえば、格別な保護があったからである。即ち、ルターも暗殺されたとの噂の渦中で、神聖ローマ帝国のドイツ貴族、ザクセン選帝侯の庇護があり、その城アイゼナハ近郊のヴァルトブルクに秘匿されたからであり、そこで為政者との利害の一致があったからである。

ルターを嚆矢とする16世紀の宗教改革は、西欧キリスト教界を二分するほどの衝撃をもたらしたが、その影響により非常に多くの血が流されずには済まなかった。

旧教カトリックに異を唱える勢力はルター派に留まらず、スイス各地でもそれぞれに試みが始り、またライン川を下ったシュトラスブルクでもブーツァーを中心とした大きなグループが形成されていたが、その中には後に改革派を興すカルヴァンも含まれていた。

カルヴァンがまだパリに住んで居たころの知人にセルヴェトがいる。
この人物は、三位一体説への痛烈な批判で知られ、当然ながらカトリックの異端審問に追われる身となって、フランス南部のドーフィネからイタリア・ナポリの知人の許への逃避行をする途上でジュネーヴを通ったときに、当地を宗教支配していたカルヴァン派にその素性が知られて逮捕されてしまった。

カルヴァンは反カトリックではあったが、実はセルヴェトを酷く嫌っていたのである。その理由のひとつにはセルヴェトの非三位一体説への激しい反感があった。カルヴァンは平素から、セルヴェトがジュネーヴに現れたなら生かしてはおかないと語っていたほどにその憎悪は強かった。

当時の反カトリックの勢力と雖も、急激なキリスト教の変化を望まない大衆と共にあり、社会に新たな秩序を打ち立てる務めを自負する新教の指導者にとって、四世紀以来、教理の土台となってきた事柄を変更することがどれほど困難であるか、また、そこまでの必要も感じてはいなかった。むしろ、急激な改革は西欧社会をカオスに投げ込むものと見做され、新教指導者には嫌悪の対象でさえあった。その観方は彼ら指導者の見識というよりは、一般大衆の宗旨替えの難しさに起因していたというべきであろう。

チューリヒではツヴィングリによってミサが禁止され、古い「主の晩餐」に置き換えられたときでさえ、大衆は動揺を来たしている。また幼児洗礼の是非を問う「再浸礼派」の登場も大衆には極論を唱えているように感じられていた。永らく習慣にしていた幼児洗礼などの宗教儀式の変更は、探求心に欠ける庶民ほど難しいものであり、大衆で構成される社会を背負い込むなら、宗教は極めて政治的に教理の平衡をとらざるを得ない。それがローマ国教化以来「コニュニティの宗教」であった宿命である。その教理の変更も大衆の常識と静穏さが改革の範囲を規定していたのである。

現に、ルター自身もヴィッテンベルクで95か条の提題を掲げたときには、カトリックの改善を願ってはいたものの、新派の立ち上げを意図してはいなかったという。

この時代に要請されたのは、「カトリックが相応しく調整される」ことであったが、それが成功しなかったのは、カトリックが利権にも態度にも余りに強大で、自ら省みて改善するほど小回りも利かなくなっており、田舎ドイツの一教授の指摘などで方向転換するような精錬潔癖さなど望むべくもなかったからである。

これを見抜いていたのはルターのような宗教家よりは、ザクセン選帝侯フリードリヒのような政治家の方であったというべきであろう。
そこで、この大衆が構成する西欧諸国の大多数派の願うところを新教指導者らが具体化してゆくことになる。それを画策し、ヴァチカンからの頸木を脱することに利用していった選帝侯が、結果的に西欧の北側においてそれを成功させるのであった。

しかし、カトリックという単なる宗派ばかりではなく、西欧のヴァチカン封建体制の圧制が宗教改革によって揺らいだときに、西欧各地から様々な「極論」を唱える指導者らが現れ、中にはドイツ農民戦争のような政治革命の騒擾にまで及んでいたのであり、ルターは諸侯に命じて農民の弾圧に踏み切り、多量の流血を招いていた。改革が極度に進んで無政府状態に及ばないためである。

スイスでは、カルヴァンが恰もカトリックが自派への抗議者を扱ったようにセルヴェトを火刑に処すことで三位一体説反論への酬いとしたのであった。それをルターの片腕であったメランヒトンが書簡を送ってカルヴァンの非道に同意を与えてさえいる。
そのカルヴァンに権力が帯同したればこそ、セルヴェトを五時間に及ぶ火炙りで殺害ができたのであり、セルヴェトに権力の帯同なければこそ処刑されたという以外に何か別の説明ができようか。 ⇒ ミゲル・セルヴェト

だが、「宗教改革」と呼ばれているこの運動が現れ、やがてアングロサクソンや北欧を中心に定着し、それが大英帝国の進展と共にコモンウェルスの国々に移植され、北米大陸のほとんどをも占められるようになったのは、権力者が新教プロテスタントを許し、それを利用、または同化さえしてきたからである。さらに北米に於いては新教宗派そのものが権力を持っていた。

総じてキリスト教界には、コンスタンティヌス大帝以来の権力との結びつきがあり、それによって三位一体説を奉じる「エジプト式のキリスト教」がカトリック(普遍)を名乗るようになり、その正当性を権力によって簒奪したのと同じように、新教各派も為政者との結託においてその教理や立場を固めていたという現実があった。

改革の指導者たちは、単にキリスト教探求を目指すだけでは済まず、王や君侯と共に新たな社会秩序を打ち立てるという政治的側面を配慮する必要に駆られ、またその気概も持っていたことであろう。即ち、当時のキリスト教の改革とは、ヴァチカンの影響を退けるという政治の改革であったのである。

宗教家というものは、人々の信仰をそれぞれの個人に鼓舞するというよりは、帰依する人々が従うべきものを決定し、大衆を導くリーダーたらんとするものであり、そこに自己顕示の野心を自重しているようには見受けられないものがある。即ち、宗教指導者たらんとする者には支配欲の陥穽が大きな口を開けて待っており、ほとんどの指導者がそこに堕ちて行った現実が見える。

そこでキリスト教界は、恰もイエスを神殿の胸壁に立たせたサタンの誘惑のまま、権力を従えるという、ローマ国教化以来のコミュニティの宗教の罠にはまり込んでしまったので抗争と流血を避け得なかった。
今でこそ、宗教は政治の独立によって、イスラム過激派のようでもなければ概して権力を伴うことは禁止されている。まことに結構なことではあるが、権力というものは、長い戦いの末に宗教から取り上げられたのであって、他方で、宗教家の根本的精神の方は変わっているようには思えない。宗教家に権力を与えるなら再び暗黒時代に戻り兼ねないのは、イスラム過激派を見ての通りではないか。

今日の多様な宗派にもそれは透けて見えている。
唯一正統を唱え、他の宗派の信者らを排撃し、迫害には当たらずとも、滅びる人々と認識し、差別、忌避などしていれば、その派が社会の大多数を成したり、権力と関係したときにはどんなことが起こるのか。悍ましい宗教闘争の火種は、その宗派の内に残っているというべきであろう。

やはり16世紀のルターは、北ドイツの諸侯と共にあり、その権力の庇護を得てヴァチカンの圧力を跳ね除けることができた。それであるから、ルターをして「ヴィッテンベルクの教皇」と人が呼んだのも言い得て妙である。

また、カルヴァンがジュネーヴに神権体制を敷いた上でその地に改革派を形作ったのも、やはり権力の助けを得てのことである。堂々と権力を伴わなければ、それぞれにカトリックの苛烈な圧力から逃避して山間部に住んだワルド派のようになっていたに違いない。チューリヒの改革者ツヴィングリに至ってはカトリック地域を経済封鎖したうえ、その戦いで戦死しているのである。

こうして16世紀西欧に起こった宗教改革を一瞥すると、それはカトリックを土台から問い直すものとはならなかった有様が観える。カトリックがローマ帝国以来、封建制という政治の中にあったために、そこに新教が打ち立てられるにも、その空白を埋めるために政治権力の帯同を以ってそれに代わる必要があったと言えよう。そして今日まで、その政治と宗教の癒着の性質はいずれの宗教の内に温存されており、終末に於いて『大いなるバビロン』へと堕する原因を作り兼ねないものである。(黙示18:2-4)

即ち、カルヴァンが権力を使嗾してセルヴェトを屠らせたように、キリスト教界はパリサイのような偏狭な敵意によって、今後も自説を肯んじない人々を屠り兼ねない精神を孕んではいないと言い切れるだろうか。そのような横暴は、権力やこの世の大衆との癒着によってもたらされるものである。
大衆を導く旗手たらんとする者は、コミュニティを指導する者となり、そこで『この世』と迎合せずには済まされない。(ヨハネ第一2:15)

それでも、ある人々は新教派の存在によって聖書が流布するようになり、人々がそれを読めるようになったことを功績として挙げるかもしれない。確かに、旧教では一般人に聖書を読ませなかったところに、新教の影響下で多くの翻訳が出されるようになり、 聖書の言葉が人々の身近になった。その影響は旧教側にも波及し、改善を促している。

だが、16世紀に宗教改革をもたらした人文学の発展は、その以前からのものであって、カトリックの腐敗があったにせよ、宗教改革もエラスムスのような中立的フマニストから触発されたものではなかったろうか。それに印刷技術の登場の時代が重なってもいる。
従って、権力の帯同の有無と、これは別次元の問題ではないか。
いずれは、人々が聖書を広く知る時代が訪れたことであろう。聖書自身にその潜在力が備わっているからである。 

改革史を概観すると、新教側が「聖書主義」を打ち出したことにおいて、従来のカトリック・キリスト教に一石は投じたものの、土台から立て直すことはおろか、部屋の模様替えというところで終わったという以外にない。にも関わらず新旧の戦いで許多の流血を起こしたことは相当する価値ある代償も伴わない犠牲であった。人間とは何と自らの正しさや信義に盲目となるものであろう。

やがて宗教改革の波は、ドーヴァー海峡を越えてブリトゥン島に至る。特にイングランドでの新教の展開には強く王権が関わって開始されている。即ち、ヘンリー8世の離婚問題であった。
このイングランドで、新教は様々な分派がそれぞれに発展を遂げ、結果的に清教徒を乗せたメイフラワー号に象徴される如くに北米にそれは広められていった。

数多くの人々がキリスト教の純化を北米の原野に期待し、J.ウインスロップの言うような「丘の上の町」の希望に触発されてニューイングランド植民地が形成されて以来、アメリカでは無数の宗派が興され、米英では後に覚醒運動のような大衆を巻き込んで熱狂的な流行が生み出されて来た。

その影響を受けた宗派には、自分たちこそが神からの是認を受けていると自認するものも多い。大抵の場合、それは彼らによって純粋なキリスト教が回復されたというプロパガンダを意味するのである。

もちろん、それぞれは人間の誤謬を免れないので、どこかの宗派がとりわけ優れているということでもない。いずれも似たり寄ったりの実情にあり、イエス派がユダヤ教から聖霊の奇跡によって飛び抜けた存在となり、キリストの業を続行して人々をメシア信仰に招いたような事態は歴史上のどこにも再現されてはいない。長年キリスト教徒は「正しいキリスト教」を求めては来たのだが、それを見出すことは一向に出来ていない。

例えれば、自分たちほど聖書に従っている宗派もない、と教理の論理性を誇示するなり、憑依状態のエクスタシーの経験を神やキリストの帯同の証拠である、と神秘の証しを述べたり、或いは、慈善事業やら人格の徳性を訴えたとしても、どれも使徒時代のキリスト教徒らとは決定的に異なるものがある。

その相違が『聖霊』にあると言えば、それぞれの宗派がそろって「自分たちに聖霊はある」と主張するに違いない。
では、その「聖霊」というものはどのようなものであると言うのだろうか。



◆『聖霊』というもの

初代キリスト教徒らに働いていた『聖霊』は、彼らにはっきりとした『霊の賜物』(プネウマティコス)をもたらしていたのであり、それは『霊の顕現』(ファネローシス)と言えるほどの奇跡の業を行わせるものであった。
キリストは、それを『約束の聖霊』と呼び、自身が犠牲の死を介して神の許に行くことを条件に弟子らに下賜されるものであることを明言している。(コリント第一12:7/使徒2:33/ヨハネ16:7)

聖霊が注がれるということは、その弟子がキリストと共に神から相続物を受ける者であることを示す印であるとパウロは言う。彼らが肉体を離れ天界の住まいとなる霊体を受けることになる証拠として聖霊を指し、『神はその保証として霊をわたしたちに賜わった』とも書いている。(コリント第二5:5/ローマ8:16-17/エフェソス1:11-14)

従って、その者らの行う業はキリストの業の延長であり、パレスチナから広がって『より大きな業』を行ったと確かに言える。(ヨハネ14:12/15:26-27)
それは『アブラハムの裔』、即ち『神のイスラエル』を集め出す宣教の業であり、同じく聖霊に与る人々をエクレシアへと集めることを目的としていたのである。これについて使徒のヨハネは、イエスが『ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとして』いたと明らかにしている(ヨハネ11:52)

『神の子ら』とは『聖霊に導かれる者』であり、奇跡を行う賜物を得た弟子らを新約聖書は指し示している。(ローマ8:14.16/テモテ第一4:14)
注がれた聖霊の印はそれを見る人に明らかであり、それぞれの霊の賜物によってエクレシアの集会が導かれ、神からの益に浴していたのである。「エクレシア」とは「教会 (主のもの)」(キュリアコン)ではなく「召し出された者」を意味する。即ち、キリスト教本来の宣教とは単に信者を集めることではなかった。むしろ、主の業が続行されて聖霊を受ける『聖なる者ら』を集め出すことが主要な目的であったのである。(コリント第一12章・14章)
その『霊の顕現』は、人の制御できないものではなく、トランス状態とは無縁で『秩序』を保つことができたのである。(コリント第一14:26-33)

かつて原始キリスト教の時代には、こうした聖霊の賜物により様々に奇跡行う人々がいたことは、当時の資料に記されており、今日でもカトリックで「聖人」に列せられるには、複数の奇跡を起こしたことを条件にしているところに 痕跡を残している。聖書中で、この格別な弟子らは『聖なる者』、あるいは『聖徒』と呼ばれているのである。

だが、このような聖霊の賜物を表すキリスト教の宗派が今日ひとつでも存在するだろうか?
筆者はそのようなものがあると聞いたことがない。

そして、聖書は終末に再び聖霊を注がれる弟子らの存在を示しているのであるが、これをどう捉えるべきだろうか。
例えれば、マタイ福音書10章18節には、『あなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。』とあるばかりか、同様の内容は共観福音書に共通して存在しているのである。

それであるから、コリント第一13章8節の『預言は廃れ、異言はやみ、知識は古びる』とのパウロのアガペーの優越性を強調した句を引用して、キリストから使徒らの時代に有ったような奇跡の賜物は終わったので、二度と無いとするのは間違っているし、終末という人類史のクライマックスで神の劇的な参与を度外視することは極めて危険なことになる。(ミカ7:11-17)

では、再び聖霊が降下する終末において、その聖霊はどこかの既存の宗派が正しいことを証明する仕方で注がれるのだろうか?

ルカ福音書は次のキリストの言葉を伝えている。
『誰でも求める者は受け、捜す者は見い出し、門を敲く者は開かれるからである・・
あなたがたが悪人ではあっても、自分の子供に良い贈り物をすることを知っているのなら、まして天の父が求めて来る者に聖霊を与えて下さらないことがあろうか』(ルカ11:10.13)

これはユダヤ人に語られた言葉ではあるが、聖霊が諸国民にも与えられるようになった後には、『どの国民であれ、神に受け入れられる』時代が到来しており、そうペテロが語った直後に無割礼のローマ人コルネリウスとその近親者らに聖霊が降った以上、確かに『どの国民でも受ける』という事が出来る。(使徒10:35.45)

あのペンテコステの日には、ガリラヤ以来のキリストの直弟子たちの集団に聖霊の賜物が与えられているが、その後は、信仰を条件にガリラヤ、ディアスポラ、サマリア、諸国民へと聖霊降下は広げられている。
したがって、既に広げられた聖霊拝領の範囲は、終末において同様であるに違いない。即ち、求め、捜し、敲く者らであり、既に自分には聖霊があると思う者ではないであろう。「聖霊は自分たちにある」と自己満足に陥っているのなら、どうしてなお聖霊を捜し求めたりするだろうか。

そして、使徒時代に知識を与え、新約聖書を著させ、ユダヤ教の中からキリスト教への脱皮に導いたのもこの『聖霊』であって、これは主イエスが使徒らにその到来を予告していた『助け手』であり、キリストの余りにも貴重なその犠牲の血の贖いを以って『初穂』とされた者らに注ぎ出されたものであるから『約束の聖霊』とも呼ばれる。(ヨハネ14:26/使徒2:33)
即ち、『聖霊』の存在そのものが、キリストの血の犠牲が神の前に捧げられ、受け入れられたことの見える証拠でもあった。(エフェソス1:13/コリント第二5:5)

今日の分裂したキリスト教諸宗派が、「自分たちに聖霊がある」 というほど『聖霊』を無視した話もないであろう。むしろ『聖霊を冒涜』してはいないのだろうか。キリストの内在と称して信徒に安請け合いし、その価値をまったく卑しめているからである。これは、聖霊に導かれていると唱えるあらゆる教派についても言われるべきことである。それこそ失敗の度に人間の不完全さであると弁解しつつも、実に『盲人が盲人を導く』ようなことにはなっていないものか。

キリスト・イエスは『自分からは何も行うことができない』と言われ、『父がすることを子もまた行うばかりである』とも言われたが、 キリスト教の教師の大抵はそうは言わない。
自分が見出した真理を、神からのものと吹聴する。また、聖書に基づいて解釈したものであるから 自分の見解はみ言葉に立脚した正しい教えだともするであろう。あるいは、聖霊が自分を導いたとさえいうかも知れない。
だが、いずれも真実の聖霊が欠けている。即ち、初代の弟子らに注がれた同じ聖霊の姿はそこに無い。
聖霊が無いことの言い訳を専らにするのが今日の「人間のキリスト教」の怪しげな姿ではないか。 



◆終末の契約

メシア=キリストは、ダニエルに示された『七十週』の最後の第七十番目の週の半ばまでを地上で公生涯を過ごされ、人々と『契約を保ち結び』御自らの犠牲を以って『犠牲と供物を終わらせ』ている。即ち、その血の犠牲が捧げられたことによって、律法に要求された動物の犠牲を捧げる神殿崇拝は実質的に終わりを迎えていたのであった。(ダニエル9:27)

だが、メシアは『一週の間、大いなる者たちとの契約を保ち結ぶ』のであれば、『週の半ば』に地上で公生涯を終えられた後の残りの三年半はそのまま続くのだろうか。もし、そうならメシアがもたらす『新しい契約』への新らたな参加への門戸は既に西暦36年頃に閉じられていたことになる。

しかし、キリストの預言は終末に聖霊の大いなる活動を知らせているのであり、例えれば、ルカ福音書がイエスの語った終末預言の一部として次の事柄を含めている。

『こうしたすべてのことの起こる前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すであろう。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。そこでどう答弁しようかと、前もって考えておかないことに心に思い定めよ。どんな反対者でも、反論もできず、反証もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに与えるからだ。』(ルカ21:12-15)

このような記述は三つの共観福音書に存在しており、ヨハネの福音書も弟子らへの助け手である聖霊についてこのように述べる。
『そのものが到来したなら、この世にその咎を認めさせる、即ち罪と義と裁きとについて』(ヨハネ16:8)

これは聖霊の到来するときに、神と世とが対立関係にあると言えるので、聖霊を注がれた者らは『王や総督の前に引き出される』のである。その論争は政治的な事柄に関するものであることをイザヤもメシアについてこう預言している。
『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)

エレミヤもこのように言う。
『「主は、高い天からほえたけり、聖なる神殿から声をとどろかされる。その牧場に向かってほえたけり、この地のすべての住民に向かって、酒ぶねを踏む者のように叫び声をあげられる。
YHWHが諸国の民と論争をするとき、あらゆる者を裁き、邪悪な者どもを剣に渡すので、その叫びは地の果にまで響きわたる。』(エレミヤ25:31)

これら旧約の預言は、今までに成就したことで過ぎ去ったことだと言えるだろうか。
むしろ、聖書の新旧の記述が揃って終末に何が起こるのか、神と人の争点が何であるのかが繰り返し示されてはいないのだろうか。

ゼパニヤは、終末に神が人類に対して行われることをこのように描写している。
『わたしが証人として立つ日を待て。わたしは諸国の民を集め、諸々の王国を集めて裁定し、わたしの憤怒と燃える怒りを尽く彼らの上に注ぐ。全地はわたしの妬みの劫火によって、まったく焼き尽くされる。』(ゼパニヤ3:8)

ヨエルは、キリストの弟子らがあのペンテコステの日に聖霊を注がれたことを予告していた預言者であるが、こうも述べているのである。
『諸国の民が奮い立ち、エホシャファトの谷に上って来るとわたしはそこに座を設け、周囲のすべての民を裁く。
鎌を入れよ、刈り入れの時は熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶねは満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい。裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。YHWHの日が裁きの谷に近づく。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。』(ヨエル4:12-15)

これらの預言の言葉は、それぞれに別の事柄を述べていて、それも過ぎ去ったことが記されているに過ぎないのだろうか。キリスト教界は「終末」を然程に重要視もせず、常に自分たちの恵みを求めて過ごしてきた。即ち、まず自らに関心が向いており、神が何を意図されるのかは重視して来なかったのである。

だが、そのような呑気な観方を打ち消すものがある。
それが、ヨハネ黙示録であり、聖書を貫く終末の知識の開示は、大半のキリスト教徒、即ち、ご利益信仰の徒にはいつまで経っても謎であり続けるであろう。



◆裁きの要諦

前述のヨエルの、鎌を入れ、踏み潰し、搾り場の酒ぶねに満ちる様子が黙示録に於いて次のように繰り返されている。つまり、ヨエルの恐るべき言葉の成就を、世界はなお将来に控えているのである。 
では、ヨハネ黙示録の語るところを聴こう。

『「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している。」
 そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。
 搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオン(288km)にわたって広がった。』(黙示録14:18-20)

そこで、旧約で様々に描き出された神とこの世との対決の場面は、黙示録の描く終末にその舞台を持つことを知らねばならなくなる。
まさしく、この世の全体が神の前に裁かれるようなことなど、人類史に前例がなく、旧約聖書の原初史にノアの日の大洪水が描かれるだけであるからには、それはなお将来のことである。

しかし、神はこの世を裁く前に、この世に対して裁きの理由を告げることを、他ならぬイエス自身が公生涯の終りに際して次のように使徒らに語っていたのである。
『そのもの(助け手)が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを知らしめる。
 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。』(ヨハネ16:8-11)

この「助け手」が『約束の聖霊』であることはこの文脈が明かす通りであり、このキリストの言葉を福音書にある、『王や総督の前に引き出され』弟子らが聖霊によって語るという預言とを終末の舞台に重ね合わせることによって、「この世の裁き」の見通しが開かれてくるのである。そこに「コミュニティの宗教」の出る幕などは到底有り得ない。キリスト教とこの世の妥協が考えられるだろうか。

『この世』を裁くに際し、神はそのときの人々を何の予告もなく裁きに渡すことはない。もし、そのようなことをするのであれば、人間に遍在する罪のために人類の存続も危ぶまれるほどになるかも知れず、また、キリストが罪の犠牲を捧げた意味が無いことにされてしまうであろう。それこそは、教会員が願う「信者の救い」であり、自分の益のための「ご利益信仰」でしかない。

そこで神は、人類全体に救いを備えるために『この世』に対して裁きの根拠を示し、キリストの犠牲があってもなお、それを拒む者、それに敢えて信仰を働かせない者を煽り分ける。

それであるから、為政者らと対峙して聖霊を受けて語る者らの言葉は、『この世』にとって衝撃とならざるを得ない。
ハガイの預言では、神は終末に於いてまさしく天地を揺るがすというのである。
『まさしく万軍のYHWHはこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。
わたしは、すべての国々を揺り動かす。あらゆる国々からの宝物がもたらされ、わたしはこの神殿を栄光で満たす。万軍のYHWHは仰せられる。』(ハガイ2:6-7)

即ち、神はやがて天地を揺るがすが、そうすると、諸国から宝のようなものが入ってきて、それが神殿に満ちると言われるのである。

キリスト以降には、地上の神殿から、キリストを隅石として聖なる者という石で築かれる天上の神殿が知られるが、聖霊の言葉を語る『聖なる者ら』を通して『この世』は大きく動揺することであろう。その『誰も論駁できない言葉』を聞いた世界の人々の中から分離が生じ、ある人々は信仰を働かせて『聖なる者ら』の側に立ち、ある人々はその言葉に反発して彼らに敵することになる。世界は二つに分かれ、論争は明解な二択を人々に迫るものとなるのであろう。

したがって、今現在その人がどのような宗教に帰依し、信条なり思想なりを奉じているか、あるいはいないか、それは尽く神の裁きの前に意味を成さない。
 
天地が揺り動かされるとは、全人類が終末に聖霊の言葉を聞くことで改めて問われることを意味しよう。
この振動の預言について、パウロはシナイ山の振動をハガイに敷衍してこう言っている。
『あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。あの時には、御声が地を震わせた。

 しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。』(ヘブライ12:25-28)

その激動をもたらす言葉の宣告については、イエスが地上を去る前の晩に語られたように、聖霊を通して、罪とは何か、義とは何か、裁きとは何かが明瞭に示されるとき、人々は裁きの要諦が何であるのかをはっきりと知ることになろう。それは神との関係性をどうするかという人間存在の究極の問い、「エデンの問い」と同じ意味を持つことであろう。人は創造者に対して忠節な愛を選び取るだろうか?

それはご利益を願うようなものではない。滅ぼされるか生き残るかを眼前に置いて選択させるようなものともならないに違いない。それでは「服従」への脅しになってしまい「信仰」という自由意志を見るものとはならないからである。
 
もし、脅迫的選択を神が迫るとしたなら、わざわざキリストを不可視の『雲と共に』この世に到来させ、聖霊を介して言葉を語らせる必要がないのである。
人々に自由意志からの選択を行わせるためにこそ、神は終末に於ける『聖なる者ら』の介在と彼らの犠牲をよしとされたに違いない。

ヨハネ福音書で『御子を信じる者は永遠の命を持つが、御子に聞き従わない者は、命を見ることなく、神の怒りがその上にとどまる。』とは、この意味であり、単に「クリスチャン」が救われるというのではない。むしろ、その属する信仰、宗派によらず、あらゆる人々が改めて検分されることになるに違いない。あらゆる宗教は神の前に正しくはないからである。(ヨハネ3:36/ローマ3:4)



◆神の発言を待たないキリスト教界

キリスト教のどんな宗派もその正統性を失っていることは、内容に於いて突出したものがどこにもないところに表れている。神の前で自分が正しいと云う者はまさしく偽り者である。
初代の弟子らのように、あらゆる論争に終止符を打つような「聖霊の賜物」という神の後ろ盾を得ている宗派は絶えて無い。
 
それぞれに、自分たちには聖霊があると言いたいかもしれないが、宗派同士の正統の奪い合いに既に『霊の果実』の無さが見えている。
自己正当化と闘争性や優越感と蔑視が、キリストの弟子と言うよりは、実質的にキリストに激しく反発し迫害したパリサイ派の後継者であることを自ら示してはいないだろうか。

宗教改革期を通して見られた論争と武力衝突にも、そこにキリストの霊らしきものの介在を感じさせるものが果たしてあったろうか。
個人で宗教を選ぶ自由が、宗教からではなく政治を介して初めてもたらされた現代社会では、キリスト教同士が武器をとって戦う姿は致し方なく影をひそめたものの、二十世紀まで旧教と新教はそうしていたのであり、宗教の正統を巡る貪欲は、内面では中世のままの闘争性を捨てているとは言い難い。時流に乗って他宗派との和やかさを演出し、にこやかに信者を迎える教師と雖も、いざ宗派の確執となれば豹変する姿を見るのは愉快なことではないものだ。

確かに近年ではエキュメニカルのような接近の努力が払われ、首長同士が和睦のポーズをとることができるようにはなっている。それは悪い兆しではないのだが、実質的な意味も無い。
というのも、どの宗派や教理が正しいか、正しくないかという論争が終わったわけではなく、それぞれの宗派が自分たちの正統を唱えるために他を攻撃する機会を窺う姿勢の下地の上でのことに過ぎないからである。つまりは正義を神に帰さず、義の自己所有を主張するからである。
そこに、『神の義』も『神の王国』も求めているといえる風情はない。 

このままでは、誰が正統かを巡って果てしなく争い続けるに違いない。その原因は、キリストのように『神おひとりのほかに、善い者はだれもいない』(マルコ10:18)という見地には立たず、またキリストのように『自分からは何もできず、ただ父が教えて下さったままを話す』というわけでもなく、人間の推論を真理に置き換えてしまったところにある。
つまりは、神の発言である聖霊を持たず、またそれを待つ態度もとらないゆえに、キリストの教えを人間同士の争いに引きずりおろしてきたというのが実際ではないか。

それぞれが『人間の戒めを教理として教え、意味なく神を崇めている』その原因は神の言葉を待たないからではないか。(マタイ15:9/イザヤ29:13/ヘブライ4:7)
それはやはり、神の発言である聖霊を持たず、またそれを待つ態度もとらないゆえに落ち込んだ罠、単なる人間らしい傲慢また頑迷な「罪の陥穽」というべきではないか。

もちろん、闘争性はキリスト教ばかりのことではないだろうけれども、キリストの名の下にそのようであることが相応しいわけもなく、それこそ背教と言われるべきであろう。自分たちだけが正しいと、あるいは自分たちだけが神の是認の下にあると主張した途端に、紛れもない偽り者、最大の偽善者となるからである。

では、「キリスト教」に回復はいつまでもないのだろうか?
しかし、前述のように、終末には聖霊によって語る人々が現れる以上、そこでキリスト教の回復が興らないとは言い難い。

そして、この観点から終末に関わる聖書の記述を見るなら、バビロン捕囚からの解放の事跡に重ね合わせて描かれているところを見出すのである。

バビロン捕囚からの解放が、人間によらず神の企図によりキュロス大王が指名されたメシアとなってそのきっかけが起こされ、その勅令が履行されることによりシオン山に神殿が再建され、そこに神YHWHが再び御名を置き、律法祭祀のすべてが復興されたという、この一大事業に触れながら黙示録は終末に起こる異例な出来事を予見しているのである。

それは古代の捕囚からの解放と同じく、人間由来のものではなく、また人間の関わる時に起こるものでもないことを明らかにしているのである。



◆厳密に選ばれた時に起こる解放

キリスト教の回復のきっかけについて、やはり黙示録が語っている部分がある。
以下に黙示録の9章14節を見よう。

『「大河ユーフラテスの畔につながれている四人の使うを解くように」。
 すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の使いが、人間の三分の一を殺すために解き放たれた。』(黙示録9:14-15)

この句は、黙示録中の七つのラッパの吹奏のうちの第六の部分に存在している。
黙示録の終末について述べる部分は、『開封』と『ラッパ』と『鉢』を主軸として構成されており、それぞれに呈示、宣明、断罪と要約できるように思える。
 
即ち、七つの封印の開封に於いては、初めからこの世への終末の刑の執行からが描かれ、ついで七つのラッパによる転向を促す神からの告知が行われ、七つの怒りを満たした鉢はこの世の要素への断罪が下されるが、世は大衆と共に一向悔い改めることなく葡萄搾り場の場面へと進むことになる。

上記、大河ユーフラテスの畔に繋がれていた四人の使いが解かれる場面は、ラッパの第六の吹奏に相当している。
ギリシア語の「使いたち」(アンゲロイ)は必ずしも「天使」を常に意味するわけではなく、「遣わされた者」の意であり、聖書中の他の事例で散見されるように、四人であることが『地の四方』を示唆しているなら、その現れ、また働きは世界的なものになると見ることができる。

更に、ここで注目されるべきは、その解放される使いらが『その時、その日、その月、その年』という非常に狙い済ました一時のために備え置かれていたという点にある。
 
これは、エレミヤの七十年の預言を彷彿とさせる。なぜなら、キュロスⅡ世によるバビロン征服が起こり、翌年シオン山上に神殿再建にための定礎が行われたものの、紆余曲折を経てそれから20年の歳月を要して、ようやくに神殿は再建され、律法祭祀の回復を可能としたからである。それはソロモン神殿の破壊による祭祀の中断の期間を七十年とするための絶妙なきっかけを作る時となったのである。⇒「エレミヤの七十年 その終点から起点を探る」
 
ネブカドネッツァルの神殿破壊から神殿祭祀が再び機能を始めたのが、今日のオリエント学が指摘するような前515年であるなら、エレミヤの予告に違わず祭祀の中断が丁度七十年であることからすると、イスラエル・ユダヤの民がバビロニア帝国の頸木を解かれ、神殿再建のキュロスの勅令が下ったのが前537年であったことは、エレミヤの予告した「七十年」を満たすための22年の余裕をもってバビロンが倒れる必要があったのであり、そこに人間の観点を超える先見性が示されていたことになる。

そこで先の黙示録の9章14節を振り返り『その時、その日、その月、その年に備えておかれた』という言葉に、エレミヤの「七十年」を成就する絶妙な時に発布されたキュロスⅡ世の勅令の事跡が蘇る。
 
即ち、その年に大河ユーフラテスの畔に繋がれていたユダの民の中から、神殿再建の勅命に応じる『イスラエルの残りの者ら』が現れ、その五万弱の僅かな人々は、その同じ年の内にシオンに到着してスッコートを祝い、翌年二月には神殿の定礎を行っている。
 
それから、神殿の竣工までには、周辺諸国の反対と目的意識の低下が障碍となったものの、預言者らの現れと熱意の回復を経て、キュロスの勅令発布から22年を要することになるのだが、神殿が破壊された前586年から70年の中断を終えた翌年の前515年正月ニサンに神殿祭祀は復興を遂げている。

それであるから、ヨハネの黙示の言葉も、将来の「大いなるキュロス」が解き放ち、勅令を発するその時は、古代の事跡が物語るように極めて厳密に定められた一時に起こることを指し示しているかのように読めるではないか。但し、終末での『至聖所が油注がれる』のが何時になるのかを人類は知らず、天使らも知らないのであろう。(ダニエル9:24/使徒1:6-7)

ただ、知らされているのは、終末の聖徒の活動が『42ヶ月』また『1260日』であること、そして彼らの『死』の後に、世は直ちに終局に至るということである。(黙示11:3.7/ダニエル12:7)

そうであれば、この黙示の言葉は、キリストを隅石とし、聖徒たちが石となって天界に建てられる神殿と、神の王国の祭祀制度の始まりのその時までに定められた期間を逆算した時点で起こることを示していることになる。だが、人はその解放の時を知り得ないだけである。(ペテロ第一2:4-5)

それは『残りの者』らが、もうひとりのキュロスであるイエスによって旧来のキリスト教から解放され、『ユーフラテスの河畔』即ち異教の象徴のバビロンを発し、王の勅令に従いシオンに向かって歩みを始める『その時』であり、神殿の定礎そのものは、古代のように時を経ずに行われるのであろう。

即ち、仮の崇拝の開始はすぐに行われるが、その時の祭司職らの身分は未だ聖別されておらず、それは地上にいる聖徒らの身分、即ち、『新しい契約』を果たすまでは天界の神殿を構成する石にはならない状態を示しているのであろう。

しかし、その後については、古代の神殿再建の困難な道程があったことからすれば、終末の『四人の使いら』にも多くの試練となる反対運動も予期する必要があることであろう。その対型となるであろう将来の強い反対運動が、聖徒らの練り清めになることが見て取れる。

バビロンに囚われていた民を解放し、殊にシオンに神殿と再建するようにとの勅令を発したキュロスⅡ世に相当する役割を果たすのはイエス・キリストであるという根拠に何があるか?

黙示録第九章の直接の文脈では『黄金の祭壇の角の間から出る声』とされている。それが銅の祭壇ではないところからすれば、それはまさしく『神の御前にある黄金の祭壇』即ち、聖所の中にあった香の祭壇を表すのであろう。それは第八章の初めにある『聖なる者らの祈り』と関連付けられている。(詩篇141:2)

使徒言行録は、ペテロ以下の聖なる者らが迫害に面して、心をひとつにして祈ると『一同の集まっていた場所が揺れ動き、すべての者が聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語り出すのであった。』ことを記録している。(使徒4:31)

従って、黙示録の河畔に囚われていた四人の使いを解くようにとの下命は、将来の『聖なる者らの祈り』に対する回答と観ることができよう。

それに加えて、黙示録第九章には『天から降った*(落ちた)星』が奈落の鍵を持っており、これを開けることによって濃密な『竃のような煙が立ち上り』、その中から『蝗の群れ』が解き放たれる場面を描き出している。*[πίπτω](「墜ちる」「降る」「平伏す」とも<descend>)

これは、地に来られた御子キリストが、終末には星のように『天から降り』奈落の鍵を解くことによって、聖霊を受けて語る者らを解き放ち『この世にその誤りを認めさせる』ことにより、世界が暗くなってしまうことを彷彿とさせるものと言える。(ヨハネ16:8)
聖霊によって語る聖徒らの言葉は、この世の舞台が暗天させられるほどの闇をもたらす。それゆえ、彼らは漆黒の煙のような『無数の蝗』と黙示録は描写するのであろう。(黙示9:1-11)

これは福音書の中で、終末に為政者らと対峙して『誰も論駁できない』言葉を聖なる者らが聖霊によって賜るという予告を言うのであり、預言者も高められたメシアについて、『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』と語るところである。(イザヤ52:15)
それは今日において議会の議事、また証人喚問が中継公開されるような事態に相当するように思われる。
 
これをハガイでは『今一度、天地を揺さぶる』と神が語られることであり、『諸国の民をことごとく揺り動かし、諸国のすべての民から願わしい者をもたらし、この神殿を栄光で満たす』と言われるそのことである。これこそが終末での神の世界宣教であるからこそ、マタイは聖徒らの為政者らへの奇跡の証しを指して、『彼(為政者)らと諸国民への証しのためである』と述べている。(ハガイ2:6-7/マタイ10:18)

さて黙示録の記述は全てが始めから終わりへと時系列を負って並んではおらず、出来事が輪切りにされ多層的また繰り返し同一の事象を述べる傾向があり、このバビロンに囚われた四人の使いと、無数の蝗とは、同じく聖徒の現れを扱っていると見ることができる。

従って、蝗害を解き放ったのがキリストであれば、ユーフラテス河畔の使いを解くのもまた終末のキリストであると言えるのである。

そこで、終末に象徴のバビロンの強権支配を下し、強固な二重扉を打ち開いて囚われていた民を解放し、勅令を発して『残りの者ら』にシオンを目指させるのは他ならぬキリストであると言い得るのである。

キュロスⅡ世が、ユーフラテスの流れを変え、バビロンの強固で高大な城壁を無に帰せしめたように、終末のキリストも不可能に見えたバビロンの攻略に際し、強大に見える宗教世界に対し、その趨勢を逆転させるほどの偉業を成すとみるべき理由は、旧約の預言者らの言葉が実際にメディア・ペルシア帝国によって実現したことであり、これは聖書も歴史も、今日の我々に疑いを残さない。

その『四人』の解放は、大娼婦の座す大河の膨大な水量の向きを変えてしまい、やがて大都バビロンに災いを招くであろう。



◆初期に起こった回復

そうであれば、キリスト教の回復はけっして人間の努力で成し遂げられるものではないことになる。
しかも、そのきっかけをもたらすのも人間ではなく、『その時、その日、その月、その年』という天が満を持して『合図の手を挙げる』時であろう。(イザヤ49:22)
古代の回復の時のアリヤーに予型を見れば、ユダの民にとって、メディア・ペルシアの軍勢を操ることなどできなかったように、それは人間に由来する回復とはならないに違いない。(イザヤ41:2/46:11)

地上から聖霊が去って、キリストも地上への監臨を終えて今日まで千八百年、真の意味でキリスト教の回復を見ることがなかったのも当然のことである。
今日まで聖霊が降ってはいないのであるから、当然ながらキリストは依然として「不在」(アプーシア)であり、弟子らに『また来る』と言われた以上は、必ず主の不在の期間があるはずではないか。

この回復また慰めの時は、一度初代キリスト教徒の上に訪れたことがある。
あのシャヴオートの日に、ペテロはディアスポラのユダヤ人らにこう語っている。
『主のみ前から慰め*の時がきて、あなたがたのために予め定めてられていたキリストであるイエスを神が遣わして下さるように』*([αναψυξεως]「回復」アナプシュクセオース)(使徒3:20)

この時までユダヤ人から預言者らが途絶えて四百年に及び、契約の箱の不在は律法契約を逸したことを彼らに意識させていた。
そこで『約束のメシア』への期待が残っており、荒野にバプテストが現れたときにもそこにメシアを感じ取らせてもいた。

そして、このシャヴオートの日に聖霊降下の奇跡を目の当たりにしたユダヤ人らに向かって、ペテロはナザレのイエスを『約束のメシア』として恐れることなく公示した。
イスラエルの待ち望んだ方の到来は、「回復」の時を招き、古い契約を逸していた民に再び『新しい契約』の希望がもたらされたのである。
 
それが、イスラエルが神との契約を更新するという「回復」の時ともなり、最後の真正な預言者マラキ以後、長く続いた神の沈黙の時代の終りを画する事態の進展とも言える。
即ち、メシアの犠牲によりイスラエルの罪の赦しが到来し、それは『新しい契約』の血の振り掛けとなってメシアを受入れる契約の民に道を拓いたのであった。

それはユダヤ教の回復ではなかった。むしろ、それは当時のユダヤ教徒の多くを躓かせる石となったであろう。
動物の犠牲はメシアの犠牲に置き換えられることによって終息し、律法契約は過去のものとなり、そこに新たな次元が拓かれたのであるからそれはユダヤ教ではなく、それを超えるアブラハムの宗教、あるいは聖書教というより広い括りでの「回復」であったことになり、今日それは「キリスト教」と呼ばれているものに相当している。

しかも、それは自動的なものではなかった。
それが証拠に、イエスを処刑に追い込んだユダヤ体制派にも他のどんな派閥にも聖霊の注ぎ出しは起こらなかったからである。求められていたのは、「神への信仰」ではなく、神がメシアとしてイエスを遣わしたということへの「メシア信仰」であった。
 
ユダヤ体制は、この信仰を持つに至らず、ユダヤ教は今日に至るまでパリサイ系ユダヤ教のままにメシアを待ち続けて空しく過ごしてきた。奇跡を行う人、ナザレのイエスを通して「メシア信仰」に至ったのは僅かな『残りの者』だけとなり、『諸国民の光』となるべき神の民の数を満たすために、『アブラハムの裔』を集める業は使徒や初期の聖徒らによって続行され、パレスチナから諸外国へと広げられていった。

それでも、聖霊降下は今日にはどこにも見られない。
使徒らが没し、初期の弟子らも逝去するに従い、聖徒がみられなくなったのであり、契約に含まれる人々の不在は既に千八百年にも及ぶ。
やはり、今日キリストは明らかに不在(アプーシア)である。それは極論ではない。なぜならイエス自身がパルーシア、即ち再び世界に監臨することを告げていたからであり、それならばそれに不在が先立つのは理の当然ではないか。

では、終末に於けるキリストの帰還において何が起こり得るだろうか。
メシアの現れとその活動の意義を知らせたダニエルの七十週では、メシアが『大いなる者らと一週の間、契約を保ち結ぶ』とあった。(ダニエル9:27)⇒「ダニエルの70週 全能者の描く巨大構造」
ガブリエルによって伝えられたその内容によれば、メシアの到来の時節が予告されており、それは69週が定められ大雑把なものではなかった。

同様に最後の第七十週目の残り半分の三年半が『契約の使者』の不在によって、未だに未成就である。(マラキ3:1-3)⇒「ダニエルの七十週」
つまり、メシアが『契約を保ち結ぶ』という地上の公生涯の半週と、依然残された僅か半週、即ち三年半、黙示録の『42ヶ月』、また『1260日』ではないのだろうか。しかし、その開始が何時かは分からない。それこそが『その時、その日、その月、その年』という、神のみぞ知る時に関わるものとなろう。
 
古代にはマラキの預言にしたがい、『契約の使者』であるメシアに先立ってバプテストが示され、ユダヤの民にナザレのイエスが紹介されている。(ヨハネ1:36)
バプテストは、メシアがユダヤ人に聖霊と火とでバプテスマを施すことを予告したが、メシア信仰に至ったユダヤ人には聖霊が、そうでなかった体制には滅びの火がそれぞれに注がれている。(マタイ3:11-12)

さて、メシアの再来と契約を結ぶ期間の残りが履行されるであろう終末に目を向けるときにどうしても無視できない存在がある。
それが今日二十億を越える信者を擁する世界最大の宗教、「キリスト教界」なのである。



◆『三分の一』と呼ばれる世界への宣告

黙示録の第八章には『三分の一』が12回繰り返される。それはラッパの吹奏の度に災厄を被る部分とされている。
そして第九章の、ユーフラテス河畔の四人の使いたちが解かれるその目的も『三分の一を殺すため』であり、彼らが解かれた後に生じる二億もの『騎兵隊』もその『三分の一』に対する災厄に加担していることが示されている。(黙示録9:15.18)

ここでも黙示録の記述の特徴が表れているが、物事の順を追ってはおらず、ここでラッパの吹奏による災厄の原因のひとつが示されている。
それが即ち、ユーフラテス河畔の四人の使いたちの解放であるというのである。彼らの解放の目的は『三分の一を殺す』ことにあるからである。

では、第一から第四までのラッパの吹奏によって災厄を受ける『三分の一』とは何を意味し、また、どのような害を受けるのであろうか。

まず、そこでは天界で香が焚かれ、半時の沈黙が生じるが、これらは詩篇141篇と65篇が祈りの言葉そのものであることを共に指している。黄金の祭壇は至聖所のすぐ前に置かれていたので、食卓と共に『御前(御顔)の』と呼ばれるべきものであり、黙示録でも『御座(スゥロモス)の前』とされている。
そこで神がその回答を与えずにいるだろうか?(マタイ21:21)
神の御前で香炉を持っていた使いが、香の祭壇の火を香炉に入れるや地に投じる。すると七人の使いがラッパを吹く用意をするという。

これらのラッパの吹奏の始まる場面から見ると、地上での論争が生じることが示唆されており、そのきっかけを作るのは『聖なる者らの祈り』であることが書かれている。(黙示録8:3/ルカ12:49-)
そして、それらが吹奏される度に『三分の一』が災厄を被るのであれば、その『三分の一』とは、聖なる者らとの論争の相手とは言えないだろうか。

しかし、この祈りへの答えとして、聖なる者らへの聖霊の油注ぎが起こるのであるならば、黙示録でラッパの吹奏にこの祈りが先んじるからと言って、必ずしも聖徒の存在が先にあるとは限らないように思える。
即ち、いずれ聖なる者らとなる人々の祈りとも捉えることに無理はないようにも見えるからである。
 
ラッパとは、響き渡るその音によって広く何事かを知らせるものであり、殊に戦闘に於いては武器の打ち合う音や怒号の中にあっても部隊への指令の合図として用いられてきたほどに鋭い伝播性を持っている。

そこで、この場面に於いてのそれは、神の側からの布告であり、その広報がある度毎に『三分の一』が害を受けるのであれば、その『三分の一』は神と激しく対立していることになる。ラッパの音は、抗う彼ら三分の一の騒音をさえ乗り越えて耳に明瞭に届くものとなろう。

その『三分の一』とは『地』の『海』の『川』の『天の光』の『三分の一』であり、第五以降のラッパによって害を受ける『地に住む者ら』の一部であろう。つまり世界の三分の一を構成するものであり、聖なる者らによって不利益を被る領域である。

さて、そこで先の聖なる者らが聖霊によって語ることを通して最も不利益を被る領域をどこに見出すであろうか。
それこそは旧来のキリスト教界ではないだろうか。

第一のラッパが吹かれることにより、モーセのときのエジプトの第七の災厄のように『雹と火』が生じた。雹の中の火は、その雹が単なる自然のものではない証しに違いないが、黙示録ではそれには『血』が混じっている。つまり、終末での証しは命が関わっていることを示すかのようである。

加えて『地の三分の一』という範囲、また木々や草々の三分の一が焼かれてしまう。聖書では木々が指導層を草々が民衆を象徴すると言われるが、神が聖なる者らに聖霊を与え、彼らが神からの言葉を語るとなれば、確かにキリスト教界はたいへんなことになることが見えている。
 
キリスト教界が唱えてきた「キリスト教」は、聖霊の声により根本的に是正されなければならなくなるのだが、果たしてそれに応じるものだろうか。信仰者個人であれば転向ができないこともないであろうけれども、これが有給の聖職者を含む組織となると、その困難さは想像に難くない。彼らはこれまで持ってきた権威も教えも生計の糧をも失ってまで聖霊の言葉に従うだろうか。それがどんなに難しいことかは同情の余地さえあるものである。

だが、やはり真実にキリスト教を求めるのであれば、『人にとって不可能ではあっても、神にあっては可能』であろう。(ルカ18:27)
しかし、黙示録はその『三分の一』が焼かれると述べる以上、それを期待するのは無理なのであろう。

第二のラッパが吹かれると、『火の燃えさかっている大きな山のようなものが海に投げ込まれ』海は血となり『海の中の生き物(魂)の三分の一が死に、船の三分の一が壊された』。

この燃える山を聖書中に捜すと、あのシナイの山が挙げられる。即ち、契約を結ぶべく神YHWHが降って来られ、全山が鳴りどよめき、燃え上って竃の煙に覆われたというあの山である。イスラエルは恐怖に慄き、神の声を聞くことを願わなかった。

そこで、この燃え盛る山が投げ込まれるとは、契約への違背への責めを象徴されると読むことができるであろう。
但し、黙示録の場合には『新しい契約』に対する違背であり、キリストの犠牲によってはじめて下賜されるべき奇跡の聖霊を自分たちは持っていると唱えてきたのであれば、この責めは免れまい。それこそは『聖霊に対する冒涜』ともなり兼ねない重い責めである。
 
海の船とは、大いなるバビロンに属する『旅商人』(エンポロイ)の件でみたように、この世との渉外に当たるキリスト教関係者や聖職者の職なのであろうか。そうであれば、彼らの生業は存続の危機に面することになろう。ならば、聖徒らの発言とはまことに衝撃的であり、且つ、真実性に於いて確固たるものであるに違いない。⇒「大いなるバビロンの滅び」

第三のラッパが吹かれると、前述のように天から灯火のように夜空に輝く星がひとつ降り、それは川の源に下った。
その星の名は「苦蓬」(にがよもぎ)であり、川の水は苦くされてしまい、多くの人々がその水によって死んだ。

まず、この星というのは、第九章で二度目に『一つの星が天から地に落ちて来るのを見た』と語られているが、この『星』が奈落の鍵を開けており、そこから無数の蝗が現れている以上、これはあのシャヴオート以来のヨエル第二章の再現と見做すことができる。即ち、聖霊によって語る聖なる者らの出現である。
そうであるなら、黙示録の第八と第九で語られる『星』は同じものであり、聖徒らを解き放つ権威を持つ者、即ちキリストを指している。

苦蓬と言えば、エレミヤが自国民がYHWHの声を聞かずバアル神に従っていたことを糾弾する行においてこのようにある。
『それゆえ万軍の主、イスラエルの神はこう言われる、見よ、わたしはこの民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる』(エレミヤ9:14-15)

これは、神と歩むと公言しながら、異教の神の崇拝を続けた古代のユダの民と今日のキリスト教界とを並べる言葉という他ない。なぜなら、メシアを退けたユダヤ教にもはや神の恩寵は無く、そのメシアを認めると公言する宗教界にこそ、その重責が問われるからである。

確かにキリストのパルーシアにより聖霊の発言が行われるなら、いまのキリスト教界に何の意味が残るだろうか。
その指導に浴することは、もはや命を水を飲むことを意味しないことが暴露されてしまうとすれば、確かに、その教えは誰にとっても甘いものではなく、単なる強権的戒めにしかならず、それを飲んでいれば死に致ることになってしまう。そうして、この地の『三分の一』の領域にはまたもや死が強調される。

さて、第四のラッパが吹かれると、太陽、月、星、という天界の光明の三分の一が打たれてその光を失ってしまう。
光については、古代の宗教的に衰退した様を述べるイザヤの預言はこう云う。
『見よ、主の日が来る。残忍で、憤りと激しい怒りとをもってこの地を荒し、その中から罪びとを断ち滅ぼすために来る。
天の星とその星座とはその光を放たず、太陽は出ても暗く、月はその光を輝かさない。』(イザヤ13:9-10)

『正義はわたしたちを遠く離れ、恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。』(イザヤ59:9)

黙示録の描く終末に於いて、『世の光』を自称してきた『三分の一』に対する強い衝撃を表すが、それはどんな人からでもなく、神とキリストの領域からの宣告による打撃であるなら、その結果として主張してきた光は光ではなく『闇であった』ことになる以外にない。それが偽りであったからである。(マタイ6:23/ルカ11:35)

だが、こうして『三分の一』が暗闇に覆われる中で、太陽と月と星をまとう女が黙示録第十二章に表れている。これこそが聖徒の全体を生み出す女、即ち旧約の『シオン』であろう。即ち、ユーフラテス河畔から解かれた使いたちが向かう先であり、そのうえに神殿を再建する地所である。
その対照は、中世の蒙昧のままに歩むキリスト教世界との異なりを表すであろう。 



◆人類全体への宣告

黙示録のラッパの吹奏で『三分の一』について死に至る災厄がもたらされるのはこの第四のものまでであるが、ここでひとつの警告がなされている。

それは中空を飛ぶ一羽の鷲によって宣告される『地上に住む人々』、つまりは『三分の一』だけではない世界規模の災いの到来がその後のラッパの吹奏によってもたらされることが告げられている。
その後の第五と第六のラッパにより、異様な姿をした蝗害と二億もの騎兵隊の襲来を人類は受けることになる。

蝗害とは、ヨエル第二章の成就であるに違いなく、それは既にあのシャヴオートの日からユダヤ体制について成し遂げられたことであったが、聖霊を受けたキリストの弟子らの出現によって、メシアを退けたユダヤ体制は『責苦』を受けている。

ペテロはサンヘドリンに向かってこう宣告している。
「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、ご自身の右に上げられた。我らはこれらの事の証人であり、神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまたその証人である」。そこで『これを聞いた者たちは、激しい怒りのあまり、使徒たちを殺そうと思った。』という。(使徒5:30-32)

イエスの弟子らに聖霊が降らず、いつまでもエルサレムの片隅に隠棲を続けていたなら、サンヘドリンはナザレの大工イエスを除き去って安泰であったろうが、残された弟子ら、そして離散の民に聖霊が注ぎ出されるに及んで形勢は逆転をみたのである。
奇跡の賜物を得たイエスの弟子らが、力強く宣教に乗り出すと、不信仰ゆえにメシアを退けてしまった体制派は弟子らの活動により耐えがたい責苦を受けたのである。

そして、黙示録の描く終末では、天から降った星が奈落の鍵を開け無数の蝗を煙と共に空中に解き放つのである。
それは人類に対する責苦をもたらすのであろう。「額に印のない人々だけを・・・五か月の間苦しめる」とある。即ち、聖霊の声を人類に聴かせるという段階を指しているのであろう。

この蝗の群れには頭がおり、ヘブライ語で「アバドン」ギリシア語では「アポルオン」、これについてパウロは、出エジプトの最後の災いを下したエジプト全土を通過して初子たちを死に至らしめた、その「滅ぼす者」にこの語を当てはめている。(ヘブル11:28)

それは出エジプトの夜、神が自らのために子羊の血で初子たちを買取った事跡を思い起こさせる。したがって、「額に印のない人々だけを・五か月の間苦しめる」とは、聖なる者らが聖霊を持たないすべての者に罪の宣告を下すことを表していよう。⇒「イナゴと騎兵隊 生死を分ける額の印」

しかし、これらの蝗は去ってゆくべきものであるように、聖なる者らはこの世からの迫害、特に『七つの頭を備えた野獣』という特殊な権力によって倒されなくてはならない。

だが、彼らの意志を継ぐ者たちが現れる。それが第六のラッパの吹奏によって現れる二億の騎兵なのである。
彼らは、聖なる者らが聖霊に霊感されて語る言葉に信仰を働かせ、この黙示録の舞台に登場してくる。

なぜ、そう言えるか。
そこで『大河ユーフラテスの畔につながれている四人の使いを解け』というこの言葉に示唆されることが重なってくるのである。

それこそは、蝗の解き放ちにけっかけを与えるものであり、先の四つのラッパの吹奏を導き出す聖徒らの祈りに答えた香炉の投げ落としによる論争の勃発も関わって、それは『その時、その日、その月、その年』という神の秘められた時に起動されることである。

蝗害は聖霊の降下無くして起こり得ず、天から降った星、奈落の使いアポルオン、そして「より偉大なキュロス」としてのキリストが介在することに違いない。

キリストはキュロス二世のように諸国の宗教を封印したバビロンの二枚扉も開かせ、定められた七十年を満了させるべきその時にユーフラテスの膨大な水量の流れをすら変えさせてしまう。

そのために、城市バビロンに相当する宗教界である「大いなるバビロン」は聖霊の現れに色を失い、神殿再建へと向かう『イスラエルの残りの者ら』を手放すばかりか、『残りの者』に触発された二億もの騎兵である人々の襲撃を受け、特に『三分の一』と呼ばれるキリスト教界は、それに先立って四つのラッパの宣告にある指弾を次々に受けることで、神の前に死ぬと見做すことができる。

キリスト教界を『殺す』のは、主にこの二億の騎兵によるものであろう。
というのも、そこににそう記されたというだけでなく(黙示録9:18)、『四人の使い』である聖なる者らは蝗で象徴されたように五か月という一定の寿命を持っており、その終わりが『七つの頭をもつ野獣』の攻撃に倒れることであれば、『聖なる者ら』はキリスト教界の野獣への使嗾によって地上からいなくなることになろう。

そこで、キリスト・イエスの祈りの言葉にあるような、『これらの者の言葉を聞いて信仰を抱く者たち』の存在が意味を持つのである。(ヨハネ17:20-22/歴代第二6:32-33)

彼らは聖霊を注がれることはないが、聖なる者らに宿った聖霊に信仰を働かせ、『三分の一』に敢然と立ち向かい、これを象徴的に『殺す』のである。

『三分の一』が『大いなるバビロン』に含まれるのであれば、その全き滅びは『野獣の十本の角』によってもたらされるのであるが、その以前に『三分の一』は騎兵隊の糾弾の攻撃を浴び、もはや本来もっていたはずの宗教的意義は消えうせてしまうのであろう。 



◆終末のキリスト教界

キリスト教界の歴史を概観すると、聖霊が注がれていた初代の人々が去るに従い、異教と政治の混濁が避けられなくなっていった様は明瞭に見て取れる。
 
コンスタンティヌス大帝の介入を受けて、キリスト教が政治化してコミュニティの宗教となって以降、キリスト教界としては今日まで本来の姿を取り戻すことなく、メシアの、そして聖霊の伝える教えを離れ、異教を継承する凡庸なスピリチャルな宗教に堕し、それはシュメールの古代のバビロン、創造の神に反対し、悪霊の他神と人間主義のご利益信仰と化し、もはや初代の清い姿はどんな改革運動によっても回復することは望めないであろう。

ほとんどの宗派が自派の正統を唱えてはいるが、そのために却って神意は無視されてゆく。初代のような聖霊を待つ態度を見せず、その姿には神の介入さえ頑なに拒むところを予感させるものがある。

黙示録のラッパが次々に吹奏されるとき、その宣告はキリスト教界にとっては痛烈な批判となるに違いない。
然もなければ、『三分の一』は安泰であろう。
だが、黙示録では七つのラッパの四つまでが、ここまで厳しい宣告を下しているからには、ユーフラテス河畔から解かれる使いたちがもたらすものが徹底した告発であることは避けられそうにない。

四人の使いである聖霊が聖なる者たちにより神からの音信を聴かされるときには、キリスト教界の指導層は相当に試されることになるのであろう。
そこで、何を主体に考えるのか。人か?神か?

これまでに、自らの正しさを主張し続けてきたのであれば、神にこそ真理が属することを肯んじることは易しいことではないに違いない。
神の前に「謙虚さ」を示せるとすれば、そのキリスト教指導者は真に見るべき人格の持ち主であろう。
だが、そう多くは望めそうにない。

黙示録が地の『三分の一』が死に至ると記すのであれば、「キリスト教界」としてメシアの帰還を不可視の『雲と共に来る』キリストのゆえに、それを退けることは避けられないのであろう。かつてユダヤ教界がメシアをその廉潔な姿のゆえに退けたように、自分たちの教理の予想と異なる仕方でのメシアを受入れず、姿の見えるキリストの再臨を期待したり、この世と妥協した教えに閉じこもるなどすれば、ユダヤの宗教家らがしたように、自分たちには予想外の『聖なる者ら』を滅ぼさせ、その悪行は顕在することになる。

『聖なる者ら』を排撃することによって見えないキリストをも退けるとき、キリスト教界は聖霊の言葉にも抗うことになるのであるから、そこで『聖霊への冒涜』は避けられない。
他方で、『聖なる者ら』の聖霊の声に信仰を働かせるなら、それは神に善意を示すことになる。
イエスはこう言われている。
『わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に冷たい水一杯でも飲ませてくれる人、まさしくわたしは言うが、その人が報いを受けないことはない。』 (マタイ10:42)
求められるのは、聖霊の声に神を感じ取る価値観であり、それを通して初めてキリストの臨在を知ることができるであろう。
 
『神と子と聖霊の名によってバプテスマを』とはこの信仰を言うのであって、中世の秘術である三位一体を唱え続けていれば、その「玄義」はいつまでも「玄義」に終わり、それは救いに至らず、却って、滅びをもたらす以外にない。キリスト教理解を妨げる暗黒の壁となるからである。

その一方で、バビロンから解かれた聖なる者らには、シオンに向かって街道が引かれ、清くないものがうろつくこともない。神YHWHはその先頭を行き、殿軍ともなられるという。
これこそは、キリスト教徒が待ち望んできた、真のキリスト教の回復となろう。だが、それは大半の「クリスチャン」の望むようなものではなく、ユダヤ民衆が自分たちの望んだようなメシアをナザレのイエスに見なかったようなものとなるのであろう。

こうしてイスラエルの律法契約不順守から始まり、神殿破壊とバビロン捕囚を経て、神殿祭祀の復興に至る旧約聖書後半を占める事象が、ダニエル書とヨハネ黙示録によって終末に意味付けられていることを読み取ることができるのである。
やはり聖書に大きな部分を占めている捕囚と復興には重い意味があり、それは神の経綸の完成部分に示唆を与えているというべきであろう。即ち、「神の王国」の完成であり、奥義の終了するところについて注意を喚起しているのである。

ユダヤ教とキリスト教の不仲のゆえに、これらは双方から理解もされず打ち捨てられてきたことであるが
旧約聖書の預言者たちの言葉は、古代の復興だけに収まり切らない多くの部分を残しており、それらはヨハネ黙示録を補完するというような次元を超えて、むしろ、黙示録の方が触媒のように作用して、ネイヴィームの多くの言葉を生きたものに蘇らせていると云う方がよいほどである。

これらこそ、人類は知るべきことではないか?
どうして、このブログで収まっていてよいだろうか。 
今も、多くの教会堂では蒙昧とご利益信仰が繰り返されているが、これはどうしたことであろう。 回復はなお遠いのだろうか?

更に、古代の神殿祭祀の復興においてだけでは起こらなかった事柄、即ち、メシアが現れて迫害と共に除き去られ復活し、その後にユダヤ体制が空前絶後の滅びに陥るという部分に相当するところがヨハネ黙示録には含まれている。この点は注目に値する。聖霊を信じる者とそうしない者との違いは、終末にあっても明瞭であり峻厳極まりないものである。

それらには、聖徒らの死と復活が対応しており、この点を描き出すことにおいてヨハネ黙示録はネイヴィームに優って詳細であり、それをパウロの書簡が補完している。そして福音書に於けるキリストの弟子らへの多くの教訓も、自らに続く者としての彼らへの教訓を何度も残しているのである。

ここまでの聖書観に至るなら、聖書という書が、真に契約の民に寄り添い、常に彼らに焦点を合わせ、且つ、彼らに向けて書かれたものであることに疑問の余地が無くなる。

それ以外の誰であろうと、神と契約の民の交渉の記録を通して、神の救いの経綸の進展を確認し、彼らについて知り、その現れを待つ以外に無い。この謙虚さこそが、今のキリスト教に求められていることではないか。

この聖書観に達したなら、誰がキリスト教を改革しようとしても、それは無意味であると断言しなければならない。
それは16世紀であろうと、いまこの時代であろうと変わらない。
神ご自身の定めた時に、その合図の手を挙げられることを待つべきなのである。 

キリスト教徒に今できることは、この観点に到達し、虚しく自己の正統を訴えることを止め、ただ聖霊降下を切に願うほかに何があるだろうか。




            ©2016   林 義平
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ダニエルの七十週 全能者の描く巨大構造

ガブリエルから知らされた「七十週」に込められたもの
15000字超 <難易度 ☆☆☆☆☆ 高>
-予備知識-
「聖徒 聖霊が指し示す者」「アリヤーツィオンの残りの者」「エレミヤの七十年」「指名されたメシア キュロス」




◆序として

ヨハネ黙示録やダニエル書などの聖書中の黙示の諸書については、その謎が醸し出す、秘儀を解くことへのロマンがあってか、多くの人々が何事かを知ろうと挑戦してきたものである。その知識を得た人々は有利な将来を得ると思えるのかもしれない。 あるいは、自分に見識眼ありと誇りを覚えることもあろう。

だが、知識ある者だけを神が救うのであれば、そもそも「裁き」の必要があるのは何故か?「知らない」という事が人の「罪」なのだろうか?
「教理を信仰するもの」が救われるというなら、ただ救いの知識を得るばかりが、神の裁きで恵みを得ると言っていることになる。
そのようでは、どんなキリスト教であれ、どれほど高度な知識を誇ろうとも、畢竟、幼稚な動機に留まってはいないものか。

やはり、密儀の探求においても、人々は救いの機会を知ろうとばかりになって教訓を学ばず、何かの起こる時の予知に精力を傾けがちになるのだが、知識に頼り、規則に従い道徳的に振る舞い等、その人には周囲の人々との大きな違いに思えるのかもしれないが、秘儀を解いたという意味はそこに無い。まして何かを「言い当てただけ」なら、何の意味が残るのか。

当然ながら、黙示の探求にはより重要なことがある。
即ち「神の意向」をおぼろげながら垣間見ることであるのだが、宗教家らの解釈では、往々にしてこの世の終りが近いとして、人々に善行への脅迫観念と刹那的生き方を求めてしまう。

それは、人々が本能的に感じる人間存在の儚さ、将来に何が待受けているか分からない危うさにつけ込んだ騙りと脅しとなっており、実にカルト宗教は生活を変調させ、多くの家庭から自然な情愛さえ示すことを妨げる事態を惹き起こしている。

また、天災の予知のように、聖書中の黙示に無人格な世の終りの出来事をただ予告するかのようなアプローチをするなら、そこには聖書全巻の観点が希薄になってゆき、その関心は神の意向や精神には向かわない。
この世では、この手のオカルト的なまでの未来予測が人気を集めるが、それらに共通する事柄は、好奇心の惹起と神の意向への無頓着である。

しかし、ただ時や出来事の予知に傾いていってしまえば、これは高慢を誘う罠となり兼ねない人間叡智の賞揚に終わる。この手合いが自説の正しさを吹聴するばかりであれば、その意図は自らを恰も教祖のように高めようとするばかりではないか。

だが、自らを媒介者とし高めることのないダニエルという廉潔な智者に啓示された『七十週』の主な目的は、メシアの到来の時を知らせるものというだけでなく、更に重大な事柄が関わっており、時を言い当てる方向からばかり見ていれば、その主なる内容、神の成し遂げようとする事の意図が何かを見落とす危険がある。

その一方で、時の予告への「信仰」が人気を集めると、その予知者はその集団の中で高められ、或いは崇められさえし、こうして人に従う宗派が形成されてゆくのだが、それが巧妙であると、信者は恰も神に従うかのようにその予知者に従い、没人格的に大衆化して個人の尊厳を、また理性の判断をさえ委ねてしまうところにまで進んでゆく。

ここに黙示を解こうとする努力の難しさがあり、かつてユダヤの学者らがそうなったように、たとえ正解を得てすらその益に達しないということが起こり得るのであり、現代のキリスト教の諸宗派が同じ陥穽に落ちている姿を見るのは、まことに痛々しいものである。

それを加味して、以下に述べる事柄は試論であって、当然のことながら、神が秘めたものを人は知り得ないし、また聖書は神のすべての意図を語っているわけではない。裁かれる身の上にある人間に、どうしてすべてが語られようか。

であるから、これが間違いのない正解であるとは言わない。正解は常に神の御許にある以上、自分の知力や観察眼を用いて終末を言い当てる「予想屋」になろうとも筆者は思わない。

ただ、この本意は、神の悠久の歩みに於いて、遠い過去から我々の将来へと、その御旨が継続していることを聖書の言葉におぼろげながら見渡し、神の終末に於ける目的と行動計画の一端に理解を深め、その意義を把握し、ある程度に心を整えることにあるので、よろしければそのおつもりでお読み頂きたく思うところである。



◆神は捕囚期になお経綸を示される

さて、ユダからのバビロン捕囚民の中でも、預言者ダニエルは非常に知られた人物であった。
彼は帝王ネブカドネッツァルの夢を少なくとも二度解いてその預言的意味を教えている。

一度目は、ネブカドネッツァルの統治の第二年(前603年)のことであったという。
それがどのような夢であったかさえ大王自身も忘れてしまっていたのだが、気持ちに強い動揺が残り、その不吉さに怯えたのであろう。カルデアの職業占い師らが集められても夢解きもおろか、その夢をさえ指摘することも尽くできなかった。

そこでダニエルは若年ではあったが、王の夢がどうであったかさえも示したうえで、その解き明かしを行ったものであるから、ダニエルは以後王の信任を得て、宗教上の知恵に関する最高位を拝命することになった。解き明かした夢の内容は巨大な像であり、大王ネブカドネッツァルを驚かせるばかりか、この世の終末に至るまでが示され、人類史を俯瞰するという途方もないものであった。

それは、バビロニアの王国の後にどのような国々が次々に覇権を得るかを神が王に示したものであったが、それはダニエル書を介して、今日の我々にまで知らされており、その結末は神の国の全面的勝利となる。

これを解き明かしたダニエルは、若くしてネブカドネッツァルの信任厚いものとなり、帝王は布告を以ってダニエルを知らせ讃えたものであるから、帝国内でも流刑民の間でも、そしてユダヤ本国でも著名な人物となった。(エゼキエル14:20)

しばらくして、ネブカドネッツァルは再び不可思議な夢を見たが、それは切り倒される巨木の夢であった。
ダニエル書のその部分は王の布告という形でアラム語で記されている。だが、それがネブカドネッツァルの何時のことであるかは書かれていない。

しかし、既にダニエルが「祭司の長官」と呼ばれる高い地位にあることからして、一度目の夢の後、それから数年後に起こっていた事なのであろう。そこでネブカドネッツァルは一定期間王座から離れ、正気を失って過ごすことが記されているので、それは余程ゆるぎない王権が確立されていた絶頂期のことであったのだろう。


その後、ネブカドネッツァルが崩御し、やがて王統が代ってナボニドスの時代に入ると、ダニエルはしばらく忘れ去られ地位は低められたまま年老いたが、バビロンがメディアとペルシアに占領される正にその夜に、再び神に通じる知恵を晩年に至ってなおダニエルは見せることになる。

即ち、ベルシャッツァル王の宴会の最中に、忽然と手が現れて、壁に文字を記したがこれを誰も読めず、意味を教えることができなかったときに、ダニエルが呼び出されると、それがバビロン王の支配の終りを告げるものであったことを彼が明らかにしたのであった。
バビロニア帝国の後の彼は、メディア人の王ダレイオスの庇護を受け、異教マゴイ族の祭司らを退け、ペルシア帝国の中で再び高位に登る。

ユダからの捕囚民である彼は、故地のある西に向かって開かれた窓辺で祈ることを常としており、それはマゴイらの反対による命の危険があっても続けていたのであった。
その方向にエルサレムが在ったが、彼の祈るを向ける神の家も聖所もそこには当時存在していなかった。ソロモンの建立したエルサレムの神殿は、ネブガドネッツァルによって47年も前に破壊されており、シオン山上は荒涼としていたに違いない。

ダニエルの若き日、エホヤキム王の第三年(前605年)に、バビロンに捕え移されてからメディアとペルシアに占領されるまでが66年、神に任命されたメシアたるキュロス王に彼も顔を合わせたかもしれないその年には、ダニエルも齢八十の頃であったろう。

彼は晩年のこの時期になってから、エレミヤの書を通しエルサレムの荒廃する期間とされた『七十年』を知ったという。即ち、キュロスⅡ世によってバビロンの王朝が倒され、捕囚民の境遇に変化が期待できる事態が起きた紀元前539年の事であったという。

そのとき、西を向いた窓辺であろう場所で、ダニエルは身を低め、その魂を苦しめて真摯な悔いと熱烈な成就の願いを祈り求めた。

彼は、イスラエルの者らが尽く律法を踏み越え、そこに書かれた酬いを刈り取ったこと、神の声に従わず、預言者たちを退け続けてきたことを悔い、赦しを願う。
神に逆らったために離散させられた民が再び集められるとは、イザヤをはじめ多くの預言者の語るところであったが、バビロンが征服されたとはいえ、キュロスの統治前には解放される見通しもなかったのである。

ダニエルはエレミヤ書にある『七十年』を指して言ったのであろう。神に対して『御名のために遅らせないでください』とも願い出た。(ダニエル9:19)

祈りは長い時間をかけて行われたことであろう。
しかし、それに対する神の反応は非常に速いものであった。
神の御前からひとりの天使が遣わされたことをダニエルは次のように記している。

『こうしてわたしが祈りつつ語り、我が民イスラエルの咎を悔いて言い表し、聖なる山のために神YHWHの御前に伏し願っていたときに
 それは夕べの捧げ物の時刻であったが、我が祈りをいまだ申し述べているそのときに、初めの幻の中で見た人であるガブリエルが急いだ様子で飛んで来るやわたしに近づいた。
 
 そして彼は、わたしに悟らせるようにして、わたしに話してこう言った。
 「おお、ダニエルよ!あなたに知恵と悟りを与えようとしてわたしは来た」
 「あなたの嘆願の祈りが始められたときに、言葉が発せられたので、わたしはそれをあなたに伝えに来たのだ。あなたは大いに寵愛されている、この言葉を熟考し、それを悟れ。」』(ダニエル9:20-23)

 即ち、神はダニエルがまさに語っているときに答えていたというのである。(イザヤ65:24)
しかも、その内容は驚くべき事柄が含まれている。

では、天使ガブリエルの語るその言葉を聴こう。

『 「あなたの民と聖なる城市には七十の週が定められている。
 それは咎を止めさせ、罪に終わりをもたらし、邪悪さを償い、永遠の義を来たらせ、幻と預言を確定し、聖の聖なる処に油を灌ぐもの*となる。」』(9:24)*(至聖所の機能の付与)

これらはいずれも徒ならぬことであり、ガブリエルはダニエルに向かって、エレミヤの『七十年』を超える更に重要な預言を明らかに託しているといえる。

エレミヤの『七十年』はエルサレムに神殿をもたらし、その地に再建され再び存在するようになった至聖所にも油注がれ、律法祭祀を完全に機能回復させるものとなった。だが、その『七十年』の終わっていない時にダニエルに知らされたこの『七十週』は、エレミヤの『七十年』を超え、天界に成就する新たな目的を示す予告であったのだ。そこではエレミヤの『七十年』さえも、このダニエルの『七十週』の予型また前表するものであったに過ぎないほどである。




◆七十の安息年に関わった七十週年

まず、エレミヤの七十年と、このダニエルの七十週には深い関連がある。
その両者を結ぶものが、律法に定められていた『安息年』(ハ シュミタ)の条項であると云えよう。

この『安息年』とは、六年間耕作して七年目には休み、イスラエルに属するすべてがその一年の間に聖なる事柄に専ら携わることを求めたものである。

イスラエルが荒野に在った四十年間、毎週六日は奇跡の食物であるマナを降らせ、七日目にはそれは降らないものの、六日目に倍の量が与えられたように、イスラエルがパレスチナに定住した後にも、神は六年目には必ず倍の収穫をもたらすと約束していたのである。

だが、それはイスラエルの信仰を試みるものとなった。
安息日であれば、一日労働しないだけのことで済むが、安息年となれば丸一年仕事をしないのである。
その年の10月から翌年の10月まで何もせず、パレスチナの冬は雨季で氷雨や雪の日々となるので、当分種蒔きも難しい。 

そこで、律法をろくに守っていないという意識が加われば、第六年目の倍の収穫で安息年を全き心で信じ切ることは難しい。これは一年間の全面休耕で、無収入はもちろん家畜ない家では八年目以降に飢え死にする危険をさえ顧みずに行う必要があった。

イスラエルでは信仰を要する安息年は行われなくなってゆき、神の奇跡に属する六年目の倍の豊作の記録も聖書に記載が見当たらず、負の相乗効果もあって律法はますます守られなくなっていったのであろう。

本来、安息年は土地に対する休耕だけでなく、人に対しても安息をもたらすものであった。特に、イスラエル人でありながら困窮した為に、同朋に借財をしていた場合、安息年はその人への取り立ては免れ、また別に奴隷身分から七年の経過後は解放するべき時ともされるべきであった。

更に、安息年を七回重ねた次の「ヨベル」の年には、たとえ一度困苦の為に奴隷身分に落ちていたイスラエル人であっても、50年に一度の機会が巡って、家代々の財産を相続した状態に返還され、やり直すことができたのである。
これは弱者救済の優れた神の社会制度であり、この律法条項が機能しているならばイスラエルは貧富の差も少なく、住みよい状態にあったろうが、この時代のこの国民は、こうした神の弱者への憐れみを投げ捨てた。

そして神は、この安息についてユダ王国を糾弾していた。
エジプトから救い出された民でありながら法令に従わず安息の年が休まれなかったそれらの時代、また、同朋を違法に奴隷として酷使し続けたその期間について、その咎を責め、民の全体を異邦人の奴隷とすると神は宣告する。(エレミヤ34:14)

さらにエレミヤの預言では、当時には週毎の安息日さえ汚されていたことが再三糾弾されているのである。
こうして、イスラエルの律法不履行の罪科は重なり加わってゆき、遂に神は彼らをアッシリアとバビロニアの捕囚として渡したのであった。

こうして、七年に一度、土地を耕作せずに安息させることもなく多年を過ごしたので、神は民を捕囚とする一方で、約束の地には安息をまとめて七十年をもたらされた。(歴代第二36:21)

そこで、エレミヤの七十年がユダとエルサレムの安息を満たすものであったなら、ダニエルに示された七十週は、その安息年に関わった全期間に相当する。即ち糾弾された全期間を象徴する年数である。
 
したがい、七十は七倍されることになり、四百九十となり、それにエレミヤの七十年がハ シュミタに敷衍されるとこの数字は年を表すので、七十の安息年に関わる『七十週』、即ち、四百九十年となり、それは単なる七十週間に当たる四百九十日を意味しない。

キュロス大王の勅令による第二神殿の建立を以ってエレミヤの七十年が正確に成し遂げられた様は別の記事に書いたのだが、このダニエルに示された『七十週』は、エレミヤのものを規模でも内容でも上回っており、これは旧約と新約とを分かたずにひとつの理解を要し、オリエント文明期から我々の将来までの人類史上に亘る大構造を描き出すものである。その広大な期間に於いて神は何を成し遂げられるのだろうか。

しかも、これは起点と終点の年代を細かに特定する必要が「七十年」ほどには無く、新約の記述だけで目的とするところの内的な証拠が揃うのである。

では、この『七十週』の目的に注目してみよう。
エレミヤの七十年の終了によって、地上には再び聖所と至聖所が存在する事となり、それは帰還したイスラエルの民に律法による祭祀を滞りなく行わせることを可能としたのであった。神YHWHの祭祀の復興は前515年のニサンを以って成し遂げられ、それは前586年のソロモン神殿の破壊から71年後のことであったとされる。
 
そして、このダニエルの七十の週でも、将来メシア後に於いて『至聖所に油を灌ぐ』と述べているのである。
では、あの第二神殿以外に何か油注がれるべき別の『神殿』があるのだろうか?

ここで神殿の再建までに要した「七十年」と、更なる別の神殿の建立に関わる「七十週」との異なりが見て取れるではないか。 

実に、「エレミヤの七十年」が地上のシオン山上に至聖所をもたらしたのに対して、「ダニエルの七十週」は天界の至聖所に油を注ぐというのである。
この二つの預言は、地上とその対型となる天界のふたつの祭祀を可能ならしめるものなのである。

この観点から見るなら、「エレミヤの七十年」が「ユダヤ人のバビロンからの解放を画する時期」を表していたとすることはできず、それはまことに近視眼的な蒙昧でしかない。⇒ 「エレミヤの七十年の終点から起点を探る」



◆天界の至聖所

ある人々は、エゼキエルの幻に示された神殿が「第三神殿」であるかのように考えるかもしれない。
エゼキエルの神殿が何であるのかは、終末まで分からないが、それは律法体制によって運営されるような構造を持っていること、また、外周の壁を含めると巨大であるためにモリヤ山にもシオン山にも載らないことがよく知られている。

実際にゼルバベルによって再建された第二神殿は、ソロモンによる最初のものを知っている年寄りたちが涙するほどに規模が小さかったという。またハガイもそれを『無に等しい』とまで言っているのであるから、前572年にエゼキエルに示された神殿は、その啓示の下った56年後の前516年に再建された神殿を指してはいなかったというべきである。(エゼキエル40:1)

だが、それでもハガイは『この家の後の栄光は、先のものの栄光よりも勝るものとなる』というのである。(ハガイ2:9)
この言葉はメシアの近付く時代に、ヘロデ大王による改築によって成し遂げられたかというと、その考えを阻むのが更に勝ったエゼキエルの巨大神殿の幻となるのである。つまり、基礎工事から行い谷を埋め立て、巨大な岩石を積み上げた土留め壁を設けて丘を広げ、無数のアーチを設けて岩盤から50メートルの高さに境内を倍ほどに広げたというヘロデの大工事をもってしても、エゼキエルに示されたものにはなお及ばないのである。

そのうえ、エゼキエルの神殿の成し遂げる成果のひとつを表すであろう『水の流れ』は、水量を増して死海に流れ込み、そこを生ける海に変えているのであるから、これは律法制度によっては成し遂げられることの無かった、死にゆく人々への救済の意図が込められている。(ゼカリヤ書では、さらに大海にまで注ぎ込まれる)

そこで、イスラエルの神がエゼキエルに示した幻の神殿は、律法制度の祭祀的構造を持ちながらも、同時に律法祭祀の神殿よりも壮大な何かを教えるものということはできるであろう。

したがって、ハガイが言う第二神殿の勝った栄光とは、壮麗なヘロデ神殿のことをさえ預言していたわけではないと捉えるべきことになろう。エゼキエルの巨大神殿の幻がその捉え方を阻止するのである。
では、ソロモンの建立したものに勝る「神殿」とは何を指しているのであろうか?

そこで、キリスト教徒であれば、キリストを隅石となし、その上に『聖なる者ら』が『石』となって組み上げられ建てられるという『神殿』に思いを致すことができる。

使徒ペテロはこの神殿についてこう述べる。
『主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
あなたがたも、この主の御許に来てそれぞれが生ける石となり、霊の家に築き上げられて、イエス・キリストにより聖なる祭司となって、神の悦ばれる霊の犠牲を捧げよ。』(ペテロ第二2:4-5)

パウロはこう記している。
『あなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅の頭石である。
 このキリストによって建物全体は組み合わされ、主の聖なる家に成長し、そしてあなたがたも共に建てられて、霊を介して神の住まう処となるのである。』(エフェソス2:20-)

即ち、聖霊によって『新しい契約』に預かる者となった『聖なる者ら』は、キリスト・イエスを基礎の石とし、さらに使徒らや聖霊によるエクレシア内の預言者らの上に組み上げられる石となるというのであり、キリストが天にその犠牲を携え入れた以上、神殿の全体が天で造り上げることになると言うべきである。(ヘブライ9:11.24)

ダニエルに知らされたこの語『聖の聖なる』(ハコーデシュ ハコダーシム)は、「至聖所」とも「極めて聖なる者」とも、つまり場所とも人とも解釈できるとのことであるが、人が『生ける石となって・・(神の)家として築かれてゆく』という新約聖書の伝える概念からすれば、どちらであっても然して不都合にならない。(ペテロ第一2:4-6)

そしてダニエルに示された『七十週』は、そこに『油を注ぐ』、即ち、その新たな崇拝の場が機能を始める目的を持つことを教えている。

そのためには、神殿が築かれなくてはならず、当然、それを構成する石が存在し、且つ揃っている必要があるが、この『生ける石』となるのが誰であるかについては使徒ペテロは『それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ』る彼らを『あなたがた』と呼んだうえで、その書簡の受取人について次の様に明言しているのである。(ペテロ第一2:4-5)

『父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ』(ペテロ第一1:2)

これは、聖霊を受け選ばれた者たち、即ち『聖徒ら』に違いなく、パウロが血統上のイスラエル民族と対比して『神のイスラエル』と述べた人々であり、もちろん今日の「クリスチャン」方を意味しない。

また、この神殿があのペンテコステを以って建立されたと見ることにも無理がある。
もちろん、その段階では聖徒は集め始められたばかりで数が足りないだけでなく、石は試みを経てはいないのであり、まして『神の王国』という全人類救済の神殿祭祀の開始はまるで将来のことである。  

したがって、ダニエルに示された『七十週』は、キリストと共なる聖なる者らとが天に於いて『神の家』即ち神殿を築き上げ、それがいよいよ油注ぎを受けて機能を始めるという、聖書全巻を貫通する壮大な神の意図の実現を描き出していると云えるのである。それは第二神殿の建立をもたらしたエレミヤの七十年を踏襲しつつ、天界の神殿の建立という、より遠大な御旨の成就を目指すものといえる。




◆『咎を止めさせ・・永遠の義をもたらし』

さて、神殿の生ける石となる『聖なる者ら』については、使徒パウロがローマ人に宛てた手紙の第八章で強調するように、『聖なる者』となることは『神の子』となり、聖なる神に対して『アッバ』(父よ!)と親密に話しかけることが許される。
 
なぜならば、彼らはキリストを仲立ちに『新しい契約』に預かったので、キリストの犠牲の早い適用を受け、アダム由来の『罪』を許された状態に入ったからである。

そのため、エレミヤは彼らが神と新たな契約を結ぶときに、彼らが神YHWHを知るようになり、その咎について神は『思い出さない』と言われる。(エレミヤ31:34)

パウロはこう記している。
『今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。』(8:1-2)

そして、彼らに注がれた聖霊とその賜物が彼らが『罪』から放免されたことの証しであることをパウロは重ねて述べており『この聖霊は、わたしたちが神の国を継ぐことの保証であって、やがて神につける者が全く贖われ、神の栄光を褒め称えるに至るためである。』とエフェソス人の手紙にも書いている。

しかもこうも言うのである。『わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストに在って予め定められ、神の民として選ばれたのである。』(1:13.11)

そこで、天界の神殿の石となる人々が『聖である』ということは、大祭司キリストの犠牲の早い適用を受け、これら『聖なる者ら』は『祭司』として民に先立って贖罪される必要があったのであり、それは律法の『贖罪の日』の儀式に予表されていたばかりか、『初穂』と呼ばれることにおいても示されていたのである。(ヤコブ1:18)

『聖なる者ら』は人類からの最初に罪を赦された者として『初穂』であり、それゆえにも聖なる神を『父』と憚り無く呼ぶことができたのである。

もちろん、全人類もキリストの全面的な犠牲の適用を受けて神を父とする日が将来に訪れることになるが、それは大祭司キリストとこれら下位の祭司団となる人々の全体が機能して初めて可能となるのであり、その全世界の贖罪を成し遂げるのが『神の王国』なのである。それこそが天界の神殿の存在意義である。

したがって、『聖なる者ら』の受ける『義』はキリストの犠牲に基づくゆえに完全と成り得るものである。
そして、彼らは『神のイスラエル』であるから、血統上のイスラエルが律法に対して犯した諸々に罪と呪いから解かれたので、彼らは『救われた』のである。

それであるから、ナザレのイエスをメシアとして受け入れる信仰を示して水のバプテスマを受けた彼らは、次いで聖霊のバプテスマを施され、こうして『水と霊から』『神の子』として『新たに生まれた』状態に入り、アブラハムの子孫、エデンで語られた『女の裔』として史上初めて存在するようになったのである。

ここでダニエルに示された『咎を止めさせ・・永遠の義をもたらし』とは、メシアへの信仰によって律法契約に対する不履行の呪いを解かれ、神を父とするほどの『義』を得た『聖なる者ら』を描写するに相応しい言葉であることを、新約聖書はよくよく証しを立てていると言える。

だが、彼らはその時点で完全に『罪』から浄められていたのではない。もし、そうなら彼らは死なずに天に挙げられる日まで今日も生き続けていたであろう。律法の呪いから解かれたとはいえ、やはり、彼らも肉体にアダムの血を罪を持って、死に至る必要があることには他の人々と変わらない。(ローマ7:21)

先のエフェソス人への書簡の中に在ったように『やがて神につける者が全く贖われ、神の栄光を褒め称えるに至る』時が後から到来するのであり、彼らの『義』は、『新しい契約』による仮のものであり、彼らが真実の義を拝受するのは、死を経て契約を全うした後のことである。 そうして彼らは主の御許に集められるのであるから、確かに『キリストへの死のバプテスマ』を受ける必要が彼らにはある。 (ヘブライ3:6/ローマ6:3-4)

従って、『咎を止めさせ・・永遠の義をもたらし』とは、真実のイスラエルである『聖なる者ら』の受ける最終的な清い状態を指しており、これは彼らの試みが終了して天界に揃うときに完成されると言える。それが、同じ文脈でダニエルに告げられたように『聖の聖なるところに油注がれる』という最終段階を意味するのである。

最終的には、『聖なる者ら』の試みが『小さな角』また『腕』によって終了するときに、その咎は聖徒攻撃を使嗾するバビロンに移されることになることをゼカリヤ書が示唆している。(ダニエル7:25・8:24/ゼカリヤ5:6-11)

それは『大いなるバビロン』が『聖なる者らの血に酔いしれた』ことの酬いであり、終末に在って、聖徒を地上から殲滅させることを使嗾した咎により、『聖なる者ら』は『選択人の灰汁によるかのように白くされ』、一方で、迫害を唆した旧来の宗教界には、重罪が臨む。(黙示17:6/マラキ3:1-4)




◆メシアの到来の時期への啓示

それにしても、メシアの到来がこの『七十週』の目的の最重要な部分である。
まずメシアが地上に到来しなければ、天界の神殿の石である『聖なる者ら』が集まらず、揃わず、イスラエルから咎を終わらせたり、永遠の義をもたらしたりすることのいずれもが不可能となる。

ガブリエルは次のように言葉を続け、メシアの到来についてダニエルにこう語る。

『これを知って、理解せよ。
エルサレムを修復し建てよ、との勅令が下ってからメシアなる王子まで七週、六十二週がある。
困難な時期の内に、街路と城壁とが再建される。』

『七十週』全体の成し遂げる意義が示されて後、その要となるメシアの到来の時期が示される。
その起点となるのが、『エルサレムを修復し、建てよ、との勅令』であるという。

この勅令に関する証言者となるのがネヘミヤである。その名には慰め(ナハムー)が込められており、エルサレムの回復に関して彼の働きには、その名の通りにシオンにヤハの慰めを与えるものであったということができよう。(イザヤ40:1)

ネヘミヤはスーサでペルシア王アルタクセルクセスⅠ世に極めて信頼され、直近で献酌侍従として仕えていた。その役割は単に王の飲物の毒見をして差し出すばかりでなく、王の会話の相手であり、王の信任だけでなく寵愛も受ける立場である。

彼は「アルタクセルクセスの第二十年」と呼ばれる年にエルサレムを再建させるために自分を遣わすように願い出て、その勅令を受けたと記している。(ネヘミヤ2:1-8)

ダニエルに示された『七十週』の起点はここに当たると見てよいであろう。そうして聖書を眺めると、アブラハム契約から律法契約へ、そしてメシアによる『新しい契約』へと神の経綸の流れを追って展開されてゆくのが俯瞰できる。そうしてエデンで語られた『女の裔』に関わる預言の全体像がいよいよ成就に向かってその姿を現してくるのである。

ガブリエルの伝えるところでは、七週と六十二週とが分けられているのだが、はじめの七週、つまり49年で『困難な時期の内に、街路と城壁とが再建される。』との言葉が成就したという説明を見ることもあるが、ネヘミヤはユダ総督として初めに12年勤めてから一旦帰国しているが、その以前にエルサレムの城壁は補修を完了しているので、その『七週』を分けた理由ははっきりとはしていない。

だが、メシアの到来までが合計で69週、即ち483年の期間になることは分かるので、アルタクセルクセス王の第二十年から483年後にメシアの到来を見ると予告されたことに変わりはないのであろう。

そこで考古学の指す年代は前445年とされるのだが、ネヘミヤの述べる『アルタクセルクセス王の第二十年』というのは、その父王クセルクセスのように、その先代との共同統治期間を含めるのか否かにいまだはっきりとしないらしい。

だが、その69週の終点については新約聖書が証言してこう記している。
『 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティウス・ピラトゥスがユダヤ総督、ヘロデ(アンティパスⅠ)がガリラヤの四分封領主、その兄弟フィリッポスがイツリアとテラコニト地方の四分封領主、リュサニアスがアビレネの四分封領主であり、アンナスとカヤファとが(交代で)大祭司のときに、神の言葉が荒野のゼカリヤの子ヨハネに臨んだ』(ルカ3:1-2)

ここで語られるローマ皇帝ティベリウスの治世の第十五年とは、先代皇帝アウグストゥスが崩御し、ティベリウスが帝位に就いた西暦十四年秋から、数えて15年目の西暦二十八年秋から翌二十九年の秋までを指すのであれば、メシアであるエシュア(イエス)が生まれたのがユダヤ暦ティシュリの月*であることからすると、三十歳を迎えたメシアが、レヴィ族に属するゼカリヤの子エホハナン(ヨハネ)から水のバプテスマを受け、聖霊によって油注ぎを受け、より偉大な神殿の大祭司となるべく任命されたのはバプテストの活動の開始の半年後の時期であったろう。*(ゼカリヤの属するアビヤの祭司組の第8奉仕順からそのように言われている)

神の御傍に侍する天使ガブリエルは、福音書内でバプテストとメシアの双方の誕生を告知するためにゼカリヤとマリアのそれぞれ遣わされてもいるが、その『七十週』の成就のきっかけに関わる「時」に、この天使の深い関わりを感じさせる。

このダニエルの『七十週』の起点と終点が何時になるかという件については、エレミヤの『七十年』のように年代が主要な要素にはならないであろう。
なぜなら、この『七十週』には、メシアの到来が正確に何時かということよりもよほど重要な事柄があり、それがメシアの到来時期よりもその働きの方だからである。

聖書を探る人々にとって、この『七十週』の時については、『アルタクセルクセス王の第二十年』がオリエント学によってそれが何時かをより明確にされるのを待つ必要があるように思われる。というのも、前445年を起点にする場合、その終点は後39年となり、ルカの証言や史料の整合性の明かすところから十年ずれるのである。

しかし、アルタクセルクセス王の治世の始まりが当時の慣例に倣い、先代のクセルクセス王との共同統治も含むのであれば、そのずれの解消される余地は残っていることにはなる。

ではあるが、たとえそうであっても、メシアの現れの時期が何時かよりも重要なその働きの意義については、新約聖書を通じて知り得るところである。

もし、年代の正確性にばかりに拘っていれば、より重要な事柄を前にしても、それには関心は無いと言っていることにもなり兼ねない。そこでガブリエルもメシアの成し遂げる内容について語るのだが、ここに於いてこの『七十週』の重さはエレミヤの『七十年』を遥かに超えるものがある。




◆メシアの締結する契約

さて、ガブリエルの言葉はメシアの到来後の事柄に進むが、それはメシアの役割を含む重要な内容である。
この天使はこのように言葉を続ける。
 
『その六十二週の後でメシアは断たれる。しかし、それは彼自身のためではない。』

この後半の『彼自身のためではない』との本文[ לֹ֑ו וְהָעִ֨יר]については『彼自身には何もない』とも訳される。
つまり、メシアが断たれるときに、「彼は何ら得るべきものを持たない」のか、或いは「彼自身の理由で断たれたのではない」という意味かほどに違いが出るが、このヘブライ語がどちらともとれるので、ここを判断するのは訳者の持つ解釈に左右される。

だが、新約聖書を探ると、キリストは財産こそ得なかったが、『父』から地上で与えられたものを得ているのである。
それについてはキリスト自身がこう言われる、『わたしの父がわたしに下さったものは、すべてのものより偉大であり、誰も父の手から奪うことはできない。』(ヨハネ10:29)
キリストが得たものとは、この文脈が『わたしの羊』であることを明かしている。(10:27)

イエスはこれらの羊について別のところではこう言われる。
『おおよそ女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な人物は起らなかった。しかし、天の王国においては、その最も小さい者であっても彼よりは偉大だ』。(マタイ11:11)

ここでメシアは、その公生涯の間に付き従い、あのペンテコステにおいて油注ぎを受けた追随者のことを語っている。即ち、御父の業に信仰を持った人々、『聖なる者ら』を得たと言える。確かに、天でキリストと共になる『聖なる者ら』は全地を治め、人類の贖罪を為すのであるから、どんな人間にも勝る存在となると言える。
したがって、ガブリエルの言葉の当該の部分をどう捉えるかは、この理解を背景とするか否かで変わってくるであろう。
 
即ち、メシアに全地を治める大王の威光も無かったという意味で、その最期の姿の痛ましさを読むこともできるのかも知れないが、ここで、メシアがこれ以上ない偉大なものを得ていたとするなら、『断たれる』のも『彼自身のためではない』つまり、選ばれた弟子らの贖いのためという意味に読むことができるであろう。即ち、彼に罪はない。
そして、この読み方が、以下に見るようにガブリエルの語ったもうひとつの言葉と深く関連を持つことになる。

それが契約を扱うメシアという概念であり、ガブリエルはこう語っている。
 
『彼は一週の間、大いなる者たちとの契約を実効あるものとして結び(保持し)、その週の半ばで犠牲と供え物とを廃させる。』(ダニエル9:27)

この句の中にも意味をどう捉えるかによって違いの出る部分がある。
それが上記の『大いなる者たち』という言葉[לָרַבִּ֖ים]であるが、これは『多くの者ら』ともとれる。
だがこの点で、上記のように他ならぬキリストが、自らの追随者らを地上の何者にも勝って『偉大』と語られたことを念頭に置くなら、『契約』を『大いなる者ら』と結びつけて読むことに妥当性が生じることになる。

メシアは69週の後に現れ、その後に断たれるにしても、偉大な資産を得ていた。つまり、『偉大な者ら』と契約を結ぶことができたのであり、それこそはエレミヤの語っていた『新しい契約』であったと云うことができる。即ち、文字の律法を超えた霊の民である。(エレミヤ31:33/コリント第二3:6)

この契約は、キリストが『去ってゆくことで到来する』という『約束の聖霊』が実際に降ることを通し、あのペンテコステの日には発効し始めたことが後に示された。

それはそのシャブオートの祭りの日に、小麦の初物で酵母を入れて作られたふたつのパンの捧げ物に象徴された、アダムの罪という『酵母』を残しながらも、それを『新しい契約』により、キリストの犠牲の最初の適用によって仮に赦された状態に入った『聖なる者』、そのユダヤ人と諸国民のそれぞれの出自の人々を表していたであろう。(エフェソス2:15) あるいは、キリストに対してその『兄弟ら』となる人々が複数であることを指しているのかも知れない。(ヘブライ2:11)

そしてガブリエルの言葉では、メシアがこの契約を「大いなる者たちと契約を(保持・管理し)結ぶ」ための期間を『一週の間』としている。即ち、69週の後にメシアが現れ、彼は最後の「第七十週目」という最終の七年間に、その契約を偉大な者らと結ぶということになる。

メシアは初臨においても、まさしく旧約最後のマラキが預言したように、『契約の使者』となったと言えるのであるがそれだけではない。(マラキ3:1)




◆メシア後のユダヤの荒廃

更にガブリエルは、メシア後に起こることも含めてこのように告げていた。
 
『そのうちに、来るべき君主の民が街と聖所を破壊する。その終わりは洪水のように臨む。最後まで戦争が続き荒廃が定め置かれている。』

これは、他ならぬメシア自身が公生涯の間に重ねて預言していることであり、それはメシアを退けたユダヤ体制の行いへの明らかな酬いであった。
 
『もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら………しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神の査察の時を知らないでいたためである』(ルカ19:42-44)

『こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラクヤの子ゼカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう』(マタイ23:35)

そして実際、この成就をキリストを処刑させて退けたその世代の過ぎ去る前に、40年も経ずしてユダヤは迎えることとなった。ティトゥス率いるローマとその同盟軍六万のユダヤ攻略を受け、西暦七十年にエルサレム神殿も跡形なく破壊されるに至る。ガリラヤからユダヤまで諸都市が攻略されて無数の命が失われたが、そのような圧倒的な軍事的侵略を聖書は何度か『洪水』と形容している。

例えれば、イザヤは分立していた北のイスラエル王国がアッシリアの大軍に攻められて滅亡してしまう予告の中で『洪水』と形容し、その押し流す力の膨大さを表現しているが、メシア後のエルサレムの攻囲ではその破壊の徹底は『石の上に石を残さない』ほどのもので、倒壊を免れた建築物は意図的に残された三つの塔だけであったとヨセフスは言う。

それはあたかも文明までが押し流されて、故地から行方不明になってしまったかのような完膚無き滅びが描写されている。猛烈な飢餓と疫病が蔓延し、多数の捕虜は奴隷やガレー船、剣闘士や鉱山掘りの需要に当てられた。

その後も、ユダヤの愛国心の高まりを迎えることがあり、特にシモン・ベン・コスィバが自らメシアと称し、それをラビ・アキバが承認してメシアを意味する「バル・コホバ」(星の子)の名を与えたものであるから、勢いに乗ったユダヤ教徒はこのバル・コホバを頭目に担ぎ出し、ハドリアヌス帝期に更なる反抗を重ねて、ついにユダヤ人のエルサレム方面への入域さえ許されない事態となってゆく。

もちろん、ラビの認定したバル・コホバも偽メシアに過ぎなかったのであり、ユダヤは自ら更なる苦境を招き、いよいよ四散して本国を持たない流浪の民となっていったのであった。

そこでメシア後にも、『最後まで戦争が続き荒廃が定め置かれている』と天使ガブリエルの告げたように確かに事態は推移したと言える。
 
父ウェスパシアヌスから軍を委ねられたティトゥスは、当初からエルサレムも神殿も存続させるつもりであったものを、ユダヤの野盗らと熱心党が徒党を組んで聖所を拠点にローマに抗い、死ぬまで抵抗しようとして遂に神殿も街をも完膚無きまでの破壊される事態を招いてしまった。そのうえ後のバル・コホバの乱を経て、遂にユダヤという体制が『約束の地から吐き出され』、その文化までもが根こそぎ洗い流されてしまったかの観がある。(レヴィ18:25)

実際、ユダヤは流浪の民となって以来二千年を経てなお、エレミヤの七十年が意味するような『回復』は遂げられてはいない。

そこでは、待ちわびたはずのメシアを見分けず、神の聖霊の業を否定し、神の子を退けて極悪人の処刑法で除き去った不信仰なアブラハムの血統上の子孫に、もはや神の恩寵は無かったというべきであろう。




◆終わっていない第七十番目の週

しかし、ダニエルに語られた言葉はなお成就を待っている部分が残されている。
それが、ガブリエルの言葉の核心とも言えるメシアの働きについて述べる部分である。

メシアが現れて後、大いなる者らと契約を堅く結んだというところで、並んで述べられていることがある。

『彼は一週の間、大いなる者たちとの契約を大いなる者たちと契約を結び(保持・管理し)、その週の半ばで犠牲と供え物とを廃させる。』(ダニエル9:27)

この『その週の半ばで犠牲と供え物とを廃させる』とは、メシアが三年半の公生涯の終りに際して、それまでのモーセで求められた動物の犠牲に勝る自らの血による完全な犠牲を捧げたことで、律法祭祀の意義が終わったことを言い表しているとみてよいであろう。
それが第七十週目の三年半の後、つまりメシアの公生涯の終りであり、その『週の半ば』であったことにもなる。

そこでメシアは地上を去り、契約を結ぶ人々の範囲はディアスポラのユダヤ人、サマリア人、そして諸国民へとメシアの死後も拡げられてゆく。
しかし、それらの人々への契約の拡大は、主の業を委ねられた初代の弟子らによるものであったから、メシアが去って行ったことに変わりはない。

では、メシアが現れて後の第七十週という最後の七年は、メシアが去って後も継続し、イエスの刑死の後の三年半後に『七十週』の全体も終わりを迎えたと言えるのだろうか。

思い返せば、エレミヤの七十年が新たな聖所がもたらされるまでの空白期間であったように、ガブリエルも『聖の聖なる処に油を灌ぐ』期間についての預言であることを明言している。
そうであれば、ダニエルの七十週の終りには、新たな神殿が建立されるべき理由があるではないか。 

この点で、新約聖書が『七十週』の全体の目的であるところの至聖所の再建と準備の完了というような事も、『永遠の義をもたらし、幻と預言を確定』するような事態の発生も、キリスト帰天の三年半後にあったとは言い難い。

使徒ペテロが最晩年でも述べていたように、聖なる者らが天でキリストと共に神の家を構成するという定めの時には当時も至っていなかったのである。

パウロは象徴的な意味において、確かに地上に居る状態での聖なる者が『神の神殿である』とは言っている。だが、それは聖霊を宿す者としての自分たちの身体について述べているのであって、天界でキリストと共になることにおいて『神殿となる』ことを言うのではない。(コリント第一3:16-17)

それであるから、地上での身の上に汚れを招かないように勧告しているのである。(コリント第一6:19-20/コリント第二6:16-7:1)

むしろ、パウロは聖なる者が肉体を離れることを通してキリストと共になることを述べている。(フィリピ1:23)
また、聖なる者らは最後まで忠実を保って『神の家』となるとも書いている。(ヘブライ3:6)

それであるから、聖なる者らが神殿を構成し、天界にキリストを礎石として神殿が建てられるのはなお将来のことであることが分かり、『聖の聖なる処に油が注がれる』という輝かしい事柄の成し遂げられるについては、キリストの死後三年半を経過したところに何かを見出すことは出来ないであろう。

依然として聖なる者、真のイスラエルを集める業は始まったばかりであり、当時の複数の資料が知らせるように、聖徒らは第二世紀中葉まで聖霊の賜物を有して地上に存在し続けていたのである。

そこでこの『七十週』の最後の第七十週目の残りの一半に当たる三年半を、一続きの時間と見做すことから離れて見ると、それを知らせる部分を新約聖書中に見出すことになる。
即ち、ヨハネ黙示録の中の『42ヶ月』または『1260日』であり、これは一か月を陰暦30日として三年半に相当するのである。

そして、共観福音書は揃って、終末に於いて聖霊の言葉を語ることになる人々を為政者らとの対比、またこの世への宣明者として描いているのである。
もちろん、聖霊によって語る彼らは『聖なる者』であるに違いなく、キリストもそれが自らの臨在の期間に起こることを予告しているのである。(マタイ10:17-20/マルコ13:9-11/ルカ21:12-15)

そうなると第二世紀に一度は途絶えた『聖なる者』が、再び終末の主の臨在に於いて現れなくてはならない。しかも、彼らが『新しい契約』に預かる必要があることは明白ではないか。

そこで、ガブリエルの言葉のその部分をもう一度見ると『彼は一週の間、大いなる者たちと契約を結び(保持・管理し)、その週の半ばで犠牲と供え物とを廃させる。』となっている。
 また、メシアは地上の公生涯の終りに聖徒らと契約を締結し、それによってモーセによる律法の犠牲の意義を終わらせた。『新しい契約』が発効した以上、律法契約は終わらねばならない。そして、『聖なる者ら』とは新たな神殿を構成する『生ける石』でもある。

もし、『聖なる者ら』の残りが終末にも存在するのであれば、『大いなる者たちとの契約を堅く締結』する『一週の間』の一半は、終末にも存在しなければならないことになるではないか。そしてキリストが終末にパルーシアを為すのであれば、当然、それまでの期間はアプーシアであることになる。

更に、第七十週が二分割される理由のひとつには、終末が裁きの時であることが考えられる。
それゆえ、キリストと使徒らの最後の会話の中で、今このときにイスラエルを再興されるかと問われた主は『神が自らの管理される時について知ることは、あなたがたの預かるところではない』と切り捨てていることも関連しているのであろう。

即ち、終末こそが世界の裁きの時となるゆえに、それがいつであるのかは秘され、人々はそれぞれの性向のままに検分されるのであろう。それは『聖徒』であっても変わらない。そうであれば、神の時を探ることは何と虚しいことになろうか。ダニエルに知らされたこの『七十週』が一続きの時間でないとすれば、年代計算もまったく無意味である。

なぜなら、裁く事と警告を与える事とは正反対だからである。
この点ではキリストが現れた当時も、ユダヤ体制が『査察されている時を弁えなかった』とされていたことが類推される。終末も同様にならないものか。
また、七十週は全体が確かに490年ではあっても、天の至聖所を準備するというその役割を果たすのは『神の王国』の設立の時期と不可分の関係にあるに違いないのである。 

したがって、メシアは定まっていない将来にいつかに臨御するとされることは、地上への初臨となった公生涯に劣らないほどの、いや、それ以上の意義ある臨在(パルーシア)を意味することになろう。パウロは、肉を超える姿で再度来られるキリストを述べている。(ヘブライ9:28)

即ち、終末のキリストの臨在とは、単に人類世界に注意を向けるということに留まらず、ガブリエルの言葉の通りに『一週の間、大いなる者たちとの契約を堅く締結』するということに於いて、まさしく人類社会との重要な接点を再び持つことになり、それこそが残りの三年半『臨在』することの意義となる。

第七十週の二分割は、まさしく時の不明性のために他ならず、裁きを受ける人類の側からは、それがいつ始まるのかを知ることはまったく隠されるという恐るべき秘儀であろう。
 
その最後の半週は、『大いなる者たちとの契約を締結』することに於いて最終段階であり、神殿の石が集められ吟味され、揃えられる段階でもあり、天界にそのすべてが集められ神殿が建立される直前の時期ともなろう。

これらの過程を通して『聖の聖なる処に油を灌ぐものとなる』との言葉を解することに何か不都合があるだろうか?
黙示録では、第七のラッパの吹奏のときに、『神の奥義は終了する』という。

つまり、エデンで示された『女の裔』の全体像がそこに現れ、全人類の祝福に関わるアブラハムの子孫、聖なる国民、王なる祭司の国民、神のイスラエルの完成を見る事になり、そこで様々に隠されて来た奥義も終了することで『幻と預言を確定し』王国に関わる神の意図が成就を見ることになるのであろう。

第七十週の後半だけが未到来であるという、この解釈の場合、メシアの再臨に重い意味が加わることになる。
そこでは、使徒らがイエスに『あなたの臨在に際して、また世の終りについて』の印に何があるかを尋ねたことにも関連を有することになる。
その時は、メシアの『雲と共に来る』即ち、不可視の臨在と共に、『新しい契約』も関係することになり、『契約を堅く締結する』ことは、終末に残された三年半にも続行されることを意味することになり得るのである。

メシアの二度目の現れが何時かについては、ダニエルに示されたようには具体的に教えられず、使徒らも『父の権限に関わる時については、あなたがたの預かるところではない』と言われているので、残りの半週が何時到来するのかについては、使徒らでさえ秘儀になっていた。もちろん、我々が知れるわけもない。 

さて、エレミヤ七十年の七倍の規模をもつダニエルの七十週であるが、こうして最後の一週の半ばを終末に存在するものと理解することによって、その意義は今日の我々、そして将来へと関わるものとなり、それは旧約時代ばかりか、メシアの直弟子らの時代をも超えて、我々の未来にまで続く巨大な構造を神の経綸が持つことを知らせるのであり、その先にあるものは更なる啓示であるヨハネ黙示録の中に描き出されているのである。 

 エレミヤの『七十年』が導き出した神殿でのモーセの崇拝の回復という「ナハムー」に対して、ダニエルの『七十週』がもたらす「ナハムー」は七倍も偉大であるというべきであろうか。それこそは契約の再開によって「キリスト教の回復」が生じるという以外に何と言うべきか。
 



◆聖なる者からの脱落者の末路

『それから、荒廃させる者が憎むべきものの翼に現れる。そして遂に定まった終わりがその荒廃に横たわる者の上にも注ぎ出されることになる』
 
このガブリエルの最後の言葉が指し示すものは、先のユダヤのメシア拒絶の後果としてユダヤの体制が『洪水』によって押し流されたような、天界の神殿の建立において出てくることになる芥のようなものである。

即ち、西暦七十年で旧体制の地上神殿の破壊を呼び込んだならず者らと熱心党の野合のような存在が終末にも現れるのであろう。
『聖なる者』のすべてが『新しい契約』を全うするというわけではなく、契約という以上、履行が期待されるが不確定なものである。それが証拠に使徒のペテロもパウロもヨハネも、信仰を確固として保ち、聖なる者に相応しい清い行状の内に、迫害に面して忠節を尽くすことを力説するのである。(ペテロ第二3:11/テモテ第一6:11/ヨハネ第一3:23)

この点では、メシア自身が重い教訓として、こう言われていたのである。
『狭い戸口からはいるように努めなさい。実際、入ろうとしても、入れない者が多いのだ』(ルカ13:24)

それゆえ、契約からの脱落者が無いとは言えないのである。
むしろ、メシアの語った例えの多くは、集められていながら、除外されることの危険を教えるものとなっており、そのような例えには、引き網、相応しくない衣装で婚宴に出た者、ミナとタラント、などがある。

終末に聖なる者の全体が天のメシアの許に集められ『神の王国』が完成するときに、その裁きは明らかになることを教えるのが、終末預言の中の『ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される』という訓話と言える。
『残される』とは、『聖霊』を受け、天への召しに預かるはずであった『聖なる者』にとって最悪の事態であり、魂の破滅の絶望を意味するのである。

しかし、どうやら、この「脱落聖徒」はそこで破れかぶれの行動に出るようだ。
ここからは、ヨハネ黙示録や新約聖書の領域に入るので、簡略に書き出すなら。

脱落聖徒らは、地上に残された自分たちは依然として神から任じられた者であると主張し続けるが、それを喜び助長する霊的存在者がいる。
それこそはサタンであり、彼らが失った霊の賜物が依然として彼らに有るかのように不思議を行わせる。
彼らは、世界を惑わし、聖徒に信仰を持った人々を一斉に攻撃させようと『ハルマゲドン』の戦いに駆り立てる。

彼らの中の特に尊大な者は、自らを神と称し、神の座に就く。これは究極の偶像であり『憎むべきもの』と言えよう。
だが、その神殿は偽りの座であり、彼らは世界を神との対立に引き込んでしまうことで、『荒廃させる者』となる。

それは、メシアの死後、エルサレムに起こった事柄の再現であり、熱心党とならず者らの集団が、勝ち目も無いのを知りながら不信仰なユダヤの体制に徹底的な破滅を招いた事態を、世界の規模で繰り返すことになるのであろう。

その『翼の先端』とは*、彼らの急速に進むべき末路を表しているように読め、更に『そして遂に定まった終わりがその荒廃に横たわる者の上にも注ぎ出されることになる』とのガブリエルの言葉も、不信仰な世界を籠絡する「脱落聖徒」諸共の滅びと消滅を語ると解釈することが妥当であるなら、終末というものは、何と壮絶なものとなることであろう。*(或いは、契約の箱の宥めの覆いの上のケルヴィムの翼を含意しているのかも知れない)

だが、神は『火の城壁となってシオンを守る』と言われるのである。(ゼカリヤ2:5)
『シオン』とは、神殿を頂く山を含意し、聖徒らによる聖霊の声に信仰を働かせるであろう、人類一半の人々のことになる。(イザヤ2:2-)




◆『七十週』の意義と目的

こうして全体を眺めると
ダニエルには、この期間が満ちるときに成し遂げられる事柄が何であるかが知らされている。

ここでは、この七十週の始まりと終わりが何時の年代であるかを探る意味は然してない。
69週の終わりをルカが福音書に記し、それが西暦29年であることを知らせているのだが、今日の我々にとってこの七十週の預言について重要な意義は、期間が何時始まり、何時終わるかと云うところにはない。

69週が終わったときにメシアが現れ、三年半後に自らのためでなく他者の罪を負って絶たれたのである。
それからはメシアと退けたユダヤは戦乱の時代を迎え、洪水の如く押し寄せたローマ帝国の軍団が約束の地を蹂躙していることを歴史は明らかにしているのである。

そこで、確かに預言が成就したことを確認できるが、それだけの事であれば、神の預言は信頼がおけると云う事だけが教訓となる。

だが、この七十週において今日の我々に重い意味を持つのは、その最後の七年、即ち「第七十週目」に起こることであり、それはこの七十週の全体が成し遂げる目的なのである。しかも、その第七十週目は未だ終了してはいないといえる理由がこのようにある。

というのも、この七十週を通して『咎を終わらせ、定めない時に至る義を携え、聖の聖なる処に油注ぐ』という事態はメシア後から今に至るまで完全な意味では起こったとは言えないからである。

そこにはガブリエルによって伝えられたこの『70週』が確かに成し遂げる目的があり、それは最終的に天界の神殿の建立に至ることにおいて、エレミヤの七十年を予型、また前表としつつも、より大規模な天界の成就という見事な対型を成しているであろう。

それが意味するところは、天界の至聖所の油注ぎにより、遂に全人類を贖罪する準備が整うことにある。即ち、『聖なる国民、王なる祭司の民』が集められ、いよいよ『神の王国』となって具現するのである。
そのとき、イスラエルの長きに亘る罪科のすべても全く洗い流され、神の選民として、清らかな姿を現すことになるのであろう。それこそが、アブラハムに約された偉大な経綸の実現を荷う裔の到来である。

以上の観点から聖書を見直すと、捕囚に処された民が神への祭祀を復興するというネイヴィームから始まって、エズラやネヘミヤに至る旧約聖書の後半を占める大事業について、神は壮大な対型的企図を有していたことが分かり、それに約束のメシアの到来を記す新約聖書が意義深く関わっている。

それに加えて、ガブリエルの告げるところは、ユダとエルサレムの終りと、この世の終りとを関連付けており、その示すところはヨハネ黙示録に受け継がれるべき内容を含んでいるのであって、それが即ち、この世の終局の有様である。

やはり、ダニエルの七十週には聖書の新旧を貫く巨大な構造が示されており、それは永遠に生ける神YHWHの悠久の足取りを人類史の中に俯瞰させるものと言えるのである。

そして我々の目は、いよいよ大詰めを迎えるヨハネ黙示録へと向かう。
そこには天使ガブリエルをも超える偉大な仲介者からの啓示が存在しているのである。 







  ©2016 林 義平



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マタイ福音書のキリストの終末預言と例え

マタイ福音書が記す終末預言と例え
1万6千字超


この世が終わるという、その緊張感ある警告の言葉の数々は、あと三日で公生涯を終えるイエスが、別れの迫った使徒らと過越しの祭りの近付くエルサレムを歩きつつ、ヘロデ神殿の石組みの壮麗さに使徒らが感嘆して師に声をかけた場面から始まっている。
イスラエルの聖なる神YHWHの第二神殿はヘロデ大王によって拡張されており、基礎の上に多くのアーチと壮大な土留め壁を用いて岩盤から50mの高さに整地された境内と新たな回廊と聖所は、規模においても内容においてもローマ世界に名所となっていた。46年以上の工期をかけたというこの偉大な建造物はユダヤ人にとっての誇りであり、皇帝も代理者を通して犠牲を捧げつつ、異邦人として隔ての壁を越えることなくその崇拝を尊重していたので、ユダヤ人側も帝国においてユダヤ教が保護されていることに一定の謝意をもっていた。

しかし、イエスはその殉教の死が三日後に迫る中、実はその死に関係して、壮麗な神殿建築の『石が石の上に残らない』という完膚なきまでの破壊を使徒らに予告したのだが、それは彼らユダヤ人にとっては信じ難く、またそのアイデンティティに関わる重大な危機を感じさせるものであったに違いない。

キリストの使徒とされていた、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネというガリラヤの漁師たちがイエスに近寄って『どうぞお話しください。いつ、そのようなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか』と四人だけで尋ねる。

ユダヤの危機と自身がエルサレムから旅立つことについてのイエスの発言が以前からなされていたことを共観福音書はそれぞれに記している。そうでなければ、師に向かって『あなたがまたおいでになる時』とは言わなかったであろう。
 
しかし、マタイによれば、この度イエスはエルサレムからの『脱出』を前に、神殿の東側のオリーヴ山上で長い講話をしていたことになる。その講話の場面はマタイ24章から始まり25章全体を経て26章の初めにまで至っている。しかもそこには『その時』に関わる幾多の情報と七つの例えを含んで、山上の垂訓の三分の二ほどの分量に達しているのである。

その内容を列挙すると以下のようになる。
24:4〜偽キリストの予告 
24:6〜戦争と苦難の時節の到来
24:9〜弟子らの苦難と審問と宣明
24:15〜ユダヤとエルサレムからの逃避すべき時 
24:23〜偽キリストへの警告
24:29〜雲に乗って来る 
24:32〜イチジクの例え
24:36〜ノアの日の例え
24:40〜二人のうちの一人が選ばれる例え
24:43〜忠実で賢い奴隷 の例え
25:1〜十人の乙女 の例え
25:14〜タラント の例え
25:31〜羊と山羊 の例え
そして26章の2節を以ってこの場面が終わることが分かる。

こうして概観すると、神殿の倒壊する時について質問を受け、その答えは単にエルサレムと神殿の滅びの時代の様相を予告するだけに留まらなかったが、殊に強調されているのが、「あなたがた」とされる使徒また弟子らに起こる事柄と教訓なのである。残された弟子たちに、これらの言葉が強い印象を残すものとなったことは、共観福音書が揃って記録しているところに表れているように読める。

それゆえ、終末が臨むであろう後のその時代に生きる人々が、このマタイの終末預言を考慮するためには、所々の断片的理解を持つだけで果たしてその益を受けられるものだろうか。
もちろん、この預言が語られた当時の使徒らが、ここに述べられたすべてを理解してエルサレムの終わりの時期に起こることの全容を把握したということにはならないだろうし、これらの言葉を聴いた四人のうちのヤコブとペテロは西暦七十年を迎える以前に殉教を遂げている。*

それでも晩年のペテロは『神の家から裁きの始まる定めの時』が来ていることを指摘し、『それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない(ユダヤの)人々の終わりは、どんなであろうか。』とも述べた。ペテロがここで言う『終わり(テロス)』は、彼がこれを記述した時には未だ到来していなかったことは明らかで、それは西暦七十年に福音に従わなかったユダヤ人の上にはっきりと成就したであろう。

また、ペテロは同じ第一の手紙の中で聖霊を受けた者らが『それぞれ生ける石となって、霊の家(神殿)に築き上げられ』ることを記している。つまりペテロの言う『わたしたち』という『神の家』を構成する『生ける石』が、吟味され裁かれることを述べているのである。⇒「神の家から始まる裁き」

即ち、それは実際の石でできた地上の神殿に代る天界の神殿であり、エルサレム神殿の喪失と続くユダヤとエルサレムの荒廃を前にしたその時期には、聖霊を注がれた天の神殿の「石」が試されていたことを伝えるものとなっている。
天界の神殿を構成する程の者たちでさえ吟味されるのであれば、キリストをさえ退けたユダヤの人々の結末は如何に恐ろしいことになるのであろう。西暦七十年、その酬いは彼らと神殿祭祀に対し『その世代』の内に遅滞なく襲い掛かった。
 
ペテロもイエスから直接に終末預言を聴いたひとりであれば、殊にその預言にキリストの伴となる『聖なる者ら』への警告が含まれていたことを意識していたであろうし、その手紙にもその背景が見て取れる。(ペテロ第一3:6)

地上の神殿が去って後も、天界の神殿がすぐに建立されたわけでもなく、それは我々のなお将来のことであるが、キリストを親石として、天の神殿を構成する石のひとつひとつとなる『聖なる者』は、その石としての質を問われていたのであり、終末の『聖なる者』も同じように確固たる神殿を構成出来るほどの確かな石であるか否かが測定され、また試されることであろう。

そして、ユダヤとエルサレムの荒廃を歴史から観察できる後代の我々には、この預言の成就からの観点が加わるのであるから、時代の下流から物事を観るという、より良い視座が確保されているのである。 



◆偽キリストの予告と戦争と苦難の時代の到来

さて、使徒らの質問に答えて、イエスはまず第一に『多くの者がわたしの名を騙って現れ、自分がキリストだと言っては多くを惑わすであろう。』と教え始められた。それは小さな問題とはならないようで、イエスはこの件を終末預言の随所で繰り返している。
 
しかし、この偽キリストが大勢現れる事態はこれまでの歴史からすると少々大袈裟な印象を受ける。
確かにこの手の「メシア」は何人か現れては尽く撃退されていた。目立つものと言えば、神殿喪失後の第二次ユダヤ戦役にバルコクバが現れラビ・アキバのメシア承認と助勢もあって、結果としてユダヤは却って徹底的に荒廃することになったことがある。当時のユダヤ人らには、救国のメシアが立ち上り、マカベア戦争後のハスモン朝のようなユダヤ教国家の復興が起るものと期待されたに違いない。だが、西暦二世紀までの自称メシアらは、皆が尽く退けられ、王国が到来するどころか、却ってユダヤ人の境遇を悪くするばかりで、やがてはエルサレムに近づくことさえ禁じられ、自称メシアの登場が重なる毎に、ユダヤは祖国の地を追われて亡民とされていったのである。

確かに、この件についてはマタイ24章で再度現れる『見よ、ここにとか、そこにとか言われてもついて行ってはならない』との句がそのままに当てはまるかのようには見える。しかし、頑迷なユダヤ教徒らにしてみれば、イエスの弟子らの言うことなぞ耳を傾ける価値もないし、その意味どころか言葉さえ思いにとめもしなかったであろう。しかし、それらの本旨は、終末に臨在するイエスにだけ起こることではないのである。

やはり、ユダヤ体制の終焉に至る当時には、バプテストやナザレ人イエスの到来と共に変革の抗し難い潮流が臨みつつあった。
西暦前50年代から続いたローマの二世紀に亘る支配の下で、国民と国民の衝突するような大きな戦争をパレスチナは免れて来たが、神殿とエルサレムに危機が迫る西暦60年代に入ると、ユダヤ反乱の環境が醸造され、特にマサダ要塞攻撃後の西暦66年以降はユダヤ体制の終焉を知らせる『戦争とその知らせ』が聞かれるようになってゆく。

しかし、その時期に偽キリストの異常な程の脅威が押し寄せるようには歴史の資料は読めない。やはり、これはキリストの終末預言に通して言える事であると思えるが、この件もユダヤ体制の終わりの時代だけに当てはまらず、幾分の余地を残しているかのようである。

その「余地」とは、更なる「終末」、即ち「この世の終わり」の時期に起こる出来事なのであろう。確かにキリストが『雲に乗って来る』、またそれを見る『地のすべての民族は嘆く』ことなど、未だ起こったわけもない。いや、「余地」というよりは、これらの言葉の全体が、終末に焦点を合わせているという以外ない。それは真に脅威となる偽メシアを指し示しており、それは終末に現れる『背教』と関連することを、後に使徒パウロが示唆している通りであろう。(テサロニケ第二2:3-4)

だが、二度の戦役を含むユダヤ体制の終焉の時代に目を戻して、この預言に語られた戦争と苦難の時代の到来は、やはり当時の世代にも顕著に成就している。
『戦争と戦争の噂』は西暦66年のユダヤ反乱以来パレスチナを覆って、最後にはエルサレムはローマとその同盟軍の六万の軍勢に囲まれ、遂に滅ぼされるに至った。それはバビロニアのときの破壊をも超えるまさに滅尽ともいうべき徹底的な破壊を被らせることになったので、ユダヤ人にとっては『起ったことのない大患難』と形容されるほどの苦難の日の到来となったであろう。

では、将来の世の「終末」に於いても「戦争」が時の印となるのであろうか。
確かに『シオン』と語られる象徴のエルサレムに危難が及ぶことは旧約の預言者たちが語るところであり、ダニエルも終わりの日に二大勢力の押し合いのあることを知らせており、加えて、世が終局を迎える際には、世界的勢力が『シオン』を囲むそのときにそれらの軍勢が同士討ちを起こすことも預言者らによって繰り返し語られているところである。
これらを総合すると、確かに終末の一時期は相当に不穏な情勢となることが示唆されている。⇒「黙示録の四騎士」「二度救われるシオンという女」

さてイエス後のかつてのユダヤでは、その後もメシア自称者バルコクバの処刑後の苛烈なユダヤ人への処置に及ぶことになる。以後、ユダヤ人はエルサレムの在った土地に入ることも許されなかった。そればかりか『約束の地』から『吐き出され』、遂に流浪の民となったうえ、ユダヤ教徒であるだけで余分の税も取り立てられるようにもなった。(レヴィ20:22)

この偽メシアによる似た惨禍が、おそらくはこの世の終末に再びもたらされるのであろう。 




◆ユダヤとエルサレムからの逃避すべき時

しかし、偽メシアの惨禍はメシア=キリストを信仰を懐いて受入れたユダヤの弟子らが受けるべきものではけっしてなかったことをイエスはその終末預言でも明らかにしている。
 
つまりルカが『エルサレムが野営する軍隊に攻囲されるのを見たなら滅びが近付いたことを悟れ・・ユダヤに居る者は山に逃れよ』と書いた部分である。ユダヤ人の文化と律法体制の中心であり、民族のアイデンティティの象徴、また誇りであるエルサレムと神殿に見切りをつけてそこを後にせよと、なんとメシアがモーセを守るユダヤ人に警告なさったのである。(ルカ21:20-)

そのときに至るや、聖なる神殿には不吉な兆候が現れることが預言される。 
即ち、マルコとマタイでは『荒らす憎むべきもの(ト ブデログマ テース エレーモーセオース)が聖なる所に立っているのを見るなら・・ユダヤに居る者は山に逃れよ』としているのである。

それまで律法の崇拝の場所、イエス派の「義人」ヤコブも日毎に祈りを捧げていたユダヤの良心を代表するような聖なる所もいつの間にやら変質し、もはやそこは神の棲まう家ではなくなってしまい、破滅を招く嫌悪すべきものの立つところと変じてしまうというのである。
それはユダヤ=イスラエルという血統と共に在った神との絆が、信仰による新たなイスラエル、つまり『神のイスラエル』 へと聖霊によって移される大きな節目を刻むことにもなるのである。

そこでルカの記述のままに、マルコ・マタイが同じものを指していると見ると、『荒らす憎むべきもの』とはエルサレムを囲む軍隊であることにはなる。そこから『荒らす憎むべきもの』のダニエル書の言葉から偶像に相当するものを当てはめようとしてローマ軍旗(ラバルム)を『荒らす憎むべきもの』と特定する向きもあるが、ダニエル書では『荒らす憎むべきもの』の『その翼の先端には滅びがある』(直訳)とあり、またこれとは別に『ひとりの指導者を持つ民がその城市と聖なる場所を滅びに至らせる』(9:26-27)とあるので、聖書としては、この軍または旗を必ずしも『荒らす憎むべきもの』と同定することを強いてはいない。

加えて、もし 『荒らす憎むべきもの』がローマ軍旗であるなら、それが神殿の中庭に掲げられたときにはエルサレムは既に陥落した後で、その時になってから脱出せよと命じる意味もない。まして、ヨセフスの伝えるような歴史の実際では、戦闘で焼け落ちてしまった神殿にティトスはもはや未練も残さず破壊を命じたとされるが、それならば誇らしくラバルムがその焼け落ち破壊された後の神殿跡地に掲げられることには、ローマの征服の完了を表す以外に何の意味もなかったと見るべきであろう。それを見てからどんな行動がとれたものだろうか。(ユダヤ戦記Ⅵ1:1)

しかし、さらにユダヤ戦記を繙いてゆくと、エルサレムの滅亡を呼び込んだローマ軍以外の者らを見出すことになる。(戦記Ⅴ1:1・3)
それが熱心党やギスカラのヨハネなどの野盗集団であり、彼らは確かに聖所を汚したと言うべきである。それは、ローマ軍の到着の以前からのことであった。大祭司を先頭に市民らはこのならず者らを追い出そうと戦ったが敗れてしまい、却って正規の大祭司が除き去られ、寄進物を我が物とされたうえ、聖なる処は血で汚され、エルサレムは彼らの圧制と強奪にむせ返った情況が伝えられている。(戦記Ⅴ1:5/Ⅵ2:3)

ローマ軍の攻囲が始まると、ならず者らは抵抗して聖所を拠点としてしまう。神殿を残そうと努めたティトゥスの再三の投降勧告をこの悪党らは勝ち目もないのに尽くはねのけたために、この輩らが遂に神殿の炎上を呼び込んだのであり、同じ民族の中から現れたこの最悪のユダヤ人らこそが、神殿と聖都の飢餓と滅びに最も重い責を負ってはいないだろうか。
物資の欠乏から常供の犠牲も絶えたのも、彼らが聖所を占拠している間のことであり、これにはローマ軍は直接に関わっていない。遂に常供の犠牲が取り去られた日にエルサレムには街中に落胆が覆ったことをヨセフスは記している。(戦記Ⅵ2:1/Ⅴ13:6)⇒不法の人の現れる時

エルサレムへの印としては、この者らで構成される軍隊も西暦70年春のローマ軍の到着前からエルサレムに対して野営を張って囲むことがあったが、66年のローマ軍の最初の攻撃以後にこのならず者集団の攻囲を見たイエス派の人々は、イエスの終末預言の警告をそれ以前に起こったイドマヤ軍の攻囲に加えて思い起こす機会を得ていたであろう。即ち、66年以後70年までエルサレムは何度も攻囲を経験するのである。
そこでイエス派の人々は、当時のデカポリスに属したヘレニズム色の強い北東部のペッラ市に逃れたことがエウセビオスが教会史に記したように知られているところである。

そして西暦70年の過越し以降はエルサレム脱出はいよいよ困難となり、殊にルカ福音書に予告されたように、ローマ軍がエルサレムの周囲に柵を巡らしてからは生きて出られる保障はまずなくなっていた。
それゆえイエスがエルサレムが囲まれる事態を見たなら急いで山に逃れるようにとの警告は、まさしくイエスをメシアとして受入れたユダヤ人の生死を分けるものとなったというべきであろう。

『その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。』とは、後のエルサレム攻囲の様子を伝えるヨセフスの記録からすれば、不法集団の殺戮と非常な飢餓が臨んだエルサレムの状況からしてまったく真実であったというほかない。新しい命を祝福で迎えることのできない母親たちの苦悩や嘆きは想像するに余りある。

また、パレスチナの冬は氷雨が降り続き、移動は困難であるからイエスは『あなたがたの逃避するのが冬季にならぬよう』また、律法とその附則により移動する距離に制限が課せられた『安息日にならぬよう祈れ』とあるが、これは急いで逃げ出す必要と、その訓戒を受けている人々がユダヤ人の弟子らであることを思い起こさせるものである。⇒「キリストの語った終末預言」

西暦66年のローマによる最初の攻囲は、秋の仮庵の祭りの時期であったから、確かにユダヤから逃れるには急がないと冬の雨に追いつかれる恐れがあった。だが、軍隊や武装集団による攻囲をエルサレムはその後三年半の間に何度か経験することになり、それが醸し出す無秩序な不気味さは、聖都の終わりを予感させ『山へ』逃れるようイエス派の人々をその都度促すことになっていったであろう。

加えて、モーセの体制の終焉の時が、その当時の世代に内に到来することをイエスは使徒たちに告げている。
それは使徒らの『そのようなことはいつ起こるのでしょうか』という時を尋ねる不安の篭った質問に対する答えでもある。

それが『これらの事柄のすべてが起こるまで、この世代は終わらない』というキリストの言葉である。
それらの予告が、キリストのこの予告から四十年を経ない西暦70年、ローマ軍によるエルサレムと神殿の徹底的な破壊を以って現実のものとなったとき、遣わされたメシアを信じずイエスを処刑させた『曲がった世代』はまさにその裁きの災禍を被ることになった。(使徒2:40)

これら終末預言を聴いた使徒らにとって、ユダヤの終わりを描く主の驚くべき言葉の数々が、彼らの生涯の内に生じるものであることを覚悟させるものとなったに違いない。しかも、そこにはユダヤという永く続いたモーセ以来の体制が終わることだけを意味するものではなく、彼ら弟子らに降りかかる厄介な事態をも含んでいたのである。



◆弟子らの苦難と審問

さて、イエスは続けてこの苦しみも始まりに過ぎず、弟子らが受ける憎しみと迫害があることについて告げてゆく。
『そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うであろう。』(マタイ 24:9-10 )

やはりイエスが使徒らに注意を向けたその時期は危急の事態をもたらすものである。
ユダヤの愛国主義が沸騰していた66年以後には、ローマに処刑されたナザレのイエスをメシアであると主張することも困難に面したに違いない。却ってユダヤ独自の貨幣が鋳造され、ローマの反撃に備えて武器も量産され、軍事教練が若者に施される中、イエス派にとってユダヤは居心地もよいはずもなかったであろう。その愛国心の高まりは、イエス派をユダヤ教から排除する促進剤として作用したと、歴史書も指摘する通りである。
 
だが、これは世界の終末に於いても弟子らがこの世から受ける迫害があることを示しているに違いない。
そして、その圧力の高まりの渦中にあって仲間内でも分裂が起こることを知らせてはいないだろうか。

それは迫害の中での思想対立と密告の危険であり、これはこの終末預言ばかりでなく共観福音書が揃って語るところである。次のようなフレーズは新約聖書に幾らか親しんだ人には知られたものである。

『地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのである。
 わたしが来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである。そして家の者が、その人の敵となるであろう。』(マタイ10:34-36)
  
こうした内容はキリスト教らしからぬ敵意の応酬を感じさせるのだが、だからと云ってこれをキリストは語らなかったとするには同じ内容の場所が散見されて無理がある。
しかし、これは常に世からの迫害とセットで語られており、弟子らを巡る状況が厳しさを増す中で、その圧力から『裏切り』が出ることを含んでいると見做すのが自然であろう。

だが、このような事態が使徒時代の終わりころにどのように臨んだかは新約聖書の空白期に相当するために確かな事は詳らかではない。
使徒のペテロやパウロが失われた67年頃から使徒ヨハネの著作群が現れる90年代の終わり頃までに書かれたであろう聖書に残る書簡はユダの手紙だけのようである。
その手紙もペテロやパウロの晩年の文書のように迫害と裏切りを思わせる緊迫感があり、およそ20年ほどのこの空白の時代が容易ならぬものであったことを窺わせる。殊に自らを神とするドミティアヌスの81年以降の15年間の治世中は、さぞや苦しみの多い時期であったことであろう。⇒ 「神の家から始まる裁き」

しかし、これは当時にしても将来のこの世の終末の時代にしてものことであろうが、そのような迫害が弟子たちの活動によって惹起されるものであることも共観福音書の共通項でもある。
マタイはこのキリストの終末預言の部分では記していないのだが、マルコとルカに記された終末預言では、彼らの次のような活動があることを知らせているのである。

例えればマルコはキリストの終末預言の中で次の内容を記している。
『 あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引き出され、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対して証言をさせられるであろう。

 こうして、福音はまずあらゆる民に宣べ伝えられねばならない。
そして、人々があなたがたを連れて行って引き渡すとき、何を言おうかと前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて聖霊なのである。』(マルコ13:9-11)

これは終末における弟子らの主要な証しの業となるであろうことは旧約預言にもあちこちで示唆されている。
例を挙げればハガイがそうである。
『わたしはしばらくして、もう一度天と地を、海と陸地を揺り動かす。
諸国の民を激震させて諸国のすべての民の望ましいものをもたらし、この家(神殿)を栄光で満たす、と万軍のYHWHは言われる。』(ハガイ 2:6-7 )

ヘブライ人への書簡は、このハガイの句について、『語る方を拒むことのないように』また『地上で神の警告を伝えた者を拒絶した者らが逃れられなかった』ことについて適用している。(ヘブライ12:25-29) 

では、神がどのようにして諸国民を尽く激震させるのだろうか。その結果として諸国民からの望ましいものが神殿に入ってくるというのであれば、それは金銀財宝なのであろうか。
ハガイで『金も銀もわたしのものである』という神は実際の金銀を求めているのだろうか?それは実際の神殿の飾りにはなるであろうけれども、天の神殿についてはそうは思えない。
 
むしろ、イザヤの預言の言葉の成就は、神殿に入ってくるその貴重なものについて示唆しているであろう。
『終りの日に次のことが起る。YHWHの家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてゆき、多くの民は来て言う、「さあ、われわれはYHWHの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、YHWHの言葉はエルサレムから出るからである。』(イザヤ 2:2-3 )

このような世界の人々に大きな変化をもたらすものは何であろうか。
それが単なるキリスト教各宗派による宣教運動によって成し遂げられるのだろうか。

諸国民が激震されるふるい分けとされるからには、やはり人間を超える力と知恵の表明なくしては起こらないのではないだろうか。即ち、神ご自身による世界宣教であり、用いられるのは聖霊を受ける弟子らであろう。
しかも、それが激震であるからには、非常なショックを伴うものであるに違いない。

すべての人に受け入れやすい音信などで収まるものではなく、そこかしこで激しい論争や葛藤が起き、為政者らはその立場を失うまいとし、人々は信じる者と信じない体制派に分かれこの世を二分する焦眉の問題となり得るものではないか。その圧力から『裏切り』や『憎み合う』事態が発生しても不思議はない。

それはイエスの奇跡を見たユダヤ人の間に生じた分離でもあった。
終末においてマタイが、『王国の福音はあらゆる国民への証しとして、人が住むあらゆる処で語られる』と記すのであれば、聖霊による人々の篩い分けが世界に広げられるとみてよいのであろう。

ハガイの預言した激震について言及しつつパウロはこう語っている。
『あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。』(ヘブライ12:25)

イザヤはこの件と深い関わりを示すかのように、メシアについてこうも預言している。
『彼も多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられていなかったことを見ることになり、まだ聞かなかったことを知ることになるからだ。』(イザヤ52:15)

こうした、この世とメシアとの対立の構図をイエス自身はこう語っている。
『その者(霊)が来れば、世に対し、罪について、義について、また、裁きについてその誤りを糾弾することになる。
 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。』(ヨハネ16:8-11)

即ち、聖霊を受ける者らが、その言葉によって為政者らに語り、神の国の到来を告げるとき、それは徒ならぬ事態を招き、地を揺るがすことになることは、新旧の聖書の告げるところなのである。

勿論それは、既存のキリスト教徒による伝道で成し遂げられるところではなく、人の能力を凌駕する、聖霊を介した神による世界宣教と云うべきものであって、鋭い世との対立により、鮮烈な音信の伝播となるに違いない。



◆繰り返される偽キリストへの警告

使徒らの質問に答え始めるに当たって、既に偽キリストの件から話されているので、こうして偽キリストの現れが二度目に、しかもここで更に詳しく語られるからには、これは相当に重要な問題であるに違いない。
それは『聖なる者たちをさえ惑わそうとする』策謀であり、その言葉からは一般人を含めて広範に影響を及ぼすことが示唆されている。しかし、人の子の臨在は稲妻のような天界の事象であって、地上の何処かに起こるものではないことをイエスは付け加えているのである。 だが、聖霊を注がれる聖なる者たちさえもが惑わされ兼ねない偽キリストとはいったいどんな実体なのであろうか。

偽キリストと共に『偽預言者』は『大きな印や不思議を行う』とあり、聖霊を注がれる『聖なる者』のように振る舞うところが非常に厄介なところとなるのであろう。
『偽預言者』についてはヨハネ黙示録も述べており、その印や不思議の力の出所を示唆している。
『龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった。』(黙示録16:12-13)
 
この「蛙のような」(ホース バトラコイ)という表現に思い当たるものと言えば、出エジプトの際にモーセがファラオに示して行った奇跡の二番目であり、エジプトに無数の蛙が充満したことである。だが、エジプトの祭司らにも蛙を出すことは出来ないことでは無かったのである。もちろんそれはモーセの神による奇跡を行っていたわけではなく、別の源、即ち悪霊らに由来する奇跡の霊力であったに違いない。それゆえ黙示録も言うようにそれは『汚れた霊』のしるしであり、聖なるものではない。

だが、それは出エジプトの当時の神の奇跡に似て対抗するものであったなら、終末の時期においても人を惑わすものとなり、あるいは聖なる者であっても、似た奇跡に仲間を見てしまうこともあるかも知れない。だが、それは偽物であり偽りであるからその奇跡を見ても信じることがあってはならない。(列王第一13章)
 
終末のこの時点で既に『大いなるバビロン』も去っているからといって、宗教の誤謬がなくなる訳では無く、より強力な宗教上の偽り、究極的で最後のサタン崇拝が起こされるように黙示録は読める。 ⇒「大いなるバビロンの滅び」
大いなる『背教』が起こって『不法の人』が顕在するのが『大いなるバビロン』の滅びの時期になるということは、使徒ヨハネの教えを継承するエイレナイオスのような初期教父も示すところであり、これは何も現代の新しい解釈というわけでもない。

大いなる『背教』とは即ち、全聖徒の召集と王国の実現を妨げようとするサタンの側の最後にして猛烈な反対運動ということであろう。
 即ち、パウロはテサロニケへの手紙で『聖なる者ら』が集められる終わりの日について書いており、そこでは更に『背教』との関連が説かれている。

『だれがどんな事をしても、それに騙されてはならない。まず背教が起り、不法の者、つまり滅びの子が現れるにちがいない。
 彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神殿に座して、自分は神だと宣言する。』(テサロニケ第一4:3-4)

また、パウロはこうも言うのである。
『 (不法の者)が在るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議とまた、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。』(テサロニケ第一4:9-10)

そのときには、誰が終末における『荒らす憎むべきもの』であるかは明らかになるのであろう。その者こそは、この世の全体の滅びを招き入れることになるのではないだろうか。この終わりの日の『不法』(アノミア)についてはマタイ24章の中でも『偽預言者』(プソユドプロフェテス)の影響としてこう語られる。
『また多くの偽預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの者の愛が冷える。』(24:11-12)

そこでマタイが記した『はびこる不法のゆえに愛が冷える』とは一般社会で犯罪が増えて人心が荒廃するという意味ではない。
この『不法』とは聖なる者たちから現れる背教に関わるものであって、それは聖徒への最も苛烈な反対を惹き起こす邪悪な不法であり、人々を互いに敵対させるものであるから、人間関係に異状な緊張感をもたらすことをマタイは次のように示唆している。

『人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
・・・
  そして家の者が、その人の敵となるであろう。
  わたしよりも父または母を愛する者は、わたしに相応しくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしに相応しくない。
  また自分の磔の杭をとってわたしに従って来ない者はわたしに相応しくない。
  自分の魂を得ようとする者はそれを失い、わたしのために自分の魂を失う者は、それを得るであろう。』(10:32-39)

このような『多くの者の愛が冷える』状況を生じさせるものは、終末の「脱落聖徒」、即ち、聖なる者らの親しい仲間の中からの異分子の現れであろう。家族の中からも反対者が生じ、それは告発の圧力の前で神を否む行いを誘うと云っている。
 
ならばパウロがテサロニケへの手紙で、終わりの日に起こると語る『背教』がこの迫害という『剣を投じる』と呼ばれる状況を惹き起こす引き金となるであろう。即ち『互いに裏切り、憎み合う』という彼らを巡る状況の変化であり、単に世相を表すことをここでわざわざ言うだろうか。

この情況で『終わりまで耐え忍ぶ』ことが求められているが、これは聖なる者らの練り浄め精錬され『救われる者』となる過程であることが福音書に繰り返されているように、この圧力は聖なる者を二分することになる。

聖なる者らから分かれ出る背教の傾向はパウロの当時にも、『不法の秘密の力が既に働いている。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである』とあるように現れつつあったという。
しかし、『あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。』その「阻止しているもの」とは当時彼らに注がれていた聖霊であり、それを受けていた聖徒たちが『阻止している者』であったことであろう。だが、本当に終末には背教が起こり聖なる者らから分離が起こるのであろうか。⇒「小麦と雑草の例え 不法の人の現れる時」

この点は、キリストの終末預言が語られるところの、使徒らを通して聖なる者らへの警告が続いてゆく中で更に明らかになってゆくのである。



◆タラントの例え

聖霊を受ける『聖なる者ら』の中から分離が生じることを示す例えが、マタイ福音書のキリストの終末預言の中でタラントの例えとして際立っている。
マタイ福音書では10章にも、彼らが試練となる状況に置かれることが克明に描かれていたが、そのような圧力下にあっては召された聖徒と雖も、主を否認する誘惑に曝されることはまず考えられることである。

1タラントを受けた奴隷は、その委ねられた財産を銀行に預けることさえせずに、地中に埋めたというのである。これは何らの努力もおろか、自分では何もせずに済むことさえしていない。
そこでこの奴隷は主人を『手厳しい』と非難までする。つまり『撒いていない所から刈り、散らしていない所から集める酷な方』と言うのであった。

聖なる者らが聖霊を注がれて為政者やこの世に立ち向かう事、また終末に直面することになる迫害を考え合わせると、この怠惰な奴隷の動機が見えてくる。
つまり、自らの聖霊の働きを封じてしまい、恰も『地中に隠して』この世からの圧力の矢面に立つことを避けようとしたのであろう。このマタイの例えの中で、 まさしく彼が『恐怖』に捕われたゆえにタラントを隠したことを主人に自白しているのである。

つまり、この世に対して恐れてしまい、敢然と裁きを告げる聖霊を働かせるどころか、却って、終末というイエス自身が撒かず散らさなかった場所で刈り集めることに『酷な方』と不満を言うのである。主人のタラントを殖やすとは、聖霊の賜物を運用して得る様々な益、聖霊を注がれる仲間を得ることも、為政者らと対峙して王国の王の威光を知らしめること、また、勇気をふるってこの世を断罪することも含まれていよう。(ヨハネ16:8-11)
 
そこで、聖なる者らに求められる事柄には命にかかわるほどの覚悟であり『 自分の魂を得ようとする者はそれを失い、わたしのために自分の魂を失う者は、それを得る』ことになるのであろう。(マタイ10)
これ求める主人について、1タラントを受けた僕は『酷な方』 と言っている。

終末において、迫害を恐れて竦み上がり、世から隠れてしまい、聖霊の声を人々に聞かせることを怠る者が現れることは十分に予期すべきことではないか。確かにパウロは聖霊の賜物がその人の制御できるものであって、霊が暴走するような単なる憑依状態に陥るものではないことを記して『神は無秩序ではない』ともいう。(コリント第一14章)

だが、タラントを『地中に埋め』てしまい、神の発言を封じるようでは、キリストと共に王として治める者となるには到底相応しくはない。しかも、それぞれの奴隷の能力に応じて賜物は与えられたのであり、その点で主人が過大な要求をしていないことも表されている。
 
その結果、この奴隷からは聖霊は取り上げられてしまい、他のタラントを増やした奴隷たちが、それぞれの働きに応じて支配地域を得る中で、この奴隷は外の闇に投げ出され泣き叫び歯噛みする。
即ち、神の王国と何の関係もない滅びゆく者のひとりとされるのであろう。⇒「キリストの不在 ミナの例え」

したがって、マタイが記したこの一連の終末預言に在って、このタラントの例えも含まれたのは、特に世との敵対の戦線に立つことになる終末に現れる聖なる者らへの警告があったということができる。



◆ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される

聖なる者の中からの分離が生じることについては、最終的な召しのときに地上で選別が起こることを、やはり主はマタイの終末預言の中で告げている。
それが『ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される』という言葉で二度語られている。(24:40-41)

これは『あなたがた』と話しかけられた四使徒を介して聖徒の全体への警告であり、人の子が『大いなるラッパの音と共に御使たちを遣わして、天の果てから果てに至るまで、四方からその選民を呼び集める。』その決定的な時のことである。(24:31)

これはパウロがテサロニケ第一の手紙でいうところの『生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいることになる』というその時のことである。

ここではやはりパウロもラッパの音について語り『主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響く中に、合図の声で、天から下ってこられる。その時』であり、聖なる者らが『新しい契約』を守り通し、遂に『神のイスラエル』に数えられる一員として承認されることになるのである。その総数はヨハネ黙示録からすれば十四万四千人なのであろう。

だが、聖霊を注がれる人数は更に多く、その中から選別が起こり脱落者が出ることをこうして終末預言は繰り返し警告するのである。⇒「アブラハムの裔を集めるキリストの業」

ルカ17章では同じようなイエスの言葉が採録されているのだが、そこでは『ひとりは連れて行かれ、ひとりは残される』のように聖徒らの中から落伍者が出ることについて弟子らが『どこで(そうなるの)ですか』とイエスに問うと『死体のある所には、またハゲワシが集まるものだ』との答えがあった。

マタイでは、このハゲワシは偽キリストの警告の後に、臨在が地上的なものにならない事と共に並置されている。
従って、ルカと比較することによってこのハゲワシの件に見えるものがある。
それはつまり、『ひとりは残される』原因に偽キリストが関わり、捨てられた者らの周りに肉をついばむようにそれが居るということであろう。

見える人間に従うことは、見えないイエスに信を置き聖霊を通して従うことより安易なことなのであろう。
これは人間の弱点であり、信仰の難しさなのであると思うが、聖徒に於けるその代償はあまりにも大きなものがある。

マタイの終末預言に戻れば、彼らは『その時を知らない』のであるから『だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主が来られるのか、あなたがたには分からないからである』ということが結論であり、共に天への召しを得損なうことがないようにとの警告がその主旨である。

この趣旨についてイエスは、夜盗を引き合いに出して更に踏み込んで強調してゆく。
家の主人がいつ盗人が来るかを知っているだろうか。もし知っているなら、その時間には起きていて盗みを許しはしないと言う。

この言葉は、彼らが一晩中起きていることを求めているのであり、やはり、どの時期にイエスが到来するか、つまり臨在また顕現を開始するかについて予測を立てることの無益さを教えるものとなっている。注意を払うべきは時ではなく、自分自身なのである。



◆十人の処女の例え

その一方で、既に死んでしまった古代の聖なる者らにも選別は当然ながら起こることになる。

彼らの場合には、死後にもう一度自らの主への忠節が試されることはない。
生前にその機会を得ていたであろうから、以前の聖なる者らにとって『新しい契約』を守るか否かは、その生涯をどう過ごしたかで既に定まっていよう。彼らには生きている間に『狭い門を通って入るよう努める』必要が課せられていた。

パウロが、『わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない』と言うのはこの聖徒の裁きについてであり、『 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来る』というイエスの言葉は、『義しい者も義しくない者も生き返る』という一般人の復活ではなく、これら死せる聖なる者らの裁きを言うとすれば非常に納得できるものとなる。(コリント第二5:10/使徒24:15/ヨハネ5:27)

つまり、古代の聖なる者らは、天に復活する段階でかつて地上で行ったことにより選別されるということであろう。その天では、彼らが終末には地に落とされるサタンの試みに遭うことはもはや無いのであれば当然のことである。
この件でパウロの生涯に於ける発言内容には注目されるべきものがある。

西暦五十年代半ばに書かれたとされているテサロニケへの書簡の中で、パウロは自分を『キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ』としていて、主の来臨のときにパウロ自らは『生き残っている』つもりであったのだ。(テサロニケ第一4:16-17)

だが、最晩年に至ってネロ帝による二度目の逮捕と審問の内に死を悟ると、『わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。』と言っている。(テモテ第二 4:6-8)

これは『第三の天に昇った』というパウロほどに聖霊の賜物に預かった聖なる者であってすら、主の来臨の時期を知らず、その時は予想外に延びたということになろう。

それであるから、聖なる者らはその生涯をどう送り、またどう終わるのか、ということが選びに関わることになる。
死を迎えるまでに『新しい契約』を守って忠節であれば、その復活は喜ばしいものとなり、そうでなければ無意味なものになってしまう。即ち『裁きの復活』となる。

聖なる者がその生涯をどう送るかについて重大な警告となっているのが、マタイ終末預言の中でも十人の処女の例えということができる。
眠りに就いてしまってからでは、油を補充しておくことはできないからである。 

十人は花婿が婚礼から帰宅するのを祝福の明りを灯して待つうちに、その時刻が予想外に遅くなって皆が眠りについてしまった。
しかし、そのうちの五人は予め油を用意しておき、遅い到着にも備えていたのだが、残りの五人はそうしてはいなかった。

相当に遅れて花婿が帰宅したときに、祝いの席に入れたのは予備の油を準備していた五人だけであった。
眠りから覚めた後では何を行おうにも、もはや間に合わないのである。 

これは、自分の思う時期のうちに主の臨在が起きないとしても辛抱強くその生き方で忠節を尽くした聖なる者らを表してはいないだろうか。
その場合、十人のすべてが眠りについてしまったが、その一半は祝福に入り、残りはそれを逸しているのは、主の来臨が自分たちの思うよりも遅くなり、その途中で忠節な歩みを離れてしまうことへの強い警告となっていると見ることができるのである。⇒「十人の乙女」「盛大な婚宴」の例え



◆羊と山羊の裁き

オリーヴ山でのイエスの終末預言の最後を締め括るのは、この「羊と山羊の裁き」である。
これは『人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう』時であり、そして『すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分ける』裁きとされている。(25:32)

この裁きに於いて重要な要素は『人の子の兄弟ら』であり、すべての諸国民はこの『わたしの兄弟たち』に親切を示すか否かで祝福か呪いかを受けることになるのである。

では、『わたしの兄弟たち』とは何者を指すのかといえば、これは新約聖書に明らかなことで、例えればパウロはこう書いている。
『神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さった』(ローマ8:29-30/ヘブライ2:10-17)

これはつまり、霊者である御子と共になる人々のことであり、『養子縁組の霊』を受け『神の子』の地位を得たアブラハムの裔、新しい契約によって『王なる祭司、聖なる国民』とされる人々のことである。(ペテロ第一2:9)

彼らがいずれは天に召され御子の様になることについては使徒ヨハネもこう言っている。
『愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』(ヨハネ第一3:2)

そこでこの「羊と山羊の裁き」を眺めると、これがこの世の裁きというそれまでの聖徒の選別を超える地球規模のものであることが見えてくる。
イエスの終末預言は、この最後の部分に至って人類をふたつに分ける業を告げているのである。

聖なる者らへの親切を示すということは、単にその知り合いであったというようなことにはなるまい。
終末では、聖なる者らには世との対立があり、敵意がある。その状況下でさえ聖なる者らに親切を示し、獄をさえ訪れて世話をしようとするからには、この対立に於いて聖なる者の側を支持しているという事になろう。

それは即ち、聖徒たちが聖霊の語らせる論駁不能な言葉を聞いて、その声に心を柔らかくする諸国民を指しているであろうし、それこそはイザヤがこぞってシオンを目指して流れの様に神の神殿に向かう人々の群れと描写していた預言の成就なのであろう。

これについては、ヨハネが福音書に記したイエスの祈りの言葉が思い起こされる。
『彼らのために、わたしは自分自身を捧げます。彼らも、真理によって捧げられた者となるためです。
また、彼らのためばかりでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる者らのためにもお願いします。・・・彼らがみな一つとなるためです。』 (ヨハネ 17:19-21)

だが、このように聖なる者らと信仰によって結ばれる者たちが現れると同時に、頑なになる諸国民も想定しなければならない。
その人々は山羊として御子の左に分けられ『永遠の罰に入る』という。それが永遠の消滅であるにせよ、永遠に亘って誤りであったと糾弾され続ける立場を表していよう。

他方で、『人の子の兄弟ら』に親切を行い、その側に立った人々は『王国を受け継ぎ、永遠の生命に入る』。
マタイは別の箇所で、主の言葉をこうも記している。
『わたしの弟子だという理由で、これら小さな者の一人に、冷たい水をたった一杯でも飲ませてくれる者は、けっしてその報いを受けないことはない。』(マタイ10:42)



◆雲に乗って来る

人類の全体に関わる諸国民の裁きに際して、キリストが人々に見える姿で顕現することがあるなら、それは人々の心の中にあるものを焙り出すような裁きには至らないことであろう。
なぜなら、余りに明瞭な御子の姿を見るなら人々は慄いてしまい、自由な意思を表さないからである。

そこで御子は、終末には裁きのゆえに『雲に乗って来る』必要性があると言える。
その『雲』とは不可視性の象徴であり、臨在(パルーシア)の始まりはもちろんのこと、最終的な顕現(エピファネイア)の段階に至ってもなお主は見えないことをマタイはこう記す。
『地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって人の子が天の雲に乗って来るのを人々は見る』(マタイ24:30)

即ち、御子の臨在の印が世界に明らかになり、諸国民が身を打ち叩いて嘆かねばならない段階に入ってすら、御子は依然として雲に乗っており不可視なのである。

これは、同時に『ハルマゲドン』でこの世が終わるのではなく、その後の時期があることをも知らせるものとなっている。
即ちルカでの『人々は地に臨もうとすることへの予想から気を失う』という、マタイで云うところの『太陽と月と星が光を失う』という時期である。
人々を照らす光は失われ、将来へと導くものは何も無くなる事態の発生、即ちキリストの臨在を紛うことなく知ることになる顕現(エピファネイア)への事態の進展である。それは人類史上、最も恐るべき期間となるのであろう。もはや『この世』には何の希望もなく、始まりつつある全ての秩序の瓦解への予想だけが人々を卒倒させるものとなる。⇒「黙示録の四騎士」

それでもなお、キリストの姿はなお見えない。「顕現」においても人々は『人の子が天の雲に乗って来るのを見る』からである。 
これは所謂「再臨」を待望する「クリスチャン」方には残念なことではあろうが、肉眼で見えるキリストの来臨を期待しているなら、却って『雲』を降りてしまった地上の『偽キリスト』また『不法の者』を信じる誘因を自ら作ってしまうことにならないだろうか。そこに三位一体説が加わるとすれば、更に恐ろしいことにならないものだろうか?⇒「小麦と毒麦の例え 不法の人の現れるとき」
 
また、そこでは「裁き」という要素が欠落してしまい、実に聖霊の働きが示されてもそれを無視することにもなり兼ねないであろう。⇒「黙示録の四騎士」 
バプテスマを受けさえすれば救われると、安直に使徒2章38節を契約に無い自分に都合よく適用した酬いと云うことになるのであろう。

実に、裁きは将来の終末に起こることであり、そこに不公平は無い。
主イエスのときのユダヤ教徒のように、終末に「クリスチャン」であるということは、むしろ裁かれる危険度が低くはないと云わざるを得ない。




◆ノアの日の例え

キリストの不可視性を補足するのがこの大洪水を前にしたノアの日の人々の無関心である。
ノアの一族が箱舟に入ってしまうまで、人々は自分たちの置かれた状況に配慮することなく、そのまま洪水に飲まれているが、終末もそのようになるという。

これは聖徒らの発言が世界を揺さぶるものとなってさえ、注意を払わない人々がいることを知らせているのであろう。ノアの箱舟建造がひとつの印であったが、古代にはすべての人々がそれに無頓着でいて、その後果を刈り取ったが、終末も聖霊の発言が如何に衝撃的であろうと、まるで関心も払わない人々は少なくないのであろう。

だが、これは生き残るための熱狂や異例な生活を勧めているのではない。
『天の使いたちも子も知らない』『その日と時刻』という言葉を補うべく付け加えられた古代の教訓であり、ノアもその時を明示されたわけでなく、ルカが記したように飲食や煩い事のために『その日が罠のように臨まない』よう『目覚めている』べきことを言うのであり、そこでは何が真に重要であるのかを見極める冷静さが求められ、自分が安心できることに安住していては却ってノアの日の教訓を生かすことにはならない。

教会堂の信徒席を箱舟に例えるようなことでは、むしろ欺きの安心に浸り、本当には無関心であることを容認してしまう危険がある。「ここは安全です」というこの種のまやかしに人は弱いものではないか。人を救うのは場所でも立場でもなく信仰であることを聖書は教えてはいないだろうか。
だが、自分たちの安全よりも考えるべきことがある。
何が神の意志であり、何故「裁き」があるのかを知ることであろう。⇒「終末の裁きで何が問われるか」



◆忠実で賢い僕 

伝道の書でソロモンは『人はだれも後に起ることを知らない』と書いているが、イエスも語り掛ける相手である『あなたがたに』『けっしてその時を知らない』ことを盗人の例えを用いたりしつつ何度か繰り返し語っている。この夜盗の比喩は福音書中によく用いられており、他にペテロ、パウロ、ヨハネも記している。そこで強調されるのは弟子らが主の時を知らないということである。

そのうえでマタイが、『主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕』に言及しているのであるから、この『時に応じて』(トーン トロフェーン エン カイロー)とは、もちろん終末が何時かということとは関わりが無い、なぜならイエスも繰り返したように、『あなたがたはその時をけっして知らない』からであり、この『思慮深い僕』が備える「時に応じた食物」とは、毎日の定時(カイローイ)の食事を表している。

この僕の給食の時期については、この例えの後半に知る手掛かりが残されている。
そこでは、このような僕が『もしそれが悪い僕で、自分の主人は帰りが遅いと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせる。』というのである。( 24:48-51)

したがって、その給食の時期が主の来臨に先立つと分かる。つまり、キリストがこの世に臨在している証拠の無い時期のことになろう。 ⇒ 「アンデレのように
これについて示唆を与えるのが、ルカ12章に記されている似た記述であり、そこではマタイのこの部分には先立つ部分があったことを知らせているのである。

『腰に帯をしめ、灯火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
 主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは幸いである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。』(ルカ12:35-37)
 
 これは同じくルカ17章に語られるイエスの言葉からしても異例な厚遇である。
 『あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐ来て、食卓につきなさい』と言うだろうか。
かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。
僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちは不束な僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。』(ルカ 17:7-10)

そこで、来臨する主に給仕されるというその僕は、破格の待遇を受けていることは明白である。

では、そのような厚遇に今日与っている者が地上に居ると言えるだろうか。
つまり、主人から給仕され、すべてを委ねられているような立場の者をであるが、もとより聖霊の降下が待たれる現状で、それと見分けられるような事が皆無であることは議論の余地もない。
ただ、イエスはルカにあるように、主の帰還のときに「お帰りなさいませ」とばかりにすばやく扉を開けられるように主人の意向を知った僕、あるいはマタイに記されたように、他の者らに糧食を供給している僕が主の来臨に先立つことは知ることができるのである。

その時期が主人の帰還の前であるなら、これは聖霊の再降下が始まるイエスの監臨の再開の以前の時期を指しているのであろうから、この部分は契約に与る聖なる者に適用される言葉ではないことになろう。そうなら、それは聖霊を見る前の自発的な行動を指している可能性がある。

その僕は主人の来臨によって主人に見出され、厚遇を受けるという事柄には、その僕が聖霊を受け『聖なる者』、イエスを兄弟とする養子縁組に与ることになると考えるのも的外れではないように思える。
しかし、ルカ12章によると、この『忠実な思慮深い僕』 についてイエスが語り出すきっかけをペテロが作っており、彼は扉をすぐに開けられるように備えよとして盗人の例えを主が語っているところでイエスにこう問いかけた『主よ、この例えを話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、すべての者のためなのですか』。

この『すべての者』 というのは、マタイ13章などでも繰り返し示されたように、使徒らと群衆という区分でペテロは考えていたのかも知れない。つまり、奥義の意味を知ることのできる選ばれた僅かな者らと、付き従って来たユダヤ人群衆との区別である。

だが、イエスはそれに答えずにこの『僕』の話を続けているので、この答えはペテロと同様に我々も得られていないことになる。つまり、それは然して問題ではなく、聖徒であるか信徒であるかも含めて誰であろうと、仲間を定期的に養おうとしている者の事を指しているのであろう。

これが以上の推察の通りに、聖霊による監臨の前の段階を指しているのであれば、確かに聖徒か信徒かを問う理由はなくなってしまう。聖霊の注ぎの起こる以前だからである。 


だが、マタイの終末預言でも警告されているように、その僕が『自分の主人は帰りが遅いと思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりすれば』これは厳罰に処され偽善者たちと同じ目に遭わされることになる。この者らは聖霊の注がれる事の重さも、その時を待つ重要性も等閑に付すことであろう。

これは、本来なら主人を迎えて食事を行うべきところを、勝手に自分たちの宴会を始めてしまっていることを意味しているのである。そこに主人が来られるならどういうことになるだろうか。そこにもちろん聖霊は無く、主人も居ない不正な浪費の宴会であるが、そこでは時を勝手に定めるという傲慢もある。主人の帰還時刻も都合も無視したその横暴は、仲間の奴隷にも不利益を被らせ、自らにも偽善者らと同じ結末をもたらすだけのことになることが強い言葉で警告されている。

このどちらの結末を刈り取るかは、主人の帰還の始まる聖霊降下の時期には判明するのであろう。そこでは待つ間の姿勢が問われているのである。
そしてこれは主人が帰還するまでは誰が賢い僕であるかの判断はできず、その評価も主人から行われるのであり、その厚遇もまたそのようである。

従って、現段階でこれを誰かに断じることはけっしてできないのであろうし、もし、誰かがその「僕」であると言うなら、既にその評価を主人から受けているはずであり、地上には明らかな聖霊とその賜物が見られることであろう。聖霊の再降下無くしてキリスト教の真の回復も起こるまい。

従って、この句の今日的意味は、それが誰であるかではなく、主人を待つ間に目覚め、一重に仲間に日毎の定時の食糧を配し、主人が到着したときに相応しく宴を張れるような準備を努めるところにあるのであって、主人を抜きにして自分がその「僕」であるから、皆は自分に従えとはけっして言えない。また、他ならぬ主人が評価を下す以上その必要もないに違いない。

あのペンテコステで使徒や聖徒らを高みに引き上げた主自ら給仕を勤めるというのであれば、そのうえ人からの賞賛や畏敬を求める必要もなく、その栄誉は人々に明らかにならないものだろうか。その誉れは人からのものではないのであり、使徒の時のようであるなら人々から敬意を強いる必要がなかった。(ヨハネ5:41-44)

恰もそうする必要があるかのように、「自分がその者だ」と人々に言って回るのであれば、まさしく主の評価も後ろ盾も得ていないゆえに人からの敬意を求めていることが明らかであり、その『僕』を自称することは詐称に過ぎず、主に給仕されるのではなく、人々からそうされることを願っているのであって、聖霊も待たずに時を勝手に定めて『仲間を打ちたたいて』不正な宴会を始めてしまうという『邪悪な奴隷』というべきであろう。



◆いちじくを見る

終末預言に描かれた事柄が起こり始めるなら、イエスは、人の子が『近付いて戸口に居ることを知れ』とも言っている。(24:33)
つまり、いちじくの『その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる』ようにであるという。

『そのように、すべてこれらのことを見たならば』御子は家の戸口に立っていることを知れというのである。
この句は24章に在って、その以前に語られていることには、弟子らへの迫害、偽キリストによる惑わし、荒らす憎むべきものが神殿に立つことを見てユダを去るべきことなども含んでいる。

これらの預言の言葉はひとつの世代の上に成就すると付け加えられたように、メシア拒絶の後果は37年後にユダヤを襲った。
エルサレムと神殿の滅びは確かに彼らの世代の内に臨み、ユダヤの律法による崇拝体制は拠って立つ神殿を失い、地上から神の御名の発音までもが失われる事態に至った。

この預言を直に聴いたうちのヤコブとペテロはその最後を知らずに世を去っているので、やはりこの一連の預言の言葉は使徒らにだけ向けて語られたものではあるまい。殊に聖なる者らを介してその背後にいる無数の人々がいるのであり、それは我々にも及んでいるに違いない。

ユダヤのイエス派の人々はユダヤを後にしてデカポリスのひとつに数えられたペッラ方面に実際に逃れている記録があることからすれば、この預言の言葉は確実に益を生み出していたと言える。その人々は『いちじく』の様子を観察して『夏』が近いことを悟ったであろう。

それが何故『夏』かといえば、ティシャ ヴェ アブの断食を含意していたのかもしれない。即ち、ネブカドネッツァルによるエルサレム陥落と神殿の喪失を憂う記念行事であり、それはユダヤ人の心に深く刻まれた『夏』であったとも言えよう。

そして西暦七十年の『夏』、ローマ軍によって同じ月にエルサレムと神殿は二度目の破壊を被ることになる。従って、この例えについてイエスが『扉を開けて入る』のは、パルーシアではなく、エピファネイアの時を言うのであろう。聖徒らには天への召しの時である。

加えて、その時期を見分ける仕方としてこの「いちじくを見る」 とすれば、それは誰もが知り得る自然の営みのようであり、格別な人々によって教え説かれる必要のあるような印ではないように思われる。
キリストの臨在、またこの世の終局の有様は、いちじくが葉を出すように、キリストの言葉の戦争や疫病や飢饉の部分のところばかりでなく、弟子らへの迫害や為政者への聖霊の言葉の宣告などを含んで、多くの人々に聖書記述を思い起こさせるものとなるのであろう。 

そこから判断すると、このいちじくを通して判断できるという、主が『戸口に居る』段階というのは、臨在の開始というよりは、聖なる者らとの会食のために戸口に立っている状態を言うのであろう。
そこでは、臨在は既に進行しており、使徒らにも知らされていなかったイエスの臨在の開始ではなく、このいちじくの例えるところは、主人を待ち受ける弟子らが天の召集に預かる時の近付いたことを知らせるもののように読める。 (黙示録3:20-21)

やはり、イエスはこの一連の預言に当時のユダヤの世代に成就すること以上の事柄を含めていることは、未だ実現していない幾つかの事柄の存在からも明らかである。
例えれば、聖なる者の召集はなお将来のことであるに違いないし、諸国民が右と左に分けられるようなことも起こってはいなかった。
今日、聖霊によって話す人々を世は未だ見ても聞いてもいないのは確かなことである。

では、我々はこれらの言葉に何を知り、何を学ぶべきか?

この日にオリーヴ山上で語られた終末預言は、当時のユダヤ体制の終局と、遥かな将来であった「終末」とに起こる事柄とを同時に語る「複合預言」であったことは明らかである。
こうしてマタイ24章から26章の初めまでの全体を見回すと、語られていたことは偽キリストにせよ、戦争と苦難の時代の到来にせよ、タラントや処女たちの例えにせよ、その中心は常に『聖なる者たち』であったことが明瞭に見て取れる。

この一連の預言は、使徒らの『あなたがまた来られる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか』という質問にあるように、エルサレムのヘロデ神殿とユダヤ体制の行く末を超えて、世の終末での神の経綸の全体、殊に聖なる者たちに極めて重要な教訓を含んでいるのであり、単に終末の時代の印を列挙したものなどではない。即ち、この一連の預言に含まれる主の回答の内容は、「時代の特徴」がどうこうという見分けの問題ではなく、起きることへの聖徒らの対処についてなのである。 

人類は、いつの日にか聖徒らに起こる事態を観察してイエスが予告されていたことを知るのであろうが、信ずる者であれば、それがいつであろうと主の帰還を予期しているべきであり、具体的には聖霊の再降下を待ち望むべきであろう。
第一に、世の終末に於いて聖霊とそれを授かる聖なる者らがどれほど大きく重い意義を持ち得るかをまず知らなければ、戸口に立つ主人をすぐに扉を開いて迎えることはおろか、主人が戸口に居る事さえ知ることができないであろう。

キリスト教界は、一向にご利益信仰に終始しているのだが、それが改善されることは最後に至るまで無いように思われる。 ⇒ 「小麦と毒麦の例え 不法の人の現れるとき」
他方で、終末とその裁きは長い年月に亘るものではなく、数年で終わることが預言者らにも黙示録にも語られている。
帰還する主人の意向を汲み、聖霊の降下を以って始まる臨在を強く願い求める姿勢が、いま地上に問われているというべきであろう。




     ©2015  林 義平




*(使徒アンデレもAD69年11月30日に殉教したとの迷信的内容を含む伝承もあるが、一方で使徒ヨハネが福音書を書く時点でエフェソスでの生存を伝える資料があるのでそちらに従う) 





オイコノミアと七つの頭

七つの時と八人目の王(ダニエル書と黙示録の理解について) 
 <難易度 ☆☆☆☆☆ 高>


エフェソス人への書簡の第一章には、『神の奥義(ミュステーリオン)の家令』としての使徒パウロの面目躍如たる教え、驚異的に高度な認識が示されている。

聖霊を受けた『聖なる者たち』には、どれほど価値の高いものを相続されるかについて知らされており、その『神の王国』というこの上ない相続財産を受け継ぐことの印(「約束手形」アッラボーン)が、その受けた聖霊であることを知らせているのである。

その相続物である『王国』とは即ち、『時の満ちるに及んで実現されるオイコノミアである。』それは、『天にあるものと地にあるものとを、尽くキリストにあって一つに帰せしめる』神の意志であるという。(エフェソス1:10)
ここで神の意志について、「家計」を含意する「オイコノミア」と記される相応しさが、キリストの許に天地のあらゆるものが集められるという概念に寄り添うものとなっている。

(口語訳はエペソ1:10としてオイコノミアを「ご計画」とし、こう訳している。『 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。』)

「オイコノミア」とは「エコノミー」の語源であり、この英語は「経済」の意味で広く知られている。
その語源となったこのギリシア語[oikonomia]には、「分配」や「務め」、また「計画」、「管理」あるいは「家計」の意味合いで訳されている。「家計」つまり、生計を一にする一家の遣り繰りを含むニュアンスである。 

古来、この語は神学的に云うと、神が摂理によって、世界の中の万物を配慮し、究極目的のために配置することを表してきたという。即ち、創造者による統一的な創造物の配置であり、創造界の秩序付けと言える。

そこに分裂はなく、ひとつの家族のように全ての知的被創造者の集合秩序が形成され、それまでもたらされなかった創造界全体の一致の実現が示唆されている。そのオイコノミアに拠って初めて、神の創造の企図の完遂がある。

確かに万物は存在するようになったが、未だ完全なる秩序を得るには至っていない。むしろ、世界は神を意に介さず利己心と貪欲が推動するばかりの不一致にある。
それが為に、

一家庭に対して世界は「他人」であって、ほとんどの人々は自分の家庭を維持するのが手一杯であり、親戚や余程に親しい友人でもなければ、他人の世話までは無償では出来たものではない。
そこには、物を創造するだけでは存在しない「あるもの」が足りず、それこそが「ヘセド」或いは「アガペー」という存在者同士の絆と言えよう。

そこで「オイコノミア」の要となる初子キリストの神への忠節な愛によって、その御父は高められ、創造者たる神こそがまさに神であることが立証され、全創造物に一致の礎が置かれることになるのである。神はこの御子に、ほかの誰にも優る名と立場を与え、新たな創造界の礎として据えられたともパウロは言う。 (フィリピ2:6-10)

即ち、御子イエスは、地上の歩みを死に至るまで父たる神に忠節を尽くして愛を体現され、こうして天使であれ人間であれ、キリストが神を如何に愛するべきかを身を以て示し、同時に創造物を一致させる計画(オイコノミア)の要となったのである。その忠節な死によって『無に帰せしめられた』のは、サタンとその道を行く者らであった。(ヘブライ2:14)

新約聖書では、この「オイコノミア」を9回用いているが、多くが「務め」または「管理」と訳されている。あるいは使徒パウロの仲間内での役割についてを意味し、あるいはルカ福音書で、例え話の中で、免職になることの決まった「家令の仕事」についてこの「オイコノミア」が主人の「家の会計」として用いられている。(ルカ16:2-)

だが、エフェソス人への手紙では様相を異にしているのである。
それは「神のオイコノミア(「計画」または「経綸」)」であって、そこでパウロは、主イエスから委ねられた自らの「家令の務め」をも遥かに超える「オイコノミア」に言及しているのである。

神は『時の満ちる』を待って、キリストをすべてのものの相続者とし、創造物の集められたすべてのものを「管理させるため」(エイス オイコノミアン)予め定めたのであった。それは即ち、キリストによる神のオイコノミアなのである。(エフェソス1:10/ヘブライ1:2)

これほどの『奥義』(ミュステーリオン)を伝えるエフェソス書簡を、真正なパウロの手に拠るものでない「偽書」であると唱える人々は、この類い稀な情報の源を何であると称するのであろう。また、これを『奥義の家令』たる使徒パウロ以外のどんな人物に由来するものと見做すのであろうか?
これについては、人々が自ら読んで自らの価値観を以って判断すればよろしかろう。 

しかし、エフェソス書は、この「目的」と訳されることの多い「オイコノミア」を通してキリストの相続の大きな意義を指し示したところは傑出しているというべきであろう。

このオイコノミアは、『神の王国』による千年支配を表すものであり、サタンの反抗と中傷によってかき乱された創造界の調和が回復されるという、創造者による天使や人間など『神の象り』を有する者らへの、その自己決定権を尊重した遠大な計画(経綸)であり、エフェソス人への書簡のはじまりの簡潔な文体の中に、これほど偉大な神の経綸が示されているのである。

アダムに対してエデンの二本の木が選択の機会を開いたように、すべての理知的で創造者との関係性を結べる存在には、創造者との適正で双方向の忠節な愛が必要とされ、また試されるのである。そのように試された不動の愛は、創造の段階では未だ存在していなかったが、それはキリストによってまったく示された。

この点で、サタンは創造物でありながら、創造者に抗う者と自ら変じ『サタン』(反抗者)と呼ばれるに至り、また、神な対抗する仲間を増やそうとの思惑から中傷する者「悪魔」(ディアボロス)と成り果てたのであった。

自ら選んで、この創造界の乱れに入った者らは、当然ながら神のオイコノミアの埒外にあり、『神の王国』というオイコノミアの範疇に入るのは、神を愛し、その創造の業の輝かしい達成を願う利他的な者らである。そこには、これまでサタンに始まる利己心に曇らされ見られなかったような一致が天にも地にも訪れることであろう。

その一方で、それぞれが我欲にまみれる『この世』には平和などはない。
イザヤ書は邪悪な者らの状態を『邪悪な者共は、波の荒い海のようだ。静まることができず、その水はついに泥と汚物とを打ち上げる。』と描写しているが、まさしく世界とはそのようなところとなっている。(イザヤ57:20)

また、イエスの弟ヤコブもこう言う。
『妬みや闘争心のあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。』(ヤコブ3:16)

『この世』は貪欲を動力とし、利己主義を指針として歩み続けてきたが、この21世紀に至っては、無法な人間の歩みは地球環境までをも壊して巻き込み、事の結論が誰の目にも見え始めるようなところにまで差し掛かっているのである。おそらくは、もはや人間自身でこの利己主義の結論を負いきることもできないのであろう。


◆七つの頭を持つ龍

利己心と不一致を以って創造界を乱し始めたサタンを、黙示録は『七つの頭を持つ龍』として描き出している。
サタンである龍の頭が七つに分割されたのは、サタンはキリストと異なり、けっして支配の統一をもたらせない事を表していよう。 
その頭が分かれているからには、意志も目的もそれぞれに一致しないことであろう。それは利己主義の当然の報いとも言える。

このように、頭が分割されているのはサタンとされる『龍』ばかりではなく、黙示録には、同じように七つに頭が分かれた『獣』も登場しているが、この異様な獣についての黙示の意味には極めて重いものがあると言えよう。

さて、黙示録と同じく黙示を扱う旧約のダニエル書によれば、『獣』は政治権力の象徴として再三登場している。
黙示録のように頭が複数あるものは、四つの国々に分かれたアレクサンドロス大王以降のギリシアを表しているであろう。

そこで、黙示録に現れる七つ頭の野獣に、多くの権力の連合を見ることは不自然ではあるまい。
その七つという頭の数がサタンを表す『龍』と同じであることは、利己的不一致という両者の性質上の類似性を示しているように思われる。

黙示録は、七つの権力について『七人の王がいる、五人は既に倒れ、一人は今おり、後一人は未だ到来していないが、来たならしばらくの間留まらねばならない。そして、かつては居たが、今は居ない野獣は、それ自身が八番目の王でもあるが、七つから出て滅び去ってゆく』と記して、この野獣を歴史上の権力の存在と関連付けている。(黙示録17:10-11)

従って、黙示録に現れる、『七つ頭の野獣』は、それ一つの頭が一つの権力の象徴であり、『42ヶ月』と短命ではあるが、『聖なる者らを滅ぼすことを許された』サタンの『神の王国』に対抗するための特別誂えの武器である。

それは、聖霊の再降下によって終末に現れる『聖徒たち』に向けて形作られる、新たな集合権力機構であり、『七つから出る』ということは、そのときに存在する第七の権力の内から派生して現れるところにおいて、『王』として姿は他の七人とは相当に異なった特殊なものであり、且つ、七つの頭に象徴されるように、そこに十分な一致は無いのであろう。
つまりは『聖徒』の現れに即応した、臨時に糾合された諸政府の権力の集合体なのであろう。

その頭の分割を人間社会に見ると、大洪水後の神の言語分離に発し、ニムロデの人類統一支配を阻止して以来のことである。 爾来、人類は一度も統一されたことがない。
確かに、神のもたらした言語の相違というものは、民族や政体を分かち、その文法構造や文字は思考方法や民族の特性にまで影響を与えるものとなっている。 

七つ頭の野獣が『そこ知れぬ深みから現れる』とは、シュメール初期の都市革命という太古にだけ存在した、人類全支配の野望の再来を示唆していると観ることができよう。神による言語分離の多大の影響は、本来なら一つの頭を持ち、人類を統一できたであろうニムロデというサタンの代理支配を打ち砕いたことに於いて、その第一の頭は屠られたかのようにされていたであろう。 (黙示録13:3)

だが、聖徒らの出現と、神の王国という、真に人類を統一して支配し得る政体の登場が真近に迫る中、サタンは、不恰好に七つに分割された頭を持ったままの野獣とはいえ、その歴史上に存在した七つの覇権を合わせ持った、あるいは、言語や文化や国民性などで、様々に分かたれた人類支配を仮に一本化したような、諸政府の権力の糾合を成し遂げ、地上に具現化するのであろう。
 
それゆえ、諸政府の持つ権力の集合体を目にする大衆は『誰がこれと戦い得るか』と瞠目するのであれば、歴史上に存在してきた権力欲に貪婪であった覇権国家をすべて合わせたようなこの獣の醜さは、飽くなき貪りと争奪においての野蛮さが際立つに違いない。
 
そこに於いて、ニムロデの時代に神の一撃によって屠られたかのように潰えた人類支配の野望は、息を吹き返し奈落の果てから蘇ることで、『かつては居たが、今はおらず、やがて底知れぬ深みから登って来る』という黙示録の言葉は、俄かに現実味を帯びるのである。 この強烈で飽くことを知らない人間の支配欲の野望こそが、神に任命された偉大なる王キリストに立ち向かい得るかのように看做される。
 
この野獣は七つの頭を持つことでは、やはり分裂していることに変わりはないのだが、何らかの協定や同盟により、俄か仕立ての合体が成されるのであろう。 つまりは神の王国に対決するための野合である。
 
しかし、その不恰好な統一の無さはやはり弱点であり、それは、この野獣が過ぎ去り、野獣の像に置き換えられた後の最終的な事態の進展、ハルマゲドンの戦いに於いて、決定的な崩壊の原因を成す。即ち、権力相互の同士討ちであり、『エホシャファトの谷』の再現となる。七つの頭はそれぞれにせめぎ合い、それが自ら消滅の原因をもたらすのであろう。 (黙示録16:16/ヨエル3:12)

また、ダニエル書のネブカドネッツァルの夢解きに現れる、巨木が倒されて経る『七つ時』もこの黙示録の視座から観てゆくと理解の視界は更に良好となる。
エフェソスでパウロが語ったオイコノミア実現の以前に『終了する定められた期間』が『七つの時』であるなら、それはニムロデ以来の歴史上に続いた一連の覇権を表していると見做すことができる。 
 
しかし、神は人類統一の権威をメシアにのみ許されるのであり、それはニムロデのときと何ら変わらない。だからとて、メシアが神にその権威を帰すとき、『すべての権威と権力とを打ち滅ぼして』というのは、神が人類を支配するようになるというわけではなく、『罪』が贖われた人々に支配の必要はなくなるのであり、それは神がアダムを支配しなかったところに表れている。(コリント第一15:24)
『燃えて回転する剣』という最初の支配権が現れたのも、人間が倫理上に欠陥を抱えたゆえのことであって、そこに人を強制する最初の「権力」が現れている。
以後、人は支配されなくては秩序を保てない存在となったのである。



◆巨木が倒されて経る『七つ時』

さて、ネブカドネッツァルの見た夢が実際にその身の上に起こり、王として執務できないばかりか、野の獣のように草を食らってしばらくの期間を過ごしたのであれば、王権を巡る継承権争いや簒奪者による熾烈な争いや暗殺などが当然の事として予想される巨大な権力の渦中にあって、それでも偉大な王座に戻ることが出来たのなら、それは真に異例中の異例というべきであろう。

元首制でなかったローマ共和政時代でさえ、ユリウス・カエサルが「唯一、悪を行って良いのは、王に成るときだ」という言葉を好んだというが、彼のように帝位を窺っていた者はどんな王朝でも側近や貴族に珍しくもない。

ネブカドネッツァルという大王の卓越性を以ってしても、彼が陥った理性ない状態からして、王権は奪い取られて当然とみるべきで、『七つの時を経ても』なお保持されたというところで、ネブカドネッツァルも王権を自在に与える『天の神』に大いに驚き、これを称賛するに至ったに違いない。
この大王が学んだのは『至高者が人間の国を治めて、意のままにこれを人に与えられることを知るに至る』 ことであった。(ダニエル4:25)

したがって、この夢の成就についての意義は、ニムロデから七つ続いた世界覇権の数々ではあったが、世界の歴史を埋め尽くすその間には、人類支配の権利は、覇権国家ローマに処刑されるほど身分の低いキリストの手中にも、聖徒らのものともなるようにも到底見えなかった。その点を、ネブカドネッツァル自身が身をもって経験したのであり、それでも支配権をどれほど身を窶した人物にであろうと、例え迫害に消えていった身であろうと、その王権を神は切株に箍をはめるかのようにして守り、自在に誰にでも与えることができることを例証して見せたのである。

ニムロデの支配欲は、まことにサタンのものと合致しているようである。
その支配欲は病的ものでさえあり、際限なくより多くを望むという人間の宿痾である「貪欲」を究極的に体現するほどのものであったろう。
今日でも、覇権を求めるなら、そこには際限がない。覇権主義の行く付く先は必ず世界支配であり、それは、人というものの飽くなき貪欲が、既に証しを立てている。
その以前にも、国家主権というものでさえ、この世に於ける最大の権威であり、それぞれが権益の拡大を望んでいる。つまりは人が懐く貪欲の拡大形であり、人間の貪欲に限りが無いように、それぞれの国家主権もその拡張の機会を窺うことにおいて最終的に世界を手に入れることを目指すのであろう。
 
それはまさしくサタンの妥協ない欲であり悪であり、すべてを手中に納めなければ終わらない。それがもたらすものは、優越感と悲壮感の入り混じる不一致と混沌であろう。国家主権とは現存する最大で最強のわがままと言えよう。それは害を為す究極の貪欲である。

その中でとりわけ世界覇権とは、そのように次から次へと果てしなく続く各国家の自己愛を押し進めて拡大させ、もう少しで世界支配へと到達しようとしたものなのであろう。そこで聖書中の七つの覇権の頭を揃えたこの野獣の表す精神は、それらの貪欲を更に結集させた究極の我欲をも連想させるものである。そこに融和も一致も程遠く、その目指す目標はどれも世界支配に向いたが、そのひとつも達成するに至らなかった。

しかし、「七つの時」を経て神に教え諭されたネブカドネッツァルは、次のような布告を公用語のアラム語で出したことをダニエル書は記している。
『わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方を誉め讃えた。その支配は永遠に続き、その国は代々に及ぶ。』
『わたしネブカドネッツァルは天の王を誉め讃え、崇め、賛美する。その御業は真実、その道は正しく、驕る者を倒される。』(ダニエル4:34.37)

こうして、当時の世界覇権者にも、更なる天の統治者が在り、その方が『七つの時』を経てなお、自在に支配権を渡されることを認めるに至ったのであった。「七つの時」とは世界覇権を争った七つの強国を表し、ネブカドネッツァルが極めて低められて過ごした期間が「七つの時」と呼ばれたのは、それぞれの覇権帝国が支配権を奪い合うにも関わらず、大木から新芽が芽吹くように、低められた者が返り咲くことが出来たのであれば、神はやはり(イエスのように)低められた人物をも自在に神の王座に就ける力を持っているのである。
 
これは、実際に歴史上でネブカドネッツァルの統治の空白期間があるともされているとのことで、まったく作り話と退ける理由はなさそうである。

だが、王が野獣と変じたこの『七つの時』の期間のそのものについて、現代からは窺い知ることもできないその具体的数字に何か神の知恵が隠されていると信じ込み、その長さに意味があるかのように計算を始めるとすれば、それは恰もフリーメーソンの密議のような魔術的関心のように思われてならない。それは聖書そのものが持つ味わいからの逸脱を感じさせるものではないだろうか。
 
この出来事の要点が、特定の時間を予言して将来の信者に世の終わりが近づいたことを知らせるためのものであるとするなら、「七つ」の意味が異なってしまい。イエスの繰り返し語った『あなたがたはその時を知らない』という言葉の弱めなくてはならないことになってしまう。まして、『一日に一年を』という別の預言の言葉をこの出来事にわざわざ結び付ける根拠さえ論理性をほとんど見い出すことはできない。

 この場面で倒される巨木がネブカドネッツァル自身であることをダニエルは語ったのであって、ダヴィデ王家がその末期に於いてバビロニアに比肩されるほどの巨木であったと言えるだろうか。

その新バビロニア帝国であっても過ぎ去る『七人の王』の中のひとりであり、『七つの時』の『七つ』には黙示録に示された『七人の王』への関連を追う方がよほど自然なことであろう。ほかのどんな書にもないほど、黙示録とダニエル書との関連が非常に緊密であることは誰の目にも明らかなことである。
そこで『七つの時』は、『七人の王』の世界覇権が放任され推移するニムロデ以来の長い年月を指し、その終わりはメシア支配の到来によって終わると見ることができる。

この観点から見るなら、『七つの時』は七つの覇権の推移する期間であるなら、ネブカドネッツァルのバビロニアに次いでペルシア、ギリシア、そして黙示録が書かれた当時のローマが世界覇権の継承として現れることになる。
つまり、これで『七人の王』の内の四人が同定される。では、ほかの三人はどうなるのか?

そこで新バビロニア帝国の以前を探ると、そこには史上初のオリエントからエジプトの地に至る大帝国であったアッシリアを見出すことになろう。
ネブカドネッツァルの父王ナボポラッサルは、このアッシリアのカルデア地方を掌握してバビロン王を名乗って独立したのであった。

そして、このアッシリア帝国が範としたのが、シュメールの国家文明であった。
楔形文字などの文明を継承しており、権力と宗教を運用して民を支配する官僚制度においても、エジプトやヒッタイトやミタンニなど以上にアッシリアは多くを隣接したシュメール文明から得ていたのであろう。
シュメールはその以前の文明からの継承をもたない文明の奇跡的な始祖であり、ニムロデの帝国のはじまりでもある。 

しかし、エジプトは良くも悪くも「ナイルの賜物」であったというべきか。
肥沃な三日月地帯までも掌握するには至らなかったのであり、砂漠に囲まれ、また守られ、ナイルの潤いに恵まれた地から国境を広げて世界覇権の主人となるには及ばず、大国ではあるものの、歴史の上では常に副次的な存在となってきた。

こうして、ニムロデからはじまるシュメール、アッシリア、バビロニア、ペルシア、ギリシア、ローマという一連の世界覇権の交代を挙げることは、そう不適切ではないであろう。これは、ニムロデの権力の継承列としての流れということになる。
そして七人目は最後の覇権国となるのであろうが、それは既に目にしている通りなのであろう。

それはダニエル書でネブカドネッツァルが見たもうひとつの夢に現れた『像』に見られ、そこにはネブカドネツァル自身が属する『金の頭部』で表されたバビロニア、『銀の胸』であるペルシア、『銅』で出来た腹と腿であるギリシア、そして脚部と足は『鉄』で作られており、それは非常に強いが、足は粘土の部分もあって脆さがあるという。(ダニエル2:31-45)

この最後の『鉄』で表される覇権国家がローマであることには多くの同意を得られることであろう。
しかし、ローマは六人目の王であって、もうひとりが居なくてはならない。


◆西欧諸国の特異性

ローマという帝国、特に都市ローマを含む西側のラテン帝国は、その終わりにおいてどこかの覇権に打倒されてはいないし、別の文明に入れ替わったわけでもない。
西ローマ帝国は、蛮族の侵入と慢性的な資金不足に陥り、自ら歴史の舞台を去っていったかのようである。

しかし、ローマの築いた文明や、権力機構は蛮族の中に浸透してゆき、殊にカトリック教化されるに従い、今日の西欧諸国はそれを見事に受け継いでいる。
そして後世、西欧諸国が植民地獲得に乗り出したことで、ローマの文明や支配は世界に広められることとなった。

今日の世界は、ローマ字の使用、日曜日の休業、法制度の相似、商習慣、生活上の様々な習慣、果てはクリスマスや誕生日の祝いなど、広い地域で西欧を介してローマ文明を継承しているとさえ言えるのである。 実際、西欧が主導してきた現代文明は、ラテン圏のローマ文明の延長線上にある。

それは恰も、ダニエル2章の巨大な像の脚部から粘土の混じる足にかけて繋がっているかのようであり、近代以降、西欧で始まった普通選挙により、「大衆」が政治に参加を果たしてきた。この民主主義は、今日世界の政治制度の模範、またスタンダードとされ、アジアやアフリカの独裁国家でさえ西欧由来の「民主主義」の看板を掲げるものとなっている。
これは王権を主体としてきた古来の権力の姿とは異質なものであり、ダニエル書の『粘土』は『人の子ら』であると述べている。

主権は君主から啓発された市民へと移される事を民主主義は想定した。しかし、実際には理知的な「市民」ではなくリテラシーの薄い「大衆」が政治に参加してきたのであった。彼らは非常に主観的であり、また主情的でもあって、流動性極まりない存在である。
そこで、代議員候補者はこの「大衆」を如何に票に取り込むかを図る内に、人気取りに堕しかねない危険があり、それは権力を強くするとは思えない。むしろ、避けがたい欠陥であり数を頼んだ衆愚のスパイラルに陥る危険と隣り合わせとなったが、識者はそれでも民主主義は独裁に比べ『割の良い賭けだ』*と言っている。*(ダール「民主主義とは何か」)

ともあれ、こうして世界覇権の流れを俯瞰すると、鉄のようであったローマの覇権とその後継である西欧諸国、分けてもそこから派生した現在の最強の国家である米国に「鉄とは混じることのない粘土」が含まれるダニエルの巨像の足先を見るかのようである。(ダニエル2:40-44)
そこで、現在の世情を観るところ、米国に『七人目の王』を観るとしても不適切ともなるまい。

この国は新大陸にありながら、ローマ帝国の流れをはっきりと汲んでおり、現在もその担い手として、その文明や支配方式や商習慣を世界でリードし続けている。
もちろん、反対勢力が無い訳ではなく、欧米式の方法を嫌う国家もあちこちにあるのだが、かつてのオリエントの覇権国家が、諸国民を支配してきたように、今日の欧米も世界の趨勢を握ってきたのである。しかも、その規模も範囲もITの上でも全球的で古代覇権の比ではない。

だが、ダニエル書では、その足を目がけて『人手によらずに切り出された石』が飛んで来て、その像全体を倒壊させてしまうというのである。つまり、『神の王国』によってニムロデ以来の世界覇権の終わる時が来るのである。
このダニエル2章の巨像は、黙示録にある七人の王に関連しており、共に人間への支配権、特に覇権と神の支配との関わりを述べている。(ダニエル2:31-35)

ネブカドネッツァルが経験した王位への返り咲きは、天の神が自在に支配権を与えることを教えており、巨像が倒壊することも、その覇権の像を打倒す『石』が像に代って全地に満ちる山と成るというところに、人間の立てた覇権の終わりと新たな世界の始まりが示されている。

こうして、ネブカドネッツァルに神が教示したことからすると、それらの覇権に関する予告は、今、この時代にほぼ整っていることが見えるのである。



◆八人目の王

さて、黙示録に記された『それ自身が八人目である』この王は、他の七人と比べて特殊な存在である。
この七つの時と直接には関わらない第八の王が現れるときには、人々が恐れ入り敬服してしまうという、衆目にも画期的な存在と印象付けられる。これは、後述するように未だに実現してはいない、なお将来の終末の事態の進展を表しているであろう。
 
この『八人目の』王の特殊性のひとつは『その(七人の)中から(エク)の者』であるという。即ち、それまでの覇権とは異なり、独立した覇権を持つ訳では無いらしいのである。
 
これに対応するダニエルの記述を捜すと11章31節が内容としては関連を持っている。
『彼から軍勢(腕)が起って、神殿と城壁を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てる。』やはり、黙示録で、聖徒を攻撃するのが、七つの頭を持つ野獣だからである。

この常供の犠牲を廃させる者として、ダニエルの他の章句で相当するのが、『小さな角』である。
それはダニエル7章の四番目の、著しく強い獣から派生する十本の角の内の三本を引き抜いて現れるところの『後からの角』であるが、やがて他の角よりも大きくなり、「目と大それたことを言う口」を持っている。

これを、ダニエル2章の巨像と平行関係を成していると見做せば、『鉄』の王国であるローマとその後継者に相当するように読める。
そうであるなら、7章の四番目の獣から生える十本の角とは欧州諸国を表すのであろうか。しかし、そうであるとしても、この『後からの角』が英米であると仮定すると、その極めて強い四番目の獣が終わりのあたりで不在となり、巨大な像の足の部分が無くなってしまう。

もし、この理解上の不都合を避けようとすると、その四番目の獣の実体を英米が継承したとして、欧州諸国の内の幾らかを貶めるようにして台頭する何らかの権力を想定する必要が出てこよう。それはEUであろうか?いや、EUは扶助し合う機構として存在しており、米国にしても価値観を共有し、NATOにおいての結束も持っている。やはり、四番目の獣から生える十本の角とは単にヨーロッパ諸国を意味するとは言えないようである。

そこでこの『角』の由来となるダニエル書の言うところの『北の王』という実体を知る*必要が出てこよう。
ダニエル書を総合すると、この『北の王』は『聖徒』や『聖なる契約』に敵対する様が描かれており、この王から立ち上がる『腕』、即ち権力が『聖なる者らに戦いを仕掛けて勝つ』とされている。(7:21)
そこで、この『北の王』そのものが『後からの角』ではなく、それを擁立する権力であり、南北の権力の対立の一方の当事者であることがダニエル書に示されている。
*(その実体は、聖徒が為政者と対峙した後に明らかになるが、我々はそれを既に目にしているのであろう)

こうして黙示録の言う『今は居ないが、やがて底知れぬ深みから上ってくる野獣』の意味が理解されてくる。
それは、『北の王』に設立され、『七人から出る』とあるように、独自の覇権を持たない権力の集合体のようなもので、際限ない支配欲を漲らせる恐怖の大王ニムロデの再来であり、シュメール時代という超古代の奈落から現代の舞台に這い上がってくる不気味な悪の権化である。或いは、『その(七人の)中から(エク)』というのは、「第一の王であるシュメールから」を含意しているのかも知れない。いずれにせよ、それもいつか明らかになるのであろう。

支配を巡って争うその目的は、人類の王となるべきキリストの臨在によって門口にまで近付いた『神の王国』を何としても阻止することにあり、その大使である聖霊を受けた『聖なる者』を攻撃目標として、汚すか、亡き者とするかの二択ばかりである。(黙示録17:8) 

他方で、黙示録では『二人の証人』で表された聖なる者たちに『戦って勝ち、彼らを殺してしまう』のは『七つの頭を持つ野獣』とされている。(黙示録11:7)
この双方の類似が示すところは、その『角』と『野獣』の二つが同じものを指しており、ダニエル書での『北の王』に擁立される何らかの権力機構が登場すること、またそれは主要諸国の幾らかを辱めるほどに成長を遂げ、終末の聖徒に反対して攻撃に成功することを教えているのである。

更にダニエル書から言えば、『北の王』に立てられる『角』は『神殿と城壁を汚し、常供の犠牲を取り除き、荒す憎むべきものを立てる。』のである。これは黙示録の『七つの頭の野獣』が聖徒を攻撃して勝利することと関連するものであろうか。おそらくそうであろう。
 
そこで黙示録の述べるところから見ると、『七つの頭を持つ野獣』の存続期間と聖徒らが『粗布をまとって預言する』期間とが同じく1260日=42ヶ月となっている。それは極めて短い。例えるなら、ナチス政権のドイツ第三帝国とあまり変わらない存続期間というべきか。

それであるから、同じ期間に亘って『聖なる都市と神殿の中庭が諸国民によって踏みにじられる』という黙示録の言葉の意味は、神殿となるべき聖なる人々が、いま至聖所である天に去らず、地上にある間にはずっと迫害され、それゆえにも『粗布を着て預言する』姿が予告されてもいるのであろう。
 
即ち、この『七つの頭を持つ野獣』は、聖徒攻撃に成功しても、ほぼ同じ時期に終わりを迎えてしまうのである。従って、この獣は、全く聖徒への対抗存在に終始すると言える。
この獣が『大いなるバビロン』の滅びにどれほど関与するのか、その時間さえ残されているのかは分からない。
ただ、大いなるバビロンへの復讐は遠からず、この獣の十本の角(野獣への参加勢力)の部分によって遂げられるとされている。(黙示録17:16) 

あるいは、この野獣は大いなるバビロンを倒して後、最初の『シオン』攻撃の脅しにまで進んで、ミカエルの介入に受け『北の王』と共に消滅してしまうか、『北の王』の権力の崩壊によって後ろ盾を失い、存在を失ってしまうかであろう。⇒ 「二度救われるシオンという女」

黙示録で、この八人目の王が『滅びに去りゆく』とあるのも、この急速な消滅を指し示しているのであろう。『七つ頭を持つ野獣』の像が造られる必要が生じるのも、その野獣の存続期間の短さが関わっていると見ることで、黙示録の見通しは広がる。


◆野獣の像、荒す憎むべきもの

だが、野獣には後継者が現れる、それが『野獣の像』であって、これを推進するのは『北の王』ではなく、より世界に影響力を持つ国家であろう。黙示録では、その後援者は『二本の角を持つ羊のような獣』であるというが、それは、著しいキリスト教強国を指しているのではないだろうか。ならば今日米国をおいて他に考えようもない。

現在の国際連合は、ほとんど制裁力を持たず、実力行使にかなりの制限があるのだが、この『野獣の像』については、どうやらその限りではないらしい。なぜなら、黙示録19章の終わりに、この『野獣の像』への崇拝が突き進む果てにハルマゲドンがあると読めるからである。

即ち、黙示録13章の後半に現れた『野獣の像』の崇拝に関わる言葉が19章の末尾に再登場しており、そこでは王冠を重ね、血の降りかかった外衣をまとう『神の言葉』という方とその軍勢との決戦に人々が臨み、遂に野獣と、その像の崇拝を慫慂していた偽預言者も捕えられ、『火の湖』に投げ込まれ、『野獣の像』の印を受けた者らも、『王の王』の口から出ている剣で殺されている。

この世界強国の支援を得た 『野獣の像』は、終末において、いよいよその時を短くして、強烈な『背教』へと世界を挙げて突き進むのであろう。

では、ダニエルのいう『荒す憎むべきもの』とは何を意味しているのだろうか?
『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、神の神殿に座し、自分は神だと宣言する。』とパウロが警告し、あの『不法の人』ユダ・イスカリオテの予表した『滅びの子』の顕現であろう。

彼は聖霊を受けた聖徒のひとりとなるが、『北の王』の慫慂によって『聖なる契約を離れ』、聖徒の試練を受け付けず、却って奇跡を行う力がサタンの魔力に入れ替わっているにも関わらず、自分の『不思議を行う力』が依然として神からのものと吹聴して『アンティ・クリスト』となり、遂には己を神に似せて、サタンの欲のままに自らを偶像とするに及ぶという様が浮かび上がる。

だが、それこそは主イエスが終わりの日の預言の中で警告していたことであり、この背教の誘惑を退けなければ聖徒としての身分を失い、『ひとりは連れて行かれ』ても、その者は地上に残され、『鷲の居るところ』に身を晒すことになるのであろう。(マタイ24:23-28)

この世の多くの人々は、『不法の人』の崇拝を受け入れてしまうのだろうか?
既に、『大いなるバビロン』 も過ぎ去っており、人々は新たで合理的に見えるであろうこの背教の教えに魅力を感じるのであろうし、聖徒の教えの他には信仰心を満たせるようなものは何も存在していまい。今日のキリスト教大国である米国が、キリスト教の背教に堕した宗教の擁護者になる蓋然性にも確かに頷けるものがある。その下で『野獣の像』も、過ぎ去った野獣のように口を開いて再び冒涜を語りはじめるのであろう。
 
黙示録は『野獣の印を受けない者には売り買いできないようにさせる』ともある。
その主張するところは『神の王国』の必要性を無視し、人間の力を誇大視させる人間主義となるのであろうか。
病気や死までも、人の力で克服できるとなれば、倫理を問う神など無くて良いと思い兼ねないのが『この世』の趨勢ではないだろうか。

『不法の人』が『荒す憎むべきもの』と看做し得る理由には二重の意味がありそうに見える。
第一は、西暦70年にはユダヤの盗賊や愛国主義者が神殿を占拠して、その滅びを呼び込んだように、アンティクリスト崇拝は名ばかりで、神殿を占拠しながらもけっして神のものでなく、もはやサタン崇拝と化して滅びに定められてものとなっていること。その崇拝は聖徒による『常供の捧げ物』を停止させてしまい、古代と同じく聖なる所を血と乱脈で全く荒らしてしまうのであろう。
そして第二に、「憎むべきもの」というヘブライ語に含意される「偶像」が、最後にしてそれ以上ない究極の偶像崇拝をそこに存在するであろうことである。

この崇拝は、おそらく聖徒たちを除き去る段階から七つ頭の野獣も関わっており、聖徒攻撃後すぐに『大いなるバビロン』をも葬り去るが、それから『荒す憎むべきもの』の滅びにまでそう長い時間は残ってはいない。なぜなら『不法の人』もキリストの『臨御の顕現によって滅びうせる』のである。
ダニエル書では『聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する。』と記されている通りにである。(ダニエル12:7)
したがって、『終わりの日』とは決して「世代」に亘るように長いものではなく、やはり数年という短さで駆け抜けるのであろう。聖霊が再降下して始まってしまえば、『終わりの日』もあっという間に過ぎ去ってしまう。 『主は、御言を厳しくも速やかに、地上に成し遂げられる』とパウロが引用したのはこの事ではないだろうか。(ローマ9:28)

そこで『荒す憎むべきもの』を崇拝する『この世』は、聖徒を除いた後、いそいそと最後の攻撃の準備に取り掛かる。
それが即ち『ハルマゲドン』の戦いであり、サタン、脱落聖徒である『偽預言者』、獣の像の崇拝を推進する国家から出る、汚れた霊感のどれもが、聖霊の声を信じた人々の集団である『シオン』をも滅ぼすようにと揃って声高に唱えることであろう。

もちろん、その結末は『滅び』となるのだが、人々は自らの悪い内面をさらけ出し滅びに値する者であることを神の前に示してしまうのだろうか。(マタイ7:14)


◆それらの日々の後に

その期間が満了したときの管理(オイコノミア)が七つに分割されることの無いメシアの下の一致であれば、それは「天にある諸権威」(エフェソス3:10)までをも一つにまとめるものとなる。つまり、天界においてもサタンの存在のために不一致があり、彼はキリストの兄弟らを日夜訴えているのであろう。

彼らはキリスト権威の実現によって地に落とされるが、それによって創造界の一致の実現は地の問題に集約される事になる。最後に出現する神の王国によってこれまで続いた「七つの時」、つまり分割され遂に世界統一を成し遂げることを許され無かったサタンを頂点とする支配が終るとき、全てを治める機構が現れることになる。それを聖霊の霊感は「支配」とはせず「家政」(オイコノミア)と呼んでいる。天と地の全てが、これによって一致をみるからであろう。そこでは「支配」のように権力の強制を特色とはしないのであろう。アガペーの原理が推動する世界だろうから。 ⇒ 「人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるか」

オイコノミアは、「キリストの下にすべてを集める」事を目的としている以上、これは千年王国を表しており、その後に「キリストがすべてを神に帰す」のであり、それは創造物の筆頭、「独り子」としての格別な立場、また、神への忠節(ハーシッド)を通して神の神たる事を立証したその神の座の要としての働きの功からして、全く相応しく、また、疑いの余地なく論理の整合を見せるものである。 

『この世』では、家族については同一家計に属すが、ほかはすべて報酬を要求し合う「他人」である。 そうしなければ、人はこの世で生きてゆくことも覚束ないのであり、それがこの世の非情な掟となっている。 基本的に、人はこの世において他人関係と金銭とによって生き、また動かされているのである。

その愛と一致を押し広げることを阻んでいるのが、人類共通の『罪』であり、その最たる悪魔はけっして一致の絆とはならないに違いない。

しかし、『神の王国』では被造物の全体が、創造者を父とする兄弟関係に入るのであり、誰も他人となることはない。
そこでは相互報酬を司る金銭も、市場も存在の余地が無くなってしまい。人を動かすものは「欲」から「愛」へと変化する。

したがって、もし、キリスト教の指導者がテモテ第一6:10などを根拠に、「富む事も金銭も、それ自体は悪いものでも罪なのでもなく、金銭への愛が悪なのだ」と声高に主張するとすれば、その人はキリスト教の本質的な世との異なりを十分に理解しているのだろうか?

実に、「金銭」とはこの世の「他人関係」の証であり、交換による相互報酬制度という「貪欲」の相互牽制のための、まさに人間の「罪」に対する応急処置のための器ではないか。

そこで富んだとしても、その人にどんな公平性や正当性があるだろうか?
市場そのものが富の偏在と不公正、人間の差別の温床となっているのである。

それはオイコノミアをまさしく「家計」として家庭の中に押し込めてしまい、この世を殺伐たる他人への無関心と無慈悲を誘発している原因ではないか。

それを、「金銭や富が悪いのではなく、その用い方によっては、悪を行うことになる」などと言うキリスト教指導者は、信者からの寄付が手元に入ってくるさまに、目を細めてはいないのだろうか。
そのようなキリスト教の教師は、決してこの世を根本的に糾弾できないであろう。(ヨハネ16:8) 金銭そのものに、我々人間の『罪』が刻印されているに等しいからである。

金銭は人の遂げられる欲望の範囲を本人に知らしめるものであり、そのように教えられながらも、必ずしも『顔に汗して働いた』者が多くを得るわけではなく、人は互いへの報酬を減らそうと努め、その結果として、金銭への隷属がもたらされているのである。

『金は身の守り』と言ったソロモンでさえ、その不公正のもたらす非情さを意識していたに違いない。金銭とは様々な奪い合いによって偏在するものであり、生きるのにそれを必要とする弱い人々からは遠ざかり、同情心の薄い人々のところに堆く積まれるものであることを歴史は再三証明してきたのである。

確かに、キリストの一行は寄付を入れる金箱を携え、貧しい者への施しを行っていた。そこで、キリスト教は富の再配分を励行させるものではあるが、それがキリスト教のすべてであれば、富者の優越感を増すところまでで終わってしまう。単に施しがキリストの教えの終着点であるならば、それは慈善団体以上のものにならない。

そして、世相の通りに、贅沢にも飽きた富者にとっての「最大の贅沢」は「施し」をひけらかすことになってしまうのである。その貧者を必要とする施しのエクスタシーは、富者ばかりでなく、多くの慈善活動家をも捕える事もあり、動機の密かな変質により、真の解決から的を外す見方をさせ兼ねない。それが神のオイコノミアと言えるだろうか?

施しについては、確かに聖書の例えにあるように、『この世の子らは、光の子らよりも賢く振る舞う』(ルカ16:8)のであるが、この例えは、この世の富を用いて聖徒の必要に応えるという、『一杯の水を差しだす』(マタイ10:42)信徒らの親切を描き出しているのであろう。しかし、これは本来的に慈善をキリスト教が勧めているという訳では無い。

しかし、神のオイコノミアはそのようなものとはまったく異なっているのである。
それは、慈善の仮面も剥がし、互酬制度さえも終わらせることで、根底からこの世と決別するのである。(ヨハネ12:31)
なぜなら、人々は『罪』を去り、互いに貪欲の牽制をする必要の無い状態に入ることで、金銭そのものを無効化してしまうからである。それこそが『神の王国』の成し遂げる『贖罪』の栄光であろう。

神のオイコノミアである王国では、サタンの中傷によって混乱し、苦難に満ちるようになってしまった創造界に神の企図を回復させる前段階としての人間の贖罪を成し遂げ、その為の祭司制度を成立させるべく、聖なる民を選んで王なる祭司とする。これがエデン以来の隠されてきた奥義「ミュステーリオン」であったのであり、この一端をパウロが解き明かしていたのである。 (コロサイ1:26)

この素晴らしい『奥義』を、「この世」が『目も見ず耳も聞かない』(コリント第一2:9)のは、人類社会の全体が創造者として神を認めず、意に介さないからである。そこにあるのは利己心であり、サタンの頭が分割されているように、そこに一致などはあり得ない。
聖書の唱える「愛」は、世俗的で目先の欲得にさもしい直情的な人々には「儲かる」こともなく、ほとんど価値のないものとなるからである。 (コリント第一2:9/2:14)

そのような人々にとって、輝かしいオイコノミアも永久にミュステーリオンのままに終わってしまうであろうか。
実にイエスの語ったことは『隠されたこと』であったのだ。
『だから、彼らには譬えで語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。』(マタイ13:13)

七つの頭のある野獣が姿を現すときに、この世の人々はそれに驚いて迎え入れてしまうという。
だが、その人々の名は『世の基が置かれて以来、命の書には書かれていない』(黙示録17:8)

最後に残る究極的偶像崇拝は、今日にみるところの人物崇拝や、組織崇拝と性質を同じくするものながら、それらが煮詰められた姿なのであろう。
それゆえ、今からその傾向のある教えから離れて立つことが強く求められよう。(マタイ24:26)

だが、今日のキリスト教界に以上の理解を求めても拒絶されるばかりとなろう。宗派の正しさ、つまりは「人間の義」に拘るだろうからであり、その延長線上に『不法の人』の背教も登場するであろう。(マタイ15:9/24:15)

我々が直ちに、これらの「人間の義」を離れ『神の義』を求めるべきは、人類の益を図って『神の王国』という一致あるオイコノミアをキリストに委ねた神に対する支持と忠節な愛から離されないためである。(エフェソス4:14)





                 © 林 義平
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 「誤解されてきたバベルの塔」 





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神の家から始まる裁き 試練と背教の時代


時は否応なく進み、状況は刻々と変化を遂げるものである。
西暦60年代に入り、今までにない迫害にキリストの弟子らは直面していた。
その原因を作っていたのは、キリスト教とは相容れないユダヤ民族主義の各地での高まりであった。

そこでは使徒ペテロまでが、パウロのように手紙を介して、ポントス、ガラティア、カッパドキア、アシア、ビュチュニアとアナトリア半島北部方面の聖徒たちに励ましを送る必要を感じ取っていた。
 

ペテロは、迫害によって動揺し兼ねない人々に『あなたがたが召されたのはこのためだ。つまり、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからである。』と記して窮境に陥った弟子らを励ます必要を察知していたことを示す。(ペテロ第一2:21)

それゆえ『あなたがたの間に降りかかっている火は試練として臨んでいるので、何か予想外の事態に面したかのように動揺し怪しむべきではない。』『キリストの名にゆえに謗られるのであれば、あなたがたは幸いだ。栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿っているからである。』(ペテロ第一4:12.14)

迫害の困難な状況の中で、彼らには守るべき清さがあった。
即ち、『悪を行って苦しみに遭うよりは、善を行って苦しみ』『肉体の欲望を避け』『王や総督に従い』上位者を敬い、キリスト教徒の自由を『悪の覆いとはせぬよう、むしろ自らを神の奴隷の身分に置き続けるように』することで、彼らの主に倣う歩みを続ける必要があった。
そうするなら『諸国民の間にあって、常に見事な行状を示し、あなたがたを悪行者とする彼らが、来臨の日には却って神を崇めるようになる』ともペテロは言う。(ペテロ第一2:12)

彼らに約束されたのは『朽ちず汚れず、褪せない資産を受け継ぐ』ことであり、その彼らは『“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎのために選ばれた』者たちであることが明記されており、ペテロは彼らがモーセによって律法契約が目指しながらも、それが遂に生み出さなかった『選ばれた支族、王なる祭司、聖なる国民、神の格別な所有に帰する民』となったことを宣しており、これ以上ない仕方で彼ら弟子たちが霊を受けた『聖なる者たち』であることを云い表している。(ペテロ第一1:2-4)


まさしく、彼らは中にはユダヤ人ではない者も多かったが、いまや『新しい契約』に共に預かる者らであり、生涯を通してその契約を守ることで、神の御前に信用貸しされた「義」の立場を聖なる行状によって守る務めがあった。(ペテロ第一2:10/ローマ8:1/コリント第一6:20)
彼らは、聖霊が注がれることで任命された『聖徒』であり、キリストと共に『神殿』即ちヘブライ語においては『神の家』を構成することになる格別な弟子であった。即ち、裁きの始まる場としての『神の家』である。 (ペテロ第一4:14/コリント第一3:16/エゼキエル9章)

そして今や、あのペンテコステの聖霊降下から30年が経過し、キリストの初代の弟子たちには新たな時代環境の変化が臨もうとしていた。

西暦40~50年代の『順調な時期』は去りつつあり、弟子たちは厳しい現実に直面し始めていた。

しかし、聖霊の降下が止んでしまったわけではない。では「聖霊の賜物」というこれ以上ないほどの恵みの最中にあって、なにゆえ当時のキリストの弟子たちには多くの困難が臨んだのか。

ペテロは新たに直面することになった時代をこう呼んだのであった。
『今や、裁きが神の家から始まる時が到来したのだ。』(ペテロ第一4:17)

キリスト・イエスと同世代の弟子らが齢六十を越える老境に達しつつある西暦60年代に入ると、彼らの周囲は目まぐるしいほどに変化を始めていた。それは初代の聖なる者らに臨む試練の時であり、彼らは『新しい契約』をその生涯を通して守り通すか否かの裁きに面したのであった。


◆老齢に達した初代の聖徒

西暦60年に入ると、パウロは難船を経ながらもローマに送られ、その後の二年間の軟禁生活に入る。
そして弟子たちの中心と目されていたエルサレムではエクレシアの第一の柱である「義人ヤコブ」、即ちキリストの弟を62年に殉教で失う。
そして、64年にはローマ大火が起きている。火災の下手人とされたキリスト教徒への迫害が始まったともされているが、その以前にユダヤ教徒によるキリスト教排撃の火の手が各地に上がっていたのである。

かつては、激しい迫害に敢然と立ち向かった者らが徐々に去り、「義人ヤコブ」の仲裁を得て比較的平穏に過ごせてきたキリストの同世代にも、はっきりと試みとなる時節が近づいてくる。

それはユダヤ民族の愛国的メシア願望による、思想の先鋭化であり、歴史の記録も教えるように、それまでは律法に従うことが宗教的責務であったものが、民族社会的義務の様相を帯びてきたのである。パレスチナばかりか、各地の居留民の間でもユダヤ愛国主義は異様な高まりを見せていた。彼らにとって、イエス派は「悪しきユダヤ人」にほかならず、そのころのシカリオイと呼ばれる集団は、国粋主義者でない要人を暗殺するようになってゆく。

他方、ローマ側から観る場合、ユダヤ教徒とユダヤ・キリスト教徒の違いは判然とはしない。そこで彼らはユダヤ人とだけ見做される。そうしてキリスト教徒は、ユダヤ教徒からも、諸国民を含む帝国側からも圧力を受ける難しい立場に立たされることとなる。 


神殿の石の床に跪いてイスラエルと神との執り成しの祈願を日々捧げ続けていた為に、その膝の皮膚がラクダのようになっていたという「義人ヤコブ」の願いも空しく、ユダヤの体制は彼の兄ナザレ人イエスをまったく顧みることなく、「ユダヤ人の良心」とも言われたこの義人までを除き去ってしまった。それは巻き起こりつつあった動かし難く強まる時代の渦潮の影響であり、ユダヤ民族を中心に巻き込んでやがてその体制をもろとも沈めてしまうことになる。それを媒介していたひとつに、帝国が差し向ける総督の質の低下が関わっており、ヤコブの死後着任したアルビノスは横暴な支配を行い、少なからずユダヤ人の義憤を買っていたのだが、続いて赴任したフローロスに至っては、ユダヤを挑発しているとさえ云われるほどの圧制を行ったとされる。
 

使徒パウロは、このヤコブ殉教の報をローマで受けたことであろう。
おそらく翌63年に一度釈放されたパウロは、『自分もアブラハムの後裔にしてベニヤミン部族の者であり』『わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されても厭わない。』とまで云うほどに同朋ユダヤ人を深く気遣い「ヘブライ人への手紙」を認ためたのであろう。(ローマ11:1 /9:3)
そこで、新約聖書中にパウロらしからぬひとつの書簡が残ったのは、ヤコブの殉教がきっかけであったように思われる。

パウロは自分の評判がユダヤ人の間で頗る悪いことを考慮したようで、その書簡は頭書に自分の名を出さない唯一のものとなっている。
「ヘブライ人への手紙」と呼ばれるそれは、パウロによってヘブライ語で書かれたのであろう。ユダヤ人に向けて書かれたそれが、後になってからおそらくはギリシア語を話す諸国民の信徒らの依頼で、ルカやマルコのようなヘレニストである誰かによってギリシア語に訳されたため、文体がパウロらしくないかも知れないが、これほどの認識を以ってこの画期的内容を記せる人物が、この「奥義の家令」を除いて誰か他に居ただろうか。

この書簡ではキリストのモーセに勝ることが強調される、その祭司権の優越性、様々な旧約の事柄がキリストにあって成就したことを教え、『律法は来るべき事柄の影であったが実体そのものではない』と古参のヘブライ人の知覚力を刺激する。(ヘブル10:1)
イエスこそが、繰り返されることの無いひとつの永遠の犠牲を捧げたことを多くの章を費やして語るパウロの言葉は、実にあと三年で勃発することになるユダヤ騒乱と、その結末としてローマの攻囲の下に七年後に歴史上からまったく消え去ってしまう神殿祭祀について、今日の我々のように時代の下流から見る場合、この教訓がまったく重要で危急に培うべき認識であったことが分かる。

このヘブライ書簡で、パウロはキリストについてこう述べている。
『キリストは、時代の終わりに*、ただ一度限り、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために来られた』(ヘブライ9:26)*(シュンテレイア アイオノーン)
この『時代の終り』(あるいは世代)というのは、何の時代の終りであるかといえば、それはモーセの律法の時代の終りを指して、彼がユダヤ教のものの考え方から離れるようヘブライストらに語りかけていたというところが順当な捉え方であろうし、もし『世代』と解釈するにしても、キリストを退けた『世代』への『火のバプテスマ』による、ユダヤ体制の崩壊を含意して注意を促していたのかも知れない。(マタイ3:12/ルカ19:41-44)


動物の犠牲によるユダヤ律法体制と、イエスの犠牲によるキリスト教とは、元来、両立し得ないものであり、その対立が愛国主義の先鋭化と共に動かし難い相違として浮かび上がり、メシアを退けたうえヤコブにまで殉教の死を与えたユダヤは、悲惨な終局に向かって更にその行き止まりへの道を猛然と突き進んでいた。


それゆえ、パウロが後半生を捧げて教えてきた「業」に対する「信仰」の優位を、今やこれらのヘブライの初期キリスト教徒がしっかりと把握し、来るべきユダヤ体制の終焉を切り抜ける重大性は強調し過ぎることが無いほどであったことであろう。

こうして、パウロは本来ヤコブのテリトリーであったユダヤ人らに、態々その危急のゆえに憎まれ顔を出してまで同族に語らずにはいられなかった。その理由はヤコブ殉教によるそのヘブライストたちの中心的「柱」と目された「義人」の不在であったろう。(ガラテア2:9)

使徒たちをはじめとする初代の弟子たちは、自分たちの世代のうちにキリストの帰還が為されると考えていたことは聖書中に見られる通りである。使徒パウロも『生きながらえて主の来臨の時まで残る』と自らのことを西暦50年頃に記している。(テサロニケ第一4:15)

だが、彼らの期待通りにキリストの臨在は起こらなかった。そしてパウロの認識も後に変化を見せる。それから十五年を経た最晩年の西暦65年頃には、二度目の逮捕を受け『わたしが世を去るべき時は来た』と言っている。(テモテ第二4:6-8)

その後、パウロはペテロとほぼ同じ時期に処刑される。パウロはローマ市民であったためか斬首となり、磔刑を宣告されたペテロは、主と同じ様で死ぬことを憚り、自ら望んで逆さに磔されたと伝承に伝わっている。
「聖なる者」(ハギオス)は、生涯を通して忠節を保ち、主に倣った死を遂げるべき「新しい契約」に聖霊によって預かっている。

この初代の弟子らに臨んだ試みの時期に、使徒のペテロも警告の書簡を各地へ送る。
まさしく、これは律法体制の「終わりの日」であるばかりでなく、初代の「聖なる者たち」が生涯の終わりの時期を迎え、彼らの全体が試みられ裁かれる「使徒時代の終わりの日」ともいうべき時節に入っていったからである。

だが、ペテロは聖霊の霊感を受け、当時を越えて更なる将来に目を向け預言して続ける。
『終りの時には、嘲る者たちが嘲りながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。』

『しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、清く信心深い行いをしていなければならない。』(ペテロ第一3:3-)

理知があり神を認識できる創造物には、押しなべて創造者への見方が問われるのであり、その為にサタンという存在は、神が初めから彼を反逆者として創造したのではないにせよ、その不忠節を教唆する歩みを通して、他の理知ある創造物を試し、その結果として意図せずに創造物の自由意思を担保する役回りを負ったのである。
それゆえ、地に来た御子にあってさえ、四十日の試練の後にサタンからの試みを受けることを神はよしとされたのであった。

では、その御子キリストに連なるべき聖徒たちはどうか。
その「聖霊の賜物」に表される「召し」に相応しい生涯を通すことができるだろうか。即ち、イエスへの忠誠の歩みを主の来られるまで、あるいは死に至るまで行い遂げるか否かは、彼らの「救い」に関わるところであり、ひとつ間違えればユダヤ体制と共に滅びに巻き込まれ、そのうえに『神の王国』のひとりと数えられず、真のアブラハムの裔とされることからも退けられてしまうのである。それを狙って猛り狂うサタンは獅子のように獲物を求めて歩き回るかのようであることをペテロは警告する。(ペテロ第一5:8)

それは聖徒であればユダヤ人も異邦人も変わるところはない。残された生涯の間に『清い行状と崇敬の思いを以って主の日を待つことを十分に心に留める』ことは彼らの最大の務めであった。(ペテロ第一3:11)

聖徒であれば、彼らの死後は天に迎え挙げられ、キリストと伴なる聖なる民の一員と成り得るが、もし、地上の歩みを相応しく終えていないなら、彼らの目覚めたときに灯火の油は足りず、『愚かな処女』に例えられるとしても仕方のないことであるが、それはもはや花婿と宴席を共にはできず、外の闇に残されるばかりである。なぜなら、天に召集されてからでは、サタンは放逐された後で、既に天におらず、試みの受けようもなく、彼らは地上の歩みであってこそ、主に忠誠を示せたはずであった。(マタイ25:1-12)

そして、このような聖徒にとっての試練の時代は、ユダヤ体制の崩壊の後も引き続いていったことは、その後の書簡も知らせる通りである。彼ら契約に属する者たちの間での分離は依然として厄介な問題を引き起こしてゆくのである。


◆使徒たちの終わりの日

西暦67年頃にペテロとパウロが相次いで世を去ると、第二世代ともいうべき聖徒らも含め、なお残された者たちがいた。
既にイエスの弟ヤコブの亡き後、そしてペテロとパウロも去った後に、トランスヨルダン方面の山地にエルサレムの荒廃を逃れたユダヤ人の弟子らの中から、引き続き警戒を緩めることのないようにとの声が上がる。

イエスの末の弟ユダが、『一度限り伝えられた信仰を守って厳しい戦いをするように』と書簡に記して兄ヤコブ亡き後にその声を上げた。
仲間たちは既に一通りのことを学んだが、その聖なる民にもう一度注意を喚起したいと彼は言う。(ユダ3)

『愛する人たちよ、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出せ。 彼らはあなたがたにこう語った。「終わりの時には、嘲る者どもが現れ、不信仰な欲望のままに振る舞う」と。 この者たちは、分裂を引き起こし、この世の命のままに生き、霊*を持っていない者なのだ。』(ユダ18-19)*(プネウマ「聖霊」を含意)

ここに『終わりの時』の言葉が現れており、そこでは仲間内からの異分子の出現について容赦なく描写する。
『これらの者は、無遠慮にもあなたがたと愛餐を共にしても私腹を肥やすばかりで、風に吹かれて行き惑う水無き雲、実を結ぶことなく枯れ果て、晩秋に根扱ぎにされた樹木、その身の恥を泡のように吹き出す海の荒波、永遠の下界の闇と暗さが定め置かれている迷える(軌道を外れた)星辰』。(ユダ12-13)

これらの者らは聖徒の交わりにあって意味なく、その欲望のままに過ごすばかりで、神の聖霊の祝福にも実は与ってはいないことが暴露される。この輩には聖徒としての印である聖霊があるように装うとしても、実はそれを持ってはいないとも警鐘を打ち鳴らしている。

この『終わりの時』が先に逝った使徒たちの予告した時代であり、ここでユダはペテロの言葉を引用しているが、パウロも、荒野のイスラエル人たちの不行跡について触れた後に、このように語っていたのである。
『これらの事が彼らに起ったのは、他の者に対する警告としてであって、それが書かれたのは、時代*の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(コリント第一10:11)*(アイオノーン「世代」とも)

これは西暦七十年のユダヤ体制の「終わり」に近づいたペテロやパウロの世代の「終わり」だけを意味したのだろうか。

しかし、それから30年ほど後の、第一世代のその最後を飾る使徒ヨハネはユダに続いてこう記している。
『子供たちよ。今は終りの時である。あなたがたが以前から反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時であることを知るのである。』(ヨハネ第一2:18)

これらの書簡の内容を時代に沿って追ってゆくと次のような結論に至る。
即ち、聖徒たちの第一世代が老齢に達し始める頃から、彼らへの試練が強まり、その後もその状況が続き、それは第二世代以降まで続き、遂に聖霊で油注がれた聖徒のすべてが地から消え去るに至るまで続いていたという事になろう。その間に聖徒らは試され分離が生じていった。

これについて使徒ヨハネは『反キリスト』を挙げており、それは『キリストが肉体で来たことを証ししない者』であることも知らせている。

しかも『彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒に留まっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが明らかにされるためである。』とも語る、即ち、『反キリスト』と呼ばれる者らは、以前には彼らと共に居た者らであることも教えている。

では『反キリスト』は聖徒であったのだろうか。
ここでイエス自身が語っていたことで留意する価値のある言葉をマタイの福音書に見出す。
曰く『その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力ある業を行ったではありませんか」と言うであろう』。(マタイ7:22)

『悪霊を追い出す』権威を持ち、多くの力ある業を行う者が奇跡の聖霊を賜った聖徒でなくして誰であろうか。しかし、聖徒の身分は不動のものではない。
それゆえに『新しい契約』が取り結ばれたのであり、契約とは不確定な事柄があるところで必要とされるものではないか。

これについてパウロはこう言っている。
『最初の確信を最後までしっかりと持ち続けてこそ、我らはキリストに連なる者となれるのだ。』(ヘブル3:14)

ここで我々は、キリスト自身の言葉も思い起こすであろう。
『狭い門から入るようにせよ。滅びに至る門は広く、その道は広く、そこから入って行く者は多い。』(マタイ7:13)


したがって、聖霊を灌がれた者と雖も、『キリストの掟』を全うせず、その清い立場を敢えて汚すならば、キリストは決して彼らを是認はしない。マタイの例えの結末はこうなっている。
『そのとき、わたしは彼らにはっきりと、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」。』(マタイ7:23)

主イエスは、これに類する例えを多く残されていて、他にも「小麦と毒麦」「引き網」「結婚式」などが思い浮かべられるところである。

これらの離れる者たちは、単に「罪」の傾向が彼らの忠誠の邪魔をしたということにはならない。ヘブライ書でパウロが言うように、そこでは『一たび、光に受けて天からの賜物を味わい、聖霊に預かるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後なお堕落した者は、再び悔い改めに立ち帰らせることはできない。神の子を自分の手で改めて磔刑に付し侮辱する』とされる者となるのであり、『故意に罪を習わしにするのであれば、もはや何の犠牲も残されてはいない。』(ヘブル6:4-6/同10:26)
これが即ち、キリストが『けっして赦されることの無い罪』と呼んだものである。(マタイ12:31)

では初期聖徒たちの終わりの日の試練に際して、『新しい契約』を離れてしまい、聖霊によって油注がれた立場を汚してしまった者たちが出たのだろうか?
使徒ヨハネの言葉、『反キリスト』が彼らから出てきたという指摘には、そうではないという反論の余地が無いようである。


キリストの仮現説、つまり『キリストが肉体で来たことを証ししない者』としてのグノーシス主義というユダヤ教とキリスト教の中間派生的宗教の台頭をヨハネは強く懸念していたであろう。
その教えには、ユダヤ体制の崩壊によってユダヤ人が感じたに違いない失望が込められており、すべての造物主は不完全な劣った神(デーミウルゴス)であったので、この世の有り様もすべては虚しいとする。
それらの「デーミウルゴス」の一人には何とYHWHまでが、「ヤルダオバート」という別名ながら悪しき神に含まれているという、根深い神への失望と恐るべき誤謬の入り混じったものとなっていった。

グノーシス派の創唱者の一人と目されるケリントスなるユダヤ人を使徒ヨハネは個人的に知っていたと古代資料が語っている。
ヨハネはキリストが間違いなく肉体で来られたという『この教えを携えずにあなたがたの許に来る者を迎え入れても、挨拶の言葉をかけてもならない』と命じていたが、ヨハネがエフェソスの浴場にケリントスの姿を認めると、そこから出て行ってしまったとさえ伝えられている。
このような偽教師の存在は、確かにしっかりと使徒に追随しないような聖徒らには紛らわしいものであったことであろう。グノーシスではキリストの教えとまったく異なる教理と伴に、キリスト教の自由さとは不釣合いな禁欲の道徳も教えられていた。

この使徒時代の終わり以降に現れた様々な派はケリントス派だけでなく、イエスは予告された預言者ではあっても普通のユダヤ人であったと見做したエビオン派は、あのエルサレムの滅びをトランス・ヨルダン地方に逃れた人々から派生したと言われる。
また、自分たちの教祖が天啓を受けたと主張するエルカサイ派は、使徒ヨハネの最晩年頃に東方パルティアに出現したらしいが、旧態依然として全信徒に割礼を強制していた。そこからマニ教が興されるのは時間の問題となっていた。
これらはユダヤ・キリスト教からの変形であり、ユダヤ教を引きずった人々の好感と支持を得て、神秘主義と結婚禁止と禁酒などの律法化に再傾斜していった。

これらの人々も、初めはヤコブの指導の下にあったのであろうが、エルサレムの柱が抜けてしまった後に、分派は分派を産んで広がってゆく。その中にあってキリストの末弟ユダは、かつての使徒たちの言葉に注意を喚起し、残された使徒らも迫り来る背教の侮り難い勢力との日々の戦いを余儀なくされていった。


◆終末の聖徒の試練

この時代の試みの時期に離れ去った者らがあったということから、我々の関心が「世の終末」の聖徒たちに向けられて不思議はない。即ち、将来に再び現れるであろう、聖霊を受ける人々と、そこからの異分子の出現についてである。

初期の聖徒たちに試練の「終わりの日」が臨んだように、将来の聖徒らも地上で試されなくてはならないに違いない。『あなたがたは王や高官の前に引き出され、それは証しをする機会となる』と予告された主の言葉は終末に関わるものである。(ルカ21:12-15)
したがって、終末の聖徒らは、聖霊の言葉を賜って世の為政者たちと対峙しなければならず、そこで迫害は当然覚悟されるべきものである。(マタイ10:17-42)
そして、初期と同様に、聖霊を受けていながらも試みに篩われ、契約から脱落する者があるとしても驚くべきことではない。

まさしく、終末への示唆に富むダニエル書の記述にそれを見出すのである。
『キッテムの船が、彼に立ち向かって来るので、彼は脅かされて帰り、聖なる契約に対して憤り、事を行うだろう。彼は戻って行き、聖なる契約を捨てる者を顧み用いる』

この部分は、ダニエル書の記述の終わりも押し迫った11章30節に在り、いよいよ世界の終わる時が近づいた場面での『北の王』と呼ばれる政治勢力の、対抗する『南の王』との『押し合い』の過程で生じることとされている。

ここで、『北の王』は『聖なる契約を捨てる者を顧み用いる』と明瞭に書かれていることは注目に値する。
これこそは、聖霊で油注がれ、その奇跡の賜物を一度は得た者らが、『新しい契約』から離れてしまうが、それを『北の王』は『用いる』というのである。
加えて、この続く部分も衝撃的である。
『彼から腕(軍勢)が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てる』

こうして、この謎の言葉『荒す憎むべきもの』の姿について我々は幾らか進んだ理解に入ることができる。
即ち、『荒す憎むべきもの』は『神殿と城郭』また『常供の燔祭を取り除く』という言葉によって、聖なる者らの捧げる崇拝を中止に追い込むものであり、それは『腕』とよばれる権力つまりは軍事的強制を用いてそれを成し遂げるということであろう。
これこそは、黙示録に在る『七つ頭の野獣』の行うところでもある。
そして、そこには『聖なる契約を捨てる』元聖徒らが関わると云う。

ここで思い起こされるのが、パウロがテサロニケの聖徒らに書き送っていた、『キリストの臨御』の起こる終末に関する次の記述である。
『だれがどんな手段を用いるにしても、それに騙されてはならない。まず背教が起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れてからでなければ終わりは来ない。』(テサロニケ第二2:3)

ここで『背教』という言葉が挙げられている。これについてパウロは、彼の当時もその『不法の秘事が働いているが、それは今のところ抑制しているものが無くなるまでのことであり、その後に「不法の人」が姿を現す』と言って、「背教」と「不法の人」とに注意を向けさせている。(同7-8節)

その『不法の人』にはサタンの働きが在って『あらゆる偽りの力と、徴と、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行う』と言う。

背教への抑制力であった聖霊が地上を去った後に、つまり西暦第二世紀以降の古代からパウロに語っていた「背教」と「不法の人」が現れたかと云えば、そのように考えねばならないわけでもない。

なぜなら、この書簡を記していた時分のパウロ自身の認識では、キリストの臨在は自分の生きている間に起こることを想定していたが、実際には後に自分の死を悟るように変化しているでのあるから、『今のところ抑制しているものが無くなるまでの』時代の終りとは、パウロ死後の古代を必ずしも想定する必要はない。


むしろ、『不法の人』とは、聖霊の賜物のような力ある業を行う偽預言者となるのであろうから、それは単に異なった教理を説く指導者では役不足なのであり、プロテスタントが16世紀に唱えたような『不法の人』をローマ教皇と観ることさえも、器としては不十分と言えるほどである。

なぜなら、教皇と雖も、『聖徒』のような奇跡の賜物も、あるいはそれに匹敵するものも何ら持たなかったからである。終末に勃興する『背教』に比べれば、今日のキリスト教界の逸脱など取るに足りないほどであり、一たび聖霊を受けた者らの背教は究極的な神への抗いとなり、この世に最後をもたらす最悪の宗教となろう。
だが、実際の『不法の人』が不思議な力を持って聖徒に対抗し、また聖徒を征服しようとも、彼らの霊が神の聖霊の価値に勝ることはない。

それはパウロが『ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。』としているように、モーセの奇跡に立ち向かったエジプトの祭司らの限界と同じくなろう。(テモテ第二3:8)
というのも、黙示録がこの点を語っているからである。

『また見ると、龍の口から、獣の口から、偽預言者の口から、かえるのような三つの汚れた霊が出てきた。これらは、徴を行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に戦いをするためであった。』(黙示録16:13-14)

こうして我々は『新しい契約』から堕ちた元聖徒の偽りの栄えとその末路を眺める視座に就くのである。即ち、彼らはモーセに逆らった異教祭司の対型となり、ある程度の不思議な力を発揮はするが、それは『かえる』止まりである。なぜなら、エジプトの祭司が行えたモーセの真似事は『かえる』を出すところで留まってしまったように、必ず限界を迎え、ハルマゲドンの決戦を用意し、シオンに対して全人類軍を整えても、その行く先には『火の湖』が定め置かれているのである。(出埃8:7・8:18-19/黙示録20:10)


◆背教の行方

だが、それでも『不法の人』の行うところによって世の相当数の人々が聖徒を支持するところから離れることは、上記の引用文にも示される通りなのであろう。
このような『不法』の働きは初期聖徒の時代にも働いており、それはやがて聖霊の油注ぎを受ける者らが絶えて、キリスト教界がキリストの教えから離れ、他の宗教と本質的に変わるところのないご利益宗教に堕した以上の『背教』となることであろう。

『不法の人』は『彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の神殿に座して、自分は神だと宣言する。』ともパウロは書いている。(テサロニケ第二2:4)
これを推進するのが『北の王』であろう。『この王は、その心のままに事をおこない、すべての神を越えて、自分を高くし、自分を大いにし、神々の神たる者にむかって、驚くべき事を語り、憤りのやむ時まで栄える』(ダニエル11:36)
そして、この王は旧来の宗教を顧みることをしないとも預言されている。
『彼はその先祖の神々を顧みず、また婦人の好む者も、いかなる神をも顧みない。彼はすべてに優って、自分を大いなる者とする』(同37節)

それゆえ『北の王』が新しく自分を崇拝させる宗教を興したとしても不思議はないようだ。また、旧来のすべての宗教『大いなるバビロン』を何ら顧みず、却ってこれを破滅に至らせることにも躊躇はないのであろう。そこには自分への崇拝が既に存在しているからである。

それを支えるのが元聖徒の『偽預言者』らであり、彼らの教唆はまず聖徒を攻撃させて地上から一掃し、次いで諸宗教「大いなるバビロン」も亡きものとする。こうして『北の王』を至高の賛美へと高め讃えさせるが、それも長くは続かない。
なぜなら、聖霊の声に信仰を働かせる人々の集団である『シオン』を『北の王』が軍事力を誇示して恫喝したところで、この王は天使長ミカエルの手に掛かり、あっという間に『人手に拠らず』歴史の舞台から消え去ってしまうからである。(ダニエル11:45/8:23-25) ⇒「二度救われるシオンという名の女」

だが、聖徒らを亡き者とし、『大いなるバビロン』をも滅亡させたところの、この新たな崇拝は過ぎ去ることなく、偽預言者と共に、まだひと時の間は存続することになる。
そこで、黙示録は『子羊のような二本の角を持った』別の野獣に、その傲慢な崇拝を継続させ、これは広い範囲の人々に強制を施すことに成功するようだ。(黙示録13:15)

こうして、人類は神の聖霊の声や徴に信仰を懐く人々と、それに頑強に抵抗する背教に組する無数の人々とに二分されることであろう。ここに終末の裁きが成し遂げられ、いよいよキリストの王権領受の瞬間が近付くことになる。即ち、『神の怒りの葡萄搾り場を踏む』という「戦うキリストの日」である。⇒ 「黙示録の四騎士」
我々はここに、聖霊に信仰を懐くことが簡単ではないことを悟らねばならない。

かつてパウロはこう語っていたものである。
『不法の者が来るのはサタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と徴と、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救いとなるべき真理に対する愛を受け入れなかった報いである。
そこで神は、彼らが偽りを信じるように惑わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、裁くのである。』(テサロニケ第二2:9-12)

ここで重要なことは、信仰を懐きさえすれば、あるいは神に関わる進んだ知識を取り入れさえすれば、自分は安泰であるなどと思うべきでないことである。まして、特定の宗教組織への所属など何の保証にもなりはしない。



◆アナニアとサフィラを見よ

この夫婦は自分の畑地を売った金額をごまかしてまで、バルナバのように人々から讃えられることを望んだ。そこで悪巧みを仕組んで裁かれ死に至ったが、彼らはまるで信仰の無い者らであったろうか?
いや、まず聖霊の働きに信仰を働かせ、使徒たちと行動を共にする決意を固めたのであろう。
しかし、メシアに信仰を持った彼らであっても、貪欲に誘われた試みによってその内奥の姿が焙り出されてしまった。(ヤコブ1:13-15) あるいは聖霊をさえ受けていたかもしれない。おそらくはそうであろう、ならば咎は一層重い。
この夫婦は、バルナバのように純粋な内面を持ってはいなかったので、隣人愛の外見をした誉れを得ることだけを願った行動をとったが、人々を欺くその動機は利己心であったろう。

これを単なる献金の動機がどうのと捉えるなら、それはこの世の人間の観点であって、聖霊が注がれ『新しい契約』に与っている状況下では様相が異なるのである。それが如何に違うかをこの夫婦の受けた処罰が物語っている。このような宗教組織内の動機の悪い献金が今日なされたとしても、然程のことは無い。なぜなら、今日はどこにも聖霊が無いからである。

しかし、この夫婦が欺こうとしたのは単なる人間ではなかったので、ペテロは彼らが『聖霊に対して偽りを働いた』と断罪し、この二人は共に救いには至らず死に絶えたのである。

これを裁いたペテロがまるで「罪」の無い人間であったのではない。ペテロは主の奇跡の豊漁を見るなり、『わたしは罪深い男です』と叫んでいる。また、キリストを三度否認したのもペテロであったのだ。
だが、罪を認めるペテロと、隠し遂せると思ったアナニアとサッピラとは動機では正反対であったに違いないし、今や聖霊によって『聖なる者』とされ、その聖さを守る務めが契約によって課せられていたのである。

この夫婦には、聖霊というものの重さを弁えるところがまるで無かったのであろう。それが単なる人を騙すように思えたところにそれが曝け出されている。

もちろん「アブラハムの裔」にこの二人が含まれることは無くなった。彼らは人々を欺いたつもりでも、実は『聖霊を試した』以上、聖霊を保持するに値しなかったのである。
ならば、信仰にある仲間であったにも関わらず、『聖霊への許されざる罪』で、この夫婦は裁かれたのである。何と厳しい教訓であることか!


パウロはこう言っている。
『キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者は皆が迫害を受ける。しかし、悪人や詐欺師たちは、騙し騙されしながら、いよいよ悪に堕ち込んで行く。』(テモテ第二3:12-13)
これが「終わりの日」の実相なのであろう。即ち、ここで言う『悪人や詐欺師』とは一度は浄められた者である。

それゆえ、『終わりの時には困難な時期が来ることを知れ』として『人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となる』という事柄は、単に世相を云い表しているのではない

これらの言葉は、聖霊ある者らの失態を描き出している。
この者らは、聖なる『新しい契約』に価せず、それから『離れる』ことになるのだろう。

ヘブライ人に宛てた時期より後の、このテモテへの書簡が書かれた時期にあたる、ローマ大火後のパウロが二度目に逮捕された最晩年に、ここで彼はなお将来の「終わりの日」のことを含めて警告しているのである。
これがもし、ユダヤ体制の滅びの時期についてを述べていたのなら、それはなお将来のことではなく、もうそこに到来していた危機の時代であったはずであるから、このように『終わりの日には・・を知れ』とは言わなかったことであろう。


この『困難な時代』とは、まさしくエクレシア内の試練の時期なのである。さもなければ、『こうした人々からは離れよ』とは命じられず、また、『常に学びながらも神の真理に達しない』とされる者らも関連付けされなかったであろう。(テモテ第二3:1-7)

この世というものは、常に苦難の状態にあるもので、俗世の人の性向が善くもないのはノアの日から変わるところが一向に無いし、それは所謂「クリスチャン」であっても然して変わらない。(創世記8:21)

この『困難な時代』は、まずパウロ後の主要な使徒らが去った時代にまず一度成就し、なお「終末」の聖徒らの試みの上に二度目の成就を見るのであろう。

そこで、キリストに従おうと決意固める者には内奥の純粋性が求められるに違いない。
それはキリストに関する知識を取り入れて信仰を働かせ、バプテスマに浴したとしても、一途に求めるべきところは一向に変わるものとはならないのである。殊に、聖霊を注がれた者については、その重責を問われるであろう。

これらの事柄の結論として、ペテロが警告した『神の家から裁きの始まる定められた日』の到来が臨むときに聖徒らの心すべきこと、またその聖霊に信仰を働かせるすべての者らにとって自らを省みるべきことは何であるか?
イエスはこの重要性を端的な言葉で次のように語られた。
『目は体の灯火である。ゆえに、あなたの目が澄んでいれば、全身も明るいだろう。
だがもし、あなたの目が暗ければ、全身も暗いだろう。もしあなたの内なる光が実は闇であれば、あなたの暗さとはどんなに酷いであろうか。』(マタイ6:22-23)

このことでキリストに従おうとする者には僅かな油断も大敵となろう。
ベオルのバラムの貪欲は、神YHWHの祭司という自らの貴重な立場を幾らも誉れとはさせなかった。
コラとダタンとアビラムらの自分本位な正義感を見よ。それが何か彼らを益しただろうか。

そして、ユダ・イスカリオテがいる。
パウロは『不法の人』を『滅びの子』とも言い換えているが、聖書中でこの言葉が当てはめられているのはユダひとりであり、それは聖徒の背教が如何なるものか、また、どのような結末を迎えるのか、そして、十二使徒というこれ以上ない優れた環境からでさえ、『滅びの子』が現れたことが、警鐘を音高に打ち鳴らしているのである。

我々の前に置かれたこれらの例を眺め、自己の内面を探る人々は、神に正面から向き合う覚悟が必要であろう。

それであるから、救いに至るほどの「信仰」が、正確な知識を取り入れるだけで出来上がると思うなら、それは大きな見込み違いである。その人の内面にあるものこそが真実に益ある「信仰」を産み出すのであり、「知識」は助産婦のようでしかない。まして行状や活動の『業』は、『裁き』に影響を微塵にも与えないことであろう。

そして、もちろんすべての人に皆「罪」がある。
我々には間違いがどうにも避けられない。
しかし、それから逃れたいと願い続けるのと、「罪」に凝り固まってしまったり、自分は恩寵を得て「罪」から逃れたと思い込んでしまうのとでは正反対に違うのである。

ユダヤ体制の滅びの端緒となるユダヤ騒乱を、およそ三年後に控えたヘブライ人にパウロはこう戒める。
『あなたがたの誰も、生ける神を離れて不信仰で邪悪な心を育てることがないように』また『罪の力のために頑なになることのないように』とも記した。

使徒ヨハネも後の聖徒らに向けてこう言っている。
『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはない。しかし、自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方であり、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださる』(ヨハネ第一1:8-9)

我々には皆「罪」があり、日常しばしば倫理上の間違いを犯す。
それゆえ、神に対して頭を垂れて謙る姿勢は誰もが是非とも持つべきであろう。
だが、ある人々には、あるいは状況によっては、神に謙虚さを示すのが難しくなることもあろう。試み手としてのサタンの手腕が発揮されるのは、こうした人をその固有の弱さや特定の状況に追い込むことに違いない。
この観点から見ると、『わたしたちを試みに陥らせないでください』との主の祈りにある言葉もやはり疎かにはできないものである。

そして、聖徒に在っても「神と人を愛する掟」は違えることのできないものである。
『「彼を知っている」と言いながら、その掟を守らない者は、偽り者であって、真理はその人のうちにない。しかし、彼の言葉を守る者は、その人のうちに、神の愛が真に全うされるのである。それによって、わたしたちが彼に在ることを知るのである。「彼の内に在る」と言う者は、彼が歩まれたように、その人自身も歩むべきである。』(ヨハネ第一2:4-6)

このように歩む聖徒らに倣い、聖霊無い者であるなら増々全能者の前に膝を屈める思いを強め、自分を高めず、罪の清められるのを一心に願いつつ待ち望む必要があろう。

初期聖徒たちの「終わりの日」に生じた試練は、「エデンの問い」に臨んだ『初穂』の人々の情報を伝えており、世の終末を将来に控えたすべての者にとっても、「自己の内面を問う」という、真に重い教訓を含んでいるのである。

使徒ペテロもこのように言う。
『「義人がかろうじて救われるとすれば、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどこに出るのだろうか」云われる通りである。』(ペテロ第一4:18)
これは一般人悪行を言うのではなく、聖なる者らが一般的犯罪者としての苦しみに遭うことのないようにとの訓戒であり、またアナニヤやサフィラのような者が出ることを警告しているのである。(箴言11:31<口語訳>)
それはキリストが再三警告していた「新しい契約」からの脱落となるからである。(エゼキエル9章)




              
   © 林 義平
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 二度救われる『シオン』という女  消え去る「北の王」

 黙示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か キリストの王権領受の時

 エルサレム会議にみるキリストの弟ヤコブの寛容さ ヤコブとパウロ







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大いなるバビロンの滅び

前提記事⇒「誤解されてきたバベルの塔」




黙示録の中には『大いなるバビロン』という秘儀がある。
これは『大娼婦』であって、神に敵対する何者かであるが、栄華を極めたのち、終末に在って『一日の内に』滅ぼされてしまう。

古来、聖書を探求する人々によって、この『秘儀』が何を意味するかについて様々に論じられてきた。
ルネサンス期を経て、新教プロテスタントが現れる16世紀には、彼らが対抗するべきローマ教皇庁こそが『大いなるバビロン』であるとされ、敵意の表象とされてきた。

しかし、ローマ教皇もカトリックも今日まで大きな勢力を保ったまま続き、むしろ新旧の教派の融和さえ試みられる時代を迎えて、当時のこの『秘儀』への理解も今ではほとんど意味を持たない。

それでも、この『大いなるバビロン』が何であり、終末にどんな意味を持つのかとの問いは、依然として定説を持ってはいないままである。

この頁では、この『秘儀』について聖書の各所に記されるバビロンをたずね、黙示録に向かってそれらを集束させる試みを行ってみたい。それはどんな像を結ぶだろうか?


◆創造神に対抗するもの

「バビロン」という中東にかつて存在した城市の名は、聖書中では早くも創世記、それも大洪水後の世界を描く原初史から描き出され、聖書全巻では三百回近くその名が記されている。

殊に後代、イスラエルの神の崇拝を中断させ、その選民を襲って捕囚に処したこともあって、その城市「バビロン」の名は、その後は聖書にあって更にシンボリックな扱いを受ける。確かに、この城市バビロンは徒ならぬものとされている。


考古学が明かすように、最古の都市文明の黎明期から存在し、「頂を天に届かせよう」と意図された塔(ジッグラト)を併設する城市群の中心的存在でもあった。
大洪水後、全人類統治を画策し、それを成し遂げかけた軍人ニムロデとの関係もあってか、統治権についてもバビロンはダニエル書などでも聖書中に何度か顔を出す。
 

そして、この原初史から聖書中を貫流し、積み重ねられた諸々のアレゴリーが、遂に聖書巻末の書「ヨハネ黙示録」において、「バビロン」と呼ばれる存在の究極的な意味を表すことになり、そこではもはや単なる城市バビロンではなく「大いなるバビロン」として出現しているのである。だが、この『大娼婦』ともされる『大いなるバビロン』の秘儀を解くためには、まず、創世記の原初史から、その理解の土台を据えておく必要がある。


 

「バビロン」が、なぜ聖書中に敵対的に叙述されるかの原因と看做せるものは、「バビロン捕囚」を待つまでもなく、すでにこの城市の創建当初に存在しているのであり、それは城市に伴う宗教的な「塔」(ジッグラト)の建造に関わっている。
それは『その頂を天に届かせよう』という企図が神に対する挑戦であった、と云うことではなく、その建設を始めた住民の企図は、彼らが集まって定住することの許可を神から得るところにあったであろう。⇒「誤解されてきたバベルの塔」
 

では、そのように神との関係を求めた当時の人々が、なぜ却って神との関係を悪化させたかと云えば、それらのジッグラトの麓に設けられていた祠や社がその原因を物語っている。
即ち、彼らが定住許可を交渉した「神」とは、明らかに創造の神ではなかった。

それらの「神」とは、神を装うもの、即ちサタンというよりも、その誘惑によって堕落した天使らのことであり(黙示録12:4)、大洪水以前には人間男性の姿をまとって人間の女性を娶り、「神」と称して地上を自由に闊歩していたであろう記述がまさに創世記にある。(創世記6)

彼らと関係を持った多くの女性たちの話はギリシア神話にも多くの痕跡を残しており、また巨人族についても述べているが、ヘブライ人による聖書では、堕天使と人間との混血によって生まれた巨人たちを「ネフィリム」と呼んで、ギリシアとは別に存在を暴露している。発掘によって、その巨人族の一端が知られつつあるが、その恐竜のような余りの大きさには、骨だけでも恐怖を覚えるほどである。まったく創造者の意図しない世界と成り果てたであろう恐るべき太古の世を想像するに、「大洪水」も今日からすれば恵みの雨のようでさえある。(Nephilim)


ともあれ、創造の神は堕天使や巨人による地上の悪環境を、また、その影響に染まった人類の悪行を終わらせるべく「大洪水」を起こされ、ノアの家族八人を除いた人類を裁かれた。
堕天使らもその裁きを通して、その後は人間界に人間を装って自由に出入りすることはできなくなった。聖書は、その状態の彼らを『獄にある霊』と呼んでいる。(ユダ6/ペテロ第一3:20)


しかし、それでも彼らの影響力がまるで人間に届かなくなったわけではない。その後も多様で、しかも非常に曖昧な仕方で関わろうとしているのである。
その目的は、自分たちを通して人間により高い次元からの影響力が行使されているかのように装うこと、また、超自然の現象を起こして見せては驚かせ、怖れ奉らせるところにあるようだ。しかし、それらの現れは人の好奇心を刺激はしてもその価値は極めて低い。それでも卑しめられた堕天使が「神」を装うことは十分に考えられ、またそれに迎合する価値観の低い人々も世に絶えず、そのため堕天使らは俗な人々を動かす能力をいまだに残し持っている。


さて、メソポタミアのシナル平原に定住し城市を建設することが、創造の神の『地に広がるように』との下命にそぐわないことを知って怖れた人々は、神を宥める方法として各城市に「頂が天に届く」塔の建設を計画する。

それは本当に雲を突き抜けてゆくような塔である必要はない。建設している者らも東にあるザクロス山脈が遥かに高いことを知っていたであろうし、実際、発掘の結果からは高さ100mを超えるような規模のジッグラトの遺構は見出されていないという。
要は、神々の領域に通じればそれでよいのである。その領域とは創造の神に属するものではなく、彼らが「神々」として畏れ敬う者らの幾らか低い領域である。霊媒師たちのいう「霊界」とはこの世界を指すのだろうか。

すでに大洪水の後で、堕天使らは人間界を追われてはいたが、ジッグラトを介した招きに応じて、制限付きながらも再び人間たちに関わる機会をこうして得ることになる。
 

それであるから、人々が創造者の命令を無視して一箇所に定住し、灌漑農耕による都市革命の生活の便利さの享受することを神になり代わり許すことなどは、この霊者らにすれば願ったり叶ったりであったろう。
堕天使らが神の知識に疎い人間どもに幾らかの不思議を見せて「神」と崇めさせることなど難しいことでもあるまい。

そこでジッグラトは(必要不可欠ではないが)重要な役割を果たすことになる。それが大洪水の裁きで分かたれた人間と堕天使の出会う所、即ち「神の門」(バビル)となったといえるのである。
それは「神々」と称する者らの霊界と人間界との昇降口であり、それゆえにもジッグラトを降った麓に社が設けられ、やがてそこには「神々」が地上を自由に往来した大洪水以前には必要もなかったと思われる「偶像」が登場してきたであろう。
 

こうして両者は結託し、それぞれ欲望のままに邁進し始める。
人々は、神々を崇拝することで都市生活を良心の咎めなく謳歌したであろうし、気ままな願い事をそれぞれに聞いてくれる神の数を増やしていったであろう。
慶事や弔事などの人間が生活上で願う儀礼の背後で、その重要さの箔付けを担ってやり、その都度「神々」も高められる。

戦いには戦勝祈願を聞いてやり、幾らか介入することもあったかも知れない。⇒「指名されたメシア」
こうして堕天使らはそれぞれ「神」として崇められる心地よさに傲慢となり、供物や人身貢犠までを求めるようになってゆく。支配する者の愉悦は、人を規則で縛り付け、自分は叶う限り恣意的で理不尽に振る舞うところにある。
その宗教は人を支配するためにご利益と死後を説き、創造神を雑音でかき消し忘れさせるものとなる。

崇拝の儀式が大仰になればなるほど「神々」の権威も向上していったことも考えられる。実際のジッグラトの麓の社は、やがて規模を増してゆき神殿(神の家)へと発展してゆく様が発掘からも明らかにされている。その祭司らは、「神」の権威にあやかり地位を上げ、生計の糧を得るばかりか、人々の上に権勢を誇ったであろうことは、今日までどんな宗教にも普遍的に見られることである。シュメール時代の神官は王族に次ぐ地位を得ていたとされている。

こうしてメソポタミアの城市毎に造られたジッグラトの意味合いがフォーカスされてゆく。つまり、それは「神」への挑戦ではなく、まして大洪水回避の避難塔でもない。
これは交霊術のための巨大モニュメントであり、地上の一箇所に住み続けることへの宥めを求め、その「名を作る(上げる)」つまり大義名分を得て、全地に散らされるのを免じてもらうための方策であったと見做すことができるのである。⇒「誤解されてきたバベルの塔」

このように尊崇された「神々」にも実は頭目がいる。
それは、彼らを誘惑し、本来なら天使として『あるべき居所を捨て』るよう誘惑した親玉であり、つまり聖書が「サタン」と呼ぶ者である。(ユダ6/黙示録12:4)
実は、サタンは堕天使らを用いて主張させたい事があり、それは現在に至るまでそのようである。

それは、エデンの園でエヴァに『あなたがたはけっして死ぬようなことは無い』と語った偽りの上塗りである。

「善悪を知るの木」から採って食したことの結果と云えば、エヴァもアダムも死んで存在を終えることであった。
聖書の伝道の書が述べるように、人は死んでしまえば意識も無いし、まして罪を犯した者らがそのまま天に召される謂れも無いばかりか、死後の世界なども存在しない。人があると誤認するのは堕天使らの「霊界」ばかりであろう。

そこでモーセの律法は、『死者に問い尋ねる』ことを重罪に定め、心霊術や占いによってサタンとその配下の堕天使らとの交流を禁じている。その問う相手は死者などではなく『獄の霊』なのである。(申命記18:9-12)
もちろん、創造の神、イスラエルの聖なる神YHWH以外の崇拝は、即ち堕天使を崇めることに他ならない。(コリント第一10:20)

しかし、それが知れてはサタンの主張はまったく虚偽であり、死にゆく人間は騙されたことが明らかになってしまう。

そのうえ創造の神は、再び永遠の命を与えて人類を救うことを意図しているからには、そのことを知られたり、信じられたりしてはサタン自身が実際通りに悪の淵源で、すべての死に責任ある者であることが世に広く暴かれてしまう。
これを何としても防ぐために、「人は死んでも霊魂は生きる」と世の大多数に主張することがサタンには不可欠となっているし、人間も無に帰するという死の真相を避けたい願望もそこで一致する。


そこで、こうした「神々」の教えは、広く人間の死後について語るものであり、元々からして霊者である堕天使らにとって死んだ人間を装うことは難しいことでもない。
死者を装って幻視を見せ、意向を伝えたり、死後の世界の様子を語り、あるいは人の前世や転生を捏造するくらいのことはお手の物に違いない。そこで人間の浅はかな好奇心や信仰好きと相俟って、このサタンの企ては、バビロンの教えが世の宗教の趨勢となるほどに大成功を収めてきた。天国や地獄、霊界や輪廻など死後の世界を教えない宗教がどれほどあるだろうか。

それにしてもノアの日の大洪水も、彼らによって乱された当時の地上の極悪な事態を一掃するためのものであったほど、彼らの影響は人に良いものではないはずなのだが、人の好奇心は創造の聖なる神よりは、気ままで低次元の「神」を好むようだ。スピリチャルも流行するはずであろう。
大洪水の後には獄に繋がれ、もはや地上で自由に振舞うことのできなくなったこれらの堕天使は、聖書中で「悪霊」と呼ばれるようになる。

そこに、メソポタミアの南部シナルの平野に都市文明を興した人々がジッグラトを設けてこれらの悪霊らを呼び込んだものであるから、当地が創造の神からすっかり離れ、サタンという神への反抗者の思想を吹き込まれるのは当然の帰結であり、創造者に敵する死者の宗教や占いやまじない、オカルトの源泉であり中心地がバビロンとなったと言えるのである。
 

悪霊らは未だ死を経験しておらず、人間とは比べ物にならないほどの寿命を持ってはいるが、彼らの最期には神の裁きによる永遠の消滅が既に定められている。(ペテロ第二2:4)
したがって、神から離れてしまったその影響も本質的に健全なものとなろうはずもないので、一種独特の「暗さ」や有害な「憑依」が伴うのはそのためであろう。消え去るべき将来しか持たない彼らに比べれば、よほど人間の方に希望がある。キリストの犠牲は人々のためのものであるからである。

メソポタミアでは、大洪水説話が残ると共に、その後は「神々」が直接現われることが制限されたために「偶像」が登場し、人間が死後に行く地下の場所が語られるようになり、堕天使らが死者を装って語り、まじないや占いが盛んに用いられる。

人は死んで『地に帰る』という「死の真相」を偽る、大半を占める人類に普遍的な宗教の特徴は、このメソポタミアから始まり、その最初の都市文明を築いた人々が全能の神に『言語を分けられて』四散するに及び、世界に広まったという仮説の蓋然性も低いものではあるまい。

ともあれ、今日の人間社会にどこにでも見られる様々な宗教上の慣行や、心霊術や占いの絶えざる大衆流行は、多少の模様替えはあっても「あなたは死ぬことは無い」という最初の古代文明の相貌のままである。そこに創造の神の必要もないところは、双方に都合も良いであろう。

つまり人類というものは、この21世紀に至ってもなお宗教的にはメソポタミア文明の継承者であり、堕天使崇拝を連綿と続けてきたその子孫であると言って過言でない。



◆バビロンに敵する創造の神
 

しかし、世に広く見られるこれらの宗教観を持たない民族も存在してきたのであり、創造の神との交渉の歴史もメソポタミア文明に比べてもそう新しいものではない。現代からみれば、ほぼ同時にスタートしたかのようにさえ見える。
むしろ、上記のバビロン的な「死後霊界」の教えが人類に蔓延していることを考えれば、その対極的に異なる「復活」という宗教観が、今日まで存在していることさえ驚くべきことではないだろうか。(ヘブライ11:19/ヨハネ11:24)

「復活」とは、逆説的に人の「死」というものが生命はもちろん意識も存在も終わるとの宗教観を必要とするが、「死後の存在」などという命の代替物のまやかしを暴き、人が人であることこそに希望を与えるものである。その担い手がメソポタミア文明シュメール時代の一人の人物アブラハムを祖とするヘブライ民族となった。(伝道9:5)

アブラハムが未だアブラムと呼ばれていた頃から、彼はメソポタミアの偶像崇拝を避けて、自らに語りかける天地創造の神に専心する意向を固めており、それは「約束の地」へと向かう旅立ちの決意を為さしめた。

後に、この神は預言者モーセを召して自らの名「YHWH」を明らかにし、アブラハムの子孫であるイスラエル民族と律法契約を取り結ぶが、その律法には、偶像崇拝、交霊術、卜占などへの厳しい禁止項目が含まれており、そこではバベル以来普遍化してきた世界的なものとまったく異なる宗教観が展開されていたのである。

その教えの一部は、おそらく先にノアを通して十代後のアブラムにもたらされてもいたのであろう。後の「律法」の要求と相まって、イスラエル民族の生死観は異民族とは異なっており、死者の世界を本来的に持たない。
人の死後については世の終わりに「復活」があり、そこで裁かれてある者は永遠の命へ、ある者は永遠の切断に入る。まさに「復活」とは、生かすべき者を生かし、絶やすべき者を絶やすという創造者にしてこそ為し得ることであり、創造の企図を成し遂げる全能性を訴えるものでもある。

この違いは、単に教理が違うというに留まらず、崇拝の対象がまるで異なるのである。
創造の神は人間を創り、地上を委ねるものとして置いたのであり、天界に生きるようにということが初めからの企図であったわけではないし、まして地獄は、創造の神をして永遠に許さない残虐性の持ち主と誤解させるものである。

あるいは、この世の苦しみは人に与えられた試練であって、これを首尾よく通過するものが天に召されるということでもない。もしそうなら、この物質界を創造し終えた神は『甚だ良かりき』と言って満足の安息に入ったものだろうか。
 

したがって、イスラエル民族はバビロンに源を発する様々な宗教とは対極に当たる教えの担い手となってきた。また、そうなるはずであった。
だが、実際には「律法」は守られなくなり、偶像礼拝をはじめとして様々なバビロンの慣行がイスラエルに横行し、王から平民までが異教にどっぷりと浸かってしまうようになると、その神YHWHはイスラエルをアッシリアへ、ユダをバビロンへと捕囚に処すのであった。
 

こうして城市「バビロン」という名には、異教の源流であるに加えて、更に「神の民を攻めて囚われにする」というニュアンスが加わった。

それに対して、イスラエルの崇拝の中心を成した、神YHWHの神殿を戴いた城市「エルサレム」の名は、一度罪せされながらも悔い改め許されたユダヤ人の帰還を以って、再び「聖都」の位に就くことが旧約聖書に繰り返されており、それは「回復の預言」と呼ばれている。


しかし実際には、捕囚となっていたユダヤ人に新バビロニア帝国の覇権の喪失と、新興ペルシア帝国の庇護により帰郷の機会が訪れても、大多数のユダヤ人は美しく洗練された大都会バビロンとその周辺に住み続けることを選んだ。彼らにとってバビロンとはその後も同胞が多く住むディアスポラの一大中心地であり、エルサレムとバビロンの間の対照的な観点は無い。

一方で、聖書中ではエルサレムとバビロンは著しい対極に位置するものとして一貫して語られる。
その理由について聖書は、新バビロニア帝国のネブカドネッツァルによるユダ王国の征服、それに伴うエルサレムと神殿の破壊による神への祭祀の中断を挙げ、それ以前ではバビロンについてほとんど触れていない。

イザヤやエレミヤの預言では、律法を守らず異神を崇拝するようになったイスラエルを罰するものとしてのバビロンの役割を予告する一方で、神殿を擁するエルサレムを滅ぼしたことへの復讐をも述べている。

その復讐のひとつはメディアやペルシアの連合軍を率いたキュロス大王によるバビロン征服となって成就し、そこでは予告にしたがってユーフラテスの流れを迂回させる作戦が採られた。(エレミヤ50:38)⇒「指名されたメシア」
また、預言書はバビロンに逆境が突如として臨むが、彼女にはこれに効くまじないが無い(イザヤ47:11-)、荒れ廃れた処となり(イザヤ13:19-)、その名も子孫も残さず、『諸国の女主人』と呼ばれることも絶えて無く、ヤコブはこれに神の望むところを行い、その腕をその上に振り下ろす。(イザヤ47~48)
 

これらは実際の歴史に照らすと、西暦前539年に起こったキュロス軍によるバビロン征服そのものについては整合するが、それ以外の細かな事柄では預言書の述べるところは、オリエント史でも資料の豊富なこの時代の解明された史実とそう合致するものではない。むしろ、多くの点で一致せず、実際のユダヤ人らが預言書に記されたほどの敵意をバビロンに示したことは無かったと云ってよいであろう。
 

ユダヤ人の実際を別にした聖書に語られるバビロンへの猛烈な敵意には尋常ならざるものがある。エレミヤに繰り返し記されるその理由は、やはり『神殿の復讐』つまり、神の崇拝を中断させたことへの酬いである。
『「例え、バビロンが天に上り、高いやぐらの守りを固めても、わたしのもとから滅ぼす者が向かう」とYHWHは言われる。聞け!バビロンから叫び声が上がり、カルデア人の地から大いなる崩壊の音がする。・・バビロンの城壁は厚くとも無残に崩され、城門は高くともは火で焼かれる。今や、多くの民の労苦はむなしく消え、諸国民の辛苦は火中に帰し、人々は力尽きる。』(エレミヤ50-51)

しかし、これはキュロスのバビロン征服で起こったことではなく、大河の水を抜く作戦によってバビロン市内に入ったペルシア側の兵士は、城壁も市内も破壊することなく王宮を目指して進み、ほとんど抵抗を受けることなくその尖兵が、ただ剣を抜いて立ち尽くすばかりの敵王ベルシャッツァルを事も無げに倒しており、ナボニドス年代記は『キュロスは戦うことなくバビロンを落とした』と記している。
その覇権が一晩で過ぎ去ったことは、エレミヤが預言を記した書を石に括り付け、ユーフラテスに投げ込んだように、あっという間に沈んで二度と浮かんではこないとも表された通りながら、だからとてバビロン城市は荒廃しなかった。(エレミヤ51:63)


実際にはその後もバビロンは重要な城市であり続け、中世期にもその存在は確固たるものであった。
今日のバビロンはイラク政府が観光目的に一部を再建しかけてはいるが、確かに荒野に打ち捨てられた状態にある。しかし、その荒廃は『ヤコブ』つまりイスラエルの関わるところではなかったに違いない。この点では、考古学はバビロンが正確に何時、今日のように荒廃したのかを知らない。おそらくはユーフラテスの流れが自然に移動したのではないかとも言われるのだが。

では、聖書に記されるバビロンの徹底的な滅びは何を指し示すものなのであろうか。



◆黙示録の描く大いなるバビロン
 

黙示録によって語られる時代は『主の日』つまり終末へと移される。
そこでは実際のバビロンと異なり、その城市『大いなるバビロン』は健在であり、古代の最盛期のように『女主人』として座し、その強大な影響力を保持した状態にある。
したがって、それは現実に地上に存在する遺跡のバビロンはもちろん、もはや歴史の彼方に遠ざかったローマ帝国の権勢を表すものでもあり得ない。
 

この『大いなるバビロン』は娼婦らの母であり『大娼婦』とも呼ばれ、『地の王たちと淫行を犯す』。
それであるから、この女が政治的権力のそのものであるという理解は除外され、古代の預言者たちの語ったように『まじない』を行うその実体は「宗教」を示唆するものである。
 

諸国の人々はこの女の『淫行の怒りのぶどう酒で酔わされた』(黙示録17:2)のであるが、その意味は、宗教が権力に影響を及ぼすときに起こる人間社会の異常な行動、特に戦争を起こさせる影響力のことであろう。
預言者ナホムは『呪術の女王、その淫売によって諸国民を、そのまじないによって諸族を罠に掛ける者』について城市ニネベを指弾したが、その都の国家アッシリアは周辺諸国を蹂躙して暴れまわったその背後には、自らの凶暴な宗教への帰依と優越感があった。


今日まで、超古代のバビルに由来する宗教の特徴は、政治権力への影響、聖書が云うところの『淫売』である。
国家権力が自国の益を図って他国と争うだけであれば、人間お互いそこそこの悪党同士であるから、取り分の駆け引きも可能であり、ある程度の成果を得られる以上のことは望まずに済ますことで妥協も諮れるが、これが宗教絡みとなるとその妥協ない争いは俄然熾烈で無慈悲なものと変じる。

つまり、相手が間違っており、自分たちが正しいので、悪と決め付けた相手を殲滅することが正義となってしまう。しかし、その宗教が本当に正しいのかと云えば、それを客観的に判定することはまずできない。
こうして、バビルに由来する宗教は、歴史の上にその淫売の許多の結果を克明に残し続けてきたであろう。無数の人々が否応無く、その影響に呑まれ、命を散らしてきたのであり、テロの横行する今日も変わるところがない。その背後には「正義の戦いで死ねば、その功績で良い世界に行ける」との利己心をくすぐる殺人と破壊の欺瞞の教えが存在してきたであろう。


しかし、その黙示録の中の『大いなるバビロン』として具体的に特定されるものは、過去からずっと存在してきたものというよりは、終末に現れる象徴であるようだ。歴史上で、宗教は確かに『あらゆる国民を・・酔わせた』と言える。その教えによって人々が狂ったような行動をとってきた。

しかし、この女の淫売が最高潮を迎えることについては終末に起こる。それこそが黙示録において

 『この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれ』ているその姿に告発されている。(黙示録17:6)
 

その場面でこの女は、将来に現われる七つ頭の野獣の上に座しているからには、これは終末期における場面に違いなく、その上に座すとは、この権力の集合、強権の中の強権に対して『聖なる者ら』を亡き者とするよう慫慂なり使嗾なりを行い得る立場を表していよう。この女の最後にして最高の栄華の時である。

この女には前科も多く、許多の血の罪をも負っていることを黙示録はこうも暴露する。
『預言者らと聖なる者たちの血、また地の上で虐殺された*あらゆる者らの血がこの女に見出された(アオ)』というのである。*(エスファグメノーン:処刑を含意)(黙示録18:24)
宗教上の正義感が如何に人々に苛酷であったかを思い巡らせば、神の前にとても罪無しとは言い難い。

この女の乗る七つ頭の野獣は『聖なる者たち』を攻撃し、これを制圧することが許されており、この野獣が表すであろう十全な公権力が実際に聖徒たちに攻撃を加える。(黙示録13:7)

この『聖なる者たち』とは、『粗布を着て』つまり目出度くはない滅びの音信を『1260日の間』布告する者らであり、彼らにはモーセのように『地を何度でも打つ権威』が与えられている。これは格別な人々であるに違いなく、終末に為政者らと対峙することになり『聖霊が語らせる』という初代キリスト教徒に同じく『約束の聖霊』を注がれる少数の弟子を表しているであろう。

これについて福音書は、彼らの音信はキリストの臨在によって『神の王国』が近づいたこと、またキリストの支配に道を開けるべきことを知らせるものとなるであろうことを知らせている。この聖霊による彼らの発言が世界の注視するところとなると他ならぬキリストによって明言されているのである。(マタイ10:18)

だが、『雲と共に在る』キリストの姿を見ることがない為政者たちは、彼ら聖徒が如何に奇跡を見せ、反駁できない言葉を語ろうと、キリストの支配を肯じることはないようだ。まして支配への欲求を募らせ、権力の座への闘争を続けるような暴君であれば、聖霊で語る聖徒は目障りでしかないに違いない。
 

こうして、世俗権力と宗教組織には共通の焦眉の課題が生じることになる。それは即ち、聖霊を持つ『聖なる者ら』を亡き者とすることに他ならない。これがこの大娼婦とその娘らの淫売の総仕上げとなるであろう。
ダニエルなどの預言によれば、『聖なる者』はこうして公権力からの迫害のうちに多くが殉教するらしい。しかし、それは彼らを練り清め『精錬され、漂白される』ことを意味するのであり、まったく滅ばされてしまうわけではない。しかし、彼らを取り除いたことを喜ぶ俗なる者らは少なくないようだ。(ダニエル11:35/黙示録11:10)


『大いなるバビロン』の実体はここに於いて疑問の余地は残さない。つまり、終末に聖霊を注がれる『聖なる者』の存在を喜ばず、政治権力に影響力を行使してそれを取り除こうとする勢力であり、『まじない』を用い、それによって許多の人々を聖徒に反抗させる行動に駆り立てるのである。

それは超古代から悪霊らの影響の下に創造の神に対抗し、ほとんど世の趨勢を得てきたバベルの宗教的特徴を有するすべての宗教を包含することになるであろう。なぜなら、神の聖霊が注がれるとき、それを認めて神に服すか反抗するかのいずれかだからである。



◆大いなるバビロンの旅商人
 

王たちへの娼婦の淫売についてもうひとつの役者が居る。それについて黙示録はこう語っている。
『すべての国民は、彼女の姦淫の激しい怒りのぶどう酒を飲み、地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の旅商人たちは、彼女の豪奢な贅沢によって富を得たからである。』(黙示録18:3)

この新手の登場者、『地の旅商人』とは何か。

宗派によっては、文字通りに商業体制と解しているが、確かに宗教的慣行は商業の益に多大の貢献をしていることは間違いがない。

しかし、聖書中を探索してゆくと『地の旅商人』は単に「商業」を表すものではないようだ。まず、『王たち』に比べて述べられる内容が多いだけでなく詳細なのである。

黙示録が語るところでは『お前の旅商人たちが、地で高官となったからであり、また、お前の魔術によってすべての国の民が惑わされ』とある。(黙示録18:23)

また、黙示録18:11のように、単に「商人」とではなく『地の旅商人』(ホイ エンポロイ  テース ゲース[οἱ ἔμποροι τῆς γῆς ])としているコイネー・ギリシア語の辞書からすると、「エンポロイ」は個人商店主や小規模な商業と対比した意味での商人、つまり「豪商」を指すことがあり、それはつまり長大なキャラバンや船団を組むような大商人を指している。

ヘレニズム期の地中海都市の港湾の埠頭には、「エンポリウム」と呼ばれる交易市場があり、そこで活躍する商人が「エンポロイ」であり、彼らは対外貿易商である。一方、市内の一般客を相手にする小売市場は「アゴラ」であり、そこに居住する商人は「カペーロイ」と呼ばれた。
元来「ポエイア」[ποεια]には旅や移動の意味があった。これに「エン」[εν](「上に」の意)が付いて「エンポエイア」は旅の上に成り立つ商売、つまり交易を表すという。

更に『王たち』同様に、交易商人にも『地の』[τῆς γῆς]と付け加えられることで、この意味は強調されていると見てよいだろうから、『旅商人』と訳した翻訳はその意をよく表していよう。このような大商人といえば、聖書の歴史中であれば、ダヴィデとソロモンに寄り添って必要物を供したフェニキア豪商にして王のヒラムが思い起こされる。


しかも上記の句によれば、この『旅商人』は大娼婦に属しているばかりか、政治に手腕を振るう『高官』でもあるというのであるが、古代世界では実際に大商人が経済的権勢によって王宮で高官のように振舞うことは異例なことでなかったようだ。

中世でも、経済力満ちるヴェネツィア共和国のエンリコ・ダンドロのような半商人の宰相が、十字軍の行き先までを左右していることも財力の権力への影響力の大きさが侮れないことを例証していよう。その十字軍をヨーロッパ諸侯に要めたのはローマ教皇であった。そして人々は『酔った』ように殺戮に向かい、イスラームもこれを迎え撃ち、『あらゆる国民が犠牲にされる』ことになった。


『地の旅商人』が単なる商人を意味しないという理解に追認を与えるのが、バビロンの突然の滅びを予告する中でのイザヤの記述である。
『お前(バビロン)が勤めて行ったものと、お前が若い時から売買した者とは、ついにこのようになる。彼らはそれぞれ自分の場所にさまよい行き、誰もお前を救う者はない。』(イザヤ47:15)

この句の中で『売買した者』の語は「商人」の意であり、且つ、ヘブライ語の読みを変えると「まじない師」とも訳せ、そうしている聖書翻訳も存在し、この文章は「売買した者」と「まじないをした者」とを入れ替えても意味は通じるのである。(この単語の意味は確定されていない)


黙示録に目を戻すなら、大いなるバビロンの突然の滅びは『王たち』を嘆かせるだけでなく『地の旅商人』はバビロンの屍から遠く離れて嘆いている。つまり『それぞれ自分の場所にさまよい行き、誰もお前を救う者はない。』という言葉がしっくりとする。となれば、この商人とは、いくらでも一般の顧客が居て「さまよう」必要も無いような単なる小売業者だろうか。

こうして『地の旅商人』を見直すと、それは単に商業という要素を意味する以上のことを示唆しようとしていることに気付くであろう。それは黙示録の述べる通りに娼婦そのものの一部であり、権力者の傍らに位置する官僚のような者。キリスト教史であれば、自ら貴族であり権力者に影響力のあった大司教や枢機卿などが思い当たる。

これは即ち、娼婦の淫売を具体的に行う高位の僧職者、またはその影響を権力の傍にあって行使できる彼女の手先というべきではないか。

その数多の商品を、彼らは手を変え品を変え娼婦ではなく王たちに売りつけていたという理解が可能である。それは一般相手の小売業ではないのである。
そのために、大娼婦が滅ぼされた後に彼らの「商品を買ってくれる(ひとりの)者が(滅んで)居なくなった」とではなく『もはや彼らの商品を買う者が誰もいない』(ウーデイス アゴラゼーイ ウケティ)(18:11)とあり、商品を買い上げていたのは大娼婦ではなく王たちであって、その王たちですら『彼女の責め苦を恐れて遠くに立つ』という言葉に込められた、姦淫に関わることへの社会的責めがあり、『旅商人』も販路も行き場も失ったということであろう。


その仕入れた膨大な商品が売れなくなり、それを元手に富を得ることができなくなったとは、やはり娼婦に属していた以上『旅商人』の顧客は娼婦ではなく『王たち』であり、『王たちは富を得た』とは、その民を酔わせて自分の思いのままに操ることではなかったか。『旅商人』らの商品は多様な教理であり、まことに豊富な品揃えであったから、その国民に適ったものを何なりと権力者の下に取り揃えることができたであろう。そうして彼ら自身も幅を利かせ、文字通り富も得た。

それであれば、この『地の旅商人』とは僧職者らであり、それも末端の教師ではなく、権力への押し出しの強い宗教的政治家たちの実体を暴露するものであるだろう。
即ち、半ば、或いは外面は政治家であり、内面は宗教家か、深く帰依した信者のようなものではなかろうか。彼らが諸宗教組織の意向へと政治を導く、重要な役割を果たすとすれば、今日のように政教分離が定められている国の少なくない現状では、必要な媒介者と成り得る。

中世には教皇は十字軍で参加することに贖宥を与えて天国行きを請合ったが、その手先としてベルナール・ド・クレルヴォーのような僧職者が神憑りにさえなり、王侯に近づき「正戦」への参加を使嗾した。そして現代も多くの宗教が様々な仕方で政治に参加しており、これらの宗教的政治家らが娼婦に属すものであればこそ「聖徒」について黙っているとは思えない。将来の「豪商ら」も「聖徒」への「正戦」に諸政府を駆り立てないと言えるだろうか。

しかし、彼ら高官がバビロンの滅びを免れるのは権力への影響力からであろうか。だが、もはや身の安全のために仲間の「殉教」には目をつぶり、以後宗教との関わりからは『離れて立つ』必要が生じる。「聖徒」を攻撃させても娼婦が攻められると、手の平を返したように「自分はただの政治家である」と言い出すのであれば、見苦しいことではある。

それに対して海を行く『船乗りたち』は、その下請けであり、おそらくは末端の宗教教師らであろう。彼らも富の分け前に与ってきたのだが、大娼婦が焼かれて立ち上る煙を遠方から眺めて悲嘆にくれる。この者らは生計の方法を再考しなければならなくなるのだろうか。



◆大いなるバビロンの滅ぶとき
 

神の正式な代弁者である聖徒たちが聖霊を以って語るときに、神の声の前に宗教界は一気に色あせてしまう。『大娼婦』に属する許多の宗教が権力を利用して聖徒らを亡き者にできたとしても、宗教の褪色そのものはもう手遅れになるようだ。真実の神が聖霊によって聖徒らを通して優れた言葉を語られる以上、悪霊崇拝者らの低劣な発言に人々はさすがに背を向け始めるのであろう。

価値の高い言葉を聖霊によって語る『聖なる者ら』は象徴的に「神殿」となる者らであり、象徴の聖都エルサレムに座すことになるという。奇跡を起こす聖霊がシオンに、『見よ!ここを』と叫ぶかのようにして、神が彼らと共にあることを明らかにするであろう。(イザヤ41:27新改訳)

一方で大淫婦の都バビロンは清らかな処女のようなエルサレムの登場に猛烈な嫉妬を燃やす以外にない。自分たちの存在意義さえ否定されてしまうからである。その結果『それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣窟、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣窟となった』という言葉も成就することになろう。つまり、そこには神が居ないということがまったく明らかにされるからである。

そこで、娼婦バビロンは顧客であり情夫でもある王たちに働きかけて、清純なる処女エルサレムに猛攻を浴びせさせる。しかし、それはエルサレムをますます浄めることになってしまい、自分たちは決定的に断罪される穢れの淵へと堕ちてゆく。
これこそが大娼婦の最後の杯をもたらし、それは神から与えられると黙示録は言う。
その杯とは、キリストと共に神殿を構成する聖なる者らへの復讐、即ち『神殿への復讐』であり、この女の仕出かしたあらゆることの二倍がなみなみと注がれるのである。(エレミヤ50:28/黙示録18:6/19:2)

野獣の角で表される公権力は、このたびは神から影響され、各国同時に聖徒を亡き者とするよう唆した宗教の大集団バビロンに矛先を向けることになる。そこでは古代城市バビロンが一夜で『女主人』の地位から転落したように、石が海に沈み込む速さでこの宗教都市の没落が突然に起こるというのである。(黙示録17:15-18)

この大娼婦は世の宗教の全体を包含するであろう。それが単にバビロンではなく「大いなるバビロン」であることには、キリスト教はもちろん、メソポタミア文明の初めから創造者に逆らい悪霊を拝したその傾向を持つあらゆる宗教が、こぞって神の聖霊によって語る『聖なる者』にも対抗することを黙示していると見ることができよう。

したがって、この期に及んでバビルを淵源とし、永きに亘って人類の上に君臨してきた「旧来の宗教」という娼婦がいよいよ終滅を迎えることになる。それは『神の裁き』であり、自分が『聖なる者』を攻撃させた、その同じ世俗権力が『荒廃し、裸にし、その肉を食い、火で焼き尽く』ことをヨハネは黙示する。(17:16)


このような全世界的処置が本当に起こり得るというのは、今の時点から見れば奇異ではある。宗教に熱心な人は少なくなりつつあるとはいえ、そう易々と無くなるようにも見えない。
ならば、やはり、その以前に生じる聖徒の出現が、相当に世を揺さぶるようなことになるのだろうか。

それはおそらく、古代バビロンを保護していたユーフラテスの膨大量の水がバイパスされ、流れが変わってしまったように、非常な短期間にこの城市が表していた宗教の信者の大半を失うことを指しているのであろう。それこそは、「大いなるキュロス」であるキリストの聖霊を用いた驚異の業となろう。(黙示録16:12)
黙示録では、狙い澄ました一時にユーフラテスの四人の使いが解かれると、三分の一というおそらくはキリスト教界の断罪が起こることを記しているが、これも無関係ではないように読める。(黙示録9:14-15)

それであれば、その事象の成就とは、聖徒の現れと聖霊の発言により、膨大な数の人々がキリスト教やほかの多様な宗教に躓きを覚え、信仰を失って旧来の諸宗派から一気に離れてしまうことを云うのではないか。

大半の信者を失った宗教世界とはどんなものであろう?
その痩せ衰えた姿に公権力の実力行使を留める力が何か残っているだろうか。

そして「大いなるバビロン」の滅びは、王や旅商人、また船乗りらにとって不本意な結果とはなるが、世の大多数にとって、魅力も魔力も失ったかび臭い宗教など、結構な厄介払いとされるのだろう。

それが為政者や宗教家にとっては、有無を言わされぬほどの世論を形成されてしまうので、彼らは喪失感を隠さねばならず、「離れて立つ」以外にない。つまり、彼ら以外の大多数がバビロン的な「伝統宗教反対」を叫ぶような情勢変化が起こり、それは人類を揺るがし振り分ける作用を及ぼすのであろう。

即ち「裁きの日」の到来である。
であるから、宗教に反対する大多数の人々の皆が皆、聖徒による聖霊の声に信仰を持つとはまず限らない。何か別の「野獣崇拝」のようなムーヴメントに向かうのではなかろうか。(イザヤ14:12-14)
おそらく、多くの人々は宗教組織を無くしはしても、その信仰そのものをまったく無くすことは、その性質上できないことではなかろうか。

そこで、組織宗教は去っても、以前の信仰の概念を残しつつ、新たな信仰心の発露を求め、その必要を賄う者が現れるなら、一気にその新たな宗教は古い組織宗教の消滅で行き場を失った信仰心をかき集めることにならないものだろうか。
(それが具体化するならば、それこそは究極の偽宗教となり、最後に残る政祭一致的な恐るべき神への抗いの器となるのであろう)

だが黙示録は、大娼婦の滅尽を聖徒への復讐として喜ぶ一群の人々も居ることを描いている。
大群衆が『ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。淫行で地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、あの女になさったからだ。』という雷雨のような大声を聞いたとヨハネは言う。

これこそが、創造の神への信仰を持つ人々の反応であろう。
聖なるエルサレムを支持し、大娼婦バビロンに裁きの鉄槌が振り下ろされたことに歓呼の声を上げている。
この人々の救いは間近である。なぜなら、『聖なる民が打ち砕かれると、すべてのことは直ちに終局に至る』からであり、バビロンへの報復が為された今、『エルサレムの神殿』を構成する処女らが天に揃うからである。(ダニエル12:7)


それゆえ「大いなるバビロン」の滅びに際して、人はどのように振舞うことがよいのかについては神自身が黙示録の中でこう呼びかけている。『わたしの民よ。彼女から離れ去って、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ』。(黙示録18:4)


さてさて事の結論はこうなるであろう。
「死後、人は天に召される」と云うのと「極楽往生を果たす」と云うのに決定的違いがあるだろうか。
キリスト教といえども、バベルに源を持つ教えに従っていれば、聖霊を注がれる『聖なる者』に逆らう側に立つことが避けられない状態にまず身を置いている。

加えて死後の世界を教えない宗教であっても、聖霊の声に心を開かず、信仰を懐かないのであれば、それは即ち『聖霊を冒涜する罪』となり兼ねず、それはけっして許されることのないという決定的な罪であり、いずれも裁かれるに違いない。
キリストの前に世の人々が左右に分けられるというマタイの終末預言の部分が、これに深く関わるとすれば、理解の視界も一気に開かれる。


それであるから、できうる限り早いうちに、人はこの世の宗教の大多数を占めるバビロン由来の教えを振り捨てるべきであろうし、聖霊の到来に心を向けない、特にキリスト教の教えを後にしなければ危ういことになろう。キリスト教界は最もキリスト教から隔たっているとさえ言うべきであるからである。宗教信条や慣行は恐ろしいもので、人を捕らえて易々とは放さない。⇒「聖霊によるキリスト教の回復」

しかし、人々が大娼婦と共に害を受けないばかりでなく、聖霊の声に従い、子羊と聖徒の婚宴に招かれる幸いを得るように。




            新十四日派    © 林 義平




さて、最後に、ひとこと付け加えておきたいことがある。
それは、この『大いなるバビロンの滅び』が一切の偽宗教の終わりを意味するのではないと考えられることであり、その後には、より醜く強力な究極的偶像崇拝の宗教が現れることになるように思われるのである。

それが地に残される「脱落聖徒」の起こす『背教』であり、それが背教である以上、キリスト教の変形らしい。その『背教』については使徒パウロの警告するところであった。(テサロニケ第二2:3) 宗教の教えとは人の心を容易に去るものではないのだが、最後の反抗宗教においても現在の諸教会員の基本的教理を引きずるものらしく、その旧来の教えがそのまま持続し、ある人物を神格化、偶像化させてしまうらしい。(テサロニケ第二2:4/イザヤ14:12-14)
これを招来させ兼ねない教理は既にキリスト教界に存在し、依然として強い作用を保持している。即ち、「キリストの地上再臨」と「三位一体説」である。これらは終末まで存在し続け、終末にあってはユダ・イスカリオテのように重要な悪役を司るのであろうか。
 (これについては改めて頁を設けたく思う⇒「不法の人」)

サタンも悪霊も、バビロンの去った時点であっても依然として活動を続けているからである。しかし、その存続期間は、キリストの臨御の顕現までの僅かな期間だけであろう。ダニエル書も黙示録も、聖徒が攻撃を受けた後の時が非常に短いことを告げている。それでも、その背教は国家規模の後押しを背景に強圧的なものになるらしい。(ダニエル12:7/黙示録12:12/13:11-18)




(関連⇒ 「小麦と毒麦の例え」 「マタイ福音書の終末預言と例え」)



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列王記から黙示録を探り
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黙示録の四騎士  時代の印か絶滅の使者か

黙示の幻に現れる四騎士に示される終末の事象
<難易度 ☆☆☆☆ 中>


衝撃的な四人の騎士の現れ、これはいったい何を表すものか? この「四騎士」とそれに従う「墓」の黙示には、「ノアの日の大洪水」に匹敵するほどに、この世にとって恐るべき「神の裁き」の黙示が込められており、単なる好奇心で接するなら、この秘儀を解く意味は無い。 


さて黙示録の第六章にあって、いよいよ巻物の封印が解かれ、秘められた事柄が啓示される幕開けに位置するのが、それぞれ色の異なった四頭の馬とその乗り手なのだが

第一は白馬であり、その乗り手は弓を持つ、彼には冠が与えられ『勝利の上に勝利を得るために出てゆく』。

次いで赤馬が現れ、『別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。』とある。
即ち、人々が相互に(アッレローン*)虐殺を行い、騎手には巨大な剣が与えられたのは、地上から平和を取り去るためである。(*または「ひとりひとり互いに」)


第三の馬は黒馬であった。その乗り手は計量器を持っているのだが、そこで『小麦は一コイニクス*で一デナリオン#。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな』という声が聞こえる。
これの表すところは、労働者の日当で一人、あるいは少人数の家族を養うのがやっとという糧食の高騰であり、それも主食のパンだけで、他には何の消費も支払もできないという食料不足である。
(*1リットルに幾らか欠ける量で、ローマ兵一人の一日の割り当て分/#当時の労働者の日当に相当するとみられる)

第四の馬は青ざめており、その乗り手は「死」(サァナトス)と呼ばれ、その馬にはハデース、即ち「墓」が従走している。この墓は騎士ではないものの、四つの封印を総括する役割を持っていることが後に分かる。

そして、この場面を見守るヨハネが解説を加えて『彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉と死、地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた』とと言っている。


これらの四頭の馬の騎手には、地の四分の一に対する管轄権(エクソーシア)が与えられているが、これは『地の四隅』という聖書の慣用的用法、また、これと似た四頭の馬が描かれるゼカリヤ書を勘案するときに、彼ら四人には地を四分する管轄権が与えられたとみてよいようだ。

つまり、四騎士いずれかの影響を免れるところは地上に無いということであろう。

これらの馬と乗り手らが災いを下すものであることはそのまま読んで理解できるが、第一の白馬は取り立てて地に及ぼす災いは書かれていない。
この白馬の乗り手に冠が与えられることからして、これを王権を得るキリストであると結論する解釈が初期ギリシア教父時代から定説となってきた。
 

そこからある宗派では、キリストが王権を受ける姿は天の領域のことであるから地上からは見えないが、それに続いて大きな戦争、大飢饉、疫病の大流行が地上に起こると理解していて、そうした事柄は20世紀の初め頃に大々的に起ったのであるから、それ以降キリストは父から冠を戴き、王権を得て支配しているのだと唱えている。

即ち、キリストが20世紀初頭に臨在(パルーシア)したのでその影響として世界大戦や飢饉や疫病が世界的に流行したのだという教えである。また、これら四騎士の行進はローマ帝国と周辺でイエス後に起こった事象と終末の預言を重ねたものだ、とも唱えられてきた。

しかしそこでは、これらの黙示の事象、特にキリストの王権拝受を既に到来したものとして本当に良いのかという問いは避けられない。また、キリストが既に百年も以前から終末に入っているというなら、臨在とは、それほど長い時間を要するものだろうか?
殊に、キリストの王権領受の時期については、以下に書くように聖書の他のメシアの王権拝受の部分が何を明らかにしているかを考慮に加えると、神の権限に関わる「時」の重さが浮かび上がってくるのである。



王権領受のその時

さて、復活後のイエスが『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。』 とかつて告げたからといって、今日イエスの王権が実現しているだろうか。(マタイ28:18)

 ヘブライ書にはこう記されている。
『「万物を彼に服させて下さった」という以上、服さないものを何ひとつ残していないはずである。しかし、今もなお我々は万物が彼に服している事実を見ていない。』 (2:8)

即ち、「この世の有様」は、キリストの死と復活を経ても変わらず、ヘブライ書の記された当時から今日まで、キリストの王権の実現について、変わったところが何か観察されただろうか。それは『天においても地においても』 何ら変わっていないのではないだろうか。 相変わらずこの世は人々の醜い貪欲が支配的である以上のものはない。

ペテロが、終わりの日には、『約束された彼の臨御はどうした・・すべては創造のはじめからのままを保っているではないか』と揶揄する者がいることを預言し、キリストの王権が、今日はもちろん、終末に入ってさえ実現していないさまを予告しているので、臨御はともかくも、王としての支配の実現は突然に、またはっきりと到来することを予期するべきではないだろうか。


やはり、使徒らをはじめイエスの弟子たちは、メシアである師がイスラエルの王権を樹立することを心待ちにしていたのだが、イエスは一向に自らを王と宣することなく、民衆がイエスを王にしようと群がってきたときに、師がそれを逃れて山中に潜むのを彼らは見た。

イエスは度々に例えを以って自らが王権を受けるまでには相応の期間を経るべきことを教え、ミナやタラントの例えは、イエスの一行がエルサレムに上るとたちどころに王国が実現するものとさえ思っていたことへの訂正を促すものであった。

それは、彼らの師が生き返った後もそうであって、『今このときにイスラエルに王国を再興されるのですか』と問いつつ期待した彼らは、却って『父が権限を持たれる時については、あなたがたの預かるところではない』と諭告されてしまうのであった。 

確かにメシアも神から王権を拝受する側である以上、このように王権領受に関わる事柄には、キリストの権限を超える領分を窺わせる言葉が聖書中に散見されるとしても当然であろう。

例えれば、詩篇の第2にはこう記されている。
『なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、為政者らは相共に集まり、YHWH*とその油注がれた者とに逆らって言う。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」*(終末に明かされる全能の神の聖なる御名)
 天の御座に着いている方は笑い、YHWHはその者どもを嘲られる。怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れ慄かせて仰せになる。「わたしは、わたしの王をわたしの聖なる山シオンに立てた。」と』 


また、神がキリストに征服するよう下令する詩篇第110もそうである。
『YHWHは、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座いて居よ。」 YHWHは、あなたの力強い杖をシオンから差し出し「あなたの敵の只中で勝利せよ。」と言い給う』。


これらどちらの言葉も、メシアが神の側の王として立てられる時期というものが、まさに戦いの最中にあり、即位の目出度い状況でも、長々と続く期間でもないことを示していないだろうか。


そこでは地の王や高官らは明確にメシアに対して敵意を表しており、王キリストは敵中から征服を進めてゆくとされている。

終末となれば、それに加えて地に居たときの『油注がれた者ら』にその敵対心が既に向けられているのであり、終末に入って以来、世の為政者と『聖なる者ら』とが対立関係にあることが窺える。(マタイ10:17-18)

そして、上記ふたつの詩篇の引用部分には、共に『シオン』と呼ばれる場所が関係しているが、終末預言では神に抵抗する諸国民の連合軍が攻撃目標とするのが、この『シオン』と呼ばれる。即ち「象徴的エルサレム」であろう。(ゼカリヤ14:12)


それはつまり、メシアを退けたがゆえに神の聖霊の注がれることなく、キリストの世代に『火のバプテスマ』を受けた今日のイスラエル共和国の都市エルサレムを指すわけではなく(マタイ3:9-12)、これが『末の日』に聖徒を支持し、神に帰依して『流れのように』集まる諸国の信仰示す人々の集団であろうことは以前の記事に書いた通りである。⇒「神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢」


キリストはそのパルーシアの時に、初代の弟子らにしたように将来にも聖霊を注ぐ者たちを選び、その「聖なる者」らは『王や高官らの前に引き出され』『聖霊が語らせる』ままにキリストの王国に世界の支配を譲るよう宣告すると福音書にそれぞれ予告されている。

彼らの言葉の完全性や、聖霊の力を見せられる人類には為政者にも大衆にも激震が走るのであろう。旧約のハガイの預言でも、神は『わたしはあらゆる国民を激しく揺さぶる』すると『諸国民の望ましい者らが入ってくる』と言われる。(ハガイ2:7)

また、イザヤもこの聖霊の発言を導くのは神の御子であられることをこう預言している。

『彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)

だが、為政者らは『雲のうちにあって』キリストが見えないゆえに信じず、次元の異なる領域からの勧告に応じる必要も認めない。却って、それら『聖なる者』を迫害して亡き者とするだけでなく、『聖なる者ら』を通して神YHWHに帰依し、キリストが王権を得る『神の王国』を信じ恭順する無数の人々の集まる象徴の場所『シオン』をすらも攻撃しようとするのである。世の大半の人々も同様に神への敵対の反応を見せるのであろう。このゆえに「この世」は裁かれねばならない。(ヨハネ16:8)


そのシオン攻撃は危急の時を招来させ、世にとっては裁きの審問の時となり、同時に信じた者たちには信仰の質が問われる時となることだろう。
だが、YHWHは全能の神であり、信仰を示してその名を頼る世界中の許多の人々と言えども救えないことなどはけっしてない。

ゼパニヤの預言はこう語る。
『YHWHは言われる、「それゆえ、あなたがたは、わたしが立ち上がる日を待て。わたしの決意は諸国民を寄せ集め、諸々の国を集めて、わが憤り、わが激しい怒りを尽くその上に注ぐことであって、全地はわが怒りの妬みの火に焼き滅ぼされるからである。
 またその時、わたしは諸々の民に清き唇(言語)を与え、すべて彼らにYHWHの名を呼ばせ、心を一つにして仕えさせる。』(3:8-9)

この『シオン』に群がり攻めようとするすべての軍勢を裁くという重大な局面で、神は『シオンから号令を下され』『シオンに王を立て』られるというのである。
それが人類連合軍と神YHWHの立てる王キリストとの「ハルマゲドンの戦い」へと展開することになるであろうことも、既に書いたところである。⇒「神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢」


そうであれば、キリストが王権を領受する時とは、この危急な事態が起こるその時であって、神とその王への為政者らの敵意は、聖徒らの聖霊の発言を以って湧き起こされるのであれば、再び聖霊が注がれて『聖徒』らが終末に生み出され、パルーシアが開始される以前にはその時を想定することはできない。
即ち、キリストの王権領受は、諸国民の為政者らが強烈な敵意をはっきりと示すまでは起こらないことになる。(イザヤ52:15)


このように、王権を実際に行使するまでに幾らかの時間を要した例として、ヘロデ大王の息子たちがそれぞれ自分の王位継承を皇帝に承認してもらおうとローマに出向いたが、うまく皇帝の承認を得たとしても、本国に戻ってから他の競合勢力を実力で排除してその王権を確立しなければならなかったのが当時の通例であり、これに相当するものとして、イエスの王権に関する「ミナの例え」でも、帰還した王は、王権に無頓着な家令を処罰し、反対した市民を処刑しているのである。(ルカ19:26-27)


したがって、キリストも『王権を確かなものとするために』世を去って不在となり、『すべての敵を、その足台とするまでは』、神の『右の座して』待たなければならないという意味に於いて、先の詩篇110編をユダヤ人の弟子らは聴いたに違いない。

それはちょうど、ローマ皇帝が従属国の王を正式に任じるまで、手許に滞在させた事例に相当しよう。 使徒らが主からこの例えを聞いたときに、当時のヘロデの息子たちの王権領受の実際を思い起こしていたことであろう。


したがって、キリストが実際に王となる「その時」とは、領民は皇帝に対してその王の登位を望んではいないことを明確に表明している段階、即ち、聖霊によって語る者たちが為政者と敵対状態にある時期も既に進み、聖徒を用いた聖霊による「世界宣教」も終わりを迎え、地上の猛反対の試練に打ち克った聖徒たちも(殉教の有無に関わりなく)地上から尽く姿を消した後のことになるであろう。(マタイ10:18/テサロニケ第一4:16-17)


つまり、イスラエルがイエスを望まず退けたように、聖なる者らも世に望まれず、殉教の最期を遂げるなり、天に召されるなりした後に、彼らの聖霊の声に信仰を懐いて集まってきた相当数の人々がなお地上に居て、「この世」の公権力が自分たちの手に届くこれらの信仰を懐いた人々を攻撃対象として狙いを定めている「その時」に「王」が立てられるということである。(ヨエル3:9-16/黙示録16:14.16)

黙示録の第11章の記述において『第七のラッパ』が吹かれ、世の国々が神とメシアのものとなってとされる以前に、聖徒らは天に召されているのであるから、キリストの王権の拝受は聖徒らが天界に揃ってからのことであり、第12章に於ける『キリストの王権の現れ』についても、その以前に聖徒らの忠節が試された後に起ることであることが分かる。即ち、キリストの臨在がそのまま王権の確立とはならないことは明白と言える。


この点、それは賑々しくも目出度い戴冠式などを祝っているような余裕は無いように聖書は読める。そこでは『聖なる者ら』を苛酷に扱った『この世』への復讐を込め、実力を行使し聖徒らを支持する民を救い、反対勢力をねじ伏せ、実権を手中にし、そうして王がだれであるかを地のすべてに知らしめなくてはならない。 信仰者は、十字架上のうなだれたキリストの姿を感傷的に眺めているような時ではない。(コリント第二13:3)


衆目の注がれる賑々しい中で大群衆に棕櫚の葉(ルーラブ)を振られる中で王座に即くのはそれからであろう。黙示録にハルマゲドンの戦いとして描かれる通り、人々を救うべく任命されたキリストは戦闘中の猛々しい王である。

だが、キリストが至高の権力を用いるにしても、権力とは紛れもない「暴力」であり、権力の行使は必要悪であるに違いなく、神はそれを行使させるぎりぎりを待つのであろう。
 しかも、神YHWHご自身がその時を見計らうのであり、それこそは人々の裁きが確定する時でもあるので、何者もその時を規定したり予告したりはけっしてできないであろう。(伝道10:14)


更なる根拠がゼパニヤ書にある。
『 恥を知ることなき民よ。こぞって集まり、集合せよ。
法令が施行され、その日が吹き散らされる籾殻の如く過ぎ去らぬうちに、YHWHの燃える怒りがあなたがたを襲わぬうちに。YHWHの怒りの日が未だあなたがたを襲わぬうちに。
その定めを行うこの国のすべて謙る者よ。YHWHを尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。然ればYHWHの怒りの日に匿われるやも知れず。』(2:1-3)


即ち、ひとたび王キリストと為政者との戦いが始まってしまうと、もはや神の側へと転向することは叶わないようである。そうでなければ、滅びの処刑を逃れようとするあらゆる人々を、その聖霊に対する態度の如何によらずに受け入れることになるが、それでは「裁き」ということにはなるまい。人は恐怖の無いところでのみ、自分の心がどうであるかを曝すからである。

やはり、神が王を立て、その号令を発する「その時」とは、人が信仰を懐いて転向する機会の閉じられる瞬間となるとも考えられよう。また、殉教する聖徒の数を満たす秘儀が関わるとも言えるが、それが「神の裁き」という究極の倫理上の決定が下されるその時であり、古代に箱舟の扉を他ならぬ神ご自身が閉じられたような、人々の生死を分ける瞬間ともなるであろう。これはマタイ24章でイエスの云う、『父だけが知り給う』『日と時節』という言葉を重くする。


そこで、キリストがイスラエルの王国の再興のその時について、弟子らに『神がその権限の内に置く時について、あなたがたの預かるところではない』と言い切ったことが思い起こされる。加えて神ご自身は、キリストの王権受領とその進軍については、『わたしの右に座して待て』とも言われていなかったろうか。

やはりキリストは、王権に関わる神の時を待つゆえに『ただ父だけが知り給う』時の存在を認められたのではなかろうか。それが即ち、復活をもはや許されない決定的な人の『魂』の存否に直結する創造者の「裁き」だからである。

したがって、キリストが王権を得る「その時」が到来したならば、神の号令一下、新王は恐るべき三騎を従え、ひたすら敵をねじ伏せ、勝利の進撃を重ねる以外になく、それを人が眺めて時代を悟るなどと云う事態ではない。



四騎士の表すもの

黙示録の四騎士に再び目を戻すと
そこには確かに『勝利の上に勝利を得る』白馬の騎士が描かれている。
これをアンチ・キリストに設定する見方もある。黙示録の災厄に関わるのは、慈悲深いイエスであるわけもないと思うのだろうか。

そこで理解の鍵を成す言葉が『勝利の上に勝利する』と訳された部分だが、この一度目の『勝利』が現在形であるのに対し、二度目の『勝利』について見ると、それは仮定を含むアオリスト動詞である。それから判断しても白馬の騎士は、一度目の勝利と二度目の勝利の間にいることを示している。

これについては、キリストと聖徒らの地上での犠牲の死という第一の勝利と、その復讐に立ちあがり全地の反対勢力をねじ伏せるという後の勝利とを想定することもできるであろう。

その二度目の勝利のために戦に赴くキリストであれば、この時点ではステファノスという一つの冠であり、黙示録も第19章12節の複数の重厚な冠ディアデーマタに至らない意味もあると言える。つまりは、世界に対し、まず精神に於いて打ち勝ち、次いで、まったく勝利して世界を完全に掌握する王には二重の冠が相応しい。 ⇒小アジアMemo<白馬の騎士>
この辺りは、ローマから従属王として承認された高位者であっても自国を自力で制圧する必要があったことも背景にあるのかも知れない。

他方で、確かにこの白馬の騎士の武具は『弓』であって終末のキリストと言えば「長剣」という表象ではある。しかし、次いで現れる赤馬の乗り手が「長剣」を振うところからすると、この『弓』という武器は二人の騎手の異なりを明瞭にするものではある。

加えて、アンチ・キリストはハルマゲドンの戦いへと人類を慫慂することに関わる以上は、世界的な影響を与えところからすれば、この黙示の『四分の一』(テトルコス)という範囲を越える広範なものとなろう。
黙示録の記述では、この白馬の騎士に『冠が与えられた』とあり、その主体者は、これらの黙示の封印を解くことを許した命令者が与えたものと捉えるべきであろう。それは神の意向であり、アンチ・キリストに冠を授ける行為は、これらの災厄を惹き起こす人間の業となろうし、不法の人がその者であれば、むしろ冠は自ら被るようにもとれる。⇒毒麦の例え 不法の人


したがって『彼に冠が与えられた』とは、遂に王権領受の「その時」を迎え、救われるべき地の象徴的『四分の一』のために立ち上がる姿を描出しているのであろう。
そうであれば、黙示録は終末への開示の始めに、王として立つキリストとこの世との戦いがあるという重大点から説いているのである。

この「白馬の騎士」をキリストと捉える見方は、使徒ヨハネの伝統を受け継ぐ初期ギリシア教父エイレナイオスの見解でもあり、いずれにせよ本稿はこの見解を支持することにする。

だが、そうして見ると、次いで現れる実害をもたらす騎手らのとの違いの意味が見えてくるのである。

即ち、赤馬とその騎士が表すものは、世界大戦などではなく「ハルマゲドンの戦い」そのものである。
なぜなら、この赤馬を駆る騎士に『巨大な剣が与えられた』のは何のためか?『人々が互い(個々)に殺し合いをするため』であり、そのため地は平和を失うというのである。⇒「神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢」



まさしく、人類と神との戦いにおいて、人類連合軍が同士討ちを始め、それによって自壊することは「預言者たち」(ネイヴィーム)の揃って語るところではないか。

第二の騎馬をこのように見ると、続く騎手らの意味も追って明らかになってくる。
それはエルサレムがバビロンやローマの攻囲を受けた日の災禍の世界的再現のようにも読めてくる。即ち、剣に続いて、飢饉と疫病が地のそれぞれ残った部分を覆うであろう。(エレミヤ34:20/エゼキエル14:21)

この人々は、既に赤馬の騎手からの災いにより、つまり必勝のはずであったこの世の連合軍が「エホシャファトの谷」で自滅することで、もはやその内に霊がないほどの落胆に陥っているであろう。(ヨエル3:12-17/ルカ21:26)

生き残った『地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座に座す方の御顔と小羊の怒りとから、私たちを匿ってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。誰がそれに耐えられよう。」』と言う日はこのときであろう。(黙示録6:17)

ルカ書はイエスの終末の預言の中でこう記している。『また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が海と大波との轟きに動揺し、人々は世界に起ろうとする事への恐怖と不安で気絶するであろう。森羅万象が揺り動かされるからである。
そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るを人々は見るであろう。』(21:25-27)

これが即ち「エピファネイア」と呼ばれる王の『顕現』の時となる。しかし、やはりキリストが肉眼で見えるという意味ではない。パルーシアは稲妻の貫くように天空を東西に輝き渡ると主は言われるのである。人としてのイエスを『人の様をとっていたときに、自らを低くした』とパウロは言うが、顕現のイエスはもはやそのような姿では有り得ない。(フィリピ2:8)


人々は恐るべき現実を見聞きするときにそこに御厳の大王の臨御を悟るというべきであろう。即ち『雲』という不可視性にまとわれたキリストが、この世と呼ばれる全地を裁いていることを不敬虔な人々が悟るとき、『人の子が雲に乗って来るのを見る』のである。

だが、裁きの災いはけっして後戻りしない。神の立てた王は『勝利の上に勝利を得る』ために攻撃の手をゆるめることはない。

歴史上、大きな戦争の後には、飢饉がつきものであった。それは農兵の召集と戦死だけでなく、耕作地を戦場として踏み躙ることもある。
だが、今後の時代に起る神と人との大戦争では、別の仕方で飢餓が起り得る。しかも現代は、その点で非常に脆弱なのである。

『赤馬』の疾走の後、未曽有の同士討ちで世界から平和は失われており、政府が機能不全に陥った中で交易や流通が、経済活動や貿易が順調に行われるとはまず思えない。まず諸国の政府が発行し裏付けを与える通貨の価値が成り立つ条件を失っている。しかも基軸通貨が金本位制を離れた状態にあるなら、なおのこと根拠を失った紙幣は単なる紙屑になり、その状況下では前文明的なバーター貿易に辛うじて可能性が残るものの、諸国が相互戦闘を行った後にどんな信用が残るものか甚だ疑問である。


そうして物流が回らなくなると何が起こるだろうか?
今や、世界経済も人々の生活もそれぞれの地域からの物資の交換で成り立っている以上、その停止は必要物供給の輪が断たれることを意味するのである。つまり、食料品、必需物資、燃料などが、国境を越えて互いに供給されているが、それぞれの国家や民族が人類の『同士討ち』という多元的な相互闘争状態に入る時に、物流が問題なく継続されると期待するどんな理由があるだろうか。

即ち、政治と経済のカタストロフという以外無い。
ペテロの言葉はこの辺りを語っているかのように読めないだろうか。
『その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、世界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とその業とは暴き出されてしまう。』(ペテロ第二3:10)

加えて今日、大規模な旱魃と洪水が予告なく世界各所を襲うようになったが、気象変動は今後どうなるのか。更に巨大地震の頻発も加われば最低限のライフラインも危ういことであろう。物資の奪い合いが繰り広げられるなら、その利己的で罪深い様によって、地の『業』を露わにされ、滅びを待つ人々から糧食が途絶えはじめると、黒馬が地の四分の一を疾走し始める。

即ち、手に天秤を持ち『1デナリオンで小麦1コイニクス、1デナリオンで大麦3コイニクス、葡萄酒とオリーブ油を失うな』と言いながら黒馬に乗って疾走する第三の騎士の登場である。

オリーブ油やブドウ酒といった当時の品で表される生活必需物資の枯渇にも喘ぎつつ、人々は食物の窮乏を強いられる。かつてエルサレム攻囲では略奪が横行し、人は遂に人肉を食らうまでに身を窶したのである。
経済活動の停止とは、便利な日用品は生産も流通も止まり、商品棚は空虚になってゆくことを意味しないだろうか。

やがて、シャッターを閉めた小売の店舗から倉庫まで、生きるために人々が奪い合いに曝されるなか、いよいよ金銭価値の崩壊を迎えることにもなろう。
金品財産にあれほど固執した人々が、『銀も金もYHWHの怒りの日には人を救わず』そのため『彼らは銀を外に投げ捨て、金は汚れたものとなる』のは、一切の経済活動が停止したときであろう。(ゼパニヤ1:18/エゼキエル7:18)


飢餓によって体力を奪われ、健康を害し始めると何がそれに続くかは、エルサレム攻囲の結果を重ねて我々に聖書が訴える通りであろう。それが青ざめた馬で表される疫病の蔓延による死である。


今日でも薬の効かない病原菌の感染拡大が起こるたびに、人々は動揺し外出を控えるのだが、飢餓の続く中での疫病のパンデミックがどれほど破滅的であるかは想像したくもないほどである。

神は旧約の時代にも度々疫病を用いて人々の寿命を縮めたことがあったが、ハバククの預言が終末を予告するものなら、疫病は神の御前を進むことになり、この最後の処罰は選択的なものとなることが考えられる。というのも、エジプトを出たイスラエルを38年間という短い期間の内に世代を入れ替えた神にとって、また、エジプトに居た長子を選択的に撃ったYHWHにとって、選択的疫病も不可能とは思えない。それはどこかに逃れるなら安心できるようなものとはなるまい。そのためか?第四の青ざめた馬の乗り手が「死」とも呼ばれるのは、神の一連の裁きの最後を飾り、処刑を完了するということであろう。(アモス9:1-5)

だが、こうして俯瞰すると青ざめた馬の後についてくる『ハデース』の位置づけがはっきりとしてくるのである。

即ち、ハルマゲドンの同士討ち、続く飢餓と疫病によって地の四分の三に累々と横たわる屍の処置である。

これらの死体が葬られることなく地の表に放置されることはやはり「預言者たち」の揃って語るところであるが、この黙示録の二度目の言及では『長い剣と食糧不足と死の災厄をもって、また地の野獣によって殺すためである。』という。
つまり、初めに『ハデース』(墓)(黙示録6:8)とされた死せる人々の行く先が、同じ節の後半で『地の野獣』という言葉に置き換えられ、これらが同じものであることが示されているのである。


この意味するところは、地の野獣らの腹が膨大な屍の「墓」となるであろうことであり、同じく黙示録の章では神と人との戦いの後に天の鳥たちが『神の壮大な晩餐に』集められてもいる。(エレミヤ16:4)
加えて、青ざめた馬が四騎士の最後となり、その後に墓が従うのであれば、青ざめた馬で示される疫病が人類の裁きにおいて決定的な執行となるのであろう。選択的に臨む疫病であれば、現存のインフラの全体を破壊し尽すことなく、また、信仰を懐いて神の名を呼び求める者を恰も『さあ、わが民よ、あなたの奥の間に入り、あなたの後ろの戸を閉じて、憤りの過ぎ去るまでしばらく隠れよ。』との句のように保護することができる。それは実際のシェルターのようなものを必要とはしない『奥の間』と成り得る。(イザヤ26:20)


さて、赤、黒、青の騎馬がそれぞれ地の四分の一ずつに影響を及ぼす。そのように読むように促すのはエゼキエルによるかつてのユダヤ民族への処刑の預言である。だが、その預言では残される者らがあり、イスラエルは絶滅を免れた。(エゼキエル14:21-22)

将来のこの四騎手の事例ではどうだろう。我々は最初の白馬の騎士の管轄する四分の一は、「この世」という世界一式の制度にカオスをもたらす『大患難』を生き残ると願いたいものである。今日なら20億弱の人々となるのだろうか。



ルカ書の特長

黙示録の巻物も、封印の初めの四つが解かれるところで、我々は既に王の戴冠とそれが意味するところをまざまざと見る。
同士討ちの戦争、世界の飢餓、疫病の蔓延、これらは確かにキリストの王権領受の見える証拠にはなるだろう。
しかし、これを見てから行動を起こしたのでは手遅れであり、畏怖すべき災いに怯えて全能の神に帰依しようにも、その扉は硬く閉ざされてしまっている。

『その日はノアのときのようである』とは、こうしたことなのであろう。人々の多くは自分の日常にかまけてより重大なことを悟らなかった。つまり神というものに関心を払わず、この世の利己心のままに愛や善を省みない。

それはエデンの園で、善悪の木から実をとって食することに等しく、自らを存在させた創造者との関係も愛も感謝も振り捨てることであったろう。それは一切の倫理の礎を放棄したに等しいサタンの道である。

これら四騎手たちの出現が、ノアの日のような絶滅という重大な事柄を表しており、ことにキリストの王権領受のその時が裁きに関わる重さを有していることを了解するなら、マタイが『その時にいたるまでけっして起きたことのないような大患難』と呼んだ事柄にも理解が進むだろう。

それは単なる自然災害ではなく、人間が個々に自らの選択によって峻厳と分かたれ、王権樹立を境にして引き返すことのできない『大患難』への道に入ることを意味していよう。

マタイやマルコの福音書のイエスの終末預言では、その書かれている順序からすれば、確かに戦争、飢饉、疫病などが更に大きな災厄への入り口であるかのように読めるが、ふたつの福音書における終末預言の内容は非常に似ており、同じソースから書かれたものという判断は正しいのだろう。

しかし、ルカ福音書は様相を異にしている。特に終末に起こる災厄と聖徒らへの迫害の前後関係を示す時を表す一単語の違いが全体像を入れ替えるほどのものとなっている。

例えれば、マタイやマルコでは戦争、飢饉、疫病が『苦難の始まり』であり、『その時(トテ)』という言葉を多用し、その後に聖徒らへの迫害や為政者の前での弁明が続くと読める。
対してルカでは、21章12節の『これらすべてのことの前に(プロ)』として、戦争、疫病、飢饉の以前に聖徒らへの迫害が起こることを知らせているのである。

マタイを読むと、戦争、飢饉、疫病また地震などの災厄よりも余程甚大な惨禍「大患難」がその後に臨むように読めるので、その『ノアの日のような』しかも『世の初めから起こったことのないような』災いとはいったい何かを思い巡らさせる。この点はマルコもそう変わらない。
しかし、ルカの前後関係を注意深く読むと、まず迫害と為政者の前での聖霊による弁明があって後、大地震、戦争、飢饉、疫病が臨むとなるのである。

では、この違いの背景は何だろうか。
そこで重要な証言を与えているのが、第二世紀の小アジアのキリスト教徒、ヒエラポリスのパピアスからの情報であり、これはエウセビオスがその著「教会史」に採録している。
それによると「マルコは、ペテロの通訳になったので、主の言行について記憶しているすべてを順序どおりではないが、正確に記した」という。
従って、マルコはイエスの終末預言を聴いた四人のうちのペテロ経由でこの情報を記したであろうし、おそらくマタイも同じ源泉によるのであろう。

後発のルカはその福音書を記すに当たって留意したことを、他ならぬ本人自ら次のように冒頭に書いている。
『私共の間で、確信されております出来事につきましては、事の初めからの目撃者で、み言葉に仕える者となっております者らによって、私共に伝えられましたその通りに、既にその多くの者が書物にまとめようと着手しております。そこで 私も、すべてのことを初めから綿密に順序を追って(アクリボース カスェクセース*)記し、御献上致す所存にてございます。尊敬致しますスェオフィロス閣下。』(ルカ1:1-3)
[*慎重に 順番通りに]

これについてはエウセビオスもこう述べている。「ルカは・・(中略)・・他の多くの人びとは、彼自身が熟知している事柄をいささか性急に語ろうと企てたが、自分はその人びとについて色々言われている疑念から何とかわたしたちを自由にしようとし、そのために、パウロとの交わりや、彼と生活を共にしたこと、他の使徒との友誼などから、自分がその真実性について十分に学んだ出来事を福音書の中で正確に語り伝えた。」(秦剛平訳「教会史」Ⅲ24 )

これら当時の情報を総合し、終末預言を考慮するときに何が言えるだろうか。

それは、マタイ、マルコ両書の『その時』という多用される副詞の曖昧さの理由と、医師らしい慎重さをもったルカの記述の順序の信頼性である。
即ち、前のふたつの福音書ができる限りの情報を伝えようと、云わば内容を羅列したのに対して、ルカはそれらの順を整えていると言える理由がある。

ルカの記述に沿って終末預言の出来事を並べると、弟子らへの迫害や為政者たちへの聖霊による布告が有って後、戦争、飢饉、疫病また地震などの災厄が続き、そのために『人々は、その住む全地を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失う』ことになると記しているのである。

また、『戦争、また戦争の噂』を聞くという部分だけは、三つの福音書に共通するものであるが、これはハルマゲドンの戦いの前に起こる信徒への恫喝という情勢を表しており、以上で考慮した災厄の中の同士討ちの戦争の前のものであって、これについてはどの書も『恐れ慄くことのないように』との訓告を言い添えているし、確かに『終わりはまだ』と言える。 

それは、信徒たちの集団への最初の攻撃計画を意味しているのであろうし、初めて発生する危機であるので相当に信仰を試されることを示唆しているのであろう。

だが、これは脅しばかりで、軍事力の姿さえ信徒らは見ずに終わるらしい。それであるから『恐れ慄かないようにせよ、それは必ず起こるが、終わりはまだ来ない』というイエスの言葉に信頼を置くなら然したることにはならないようである。(ルカ21:9)


だが、これは四騎士の現れの以前の露払いに過ぎず、『大いなるバビロン』を滅ばした勢力による信徒らの集団への脅しだけであり終末はまだ終わらない。
むしろ、四騎士に先立つ軍事的脅しは、いよいよ裁きの時の近付いたことを知らせ、更なる信仰を人々から惹き起こさせるものとなるであろう。その前段階にあたる攻撃の脅しは、北からの王セナケリブの前例の示すように、同士討ちではないところの、あっけない結末を迎えることをイザヤが預言し、ダニエルが繰り返し予告している。 ⇒「二度救われるシオンという女」



サタン放逐の権威

さて、こうして終末預言と黙示録の四騎手の双方を見直すと、マタイの『起きたことのないような大患難』が戦争、飢饉、疫病また地震などの災厄そのものである蓋然性を訴えてくるのである。
それに加えて、王権領受の時の重大性が絡むなら、災厄に関するこの見方を黙示録は雄弁に証しているであろう。
 

即ち、それは生ける人類に対する裁きが、キリストの王権領受の時と共に終了し、人類に対しての刑の執行が戦争、飢饉、疫病と続き、最後に屍を『地の野獣』が処置するということに他ならない。
それは神の側からの一方的で強引な処置とはならないだろう。なぜなら、聖霊の言葉に信仰を抱かなかった諸国の民は、神の支配を受け入れず、却って人類連合の軍を起こし、すんでのところで神に信仰を抱いた人々に手を掛けるところにまで進んで罪を明らかにし、その危急がキリストの戴冠を誘発するという構図が聖書中に見えるからである。神のシャファト(裁き)とは何と偉大で道理に適っていることか。(ヨハネ3:36/ハガイ2:22)
 

さて、キリストの王権領受がこの時点であることに異議を唱える聖書の記述としては、黙示録12章の天での戦いとサタン一党の地への放逐が思い浮かぶ。

黙示録の陳述の前後関係はジグソーパズルのピースが散乱しているかのようであるが、この第12章から第14章に関しては、どうやら一連の動きのままに描かれているようである。
即ち、天の戦いに敗れて地に来たサタンの勢力は、女とその裔に対して攻撃を加え、七つ頭の野獣を呼び出して裔である聖徒らには勝利する。やがて世界は、この後に七つの頭を持つ野獣が『42か月』を過ごした後に、あっけなく過ぎ去ってしまったので、それを惜しんで、記念するための『野獣の像』の崇拝に傾き、その数字を持たない者を圧迫するという。 ⇒ 「二度救われるシオンという女」

 

だが、この天でのサタンと天使長ミカエルの戦いの理由については記述がない。では、サタン一党をして天での立場を失わせるほどのものを誘発したものは何だろうか。
確かに『今や、我らの神の救と力と国と、神のキリストの権威(エクソーシア)とが現れた。我らの兄弟らを訴える者、夜昼我らの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された。』という言葉には、確かにキリスト戴冠による王権の実現というピースが当てはめ易くは見える。(黙示録12:10)

しかし、聖書中を注意深く探索すると、キリストが王権を拝受してはいない段階でのサタンの失墜が起こり得ることを示唆している箇所がある。
それもやはりルカの記述する福音書の第十章の中である。

イエスはこれから訪れようとする町々に七十人の弟子を先に派遣したが、そのとき彼らには病気を治す権限が与えられた。

しかし、彼らがイエスの許に帰ってくると、『主よ、あなたの名を使いますと、悪霊たちまでがわたしたちに屈服するのです』と意気揚々と語るのであった。
それに対してイエスは『わたしはサタンが雷光のように天から落ちるのを見た。』また『わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威(エクソーシアン)を授けた。』と云われた。

七十人には、後の聖霊に相当する権威が信用貸しされたと見てよいのであろうか。つまり、聖徒の持つべきキリストと共なる偉大な権威の予告としてである。
イエスは聖霊に満たされ感謝の祈りを捧げてから、こう続ける『真にあなたがたに言う。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。』

これは、彼らに奇跡の業を行わせた権威が只ならぬもの、それまで存在しなかったほどの権威であることを示している。
そこでは、『天使より幾らか低く創られた』人間が、悪霊とはいえ霊の存在に『打ち勝って』いるのである。

ここで、黙示録の第十二章に戻ると、サタンの一党に天での立場を失わせるほどの権威には、キリストの王権だけではないニュアンスが生じてくる。
この理解を擁護するのは、天空の光をまとった女が生み出す赤子の存在であろう。この男児が「神の王国」を表すというのはその通りなのであろう。
従って、この女(旧約の「シオン」)が出産したのは創世記の「女の裔」の全体像であると解することができる。

将来に於いては、初代の弟子らの後、久しぶりに地上に聖霊が注ぎ出されて聖徒が誕生し、「一度に国民を生み出す」ので、この二度目の聖霊の注ぎ出しは聖徒が以後加えられることなく、すべて生み出され尽くすことを意味しよう。(イザヤ66:8)
それでも、亡くなった以前の聖徒らの復活も、地上に現れた聖徒らの試練も裁きも為されてはいないので、この王国は未だ『赤子』の状態である。諸国民を裁き復讐までする姿にはまだ見えない。
それでも、神はこれを受け入れ、そのために『神のイスラエル』の全容が地に現れ、不完全ながらも天にその義なる立場を得ると言えよう。 即ち、大祭司に従う祭司団の全体が世に登場してきたのであり、象徴のサラはアブラハムの子らの出産を終えたのである。(ペテロ第一3:6/黙示録12:1-5)
 

彼らについてパウロは『だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神が彼らを義とされるのである。』と決然と述べ、神も『わたしは邪悪な者を義と宣することはしない』と明言されている。(ローマ8:33/出埃23:7)
それであれば、聖なる国民、真実なイスラエルが神の御前に是認されるとき、中傷者であるサタンらの不義が確定し、御前に於ける立場を失って、もはや『義』を得た主の兄弟たちを日夜訴えることができなくなったばかりか、自分たちの悪が白日の下に曝されてしまったといえるだろう。

そして、この件は天使長ミカエルがキリストでないことをも示唆しているようにも読める、なぜなら、キリストの王権は、シオンに危機が臨むまで授けられない様は、既に詩篇の中に見ている通りだからである。(ヘブライ1:5-13)
 

こうして、天での戦いの発端が理解される。王国は未だ赤子であり、黙示録で天使を率いるのも、ダニエル書で北王の権力崩壊後、続いて聖なる者らの復活の裁きがあることを知らせるが、そこで立ち上がるのもやはり天使長ミカエルとされている。(黙示12:7/ダニエル12:1)

そこでキリストの「地に対する」王権の実現の必要はなく、却って、「天界から」の不義者の放逐、キリストが王権を得て地の支配の必要性を高めるところの、サタンらの地への追放というところで留まったのである。何となれば、それは聖徒らと人類の裁きのためであり、遂に終末も、地での聖徒出現に至って「裁き」の選り分けの段階に入るのである。

即ち、アブラハムの裔が象徴のサラからすべて生み出されるとき、地には人を救い、世を裁く『女の裔』の全体が、いよいよ蛇を砕く権威を手にすることを祝しているように思われる。


それから、地に降ったサタンが聖徒を生み出した『女』シオンを地上で攻撃するが、これはうまくゆかず、七つの頭の野獣を遥かな過去から呼び出して、聖徒を攻撃させこれに勝利を得て聖徒らを滅ぼす。


それから『大いなるバビロン』を滅ぼして後*に七つの頭の野獣は『人手によらずに消え去る』が、最後に現れる『背教』、『アンチ・キリスト』による『獣の像』の崇拝という究極の偶像崇拝が人類を強制し、再び女シオンに襲い掛かるとき、その狙い澄ました誰も知り得ない一時に神の号令がメシアに下り、キリストは民を救うべく遂に戴冠する。*(おそらく「後」)


世界連合軍は「王の王、主の主」を相手にハルマゲドンでの会戦に臨むも、元々一致の緩い連合であり、楽勝ムードの中で利権も絡めば容易に分裂し兼ねず、『エホシャファトの谷』で互いを打ち合って自壊し、次いで多発する地震も加え飢餓と疫病とが猛威を振るうが、これが神の処刑であるのなら誰にも止められるものでない。

そして、終わりに『ハデース』という清掃人が『地の獣』を使って地上を掃除する。


この解釈でゆけば、この黙示はニュース映像のように人間界の終末期のサインを映し出しているのではなく、王キリスト自身の介入する戦いと裁きと見るべきであり、黙示録の四騎士の疾駆は、まさしく『大患難』そのものというべきであろう。

これを、福音書中のイエスの終末預言にせよ、この黙示録の四騎士にせよ、それらの災厄が、終末の近付いた「時代の印」であるとの説明に感心しているなら、却って時を見紛うことになってしまう。余りに早い時期を予想すれば、息切れして期待を維持するにも無理が出ようし、聖霊の声に信仰を懐く機会を逸し兼ねない。

しかし、ダニエル書は、聖徒への攻撃が行われると、『すべては直ちに終局に至る』と結んでいる。(ダニエル12:7)
つまり、「終末」の事象は、時を一気に突き進み、弛緩するような事態は起こらないということであろう。ダニエルと黙示録の最も大きい日数を考慮すれば、おそらくは聖徒の現れから終局までは、十年もかからず、数年という驚くほど短い期間で決着がつくのではなかろうか。

やはり、終末を知らせる明確な兆しは『予兆となるべき人々』、即ち「聖霊」という見紛うことのない神の御印を持つ『聖徒』の出現を置いて他にないであろう。彼らの聖霊による発言こそが神の世界宣教であり裁きの根拠を据えるものである。(ヨハネ16:8-)


神が人類の一部にだけ、それも時代認識の有無を以って人を裁くとすれば不公正の観は否めない。
「時の偶像化」や、情勢の不安定さから緊急感を煽る方法というものが、真実に善なる人格神へと人を正しく導くものとなるだろうか。⇒「モンタヌス運動 最初の時の予告者」
裁きの時を予告し緊急感を煽るなら、神を時計のように無機質で無慈悲な独裁者であると主張することにはならないものだろうか。

神を崇敬したいと願う人々は、時間厳守者ではなく、一人一人の内奥を知り、『神の象り』である「人」に向き合って時を定める方をこそ真実に神とするのではないだろうか。その神とは、すべての魂を存在させ、愛するゆえに、また邪悪な者の死をさえ喜ばず、時に縛られるのではなく、唯一自らの権限の内に「時」を管制し、天使も御子をも計り得ない裁きのその決定的「時」を完全に掌握され定められる、全知全能の裁き主であろう。





         新十四日派    © 林 義平
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 ⇒ マタイ福音書の終末預言と例え

 ⇒ ヨハネ黙示録の意味するところ

 ⇒ 二度救われるシオンという女

 ⇒ 神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢



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神のシャファト 壊滅する巨万の軍勢

終末の『裁きの谷』に諸国民を集める神の予表





「神の裁き」と聞けば、そこには恐ろしい響きがある。

しかし、ほかの言語ではよく伝わらないながら、ヘブライ語の「裁き」[シャファト]は、ただ審理して人に罪を宣告するだけのものではない。

例えれば、アブラハムの妻サラは下女によって陥った自分の窮境について夫にこう言い迫っている。
『YHWHがわたしとあなたとの間を裁かれ[イ シュファト]ますように』(創世記16:5)
これは、サラがアブラハムの責任範囲の中で苦しんでおり、その問題が解決されることを夫に促しているのである。

また、イスラエルに王が居なかった時代には、士師(あるいは「裁き人」[ショフティーム])が必要に応じて任命され、苦境にある民族を救い、こうして神は問題の解決をはかったのである。
即ち、「裁き」とは、悪を打ち砕いて除き、苦しめられている者を解放することを含んだ「シャファト」なのであり、弱きものへの祝福をも意味していた。

これまでの最も大きな神のシャファトは、ノアの洪水によってカオスに陥っていた世を罰し、地上の生き物を八人の人間と共に救った事跡であろう。
また、紅海を分けてイスラエルを救い、追撃するエジプト軍を海の藻屑とした奇跡も際立ったシャファトであったと言えよう。

だが、将来にノアの日のものに匹敵するほどの壮大なシャファトが聖書中に度々予告されている。
例えれば、エレミヤの預言にはこのようにある。
『地の果てから騒音が起こる。YHWHには諸国民との論争があるからである。あらゆる肉なる者らを裁き、邪悪な者は剣に委ねる。とYHWHは宣う。』(エレミヤ25:31)

聖書には何度も、終末での神のシャファトは全地に及び、人類の裁きになると記されるが、その予型となる出来事が旧約聖書に語られており、以下の事例を通して我々は将来の偉大なる「シャファト」を垣間見ることができるのである。


-◆イェホシャファトの決定の谷

イェホシャファトはユダ王国の王である。
35歳のときに父王アサからユダ王国の王権を引き継いだ。それは前867年とされている。
彼は父と同様にアブラハム伝来の神YHWHを崇拝し、逸れるところがなかった。
その神を畏れるゆえの敬虔さは、エルサレム神殿の祭祀を重んじるばかりでなく、各地を巡回して民をYHWHの崇拝に戻るよう働きかけてもいたほどであった。
そして、父アサが拡大した領土はイェホシャファトの世代にあって安定し、域内に大した戦火も見ず、自らの繁栄に加え他国からの朝貢を受ける立場にあった。
問題と言えることを挙げれば、北のイスラエル王国に接近して縁戚関係まで結んだ為に、北の王国の戦いに関わらざるを得なかったことくらいであり、その生涯は神と共に歩ことにおいて安定したものであったと言えよう。

だが、このように比較的に繁栄を享受していたユダ王国に突然の危難が襲い掛かる
それは彼の治世中で最大の危機であり、それまでの繁栄を試し、この王の器量の真価が問われる事態となり、王も国民も存亡の危機を前にして神を仰ぐばかりとなった。

ユダ王国の東に位置するモアブとアンモンはアブラハムの甥ロトの末裔であり、イスラエルは彼らとの境を侵さず、カナン入植に際してもその領地には踏み込まず格別の配慮を払ってきたのであるが、この度は不当にもこの両国が連合し、それに南方のアラビアの支族までもが加わって一斉にユダに軍事行動を起こしたのである。
その雲霞のような軍勢は百万に達し、自らに倍する*敵を迎えるにユダの王にも民にも策は無かった。*(歴代第二18:14-18を単純に合算せず、ユダ30万、ベニヤミン20万として観る 歴代第二25:5では二部族で30万の歩兵が記録されている)

諸国の連合軍は死海の南端からユダ側に回りこみ、死海の西岸を北上してエルサレムに向かうのであった。
伝令はイェホシャファト王に敵軍が低地との境である死海の沿岸にあるエン・ゲディに迫ったことを伝える。それは直線でおよそ40km、もはや首都を窺う距離であり、エリコのような低地の諸城市は陥落を覚悟していたことであろう。

平素はYHWHを省みず、異神に香を捧げている民もこのときばかりは王と共に神を仰ぐ。YHWHを信奉するイェホシャファトであっても、ここにおいて大いに信仰の試みを受けるのであった。
彼は民に断食を宣告し、危急の迫りくるときに父祖の神を求めるようユダの人々に促した。
ユダ国内の民は慄きつつエルサレムに登り、危難に在ってはじめて王と父祖の神の下に保護を求めた。王はともかく民にしてみれば、苦しいときの神頼みである。
しかし、神YHWHは民が悔いる度に、それが何度目であろうと救いの手を差し伸べるのであった。(詩篇107:19)

神殿に属する広い中庭に民は集い、相共に伏して王の神への嘆願を聴く。
『私たちの父祖の神、YHWHよ。あなたは天におわす神であられ、また、あなたは諸国民の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません。
ところが今、アンモン人とモアブ人、およびセイル山の群集をご覧ください。この者たちは、イスラエルがエジプトの地を出て来たとき、イスラエルがそこに侵入することをあなたがお許しにならなかった者たちです。事実、イスラエルは彼らから離れ去り、これを根絶やしにすることはしませんでした。
 ですが今、彼らが私たちにしようとしていることをご覧ください。彼らは、あなたが私たちに得させて下さったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして出て来たのです。
私たちの神よ。あなたは彼らを裁いてはくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこの夥しい大軍に当たる力が私たちにはありません。私たちはどうしてよいか分かりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」』(歴代第二20:6-12)
 
そのとき、神はこの祈りに答え、託宣をその場に居たレヴィ族の一人に与えられた。その人には明らかに神の霊が臨み、預言を始めて話すのであった。これは後のイザヤのようなタイプの預言者(ナーヴィー)ではなく、憑依状態に入ることで周囲の聴く人々に神の霊による音信であることを確信させる先見者(ローエー)のスタイルの預言であったことだろう。
『「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびイェホシャファト王よ。よく聴くように。YHWHはあなたがたにこう仰せられる。『あなたがたはこの夥しい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
明日、敵軍に攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエイエルの荒野の前の谷の入り口で彼らに相対す。
この戦いはあなたがたの戦いではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたと共にいるYHWHの救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。YHWHはあなたがたと共に行く。」』
 
このように誰にも明らかな憑依で神からの返答を賜ると、王も民も平伏してYHWHを拝した。すると深い感謝に心動かされたレヴィ祭司団のコハトとコラの支族の合唱隊が、彼らの仕える神YHWHへの格別な感謝と賛美を心からほとばしらせるかのように、あらん限りの大声と感動をもって『YHWHに感謝せよ』と歌い出すのであったが、それはかつてないほどの声量となって響き渡った。


翌朝、早く起きた民と王とは昨日の預言を確信しており、異例なことに軍隊の前面に昨日の見事な声を聞かせた合唱隊を置き前衛とするのであったが、それはこの戦いがもはや人のものであれば勝利のないもの、神に寄り頼むものとなることへの信仰の証でもあった。

そうして神への信頼こそを楯とも矛ともしたユダの軍勢は、エルサレムから南に下り、テコアの野に出て行ったのである。そこからは涸れ谷(ワジ)が死海に向かって下っており、その先はエン・ゲディに至る。
軍前衛の合唱隊が『YHWHに感謝せよ。その恵みは永久に及ぶ。』とハレルの詩篇歌の声をあげ始めるや、神のみ使いの伏兵は敵軍を掻き乱しはじめ、アンモン人とモアブ人はセイルの種族を攻撃し、これを殲滅すると次いでアンモンとモアブは互いを攻めはじめたのである。


ユダの軍がその広谷に到着してみると、荒ぶる敵軍の姿などはそこに無く、却って同士討ちによって預言に違わず壊滅していた無数の兵士の物言わぬ屍を見るのであった。
人々はただ、敵兵から物資を剥ぎ取って運ぶばかりであったが、その多さは一方ならず、民が総出で取り掛かっても三日を要するほどであった。
それはまさしく神の戦いであって、人には何の戦功もない。


そして四日目に、ユダの人々はその広谷に集まって神に感謝を捧げるのであった。
神YHWHは、ユダとエルサレムを守って怒涛の連合軍をまったく打ち破られ、却ってユダの人々を無数の戦利品で祝福したのである。
それゆえにこの場所は『ベラカ(祝福)の広谷』と呼ばれることになった。

これは不法な者らを砕き、神に頼る者たちを救う「YHWHの裁き」即ち「イェホシャファト」であり、こうしてイスラエルの聖なる神はシオンを守り、却ってこれを祝福されたのであった。



-◆イェホシャファトの谷への人類の集合

この事があって数十年後のこと、預言者ヨエルはこの事跡を用いて更に後の時代を預言しており、預言の内容は将来の世の国々を巻き込む、恐るべき成就が控えていることを窺わせている。


『見よ、ユダとエルサレムの繁栄を回復するその日、その時、わたしは諸国の民を皆集めてイェホシャファトの谷に連れ行き、そこでわたしは彼らを裁く。わたしの民、わたしの所有であるイスラエルを彼らは諸国の民の中に散らし、わたしの土地を自分たちの間に分配したからだ。』(ヨエル3:1-2)

それは大王ネブカドネザルに一度滅ぼされ、バビロン捕囚の憂き目をみたユダヤ民族の没落を喜び、その混乱に乗じてこの民をよいように扱った諸国民の責を問う日のことである。
ヨエルの後に、ユダを亡ぼし流刑とした新バビロニア帝国も、ついにペルシアに屈し、神YHWHはその民イスラエルを流刑に散った各地から集めだして、かつての崇拝を再興しようとするとき、それまでの間に諸国民が為した神の民への悪行の数々が清算されるというのである。

だが、この成就に相当する事跡を歴史上に見い出すことができない。
それゆえ、このヨエルの預言は、なお我々の将来に成就を待っているに違いない。

「神の民が集め出される」ということは、単に古代の捕囚の終わりの時を印付るに留まるものではない。
これは使徒時代の最後に記されたヨハネ黙示録でも繰り返される出来事であり、即ち、聖なる者たちの天への招集を意味する。(黙示録7:4-8) 聖なる者たちとは、結論から言えば終末に神に選ばれ集められる『神のイスラエル』真実のアブラハムの子孫の事である。
やはり黙示録においてもイスラエルの十二部族が天界に集め出されており、彼らが揃うときには天において『神の王国』、真のイスラエルが実現することになるのである。これこそは、キリスト教界が「天国」と誤認してきた神の地上支配のための『天の王国』なのである。(黙示録20:6)

十二部族が天に揃うというこのことは、キリストを主要な王とする神の国家が現実の権力を振るう準備が整ったことをも意味するので、その後に行われる『征服』は、もはや聖なる者が殉教するということにはならないのである。

むしろ、それまでに聖なる者たちを貶め、殺害してきたこの世の勢力が打ち砕かれる復讐の時が遂に到来することになる。

では、どうして人類の勢力と神の王国が、将来これほどまでに対立しなければならないのだろうか。
その理解の鍵の第一は、「この世」は神の御旨にそぐわないものであり、その理由は神の創造の意図に反する世界となっているからである。

そこは、創造者を否認することにおいて倫理の基礎を損なっており、全人類はアダムからの遺伝によって倫理上の欠陥を受け継いでしまっているからである。後のキリストの使徒パウロは新約聖書に於いてこう指摘する。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ』(ローマ5:12)

アダムからの『罪』ある者が、もしその状態を愛しているなら、創造者の意図など眼中にない。だが、それでは神の御旨に従って創造本来の人間の素晴らしさに復帰したいと願う者らは、いつまでも世の隷属に置かれるばかりか、いよいよ神が人類の救済に乗りだそうというときに、却って妨害され、聖徒たちばかりか神に忠節を尽くそうとする多数の信仰者らまでが攻撃に曝されるのである。

しかし、神はこの状態を放置することはない。神は聖徒たちをして、反抗する諸国民を処理してしまう『脱穀橇』とされ、必ず偉大なる「シャファト」を執行される。
その時には、黙示録中での、祭壇の下に見いだされる殉教した魂がそれ以上に増える時が終わり、その聖徒らの殉教への復讐へと『神の王国』の権力がいよいよ乗り出すときを迎えるのである。(黙示録6:9-11)
その向かう先は黙示録では『怒りのぶどう搾り場』であり、ヨエルの言う『イェホシャファトの谷』また『裁定の谷』である。(黙示録19:13-15/ヨエル3:14)
ヨエルはこうも預言したのである。
『諸々の国民をふるい立たせ、ヨシャパテの谷に上らせよ。わたしはそこに座して周囲のあらゆる国民を裁く。鎌を入れよ、作物は熟した。来て踏め、搾り桶は満ち石瓶は溢れている。彼らの悪が大きいからだ。』(ヨエル3:12-13)


黙示録のぶどうの収穫については、その前に小麦の収穫が終えられている必要がある。それはパレスチナの農事習慣からしてそのようである。
春先の過越しが終わると小麦の収穫が始まり、シヴァンの月の五旬節に至って小麦の取り入れが収束すると、タンムズの月に夏が到来してぶどうの実りを集める時期を迎える。

同様に、聖徒たちがまず収穫された小麦として蔵に収められるように天に召され、その後に再び地上に目が向けられるとそこには「収穫され潰されるべき」ぶどうがすっかり熟しているのである。
これを黙示録は次のように描写している。
『 見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭い鎌を持っていた。

  すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者に向かって大声で叫んだ、「鎌を入れて収穫せよ!地は実り、刈り取るべき時がきたからだ」。
  雲の上に座す方は、その鎌を地に投げ入れた。すると、地の収穫物が刈り取られた。
 
また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭い鎌を持っていた。
 さらにひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が祭壇から出てきて、鋭い鎌を持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭い鎌を地に入れて、地のぶどうの房を採り集めよ。ぶどうの実がすでに熟しているからだ」。

 そこで、その御使は鎌を地に入れて、地のぶどうを採り集め、神の激しい怒りの大きな搾り桶に投げ込んだ。
 そして、その搾り桶は都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から溢れ出て、馬の轡に届く程になり、1600スタディオンにわたって広がった。』(黙示録14:14-20)


ここに二組四人の天使らが居る。
初めの一組には、『人の子のような者が雲の上に座している』というからには、キリストが聖徒を集めるという収穫を行うことを指している。
他方の組の鎌を持つ天使は、聖所ではなく祭壇から現れた使いの声に従うところは示唆的である。つまり邪悪な者の血の犠牲を求めているであろう。祭壇の基部は犠牲の血を注ぎ出す場所であるからである。

一組目の収穫物が倉に集められる小麦であったように、二組目の収穫物はぶどうであってこれは、踏まれ潰されるべきものであり、その赤い果汁は血潮であって、その犠牲の血は1600スタディオン、つまり296kmに広がるという。この1600の数字は「地の四隅」を示す4の倍数16が強調されており、おそらくは地上の各地に至る滅びを表しているのだろう。

この小麦とぶどうの異なりは、王キリストの下に集められる聖徒らと、それに続いて滅ぶべき者らの処置との対照そのものである。

黙示録だけでなく、やはりヨエルの預言もこれに呼応してこう言っていた。
『鎌を入れよ、作物は熟した。来て踏め、搾り桶は満ち石瓶は溢れている。彼らの悪が大きいからだ。群衆また群衆が決定の谷に群がる。YHWHの日が裁きの谷に臨んだからである。
 
日も月も暗くなり、星もその光を失うであろう。
YHWHはシオンから大声で叫び、エルサレムから号令を出される。天も地も激振する。しかしYHWHはその民の避け所、イスラエルの人々の要害である。

そこであなたがたは知るであろう、わたしはあなたがたの神YHWHであって、わが聖なる山シオンに住むことを。エルサレムは聖所となり、異邦人は重ねてその中を通ることがない。』(ヨエル3:13-17)

ヨエルと黙示録の間の関連性はもはや避け難いほどのものがある。

この『群がる大軍』とは諸国連合のもの、即ちイスラエルの聖なる神に挑戦する将来の人類連合軍であろう。

しかし、国家同士の絆などは互いの利己主義のために初めから綻んでいるであろう。
では、人類軍も古代のモアブやアンモンのように同士討ちを演じるのだろうか?


聖書中の預言はこれを否定しないばかりか、それを繰り返して語るのである。
エゼキエルはその38章で、終わりの日に北の最果てから呼び出される軍勢の頭、マゴグの地のゴグについて預言する中で、『御厳なる主は言われる、わたしはゴグに対し、すべての恐れを呼びよせる。すべての人の剣は、その兄弟に向けられる。
わたしは疫病と流血とをもって彼を裁く。わたしは漲る雨と、雹と、火と、硫黄とを、彼とその軍隊および彼と共にいる多くの民の上に降らせる。』と語っている。(エゼキエル38:21-22)
しかも、その軍勢は諸国の軍勢を引き連れたもので、『地を覆う雲のようである』というのである。(38:1-9)
 
また、ゼカリヤもこう預言する。
 『YHWHは、エルサレムに対して軍役を行うあらゆる国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目は眼窩にあって腐り、彼らの舌は口の中で腐る。
その日、YHWHは、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いにつかみ合い、互いに殴る手を挙げる。
ユダもエルサレムで戦いをしかけ、周囲の諸国の財宝は、金、銀、衣服など非常に多く集められる。』(ゼカリヤ14:12-14)
 
エレミヤも終末に諸国民と神YHWHが戦わす論争があると言っている。
 『YHWHは高い所から呼ばわり、その聖なる住まいから声を出し、自分の住処に向かって大いに呼ばわり、地に住むすべての者に向かって、ぶどうを踏む者のように叫ばれる。
 叫びは地の果にまで響きわたる。YHWHが国々と争い、すべての肉なる者を裁き、悪人を剣に渡すからであると、YHWHは言われる。
見よ、国から国へと災いが出て行く。大嵐が地の果から巻き起こる。
その日、YHWHに殺される人々は、地のこの果から彼の果に及ぶ。彼らは悲しまれず、集められず、また葬られずに、地の表に肥やしとなる。』(エレミヤ25:30-33)

これら「預言者たち」の言葉はそれぞれに当時に成就した預言を語りつつも、なお終末に焦点を合わせているのは我々の注目に値することである。
これらに共通することは、雲霞の如き諸国の連合軍がエルサレムまたシオンを攻撃するために大集合することであり、一方で神YHWHはこれらの巨万の軍に決戦を挑み、エルサレムから指揮を執って彼らにまず同士討ちで打撃を与えられるとされていることである。
そして、それは裁き(シャファト)であるとも宣言しているのである。これらはあのイェホシャファトの谷の事跡に描き出されていたのであり、シオンの民は多くの戦利品によって祝福(ベラカ)をも受けるのであろう。



-◆シオンの王は完く勝利する

それにしても人類の連合軍はどんな理由あって、斯くも勝ち目のない戦いに進んで出向くのだろうか。
実は、これら束ねられた権力のそれぞれには共通することがある。
詩篇第2に語られる次の言葉がその動機を指し示している。

『 なにゆえ、諸々の国たみは騒ぎ立ち、諸々の民は空しい事を謀るのか。
 地の諸々の王は立ち構え、諸々の高官は相共に謀り、YHWHとその油そそがれた者とに逆らって言う
「我ら、彼らの枷を砕き、彼らの頚木を解き捨てるであろう」と。
 天に座する方が笑い、神が彼らを嘲る。
そして神は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、「我、我が王を聖なる山シオンに立てたり」と。』(詩篇2:1-6)


ここに、諸国の為政者たちが神とその任命された者らの支配を望まず、これに逆らって、諸国の民が騒ぎ立つ様が描かれる。
しかし、神はシオンに王を立てるが、この結末はどうなるのだろうか。
神は王に宣う。

『汝は鉄の杖をもて彼らを打ち破り、陶器師の作る器のように彼らを打ち砕くであろう」と。
それゆえ、諸々の王よ、賢くあれ、地の高官らよ、戒めを受けよ。
恐れをもってYHWHに仕え、慄きをもって御子の足に口づけせよ。
然なくば神は怒り給い、汝らを道に滅ぼされるであろう、その憤りは速やかに燃え上がるからである。』(2:9-12)

これに先だって、王キリストの臨御の時節には、天からの聖霊が下る弟子らがあり、彼らは為政者の前に引き出され、『神の王国』の王の代理大使として世の支配権をキリストに委ねるよう勧告しているであろう。(マタイ10:17-20)⇒「子に口づけせよ
聖霊によって油注がれた『聖なる者たち』は、誰にも論駁できないほどの言葉が授けられるというからには、それに抗うことは誰にも内心では自己の不条理を承知するであろう。(ルカ21:15)
だが、キリストは天の雲に在って彼らからは見えないために、彼らはその性向を明らかにしてしまう。即ち、不信仰と不法である。

彼らは聖なる者たちを処刑し、更に神の王権を佩帯する『王の王、主の主』に対して実力を以ってその支配を除き去ろうと謀るが、キリストという天界の攻撃対象に手は届かず、また雲中のキリストの王なる『臨御』すらも信じない。
そこで、彼らの攻撃目標は地上のキリストの信徒たち、つまり聖なる者らからの聖霊の声に耳を傾け、神YHWHの名を呼び求める何億という大群衆に照準を合わせることになる。
これらの人々は、神の崇拝を求めて象徴的な『シオン』と呼ばれる地所に流れのように集まってきた人々であり、様々な背景や立場から象徴の神殿に崇拝に訪れた群衆であって、実際には聖徒を支持して世界各地に現れることになろう。

イザヤの良く知られた次の言葉こそ、聖霊の言葉に信仰を働かせ、シオンへと渦を巻いて集う人々の姿を描写したものに違いない。
『終りの日に次のことが起る。YHWHの家の山は、諸々の山のかしらとして堅く立ち、諸々の峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れ、多くの民は来て言う、「さあ、われわれはYHWHの山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、YHWHの言葉はエルサレムから出るからである。』(イザヤ2:2-3)


彼らは温順な人々であり、何の武器も持ってはいない。そこで、人類連合軍は間違いのない勝利を期待し、俄か仕立てのアマチュア戦闘員の民兵らまでもが強気になって気勢を上げる。

『諸々の国民の中に宣べ伝えよ。この戦いを正義のものとし、勇士を奮い立たせ、兵士を尽く近づかせ、登らせよ。
汝らの鋤は剣に、汝らの鎌は槍に打ちかえよ。
ひ弱な者にも「我は勇士なり」と言わせよ。
周囲のすべての国々よ。急ぎ来りて加勢せよ。』(ヨエル3:9-11)


その戦いが、彼らの思惑とは逆の意味で勝敗の決定的に分かれるという『ハルマゲドンの戦い』に入ってゆくことを意識せず、疑いさえしない。(黙示録16:16)
こうして、彼らの集合する場所は『イェホシャファトの広谷』となるのであろう。



-◆御名による救い

ここにおいて、神の許『シオン』に集ってきた大群衆に危機が迫る。
彼らはそれまで異教や様々なイデオロギーを信奉していたかも知れないが、イェホシャファトの時のように、為す術なく神殿で聖なる神を仰ぎ見たユダ国民のようであろう。
だが、神は必ずシオンを守られると書かれており、『この戦いは汝らの戦いに非ず。汝らと共にいるYHWHの救いを見よ。』とかつて語られた言葉に信仰を表す者らは、その期待を空しくされることはないだろう。

この裁きの救いにおいて不可欠な要素が「神の名」となることを、ヨエルの預言をはじめとして聖書は何度も繰り返している。
『すべてYHWHの名を呼ぶ者はみな救われる。YHWHが仰せられたように、シオンの山とエルサレムに、逃れる者が居るからだ。』(ヨエル2:32)

これは使徒ペテロやパウロの引用し繰り返すところでもあったが、今日のようにその名の発音が地上から失われている事態にあっては、この救いの要諦は依然隠されているのであり、それは真実に聖霊を受ける者たち『御名による民』が再び現れるまでは秘められることであろう。

しかし、時至れば『人々がシオンでYHWHの御名を、エルサレムでその誉を告げ知らせる*。諸々の民、諸々の国が共に集まって、YHWHに仕えるその時に。』と詩篇102:21-22が述べることが成就するのであろう。
*(原単語[לספר(レサフェル)*]「宣告し知らせる」) 


ゆえにエレミヤも語る。
『あなたを知らない諸国の民の上に、あなたの御名を呼び求めない諸国民の上に、あなたの憤りを注いでください。
彼らはヤコブを食らい、これを食らって、これを絶滅させ、その住まいを荒らしたからです。』(エレミヤ10:25)

その神名が聖徒らによって知らされる時には、もはや[YHWH]と記す必要もない。しかし、その名は信仰と引き換えに知らされることであろう。
救いは、どんな人間にも組織にも無い。ただ真実に神で在られるYHWHに信仰を働かせてその名に頼ることが人を救うというのである。それは、イェホシャファト王が合唱隊を前衛に据え、高らかな賛美を以って信仰の内に前進したようにするとき、信ずる者たちは軍勢の勢いによらず、信仰を前面に掲げて大いなる裁きと救いとを目撃することになるのだろう。

だが、将来のシオンは地上の一か所を指すわけではないに違いなく、信徒が集まって粗暴な大衆行動のようにデモ行進などするのでもないだろう。
むしろ神はこう云われる『「行け、我が民よ、汝の奥の間に入り、後ろ手に扉を閉じよ。憤激が過ぎ行くまで暫くの間身を隠せ。見よ、ご自分に対する地の住民の咎に関して言い開きを求めるためにYHWHはその場所から出て来られるからである。』(イザヤ26:20-21)

この『奥の間に入る』とは、やはり神の御名が関わるのであろう。確かに『YHWHの御名は強固な塔、義なる者は走り込み、高い処に匿われる』との言葉も空しくはなるまい。(箴言18:10)
それは「主」などという普通名詞で置き換えられるようなものでもない。知らされる神名を私心なく高揚する者が、神の側に立って忠節な支持を言い表すのであろう。

だがそれは、信じる者を救う義務を神が負うと云う訳では全くない。人は立場を弁えるべきで、本来、神が御名を揚げられることに人の救いが関わるだけである。
しかし、御名のゆえにこそ、信じる者らがたとえ散らばっていようと、保護の壁はまったく強靭であろう。
それは全能の神が、敢然と至聖の御名にかけて守られる場所、『至高者の秘す処』に匿われるだろうからである。

『 至高者の秘める処に住む者は、全能者の陰に宿る。
私はYHWHに申し上げよう。「わが避け所、わが砦、私の信頼するわが神」と。
神は狩人の罠から、恐ろしい疫病から、汝を救い出されるからである。
神は、ご自分の翼で、汝を覆う。汝はその翼の下に身を避ける。
例え千人が傍らに倒れ、万人が汝の右に伏せようとも、災いは汝に近付かず』(詩編91:1-16)

ゼカリヤも神の保護を預言する。
『おーい、バビロンの娘とともに住む者らよ、シオンに逃げて来い。
神の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍のYHWHはこう仰せられる。「あなたがたに触れる者は、わたしの眼球に触れているのである。
見よ。わたしはこの手を彼らの上に振り上げる。彼らは仕えさせた者たちに仕えることになる」と。』(ゼカリヤ2:7-9)

疑問の余地はないようだ。
聖なる者たちはキリストに倣い、迫害に殉教する覚悟が求められるとしても、他方シオンに集い御名を高める信徒らの人々に諸国が軍勢をどれほど糾合してもこれを害することはない。まったくできないのである。神ご自身が『火の防壁』となられるからである。


そして、イザヤの預言書はこう締め括られている。
『彼らは出て行って、わたしに背いた者たちの屍を見る。その蛆は死なず、その火も消されず、それはすべての者に忌み嫌われるものとなる。』(イザヤ66:24)


だが、神のシャファトは『ハルマゲドンの戦い』だけでは終わらない。






            新十四日派   © 林 義平  
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 二度救われるシオンという女

 示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か





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二度救われる「シオン」という女



イスラエルの初代の王サウルが戦没し、その子イシボセテも王座を追われると、ユダ族から王として油注がれヘブロンにいたダヴィデに対して、十部族とベニヤミンが全イスラエルの王となるよう求めてきた。
こうして名実共にイスラエルを治めるものとなったダヴィデは、ベニヤミン領のユダとの境の山地にあるカナン系エブス人のひとつの城市を攻め取ろうとするのであった。

ユダの只中にあるヘブロンよりは30km北に位置し、イスラエル中央に近いこの地から治めることをベツレヘム・エフラタ出身のエッサイの子は思い定めたのであろう。そこは古、エラムの王たちに勝利したアブラハムを祝福するために出て行った王なる祭司メルキゼデクがかつて治めた城市サレムであった。


急峻な崖を天然の要害とするこの土地はダヴィデたち攻め手を容易には近づけなかったが、それゆえにもダヴィデはこの場所を欲したであろう。

ここのエブス人は、かつてモーセの後継者のエホシュアが、アヤロンの平原の戦いで打ち破ったカナン五王同盟の盟主であった。この戦いでは、神が空から石を投下し、太陽を留めて丸一日ほども昼を長くしたことで知られるものである。
エホ