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原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

聖霊理解

「聖霊」という第三のもの

長文 2万3千文字超



マタイの福音の終わり間際にある『神と子と聖霊の名によってバプテスマを施し・・』の句にあるように、キリスト教で欠くことのできない対象が三つある。
即ち、創造の神であり、その子キリストであり、もうひとつが「聖霊」とされている。

「神」とは、正しく崇拝の対象とされるべきものであり、その理由を聖書は
『主よ。我らの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるに相応しい方です。あなたは万物を創造し、あなたの御意志のゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。』 と記し、唯一永遠の原因者に最大の栄誉が帰せらる理を明示している。(黙示録4:11/列王第二19:15/ネヘミヤ9:6)
 
「キリスト」とは、『神と人との仲介者』として立てられるべく「油注がれた」つまり任命を受けた者を意味し、『神の独り子』とされている。旧約聖書の古代から予告された、そのメシア(油注がれた者)の役割を信じ、その教えに従おうとするのがキリスト教である。(テモテ第一2:5/ヨハネ1:14/ヨハネ5:23)

このあたりまでは理解することに然程の難しさはないのだが、第三に挙げられる『聖霊』とは何を意味するのだろうか。

ユダヤ教に於いて「神」とは、創造者にして、アブラハムに現れ、海を裂いてイスラエル民族を奴隷から救出し、モーセを介して律法を与え、ダヴィドの王統をもたらし、神殿に御名[יהוה](発音不明)を置き、多くの預言者を遣わしタナハ(旧約聖書)を著した聖なる方である。
この神はメシアの到来も予告し、そのメシア=キリストがガリラヤ地方のナザレ村から来た奇跡を行う人イェシュア=イエスであることを信じる者たちがユダヤ教から分かれて新たな信仰の道を歩み始め、それが今日のキリスト教へと進んでいった。

以上の事柄は一般に教えられる歴史を追っても確認のできることである。

だが・・
『聖霊』とは何か?

この神とメシアに並ぶほどの存在としての「聖霊」が含まれるという概念を旧約聖書に見出すことは無い。
ユダヤ教徒にとってしてみれば、聖なる神こそ崇拝の対象であり、メシアの到来も予告されていることも認めることはできる。(ただ、それがナザレのイエスであると肯んじることは無いにしても)
そして聖霊が働いて創造が為され、イスラエルを導き、預言者に霊感を与え、タナハを書かせたことも認められるであろう。

しかし、「聖霊」が「神」や「子」と共に名を挙げられるに相応しい理由というものを見出せるだろうか。

そこで聖書の中を追ってゆくと、このマタイの記述を以って、「聖霊」を高める理由というものがキリスト以降の独自のものであること、またそれが神やメシアと並び得るものであることを確認できるのである。

この「聖霊」は、キリスト教徒にとって非常に重要なものであり、些かも軽視してよいようなものではない。
しかし、けっして「イエスの代わりに遣わされた神」などと云う三位一体がどうのということではない。
やはり新約聖書での『聖霊』とは、キリストの犠牲の死を以ってはじめて下賜される道が拓かれたものであり、キリストの血のうえに成り立って存在するようになったところの、このうえなく貴重な事象の始まりであったことが分かるのである。 
イエス自身が『わたしが(地上を)去って行かなければそれ(助け手の聖霊)は来ない』と最後の夜に使徒らに語っていたことを使徒のヨハネが書いている。(ヨハネ16:7)

キリストの死は大きな変化をもたらした。
それは『サタンを無に帰せしめる』 ほどの勝利を収め、同時にキリスト自身を『完全な者』としたことをヘブライ人書簡が証ししており、使徒ヨハネもキリストの崇高な死の未然を含んで、『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかった。』と書いている。やはり、主の死の犠牲を以って下賜が許されたものが、この格別な霊、即ち『聖霊』ということができるのである。(ヘブライ2:9-10.14/ヨハネ7:39)

そして、新約聖書にあって、このように「聖霊」を高めるべき理由が、このマタイ最後の一文だけに拠るものではなく、新約の多くの箇所に見出すことができ、その点では、却って前述のマタイの記述が、新約の使徒言行録以降に見られる聖霊の働きを一文にまとめて簡潔に総括したもののようでさえある。

マタイ福音書のこの最終部分は後代の書き加えではないかとも言われてきた。
その蓋然性も無くは無いようだ。だが、マタイ福音書のヘブライ語もギリシア語も原典が存在していない以上、その真贋を断言することはできない。しかし、内容を吟味する道は残されている。

そこで、この『あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ』のマタイの句は、聖書の全体の調和を崩すものでも、異質のものでもなく、むしろ、聖書教の核心を有して一言で見事に云い表しているかの観がある。

従って、この新たな第三のものは、メシアの到来をさえ認めていないユダヤ教徒に理解されることは無いであろう。
この『聖なる霊』(ハギオー プネウマトス)の概念は、以下に見るように、まったく新約の世界だけに属するものであり、他のいかなる宗教も持ち得ない超絶的な事象ということができる。

では、何故にこの『聖霊』が神や御子に並ぶほどの高い立場を占めているのだろうか。
ここにおいて、我々は新約の中での「聖霊」を振り返って注目してみるときに何を再発見するだろうか。

そこで、「聖霊」の格別なところを陳述する場面としてヨハネ福音書の最後の晩餐の場面からはじめて、新約聖書の内容を探り出してみることにしよう。


◆イエスから使徒へ

イエスは祭司長派に捕縛される夜に、十二使徒らとの最後の晩餐に際し多くを彼らに語ったが、その重要な言葉の数々は、その場でイエスの懐に居たヨハネ、あの主の御傍に仕えた十二人の最年少で、殊に主に可愛がられていたこの漁師ゼベダイの子によって、その名による福音書の中の四つの章を占めるほどに多くが書き出され、今日にそれを読む我々に伝えられているのである。

やがて最後の夜も明ければ、総督ピラトゥスの前に引き出され、昼には磔刑を受けるという、使徒らと過ごす最後の貴重な時間に語られた内容には、イエスの去った後の弟子たちへの指導や励まし、また将来を予告して備えさせることなどを含み、イエスの公生涯中にあっても特に濃密な教えと使徒らへの気遣いに満ちており、それはヨハネ福音書の第十四章からイエスの祈りを含む第十七章に及んでいる。

イエスは、使徒たちに一年ほども前から自らがユダヤの当時の祭司長派から退けられて殺され三日目に生き返ることを度々話してはいたのだが、使徒たちはこの死と復活の奇跡が起こることを理解できずに過ごし、こうして磔刑に処される前の晩になっても未だに充分には知らず、ユダ・イスカリオテが『しようとしていることを早く済ます』ために晩餐の場から立ち去った理由も判然とはしていなかった。

しかし、師はこう言われる
『子らよ、わたしはまだすこしの間、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに「あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない」言ったとおり、今あなたがたにも言う。』
『わたしは去って行くが、あなたがたのために場所を用意したら戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎えよう。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。』 

自分たちの師が彼らからいよいよ去って行くと語るに及び、掛けがえのない主との別れが近付いた使徒らには深い落胆が臨んでゆく。

そこで、思ったままを口にし易いトマスが『私たちはあなたがどちらにおいでになるのかを知らないのです。どうして、そこへの道が分かるでしょうか?』と憂いを訴え
義理堅いフィリポは『私共に父をお示し下さればそれで満足します!』と印を求める。
そしてペテロは、親密な口調で『何処においでになるのですか?主よ。』と後に有名となる一言を以って尋ねた。

イエスは答えて言う。『あなたはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、後になってから、ついて来ることになろう』。
するとペテロは強く反発し、『主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか!あなたのためには命も惜しくありません!』

そこでイエスは答えて
『あなたがたは心を動揺させず、父と私を信頼せよ。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのだ。
わたしが去って行って、あなたがたに場所を備えたなら、また来て、あなたがたをわたしの許に迎えよう。わたしのいる所に、あなたがたも居るようにするために』

『「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからだ。』

こうしてイエスは使徒たちを励ます言葉を連ねてゆき、自らが地上を離れその父の御許へ戻ることが彼らの益になることを言葉を続けてゆくのだが、この晩の使徒らは、師が天に去り、時経て後に彼らをも天に招くという、この意味を悟ることができないでいた。

年若かった青年ヨハネにとって、この晩のイエスの懐にあって師の口から出た多くの言葉は65年以上後の彼の最晩年までも心と想いの中に刻まれるほど印象深いものであったのであろう。

そして、これら後に残す使徒たちへの慈愛に満ちた言葉の中でひとつ注目を引くものがある。
それこそは、師の去った後に弟子たちに到来する「援助者」であった。

『わたしは父にお願いしよう。あなたがたに別の援助者(パラクレートス)が与えられ、それが永遠にあなたがたと共にいるようにしてくださるようにと。
 そのものは真理の霊なのだ。この世はこれを受けることはできない、見ることも知ることもないからだ。
だが、あなたがたはこの霊を知る。 なぜなら、これはあなたがたに留まり、あなたがたの内に在るようになるからだ。』(ヨハネ14:16-17)

やがて、この言葉は成就して、使徒たちを含めた弟子たちに見紛うことのない仕方で『援助者』の働きを為す聖霊が到来することになる。
それはイエスの刑死と墓での安息から五十日を経たあの五旬節の朝のことであった。それゆえ、使徒たちはこの晩には、それがどんなものかを知らず、それが彼らをしてどれほどの偉業を成し遂げさせるかも知る由もない。

それでも後になって、彼らはこの晩にイエスがこう語っていたことを思い起こしつつ得心したことであろう。
『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからだ。』
また、彼らの主はこうも語っていた『父の許から真理の霊が来るとき、その者がわたしについて証しをするはずだ。そして、次にはあなたがたが証しを行うのだ。あなたがたは初めからわたしと一緒に居たのだから。』(ヨハネ14:12/15:26-27)

イエスは復活後の四十日間、時折に使徒たちに現れては話しかけ、自らの復活を得心させると、最後には彼らの見守る中、聖霊について再び語って『あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の絶え果てるところに至るまでが、わたしの証人となる。』と言われ、これが地上で語られたイエスの最後の言葉となった。(使徒1:8)
それからイエスは天に高く昇ってゆき、やがて雲間に見えなくなってゆく。

その光景が終わっても、彼らはおそらく長い時間、師を慕って空のその方向を眺め続けていたのであろう。そこへふたりの天使が現れて言う。
『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を眺め入って立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、また来られるであろう。』(使徒1:11)

弟子らがイエスの昇天を眺めた十日の後、エルサレムの目立たぬ一角でユダヤ人の迫害に未だ怯えるイエスの御傍に仕えた120人ほどのガリラヤ人の弟子たちの上に、イエスが父に願って彼らに与えると言われていた「約束の聖霊」が臨むことになる。

その現れは、隠棲する彼らとは正反対に、五旬節の祭りに各地から集まっていた離散のユダヤ教徒らに何事かと思わせる大音響の風の音を伴い、多くの人々の注目を誘ったのである。
ガリラヤから来ていた120人ほどの弟子たちの上には聖霊が見える『炎の舌』の形を以って現れており、彼らはそれぞれが諸国の言葉で『神の壮大な事柄』を語っていたが、それを見た人々は驚愕する。

そこで彼らは確かに『力を受け』、もはやイエスを殺めたうえに、弟子たちまでをも迫害しようとしていたユダヤ人らを怖れ怯える態度からは打って変わって、この日の朝に、百二十人のガリラヤ人らは、あの晩には主を三度否認していたペテロを先頭に立ち上がり、彼らの主イエスこそがメシアであること、そしてユダヤの民がこのメシアを退けてしまったことを証し、世界宣教の第一歩を踏み出したのであった。

使徒ヨハネはこう述べている。
『神が御子についてなさった証し、これが神の証しである。 神の子を信じる者は、自分の内にこの証しを持っている。神を信じない者は神を偽り者とする。神が御子について証しせられたその証拠を、信じていないからである。』(ヨハネ第一5:9-10) 

異言という奇跡の言葉とペテロの証しを聴いた群衆はキリストの死に心を痛め、ペテロに問う『わたしたちはどうしたらよいでしょう』。
ペテロは答えて『バプテスマを受けなさい。そうすれば聖霊を得る』と語っては、そうして『人々を弟子とするように』というイエスに命じられた『人を漁る業』に着手するのであった。(使徒2:36-39)

即ち、律法契約に属していたユダヤ人らが、イエスをメシアとして認め、このことに信仰を持つなら、水のバプテスマを介して、その聖霊を受ける者となり律法契約から「新しい契約」へと移されるようペテロは勧めていたのである。ユダヤ教徒である彼らは既にその神YHWHを崇拝しており、そこにナザレのイエスをメシアとして信仰することが加わると、聖霊を受けるというのである。(マルコ16:16-17)
ここに、神、子、霊の本質が見える。

他方で、イエスを退けたユダヤ体制や祭司長派らには、もちろん神からの奇跡の賜物が与えられることは無い。彼らの信仰の対象は神だけに留まり、彼らにはバプテストのヨハネが予告した『聖霊』に代えて『火のバプテスマ』が用意されていたのである。(マタイ3:11-12)
即ち、その『世代』の内に臨むメシア拒絶の断罪であり、それは西暦七十年にユダヤとエルサレムの滅びという大規模で悲惨な結末を迎えることになる。(ルカ19:41-44)
それゆえペテロは『この曲がった世代から救われよ』と熱心に説き勧めるのであった。(使徒2:40)

この日のうちに、エルサレムの一角に隠棲していたペテロたちには三千人ものユダヤ教徒が加わったと記されているが、この勢いは「聖霊」の助力なくして考えられない。

イエスというメシア信仰を得た人々は、五旬節の祭りの後も喜びと熱意のうちにエルサレムに留まり続け、聖霊の業の証しを目撃しつつ自分たちが見出したイエスへの信仰を喜び、神殿での崇拝を共にし、家々ではエルサレムの人々がパンを分け合い離散の逗留者への食事を給していた。(ヨハネ14:1/使徒2:42-47
だが、祭司長派はこの集団の動きに不穏さを感じ始める。

せっかく総督に圧力をかけて「民の扇動者」ナザレ人イエスを亡きものとし、その一派の運動は五十日は下火になっていた、いや、その派の教祖を公に処刑してほとんど鎮火したはずであったが、これが今や以前に増して活気を帯びているのである。そこでサンヘドリンは使徒らを呼び出し、『もうこの名(イエス)によって語ってはならない』と脅しの警告を与えるのであった。(使徒4章)
しかし、ペテロたちは男だけで五千を数えるほどに増えており、この脅しも一向この聖霊の業を止めることにはなっていなかったに違いない。

彼らの主を殺害に追い込んだサンヘドリンからの脅迫に面した彼らは、却って、心をひとつに神に祈り、『彼らの脅しに目を留められ、あなたの僕イエスの名によって徴や奇跡が起こりますように』と神に祈ると、神の御力によってその場は揺れ動き、皆がひとり残らず聖霊に満ちて、大胆に神の言葉を語り出したのであった。

そこではもはや、神の恩寵がどこにあるのかは問うまでもない。ユダヤ律法体制は未だ存続してはいたが、新たな大祭司イエスは、自らの犠牲によって従属の祭司となるべき人々を、自らに信仰を働かせるユダヤ人から選び取っていたのである。(ヘブライ9:11-14)

これは聖霊の勝利であり、数の上では圧倒的に優勢な体制派がどれほど反対しようと、ひとたび「約束の聖霊」が注ぎ出されて始まった以上、その流れを止めることは誰にもできない。
この物事の進展は、天に戻ったキリストが神に願い出て与えられた神の威力である「聖霊」によるもので、イエスこそがメシアであり、その指導にユダヤが服すべきことを証し、また、服した人々が真に「アブラハムの裔」としての選びに入ったことを表していたのである。

この「アブラハムの裔」を選び出す業はキリストの地上への現れによって予備的に始まってはいたが、イエスの血の犠牲が神の御前に受け入れられるに及んではじめてこの格別な『約束の聖霊』が注がれ始めている。

それゆえ、キリストは『わたしが去って行かなければ、助け手はけっして来ない』と弟子らに語り、ペテロは『この方(イエス)は神の右に高められ、約束の聖霊を父から受け、それを注ぎ出された』と民に宣告したのであり、ヨハネは、その以前には『霊は無かった』と書いている通り、それは旧約の『聖霊』とは異なる、よほど高い次元のものであった。(ヨハネ16:7/使徒2:33/ヨハネ7:39)
 
その霊を受ける者らは、この世のすべての人々を救う『王なる祭司、聖なる国民』、真実のイスラエルの最初の人々がこの五旬節に聖霊を以って生み出されたのである。つまり、イザヤの予告していた、石女サラの奇跡の出産のはじまりであった。それはいまや真実のアブラハムの裔『神のイスラエル』を生み出し始めたのである。(創世記22:18/出埃19:5-6/ペテロ第一2:9/イザヤ66:7-8)

エルサレムに現れた聖霊を持つ人々の集団は、普段から神殿に集い、境内東側のソロモンの柱廊とよばれる南北に400mほども続く長い建造物の下に集まるのを常としていたが、祭司長派の目を気にしてか、彼らにその場で加わる勇気を示したユダヤ人はいなかったものの、街頭では彼らを通して行われる徴や奇跡が知られるようになってゆき、イエスのときのように人々は病人を街路に並べ、ペテロがそこを通るときに、その影がかかるようにさえしようとしていたのであったが、やはり『ひとり残らず癒された』と、あのルカが記している。(使徒5:16)

これらの際立ったイエス派の活動に危機感を懐いた祭司長派らとサドカイ派は、使徒たちが神殿境内で民に講話しているところ職権で捕縛して牢に繋ぎ、この集団の勢いを抑え込もうと目論んだ。
だが、彼等が相手にしていたのは単なる人ではなく神の御力である。
夜中に天使が彼らを解放し、神殿で神の言葉を語り続けるようにと伝えるのであった。

そろそろこの辺りで、宗教領袖らも使徒らの業が人間のものでないことを悟っても良さそうだが、一度反対を始めて意固地になったのか、朝になって使徒らが鍵の掛かったままの牢にはおらず、普段のままに神殿で話していると聞いても彼らへの反対と脅す姿勢を変えようとはしない。

しかし、幾らかの変化が言葉に滲んでいるようにみえるのが
『あの者(イエス)の血を我々に負わせようとしている』という使徒らへの非難の言葉である。
つまり、早めに消し止めるべきボヤのようで見えた使徒らの活動は、彼らが思ったように易々と制圧できるものでないことを認めはじめたように読める。つまりは、「意外に手強い」と感じ始めたのであろう。しかし、宗教領袖らも、相手の後ろ盾が徒ならぬものであることを悟っても良さそうなものである。

しかし、使徒らの言葉は容赦なくそこを責めたてる。
『(神は)イスラエルを悔い改めさせて、これに罪の赦しを与えるために、そのイエスを導き手、また救い主として、ご自分の右に挙げられました。我らはこのことの証人ですし、聖なる霊もまた証人なのです。』

人が最も強く怒りを覚えるのは、的外れで不当な批難を浴びるときよりは、その批難が的確で正しいことを意識したときではなかろうか。もし不当な批判を為されているなら、真相が明らかにされることを待てばよいのだが、その批判がまったく正当である場合には、そこに釈明の逃げ道は塞がれており、心の余裕は微塵も無い。
殊に、宗教指導者のように相手を自分より下に見下しているなら、その怒りはどれほど激しいものになるだろう。

祭司長派がメシアを除き去ったことの咎を平民の使徒たちに暴かれ、奇跡をもたらしている「聖霊」までもがその悪行の証人であるとの言葉を聞いた者らには返す正義の言葉はまるで無い、そこで激怒の余りに使徒らに殺意を懐いた。
明らかに不義なる者が、明らかな正義に立ち向かう術は、指弾する相手を抹殺して黙らせる実力行使以外に無く、その殺意こそはまさしく彼らがイエスを除き去ることになったもので、これをユダヤの宗教領袖は繰り返そうとするところであった。

もし、ここで律法学者のガマリエルが彼らを制止しなかったなら、ここで最初の弟子の殉教が発生していたことであろう。
ガマリエルは、賢くも体制派が神の聖霊と衝突してしまう危険を察知したようである。
『この者らを放っておこう。・・・然も無いとあなたがたは神を敵に回すことになり兼ねない』。


◆信仰を惹き起こす 

もちろん、ガマリエルがイエスに信仰をもって帰依したわけでもない。しかし、彼は内心で、使徒らが異言や癒しなどの奇跡を行い、この度は鍵の掛かったままの牢から出たばかりか、相変わらずに神殿でイエスの福音を宣明する姿を冷静に観察し、「あるいはこの業が神の力から出ている可能性もある」と判断し、中間的な立場をとったのであろう。

この賢い人物も、イエスをメシアとして受け入れるようになったということはその後も遂になかったであろう。もし、そのようなことがあれば、その高い立場や影響力のゆえに使徒言行録などが記述しないことは考えられない。また、このような人物の帰依はユダヤ体制の趨勢さえ左右したのかも知れない。しかし実際には、その高貴な立場ゆえに、また大ヒレルの家系に属するミシュナー編纂の学者の長としても、平民中心のこの集団への参加が縁遠いものにされていたことは想像に難くない。

ユダヤ人の間では、使徒らの聖霊の業を目の当たりにしても、このように「中間的」な思いにあった「事情のある」人々も多かったのではあるまいか。
だが、それはイエスにも聖霊にも真に信仰を懐くには届かず、「アブラハムの裔」に数えられるには明らかに不足している。それはアブラハムという人物の示した信仰の如何が示す通りである。
 
こうして、キリストの約束した「聖霊」は使徒と弟子たちにとって確かに「助け手」の役割を十二分に果たした。
それは神の是認が律法体制からキリストの弟子らに移ったことの「印」という表面的な意思表示という程度のものではなく、それを超えてイエスが地上で行っていた『父の業』が継承され、いや、それ以上に聖霊が起こす奇跡によってイエスをメシアと信じて受け入れるユダヤ人を「新しい契約」へと招いていったのである。

この背景を考慮に入れつつヨハネ福音書の次の言葉を改めて読むなら、何が見えてくるだろうか。
『真に、わたしを信じる者はわたしが行う業を行い、また、更に大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからだ。』(ヨハネ14:12)

この言葉のように、聖霊を得た弟子たちの活動は、やがて諸国に出て行き、ローマ士官コルネリウスをはじめとする無割礼の諸国の民にさえ信仰を振い興させることになっていった。それはイエスが地上のパレスティナで始めた業を世界へと推し進めるものであり、キリストの犠牲を以っていよいよ「聖なる民」、「アブラハムの裔」を集めるという完成に向かって邁進する活動であったのである。

即ち『わたしが行う業』とイエスが呼んだのは、『父の御業』であり、それは「聖霊」の力量なくして行い得るものではない。(ヨハネ10:37)
それゆえ、イエスは自ら行う業についてこのように言われた。
『子は父がしていることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができない』
『もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてよい。 しかし、行っているのであれば、わたしは信じないとしても、その業は信じよ。』 (ヨハネ5:19/10:37-38)

イエスの行う『父の業』は、イエスが、父である全能の神と結びついていることを教え、その業は人々から信仰を惹き起こす働きを果たしていたのである。

行われた無数の癒しはイエスに従う群衆を造り出し、ゲネサレの湖での奇跡の豊漁はペテロをはじめ四人の使徒を追随させるものとなった。 あの気位の高いサンヘドリンの中からさえ、密かに信仰を持つ議員も現れて、人目を憚り、夜中にイエスの宿を訪ねさせ「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるような徴を、誰も行うことはできません」と言わしめている。

「わたしはあの方の衣の房縁に触れるだけで治る」と固く信じた、十二年もの長い間に表沙汰にしたくもない流血の疾患にあったあの女も、イエスの知らぬところで癒され、結果として『(アブラハムの)娘よ、あなたの信仰がよくならせたのだ。安心して行くがよい』との言葉を賜っている。その信仰はまさしくイエスをメシアとするものであった。

主イエスはその時に、ご自身から『力が出て行く』のには気付かれたが、それがどんな働きを為したのかは分からずに、『わたしに触れたのは誰か?』と許多の人々が御傍に迫っている中でも、そっとながら、格別な触れ方をした何者か非常に深いメシア信仰の持ち主を切に捜し求められる。その者はまさしく『アブラハムの裔』であるに相違ない。その女の信仰に応じて主から出て行った『力』とは、即ち御父からの聖霊である。それ以外の何とであると言えるだろうか。

イエスの奇跡の業によって、イエスがメシアであり、父である神が共にあることが示され、それは神の遣わしたキリストへの信仰へと人々を導いていたことは明らかなことである。
その一方で、こうした聖霊の業を見ても、それによって信仰を持たず、反発した者たちもまた存在した。
イエスの業を『悪霊たちの頭目ベエルゼブブ』に帰した宗教領袖らであった。

したがって、聖霊の業は人々の信仰を惹き起こすと同時に、不信仰を焙り出す働きもあったと言える。
だが、この不信仰は『聖霊に言い逆らう』ことになり、それは『許されることのない』罪に至る危険を孕むことである。
それで使徒ヨハネはこう述べる。
『神が御子についてなさった証し、これが神の証しである。 神の子を信じる者は、自分の内にこの証しを持っている。神を信じない者は神を偽り者とする。神が御子について証しせられたその証拠を、信じていないからである。』(ヨハネ第一5:9-10)

だが、『わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのだ』との言葉に表されるように、聖霊の力を認める者はイエスと共に「集める」のであり、それは聖霊に信仰を懐き、アブラハムの裔を導き出す業の一端に与ることになるのである。(マルコ9:40) 

このように「聖霊」の業と信仰とは不可分の関係にあり、第一に聖なる民を集め、次いでその民の言葉に信仰を持つ者たちをも導き出すことになるであろう。これは終末の世の裁きに敷衍されるものでもある。


◆真理を明かす聖霊

そしてこの「聖霊」が弟子らにもたらした益には、真理への啓示もあった。イエスはその働きをこう述べていた。
『そのもの、つまり真理の霊が来ると、あなたがたに真理をあまねく手引きする。そのものは、自らによって語るのではなく、聞き受けたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに伝えるからである。』(ヨハネ16:13)

この点で、使徒パウロは特筆に値する人物となった。
律法体制のユダヤ教が尾を引くイエス派の中にあって、彼ほどキリスト教の向かうべき方向を、生涯にわたり確固として指し示し続けた者がほかに居たろうか。

キリストが捧げた唯一度の犠牲が神殿祭司による供儀の一切を終了させ、律法はキリストに導く養育係であったゆえに、キリストは律法の終わりであると大胆に発言し、その通りに教え振る舞った彼の信念はまったく揺るぎないものであった。
この強固な信条は彼の発案したものに過ぎないのであれば、その信条がキリスト教をあれほどユダヤ教から脱皮させ、見事なまでの次元上昇を成し遂げさせただろうか。

「アブラハムの裔」が異邦人からも採られることの「奥義」は、ユダヤ人からすれば、あれほど律法で諸国民には無い聖さを求められてきていたのであるから承服し難い内容であったことであろう。だが、彼らに宿ってきた伝統に基づく律法主義の想いを乗り越えさせたのもまた聖霊の圧倒的な証し有ってのことである。

エルサレム会議を仕切ったヤコブは最後に議決を通知する中で、『聖霊とわたしたちは以下に書く他には何も重荷を加えないことを良しとした』と記させたが、ペテロやパウロたちに働く聖霊に敬意を払い、諸国民にも降る聖霊を自分たちに勝る権威として頑なユダヤ教を抑え込んだと言えよう。
そしてそれは少なくともヤコブをはじめとするユダヤの人々にも納得させる証拠となったのだ。
これはたいへんな指導力というべきであろう。


聖霊の教えは、これに加えて聖霊を持つ者らに「奥義」を啓示することも含まれていた。
これは地上にいたイエスからその講話を聞いた人々とは大いに異なっている。
イエスはその公生涯の間に民衆に話すときには例えを用いて語ったので、身近な弟子らを除いて、それらの話の意味を悟ることはできなかったことを福音書が伝えている。

その理由はといえば、『あなたがたには、天の王国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。』というものであった。
しかし、聖霊を受ける弟子たちには、その聖霊が真理の全体にあまねく案内をし、彼らはそれを深く知ることが許された。

この「奥義」(ミュステーリオン)は「隠されたもの」の意があり、これは神の企図する事柄、また「神の王国」に関わるものであるが、エデンの園で始まり、その後の時の経過と共に次第に明らかにされ、その概要が漸進的に姿を現してきたもの、「神の経綸」とも言うべきものである。

イエスの地上での宣教では、その講話を聞く者の大半がその益を得損なっていた。
なぜなら、メシアは講話のほとんどを例え話として語り、その意味を身近な僅かな弟子たちだけに示したからである。その差別の理由をイエスはイザヤの預言を引用してこのように指摘する。
『この民の心は鈍くなり、その耳は聞え辛く、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めて癒されることがないためである』

イエスの周辺に集まった群衆の大半には欠けているものがあった。
群衆は使徒たちのようではなかった。つまり、難病を癒し、死人さえ生き返らせる預言者のようには広く知れ渡り、また敬ってイエスに付き従いさえしたが、この人々にはその表面的なところから更に踏み込もうとするところがなかった。それは例えの意味を知ろうとして更に一歩踏み出さなかったところに表れている。
それは族長イスラエルの兄エサウが示したような神に対する鈍感さであったことであろう。


つまり、エデンに発し、アブラハム、モーセ、ダヴィデと世々に亘って示されてきた神の意図また経綸の行方であるところの「神の王国」に対する意識の欠如という問題をイエスの周囲の群衆は抱えていたのである。
あるときには『これこそ来ることが定まっていた預言者だ』と言ってはイエスを王にしようともしているのだが、それは古来預言者に伝えられてきた神の意志とは異なり、世俗的で愛国的な自分たちの思い描く王にしようとの思惑であり、イエス自身はそうしようと押し迫る群衆を避けている。

イエスが明かしたように大半のユダヤ人には『天の王国の奥義を知ることが・・彼らには許されていない。』それは、彼らをして『悔い改めて癒されることがない』という厳しさがある。この「癒し」とは肉体の癒しを意味しないであろう。

即ちそれは、ペテロがあの五旬節の日に『自分の罪を拭い去って頂くために、悔い改めて本心に立ち帰りなさい。主のみ前から回復(また「慰め」アナプシュクシス)の時がきて、あなたがたのために予め定められたキリスト・イエスを、神が遣わして下さるためである。』と述べたようなより本質的な「回復」であったことであろう。(使徒3:19-20)
その「癒し」には、ユダヤ人が父祖から負ってきた律法契約不履行の呪いと罪科に対する悔い改めを必要としたに違いない。(ガラテア3:10)

そのようにイエスの教えである「奥義」の理解や益は誰にでも与えられるものではなかった。
そこでマタイは、イエスが何事も例えで語ろうとした背景について詩篇78編2節を引用し、『わたしは口を開いて例えを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。』と記したことには、この秘密の保持者としてのメシアと、これに耳を傾ける者にだけ与えられる「奥義」の存在を示していたと言える。

しかし、最後の晩餐の夜からイエスは使徒たちに比喩を使わずに話し始めた。
『わたしはもはやあなたがたに比喩で話さず、父についてはっきりと語る時が来る』というイエスに対し、使徒らは『今、はっきりとお話下さり、すこしも比喩を用いられていません。』と反応した。
この晩に使徒タダイもこう発言した。『主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとなさり、世に対しては現わそうとなさいませんが、これは何事なのでしょうか。』(ヨハネ14:22)

これは、まず使徒たちへ、そして彼らを介して信仰抱く者らへの「奥義」を知らせる許可が下りたことを知らせるものであったろう。
キリストは既に犠牲となるべく祭壇に向かって歩を進めているに等しく、この時点で、天の父は御子の忠節の歩みに何の疑念も持たれなかったに違いない。
使徒らも既に史上最初の「主の晩餐」に与っており、その忠節な歩みについても神は御子の犠牲を既に捧げられたものとして、この晩から彼らの「義」を信用されたのであろう。⇒「主の晩餐で忘れられてきた二つの意義」 

こうして、御子の犠牲により、イスラエルの中から「義なる者」が現れることが明らかとなり、彼らには『天地創造の時』また『世の基礎が置かれた時』以来『隠されてきた』奥義を知るに至る道が開かれた。

そしてイエスはこのことにおいても聖霊の果たす役割を知らせ、『それは真理の霊であり』『真理の霊が来ると、あなたがたに真理をあまねく手引きする』『助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わしてくださる聖霊は、あなたがたに全てのことを教え、またわたしが話しておいたことを、尽く思い起させるであろう。』と最後の晩餐の席で彼らに知らせたのであった。


◆使徒時代に働いた聖霊
 
さて、五旬節では、聖霊を注がれた弟子たちに与えられた最初の賜物は「異言」(グロソラリア)と呼ばれる習得したこともない言語で『神の壮大なこと』(これはおそらくは、神の目的またその経綸に関する事柄であったのであろう)を語る能力であった。
これは五旬節の祭りに集っていたユダヤ教徒たちへの「徴」となり、その奇跡を見聞きして多くの者たちがペテロの宣明するイエスをメシアとして受け入れた。

それから、使徒たちを通して強力な癒しが行われ、これらはガマリエルⅠ世も無視できないものにし、憤激するサンヘドリンに自制を促すほどであったことは前述の通りである。

そして、「約束の聖霊」はそのほかに、異言を翻訳する能力、個人の秘密や近い将来に起こることを知らせる預言などの賜物も弟子たちに与えていった。
それだけでなく「知恵」や「知識」と呼ばれる賜物もあり、この点では五旬節から然程経っていない時期に殉教したステファノスについて使徒言行録は特筆している。

エルサレムではイエス派はおそらく万の数に達しており、ユダヤ教徒の間では無視し難いものとなっていたであろう。
そこで、解放奴隷の会堂というおそらくはギリシア語を話すユダヤ教のグループが、ヘレニストであるイエス派のステファノスと論議を交わした。
だが、『知恵と霊によって語る』ステファノスに、そのグループは反駁することにおいてまるで『歯が立たなかった』と記されている。
人が最も「実力行使」に及び易いのは、やはりこのように論理を失った状況なのであろう。

そこでこれらの反対者は、ステファノスを亡き者とすることで、その知恵の言葉も諸共に除き去ることを謀り、彼をサンヘドリンに引き出すが、そこでステファノスは弁明を行い、その最後の部分で命を掛けてユダヤ教徒を『いつも聖霊に逆らってきた』と糾弾したものであるから、宗教領袖らの理性を欠いた怒りはまさに堰を切らんばかりとなり、加えてステファノスに『見よ!天が開けて人の子が神の右に立っているのが見える』とまで言われるに及んで、彼らはその霊的な言葉を聞くまいと両耳に手を当てて突進し、ステファノスは石打に遭って最初の殉教者として記録されるに至ったのであった。

この弁明の後から、ユダヤ教徒のイエス派に対する態度はまったく強硬なものとなった。
その後、執拗に繰り返されるユダヤ人の嫉妬を込めた迫害の始まりである。
しかし、これによって聖霊の働きは新たな段階を迎えることになった。

つまり、イエスへの信仰を携えた者たちが迫害を避けて各地に散って行き、五旬節以降の集団生活がここに終わりを迎えると同時に、イエスの教えはエルサレムから各地へと広がり始めたのである。
こうしてみると、五旬節以降のエルサレムでの共同生活は、イエス派揺籃のゆりかごであったのであろう。

だが、聖霊の働きはその後も絶えることがなかった。むしろ、それは新たな展開を迎える。散らされた弟子たちと共に聖霊の賜物も拡げられていったからである。
福音宣明者のフィリッポスの活躍が使徒言行録に採録されているが、彼の伝道はまさに聖霊との二人三脚のようであった。福音を携えて向かう方向を指示され、それを果たすと聖霊は彼を取り去り、肉の脚に拠らずに移動までさせている。

フィリッポスの宣教によってサマリアが信仰を持つようになり、ペテロが訪れるとサマリア人からも聖霊を受ける弟子が現れた。これはヘレニストのユダヤ人にとってはまだしも、純粋なヘブライストから見れば相当な衝撃であったことであろう。⇒ 似て非なるサマリアへのキリストの想い

これは「アブラハムの裔」に含まれるのが純然たるユダヤ人ばかりでないことを知らせる先駆けとなった。つまり、イエスがペテロに与えた「王国の鍵」の使用であり、神の「祭司の王国、聖なる国民」にサマリア人も加わってきたのである。

そしてペテロはその鍵を用いて「神の王国」を無割礼のまったくの異邦人に対して開く時を迎えることになる。
それが、カエサレアに居たローマ士官コルネリウスとその一党へのペテロの派遣の挿話である。
この人々への聖霊の降下は、ユダヤ人にとってまことに信じ難いことであったので、エルサレムではこの件でペテロを譴責する者も出た。

だが、ペテロにしても、イエスをメシアとして受け入れ、既に聖霊が降っている異邦人を認めないことが出来ただろうか。まして、あのヨッパでの幻を見ていながら、その明示されたイエスの意向に反することなど到底無理である。(使徒11:17)

こうしてユダヤ人からディアスポラの民へ、更にサマリア人も含んで諸国民へと聖霊は世界に向かって広がっていったが、これはイエスの指導に属するものであったことを使徒たちはやがて思い出していったことであろう。(使徒1:8)

例えれば、使徒ヨハネが最晩年に記した福音書の中には「羊の囲い」の例えがある。
その中の『この囲い(律法契約)にいない羊もわたしは連れて来なければならない』と語っていたイエスの真意をヨハネは悟っていたに違いない。(ヨハネ10:16)

ヨハネがこれを記す40年以上も前に、使徒パウロはイスラエルの血統に異邦人が『接木』されることを明らかにしており、それがユダヤ人の無感覚な不信仰の結果であることも暴露していたのである。
つまり、ユダヤ体制は遂にイエスを受け容れず、聖霊の奇跡を見てさえ信仰を働かせることなく、パリサイ派のユダヤ教の殻に閉じこもる道を選び取ったのであり、それは今日に及んでいる次第である。

他方、パウロに臨んだ聖霊の強力さは相当なものであったことを、ルカはその使徒言行録のエフェソスの場面で医師の目を通しても『尋常ならざるものであった』と記している。(使徒19:11)

したがって、パウロが『わたしの言葉もわたしの宣教も、巧妙な知恵の言葉によらず、霊と力の証明によるものであった』と述べたとき、人々はそこで大いに納得ができたに違いない。即ち、初期キリスト教とは「教理の宗教」ではなく「聖霊の宗教」であったと言ってよいであろう。それは人間の言葉や思惑を遥かに超える神の証しであって、上からのものである。(コリント第一2:4)

それでも、パウロの並外れた真理の知識は、イエスが世に対して例えを以って隠した「奥義」に関するものであり、パウロはその奥義が『それは今、天上にあるもろもろの支配や権威も、エクレシアを通して、神の多種多様な知恵を知るに至るようになった』と記した時、神の目的に関わる様々な知識が天上ではなく、聖霊が臨んでいる地上のエクレシアから知らされていることを述べていたのであり、こうした知識についてはペテロが『それを御使たちも、窺い見たいと願っている事である。』と記しているのである(エフェソス3:10/ペテロ第一1:20)

天地に知らされるほどの神の知恵を地上のエクレシアの人々を介して知らせたのは間違いなく聖霊ということができる。
それは世が受けることができないだけでなく、天使であってもその知恵をエクレシアから得るほどであるというのである。

では、天使に勝るほどの立場を聖霊を通してエクレシアの人々に得させたものはなんであろうか。

これを考慮するに当たり、まず思い浮かぶのは、ここで言う『聖霊』というものが、格別のものであることを念頭に置く必要がある。

つまり、聖霊は聖書中で天地創造のときから存在していたものであり、霊といえば人の鼻孔に吹き込まれて以来、我々の身体を生きたものにするべく働いているであろう。(創世記1:2/2:7/ヨブ34:14-15/伝道12:7)

新約聖書の記述の初めの方にも、後の弟子たちに与えられる格別な『約束の聖霊』とは異なる「聖霊」も働いていた姿を見かける。
それらは神の力ではあるが、他方で『約束の聖霊』とは、イエスを介して人に注がれた神の力であり、それを人が管制できるようになったのである。それこそは、聖霊を受けた者らが、イエスと同じく『神の子』であり、犠牲の適用を受けて『罪』を赦されたからにほかならない。それゆえ、彼らだけは『アッバ』と神に呼びかけることができるようになったのである。(ルカ2:25/ローマ8:15)

したがって、使徒や弟子らが受けた聖霊、つまり最後の晩餐の席で約束された霊は、主イエスの受ける栄光、つまり御子を『数々の苦しみを通して完全な者とされ』神の右に座すことに関わっていることが知らされており、それは『わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け手は来ないであろう。もし行けば、それをあなたがたに遣わそう。』とのイエス自身の言葉とも合致する。(ヘブライ2:10/ヨハネ16:7)

またパウロは『もし彼(イエス)が地上に居るとすれば、祭司にはならない。なぜなら、律法の務めによって犠牲が(当時神殿で)捧げられているからだ。』と書いている。(ヘブル8:4)
そうであれば、イエスが大祭司となって祭司たちの贖罪を始めたのは、明らかに地上を去って後のことであるに違いない。 

そして加えて考慮の対象となるものが、パウロの次の発言に要約される。
『あなたがたもまた、キリストにあって真理の言葉、すなわち、あなたがたの救い福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印を押されたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国を受け継ぐことの約束手形であり、やがて神に結びつく者が全く贖われ、神の栄光を褒め称えるに至るためである。』(エフェソス1:13-14)

彼らこそイザヤが『わたしの賛美を語らせるためにわたしが形造った民』と預言した真実のイスラエル、『YHWHの証人』である。(イザヤ43:24)

このように『約束された聖霊』を注がれた弟子らは、それ以前のどんな時代にも存在したこともない格別の立場を得たことを聖書は知らせるのである。
したがって、「神」、「子」に続く地位にあるのは、地に由来するどんな人間の教祖でも宗派でも組織でもない。それは『聖霊』そのものでもなく、イエスに与えられた者ら、『新しい契約』に属する『聖なる者』ということができる。

なぜ『聖霊』が第三の地位を占めないか?
そのものは「神の威力」であって、人格を持たないからである。それは存在ではあっても存在者ではない。
信仰するべき対象としての『聖霊』とは、それが働くときに、人がそこに神の証しを見るからである。 

一方で、聖霊の注がれる『聖なる者』について、パウロはこう教えている。
『だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである』(ローマ8:33)
この『選ばれた者』とは聖霊を受けた者のことを言うのだろうか。

『聖なる者』についての義なる立場を考慮しつつ主イエスの次の言葉を聞くときに、納得できるものがある。
『おおよそ女から生まれた者で、ヨハネ(バプテスト)より偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。』 (ルカ7:28)
なぜなら、『聖なる者』は『水と霊から新たに生まれ』『新たな創造物』となるからである。(ヨハネ3:5/コリント第二5:17) 

そこで使徒ペテロの手紙の冒頭のあいさつも意味も持ってくる。
『イエス・キリストに従い、かつ、その血の注ぎを受けるために、父なる神の予知されたところに従って選ばれ、御霊の浄めに預かっている人たちへ。』(ペテロ第一1:2)

以上の新約聖書中の情報を総合するときに何が言えるだろうか。
即ち、キリストが自らの血の犠牲を携えて神の右の位に就く以前には「約束の聖霊」は存在していなかったのであり、イエスが天に去ることによって、その犠牲は神の御前に受け入れられ、その結果として選ばれた者たちに格別な聖霊が注ぎ出され、それはイエスが地上で行っていた『父の業』を弟子らにも可能ならしめたということである。

その選ばれた者たちの天使に勝る立場は、まず「義」を必要とする。
何故なら、神の前に「罪人」には死が求められるからである。従って、天界に生きて存在し、イエスを見ることが出来るのは『義』を得たものでなくてはならない。
 
では、選ばれた者らの「義」はどこからきたかと言えば、ペテロも言うようにキリストの『血の注ぎを受ける』以外に無く、それゆえにもヨハネはキリストの天に去る以前には『霊は無かった』と書いたのである。

ならば、その者たちは既にキリストの血によって贖罪されたのだろうか。
然り。それゆえパウロは天の大祭司キリストを語ったのであり、ヨム・キプルの日の贖罪の手順のように、大祭司はまず祭司たちの贖罪を民よりも先に行ったという模式をパウロは指摘する。

また、『神聖にしている者』イエス、そして『神聖にされている者』である選ばれた弟子らが存在するのであり、これをもたらしたのが真の『祭司の王国、聖なる祭司』を生み出した『新しい契約』に他ならない。それは『より優った血の降り振り注ぎ』によりあの五旬節を以って効力をもったのである。(ヘブル2:11)



◆今日聖霊は在るのか
 
このように聖霊の観点から俯瞰して観ると、正しくイエスを信ずる者たちと聖霊の関わりが非常に密接で、最後の晩餐の席でのイエスの言葉が予告したように、それは『助け手』であり、真理をあまねく知らせ、師の語ったことを思い起こさせ、奇跡によって人々の信仰を呼び起こし、宣教を様々に導いて、更に聖霊を受ける者を招いた姿を確認するのである。

だが今日、このように聖霊という神の御力と密接な関係を持つ人々が存在しないのは何故か?
最後にこれを考えることにしよう。 

宗派によっては、「聖霊の賜物はキリスト教の揺籃期を助ける目的を果たすと廃された」とパウロの言葉を挙げて納得し、専ら人間による肉の業を強調しつつ、その一方で、聖霊は今も自分たちの上に働いていると言っては、多くの「クリスチャン」が不明瞭な思い込みを上記のような聖霊と同一視しようとしているかのようである。
 

或いは、今も異言の賜物を行って見せる宗派も存在してはいる。
では、その人々に働く聖霊は初期の弟子たちのような特徴を備えているかといえば、どうやら、異言という奇跡と思える憑依状態に個人のエクスタシーを得るところがその目的となっており、聖霊の賜物を各人が制御でき、新な教えの領域へと導かれた初期の弟子たちとは様相を異にする。

加えて、パウロが何度も指摘したように、聖霊の賜物が存在するという不思議を喜んでいるだけでは進歩なく、意味を理解し学ぶところが無ければ聖霊の益に与っているとは言い難い。それでは『真理をあまねく案内する』聖霊の役割が欠けており、神に関わる天的な知識なく『奥義』からは隔たって、例えばかりを聴いていたところの、イエスを囲んだ群衆と変わるところがないであろう。

このように『聖霊』は今日まったく誤解されている。
その原因は何であろうか。
それは、初期の弟子たちの後に、それが地上から消失したため、それがどんなものかを見ることも接する機会も千八百年近くも絶えて無くなったからではないのだろうか。

マタイの福音の最後にあるように、確かにイエスは『世の終末までいつの日もあなたがたと共に居る』と発言したのであろう。
だが、その『あなたがた』というのは誰なのだろうか。

これが「約束の聖霊」に預かる「新しい契約」に参与する者に向けて語ったのであれば、「聖霊」が存在して初めて『あなたがた』もそこに居るに違いない。
だが、「聖霊」が今日、地上に無いとなれば、どこにイエスの呼び掛けた『あなたがた』が居るのだろうか。

あるいはもし、使徒の時代から連綿と「約束の聖霊」の持ち主が現れて来たとするなら、『その業』をずっと見ていないのは何故だろう。

この点で、パウロが「異言も、預言も廃される」と言ったとコリント第一を持ち出すことは、単に言質を取ったような都合の良い思い込みに過ぎない。
何故なら、コリント第一13章で、パウロは何時廃されるかを述べているのではなく、アガペーの永続性を強調しているのであり、確かに「聖霊の賜物」が天に召された後の弟子らに必要がないことは明白である。

加えてパウロは、別の箇所で『異言は不信者のための(しるし)』と書いているからには、それが地上の人々に信仰を惹起させる役割を担っていたことは明らかな事ではないか。(コリント第一13:8/14:22)

いずれにせよ、これらの論議にまったく終止符を打つものがある。
それが聖書に予告された終末の聖霊の姿なのである。
それを人々が眼前にするとき、もはやこの点で何の疑問も残らず、只々神の威力に圧倒されることであろう。

そればかりか、聖霊は真理を教えるので、今日許多の宗派に分裂し、それぞれが人間の思惑を教えるキリスト教の全体が浄化され、初期のように真実にひとつのキリスト教が現れるに違いない。そこで『聖霊の声を聴く』ことをせず、人間由来の宗派の正義に拘るなら、黙示録の記すように、そこに暗闇が漂うことであろうし、『悪霊の住処』とも成り果てることであろう。



◆三者の名によるバプテスマ

さて、ここで初めに取り上げたマタイ福音書末尾の言葉
『それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいた一切のことを守るように教えよ』

これを改めて見直すと、神、子、聖霊の共通項が見えてくる。
即ち、三つが揃ってこそ、キリストの去って後、また終末において必要不可欠な「信仰の対象」であるということになる。この一つも欠けてはならないのであり、バプテスマを受ける者は、これらに信仰を持っているべきであるに違いない。

これが三位一体を証ししているなどと云うのではない。
三位一体説という文言も概念も、聖書に存在しないばかりか、キリスト教の優れたところを投げ捨て、密教の教えるアバター(化身)の混沌に置き換えてしまい、最初から聖なる書の理解することを投げ捨てる暴挙にしかなるまい。

パウロは、モーセに率いられたイスラエルは紅海において『雲と海によってモーセへのバプテスマを受けた』としている。この民はこの大きな奇跡を経験することを通して『YHWHとモーセに信仰を懐くようになった』と出エジプト記は述べている。(出埃14:29)

一方で、終末においては、聖霊を受ける弟子には、為政者の前に引き出されたときに論駁の余地の無い言葉を語らせ、それは彼らと諸国民への証しとなるとも福音書が述べている。

マタイにはこう記されている
『あなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと諸国民とに対して証しをするためである。』 (マタイ10:18)
この『あなたがた』とは、この福音書末尾の『あなたがた』と同じく、十二使徒に語られている。
 
では、その『あなたがた』が ステファノスのように聖霊で『反対者のだれもが抗弁も否定もできないような言葉と知恵とを』際立った仕方で為政者と民衆とに語った様子を聖書中に見るだろうか。あるいは歴史上の誰かにその実例を見出すことができるだろうか。ルカはそれを終末の預言の中で主イエスの言葉として記してはいないだろうか。(ルカ21:15)

もし、そのように為政者と対峙する奇跡の発言をする者の例を挙げることができないのであれば、このイエスの言葉がその身の上に成就する『あなたがた』とはいったい誰を指すことになるのか。
むしろ、この『あなたがた』とは終末に聖霊を受けるであろう『聖なる者たち』に敷衍されているのではないか。 

臨在のイエスは『天に昇って行った様で』『雲と共にあって来られ』『世はもはや彼を見ない』以上、地上で信仰を惹き起こす要素が『聖霊』であるという以外ないではないか。

筆者の視点から云うならば、筆者のように悟ることに鈍く遅い者も含めて誰であっても、これは聖書に幾らか通じてさえいれば、もうそこに見えていることではないかと思えるところなのであるが、読者諸氏はどう思われるのだろうか。

実際の歴史でこのような「聖霊」理解は存在しなかったのだろうか。或いは、キリスト教世界の闇が深くて、これほど明瞭なことさえ今まで気付かなかったということなのだろうか。ならば、その闇は余りにも酷い。

しかし、我々は幾らか聖書を見直すことでも「聖霊」の意義の大きさを窺い知ることが確かにでき、キリストが世を去るに当たって、なぜ使徒らに『神と子と聖霊の名においてバプテスマを施す』よう命じたかの意味をも推し測ることができるであろう。

真実に神を崇拝し信仰しようとするなら、キリストがイエスであることを信仰する必要があり、その御子が天で神の右に座した後は、聖霊の業に神の証しを見出すことで、人々はキリストにも神にも信仰を働かせることができる。

つまり、キリストが天に去って後は、この三者に対する信仰が揃わずしては、真に帰依したことにはならないであろう。 

バプテストが荒野に現れ『悔い改めのバプテスマ』 をイスラエルに授けたように、神と子と聖霊の名によるバプテスマは、その名の三者に関わるはずであり、それらに対して心が整えられていなくてはならない。
だが、キリスト教界では特に聖霊を誤解している以上、このバプテスマを施していることにはなるまい。まして三位一体を教えていれば、まるで盲目の闇に居るというべきであろう。 

そして「聖霊」に信仰を働かせる終末の無数の人々にバプテスマを施すのが、使徒らによって表された聖霊を受ける『聖なる者たち』の本来の務めなのであろう。それは終末においていよいよ重要なものとなるに違いない。即ちマタイに記された如く『神と子と聖霊の名においてバプテスマを施す』という使命である。 

それゆえイエスは最後の晩餐の後の祈りの中で、使徒らについて祈り
『これらの者たちばかりでなく、彼等の言葉を聴いてわたしに信仰を持つ者たちについても求めます。』 として、聖霊ある者たちとそれを信じる者たちをひとつに結びつけるようにと願い出てもいるのであろう。(ヨハネ17:20-21)

キリストが臨在するときに、聖霊を持つ「キリストの兄弟ら」に親切を示して支持を表す多くの人々について、イエスは、その両者が結ばれることを祈り求めたのである。(マタイ25:31-40) 
即ち、聖霊を受ける『聖徒』とそれを信じることになる『信徒』の結びつきであり、これは「対型的シオン」であるエクレシアにおいて実現するのであろう。 

あの五旬節の「約束の聖霊」が降下した日に、使徒ペテロはそれがヨエルの預言の成就であると宣したが、その預言は『その日、わたしは下僕にも、下女にも、わたしの霊を注ぐ。
わたしは天と地に、不思議な徴を現す。即ち血と火と煙の柱である。
YHWHの大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇となり、月は血に変わるであろう』 と言っている。
これが終末に更なる成就を見ないと言えるだろうか。(ヨエル2:28-)

そしてイザヤも言う。
『わが僕ヤコブよ、わたしが選んだエシュルンよ、恐れるな。
わたしは、乾いた地に水を注ぎ、干からびた地に流れを尽くし出し、我が霊をあなたの子らに注ぎ、我が恵みをあなたの末孫に与えるからである。』 (44:2-)

黙示録を見よ!『二人の証人』に『天を閉じて雨を降らせず、水を操り血に変え、何度でも地を打つ』権限を与えると予告している。彼らにはモーセとアロン、エリヤとエリシャ、ゼルバベルとエシュアの二人組が包摂されている。

即ち三重の権威ともいえるが、単にエジプト、またバアル崇拝者、モアブやサマリアに対して神がこれらのことを行われたのであれば、終末に際してこの世のすべてに対する徴がそれに数倍するとしても何の不思議があるだろうか。 そのときに「聖霊の賜物は廃された」などと的外れな事を云うべきだろうか。(ミカ7:15)


では『神と子と』並び称される『聖霊』とは何であると言えるだろうか?
それはキリストの犠牲が捧げられて初めて地に下賜されたものであり、その人々に奇跡の賜物をもたらし、奥義の知識を与え、『アブラハムの裔』を集めるというキリストの業を続行させるものであった。

聖霊を注がれた人々は、『新しい契約』に招じ入れられ、肉の状態でありながら仮の贖罪を受けて『神の子』と見做され、『キリストと共なる相続人』、『キリストの兄弟』と認められた状態に入った。

彼らには地上で試みがあり、殊に終末においては、『王や高官の前に引き出され』『誰も論駁のできない』聖霊の言葉を語らせるものとなる。
聖霊の言葉はこの世を断罪し、人々をキリストの前に『右と左に分ける』裁きに関わるものとなる。

聖霊の言葉を語る彼らその試みを経て後に『王また祭司』として天に召され、キリストと共に『神の王国』を構成することになる。そうしてエデン以来の『神の奥義』は終了するのである。
聖霊は『この相続財産を受ける約束手形』であり、 神の経綸の全体を推し進めるうえで必要不可欠なものである。

さて、終末に於いて人に求められるのは、神と子への信仰に加え、これほどの働きを為す聖霊の働きへの信仰が必須であるに違いなく、それは聖霊を注がれる『聖なる者ら』を見分け、彼らにも信仰を持って支持を表すことである。 

それであるから、これら聖霊に関わる事柄は単なる教理の知識に終わるものではない。まして好奇心の対象となるだけなら、その後果はそれに准じるものになろう。それは神の威力の顕現であり、『畏怖すべきもの』である。
 
殊に『聖霊への冒涜』が如何に重い罪であるかは、聖書を知る者らの共通の理解であり、誰にせよ、聖霊の件は聖書から精密に辿り出すべきものであり、ご利益や思い込みなどを以って軽々に扱うことは厳に慎むべきことであることはまず間違いはない。

そこにはキリストの血の犠牲、また神の御前での義のような、罪深い我々人間に由来せず、また誰であろうとけっして支払うことのできない程に高価な贖罪が関わっているからである。

それであるから、初期キリスト教徒に聖霊が注がれて以来、今日まで聖霊を受けた人を見ない理由は、この貴重さによっても明解に説明ができる。
即ち、「終末」でもなく、人間の裁きに関わらない「他の時代」について、神は「無駄な事」をなさらないのである。

その時が来たなら、聖霊は自動的に誰にでも下賜されるものとは到底思えない、やはり、聖霊は願い求めるもので『求め続け、敲き続ける』ところに与えられるとキリストが言われる。

いよいよ聖霊の降下がキリストの臨在の開始を示し、終末と裁きはわずか数年の内に成し遂げられることを聖書は告げている。

だが、現在のところ、誰が聖なる霊を願い求めているだろうか?
キリスト教界は一向に、聖霊を持っていると思い込み、満足しているのであるから、そこに聖霊の下賜はあるまい。




              © 林 義平
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「聖霊の賜物」 パルーシアの標識



「聖霊」がどのようなものであるかをイメージすることは我ら日本人には少々難しいことである。
まず、「霊」という漢字の意味からすれば「英霊」や「怨霊」など、死んだ人間の肉体から離れる精神的部分、またはその作用のように見做されるだろう。

日本人にとって「霊魂」という言葉のほうが「聖霊」よりは余程理解し易い。
そもそも、訳すに際してヘブライ語やギリシア語から様々な言語、また漢字などに相当する語を捜し当てて翻訳しているのであるから、それぞれの訳語が本来持っている原語の「霊」との意味の違いが生じて、幾らか「衝突」が起こっているのを覚悟の上で「聖霊」という言葉に当たらねばならない。

さて、聖書でいうところの「聖霊」は、神の聖なる霊であり、日本語で「霊魂」というときの概念とは相当に異なるものである。
聖書中、ヘブライ語では「ルーアハ」*1、ギリシア語では「プネウマ」*1という単語に漢字の「霊」が当てられてはいるが、これらの本来の意味を幾らか思い描いておくことで理解の準備をせねばならない。

それらは人間の精神というよりは、人間の外から影響を及ぼすものであり、元来ヘブライの教えでは、死んだ人間を装う「霊」の存在者「悪霊」はあっても、死者の「霊」という概念は皆無である。つまり、「亡霊」という発想はなく、それは人間ではない異様な存在者が見せている偽の幻視ということになる。⇒誤解されてきたバベルの塔

さて「神の霊」については、創世記をみると、天地創造の地球の原初には、形ない水の表を神の霊が行き巡っており、創造にも関わったことは明らかである。また、アダムの鼻孔に吹き入れられ、彼を『生きたもの(魂)』にしたのがやはり「ルーアハ」(霊)であり、それが我々人間に息吹を与えて身体を生かしている一要素であるようだ。

そのほか、預言者たちに語る内容を伝える霊感をもたらし、幻や夢を与えて人を導き、また人の行いを譴責する、そうして神の意思を伝達するそれらも「霊」の働きであり、かつて伝えられた神の意思の多くが聖書に納められている。

新約で『聖霊』は、イエスを通して驚嘆すべき数々の奇跡を行い、イエスはそれを『父の業』また『神の指』とも呼んだ。その後、大風のような音と共に120人ほどの弟子たちは天からの「聖なる霊」(プネウマトゥス ハギオー)で満たされたのであった。(使徒2:2-4)
共に、「風」のような実体のはっきりしないものであるがゆえにもそれは「霊」なのであろう。(ヨハネ3章)

それは、ときに鳩の形や火の舌のような形を以って可視化されることもあったが、多くの場合に聖霊そのものは不可視で、キリストに奇跡の業を行わせて神のキリストであることを証しし、弟子を導いたり、声を聞かせたりもする。(使徒2:43/18:10)
ペテロは自分が尋ねるべき異邦人を示され、迫害者のパウロは回心させられ、また使徒に召されて宣教旅行において進むべき方向を教えられたが、ルカはそれを「イエスの霊」とも呼んでいる。(使徒16:7)

イエスの弟ヤコブはエルサレム会議の議事を通達する手紙において『聖霊と我々は・・』と書いて、聖霊の働きが議決に影響したことを明らかにしている。(使徒15:28)


-◆イエス後の『聖霊の賜物』の特殊性------

こうして様々な仕方で働いた聖霊であるが、イエス後の聖霊の働きには一定の型があるようだ。

例えれば、バプテストのヨハネは、イエスが聖霊でバプテスマを施すことを予告していたのだが、イエスは、その公生涯の終わりに、弟子たちには「助け手」(パラクレートス)が与えられると予告していた。それは『真理の霊』であり、『世が決して受けることのできないものである』とも言われた。(ヨハネ14:17)

そして、イエスが帰天して十日後の五旬節の日に、その『約束の聖霊』が神から初めて下賜されたのであった。これが一般に「聖霊の賜物」と称される外国語を話すという特殊な『聖霊』の働きである。(使徒2:33)

これについては、イエスは以前から度々に弟子らが特別な聖霊を受けることを語り、実際、幾らかの奇跡を行うことが徐々に弟子らにも可能となっていた。しかし、これが明確な形をとるのはイエスの死後50日目の五旬節(シャブオート)の日以降のことである。その後の使徒たちは、周囲を恐れさせるほどの奇跡の業を行うようになり、イエスのように病を癒し、死者をも蘇生させるのであった。(使徒9:40/20:9-12)

なぜ、「聖霊の賜物」という恩賜の始まりがイエスの帰天後であるかといえば、それは彼がキリストとして自らの犠牲を捧げ、神に受け入れられてから、その犠牲の最初の適用を与えたのが、地上に残った弟子たちからとなる理由によるのである。やはりキリストはこう語っている。『もし、わたしが去って行かなければ助け手は来ない』(ヨハネ16:7)

その霊は自動的に与えられるものではなく、旧約の時代に働いていた聖霊とも異なるものであるから、ヨハネは福音書の中でイエスの死、つまりその栄光を受ける以前について『彼らが受けるはずの霊はまだ無かった』と書いている。(ヨハネ7:39)

そこでキリストの犠牲のゆえに、パウロは再三に聖霊を受ける『聖なる者ら』について『罪』が許されていることを知らせているのであり、それゆえペテロも口を揃えて、彼らに聖なる行状が求められることを諭したのである。(ローマ8:28-30/コリント第一6:19-20/ペテロ第一1:15/ペテロ第二3:11-12)

「聖霊の賜物」は、彼らが真のイスラエルとして天に迎えられる「新しい契約」の発効に則したものであり、それが、彼らがキリストの犠牲の上に立って初めて下賜を認められた格別のものであることを教える。
つまり、彼らは義認を得て初めてキリストと奇蹟の業を共にしたのである。(ローマ8:1-2)

それでイエスは言っているのである。『わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに「助け手」(パラクレートス)は来ないであろう。もし去れば、それをあなたがたに遣わそう。』(ヨハネ16:7)

『聖霊』を受ける彼らはキリストの犠牲の贖いに第一に預かるので、原罪ある肉体で居ながらも(ローマ8:10)、神の前には『義とされ』『有罪宣告はない』状態に入ることになる。ペテロはこれを『霊の浄め』を受けたともしている。(ペテロ第一1:2)

このように、仮の状態ではあっても神の前での「義認」が、彼らの『助け手』つまり「聖霊の賜物」を受ける条件となっていたのであったことは、パウロばかりでなく新約聖書全体の示すところである。(ローマ8:32-33/ヨハネ第一3:2-3)

それは、以前の様々な聖霊の働きとの違いにおいて、その意義がある。
つまり、イエスの行っていた癒しなどの奇跡を継承することにおいて、彼らもキリストのような扱いを神から受けるのである。(ヨハネ15:26-27/16:26-28)

彼らは『キリストと共に神殿となる石』であり、それゆえ聖なる者でなくてはならない。
しかし、原罪ある者への義認を赦す聖霊の注ぎは異例中の異例であって、彼らも道を踏み外す危険がなくはない。(ペテロ第一1:15-16/2:4)

つまり、原罪は依然彼らの肉に宿るので、罪を犯さないわけではない。
それゆえ、使徒ヨハネは『許されない罪』のほかは『互いに許しあう』よう勧告していたのである。
その許されない罪とは、自分たちが持つ『聖霊を冒涜する』罪であり、ヘブル書の著者はそれを『主をあらためて磔にする』という故意の罪であるという。(ヨハネ第一2:2・5:16/ヘブル6:6)


-◆イエスの弟子たちに働いた賜物-------

初めに与えられた賜物はグロソラリアと呼ばれる「異言」であり、弟子たちは様々な言語で「神の壮大なことがら」を口々に話し始めたのであった。(使徒2:11)

その後、「聖霊の賜物」は「異言」のみならず多様な働きを見せるようになる。
「異言」そのものを「翻訳」する霊。将来起こることを知らせたり、人の隠された過去を告げたりする「預言」の霊。教義を伝える「知識」の霊など、パウロはコリント人への第一の手紙の第12章中で、賜物は様々にあるが働く「霊」は同じであると語りつつ、幾つかの賜物の種類を挙げている。

パウロの手紙からは、イスラエル初期の先見者(ローエー)の型である没我のトランス状態に入るものではなく、聖霊が臨んでいるときにも自らの意識を保つことができ、個人が制御できるものであったことがはっきりと読み取れる。(コリント第一14:27-33)

といって、その人のうちにあるのかないのか曖昧なものではないようだ。パウロは聖霊の奇跡的な働きが発現することを「ファネローシス」と呼んでおり、それは「マニュフェスト」とも英訳されるギリシア語であって、不明瞭なものを指すことはない。それは外部の人々から観察され得るものであったことは彼の文章から見て取れる。(コリント第一12:7)

パウロは、それらの賜物がエクレシア全体に対して「益することを目的」に与えられていると指摘したが、それは当時の集まる人々全体の信仰を助けて鼓舞し、また指導するものであった。(コリント第一14:7.12)
特に異言は、キリストの教えがユダヤに留まらず世界に向けて広げられるべきことを促したが、聖霊のほかの現れは宣教に向かう方向を示し、異邦人にも門戸を開かせ、癒しを行い、教義の知識を与え続けた。実に多様で有意義な活動を行う霊であり、これなくしてイエス派は弱小であった間に、ユダヤ教や諸国の教えに押しつぶされていたであろう。

聖霊の絆は、まさにイエスの指導の継続でもあり、主が去っていったことで、恰も死んだようにエルサレムの片隅で戸口に閂を下ろし、迫害を恐れて為す術もなくひっそりとしていた「小さな群れ」の弟子たちが、五旬節の日の出来事を境に再び立ち上がり、消えかけたキリストの業は回復し、しかも世界という広野に向かって力強い第一歩を踏み出したのである。(ヨハネ20:19/使徒2:14)

そのはじめの一日のうちに何千もの人々が加えられたが、その後も続く圧倒的な勢いについてはこの「聖霊」の働きなくしては考えようもない。(使徒第二章/イザヤ60:22)
ユダヤ人からの強い迫害に面して、イエスの弟子らが更なる印となる業と奇跡が起こるように祈り求めると、その場が揺れ動き、『皆が聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。』という。それはキリストに与えられていた神の証しがいまや弟子らに移ったこと、また、彼らも神から証しされる立場に就いたことを知らせるものであった。(使徒4:30-31)

それゆえイエスは『わたしを信じる者は、またわたしの行っている業をするであろう。そればかりか、より大きい業を行うだろう。わたしが父のみもとに行くからである』。と励ました理由はここにある。
彼らの業には何と大きな助けが随伴したことか。(ヨハネ14:12)

それゆえ、キリスト教とは元来は「教義の宗教」ではなかったと言い得る理由がある。
ヘゲシッポスのような初代のユダヤ系のキリスト教徒は、異邦人がキリスト教に入ってきて、それが趨勢となるとエクレシアは哲学の理屈に満ちるようになってしまったと述べている*2

それについては使徒ペテロも『キリストの力と臨御とは、巧みな作り話などではない』(ペテロ第二2:16)といい、パウロは自分の宣教は『説得のための(巧妙な)知恵の言葉ではなく、霊の力の証明を持つもの』であったと書いている。(コリント第一2:4)

おおよそ使徒たちは言葉において朴訥であり、パウロですら手紙はともかく話の仕方においては然して良い評判を得ていないようである。(コリント第二10:10)
しかし、彼らの行う奇跡は彼らの宗教の最大の特徴であり、使徒らの訥弁を補って余りあるものとなったに違いない。そこにあっては、教義の知識も「聖霊の賜物」のひとつの側面であり従属の地位にあったことが覗える。(コリント第一12:8/ヨハネ14:26)

しかし、「聖霊の賜物」が次第に引き上げられ、聖徒が減少してゆき、遂に絶えると、残されたキリスト教界は『霊と力の証明』を失い、呪術的要素と神秘的ギリシア哲学で構成される「教義の宗教」へと向かったのである。そこでは『言葉を巡る争い』に終始し、『精神的に病んで』『敵意と闘争』の傾向を強くした。(テモテ第一6:3-5)
それらの「腐った果実」は、聖霊を失った症状を呈するかのようである。

今日のキリスト教には依然この自己義認と相克の傾向がみられ、教理上に「真理」を持ったと誤認して不確かな人間の知恵を誇り、かつて明らかに存在した「聖霊」という神の側からの働きかけを軽視するか、聖霊に代わる何かの別の霊の作用での忘我の喜びに浸るかしているようである。つまり、聖霊を失ったキリスト教界は、今日まで聖霊の無いことに喘いで来たといえる。(ヘブル2:1-4/ヤコブ1:26-27/ヨハネ第一4:1)

しかし「聖霊の賜物」こそが、イエスが弟子たちを動かして導いた経路であり、イエスの指導の証拠でもあった。(ヨハネ14:26)

しかし、それだけではない。この「聖霊の賜物」には格別の意味があるとパウロは言う。


-◆「証し」としての「賜物」--------

すなわち『約束の霊』を受ける事は、肉体を離れてキリストと共に霊の体に新しくされることの事前の仮承認であり、聖霊の賜物を受けた当人が「新しい契約」に入ったことの事前の証しであるとパウロが記しているのである。(コリント第二5:5)

それは律法契約の下でイスラエル民族に約束されていながら、彼らが遂に得損なった『祭司の王国、聖なる国民』となる誉れ、真のイスラエルの一員と内定したことを意味した。(エフェソス1:13-14)

それは、新しい契約に参与する者らこそが、『神の王国』を構成する『王なる祭司』となって生ける人類を「罪」から贖い、その間人類社会を統治することを意味する。(黙示録20:6)

元来、その選びの器はイスラエル民族であったのだが、この民族は律法契約に反するばかりか、キリストを退けて刑死に追いやっただけでなく、その弟子らまでもを迫害して退けたことを通し、アブラハムの子孫らしからぬ者、選ばれた種族に価しないことを自ら明白にした。その結果、『王なる祭司』となる『選ばれた種族』にはイスラエル以外の、アブラハムのような信仰を表す異邦人が含まれることになっていった。(使徒13:46/ローマ11:25-26)

イエスは霊を介してペテロに命じ、まったくの異邦人ながら信仰厚いコルネリウスとその仲間たちに聖霊が注がれる道を備えさせたが、これが『神のイスラエル』への無割礼の異邦人受容の嚆矢となった。つまり『肉のイスラエルが真のイスラエルではない』ということは、イスラエル民族の律法への結果的不受容を通して証明されてしまったのである。(使徒10章)

使徒ペテロは、諸国の聖らに向かって「あなたがたはサラの子となった」と語り掛け、聖霊を注がれた『聖なる者たち』が、霊によって生み出されたアブラハムの真の末裔であることを示しつつ、『それも、どんな恐ろしいことも恐れずにいるならばのことではある』と付け加えており、それは契約を守るべき、彼らの置かれた立場をよくよく表している。(ペテロ第一3:6)

そこでやはり「聖霊」こそが、契約を捉えた真のイスラエルを指し示すべく、初代キリスト教徒の中で縦横に働き、イエスの企図を弟子らに行わせ導き続けたのであって、それはまさに『世が受けることができないもの』であったといえよう。(ヨハネ14:17)

また、その意味するところには別の側面もある。
それは、「聖なる箱」が神の崇拝の中心地に置かれ、そこに奇跡の臨御(シェキーナー)の光が宿って神とイスラエルの律法契約の証しとなっていたように、聖霊の賜物は、それを与えられた人々が「生ける神殿」となってそこに「新しい契約」の印として存在していたということがいえる。(出埃31:21/レヴィ16:2/コリント第二1:22)

このことは、今日この賜物が地上にない理由も窺わせるものとなっている。
ひとつには、キリストの臨御(再臨)がなされていないことの証拠であり、もうひとつが、「新しい契約」の当事者が地上にいないということである。

それゆえ契約の一方の当事者である聖なる神の御名の発音も知られなくなって地上から絶えている。相手の名を知るべき契約のもう一方の当事者が居ないからである。(十歩譲っても「臨御」も「聖徒」の存在も現在のところ不明である)

今日のキリスト教徒の中には、聖霊が注がれるというこの類稀な希望を我が物としたい人々があって、自分の中にイエスが聖霊と共に居ると信じているようだが、それを断じまい。そう信じる人々は、イエスとの親密さを自己の内に感じることで幸福感を得てもいるのであろう。また、こうした人々の中には実際、何か怪異な超自然の力を発出するケースもあると聞く。

それを望むのなら、この人々をそっとしておいて良いようであるし、態々イエスの弟子らしからぬ敵意を買う必要もあるまい。
それでも、聖霊の声を聞くときには事の真相が彼らにも知らされるであろう。

人は不思議なものや現象を崇めてしまう癖があるのだが、初代キリスト教徒の時代にも『すべての霊感を信じてはいけない』という使徒らの警告があって、神からのものでない別の何者かの霊に憑かれていながら、自分に聖霊があると唱える人々がいたという。(ヨハネ第一4:1)

だが、実は聖霊によるのではない不思議を行うそれらの者が、真正の「聖霊の賜物」をもつ人々の中に入ると、聖なる者らと一致して語ることはおろか、その人に在った霊は出ていってしまい、何も話せなくなる様子が「ヘルマスの牧者」に見える。*3

そうであれば、明確な賜物の発現のない今の時代には、そのような霊が大手を振ってまかり通ろうとしないものだろうか。(テサロニケ第二2:6)

この種の霊が、キリスト教に限らずある程度の支持を受けるのは現状で許されたことであり、終末に至って更に重要な悪役を演じる大切な役者でもある以上、どうすることもできない。それでなくても、霊者の力は人間の能力を超えている。(黙示録16:14)

ともあれ、今日あの五旬節のような衆目の注視を奪うような仕方で発現する「聖霊の賜物」を人類は未だ見ていない。(マタイ10:18)
では、「聖霊の賜物」の発現が人類に隠されることなく、際立った様で現れると言える理由があるだろうか。


-◆為政者と対峙する聖霊--------

イエスの終末預言は一度西暦70年にユダヤと神殿を含むエルサレムの上に成就したが、その預言の言葉の中にはいくつか当時には当てはまらなかったものがある。

その中に、『あなたがた(弟子)は王や総督の前に引き出される』というものがある。(ルカ21:12-15)

たしかに初期の使徒やパウロの生涯にはこれに似たことが幾らかあったのを使徒言行録は伝えてはいるのだが、いずれも小規模な上、画期的なものにはならずしっくり整合するものがない。ステファノスの決死の弁明も為政者に対するものというよりはサンヘドリン、つまり宗教家に対するものであったというべきだろう。

イエスは、終末について告げるにあたり『ノアのとき以来なかったような大変災』『森羅万象震い動く』と述べるなど、ユダヤだけのことを語っているのではなく、将来の世界にまたがる成就をオーヴァーラップさせて語っている。(マタイ24:37.29)

さて、弟子らが為政者の面前に引き出されるときには『何を語ろうかと思い悩』まなくてよいとイエスは言った。つまり、その時になれば『聖霊があなたがたによって語る』というのである。この成就は歴史上に見ていないと言ってよいであろう。とすれば、これらの言葉の成就は「終末」というべきであり、実際マルコとルカはイエスの終末の預言の中にこれを含めているのである。(マルコ13:11/ルカ21:12-15)

更に黙示録を見れば、彼らは語るだけでなく、モーセやエリヤのように「地を何度も打つ」権威を持つという。ならば、霊の対決は言葉だけではなく、奇跡の力の表明が考えられるのである。(黙示録11:6)
古代のような奇跡は今後は起こらないというなら、それは神の力を知らぬ「教理の宗教」に堕した、実質的に不信仰なキリスト教とはならないものだろうか。(マルコ12:24)

将来キリストの臨御は『王の王』となるための帰還となる。この大王登壇への権利保持者が支配や覇権の争いに関わる仕方で再び地(人類)に臨むことになる以上、おおよそ聖霊の関わる事柄でこれ以上に重要な発現(ファネローシス)があり得るだろうか。(コリント第一12:7)

イエスが一度目の到来で、死を経験すべき弱い肉の様で地に現れたようにではなく、将来の二度目の到来は変貌を遂げた強力な霊者となっての帰還、真っ赤に輝く両眼と、その口から鋭利な諸刃の長剣の突き出したと描写される御稜厳の大王と変じての復讐を込めた恐るべき臨御である。(黙示録1:14-17/ヨハネ12:48/ヘブライ9:28)

そこで諸国民と支配について関わらないわけもない。ダニエルによれば、神の王国の到来は世界覇権を打ち砕く時を招くのである。
終末において、聖霊を受ける弟子らはこの主の大使のように彼らの主要な王となるべき方の宣告を伝えるであろう。
それはまた、為政者たちの抗いによって聖徒らには苦難と試みの時期ともなる。(ルカ21:12-)

神の権威者の臨御(パルーシア)の標識としてはこれ以上のものはあるまい。かつてユダヤに示された聖霊の強力な「徴」が世界規模で示される必要があるだろう。
そして実際に、聖霊の言葉が語られ始めれば、どうみても世に対してキリストが臨御しているとしか言いようもない。これこそがまさしく「パルーシア」(再臨)の指標となるのであろう。(ヘブル2:1-4)


聖霊を受ける弟子たちが、その迫害を受ける時を以って初めて聖霊の言葉を受けるのか否かは聖書からは明確とはいえないが、彼らの母体となる集合体が形成されているように聖書は読める。(イザヤ49:21-22)

それはおそらく旧約中で繰り返し『シオン』と呼ばれる彼ら『聖なる者』の母親のようなものであり、初代でいうところの召出された人々との集まりである『エクレシア』(招会)、つまりは信者の集合体であろう。(イザヤ52:1-2)

現時点で筆者は、彼らが為政者と対峙する以前から聖霊を受けるように思えるが、そうなれば、将来再度『エクレシア』が存在することになるのであろう。(ローマ11:29/ペテロ第一1:2)
その中から聖霊を受ける人々が現れ、再び『聖徒』たちと呼ばれるのだろうか。(ローマ15:16)

彼らは政治家と対決することにおいて「新しい契約」の当事者として出現するので、当然ながら契約相手である神の名を知り、その名において為政者に語るべきであり、そのようにして『神の名はシオンで知らされる』といえる理由がある。こうして彼ら『聖なる者』らは神名の証人となり、神の御名は人々を救うものとなると聖書は再三告げている。(詩篇102:21/ヨエル2:32/使徒2:21)


-◆諸国民の信仰を巻き起こす聖霊-------

さて、聖霊の働きが為政者に語らせることは『何者も反駁のできない』ものであるという。(ルカ21:15)
そのように完全な言葉を前に為政者は自己の非を悟るであろう。
但し、それは必ずしも『王の王』に対して服する態度をもたらすわけではない。(黙示録17:14)

その状態を、第一世紀にヘロデ王家の息子たちが、自らの王権を得る前にローマに旅し、そこでカエサルの認可を得て帰還するという習わしに即して言えば、キリストの帰還は領土に入る前に大使を遣わして、カエサルの信任状を見せ、支配権を渡すよう求める段階に例えられよう。

未だ、信任状を持ってはいても、支配権は得ていない。
王として即位するに際し、抵抗勢力があるなら、あらゆるものを打ち砕く必要がある。古代の王権獲得に同じく、その戦いに勝利してのちに王権は実質的なものとなるのである。

同様に、キリストの帰還において、王権保持者の到着と支配権の移行を求める大使らは、聖霊を注がれた『聖なる者たち』となり、彼らは為政者に『聖霊の言葉』を伝える必要がある。
そのときについてイザヤはこう書いている。
『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)

だが、キリストは雲の内に「臨御」を始めても未だ「顕現」はしておらず、為政者の前には人間である聖徒らがいるだけである。(ルカ21:27)
そうなれば、自分こそが「現実の」支配者であり、聖徒たちは単に理想のようなものを語っているなどと主張して、『王の王』の頚木を払い捨てることはいかにも容易に見えるだろう。(詩篇2篇)
しかし、こうした「抵抗勢力」は排除されねば『神の王国』は一向に実現しない。そこで神とこの世との『ハルマゲドン』の戦いが不可避となってくる。(ゼパニヤ3:8/黙示録16:16)

他方、ある人々にとって、聖霊の言葉の音信は心から願い信ずるものとなるであろう。
聖霊の音信を聴いたときに『心を頑なにしない』からである。(ヘブル4章)
反駁しようもない言葉に同意できるなら、聖霊を受け入れるのであり、その人の以前のあらゆる罪が許されるというのである。(マタイ12:31)

しかし、聖霊の言葉に従わないのであれば、そこに故意の悪が生じ、「聖霊への冒涜」の罪が犯されよう。キリストの業を『ベエルゼブブが行っている』と言い張ったような、すなわち『許されることのない罪』である。(マタイ12:32)
こうして、「聖霊」は終末に於ける人類の裁きを行う上で欠くことのできない重要なマターとなるのに違いない。(ヨハネ16:8)

黙示録を見ると、開示、宣告、災いが起こる様が、封印、ラッパ、鉢に描き出されているが、将来の具体的な発生の詳細は分からないが、そこに出エジプトの十の災いが敷衍されている。

終末においても災いの降るにしたがい、イスラエルのみならずエジプトの神々を崇拝していた当地の人の中からもその神への信仰が引き出され、イスラエルの荒野への旅に同行までしたように、キリストの臨御のときにも聖徒たちの発する言葉に信仰を起される許多の諸国民がいるであろう。((出埃12:38/ハガイ2:7)

ゼカリヤの預言はそのことを『末の日に、十人の諸国民がひとりのイスラエル人の裾を掴んで、「我々もあなたと共に行く。神があなたと共にあることを聞いた」という』様を描き出している。(ゼカリヤ8:23)

かつて、エジプトの人々がそれまでのエジプトの諸々の神々を捨ててまで、イスラエルに同行したのはよほどのことであろう。
その、よほどのことを神は再び、しかも世界に対して見せる。(マタイ10:18)
つまり、「神の指」のように人間を遥かに超えた物事を生じさせるのである。(ルカ11:20)

なぜなら、神もイエスも眼前に顕現「エピファネイア」している状態であれば見ての通りであって、今更信仰の生じるいわれもない。人々は御厳の大王に恐れ、竦み上がってしまうであろう。そこでキリストの不可視を示す『雲と共にある』臨御(パルーシア)の、そして「聖徒」という代弁者の存在意義があろう。(マルコ14:62/コリント第二5:20)

こうして「聖霊」の存在の極めて重要な意味が見えてくる。
「聖霊」がイエス自身でも神自身でもないゆえに、「聖霊」こそが人類の神に対する自発心を保護し、「聖霊」こそが「信仰」という神の目にも願わしく貴重な宝を人々の内に起こす触媒として作用するのである。(ヨハネ10:37-38)

ここに「父」と「子」と共に「聖霊」の欠かせぬ信仰への働きがある。もし聖霊の働きを過小評価したり、悪霊のものと混同して見誤るとすれば、終末においてその教えは意味を成さないだろう。(ヨハネ16:8-11)



-◆賜物は何時廃されるか--------

このように優れたエレメントたる「聖霊の賜物」について、キリスト教徒は随分と曖昧な理解の中にいたものである。

太古から聖霊の働きはあったのだが、時代と共に、神の経綸の進むに応じてそれは多様に働くようになり、神の意志に従ってそれぞれに作用してきたが、特にキリストの帰天後の弟子らの中で「聖霊の賜物」という最上級の形態をとった。

確かにパウロは、「聖霊の賜物」の廃されることを述べているが、その時期については明示していない。(コリント第一13:8)
将来を展望すれば、確かに聖徒が天に召集されたなら「賜物」の存在し続ける意味もないに違いない。

しかし、『助け手』となる霊は弟子らに『永久に存するものとなる』ともイエスは語っているのである。(ヨハネ14:16)
つまり聖霊は聖徒たちの証しとしての役割を終えても、その後も彼らが用いることのできる力となるのであろう。

それもあって、パウロがアガペーを強調する文脈で「能力」(賜物)の『廃される(廃れる)』と述べたのは、時間的要素の強調ではなく、いずれは印としての賜物も無くなることを意味したのであり、必ずしも初代聖徒と共に賜物が引き上げられた時期を指すと考えねばならぬ理由はあるまい。

福音書も明示するように、賜物が聖徒と共に地を去ったにせよ、それが「廃された」にしては、未だ聖徒に任せられた聖霊を要する業が残されていることが告げられていることは確かである。(ルカ21:12-15)

筆者には、「聖霊の賜物」以外の神の聖霊が現下にどうなっているかは分からないが、我々が生きてゆくにも神の霊は必須であるとされている。(ヨブ34:14)いずれにせよ、霊にどのような作用があるとしても、この聖徒らに働くであろう「賜物」「約束の聖霊」に優る重要な働きを為すものは他にない貴重なものなのであろう。(ヨハネ14:17/7:39)

それは初代弟子たちの時代から、我らの時代の頭上を越えて不定の将来に、イエスの臨御と共に再び現れるものであると言い得る理由は以上のように少なくないのである。

これほど意味ある聖霊が、個人の意識中だけの「証し」や幸福な「救われた」心理状態のもので終わってはなるまい。いや、まったく次元が異なるだろう。それは恐るべき「神の御力」であって、はっきりと全人類にキリストの臨御を宣告するものでなければ意味を成さない。

それゆえもし、「聖霊」の声を聖徒らから聞くならば、紛うことなくイエスは臨御しており、現今の非情な『この世』の終わりという喜ばしい門口に立つことを意味するのである。(ヘブル3:15)

キリストの来たるを待ち焦がれる信徒にとって、聖霊の発言を聴くに勝ることがあろうか。(黙示録22:20)


                                  
              新十四日派   © 林 義平
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*1.ヘブライ語「ルーアハ」もギリシア語「プネウマ」も、「風」また「息」の意を含むことでは共通している。
「ルーアハ」は特に、砂漠に吹く激しい風の音写から来ているという。

*2.エウセビオスはヘゲシッポスの言として次のように伝える
『使徒たちの聖なる合唱隊がそれぞれ絶え、神的な知恵を自分の耳で聴くことを許された世代が過ぎ去ると、神を信じない血迷った一団が、単なる教義を教える者たちの瞞着によって根を下ろした。 彼らは、使徒たちが一人も生き残っていないことを知ると、それからは素顔のまま真実の教えに対抗し偽って知識(グノーシス)と呼ばれたものを宣べ伝えようと企てた』。
(教会史Ⅲ32)

*3.ローマのヘルマスは自著の中で当時の偽聖徒について以下のように言う。
『偽の預言者は自分を実際以上に見せかけようとする。最上の席に座ろうとし、自分の預言に対して報酬を要求する。・・神の霊に満たされた者らの中に彼が足を踏み入れ、人々が祈り始めると、たちまち彼はからっぽになってしまう。この世の霊は恐怖にとらわれて彼から逃げ去り、この男は黙して一言も発することができなくなってしまう』。
(牧者XI,13)

 

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許されざる聖霊への罪


この罪が、許されないものとされることから、多くのキリスト教徒の恐れるものとなっている。だが、いざ実体を問えば一般的にはっきりしない。
しかし 、この重大な「けっして許されることの無い罪」が何であるのかが曖昧では恐れが増すばかりである。


では、キリストの言う「聖霊を冒涜する」とは具体的に何を指すのだろうか?

この解答を得ることにより、「神の裁き」に於いて、神は人の表層を見るのではなく、まさに内面を見て裁くことを知ることになる。
キリストは『人はあらゆる罪を赦される』と語られたのだが、続けて「聖霊に対する冒涜」という『罪』だけが赦しに含まれないと重大な一言を加えられたのである。(マタイ12:31)

この言葉からすれば、品行方正であることがその人を救わず、ましてクリスチャンであるだけで許されているわけはけっしてない。バプテスマを受ければ救われるというのは、契約に入る『聖霊を受ける』選ばれた人々についてのみに語られた言葉である。しかも彼らは、聖霊によるその契約を地上で全うしなければならない。その救いも赦しも不確定であることには変わりなかった。(使徒1:1-5/ペテロ第一1:2/3:6)⇒聖徒」 
 

だが、聖書を探索すると、『聖霊』の無いところにこの罪が生じることは無いことが窺えるのである。
では、『聖霊への冒涜』はいつ、そのような重大事として存在するのだろうか?


まず結論から云えば、『この世』が裁かれる終末のとき、ある人々に『聖霊』が使徒の時代のように再び注ぎ出され、その『聖霊』が引き起こす奇跡に各個人がどう反応するかによって人の裁きが決するということになる。


そこでキリスト教徒であるか否かは関係なく、『聖霊』によって人々がおしなべて試されるのが終末であり、それをマタイ25章31節以降の例え話が具体的に示している。

即ち、到来するキリストによって、世界のあらゆる人々が羊と山羊とに分けられるという、終末の裁きのことである。


マタイ25章の羊と山羊の例えが明らかにする如く、この世の終りに際してキリストが裁きの座に着くと、すべての人々が左右に分けられるのであり、その根拠は「キリストの兄弟らに親切を示すか否か」であると記されている。
聖霊を注がれたキリストの兄弟にこそ、キリストは世の人々との和解の仲介と言葉とを委ねたのである。(ヘブライ2:17/コリント第二5:18-19)

この例えからすれば、人々がキリストの左右に分けられる原因となる「キリストの兄弟ら」が誰かについては聖書中を見てゆくと、パウロがこう言っている。
『神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。』 (ローマ8:29)
では、やはり「キリストの兄弟」と呼ばれる存在があり、その人々に親切を示すかどうかで人々は裁かれるのだろうか?

パウロの記したこのローマ人への書簡の第八章では、特に『キリストと共なる相続人』、また、神に向かって『アッバ!』と語り掛けることの許された『聖霊に導かれる』弟子らについて述べている。
この弟子らは人類に先立って『罪』を許されているので、『神の子』の立場をキリストと共に受けているとも述べられる。即ち「キリストの兄弟」と言えるのである。(ローマ8:1/8:15-17) 

福音書は揃って、終末にも聖霊で語ることになる弟子らの存在を知らせており、彼らは政治家らの前で、何者も論駁できないほどの言葉を聖霊によって語るとされている。(マタイ10:18/マルコ13:10-11/ルカ21:15/ヨハネ16:8・17:20)


そこで終末では、キリストの『兄弟ら』となる『聖なる者ら』の語る聖霊の言葉に信仰を懐き、彼らを支持して親切を示すことを選ぶ者が救われるのであって、単にクリスチャンであるということが、このキリストの終末の裁きに有利である保証は何も無い。(ヘブル12:25-27/ハガイ2:6-7)


ならば、自分はなぜバプテスマを受けクリスチャンとなったのか、と問うなら、その人の「キリスト教」は「ご利益信仰」であると言わざるを得ない。

それでは究極の自己犠牲の精神を表したキリストの追随者と言うには正反対の利己的精神ではないだろうか。 神の御子が犠牲になったのは、自分が救われる為であったと「クリスチャン」は本気で言えるものだろうか。

聖書はむしろこう云う『彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで生き返った方のために、生きるためである。』(コリント第二5:15)

キリストのために生きるとは、キリストの生き方に沿って、共に自己犠牲の精神の延長線上に生きるのであり、ただ救われたと有難がっているのでは、自分を救いの物語の主役に据えて、キリストの自己犠牲の上に胡坐をかくことになってしまう。その人は、キリストの無私の精神から感化を受けてはいないばかりか、自分の救いや安寧を利己的に求めるという正反対の方向に進んでいるのであり、大半の教会員とは、そのような「ご利益信仰」を抱く人々である。


神は洗礼を受けた個人ではなく、人類の救いとなるよう『諸国民の光』を世に与えたのであり、『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』とも記されている。(ヨハネ3:16)

この『信じる者』というのは、今、現にクリスチャンであることを意味しない。 人類は歴使徒時代からこのかた、聖霊の奇跡を未だ目の当たりにはしてはいないからであり、聖霊に信仰を懐く機会は終末に訪れるからである。
これが何を意味するかについては、この稿の結論が近付くにつれ理解されるものと思う。
では、許されることのない『聖霊への冒涜』とは何かを理解するために、まず『聖霊』とは何かを見よう。

さて『聖霊』とは神の奇跡の御力であり、あらゆる反論を封じるほどのもので、そこで人は最終的に試される。
言い訳できない『聖霊』の奇跡を目の当たりにするとき、人は誰であれ逃れられない決定的な選択を神に迫られることになる。

それはキリストの地上への現れの時がそうであったというべきであろう。
イエスはこう言われている。
『わたしが誰も行ったことのない業を彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今、彼らはその業を見た上で、わたしとわたしの父を憎んだのだ。』(ヨハネ15:24)


そこで問われるのは、神との邂逅に於けるその人の決定的な選択、エデンの園に於ける二本の木のような二筋の道の選びとなる。

アダムの場合には、自らの存在の由来、第一の関係を持つべき対象である親のような神に対してどう振る舞うかが試されたのであり、それは最初の倫理問題にして、全ての道徳の基礎の基礎を据えるか否かの選択であったと言える。自分の創造者に忠節に振る舞えないなら、いったい誰に対して忠節であり得るか?

つまり、それを前にして神を認めるか、認めないかという選択であり、アダムに対してそうしたように、神はその選択の一方を強制しない。それは愛が強制されるものでないように、自発性はまったく必要不可欠なものである。
そうして人間の自由意思を保つことが、忠節な愛(ヘセド)を真実に存在させ、『神の象り』である人を尊重することは、即ち神が自らをも尊重することだからである。⇒「自らの象りへの神の愛」


アダムの場合には、まったく原初に創造されたものであるから、必要なのは奇跡ではなく、二本の木とその実による試みであった。
しかし、アダムの子孫についてはそうではない。
既に、神との間には『罪』のもたらす断絶があり、不信仰な『この世』に生きる以上、別の試みが必要になる。
エデンの二本の木に相当する、自発心から忠節な愛を示すか否かを選択させる別のものは何であろうか?


では、改めてキリストの言葉を見よう。

この「聖霊への冒涜」という罪は、キリストが述べた言葉の中にある。
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「人の子らはそのすべての罪も、冒涜も許されるだろうが、聖霊を冒涜する者は永久に許されることはない。」(マルコ13:29)
「人はすべての罪も冒涜も許されるだろう。だが、霊への冒涜は許されることはない。また、[人の子]に敵して語るものすら許されるだろうが、聖霊に敵して語るものは、この世でも、来るべき将来の世においても許されることはない」(マタイ12:31-32)

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多くのキリスト教徒は、これらの言葉にヘブル書の記述に結びつけて教えられることもある。
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「ひとたび啓示を受け、天からの無償の賜物を味わい、聖霊に与る者となり、神の類稀な言葉と来るべき将来の世の力を味わいながら、なお、離れてゆく者は、再度あたらしくされて悔い改めに至ることができない。」(ヘブル6:4-5)
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この言葉は聖霊への冒涜が、キリスト教徒を辞すること、つまり教会を去る「棄教」を意味するとも捉えられているようだ。さらに強い適用は、ヨハネ3章18節の『信仰を持たない者は裁かれている』の句を根拠に、現に信仰の無い者はこの罪の下にあると教えられている人々もいる。
「だから、信じてバプテスマを受けろ」というのが、大方の教会の人集めの手管とさえなっているようだ。

しかし、そうだろうか?

この罪への解説を誤れば、狭量な罪の見方に人を陥れてしまうが、許されない罪とはそんなものだろうか。
しかし、聖書中を探索してゆくと、裁かれないために洗礼を受けよという諸教会の教えとはまるで異なる理解に達することになる。

それは、この頁の結論にあるように実際にイエスの言葉は逆であって、聖霊を介する神の裁定は瑣末で神経質なものではなく、世界の様々な人々を可能な限りに広く受容しようとする大らかな全能者の特質を感じさせるものである。




-◆語られた背景--------------------------

まず、この罪に関しては、「聖霊」というものをよく把握する必要があるだろう。

前出のマルコとマタイの句の文脈を見てみよう。
それらは、共通する場面で語られている。

つまり、悪霊*に憑かれた人々からイエスがそれを追い出し、また病を癒す奇跡の業を行っていると、書士やパリサイ派などの宗教家らが中傷して、イエスは悪霊たちの頭目ベエルゼブブ#を使って悪霊を追い出していると、つまりはイエスの奇跡の業の源は邪悪な霊であると主張してやまなかったという場面である。

だが、イエスの業が真に神からのものであれば、これらの宗教家の主張はイエスよりも神を誹謗していたことになってしまう。

一方で、癒された人々やそれを見守った群集は、これらの宗教家とは正反対にイエスの業に驚愕しつつも大いに歓んだので神を讃えて憚らなかった。それまで病んでいた仲間が癒され、辛苦から開放されることを大いに喜んで、イエスを迎え入れる素地を見せたのである。

しかし、イエスは人々に自分に対する感謝を要求したのではない。むしろ罪の許しと奇跡の業を彼に行わせる自らの父である神に人々の注意を喚起するのであった。

そしてヨハネ10章では、彼が盲人を見えるように癒したあとに、奇跡を行う人イエスについてユダヤ人の間に論争が生じたことを伝えている。

一方は、イエスが悪霊に憑かれていると主張したが、他方では、これは悪霊に憑かれた人の話ではないし、第一に悪霊が盲人の目など見えるようにしないではないか。と認識がふたつの割れたのである。

ユダヤの宗教家らはイエスを取り巻いて『お前がメシアなら、はっきりそう言え。いつまで我々を中途半端なところに置くのか』と迫る。 (ヨハネ10:24/列王第一18:21)

そこでイエスは答える。
『わたしは言ったが、あなたがたは信じない。だが、わたしが父の名によって行っていることがわたしを証ししている』。
『わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じてはならぬ。だが、わたしがそれを行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業は信じよ』。(ヨハネ10:25/10:37-38)

このようなイエスの姿勢は、彼自身が行っている業がどれほど類稀な神の業であるかを強く明かすものである。

これについては、ルカの福音書にも似た場面があり、そこでイエスは奇跡についてこう言っている。

『わたしがベエルゼブブによって悪霊を追い出すのであれば、あなたがたの子らはいったいだれによってそれをするのか?それで、彼らはあなたがたを裁くものとなるだろう。しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出すのなら、確かに神の王国はあなたがたに達したのだ』。(ルカ11:19-20)

『神の指』、それはいにしえのエジプトでモーセがその地に下した災いをエジプトの異教の祭司が真似ることができずに叫んだ言葉であった。

モーセを通してエジプトを十度襲った災厄がモーセ自身に帰されるものでないことは明らかであり、これら奇跡の力を行使する偉大な神に対する信仰が人々の間に湧き上がった。

そして、イエスの奇跡はやはり「神の指」であるという。即ち『御父の業』である。

それが神の御力であることは、心の柔らかな者らにとって疑いようのないことである。
しかし、イエスの前でユダヤ人の認識はふたつに割れたのであった。


-◆神の業に関する認識は分かれる------------------------

ある時イエスは、生まれたときから目が見えずにいた若い男を癒して見えるようにしたことがあった。

この男はイエスに言われるままにシロアムの池まで探って行って、イエスによって目に塗られた泥を洗い落とすとその奇蹟ですっかり見えるようになったのだが、いまだ自分を癒したイエスを見てはいない。

一方で、宗教家らは例によってイエスを蔑んでいるために、この男が癒されたことにつまずきをさえ覚えていたのである。彼らはこの男を呼び出して尋問する。「神を讃えて言え(誓約の要求)。我らはその(癒した)輩が罪人であると承知しているが・・・我らは神がモーセに語られたことは知っている。だが、この輩についてはどこからの者か知れないのだ」

すると癒された男は即座に反論する「これは何とも驚いたことです!わたしの目を開いた方ですのに、あの方をどこからの者とも知れないとは!・・・神からの人でないならあの方は何もできないでしょう!」。(ヨハネ9章)

こうして未だ見てもいない人物イエスを熱烈に擁護したこの若い男は会衆から追い出される(ユダヤ教体制からの排斥、村八分)処分を受けたのであった。これはユダヤ人にとって極めて不名誉なこと、いや、神の会衆から出されるのであり、律法の保護の対象からも外されてしまう。

だが、このイエスを熱く支持した人物が神の目に留まらずにいることはなかった。
イエスは、追放されたこの若い男を探し出して語りかける。「あなたに話している者がそれだ」。
若い男はイエスに敬意を捧げつつ言った「主よ!わたしは信仰を持っています」。
イエスは言う「わたしはこの裁きのために来たのだ、つまり見えない者が見えるようになり、見える者が見えなくなるために」。

さて、宗教家たちはイエスの行う奇跡の業を退け、その言い訳として悪霊の頭目を担ぎ出したのだが、それが本当に「神の指」であったなら、これはどういうことになるのだろうか?彼らの目は「見えなかった」のか。

加えて、彼ら宗教家たちは奇跡によってユダヤ同胞が癒されることに喜ぶことすらできなかった。一般の民を侮蔑していたからである。まして愛してはいなかったであろう。

イエスが右手の萎えた男を安息日の会堂内で癒したときにも、その一派の者らは奇跡の業を見届けるなりイエスを殺す算段をしようと会堂から飛び出していったのである。その理由は、ただ「安息日を守らなかった」という瑣末な「正義」のためであり、神の業をそこに見ようとはしなかったのである。
何と宗教的思い込みに恐ろしく歪んだ性格ではないだろうか。だが、こうしたことはあちこちの宗派の場で往々にして起こってきたことであろう。

今日の様々な宗教に於いて、その崇拝の対象や教理はそれぞれに違えども、本旨では一致しているようなところがある。
それが即ち「これが正しい、だから従え」ということである。

しかし、聖霊の証しを通して人に信仰を呼び起こす神の姿勢はそうではない。
それは各人が自ら選ぶべきものであり、それによって人は自らがどのような者であるのかを示すことになると言えよう。

使徒ヨハネはその書簡の中でこう言っている。
『 わたしたちが人の証しを受け入れるとしても、神の証しは更に優っています。
神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神を偽り者にしてしまっているのです。神が御子についてなさったその証しを信じていないためだからです。』(ヨハネ5:9-10)



-◆「聖霊」に逆らう者-----------------------------

こうして、聖霊に逆らった者らの姿が見えてくる。
それは、まごうことの無い神の力の表明を見ながら、なお反対を唱える確信犯である。

イエスは誰に対しても聖霊の罪を犯したとの明確な指摘してはいない。
ただ、ユダ・イスカリオテについてほのめかされただけである。

しかし、その罪が犯されるときには、その人の内心で重大な倫理的決定が為されるだろう。
そこでは、ふたつの事柄が秤にかけられ、義と不法の何れかの選択が迫られ、何らかの動機によって、ある人々は「不法」を選ぶのであろう。

そこに神の落ち度はないとヤコブの手紙は言う。『人は各々自らの欲望によって誘い出されて試みを受ける。そして欲望を孕んで罪を産み、罪が育って死を産み出す』(1:14-15)

だが、この罪を犯す危険を察知したパリサイ人もいた。ヒレル派の大学者ガマリエルである。
彼は、イエス派も神からのものでないならいずれは潰えようが、だがもし神からのものであったなら、反対者は神と戦うことになってしまうという危険を指摘したのであった。

ガマリエルは、イエスの弟子らの行う奇跡を念頭においたであろう。
そこで、この種の罪を犯す危険を悟り、イエス派憎さの欲望のままに重大な倫理的決断を下したりしないよう説得する賢さを見せた。



-◆「聖霊冒涜」の新たな面----------------------------

だが、その時点でユダヤ体制派の宗教家たちは、すでにイエスをローマの権力に渡して亡き者としていた。

キリスト帰天の後、聖霊の働きはイエスから弟子たちへと移されてゆく。

あのシャブオート(五旬節)以降、明白に聖霊の灌ぎが初期の弟子らに行われると、聖霊への反抗の種類に福音書の範囲にはなかったものが現れてくる。(使徒2章)

つまり、聖霊が灌がれ、その賜物によって異言や預言、癒しなどの奇跡を行うことになった初期の弟子たちには、その賜物に対する責任が生じたのである。

その賜物を有する者らは神の王国の一員「聖なる民」として選ばれたのであるが、それは未だ確定的なものではなく、内定のようなものである。(エフェソス1:14/コリント第二5:5)
キリストの帰還まで、あるいは自らの死までの間、傷なくシミもない忠誠が求められていたのであった。彼ら『聖徒』にとっては、確かに一度限りの聖霊の力に預った以上、棄教は聖霊への冒涜となるに違いない。(ペテロ第一3:6)


しかし、彼らに人間に共通する罪(原罪)が残っているからには、不謬なわけもない。それでもキリストの犠牲の仮の適用を受けて、彼らは神の前に『聖なる者』となり『義』と見做されていた。(ローマ8:1)

そこで使徒言行録には『主の霊を試す』という罪を犯した者らが処罰されている場面がある、即ちアナニアとサッピラの夫婦であった。(使徒5:9)
この二人は、人々からの称賛を願って、自分たちの偽りが誰にも見抜かれないと思い込んだ。しかし、聖霊を注がれた立場とは、『新しい契約』に与り『罪を赦された』状態にある以上、故意の邪悪が容認される余地もないであろう。この夫婦はその日の内に葬られている。


それでも、彼らが肉体に留まる以上はその『義』も仮のものであり、彼らもときに間違いを犯し、様々な倫理的失敗も免れていなかった。そこでヨハネは『死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。』と、当時の聖なる者らのエクレシアに書いている。(ヨハネ第一5:16)
アナニアとサッピラのような『主の霊を試す』ような罪は、あからさまな故意、また邪悪であり、人の弱さや過失とは言えず、ヨハネが言う『死に至らない罪』とはならなかったのであろう。


それでも、聖霊を受けた聖なる者としての優れた立場には、当然に一定の基準を満たすことが求められ、かつてのレヴィ族祭司に求められた清さを、キリスト教に於いてパウロが『聖なる者ら』に関して、不品行や偶像礼拝や姦淫、男色、貪欲、泥酔などとされる者が『神の王国を受け継ぐことはない』と述べたのであり、それは確かに『義』とされた『聖徒』について理に適ったことであろう。確かに文脈もそれを明示しているではないか。(コリント第一6:9-10)


したがって、これを混同して一律にアルコール依存者や同性愛者や姦淫者らが裁かれるべきとしてしまえば、多くの悪行や不品行に捕われ真に救いを必要とする人々が、人類の『祭司』とされるべき『聖徒』からの贖罪を受けられないと宣言してしまうことになり、『罪びとを招く』『病人にこそ医者が必要』と唱えるイエスの意図から逸れてしまうであろう。

罪深さを自覚しつつも自己ではどうにもならない人々はいつも存在してきたに違いなく。その人たちの悔いと神の許しの間に、同じように変わりない罪人たる他の人間が「自分は道徳的だ」と言って立ちはだかる理由もないであろう。(行状を改善できない彼らがキリスト教徒に数えられるか否かは「悪行の容認」に関わる別の問題となろう)


しかし、真に正義持つ人類の支配者として、『多くを委ねられた者には多くが要求される』ことは、この場合、『聖徒ら』に関して得心できることであるし、彼らこそは『悪の容認でなく、聖化によって召された』と言えるのである。(コリント第一6:9-10/ルカ12:48/テサロニケ第一4:7-8)



しかし、使徒ヨハネは『聖徒』であっても間違いを犯しても許されることを述べ、そこで「許されない罪もある」と書いている。それでも、「神から生まれた者(聖徒)は罪を犯し続ける*ことはない」という。*(ギリシア語に現在進行形がないためヨハネ第一3:4.6は「罪を犯さない」と訳されることも多いが、それでは既に原罪を超克していることになり、聖徒の状態をぼかすものとなるだろう)

イエスの弟ヤコブも、罪を犯した者は年長者を自分のところに呼んで、祈ってもらい、また油を塗ってもらうようにと勧めている。

しかし、ヘブル人への手紙には、冒頭で書いたような許されざる罪が記されている。
それについては、初期の弟子の聖霊の賜物に与るという立場を加味するとき、この文章理解の見通しが開けてくるのである。

「ひとたび啓示を受け、天からの無償の賜物を味わい、聖霊に与る者となり、神の類稀な言葉と来るべき将来の世の力を味わいながら、なお、離れてゆく者は、再度あたらしくされて悔い改めに至ることができない。」(ヘブル6:4-5)

これに加え、同じヘブル書の10章26節にはこうある。
「我々がもし、真実の知識を授かった後に、敢えて*罪を犯し続けるなら、罪に対応する犠牲は何も残されず、裁きと、逆らう者らを呑み尽くす劫火を慄きつつ予期するばかりとなる」。(10:26-27)*(エクーシオース 「自発的に」)

ここが、信徒たちをして、その属する宗派や組織から出てしまうことのないようにと、「地獄の火」のように信徒を恐れさせて利用されることの多い句である。しかし、だからといってその句の反対側に、つまり宗派に留まり模範的でありさえすれば、果たして「救い」というようなものがあるのだろうか?
ならば、「神の裁き」とは何と人間臭くて外面的なものなのだろうか!

だが、この10章26節に関しては、少し後の29節を見ると「自分自身を聖なるものとした契約の血」が関連付けられており、これらのヘブル書の言葉が聖徒°に適用されることを明示しているのである。 

さらに、「恵まれた(カリストス)霊を侮る者は」と続くので、上記の6章の言葉と同様に議論の余地無く、この書簡中での「聖霊に対する罪」は、聖霊を受けた者である「聖徒」が、その聖霊に敢えて逆らうことを指して「キリストをもう一度磔に処するようなものだ」と述べていたといえるのである。

また、『あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは偽物として見捨てられる。』という言葉も、当時の聖霊を自らの内に得た聖徒らへの強い警告であり、霊を注がれてすら不信仰であるという、冒涜的な状況が如何に危険であるかを伝えるものとなっている。(コリント第二13:5)

したがって、聖霊の賜物を持たない者や、それを目の当たりにしていない者は聖霊の働きを充分には知らないので、この絶対的罪を犯すことを心配する必要はなさそうである。

では、今日この「聖霊に対する罪」を犯すことがあり得るだろうか?


-◆「聖霊に対する罪」はどう生じるか----------------------

まず初めに、イエスの奇跡の業を見たユダヤ人たちは、「神の指」の働きを見ながらこれを退けた。

そこにどれほどの自覚があったかは分からないが、人の行うことのできない奇跡を侮り、そこに含まれる善意すらも否定したのだが、この場面の反応を指して、イエスは「聖霊に逆らう者に許しがない」と述べていたであろう。

そして後に、聖霊を賜った「聖なる」弟子らにも同様に「敢えて罪を犯し続けるなら許しはない」と述べられていたとみることができる。『聖なる者ら』の行う聖霊の業を冒涜した者もまたそのようであろう。

したがって、この種の罪に関わる双方ともに、「聖霊」とそれに対する確信的抵抗が介在しているといえるだろう。

この理解を通して初めて、ヨハネ3章18節が述べる、『信仰を持たない者は裁かれている』の句も明瞭となるであろう。つまり、『聖霊の業』を見てさえ信仰を持たないという罪であり、その上には『神の憤り』がある。
 

しかし一方で、イエスは『人の子を罵倒する者ですら許されるだろう』とも言っているし、『あらゆる罪』にしてもそうであると言う。そこでは聖霊に対する罪と、そのほかの一切の罪がどれほど異なるかが強調されていないだろうか? (マタイ12:31-32)

総括すれば、「聖霊に対する罪」は聖霊の関わるところでのみ生じるのである。


他方、賜物をもたらす聖霊の降下は第二世紀頃に止んでいる。⇒ 西暦第二世紀のキリスト教徒
その後の聖霊を失ったキリスト教は迷走して様々な教えに分かれ、その枝葉は数え切れないほどになった。

そのだれもが正統をあるいは真理を持つと唱えても、聖霊のあるところならば正統もあり得ようが、今日どこにも聖霊がなく、完くの「正統」はどこにも存在しないので、これらの宗派は相克するよりほかない。

この争論や敵意そのものがそれぞれの聖霊の無さを証明しているであろう。聖霊は強力で曖昧なものではなかったからであり、そこに見間違える余地はない。

この上からの介入、つまり「聖霊」のない状態では、イエスの弟子らが的外れな考えを抱いていたように、皆が部分的知識の誤謬と自己満足の中に在るのであって、現在は絶対の罪を犯す余地がない。却って認識の不十分さゆえに、「聖霊の罪」からは保護されているともいえるだろう。

現代という時代は、バプテストのヨハネやイエスの登場する以前の、数百年間預言者が現れなくなり、神からの音信の途絶えていたユダヤに似ていよう。
ユダヤ人たちが言うように、マラキを最後に「預言者たちはみな眠りに就いてしまった」。
その後、第一世紀にイエスが現われた世代こそが、バプテストのヨハネとメシア・イエスを迎え、聖霊の業を目撃することによって、その罪を問われたのである。

今日も同様に、神からの聖霊は絶えて久しく、その沈黙の日々は千九百年になんなんとしているのである。


-◆再び聖霊の業が行われる時代に----------------

だが、ユダヤにイエスが現われたように、将来に聖霊が再降下するならどうなるのだろうか?

それは、キリストの帰還の時に為されるだろう。即ち、「終末」であり、「裁きの日」のことである。
選ばれた弟子らは為政者の前に引き出され「聖霊によって論駁しようもない言葉を語る」とされている。

それは諸国民への宣布、証しのために起こる奇跡となろう。これは鮮烈な論争を惹起し、イエスの世代のように、将来のその世代もキリストの臨御を巡ってふたつに割れるであろう。(ルカ12:8-12)

支配する王キリストを迎えることに反対する者らがまるで現れないということは、もちろん今でさえ考えられない。
そこでは、やはり古代のように聖霊を拒む者らが出ることは避けられないだろう。

将来の終末にも、同じように反応する人々が存在するのは、誰にも留めようがない。いや、それが『この世の裁き』であるなら、人の最終的裁きには聖霊が関わることになるに違いない。

世界は聖霊を通して「神の声」を聞くが、これは聖霊を注がれた聖徒らの働きであり、これにどう反応するかは極めて重い判断になるだろう。つまり、そこに「聖霊に対する罪」が関わるからである。(ヘブル3:15)
こうして、この罪を巡って人類は裁きの日に臨むことになるだろう。

従って、生きる人々は聖霊を受ける『聖徒』が現れ、この『聖霊を冒涜する機会』は「聖霊の業」を見ない限りは一度も到来しないということになり、それはこの『聖なる者たち』が地上から絶えた第二世紀から今日までそのようである。この間に死に至ったすべての人々は、復活の後に試されることになろう。

イエスはこう言っている。
『このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、

 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。』(ヨハネ 5:28-29)


これは生前の行いを基に裁かれることを意味するのだろうか。
もし、そうならこの裁きは『聖霊を冒涜』する罪とは関わりが無い。
しかし、これが永遠の裁きであるなら、単に人が善行者であったか悪行者であったかという一般的な道徳規準で神は死者を復活させて裁くことになる。

だが、終末に聖霊が再び臨み、それが人々を分けるとするなら、死者も同じ基準で裁かれるべき理由が生じることになる。
この世の終わり「終末」において、神が人類を激動させ、そうすることによって『望ましい者らが家(神殿)に入って来る』というハガイの預言からすれば、聖徒らによる聖霊の言葉や証しは人間に由来するものではないので、非常に際立つものとなるのであろう。

そうなると、やはり死者たちに同様の機会が開かれねばならず、パウロが『義者と不義者の復活がある』と言ったことも、復活そのものが裁きとならず、わざわざ不義者を復活させる理由が見えてくる。(使徒24:15) 


ひとつには、死者は聖霊の業を見ていないからであり、また『アダムと同じ罪を犯していない』ゆえにも、彼らの生前の道徳がどのようなものであれ、重罪を犯しイエスの傍らで磔刑に処されながらもキリストに信仰を懐き、権力による処刑の最中にさえ受け入れられた男のように許されるべき者が居るに違いない。(ローマ5:14)

そこでは、人がかつて何を行ったのかはほとんど意味をなさない。自分は模範的だと、一般的な道徳性を誇ったところでそれがどれほどのものとなろう。

聖霊の業を通して問われる究極論点は「神を神と認めるか?」である。これこそがあらゆる倫理の基礎であり、あとはキリストを罵倒していたとしても本質的な罪ではない。まして、人間の法については言うに及ばない。 ⇒ 「終末の裁きで何が問われるか」

もちろん、不法を繰り返して来た者には倫理的欠陥が深く染み付いて、聖霊に対しても罪を犯しやすいのかもしれない。だが、自分の悪に気付く者らには有利であろう。
却って、罪多きものは多くを愛するということがあるだろうからである。許されるものが大きい人は、キリストにために生きることを躊躇わない。


一方で、人間の定めた規則に仔細に従うような道徳的模範者が神に悦ばれるというなら、その神は何と矮小なことであろう。
ある宗派に馴染めず、そこを出た信徒を許されざる者とする神なら、何と了見の狭い神であろう。

我々はそのように小さく偏狭な神を心から尊崇できるだろうか?そのような「神」なら、我々の周囲に幾らでも歩き回っていないだろうか?
また、それらの宗教の教導者は、偉大な神を自分と同じレベルに卑しめてはいないだろうか?

教会を去る信者や、単にキリストの信仰を持たないからとこの罪に断じるのは、貴少な教会員の囲い込みにはなるほど打って付けなのであろう。そのような教えが存在することは致し方ないが、その犠牲となる人々はまことに気の毒なことである。

あるいは、教会や組織に属すところに「救い」のようなものを実感し、愉悦を感じている方々もおられるのであろう。
だが、こうして聖書を見るとき、「所属が救済」との教えに蓋然性があるとは思えない人々もまた居るに違いない。

我々の限界や弱さや罪深さを知り尽くす神が、人間同士の定めや道徳の差を以って裁くだろうか?
大いなる創造の神は、人間はすべて「土」であることを知っているという。
この意味するところは大きい。
この点、聖霊を受ける者ですら、人の罪を許すよう求められてさえいるのである。(ヨハネ20:22-23)


-◆「我々に抗わない者は、我々に味方している」---------

この見方を支持するのは、イエスは聖霊への罪の適用の境界は非常に大らかであることを示唆する発言をしていることである。

聖霊の業を真似ながら自分に付き従ってこない者らをイエスは咎めず「我々に抗わない者は、我々に味方している」と言い、却って使徒らにこれら小さなものたちをつまずかせることが大罪であると叱責し、他方で聖霊の業を誹謗した者を指してのみ「わたしと共に集めず、散らしている」と述べている。⇒「アブラハムの裔を集めるキリストの業」

このように、聖霊の業をどう見るかこそが、人々を大きく分かつことを明らかにしているのである。
そこに瑣末なことで仲間を裁く狭量な宗教家の姿を見つけることはできない。
(マルコ9:38-42/ルカ9:50)(マタイ12:30/ルカ11:23)

それゆえ、我々は互いを裁かず、神が聖霊を通して語る時を待つべきである。
そのときこそ、宗派にも他のあらゆるイデオロギーをも超越し、我々個人の真なる深奥の資質、即ち、神を肯んじることができるか否かを問われることになるのであるから。

神の裁きであれば、そのように個人の内面こそが問われて当然ではないだろうか。
聖霊とは、個人の内奥の如何なるかを見極める為の重要なファクターであり、イエスや聖徒らの時代と同様に、終末の「神の裁き」において人知の到底及ばぬ働きを為すであろう。


試みを経て神との絆を選び取る人々について、聖書はキリストの自己犠牲の愛の許に集められ、『神の子』とされることを知らせている。この意味は、神の創造物として完成され『罪』をまったく去って、神と共に生き続けることであるので、試みの後に『死は火の湖に投げ込まれ』もはや存在しないことを示す。

こうして神は創造の業を完遂し、人に自らの『象り』としてその栄光を与える。人はキリストの犠牲によって『神の子』に復帰し、遂に永生に至ることになる。
 




              新十四日派   © 林 義平

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*「悪霊」:天での立場を保たず、人の女と交わろうと人の形をとって地に降り、罪を犯した堕落天使ら。その頭目には、最初の逸脱者サタンが君臨する。
ノアの洪水以降は拘禁状態に置かれ、人にはっきりと現われることはできないが、今日まで曖昧な仕方で様々な不善を為している。能力は人間を高く超えるが、倫理性は相当に低い。人によっては生活に支障があるほど干渉されることもあり、憑依状態や痙攣、体や夢や発言の操作、様々な無い物を見せたり聞かせたりすることも少なくはない。これらに好奇心を抱くことは非常に危険だ。

#「ベエルゼブブ」:本来はユダヤでの異教神の蔑称。元の言葉は「バアル・ゼブル」と考えられており、カナンの神バアル(「主」)のひとつの形態であったが、ヘブライ語で「ハエの王」をもじってこのように呼ばれたらしい。これが第一世紀までに、ユダヤ人の間で卑しめられ悪霊たちの頭目の名称とされるようになっていた。

○「聖徒」:(ハギオス)キリストの信徒の中でも、イエス刑死後の五旬節から聖霊が灌がれ、奇跡的能力の賜物を得た者らで、イエスと共になるために召された格別な人々。 ⇒  西暦第二世紀のキリスト教徒

キリスト教が復活を教えている以上、キリスト教信仰を持って死んでいようが、持たずに亡くなっていようが関係なく、終末の復活後に、聖霊の奇跡の力がすべての人々に改めて示されることになる。


このブログ内の記事一覧


関連項目 ⇒ 「終末の裁きで何が問われるか
     ⇒ 「聖霊という第三のもの



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聖霊と火のバプテスマの異なり



聖霊と火とによるバプテスマとは何だろうか?


これら二種類はまるで正反対の結果をもたらしたが、この頁では「聖霊のバプテスマ」とその意義、そして、「火のバプテスマ」がそれぞれ何を意味するかを書き出してみよう。



さて、その言葉はマタイ3:11とルカ3:16にある。


では、バプテストのヨハネの述べた「わたしはあなた方(ユダヤ人)に水でバプテスマを施すが、わたしの後から来られる方はあなた方に聖霊と火でバプテスマを施すであろう」と言ったこの件の意味について記したい。

バプテストのヨハネが、モーセの律法契約にあったユダヤ体制の終わりを印付ける仕方で現れ、ヨルダン川の水を用いてユダヤ人のみに「悔い改めのバプテスマ」を施した意義について、およびキリストの水のバプテスマについては、以前の拙文「バプテスマの意義は・・」を参照されたい。


本稿ではヨハネによって予告された「聖霊と火とによるバプテスマ」の意味は何かを明らかにしたく思う。



-◆聖霊のバプテスマ--------


まず、「聖霊と火」の「聖霊のバプテスマ」の方の実体が何かということのはじまりを言えば、これはイエスが刑死を遂げて弟子らの見守る中、天に戻ってから十日後、ユダヤの祭礼である五旬節つまりペンテコステ(シャヴオート)の日の午前に起こった事柄を以って「聖霊」のバプテスマが開始されている。(初学の向きは使徒言行録2章を参照されたい)


そこで起こったことは百二十人ほどの弟子の頭の上に見える「火の舌のようなもの」がそれぞれに配られ、彼らは様々に異なった言語で「神の壮大な物事」を語り始めている。それは個人的な神秘体験という心理作用の範疇を超えて、誰の目にも明らかな奇跡であり、ナザレのイエスをメシアとして知らせる力強い布告の、世界に向けた開始であった。


即ち、モーセを仲介者としてイスラエル民族と結ばれた契約は、キリストを迎えて大きな転換点にあったのである。


そのとき、ペテロはその奇跡に見入るユダヤ教徒らに向かってこう言っている。

『イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。』(使徒2:33)



だが、バプテストの語っていた『聖霊と火とのバプテスマ』の『火』を、このときの『火のような舌』の『火』と同じく見做して良いものであろうか?

これについては以下に見るように、「聖霊のバプテスマ」にせよ、「火のバプテスマ」にせよ、バプテスマを施す人として現れたヨハネの真意を探ってゆくと、そこにはっきりと見えるものがある。 


さて、シャヴオートの日に聖霊が降下するに際し、非常に強い「大風が吹き付けるような轟音」が響き渡ったので、祭りのために都に登っていた外地からのユダヤ人たちが、何事かとイエスの弟子らの居る場所に大勢集まってきた。(ヨハネ3:8)


既にユダヤ内地の者らは、メシア殺害を通してその大方の態度を表しており、そこで神の福音は外地(離散)のユダヤ教徒に向かい、その注意を促してゆく。(使徒2:5)

彼らはそこにいる百二十人ほどのガリラヤ人たちが、自分たちのそれぞれの居留地の外国語で、神の事柄を話しているのを聞いて大いに驚いた。


これはその後「異言」(グロソラリア)と呼ばれる超自然の能力で、「聖霊の語らせるまま」に外国語を話す「賜物」である。

パウロの言から分かることは、この『異言』という賜物は没我のトランス状態や熱狂に入るものではなく、当人の制御できるところのものである。(コリント第一14:14-)


使徒言行録のこの日の事は本当に起こったことではないと断ずるなら、以後のキリスト教はもはや真正な存立をみることができないほど重要な事象なのである。

多くの人々が、この五旬節の出来事を以ってキリスト教の出発点と看做すほどである。(フランスのジャン・ダニエルーをはじめ、歴史・教父学者はグロソラリアが実際にあったと想定している)


これがバプテストのヨハネによって語られていたキリストによる「聖霊と火」の「聖霊」によるバプテスマである。



-◆聖霊のバプテスマの意義----------


聖霊降下の意味するところは、モーセの律法によってユダヤ=イスラエル民族の中に取り込まれていたヘブライの崇拝が、新たな契約によって諸国に向けて広げられる予兆、また神の意図であろう。(ルカ13:29/使徒10:35)


復活後の主イエスはこう言われている。

『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまでわたしの証人となるであろう』(使徒1:8)


聖霊降下の出来事は、本来アブラハムの子孫であるイスラエル民族のためのものであり、キリストの世代が終わるまで、エルサレム神殿でが存在し、神への崇拝が行われてはいたが、その間に、キリストの犠牲が一度限り捧げられ、律法墨守のユダヤ体制に聖霊が降ることは遂に無かったのである。(ダニエル9:27/ヘブル7:27)


だが、ヨエルの預言が語るように、イスラエルの子孫は霊を受けることにより、祭司や預言者でなくとも平民も女も若い者から奴隷であれ霊を受けて預言をするという奇跡が、あのシャヴオートの日から成就した。それはイザヤも預言していたところであった。(ヨエル2章/イザヤ44:3)


そこで、あの五旬節の日から、新たな崇拝の方式が興されている。

そのときには、まずユダヤ人のためにこの新しい崇拝へと門戸が開かれていたので、神殿での古い崇拝も並行して存在してはいたが、その旧来の律法体制に聖霊が注がれることはなく、むしろ霊が示すように、新たな崇拝はイエス派の中に始まっていた。(使徒4:27-31/ヨハネ4:21-23)


それがユダヤ、サマリア、世界へと次第に広がったエクレシアの場を通し、聖霊の奇跡が行なわれる、より高度な崇拝方式で始まりであった。 即ち動物の犠牲によるモーセの神殿祭祀が終わる時期となる一方で、一度限り捧げられたキリストの犠牲は、『霊と真理をもって崇拝』する時代を到来させたのであった。(使徒1:8/ヘブル8:7)


即ち、キリストがサマリア人の女に語られた『この山(ゲリツィム)でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る』との言葉の通りとなったのである。


 

さて、エクレシアで聖霊のバプテスマを受けた者たちには非常に多くの恩寵がもたらされた。

彼らには、この異言の賜物ばかりでなく、その異言を「翻訳」する賜物、「預言」といって神からの言葉を授かり、将来に起こることを予告したり、人の秘密を知ったりする能力もあった。更に使徒らには強力な癒しの能力が与えられ、ペテロやパウロは死人を生き返らせてもいるのである。即ち、予告されたようにキリストの業は使徒や直弟子らの中に継承されたのである。(コリント第一12:7/14:24/ヨハネ1:47-)


また、「知識」の賜物を通しては、新たな教義に関する情報を得たのであろう。

こうした様々な能力はもちろん本人に属するものではなく、文字通りに「賜物」であり、まったく上から与えられたものである。『真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる』と主も予告されたようにである。(ヨハネ16:13)


この格別の『聖霊』の注ぎについては、以前から将来に起こる事としてヨエルやイザヤなど旧約の預言者らも「回復の預言」の中に指し示していたのであるが(ヨエル2章/イザヤ44章)、イエスは自らの弟子たちに与えられることになっていたこの『聖霊』を予告して、弟子たちの「助け手」(「パラクレートス」)と呼んでおり、これが彼らに師の業を続行させ、真理を教え、主の言われた言葉を思い出させるとも言っている。(ヨハネ14:16/26.14:26)


しかし、意義はさらに大きく、そのことをイエスはヨハネ福音書3章でこう言われる。

『水と霊から生まれなければ、だれも神の王国に入ることができない。肉から生まれた者は肉であり、霊から生まれた者は霊である』(ヨハネ3:5)


この言葉は、コリント第一の手紙15:49に通じるものであり

このようにある『我々は塵で造られた者の様相であったように、天の者の様相を帯びるのである』


また、使徒のヨハネはその第一の手紙で『彼(イエス)が現されるときに、我々も彼の様になることを知っている』と言う。(3:2)


これに調和するように、ペテロの第一の手紙では『肉体における残された時を・・神の意志に従って生きる・・』ことを記している。(4:2)

聖霊を授かることはいずれ肉の体を後にし、霊者としての新たな命に入るというのであるから、これは徒ならぬことである。(コリント第一15:50-54/ペテロ第一1:23)


つまり、彼らは人間としては必ず「死」を経なければならない。・・このことを訝る方がおられるのは承知している。

言うまでも無く一般の常識では、人は必ず死ぬからである。


ではあるが、聖書では死を経験しないで済む人々が存在するのである。イエスは兄弟を亡くしたマリアにこう言った。『生きていてわたしに信仰を持つものはけっして死ぬことがない』(ヨハネ11:26)

これは終末の時に生きている人々のことを言うのであるが、人の世界では達し難い事ではあるけれども、人の常識がすべてなら神は無用であろう。(マルコ12:24)


一方で、聖霊を受けた弟子は霊の生命に移るに際し、肉体においてまさしく死を迎え、アダムからの命を必ず捨てなければならない。これをパウロは『キリストへの死のバプテスマ』と呼んだ。(ローマ6:3)

バプテスマにおいてキリストと共に『葬られた』のは、『水と霊から』キリストの復活された永遠の命によって『再び誕生』し『共に生きる』ためであり、この聖霊を受ける弟子たちが、将来に肉体から霊体へと移り変わる定めを受け入れたことの象徴表現と言える。(ローマ6:4) ⇒「無酵母パンから生じるエクレシア」


何ゆえ、このように人間であることを止めるべきかについては、神の「人類全体が、神の創造物(子)として立場の回復する」と定められた期間における、全人類の支配や贖罪の計画、即ちキリストの宣教の主題であった『神の王国』、それが聖霊のバプテスマを受け『新しい契約』に入る弟子らに関係しているのである。(ヨハネ1:12/エフェソス1:10/フィリピ2:10)⇒「キリスト教の目的」



-◆『天の王国』に召される聖なる者ら

 

この全人類の祝福となる人々は「アブラハムの子孫」と呼ばれる。

なぜなら、早くも創世記に於いて、神はアブラハムにこのように言われたからである。

『地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』(創世記22:18)


即ち、アブラハムの子孫イスラエルが、他の諸国民の祝福する選民となるのであり、それこそが『諸国民よ!主の民と共に喜べ!』というよく知られた聖句の真意である。

彼らアブラハムの子孫は地上の神殿ではなく、キリストを隅石とする、聖霊を受けた『聖なる者ら』という石で構築される天界の新たな神殿となって、将来に人類全体の罪の赦しを備えるということである。(ペテロ第一2:4)


だが真実のイスラエルとは血統上のイスラエルを意味しないことはパウロが語るところであり、こう書いている。

『イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではない』(ローマ9:6)


このユダヤのメシア信仰の拒否が何をもたらすかについては、やはりキリスト自身も血統のイスラエルに警告していたことであった。
『多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』(マタイ8:11-12)


その一方で、使徒パウロはまったくイスラエルでなかった異国の弟子らにこう書いている。

『あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である』(エフェソス2:19/ペテロ第一2:10)


何が彼らのような非イスラエル人を、聖なる民としたのだろうか。パウロはこうも記す。

『あなたがたを聖なる者とする霊の力と、真理に対する信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。』(テサロニケ第二2:13)


つまり、聖霊を受けた彼らこそが真にイスラエル、全人類の祝福となるという「アブラハムの子孫」であり、律法によらず信仰によって神に選ばれた『神のイスラエル』という血統のユダヤとは異なる新しい神の選民、人類の中からの初穂として、人類より一足先に救いを得た、格別な役割を担う民となるというのである。(創世記22:18/ローマ4:12/ガラテア6:6:15-16)


神は、アダムが最初に享受していた創造者との自由な「子」の関係に全人類を復帰させるために、自らの創造の初めである「初子」を仲介者として立てた。この仲介者がまず人々の間に宿りキリストとしてユダヤに来られた。(ヨハネ1:12/コロサイ1:15-/テモテ第一2:5)


人類には神との間を隔てる「罪」(原罪)の壁がアダムの時から存在しているので、人は生きる限り無罪では済まず、神とは断絶状態にさえある。(ローマ6:7/イザヤ59:2)

そこで、キリストと共なる新しい選民『アブラハムの裔』が存在する意義がある。



-◆世の罪を除き去る祭司団 -----


モーセの律法が動物の犠牲を要求したのは、あらゆる人間には「罪」があり、犠牲を介さなければ神に近付き得ないことを教えるものではあったが、エルサレムの神殿の祭祀は人の罪を実際には浄めることはなかった。(ヘブル10:4)

だが、『罪』からの清め無くしては、世界の人々を祝福する『聖なる民』また「アブラハムの子孫」も現れないことになってしまう。


しかし、エルサレム神殿の崇拝方式が模型のように指し示していた真実な実体があり、それがキリストを大祭司とする天の祭司制度であって、即ち、実際に人の罪を浄め、『神の子』へと復帰させる『神の王国』という手段である。(ヘブル8:5)

そこで、聖霊を受けた聖徒らが『キリストを親石に』『神殿の石となる』といわれる理由が生じる。(ペテロ第一2:4-5)


これがまさしく、キリスト・イエスが『神と人との間の仲介者』と言われる所以である。(テモテ第一2:5)


神はキリストを任じ、千年続く『神の王国』を樹立して、これが生ける人々を罪から贖うための手段とされるのだが、この「王国」の、アダムからの人類の罪を赦すシステムは、モーセの律法の中、ユダヤの祭司制度の中に動物の犠牲を通して模型的に予告されていたのである。(黙示録20:6)


そして『新しい契約』に預かることで、『聖霊』のバプテスマを受け初めに清められた人々がいる。キリストの弟ヤコブは、彼らを『人類の初穂』であると記している。(ヤコブ1:18)

こうして彼らの天にゆく理由もはっきりと見えてこよう。即ち、彼らが天で大祭司キリストの下で祭司となって地上に残る全人類の贖罪に貢献するということである。使徒ペテロは、『聖霊に浄められた』弟子らを確かに『祭司』と呼んでいる。(ペテロ第一1:2・2:9)


キリストの地上での宣教も、ただ信者を募ったのではなく、これらの「祭司となるべき人々」を集めることにあったが、それこそは『地上のすべての支族が自らを祝福する』というアブラハムの末裔『神のイスラエル』『祭司の王国、聖なる国民』をまずキリストの宣教の業においてパレスチナのイスラエル民族から集め始めていたのであり、それは単に信者を集める宣教ではなかった。(使徒13:46-47)


しかし、血統上のユダヤはメシアと共にアブラハムの末裔を集めずに却って散らし、イエスを信じる充分な人数をユダヤ体制は出さなかったので、エルサレムは、このように主から指弾されている。

『めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。』(ルカ13:34)


ユダヤ教の体制派が、どのように集めるキリストを妨害したか、といえば、それは聖霊による奇跡を悪霊の頭の業だと誹謗し、信仰を働かせるユダヤ人が現れることを邪魔したことによる。

そこで主イエスはこう言われたのである。

『わたしの味方でない者は、わたしに反対するのであり、わたしと共に集めない者は、散らすのである。』(マタイ12:30)


聖霊が使徒らや初代の弟子らにもたらす奇跡の業が、まさしくユダヤ体制派の嫉妬を買っていた様は使徒言行録に明らかであり、使徒らが宣教に赴いた外地のユダヤ教徒らからさえも反対を受けたことが同じく記されている。


そこでキリストの業を受け継いだ使徒らは、ユダヤ教徒を後にして諸外国への宣教に向かうことになる。その宣教も、ただ信者を募るものではなく『アブラハムの末裔』を集め出すという意義深い目的があった。


それであるから、パウロはバルナバと共に宣教を妨害する外地のユダヤ人にこう言い放ったのである。

『神の言葉は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから向きをかえて、異邦人たちの方に行くのだ!』(使徒13:46)


そして「イスラエル」という本来人類の祝福となる民の不足する人数を満たすために『接木』が行われる。

即ち、初期の弟子らの宣教の目的は、異邦諸国民から信仰ある人々を『神のイスラエル』に集め召し出し、『諸国民の光』となる『神の王国』を目指すことにあった。(ローマ11章)

この点で、使徒ペテロは主から授かった『鍵』を用いて、異邦人にも聖霊が降るよう取り計らっている姿が使徒言行録に見える。(使徒1:8/8:14-16/10:44-47)


こうして天界の大祭司キリストが従属の祭司となるべき人々に天から聖霊を注ぎ、その人々は聖霊の奇跡の賜物によって浄められ、「罪」を許され、人類に先立って『神の子』と認知されるに至った過程はレヴィ記16章の『贖罪の日』の取決めの中に予型されている。


即ち、律法で定められた『贖罪の日』の儀式では、まず大祭司自らの罪を牛の血によって除き、次いで従属する祭司たちの罪が贖罪され、そうして後、これら祭司団の働きによって民の全体が贖罪に預り、こうしてすべてが神の御前に「罪」を許されるという図式があった。


つまり、『新しい契約』は、大祭司キリストと従属の祭司団を天に召して、聖霊を受けた人々で天界の神殿が構成される将来に『神の王国』という、全人類の贖罪を行うアブラハムに予告された一大事業に乗り出すことになるのである。その人類の祝福は、創世記で繰り返し神がアブラハムに言われていた通りである。(創世記22:18/コリント第二5:19)


そこで新約の民、聖霊を受ける人々こそが『選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民』と使徒ペテロが言うのである。つまり、モーセの律法契約が目指した『聖なる民』の出現は、キリストの『新しい契約』によって遂に実現し始めたことを使徒たちが知らせているのである。


使徒ペテロは、当時の聖霊を注がれた弟子たちについて、『あなたがたはサラの子になった』とも言っている。それはつまり、真実のアブラハムの子孫となったと述べているのである。(ペテロ第一3:6)


しかし、これは誰でも信仰を抱けばそうなるというわけではけっしてなく、それが契約である以上『多くを委ねられた者には多くが求められる』のであり『入ろうと努めながら入れない者は多い』とも主は言われている。(ルカ12:48/マタイ22:14)


したがって、キリスト教徒が聖霊を受けることは人類全体の『贖罪』の始まりに過ぎず、聖霊を受けることがけっして最終目的の「救い」なのではない。彼らは天でキリストと供なる祭司団また王たちとなるために(黙示録20:6)、人類に先立ってアダムからの罪をまったく贖われる必要があったが、肉体のままではその「罪」が消えることはない。地上に肉体で残る人類のために、聖霊を受ける者らの天での奉仕が必要なのである。(ヤコブ5:16/ヨハネ第一1:8)



-◆聖徒の立場と義務 ------


そこで『新しい契約』が、聖霊の印ある者についてのみ、地上での「義」と「救い」の仮の承認を彼らにもたらしたのである。その代価が貴重なキリストの血であった。(エフェソス1:13-14)

それゆえ、使徒ヨハネが『まだイエスは栄光を受けておられなかったので、霊はまだ下っていはなかった』と述べた理由は、聖霊の注ぎがキリストの犠牲の死の栄光を要したからに他ならない。(ヨハネ7:39)

確かに『水と霊から生まれる』『聖なる民』が、人類からの『初穂』と呼ばれるに相応しい。彼らは『キリストに在って生き』、イエスを『とこしえの父』とした。(ローマ8:23/ヤコブ1:18)


それで、聖霊を賜った「聖なる者ら」に『有罪宣告はなく』(ローマ8:1.30)、その『救い』も聖霊を通して既に開かれている。しかし、それは『聖なる者』として相応しく生涯を終えるという条件付きのものであり、「契約」とは常に不確定な事柄について締結されるものである。


そこで彼らは、『その召しに相応しく歩む』(エフェソス4:1)ことが求められており、一定の道徳規準を満たし、レヴィ族の祭司のように聖なる者であるべきで(コリント第一6:9-11)、『狭い戸口から入るように努める』べきである。(ルカ13:24)


その『新しい契約』は『聖なる者』らを天へと召すものであるから、当然に聖い状態で『染みも傷もなく、安らかな心で、神のみまえに出られるよう』に生涯を終えるべきであり、彼らは死に至るまでのキリストへの忠節を全うし、全人類を贖い、治めるに相応しいことを実証することが要求されている。(ペテロ第一3:14/黙示録2:10)


つまり、彼ら『聖徒』の務めは人類の贖罪と、その間の管理(支配)ということができる。彼らは主と共に『神の王国』で『千年の間支配する』のである。(コリント第一4:8/エフェソス1:10/黙示録20:6)


それに対して、バプテスマを受ければ誰でも「聖霊」を受け、キリストが内住してくれて、自分を幸福へと導いてくれるという教えは、根本において正反対である。なぜなら、関心の対象が神の全人類への救いの大志から、身近な自分たち自身の幸福に置き換えられるほどに異なってしまっている。つまり、利己心か、利他心かというほどに『聖霊』の見方ひとつで、その信仰の精紳は根本から異なるのである。



さて、信徒の中でも『聖霊』に与る選ばれた者は、大祭司キリストと共になる祭司となる人々であるから、キリストと霊の体を共にする象徴として『主の晩餐』でパン種のないパンを分け合い、誰よりも早く最初に罪(原罪)を相殺される象徴として、また『新しい契約』の発効させるために必要な『犠牲の血』を表すところの葡萄酒を飲み合うのである。(ヨハネ6:53-58/ヤコブ1:18/出埃24:8/ローマ8:1)


その『新しい契約』は、彼らが地上でアダムの命を持つ「肉」の状態である間から「義」を信用貸しされるためのものである。(コリント第二5:10)それゆえにも彼らは『聖なる者』(ハギオス)と聖書中で呼ばれるのである。

つまり、天に戻ったキリストは、自らの犠牲を携えた大祭司としての最初の贖罪を、従属の祭司となるべき彼らに行ったので、聖霊の賜物を受けた聖徒らは人類に先立って『義』を得て『救われた』状態に入れられるのである。(マルコ14:22/ヨハネ6:56)


彼らは『召された人々』(ヘブル9:15)アブラハムの『相続財産を受け継ぐ者』(ローマ8:17)『聖なる者』(あるいは『聖徒』)(エフェソス1:1)『キリストに与えられた者たち』(ヨハネ17:24)であり、ペテロが『あなたがたは王なる祭司、聖なる国民』と指摘したように、律法上のレヴィ族のような『神の特別な所有に帰する民』である。(申命記26:19/民数記3:12)

彼らの『神の子』としての身分の証しは注がれた『聖霊』であり、死後キリストと共になる事への事前の保証(手形)であると、パウロが異邦人に宛てたエフェソス書簡に明言されている。(エフェソス1:13-14)


終末に、キリストの「臨御」(パルーシア)が起こり、主が象徴的に地に帰還した後、聖徒として死んで眠っていた者らには天で霊の体に再生することを許される者があり、地上では聖霊を授かって生きている者らも(今は居ないようだ)、承認を受けた者は直接に肉の体を解いて天に行き、そこでイエスと共になるよう召されることになる。こうして集められる『アブラハムの裔』はキリストの許に集合し、いよいよ人類を贖罪する『神の王国』の千年支配の始まるを見るというのが、聖書全巻に亘る奥義となっている。(テサロニケ第一4:14-/ダニエル12:2)


キリスト教徒は終末になると、誰でも天に召されるということにはならないが、聖霊を受けなかったならとて、地に残されることを何も恐れる理由もない。やがて『神の国』の贖罪に与ることができるのである。しかし、聖霊があってなお地に残されることは「新しい契約」不履行の罪を恐れなければならない。(マタイ24:40-41)


天に召される聖霊ある人々は、肉体という『幕屋』を解いてキリストの御許に集められるが(コリント第二5:1-)、それは新たな誕生となり、霊の身体を得てキリストと共に生きる者となるという。(ローマ8:1-2/15-17) 


それゆえ彼らは『キリストの兄弟』であり『共同の相続人』であるとも言われる。(ヘブライ2:10-17)

だが、『神の子』 の立場は彼らだけでなく、神がアブラハムに告げられたように、最終的には『神の王国』の贖罪を通して全人類にも差し伸べられるものである。(ヨハネ1:12)


このように、「聖霊と火」の「聖霊」でバプテスマを受けるとは、「人類の贖罪」というキリスト教の根幹たる神の御旨に祭司として預かることを意味するのである。(ヘブル2:3-4)



-◆火のバプテスマ-----------


さて、聖霊に対する『火のバプテスマ』については、もう一度バプテスマのヨハネの言葉に戻り、その続き見てみよう。


『その方(イエス)の手には煽り分ける道具があり、ご自分の脱穀場をすっかり掃き清めると、小麦は蔵に納め、籾殻は消えない火で焼き払うであろう』(マタイ3:12)


これはユダヤ人に対する痛烈な警告である。

ヨハネはまたこうも言っている。

『 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。』

『斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。』(マタイ3:9-10)


アブラハムの嫡流子孫であるユダヤ人にこそ、正統に千年王国のキリストに伴う「王なる祭司」の「聖なる国民」となる機会が開かれていたが、当時のユダヤ体制の『ねじけた世代』は却ってイエスを退けることによって、血統上のユダヤ民族全体としてはこの類まれなアブラハムの遺産を遂に放棄するのである。(創世記12:3)

その原因は、アブラハムの子孫には不似合いな『不信仰』であった。(ルカ22:67)


もちろん、これらメシアを拒絶した多くのユダヤ人の上に聖霊の降下は無かった。

あのペンテコステの日に、ペテロが『バプテスマを受ければ聖霊に与る』と語った相手は信仰を抱いたユダヤ人であり、すでに律法契約にあり『契約の子ら』であるとペテロもそこで言っている。彼らこそはイスラエルであり、イエスをメシアとして信仰を持つことで、そのままに『新しい契約』に移行でき、『救われる』状態にあった。(使徒2:38-39)


だが、大半のユダヤ人はこれほどに有利な立場をアブラハムから相続していたにも関わらず、イエスをメシアとして信仰せず、水のバプテスマを経て聖霊のバプテスマに至った人々は僅かで、むしろ、体制としてのユダヤのその不信仰な『世代』には、『アベルから祭司ゼカリヤ*まで』の殉教者らの血の清算が求められたのである。(*歴代第二24:22/ルカ11:51)



-◆ユダヤ体制という籾殻に臨んだ火のバプテスマ


その世代のうちに起こった恐るべきこと・・

それはイエスの刑死から『この世代』の内に、即ち四十年を経ない西暦七十年に到来した。(マタイ24:34)


ユダヤとガリラヤ、そしてエルサレムがローマ軍に徹底的に蹂躙され、美麗なる聖都であったエルサレムは更地のように破壊され、神YHWHの神殿は火炎に包まれて以後再建されていない。ユダヤ人は『剣の刃に討たれ、奴隷となって諸国に売られ』、以後は流浪の民となってしまった。(ルカ21:22-24)


それまで存続していたモーセの律法制度による神殿での動物の犠牲を中心とした祭儀は、神殿の破壊と共に終了を余儀なくされたが、その以前にキリストの犠牲が、既に神殿の祭儀の意義を失わせていた。(ヨハネ4:21/ダニエル9:27)


そして、「バプティゾー」が「浸す」を意味するように、ユダヤの律法による千年以上の永きにわたった体制も、『火』に浸されたことになる。つまり、全き滅びを被ったのであった。


モーセの崇拝体制は神殿のないままに今日まで二千年を経ても未だ再興されていない。既にキリストによる『霊と真理による崇拝』に置き換えられたからであれば、今後も地上の神殿と動物の犠牲も再開はしないであろう。例えもし、神殿が再建されるような事があったとしても、キリストの犠牲の後に、今更に動物を捧げるどんな意味が残っていよう。(ルカ19:41-/23:28-/マタイ24:2/ヘブル10:1-4)


メシア殺害があって後、律法の警告の預言は成就し、遂に『約束の地』はこの民族を『吐き出す』に至ったのであった。(レビ20:22) 


それはバプテストの言う『籾殻が焼き尽くされ』たかのようにである。

こうして「火のバプテスマ」の方が理解される。

 

ユダヤ祭司体制の終焉は、モーセが命じた『繰り返し捧げられる動物の犠牲』を終わらせ、一方で、神は大祭司キリストに基づく天の神殿での贖罪を開始させていた。即ち聖霊を降下させ従属の祭司らを集め始めたのであった。キリストが「集めた」者、また「父から与えられた者」とは、真の意味での『アブラハムの子孫』であった。(ルカ19:9)


爾来、「火のバプテスマ」によって聖域を失ったユダヤは、律法の完全な履行が明らかに不可能となってしまった。ユダヤ教徒たちはその後もメシア=キリストを待ち続けているが、二千年後の今日までメシアは現れてはいないし、神殿も失われたままである。例え再建されたとしても、既にキリストの完全な血の犠牲が捧げられた以上、今更、動物の血の犠牲は「退行」にしかならず、キリストによって更新された天界の祭司制度に無益に抗うものにしかなり得ない。もはや、神は何者の血も求めることはない。(ヘブル9:25-26)


だが、ナザレのイエスをキリストと認め信じるユダヤからの人々は、キリストの預言の『山に逃れよ』との言葉に従い地上のエルサレムを見切って「山地」デカポリス地方に避難した記録があり、この神殿と律法体制の処断の「火」を免れている。(マタイ24:16)

そうしてユダヤ体制への神の決定的断罪と絶縁から逃れ出、その以前に「小麦」として「蔵」に納められるべきものとされていたのであった。(マタイ3:12)

穀粒と籾殻の違いには、まことに大きな差があるもので、エレミヤ書で神は『夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうか』と言われる。(エレミヤ23:28)
真実と偽りの預言者ほどに異なると言われているのである。


そして、その聖霊降下の始まった時期にはユダヤの体制の終わりが近付いていた。ユダヤはメシア拒絶により律法体制はその契約の辿り着くべき目標を見失ってしまった。それは聖霊の降るときに『日は暗く、月は血に変る』というヨエルの陰鬱な言葉に相当するであろう。(ヨエル2:30-31/使徒2:17-21)


しかし、その中からでもヨエルの言うように『シオンの山とエルサレムとに、逃れる者があるからである。その残った者のうちに、YHWH*のお召しになる者がある』。(ヨエル2:32)*発音不明の神の御名


この人々が前記の『聖霊と火』の「聖霊」でバプテスマを受けたユダヤの人々である。一方で『火のバプテスマ』を受けたユダヤの体制は、キリストが『三年世話をしても実を付けないイチジクの木』であり、イエスを通して示された「父の業」即ち聖霊による奇跡を三年半のキリストの公生涯のあいだに見ても、ユダヤ体制の全体がキリストに信仰を示して聖霊を受け『聖なる国民、祭司の王国』となることは遂になかった。(ルカ13:6-9/マタイ21:19)

もし、律法契約が『聖なる民』という目的に達していたなら、『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった』とも『神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言された。年を経て古びたものは、間もなく消えうせる』ともヘブル書筆者は言わなかったに違いない。(ヘブライ8:7・13)


律法に固執し続けた血統のイスラエルは、イエスをメシアとして認めなかったために『諸国民の光』となって『地のすべての民のすべてに祝福』をもたらすというアブラハムの相続財産を、体制としてまったく逸したのである。(創世記18:18)


やはり、ルカ福音書はユダヤ体制の滅びの原因をメシア拒絶に特定しており、『敵がおまえの周囲に柵を作り、攻囲して四方を閉じ込んでしまう日がやがてくる』というイエスの言葉を記している。それがキリスト後に現実の惨禍となったことをまさしく目撃したヨセフスがユダヤ戦記に詳細に述べている。(ルカ19:43)


そのルカ書にもマタイと同様に、メシアは『手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。』 とのバプテストの言葉を伝えているのであり、この「火のバプテスマ」が何を指すかは動かし難いことである。(マタイ3:12)


バプテストのヨハネの語った『その方は聖霊と火とによって、お前たちにバプテスマをお授けになる』というのが、本物の滅びの火ではなく聖霊が 火のように下ったことを表していると教えられる教会や宗派が多いのは承知している。

だが、バプテストの、聖霊か滅びかの予告と、あの五旬節の朝に『舌のようなものが、炎のように分れて現れた』という聖霊の降下の姿とを混同するなら、バプテストの語った当時の背景とユダヤへの意図を無視しなければならない。即ち、「そうではない」と言うなら、マタイやルカなどの新約聖書の筆者らの意図を無視しなければならなくなるではないか。

 

聖霊が火であったのは、あのペンテコステの日の百二十人以外には聖書に『炎ような』との記載はほかに無いのであり、『霊の火を絶やすな』というパウロは、『聖霊を嘆かせるころとのないように』とも訓戒しており、聖徒らに注がれた聖霊に相応しく行動することを促す言葉と捉えるのが自然といえよう。聖霊はむしろ『風』や『息』として描かれることがほとんどである。(テサロニケ第一5:19/エフェソス4:30/ヨハネ3:6-8/20:22)


マタイやルカにある「聖霊と火と」をペンテコステの『炎のような舌』と混同してしまえば、その「ただ、ありがたいばかりの教え」は、バプテストによるユダヤ人への重い警告という意義を欠くことになる。それは多くの「クリスチャン」方に在りがちな皮相的なご利益信仰というべきであろう。

(それでも「その方が良い」と思われる向きは、それが個人の倫理的決断であろう)


このバプテストの言葉によって、当時にユダヤ人らにはメシアの成し遂げる優れた祝福と、恐るべき裁きとをそのメシアを紹介するに当たり激しい言葉で強く警告されていたのであるが、大半のユダヤ人はイエスを退け、その後も体制としては真実なメシア信仰を欠いて、イエスの仲介する『新しい契約』への道に入ることなく、ユダヤは聖霊を受けた一民族『聖なる国民』『神のイスラエル』となるにも及ばなかったのである。(ガラテア3:24/6:16)


使徒ヨハネはこう書いている。

『神を信じない者は神を偽り者としているのだ。神が御子について証しされたのにそれを信じないからである。』(ヨハネ第一5:10)


つまり、メシアであるイエスに信仰を置かなかった当時のユダヤ体制は、モーセの律法順守による救いに固執し、旧約聖書を暗記してさえいながら、遂に救われなかったのであるが、その原因は、救いというものが、知識ではなく価値観を働かせ、現れたメシアに信仰を持つことであるとは理解しなかったからである。(ローマ9:32)


しかし、ヨエルの預言は、イスラエルの末孫に神の霊が注がれることだけではなく、『その日わたしは、わが霊を下僕ら下女らにも注ぐ。』とも付け加えていたが、それは、ユダヤの家の者ではない異邦人によく当てはまる。(ヨエル2:29)


そこで、キリストは地上に残った使徒らやパウロらを用いて、真実に選ばれた聖なる民、『神のイスラエル』の一員となる選びを、イスラエル民族だけでなく、聖霊降下を通してメシアへの信仰を働かせた異邦諸国民へと広げてゆくのであった。(ガラテア6:16)


主イエスはこれについて、ユダヤ人ではない『多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりする』と言われる。(マタイ8:11)


また、復活の後の世界宣教を弟子らに命じるに当たっては『地の絶え果てるところまでが、わたしの証人となるであろう』とも言われたのである。(マタイ8:11-12 /使徒1:8)


そして、パウロはこの異邦人による流入を「接木」に例えている。(ローマ11章)

つまり、これらキリストの使徒らによる活動も、彼らの主の活動に同じく『神のイスラエル』である信仰深いアブラハムの内面の子孫を召し出すための諸国民への宣教であったのだ。(ガラテア6:16)


歴史に残された様々な資料は、奇跡の「聖霊の賜物」を持った諸国の人々が居たことを教えているが、アウグスティヌスの頃にはとうに過ぎ去った過去のことになっていた。その人々は「聖人」と呼ばれて今日に伝えられ、カトリックの伝承の中に、奇跡を行い殉教したという人々として痕跡を残している。


いや、この点で言えば、第三世紀のオリゲネスですら、聖霊を持つ人々を過去のものとして語っており、西暦第二世紀中頃までについて語る資料だけが、この格別の「賜物」を有する人々について告げるのである。




-◆聖霊を受ける者の現れを待つ-----------



そして今日、初期の人々のような姿で「聖霊のバプテスマ」を受けた人を筆者はやはり見ていない。

初期の奇跡を行う聖なる者らの痕跡であるカトリックの「聖人」、即ち、複数の奇跡を行い、その多くが殉教者であったこの人々が、自分の人生の導きや益を専らに求めるご利益信仰者であったと言えるだろうか?


そしてその奇跡の『賜物』はトランス状態に陥るものでなく理性的であり、自らの意識を保持し、霊の働きを制御できたことをコリント前書は描き出し、『神は無秩序ではない』ゆえに一人一人が順に話すよう訓戒している。(コリント第一14:26-33)

しかも、その聖霊の語らせる内容は、終末に於いて人類に重大論争が生じるようなものである以上、明確に理解されるべき音信が語られるに違いない。

即ち、その聖霊の発言は福音書が述べるように世の支配権に関わるもので、為政者との対立を生じさせるというのである。(マタイ10:17-)


だが、世界にそのように明白なものを未だ聞いていない。

聖霊を注がれる彼らはそこで聖霊によって語るのだが、宗教家ではなく政治家の前に立つからには、彼らの音信には『神の王国』の支配に関わる内容が込められるのであろう。(ルカ21:15)*(マルコ13:9-11/マタイ10:16-19などを参照、宗教的対立ではないようだ)



では、将来再び『聖霊か火か』のバプテスマを受ける人々が現れるだろうか?

つまり、キリスト教界が古代のユダヤの体制のように、「聖霊」か、あるいは「火」かの洗礼を浴びる日が来るのだろうか?そうかもしれない。いや、そのようになるのであろう。(マラキ4:1-/ヨハネ3:10/マタイ13:24-)


いずれにしても、聖書を読む限りはまず「聖霊」でバプテスマを受ける人々が現れなくてはならないが、そうして聖徒となることは神の選びであって人間の働きかけるところではない。それゆえ、初代からキリスト教徒の集まりが「エクレシア」(召しだされた者たち)と呼ばれたように、その集まる人々のほとんどが聖霊を有する『神の召しに与る人々』で構成されていたが、将来にもそのようになるのだろうか。(コリント第一14章)


聖書での呼称「エクレシア」(招し出されたもの)は、ローマ帝国の国教となった頃から「キュリアコン」(主のもの)を語源とする別名「教会」(キエザ、キルヒェ、チャーチ等)と呼ばれるようになっていったが、それは所謂「聖人」が過去のものとなり、もはや召された者たちのいない信徒だけの集団には相応しい名称であったと言えるかもしれない。(使徒2:38/ヨハネ第二1)


しかも、将来に起こる「それ」は、初めて「聖霊のバプテスマ」が弟子らに行われたあのペンテコステの日に、ユダヤ人たち対してその奇跡が『大風の轟音』によって広く明らかにされたように、個人のご利益信仰に属するような単なる個人の心理作用でないに違いない。


神はそれに加えて彼らの上に『火の舌』を一人ずつに置いて証しを立てたのであり、これは彼らの発言の内容と共に、『葡萄酒に酔っている』と反論する者らにも説明の付かない印となったに違いない。(使徒2:15-)

だからと言って今日の我々が、この火の印と火のバプテスマを取り違えるべきでないし、そうするなら聖書理解はほとんど諦めねばならない。これはキリスト教にとって基礎的な事ではないだろうか?

それまでひっそりと二階の部屋に隠棲していた弟子らは『聖霊によって力を受け』強力な宣教へと世界に足を踏み出したのであるから、聖霊は「神の威力」というべきものである。(使徒1:8)

まして、今日の「聖霊によるキリストの内住」などは、キリストが王権領受の旅に出立し、聖霊を通した「監臨」を終えた西暦第二世紀の半ば以降、聖霊の賜物が地上を去った為にキリスト教界が案出した実体の無い、「自分の人生イエスさまといっしょ」というような少女趣味的で大志なく脆弱な信徒に植え付けられた「ご利益信仰の思い込み」か「異教や悪霊の影響」であろう。

もっとも、今日までこのようなアニミズム的な聖霊信仰が「正統信仰」とされているのは嘆かわしいことではあるが、それも神不在の今は容認されるところであり、その教義についてだけは、今後も終末まで長らえるのであろう。(ヨハネ9:4/ルカ19:12)


だが、それは「自分に神は何をしてくれるのか」を求めるという利己心に基づく「信仰」であって、キリストや使徒、また初期の弟子らのような無私の精紳とは逆のものである。教会一般の教えるご利益は、個人の人生を幸福にしてくれて、自分が天国に召されることを夢見るというレベルの「キリスト教」である。(コリント第二5:15)


聖霊のバプテスマが自分にも行われたと思い込むのは自由だが、それが本来人に求めるものは、ご利益とは正反対の自己犠牲であり、聖霊を受けることは初期の弟子らのように、むしろ世の矢面に立つことであるからして、そのような迫害に至れば、「自分には聖霊などは無い」と本当のことを叫ぶようなことになるのであろうか。(ゼカリヤ13:3)


本稿の内容が、教会員に受け入れ難いことは承知している。

そこは筆者が教会生活を離れ去り、もともとキリスト教世界に属さない日本という自由な土壌でキリスト教の研究を進めたという背景あってはじめてこの観点に立ったものと思える。

あるいは、もし、閲覧の方からこのような「信者だけの救い」ではないキリスト教理解に賛意を頂戴できるなら幸いである。

やはり聖書中を見るなら、「聖霊の賜物」とは、神がその御力をもって御子イエスに証しを与え続けたように、公に対する明瞭な神の威力の堂々たる表明なのである。(ヨハネ5:36/ヨハネ第一5:10)


聖霊とは、それを見る他者の信仰をさえ惹起するもの、つまり自己欺瞞的で不鮮明なものでなく、反対者に対しては勿論、人類全体に対して神からのものであることが極めて明確な形で将来も示されなくてはならず、また、実際にそのようになるであろう。(マタイ10:17-20/マルコ13:9-10)

その将来、もし我々が「聖徒」(聖霊を受ける者)たちの現れと、彼らを通して「聖霊」の声を聞くときには、けっして心を頑なにするようなことをしてはなるまい。(ローマ2:5/ヘブル4:7)

ヘブル書が警告するように『語っている方を拒んではならない』。それは人による発言ではないとされている。そのとき、宗教界が聖霊の声に心を向けないなら、殊に宗教指導者が自分の正当さに固執すれば、神からの発言に色を失い、却って聖霊に逆らうことになるのではないか。(ヘブル3:14-15)⇒「聖徒 聖霊の指し示す者たち」


聖霊によるその発言は、為政者との対峙*によって「神か人かの」究極の論争に発展するであろう。これは共観福音書が揃ってイエスの言葉として預言するところであり、後の時代に弟子らは王や高官の前に引き出され、そのとき聖霊は彼らに『彼らが束になっても反駁できない言葉を語らせる』(ルカ21:15)。

それゆえ『何を話そうかと、気を揉む必要』(マルコ13:11)も『前もって練習しなくてよい』(ルカ21:14)と再三記している通りである。


これが『王の王、主の主』による「人類の裁き」に連なる「エデンの問い」に発展し、世界は聖霊の声に従うか否かの二択を迫られるであろう。(マタイ10:18)

キリストは『雲と共に来る』ので、人類はキリストを直接には見ず、聖霊の声を代弁する『聖なる者たち』の発言に信仰を働かせるか否かが、人類を分かつものとなる。『聖霊は裁きについて』『世に証拠を提出する』ことになることが知らされているように、イエス御自らが地上に姿を現すのが再臨であれば、「裁き」とは何と外面的で単純で幼稚なものであろう。(ヨハネ16:8)



それが聖徒たちという人間「土の器」を通すものであっても、聖霊が語らせる以上、それは論駁不能な神の義の顕現であり、その時までに、いかなる人間の義(宗派や党派)をも放棄すべきではなかろうか。『聖霊』が語るときに人間の作った宗派や党派などに何の意味があるのだろうか?(エゼキエル33:13/アモス3:8)


キリスト教徒のひとりであれば、自分が聖霊を受けた『聖徒』でなくとも何ら落胆する必要はない。むしろ、『聖徒ら』の天の祭司職による『贖罪』の益に与り、ついに『神の子』となって地上の千年王国で永生に至るべき『信徒』(ピストス)となり得るからである。


それこそは、神が 『あなたの子孫によって地のすべての国民は自らを祝福する』と、いにしえ創世記に繰り返し示された、あのアブラハムへの約束の成就を迎えることではないか。そこには神に倣う公共善と利他性の大志があり、まさしくキリスト教とはそのようなものであろう。(創世記12:3/18:18/22:18/26:4/コリント第二5:15)


必ずや神の悠久の歩みは、その目的を違えることなく、まったく成就することになるであろう。






 © 2011  林 義平

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 ⇒ 火のバプテスマに焼かれるユダヤ

 ⇒ 原始キリスト教と「キリスト教」の違い

 ⇒ キリスト教の救いとはご利益か    




「聖徒」 聖霊が指し示す者たち



◆「諸国民の光」となる「聖なる民」

聖書中に度々現れる「聖徒」(「聖なる者」)とは何だろうか? それは「信徒」を表すもうひとつの名に過ぎないのではないか?

では、「信じる者」(ピストス)と「聖なる者」(ハギオス)を書き分ける理由が何かあったろうか? 旧約では、イスラエル=ユダヤの民はその神に倣い「聖なる者」であるよう求められた。律法の条項を守ることにより、彼らは「聖なる者」とされるはずであった。(出埃19:1-)

イスラエル民族は、アブラハムに約束された格別な民である。 聖書では早くも創世記からこれが示されており、神はアブラハムに『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである』と語られていたのである。(創世記22:18)

また、後にはモーセによって示された『祭司の王国、聖なる国民』、更にイザヤの預言した『諸国民の光』となるべき選民であった。(出埃19:5-6/イザヤ42:6)

しかし、イスラエル民族は神の前に、その律法を踏み外すばかりでなく、捕囚を解かれてなお、遂にはメシア=キリストを刑死にまで追い込んだのである。 では、『聖なる民』出現の希望は一度は選ばれたはずの民族の不行跡によって全く潰えてしまったのだろうか?(エレミヤ11:10/マタイ21:43)

もしそうなら、神の全能性、その「成し遂げる」という宣言もアブラハムへの約束も空しいものとなったであろう。 だが、聖書が旧約から新約へと進むに従い、神の全能性は『聖なる民』を出現させるに於いて、イスラエルの無能さをも補って余りあるものとなった。

というのも、律法不履行の罪あるイスラエルに対し、神はバプテストを遣わしてこの民に『悔い改め』を宣布させ、次いで遣わされたメシア、ナザレのイエスの死は、その尊い犠牲のゆえにこそ、地上に残った弟子らを仮贖罪し、遂に『約束の聖霊』を以って遂に『アブラハムの裔』、キリストの『兄弟』たる『神の子』を出現せしめたのである。(ヘブライ2:11/コロサイ1:12/ローマ8:14)

この件については、ローマ人書簡の第八章が、彼ら『聖なる者ら』の立場が如何に高いかを知らしめるものとなっている。またペテロ第一書簡も、モーセの律法契約が成し遂げるに至らなかった目的がキリストによって達成されたことを証しするものとなっている。

しかし、メシアの到来にあってさえもイスラエルの体制は、奇跡を行う人ナザレのイエスを退けるまでの不信仰を露わにしたため、結果的に『聖なる民』はユダヤ人以外から補充され、アブラハムの血統に属さなくても、アブラハムらしい特質であるその信仰に倣う者らが、そのメシア信仰のゆえにこそ選民とされ、その子孫に連なった。パウロはこれを『接木』に例えてもいる。(ペテロ第一2:10/ローマ11章)

だが、神の承認のないままに異邦人の誰でもが、自分の意のままにアブラハムの子孫たる『諸国民の光』、『聖なる者』に成ることが出来ただろうか? 多くのキリスト教徒は信仰ある自分たちが皆『世の光』であると考え、聖霊を受けてキリストが自分の中に住まうと考えている。

もし、キリスト教徒がそのようなものなら、『聖なる者』には客観的印無く、人目に曖昧なものとなり、「聖徒」であれ「信徒」であれ、どちらでもよいようにされるに違いなく、実際、現状のキリスト教界ではそのようである。

しかし、使徒言行録以降の新約の内容は『聖なる者』が何を意味し、どう選ばれたかが繰り返し記されている。 また、最後の晩餐の夜のキリストの使徒らへの言葉には、自身の去った後の聖霊の働きと彼らの関わりが説かれている。それらの言葉はヨハネ福音書の第13章以降の五つの章にわたって記されるところであり、聖霊が如何に多くの役割を担っているかが明かされている。 この「聖なる者」についての理解は、キリストの言葉と相まって、「アブラハムへの約束」という旧約からの流れの中で知ることのできるものであり、神の長い時代に亘る計画(経綸)に深く関わるものである。

結論から言えば、「聖なる者」らこそが創世記でアブラハムの子孫にもたらされると約束された格別な役割、即ち「地上のすべての家族が自らを祝福する」ための器となる者たちなのである。(創世記18:18/22:18) 神は特別な民を『子羊の血』で買い取り、その所有に帰する特別な民を用いて人類の全体を祝福に入らせようと意図された。それをエデンの園以来、悠久の時に亘り、その実現に向けて歩みを進めて来られたのであり、実に聖書はその神の足跡の記録証拠となっている。

そして、キリストの犠牲により『アブラハムの裔』は、あのペンテコステの日に史上初めて生み出され始めたのであった。(ペテロ第一3:6/エフェソス1:13-14) それは単に、キリストが自分の中に住まい、信者に幸福をもたらすというような「ご利益信仰」、どこにでもあるような凡庸な宗教とはこの点に於いてはっきりと異なっている。それはキリスト的利他心と、御利益を望む利己心程にかけ離れたものではないか。(コリント第二5:15)

即ち、エデンで失われた人類への創造者からの祝福を、生者にも死者にも回復させるための神の用いる真実のアブラハムの子孫である民『神のイスラエル』とは、水と霊によって生み出される者らでなくてはならない。即ちペテロが指摘するように「正妻サラの子ら」である。(ヨハネ3:5/ガラテア4:21-/ペテロ第一3:6)

彼ら「聖なる者」こそが、そのアブラハムへの約束に預かって、世界にキリストと共に人類支配と贖罪をもたらし、今日まで見られる世の「罪」と苦難を終わらせるための「王また祭司たち」である。つまり、「王」は支配を、「祭司」は人類の罪を除き去る贖罪の奉仕を意味しており、それを成し遂げるのが『神の王国』、真実の選民イスラエルである。(黙示録20:6)

今日まで、人類はこの「神の選民イスラエル」から益を受ける前段階にあり、特に誰かが優れて神の是認を受けているわけではない。つまり『イスラエル』の民は未だ天に集められず、『神の王国』も地に到来していないからに他ならない。その召集も到来も、なお不定の将来であることをキリストは語られている。(マタイ24:36/使徒1:7)

その民を構成する『聖なる者』、すなわち『聖徒』とは全人類を益するための器として用いられる人々を表すのであって、主に倣う聖徒には、その高い立場のゆえ、また神との『新しい契約』を守るための、生涯に亘る忠節の実証と、殉教をも辞さないキリストに続く自己犠牲の覚悟が求められるのである。(マタイ10:17-18.32-42) では、すべてのキリストの弟子がそのようにされたのだろうか。


◆天でキリストと共になる民

まず、いくつかの聖書の言葉をみてみよう。 『聖なる者』とは古代にモーセに啓示され、それを使徒ペテロがキリストの信徒の中の人々に適用し、誰であるかを指し示した特定のキリスト教徒たちのことである。 モーセを介して、神はイスラエルに差し伸べられた希望をこう伝える。 『あなたがたが本当に契約を守るなら、あなたがたはわたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる』(出埃19:6)

即ち、『祭司の王国、聖なる国民となる』ことが律法契約の行き着く先であった。 しかし、血統上のイスラエルがメシアを退け、まったく神の契約から外されたことは、西暦七十年の滅びと再建されることの無い神殿の有様に象徴される通りである。

それでも、ペテロは当時のキリスト教徒に向かってこう云っている。 『あなたがたは「選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の特別な所有に帰する民』・・(ペテロ第一2:9) ここにモーセの律法契約の目標である『諸国民の光』となる民が、血統によらない人々、『新しい契約』に属するキリスト後の弟子らの中に現れたことを知ることができる。

更に、彼らが神の所有となるために、最終的に天に召されることを以下の句が明かしている。

「彼(キリスト)が現されるときに、わたしたちも彼のようになり、彼をあるがままに見ることになるのを知っている」(ヨハネ第一3:2)

「わたしたちは彼(キリスト)の復活と似た様で彼と結ばれる」(ローマ6:5)

「わたしたちは塵で作られた様であったように、天のものである様になる」(コリント第一15:49)

「神はあらかじめ、最初に是認した者らをみ子の象りのものとするように定めておられた」(ローマ8:29)

「聖なる兄弟たち、天の召しに預かる人たちよ」(ヘブライ3:1)

「あなた方は近付いた、シオンの山、生ける神の都市なる天のエルサレム、幾万もの天使たち、・・天に登録された初子たちの集まり・・に」(ヘブライ12:22-)

「ダヴィデの家はYHWH*の前の天使のようになる」*<発音不明の神名>(ゼカリヤ12:8)

これらの聖句は、その人々が肉体を離れキリストと同じ様、つまり霊の体をまとってキリストと共になることを述べている。 キリスト教徒が、これを信者のすべてについてこのように霊者となる所謂「天国」を思い描いたとしても無理はなかったのかもしれない。

だが、すべての信徒に関してこれらが適用されて、信仰を抱いた人は皆、安楽な天に集めるのが神の企図なのだろうか。

もし、そうなら、何故に創造の神は地上に人を置いて『甚だ佳かりき』と言い得たのか。 しかも、そのキリスト教の天国への「救い」たるや、信者だけを益する閉鎖的で狭量なものとしてしまい、キリストの教えは信じる者に利己心を培わせるご利益信仰にしかならない。

信者だけの救いは、キリスト教とは神がアブラハムを通して人類全体に与えようとする祝福を独占しようとする貪欲でもあろうし、神を狭量だと宣していることにもなってしまう。そのうえ、キリスト・イエスの示した見事な自己犠牲の精神は「クリスチャン」方のために限定されてしまい、利他心は利己心に捻じ曲げられている。そこにどのようにキリストが感化を与えているのだろうか?


◆アブラハムの子孫である民

もちろん、このように天でキリストと共にされる人々にはそれなりの目的があり務めがあり、それはキリスト教徒の間で信じられている所謂、死後の「天国の至福」という終着段階ではない。
神がキリストの犠牲を以って特定の人々を地上から買い取ったからには、やはり特定の目的あってのことである。(使徒20:28)
即ち、キリストや使徒らの宣教活動は、単に信者を集めていたのではなく、『アブラハムの裔』をキリストの許へと一つに集め出していたのである。彼らこそが『神の王国』を構成し、全人類の祝福をもたらすためであったのだ。

天に行く者たちは、そこでキリストと共にどんな人にも出来ることのない壮大な業に取り掛かるのであり、それは結論から言えば地上に残る人類の罪を除く、即ち「贖罪」であり、また、その間の地上の支配という神と人への壮大な奉仕である。そこに個人の救いや安楽がどうのというのは、まるで場違いである。(ローマ6:3-5)

それゆえ、天に行く者たちは「贖罪」を行う「祭司」の職を、また支配を行う「王」の身分を受けることになる。まさしくモーセと後代のパウロが『あなたがたは王なる祭司、聖なる国民』と契約に入る者らに語ったことは、この神の人類救済を成し遂げる器が『聖なる者ら』であることを示しているのである。 すべての者が祭司や王でないように、その職を授かるのは特定の「聖霊」を地上で注がれ『新しい契約』に入った者らだけとなる。

黙示録20章6節はこう言っている。 『第一の復活に預かる者は幸いな者であり、聖なる者である。・・彼らは神とキリストの祭司となり千年の間キリストと共に王となって支配する』。

この辺りが理解されないと、キリスト教の目的がはっきりとせず、「聖なる者」についてばかりでなく、キリストが多くの例えを用いて語った「神の王国」や「聖霊」に関することも曖昧になってしまう。

今日多くのキリスト教宗派においては、信じれば「聖霊」を受け、自分の中にキリストが宿るようになると教えられている。それがその人を導くというだけのことであれば、創造の神が被造物のすべてをひとつに集め、創造された通りの輝かしい様に回復されるという、聖書に流れる偉大な意志には無頓着になるであろう。つまり、自分と身近な者が救われることを願うからである。(エフェソス1:10)

こうした「ご利益信仰」がキリスト教の「正統」を名乗っている現実は真に嘆かわしいことである。 例えれば、使徒2章38節の『バプテスマを受ければ無償で聖霊を受ける』などの言葉を前後事情も考慮無く、そのまま字面を教えられるようなこともあるのだろう。

しかし、そこでは何故、聖霊を受けたのかの理解が聖書全体を貫流する重要な問題と幾らも関連されない。 ペテロがペンテコステの日に、神との契約にあるユダヤ人に述べた言葉が、どうして自分に向けて語られているなどと捉えてよいだろうか?
彼はこれを語った人々について『 あなたがたは預言者の子であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子である』と言っているのである。

彼らイスラエルの民に約束されたメシアは今や現れていたのであり、この契約の民に属する者らが悔い改めて「新しい契約」へと転向することを、水のバプテスマで示すことにより、『主のみ前から慰め(回復)の時がきて、あなたがたのために予め定められたキリスト・イエスを、神が(聖霊を通して)遣わして下さる』とペテロは云うのである。

 この使徒筆頭が率先して語った宣告は、そこに集まってきたユダヤ人という神の契約に預かる立場の人々に言い広めたのであり、それはイエスという方こそが待望のメシアであったことを告げ知らせ、この方を退けてしまったユダヤ人一般の罪を悔い、そこから転向してイエスの水のバプテスマを受けることによって、聖霊によってメシアが彼らに遣わされることを指して言っていたのである。

であるから、弟子らだけに授けられ、『世が受けることができず、真理の全体を教える』と約束された聖霊が、単に個人の中でキリストを住み込みのコンパニオンのようにする為にあると云うのであれば、それは何と神らしくない少女趣味、また矮小さであろう。
いや、むしろ単なるキリストの内在を遥かに超える意味が「約束の聖霊」にあることは見過ごされるべきではないに違いない。(使徒2:32/ヨハネ14:26)

古来イスラエルにおいて、実際に香油を注がれる事が役職への「任命を受ける」を意味したように、後のキリスト以降の時代では、聖霊を以って油注がれる事、つまりより高次の「聖霊の注ぎ」はキリストと共になる王また祭司の一員としての「任命」を受けることを意味した。(レヴィ16:32/コリント第二5:5)

イスラエルの民にあっても、そのすべてが祭司ではなかったのであり、民のほとんどは、常に祭司たちから贖罪の儀式を受ける必要があったのである。 後のキリスト教徒たちの中にあっても、「聖なる者」あるいは「聖徒」(ハギオス)と呼ばれる者たちは、キリストと同じ体(霊体)をまとうことを象徴するパンを食して永生に入ることを表し、また人類に先立って「罪」(原罪)を許される象徴として聖餐のぶどう酒を飲み、キリストに近い者となって「新しい契約」に参与する限られた人数の人々である。(民数記3:12.13/ローマ8:23)

ゆえに、キリストの肉と血に預かることが、どれほどアブラハムへの約束を相続することになるかが如何にも明らかである。  これを諸教会では、誰にでも与えようとするところで、ぶどう酒が当然アルコールを含むので、幼児やアルコール中毒の信者に供することが憚られ、ぶどうジュースに入れ替えたり、果てはぶどう酒を省略する「一種陪餐」という不条理の横行をキリスト教界は赦してきたのであり、それが正統を唱える教会の実態となってきた。

しかし、この「聖霊の賜物」が、それ以前に働いたあらゆる聖霊よりも高い次元にあることは、キリストが犠牲の死を遂げる前には、『まだ、霊はなく、それはキリストが栄光を受ける前だったからである』とヨハネ福音書に語られているように、それまでには存在していなかったような格別な「霊」の在り方であったのだ。(ヨハネ7:39)

「聖霊の賜物」はそれを有する者に、恰もキリストのような業の一端に預からせ、同時にそれが彼らの身分を証しするものとなった。(エフェソス1:13-14) それはまた、キリストの犠牲によって初めて彼らが神の前に贖われ、罪の無い状態にあると「看做されて」下賜されたものであって、イエス自身も云われた『世が受けることのできないもの』という言葉にもその異例さが表されている。(ヨハネ7:39/ローマ8:1/ヨハネ14:16-17)


◆選びの実証

もちろん、超自然の賜物の下賜は人間のエントリーできるところではない。それゆえにも、聖徒への招命は間違いのない明確な印を伴い、他人に分からないような心理作用でもなく、公に明示されるものであって、けっして個人の内密に属する事柄ではなかったのである。パウロは聖霊の賜物の現れを『霊の顕現(ファネローシス)』と呼んでいる。それは即ち、誰にでも分かる明瞭なものであった。(コリント第一12:7)

もし、この賜物の有無が曖昧なものであれば、その貴重さも価値も危ういものとなるばかりか、偽者の横行を妨ぎ得ない。 それゆえ、人からではなく、神から任命された証拠を持つ人々こそが、アブラハムの子孫、真のイスラエルであり、モーセの契約の先に示された「王なる祭司」の「聖なる国民」であった。(出エジプト19:6)

パウロが時折「我々は王として治める」と述べる背景はこれである。それは、けっして信者の中の種類というような単純な違いではない。彼らの立場は格別な高次のもの、つまりキリストと共になる『兄弟』また『花嫁』である。 それゆえ、彼らも主と共に神を父として『アッバ』と呼びかけることができるのである。(コリント第一4:8/テモテ第二2:12・ローマ8:15-16)

本来は血統上のイスラエル民族に、メシア=キリストと共に諸国を治める「王なる祭司」の一員となる機会が開かれていたが、それは遠く古代のアブラハムに神が約束した民族の特権であったから「アブラハムの相続財産」とも呼ばれた。(ここに選民思想の根拠があった) 実にキリストの宣教の目的は、この「アブラハムの裔」を召し出すことであり、それは使徒をはじめとする初期キリスト教徒の宣教もまたその目的を有していたのである。(ヨハネ11:52/ヘブライ2:16)

しかし、イスラエル=ユダヤは民族全体としては現れたイエスを退け、ユダヤ人の中でイエスをキリストと見做したのは幾らかの「残りの」人々だけであった。(ローマ9:27)
そこで、神は血統上のイスラエルだけではなく、イエスをキリストとして受け入れた信仰のゆえに真の意味で「イスラエル」と呼ぶに相応しい諸国の人々を選んで、キリストを迎えた血統上のイスラエル人に加えたのであった。(ローマ9:24-・11:17-/エフェソス3:6)

イエスはこの事を予告して、こう語っていた。 『多くの人が東から西から来ると、アブラハム、イサク、ヤコブと共に天の王国で宴席に就くが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』 (マタイ8:11-12)
こうして、血統に関わらずキリストと天で共になる真の意味でのイスラエル、即ち「神のイスラエル」に任命を受けた人々が、アブラハムの正式な子孫の民に迎えられたので、その中では、血統上のイスラエルからの者らと異邦人から選ばれた人々によって構成されるようになったのである。パウロはそれを指して『ふたつの民』と呼んでいる。(ガラテア6:15-16/エフェソス2:14-15)⇒「去ってなお弟子を指導したキリスト 「羊の囲い」の例え」

彼らの働きは、王また祭司としてキリストと共に人類を治め贖罪を行うことにあるが、血統上のイスラエル人の目的が「諸国民の光」となることであるとされてきたように、彼らこそが世界にキリストの支配をもたらして、今日まで見られる世の苦難を終わらせる「王また祭司」となる。 キリストがユダヤ人に向かって『あなたがたは世の光』と言ったのには、この背景あってのことであり、「クリスチャン」が皆「世の光」だと言えば、それは大きな間違いである。(黙示録20:4/マタイ5:14)

おおよそ聖書というものは、アブラハムの子孫について書かれ、彼らに向けて語られたものであって、そこに『あなたがた』とあるのを自分だと思うなら、それは傲慢というほかない。 我々は、神と選民である「アブラハムの子孫」との交渉の記録から、神の悠久の御意志の如何を学ぶのであり、聖書は人生の指南書でもなく、個人の救いを求めるべきものでもない。 むしろ『生きる者が、もはや自分のために生きず、死んで生き返った方のために生きる』というのが、その精神、即ち利他的に生きるべきことを教えるのが聖書であって、ご利益信仰の余地はそこにない。(コリント第二5:15)

さて、キリスト刑死の後に聖霊の油注ぎを受け(使徒2章)、任命された聖徒らではあるが、それは確定されたものではない、彼らが集め出されるのはいまなお将来のことであり、その認証がなされるのは世の終わりに際してである。(黙示録7:3) このように、任命を受けてもしばらくは試されることはイエスの「狭い戸口を通って」(ルカ13:24)や弟子らの「終わりまでしっかりと堅く保って」(ヘブ3:6)「守り通して」(黙示2:26)という言葉に言い表されているし、古代アロンと息子らが油灌ぎを受けてから七日を「見張る」ために待たされたことにも象徴されている。(レヴィ8:33)

彼らはアブラハムに示された彼の「真の子孫」であり、地上のすべての諸部族が自らを祝福することの要となる人々である。モーセによれば、彼らは神の特別な所有に帰する、神に買取られた非常に希少な民であるゆえに、特にキリストのような自己犠牲の精神が求められるのである。(ペテロ第一2:21)

では、この「聖徒」はかつてどのように出現したのかを見てゆこう。


◆聖霊は聖徒を内定する

イエスの刑死、生き返り、それから昇天して復活の後、十日を経たシャヴオート(ペンテコステ「五旬節」)の日、以前からキリストが弟子たちに語っていた助け手(パラクレートス)である聖霊がエルサレムに留まっていた弟子ら約120名に灌ぎだされた。(使徒2:1-)

こうして、バプテストのヨハネが「その方は聖霊であなたがたにバプテスマを施すであろう。」と語っていたことが最初に実現することになった。(マタイ3:11) この人々は奇跡的に外国語で神の壮大さを話し始めたが、これ以降は聖霊を授かる人々が急速に増えてゆく。その範囲はやがてユダヤ=イスラエルの血統を越えてゆくことになる。その鍵を開けたのがペテロであった。

使徒ペテロはユダヤ人に、次いでサマリア人に対して「聖なる国民、イスラエル」に加わりイスラエルを補充する道を開いた。そしてローマ人コルネリオにも聖霊を受けるよう「鍵」を解いて、その補填はまったくの異邦人にまで広げられた。また、別の時にはこの「鍵」で閉じても見せた。(マタイ16:19/使徒10:45/使徒8:21)

確かにパウロは異邦人が聖霊に与り聖徒に加えられることについて、「イスラエルの不足を補うため」であると言っている。(ローマ11:7-11) そうして、不信仰を示したイスラエルの不足を補充するために召しだされた人々は、その血統に「接木され」、その一定数を満たすためにイスラエルの父祖アブラハムの財産を受け継ぐ相続人の一員と内定したのである。(ガラテア3:29) なぜ、決定ではなく内定かといえば、彼らは試され、地上で練り浄められ、その身分を生涯の最後まで保って初めてキリストと共なる者、聖なる者(聖徒)のひとりとしての立場を得ることになるからである。(エフェソス1:14)(ルカ13:24-)

霊の灌ぎは、その人の原罪をも仮赦免するものであるが、その理由は彼らが天に召され神の前に出るために必要不可欠であり、地上にあっても主イエスのように聖霊を受けるには、神は御前に「罪」ある肉なる者を容認されない。

そこで、イエスは自らの犠牲の益を最初に弟子たちの適用し、彼らと神との「新しい契約」を仲介することで、神の御前に於ける『義』を信用貸しされた状態に招き入れたのである。 だが、地上に居る『召された者ら』にはアダムの肉体にある以上、実際には『罪』の影響を免れてはおらず、依然として倫理上完全なる『義』には到達していない。(ガラテア5:5)

彼らには契約を保つことが期待される。つまり、主なるキリストに倣い、聖霊の証しを行い、それに命をかけることであろう。(ペテロ第一5:10/黙示録12:11)  

カトリックや正教の歴史には、初期の聖なる者の痕跡が残されており、「聖人」や「聖証者」と呼ばれ、これに列せられるには、複数回の奇跡を行ったことが条件であり、その多くは殉教者であった。

現代の学者J.ダニエルーも、こうした異言などの現象が実際に起こったものと看做している。(キリスト教史1p.26) 初代の彼らの集まり「エックレシア」(召し出された人々)は、こうした聖霊の賜物を持つ特別な人々が中心となって組織され、聖霊が集会の学ぶべき内容が備えられていた。(コリント第一14:26-33)
初代エックレシア内は、ほとんどが聖徒で構成されていたが、初心者や「普通の人」など「新しい契約」に参与しない人々が居たことを幾つかの聖句が伝えている。⇒ 「エクレシア内での信徒と聖徒」

聖霊を持たない人々は、聖徒たちの聖霊の賜物の発現による預言や知識や奇蹟などの益に預かることができたが、彼らはキリストと共に霊体に復活することにはならないので、キリストの体を受け継ぐことを表象するパンと、その契約に参与することを表象するぶどう酒を取り入れることはない。(マタイ26:26-、コリント第一11:21-)

すなわち、聖霊によって灌油された証拠の明瞭でない者は信徒ではあっても聖徒とはなり得ない。それは自他共に判然としたことであった。この賜物は古代の「先見者」のような霊の憑依状態に陥らず、自らの意識をはっきりと保持し、賜物そのものを本人が制御できるものであったことをパウロははっきりと語っている。(コリント第一14:14-15.30)

あるとき、賜物である預言が出来ると偽った者が、本物の聖徒に混じると一致したことが言えずに恥をかくこともあったと「ヘルメスの牧者」などの資料が伝えられている。 こうした、偽の「聖霊」は最後の使徒ヨハネの頃にはあちこちで出回るようになっていたようだ。「霊感の表現はみな試されねばならぬ」と言って、晩年にひとり世に残された十二使徒のヨハネは偽の霊に警戒するように強く促さねばならなかったのである。(ヨハネ第一4:1)


◆聖霊が去るとき

しかし、こうした賜物も何時かは消え去ることをパウロは示唆していた。(コリント第一13:8-)そして古代の資料はこれが二世紀半ばまで存続していたことを指し示している。 ローマのクレメンスは福音書を記した人々のことを「これらの聖徒で、真に聖なる霊を受けた者たち、すなわちキリストの使徒たちは、完全に潔い生活をし、・・(中略)彼らは自分たちと共に働く神の霊と、自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇蹟を行う力だけを使って、神の王国の知識を全世界に述べ伝えた。」*と述べている。

二世紀初頭には護教家のクワドラトゥスが、まだイエスに癒された人々が生存していると述べており、彼自身も預言の霊を持っていた。 150年ころに書かれたと思われる「イザヤの昇天」はシリア方面から預言者が見られなくなったことを嘆いており、ヘゲシッポスは「聖なる使徒たちの合唱隊がそれぞれ絶え、神的なソフィアを自分の耳で聞くことの許された世代が過ぎ去」*った後のキリスト教の混乱を書いている。*(エウセビオス「教会史」 秦 剛平訳)

それまでは、背教に曝されながらもキリスト教界はひとつの形を保つことができ、大規模な離反は起きなかったともいわれている。 パウロは聖霊が各地のエックレシアに教理を教え統一を与えていたことを述べ『神聖な奥義は、かつての世代には今のように聖なる使徒や預言者に霊によって啓示されている程には、人の子らに知らされてはおらず』ゆえに『今や、エックレシアを通して、天界の諸々の支配や権威すらもが神の多様な知恵を得るに至った』。とも言っている。(エフェソス3:5.10)

ペテロも、かつての預言者たちの語った事柄は、当時生きる聖徒のためのものであり『天から遣わされた聖霊を受けてあなたがた(弟子ら)に福音を伝えた人々を通して、今やあなたがたにも知らされている。それを天使らまでもが窺い見たいと願ってさえいる』。とも述べていた。(ペテロ第一1:12)

最後の使徒ヨハネもエフェソスにあって弟子たちを教え、地上に中心地を持たなくても、聖霊は各地の教理に均整をもたらしていた。つまり、キリストは聖霊を通して弟子たちを指導し続け、彼らの中央は天のキリストの許にあったのである。

聖徒の集まりはエックレシアと呼ばれたが、それは「召し出されたもの」を意味しており、実際、集まりのほとんどを構成していたのは聖霊を注がれた聖なる者らであった。 それは黙示録の七つのエックレシアイの間をキリストが歩み、その使いがキリスト自身の右手に把握されていることに象徴されている。当然に、そこでは弟子らを統括するためのエルサレムやヴァチカンのような地上の一点も、代理機関をも必要とはしなかったのである。(黙示録1:20/ヨハネ4:21)

しかし、この聖霊によるキリストの指導体制も終わる時がきた。やがて、聖霊は地上から徐々に引き上げられ、エックレシア内の聖徒の比率は下がってゆき、やがて聖徒は今日に至るまで絶えたのである。 そして、聖霊の降下が終了したことの明瞭な標識となるのが第二世紀後半の聖書疑典の噴出や、異なる預言の霊によるモンタニズムの台頭であったといえる理由がある。

ゆえに、聖霊はキリスト教が揺籃期を脱するまでそれを助けた、と云うことはできない。逆に聖霊降下の終了を第二世紀中葉とみれば、その現実は明らかな混乱と背教の始まりであった。 聖徒たちを失った後のエックレシアは、当然に信徒だけとなり、キリストは「王権を得る為に」旅立って不在となり、キリスト教界への監督は中断されている。

その後のキリスト教はユダヤからまったく離れ、ギリシア人やローマ人などの異邦人によって操られ迷走を始めたとしても不思議はない。聖霊が引き上げられ、ひとたび去ったからである。 ラテン語まで用いられてきた「エックレシア」の名に価しなくなった信徒ばかりの集まりは、やがて中世の間に「主のもの」を意味する「キュリアコン」に由来する「教会」(古英語[cirice])という言葉に置き換えられてゆく。⇒「なぜ教会と呼ばれるか」

その後は信徒も聖徒も曖昧となり、聖書が専ら聖徒に向けて書かれていることもあって、その事情を解さない後代の「クリスチャン」の思いのなかでは、聖書は万人に向けて書かれたことになってしまい、「あなた」と呼びかけられているところは自分にむけた言葉と誰もが思い込み、皆が天にゆくと誤解され始め、或いは、人々に聖霊は今も宿っていると教え始められたのである。

キリスト教徒は、聖書中でわずか三回だけ言及され、しかも外部からの呼称である「クリスチャン」(クリスティアノイ)で自分たちを専ら称するようになると、本来聖書中で多用されている「聖なる者」や「信じる者」の名称を用いなくなってゆく。つまり、「聖徒」が去ったので、その区別の必要が実質的に無くなってしまったのであろう。

そうして皆が只の「クリスチャン」となってしまった。 だからと言って、その「クリスチャン」に「地上のすべての家族が自らを祝福する」ための器となる気概などあるだろうか?ほとんどは、自分の救いに関心を持つだけのご利益信仰者と成り果ててはいないだろうか。


◆聖徒の再来

しかし、キリストの戻られるときこそ再び聖霊が注がれ、「聖なる者」が現れるとき、「聖徒」は非常に大きな意義を持つに違いない。 それは、聖徒たちが為政者と対峙してキリストの代弁者となるときである。 その論争にあって、「新しい契約」は当事者である聖徒らに、もう一方の契約当事者である神の名をはっきりと知らせるであろう。(詩篇22:22/102:21)⇒「シェム ハ メフォラーシュ」

それこそは人類に忘れられた神の名の再出現となり、聖徒たちはその御名の真実の証人、『御名のための民』となるであろう。彼らは対峙することになる為政者らばかりでなく、全世界の民に広く主イエスの帰還を告知し、神の御名を前面に高く掲げなくてはならない。それこそが終末における世界宣教となり、それは『霊と力の論証』によるものとなり『誰も反駁できないもの』となるという。(マタイ10:16-18/コリント第一2:4/ルカ21:15)

神の至聖の御名は人類の救いに不可欠となることを聖書は再三述べるが、これを終末に知らせる者は聖霊を受ける聖徒、即ちキリストの兄弟ら以外にいったい誰がいると言うのだろうか。(ヨエル2:32/使徒2:21/ヘブル2:12)

今日、神の御名が地上から絶えて忘れられ存在しない理由は、まさしく「新しい契約」に預かる者、真に聖霊を注がれた者がひとりも居ないことの証拠なのである。

このように終末に於いて際立った活躍を行い、また、それが為に迫害を受ける聖なる者らに信仰を示す人々も現れることは、マタイ25章の中の羊と山羊の例えの中で語られている。

即ち、キリストの『兄弟たち』とはキリストと共に『神の子』と認知され聖霊を注がれる『聖なる者たち』に他ならず、迫害される彼らに親切を示し、その立場を支持する者らは『羊』として主の右に分けられ、祝福に入るのである。
イエスはこうも予告している。 『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない』(マタイ10:42)

また、このようにゲッセマネで祈られた。 『わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。・・彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。』(ヨハネ17:20-21)

この点は、遠くアブラハムにも語られていた通りである。 『あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上のあらゆる氏族はあなたによって祝福を得るであろう。』(創世記12:3)

創世記の古代にアブラハムの裔として予告され、モーセの律法契約の辿り着くべき目標『世の光』となり、ついにキリストの犠牲によって初めて地上に現れた罪を清められた『聖なる者』について、聖書中を貫通する主題であるのがこれほど明らかであっても、ほとんどのキリスト教徒が気付かない現状はどうしたことであろう。これは異様なことではないだろうか。




 新十四日派  ©2011  林 義平
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聖書中にある「聖徒」が格別である根拠
 エクレシア内の信徒と聖徒


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