キリスト教が、ローマ帝国の国教化で差し引きされて失ったものがある。
それを契機にキリスト教は、個人の信仰から、コミュニティの宗教へと外面も大きく変化を観たのだが、それ以上に、処女性のような内面に変化をもたらすものがあった。
ローマ帝国最後の全土に及ぶ大迫害の勅令がディオクレティアヌス帝から発せられたのが303年2月であった。
それから10年を経た313年、ローマで対立皇帝となっていたマクセンティウスに勝利したコンスタンティヌスはメディオラヌム(現ミラノ)市で当時の同盟者リキニウスと共に勅令を発布し、迫害されていたキリスト教に「市民権」を与え、信徒を解放し、接収していた集会所を含む財産を返還させた。
これは政策の正反対への転換である。十年の年月は苛烈な迫害を受けていた信徒らからすれば長く感じられたに違いないが、変化は突然に訪れた。
この事態の急変を見た信徒らがその後に経験することになるキリスト教自体の変質は、数世代をかけてよりゆっくりと、そして確実に進行してゆくことになるが、そのようにしてキリスト教の側も帝国の方針転換に伴い180度の針路変更を決することになる。その変化に伴い、キリスト教はその本来の相貌をすっかり変えてしまい、キリスト教を個人の信仰から社会組織で信奉する宗教、ローマ国教化への道筋をつけることにつながるのであった。
325年はコンスタンティヌス帝によるニカイア(ニケーア)会議の年であるが、キリスト教徒の母ヘレナ*の影響があったにしても帝自身の「信仰」はキリスト教というよりは太陽神崇拝に偏ったものであった。*(帝は、母の帰依より先にキリスト教徒を優遇し始めている)
帝自身の信仰とキリスト教とはどうやら異質だと本人が気付いたのは、晩年に入ってからのことである。そうでなければ、ああも堂々とキリスト教指導者らの集まりを主宰し、結論にまで介入もしなかったろう。実際に帝はニコメディアのエウセビオスから死の床で滴礼を受けるまで正式な入信儀礼もしてはいないし、教理教育を受けた記録もないと言われる。
このような人物であるにも関わらずニカイア会議を招集し、自らヤコブよろしく議事を取りまとめるなど主導したのは、ローマ皇帝の威光によるものであり、また、当時のエピスコポイ(監督たち)がその権威に平身低頭したからであろう。
名目上ながら、歴代皇帝は帝国の宗教上の最高権威者を兼ねたせいか、帝自身も自分が(少なくとも)エピスポコスの一人であると思い込んでいたのだが、これを譴責するほどの勇気をもって異を唱える人物は無かったようである。その模様を伝えるカエサレアのエウセビオスの記した「コンスタンティヌスの生涯」には、彼の皇帝への阿りの言葉で満ちている。これと『わたしの王国はこの世のものではない』と、はっきり言い切ったイエスの言葉を整合させることには越え難い溝がある。
会議は参集者の交通費から滞在費までが国庫から支出されていたために、キリスト教の領袖たちは帝や国家の不利益になるような議決などできなかったであろう。
つまりは、キリスト教の領袖が会議に参加することで、既にキリスト教界は皇帝に買い上げられていたのである。
そこに見えるのは、敵意と過酷な迫害という猛攻撃のあとに、一転してローマの巨大権力から保護と善意をもって擦り寄られたときに、依然多数派ではなかったキリスト教徒の脆弱さである。
そして不思議なことに、このキリスト教の変質を企図し国教化の完成と教理の変更の全体を教導した一人の人物をこの皇帝を含めても挙げることができない。それは当時の社会全体が向かおうとする、何ものか抗い難い歴史の潮流のようなものであったと言える。
キリスト教化は当時の帝国を結束させる必要のために目論まれたもの、との解説を目にするのだが、確かにこの時期のキリスト教には争論があったにせよ、コンスタンティヌス帝個人にあって、それがどこまで理解されたかよく分からない。むしろ、当時のローマ帝国の中のキリスト教はとても多数派と言える存在ではなかったし、ローマ帝国が法を以って異教を強硬に排斥し、実質的な国教となるのは、この第四世紀も終盤に差し掛かる頃のことである。
それであるから、コンスタンティヌス帝は父親が好意を示していたキリスト教というものを自分なりに解釈し直して、自らの権威の後ろ盾としつつ、自分なりの信仰を抱き、それを本気で信じていたように歴史書は読めるのである。彼は、キリスト教に個人の関心を寄せ、政治的に分裂しがちな帝国はさておき、自ら信じるキリスト教を皇帝としての権威を用いてまとめておきたかったようである。その以前には明らかに太陽神崇拝者であったことが知られている。
それでもコンスタンティヌス帝を、本人の宗教的嗜好によって然したる意図も持たずに、後のヨーロッパ宗教封建制の種を撒いた人物とすることは出来るだろう。彼が他ならぬ皇帝であったために、その議決を以ってキリスト教はヘレニズム的のものが正統とされ、欧州は「キリスト教化」という激しい波を蹴立て、その奔流は歴史上に渦を巻いて人々や社会を巻き込むことになってゆく。
議決は宗教上のというより皇帝による政治的判断であったが、結果的にその趨勢が近代まで継続し、今日の非キリスト教国までもが習慣や暦などを通して社会に様々に影響を受けているのである。
当時の帝国の国教化は、様々な人物が関わったところの、まさに十数世紀に亘る歴史の潮流の発端となったが、忘れてならないのは、国教化への変更で生じた「キリスト教」とは、「異邦人」つまり非ヘブライ的に形成された「新たなキリスト教」であっても、けっしてキリスト自身の教えに沿うものではないことである。
つまり、以後の「キリスト教」はまったく霊感のない異邦人の所有に帰したといえる。
ローマ皇帝によるキリスト教への介入は、やがて380年の「カトリック教令」に結実し、普遍教会はアレクサンドレイア=ローマ型のものが国家によって正統とされるに至るであろう。⇒アンブロジウス
そして当時の異邦人キリスト教徒も皇帝も、「主殺し」の張本人としてのユダヤ人を、この民族のパリサイ的文化傾向をも相当に嫌っていたのであるが、その結果、異邦人キリスト教徒らは、主イエスが、紛れもなくユダヤ教徒で在り続けたユダヤ人のメシアであったことさえ忘れるようになってゆく。
(この時代には、既にユダヤ人キリスト教徒は歴史の舞台から去っている)
ともあれ、キリスト教は「ローマ皇帝の宗教」となった。このことが意味することの大きさを信徒らは目の当たりにすることになる。
しばらく前には迫害に雄雄しく立ち向かって拷問台や闘技場での死に至るまで毅然たる信仰を見せたキリスト教は、すぐに甘やかしの誘惑に曝される、しかも、多くの人々はそれが罠になるとは気付いていなかったであろう。
闘技場での剣闘士の試合や動物の虐待はキリスト教的でないので行われなくなり、奴隷の顔に主人の印である焼印を入れることは「神の象りに作られた」人間を卑しめる事として禁止される。
広く行われていた磔刑も、主殺しの残酷な刑罰であるので不適切とされ禁止されてゆく。
これら帝国で一般的に行われてきた野蛮な風習はキリスト教の道徳性を通して洗練されるのだが、多くの信徒にとってそれは喜ばしいことに見えたであろう。人々には国教化が恩恵であるとさえ思えたことが容易に想像される。
加えて、コンスタンティヌス帝と母ヘレナは帝国のあちこちにキリスト教のための壮麗な建築を次々に始める。
ローマでもヴァチカノ、ラテラノなど多くのバジリカが市を囲むように建立され、ヘレナはエルサレムやベツレヘムなどに次々に聖堂を寄進した。それまで信徒が見たこともないような立派で印象的な空間は彼らを魅了したであろう。
しばらく前までは、キリスト教徒であることを告白することが命の危険を意味していたのが、いまや出世や特権を享受する手形と化する。
人々は集会所に波のように押しかけ、個人の家で行われていた集まりはパンクするほどになる。田舎の村ではいきなり村ごと「改宗」することもあったという。
エクレシアの指導者層には国庫から食い扶持があてがわれるようになり、彼らは僧職者を通り越して公務員に近い立場を占めるようになった。
宗教の教師というものはひとつの権威であって、政治家に似て人の上に立つ以上、その地位を得るのは出世である。この僧職碌を狙って多くの者が群がってきた。
この状況で思い起こされるのはキリスト・イエスの語っていた「からしの木の例え話」である。
からしの木の種は砂粒のように小さい。しかし、それが芽吹いて成長を始めるとするすると枝を伸ばし続け、ついには野菜の中で最大のものになる。
その枝は広く空に張り出すので、鳥たちがその枝に宿り場を見出すという。(マタイ13:31-/マルコ4:31-/ルカ13:19-)
当初、イエスの周辺に集まり始めた信者たちは大きな集団ではなく、ユダヤ人民は体制としてイエスに従うことはなく、却って刑死に追い込んだのである。
したがって、キリスト教の始まりはユダヤ人にとって単にイエス派というような内部の(メシア主義的)分派活動のように見なされ、早めに消し止めるべきボヤのようなものであった。
イエスの死に際しては使徒らも逃げ散ってしまい、イエスはあたかも一粒の種のように蒔かれたといえよう。
四年に満たない活動期間だけを持った教祖が刑死してしまった宗教の将来性というのはどれほどのものだろうか?
しかし、その砂粒のように小さな種が発芽し成長を始めると、その枝は空に向かって伸び続け、ユダヤ教の規模をはるかに超えて、ついに世界最大の宗教となるのであった。
そして、その大枝には多くの「鳥」が来て住み着きはじめたのである。もちろんこの鳥たちはからしの木そのものではない。その木から利益を得るものたちである。
共観福音書はそれぞれに、この「鳥」が「宿り場を見出す」としている。
これは僧職を生業にしようと群がり集まった者らではないと言い切れるものではあるまい。
驚くほどの信者の増加は、当然ながら信仰の俗化を招いたが、同時にそれらの信者を「指導」する要員が必要であり、俗化した「信仰」に見合った俄仕立ての「先生方」の糊口をしのぐ就職先が大きな口を空けたのである。
このように「からしの木」の例えを看做すべきもうひとつの理由は、続けて語られた「パン種」の例えの存在である。
「小麦粉を大舛に三杯(三サトン)」は22リットルにもなる量である。
調理をする「女」がその大量の小麦粉に中に、ほんのわずかな酵母(イースト菌)を「隠す」、そして熱すると「塊は大きく膨らんだ」(マタイ13:33-/ルカ13:20-)
これを語ったイエスは、神の王国もこのようになるという。
イエスは他の時に、弟子たちに「パリサイやサドカイのパン種に注意せよ」と語り、弟子たちはそれが「教え」に関わるものであることを悟った。
また、パウロは「少しの酵母が塊全体を発酵させる」ゆえに「古い酵母を捨てよ」とエクレシア内の悪行を例えている。(マタイ16:6/コリント第一5:6-8/ガラテア5:9)
コンスタンティヌスがその父以来、キリスト教徒に好意的であり、特に大帝となった息子が帝国内でキリスト教を擁護するようになったからといって、一般民衆がすぐに改宗してきたわけもなく、帝国域の各国の諸神の宗教がそれぞれに入り乱れている状態にあった。
それまでのローマの国策により、各地の諸神はローマの諸神と同じ神であることにされていったので、帝国の拡張は、この宗教合同による民心掌握もかなりの程度で役だっていた。これはギリシアの征服に際し、ゼウスをユピテル、アフロディーテをヴィーナス、メルクリウスをヘルメスというような、神を共にする姿勢を勝利者の側が示すことで、敵対から同朋意識へと転換させた例が観える。
そこで、コンスタンティヌス後、キリスト教が皇帝の宗教となって、次第に帝国民が教化される過程で起こったことは、かつてこの国が行ってきた通りとなった。
つまり、キリスト教にヘレニズム異教の様々な要素という「パン種を隠して」いったのである。
そこでヨーロッパのキリスト教がどのようなものになるかは、既にその時に動かし難い路線の上に乗せられてしまった。
その結果は、今日の一般的な教会での「キリスト教」に見られる通りのものとなっている。
コンスタンティヌス後、ローマ帝国の各所に千切れ雲のように散らばっていた、保護と励ましの必要なキリスト教徒という「小さな群れ」は、国教化に従い通勤ラッシュのような信者の増加を経験することになったのである。(教会史Ⅷ-i)
「パン種」は確実に作用したようだ。元々の麦粉が22リットルもあったのなら、その膨らんだ果ての姿はどのようなものであろう。今日、キリスト教は世界最大の宗教となっている。
この急激な膨張は隠された酵母の為せる業、また、からしの木の驚くべき成長に似たものである。
では、この「パン種」というもの、その「教え」とはなんであろう?
それはキリスト教を変質させる「強力な」大衆性であり、国教化に伴って取り入れられた異教であろう。
以前の拙文「ユダヤ教とキリスト教の歴然たる違い」で書いたように、ユダヤ教から脱皮して素晴らしい次元上昇を遂げたキリスト教に「酵母」が作用し、元居たユダヤ教のレベルかそれ以下に押し戻されたのである。
ユダヤに生まれてくる者はすべてモーセの律法契約に入り、男子が生後まもなく割礼を受けるように、キリスト教がローマの国教となるに伴い、自ずと幼児洗礼が確定的になってしまう。
パウロは、血統によるイスラエルが真にイスラエルなどではないと言ったが、それに反して血統主義のかつてのユダヤ教のように、国民がすべて生まれながらに信徒たるべき時代が再び訪れた。
イエス以来、迫害される宗教であった「キリスト教」が、旧約のイスラエルのように武力で異教を排除するものとなり、迫害を加える側となってゆく。
どうやら彼らは、残虐な拷問や処刑を次々に考案した帝国の官吏の「正統な」後継者のように見える。
後代の十字軍は、旧約に描かれたイスラエルの戦いのように正当化され、キリストの名の下にユダヤ人やアラブ人の許多の「犠牲」が捧げられもしたが、それもまた、この『パン種』の為せるところであろう。
ユダヤ教のように国家宗教となった以上、当然のことながら戦争を肯定する必要が生じ、兵役を避けてきたキリスト教徒は「信仰」を否認していることになってしまい、キリストの「剣を執る者は・・」の言葉をうやむやにするようにもなった。
わたしの王国は争い合うこの世のものではないと言ったイエスの言葉とは裏腹に、「正義の戦い」や「正しい戦い」に参加できるように信者は「進歩」した。それは国を背負った宗教の宿命である。
聖霊の賜物を有し、帝国のかつての迫害で忠節を保って死を受け入れた「聖徒」たちは「聖人」として崇められる副次的神の「糞像」と化した。
初代キリスト教徒が待ち続けた「神の国」は、「ローマ帝国」の存在によって現実化されてしまい、実際には到来しないもの、あるいは「教会」を通して徐々に実現されるようなものと教義を変えざるを得なくなった。
ローマの法はユダヤの律法の地位を得て、キリスト教徒はユダヤ教徒のように再び外からの力によって道徳的に拘束され、愛と良心を働かせるキリスト教の自律は失われ、再び現実の国家法にひざを屈めるようになったのである。
また、かつてエルサレムに神殿が存在し、地上の宗教的中心地があったように、この国家教の中心が次第に求められてゆく、それは権威付けのための、また末端まで精神的支配を行き渡らせるための道具であり、ローマ市がヒエラルキアの頂点に上ろうとしてくるのであった。
今日もそこには壮大な建造物が威容を誇り、十億の人々の総本山となっているが、ユダヤ人がエルサレムに登ったように、いまだ巡礼の地となっている。
多くの壮麗な教会堂が建立されるにつれ、初代キリスト教徒の励ましあう簡素で牧歌的な集会は、荘重な儀式の礼拝と化した。この点でもキリスト教はユダヤの「祭儀の宗教」に舞い戻っていたのである。そこに違いがあるとすれば、聖書の裏づけがあるかないかということくらいであろう。
それらの儀式は東方宗教やギリシア的神秘主義との渾融であって、秘蹟(サクラメントゥム)という形で神の介在が要請された。それは参列者に権威を示すものである。
やはり異教との交配がはっきりとしている分野として祭りが挙げられよう。
12月25日はローマ市民の楽しみな無礼講の祭日であった。その日は冬至を越した喜びの宴であり、冬至であたかも死んだかのようになった太陽の復活を祝う「ナタリス・インヴェクチ・ソリス」(敗北せぬ太陽の祭り)であって、冬も葉を保つ常緑樹が飾られ用いられた。
太陽の復活は農耕にとっても吉兆である。農耕神サトゥルヌスの祭り「サトゥルナリア」も同じ時期に行われ、それに加えてペルシア由来で冬至に死んで三日後に復活するという太陽神ミトラスの祭儀もこの日と深く関係していた。
こうして、イエスの誕生は明らかに冬ではないに関わらず、太陽神の再生はイエスの誕生と結び付けられ、以後伝承されている。
国家がキリスト教化されることにより、太陽神崇拝者であったコンスタンティヌスと、ユダヤ教徒を嫌悪し安息日を同じくせず*したい当時のキリスト教徒が都合よく一致して、ローマ曜の「太陽の日」(日曜日)を安息すべしと規定され、土曜安息を守る帝国内のユダヤ人は、以後肩身の狭い思いをすることになる。
「太陽の日」はキリストの「復活」した目出度い日であるから、以後もこれを祝うべしとなったが、帝国の権威によるこうした宗教合同がキリスト教徒に太陽神の祭日を祝わせたとしても、それは自然な成行きであったろう。
それまでのローマの宗教に似た「キリスト教」に人々は喜んで帰依したことであろう。
キリスト教そのものは安息日を求めていない。しかし、ローマ文明の伝播により、こうして日曜安息が今日世界に広まっているが、それはコンスタンティヌスの太陽神崇拝の痕跡でもある。
さて、こうして世俗と手を結び変質した「伝統的キリスト教」に、今日でも魅力を感じる人々もおられるに違いなく、筆者はそれを指弾しない。
見事な均整をもったラテン十字架のすっきりとした美しさ、宗教絵画に見られる静謐なまた動的な敬虔さの世界、カテドラルのステンドグラスの多彩な煌きやオルガンの荘重に屹立するパイプの列、また人を卒倒させるほど法悦の極致に至らしめる音楽に、それはそれとして価値がないなどとは到底言えないものであり、世界遺産のような観点から言って人類の高等な文化であることは言うまでもない。(文化というものはそれぞれの土壌で必ず生育するものであろう)
だが、キリスト教の本質について考える人、これらの変質した「グレコ=ローマン型キリスト教」以前の「源キリスト教」を求めようとする人々も必ずや居るであろうことも信じる。
その方々にお勧めしたいことは、これらの変質が16世紀の宗教改革を以っても、本質的には回復されなかったのであり、変質する以前のキリスト教を求めるなら最後の使徒ヨハネの居た西暦第2世紀前半の小アジアを考慮しなければならないと思われることである。
この二世紀初頭の小アジアのキリスト教について、今後も筆者は記事を書き加えてゆきたく考えている。
それにしても、キリスト教は何と大きな膨張を遂げたことであろう。今日では人口においてイスラームの追い上げを受けているが、それでも20億という依然として最大の信者数を誇る世界一の勢力を持っているのである。
それは、からしの木が空に向かって枝を広げているかのようであり、古代のパン種によるインフレーションがもたらした急膨張の余波をそこに見るかのようである。
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© 林 義平
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*ローマ帝国のキリスト教徒への迫害に乗じて熱心なユダヤ教徒たちが、当局へのキリスト教徒の告発を非常に執拗且つ陰険に行ったことを歴史が明かしている。
そのため、二世紀以降のキリスト教徒の多くにはユダヤ教との共通性を排除しようとする強いムーヴメントが働いていた。
そしてコンスタンティヌス帝自身もこの動きに賛同していた。ニケアーの議決は、それに神をユダヤと同じくせずとしたい欲求(三位一体説)を合わせたものとなった。
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