Selected Articles for JW
◆ エホバの証人にお勧めしたいこと
「点と線」の理解から「面」そして「立体」へ(FC2ブログへ)
◆ 「ネフェシュ」翻訳の実態
これは聖書理解の根本に関わることでしょう (hatenaブログへ)
◆ ヨブ記の結論 唯一の正しい宗派があるか?
心の荷が降りるでしょう
◆ エレミヤの七十年の終点から起点を探る
1914年が虚構であることを聖書そのものが雄弁に語ります
◆ 黙示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か
ハデスがなぜ獣と呼び替えられるのでしょう
◆ 「終末の裁き」において何が問われるのか
特定の宗派や組織への所属が何か意味を持つでしょうか?
◆ 『この世代』の過ぎ去らない理由
第一世紀には「ひと世代」で成就されましたが・・
◆ 『聖霊の賜物』 パルーシアの標識
戦争や飢饉よりも遥かに重要な時代の印があります
◆ マタイ福音書のイエスの終末預言と例え
もう一度読み直して、解釈を確認してください
◆ エルサレム会議にみるキリストの弟ヤコブの寛容さ
「血の禁令」は律法の延長でしょうか?
◆ 聖霊への許されざる罪
道徳的模範者が救われるのでしょうか?
◆ 似て非なるサマリアへのキリストの想い
「宗派の義」を超えなくてはキリスト教とは言えません
◆ 「命を救う業」と称える傲慢さ
どうしてもキリストを差し置いて人を裁く事になります(FC2ブログ)
◆ ギリシア語聖書における神名の扱い方法
ギリシア語聖書(新約聖書)に神名が現れない理由
◆ 神名浄化の至上命題 シェム ハ メフォラーシュ
神の御名はなぜ隠されているか
◆ 矛盾しきった「エホバの証人」というあり得ない名称
この名称に初めから神の導きが無い事が見えています(FC2へ)
◆ 去ってなお弟子を指導したキリスト 「羊の囲い」の例え
ふたつの群れは「小さな群れ」と「大群衆」とは言えません
◆ エホバの証人の宣教理解に対して
聖霊を除外して人間の業に頼る理不尽 (ブログFC2へ)
◆ 「排斥」制度の根拠の検証
道徳水準の維持と忌避行為は聖書に立脚しているか(FC2へ)
◆ 「ものみの塔」のユダヤ教への退行
人を救うのは従順ではなく信仰です(FC2ブログへ)
エホバの証人の信仰の目的へ
「あるいは無駄に走って来なかったか」
¥480 (電子版 登録で実質¥0 )
紙本 四六判177頁 ¥1620
「あるいは無駄に走って来なかったか」
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筆者は霊感の下にあるわけではなく、それぞれの記事は様々な資料研究の上に成り立つ蓋然性の追求であり、真に聖霊が無い限りあらゆる人間の研究は常に途上であり訂正を避けられず、これらの文章の上の聖書理解も必ず正しいと主張するものではありません。
同様に、ものみの塔の教理や主張にも訂正が必要であって、同じく聖霊を持つことはもちろん、聖霊の導きの下にも無い人間の知恵であることは、年代計算を含むこれまでの教えの訂正の繰り返しだけを取り上げても明らかでしょう。
このように述べるのは、この宗派を中傷する意志からではありません。人は誰もがその信じたいところを信じるべきでしょう。しかし、価値観の曇りを晴らし、より鮮明に保つことは誰にとっても有益なことです。
この宗教組織は一般的に道徳性が高く、優れた聖書教育を施すのは間違いない事実です。そうは云っても罪ある人が教導する以上は無謬ではなく、唯一正統にも、神の唯一の是認にも無理があります。
自分たちが神の是認の下に在るので正しいとすることは、神の義を受け入れて改善する余地を自ら断つに等しく、神が新たにその意向を語ることを想定していませんが、それはメシアが現れた世代のパリサイがそうでした。それは彼らの思惑とは異なり、実際には「神の義」ではなく「人の義」であり、却って神の言葉を受け入れる余地を残さなかったのです。
この点、当該の派の「唯一正統」あるいは「神の是認がある」との主張に、あらゆる問題の淵源があります。
霊感されておらず贖罪もされていない自分たちへの「唯一の神からの是認」を主張することそのものが有り得ないことで、それは世間一般で「偽り」と称されるものです。
常に「組織」の聖書理解に付いてくるよう求めることは、人が個人的に聖書を読み、そこに自然で論理ある理解が生まれる可能性をも摘み取り、自分たち以外は神の理解を持たない「悪霊の食卓」であるからと、目を覆わせ、耳を塞がせるのであれば、「組織」は実質的に「信仰の主人」であるに等しく、その責は神に対しても生じていますが、人に対しても果たすことが不可能なほどその責任は既に大きなものとなっているに違いありません。
これも「自分たちだけが正しい」とするところから生じたことです。
また、自らを「神の経路」と称し、変更し得ない余程の事実でも明らかにならない限り、訂正を受け入れようとして来なかったその超然とした姿勢が、この組織の、また教え手と云えども罪ある人間であることの実態とは異なる主張をそのままに映し出しては来なかったでしょうか。
聖書の希望を自らの組織への所属によって得られるかのように教え、「贖罪」という人間の倫理上の浄化と、「神の子」となって神との交わりへと復帰するという大志を、「地上の楽園」という謂わば「ご利益信仰」に置き換え、時限的射幸心を煽って人を集めた事は、既に歴史に刻まれた拭い難い真実となっており、動機の正邪に関わらず教導者は少なくともその責の部分を免れないことでしょう。
それを裁くのは人ではないゆえ、せめて教導者たちの動機だけは善意に捉えたいところです。思い違いは誰も避けられません。
しかし、この教え手がどれほど人々に善意を抱いていたにせよ、それは神への善意を抱いていたことにはなりません。むしろ、神そのものの意志に関心を向けず、自派の正統性に固執することを通して、神の意志には逆らってこなかったと言えるものでしょうか。
どれほど人々に善意を抱いたと主張しても、『罪』ある自分を正義とすることで、神に対し倫理の基礎を自ら破壊してはいないでしょうか。つまり『自分を正しい、とするために、神を不正とする』に等しい主張だからです。⇒「ヨブ記の結論」
つまり、自らを正義と称することで、真の神の正しさや素晴らしさから目を逸らさせ、こっそりとそれを地上の人間の卑近な努力や一般道徳の履行に置き換えてしまっているのです。
この世では「自分たちが正しく、他は皆が間違いだ」と言ったなら、その瞬間から紛れもない嘘つきとなるのではありませんか?
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