<難易度 ☆☆☆ 中>



さて、キリストの宣教は単に信仰を呼び起こし、誰でも追随者を得ようとするものではなかった。キリスト教徒の集りである各地の「エクレシア」はイエスが地上に在る間には存在しなかったのである。

復活の後になってから、キリストは使徒らに『あらゆる国の人々を弟子とせよ』と命じたが、公生涯中のイエス自身の活動は常にユダヤ人に関連し、それも外地に居るユダヤ人を訪ねることもなく、その範囲はパレスチナのイスラエルに限られ、世界に広がることもなく、異邦諸国民への業は『食卓から落ちるパン』という以上のものではなかったが、それはなぜだろうか。


失われたものを尋ねるキリスト

そこは海面より遥かに低い土地、ヨルダン渓谷の谷底にあるエリコの周辺は、極上のナツメヤシ、また各種の果物に恵まれ、交通の要衝となるオアシスである。
イエスの一行は、最後のエルサレム登城に際してこの城市を通ることになった。
避寒地としてヘロデも冬宮を設けたその地では、春先の過ぎ越しの時期であれば、殊に過ごし易い気候であったことだろう。

そこに到着したイエスの名はすでに広く知られ、エリコの群衆はその到着に沸き立った。
その地の収税人の長とされるザアカイ(ゼカリヤ)は、この手の者らのご多分に漏れず、おそらくローマから収税の権利を落札し、配下の者たちを使って住民はもちろんのこと、キャラバンがこのオアシス到着するとなればハゲタカのようにまとわり、その荷を検め、不法をきわめた奪取を行って富に富を重ねていたであろう相当なワルであった。
ローマの権威を笠に着て、税率以上を要求することはもちろん、払えない者には貸し付けたことにし、その後も返済を執拗に迫るという悪辣さである。帝国としては税が集まればそれでよく、収税人の多少の不正には目をつぶる。
当然ながら、汚れた異邦権力に阿り、金のために同胞を裏切った収税人はローマの犬のように見なされ、評判がすこぶる悪いのも当然であろう。

だが、そのザアカイも噂のメシアと呼ばれるイエスの到着を一目見たかったのである。しかし、背が低かったので群衆の背中に視界を阻まれ、そこでイチジク桑の木に登ってイエスの一行を眺めていたが、そこで予期せぬことが起こった。
イエスは樹上の彼に声をかけ、その夜は彼の家に客となるからと言われるのであった。

主が宿とされるのは、土地の名士でも聞えの良い人物の家でもなければ宿屋でもない、「収税人などの客となるのか」と、周囲の人々は憤慨するが、それほどに、この金持ちはエリコで悪評紛々たるものである。
しかし、主にはこの一夜の宿とりにも確かな目的があり、そうした非難も意に介さない。

これはザアカイにとっても思いもよらないことであったに違いない。
世間一般から遠ざけられて、ユダヤ人の会堂でモーセを聴くことも適わない身の上であったにも関わらず、ユダヤで奇跡を行い名を成した方が、宿として自分のような者の家を選ばれるということがどれほどの驚きを伴ったことか。
 

そして、世に蔑まれたザアカイはイエスを前にすると『持ち物の半分を貧しい者らに施し、ゆすり取ったものを四倍にして返します』と言うのであった。ならば、その後、この一家は贅沢などまずできなかったであろう。
ザアカイにしてみれば、これまでの悪人としての歩みにも関わらず、メシアと噂される方がいきなりに宿をとる栄誉に浴したことから深い感化を受け、一晩のうちにイエスを受け容れて信仰を表すに至ったのであろう。

イエスはその変化の可能性を知ったのでザアカイに宿を求めたに違いない。
そこでイエスは言われた、『今日、この家に救いが来た。この者もまたアブラハムの子であるのだから。人の子は失われたものを探し出し、これを救うために来たのだ』。(ルカ19:9-10)

 

収税人といえば、十二使徒に召されたマタイ・レヴィもまた、そのスジの出であったが、ユダヤ同胞からゆすり取るこの職業人は、一般人からは娼婦と同様に忌避され、会堂でのモーセの朗読も聞くことが出来ず、話し相手にできるのは世間から遠ざけられた仕事仲間が精々であったという。

しかし、イエスはこれらの者らを遠避けはしなかった。そのため却って躓く者さえあった。殊に、エリートたるべきパリサイのような自己義認者、また律法学者や書士たちはこの件でイエスを肯んじない理由を加えたのである。(マタイ9:11)

しかし、これは初めからイエスがエリート層を排除したという訳ではないだろう。
ヨハネ福音書はサンヘドリンの少なくとも二人の議員がイエスに信仰を持ったことを名を上げて知らせており、次のようにも記していたからである。
『父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い返したりはしない。』(ヨハネ6:37)

だが、イエス自身が収税人らのその生き方を是認していたわけではない。(マタイ5:46)
そうではなく、彼らがイエスとの交わりを通して、律法から遠く隔たってしまっていたその道を変えるところに「アブラハムの裔」としての回復があったというべきであろう。
それは、単に悪しき者が悔い改めて社会復帰するというようなありふれた美談などではない。それを遥かに超える父祖アブラハムへの関わりがそこにあったのである。それは律法契約から最も隔たってしまった人々のメシア信仰による「救い」であった。

というのは、イスラエル=ユダヤは既に割礼によって神との契約関係にあったが、民の契約不履行は既に律法契約に代わるものを必要とさせていたのである。(ヘブル8:7)
しかし、その当時は「新しい契約」への期待を通して恩寵ある関係は依然、民の間に有効であり、もし、彼らがキリストの仲介する別の「契約」に入るのであれば、アブラハムとの関係によって、彼らを「裁き」に至らせることなく「永遠の命」が与えられることを意味したのであった。それが彼らの「救い」、つまり天の王国におけるキリストと共なる類稀な立場への任命となったからである。(ペテロ第一2:9/ヨハネ第一3:2/ゼカリヤ12:8)



◆アブラハムの裔を集める業
 

キリストとしてのイエスの業は概してユダヤ人の中で行われ、遂にパレスチナを出るものとはならなかった。
異邦人に恵みを与えるにしても、それは特例であって、その深い信仰に応じて許されたものであり、それは『食卓から落ちるパンのかけら』であった。(マタイ15:27)

では、それほどにイエスの業をユダヤ人に限定させたものは何だったろうか?
ルカ13章に現れる女の癒しの出来事に目を向けると、そこに幾らかのヒントが語られている。

そこでは、十八年もの間、病の霊のために身をまっすぐに伸ばすことのできない女がいた。この女が自分の歪んだ姿勢を晒しつつもユダヤ教の会堂にいるのをご覧になったイエスは、この女に手を伸ばすや、十八年という長きに亘る苦しみから一瞬にして解放したのであった。
然もあろう、女は喜びに溢れ神を賛美し始めたのだが、それが安息日であったものだから、会堂の役員は的外れにも民に向かって『働いてよい六日がある。癒して欲しくばその間に来るがよい』と言ってのけた。
これに対してイエスはこう宣う、『この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか。』(ルカ13:10-17)

さて、エリコのザアカイの家に救いが来たと述べられたイエスは、ザアカイもまた『アブラハムの子である』ゆえにイエスは失われたものを救うと言っていた。
そして、この癒された女も『アブラハムの娘』であり癒しに値いすると言われる。

このような事例は他にもあり、例えれば、ヤイロの娘を生き返らせる奇跡の前に、個人で深めたメシアへの信仰から、押し合う群衆の中で人知れず、イエスにすらも気づかれずにその房べりにそっと触れて、十二年間の長きに亘る流出の病を癒された女の信仰を神は見過ごされはしなかった。イエスは大人であるその女を直ちに探し出しては「娘よ」と呼びかけているのであり、これもアブラハムの裔としての意が込められていると見ることができるだろう。(ルカ8:48)

ではキリスト・イエスの業とは「アブラハムの子ら」を集め出すことにあったのだろうか?

使徒ヨハネはその福音書で、大祭司カヤファの発言を敷衍してキリスト・イエスの死の役割についてこう述べている。
『ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。

このことは彼が自分から言ったのではない。彼はこの年の大祭司であったので、預言をして、イエスが国民のために、ただ国民のためだけではなく、また散在している神の子らを一つに集めるために、死ぬことになっていると、言ったのである。』(ヨハネ11:50-52 )

まさにイザヤの預言はこう言っている。
『今、YHWHは仰せられる。「あなたが我が僕となって、ヤコブの諸部族を興し、イスラエルのうちの残った者を集めることは、いとも軽い事である。
また仰せられる。「わたしはあなたを、諸国民の光と成して、わが救いを地の果にまで至らせよう」』(イザヤ49:6-7)

即ち、キリストはその捧げる命を通して、ヨハネが『神の子ら』と称する者たち「イスラエル」を集めるというのである。
エレミヤの預言も、メシアの関わりを告げ、こう言うのである。
『このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」とYHWHは言われる。』(エレミヤ23:3-4)


しかし、その「イスラエル」また『残った羊』、ヨハネの言う『神の子ら』とは誰を指すのだろうか? また、その目的はどんなことにあったのだろうか? 


アブラハムの裔とは、あの人類全体の祝福の礎『聖なる国民』となる人々のことに他ならない。
太古シュメールの文明の時代の人アブラハムに神が約束された『地のすべての家族がそれによって自らを祝福する』という彼の子孫が即ち「イスラエル」なのである。(創世記22:18)

その民は血統上から言えばイスラエル民族を指したが、イザヤはこうも預言して言った。『あなたの民イスラエルが海辺の砂粒のように多くとも、そのうちの残りの者だけが帰って来る。定められた滅びが進み、正義が溢れ通る。』(イザヤ10:22)
したがって、イスラエルの血統にあることがそのまま「アブラハムの子ら」を意味しておらず、そこで選ばれ、集められる必要があったというべきだろう。(ローマ2:28)

かつて神はエゼキエルを通して、次のように表明されていた。

『わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは裁き(公正)をもって彼らを養う。』(エゼキエル34:16)

それはまるでキリストの業そのもののように見える。確かにイエスは身分が低く虐げられたイスラエルの同胞に対して癒しを行い、教えを授けていたのである。
そこでは奇跡が行われ、神の証しが伴っていた。それを見ても悪霊の頭の業だと決めつけてイエスを退け続けたのは、まさに「肥えたもの」である宗教家たちではなかったか。


それゆえ、イエスは弟子たちに、『狭い戸口を通って入るように熱心に努めよ、入ろうと願いながら入れない者は多い』との訓戒を与えてもいるのである。イエスが公生涯中に語った『救い』とは、通常はユダヤ人がキリストに信仰を持って「新しい契約」に入ることを意味したのである。

その点では、いまや宗教家らよりも『収税人や娼婦が先に神の王国に入りつつ』あったし、イエスはその状況を評して、『(イスラエルの)人々は王国に向かって殺到している』とも言われた。(マタイ21:31/ルカ16:16)

だが、その契約によって「アブラハムの子ら」となるのは、イスラエルであれば誰にでも与えられる事柄ではないし、その機会の扉はいつまでも開かれてはいないことも警告されていた。

『家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、「御主人様、開けてください」と言っても、「お前たちがどこの者か知らない」という答えが返ってくるだけである。
そのとき、あなたがたは、「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」と言いだすだろう。
しかし主人は、「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」と言うだろう。
あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の王国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりすることになる。』(ルカ13:24-30)


イエスは加えて、イスラエルが神の御前に「アブラハムの裔」であることを示さないならば、『人々が東や西からやってきて、神の王国で食卓に横になる』とも言われる。即ち、異邦人による「アブラハムの裔」の補充である。
これは王国の鍵を託された使徒ペテロによって、ローマ士官コルネリウスに聖霊が注がれて以来、現実に起こったことであるが、そこにアブラハムの血統は不信仰のために十分な数の子らを生み出せなかった現実が見えている。

メシア自身の言葉を聴き、その聖霊の業までをも見たイスラエルが、信仰の人アブラハムのような資質をまるで見せず、却ってイエスを刑死に追いやることで「アブラハムの子」ではないことを明白にしたのである。求められた要件はメシアへの信仰であった。(ヨハネ8:39)

一方で、イエスはユダヤ人への宣教を専らとしたのは、まさに神ご自身が『我が友』と呼ぶ、族長アブラハムへのかつての約束を配慮してのことに違いない。

後代パウロは『神の言葉は、まずあなたがたに語られねばならなかったのだ。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分を永遠の命に相応しくない者であることを自ら示した。だから見よ。我々は今後は異邦人へと向かう』と決然と『アブラハムの子らの人々』に宣告したが、この言葉から、血統上のイスラエルはイエス後もその不信仰な傾向を然して変えてはいなかったことを窺わせる。

また彼は、『アブラハムの子孫が真にアブラハムの子らではない』。『肉の子らが真に神の子らではなく、約束による子らこそが裔と見なされる』とも説いている。(ローマ9:6-8)

こうして、キリストの「アブラハムの子ら」を集める業は、使徒たちの時代に異邦人からも選ばれ始めるに及んだが、パウロはこれをオリーヴの接ぎ木に例え、異邦人はイスラエルへの補充であることを明らかにした。



◆『数が満たされる』とは
 

パウロはオリーヴの接ぎ木の例えの中で二回、数の「満たし」(プレーローマ)について記している。
一度は『もし彼ら(イスラエル)の違反が諸国の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らが満ちる(プレーローマ)のは、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことか。』と述べ、もう一度は『一部のイスラエル人が頑なになったのは、異邦人が満ちる(プレーローマ)に至る時までのことであって、こうして全イスラエルが救われる』とも言っている。(ローマ11:12/11:25-26)

これらは、キリストへの信仰の欠如を示したユダヤ人による聖なる者の不足(ローマ11:16)を述べているが、異邦人から選ばれた聖なる者と雖も、元々の枝の数を満たす以上に求められてはいない。
つまり、異邦人聖徒は、ユダヤ人の欠けた数を補ったということであり(ローマ11:21)、そのことは有限な数の「選民」全体を満たすための格別な処置であった。

ということは、そこには血統によらない『神のイスラエル』全体には『満たされ』るべき一定の数があるということになるだろう。

これを支持するかのように存在する例え話がルカ15章に幾つか連続して存在している。

まずそのひとつが、有名な百匹の羊の例えである。
百匹という切のよい数字に対して、九十九匹というのは半端であるばかりか、あと一匹を意識させる数である。
良い羊飼いであれば、大半の羊が残っていれば一匹くらいどうでも良いとは思わない。他のすべての羊を残しておいてもただ一匹のためにあちこちを巡り歩いて探し出そうとする。
その労苦が実を結ぶと、百匹を守った喜びのうちに彼はその一匹を肩に載せ、家に帰ってからも隣人を招いて喜ぶという。


次いで、イエスは十枚セットのドラクマ硬貨のうちの一枚を失くした女の例えを語る。
灯火の下で家中を掃き出して、遂に見つけたときの婦人の喜びようは想像に難くない。十枚揃わなければ全体の価値を大いに損なうその一枚のために、女友達を呼んでは一緒に喜んでもらいたいほどである。


それからイエスは、あの情感豊かな「放蕩息子」の例え話に進む。
それは百や十という数字を離れ、ただ一人への神の想いがどれほどのものであるかを教えるものである。
キリストの集める業に込められた想いというものは、これらの例え話から如何に深く憐みに富んだものかを伺い知ることができるのである。

二人の兄弟のうちの弟は、父からの相続分を欲し、それをもって異郷で放蕩の限りを尽くすが、財産が尽きたときに困窮し、その中で悔い改める。
父の下で雇人として働かせてもらおうと実家に近づくと、父は遠くから息子を認めて受け容れる。それも雇人や奴隷としてではなく、元の息子としてであり、その上この子の帰還を祝う宴まで催すのであった。

これは当時のユダヤ人、それも律法から遠く離れ、収税人や娼婦に身を窶していた「地の民」らが、メシア=キリストによって再び見いだされ、「アブラハムの裔」「聖なる者」「神の子」としての立場に復帰することが天においてどれほど大きいかったかを教えるものである。

キリストが「アブラハムの裔」を集めてその数を満たそうとパレスチナを巡ったからこそ、『わたしをお遣わしになった方の御心は、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。』と語られた謂われもあろう。イエスからすれば、彼らひとりひとりが欠くことのできない「百匹の羊」また「十枚のドマクマ硬貨」の見出された一匹また一枚であり、悔い改めた放蕩息子なのである。

そこでは、以前が相応しくもなかったからといって、彼らの立場は低められはしない。
アブラハムの裔が揃うという観点からすれば、この例えの息子の帰還を兄も喜べたであろう。
しかし、兄はそうは思えなかった。彼の観方では、身を持ち崩した弟が帰還したからといって、どうして宴会までひらいて喜ぶべきか、では忠実に仕えてきた自分はどうなのか、というものであった。つまり、家族また家全体としての観点を欠いて自分に関心が向いているのである。

この兄に相当するのがユダヤの宗教家であったことはこの例えの語られた場面から明らかとなっている。
「弟」に相当する宗教上の困窮者は、律法を守らず、却ってローマの犬、また娼婦という汚れた道に入ってしまった。それゆえ「兄」に当るエリートらは、この「弟」を「地の民」と呼んで大いに蔑む。彼らがイスラエル人であろうと、既に神の是認にも恩寵にも値しないというところが彼らの思いであったろうか。一方で、上層部の彼ら自身はそうならないように、神の目に清い状態を保つことに腐心していたが、却って、その利己心はイエスの暴くところであった。

そのような宗教家の態度は、イエスに信仰を持ってアブラハムの裔にと救われてゆく同胞を苦々しく眺め、イスラエル全体の救いも『神の王国』にも関心を払っているように見るべきものはない。宗教家の関心を占めていたのは自分自身であり、そこに利己心がはっきりと見える。
もちろん、イエスに帰依した「地の民」がどれほど相応しい関心を持っていたのかは分からない。しかし、一方は宗教家であった。アブラハムの裔を意識するに相応しい立場を占め、また知識も豊かに持っていた。
その指導者層が、イスラエルの揃うことに意を用いて喜ばないばかりか、自分の境遇に不平を述べていたのであれば、その姿勢はけっしてよい結果をもたらしはしない。

キリストはその公生涯の終わり近くに、城市エルサレムについてこう慨嘆している。
『エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、雌鶏が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。』
血統上のイスラエルの大半は、その父祖アブラハムのようではなく、キリストに対する不信仰のうちにその道を逸したのであった。その結末は神殿と律法体制の悲惨な終焉を共にすることではなかったか。

では、「地の民」また道を逸した同胞を見下していたこれらの宗教家たちはアブラハムの裔として何の問題もなく含まれたのだろうか。
「放蕩息子」の例えで、父は『わたしの物はすべてお前の物だ』と語ってはいる。しかし、彼は憤って宴に加わることはしていないし、父の説得を受けて考え直したのかどうかは、この例え話ではそこまで語られていない。おそらくイエスはその結果を、そのとき聴いていた宗教家らに委ねていたのであろう。
だが、この例えを語るしばらく前に、イエスはパリサイ人を指弾して『人が上を歩いても気付かない墓』と言い、律法学者には『知識の鍵を取り去って、自分も入らず、入ろうとする者を妨げた』とも責め立てた以上は、彼らがアブラハムの裔に数えられることは絶望的であったろう。

さて、十枚のドラクマ硬貨にせよ、百匹の羊にせよ、そこには全体が揃うことの必要が示されている。それはパウロの「接ぎ木」の「数が満たされる」というところにも表れている。

それでも、ユダヤ人の不信仰のため十分な数を得なかったので、パウロが言うように、信仰ある異邦人の接ぎ木を必要としたのであり、それは「羊の囲い」の例えにもよく表されている。

キリスト・イエスが地上で開始したこの「アブラハムの裔を集める業」は、使徒らに委ねられ、およそ百年ほどで、一度終わっている。それは『聖霊の賜物』の印が地上に見られなくなったこと、また、終末には再びその賜物を持つ者らが予告されているところに深く関係しているに違いない。(マタイ10:18-)

したがって、「アブラハムの裔を集める業」は依然として終了しておらず、『王なる祭司』という人類の『初穂』となる人々に関する秘儀は今日も終わってはいない。即ち、キリスト教の本来の業とは、単に信者を集めるところには無く、しかも、現在はキリスト教の務めであるところの「アブラハムの裔を集める業」は、停止したままに1800年の時を経ているというべきであろう。


もちろん、キリスト教を布教する業が無益であるということにはならないが、しかし、信仰者を集めるだけでは事の本質には至っていない。

まして、この「裔を集める」業が終わらないうちは、本格的な『この世の裁き』には至らないのである。

その『裁き』とは、聖霊によって聖徒らに与えられる言葉を聞いて、それに信仰を表わし、聖徒らを支持するか否かという『羊とヤギ』の選り分けである以上、「アブラハムの裔」また『キリストの兄弟たち』が現れないことには終末は間違いなく来ない。(マタイ25:31-)


そして、その「アブラハムの裔」も地上で試練を受け、中には脱落する者も出ることはイエスも使徒らも再三警告していたところである。それは誘惑や試練に耐えられない者が出て、最終的に『一人は連れて行かれ、一人は捨てられる』という恐ろしい結末となるであろう。(マタイ24:40-)
そこで『招かれる者は多くも、選ばれる者は少ない』という言葉のままに、定められた数よりも多くの(おそらくは不定の)人々に聖霊が降るとしても、『証印を押される』者は限られているのであろう。(マタイ22:14/黙示録7:3)
 

だが、「アブラハムの裔」の定められ総数とは、どのくらいのものなのだろうか。
 


黙示録の異様な十二部族
 

その点で思い起こされるのが、黙示録第七章に存在している神の証印を受けるイスラエルのすべての部族からの十四万四千人である。
だが、この十二部族は実際の部族とは異なっている。

まず、かつては北のイスラエル王国の主流を成したエフライム族の名が書かれていない。これはエルサレムとユダ王国に対立した誇り高きサマリアの過去が災いしたのだろうか。
しかし、それもその父ヨセフの部族に含まれると見れば、何とか収まりそうだが、それにしてはその兄弟マナセはそのままである。

それからダンの名が見当たらない。これはまったくの欠落であって、弁護のしようもないが、敢えて言えば「裁き」(ダン)の必要は聖なる者らに無くなったということであろうか。(ローマ8:1)或いは、ダンの部族は北方の果てにあって、定住の段階から偶像を持ち、それがアッシリアによる捕囚まで続いた過去が関係するのかも知れない。(ヨシュア記18章)

そして極め付けは、レヴィが含まれていることである。(民数記3:40-41)
本来なら、崇拝に専ら関わるために神に取り分けられたはずの支族がこの中に再び名を連ねているのである。これはこの異様な十二部族の全体が神に刈り取られる『初穂』であることを示す寓意なのだろうか。(ローマ8:23)

そして十四万四千という数の少なさ。
これらが「アブラハムの裔」の全容なのだろうか。

ユダヤ教徒は新約聖書を受け入れておらず、ましてこの黙示録など論外だろう。最近はメシアニック・ジュウと呼ばれるところの、イエスをメシアとして認めるユダヤ人も現れたが、やはりこの黙示録の十二部族を受け入れることはとても難しいことであろう。

今日のユダヤ人では自らの部族を特定できることはまずないにしても、黙示録の十二部族の有様には相当に非現実性や空想のような違和感も覚えることであろう。
実際のユダヤ人のうちの僅か十四万四千人だけが神のイスラエルであるとすると、現在の1400万とも言われるユダヤ人、またこれまで生きた無数のイスラエル人はどうなるのだろうか。

これを解くに当たり、まず、「アブラハムの裔」が何を意味するかを考えてみよう。
神はアブラハムに現れ、『あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。』と約束していた。(創世記22:18)

その『子孫』というのが、その血統に与るすべての者ではないことを預言者たちは語っており、『イスラエルが海辺の砂粒のようであっても救われるのは残りのもの』とも語られていたのである。(イザヤ10:22)

そして、メシアたるイエスが来てから、その裔が集められ始めたのであれば、その数は数千万や億のように大きな数字は考えにくい。また、その後の二千年に亘ってイエスが天から聖霊を送り続けこの業を行い続けたとも言い難いものがある。即ち、今日までのキリスト教は初期のように聖霊を受けてきたとは言えないからである。

前に述べた通り、イエス後、おそらく百年から百五十年程度の期間をもって聖霊を受けた「聖なる者」の存在は見られなくなっている。その間に、その数は減少を続けて次第に消えていったのであれば、「アブラハムの裔」に選ばれた人々の数は、そう大きな数にはならなかったことだろう。

真に聖霊を受けた聖なる者である彼ら「アブラハムの裔」は、メシアと共になって人類を贖罪し、あらゆる人に祝福の機会を開くというこれ以上ない程に高められた立場に就くという。(黙示録20:5)
その点、聖なる者らは、その父祖アブラハムに相応しい強固な信仰という特質によって選び出されたのであり、誰でも彼でもというものではないだろう。


国民としての十四万四千という小さめの数字が実数としても、これが都市国家であるなら不適当なものとは言えない。実際、キリストに選ばれた「聖徒」たちは「新しいエルサレム」という都市を構成するとされているし、それこそがメソポタミアのウルを後にしたアブラハムが、遠い将来に目を凝らし、信仰の内に遥かに眺めた城市であるとパウロは言っている。即ち、全人類を祝福する彼の「子孫」の事である。(ヘブル11:10)
但し、この十二部族が現実の血統でないことを考慮すると、この十四万四千という数字が実数である蓋然性は低くはないと考えられるが、これは天界の事象であり人間の探求では断言できるに至らず、なお予断を許さないもののように思える。

この黙示録の十二部族にレヴィが含まれることは、本来のレヴィ族が神の崇拝に関わる役職であったことからの解任を意味するのであろうか。(民数3:12)
もしそうなら、聖徒についてペテロが『あなたがたは聖なる国民、王なる祭司』とは言わなかったろう。(ペテロ第一2:9)
それを考えると、やはり、この十二部族全体が祭司職を受けるということが、この十二部族にレヴィが含まれている理由とみることができる。


さて、主の来られる時に、メシアは『レヴィの子らを精錬して浄める』のであり、聖徒たちは迫害という精錬の過程を覚悟すべきことはイエス自身も再三語るところであった。(マラキ3:3)
彼らはイエスの名の故に迫害され、人々からの憎しみを受け、ある者らは死も甘受しなければならず、家族によってさえ告発を受けるというのである。(マタイ10:16-23)

こうした試練の中から相応しくない者は一掃され、かつて荒野を彷徨して邪悪な世代が過ぎ去ったように、神は約束に入れる者を吟味されるとも言っている。(エゼキエル20:36)

終末の裁きまで残る「生ける聖徒」の場合に、この精錬の結果が連れ去られる者と残される者の対比として起こる。
これはつまり、キリストの語った終末預言のうちの『ふたりのうちの片方は連れてゆかれ、片方は捨てられる』という最終的な選びであり、彼らは主と共になるために天に取り去られるが、これが教会一般に言われる「携挙」と混同されている。

それは、確かにパウロの言うように、天空で彼らが主と会うにしても、聖なる者としての地上での苛烈ともなり得る試練と選びの結果によるのであって、「祝福の内にクリスチャンが皆天に召される」などという御目出度いものではまったくない。(テサロニケ第一4:17)

ゆえに、これら試された者、聖なる者の数が然程に多くないとしても当然というべきだろう。しかも、その数を当時のユダヤ人で満たせなかったというのは相当に吟味されるということであろう。だが、聖霊を受ける人々の総数は144000を大幅に上回るに違いない。『狭い門を通って入るよう努める』べきなのは『入れない者は多い』からである。(ルカ13:24)

そして黙示録第七章の十二部族名が実際とそぐわないことは、血統上のイスラエルの余地がそこにまるで無いことを物語っているのであろう。

そのようにして、神はハガルの裔(肉由来のイスラエル)の混入を幾らも許さないのである。これはガラティア書中のサラとハガルの対比によってもパウロの論理に不明瞭なところが無いだけでなく、マタイ福音書などが、ユダヤ体制がキリスト拒絶によって退けられたことをイエス自身の言葉として語っている通りである。(ガラテア4:24-25/マタイ23:35/ルカ20:8-18)


即ち、この黙示録第七章の部族一覧は、血統上のイスラエルへの拒絶を示しているであろう。
それが、「アブラハムの裔」を集めることを望ます、メシアを除き去り、その弟子らをも迫害して死へと駆り立てた肉のイスラエルへの回答というべきだろうか。

アベル以来、それまでに流されたあらゆる義の血の清算を招いた西暦七十年に、神殿を廃棄された神のご意志に鑑みれば、将来、再び聖なる者が集められるとき、それはもはや血統上のユダヤ人ゆえの格別な恩寵は過ぎ去っているに違いない。律法契約から新しい契約へと移って行くユダヤ人はそれ以降なく、すべての人が、例えその人がユダヤ人であっても、以後は律法契約を経ずに新しい契約へと与ることになったのであろう。

以上が、十二部族に関わるアブラハムの裔としての事柄である。
だが、聖なる国民には「王」という権力も付されるが、では、聖なる者が受ける王としての立場、つまりユダ族への関わりはどのようにして得られるのだろうか。



◆ユダの王家の鍵
 

さて、これらの聖なる者ら「アブラハムの裔」の数はパウロが接ぎ木の例えを述べた時点で、既に満たされたのだろうか。
もし、そうなら以降に聖なる者の現れる余地は無い。
しかし、聖霊を受ける者らが『王や高官の前に引き出される』という場面が、過去に際立った仕方で見当たらない以上、それはなお将来の出来事であって、終末に聖なる者を登場させねばならない理由がある。

そして、黙示録自身も、これらのイスラエル十四万四千人が神の証印を受けるのは世の滅びの直前であることを示唆しているのであるから、メシアによる「アブラハムの裔」を集める業は未だ終了していないと見るべきであろう。

この点で、キリスト・イエスに与えられた権限は、聖なる者らで構成される都市国家『神の王国』エルサレムを形作るものであると言える。

ゼカリヤはその預言の中で、『その日、YHWHは、エルサレムの住民を匿われる。その日、彼らの中でよろめき倒れた者もダヴィデのようになり、ダヴィデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つYHWHの使いのようになる。』と書いた。(ゼカリヤ12:8)
『エルサレムの住民』とは終末の聖徒の聖霊の言葉に信仰を持った者らを表しているが、他方、聖なる者らは「神の使い」のようになるとされている。そして彼らはダヴィデの家の者と描かれているのである。
聖なる者たちが天使化することは、やはりパウロも使徒ペテロもヨハネも繰り返し述べることであり、彼らが主と共なる者、天界で神殿を構成する一員となることを表していよう。(ローマ8:29/ヨハネ第一3:2)


さらに『ダヴィデの家』とは、聖なる者らの支配権、つまり王家の一員としての側面を強調した預言であり、彼らはエルサレムを攻撃するであろう諸国連合にメシアと共に立ち向かうであろう。(ゼカリヤ12:6)
そこで彼らは十二部族に属するだけでなく、ユダ王統にも関与せねばならない。だが、その王家に何を以って属すと言えるのだろうか。


実にイエスは自らを指して『ダヴィデの家の鍵を持つ』と言われる。彼が開ければ閉じる者なく、彼が閉じれば開ける者なしという確固たる権威である。(黙示録3:7)
黙示録では、忍耐を保ったフィラデルフィアの聖徒たちの前に『開かれた扉』が置かれる、まだ彼らはその扉を通ってはいないが、ダヴィデの王家への冠に彼らが近づいたことを示しているのであろう。


同様に、イザヤ書22章には王家の家令エリヤキムに『ダヴィデの家の鍵』が委ねられている。
だが、これは模式的にメシアの持つ『鍵』の権威を表すに過ぎない。そのために、ゼデキヤの王座の終りまでにはエリヤキムの権威も地に落ちていたであろう。(イザヤ22:25)

エリヤキムの持つ『ダヴィデの家の鍵』について注目すべきは、彼の時代背景にあるようだ。エルサレムはセナケリブの前に危機に瀕しており、ダヴィデの王家もまたそのようであった。

しかし、それまで王家の家令はシェブナであり、この人物は利己的で相応しくもなかったのであった。
彼に替わってエリヤキムが立てられることによって王家は相応しく管理され、来るべき敵の攻撃に対処することができる備えとなった。

エリヤキムが家令に任命されると、彼は自らの親族を王家の役職に招じ入れ、彼ら一党はダヴィデの家の器となってそれを満たしたであろうことはイザヤも述べる通りである。

この将来的意味を探ると、聖なる者らはセナケリブで表される世からの第一撃で倒される者も出るだろうが、それは王家の危機にも見えるかも知れない。しかし、この危難に面して天使長ミカエルが『立ち上がり』エルサレムを救うが、更に『ダヴィデの家の鍵』を持つキリストは聖なる者らをダヴィデの家に招じ入れ、彼らを共同、また従属の王とする。彼らはゼデキア王と共に過ぎ去ったエリヤキムの家令職とは異なり、真の『永続する場所に打ち込まれたかけ釘』としてのメシアに掛けられるであろう。(イザヤ22:23)

そしてメシアと共に王権を拝受する聖なる者たちは、いよいよ「この世」のすべてとの会戦に臨むことになる。それは「世」に対する神の『応報の日』となるであろう。

彼らは『諸刃の脱穀機』と変じ『山々を打ち砕き、岡を籾殻のようにする』。
世の権力を表す山も岡もユダ王家の前には何の力もなく、聖なる者の強靭な脱穀刃に砕かれ微塵に過ぎ去ることになろう。(イザヤ41:14-16)

それは「アブラハムの裔」が『強大な国民となり』『敵の門を手に入れる』という神の約束の言葉に表されているところである。(創世記18:18/22:17/ダニエル2:44)

さてさて、こうしてキリストの業を顧みると、「アブラハムの裔」の持つことになる威光、その権勢の偉大さと、対照的にザアカイをはじめとしてそれに選ばれる者らの廉潔さとを印象付けられる。
それは『堂々たる姿を持たなかった』メシアと共に、卑しめられ、虐げられてさえいた『羊』こそが神の是認の下に集められるというところに、「この世」への断罪を下す神の復讐を見るかのようである。(ヨハネ16:8)

神に逆らって立てられた一切の高大なもの、その傲慢を覆すのは、この世では弱者で手厚く集められるべき羊たちであり、しばしばこの世にあって強き者からの迫害を受け、殉教をさえ遂げた弱き者らこそが『サタンの頭を砕く』「アブラハムの裔」であったということ。

それをマニュフィカートの中でマリアはこう預言する。
神は御腕にて力をあらわし 心のおもいのおごれる者をちらし

勢いある者を位よりおろし 卑しき者を高うし 飢えたる者をよき物に飽かせ 富める者をむなしく去らせたもう

また我らの先祖に告げたまいしごとく、アブラハムとそのすえとに対するあわれみを とこしえに忘れじと、しもべイスラエルを助けたまえり』(ルカ1:50-55)


これが聖なる書にあって「エデン」から「終末」へと向かうひとつの結論となっているのであり、真にキリストの業の意義を知るためには、この観点を要するのである。




       新十四日派  © 林 義平

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