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原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

オリーブの接木

諸国民の光「オール ラゴイーム」とオリーヴの接木

<難易度 ☆☆☆☆ 中>




「斯くして全イスラエルが救われる」(ローマ11:26)
このようにパウロが語ったときイスラエルは確かに危機にあった。
それは捕囚をもたらした罪科の時代に匹敵する、いやそれ以上の危機である。

そのイスラエルとは、血統上のイスラエル民族、アブラハムの嫡流を指している。
では、彼らが「救われる」べきどんな危機が臨んでいたのか?


まさに重大な危機であった。
イスラエル民族に神から約束されていたメシア到来に接して、彼らの思考力は衰え、なんと彼らは頭が頑なになってあの父祖の代から待望されたメシアを拒絶したというのである。


この件には、イスラエル人が自分たちの使命と認めてきた「諸国民の光」となるべきことの危機、そしてこの情況でパウロの語った「オリーヴの接木の例え」が関わっている。

もし、人類が「諸国民の光」を失うことになれば、イスラエルに留まらずあらゆる人々に神からの恩恵も救いも無い。

そのためにも、まずイスラエルが「諸国民の光」となることは人類の救いに関わる重大事であった。いや、と言うよりは「諸国民の光」となる事は現在も完結してはいない。
今日のイスラエル人ユダヤ教徒に彼らの使命は何かと問えば、「『諸国民の光』(オール ラゴイーム)に成る事だ」と答えだろう。

この『光となる』という民族の使命はいったい何を指しているのだろうか?
ではまず、この民が「諸国民の光」となるべき理由はどこから来るのかを観てゆこう。


この言葉は、イザヤ書に数箇所存在しているが、イスラエル人が使命と感じる理由を端的に語るのは49章にある。
まず、神は彼ら民族に向かって語る。『イスラエルよ、あなたはわたしの僕である。あなたによってわたしの美しさが現れされることになる』。

神からこう語られる民族の誉れは想像に難くない。

それから『あなたがわたしの僕となって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルの抑留者たちを帰り戻すことは容易なことであった。
更にわたしはあなたを諸国民の光とし地の果てにまで我が救いをもたらす者とする』とも神は宣う。

つまり、神はイスラエル民族を用いて人類に益をもたらすというのである。
それは遥かな創世記の昔、アブラハムへの約束にも含まれていた。
『わたしは、あなたから大いなる国民を作り、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。・・・地のあらゆる部族はあなたによって必ず自らを祝福するであろう』。(創世記12)

アブラハムの裔であるイスラエルは「地上のすべての家族」の益をもたらす器であり、彼らにこそ『様々な契約と律法の授与と神聖な祭祀と多くの約束』を神は与えたのである。(ローマ9:4)

それでキリスト・イエスが、自分を信じたユダヤ人らに向かって『あなたがたは世の光』と山上の垂訓に語った背景はここにある。しかし、異邦人に対してはけっしてそうは言わなかったであろう。(マタイ5:14)

だが、そのイスラエルもこの優れた立場を二度失う危機に面した。
一度目は、イザヤ書が預言したバビロン捕囚であり、二度目はメシア、すなわちナザレ人イエスの拒絶であった。⇒ イエスの終末預言

その二回ともイスラエルは神殿を失い、彼らの神への祭祀は不可能となったが、一度目は百年を待たずに再開したものの、二度目の神殿の喪失ではイスラエル民族による祭祀の中断は今日まで二千年に及ぶことになった。

特に、二度目の神殿喪失の原因は、貴重な神の「独り子」メシアを拒絶することに於いて決定的であったことを福音書が明かしている。(ルカ19:41-44)
イエスが現れ数々の奇蹟を行い、聖霊をもって「神のみ力」を示したにも関わらず、イスラエルの大半はこれを信じず、指導者らはメシアに躓いて、却ってローマ総督に処刑させたのである。

『律法はキリストに導く養育係』であるなら、これは永く続いた律法契約の目的からまったく逸れた大失敗である。その原因は『神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまった』ことにあった。即ち、不信仰である。(ヨハネ第一5:10)

では、イスラエルによる諸国民への光が輝くことはなくなったのだろうか?
全能の神(エル シャッダイ)を称えるイスラエルの神YHWHにとって『手が短い』ということはない。(民数11:23)

血統上のイスラエルの僅かではあってもイエスに信仰を持った『残りの者ら』を保ちつつ、アブラハムのような信仰を持った非イスラエルの信徒からアブラハムの約束を成就する器たるイスラエル、つまり『神のイスラエル』に招き入れたのである。


このことは、メシア拒絶の酬いとしてのエルサレムと神殿の破壊を待つ「世代」の間にも進められた事業であり、その門は使徒ペテロによって異邦人に対して開かれていた。

異邦人をもイエスが招く姿は「羊の囲い」の例えに示されており、それが見事な預言であったことを使徒らは自らの体験を通しても理解したであろう。⇒ 「羊の囲い」の例え

実に使徒たちの活動は、『諸国民の光』となる人々、つまり血統だけによらず信仰による真のイスラエルに属する当時の人々を集め出す業ということに尽きる。その光は血統上のイスラエル民族の大半から離れ去り、彼らと異邦人のふたつの群れを成す『神のイスラエル』こそが『諸国民の光』として輝くよう招かれ『産み出され』ようとしていたのである。

そうして頭書のパウロの『斯くして全イスラエルが救われる』という言葉が明瞭となるのである。



-◆オリーヴの接木---
 

「諸国民の光」となる主要な裔また胤は、ひとりのアブラハムの子孫、ダヴィデの王権の継承者、約束のメシア、ナザレの人イエスである。
このことを認めることのできたイスラエル人は真に幸福である。その人もまたイエスと共になって『諸国民の光』となりアブラハムの大いなる遺産『神の王国』、真のイスラエルを受け継ぐ者となるからである。

それは、肉を去って『死へのバプテスマ』を受けアダムの命にあって死に、イエスの命にあって霊を受け天に生きる体を受けることになったからである。

つまり、人類を益するアブラハムの裔また胤とは、キリスト・イエスを中心に天に召集される一団の人々であり、人類に対して幸福な善政を敷き、罪を贖う祭司として働くのである。


使徒ペテロがキリストの信徒らを指して『あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた格別の民である。それは、あなたがたを、闇の中からご自分の驚くべき光に招いてくださった方の優れた徳を、あなたがたが宣明するためである』。と語った背景はここにある。(ペテロ第一2:9)

この「神のイスラエル」に選ばれた人々には、あの五旬節以降、聖霊の賜物が降り、パウロはその聖霊の賜物が選びに対する「事前の保証の印」であると言う。(エフェソス1:14)

その聖霊の賜物が異邦人に対しても注がれるようになったのは、使徒ペテロがローマ士官コルネリウスを尋ね『神の王国の鍵』を彼らに対して開けたときからのことである。

その時、はっきりと神意は示され、イスラエルに血統によらないアブラハムのような信仰を持つ異邦人が真の意味での裔として呼び込まれたのである。

それは丁度、いざ息子の婚宴を始めようとしたときに招いておいた招待客が集まらないので、何処なりとも居る人々を招いて満席にした王のようであった。(マタイ22)

イエスは、あるローマ士官の信仰の強さを讃嘆してこう述べたことがあった。
『「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。 あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天の王国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外の闇に追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。』(マタイ8:10-12) 
 

加えて、「異邦人への使徒」であったパウロは、後に「オリーヴの接木」の例えを語るのであった。

それはローマ人への手紙の11章にある。

パウロはイスラエルのメシア拒否が古代の預言者エリヤの状況に当たることを述べる。
イスラエルは預言者たちを殺害し、神の祭壇を覆し、残された預言者エリヤをも亡き者としようと追っていた。そこにおいて神は、異神バアルに屈しない七千人の残りの者をイスラエルの中に残しておいたのであった。(列王第一19:18)

同じように、ナザレのイエスに信仰を置く幾らかの『残りの者』がおり、彼らは血統上のイスラエルからの者らであって、イザヤはこれを『イスラエルが海の砂粒のようであったとしても、救われるのは残りの者である』と預言していた通りである。(イザヤ11:22/ローマ9:27)

ではイスラエルの不信仰のために欠けた神の王国の人員はどうされるのか?

そこで神は接木という秘策を用いて不信仰なイスラエル人を剪定し、信仰深い非イスラエル人という産出の見込まれる野生ながら良質な枝を接ぐというのである。

『では、ユダヤ人が躓いたのは、まるで倒れてしまったということなのか。決してそうではない。むしろ、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になったが、それは、彼らに嫉みを起こさせるためだった。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼ら(イスラエル)の全体が救われたとすれば、なおのこと良い』。(ローマ11:11-12)

こうして、異邦人はアブラハムという種から成長したオリーヴの木、血統上のイスラエルに接木され、その枝数が満たされる。

 そこでパウロの次の訓戒の意味が明瞭に理解されるようになろう。
『もしある枝が切り取られて、野生のオリーヴであるあなたがそれに継木され、オリーヴの根から豊かな養分を受けているのなら、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのである』


 それゆえ聖霊を受けアブラハムの裔に連なることが許されたことは特例である。
『彼ら(イスラエル)は不信仰のゆえに折り取られ、あなた(異邦人)は信仰のゆえに立っている。高ぶった思いを抱くことなく、むしろ恐れよ』
『もしあなたが、自然に生えた野生のオリーヴから切り取られ、自然の性質に反して良い(栽培の)オリーヴに継木されたのなら、ましてこれら(栽培されていた)良い枝は、より良く元のオリーヴに継がれないだろうか』。


 これは異邦人に対するイスラエル人の本来的優位を述べている。
『諸国民の光』となるべき神の選民イスラエル、その『神の王国』の民となることが異邦人に開かれたが、それは期間も人数も限定されたものである。


パウロはこう言っている『諸国民が入って(全数が)満たされる(プレーローマ「完成する」)までイスラエルの一部に頑なさ(ポローシス「頑迷」「見えない」)が生じたということである』。(ローマ11:12.25-26)

これは無制限な異邦人の流入を意味しない。「イスラエル」への一定数の人員が確保されるなら召しは終わるのである。

 但し、彼らは召されてなお厳しい試練のふるいに掛けられるので、聖徒に召される人の数は定数よりは相当に多いのであろう。その最後の選別についてもイエスは様々なたとえを用いて『狭い戸口から入るよう努めよ、入ろうとしながら入れない者は多い』とも言い添えている。(ルカ13:24/マタイ10:32-39)



-◆救いの実態----
 

キリストの意義は何かと問えば、神と人との仲介者であろう。(テモテ第一2:4.5)
すなわち、エデン以来神から離反し「罪」を負った人類を、創造本来の神の創造物たる「神の子」に復帰させ、人類を「救う」ことである。(ヨハネ1:12)

それを以って人類は輝かしい神の特質を反映することが出来るようになろう。

天界で神の傍に住まう喜びは『天の王国』に選ばれた者、聖霊の賜物をはっきりと有する人々のものであった。聖霊の保持は本人にしか分からない心理作用などではないし、今日のスピリチャルのように自己を益するものでもない。また、忘我の憑依状態とも無縁であった。(コリント第二2:22/コリント第一14:12・15)

だがそれが、西暦第二世紀以降のどこかで聖霊の賜物が無くなったことから、キリスト信徒の間に理解の混同が起こった。

つまり、使徒たちが聖霊の賜物を有する信徒、つまり『聖なる者ら』(ハギオイ)という人々に語った言葉の数々を、そのまま自分たちに語られたものと思い込んだのである。
ローマ人への手紙は「聖徒ら」(ハギオイ)へと、宛名書きされているが、新約の成立する時期には、聖霊を有する人々の比率はエクレシアの中で相当高かったようであるが、それでも信徒と聖徒の区別は聖書中に幾らか見られる。(ローマ1:7/12:13-)

このように、キリスト教徒の間に「信徒」と「聖徒」に区別があるとしても、それは所謂「差別」とはならない。なぜなら、天でキリストと共になる人々は人類の益に仕えるのであり、その他の人々は言わば「客」のようにその幸福に与れるのである。(黙示録20:6)

地上に人として生きるということは、天に行くための準備でも裁きのためではなく、そのように地上で生きるよう創造されたからである。⇒ 政治と宗教の存在理由


ひとりの天使であったサタンの違反を通して創造界に入ってきた「罪」がもたらしたものに人類は全歴史に於いて苦闘してきたが、それらの諸悪からの解放こそが人類の救いであって、神はその手立てをアブラハムに告げていたのである。

しかし、聖霊の賜物を失ったキリスト教は、以後その状態のままで回復されていない。
もし、真に聖霊ある者がいるなら、その人は為政者と対峙し、誰からも反駁できない聖霊の言葉を命をかけて語り、それは世界を震撼させるとされている。(マタイ10)

今日、異言を語るというキリスト教徒も居るが、為政者と対峙するほどのメッセージを彼らは持つのだろうか?ただ、自分の理解できぬ言葉を語ったからといって世界に対してどれほどの意義が生じよう。

しかし、聖なる者が現れるなら、彼らこそが神の正義と真理を持つゆえに、分裂し相争うキリスト教界は彼らによって徹底的に浄化されるだろう。彼らの持つ聖霊には反駁のしようもないからである。

それこそはキリストの帰還、「再臨」とも称されることのある「臨御」(パルーシア)の時の証しとなる。

人はそれをもって『夏は近い』と知るからである。⇒ パルーシアの標識

以上のようにキリストの教えを理解することが、如何に既存の大半のキリスト教会と異なるかを知るなら、多くの信徒には受け入れられないであろう。

それは恰も、ユダヤ人もパウロのキリスト教を受け容れることが出来なかったように、その逆もまた仕方のないことではあるが、このように理解するなら聖書理解の見通しは一気に開かれて、様々な記述が次々に得心できるものになるであろう。

キリスト教とは、アブラハム、イスラエルに啓示され、古代から漸進的に進められた神の歩みの連続の上に理解されるものではないのか?
キリスト・イエス自身もまったくのユダヤ人であり、『女より出でて律法の下に置かれ』生涯ユダヤ教徒であったことは紛れもないことである。

端的に言って「キリスト教」とは欧米文化のものではなくユダヤ=イスラエルの教え、つまりアジアのものに他ならない。
それが聖霊が引き上げられると共にキリストの不在が始まり、聖霊を持つという意味での「イスラエル人」が居なくなった上、ユダヤがキリスト教を拒否したので、この優れた教えもギリシア=ローマなどまったくの『異邦人の罪人』が踏み躙る汚されたものとなったのである。⇒ キリストの不在

ではイスラエルの聖なる神は、聖霊もない単なる異邦人にいったい何時『諸国民の光』となるよう任じたのか?誰も聖霊なくしてアブラハムの裔とはならず、その接木ともなれない。

そもそもキリストが「ユダヤ教を改革した」というのは大きな誤りというべきであろう。
「任命された者」であるキリストは聖書の教えをユダヤ教から先に進めたのであって、それは一連の神の計画の中でのことであり、キリスト教だけ独立させて捉えるならオリーヴの根からの滋養は届かず、いずれは枯れゆくものとなるのであろう。

聖霊による『神のイスラエル』への選びこそが全人類を救済する『諸国民の光』をいまだ保っているのであり、そのように理解されるときにこそ数千年に亘る神の歩みのままの力を得て、解釈を語る言葉は神の足取りのように確固たるものになるであろう。




         新十四日派   林 義平

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賃金の例え話 後の者は先に、先の者は後に




イエスの「賃金」の例え話はマタイ福音書二十章のはじめから読むことができる。
以前にもぶどう園の悪い耕作人たちの例え話に触れたが、ここでもぶどう園のオーナーと作業する者たちが登場する。

初夏を迎え、ぶどうが取り入れの時期になったので、オーナーは収穫作業のために人々を一日一デナリウスの賃金で雇い入れる。しかし人手不足なので午前九時ころに公共広場に行き、その日に仕事がない男たちをも日雇いにして自分のぶどう園に追加の労働力として送り込んだ。

しかし、相当な豊作だったのか昼頃にも同じように人手を増強して、さらに二回、つまり合計四回人手を送込んだ。そのため、朝からの者らの労働は十二時間にも達していたが、最後にぶどう園に着いた者たちは、わずか一時間働いたのみであった。

こうして夕刻になると、オーナーは最後の者から始めてどの者にも同じく一デナリウスを支払った。そこで収まらないのが最初から働いた者たちである。オーナーに向かって『最後の者たちは一時間働いただけなのに、あなたは日がな一日の炎暑と労苦とを耐えたわたしたちを等しくした』。(マタイ20:12)もっともな主張ではある。

だが、これは適正な労働賃金について説明する話ではない。オーナーの答えは『同胞よ、わたしはあなたに不正をしていない。あなたはわたしと一デナリウスで合意したではないか。自分の分を取って行くがよい。わたしは、この最後の者にもあなたと同じに与えたいのだ。わたしが自分の物をしたいように使うのは当然ではないか。それとも、わたしの気前よさが、あなたの目には悪く見えるのか』。というものであった。

-◆足りない選民「イスラエル」への異邦人の補充---------------------

イスラエルの歴史は非常に長い。
我々は彼らの父祖アブラハムへの約束やモーセの律法が与えられてからのこの民族の歴史をかいつまんでみて来た。彼らの不従順が原因とはいえ、その歴史は苦難の連続であった。
彼らはまる一日の労苦と暑さを辛抱した最初からの労働者のようである。

対照的に、コルネリオのような割礼も受けず正しくユダヤ教に改宗もしていないまったくの異邦人はどうであろう。ユダヤ人がやっとの思いで辿り着いたメシアと聖霊に一足飛びに預かってしまった。いまや彼らは「諸国民の光」となるべきアブラハムの遺産を受け継ごうとまでしているのである。

しかし、ユダヤ人のイエス派信徒の大半はトーラーの教えから脱却するのに手間取り、異邦人信徒のように身軽にイエスの新しい教えに合わせることはできなかった。キリスト後も使徒たちは依然としてエルサレムの神殿を中心に活動しており、エルサレム倒壊以前に新たな見方をはっきりと培っていたのは、異邦人への鍵を開いたペテロと、新たな使徒パウロなどの少人数のように聖書は読める。

西暦60年代に入るころになっても、ユダヤのイエス派信徒は数万いたとあるが、それは全体からすれば僅かな数である。おそらくは十分の一以下はもちろん、ユダヤ人と名の付く人々の百分の一にもならなかったかも知れない。イエスをメシアと認めた少数派の彼らは敬虔なユダヤ教徒でもあった。だが、当時のイエス派ではペテロやパウロの活動に明らかなように、異邦人による選民への補充というイエスの意図は同時進行している最中であった。
しかし、「異邦人は汚れたもの」という律法的思考をユダヤ人はそう易々と変えることはできない。まして現状で律法の規定に従う生活をしていれば、それは無理といっても過言ではないだろう。

だが、こうして我々は、イエスがユダヤの律法体制の『囲い』にはいなかった『この囲いのものでない』羊を連れてくるということ(ヨハネ10章)に関して、この譬えの最後の言葉『後の者は先になり、先の者は後になる。』(マタイ20:16)という例え話を締め括るこの言葉が現実性を帯びるのを見る。

この「賃金の例え」は、直接にはイエスの言葉を聞く使徒たちへ向けた警告となり得た。彼らはユダヤ人であり、彼らがこの例え話を仲間のユダヤ人信徒に言い伝えることで、間接的に同胞のイエス派信徒たちにも遺産相続を異邦人にも許す覚悟を固めさせる効果もあったろう。

つまり、キリスト以後「異邦人の罪人」までもがアブラハムからの相続権を得たとしても、ユダヤ人たちが不公正に受け取ったり、嫉妬しないためである。

これが語られたのはイエスの刑死が近づいた春先で、主を含む一行がエルサレムへの最後の登城をする旅程の中にあった。

すでにユダヤでは、祭司長派によって体制としてナザレのイエスを退ける算段が進んでおり、メシアを信仰の内に捉えるのはユダヤ体制の全体ではなく、僅かな「イスラエルの残りの者」だけであることは確定的であったから、アブラハムの相続財産を受ける『王国』を構成するにはユダヤ人だけでは不足すること、そしてその補充のために異邦人でイエスをメシアとして信じる者らを、その血統によらず信仰によって真のアブラハムの胤として集め出し、『メシアの王国』「神のイスラエル」を実現させる必要はもはや動かしがたい現実として眼前に迫っていたのであった。

後に使徒パウロは、この補充について果樹園のオリーブの樹の接木の例えを用いて説明している。(ローマ11:13-)イスラエルというオリーブの樹に実を結ばせるために本来の枝は折り取られ、異邦人という野生ながら良好な枝が接木されて、イスラエルの樹全体が満たされ「数が揃う」と言っている。(一定数であり無制限ではない⇒「聖霊と聖徒」)

しかし、そこではユダヤ人と異邦人という二つの群れが生じる事態をすべての弟子は乗り越える必要があり、これは後にエルサレム使徒会議を要請し、イエスの弟ヤコブの寛容な裁可を以って、当時には律法に従い続けるユダヤ人イエス派と、律法の頚木を負わない異邦人イエス派とがそれぞれ共栄する道が開かれたのであった。(エルサレム会議のヤコブ

しかし、それでもユダヤ優等主義はエクレシアからは絶えず、使徒パウロは生涯を通してこれと戦い、これによって逮捕投獄され、これのためにローマに送られてもいるのである。

それで、このイエスの「賃金の例え」に見るように、ユダヤ人の永い歴史に亘る神の経綸との関わりが、遺産相続における代価の受け取りに反映されていない、また不公正であると、初めからの労働者たちに相当するユダヤ人らが見做されることは無理からぬものであろう。それゆえにも、イエスはこの例えを話しておくことにしたのであろう。

あのシャヴオートの日には、祭りに登っていたユダヤ人に「聖霊」を通して遺産相続が約束されたのだが、その日から遠からず使徒ペテロの活動を契機にサマレイア、そしてまったくの異邦人たるローマ人へとアブラハムからの相続権が聖霊の降下と共に広げられていったことは、ユダヤのイエス派信徒に少なからぬ動揺をもたらしたであろう。(使徒11:1-2)

ユダヤの優等性を図りたいユダヤ人が異邦人のイエス派信徒に向かって、ユダヤ教への改宗者のように割礼を受けるべきだと主張したとしても想像の難しいことではない。(使徒15:1)
彼らにとってメシアを受け容れるということはユダヤ教の完成を意味したのであり、実質的に「古いぶどう酒は旨い」と言っていたに等しい彼らは、後のキリスト教という世界宗教への脱皮を果たすことなどは概念すらも持たない。(ルカ5:39)

ただ、彼らとて神意である天からの聖霊の導くままに任せるより他無かったが、その聖霊は無割礼のままの異邦人にも向かっていったのである。確かに、賃金の支払い方としては公正とは言えないだろうが、そこでは神の選んだ国民(出埃19:6)の不足が、真のアブラハムの後裔「神のイスラエル」の数を満たす必要をして、ぶどう園のオーナーに「気前のよさ」をもって振舞わせたのである。つまりは、『働き人』の不足がもたらした事態なのである。

明らかに、キリストが去ろうとするこの段階で、ユダヤの不信仰による「人手不足」は深刻なほどであった。
それはつまり、『神の王国』『聖なる民』となるべき都市国家「聖なるエルサレム」を構成するべきユダヤ人が少な過ぎ、当時のユダヤ体制はメシアを拒絶し、招かれていたのに『結婚式には行けない』と言ったのであった。(マタイ22:1-10)

この件がはっきりとした段階での、「賃金の例え」を語っていたイエスの意志は、聖霊の活動によって「神のイスラエル」の信仰ある異邦人を採用しての補充へと動き、民族的国家教から世界宗教への方向性を明示し、それは誰も抗い得ない神の経綸となった。

こうしてアブラハムに語られた、人類全体を祝す手立て『神の王国』、キリストを主要な王また大祭司とする人類救済の『天の王国』が、ユダヤ人の不信仰と失敗を乗り越え実現へと向かう道を進み始めたのである。




                     新十四日派    © 林 義平
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以上は拙著「神YHWHの経綸」中巻からのダイジェスト

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