quartodecimani blog

原点回帰の観点からキリスト教を見る・・ 「神と人を愛せよ」この一言に発し、この一言に終わる

キリストの愛

イエスとは何者か 「ホクマの謎」


さて、過越しの子羊の対型がキリストであることは別にしても「お前はいったいどこから来ているのか?」と訊ねたローマ人ピラトゥスの質問への答えが残っている。イエスとは何者か?(ヨハネ19:9)

ガリラヤ地方のナザレ村で大工をしていたヨセフが、ダヴィデ王族の血を引く者であったことは既に述べた。
このヨセフがどのようにして長男を得たかについては、これはあまりにも知られたことではあるので、ここでは、むしろイエスが普通の人ではないことが異国人にさえも知られる様子を聖書中の記述から明らかにしておこう。

ヨセフは元々ユダ族のエッサイつまりダヴィデ王の家系に属する地域のベツレヘム・エフラタの出身であったが、エホシュア(エシュア=イエスース)と名付けた長男をヘロデ大王の手から保護するため、エジプトに逃避し、大王の死後になっても相続地の故郷に戻ることなく、大王の後継となったアルケラオスの野心を恐れてガリラヤ州、田舎のナザレに移り住んで大工の仕事に精を出す。


そこはユダヤ性が薄く、古来「諸国民のガリラヤ」とさえ呼ばれ、ヨセフの当時の住民からギリシア語さえ聞かれるような土地であった。ガリラヤとは、まさしく「異教徒の土地」を意味するのであるから、ユダヤ人は当地の出身者を見下す傾向を助長していたことであろう。
そこで育ったヨセフの長男は「ナザレのイエス」と呼ばれる。

しかし、信じるものにとって彼はイスラエルに約束されたダヴィデ王統のメシアであった。
預言者イザヤはそのメシアを次のように描いている。

『ひとりの嬰児がわれらのために生まれ、ひとりの男子が我らに与えられたからである。支配者としての統治がその肩に置かれる。そしてその名は、驚くべき導き手、大能の神*1 、永遠の父、平和の王、と唱えられる。

ダヴィデの王座に着いてその王国に君臨し、支配者としての豊かな統治は増し加わり、その平和に終わりはない。それは、今より定めのない時に至るまで、公正と正義とによってこれを強固にうち立て、支えるためである。実に万軍のYHWHの熱意がこれを行なう。』(イザヤ9:6~7)

キリスト教徒にとってイエスがメシア=キリストであることはまったく明白である。
ではユダヤ人にとってはどうだったのだろう。



-◆「ホクマ」の謎------------

神の創造の手助けをしたという何者かが存在したことについてはユダヤ人も旧約聖書から知ってはいた。
それが箴言の八章一節で自らを『知恵』(ホクマהכמהと名乗る何者かであった。しかし、それが何をまた誰を意味するのかは箴言に十分には語られていないので、それはユダヤ教徒には謎となった。

箴言では『知恵』(ホクマ)は自分について次のように言う。
『YHWH*が昔その道の初めのときに生み出した。その偉業の初めとして、わたしを造られた』。(箴言8:22~)(*現在発音不明の創造神の至聖なる固有名)

この箴言の句の続きによれば、ホクマは神と共に様々な創造に関り、神の傍らにあって『名匠』([口語訳])となり、創造の日々を愉しんだという。したがって、ホクマは神による他の創造物に先立って存在していたことになる。しかも、これを見出す者は命を見出し、これを憎む者は死を愛するとまで云うのであるが、このホクマが何者であるのかは箴言の書が編纂されて以降、ユダヤ人の謎であり続けていたのである。

では、このホクマがイエスとなったのだろうか?

使徒ヨハネはこの大権を持つことになるメシアを「ことば」と関連付ける。
『初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神*2であった。それは初めに神と共にあった。すべてのものは、それ(「言葉」ギリシア語“ロゴス”)によって生じた。それを離れて生じたものは一つとしてなかった。』(ヨハネ1:1~3)

使徒に召されたパウロは、この件について更に疑いようのない証言を加えている。
『彼(イエス)は、見えない神の像であって、全創造物の初子である。すべての物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、みな彼によって造られた。すべての物は彼を通じて、彼のために創造されたのである。』(コロサイ1:15・16)
このように記したとき、元は優れたパリサイ人であったパウロの脳裏に、ソロモンの箴言に記されたあのホクマがあったに違いあるまい。

だが、このように神の創造を助ける存在があるからといって、神の至高性が損なわれるわけではない。却ってその第二位の存在者が根源者たる第一者を尊崇するならば、彼より下に在るところの第三位以下の被造物一切が至高者に栄光を帰すべき道理が生じ、ホクマは至高神たるものが崇められるべき要となる。

そうしてホクマの従順の死を通して、神の神たることが疑いなく打ち立てられ、サタンはまったく敗北するのである。(ヘブライ2:14)

そのために「ホクマ」(知恵)は地上に来たのであるが、それを言葉「ロゴス」に明かした使徒ヨハネは、「ホクマ」の先在性を示し、更に続けてこう述べる。
『こうして言葉は肉体となって我らの間に宿った。我らはその栄光を目にした。それは父のひとり子の栄光であり、まさに慈愛と真実とに満ちていた。』(ヨハネ1:14)

こうして、ユダヤ人の「ホクマの謎」はキリストの使徒たちによって解き明かされたのである。
キリストが人々の罪を浄めるなら、キリスト自身は人の罪をもたない者でなくてはならぬゆえに、アダムの血を受け継いではいないという前提が必要になる。そうでなければ、イエスも我々と変わらない罪ある人でしかない。
したがって、そのことが奇蹟か否かという前に、処女からの誕生、天界からの魂の移動を要請するのである。

古代説話に特別な妊娠がいろいろあったとしても、イエスの場合の、この贖罪の必要から導き出される処女懐胎は意義で際立っており、単に誕生してくる者の特殊性、また偉大さや侵し難さを外面的に印象付けるものでなく、人間の罪からの救済に関わる重要な論理に裏付けられるものである。

そしてメシアの優越性と特殊性は、イエスが地上にあったときに謙虚な人々には明らかであったと同時に、認めようとしない者たちには逃げ道を設けるような素朴な姿もなくてはいけなかった。そうでなければメシアへの「信仰」が試されないからである。


-◆ユダヤ人はホクマを認めず-----------

イエスが神殿の宝物庫の近辺でユダヤ人らと緊迫した論議を展開した場面がヨハネ八章に記されているが、その終わりの方で、いきり立ったユダヤ人らがイエスに「お前は五十にもなっていないのにアブラハムを見たというのか?」と詰め寄ると、イエスは「アブラハムの前からわたしは存在していた」と答えたのだが、三十歳ほどのナザレのイエスを前に激昂しているユダヤ人にホクマを推論することなど到底できぬことであったろう。彼らはその場でイエスを処刑すべく石を拾った。

また、「もし、お前がメシアならはっきりそう言え!」(ヨハネ10:24)と迫ったときのユダヤ人に、パリサイの仰々しい服装にテフィリンに房の長いタリットを身に付けた恰幅の良い姿でベツレヘムから来たうえで、ダヴィデの家系図と幾らかの奇跡(これは形ばかりでよかろう)を見せてから「我こそはホクマなり」と厳かに言い放ったのなら、それらのユダヤ人もイエス様様と崇め奉ったであろう。

しかし、それではユダヤ人の信仰の有無も、内奥にある心の傾向もさらけ出すことにはならなかったであろう。

しかし、逆に質素な身なりをしたイエスは廉潔に「わたしは自分のために栄光を求めず」と言い「父を尊んでいる」とも言われる。これに違わず、聖書中に示されるイエスの「父」に対する尊崇の熱意は極めて厚い。(ヨハネ8:49-50)

祭りでエルサレムの神殿に上ったときなど、父YHWHの神殿で暴利を貪る者たちの商売を覆して追い出し、聖域を近道の通路にして畜獣を通行させる認識の薄い者らを縄の鞭をもって駆逐する勢いには弟子らも息を飲むほどであったようだ。
イエスにとって神殿は「父の家」であり、清くあるべき「諸国民の祈りの家」を汚すことなどけっして許さず、父に対する敬愛の情熱に燃え上がったのである。
弟子らは「父の家に対する熱心がわたしを食らい尽くす」の詩篇の句を、そこで目の当たりにしたのであった。(ヨハネ2:17/詩篇69)

イエスが、これほどまでに激しい「実力行使」に及んだのも、神殿での義憤に満ちたこの浄めの業だけであろう。
しかし、自分自身については「わたしを信じずとも、父がわたしに行わせる業は信じよ」、また「人の子を罵倒する者も許される」という。(ヨハネ10:38/ルカ12:10)
すなわち、自らを捨て置いても「父」の名誉を高め、その意志を遂行する熱意を感じないわけにはゆかない。

そこには創造者と創造物という究極の父子の絆が見える。
子は父を愛して、その父性と神性を熱烈に擁護してやまないのである。

イエスは自らの「父」について事ある毎に言及したうえで「子は自分からは何事も行うことはできず、父のなさることを見て行う以外にない。父のなさることすべてを、子もその通りに行うのである。」という。(ヨハネ5:19)

これは父から委ねられたという裁きについても同様である。
「わたしは、自分から(独自に)は何事もすることができない。ただ聞いた通りに裁くのである。そして、わたしの裁きは正しい(公正である)。わたし自身の考え(意向)でするのではなく、わたしを遣わした方のみ旨を求め(探し出し)ているからである。」(ヨハネ5:30)

このように父を高めるイエスの意志は非常に強固である。
他方、今日では大半の人間が神を擁護せず「父」ともしない理由は至って簡単であって「子」ではないからである。アダムの時以来、自ら人間は神の「子」ではなくなり、神も認知していない。(ヨハネ1:12)

しかし、イエスはまさしく「子」であり人間となったゆえに自ら「人の子」を称した。
この長子は「父」の神性を立証してすべての上に高め、神から離れた人間たちを再び神の「子」に復帰させようとする強い意志を持っている。そうでなければ、罪の贖いの犠牲の死を自ら遂げたりするだろうか。(フィリピ2:10-11)

すなわち、神と人の両者に対しての仲介者であり、双方への深く熱烈な無私の愛情に満ちている。(テモテ第二2:5)
我々はこのような人物を他に知ることがあるだろうか?
そしてイエスは明言する「父はわたしより偉大である」と。(ヨハネ14:28)

しかし、こうしたイエスの廉直な熱意は、近視眼的で事の全体を見通せない「敬虔な」ユダヤ人にとっては大きなつまずきとなってゆく。
その理由とは、父への熱意に燃えるイエスの意向とは正反対の「神を父と呼んで、自分と神を同等にした」というものである。それはこの人物の望む筈もないことではないか。(ヨハネ5:18)

それはイエスの審判での罪状ともなった。
時の大祭司カヤファはイエスを詰問して言った「お前は神の子キリストか?」
そして、イエスはここで敵意を抱くユダヤ人に対して初めて明言する「然り!」と。

それは本来恐るべき一言であるにも関わらず、カヤファはこれ見よがしに上衣を裂いて「これは冒涜だ!」と叫んだ。「諸君は今、その冒涜の言葉を聞いたのだ!このうえ証人の必要もない!」とたたみ掛ける語勢には何かをかき消そうとするかの響きがないだろうか。(マタイ26:63-65)

こうしてイエスは神YHWHの「子」であると認めたために断罪されたのだが、イエスがホクマという別名を有する神の初子であることはまさしく覆しようのない真実である。その事はイエスの行う業そのものが充分に証していたのだが、ユダヤの宗教領袖たちはそこに奇跡の歓びを見出さず、却って「悪魔の仕業」と言って蔑みさえした。

その一方で、民から尊敬されるこれら宗教家らが、総督ピラトゥスに対して訴え易くするために税金の件を本来の罪状とすり変えることまでやってのけたが、これは手段を選ばぬ卑怯な不正の上塗りである。

使徒ヨハネは後にこう語る。
『神を信じない者は神を偽り者としている。神が御子について証しせられたその証拠を信じないからだ』。(ヨハネ第一5:10)

加えて、宗教家らがあらゆる努力を尽くして守ろうとしていたモーセの律法には、このようにも書かれていたのであった。
『わたしは彼らの同胞の中からあなた(モーセ)のような預言者を立て、その口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じるあらゆることを彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、これに聞き従わない者がいるなら、わたしはその者に言い開きを求めることになる』。(申命記18:18-19)

さらに旧約聖書での最後の預言者マラキに至っては、ユダヤに到来するメシアが彼らの幸いにはならない警告を次のように告げていた。
『彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れる時に誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ』。(マラキ4:2)

まさしく、ユダヤの宗教体制はその懐いていた邪悪を表してナザレ人イエスの現れから身に裁きを受け、メシアを『つまずきの石』としてしまったのであった。(ローマ9:32)



さて、ローマ総督という当然に「ホクマ」を知らないユダヤ教の外の異邦人である第三者の視座からナザレのイエスを審査すると、ピラトゥスには、この奇跡を行う人への嫉妬に狂ったユダヤの宗教領袖らの主張とは異なるものが観えていた。

それは、何度も釈放しようと繰り返し努めたピラトゥスの姿に現れている。
だが、それはユダヤの宗教家らに属する群衆によって釈放の意図は毎回尽く退けられてゆく。この群衆は確かにこう言った『この輩の血の罪は、我々と子らに降り掛かっても良いのだ!』。その後この言葉はその通りになってゆく。

ピラトゥスは、祭りのときに決まって恩赦を与えることを思いつき、イエスをそうしようとしたが、これは却って凶悪な強盗を解放することになってしまう。
次いで、イエスがガリラヤの出と知って、そこを治めるヘロデ・アンティパス王の許に護送させたが、罪に裁かれるでもなく送り返されたのであった。


やがてピラトゥスも、ますますイエスの罪状がはっきりせず、自分が何やらとてつもない審判に首を突っ込んだことに気付いてゆくのだが、その潮流の大きな渦の中心へと次第に巻き込まれ、抗うことはできなくなってゆく。

総督の妻はわざわざ彼に使いをよこしてまで、夢見が悪いので「その義人に関わらないでください」と言ってきた。

古代人にあった神への迷信的畏怖も働いていたとはいえ、ローマ人ピラトゥスは神というものへの畏敬において、この時ユダヤの宗教領袖らに勝るものがあったというべきであろう。
「この男は死に処されるべきなのだ、自分を神の子だと言ったのだから。」
というユダヤ人の発言を耳にしたときのピラトゥスの動揺する心境は、もはや質問の意味も成さないイエスへの一言に表れていよう。

「お前はいったいどこから来ているのだ!」








          新十四日派    林 義平

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*1『大能の神』(エル・ギッボール):『全能の神』(エル・シャダイ)と区別されるが、イエスも従属的ながら「神」である
*2ヨハネもイエスについて、冠詞を付けない「神」と書いてイザヤ書と一致する扱いをしている

この事件をローマの元老院議員にして歴史家のタキトゥスはその「年代記」でこう記している。
『その名称の起こりとなったクリストゥスは、ティベリウスの治世中に我々の行政長官の一人、ポンティウス・ピラトゥスの手で、極刑に処せられた』

その後ユダヤ人が編纂した「タルムード」はナザレのイエスについて述べ「ガリラヤの私生児で魔術を行い民を惑わした」という。



 以上は、
「神YHWHの経綸」上巻からのダイジェスト


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キリスト教の真髄 「愛の掟」


キリスト教の真にキリスト教たる真髄は何であろう。

それはユダヤ教からの見事な脱皮、次元上昇を成し遂げさせた事柄である。それはキリストの教え「愛の掟」とも呼ばれる。

ある人は「愛」と「掟」という、「内」と「外」ほどに相反する言葉の結合に矛盾を感じるかも知れない。

しかし、使徒ヨハネは、神がキリストを人間の罪の犠牲とすることによって、人間に真の命を賜ったので、我々には「愛し合う務めがある」と書いており、(ヨハネ第一4:11)他の使徒たちも「愛」の実践がどれほど重いものかを強調しているのである。

では、人の生活の隅々にまで影響を及ぼし得るキリストの「愛の掟」の『愛せよ』とのわずか一条がどれほどのものかを考えてみよう。


それにはまず、キリスト教の母体となったユダヤ教の在り様から説き起こすことをお許し願いたい。


-◆法の外面性-----------------

ユダヤ教とは、法律条項を遵守するべき義務を負うものであった。

概して、法規を守らせることは、人への外からの作用である。
先に書いた記事「なぜ人は傷つきながらも政治と宗教を存在させるか」でも触れたのだが
この社会で法を守らせるのものは、最終的には権力であり強制である。
「背後に剣の無い契約など、虚しい言葉に過ぎない」とホッブスも言っている。
 

しかし、イスラエルの神は初めから主権をかざし強制に訴えることはせず、契約の形を以って「律法」を与えた。
これが即ち、契約の仲介者の名を冠した「モーセの律法」と呼ばれるものである。
イスラエルは契約の一方の当事者であり、当然にその「律法」の遵守を期待されたのである。


神は彼らが契約を踏み外すことがあったからとて、即座に介入し、律法の施行を強要することはしなかった。
しかし、契約した以上、当然律法に関して行ったことの酬いは引き受けねばならない。それはある意味で甲乙の当事者として対等なところのある「契約」であり、そのため、イスラエルも強制を受けるわけではないにせよ、当然ながらその責を問われることになるのであった。

しかし、イスラエルはその歴史の大半の期間に亘って律法契約には従わず、その掟を無視し、あまつさえ異教を奉じるなど、律法の精神に逆行さえしていたのである。これらの行動によって彼らの内面の如何は充分に示された。

結果として、ユダ王国のマナセ王の頃までには、神は律法契約は破綻したと看做し、その決意は二度と翻ることがなかった。(列王第二24:3-4/エレミヤ15:4)


さて、彼らの律法契約のこうした不履行の原因はどこにあったか。
ひとつ考えられるのは、法規の遵守が必ずしも履行者の内面を形作らないことである。

もちろん、モーセの律法に人の内面、つまり特質を培うよう命じている条項がないとはいえない。
例えれば、レヴィ記19:18の「あなたは仲間(同胞)を自分自身のように愛さねばならない」は、愛という人の特質を直接に要求することに於いて、一般的法律にない特色を有している。

こうした律法を持ったにも関わらず、イスラエル=ユダヤは歴史上、その同胞によって圧制や搾取が為され、無辜の血も夥しく流されている。

彼らは契約に無頓着であって、律法中の基礎的な規定も大いに無視していた。
その結果、イスラエルの神YHWHは遂にその民を捕囚に処し、70年もの間この民族からエルサレムに在った神殿が失われ、この間、律法条項の多くが履行不能に陥り、律法契約は一度破綻したことがあった。

契約の証である聖なる箱は消失して戻らず、聖籤「ウリムヴェトンミム」も遂に見いだされなかった。
これらを失ったイスラエルは律法契約に対して不履行でいたことは、もはや拭いようのない事実となった。

こうして契約遵守を失敗した後、彼らは許されて新バビロニア帝国の頚木を脱し、悔い改めて帰還した幾らかの民は神殿を再建して崇拝を立て興し、それからしばらくは律法を守って過ごすのだが、やがて反対の極端に傾くようになってしまった。
つまり、律法条項の遵守を至上命題に、外面を整えることに腐心し始めたのである。

そこでイスラエル民族は、律法の条項を守らなくても、あるいは守っても、どちらにしても、その内面を向上させ進歩することなく、その延長線上でメシア=キリストを退けることになってゆく。

ユダヤ人のメシア拒絶に挙げられた理由は、イエスが律法の細目を守っていないとの外面的な判断によるものであった。
この点、それらのユダヤ人が、イエスから規定の外的墨守より内面の特質を培うようにと訓戒されたのも頷けるところである。(例 マタイ9:13)


「法」とは本来、倫理的秩序を保つためのもの、欲望の対立を避けるため、あるいは悪行とされるものを防ぐものである。畢竟、人が神をはじめとする他者と、どのように共に生きてゆくかを規制するものである。

これについては別の記事でも書いた通り、法律の存在そのものが人間に倫理上の欠陥のある証拠であり、人間にこの欠陥がある限り、我々は法律というものからけっして逃れられないであろう。

さて、モーセの律法には我々の知る今日の法律に似たところがあり、最大の共通点は条文によって人を外部から規制するという根本的方式にある。
この外部から人を縛る方式では、その動機が利己心であるにせよ何にせよ、人は出来るだけ拘束されたくないので、人はどうしても抜け道を探ろうとしがちである。

結果として、法律は法律を呼び、いよいよ人を多くの縄目で縛りつけることになってゆく。そこではこの世の習いに従い、貪欲と規制とがどこまでも競い続けてゆくのである。

ユダヤのイエス後の歴史をみると、トーラー(律法「教え」)にミツヴァ(伝承)を加えたが、その目的はトーラーを守らせるための規則であった。ミツヴァは編纂されてミシュナーとなり、さらにゲマラ(注解)が付され、それらを納める無数の規則で成るタルムードとなった。そしてタルムードは現在も条項を加えつつあり、その細かい規則は膨大な数となっているが、条規を守らせる為に条規を増加させるという点では諸国の法と同じであろう。

イスラエルの律法との関わりを観察すると、神から与えられた律法をどれほど仔細に守っても、やはり外から人を規制する「法規」が倫理的に人の内面を向上させることは難しいようだ。
それは、条項に従うにしても従わないにしても然程変わりはない。⇒ 「山上の垂訓に於ける律法の成就

我々はイスラエルの歴史から、人の倫理的欠陥の改善について法規というものがほとんど役に立たないことを見る。

法規は社会の秩序維持のための当座の必要のみにおいて効用があるだけであろう。人そのものの性質を変えはしない。
畢竟、「法律」とは人間に宿り続ける倫理上の欠陥への応急処置、また対症療法のようなものでしかない。
他に何か意味があるとすれば、我々人間が皆、そこそこの悪者であることを知らせるばかりであろう。⇒ 「人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか

では、倫理問題への根本治療のような、内面から人を変えるような方式が果たしてあるのだろうか?
法律を超越するそれは、如何にして人から善的特質を導き出すのだろうか?



-◆愛の内面性-----------------
「愛すること、これがわたしのおきてである」

「愛の使徒」とも呼ばれるのは十二使徒のヨハネである。
彼は自らの福音書を書いたときに、他の三つの(共観)福音書の存在を知っていて、それらに書かれていないことを記すよう努めたと伝えられている。(教会史Ⅲ24)

わけても、外面重視のユダヤ宗教領袖らの手に掛かってイエスが刑死する前の晩、あの浄められた夜の記述は五つの章にも及び、彼のこの晩の印象がまことに大きく深かったことを窺わせるものである。

彼は十二人の中ではおそらく最年少で、そのため彼はイエスに可愛がられ、福音書の中で「主に愛された弟子」と自ら称している。

ゼベダイの子ヨハネは、食事の席でそのふところに在り、イエスとの最後の晩に、主自らの死を記念するようにと「主の晩餐」を制定したときを共にしたが、彼はそのことは他の福音書筆者にまかせて、むしろ主の口から出た言葉に多くの注意を向けている。

その中でも白眉とされる部分が「愛の掟」であろう。

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「あなたがたはわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うようにせよ。これをわたしの掟として与える」。「友のために自ら命(魂)をなげうつことより大きな愛はない」。(15章)「あなたがたに愛があれば、人はそれによってあなたがたがわたしの弟子であることを知るであろう」。(13章)
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ここに我々は何を見出すだろうか?
これこそ、キリスト教の真髄である。

同様に他の使徒たちも「愛」についてはその重要性を書き記して憚らない。
パウロはコリント第一13章の全体を以って愛が如何に大きなものかを述べた。
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たとえ、わたしが様々な言語、天使の言葉にさえ通じていても、愛がないなら、それは単にやかましいだけの銅鑼やシンバルのようなものだ。

そして、預言の賜物があってすべての神聖な奥義に通じていたとしても、あるいは、山を移動させてしまうほどの信仰さえもっていても、愛を欠くなら何の意味があろう。

自分の持てる家財のすべてを人々に施し、自分の魂(命)を他の人のために差し出したところで、愛をもっていないなら何の価値もないのだ。


愛は忍耐強く、妬みや誇りや傲慢を行なわない。下劣な行いをしない。利己的にならず、苛立つことをせず、根にもつこともしない。

不義を喜ばず、真実と共に喜ぶ。愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてに耐える。愛はけっして絶えることがない。
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論理に通じ、解釈の先端を走った「奥義の家令」であるパウロであってさえ、愛が知識をどれほど超越するかをこのように言葉を究めて説いている。

また、立場は大いに違えどもパウロと協調して働いたイエスの弟ヤコブは、律法中のひとつである「隣人を自分のように愛せ」を「王たる律法」と呼んで、様々な愛を実践し、それが意義を持つようにせよと人々を戒めている。それが言葉に終わってしまっては、確かに愛は空しくなるに違いない。


そして愛の使徒とも呼ばれるヨハネは、イエスの命じた愛せよという掟を高く掲げる。
その第一の手紙の第四章で彼は愛することを、まことに美しい言葉を用いてこう説いている。
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愛する者らよ、我々はこれからも愛し合ってゆこう。
愛こそは神からのものであるから。
また、すべて愛するものは神から生まれている。
神は愛であり、愛の内に留まる者は神と結ばれており
神はその者と結ばれている。
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キリストの直弟子らは、彼らの主が述べた愛の重要性をよくよく認識していたことは明らかである。
彼らがギリシア語で「愛」と記すとき、幾つかあるギリシア語の「愛」を意味する単語のうちでアガペー” ἀγάπη”(第二音にアクセント)を選んだ。
それは、ギリシア語で使用頻度の少なかったものであり、それを用いることを通してその「愛」の優れた性質を知らせるようなニュアンスがあったという。(元の「アガペー」の意は「奴隷など立場の低いものへの慈愛」であったという)

イエスが弟子らに教えた「愛」とは、一般に見られる自分の身内や、自分によくしてくれる者に示す愛を超えるものであることは、「友の為に命を投げ打つ」という言葉にも示されるが、「敵をも愛せ」の言葉はさらに鮮烈な印象を与えるものである。


そして、使徒ヨハネは第二の手紙において、第二世紀に入ろうというその当時の弟子たちに次のように訴えている。
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わたしは新しい掟ではなく、当初からの掟を伝える者として願う。
それは、わたしたちが愛し合うことである。
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この手紙を書いているヨハネは老境に達してなお、65年以上前のイエスと過ごした最後の晩のキリストの言葉の重みを告げている。


そして、この「愛」が「律法」と比較した場合にどれほど画期的なことであるかを指摘していたのは使徒パウロである。
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あなたがたは、この愛し合うことの他には誰にも、また何をも負ってはならない。

他の人を愛する者は、律法を完うしているのである。・・・

どんな掟があるにしても、律法は即ち「あなたは隣人を自分のように愛さねばならない」の言葉に要約される。

愛は隣人に悪を行なわない。それゆえ、愛は法律を完うするものなのである。
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こうして我々は、人を外から規制する「法」を超えるものを見出す。
それは人の内面から発するものであり、自ら望んで自らを規制するものである。
その人は、他者の喜びを自らと共に味わうことを望む。

それが即ちアガペーと呼ばれる「愛」である。
「愛は法律を完うする」というからには「アガペー」のその持てる本質が世に満ち亘るなら、今日の人々の貪欲を制御するために世界に行き渡っている外的な「法の支配」を不要なものとさせ得るであろう。

もし、人がアガペー愛の完全さを体現するのであれば、その人に「法律」という外面からの規制の必要はまったく無くなってしまい、倫理上の完全さに到達して、創造されたままの輝かしい「神の子」としての姿に回復されることであろう。
「罪」が神と人の間を隔てるものなら、「愛」は人を神と結ばせ、人と人の真の絆とも成り得るものである。

モーセの律法は600近い規則で構成されていたが、「キリストの律法」ともいえる「愛の掟」はまったくシンプルである。
しかし、我々がそれを行なうとなれば、律法のように、いやそれ以上に生易しいことではないであろう。

他者が定めた規則に従うだけで自分をよしとするのは、ある意味で容易なことである。その人の内面は問われるわけではない。

しかし、「神と人を愛せ」という一ヶ条だけなら、人は自らの良心や共感などを動員しなければならず、その都度、内面の特質が問われてくるのである。それが即ち『自分にして欲しい通りに』の意味である。
そして「愛の掟」を守る度に、経験を通しその人の内でより善いものに更新されることによって、生きた掟となり得る。
しかも、それはまったく個人の問題であって、外面的に互いに裁くことの出来ないものである。


それゆえ、この余りに簡単な掟ではあっても驚くべき内容が込められている。
その掟がシンプルであるゆえに、自由自在にあらゆる状況に様々な仕方で適用ができ、つねにこの「掟」に従おうとする各個人の限界や進歩の過程にも応じたものともなり得るのである。

キリスト教はこの「愛の掟」において史上かつてない宗教上のすばらしい次元上昇を果たしたのであり、これ「愛の掟」は、存在するすべての宗教を超絶するもの、他の追随をけっして許さぬものであろう。


そこには今日の世界を動かしている貪欲と、それを押さえ込むための法と権力というシステムの対極がそこにある。つまり、今の世の中は互酬システムで築かれたものであり、その原則は「他人のためには働かぬ」というところにある。
それは「友のために命を投げ打つ」また「敵をも愛する」精神とは大いにかけ離れていよう。

この愛をこの世に在って体現したのは、まさしくイエス・キリストであった。
神を愛して、自らは質素な生活の中で父を高め讃え、神殿を猛然と浄め、父を誤解する者を正し続けた。
また人々を愛し、多くの病を負い、悟りの遅さを忍び、死に涙し、遂に神と人の為の極刑にその命を散らすことを惜しまなかった。
その偉大な生涯は、あらゆる創造物に史上一度示されたアガペーという愛の真正な体現であった。


-◆アガペーは行動原理となり得るか-----------

他方、今日の社会はまったくよそよそしいものである。
我々は他者からのサーヴィスを受けるために代価を与えねばならず、毎日の生活が便利ではあっても、必ず通貨を持って買い物に行くのであり、利害は常に天秤にかけられるものである。
人は金銭を得るために愛想をよくし、支払う者は与える者であるかのように振る舞う。誰のお陰で生きて行けるのかとでも言うだろうか。

金銭はその人を規制し、願望の遂げられる範囲を定める役割を持っている。即ち「貪欲」への抑止力である。

この金銭というものが市場経済を作り上げるのだが、それは公平を装いながらけっして公平なものではない。貧しさに苦しむ人々をしり目に富は偏在する傾向があり、有り余るところには更に集まってくる。

誰かが富むということは、この世では必ず他の人々の貧しさの上に成り立つのであり、富者がキリストに喜ばしく語られたところを新約聖書に見出すことはまずできない。キリストに従うことは『駱駝が針の穴を通るほどに難しい』とされ、『金を愛する者ら』はイエスの話が不快であったともいうのである。(ルカ16:14)
その一方でイエスは、貧窮にある寡婦が神殿に僅かな額を奉納するのを見ては、その信仰を非常に高く評価された。


金銭は弱者に苛酷に作用し、その生活を悲しむべきものにするが、それでも富める者らにあっても必ずしも栄えを楽しませるものとはならない。そこにも勝ち負けのあるギャンブルのように動揺したものがある。「市場」とはアガペーの反対の動機に突き動かされ、「貪欲」という以上に定まった目標の無い、どこに向かうか分からない潮流そのものである。それは人々を呑み込む無慈悲な大波のようであり、当て所も無くバブルの有頂天と恐慌の絶望とを行きつ戻りつしていないだろうか。(イザヤ57:20)

創世記に語られる「あなたは顔に汗してパンを食し、ついに地面に帰る」という苦難の生活を逃れ出る人は常にごく僅かであった。
今でも一日2米ドル以下で生活する人々は人類の半分にも達していると言われるが、やはり過去についても経済学者は歴史の状況を俯瞰して「人類の歴史の大部分において、人は底知れず貧しい状態にあった」と述べている。(ダスグプタ「経済学」p17)
物資が不足しているのだろうか?統計からは必ずしもそうではないという結果になる。所有の大小が公平な分配を阻害しているのである。

富める者と貧しき者とは、様々な争いによってバランスを取らざるを得ず、また、富める者同士も、しばしば更なる富を巡って奪い合うことが起こり、一瞬にして莫大な富が消え去る恐怖と無縁でもない。個人同士の争いと同じく、国家同士も互いに利害を巡って対立し、ときに軍事力などの行使するが、それは兵にも民にも苛酷な仕打ちを行うものである。命を賭した人々が礼を尽くして葬られたとしても、奉られるほかに何の酬いがあるだろう。


キリストの弟ヤコヴはその原因を次のように指摘する。
『 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのか。
あなたがたの肢体の中で合い争う欲望が原因ではないのか。
あなたがたは貪っても得られず、人殺しをする。熱望しても手に入れることができず争い戦う。
あなたがたが得ることができないのは、あなたがたが願わないからだ。
なるほど願いはする、だが受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからなのだ。』(ヤコヴ4:1-3)

ここでヤコヴが指摘するような人間の貪欲に対処するための法による支配、つまりこの世の現状であるところの、愛に基づかない貪欲のシステムがもたらした悪弊に、人々は既に充分すぎるほどの辛苦を味わったであろう。

では、キリストの教える「愛」に支配された社会の実現は可能だろうか?

実のところ、それはまったく無理である。

なぜなら、僅かな不純物が澄んだ水の清さを曇らせて全体を損なうように、貪欲に振舞う者がひとり存在するだけで、その者が他者の愛の上にあぐらをかいてしまえば、クリスタルのような愛のシステムそのものは容易に破壊され、愛の世界は一瞬にして隷属の帝国と化してしまう。


しかも、この貪欲は性質が悪く、清く歩もうと願う者にも病気のように巣食っており、誰もが自己の内面のこの敵と戦う必要があり、我々は度々敗北するのである。

では、すべてが「愛の掟」に従うように強制できないのか、といえば、強制されたときに「愛」は失われ、そのような強制の世界なら既に我々の目の前にある。即ち、「法と罰」の世界である。

そこで我々の切なる希望は、「愛の掟」をシステムとするであろう「神の王国」と呼ばれるキリストの治める世界、神の意志により将来に現出するであろう新制度へ向かうのである。

その王国とは、「罪」という倫理的欠陥を負った人間の成し遂げる社会ではけっしてなく、人間以上の存在なくしてはけっして到来することのないものである。

それが証拠に、人類は不公正な貪欲に基づく互酬制度を止めることができないであろう。
もしそれを過去のものとするには、人類が一斉に倫理上の大変化を起こす必要があるが、それは現状をどうみても不可能であり、貪欲を改善することすら必要を感じない人々も多いであろう。

一方、キリストの「愛の掟」に従おうとする者であっても、この世の利己的なシステムの中では、周囲の貪欲のゆえに注意深くなければ自滅しかねず、できることは限られてしまう。(イザヤ58:10)

この世がそれを許さない造りで出来ているからである。(ヨハネ第一5:19)

それでも、「愛の掟」を守り行うよう努める価値は大いにあるといえる。なぜなら、それはキリストの教えに沿って自己の内面(社会ではなく)が変革される願いを表すのであり、それを正しく『悔い改め』と呼ぶのであろう。それは特定の違反を悔いるのではなく、この殺伐たる世にあっても懸命にキリストに倣いイエスをアガペーの師と仰ぎ努めることである。

アガペーという愛はキリストによって示されたが、我々はそれにどう応えるだろうか。
もう、殺伐としたこの世の有り様に倣って『罪』の奴隷に甘んじる必要はない。


そうする人々こそが、まさに「キリスト教徒」と呼ばれるに相応しい。

その弟子らの愛を見て「人々は彼らがキリストに従う者であることを知る」とイエスは言ったが(見分けるのではなく*)、無情に代価と報復を求める「互酬の原理」に動かされるこの世にあって、「アガペーの原理」に沿おうと努める彼らの姿は浮き立つように見えるだろう。

彼らの生きるべき世界は、もう既にこの世ではなく、来るべき世界「神の王国」となっている。キリストに同じく『世は彼らに価しない』。




 
                                      新十四日派   © 林 義平

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*愛によって「真のクリスチャン」が見分けられるのなら、それは存在し得ない「愛(アガペー)の体現者」を求めることになり、人間すべてが愛に対してほとんど同じような不完全さに留まっていることを無視し、「より以上の正統さ」を求めて虚しく「愛」を競わせることになり、競われたとき愛は失われ、優越感と対抗心の単なる相克となるであろう。


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