<難易度 ☆☆☆☆  中>
理解の為の基礎項目 ⇒ 「
聖霊と聖徒



今日、キリストが不在であるという考えはけっして突飛なものではない。

実に、イエス自身が例え話を用いて、弟子から長い期間離れることを何度か述べているがそれを見てみよう。

 そのひとつはルカ書にあるが、その場面はイエスの一行が最後にエルサレムに上る途上でのことである。彼らはエリコに到着し、エルサレムは目前であった。(ルカ19:11-)
ここでルカは、弟子らの誤解を伝えている。
つまり、イエスがエルサレムに入るなり「神の王国」がすぐにも出現するものと思い込んでいたのである。

 そしてイエスは彼らに話しを始めるが、弟子たちの先走る願いとは裏腹に、そこでの例え話では、生まれの高貴な人物が王権を確かなものとして授かるために遠く旅をするという。

これは、ローマ帝国に従属する王たちが皇帝からの王権の承認を得て、それを確立するために帝都に赴くという、当時の習慣を思い起こさせるものであったろう。

 さて、出立に際してこの高貴な人物は、家僕らに財産を分けて留守中に運用させることにする。
後に、この人物が王権を得て帰還したときに、家僕らは預かっていた財産の銀子(1ミナ)をどう増やしたか報告することになる。

ある者は1ミナを見事に10倍に増やしており、他の一人も5倍にすることができた。それぞれの家僕はその成果に応じて『町を治める』者となる報いを受ける。

だが、ひとりは1ミナのまま差し出し、主人は厳しい人で、自身が撒きもしなかったものを刈り取るので怖かったから1ミナをそのままとっておいたという。
 ここで主人は憤って言う。
「ならばそれを銀行に入れておけばよかったのだ。そうすれば利息と共に受け取れたものを!」

そして、この家僕から銀子を取上げ、さらに、この主人を王として受け入れるのを拒んだ市民らを「敵」と呼び、討ち殺させるのであった。

 以上がこの「ミナの例え話」のあらましである。


-◆王権が関わる出迎え---------------
 
さて、この例えの中の、王権を確保するために遠く旅行する貴い生まれの人物とはイエス自身であろう。

キリストは「神の王国」の王となる権限を下賜された将来に、支配するべきこの地上に帰還して臨御(パルーシア[παρουσία])することは度々語られているところである。(使徒1:6)

「パルーシア」はその場に臨席し、物事に関わる状態を意味し、その逆を意味する「アプーシア」[ἀπουσία]は、不在でまったく関わりを持たない状態を表している。
現在は聖霊による聖徒への指導が無く、奇跡の賜物も認められない以上、キリスト不在(アプーシア)の状態が西暦第二世紀以降続いているというべき理由がある。

実際キリストの同時、王権を得て王座に就くためにヘロデ王朝の王たちがローマに赴き、そこで皇帝からの任命を受け王の称号を手にして後、その支配地域に帰還していたが、それでもなお、自分の王権を確立するために邪魔な勢力を駆逐してはじめて王権を実現する必要もあったのである。 ヘロデ大王の王子たちが実際にそうであったから、イエスの弟子らはその実例を良く知っていたに違いない。

そして、財産をそれぞれに委ねられた家令らで表されるのはイエスの弟子たちであろう。主人は家令たちにミナを殖やすように求めていたのであるが、それは単なる利殖ではなく、王権に関わる事柄であったことであろう。(彼らは家令であって、すべての信徒を表すわけではない)


 
弟子とはいえ、彼らは王の支配の一端を引き受けることになるからには、彼らはすべての信徒を表すのではなく、モーセの古より予告された『王なる祭司』となる『聖なる国民』、聖霊による選びの民『神のイスラエル』に属する者らである。(出埃19:5-6)


『聖なる民』は、本来「律法契約」が産み出すべき目標であったことをモーセが明かしており『もし、あなたがたが本当に契約を守るなら・・あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる』との神の言葉を記している。だが血統上のイスラエルは契約を守らず、遂に一度破綻する。
だが、預言者エレミヤの予告した「新しい契約」によって代替され、後代にキリストの血を以って発効した「新しい契約」は、あのシャヴオートの日に、永らく律法契約が達成できずにいた『聖なる国民』、『神のイスラエル』を遂に生み出したのであった。(出埃19:6/創世記22:18/ガラテア6:16)


彼らがキリストの弟子の中から現れたことは、使徒ペテロも当時の弟子らに向かって、彼らが『選ばれた種族、祭司の王国、聖なる国民、神の格別な所有に帰する民である。』と聖霊ある者らを指して宣言した通りであった。(ペテロ第一2:9)


これらの者がキリストと共に王として地を治めることは使徒パウロも時折述べており、『聖なる民』の存在は新約聖書に散見されるところである。(コリント第一4:8)


こうして例え話を見直すと、彼ら弟子たちにはキリストの到着までに為すべき仕事があることが分かる。王として帰還するキリストは、家令が熱心に利殖を増やした分の栄華で飾られよう。
そうした僕は、その功に応じた地域を治める報酬が与えられている。

 それゆえ家令たちは主人の家の財産を増やすべきであるが、ある者はそうしないかも知れない。そうしない理由は「恐怖」であるという。つまり家令には敵の矢面に立つ勇気が求められるのである。
もし、そのように王権の栄誉を増やそうとの主人の意を汲み勇気持たないないなら、持っているものまで奪われるのである。


そこで、聖徒に与えられるものは実に価値ある資産と言える。
彼らは初代と同じく「約束の聖霊」によって奇跡の賜物を得るが、それが意味するところはどれほど重いだろうか。パウロは、それが『有罪と宣告されることはない』という人類一般に先立って贖われた状態をその人にもたらすとまで語っているのである。(ローマ8:1)

その家僕となる者らは使徒をはじめとする格別なる弟子たちである。
彼らは聖霊によって任命された『聖なる国民、王なる祭司』であり、人類の祝福となる選ばれた民である。
奇跡の聖霊の賜物は彼らの身分を証しする『手形』であり、終末後には『キリストと共に、千年の間王と』なる者らであるから、それぞれが『町を治める』という酬いは頷けるものである。(エフェソス1:13-14/黙示録20:4)

そして彼らの務めは、『暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝える』ことであるとペテロが言っている。
では、彼ら聖霊に預る人々はその類稀な宝をどのように用いるだろうか?

この聖霊を受ける人々には、王となる主人に忠義を尽くし、反対勢力と対峙することも求められている。
それが『長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対して証しをする』というキリストの予告された事態の発生である。(マタイ10:18)
そのとき、彼らには『聖霊』が臨むとも教えられている。


その時、地上に聖霊を注がれて現われる人々が、その聖霊を用いるべきひとつの務めがあると、イエスは語っているのである。

すなわち、為政者の前に引き出され、聖霊によって語ることに他ならない。


マルコ13章はこれを以下のように語っている。
『あなた自身に注意せよ。あなたがたは裁判所に捕われ、会堂で鞭打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してまさにわたしを証しすることになる。そのようにして、まず福音があらゆる民に宣明されねばならない。また、人々があなたがたを捕えて連行するとき、何を言おうかと、前もって心配しなくてよい。そのときに与えられるものを語ればよい。語るのはあなたがたではなくて、聖なる霊である。』(マルコ13:9~11)


この場面のマルコ13章では、為政者の前に引き出されることを指してから、「そのようにして」あるいは「こうして(カイ[καί]を口語訳や新改訳はこの意味に訳している)王国の福音はあらゆる国民に伝えられる」とあり、人類社会の全体に向かった王国の到来の宣告が聖霊の業となることを伝えている。

マタイは、よりはっきりと弟子らが王や高官の前に引き出され聖霊によって語る意義が『彼らと諸国民への証しのため』であると言っている。(マタイ10:18)
聖霊を以て語る者らにこの仕事が与えられていることは、キリストの顕現の前に彼らが存在し、前以って王権を称揚するという前段階があることを知らせるものとなっている。

さらにルカ12章は「聖霊によって弟子が語る」という事と、「聖霊に言い逆らう罪には許しがない」と云う事のふたつを関連付けており、そこに人類の裁きが関わることをも知らせているのである。それぞれの福音書が我々に訴える意味はきわめて明瞭と云うより外ない。
 

しかも、弟子らには為政者の前で何を言おうかとあれこれ迷うなとあるからには、この場面でその人々に与えられる神の御力は圧倒的であるようだ。
つまり、それは神ご自身、重要な事柄と見做す事柄「神の王国」が関わっているからに違いない。

奇跡の聖霊が注がれる者とは即ち「聖なる者」または「聖徒」である。初代の聖徒はあのエルサレムの二階の部屋で最初の聖霊の降下を経験して以来、多くの奇跡の賜物に恵まれ、それは彼らが「聖徒」であることの動かぬ証しであった。パウロはその聖霊が彼らの身分を証しするものであると書いている。(コリント第二5:5)
そして将来、聖霊が再降下して新たな聖徒たちに語らせるその発言は、きっと世界を震撼させるものとなるだろう。(ルカ21:15/ハガイ2:7)

聖霊の発言は広く知らされるべきものであり、全地に響くユダのライオン(ダヴィデ王)の声である。人々はこの王権に関わる論争を聞かねばなるまい。 (⇒ 記事「聖霊と聖徒」
この類まれな「聖徒」という立場への認証は神からの選びであって、本人のエントリーするところでは到底ない。そこには超自然の賜物が与えられるが、それは神の王国という『相続財産への新たな誕生』であるという。(ペテロ第一1:3)

この例え話の中で、清算を求められるのは一般の家僕ではなく「家令」である。彼らには託されたものと任された仕事があり、その重さも責任の大きさも本人たちがよくよく承知しているはずである。



だが、この貴重な『聖霊』を用いず隠してしまい、自分が努力するわけでもない銀行の利息さえも得ようとしなかったからには、この1ミナを殖やさなかった不精な家令は主人の王権の獲得をどれほど喜んだのであろうか?

彼は、その理由を述べて言う、『あなたは厳しい方で、お預けにならなかったものを取りたて、お撒きにならなかったものを刈る人なので、怖ろしかったのです』。(ルカ19:21)

この家令は自ら殖やす努力の必要のない銀行も利用しようとしなかった。
つまりは、神の業を行う聖霊の賜物をまったく表に出さなかったのであり、これは周囲からの反対を恐れて、『聖霊』を持っていることさえ隠しておいたということであろう。

確かに「聖霊の賜物」は、まったく憑依状態に陥るのではなく、それを持つ者が制御できるものであることをパウロはコリント人への第一の手紙の中でよく言い表している。(コリント第一14:27-33)

この例え話では「不精な家令」と、王権を望まなかった「市民」らが共に処罰を受ける点で似た範疇に入る。
即ち、「不精な家令」の態度は主人が王として帰還するに際し、主人の王権を望まなかった人々と幾らも変わらない。
自分が努力するわけでもない銀行の利息さえも得ようとしなかったからには、この不精な家令は主人の王権の獲得をどれほど喜んだのであろうか?それよりは自分の身の安全の方を選んでいるのである。その家令に足りなかったのは主人の側に立ってその王権を擁護する勇気であった。

主人の王権取得を何ら意に介さないこの「不精」と呼ばれた家令は、いまや王となった主人からすれば当然ながら、家令には相応しくなく、大いなる怒りと不興に触れ、是認や悦納を受けるには程遠くされるのである。


この「ミナの例え話」に非常に似たマタイの書にある「タラントの例え話」では、この不精な奴隷は主人の勘気を被り、外の闇に放り出されている。それは主人の家令からの解任であるばかりか、処刑を受けるほどの立場への失墜である。
その処置は、王の臨御が誰にもはっきりと認められる次なる段階、即ちキリストの『顕現』(エピファネイア)と呼ばれる事態の進展の中で行われることであろう。


それで、キリストが「神の王国」の王権を確かなものとして佩帯して、この人間社会に臨御(パルーシア)の顕現(エピファネイア)が示される直前に、「家令」らはパルーシアの間の働きの首尾を申告しなければなるまい。


つまり、キリストが王として顕現するとき、これをどれほどの栄誉をもって迎えるのかということであろうし、王キリストは家令らである『聖霊』を与える者らに忠節な支持を求めるのである

この例えは、聖霊を注がれる『聖徒ら』(ハギオイ)には、極めて重い務めが生じることになることを教えている。
それをイエスは為政者らの前に引き出され、聖霊の語らせるままにこの世を断罪することであることを使徒らに明らかにしていたのである。(マタイ10:17-20/ヨハネ16:7-11)

そこで聖霊が注がれ『新しい契約』に差し招かれた者らには真にキリストに従う勇気を要すると同時に、その務めから逃れようとする誘因もまた存在するに違いない。それはまさに福音書でイエスが『自分の魂を救おうとする者はそれを失う』とも『わたしとの結びつきを否認するものをわたしは恥じる』とも警告していた通りであろう。

したがってこの例え話は、聖徒たちがイエスの与える奇跡の証しとなる「聖霊」をどう運用するかで、キリストの臨御をどう迎えるかがまったく異なることを示しているのであろう。


つまり、王の支配権に関わる論争にまで聖霊の音信を公開させず、その発言を抑え、聖霊を聖霊のまま差し出したのでは、王の前に何の意味もない、ということになろう。
王や高官らの前で聖霊の言葉を語り、世を断罪まですることは大いに勇気を要することであるに違いない。

ヨハネ福音書の中でイエスはこう言っている。
『わたしは真実のことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け手(パラクレートス)は来ないであろう。だが、もし行けば、それをあなたがたに遣わすようにしよう。その者は来て、この世の誤りを明示し咎め立てる。つまり罪について、義について、裁きについて。』(ヨハネ16:7-8)

従って、やはり聖霊を受ける者には、大きな責務が生じることになる。
そこで『自分の魂を救おうとする者はそれを失う』ほどの恐れからの葛藤を生じさせるものともなろう。(マルコ8:35)
イエスは脱落する者も現れることを示唆することを憚らず、むしろ警告することが多いのだが、そのミナの例えでも『不精な奴隷』に描かれる。


その王国の価値を高めず知らせずに過ごすとすれば、主人の王権取得への熱意に欠けており、反対する「市民たち」と一向変わるところがない。

この点で言えば、初代キリスト教徒らは「来たりませ主よ」(マラナスァ)の言葉の下にキリストの王国が(人手によらず)主と共に到来することを待ち望んでいたのだが、ことにキリスト教がローマの国教となって後に、「神の国」は世俗の帝国に実現されてしまい、初代からのキリストの王としての到来の希望はうやむやにされ、神の御力ではなく、教会や人力を通して抽象的に実現されるものとまで貶められた。

これらの王国の理解に関して「変質したキリスト教徒」の行動は、果たしてキリストが王として到来するときにその人間を超えた栄光ある王権に誉れを添えることができるだろうか?

 だが、更に疑問が起こる。キリストが地上に聖霊を用いて弟子を指導し「監臨」していたキリスト教初期の時代はともかく、終末でキリストが帰還するときに果たして家僕がいるだろうか?(ルカ18:8)

 これについては、まず思い浮かぶ事として、小アジアのポリュクラテスがローマのウィクトルに宛てた書簡の中に先達のメリトンについて述べた言葉がある。

「我らは、純正な時代に何も付け加えることはしない。アジアの光明は眠りについたが、再び主の顕されるときに回復するであろう。そのとき彼は天の栄光をもって到来するだろうし、聖徒たちも生き返るだろう。」と書き、少し後で「そのうえ、祝福されたパピアスと去勢したメリトン、彼はまったくの聖霊の賜物により話をしたが、今はサルディスに眠り天からの(指示)を待っているが、そのときには彼は死から起き上がるであろう。」(教会史V)

 つまり、聖霊を受けキリストに属する者であった初期の人々は眠りについているが、キリストの王権を帯びた臨御(パルーシア)のとき「早い復活」に与り、初期の聖徒らは直接に天に召しだされる。
そのときに、彼らのかつて地上の生涯で行っていたことが、王の臨御にどれほどの栄えを添えるかが吟味されるだろう。

加えて、その臨御のときに地上で聖霊を受ける人々もあり、彼らも聖霊を受ける以上、同じように王の臨御を栄光あるものとする務めがある。(テサロニケ第一4章)
彼らが、その務めを終えるとき、地上に残る聖徒らは『雲にあって空中で主に会う』という天への召しに預かるであろう。もちろん、これはキリスト教徒なら誰でも受けるものではない。


-◆聖なる者とは-----------

では、将来の終末において聖徒となりうる人はどのような人であろうか?

現時点で分かることは、人類から「買取られた者」たちであり、主人の王権を擁護して為政者に立ち向かう人であるということである。
しかも命をかけてのことでに違いない。それは初期殉教者と何ら変わらないことであろう。(ダニエル12:7/黙示録12:11/13:7)
すくなくとも、自分の「救い」に願をかけるような軟弱な人々ではなさそうである。「多くを委ねられた者は多くを要求される」からである。(マタイ10:39)(ルカ12:48)

 これはすなわち、支配権に関する政治的問題になることは間違いがなさそうだ。
その世の支配権を巡る争いとは、キリストの『神の王国』が現存する諸政権に対して挑む争論である。

それは即ち『神の王国』が「信者の心の中にある」ような曖昧なものではなく、正しく実効支配を行い得る実際の政権であり、それも世界の諸政府を相手に『聖霊』の言葉によって『この世』が如何に間違っているかを論駁するのである。


キリスト教をはじめとする既存の宗教家たちはこの論争では脇役とならざるを得ない。彼らは神の言葉を語る聖徒の出現によって存在意義を失っており、激しく聖徒を妬むのみである。

それで、新たな聖徒が対峙するのは宗教家ではなく政治家らとなる。(黙示録19:2)

こうした政治的論争があって初めて『世の王国は我らの主とその王国となった』(黙示録11:15)と言い得るのであり、それは相克を繰り返す人間の政争ではない。『聖徒』には神の正義があり、それに比べれば人間の正義な虚しく、却って害になるものである。


 『聖徒』となる人々は、帰還する大王の王権を掲げる人々であろう。彼らにこそパラクレートス(助け手)たる聖霊は必要となる。その助け手は聖書中のどの預言者の事例よりも大きな奇跡を聖徒を通して行うことであろう。(ヨハネ14:16)


一方、聖霊の述べることを聴き、それに従いたいと思う世界の人々は、それぞれ過去にどんな罪を犯していようと聖霊の発言に従うので、聖霊への罪を犯すことはない。彼らは聖徒らを支持して神の王国の到来を迎える側に立つことになろう。それはロバに騎乗するイエスの前に外衣を敷き、シュロの枝を手に歓呼して迎えた故事のようにである。(マタイ21:8-9→黙示録7:9-10)

このようにする人々は、王の臨御を迎えるについては、明らかに「聖霊」という神の御力を持ちながら、勇気無く何ら運用しなかった「形ばかりの聖徒」よりは、よほど王権を引立てることになろう。

であれば、王権を佩びた主人キリストを勇気なく何ら讃えなかった「聖徒」は、世の一般の反対者と何ら変わるところがないではないか。そして、ミナの清算が済むと、主人は王権取得に反対した市民を撃ち殺すことになる。これは将来、恐るべき成就を迎えることになろう。(ルカ19:27)
それは神が『シオンに立てる王』を認めず抗うすべての勢力を裁きに渡す、終末の出来事「ハルマゲドンの戦い」となるのであろう。
 

キリストの来臨に際して、その王権を望まない敵も少なくは無い。為政者らは雲の内にあるキリストを現実の存在とは見做せず、自らの支配欲を掻き立てるばかりであろうし、この世に慣れ切った『市民』もキリストの支配を理想主義の絵空事と思うのであろう。ただ、聖霊の奇跡の発言に信仰を働かせる人々だけが、聖徒らに親切を示すことをキリストは予告されている。(マタイ25:31-46)

では『神の王国』の王の到来を前にして、キリストの家令はどう行動するだろうか?
聖霊を以って語り為政者に立ち向かうか、それとも事を恐れて沈黙しているか。


現在のところ、未だ聖霊によって語る人々は現れていないことからすれば、やはり、今もキリストの不在は継続しており、未だ終末には入っていないのであるが、一方、キリストの帰還する時、それは只ならぬものである。

それはナザレのイエスが霊者となって変貌した、畏怖すべき御厳の大王としての復讐のための帰還であり、すべての政権はそれを放棄しなければ実質的な闘争と滅亡になり兼ねないものである。(ローマ8:3/ヘブル9:28/詩篇2)

それは全人類への「エデンの問い」でもあり、神と人との支配権を巡る争いであり、実のところは人間にまったく勝ち目はないのだが、来臨する大王は不可視性の「雲」にまとわれるために、政治家らは、自分たちだけが「現実の為政者」であると思い、自信満々であろう。


以上のように、ミナの例え話からキリストの人間社会に対する不在期間があると見做すことはけっして理不尽ではないそれは即ち、初代の聖霊の賜物の途絶えて以降、現在も含んでいる。
(「主の祈り」からすれば、その間の祈りが不在であるから聞かれないということにはならないだろう)


 しかも、この話の前後でイエスは、その帰還する時期について弟子らは「まったく思わぬ時」になると注意を促しているので、「待ち続ける」ことが現在の弟子の主要な務めであろう。「主人は遅いと」宴会を始めるときではない。
 

キリストが出立するのもその旨なら、帰還するのもその意志のままであって、肉なる人間がこの件に口を差し挟む余地はない。その時や方法について人は予告も意見もできるようなものではないだろう。(ルカ21:8)

現在のところ聖霊の再降下を人類は見ていない以上、啓示の無い人類にはそれを知る確かな手立てはない。ただ、聖なる書物が、これまでの神による人類救済の業が悠久の時に亘り、どう展開してきたかを知らせる。
 

時の不可知は、ひとつにはパウロが言うように「肉なる者が誰も神の前に誇らないためであ」ろうし(コリント第一1:29)、もうひとつ考えられるのは「裁き」のためである。

 
「裁き」は我々人間の内面の性向と願望など、人間互いに探りえない深奥についてのものであり、すべての人はこの「エデンの問い」に直面しよう。それゆえ、キリストの臨御は(視界を遮る)「雲と共に」「雲に乗って」為される必要もある。「キリスト変貌の意義」


しかし、ミナの例え話では全人類の裁きではなく、キリストの家僕らがその以前に裁かれることについて述べていたのである。(ヨハネ第一2:28)

つまり、キリストの御許近く仕え、イエスが天に去って後に聖霊を託されることになる『聖徒たち』の裁きであり、ペテロも、初代に聖徒が存在した時代にあって、既に『裁きは神の家*』から始まっていると仲間の聖徒らに警告している通りである。(ペテロ第一4:17/*「神殿」を含意2:5-)


彼ら一人一人が聖徒の栄光に本当に相応しいのかが、まず初代のキリストの聖霊による監臨の時期、そして終末の王権を佩帯した臨御の時期に再び問われるだろう。(コロサイ1:22)  ⇒ 終末に残された三年半に契約を結ぶメシア


こうして例えの意味するところを概観すると、終末の世の姿を垣間見ることになる。 

すなわち、キリストは帰還すると、まず聖霊を注いで聖徒を任命し、彼らを通して自らの王権を宣明させ、人類を分かつであろう。
その際に、聖霊を受ける弟子らにはその働きを問われるに違いなく、ミナやタラントの例えはこれに注意を促すものとなっているのである。

その働きは地上のすべての人々のためのものである以上、『聖なる者』らには、キリストに続いて自己犠牲を示すべき理由があり、自分の刑木を荷って絶えず主の後に従う義務がある。
実際、彼らはそのような道に召されたからであり、最終的には、キリストと共に栄光に浴することになる。

その上なる賞を目指して生き抜くこと、これが「新しい契約」に属する掟であり、死に至るまでの忠節を神は大きな酬いをもって受け入れるに違いない。

我々は、これほどの自己犠牲を払う人々に対して、相応しい感謝と同意を示さずにいられようか。



 



                  新十四日派    林 義平

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   マタイ福音書のキリストの預言と例え



新旧の聖書の記述を精査総合し
この世の終りに進行する事柄の数々をおおよそに時間の流れに沿って説く
(研究対象が宗教であるため主観による考察)


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